有樹と泰治の協議の結果、おかんの迎撃場所は黒神楽の郊外に位置する大型ショッピングモールの第四立体駐車場が選ばれた。泰治の言葉を借りれば、二十四時間開放されていて、平日の夕方から深夜・早朝に掛けては全く人気のない穴場とのことだ。
そして、サバイバルゲームを実施するという観点で見ると、この第四立体駐車場はかなり様々な戦略を展開できる場所だらしい。一階と屋上を除く全階層に落下防止用の網目の細かい防護柵が設置されていることで、立体駐車場外から場内の人間を狙撃で狙うと言うことができず、一方場外に居る場合は屋上からの絶好の狙撃対象となるため、否応なく場内での対決を強いられる造りとのことだ。場内に話を移すと、中は鉄筋コンクリートで造られた自走式立体駐車場で、四隅には全階層へアクセスできる階段があり、特に団体戦では戦略が戦況を左右する場所らしい。
午後十時の時点で現地へ赴き、五階建ての広大な立体駐車場内をざっと見回したもものの、確かにそこには停車している自動車も人の姿も皆無だった。ショッピングモールの中で食料品売り場だけが二十四時間営業して形で、深夜の時間帯になってしまえば第四立体駐車場を必要とするほどの利用客が居なくなるわけだ。
そして、そもそも論として、この第四立体駐車場の立地条件がかなり宜しくないのも閑散としている理由の一端を担っているだろう。周辺には民家がちらほらと存在しているものの、基本的にはショッピングモールから住宅街へと抜ける森林地帯をくり抜いて造ったようなもので、そこからショッピングモールの中心部までは、徒歩にして約十五分という相当な距離があるのだ。それでも、カラオケ店やボーリング場などが併設されていることで、土日祝日の混雑時間帯にはこの第四立体駐車場も車で埋まることがあるらしい。
「あーあー、テステス。本日は晴天なり、……でもないなぁ」
トランシーバーから聞こえてきた泰治の声は、非常に落ち着き払ったものだった。
天候に対する泰治の寸感を聞き、俺も疎らに星々が光る黒神楽の夜空を見上げた。
高空ではかなりの強風が吹いているようで、白煙のような雲が凄い速度で流れている。ただ、流れる雲には雨雲に見るどす黒さもなく、曇り空と表現するには雲の絶対量が足りていない。そんな何とも言えない天候の曖昧さは、俺や泰治のこの迎撃戦に対する立ち位置を表しているかのようだった。
俺も人のことは言えないけれど、泰治には既に咆哮を上げた時の熱気は見る影もなかった。真生絡みで能動的に行動している有樹とは異なり、俺や泰治には「巻き込まれた」という意識が強いからだろう。
今になって、おかんを迎え撃つという状況を冷静に考えざるを得なくなってしまっているのだ。
熱気をまとった直後に「さぁ、おかんを迎え撃つ」という状況へ突入していればまだしも、そこに中途半端な冷却期間が存在してしまったことが問題だった。そうは言っても、迎撃場所を選定したり、武器や作戦などを緻密に準備する時間がなければ、それはそれで問題だったから、やはりモチベーションを保つに当たって自発的に真生へ協力を申し出たというわけじゃない部分が最大の要因だろう。
「まぁ、天気の話は置いておいて、……聞こえるかい、言規?」
泰治に教えられた通りトランシーバーを操作して、第四立体駐車場の三階層で俺はその呼びかけに答える。
「ああ、聞こえる。問題ない、凄いクリアーだよ」
ウェイバースリントン黒神楽店で泰治が購入した特価品のトランシーバーの感度は抜群だった。最近の携帯電話の通話品質を軽く凌駕するクリアーさで、階層を跨いでも、間に壁があっても、問題なく会話ができる代物である。
「オーケー。じゃあ、有樹はどうだ?」
「問題ない」
トランシーバー越しに聞こえた有樹の声からは、適度に緊張感を保った状態であることがヒシヒシと伝わってきた。泰治とは打って変わって、おかんを迎え撃つことを強く意識しているようだ。
突然、ついさっきまで俺の横で小難しい顔をしていた真生が何かを察したようにふいっと顔を上げる。
「来たよ。まだかなりの距離があるけど、……間違いない。凄いスピードで移動してる。多分、実家にあったブルーのミニバンで移動しているんじゃないかな。ここに到着するまで、もうそんなに多くの時間は掛からないと思う」
おかんの到着について言及する真生の言葉に、俺は慌てて聞き耳を立てる。けれど、自動車のエンジン音と思しきものは全く聞こえなかった。第四立体駐車場のある周辺は、微かに虫の声がするだけで静まり返っている。
真生の聴覚が常軌を逸したレベルで優れてる可能性も脳裏を過ぎって、俺は主要幹線道の交通状況を確認するべく頭に装着した双眼鏡を手に取った。それはパッと見、装着方法も然り、スイミングに使用するゴーグルをごつくした様な外観だ。夜間時にはまるで昼間のように周囲を見渡すことが可能なシステムを搭載しているため、通常のナイトビジョンとしても使用可能という高性能品だ。
ともあれ、泰治が用意したその双眼鏡を手に取ったところで、俺はハッと我に返る。
「というか、そもそも、おかんはまっすぐここに向かってくるのか?」
「多分ね。お母様が捕虜の現在位置を目的地として移動しているのなら、ここまで真っ直ぐやってくると思う」
真生は自身の影を指差して、捕虜の存在がおかんをここに導くと言った。
捕虜と言われてすぐに思い当たる節はなかったけれど、それが影の中に取り込まれた猛禽類だということに気付くまで、多くの時間は掛からなかった。
「真生ちゃん、今、香奈恵さんが具体的にどの辺りにいるか解る?」
トランシーバーからはおかんの現在位置を真生に問う泰治の声が響いた。それはおかんの接近を察知した真生に、詳細までを把握可能かどうか確認した形だ。
真生はすぅっと瞑目すると眉間に皺を寄せる。どうやら、そうすることでおかんとの距離を図っているらしい。
「黒神楽駅のある方角、距離は大体三キロぐらい、だと思います」
真生は「ぐらい」という曖昧さをそこに残したものの、具体的な数字として確認結果を瞑目したまま口にした。
そのぐらいの距離なら双眼鏡でも確認できる。そう考えて、真生の見解に基づき双眼鏡を装着をしようとしたところで、トランシーバー越しに有樹から冷静な指摘が入る。
「それ、想像以上に近いぞ。言規は配置についた方が良いな。俺も急いで三階に戻る。泰治も用意は良いな?」
「こっちはいつ香奈恵さんが現れても問題ないよ。それにしても平日深夜だって言うのに、幹線道の交通量が想像以上だよ。こいつはギリギリまで特定が難しそうだ」
どうやら、双眼鏡を覗いている場合ではないようだ。有樹が「近い」と言ったように、三キロなんて自動車での移動ならば、あっという間だ。
俺とおかんの折衝がどう転ぶかを確認してから行動することになる有樹と真生はともかくとして、俺と泰治は先行して準備が必要なのだ。そして、その二人の内の一人である泰治から「準備万端だ」という返事があったわけだ。
慌てるなと言う方が、無理がある話だ。
おかんの到着に備えて、立体駐車場の入り口へと向かおうとした矢先のこと。俺は真生がサクラを三匹出現させる光景を目の当たりにした。三匹というところに引っ掛かりを覚え、俺はその様子を訝るものの、それを気にしているだけの時間的な余裕もない。
首を傾げながらも、俺は立体駐車場入り口へと続く階段がある扉へと急いだ。そして、ちょうどドアノブへと手を掛けようかという時だ。眼前の扉が音を立てて開き、三階層へと戻ってきた有樹と鉢合わせする。
「言規か。……今から入り口に向かうんだな? こんなこと、言規に言うのもおかしい話かも知れないが、香奈恵さんには十分注意するんだ。言規が知っている母親の顔ではないかも知れない」
説得可能という認識に立って、俺とおかんが対面する場を設ける作戦を有樹は立てた。その有樹が「認識は間違っていた可能性がある」というのだから、その言葉は非常に重い。尤も、おかんに対する知見が根本から覆ったのだから、それがどうしようもないことも重々承知している。
申しわけなさそうに目元を伏せるらしくない有樹に対して、俺は「なんてことはない」と胸を張る。
「任せておけって。どれだけ豹変してるにせよ、俺のおかんだぜ? 丸く収めてみせるよ」
そうして、有樹の横をするりと抜けて階下へ足を向けた矢先のこと。真生から俺を呼び止める制止の言葉が向けられる。「待って、お兄ちゃん」
有樹と一緒に「何事か?」と思いながらも真生へ向き直ると、俺は眉を顰めて身構える羽目になった。サクラが二匹高速で接近してきたからだ。
「どうして、この場面でサクラを嗾けるんだよ!」
サクラが飛び掛かってきたら「意地でも回避してやる」という強い姿勢を前面に押し出す俺を、真生は呆れ顔で見ていた。そして、この期に及んで俺や有樹を操ろうなんて思ってはいないことと、サクラによって何ができるかを説明する。
「まだ何か勘違いしているかもだけど、サクラの力は人を思いのまま操ったりするだけじゃないって言わなかったっけ、お兄ちゃん? 味覚を変化させた時にも言ったかもだけど、それはあくまで精神感応の能力でできることの一側面に過ぎないの。サクラを使えば、克己心を高めたり、一時的に能力以上の力を引き出したりすることができる」
「なるほど。香奈恵さんとの決戦を前に、戦力の底上げをしておこうっていうわけか」
サクラを俺達に嗾けた理由を聞いた後、有樹は驚くほど呆気なくサクラの接触を受け入れた。そもそも、サクラの接近に際して顔色一つ変えなかったことがもう信じられない。俺から言わせて貰えれば、真生はまだまだ何を企んでいるか解らない、油断のできない相手であるのだ。
真生に対して非常に軽薄な有樹を俺は呆れ顔で眺めていたけど、ふと有樹の表情が冴えないことに気付く。その理由はすぐに判明した。有樹同様サクラを渋々受け入れた俺が、拍子抜けするほど何も変化を感じられなかったからだ。もちろん、それはあくまで俺が最大の耐性を持っているからかも知れない。
「泰治さんのところにも、今からサクラを向かわせます。サクラで集中力をブーストできるように調整しましたけど、多分大幅な向上は体感できないかも知れません。それでも、……気休め程度でも、万全の状態で挑みましょう」
真生は自身の言葉の中でサクラの効果を体感できない可能性を示唆した。そして、例え気休めであっても「やれることはやっておく」と強い意志を示した形だ。そんな真生の言動には、おかんとの決戦に挑むに当たって勝ちに拘る執念が見え隠れする。
「了解、それで射撃精度を僅かでも向上させられるなら願ったり叶ったりだよ。……って、香奈恵さん、来たっぽいよ」
突如、緊迫感をまとった泰治の指摘に、俺は直ぐさま立体駐車場周辺を確認できる位置へ移動した。
すると、見覚えのあるブルーのミニバンがちょうど第四立体駐車場へと続く道の途中でゆっくりと減速するところだった。そして、ミニバンは立体駐車場の敷地内に入ることなく、脇道にピタリと停車した。
ライトが消灯し、プツッとエンジン音が途切れる頃には、俺達の視線はミニバンへと釘付けになっていた。ちょうどナンバープレートに光が当たらない位置にミニバンが停車したため、ここからそれを確認することはできない。けれど、おかんが運転するミニバンで間違いないだろう。
運転席からおかんらしき人物が降りてきたのを確認すると、俺は立体駐車場の入り口に向けて移動を始める。立体駐車場を入ってすぐの位置に繋がる階段を下っていると、突然緊張感に背後を襲われた。
それまでが逆に、現実味がなさ過ぎたと言えばそれまでだ。けれど、真生に荷担しおかんを敵に回すという事実が今になって俺を襲い、階段を下る足取りを重くした。尤も、重い足取りになっても、階段の終わりまではあっという間だった。
俺はポケットの中に忍ばせた原付バイクや自転車の盗難防止に使用されるチェーンロックを取り出すと、それを立体駐車場一階の扉のドアノブへと掛ける。扉にはそもそも施錠の機構がないため、チェーンロックで中から物理的に鍵を掛け、この階段を使用不可能にするわけだ。計略上、今から俺が行うおかんの説得工作が失敗した時、この階段をおかんに利用させないことが重要になってくるのだ。
俺は扉をチェーンロックでスムーズに施錠できるよう下準備を整えると、すぅっと息を呑んで勢いよく扉を開く。
すると、静まり返った立体駐車場には「キイイィィ」と扉の開閉音が鳴り響く形となった。間違いなく、おかんには気付かれただろう。尤も、その方が心なしか気楽だったのも本当だ。
立体駐車場の入り口からは、こちらに向かって歩いてくるおかんの姿が見て取れた。おかんは紺色のパンツスーツに、ビシッとネクタイまで締めるという、仕事に赴く時にもあまり見せることのない堅苦しい格好だった。それ以外は、目立っていつもと変わったところはない。髪型、雰囲気、こちらへと向かってやってくるそり一挙手一投足。全て変わりない。
ともあれ、おかんは俺の存在に気付くと、途端にぱぁっと表情を明るくする。
「言規? 言規! 真生の精神操作からは、……解放されているのね? ああ、良かった、これで無駄な争いをする必要はないわね。言規が母さんのもとに来てくれるなら、真生は何も手出しできなくなる。全て解決するわ」
どうやら、おかんは「俺が真生に協力しなかった」から立体駐車場入り口に居ると思っているようだった。
激しい心苦しさを感じながら、俺はおかんにその認識が間違いであることを告げる。
「ごめん、おかん。今回は俺の意志で真生に加勢してやりたいと思うんだ。お互い顔も知らないままの状態で、突然「離れて暮らす妹が居るんだ」って打ち明けられたなら、興味を持たなかったかも知れない。だけど、やっぱり一緒に笑いあっちゃったからさ。これっきりで終わりって言うのは、もうあり得ないことだよ」
おかんは一度キョトンとした表情を覗かせた後、俺が何を言ったのかを理解すると不機嫌そうな表情を隠そうともしなかった。そして、くっと口先に力を入れて唇を噛めば、おかんは「俺が真生の存在を受け入れること」と「真生を連れ戻すこと」が一つの俎の上に乗せられる話題ではないという。
「全てを知った上で言規が真生を支えるために行動するという決断を下したのなら、母さんもそのことについて反対しないわ。でも、それと、今回真生を蔵元町に引き戻すこととはもう既に別の話なのよ。是が非でも、真生を一度蔵元町に連れ戻して折檻しないわけにはいかないわ!」
「真生の言い分も正しいんだ。俺が許可したから、真生が行動した面も確かにあるし……」
「あら、そうなの。じゃあ、その点は考慮してあげないといけないわね。でも、母さんの言うことを聞かないと言い出した挙げ句、母さんのこと「冷血女」だなんて罵詈雑言を口にしたことは許せないわ。言規だって、可愛い妹が不良娘になんてなったら困るでしょう?」
どうにか真生の肩を持ってやろうと「言い付けを守らなかったこと」に対して助け船を出すも、既におかんは「そんなことは些細な問題」と言わないばかりの態度だった。
今更一つ二つ真生が相応の正しさを持っていたところで、おかんの対決姿勢を和らげるのは不可能だと俺は悟った。真生がおかんを挑発したのは覆らない事実であり、そして、それは何よりも大きな禍根を残したらしい。
「さぁ、話はお仕舞い。真生はどこ? それとも、まだ真生の肩を持って、言規も母さんに「私はお腹の黒い血も涙もない冷血女です」って言わせようという魂胆なの?」
にこやかに微笑むおかんにそれを尋ねられて、俺は思わず押し黙った。
おかんが俺を見る顔付きは、今はまだ辛うじて俺が日常生活の中でいつも見てきたものと何ら変わらない顔だ。必要以上に俺を心配する過保護な部分が前面へと押し出された、俺が慣れ親しんだ「母親の顔」だ。
しかしながら、俺はおかんがまとう雰囲気の中に闘気が揺らめくのを垣間見る。それは俺にもの恐ろしさを感じさせるに足るもので、いつもの顔をしたおかんの中から吹き上がるかの如く滲み出ていた。些かも衰えてはいない。
ここが最終ラインだと思った。
小さく首を傾げて見せて俺へスタンスの確認をするこのおかんの問いをはね除けたら、きっと俺が見たこともない部分が顔を覗かせる気がする。それがいきなり「美しい鬼」と呼ばれた片鱗にまで及ぶかは解らないけど、間違いないだろう。
俺は緊張からごくりと息を呑む。ふと「もしも真生を裏切っておかんに寝返るのならば、今しかない」と、そんな考えが脳裏を過ぎった。俺はすぐに首を左右に振って、その魔が差したとしか言えない考えを振り払う。そして、まじまじと自分で導き出した結論の意味を受け止めてしまえば、後には苦笑いが付いて出た。
口を開かない俺の様子を見兼ねたのか。おかんが溜息混じりに呟く。
「交渉決裂ね」
「……そうだね、おかん」
どうにか喉の奥から言葉を引っ張り出してくると、それは枯れた酷い声になった。
そこに至って始めて気付く。俺の腕はカタカタと震えていた。
おかんは大きく溜息を吐き出した後、俺を見る目をガラリと入れ替える。
「そう、ならせっかくだから、言規も母さんの家の血がどういうものなのか、この機会に身を持って知るのが良いわね。言規が真生を支えるために行動するというのなら、避けては通れないものね」
やはり、そこが最終ラインだったらしい。
おかんの鋭い目付きが生み出す凄まじいまでの迫力に気圧され、知らず知らずのうちに俺は後退っていた。「美しい鬼」とは良く言ったものだ。俺はまざまざとその異名の片鱗を、身を持って味わった。
「強行策……か」
「強行策だな。尤も、話の進め方に不備はなかったし、香奈恵さんには付け入る隙がなかった。運命だったんだろう」
トランシーバーからは、溜息混じりの泰治の声が聞こえた。そして、有樹が強行策への移行について「仕方がない」という認識を示すと、泰治が先手を打って攻撃に転じた。
おかんが時刻を確認すべく取り出した携帯電話に、泰治が射出したと思われるゴム弾がヒットする。「パキンッ」と激しい炸裂音が鳴り、遅れておかんの手を離れた携帯電話が遙か後方に転がる落下音が虚しく響き渡った。
おかんは目をパチクリと瞬かせた。一瞬、何が起こったのか理解できなかったのかも知れない。
俺が立体駐車場内へと後退する時間を稼ぐことを目的として、わざわざ「そこは狙撃可能な場所ですよ」と教える形を泰治は取った形だ。けれど、おかんは狙撃されたことを知った後も、その場に仁王立ちしたまま身を隠そうともしない。
「そんな遠距離から狙撃してピンポイントで携帯電話に命中させてくるなんて大した腕だと思ったけれど、サクラで能力ブーストをしているみたいね。サクラの気配は、てっきり真生が泰治君や有樹君は操っているからだと思ったけれど、自らの意志で立ち向かってくるとなると、これは少々厄介ねぇ。雪、まずは泰治君からサクラの影響を排除してあげなさい」
そして、おかんが雪という名前を呼んだ瞬間のこと。おかんの背後に色白の女性が背中合わせに姿を現した。
ついさっきまでは間違いなく存在していなかったとかそういうところもつっこみ所だったけれど、俺を驚愕させたのはそこではない。雪と呼ばれた女性は、俺が過去幾度となく目撃してきた妖精さんそのものだったのだ。サイズこそ違えど、黒神楽で俺が見た容姿そのものである。どうやら、妖精さんはおかんに縁のある存在らしい。尤も、それを意識して妖精さんが出現した過去の場面に思いを巡らせると、色々と辻褄が合うのも事実だった。
「はいはーい。待ってました。……で、どれぐらい香奈恵の恐ろしさを、香奈恵に盾突いたお馬鹿さん達に、その身を持って教えてあげればいーい?」
雪はおかんを親しげに「香奈恵」と呼び捨てすると、おかんが過去如何に恐れられた存在だったのかを言葉の端に滲ませた。見た目を裏切らない軽薄な調子の雪とは対照的に、おかんは感情の機微を感じさせないクールフェイスだった。
雪は「ノリが悪い」と言わないばかりに、そんなおかんに対して頬を膨らませて見せる。けれど、雪はすぐにその理由を察しただろう。今まさに、立体駐車場内へと後退する俺と目を合わせたからだ。雪は俺がおかんの敵に回ったことを瞬時に理解したようだ。「面白くなってきた」と言わないばかりに意地悪く笑った。
雪の笑みを目の当たりにして、俺の第六感が警告を発する。しかしながら、雪は俺に向けてウインクを一つ飛ばす形で愛想を振りまいて見せただけで、すぐに立体駐車場屋上に位置する泰治へと視線を移してしまった。
立体駐車場内まで逃げ帰り、入り口脇の扉を閉めてチェーンロックで施錠したところで、俺は安堵の息を吐いた。
雪は俺を見逃したんだと思った。その気になれば、俺を追い詰めることなんて容易くできたと思う。もちろん、おかんが泰治を狙うよう指示したことで、そちらを優先させたのかも知れない。けれど、俺はそれを強く意識させられた格好だ。
チェーンロックを掛けた扉に寄り掛かると、遠くから雪と泰治のやりとりが聞こえる。
「あー……、泰治君? 一時的にならともかく長時間に渡って能力ブースト続けると、後の反動が凄まじいと思うよ? 疲労骨折とか全身筋肉痛とかで苦しんでいるところに、お相撲さんがズシッとのし掛かってくるような感じかな。きっと、のたうち回って苦しむと思うんだけど、そうなることさえ泰治君は承知の上で真生に荷担してるの?」
雪は泰治相手に心理戦を展開しているようだ。尤も、そうやって揺さ振りを掛ける雪の言葉自体は紛れもない事実かも知れない。能力ブーストを続けたことによって生じる反動なんて、真生に知見があるとは思えない。
しかしながら、雪の言葉が本当で、俺達がその事実を知らないのだとしても今更だった。この際、真生がそれを知っていたかどうかも関係ない。後には退けないところも来てしまっているのだからだ。
事実、雪に反論する泰治は「それがどうした」と気炎を上げて開き直り、揺さ振りをものともしない。
「そんなの一言も聞いてないけど、……聞いてないけど、真生ちゃんのためだからね! 今更後には退けない! それに、そんなに多くの時間は必要ない。さっさと片を付けさせて貰う!」
威勢の良い泰治の気炎に刺激され、俺も扉に寄り掛かっている場合じゃないと思った。体を起こしてトランシーバーを手に取ると、俺は泰治へと「雪に注意するよう」連絡する。
「気をつけろよ、泰治。妖精さんの狙いは泰治みたいだからな!」
「妖精さんってのは、雪って呼ばれた女性のことか? あれが妖精さんなら相手が相手だ、言規こそ気をつけろよ」
有樹の言い分も尤もだ。掌サイズで出現したり、忽然と姿を消したりと、今まで散々普通の存在ではないことを見せ付けられている。特殊能力が備わっていることは間違いない。
さっさと真生と有樹と合流した方が賢明だと思い、俺三階層へと急いだ。そうして、二階の踊り場を過ぎた頃、突然何かを打ち付けるけたたましい音がした。「パンッ」と響く炸裂音に、俺は思わずビクッと体を振るわせ立ち止まる。
その直後、泰治の困惑混じりの言葉がトランシーバーを通して真生へと向けられる。
「真生ちゃん、聞こえる? 香奈恵さん、バリアみたいなもので守られていて狙撃が通じないよ! これじゃあ遠距離から狙っても意味がない。どうするの、何か手はある?」
「予定通り、今から地の利を活かしてお母様に攻撃を仕掛けます。襲撃に合わせて再度狙撃してみて貰えますか?」
真生がおかんのバリアを予め想定していたかどうかは解らない。けれど、対応を仰がれた真生は返答に窮することもなく、直ぐさま泰治へと次の指示を飛ばした。少なくとも、そこに遠距離攻撃を無効化されたことに対する動揺は窺えない。
すんなりと次の段階に移行するかと思いきや、異変が生じたのはその矢先のことだった。
「わたしを無視するなんて妬けちゃうなー。ちょっとはあたしを構ってくれてもいいんじゃないかな? それとも、泰治君の狙いはあくまで香奈恵なの?」
泰治と真生のやりとりに雪の声が混ざったのだ。それも、声の感じから察するに、それはかなりの近距離だ。
直後、泰治が胸元からガスガンを取り出したのだろう衣擦れの音と、微かに「カチッ」とセーフティを解除するスイッチングの音がする。けれど、その後に続くはずの銃声はなく、代わりに泰治の困惑した声が生まれる。
「弾詰まりか? ガスの装填ミス? ……違う! 引き金が、引き金が引けないのか!」
「泰治君の意思で動かせないのは、もう指先だけじゃないよ。さぁ、そのでっかい銃を床に置きなさい」
鼻歌交じりの楽しげな雪の声がトランシーバー越しに聞こえて、泰治を襲う異変が雪に起因するものだと理解した。
聞き耳を立てていると「コトン」と小さな音が鳴る。恐らく雪の指示通り、泰治が銃を床に置いた音だろう。
「扉の開閉時に警告音が鳴り響くよう細工をしておいたんだけど、どうやって仕掛けを発動させず扉を開けたんだい?」
雪に質問をぶつけた泰治の声色からは、これでもかという程に緊迫感をまとっているのが感じられた。
「さあ、どうやったでしょう?」
一方、雪の方はその声色だけで、意地悪く空惚けている光景がありありと浮かんでくるようだった。結局、雪は泰治の質問に答えず、泰治に次の指示を飛ばす。
「じゃあ、泰治君には今から香奈恵のところまで行って貰おうかな。変な行動できないように制限させて貰うけど、弁明だけはできるようにしておいてあげるね、泰治君♪」
そこでトランシーバーの音声は途切れた。雪が電源を落としたか、泰治自身が通信回線を切断したのかは解らない。
泰治との通信途絶という事態を前に、俺は慌てて真生と有樹の居る三階層まで階段を駆け上がる。そうして、勢いよく扉を開けたところで俺は二人と鉢合わせた。ちょうど二人も屋上へと向かう途中のようだった。
「泰治はまだ上にいるの? おかんの元へ出頭させられる前に羽交い締めにしてでも止めないと!」
俺の疑問に、有樹は首を左右に振る形を取って「解らない」と目顔で答えた。
このタイミングで二人が屋上へと足を向けるのは「泰治の状況を確認するため」だと思っていたけれど、ふと俺は真生の装備に目を留める。
真生は一見するとバズーカ砲にも似た円筒状の物体を背中に抱えていた。それはおかんとの決戦を前に、トランシーバーなどと同様泰治が必要性を考慮して用意したものの一つだ。
元々は、野生の猿や鹿といった動物の捕獲を目的として開発されたものらしい。基本構造と考え方はバズーカ砲と全く同じで、肩から指先ほどの長さがある砲身から撃ち出すものが異なるだけだ。弾丸状に格納した捕獲用ネットを、高速で射出するのだ。弾丸状の捕獲用ネットは空中で拡散・展開され、対象物を覆い被せるようにして捕獲する仕組みらしい。
そういった装備の数々は、屋上へ足を伸ばすことが雪との対決を視野に入れたものであることを示唆した。
そうして、屋上へと足を向けようとした矢先のことだ。突然、静まり返った立体駐車場に、防犯ブザーなどに用いられるような「キュイン! キュイン!」というけたたましい高音が鳴り響いた。場違いな高音の中には、雪のものと思われる一際甲高い悲鳴も混ざる。
「うわぁ! 何、何なの!?」
屋上の扉に泰治が仕掛けたという細工だろう。泰治が仕掛けた当初の役目とは違う形になったけれど、俺達はその仕掛けによって雪の現在位置を把握することになった。泰治様々だ。
雪が屋上から階下に向かう手段は五つ考えられる。屋上の四隅にある階段で階下を目指すのと、自走式立体駐車場内の進路に沿って車道を下るパターンだ。雪はその中で、たった今俺が登ってきた階段を利用し、屋上から階下を目指すというルートを選択したようだった。
尤も、どんな手段を用いていきなり屋上まで移動し泰治を襲撃したかが不明であるため、厳密には他にも方法を持っていることを想定する必要はある。しかしながら、神出鬼没っぷりを発揮して二階層や三階層にいきなり出現するというのは、あまり考慮する必要性を感じなかった。そんなことができるのならば、わざわざ階段を利用する必要がない。
今現在、雪が俺達の頭上にいて、階段を利用しようと扉を開けたことは踏まえ、有樹は俺と真生へ向けて小声で提案する。音を立てることがないよう慎重に階段へと続く扉を閉めてしまえば、有樹の表情には真剣味が灯った。
「一芝居打とう。俺が妖精さんを誘い出すから、真生ちゃんはタイミングを見計らって捕獲用ネットを展開するんだ。万が一、俺が妖精さんの影響下に囚われてしまったと思った時は、迷わず俺ごと撃ってくれて構わない」
真生がその提案に頷き射出装置の準備を始めたことを確認すると、有樹は扉へと耳を寄せ雪が階段を下りてくるタイミングを探る。移動の際に雪が物音を立てないことも危惧されたものの、それは杞憂だったようだ。
まるで自身の存在を主張するかの如く、雪は「コツンコツン」と足音を響かせて階段を下りて来る。そうすることで、俺達に「追い詰められている」といった意識を植え付ける意図があったのかも知れない。
足音が近付いてきたのを見計らって、有樹は勢いよく階段へと続く扉を開けた。雪はちょうど三階層から四階層の間にある踊り場へ差し掛かった頃だ。鉢合わせるには、近くもなく遠くもなく絶妙のタイミングである。
「おお、有樹君、見ー付けた!」
雪の楽しげな声が聞こえた瞬間、有樹は「しまった」という表情を見せた。それが演技だと解っていても、仕立て顔に見えないあたりはさすがである。そうして、有樹は雪へと警戒を向けつつ、ジリジリと後退る。扉を開け放ったままというところがポイントだったろう。扉を閉める余裕もないほどに動揺していると、相手に錯覚させる絶妙さがそこにある。
雪はまんまと罠に掛かった。「今がチャンス」と言わないばかりに、有樹を追い詰めるべく後を追ってきたのだ。
一際けたたましい炸裂音が響き渡ったのは、その直後のことである。
空中で炸裂音を響かせ展開した捕獲用ネットは俺が想像していたよりも遙かに強力だった。かなりの勢いをまとって射出された捕獲用ネットを、不意打ちという形で諸に食らった雪は押し付けられるように壁へと打ち付けられた形だ。そして、あっという間に捕獲用ネットに包まれ身動き取れなくなってしまえば、そこにはさらにサクラが飛び掛かるというおまけまで付いた。
「巧く罠に掛かってくれたようだな。……わざわざ危険を冒したかいがあったというものだ」
「謀ったね! けど、あたしがサクラ程度の力でどうにかなるとでも思ったら大間違いだよ、真生ちゃん?」
作戦の成功にガッツポーズを見せる有樹に、上手く誘い出されたことを理解した雪は憮然とした表情だった。尤も、それもすぐに真生を挑発する余裕綽々の態度へと切り替わる。サクラに飛び付かれ接触された状態にあるにも関わらずだ。
真生はサクラで屈服させられない現実を目の当たりにし、その事実が意味するところを噛み締めていただろう。眉を顰めて見せた後、静かに凜の名前を口にする。
「凜、やっちゃって」
凜は打てば響く反応を見せた。尤も、雪はほぼ身動き取れない状態にあり、凜を回避する手立てなどない。
「君が噂の凜ちゃんね。……あたしとどっちが力が上か試してみようか!」
雪は一度目を丸くした後、凜に対する対抗心を剥き出しにした。尤も、小動物捕獲用ネットに絡め取られた状態でそんな風に粋がる様子は非常に滑稽だった。そして、物理的に身動き取れない状態だったからというわけではないだろうけど、勝負の方も一瞬で片が付いた。
凜が雪に触れて十数秒と立たない内に、雪はペタンと仰向けに倒れたのだ。
凜があっさり雪を屈服させたところで「こっちはもう大丈夫だろう」と、俺はおかんの様子を確認すべく双眼鏡を手を取る。すると、立体駐車場前の広場には、未だ腕組みをした状態のまま微動だにしないおかんの様子があった。
俺達の制圧を、完全に雪へ一任しているようだ。
ふと、ふらふらとおかんの元へと歩み寄る泰治の様子が目に飛び込んできた。足つきが普通じゃないところから察するに、まだ雪の制御下にあるんだと思った。
真生と有樹によって今まさに縛り上げられようかという雪は、しぶといことにまだ「ぐぬぬぬぬ……!」と呻き声をあげていた。凜によって身動きこそ取れない状態にあるものの、まだ意識は明瞭らしい。
第六感が「まずい!」と警告を告げる。しかしながら、泰治を助ける手立てなんて思い当たらない。必死に頭を捻ってようやく引っ張り出してきた考えは「凜を応援する」という他力本願のどうしようもないものである。
「凜、頑張れ! 早く、早く妖精さんを乗っ取るんだ!」
それでも「やらないよりはマシ」と凜を応援をしたものの、寧ろそれは「急かした」といった方が適当だっただろう。
「全く、ちょっと見ない間に泰治君も悪い子になっちゃって。玩具とはいえ銃口を人に向けるなんてね。お仕置きしてあげるから、こっちにいらっしゃい」
そうこうしている内に、泰治はおかんに手招きされるまま、ふらふらと吸い寄せられるように近付いていった。尤も、意識自体はしっかりしているようだ。泰治は雪の制御下に置かれながら、おかんに対して真生へ寛大な措置を執るよう懇願する。対話の中で「弁明できるようにしてあげる」と言った通り、雪は泰治の行動にのみ制限を掛けたのかも知れない。
「香奈恵さん。その……、真生ちゃんのこと、黒神楽で自由にしてあげてくれませんか?」
「それは難しい相談ね、泰治君。そもそ……、雪がやられた!?」
一目で「拒否」と解る呆れ顔で話し始めたおかんだったけれど、その表情は話の途中で驚愕に取って代えられた。おかんは直ぐさま、眼前に立つ泰治から第四立体駐車場へと視点を切り替える。
恐らく、猿轡を銜えさせられながら、まだ「むー! むー!」と俺の横で喚いていた雪の状態を探ったのだろう。
ともあれ、雪は精神操作の効果が消滅させられるぐらいには、凜によって制圧されたらしい。
体の自由を取り戻した泰治は、おかんに気付かれないよう注意を払いながら不穏な動きを見せる。袖口から掌サイズに収まるガスガンを取り出すと、おかんの大腿部に標準を定め身構えたのだ。
一体何処まで全身に武器を隠し持っているのだろうかと呆れたものの、それは千載一遇のチャンスだった。
しかしながら、それがおかん目掛けて火を噴くことはなかった。泰治は躊躇うことなくトリガーを引き、けたたましく「パンッ」となる銃声が鳴り響いたものの、弾丸が明後日の方向に射出されてしまったからだ。
おかんは咄嗟にガスガンを握る泰治の利き手を手の甲で払った形だった。完全に泰治から注意を逸らしていたにも関わらず、おかんはその不穏な動きを瞬時に察知したらしい。侮れないとかそういうレベルではない。普段のおっとりとした物腰からは想像だにできない動きだったし、今の今まで俺が見たことのないおかんの動きだった。
尤も、狙いが外れたことを瞬時に理解した泰治のその後の動きも凄まじい。直ぐさまポケットからゴム弾を取り出し、再装填をしたのだけど、それはゆっくり後退る形で距離を取りながら行われ、且つ泰治が手元を確認することは一度もなかった。そして、泰治は再度おかんの大腿部に照準を定めようとする。
泰治に取って不運だったのは、おかんの対応の方が僅かに早かったことだ。
おかんはあっという間に泰治の胸元まで飛び込むと、ガスガンを握る泰治の利き手を掴んで捻り挙げる。
「知らなかった? 近距離戦では銃を用いた方が不利なこともあるのよ。相手が接近戦に対して腕に覚えがある場合は特にね。今後のために身を持って覚えておくといいわ、泰治君」
真生同様、おかんの影の色が漆黒色に染まったかと思えば、その影の中からは白色の蜘蛛が姿を現す。
泰治からは蜘蛛に対して激しい警戒が向けられたけれど、利き手をおかんによって掴まれてしまっていることで距離を取ることもままならない。飛び掛かる蜘蛛を払い除けることも叶わず、泰治は蜘蛛の接触を許した。
直後、泰治の利き手が小刻みに痙攣し、掌サイズのガスガンが「カンッ」と音を立ててアスファルトの上に落ちる。
おかんは掌サイズのガスガンを拾い上げてゆっくり眺め見た後、溜息混じりの呆れ顔で泰治へと向き直る。
「全く、こんなものまで用意して。泰治君はミリタリー趣味が過ぎるわね。これはきつーいお仕置きしないといけないわけね。雪、やっておしまい」
どうやら、おかんは白色の蜘蛛を「雪」と呼んだようだ。
思わず、凜によって完全に大人しくなった方の雪の存在へと目を向けた。けれど、すぐに人型と蜘蛛型の違いがあるだけで「同じ存在なんだろう」と納得した。俺の夢の中に姿を現したサクラのようにだ。
僅かに泰治から目を離した直後のこと。泰治の叫び声が響き渡る。
「うああああああ! 止めろー! モゾモゾ動いてる、動いてますから! 止め、や、止め……、ぎゃあああああ!!」
泰治が雪に何をされていてどんな状態にあるのかを、ここから確認することはできなかった。けれど、ここまで壮絶な叫び声を挙げる泰治を見たのは生まれてこの方初めてだ。痙攣するかのようにビクンビクンと激しく体を震わせて見せる様子を傍目に見る限り、泰治が並大抵ではない状態に置かれていることは一目瞭然である。しばらくそうしてビクンビクンと痙攣していたものの、泰治はある一点を境にぷつっと事切れ、静かになる。気を失ったのだろう。
泰治が気を失ったことを確認すると、おかんは第四立体駐車場へと向き直り深い息を吐く。雪がやられたことで、とうとうおかん自身が動くようだ。そうして、静まり返った第四立体駐車場内に、踵をアスファルトへと打ち付けるヒール独特の靴音が響き渡るようになった。
「バリアがあるのでは遠距離からちまちまやっても意味がない。雪とかいう妖精さんをどうにかできた今が好機だ。新たに何かを呼び出される前に攻め落とすぞ。いいか、俺が正面から攻めて香奈恵さんの注意を惹き付ける。真生ちゃんと言規は香奈恵さんの背後に回って不意を突くんだ」
直接対決が想定される状況を前に、人型雪と泰治が戦闘不能になったことを踏まえて有樹が作戦を立て直した。
しかしながら、積極的な攻勢に出る姿勢に真生は不請顔を見せる。あれだけおかんを挑発しておきながら「何を今更弱気になっているのか?」と発破を掛けようとするも、真生からは決め手を欠く実情が重々しく吐露される。
「お母様を引き付けられるだけ引き付けた上で、泰治さんを回収して一旦引くべきだと思います。今のままでも、お母様を追い詰めることはできると思いますが、今のあたしでは止めを刺す切り札として考えていた凜を使役できそうにありません。サクラも使役可能な回数に限界が見えます。多分、このままじゃ、……あたしはお母様を完全に制御できません」
悔しそうに唇を噛む真生に、俺は叱責するかの如く手を尽くさない理由を追及する。
「だったら、もう一度、凜を出現させればいいじゃないか! なんで、やろうとしない?」
劣勢という状況下で気が立っているようだ。真生はらしくない態度で俺の意見に食って掛かる。
「簡単に言ってくれるよね、お兄ちゃん! 凜はサクラとは比較にならないぐらい大きな力を使うんだよ。お母様からの供給を絶たれてしまっている今のあたしでは、サクラでさえ使役できる回数に大きな制限が掛かるんだ」
真生の主張を聞いた俺は思わず呆れ返る。ここまで追い詰められてなお、真生の選択肢の中に俺から力を吸い上げるという項目はないらしい。当然、俺はそこに言及する。
「何言ってるんだよ? 俺から力を吸い上げれば、真生はそれを元にサクラや凜を使役する力を得ることができるんだろう? だったら、やるべきことは決まっている。そうだろう?」
「この前もかなりのところまで攻めたけど、今回はあの状態からさらに一歩踏み込んだところまで吸い上げないと行けないかもだよ? しかも、回復しきっていないところを、さらに吸い上げることになる。お兄ちゃんはそれでも良いの?」
俺の意志が固いことを悟ると、真生は今の今までそれを選択肢に含めなかった理由を口にした。前回よりも多量の力を吸い上げることになるというのがその理由だ。俺がそれを許容しないことを前提として、真生は話をしていた。それは「前回以上」が簡単に踏み越えられないラインだと、真生自身考えていたからだろう。
一度「そうするべき」と決意したにもかかわらず、俺の心の中にも「前回以上」に対する反発は生じた。しかしながら、一度立ち止まって再考しても、それ以外に手がないことを再認識させられるだけだった。向こう見ずにことを進めるのは問題だけど、危険性を理解した上でそれしか打つ手がないのであれば、行くしかない。
緊張を隠す意味合いを込め、俺は戯けるように口を開く。「たいしたことじゃない」と強がりたかったのだ。けれど、上手く行かない。言葉の途中で一気に首を擡げた緊迫感に、せっかくの戯けた調子が呆気なくも呑まれてしまって語尾まで持たなかったからだ。
「はは、……あの時以上か。それ、しばらく再起不能になっちゃうかもな。……でも、それしかないんだろ?」
俺が真顔で真生へ決断を迫った矢先のこと。俺と真生を探すおかんの声が第四立体駐車場に響き渡る。
「さぁ、お仕置きの時間よ? 言規、真生、隠れていないで出てきなさい」
声はかなりの距離まで近付いてきており、ここに来るまでにもうそう多くの時間を必要としないだろう。
俺を気遣い真生が決断を迷うというなら、力を吸い上げるよう要求しない理由はなかった。俺にだって意地がある。
「やれよ。俺だってやるべきだって思ってるんだ。何を今更躊躇っているんだよ? おかんに勝つために凜が必要なんだろ? 大体、そんなしおらしい態度なんて真生らしくないんだよ」
強がって憎まれ口を叩く俺を、真生は神妙な面持ちでジーッと注視していた。その裏側にあるものを読み取ろうとしていたのかも知れない。ともあれ、真生は俺の決意が固いと知ると、サクラを使役する。
サクラが俺の影に触れてしまえば、後は前回と同じ光景が待っていた。
そして、漆黒色に染まった俺の影の中へと手を埋める直前になって、真生が俺の耳許でいう。
「ありがとう、お兄ちゃん」
前回と様子が異なり始めたのは、そこからだった。真生の手がズブズブと俺の影の中に埋まっていくと、前回よりもずっと早く意識が遠退く感覚に襲われる。
今回は真生の恍惚としただらしのない表情を拝めそうにはないな。
そんな寸感が脳裏を過ぎった矢先のこと。ふと気付くと、視界は暗転していた。
「こんな大事な場面で意識を失うのか? そんなの絶対に御免だ!」
声にならない声が途切れかけた俺の意識を繋ぎ止めてくれたようだ。
ハッと我に返ると、まだ目の前には真生と有樹の姿があった。二人は何かを打ち合わせているようだ。けれど、耳の辺りを何か薄い膜のようなものが覆っているかのように、二人の声はぼやけてしまっていて聞こえない。
身を起こそうとすると、有樹は俺が意識を取り戻したことに気付いたらしい。俺の方へと歩み寄ってくる。
「今回の総大将は言規だ。だから、もしも俺と真生ちゃんがやられるようなことがあっても、言規が負けを認めない限り決着は付かない。言規が頑なに負けを認めなければ、香奈恵さんは恐らく真生ちゃんと同じ方法で言規から敗北宣言を引き出そうとするはずだ。いいか、絶対に最後の最後まで抵抗しろ! 無理矢理言わされるまで、負けを認めるな! そうならないようにはするが、それが今回の言規の役割だ。香奈恵さんが現れるまでは、そこでどっしり構えていればいい」
有樹はそう俺に言い残すと、真生と顔を見合わせた。真剣な面持ちで身形を整えた後、有樹はそのままおかんが居る三階層へと躍り出る。
一方の真生は階段を使ってぐるりと迂回し、階層を下る腹積もりのようだ。有樹とは反対側へと足を進めた。
僅かな間を置き、有樹の声が静まり返った第四立体駐車場にこだまする。
「こんにちわ、香奈恵さん。永曜学園の合格発表時に顔を合わせて以来ですかね」
俺は三階層から四階層へと切り替わる上り坂の途中に身を潜め、有樹の立ち居振る舞いをじっと注視していた。
「あら、有樹君」
おかんが有樹の名前を呼んだ矢先のこと。有樹はおかんに見せ付けるようなゆっくりとした動作でポケットの中からガスガンを取り出すと、それを壁際へ向け放り投げた。そうすることで、おかんに対して戦意がないことを示したのだろう。
「降参?」
おかんから銃を投げ捨てた行動の意図を確認されると、有樹は首を左右に振って見せる。「降参するつもりはない」と意思表示した形だ。そして、胸元からいつぞやの扇子を取り出し、その先端をおかんへと定める。その動作は「銃よりもこっちの方がしっくり来る」と言わないばかりだ。
「力尽くでというやり方では、分が悪いと思ったわけです。扇子の先からビームでも出せればまだしも、元々俺は銃の扱いが得意だとか腕に覚えがあるというわけではないですからね」
「まだ勝負をするつもりがあるということ?」
扇子の切っ先を向けられたおかんは物怪顔で、その意図を有樹に尋ね返した。
「そうなりますかね、……すいません。でも、そこは退くことのできないラインなんです。なにせ、他でもない真生ちゃんの頼みですからね。こちらの勝利条件は、香奈恵さんに要求を呑んでいただくことですが、個人的には和解という手段も現実的な方法かと思っていまして。まぁ、真生ちゃんは勝利以外は認めないスタンスかも知れませんが、勝ちに拘る以上は負けをなくすことも視野に入れておくべきだと思うわけです。完全敗北の意味するところが蔵元町に連れ戻れさて封印されるでは、あまりにも真生ちゃんのためにならない。リスクが高過ぎる。お互い腹を割って話せば譲る余地があるかと……」
有樹は含みを持たせた言い方で、和解を持ち掛けた形だ。その口調はおかんに再考する余地があるのなら、自分の方にもさらなる提案があるといった風だ。
おかんは真生の立場に立ったそんな有樹の言動に、意外だと言わないばかりに目を丸くする。
「随分と真生のこと、気に入ってくれているのね。おばさん、驚いちゃった。てっきり、有樹君は言規に頼まれて仕方なくという立場で、真生の画策に協力してくれているのかなーって思っていたんだけど……」
客観的立場にあるおかんから「真生を気に入っている」と指摘されてしまえば、今度は有樹が目を丸くする番だった。すると、有樹は複雑に入り交じった胸襟を一つ一つ読み解くかのように語り始める。
「正直、真生ちゃんをこの目にして吃驚したんですよ。昔の香奈恵さんと瓜二つだったからです。古い写真の中にいた俺の初恋の人がその当時の姿のまま抜け出してきたかのような錯覚に陥って、……運命の悪戯かと思って困惑しました」
おかんは一度キョトンとした顔付きを見せた後、満更でもないという風に有樹の告白に気を良くする。
「またまた、有樹君は人をからかって。でも、初恋の人だなんて、嬉しいこと、言ってくれるのね」
尤も、対する有樹は既に神妙な面持ちだ。自身の胸襟を咀嚼したからこそ尚更、有樹は和解を望むわけである。
「同じ言葉を繰り返すことになるかも知れませんけど、だからこそ俺からもお願いしたい。黒神楽で真生ちゃんを自由にしてあげてはくれませんか? 俺もこんなことで、今後真生ちゃんと会えなくなるというのは納得できません」
見るからに機嫌を良くしたおかんだったけれど、そんな有樹の要求はきっぱりと拒絶する。溜息混じりに「できない」理由について語る様子は、真生の言動にほとほと呆れ果てたと言わないばかりだ。
「平気な顔してあんなことをする娘なのよ? とてもではないけど、今の真生を黒神楽で自由気ままにさせるなんてとてもじゃないけれど許容できないわ」
「そこは俺や泰治、言規が全面的にサポートしますよ。尤も、話を聞いていた限り、言規は別の面でもかなり苦労しなければならないみたいですけど……。ただ、言規も真生ちゃんを支えることに対してやる気になっています。例え、一時連れて帰って折檻することになるにしろ、この黒神楽で、俺達同様に心機一転というわけには行きませんか?」
有樹は俺や泰治の名前を出して食い下がったものの、微笑を湛えるおかんは聞く耳持たずの態度である。おかんはいつもの穏やかな物腰だったものの、今回ばかりは逆にそれが「糠に釘」を強く意識させた。
「それは真生の態度次第ね。そして、真生を完膚無きまでに打ち負かしてから考えるべきことだわ、有樹君」
「なら、仕方ありませんね」
そう有樹が口走るや否や、おかんの背後を狙って真生が動いた。
説得工作は上手く行けば儲けもの。失敗しても時間稼ぎになれば及第点だったわけで、その及第点には達したようだ。
尤も、おかんの背後を襲った真生の動きは完全に読まれていたようだ。そして、動きを読んだおかんが真生と対峙し繰り出したものは、意外にも体術だった。ここにきて、おかんのパンツスーツという格好の理由がわかった気がする。
おかんは華麗な動きから裏拳やら正拳突きやらを繰り出して、真生の接近を牽制する。今まで見たことのないおかんがそこには居た。
牽制を受けた真生は急襲が上手く行かないことを悔やむように表情を歪ませたけれど、俺にはそれが仕立て顔に見えて仕方がなかった。小さく舌を出して顔を顰める不機嫌を絵に描いたような表情だったけれど、おかんや有樹に対して表面上は丁寧な立ち居振る舞いをする真生らしくないのだ。
背後を狙った真生の動きがおかんに読まれることも、有樹達に取って想定の範囲内だった気がした。そんな俺の予想を肯定するかのように、真生はおかんからの攻撃をさらりと受け流しつつ突然にやりと笑う。
ふと気付けば、真生にばかり気を取られたおかんの背後には有樹が立っていた。そして、有樹の手にはゴテゴテとした装飾のある長方形の紙切れが握られている。遠目には何が書かれているのか解らなかったものの、そこには複雑怪奇な文字と記号が所狭しと描かれていた。符という奴だろう。
おかんは慌てて有樹を払い除けようとするも、時既に遅し。グニャッと一瞬空間が歪んだかと思えば、次の瞬間「バチンッ」と激しい音が鳴っていた。有樹を払い除けるべく伸ばしたおかんの手も、すぐに引っ込められた形だ。
「こんなこともあろうかと、いくつか切り札を持って来ました。鬼も封じる捕縛の術です。一度発動してしまえば、そう易々と抜けらるような代物ではありません」
まんまと真生と有樹の計略に填ったおかんだったけれど、そこに「してやられた」ことを悔やむ表情はなかった。そして、鬼も封じると銘打たれた捕縛の術に囚われながら、おかんはその効果について疑問を呈す。
「こんなものを有樹君に発動させて、どれだけ維持することができるというの? 符に込められた力が尽きれば、こんなもの一瞬で瓦解するでしょうに」
尤も、真生はそんなことは承知の上で、有樹に符を使わせたらしい。鬼も封じる捕縛の術の効力について言及すれば、真生はおかんに降伏を迫る。
「こちらから攻撃する分には何の支障もありませんから、数十秒も持てば十分ですよ。大人しく「私は腹の黒い血も涙もない冷血女です」と言って頂けるのなら、いつでも情けを掛けてあげますけれど、どうしますか、お母様? そうでないなら、力尽くということに……」
「うふふ、そんな小手先の駆け引きは良いからやってご覧なさいな、真生。母さんからの力の供給を断たれたあなたに、どれだけの力が使えるのか見物だわ」
力尽くという手段がはったりだということをおかんにあっさり見抜かれてしまって、真生の表情が俄に曇る。
やはり、おかんの方が一枚上手なのかも知れない。
「サクラ!」
真生がサクラの名前を呼ぶと、漆黒色に染まった影の中から一匹二匹とサクラが出現した。けれど、二匹まで出現させたところで、真生がグラリと蹌踉めいた。
そこが限界だったのだろう。
けれど、おかんからは追い打ちを掛けるかのように、凜を要望する声が出る。
「あらあら、雪を負かせた虎の子の凜は出さないの?」
既に凜を出現させる力が真生に残っていないことを知っていたからか、それとも単純に凜の力を試す意図があったのか解らない。けれど、その姿勢はおかんの余裕を印象づけるものとなった。
「お母様にもお見せしたいのは山々なんですけど、残念ながらもう凜を出現させるだけの力がないんですよ」
馬鹿正直に「できない」と返した言葉に嘘偽りはなかっただろう。
真生の顔色は優れない。そして、あろうことか真生の口からは弱音が漏れる。
「ごめんなさい、有樹さん。肩を貸して貰えませんか? まさか、力の消耗で自分がこんな状態になるとは思ってもみませんでした。……失態です。真っ直ぐ、立っていられそうにありません」
慌てて駆け寄る有樹の肩を借りる形で、真生はどうにか体勢を保つ格好だった。それでも、真生は鋭い目付きでおかんをビシッと指差し、二匹のサクラに攻撃を指示する。
しかしながら、真生が力を振り絞って命じた攻撃も不発に終わる。二匹のサクラがおかん目掛けて飛び掛かった直後のことだ。サクラ二匹はおかんの影から姿を現した雪二匹によって迎撃されてしまったのだ。サクラと雪は絡まり合った状態で、ボテッと音を立てて立体駐車場のアスファルトの上に落下した。そして、まるでアスファルトに吸い込まれるかのように消えてしまった形だ。
「サクラ二匹でその様子では、もう勝ち目はないわね、真生。さあ、後何秒、この術を維持できるの?」
おかんは形勢逆転の時を今か今かと待ち侘びていた。
鬼も封じる捕縛の術が効力を失った瞬間、窮地に立たされるのは真生と有樹である。
ここに来て、有樹は知恵を振り絞り打開策を必死に模索していた様子だったけれど、無情にもタイムリミットはすぐにやって来た。おかんを包み込む淡い光が徐々に途切れ始めたのだ。
すると、おかんは待ちきれないと言わんばかりに、途切れ始めた淡い光に手を翳す。直後「パンッ」と激しい炸裂音が響き渡り、おかんを包む淡い光は掻き消えていた。
「オープンセサミ♪」
おかんが満面の笑みを見せた瞬間だった。
直ぐさま、おかんの影からは蜘蛛型雪が出現し、弱り切った真生を目掛けて突進する。
ふと気付けば、俺は真生を庇うため渾身の力を振り絞って飛び出していた。真生に力を吸い上げられたことで、激しい倦怠感に襲われる状態だったものの、もう黙って見ていられなかったのだ。
しかしながら、いつまで経っても雪の突進に伴う衝撃は襲ってこなかった。その代わりと言わないばかりに、俺へと向けられたものは有樹からの叱責である。
「言規、お前は馬鹿か!」
俺が真生の身代わりとして食らうはずだった一撃を、さらに身代わりとなって有樹が食らった格好だった。
「ば、馬鹿とは何だよ! 俺だって真生のためにちょっとぐらい格好良いところ見せようと思ってだな!」
思わず、反論したものの、今度は真生と有樹の双方から叱責にも似た指摘を食らう。
「言規、お前は総大将なんだぞ!」
「お兄ちゃんは総大将なんだよ?」
俺は言葉に詰まる。けれど、こんな劣勢を目の当たりにして、黙って手を拱いているだけなんてできるわけがない。そうして、俺が有樹へ反論を向けた矢先のこと。
「だからって、黙って見てるわけには……、おい! 有樹!」
俺の言葉の途中で、不意にふらりと蹌踉めいたかと思えば、有樹はガクンと体勢を崩した。俺が咄嗟に支えたことで、その場に倒れ込むことはなかったものの、有樹からは意識を失うのも時間の問題だといった趣旨の言葉が漏れる。
「意識が朦朧とする……。駄目だ、耐え難い。世界が回っているみたいだ。クソッ、後は頼むぞ、言規」
その場に膝を突いてしまえば、有樹は眉間に皺を寄せながらゆっくりと瞑目した。すると、眠りに付くかのように有樹の全身からは力が抜けてしまった。
有樹が完全に雪の制御下へ落ちたことを確認すると、これ見よがしにおかんからは拍手が向けられる。
「美しい助け合いね。言規も見習わなきゃ駄目よ?」
形勢逆転で有利になったことが利いているのだろう。おかんの言動には、既に「美しい鬼」の片鱗はなかった。
俺は丁寧に有樹の体を床の上へ横たえると、おかんへと向き直る。尤も、俺におかんをどうこうする手段はない。泰治カスタムを懐から取り出したところで、おかんにあの屈辱的な台詞を喋らせることができるとは思えない。そうなると、真生との連携が必須になるわけだけど、おかんは俺と真生の接触を許さなかった。
弱体化した鬼も封じる捕縛の術を蹴散らした時と同様におかんが手を翳して見せたかと思えば、真生は目に見えない力によって、ボロ雑巾のように吹き飛ばされていた。「術」と言う奴だろう。
ともあれ、おかんが繰り出した一撃で、真生は床の上に倒れ込んだまま動かなくなった。
「おかん! もう良いだろ! 決着は付いた」
「そうね、チェックメイトね。さあ言規、負けを認めなさい」
おかんに負けを認めるよう促されて、俺は顔を顰めた。床に突っ伏した有樹と真生を横目に捉え、俺は腹を括りそうになる。けれど、有樹の言葉が脳裏を過ぎったことで、俺はそんな状態にあってまだ負けを認めることを躊躇っていた。
なぜ、有樹は俺に「無理矢理言わされるまで、負けを認めるな」と言ったのか?
俺はそれを考える。この期に及んで、起死回生の一手があるのだろうか。
疑問に対する答えは返らなかったけれど、結局おれはおかんに対して拒否の意思を返す。それが有樹と真生の意思だ。
「おかんが力尽くで俺に言わせない限りは、俺が負けを認めることはないよ」
決着はついたと言い出しておきながら、負けを認めようとしない俺に、おかんはただただ困り顔を向ける。
「真生も有樹君も、もう言規を助けるだけの力なんて残っていないのよ? 今の言規が抵抗したところで、何も変わらないのよ?」
キッとおかんを見据え、その目顔で「断固として拒否」の意志を主張していると、おかんは説得を早々に諦めたようだった。おかんの口からは溜息混じりに雪の名前が出る。
「……仕方ないわね、雪」
影が漆黒色をまとうと、おかんはくるりと俺に背を向ける。そこに蜘蛛型雪を出現させて、大した抵抗もできる状態にある俺へと飛び掛からせるためだろう。
隙だらけのおかんの背中を眺めながら、俺が「何もできないのか」と思った矢先のこと。突如、おかん同様に漆黒色をまとった俺の影からは、凜が飛び出した。予め俺の影に忍ばせておいてあったらしい。
おかんは完全に不意を突かれた形だ。そして、飛び掛かった凜の密着を許してしまえば、おかんの表情は一気に歪む。
「勝ち目がないところに道を作ってこその計略。勝ったと思った瞬間、油断が生まれる。付け入る隙はそこにある」
ボソリと呟いた有樹の言葉は力なく弱々しいものだったけれど、そこには確かに「してやったり」といった自信が見え隠れした。
「言ったじゃないですか、お兄ちゃんが総大将だって。あたしも有樹さんもただの囮だったんですよ、お母様」
有樹に続いて真生から種明かしを聞かされたおかんの表情には、険しさが滲んだ。それはまさに「美しい鬼」と形容された片鱗を覗かせる凄まじい眼力を伴った鬼の形相だった。恐らく、凜によって行動を制限されていなかったなら、怒りに任せた洒落にならない破壊力を伴うおかんの一撃が繰り出されただろう。
「最初から、ここまで全て計算尽くだったというわけね!」
「どうでしょうかね。……ただの苦肉の策かも知れないですよ」
そう空惚ける真生には、まだ手の内を全て明かすつもりないようだ。
ふらふらの足取りで立ち上がる真生の表情は口を真一文字に結んだ真剣なそれで、そこに勝利を意識した浮かれた調子は見て取れない。今まさに、その油断に付け入った場面を目の当たりにしているからだろう。
それ以前の計略で攻め落とせれば万々歳。万が一、追い詰められても起死回生の一手を残す。
有樹が仕掛けた細緻の計略か。それとも、有樹と真生の二人で打ったから故に成功した秀逸な布石だろうか。真生の謙虚な姿勢を見ている限りは、恐らく有樹の知略による功績が大半だろう。何にせよ、最後の最後まで「降参するな」と俺に言い聞かせたのがこの一撃のためだったと理解してしまえば、さすがと言わざるを得なかった。
おかんはその場に膝を突くと、眉を上げて真生を睨み付ける。尤も、既に凜によって激しい強制力に命令され続けているのだろうおかんから、真生に向けた叱責の言葉が漏れることはなかった。
「さぁ、お母様。ご所望の凜の力はどうですか? 存分に抵抗していただいて構いませんが、遅かれ早かれ……」
真生はおかんを激高させて平常心を取り除こうという腹積もりのようだ。ここに来て挑発という行為に打って出ようとする真生の肩を掴んで制止すると、俺はおかんに神妙な顔付きを持って懇願を向ける。
「おかん、頼むよ! 今回は真生に勝たせてやってくれ。おかんだって、真生を封じることが最善策だなんて本当は思っていないんだろ?」
おかんは眉間に皺を寄せる形で瞑目すると、渋々という形ながら凜の強制力への抵抗を止めた。すると、おかんの口からは敗北を認める屈辱的なキーワードが漏れる。
「わ、私はお腹の黒い、血も涙もない冷血女です」
わなわなと震えるおかんを前にして、真生は無真剣にも勝利の歓喜に湧く。
「ふふ、討ち取ったりぃ!」
真生は両手を天に向かって突き上げ全身で喜びを表現したけれど、その喜びも束の間のことだった。そのままゆっくりと背中からパタンと倒れていって、動かなくなる。力を使い果たして、意識を失ったようだった。それでも、真生の表情は満足げで、そこには達成感が漂っていた。