ガバッと上半身を勢いよく起こす形で俺は目を覚ました。頭の中身がぐわんぐわんと振動しているかのような錯覚に陥りつつも、俺は真っ先に周囲の状況を確認する。全身ぐっしょりと汗を掻いているらしい。水分を吸った肌着が何とも心地悪い感触だ。けれど、それも今は些細なことに過ぎなかった。
目を覚ました場所は自室である。やはり昨夜真生に力を吸い上げられた後、そのまま眠りに付いたようだ。
そうは言っても、どこまでが現実世界の出来事で、どこからが夢の世界の出来事かは、非常に曖昧だった。窓からは朝日と思しき太陽光が差し込んでいて、耳を澄ますとまだ鳥の囀る声がした。しかしながら、だからと言って、ここがまだ「俺の夢の世界」でないと断言はできない。
床の上にゴロンと横になっていた俺にはタオルケットが掛けられている。少なくとも、有樹が俺の部屋を訪れ真生と一緒に出て行った辺りまでは現実世界での出来事で良いのだろう。そして、恐らく、そこから先は全てサクラの干渉によって体験した夢の世界の出来事だと思う。
ふと、俺は人型サクラと対話した夢の世界のことを思い出す。自然と目が留まったのは自室の扉だ。恐る恐る扉の前まで行くと、選れ派意を決して扉を開いた。当然、そこには誠育寮の廊下が存在しており、思わず安堵の息が漏れた。
一安心したことで、全身からはふっと力が抜けていた。尤も、まだ体の火照りは完全に収まっていない感じだ。
そのまま「もう一眠りしようか」とも考えたけど、まず何より汗で湿って肌へとまとわりつく肌着を着替えてしまいたかった。力一杯絞ったら、ポタポタと汗の滴が床に落ちるんじゃないかとさえ思える湿り具合なのだ。
あんな悪夢を見せられたのだから、それも当然だろう。
本当に、夢で良かった。ただただそう思うばかりである。
着替えの入った鞄を求めて、俺は自室内へと目を走らせる。すると、それは窓際に発見できた。
火照った体を冷やすため外の空気を吸うのも悪くないか。
ふと、そんな考えが脳裏を過ぎる。汗で濡れた体に取って早朝の外気温は、まだ肌寒いと感じるかも知れない。それでも、未だモヤモヤがついて回るこの頭をすっきりさせるには、ちょうど良いはずだ。壁際で横になって眠る真生の姿も目に付いたけれど、部屋が冷え切る前に切り上げてしまえば問題ないだろう。
そんな思考に背中を押され、いざ窓際まで足を運んだものの、開閉装置の取っ手へと手を伸ばしたところで俺はピタリと固まる。窓硝子に映った自分の頭の上に、蜘蛛バージョンのサクラが乗っ掛っていたからだ。
引っ剥がして床に叩き付けてやる。そんな決意が固まるまでに、俺は僅かな時間さえも必要とはしなかった。そして、サクラに勘付かれないよう細心の注意を払いながら、俺はゆっくり頭部へ手を伸ばす。
しかしながら、サクラはそんな俺の挙動を生意気にも敏感に察知したらしい。後一歩というところでピョンッと飛び退かれてしまった。そして、そこを境に、部屋の空気は一変した。瞬時に緊迫感が部屋を包み込んだ形だ。
ここは夢の中の俺の部屋ではない。横目で確認すると、ついさっきまで俺が横になって眠っていた付近には、泰治カスタムも転がっている。
サクラに気取られる前に、泰治カスタムを拾い上げる必要があった。反復横跳びの要領でひらりと泰治カスタムまで移動すると、俺はサクラの一挙手一投足に注意を払いながらそれを利き手で拾い上げる。
サクラは一度ビクッと体を横に震わせるものの、部屋の扉も窓も閉め切られた状態だ。逃げ場などない。
俺に取って、非常に優位な状況が整った瞬間だった。ゆっくりと見せ付けるように、泰治カスタムの銃口をサクラへと定める。夢の世界でサクラがそうして見せたように、今度は俺が悦に入る番である。
「やあ、サクラ。さっきはありがとうな。無事、こうして目覚めることができたよ。そして、……さよならだな」
即興の決め台詞を口にした後、俺は躊躇うことなく泰治カスタムの引き金を引く。
泰治カスタムが火を噴いた!
サクラに会心のダメージ!
そうなるはずだった。しかしながら、肝心の泰治カスタムは「パスンッ」と気の抜けた音を響かせただけで、弾丸を射出しない。もう一度慌てて引き金に手を掛けるけど、今度はさっきよりも酷い「パシュウ」と気の抜けた音が鳴る。
「クソッ、ガス切れか! 弾切れか!」
咄嗟にどちらか判断できないことで、俺はことにあたって対処に戸惑う。俺がそんな不手際を演じたことで、状況は再装填を阻止すべくサクラが飛び掛かってくるといった泥沼へと発展した。
けれど、そんなサクラの攻撃も不発に終わる。
どこを狙って飛び掛かってくるかが予測できたからだ。飛び掛かってきたサクラを、俺は運良くガシリと掴み取ることができた格好だ。余りにも呆気なくサクラを捕獲することができてしまって拍子抜けしたものの、俺は全身全霊を持って振りかぶると、サクラを部屋の壁目掛けて投げつけた。
ベシッと音が鳴った後、サクラはポトッと床に落ちる。
不意に夢の世界で出会った人型サクラの膨れっ面が脳裏を過ぎったけれど、それも壁に向かって投げつけた後のこと。寧ろ、夢の世界でいいようにしてやられた場面が浮かび上がってきて、俺は鼻息を荒くしたぐらいだった。
「わははは、この昆虫モドキが、人間様を舐めるなよ!」
サクラを壁へと叩き付けた俺は、悦に入って勝ち鬨を上げる。両手を高く突き上げて勝利の喜びを味わっていたけれど、その高揚感も長く続かない。
ちょうど目を覚ましたらしい真生が、状況を把握するべく鋭い目付きでこちらを見ていたからだ。当然、ふるふると肩を振るわせる真生からは、怒号が響き渡る。
「何やってんの、お兄ちゃん! またサクラを虐めて!」
目に見えないだけで、真生からは闘気が吹き出している気がした。生半可な威圧感ではない。それこそ、下手な受け答えをしようものなら「ただでは済まないだろう」と、俺は内心覚悟したぐらいだ。
但し、こっちにも言い分がある。認められようが認められまいが、とにかく言うだけは言っておかないと俺としても気が済まない。
「い、虐められたのはこっちだぞ! 俺の夢の中だったとは言え、こいつ、何人も葬ってそうな禍々しさ全開の棍棒で俺に渾身脳天割りをお見舞いしたんだぞ! 生きた心地がしなかったよ!」
サクラはサササッと真生の背後に隠れるように移動する。それは恰も「俺に虐められました」という態度を真生へと訴えかけるかのようだった。
そんなサクラの行動には内心カチンと来たけれど、俺が怒りに任せてサクラを非難することはなかった。
はっきりそれと解るレベルで、部屋の空気が変わったからだ。
具体的には、真生から闘気が消えたと言えばいいのだろうか。俺の主張を聞いた真生は、一目で驚いたと解る反応だった。そして、サクラへと目を向けた真生の表情には当惑が見え隠れする。
サクラの主張に比重を置いて烈火の如く怒るかと思っていたから、俺はそんな真生の反応に呆然となる。
「どうしたんだよ、小難しい顔して?」
「……ううん、サクラがあたしの命令以外のことをするなんて初めてだから、ちょっと戸惑ってるだけ」
戸惑っていると言った言葉は、これ以上ないほどに真生の心中を表していただろう。
俺の目には真生を見返すサクラの様子はいつもと何ら変わらないように見える。真生が知らないだけでサクラは裏で色々やっているかも知れない。夢の中でサクラが語った内容の中に、色々と思うところがあって俺はそんな思いを強くした。尤も、余計なことを口走って藪を突くつもりはない。
サクラへと目を落とす真生の表情は冴えないけれど、俺は何食わぬ顔をしてそのままやり過ごすつもりだ。せっかくサクラを壁に叩き付けた俺の所業に対する非難が、幸運にもそこで立ち消えたのだ。
しかしながら、ふと盗み見た真生の様子に強い違和感を覚えたことで、俺の「藪を突かず黙りを決め込む計画」には狂いが生じる。昨日の服装と違っていること自体は、有樹の手によるものだろう。それは問題ではない。問題なのは、今の真生の格好がつっこみどころ満載という点だ。ふと気付けば、俺はそれを言及していた。何より嫌な予感もする。
「というか、……真生、さん。何なの、その格好?」
俺に指摘をされた時点では、真生はまだ冴えない表情をしていた。けれど、服装の話題に触れられたことを理解すると、一気にその表情を明るくする。
「ああ、これ。ふふ、可愛いでしょう? 有樹さんが既製品をベースに改良して作ったものなんだって。凄いよね」
可愛いかどうかという点だけを考慮するなら、確かに「可愛い」ことは間違いない。しかしながら、可愛いは正義なんて宣う輩もいるけれど、許容してはならない部分もある。
真生の服装は、まるでどこかの高校の女子用ブレザー制服と言わないばかりだった。いや、それを模して作られているのは間違いない。そして、その事実は俺に取って「可愛い格好だ」の認識だけで、看過してしまっていいものではない。
パッと見では、茶色のブレザーに緑を基調としたタータンチェックのスカートといった組み合わせは見覚えのない制服である。けれど、ふと「もしかしたら……」という思いが脳裏を過ぎり、俺は窓際に置かれたままの鞄を漁った。目的のものは、永曜学園のパンフレットだ。
俺の記憶が正しければ、そのパンフレットには如何にも模範といった感じでビシッと制服を着こなした男女が一組印刷されていたはずだ。首尾良くパンフレットを探し出すと、俺はそこに印刷された制服と真生が着るブレザー制服とを見比べた。真生が着こなす女子用ブレザー制服が永曜学園指定のものではないことを確認すると、俺の口から安堵の息が漏れる。
「良かった、やっぱり永曜学園の制服じゃないよな」
安心したら安心したで、今度は俺の好奇心が首を擡げた。そんな好奇心に背中を押されるまま、俺は真生に尋ねる。
「……一体どこの学校の制服なんだ、それ?」
「さぁ? 知らないけど」
それは興味がないといった真生の受け答えだった。
俺は首を捻る。
真生は本当に、それを「可愛いから」という理由だけで選んだのだろうか?
有樹にしても、その衣装の詳細を真生へ語らなかったのか?
改めて、真生の様子を上から下まで眺めていくと、思い掛けずドキリとさせられる部分があった。膝上数センチのスカート丈なんて、このご時世驚きもしないけれど、茶色と白色とで混成されたチェック柄のハイソックスだとか、胸元を飾る緑と黒のリボンだとかそう言った見慣れないものがそれに当たる。
「有樹はこんな服を珠樹ちゃんに試着させてるのか。有樹の趣味、ではないんだよな。そうなると、珠樹ちゃんの趣味ってことになるけど、これは……」
言葉を失う俺の目の前で、真生は服装を見せ付けるかの如くくるりと回転して見せる。
「最初は有樹さんも「愚妹の趣味でオススメできない!」みたいに反発してたんだけど、最終的には気に入ってくれたみたいだったよ。「やばい、もう直視できない。反則的な可愛さだ」って言って引き下がったからね」
真生による有樹の物真似は声色だけだったものの、悶える有樹の姿は安易に想像できた。同時に、珠樹ちゃんの趣味を「可愛い」と認めてしまったことで、自己嫌悪に陥る有樹の姿も想像に難くなかった。
真生が俺の目の前で回転して見せたことで、外観を眺めるだけでは気付かない部分に、あちこちカスタマイズが為されているのがいくつも目に付いた。例えば、それは背中から腰に当たる部分に羽根の刺繍が入っていたりといった具合だ。恐らく、コスプレという奴だろう。
「触れてはならない珠樹ちゃんの趣味に触れた気がする。……と、いうか! どうして、真生はその格好を選んだんだよ。夜間にその格好で出歩いてみろ、この学園都市なら間違いなく補導されるぞ?」
「可愛いからだよ? それに、永曜学園にいた人達もみんなこんなような格好だったよ? その場にそぐわない格好だと、色々とまずいでしょう?」
その服を選んだ理由について薄々嫌な予感はしていたのだ。けれど、それがものの見事に的中したことに、俺は深い溜息を付くしかなかった。心なしか、頭も痛いような気がしたのも、気のせいではなかったかも知れない。
何が色々まずいというのか、俺は真生を厳しく追求する必要がある。そして、何も解っていない真生に教え込まなければならない。今の真生の格好であっても、永曜学園の生徒群に混ざるには十分そぐわないのだ。真生の潜入を許すつもりはないけれど、万が一潜入を試みるというならそもそもベースがぴったり同じでなければ意味がない。
どこから手を付けるべきか迷う俺が手当たり次第にその間違った認識を指摘しなかったのは、真生がさらに俺を脱力させる質問を向けたからだったろう。
「そもそも、補導って何?」
首を傾げて見せた真生を前にして、再度俺は深い溜息を吐き出した。
そして、俺が補導の意味について説明しようとした矢先のことだ。俺は真生の足下に存在する蜘蛛の存在に気付た。そいつは俺に気付かれたことを察すると、サクラのように真生の後ろへ隠れるように移動する。尤も、真生の足下に隠れることのできるサイズではないため、そうやって移動しても反対側からは逆の端が覗く形だった。
何の前触れもなく新種の蜘蛛が出現したことに、俺は思わず息を呑む。そこに居たのがサクラだったなら、そんな反応はしなかっただろう。良くも悪くも、さすがにサクラはもう慣れた感がある。
全体的な形状はサクラとそう変わらないように見えたけれど、そいつはサクラよりも遙かに巨大だった。実際の生態系の中で本物の蜘蛛として存在していたなら、小型犬や猫を始めとした小動物を捕食していてもおかしくないサイズなのだ。
毒々しい薄紅色をまとうサクラとは色も異なり、全体的に落ち着いた群青色をしている。ただ、透き通るような青色の模様と、サクラを彷彿させると黒色の線があり、形状と合わせてサクラと同様の存在であることを強く意識させた。
冷静に分析してみたけれど、頭の中はかなり混乱していた。このタイミング、その場所に、どうして出現したのか。経緯が全く見えないこともあって、俺は新種の蜘蛛について恐る恐るという口調で真生に尋ねる。
「真生さん? 足下に何かサクラじゃない蜘蛛がいるんだけど……」
真生が意図的に出現させた可能性も否定はできない。従って、俺は真生の第一声を注意深く窺う格好だった。けれど、真生の反応は俺の斜め上を行く。
「およ、本当だね。サクラじゃない子がいる」
「……は?」
聞き間違えでないなら、真生は立った今その新種の蜘蛛を認識したのだろう。そして、それは即ち、真生が意図的に出現させたわけではないことを意味する。
注意深く成り行きを窺う俺の眼前で、真生は新種の蜘蛛の顔をマジマジと見つめながら眉間に皺を寄せる。
「んー……、でも、こうして顔を見せるの初めてじゃないかも知れないね。昔、どこかで見たことがあるようなないような……。いつだっただろう?」
新種の蜘蛛についての情報を、真生は簡単に思い出すことができないようだった。手掛かり探しは難航しているようで、断続的に唸り声をあげる真生は小難しい思案顔のまま固まってしまった形だ。真生の側頭部に浮かんだクルクル回転する砂時計の錯覚も、しばらくは消えそうにない。
俺はそこに口を挟むことを躊躇っていたけれど、痺れを切らす形で横合いから真生へ質問を向ける。
「なぁ、こいつ、サクラと何が違うんだ? 例えば、その、サクラよりも深層心理に近い部分へ食い込んでいくことができるとかさ」
直近の俺の興味は、既に「いつ出現させたことがあるか」なんてことではない。この新種の蜘蛛が俺達にどんな影響を及ぼすことができるかであり、さらに言えば最悪の事態を想定するとどんな状況に陥る恐れがあるかである。
もちろん、そのリサーチを真生に対して包み隠さず馬鹿丁寧に行うような間抜けな真似はしない。さも新種の蜘蛛に興味を持った風な態度を装い、オブラートに包んだ言葉を慎重に選りすぐるつもりだ。
「え? さぁ? ……大きさと、見た目の色、かな」
そうやって真意を隠すことまで配慮したにも関わらず、当の真生から返った言葉はまたも俺の想像の斜め上を行く内容だった。けれど、そんな真生の認識は俺に取って想定外でありながら、同時に安堵の息を吐かせる内容だ。
サクラよりも一回り、下手をすると二回りは大きいこの巨大な新種の蜘蛛の脅威が、物理的な側面での影響力の向上しか伴わないのであれば、寧ろ喜ぶべきことだ。当然、サクラよりも俊敏な挙動を見せたり、巨大化していることによる攻撃力・防御力や体力の上昇は想定されるだろう。しかし、それだけならば、まだ対処の仕様は楽な方だ。
真生から示された見解を聞いた俺は、内心ガッツポーズをする。
「色と大きさって、それだけか? それだけなのか! はは、何だよ、驚かせるなよ。それなら別に2Pカラーの色違いでいいじゃないか」
そして、実際に口を吐いて出た言葉も、その心情に準じたものだった。抑えきれないほどの安堵の気持ちが、態度にも滲み出ていたはずだ。
ふと気付くと、そんなテンションのおかしい俺の様子を、真生は眉間に皺を寄せる怪訝な顔付きで眺めていた。
俺は態とらしく咳払いをすると、慌ててその態度を引っ込める。そして、注意深く真生の様子を窺いつつ、仮に手厳しい態度で探りを入れられようとも泥縄式の対応にならないよう頭の中で何度もシミュレーションを繰り返した。
しかしながら、真生がそうして眉間に皺を寄せた理由は、俺が聞き慣れない言葉を用いたかららしい。
「2Pカラーって何? 色違いのことをそう言うの? でも、確かにそう言われてみれば、そうだよね。わざわざ分かれているからには何か理由があるのかな? ねぇ、……どうなの?」
俺が回答するまでもなく、真生は言葉の意味を「色違い」だと理解したようだ。そうして、俺の見解にも概ね同調したらしい。新種の蜘蛛の頭部にそっと触れると、真生はそれを確認するかのように問い掛けた。
ふと、そうすることで新種の蜘蛛と意思疎通ができるのかも知れないと思った。けれど、そういうわけでもないらしい。真生は間に思案顔を挟んだ後、新種の蜘蛛を見下ろしたままポンッと手を叩き聞き捨てならない提案を口にする。
「お兄ちゃんも気になっているみたいだし、試してみようか?」
恐らく、その提案は新種の蜘蛛に対して矛先が向けられていただろう。そう、俺に向けられたものではない。しかながら、この場にその「試す」という行動のターゲットと成り得る対象人物は俺だけだ。
そこを境に、部屋の中を漂う空気がぐぐっと重みを増した気がした。
背中に嫌な汗が滲む。
「断る! 却下だ!」
何はなくとも、先手を打っておくべきだと思った。明確な反対の意志を示すことで、真生の提案を引っ込められるとは思えないけど、だからと言って何もしないで事態が好転する可能性は皆無である。そもそも、俺が反対の意志を示さなければ、少なくとも新種の蜘蛛の能力を試すという真生の提案を許容することになるだろう。
新種の蜘蛛の力を試すことに対し、俺が反対の意志を示したことで、真生からは不穏な気配が漂った。スカートを翻しながら、その場でくるりと振り返り俺へと向き直った真生はにこやかに微笑んでいた。真生に「悪いことをしている」なんて感覚はないのだろう。
「まぁまぁ、そう言わずに試してみようよ。あたしもこの子がどんな力を持っているのか興味あるし、お兄ちゃんだって気になるんでしょう?」
真生は新種の蜘蛛を引き連れ、俺へと躙り寄ってきた。ターゲットは決まったようだ。
俺は引き攣った顔でジリジリと後退ることしかできない。
「止めろ! 人の嫌がることをしては行けませんって教わらなかったのか!」
「少なくとも、お母様からは教えられていないかなぁ」
おかんの名前を出した上で、真生は平然と「ない」と切り返した。ここにはいないおかんへ非難の矛先を向けても、どうにもならないことなんて解っている。それでも、俺はおかんに向けた苦言を口にせずにはいられない。
「おかんの馬鹿! それぐらい叩き込んでおけよ!」
あれよあれよという間に壁際まで追いやられ、既にこれ以上後退ることはできない状態だった。これで利き手を掴み取られでもすれば、良いように力を吸われた昨夜の二の舞だ。そんな窮地に立たされても、俺にできるのは強い非難を込めた目付きで真生を睨み見ることぐらいだ。
「なんだよぅ、お兄ちゃんだってさっき気にしていたじゃない?」
口を尖らせて不服そうな顔付きをする真生に対して、俺は吐き捨てる。
「それはそれ、これはこれだ!」
ここで引いたら、どんな目に遭わされるか解ったものじゃない。もう後がない意識という状況に支えられて、俺はどれだけ真生と睨み合っていたのだろう。実際の時間に換算してしまえば、それはほんの僅か間の出来事だったかも知れない。けれど、体感時間の上では非常に長い間そうしていたようにさえ思えた。
不意に、真生がふいっと視線を外す。俺の意志が非常に強固なことを悟り、ひとまずは新種の蜘蛛の試運転を諦めてくれたらしい。どうにか根気勝ちしたようだ。
「でも、まずは名前を決めようか」
そう言うが早いか、真生はそのまま新種の蜘蛛へと向き直ってくれた。そうして、新種の蜘蛛へと視線を落とすと、真生は思案顔に腕組みという格好で新種の蜘蛛の命名のため頭を捻る。
俺は一気に緊張から解放された形で、壁により掛かった状態のまま力なくずるずると崩れた。どっと疲れが襲ってきたのは言うまでもない。新種の蜘蛛の名前に興味を移した真生の様子をボーッと眺めていたけれど、名前候補はすぐに決まったようだ。短い唸り声の後、真生は「閃いた」と言わないばかり、高らかにそれを一つ口にする。加えて言えば、候補を口に出した勢いのまま、俺に同意を求めた形でもある。
「うむむむ……。凜(りん)! とか、いいと思わない?」
「どうして、その名前?」
同意を求められた俺は、新種の蜘蛛をマジマジと眺めた後、その名前の由来を真生へと尋ね返した。不似合いだとは思わないものの、新種の蜘蛛の外観からパッと思い付くような名前だとは思わなかったのだ。
「メタリックカラーの外観が見た目に凛々しいかなって思って。それに、凜って響きも格好良いよね?」
そう言われてみると、確かにしっくり来るように思えてくるから不思議なものだ。
難点を一つあげれば、凜という名前から性別の違いを判断するのが難しいことぐらいだろうか。ともあれ、新種の蜘蛛を凜と命名することについて反対するつもりはなかった。今から反対したところで既に凜という名前を「ピッタリだ」と考え始めている真生の意見が翻るとも思えないし、代替案も特に思い付かない
俺は凜という名前候補に同意すると、ついでに余計な火種を事前に消しておくべく性別について確認する。
「凜で良いんじゃないか。似合ってると思うよ。後、一応確認しておくけど、凜ちゃん? それとも、凜君?」
「そんなの見れば解るでしょう、凜ちゃんだよねー」
凜を抱き上げる真生は「呆れた」と言わないばかりの態度だった。
俺は真生の腕の中に大人しく収まる凜をマジマジと眺めるものの、性別の違いを区別できそうにはなかった。もし、後で機会が有れば、雑学にも詳しい有樹にでも蜘蛛の性別の見分け方を尋ねることにしようと思った。
そうこうしている内に、ふと俺は眼前で展開される光景が、余りにも異様なことに気付かされる。
「なんて言ったらいいか、……凄い組み合わせだよな」
どこかの映像作品から出てきたかのような胡散臭い制服に身を包む、見た目だけは女子高生。そんな風貌の真生が、小動物を捕食しそうな見た目は完全に巨大でグロテスクな蜘蛛を抱き上げて可愛がるという構図である。
真生は凜を抱き締めながら、すとんと腰を下ろした。そうして、しばらくはサクラとの相違なんかを確認していた真生だったけど、凜が部屋の様子なんかにキョロキョロと目を向け始めたことで、するりとその腕の中から解放した。
真生の腕から解放された凜はそのまま部屋の中を動き回るかと思いきや、俺の方へと向き直りそこでピタリと制止した。そして、凜はじーっと俺を注視する。妖しい気配をまとっているわけでもなく、円らな瞳で見上げてくるだけなので「こっちを見るな」と叱り付けるわけにも行かない。
真生は既に漫画雑誌へと目を落としていて、凜の行動を気にしている様子はなかった。凜に対して何か指令を下しているというわけではなさそうなので、その行動は凜の意志によるものなのだろう。
何か気になることでもあるのだろうか?
俺もそろそろ誠育寮での新生活に向け、現時点で足りないものを見繕うとか色々とやっておかなければならないことがある。そういう経緯もあって、俺は凜の居場所を頻りに確認しながら確認作業に取り掛かったわけだけど、集中できないことは言うまでもなかった。
最初は凜のことを気にしないようにしていたんだけど、厄介なことに全く注意を払わないというわけにもいかない。ついさっきの「試してみようか?」という真生の台詞が尾を引いていた。いつ真生の気が変わって、素知らぬ顔で凜を俺へ飛び掛からせるか解ったものではない。
そして、凜の位置確認が軽く一桁も後半に差し掛かろうかという矢先のこと。流し目で位置確認をした凜が、俺の方へと移動してきていることに気付いた。しかも、てくてくと近付いてくる「現在進行形」だ。
「ちょ、ちょっと、真生! 何か凜が俺の方に近寄ってきてるんだけど……」
凜は特に俊敏さを発揮するわけでもなく、ゆっくりと俺の足下までやって来た。
俺は凜を警戒しつつも、追い払うタイミングを完全に逸した形だ。
そうして、サクラが真生に対してそうするように俺の足にじゃれるようにまとわりついた。
「な、何企んでやがる!」
俺はその言葉を凜と真生の双方に向けた。凛と真生、どちらの意志でそうやって擦り寄ってくるのかが判断できなかったからだ。そうは言っても、人型サクラでもない凜と俺が意思疎通などできるわけもなく、その追求に反応するのは自然と真生になる。
「凜には何も指示を出していないよ。だから、凜、お兄ちゃんのこと気に入ったんじゃないのかな」
思わず「冗談じゃない」と口走りそうになって、俺は口を噤んだ。その台詞を口走れば、真生の機嫌を損なうだろうことは火を見るよりも明らかである。それに、余計な対立を回避できるという点では、気に入られるということも一概に悪いこととは言えないだろう。
凜が俺を気に入ることで適度な距離を保ち、過度に干渉することなく、さらに欲を言えばこうして頻繁に出現せず真生の影の中にずっと居てくれるなら、それは願ったり適ったりだ。一頻り考え込んだ後、俺は凜に接触を試みることにする。
「そっか。凜、俺のこと気に入ったのか……?」
前屈み気味に体勢を取り、俺は凜に向かって手を伸ばした。
ひょいっと音もなく凜が俺に向かって飛び付いてきたのは、その矢先のことだった。恐らく、真生がそうしたように抱き留めてくれるとでも思ったのだろう。
「うっわぁ!」
俺は頓狂な声を張り上げると、半ば無意識の内に凜を払い除けていた。加えて言えば、俺の胸元からは泰治カスタムも出てきた形だ。尤も、サクラに向けてしょぼくれた音を出した時からメンテナンスしていないので、実際に弾丸を撃ち放つことはできない。
凜は何事もなかったかのようにスタッと着地して見せたけど、割と強烈な不意打ちを食らったはずだ。なにせ、俺が払い除けた際には「バシッ」とかなり鈍い音が響いたのだ。
俺の突然の拒絶に対して凜は真生の方へと走り去ることもせず、危害を加えられたことに対して威嚇めいた行動を取ることもしなかった。そして、それは俺に泰治カスタムの銃口を向けられてなお、変わらない。
けれど、その一部始終を目の当たりにしていた真生が、代わりと言わないばかりに烈火の如く怒る。
「何やってんの、お兄ちゃん!」
それは、まさに怒号と呼ぶに相応しい声だった。ほぼ反射的に、俺の体がビクッと震わたぐらいだ。
「どうして、サクラにしろ凜にしろ、そうやってすぐに威嚇するの!」
目を釣り上げて怒り心頭と言わないばかりの真生から激しく非難され、俺は言葉に詰まりたじろぐ。
「だって! だって、いきなり、飛び付いてくるから!」
「そんなの、お兄ちゃんが凜に受け入れてあげるよーって態度を見せたからでしょう!」
意図的ではないことを必死にアピールするも、真生の気炎は全く収まる気配を見せなかった。必死の弁解も「俺の方に問題があった」と一喝されてしまえば、既に言い訳を続けられる状況ではない。「故意ではなかった」という弁明も主張として間違ってはいないものの、凜をはね除けたことも確かな事実なのだ。その罪悪感が重くのし掛かってきた形だった。
しかしながら、凜に向き直り「何をすればいいか?」が判断できない。言葉で謝れば気持ちは伝わるのか。それさえも、あやふやだ。尤も、真生へ与える印象的には、口にしないよりかは良いだろう。そうやって凛を払い除けはしたものの、俺にはまだ「今後のことを視野に入れて友好関係を築きたい」という意識もあるわけだ。
真生に「どうすれば良いか?」を尋ねようとした矢先のこと。「ガチャッ」と音を立て、部屋の扉が唐突に開いた。
「本当に朝っぱらから騒がしい部屋だよね、ここは。もう起きてるみたいだから部屋に入るよ、言規?」
そこに呆れ顔を覗かせたのは泰治だった。入室許可を事後承諾という形で求める泰治の後ろには、有樹の姿も確認できる。そして、有樹は泰治の横をするりと擦り抜け、俺の返答を待たずに部屋へ足を踏み入れる。既に部屋の扉が開けられている状態であり、泰治の確認に今更感が漂ったからだろう。
「おはよう、真生ちゃん。そして、おはよう、言規」
「おはようございます、有樹さん、泰治さん」
真生はついさっきまでの憤怒の形相をふわっと掻き消してしまうと、柔らかな物腰に丁寧な口調で挨拶を返した。
「おはよう、真生ちゃん。……って、何なの、その格好!」
「これですか? ふふ、可愛いでしょう? これ、有樹さんが見繕ってくれた服で……」
泰治が服装に触れたことで、真生はぱぁっと顔を明るくした。そうして、長々と服装の説明を始めてみせたはいいものの、聞き手である泰治はほとんど聞き流す感じだった。代わりに、泰治からは有樹に対して非難の籠もった冷淡な視線が向けられていた。言葉にすると「真生ちゃんになんて格好をさせているんだよ!」といった感じか。尤も、有樹にも「俺のオススメじゃない」だとか、色々と言い分もあるだろう。
ともあれ、有樹と泰治の出現によって、凜のことはうやむやになるかも知れない。そんな淡い期待が俺の脳裏を過ぎる。服装の話題が今朝方のサクラ虐待疑惑を華麗にうやむやにした実体験も、その期待を支えてくれた形だ。
けれど、話に一段落が付いた後、改めて俺へと向き直る真生からは、既にその柔らかな物腰は消えていた。俺を見る真生の目付きは険しいままだ。
「さてと、凜の件に戻ろうか、お兄ちゃん?」
スパッと感情を簡単に切り替えて見せた真生の変わり身の早さに、俺は思わず苦笑した。服装の話題を持ってしても、今回は逃れられなかったようだ。
聞き覚えのない凜の名前を真生が口にしたことで、有樹と泰治はそれぞれ物怪顔で部屋の細部へと目を向けた。すぐに、二人は幽霊でも目の当たりにしたかのように、その目を丸くする。
「でかッ! もう妖怪レベルだよ、これ」
「凜っていうのは、あれか。……確かに、その辺の子供を襲ったと言われても驚かないぐらいにはでかいな」
今回の騒がしさの原因となった凜の姿は、二人の目にもきちんと見えるらしい。そこでは凜に対するあまり好ましくない議論が展開されようとしていたものの、幸いなことに真生の耳まで届いて機嫌を悪化させることには繋がらなかった。
「凜。お兄ちゃんね、今度はちゃんと抱き上げてくれるみたいだよ」
真生がそう背中を押したことで、凜は再度ゆっくりと俺の足下までやってきた。後は俺が前屈みになって凜を受け入れる姿勢を取るだけなんだけど、……踏ん切りが付かない。相変わらず円らな目で俺をジーッと直視する凜を前に、俺はどうしても抱き上げることを躊躇わさせるを得なかった。仕方ない、感覚的なものだ。
けれど、痺れを切らした真生からは非難にも似た催促が向けられる。
「凜を払い除けた罰だよ、ちゃんと抱き上げること! 大体、どうしてそんなに緊張するの? ほのぼのとしたただの触れ合いだよ?」
突き刺さるような真生の冷淡な視線に晒され、俺は腹を括った。
前屈みの体勢を取ると、凜はすぐにさっきと同じように飛び付いてきた。そして、俺の腕の中へスポッと収まってしまえば、後はじたばたと動き回るようなこともない。凜は非常に大人しかった。尤も、それにも関わらず、俺の方は平常心でいられなかった。凜を抱き上げたことで、どうしても自然と顔が強張ってしまうのだ。
真生からジト目で睨まれることもあって「表面上だけでも楽しそうにしなくてはならない」と自分自身を言い聞かせるけど、こればっかりはどうしようもなかった。意識しないと引き攣ってしまう表情を、何とか自然に見えるよう四苦八苦する俺の様子はさぞかし滑稽だったはずだ。
救いだったのは、凛との触れ合い自体は非常に有益な収穫を俺にもたらしたことだ。
俺が温かいと感じるほどの体温が凜に備わっていたこと。その外見から勝手に堅そうなイメージを抱いていたけれど、全身を通して犬や猫といった哺乳類を抱き上げているかのような柔らかさがあること。
それらを通して解ったことは、やはり見た目が蜘蛛形状なだけで実際の蜘蛛とは一線を画す生物だということだ。
どうにか真生の険しい目付きも和らぎ、凜との触れ合いも様になってきたかと思われた矢先のこと。床の上に置かれた携帯電話が聞き覚えのある着信音を響かせた。おかんからの着信だった。
そして、今まさに携帯電話を拾い上げようとしたところで、俺はハッと我に返ってその手を止めた。俺が携帯電話を用いて通話することを嫌がって、今回も真生が「邪魔をするんじゃないか?」と思ったからだ。
過去の実体験を踏まえ、俺は真生の一挙手一投足に注意を向ける。当の真生はと言えば、キョトンとした顔付きで俺を見返す形だ。少なくとも、今回は俺の通話の邪魔をするつもりはないようだ。
若干の不安を残しつつも、俺は電話に対応するべく凜に床へ下りるよう働き掛ける。
「凜、……ちゃん。電話に対応しなきゃならないから、ちょっと降りて欲しいんだけど、いいかな? 凜ちゃん?」
しかしながら、凜は言うことを聞いてくれない。もぞもぞと俺の腕の中で体勢を変えただけで、一向に降りようとする気配はなかった。
そもそも、俺の言葉を凜が理解できているかどうかもまだ疑問が残る。夢の中で出会った人型サクラと同程度の知能を持っていれば、意思の疎通は何も問題ないはずだ。けれど、凜がサクラと同様だという確証は何もない。
放り投げてしまおうかとも思ったけれど、そんなことをすれば再び真生の機嫌を悪化させるだけだ。凜がその青い目で俺をジーッと見返したこともあって、俺は凜を床へ下ろすことを早々に断念した。結局、凜を片手で抱き上げたまま、俺はおかんからの着信に対応する。
「あー、おかん、俺だけど……」
「言規? 後で電話を掛けるなんて言ったきり、全然掛け直して来ないから何度もこちらから掛けたのよ?」
おかんは俺に喋らせる間を与えなかった。そして、電話越しのおかんの声には、心配から来る怒気が混ざっていた。
確かに、こちらから掛け直すと言って電話を切ってから軽く二日三日は経過していた。しかしながら、黒神楽に来てからこっち、密度の高い日々が続いていたのは紛れもない事実だった。それでも、何度か掛け直す機会があったのは間違いなく、ついつい後回しにしてしまったことも事実である。
「ああ、うん、ごめん、おかん。色々あって、今の今まで掛け直す余裕が全くなかったんだよ」
俺は連絡を取らなかったことに対して、素直に謝罪した。そこには、言い訳がましく「ああだこうだ」と理由を付けて、話を横道に逸れさせたくはなかったという思いがある。ここで雑談なんかを始めてしまったら、真生のことについて言及するタイミングを逸してしまう気がしたのだ。
おかんが仄かに怒気をまとう緊張感がある今だからこそ、これは切り出すべき話題だ。そう考えたのだ。
俺が電話を掛け直さなかったことに付随して、おかんには色々とぶちまけたい不満があるようだった。「言い足りない」と言わないばかりに口を開いたおかんの切り口には、長々と話が続きそうな気配が漂う。
「大体、母さん、言規が事前に黒神楽へ行くって教えてくれていたら……」
俺はすぅっと息を呑んで意を決すると、おかんの言葉を遮る形で話し始める。
「悪い、おかん! おかんの方から色々良いたことはあるのかも知れないけど、まず何よりも先に確認しておきたいことが一つあるんだ!」
おかんが押し黙ったことで、そこで一度プツッと話は途切れるものの、俺が切り出す話題についておかんは予感めいたものがあったらしい。直ぐさま、返す言葉で真生の名前を口にする。
「……真生のことね?」
おかんのその一言は、真生の主張の大半が間違っていないだろうことを俺に予感させた。サクラがもたらした過去を手繰る夢の旅での光景も、恐らくは実際に体験した本物の出来事で間違いない。
おかんが真生の名前を口にした今、もう後には退けなかった。真生やサクラとの対話の中で、今の今まで積み重なってきた疑問を一つ一つ言及していくことにしよう。
「どうして、地元では真生の存在を俺に隠していたんだよ?」
「勝手な話かも知れないけれど、言規には母さんと同じ道を歩いて欲しくはなかったの。真生の存在を言規が受け入れることは、少なからず言規が「普通」を失うことに繋がってしまう。例え、真生が能力を使うことなく普通の人間と同じ生活をしたとしても、良くも悪くも真生は必ず言規の生活に影響を及ぼしてしまう」
真生の存在を隠した理由をおかんから聞いて、真っ先に俺の脳裏を過ぎったものが一つあった。それは、真生が「陣乃」の家について語った術者の家系という言葉だ。
では、その血筋から来る影響を俺から取り除くため、真生を犠牲にするやり方を許容できるか?
そんなことがあっていいわけがない。
「だからって、真生の存在を俺の記憶の中から完全に忘れさせてしまうなんてやりすぎなんじゃない?」
「そうね、言規の言い分も尤もだと思う。それでも、母さんは言規に母さんの家の影響を受けて欲しくはなかった」
俺の非難に対するおかんの口調は、普段見せることのないものだった。表面的な部分だけを聞いて判断すると、それは信念に裏付けされた付け入る隙のない言葉のように感じるだろう。「譲れぬ理由があったから」と強く正当性を主張し「何も間違ってはいなかった」と結論づけてしまったかのような印象を受けるかも知れない。けれど、聞く人が聞けば、その裏側に雑多な感情がひしめく様子を、容易に透かして見ることのできる言葉でもあった。
ともあれ、真生の存在を隠したのには、おかんなりの確固たる決意と理由があったことを俺は改めて理解する。尤も、真生だっておかんの娘なのだ。それは当然だろう。
引っ掛かるのは、おかんが挙げた理由だ。加えて言えば、おかんがその「影響」とやらについて自発的に言及しなかったことは、俺に「聞かないで欲しい」と強く訴えかけているかのような錯覚を与えた。
影響について問い掛ければ、おかんは答えてくれるだろうか?
俺は首を横に振った。今は俺のことよりもまず、真生のことについてはっきりさせて置くべきだ。
これから先、俺と双子の妹である真生との関係をどうするつもりなのか。
まずは、そこを言及する。
「でもさ、もう真生のことを思い出しちゃったんだから、今からまた俺に「忘れろ」なんて無茶苦茶なことは言わないんだよね? 俺が地元を離れて、黒神楽で新生活を開始するっていうのはこれとない転換点かも知れないよ、おかん。その、……ここでは、俺が真生を忘れるよう仕向けたお呪いが通用しなくなるんだろう?」
当然、俺が真生を認識することに対して、おかんからは諦めにも似た許容の言葉が続くと思った。もう既に「認識してしまった」という否定しようのない事実があるからだ。
けれど、おかんは電話の向こうで押し黙る。そこには重い沈黙が生まれた。
その沈黙に耐えられず、俺はおかんの名前を口にする形で結論を急かす。急かすことで「仕方がない」という妥協を引き出すことができると思った。
「……おかん?」
「言規がそこまで言うのなら、母さんも考え直すことにする」
おかんはそれだけを口にすると、再度押し黙った。
重苦しい雰囲気は微塵も払拭されない。おかんから、妥協を引き出せなかったからだ。「考え直す」とは即ち、俺が黒神楽で真生の存在を認識した今になってなお、真生の記憶を忘却の彼方へ追いやるつもりだったという意味だ。
そして、今なお、おかんがそうあるべき姿として考えるイメージの一つは「俺の中の真生の記憶を忘却の彼方へ追いやる」ことだと言ったに等しい。
俺は顔を顰めざるを得なかった。
そもそも、ここ数日間で凄まじいまでのインパクトを伴った真生の記憶を、忘却の海へ沈めることなんてできるのだろうか。サクラにしろ、凜にしろそうだ。この言い方が正しいかどうかは検証の余地があるけど「彼女達」を忘れることなど可能なんだろうか。もし、それが可能だというのなら、おかんは俺に何をするつもりなのだろうか。
不意に、もの恐ろしさが俺の背後を襲う。
追い打ちを掛けるかのように、おかんは重い口を開き妥協することを渋った具体的な理由について語る。
「言規が黒神楽で新生活を送ることになると、真生を蔵元町に縛り付けることができないの。詳細は割愛するけど、もしそれをやろうと思うと、かなり大掛かりな方法を用いて本格的に真生を封印しなければならなくなるわ。良くも悪くも言規の影である真生は、長期に渡って言規から離れるということができないのよ。だから、言規が真生のことを忘れないというのであれば、真生も黒神楽で生活させる必要がある」
俺は喉の奥まで出掛かった軽薄な言葉を飲み込む。真生も黒神楽で生活させればいいじゃないか。脳裏を過ぎったのものはそんな内容だ。けれど、安易にそうさせないからには、そうさせないなりの理由があるはずだ。
「真生を言規と一緒に黒神楽で生活させるにはいくつか問題があるわ。そして、言規がその問題を取り除こうとすると、やらなければならないこと、学ばなければならないことがたくさんある。今は言規に及ぶ影響が必要最低限になるよう、母さんが真生を支えているの。けれど、真生が完全に蔵元町を離れることになれば、母さんには真生を支えることができなくなるわ。つまり、言規一人で真生を支えなければならない」
俺の想像通り「そうさせない理由」は、おかんによってすぐに語られた。
そして、そこで一度言葉を区切ったおかんは「俺がネックになっている」と総括する。
「はっきり言うわね。今の言規には、司護としての真生の存在を支える力がないわ」
今の俺が一人で真生を支えると「どうなるのか?」を確認する勇気はなかった。俺はまず結論を求める。前を向いたと言えば聞こえは良いけど、そうやって聞きたくないことから耳を背けただけとも言える。
「……真生を支えるために俺がしなければならないことって、一体、どんなこと?」
「そうねぇ。まずは言規の体に流れる母さんの家の血を覚醒させる必要があるわね。本来は数年単位でゆっくり能力を高めるべきだけど、永曜学園入学まで時間がないことを考えると、そんなことも言ってられないわよね。母さんの昔の知り合いに修道場を開いた人が居るの。そこで地獄の修練コースを受講させて貰えば、言規もすぐに母さんの家系に起因する何らかの能力に目覚めるはずだわ。屈強な精神力と比類なき信心深さを持つ他派の狂信者があまりの苦行に三日と持たず根を上げたと一時期評判になったけど、大丈夫、言規は母さんの息子だもの。信じてるわ」
おかんによって提示された「為すべきこと」は、俺の首を横に振らせるために誇張されたものであって欲しかった。けれど、おかんの口調に俺を捲し立てるようなイントネーションはない。地獄の修練コースとやらを免れても、それ相応のものが必須となるのは間違いないようだ。
「……」
俺が絶句していたことなどお構いなしに、おかんは地獄の修練コースとやらの受講を前提に話を続ける。
「それでも、本当なら最低一年間は時間が欲しいわね。そうね、夏休みとか冬休みはまるっと地獄の修練コースに充てるのが良いわね。言規の顔が見られないのは母さん寂しいから、一日二日だけは実家に戻ってくるよう調整して、後はひたすら缶詰。うん、それがいいわ。真生のため、そうなっても言規は構わないというわけね?」
言葉の最後でおかんに念を押され、俺は引き攣った顔で押し黙るしかなかった。おかんから提示された内容は、安易に頷くことのできるものではない。けれど、反射的に真生の様子を横目で確認してしまったことで、ばっさり切り捨てることもできなくなる。
真生は期待の籠もったキラキラと輝く目で俺を注視していたのだ。
さらに言えば、真生の横に立つ有樹からも強烈なプレッシャーが向けられている。傍目には拱手傍観しているように見えるものの、俺が真生の期待を裏切ろうものなら胸倉を掴み掛からんばかりの勢いで迫ってくるはずだ。
俺は答えに窮する。ふと、別に今の今まで居なかったんだから、これから先も同じように居なくたって問題ないんじゃないか。そんな駄目思考が脳裏を過ぎった。そして、異変が俺を襲ったのはまさにその矢先のことだ。
胸を張り「当然だ!」と答えなければならない。不意に、そんな衝動に襲われたのだ。何について「当然だ!」と胸を張るかについても不明。それなのにも関わらず、兎にも角にも「断言しなければならない」という強い衝動だ。
俺は必死になって抵抗を試みる。
それは俺の真意ではない。別の誰かが俺に言わせまいとする言葉だ。そうして、この場で俺にその台詞を声高々に喋らせて、得をするのは誰だろうか。言うまでもない。こんな超常現象チックな手段を実行することができるのは誰だろうか。言うまでもない。そうだ、思い当たる節など一人しか居ないのだ。陣乃真生、その人である。
俺の口から「当然だ」という一言を喋らせようと、頻りに訴えかける主張は凄まじいまでの強制力を伴っていた。それこそ、意識をしっかり保っていないと、口が勝手に動き出してすぐにその言葉を口走ってしまいそうになるほどだ。
「と、とと、とととうとうとうとうとうととと」
どうにかその強制力に抗おうとするものの、既に俺の口先からはいくつか音節が漏れ出ていた。
けれど、それが形として意味のある言葉にならなかったことで、有樹と泰治から奇異の視線が向く。
「こ、言規? おい、大丈夫か?」
「言規がバグッた!」
すぐにその奇異の視線は、俺の異変を心配するものに取って代わる。
「再起動だ、再起動するんだ!」
泰治の目茶苦茶な指示に、混乱した真生からは不穏な言葉が漏れる。
「えっと、どうすればいいですか? お兄ちゃんが意識を失うようにすればいいですか?」
不安げな表情を装い有樹に是非を問う真生の様子を「白々しい」と思いながら、俺はどうすることもできない歯痒さを味わっていた。できることは「思い通りになんてならないぞ!」と意気込み、ひたすら抵抗することぐらいだ。
「よし、斜め四十五度の角度から後頭部を目掛け、垂直に渾身の力を込めてチョップを叩き込むんだ」
有樹も大概混乱しているようだった。有樹が真生に向けて真顔で口走った言葉は、思わず耳を疑う内容だ。
そして、余りにも根拠の薄い適当なことを宣う有樹に非難を向けようとした矢先のこと。強制力に押し切られてしまいそうになって、慌てて俺は平常心の保持を意識した。そもそも冷静になって考えてみれば、体の自由を奪われている以上、物理的に有樹を非難できる状態でないことは明らかだ。
実は有樹も、その言葉を「喋らせられた」のかも知れない。俺は真生の策動を勘繰った。
俺の意識を有樹の言動へと惹き付けて、強制力に抗う意識を減衰させることが目的だったとすると、余りにもお粗末な有樹の見解にも容易に説明が付くのだ。
そして、俺の平常心に揺さ振りを掛けるかのような、言動はまだまだ続いた。ビシッと手刀を繰り出す構えを取って真生が精神統一を図り、その切っ先を俺の後頭部へと定めたのだ。
「解りました、全身全霊を込めた会心の一撃を叩き込みます!」
真生が大きく腕を振り上げ、今まさに渾身の力を込めて手刀を繰り出さんとした矢先のことだ。
泰治が慌てて真生を制止する。
「ストップ! それ、古い電化製品が正常に動作しなくなった時の対処方法だろ! それで言規が元に戻るのか!」
まさに間一髪だ。
真生は意気込んで腕を振り上げた、その気合いの吐き出すところを失った格好だった。泰治の主張の正否について目顔で有樹へ問い掛ける真生の様子は「すっきりしない」と言わないばかりに口を尖らせた顔付きだった。尤も、その文句は有樹へと向けて貰わなければ、どうしようもない。
泰治に詰め寄られ、真生に目顔で確認されるという状況を前に、有樹は呑込み顔を見せる。
「案外、この手のことで通常状態に復帰すると思うけどなぁ」
そこには「あくまで推測だけど試してみる価値はあると思う」といった見解が続いた形だった。
何を根拠にそう思ったのかを追求したい衝動に駆られるものの、衝動の赴くままに腑を煮え繰り返すことさえ叶わない。平常心の保持に専念しないと、あっという間に意識を強制力によって持っていかれてしまうからだ。
これら一連の流れが真生の策動によるものだとするのなら、大した策士だと認識を改めざるを得ない。
不意に、携帯電話の向こう側から、俺の名前が連呼される。
「言規? 言規!」
おかんの言葉は俺を酷く心配する声色だ。
「まさか、もう既に、真生の精神操作を受けているの?」
そして、異変を感じたおかんが真っ先に疑ったのは真生だった。