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Seen07 サクラと行く過去を手繰る夢の旅


 どれだけの時間、そうやって横たわっていたのだろう。
 ふと、何かに名前を呼ばれた気がして俺は目を開く。すると、俺は真っ先に体が自由に動くことを認識した。
「動く! 体が動くぞ!」
 徐に上半身を起こしてみると、部屋の中は薄暗くまだまだ深夜の時間であると推測できた。窓から差し込む月明かりを頼りに部屋の様子を確認すると、俺は思わずギョッとする。壁際に、見知らぬ少女が居たからだ。
 最初は真生かと思った。けれど、出で立ちは元より、身長までもが異なるわけだ。真生よりも一回りは小さい。
 そいつは俺が目を覚ましたのを確認すると、ゆっくりとした動作で俺の方へと足を進める。そして、窓から差し込む月明かりに照らされるようになると、そいつの全貌が明らかになった。
 薄紅色のベスト、黒のミニスカートにレギンスという出で立ちだ。改めてその顔付きを確認するけれど、やはり少女に見覚えはない。内巻き気味のセミショートの髪型もそう、茶色がかった髪色にしてもそう。真生とは似ても似つかぬ風貌だ。唯一、強気な性格を相手に印象づける切れ長の鋭い目元は、真生が持つ雰囲気と似通っているかも知れない。
 ふと、俺は既視感に襲われる。いいや、既視感とまで言ってしまうと、それは語弊を招くだろう。それはあくまで「どこかでこうして面と向かって対峙をしたことがあるような気がする」といった程度の、漠然とした錯覚だ。真生の時に感じたような「見覚えがある気がする」という感覚よりも、ずっと曖昧だ。
 まだ何もものの置かれていない誠育寮の自室をぐるりと見渡してみるけれど、そこに真生の姿はなかった。きっと、まだ有樹か泰治の部屋に居るのだろう。
「誰だ、お前? 真生の、知り合いか? それとも……」
 警戒を向ける俺の態度に、少女は一瞬キョトンとした表情を見せる。そうして、少女は「呆れた」と言わないばかりに眉間に皺を寄せる。
「んー、本当に解んないの? あたしは陣乃サクラ」
「陣乃……、サクラぁ?」
 俺はその名前を聞いて露骨に嫌な顔をした。
 一方、サクラと名乗った少女はそんな俺の態度をマジマジと注視した後、不敵な顔付きを見せる。
「そうそう、今、言規が想像している対象で十中八九間違いないよ、そのサクラさんさ。まー、霞咲駅では駅のホームに叩き付けてくれたし、永曜学園では容赦なく銃撃してくれたりしたよねぇ?」
 少女の言葉を信じるのなら、形こそ違えど同一の存在なのだろう。サクラという同名の蜘蛛に対して実際に俺がやったことを、自身にされたこととして少女がすらすら語って見せたことからも、その事実は間違いないだろう。
 尤も、全くと言っていいほど、驚かなかった俺がそこにはいた。寧ろ、漠然と感じたものを「ああ、こういうことか」と納得したぐらいだ。加えて言えば、俺の直感も「捨てたものじゃないな」と感心したぐらいだ。
「何だよ、仕返しにでも来たのか? やろうっていうなら手加減しないぞ!」
 威勢の良い言葉を吐きながら、俺はこれみよがしに体制を整えようとする。
 実際に「泰治カスタムが火を噴いた」と相成るかはともかくとして、サクラが蜘蛛のサイズでない以上、標的が大きくなったことは好都合だ。尤も、サクラは「女の子」という風貌に変わったのだ。銃口を向ける俺がより激しい罪悪感に襲われるようになっただけで、何かにつけてやり難さを感じるようになっただけかも知れない。
 サクラは真生のそれを上回る不敵な笑みを口許に灯してみせる。
「虎の子の泰治さんカスタムもないっていうのに、あたしとやるつもり?」
 サクラの指摘に俺は慌てる。確かに、俺は泰治カスタムを携帯していなかった。その上、グルリと辺りを見渡した限り、目の付く範囲に置きっぱなしにしているということもない。
 こうなることを想定して、俺が目覚める前にどこかに隠してしまったのかも知れない。俺の手元に泰治カスタムがないことをサクラが指摘して見せた辺り、その可能性はかなり高いと思えた。
 いいや、隠されるだけならまだいい。永曜学園で銃撃されたことを根に持ち「いつか同じ目に遭わせてやる」と考えていたかも知れない。即ち、懐から泰治カスタムを取り出して見せて、俺へとその銃口を定めるとかね。
 寝起きだからだろうか、それとも一気に高まった緊迫感に起因するものだろうか。俺は喉の渇きに襲われる。
「舐めるなよ、銃がなくたって俺が簡単にやられると思うな」
 そう強がっては見せるものの、サクラも真生のような怪力を持っているとしたら勝ち目はない。そして、何よりもあの俊敏な動きは相当に厄介だ。蜘蛛型の時に見せた俊敏さを人型を取る今のサクラも保持しているかどうかは解らない。けれど、蜘蛛型サクラと同等の俊敏さを、真生は永曜学園で披露してくれている。今の人型を取るサクラも、同様のことができると考えて間違いないはずだ。
 十数秒に渡る睨み合いの結果、唐突にサクラは不敵な態度を改める。
「……まぁいいや、過去のことは水に流してあげよう。こう見えても、あたしは寛容なんだ」
 しかしながら、サクラが態度を改めたからと言って「はい、そうですか」というわけにもいかない。俺は警戒心を剥き出しにして身構えたまま、サクラの言動に注意を払っていた。尤も、当のサクラはそんな俺の態度を気に掛ける風もなく、一転して物腰を柔らかくすると、俺の前に姿を現した理由について話し始める。
「今夜は喧嘩をしに来たんじゃないんだよね。ちょっと真生ママのことで、言規に話があるわけさ」
「真生のことで?」
 俺の前に姿を現した理由を聞き、俺は一気に興味を惹かれた形だ。
 サクラは小さく頷く形で、聞き返した俺の問いを肯定する。そうして「話し合いに応じるなら、どうすれば良いか解るよね?」と目顔で俺に訴えた。サクラの不敵な態度は相変わらずだったけれど、俺も腹を決める。
「解った、話を聞くよ。過去のことは水に流そう。……というか、お前、人型にもなれるんだな」
 サクラとの対話を許容すると、人型サクラに対して色々と尋ねたい質問が湧いて出てきた。改めて人型サクラを上から下までマジマジと眺め見ると、蜘蛛型の時との相違に驚かされるからだ。
 しかしながら「人型にもなれる」という俺の認識を聞いたサクラは物怪顔だ。そして、間延びした声で聞き返す。
「人型ー?」
 挙げ句、サクラは俺のその認識をきっぱりと否定する。
「そんなの、なれるわけないじゃん」
 そう宣うサクラを前に、俺は思わず首を傾げた。もう一度、サクラを上から下まで見返してみるけれど「人でなければ何なのか?」と突っ込みたくなる程には、完全な人の形態をしていたことは間違いない。
「何言ってるんだよ? 今、まさに、人型の形態になっているじゃないか、お前」
 俺の指摘を受けて、サクラは怪訝な表情のまま自分の格好を見返した。
 もしかすると、サクラ自身「自分が人型である」という認識がないのかもしれない。そんな考えを抱き始めた矢先のこと。サクラはたった今気が付いたと言わないばかりに、頓狂な声を上げる。
「ああ、この格好はここが言規の夢の中だからだよ」
「はぁ? 俺の、夢の中?」
 今度は俺が頓狂な声を上げ、呆気にとられる番だった。
 改めて自室の様子を確認して見るけれど、ここが夢の世界だという証拠は見つけられない。寧ろ、確認すればするほど、誠育寮の自室である証拠が目に付く形だ。ここが夢の世界であるというなら、ここは現実世界と寸分違わぬ形を保ってると言って良い。部屋の間取りや大きさ、壁の汚れ、足の裏から伝わる床の感触まで本物と見分けが付かない。
 驚愕の事実を聞かされて慌てる俺に、サクラは自身の胸元を指差して見せた。すると、サクラは俺の夢の世界で何をしているかについて説明する。
「そう、だらしなーく口を開けて爆睡中の言規の、夢の世界に干渉している真っ最中なんだ。だから、現実世界では人の形を取ることはできない、……と、思う、多分」
 最後にサクラは、改めて「人型になれるわけがない」という見解を示した。尤も、その見解は「多分」という推測で語られた上に、非常に歯切れも悪いものだった。恐らく、現実世界で試したことがないからだろうけれど、サクラ自身にも「もしかしたら……」という思いはあったかも知れない。
 ともあれ、人型云々の話は、サクラに取って本題から逸れた部分のようだ。サクラはそこでスパッと表情を切り替えてしまうと、部屋の扉を指差して、未だに「ここが夢の世界という事実」を受け入れられない俺に一つの提案を向ける。
「ここが言規の夢の中だってことを疑うのなら、その扉を開けて外の世界を覗いて見るといいよ。ここはあたしが言規へ干渉することで、現実世界の言規の部屋と遜色のない空間に仕立てているけど、ここ以外の場所は荒唐無稽な光景が広がっているはずだよ」
 半信半疑の俺はサクラに促されるまま、自室の扉の前まで足を進める。そうして、そこで一度立ち止まり、俺はサクラの様子を確認した。
 腕組みをするサクラは、クイッと顎をしゃくって見せると、俺に「扉を開いて確認してみること」を改めて勧める。
 すぅと息を飲み込んで弾みを付けると、俺はその勢いのままに扉を開いた。「ガチャッ」と鳴る本物と寸分違わぬ音を発して扉は開いたものの、サクラの言うようにその先に誠育寮の廊下は広がっていなかった。
 扉の先に広がっていたものは、果てなく続く青空と地平線だ。恐る恐る扉の向こうの世界を覗き込んでみると、この扉が高空に浮いていることが理解できる。目下には遙か彼方に地上が存在していて、もしも扉の向こう側には「誠育寮の廊下が広がっている」という認識で進み出ていたなら、さながらスカイダイビングを体験することになっただろう。それも、パラシュートと言った装備を何も持たない状態でのスカイダイビングだ。
 不意に、体を身震いが襲った。尤も、そこがサクラの言ったような荒唐無稽な世界かと言えば、そうとも思えない。
 現実世界ではないと俺に思わせるだけの光景であることは認めるものの、少なくともその光景の中には物理的に破綻した何かを見付けることができなかった。
 そうやって、扉の向こう側に広がる世界をマジマジと眺めていた俺だったけど、突然異変に襲われる。「ガコンッ」という鈍い音が鳴り響いたかと思えば、俺がドアノブを握ったままの部屋の扉がドンドンと傾いていって、メキメキと音を立て始めたのだ。俺が呆気にとられている間にも、扉を固定する器具が損傷していって「パンッ」と何かが弾ける音を境に、一気に瓦解した。
 俺は慌ててその手を離す。すると扉はそのタイミングを待っていたと言わないばかりに、自由落下を始めた。
「おい、ちょっと! 部屋の扉が落下して行っちゃったぞ! どうなってるんだ?」
「あーあ、やっちゃったね。もう元には戻らないよ。ここも向こうに浸食されちゃう。それじゃあ、陣乃言規、一名様ご案内でーす!」
 サクラの口から不穏な言葉が聞こえて、俺はピタリと固まる。サクラの口調が楽しげな雰囲気をまとっていたから、俺はすぐにそれが「罠だった」ことを理解する。加えて言うなら、慌てて振り返った時には既に時遅しという状況に陥っていた。サクラは俺へ体当たりを食らわせるための体勢を整えていて、今まさに飛び掛からんとする矢先の状態だ。
「謀ったな!」
「何のことか解りませんね」
 何食わぬ顔してしれっと言い放つサクラに、激しい怒りが湧いた。けれど、人型サクラのフライングボディーアタックを食らってしまえば、俺を謀ったことに対して言及するだけの余裕なんてものは一瞬で掻き消える。そのまま自由落下へ移行しそうになるのを、咄嗟に利き手をドア枠へと伸ばして食い留めたはいいものの、既に体半分が高空に投げ出される状態に陥ったからだ。利き手一本で全て支える絶体絶命の状態だである。
「おい、馬鹿、やめろ! 落ちる、本当に落ちるって!」
「ここはいっそ男らしくグシャッと行こうよ! 往生際が悪いよ、言規!」
 俺の腹部にしがみつく格好で全体重を掛けてくるサクラは、諦めて手を離すことが「男らしい」と宣った。このままでは間違いなくサクラも一緒に落下することになるわけだけど、本当にサクラはそれを理解しているのだろうか。
「大間抜けッ! 大体こんな高さから落下したらお前だってだだじゃ済まねぇだろ! ここが踏ん張り所だってーの!」
 激しい口調でそこを指摘するものの、サクラからは信じられない台詞が返る。
「大丈夫、信じればきっと空も飛べるよ?」
「飛べるわけないだろ! 寧ろ、飛んでみろよ、ここで見ててやるから!」
 誠育寮の自室を模した部屋に居残ることを主張するも、実際にその空間がどうなっているのかを目の当たりにして俺は言葉を失った。既に、俺の部屋を象っていたものの大半は、キャンバスに描かれた絵を引き千切るかのようにボロボロと剥がれて崩れ始めていたからだ。
 さっきサクラが口走った台詞が脳裏を過ぎる。
 ここも向こうに浸食される。
 現状を理解した瞬間、ふっと全身から力が抜けた。ドア枠を掴む利き手からもするりと力が抜けてしまれば、微かな浮遊感の後、自由落下が始まる。そして、一瞬とも数十秒とも思える落下の中、どちらが上か下かが解らなくなった頃、無理矢理引き起こされるかのような強い衝撃に襲われた。
 俺の目には白い翼が飛び込んできた形だ。それはサクラの背中から生えていて、バサバサと音を立てて羽ばたくと同時に、落下速度を緩やかにする。俺を抱えた状態で自由自在に空を飛び回れるというものではないようだっだけれど、今はそれで十分だ。
 俺は思わず、安堵の息を吐いた。
 前後左右延々と広がる平原へと無事着地した後、サクラは得意顔で胸を張る。
「どうよ、空も飛べたでしょう?」
「畜生、何でも有りだな! ああ、もう解ったよ、もう疑わないよ。それで、何か話があるんだろ?」
 俺を謀ってスカイダイビングを体験させてくれたことに対する怒りの気持ちも確かにある。けれど、俺はそれをクイッと飲み込んでしまって、ここに俺を連れてきた理由をサクラへ尋ねた。
 サクラを下手に非難して怒らせると、どこだか解らないこの場所へと置き去りにされる可能性も考えられる。
 ここは前後左右果てなく続くとさえ思われる大平原だ。見渡す限り人工物は一切存在しない。右前方から背後に掛けてをぐるりと見回してみるけれど、とにかく延々と地平線が続いていて、唯一左側の遙か遠くに連なる山脈を見て取れることができるような場所だ。尤も、山脈なんてものが本当に実在するかも疑わしい。
「そうそう。言規、真生ママのことを思い出せないって言ってたじゃない? だから、真生ママとの記憶を、あたしの力で呼び覚ましてあげようかなって思って。ある程度、真生ママの制御を離れたところではあたしも自我を持つことができるし、こんな風に自由に行動することもできるからね。もちろん、真生ママが望まないことはできないし、真生ママがその気になれば制限を受けるけどね」
 サクラからの説明は片手間で行われた。四方十数キロメートルに渡り「何も存在しないんじゃないか?」とさえ思わされるだだっ広い平原の中へと、サクラは鋭い視線を走らせて何かを探している風だったのだ。何度も何度も入念に四方へ視線を走らせる様子は、それが余程見付け難いものなのだと言うことが解る。
「あれだ!」
 一際大きな声を上げた後、サクラは鼻歌交じりに何もない草地へと向かって歩みを進めた。サクラが目的地とする草地には、パッと見る限り特別な何かは存在しない。それこそ、何の変哲もないただの草地だ。
 だから、俺はそんなサクラの様子をただただ黙って眺めるしかなかった。
 しかしながら、サクラが前屈みになって草地に手を翳した後、俺はその目を疑うことになる。
「……何してるんだ?」
 俺がそう呟いた瞬間、カーペットか何かが捲れるように、草地の一部が音もなく翻ったのだ。いいや、それは本当にカーペットか何かのようだった。そして、ペロンと捲れてしまった草地の下には白い床が姿を現す。そこには地下へと続く縦穴というおまけまで付いていた。
 一瞬、俺は「何が起こったのか」を理解することができなかった。
 サクラは俺に付いてくるよう手招きした後、俺が後を追うべく行動するのを確認せずに地下へと続くのだろう下穴へと身を投じた。必ず追い掛けてくるという考えがあってのことだろうか。それとも、別に追い掛けてこなくとも良いという考えからきた行動だろうか。
 もちろん、こんなところに置き去りにされるなんて冗談じゃない。
 俺は慌てて、サクラが下っていった縦穴へと走り寄る。
 そこには地下へと続く垂直に設置された梯子がある。覗き込んで中を確認すると、梯子は地下深くまで続いているわけではなさそうだった。同時に、縦穴の中は暗闇の世界というわけでもなかった。どうやら灯りが設置されているらしい。目測では今一距離が掴めないものの、下ってすぐの場所に床を確認することもできる。既にサクラが縦穴の中に居ないことからも、深さも底が知れた。
 サクラの言葉を信じるなら、ここは「俺の夢の世界」であるはずだ。一体全体、これは誰が行き来するためのものなのだろうか。ふと、そんな疑問が脳裏を過ぎるものの、答えは出ない。俺は梯子をしっかと握り縦穴へと身を投じる。
 縦穴の底は、古い地下道のような場所だった。傍目に見てまず印象に残った部分は、随分と年季が入ったものだということと、誰が行き来するかも解らない場所の割には非常に立派な作りだと言うことか。
 ところどころ土塊が剥き出しになっている部分を除き、地下道の壁や床は全てコンクリートで完全に固められていた。そして、目を凝らして終わりを確認してみても、端が見えないほどには前後に延々と伸びているらしい。地下道の横幅は人二人がどうにか余裕を持って擦れ違える程度で、天井の方は手を伸ばせば届く程度の高さしかないものの、そこには薄暗さも息苦しさも全く感じられなかった。天井には這うように配置された数本のケーブルがあり、その中の一つが地下道を照らす照明器具へと電力を供給しているのだろう。
 サクラは縦穴を下ってすぐの場所で、俺を待っていた。そして、俺が縦穴を下り終えたのを確認すると、くるりと向きを変え地下道を奥へ奥へと進み始める。尤も、地下道自体は前後に延々と伸びているため、縦穴の位置から見ればどちらに進んでも「奥」へ行くことにはなる。
「蔵元町ではそれと解らないように、真生ママが絡む記憶を忘れるよう操作されていたみたいだから、もしかしたら貴重な発見があるかも知れないよ」
 サクラの後を追って歩き出すと、不意にサクラからは期待を持たせるような言葉が出た。どこに向かっているかは解らないものの、そろそろ目的地が近付いているのだろう。そんな気がする。
 ともあれ、操作されていたとあからさまに第三者の介入についてサクラが言及したことで、俺はいつかの真生の言葉をサクラへと投げ掛けてみる。
「忘れるよう操作されていた記憶って、それは蔵元町に施されているお呪いって奴が関係しているのか?」
 けれど、サクラは首を横に振り、自分にできることはあくまで記憶を呼び起こすための「手助け」だという。
「んー、そういうことは良くわかんない。でも、あたしが協力すれば、普段は思い出すことのできない深い記憶の底にある光景を、言規が思い出すことはできる」
 できるとサクラは自信満々に言い切ったものの、対する俺はと言えばそこに言い様のない不安を二つ感じた。一つはそれがサクラの手によるものだということ。もう一つは、忘れていたものを思い出すことそのものに対する不安だ。
 突然、前を歩くサクラがくるりと向きを変え、様子を窺うように俺の顔を覗き込む。俺が不安を感じていることを敏感に察知したのかも知れない。
「辛気くさい顔して、何だかなぁ。心配要らないって、このサクラさんが付いてるんだから!」
 そこまで根拠のない理由を楯に胸を張られてしまえば、もう笑うしかない。下手に口を開くと「だからこそ、心配なんだ!」とかいう台詞が喉の奥から出てきそうで、俺は曖昧に頷き返すだけだった。
「それでは、到着です」
 言うが早いか、またもサクラは草地に対してそうしたように地下道の側壁へと手を翳し、そのエリアをまるでカーペットか何かのようにぺろんと捲った。すると、剥がれた後の場所には無骨で頑丈そうな鉄製の扉が姿を表す。窓がないため中の様子は解らないけど、聞き耳を立ててみた限りでは物音はしない。
 はっきり言って、それはまたも想像だにしない形での進展だ。
 サクラは呆気にとられて固まる俺の手をがしっと掴むと、勢いよく扉を開く。施錠されていて開かないようなら蹴破ってでも侵入し兼ねない勢いをまとっていたものの、幸か不幸か扉はこともなく開いた。それは「今度は俺を置いて先に行かないんだな」なんてことを考えていた一瞬の間のことだった。
 手を引かれ足を踏み入れた場所は、映画館だった。いや、だったというのはおかしいだろうか。パッと見た限りでは、小規模な映画館の上映場と認識できる場所だ。尤も、規模の話をすれば、ホームシアターを多少大きくした程度の空間面積であり、お世辞にも多くの人間が一堂に会して映画を楽しめるほどの広さはない。
 ただ、壁の防音材なんかは見た目にもその辺りの簡素な作りのホームシアターとは規模が異なっている。恐らく、内部からの音も外部からの音も完全にシャットダウンしてくれるレベルのしっかりした造りだろう。また、座席の方も数こそ少ないものの一座一座が革張りで仕立てられているらしく、そこは鼻を擽る独特の皮の匂いがした。座席にはフットレストやリクライニング機構も設けられているようで、とかく高級感漂う作りだった。
 物は言いようだけど、空間的な限られた感も加わって、そこは選ばれた人のための場所という雰囲気がある。
 思わず場違い感を覚えて狼狽えるも、よくよく考えてみるとここは俺の夢の中であるはずだ。俺がそんな居たたまれないという感覚に陥るのは明らかにおかしい。俺はとうとう我慢できず、その疑問を口に出して確認する。
「ここ、俺の夢の中だってさっき言ったよな? 何なんだよ、この豪華な作りは?」
「それだけここが特別な場所だっていうことだよ。壁の防音材にしろ、そう。外部からの影響を極力シャットダウンした上で、記憶を手繰ることができる特別な場所。言い方はあれだけど「言規の深い深い殻の中」みたいな感じかな」
 サクラが丁寧な解説をしてくれる合間に、入ってきたドアがパタンと小さな音を立てて閉まった。すると、部屋の主要な照明が落とされていって部屋全体が暗くなり、フットライトの灯りが疎らに浮かび上がる。それはまるで、俺達を「待ってました」と言わないばかりだ。観客が足を踏み入れたことで「上映開始」の合図が出されたかのようにも見える。
 いつスクリーンに映像が映し出されてもおかしくない。そう思った。
 どうすれば良いのか解らず入り口付近に突っ立っていると、不意にサクラが俺の背中を押す。
「いつまでこんな所にボーッと突っ立ってるのさ! 早く座らないと上映が始められないよ?」
「おい、……おいおい、押すなって!」
 半ば強引に、サクラによって部屋の中段に位置する席へと押しやられるけど、座席に腰を下ろすことを拒む理由もない。左右両端と真ん中に通路がある関係で客席は左右に分かれていたが、俺は特に気にすることもなく真ん中通路寄りの中段席へと腰を下ろした。
 すると、サクラが聞き捨てならない言葉を口にする。
「それでは、上映始めちゃって支配人さん。最初はねぇ、最も強く真生ママが印象に残っている場面がいいかな」
 ここに、俺とサクラ以外の誰かが居るというのだろうか。
 何度も言うようだけど、サクラの言葉が本当ならば、ここは俺の夢の中だ。そして、その夢にサクラが介入をすることで、この望まぬ交流は成り立っているはずだ。
 その第三者はこの場にいて、俺のプライバシーに触れることを俺が許容できる誰かなのだろうか。
 そんな俺の疑問を余所に、スクリーンには映像が映し出される。見慣れたカウントダウンで上映が始まった映像は、俺のおかん側の祖父が住む家を映したものだった。
 指折り数える程しか足を運んだことのない祖父の家だから、手掛かりさえあれば大体の時期は特定できるだろうか。
 大体いつ頃の記憶なのかを把握しようと、俺は映像のそこかしこを食い入るように眺め見る。すると、不意に俺を呼ぶおかんの声が響き渡った。心なしか、今よりも若い声だ。
 ぐるりと映像が高速でぶれる。当時の俺が自分を呼ぶ声の方向へと振り返ったのだろう。
 一瞬ぼやけた視界が元に戻ると、そこには若き日のおかんが居た。そして、そんなおかんの背後に隠れるようにして、今の面影をくっきりと残す女の子が映し出される。小学校低学年ぐらいだろうか。ともあれ、それが真生であることを俺はすぐに理解した。
 座席に座ることなく、俺の横で立ち見をしているサクラが黄色い声を上げる。
「うわ、真生ママちっちゃい。あはは、凄いプリチーだね」
 そのサクラの見解には全面的に同意するものの、俺は肯定も否定もしなかった。端的にその理由を口にするなら、それは「強がって平静を装って見せるだけの余裕がなかったから」となるだろう。何か口に出して喋ったら、サクラに動揺していることを悟られる気がしたのだ。
 ここが特別な場所だとサクラは言った。けれど、だからと言って俺の中にこの記憶が残っていたということに代わりはない。思い出すことのできない記憶が存在するのは、もう間違いないのだ。
 もちろん、サクラが俺を謀っていたり、記憶を捏造したりしている可能性も完全に否定はできない。けれど、もしも今まで見せたサクラの態度や言動といったものが俺を騙すための演技であるならば、ことそう言った能力では真生を凌ぐ才を持っていることになるだろう。
 人型サクラと顔を合わせて、まだ多くの時間を共有したわけではない。けれど、人型サクラにはあらゆる面で子供っぽさを垣間見ることができた。少なくとも、そこに俺を騙してどうのこうのという部分を感じ取ることはできない。
 スクリーンの中のおかんは、ちょうど子供の俺へと向かって言い付けをするところだった。
「言規、母さんね、今からおじいちゃんと大事な話があるから、真生のこと面倒見てあげてね。屋敷の敷地内からは出ないこと、解った?」
 おかんとおかん側の祖父は折り合いが悪いらしく、滅多に顔を合わせることはなかった。稀に、今スクリーンに映し出されているように、一家で顔を見せに行くこともあるにはあったけれど、総じておかんの機嫌は良くなかった気がする。子供心ながらに、いつも俺を甘やかすおかんを、この日ばかりは「もの恐ろしい」と思った記憶があるのだ。
 ともあれ、当時の俺はおかんの言い付けに対して素直に頷くと、真生に向かって手を差し出す。
「真生、行こう」
 おかんに面倒を見るよう頼まれたからか。それとも、自発的なものか。ともかく、映像の中の俺は真生へとそう働き掛けると、真生の手を取って走り出す。少なくとも、そこには真生という存在に対する他人行儀な態度を確認することはできない。当時の俺は、真生をそこにいることが当たり前の存在だと感じているのだろう。
 おかんにしろ、俺にしろ、普通に映像の中で真生の名前を呼んだことに、思わず苦笑いが零れる。
 場面場面の細かい描写を忘れているぐらいならばまだしも、名前や存在そのものを忘れてしまうというのは普通じゃない。相手は仮にも「双子の妹」だ。ましてスクリーンの中の俺は、どう贔屓目に見ても「物心が付いていない」というほど幼くはない。
 不意に、頭の片隅にズキンと刺さる鈍い痛みが走ったような気がした。その瞬間、何か頭の中の固い部分に、穴を開けられたかのようだった。頭の中の靄がすぅっと晴れるような感覚の後、ぽつぽつと断片的ながら当時の記憶を掬い取ることができるようになる。
「……この後、どうしてか解らないけど真生が蔵に入れないって事態になるんだよ、確か。それで、俺が真生の代わりに蔵の中を探検することになって、……なって、何か起きたような」
 場面が切り替わる。真生の手を取って走り出した俺は、逆に真生から手を引かれる形になっていた。どうやら、屋敷の中にある蔵へと走って向かっているようだった。数えるほどしか足を運んだことのない場所だとは言っても、敷地内に何があるかはさすがに把握している。
 ついさっき掬い取った記憶の続きを思い出そうと躍起になる。
 蔵に到着した後、どうして真生が中に入れなくなるのか。自問を続けるものの、俺はそれを思い出すことができない。
 だから、てっきり映像の方もそこでぷつりと途切れてしまうか、もしくは真生が中に入れない部分を曖昧に濁した形で先に進むのだろうと思った。けれど、そんな予想に反して、映像の方はその場面を鮮明に再生する。
 真生が蔵の錠へと手を伸ばした瞬間「バチンッ」と凄まじい音が鳴り響いた。語弊を恐れずに言うなら、静電気の凄いバージョンみたいな音だ。それは、音だけでもかなりの痛みが走っただろうことが想像できて、実際に自分が体験したわけでもないのに、思わず顔を顰めてしまう程のものだった。
 見るからにオロオロとする映像の中の俺へと向けて、真生は自分に代わって蔵の中へと先に進むよう要望する。
「あたしではこの扉を開けられないよう制限されちゃっているけど、司護でないお兄ちゃんならできるはずだよ。きっと蔵の中にも、司護ではできることに制限が掛けられているんだ。……だから、お兄ちゃんがあたしの代わりに先頭に立ってあたしを引っ張っていって欲しい」
 映像の中の真生は当時の俺に向けて司護という言葉を用いた。尤も、当時の俺がその意味を理解している節はない。けれど、少なくとも真生の方はそうでもないのだろう。この時点で、どれだけのことを真生が理解しているのかが気になったけれど、そんな疑問は些細なものだった。断片的に掬い取ることのできた記憶通りことが運んだことに、俺がもの恐ろしさを感じていたからだ。それは即ち、鮮明にではないにしろ当時のことを俺が覚えていることを意味し、この映像の世界が本物であったことを証明するものだからだ。
 不意に背後から襲い掛かってきた緊張感に絡め取られて、俺はコクンと喉を鳴らして後味の悪い唾を飲む。俺が自力で思い出すことのできない部分へと差し掛かる映像からは、完全に目が離せなくなってしまった格好だった。
「よし、任せとけ!」
 映像の中の俺は、真生の要求に胸を張って応える。探検をすることに対して、何か使命感みたいなものを覚えていたのかも知れない。探検という遊びだけど、遊びだからこその真剣さとでも言えばいいか。屋敷の中の入ることのできない場所に対する、子供だからこその「絶対に入ってやる」といった気概みたいなものだ。
 映像の中の俺が恐る恐るといった調子で蔵の錠へと手を伸ばしても、ついさっき真生を襲った凄まじい音が響き渡ることはなかった。その仕組みが真生の言うように司護に対してのみ発動するものかどうかは解らなかったけれど、仕組みが発動しなかったことで映像の中の俺は何度か試行錯誤した末に、それを苦もなく解錠してしまう。蔵の錠自体は子供でも簡単に取り外すことのできる代物のようだ。
 扉に手を掛けてしまえば、後はとんとん拍子に進んだ。「ギイイィィ……」と全体が軋むような音を響かせる重量物の扉が子供の力では難関だったぐらいだろう。
 蔵の中に足を踏み入れると、まずそこが想像よりもずっと薄暗くはないことが目に付いた。空気の入れ換えをするために高い位置へ設けられた複数の小窓から、光が差し込んでいるからだろう。
 映像の中の俺は高窓に気を取られているらしく、蔵の天井に視線を向けるような状態で中へと進んでいった。すると「ドゴッ」と何かに勢いよくぶつかる音が響き渡る。直後、不意に映像が大きくぶれ、どうやら蔵の中の何かに足を取られたようだ。そうして注意が蔵の中へと向けられると、所狭しと物が詰め込まれた蔵の様子が見て取れた。
 一応、蔵の中はある程度の整理整頓が為されているだ。ある一定の基準に沿ってものが並べられている感じがする。ただ、そうは言っても、棚に並べられた物は中身が何かを記した札がきちんと付けられたものから、札も飾り気もないただの薄汚い箱まで様々である。
 スクリーンに映し出される映像はひっきりなしに向きを変える。そうやって映像の中の俺が、きょろきょろと辺りを見渡すのは不安だからだろう。けれど、一旦背後を振り返ってそこに真生の姿を見つけると、安心感を得たようだ。映像の中の俺は蔵の中へと勇敢にも突き進んでいって、二階へ続く垂直の梯子に手を掛ける。
 そこまで行ったところで、突然映像はぷつりと途切れた。
 食い入るようにスクリーンを眺めて次の展開を今か今かと待っていた俺は、完全に肩透かしを食う。
「……終わり、なのか?」
 呆気にとられる形で誰に問い掛けるでもなく呟いた俺の寸感を、サクラは「確認を求められた」とでも思ったようだ。振り返って、支配人とやらにことの経緯を確認しているようだ。そして、そこに僅かな間を挟んだ後、サクラは「そこまでしか記憶が残っていない」と俺に教えてくれる。
「取り敢えず、ここで終わっているみたいだって」
 何か予想外の事態が発生したのかと気を揉むも、取り越し苦労で終わったようだ。「俺に取って最も強く真生が印象に残っている場面」というには、些かインパクトに欠ける気がしたけれど、その一方で、確かに真生が蔵の錠へと手を伸ばした時のあの凄まじい音は、俺の記憶の中に強く残っていても不思議ではないとも思えた。
 ともあれ、サクラの説明を聞き俺はホッと胸を撫で下ろしていた。すると、不意に脳裏を過ぎる雑多な光景がある。パッと浮かび上がってはすぐ消えていく瞬間的なものだったけれど、それを頼りに何かを手繰り寄せられそうな気がした。
 緊張から解放されてリラックスした効果だろうか。恐らく過去の映像と向き合うことによって、良くも悪くも刺激されたことも一因だろう。
「うっすらとは覚えてるんだな。今なら、何か色々と思い出せそうだ。それに真生のことについても、何かこう……」
 過去のことに思いを巡らせていると、不意にサクラが俺の側から離れる気配に気付いた。サクラの様子を確認すると、ちょうどトントンッと軽快なステップで通路を登っていくところだった。
 ふと、俺はシアターの入り口のすぐ脇に部屋があることに気付いた。そして、最上段で足を止めるサクラは、その部屋に居るのだろう「支配人」とやらに向かって尋ねる。
「泰治さんが言っていた場面とかはどう? 言規が有樹さんと一緒にゲームする場面を、後ろから珠樹さんと真生ママと泰治さんが眺めていた時の映像とか引っ張り出してこれないのかな、支配人?」
 サクラはよかれと思ってそう畳み掛けたのだろうけど、その言葉で俺は一気に現実に引き戻された。当然、過去を巡る思考はそこで一旦中断と相成る。やはり、その「支配人」とやらが気になって仕方がない。
 俺は席を立って、サクラの後を追う。すると、シアター脇の部屋で棚の上のものを取ろうと手を伸ばしている男と目が合った。育ちの良さを窺わせる仕立ての良い服に身を包んではいたけれど、その男は非常に見慣れた顔をしている。けれど、どこで見た顔なのかを俺は咄嗟に思い出せない。首を捻って考え込み掛けたところで、ようやく俺はそれが毎朝鏡で対面している顔だと気付く。
「俺だ! 俺だよ! というか、どうして俺がもう一人居るんだ……?」
 もう一人の俺は信じられないぐらい爽やかな顔で微笑むと、俺に向かって丁寧に挨拶を始める。
「やぁ、始めまして、俺。……と、いうのもおかしいのかな。こんな形で向き合ったことはないけど、久しぶりという方がしっくり来るよね」
 思わず「こいつ、偽物だ! 俺がこんな上品な立ち居振る舞いをするわけがない!」と指を差し掛けたところで、もう一人の自分からはそんな対応が返ってきた形だ。俺はもう一人の自分を呆然と眺めるしかなかった。
 俺はサクラへ向き直り、目顔でことの説明を求めた。すると、サクラはさも「当然」という態度で答える。
「言規の中の人だよ」
 俺は呆れてものが言えなかった。よもやそんな台詞がこんな場所で出てくるとは思いも寄らなかったのだ。
 俺の体の中にはサイズの小さな俺が無数に入っていて、足や腕を「よいせ、よいせ」と掛け声宜しく動かしているとでも言うつもりなのだろうか。いいや、そもそも、身長や体格に関してもう一人の俺を確認する限り、ほぼ同サイズ・同形状であることは紛れもない事実だ。それこそ、中の人という表現は、俺の体が着ぐるみみたいな構造になっていて「中の人の交代が可能」だとでも言うつもりだろうか。
 俺は怪訝な顔付きでサクラを注視する。
「お前、俺がこの世界のことを理解していないだろうからって適当なこと抜かしてるだろ?」
 そんな指摘をサクラは真っ向から否定する。
「そんなことないよ、言規の中には複数の別の言規が存在して居るんだよ。普通の生活の中では向き合ったり、入れ替わったりすることはできないけど、自分が見ることのできない側面には別の顔があるの」
 サクラがもう一人の俺を表現した「中の人」という言葉は撤回されなかった。そして、より正確な「中の人」の認識を俺に持たせるべく、サクラはそこに補足を付け加える。
「根本的には全く同じ部分で繋がっているはずだけど、行動原理が何に基づいたものなのかとか、価値観の比率とかが大きく異なる存在なんだって言ってた。だから、この言規はあくまで言規の別の側面を写している鏡像みたいなものだよ。便宜上、言規ダッシュって呼ぶことにするけど、多分、この言規ダッシュは世間の柵とかに囚われていない分、言規よりも素直で正直で純真な好青年だと思うね」
 サクラは言規ダッシュと命名したもう一人の俺の肩を、まるで同意を求めるかのようにポンッと叩いた。
 言規ダッシュは謙遜しているのか、その形容に対して「その通り」と頷くような態度は見せなかったけれど、満更でもない様子だ。
「そうだ! 言規はあたしのこと、本当はどう思ってるのかなー、言規ダッシュ? 本音でもこの「にっくき怨敵め!」って感じなの?」
 サクラはこともあろうに、言規ダッシュへ俺のサクラに対する印象の「本音」について確認した。
 最初にサクラが「閃いた!」と言わないばかりに声を上げたところで、正直嫌な予感はあったのだ。
 何を喋るか解ったものじゃない。言規ダッシュに好き勝手喋らせるべきではない。
 そんな直感が頭を刺す中、それでも言規ダッシュに自由気ままに喋らせることを最終的に許容することに決めたのは、やはり俺自身、もう一人の自分がサクラをどう評するのか気になったからだろう。「根本的には全く同じ部分で繋がっている」とサクラが評したもう一人の自分ならば、客観的に俺を分析した上で全く異なる観点からサクラに対する評論をするかも知れない。そう思ったのだ。
 俺が口を真一文字に結んで静観を決め込んでいると、言規ダッシュはまるで顔色を窺うかのように俺の様子を確認した。そうすることで、自分が勝手気ままに喋ることを、俺が許容するかどうか見極めようとしたのだろう。
 俺が異論を挟まないから、言規ダッシュは大袈裟な身振り手振りを加えて話し始める。
「蜘蛛形状時のサクラさんはともかく、人型となった今の容姿は非常に魅力的だと思います」
 言規ダッシュはその好青年が板に付いた見掛け宜しく、歯が浮くような台詞を口走って見せた。傍目に見ている限りでは、口説き落とそうとでもしているかのようだ。だから、てっきりそのまま美辞麗句が続くと思いきや、言規ダッシュのサクラに対する評論はそこから一気におかしな方向へと変化する。
「特にミニスカートの上からでもはっきりと存在を強調する小振りながら張りのあるお尻のラインには、……目を奪われますね。胸元の肉付きに関しては真生以上の膨らみで、さっき谷間に目を奪われて内心ドキッとしたのは秘密ですよ?」
 言規ダッシュは立てた聞き手の人差し指を口に当てて「秘密にしてください」というジェスチャーを見せた。
 俺は思わず項垂れる。最初こそ、掴み掛からんばかりの勢いを持って言規ダッシュに詰め寄ろうとするけれど「そんなこと考えていないぞ!」と胸を張って言えない辺りが俺の弱みだったろう。「根本的には全く同じ部分で繋がっている」と言ったのも強ち嘘とは言い切れず、だから尚更質が悪い。
 尤も、だからと言って黙っているわけにもいかない。少なくとも、この言規ダッシュの言動は当人を前にして口にするべきことではないし、それをぺらぺら話されでもしたら俺の尊厳を傷つけ兼ねない許し難い行為に他ならない。
「誰に秘密にするって言うんだ、このすっとこどっこい!」
「まぁまぁ、言葉は口に出して相手に伝えてこそのものだよ」
 俺の怒りの籠もった非難の言葉を向けられてなお、言規ダッシュは平然としていた。
「口は災いの元って諺を知らないのか!」
 同じ顔をした相手に怒りの言葉を向けるというのは、非常におかしな気分だった。まるで自分自身を罵倒しているかのような錯覚に陥ってしまって、俺は早々に喧嘩腰を引っ込める。
 けれど、そうして喧嘩腰を引っ込めるという俺の態度は、言規ダッシュに「話し続けることを許容した」と思わせたらしい。言規ダッシュは黙らない。
「総括すると、真生ママ言うぐらい何だから、真生より年下なんだろうに「良い成長してるじゃねぇか!」っていう感じですか。小生意気だし、いつか成長具合を確かめる意味合いも含めてギャフンと言わせてやるぞ、と考えていますかね」
「お前、何口走っちゃってるんだよ!」
 黙らせるべく実力行使に打って出ようとするも、そこは相手が俺自身である。巧みに胸倉を掴み取ろうと狙う動きも、さらりと牽制されてしまった。そうやって、言規ダッシュと一触即発紛いの睨み合いを続けてジリジリと間合いを計っていると、背後からはサクラの視線が刺さる。
「へぇ、そんな目であたしのこと見てたんだ。でも「魅力的で可愛い!」なんて思ってくれているのに、……あんな仕打ちしちゃうんだ。好きな娘は虐めちゃうタイプなの? ふふ、素直じゃないんだ、言規」
 唯一救いだったことは、サクラから向けられた視線が汚物を見るような冷淡で侮蔑を含んだものではなかったことだろうか。言規ダッシュが直情的で下品な表現を連発した割には、サクラの態度は非常に好意的だと言えただろう。
 尤も、俺の中に底の浅い部分を垣間見たと思っているサクラの態度には、俺を子供っぽい存在だと見なす屈辱的な視点が含まれる。サクラに取ってしてみれば、蜘蛛型の時と人型の時とで接する俺の態度に相違が生じる理由がないという認識なんだろうけど、そこがそもそも間違いなのは言うまでもない。不覚にも「魅力的かも……」と思ってしまった人型と、酷い仕打ちを仕掛けた蜘蛛型とでは、サクラに対する俺の認識は天と地との差がある。
 それをサクラは根本的に勘違いしているだけなのだけど、そこを指摘する言葉を俺はぐぐっと飲み込んだ。例え、それが俺にどんなレッテルを貼ることに繋がったとしても、甘んじて受け入れる覚悟だったのだ。
 俺が何も言わないことで、サクラは増長を続ける。
「でも魅了されちゃうのも仕方ないかな。何だかんだ言ってあたしも「美しい鬼」と呼ばれた才色兼備の血に連なるんだもんね。知性、俊敏さと機動力、そして、そこに居るだけで周囲に影響を与える魔性の力。どれを取っても止事無いけど、やっぱり無駄のない端麗なフォルムと色鮮やかな色彩が何よりも「美しくて可愛い」よね」
 言うにこと欠き「そこまで自画自賛するか?」と、俺は自分の耳を疑った。しかも、自画自賛の対象は、あくまで蜘蛛型サクラの方なのだ。認識違いも甚だしい。
「ちょっと良いかも……と思ったのはあくまで人型のサクラに対してであって、蜘蛛型形状でそんなこと口走った日にはアスファルトに叩き付けるじゃ済まさないからな!」
 思わずそう口走ってしまいそうになったところで、俺はどうにか口を噤んだ。きっと、それを思いのままに口走ったなら、俺は大きな墓穴を掘ったことだろう。それこそ、人型サクラに対して不埒な感情を抱いたことを証明しかねない。
 しかしながら、そこに至って言規ダッシュの悪行が炸裂する。
「ちょっと良いかもって思ったのはあくまで人型のサクラさんで、蜘蛛型形状でそんなこと口走ったら今度はアスファルトに叩き付けるじゃ済まさないと息巻いてますよ、あの小心者」
 俺に聞こえるようにサクラの耳許で喋る言規ダッシュは、寄りにもよって、俺が噤んだ台詞を口に出した。
 俺は頭を抱えた。言規ダッシュに対して沸々と湧き上がる苛々は、ズキズキと刺さるような頭痛を伴った気がしたぐらいだ。言規ダッシュを黙らせようと再度戦闘体勢を整えたところに、背後から今度はサクラの軽蔑の視線が刺さる。
「あのあたしのプリチーで愛くるしい姿を気持ち悪いだなんて、ホント、言規は趣味が悪いよね」
 蜘蛛型サクラに嫌悪感を抱くことを「俺の趣味が悪い」と宣うサクラへ一言反論しようと振り返ったところで、俺は憮然とした人型サクラに目を留める。俺は反論を飲み込んでしまっていた。鋭い目元に俺を捉えたサクラは、頬を膨らまて見せて「呆れてものが言えない」といわんばかりの態度だ。
 そういう態度一つ取ってみても、やはり蜘蛛型と人型とでは大きな差がある。俺はそれを実感させられたのだろう。
 そうして、言規ダッシュが包み隠さず口走ってくれた効能か。俺も多少本音を口にし易くなっていたのかも知れない。ついつい思ったことがそのまま口に出る。
「……でも、確かに向こうでも人型だったら良かったのになぁ」
 現実世界でサクラが人型だったからといって、どうだという話ではないはずだ。それなのにも関わらず、ふと気付けば、俺の口からはしみじみとそんな寸感が漏れていた。
 突然「ビーッ、ビーッ」とけたたましい音が鳴り響いた。それは恰も、自転車の盗難防止装置が発動したような音で、まさに警告音というに相応しい。そして、その警告音はサクラが首に提げたペンダントから発せられているようだった。
 サクラは首に下げたペンダントを手に取ると、思案顔を覗かせて何かを入念に確認しているようだ。思案顔はやがて眉間に皺を寄せる小難しい顔へと代わるけれど、俺の立ち位置からではペンダントに何か特別な仕掛けが施されているようには見えない。
 俺と言規ダッシュが様子を見守る中、サクラは「何かの時間が迫っている」という趣旨の発言をする。
「おろろ、そろそろ時間みたいだね」
 意味深な発言だったから、俺はてっきりその後に何かが補足されると思った。そういう背景もあって、俺は次の言葉を待つ形になり、必然的にサクラを注視することになる。
 ところが、俺の視線に気付いたサクラはというと、これみよがしに科を作って見せた。尤も、科とは言っても腰のくびれと、それなりに豊満な胸元を強調する在り来たりなポーズに過ぎない。けれど、口許に笑みを作って見せて上目遣い気味に視線を向けるといった、ピンポイントで俺を狙う仕草には思わずドキリとさせられたのも事実だ。
「もう、照れるなぁ。そんな熱い視線を投げ掛けてくれちゃって……。言規がこのサクラさんとどうしてもまだランデブーがしたいっていうのなら、無理を押して付き合ってあげないこともないよ?」
 サクラが科を絡めて話した内容は、俺の懇願の有無によってはこの交流を続けても良いというものだ。
 俺は咄嗟に悪態を返す。
「はッ、なめんな! 誰がお前みたいなあばずれなんかとランデブーを望むかよ!」
 その態度が照れ隠しの意味合いを持っていたことは否めない。加えて言えば、あくまで「現実世界では蜘蛛である」と頭では解っていながら、少しばかり「可愛いかも」と思ってしまった自分に嫌悪感が沸いた瞬間でもあった。
 悪態を吐いた俺を、サクラはキョトンとした顔付きで眺めた。サクラに取って、予想外の言葉だったのかも知れない。
 俺は咄嗟に「反応がおかしい」と判断し、すぐさま何が起きてももいいよう身構える。けれど、当のサクラがいつものように喧嘩腰で突っ掛かってくるようなことはなかった。サクラが押し黙り、俺が状況を窺うことでそこには何とも言えない沈黙が生まれた。
 言規ダッシュがサクラを気遣い、俺を窘めたのはまさにその直後のことである。
「そう言ってくれるなよ。この鑑賞会を通して、溝を埋めようというサクラさんの心遣いが解らないか? わざわざお前のために力を割いてこの場を設けてくれたんだ。……それに、俺もこうして言葉というコミュニケーションで誰かと意思疎通を楽しむのは本当に久しぶりなんだ。もう少し、戯れに付き合ってくれても良いじゃないか?」
 尤も、言規ダッシュの言葉は後半に差し掛かったところで鑑賞会に対する自身の要望を持ってきたけど、それもあくまで取って付けた感が強い。言うなれば、勢いに任せたらしくない態度でサクラを気遣ったことに対する照れ隠しみたいな印象を俺は強く受けた形だ。
 サクラに対して感謝するというのならともかく「悪態を吐いた」という行為を、言規ダッシュは重く受け止めているようだ。まだ言い足らないという風に、俺に向かって言葉を続けようとするも、そんな鼻息荒い言規ダッシュに制止の言葉を向けたのは、他でもないサクラである。
「いいよいいよ、言規ダッシュ。もういい」
 ただ、俺の悪態が気に触ったことは間違いないようだ。サクラの口調には投げやり感が漂っていた。
 そうして、機嫌を損ねてしまったサクラを、今度は言規ダッシュが宥めるという構図が生まれる。
「まぁまぁサクラさん、落ち着いて。あんなこと言ったけど、あの小心者のさっきの悪態はただの照れ隠しだし、本当はサクラさんが見せた……」
 突然、言規ダッシュがサクラに向けたフォローの中で、素知らぬ顔して俺の隠匿したい事実を口走ろうとするから俺は慌てた。何の前触れもなくこういうことを話し出すから、本当に言規ダッシュは油断できない。
「はは、そろそろ黙っておけよ、お前!」
 俺は「それ以上喋るな」と強い牽制を向けつつ、物理的に言規ダッシュのその口を塞ぐべく間合いを計る。そんな俺の不穏な動きを言規ダッシュは敏感に感じ取り、ささっと距離を置こうと行動するから、そこには追い駆けっこの構図が生まれた。間に障害となるシアターの座席を挟み、寄せては引く一進一退の攻防が始まった形だ。
 そんな牽制合戦をサクラはさも「つまらない」と言わないばかり、白けた顔付きで眺めていた。
「美しいものを目の当たりにして「美しい」と、可愛いものを間の当たりにして「可愛い」と表現するのは当然のことだ。サクラさんの科に劣情を催したことが気恥ずかしいのか? なに、それはサクラさんを貶すことではない」
「いい加減に黙っとけって言ってるだろうが、このすっとこどっこい!」
 思わず罵声が口を付いて出ていた。言規ダッシュの言葉が「触れて欲しくはない」と思う部分を悉く逆なでするからだろう。ともあれ、そうやって収拾が付かなくなり始めたことを、先に危惧し出したのは他でもない言規ダッシュである。
「ともかく、こんなつまらない揉め事でこの鑑賞会をふいにするべきじゃない。お前だって、まだ過去を手繰る旅を終わらせたいとは思っていないだろう? まだ間に合う、今からでもサクラさんに「本当は劣情を催しただけなんです、気恥ずかしかったんです、ごめんなさい」と謝れ!」
 埒が開かない。そう考えた俺は映画館の座席を乗り越えて、言規ダッシュをとっ掴まえることを考える。
 そうして、いざ乗り越えようと行動を起こしたところで、サクラがパンッと勢いよく手を叩き座席を合間に挟んだ牽制合戦に水を差した。そうして、過去を手繰るこの映像鑑賞会について「終了」を宣言する。
「じゃあ、言規にはさくさくっと目覚めて貰うことにする」
 そう言うが早いか、サクラは前屈みの体勢を取ると、映画館の床に触れるか触れないかの位置に人差し指を突き立てる。それは真生が霞咲駅のホームでサクラを出現させた時と同じような動作だ。そして、フットライトに照らし出された歪なサクラの影は、漆黒色をまとってくっきりと浮かび上がる。
 フラッシュバックするのは、夕焼け時の永曜学園。真生がサクラの力を行使して、思う存分「平和的解決」という名の下に暴れた場所だ。
 不意に、ぞくっと体を襲う緊張感。俺の視界は完全に眼前の光景に釘付けとなってしまっていた。
 サクラも、真生がそうして見せたように何かを使役することができるのだろうか。そんな思考が脳裏を過ぎった矢先のことだ。まるで絵の具で黒く塗り潰したかのようなサクラの影の中から出てきたものは、棍棒だった。
 棍棒とは言っても、その辺の木の枝をへし折ってきて「ちょっと加工しました」的なものではない。長さにして一メートル強、一番太い胴回りで円周20センチメートルはあろうかという立派なものだ。棍棒を握る柄の部分には滑り止めの役割を持つのだろう細かな刺繍が鏤められた布なんかも巻かれている。
「ちょっと、サクラ、さん? 一体何なんだ、その禍々しい血痕の付いた棍棒は? 嫌な予感爆発なんだけど……」
「眠るっていう状態には階層があってさ。今、言規はあたしの力で普通の状態じゃ来れないような深い階層まで来てるわけなんだ。ちょっとやそっとのことじゃ目覚めない状態なの」
 恐る恐るという形で尋ねた俺の言葉をサクラは半ば強引に遮った。そして、この鑑賞会へ参加している俺が、現実世界でどういう状況にあるのかについても言及した。
 それを踏まえて、ではその棍棒が何の役割を果たすのか。嫌な予感は一気にその度合いを増す。
 それを証明するかのように、サクラは棍棒を高々と掲げ挙げる。
「そんな時こそ、これだよ、これ。……えーと、必殺・強眠打破棒!」
 サクラはその棍棒の名前を口にするまで、僅かな時間を要した。そして、それらしい名前を宣言した後は、その先端を俺へと向けて袖を捲るかのような不穏な仕草を見せる。
「どっかで聞いたことあるし! それ、今適当に付けた名前だろ!」
 俺の鋭い指摘に、サクラはさも「名前なんて何でも良いじゃない?」と言う具合の不満顔だ。
 もちろん、俺としても名前なんてどうでも良い。問題はそこじゃない。それが「何をするためのものか?」というところが、何よりも需要だ。尤も「血痕が滲む禍々しい」という部分で「何をするための棍棒か」というところは、薄々想像が付いてしまっている。
 棍棒をその手に握り持つサクラに至っては、俄に闘気をまとい始めたぐらいだ。
 では、棍棒の用途が大方予測できるという中で「名前が適当」という状況はどうだろうか。少なくとも、サクラの説明の信憑性がその適当さによって大きく左右されるだろう。例えば「この夢から醒めるためには棍棒で脳天を勢いよく叩き付ける必要があるの♪」なんて笑顔で言われたところで、俺がサクラの言葉を信じることはできない。
 サクラは僅かに思案顔を間に挟んだ後、棍棒の名前についてこう言い直す。
「じゃあ、必殺・二十四時間戦えますか棒でもいいよ」
 取って付けたような言葉が続いたことで、俺のサクラに対する警戒は一気にその度合いを増した。けれど、俺がそこに口を挟むよりも早く、サクラは別の名称案を口にする。
「有樹さんが買ってくる変な道具チックに言うと、必殺・目覚めすっきりザメハ君とか?」
 結局、最後には俺に「こんなのどうかな」と疑問系で同意を求める適当っぷりだ。しかもサクラは同意を求める形を取りながら、俺が見解を述べることを許さない。名称に対する話題を尻切れ蜻蛉で投げやり気味に終わらせてしまうと、サクラはささっと棍棒の用途へと話題を変える。
「まぁ、何でも良いけど。とにかく、これで一発グシャッとやると、あら不思議。あっという間に目覚めすっきり、お目々ぱっちり! 言規を現実世界に連れ戻してくれます!」
 効能についてそう断言したサクラの言葉には、俺が顔を顰めざるを得ない嫌な擬音が混ざった。
「グシャッって何だよ! 効果音まで禍々しいじゃないか! つーか、何で頭に必ず必殺が付くんだよ! 目覚めすっきりどころか、そのまま永眠じゃねーか、ばーか!」
 俺が反発の声を上げると、サクラはそれらの指摘を表現上の問題だと切って捨てる。
「嫌だなぁ、ただの、言葉の綾だよ。扱うのが難しい道具だから、そういう心構えが大事なんだ」
 しかしながら、俺をこの夢から目覚めさせるに当たって「必ず殺す」という心構えが大事だと宣うサクラはせせら笑いの表情だ。俺のサクラに対する猜疑心は、その度合いを一層甚だしくした。
 何か別の手があるはずだ。そんな疑いが首を擡げた瞬間だった。加えて言えば、他に手がないにしろ、それを証明して貰わないと俺はこの方法を承諾できない。そんな思いが俺の中で確固たる足場を固めた瞬間でもある。
 俺はサクラから距離を取るべく後退る。
 しかしながら、サクラがパチンッと指を鳴らすと、俺はすぐに後退ることができなくなってしまった。いつの間にか、すぐ後ろに支柱が存在していたからだ。さっきまで、そんな場所に支柱なんて無かったはずだから、サクラがその一つの動作を取ることで、その場所に「作り出した」のだろう。
 俺は瞬く間に窮地へと追いやられた形だ。
「ここは今あたしが主導権を持つ空間だよ? あたしを置いてどこに行こうって言うの?」
 サクラは棍棒をバットに見立てると、バッターボックスへと向かう野球選手のように素振りをして見せる。ビュンッと風を切る鋭い音と棍棒の撓る音が鳴り響き、サクラの表情が満面の笑顔へと変わった。
「なぁ、冗談だよな? 本当はもっとこう、さくっと、楽に、目が覚める方法があるんだよな? だって、この世界、普通に痛いとか涼しいとか感じるんだぞ?」
 得も言われぬ恐怖を感じて必死に確認を求めた俺を前にして、サクラは何も答えない。
 背中にはひんやりと感じる支柱の温度が確かに存在している。館内には熱くもなく肌寒さを感じるでもない適度な空調が効いていたけれど、俺の額には小粒の汗が無数に浮かんだ。極度の緊張感のせいだろう。
「……サクラさん?」
 サクラは顔色を窺う俺の表情を一度まじまじと確認した後、再びニコリと満面の笑みを見せる。
「この方法が一番シンプルでスマートなやり方なんだよ。それに、言規に意趣返しもできる。あたしに取って最良の方法だと思わない? ふふ、日頃の恨み晴らす時、今こそ勝ち鬨挙げるのだ♪」
 俺を瀬戸際へと完全に追い詰めた後、サクラの口からはようやく種明かしが出た。
「助けろ、言規ダッシュ!」
 まだ、間に合う。起死回生を狙い、俺はサクラを制止するよう声を張り上げて言規ダッシュへ要請した。
 しかしながら、言規ダッシュは呼びかけに応えることなく、薄情にも両手を広げて肩を竦めるだけだった。そのジェスチャーを解読すると「無理だ、諦めろ」となる。加えて言えば、そこには俺に対して「自業自得」と指摘する態度も含まれていた気がする。
 今まさに、渾身の力を込めて振り翳された棍棒が、俺の脳天目掛けて振り下ろされようとしていた。してやったりと言わないばかりの、悦に入ったサクラの表情が目に焼き付く。
「渾身脳天割りだ! クラーッシュ!!」
 サクラが口にした「グシャッ」という嫌な擬音は、まさにその擬音通りに響き渡った気がした。




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