煌々とイルミネーションの灯る霞咲市の大型ショッピングモールを後にすると、既に霞咲の繁華街は夜の装いだった。
霞咲では基本的に家電量販店を中心に、家具や寝具の専門店や、日用雑貨からウェイバースリントンで取り扱うような趣味の品までを幅広く集めたショッピングモールを練り歩いた形だ。全国展開している家電量販店の冷蔵庫コーナーで、ふとしたことから論戦になったこともあって、時間はあっという間に過ぎた感がある。
もちろん、各店舗でかなりの時間を費やしたことは間違いない。けれど、やはり時間の経過が早く感じられたのは、出掛けの真生の一件などもあってそもそも黒神楽出発が予定よりも遅くなったことが最大の要因だろう。
「そろそろ夕食の時間だな」
街行く人を眺めながらボソリと呟いた泰治の言葉に、俺は時刻を確認する。時計の針は既に午後七時を回っている状態だ。あれこれ考えながら店内を冷やかしている時には感じなかったものの、そうやって時刻を認識したことで急に空腹感が襲ってきた気がした。一応、立ち食い蕎麦という手頃なところで手は打ったものの、遅い昼御飯もきちんと食べている。それにも関わらずこうやって空腹感に襲われるのは、何だかんだ言って霞咲市内のあちこちを歩き回ったことが相当の運動量になったからだろう。
「どうする? 簡単なもので済ませるか?」
「昨日の今日ではあるが……、せっかく霞咲まで出てきたんだ。黒神楽での俺達の門出を祝う決起集会を兼ねて、真生ちゃんに美味しいものを食べさせてあげることにしようじゃないか。なに軍資もたっぷりある!」
俺の「簡単なもので済ませる」といった提案は、有樹によってあっさりと一蹴された。
昨夜の真生の発言があまりにも衝撃的だったことが、その提案に結びついていたことは明らかだ。まさか、コンビニ弁当よりいくらかはマシだろう程度の持ち帰り弁当を「美味しい美味しい」だなんて喜ぶとは思ってもみなかったわけだ。
尤も、尾を引いていたのは俺も同じ話で、その有樹の提案に二つ返事で同意する。
「ああ、そうだな」
後はまだ見解を述べていない泰治が首を縦に振りさえすれば、晩御飯の件は決起集会の流れで確定となる。当然、俺と有樹は視線を泰治と向けるのだけど、その可否は泰治に問うまでもなかった。
「真生ちゃんは、何か食べたいものがある?」
真生へ晩御飯の要望を確認する泰治が、この提案を蹴ることはあり得ないだろう。
「何でも良いですよ。贅沢は言いません。御馳走していただく身ならば尚更です。それに、有樹さんと泰治さんとお兄ちゃんの門出のお祝いですから、あたしがあーだこーだと口出しなんかできませんよ」
非常に謙虚な姿勢で返されて、泰治は逆に頭を捻ることになったようだ。あわよくば、真生の一声で「じゃあ、これだ」と決めてしまいたかったのかも知れない。
ともあれ、一頻り頭を捻った後、泰治はポンッと手を叩く。
「だったら、中華料理なんてどうだろう? ここからだとちょっと歩くけど、繁華街の方に目を付けていた中華料理屋があるんだ。取り皿に分けて食べることで様々な味を楽しめるし、何でもそこは学生さんの懐にも優しい食べ放題料金を設定している店らしいんだ。大量に頼んで残すと罰金があるみたいだけど、この面子なら大丈夫だろう?」
どうやら、泰治には霞咲でいくつか目を付けている店があるらしい。
他に「これだ」という候補を挙げられるほど俺も有樹も霞咲の外食事情に精通してはおらず、泰治の提案を否定するこれといった理由もないことから、誰もそこに異論を唱えるものはいなかった。
「ちょっと待ってくれよ、確か雑誌の切り抜きが財布の中に……」
泰治はズボンの尻ポケットから折り畳み式の財布を取り出すと、中から目的のものを探し出そうとする。しかしながら、泰治は財布の中身を引っ掻き回しながら、なかなか雑誌の切り抜きを見つけ出せない。
何気なく、俺は横合いから泰治の財布の中を覗き込む。すると、そこには大量のレシートとやら割引券やらが入っていた。とてもじゃないけど、そう易々と雑誌の切り抜きなんてものを見つけられるとは思えない状態だ。レシートなんか渡される度に捨ててしまえば良いし、存在を忘れて使用しないことの多い割引券なんか財布に入れなければいいと思うのだけど、……やはり性格的なものだろう。捨てずに財布を膨らませるのが泰治のタイプだ。
そして、そうやって財布の中身を掻っ攫うように探し物をする泰治を、有樹は「またか」と言った具合の呆れ顔で見ていた。いや、そもそもこのご時世に「雑誌の切り抜き」などという言葉が出たことに、有樹は非効率的だと溜息を吐いていたかも知れない。
泰治が財布の中から雑誌の切り抜きを発見するよりも、携帯の店舗検索でその中華飯店を見つける方が早いと有樹は考えたらしい。有樹は携帯電話を取り出すと、泰治に店の情報を尋ねる。
「店の名前は解っているのか? 解っているなら、俺が携帯で周辺地域から検索を掛けるぞ?」
「あー……、うん。結構特徴的な店で……」
泰治からはうろ覚えの情報が断片的に語られただけだったものの、有樹はあっさりとその中華飯店を周辺検索から見つけ出した。そこは霞咲周辺地域の外食情報を集めた食べ歩き系のサイトで、長いこと上位に居座る中華飯店らしい。
特徴として泰治が挙げた点をキーワードに入力し篩を掛けたところ、候補を数件にまで絞ることができたのだ。後は位置情報と照らし合わせて、目的の中華飯店かどうかを選別していったわけだ。
有樹の最新携帯をナビゲーションモードに切り替え、指示に従って進むこと十数分。その中華飯店「香龍楼(こうりゅうろう)」は繁華街の中でも外食産業がずらりと並ぶ通りの中程に姿を現した。そして、パッと見た限りでは、そこまで混雑していないようだった。
夕食時だと言うこともあって順番待ちや入店できない事態も覚悟していたけれど、それは杞憂だったようだ。装いからして中華飯店だと一発で解る門構えの玄関を潜ると、すんなりと奥のテーブルまで案内される。店内の雰囲気も、門構え同様にこれこそ中華飯店というどぎつい彩りで、柱や椅子の肘掛けなどには姿が鏤められていた。
店の奥まった場所に位置する通りに面した四人掛けのテーブル席へと腰を下ろすと、激しい空腹感が首を擡げるのが実感できた。中華料理独特の匂いが鼻を付き腹の虫が唸りを上げるも、後はリミットを解除するだけだ。
ちなみに、俺の斜め向かいの窓側席に有樹、俺の横り窓側席に真生、そして泰治と俺が通路側の席に座る形だ。
店員から手拭いとお冷やを受け取った後、俺は何気なく窓の向こうの外食産業の並ぶ通りへ視線を向けた。パッと見た限りでは、どの店舗もそれなりに混み合ってはいるようだったけれど、順番待ちが発生している様子はない。この中華飯店も店内には疎らに客がいるものの、どちらかというと空席が目立つ印象だ。
今日が週末前の金曜日や祝日ではないからか。平日の客入りはどこもこんなものなのかも知れない。
「中華料理って言うのは、凄くたくさん種類があるんですね」
お品書きを開いた真生は、開口一番にそう感心して見せた。
お品書きの中には中華料理の定番メニューから、俺達がちょっと耳にしたことがないような料理まで、ずらりと一品料理が並ぶ形だ。真生でなくともその種類の多さに驚かされるレベルである。しかも、そのどれもが食べ放題プランで注文可能という点が嬉しい。食べ放題プランには時間制限があるものの、アルコールでも飲まない限りは二時間も延々と食べ続けることなどないだろう。割安を謳うコース料理もあったけれど、正直この食べ放題プランがあればそれでこと足りると思ったぐらいである。
「どれがどれとか解らなくても定番を一通り頼んでいくから、真生ちゃんは取り皿に分けて色々食べてみれば良いよ。これをもっと食べたいと思うものがあったら、また別途注文すればいいしね」
「はい、そうしますね」
泰治の説明を受けた真生が素直に頷いたことで、さくっと有樹が店員を呼び定番ものの注文が始まる。
後で追加注文をすれば良いと理解した上で注文をある程度セーブしたはずなのに、あれよあれよいう間にテーブルは料理で埋まっていった。一品一品自体も、想像以上にボリュームがあった形だ。
まぁ、何だかんだ言ったところで、真生を除いたこの三人でも平らげられない量ではない。
「それでは、新天地「黒神楽」でのこれからの生活に乾杯!」
有樹が音頭を取り、ソフトドリンクの入ったコップが「カンッ」と音を鳴らす。そして、いざ「いただきます」と料理を口に運んだところで、真生を除く三人が三者三様の顔をして固まった。
真生だけは最初の勢いのまま箸を進めていたけれど、口の中に広がる何とも言えない独特の味は「さぁ次を」という気持ちを削ぐには十分過ぎた。有樹と泰治と俺で、それぞれ異なるものを口に運んだ形だけど、そうして固まったのは恐らく同じ理由からだろう。
「どうして、回鍋肉の豚肉にこんな余計な下味を付けるんだ? せっかくのジューシーな具材に余計な下味を付けるからこんなことに……。全て台無しじゃないか。クソッ、騙された! 誰だよ、こんなデタラメレビューを書いた奴は!」
「はは、良い勉強になったじゃないか。氾濫している情報の大半など、自分自身で精査しないとこんなものだろうさ。それに、安価で量が非常に多いという点には嘘偽りはないし、肝心の味は人の好みによって大幅に印象の変わる部分だ。この味が好みの人達に取ってしてみれば、ここは五つ星を付けるに足る中華料理店なんだろう」
吐き捨てる泰治と、達観気味の有樹の対応が二人の性格を良く表していた。
何はともあれ、コップを鳴らすところまでが最高潮だったことは言うまでもない。
愚痴を言ってももう取り返しは付かない。論評で状況は何も好転しないのだ。現実解を探す必要があった。
「現実的な話をしようか。……どうする?」
捻ることもなくストレートに意見を求めてみたけど、そこには重苦しい沈黙が生まれた。軽口を叩くことさえままならないというその沈黙こそが、俺達の置かれた状況を如実に表しただろう。乾杯の名目が名目だっただけに、余りにも幸先の悪いスタートだと言わざるを得ない。
頻りに空腹感が襲ってくる状態にもかかわらず、料理を口に運んで「これは不味い!」と思うのだから、この味付けは悪い意味で相当なものだ。それこそ「空腹は最大の調味料」とまで言わしめた有名な格言を、真っ向から否定できるレベルにあるのだ。正直、悪い意味でかなり胸を張って良い。
「鼻を擽る堪らない匂いと、見た目だけは非常に美味しそうな料理の山。だけど、実際口にすると失意のどん底へと叩き落とされる。……何か「こういう試練なんだ」って言われても納得しちゃうよな」
さっきまでのボルテージはどこへやら。一気に盛り下がったテンションで泰治は現状を嘆いた。
しかしながら、葬式会場さながらの雰囲気を余所に、俺達が処理に困る料理の数々へと箸を伸ばす奴がいた。
他でもない、真生である。
「凄い! 凄い美味しいですね!」
実際に箸を付ける真生が「美味しい」と太鼓判を押した春巻きを、泰治は疑いつつも「ものは試し」と口に運ぶ。けれど、一噛み二噛みと口を動かした後、すぐにコップに注がれた水を全て一気に飲み干した。
身を持って料理の味の程を体感した泰治が疑いの目で真生を見返すけれど、当の真生の食べっぷりは凄まじい。少なくとも、真生自身に嘘を言っているつもりはなかっただろう。
「真生ちゃんは、濃い目の味付けが好みな人だったりする? 例えば、カレーライスとかカツ重とか、何にでもマヨネーズだとか唐辛子やタバスコと言った刺激物をたっぷり入れたりとかさ?」
一方の有樹も、泰治と同じ疑問を抱いたようだ。俺の耳許へと顔を寄せると、ほぼ泰治が真生に向けたものと同じ意味に解釈することのできる質問を小声で口にする。
「なぁ、言規。真生ちゃんは味覚が残念な子なのか?」
昨日の今日で、その存在をしっかりと認識したに過ぎない俺にそんなことが解るはずもない。しかしながら、だからと言って「本人に聞こう」というわけにも行かない。万が一聞き方を間違えて、せっかくの真生の食欲を削ぐようなことになれば自分達の首を絞めることに繋がるのだからだ。
ふと、昨夜の真生の話が脳裏を過ぎった。味覚で感じる刺激に慣れていないのならば、こんな味付けの料理であっても「あるいは……」と思う節もある。
「昨夜の話から想像するに、まともなものを食べる機会に恵まれなかっただけじゃないかな」
そんな俺の見解を肯定するかのように、濃い目の味が好みかどうかを泰治に問われた真生はこう答える。
「昨日もちょっとだけ話しましたけど、そもそも、あまりこういう料理自体を食べさせて貰ったことがないんですよ。だから、こういう味が濃い目なのかどうかも、正直なところ区別できなくて……」
真生は申し訳なさそうに笑いながら、好き嫌い以前の問題だからその質問に答えられないと告げた。
昨夜の真生の言い分には「食事をする必要がない」というような趣旨の言葉があった。けれど、だからと言って、ここまで酷い状態だというのを目の当たりにして、俺達が改めて戸惑ったことは言うまでもない。
「……不憫だ」
「可哀想に。蔵元町が誇る銀山亭(ぎんざんてい)の手ごね和風おろしハンバーグとか、本当に価値のある美味しいものを真生ちゃんに食べさせてあげたいな」
ともあれ、再び中華料理へ手を伸ばす真生を尻目に、真生の味覚については俺の見解が採用されたようだ。「味覚が残念な子」という可能性は否定できないけれど、真実は闇の中でもいいだろう。なぜならば、料理の処理に困る今の俺達に取って、そんな真生の存在は非常に心強かったからだ。
俺は今が好機と言わないばかりに、真生を鼓舞する。
「喜べ真生! 全部食べてくれていいぞ! いや、寧ろその飽くなき食欲を存分に、遺憾なく、完膚無きまでに発揮して全ての料理を食い散らかすんだ!」
「ふふ、さすがにこんなたくさんは入らないよ」
てっきり「任せなさい」と言った類の心強い言葉が返ってくると思っていたから、その真生の返答に俺は肩透かしを食らったような感覚だった。言ってしまえば、ただの謙遜か遠慮からきた言葉であって欲しかったぐらいだ。そうだ、思わず「いやいや、遠慮するなよ!」と言った類の言葉を飲み込んだぐらいだ。
そして、俺の鼓舞に対して真生から心強い言葉が返ることを期待していたのは有樹も泰治も同じだったらしい。眼前で、これ見よがしに肩を落とす二人の姿が目に映った。淡い期待が望み薄となったことで、二人は渋々という具合で、取り皿へとよそった料理に改めて目を落とす。
そして、箸の進みの鈍重さを、真生に気取られてしまう。
「どうかしたんですか、泰治さん。さっきから全然箸が進んでいないみたいですけど?」
痛いところを鋭く真生に突かれてしまって、泰治は苦笑する。
「いや、ちょっと、良い具合にお腹は減っているんだけど俺の味覚に合わなくて、……食べたくても食べられないというか何というか、はは」
返答に困った泰治は、こともあろうにふいっと顔を背けて有樹へ助けを求める。
取り皿へとよそった料理の減りが、有樹も泰治同様に悪いことを真生が気付いた瞬間である。
「味覚に合わないのって、有樹さんも、泰治さんも?」
真生は首を傾げて見せて、その理由を当人でない俺へと問い掛けた。奥歯に物が挟まったような口振りの泰治を前にして、当人にそれを確認しても要領を得ないと思ったのかも知れない。
しかしながら「旨い旨い」と言いながら料理を口に運んでくれる真生に対して、まさか「不味くて食えたもんじゃないから」とは口が裂けても言い出せない。結果、多分という曖昧な表現を用いて、俺は真生の疑問に「そうだ」と返答する。
「うん、多分そう……」
真生はまだ納得できていない様子だったけれど、それ以上味覚の話題について言及してくることはなかった。
どうやら、味覚の話題については一山越えてくれたようだ。そうは言っても、気分的に少し楽になるということもなかった。眼前に積まれた料理の山を「如何に消化するか?」という次の現実的問題が浮き彫りになるだけだったからだ。
拳骨サイズの唐揚げを頬張る真生の食欲に、まだ陰りは見えていない。けれど、さすがに目の前の料理を全て平らげるだけの容量があるとは思えなかった。真生の腹部にちらりと視線を落として確認してみても、細いウエストが目に付くだけで四次元ポケット張りの収納スペースは期待できそうにない。
援護射撃をするにあたり、俺は何か喉の奥に料理を流し込むためのドリンクが必要だと思った。溜息一つ吐き出して「メニューを取ってくれ」と、今まさに有樹へお願いしようとした矢先のこと。ふと、視線の端に何か動く物体が存在していることに気付く。それは位置的に真生の足下に居て、色はピンクが混じっていた気がした。
サクラである。間違いない。
直ぐさまテーブルの下を覗き込んで真生の足下付近を確認すると、そこには予想通りサクラの姿がある。
「どうして、ここでサクラが出てくる!」
思わず、俺は大きな声を出してしまっていた。
サクラの名前をはっきりと口に出してしまったことで、有樹と泰治の反応が気に掛かったけれど、大っぴらに二人へ視線を向けることもできない。俺の視線は真生とサクラの挙動を確認するだけで精一杯だ。
真生は小さく舌を出して見せると「ばれちゃった」と言わんばかりの態度だ。
何かを企んでいるのは間違いなかった。
俺は真生に詰め寄って、サクラを出現させた意図を厳しい態度で問い質す。
「吐け! 何のつもりだ!」
「……実際に見て貰った方が早いかな」
そう答えるや否や、真生は突然、テーブルの上へと体を乗り出すように体勢を取り有樹と泰治へと向き直った。
「このお店の料理が口に合わないのは、有樹さんと泰治さん、どちらの方が上ですか?」
脈絡もへったくれもなく唐突に切り出された真生の質問に、有樹と泰治はお互いの顔を見合わせた。
「比較しようがない質問だよ、真生ちゃん」
「どっちも大差ないと思うけど、……でも、どうしてまた?」
実際の言葉としては異なる形となったけれど、概ね二人の意見は一致していたと言っていいだろう。
しかしながら、その回答は真生に取って好ましい内容ではなかったようだ。どちらか片方を求めた真生に取って、有樹ならば「有樹」というはっきりとした回答が欲しかったらしい。
有樹と泰治のどちらを選択するか。思案顔で唸る真生は、その基準を模索しているようだ。
それを知ってか知らずか、ただ黙って真生の次の言葉を待つ二人は、ただただ判決を待つ哀れな囚人のように見えた。
「んー……、じゃあ、泰治さんかな。中華料理が良いって言ってこのお店を選んだの、泰治さんですしね!」
真生が「決めた」と言わないばかりにポンッと手を叩いた矢先のこと。サクラはテーブル上まで身軽な動作であっという間に移動すると、その次の瞬間には泰治目掛けて飛び掛かっていた。
尤も「飛び掛かる」とは言っても、牙を剥いて襲い掛かったわけではない。泰治を一つの着地点と見なして、勢いよく飛び付いた感じだ。そして、恐らくは目論見通り、サクラは泰治の側頭部へピタッと密着した。すると、すぅと水に溶けるかのように消えてしまった。泰治が慌ててサクラを払い除けようとしたのはその後だった。
一つ「ガタンッ」と椅子を立つ激しい音が鳴る。それは泰治の動揺を如実に表していただろう。
「え? 何! ちょっと待って、これはどういうこ……。有樹! 言規!? 俺を、俺を操ってどうするつもりだ!」
泰治は唐突に立ち上がると、大きな声を上げて真っ先に真生を非難しようとした。けれど、サクラを嗾けるという真生の行為を、俺と有樹の画策によるものだと思ったらしい。その矛先は、言下の内に俺と泰治へと移った。俺と有樹を険しい表情で睨み見ると、疑心暗鬼に駆られるままに非難を続ける。
「まさか嫌がる俺に無理矢理食を進めさせるつもりか! 確かに、確かにこの店を候補に挙げたのは俺だ! だけど、こんな仕打ち! 畜生ッ! ……この、この悪逆非道共め!」
恐らく、泰治は一時的な混乱状態に陥ったんだと思った。
尤も、それも納得できないわけじゃない。サクラという存在が自分の体にどういう影響を及ぼすのか皆目見当も付かないのだから「取り乱すな」というには無理がある。まして、泰治も永曜学園で真生が行使するサクラの力を目の当たりにしているのだからだ。
ともあれ、そのまま放っておくと何をしでかすか解らない状態まで、泰治が追い込まれているのは間違いない。
俺は有樹に目配せをして、泰治を制止すべく体勢を整える。一方の有樹も、俺の意図を敏感に読み取ると、溜息混じりに頷いた。けれど、後は一気呵成に攻め落とすだけという間際になって、そこに漂い始めた不穏な気配を泰治は敏感に感じ取ってしまったらしい。
俺達は泰治に先手を打たれる。
「動くな!」
激しい口調で警戒感を前面に押し出す泰治は、さも当然という動作と言わないばかりに胸元からカスタムガスガンを取り出して見せた。銃口の照準を俺へと定める泰治からは形振り構わずという態度さえ漂った。それなのにも関わらず、牽制に際して一定の距離を置く点までを含め、泰治の一連の動作はあまりにも手際が良い。俺や有樹に体を強張らせるだけの僅かな時間さえも与えなかった形だ。言うなれば、それは日常茶飯のことをいつも通りにこなすような自然さだったろう。
眼前に突き付けられたものが何なのかを理解するまでに、俺は数十秒もの時間を要する。そして、それが泰治ご自慢のカスタムモデルガンであることを理解して始めて、俺は顔を顰めた形だ。
俄に、場を緊張感が包み込んだ瞬間だった。
そう広くもないテーブル席だ。面積的にも体勢的にも移動量は限られる。まして、銃口から身を隠せるような仕切りなんかも存在しない。逃げも守れもしないなら「攻めに転じようか」と言いたいところだけど、泰治には既に隙がなかった。
距離を置かれて銃を構えられてしまったことで、完全に先手を打たれてしまった状態だ。まして、泰治は興奮状態に近く、下手に刺激しようものならあっさり引き金を引くだろう。埒を開けようにも、打つ手のない状態だった。
「頼むから、……動かないでくれよ。いや、ゆっくり両手を挙げるんだ、言規。俺だって悪友を撃ちたくはないし、言規に銃口を向けたいとも思わないんだ。でも、言規が強行策に打って出るっていうなら、俺だって黙ってはいられない!」
俺は泰治の要求通りゆっくりと両手を挙げると「抵抗する気がない」ことをジェスチャーで伝えた。そこにはサクラを嗾けるという行為が「自分の意図した事態ではない」ことを示す意味合いもあった。
そうやって俺が早々に無抵抗を決め込んだため、泰治の目は自然と有樹へと向いた。
一方の有樹はテーブルに頬杖を突く格好で泰治と対峙する。
一見すると対抗する気もないような印象を受ける格好だけれど、有樹は力業でどうこうというタイプではない。恐らくは今回も、泰治を上手く丸め込むべく知恵を絞り手練手管を織り込んだ話術で攻めるのだろう。
「よもや、懐からガスガンが出てくるとは思わなかったな。普段から携帯しているのか? どうにか玩具の範疇に収まるとはいえ、こういう表立った場所で銃口を構えるのは感心しないな。人目を惹く酷い光景だぞ、泰治?」
有樹の指摘を受けて、泰治は視線だけを走らせる形で自身に対する店内の注目度を探った。尤も、その間も泰治の警戒は有樹、惹いては俺や真生に向けられていた。何か不穏な動きを感じ取れば、すぐに泰治は対処しただろう。
今はまだ、店内から俺達に向く注目度なんてそう大したレベルではない。けれど、いくらある程度の騒がしさを許容してくれるタイプの店舗だとは言っても、さすがに言い争いの様相を呈し始めれば人目を引くのは否めない。アルコール類も取り扱う店舗だからこそ、喧騒の混ざる雰囲気には過敏であるはずだ。
「備えあれば憂いなしって奴だよ、有樹。人目を惹いてしまうのは、……どうしようもないけど、早めに片を付けるよう努力はするよ。だから、早めに片が付くよう、ぜひとも有樹にも協力して欲しいね」
「少し落ち着いたらどうだ? 俺や言規に泰治を操るつもりがあるのならば、とっくにそうしてる。それこそ、サクラちゃんが泰治へ飛び付いた瞬間にだ」
サクラを嗾けるという行為に対し、そこに有樹の意志など絡んでいるはずがないにも関わらず、自身の関与を仄めかして見せる手法はさすがだと思った。操るつもりがないことを有樹が明言することで、泰治にその主張を信じさせることができる。もちろん、真生がどんな腹積もりを持ってサクラを嗾けたかは解らない。実際には、泰治を操るつもりでサクラを嗾けたかも知れない。
「……御託は良いよ。サクラちゃんを俺から取り除くんだ。まず何よりも、話はそれからだ」
けれど、泰治は頑なにサクラを取り除くことを要求した。
それはサクラを嗾けた理由について、議論を重ね理解を示すつもりがない態度を明確にしたとも言える。
取り付く島のない泰治の態度を前に、不意に有樹が強い決意を伴った口調で真生の名前を呼ぶ。
「真生ちゃん」
どぎついオレンジ色のソースが掛かった唐揚げを、今まさに口へ頬張ろうとした状態で真生はピタリと制止した。
不思議そうな顔を付きをして有樹へ向き直る真生の様子は、恰もサクラを嗾けたことに端を発するこのいざこざなど我関せずと言う風である。
「はい、何ですか。有樹さん?」
真生に尋ね返されても、有樹はその後に続くべきはずの「何か」を口にすることをしなかった。いや、しないのではなく、そうやって何も喋らないことこそが思惑通りの行動だったのかも知れない。
真生の名前を呼んだ意図について、泰治に推測させることが目的だった。そんな気がした。既にサクラの支配下にあるという不利な状況を、泰治に嫌と言うほど再認識させる効果を狙ったわけだ。そうだ、真生にお願いするだけで泰治は簡単に自由を奪われる可能性さえあるのだ。
普通に考えれば、真生の名前を呼んだ有樹がその後に続ける言葉は、泰治に取って好ましくない内容だ。それこそ「サクラの力を用いて泰治を大人しくさせたい」だとか、俄に周囲の注目を集め始めたこの状況までをも引っくるめて「永曜学園の時のような方法で沈静化させたい」だとか、その内容はどうとでも解釈できる。
操るつもりはないけれど、泰治の態度如何によっては操るという選択もできることを匂わせて、交渉のテーブルに着かせる腹積もりだろう。
そこを境に、泰治の表情は苦悶に歪んだ。すると、追い詰められた泰治は、まさに苦し紛れと言わないばかりに銃口を真生へ定めようとする。恐らく、俺や有樹に掛け合うことをすっ飛ばして、サクラを取り除くよう真生へ要求するためだ。
「止めておけ、ガスガンでどうにかできる相手じゃないぞ」
実体験に基づくそんな忠告が脳裏を過ぎったけれど、それが実際に俺の口を吐いて出ることはなかった。二度三度と左右に首を振って葛藤した後、眉間に皺を寄せる泰治が結局銃口を逸らしてしまったからだ。
泰治は絞り出したような声で真生にサクラを嗾けた真意を尋ねる。
「真生ちゃん、……サクラで俺に何をさせるつもりなの?」
「ああ、そっか。そういうことを懸念しているんですね」
諦観と苦悶が入り交じった泰治の表情を目の当たりにして、ようやく真生はこの状況下で「何が懸念されているのか?」を理解したようだ。真生は泰治の手を取りぎゅっと握ると、まるで子供をあやすような優しい口調でその心配が杞憂であると説明する。
「大丈夫ですよ、泰治さん。お兄ちゃんの大切な親友である泰治さんを操ったりなんてしませんよ」
サクラが飛び掛かってきた直後からこっち、泰治は真生への警戒を剥き出しにした表情だったけれど、体に何の異変もないことが確認できた後は次第次第にその警戒も薄れていった。相変わらず顔色は優れなかったものの、真生が自分を操るつもりがないと明言したことで安心したのだろう。恐る恐るという風に、サクラを嗾けた意図について確認する。
「だったら、どうして俺にサクラを?」
一方の真生は悪びれた様子一つ見せず、それが泰治のことを考えた上で実行したものだと胸を張る。
「サクラの力で泰治さんの「この料理は口に合わない」という先入観を打ち消したんです。さっき料理が口に合わないみたいなことを言いましたけど、あたしはきっと泰治さんの頭の中に「この料理はこんな味をしているはずだ」みたいな先入観があったんだと思います。だって、こんなに美味しい料理なのに、泰治さんの口に合わないなんて信じられません」
サクラを嗾けた理由を真生から聞いた泰治は、どんな反応を返すべきか戸惑っているようだった。
究極的にはサクラを取り除いて欲しいといった泰治の要求自体は変わらないだろう。けれど、真生はそれをよかれと思ってやった節があり、泰治自身も体に悪影響がないことを確認してしまった形だ。如何にして「余計なお世話」だとか「傍迷惑」だとかいったことを真生に認識させるかという部分で、泰治は固まっていたのだろう。
しかしながら、そうやってオブラートへと包む込む作業に手間取っている間に、泰治はサクラによって享受した「影響」について確認するよう真生から促される。
「そうだ、例えばこれ、凄く美味しいんですよ。騙されたと思って食べてみてください」
真生はどぎついオレンジ色のソースが掛かった唐揚げを箸で掴むと、それを泰治の口へと運んでいった。その唐揚げは、ついさっきまで真生が「旨い旨い」と言いながら食べていたもので、泰治は完全に退路を断たれた形だ。
「いや、でも……」
断固拒否という強い態度に出られない歯切れの悪い泰治に、その気になって料理を勧める真生をはね除けられるわけがない。畳み掛ける言動に、泰治はタジタジになる。
「お腹も減っていますよね? はい、泰治さん。あーんして下さい」
真生から空腹状態について指摘が出た矢先のこと。まさに絶妙のタイミングで、泰治の腹の虫が鳴った。それはまるで真生の指摘を「待ってました」と言わないばかりで、何かが仕組まれていたとさえ勘繰ってしまうほどだ。
頻りに鳴る腹の虫と、上目遣いの真生に迫られ、泰治は恐る恐る口を開いた。ぎゅっと目を瞑ると、泰治は意を決したように口許へと運ばれてきた唐揚げに噛み付いた。
俺と有樹が固唾を呑んで見守る中、泰治は二度三度と咀嚼を続けたものの、胃の中へと流し込むための飲物を要求することはなかった。そして、泰治自身驚きを隠さない顔で、唐揚げの味について「いける」と太鼓判を押す。
「おお、……何だよ、どぎついソースが如何にもな感じだけど、唐揚げはそれなりにいける味なんじゃないか」
「ほら、いける味ですよね?」
自身が勧めた唐揚げを美味しいと評価されたことで、目に見えて真生は喜んだ。
問題なく食べられる味の料理があるということを理解した泰治は、真生が勧めた唐揚げを皮切りに他のものへも箸を伸ばした。そして、悉く賞賛を向ける。
「寧ろ、焼売やエビチリなんて俺の好みの味に近いぞ、これ! 言規、有樹、食べないなら、全部掻っ攫ってしまうけど良いのか? ホントに、騙されたと思って突っついてみろよ」
さすがに、泰治自身が一度口にして「駄目だ」と結論づけたものにまでもう一度箸を伸ばして試すようなことはしなかったけれど、恐らくそれをすれば泰治の評価は翻ったはずだ。泰治の「太鼓判」には、あくまでサクラが影響していることを忘れてはいけない。
気付いていなかったのかも知れないけれど、泰治が賞賛した料理の中には俺や有樹が「これは駄目だ」と結論づけたものも含まれている。マジマジと注視することはしなかったものの、そんな泰治の言動を有樹は「信じられない」といった驚愕の目で見ていた形だ。
「ああ、掻っ攫っちゃってくれよ。……足りなくなったらまた頼めばいいだろ? 食べ放題コースなんだしさ」
さすがに「騙されてるから、それ」とも言えず、俺はそんな当たり障りのない回答で曖昧にお茶を濁した。
ともあれ、そこを境にして泰治は普段のペースを遙かに上回る勢いで料理を平らげ始める。腹の虫が鳴るレベルの空腹状態だったとはいえ、そこに異様さを感じ取ったのは恐らく有樹も同様だっただろう。
「いや、美味しい、これ、凄い美味しいだろ。はは、美味しい、美味しいよ、これならいくらでも食べられそうな気がする。つーか、食える、食えるぞ! エビチリ、ヤバイ。マジヤバイよ。今まで食べたどんなエビチリよりも美味しい! はは、食べ放題コースだろ? どんどん持って来てよ!」
真生はニコニコ顔でそんな泰治を眺めていたけれど、既に泰治の言動にはいつかの須永に見る「通常状態ではない」部分をいくつか覗き見ることができる。もう間違いないだろう。
真生は真生を問い詰める。
「……真生、泰治に何をした? いいか、そもそも論として、一つだけ言っておくぞ? 誰かに何かをさせたいだとか、何かをお願いしたいとか真生が思う時に、サクラを使うのは止めろ! 今まではその力で誰かを真生の思い通りに動かすことができたかも知れない。でも、これからそれは通用しないし、させないからな」
これだけは言っておかなければならない。
意を決して言い切ったところに、有樹からは畳み掛けるように言葉が続く。
「そうだとも、真生ちゃん。そんな能力に頼らずとも、俺や言規が真生ちゃんの頼みを断るなんてことはないんだ。泰治だってそうだ。真生ちゃんが一言「お願い」と言えば、その頼みを断るなんてことはあり得ない話なんだ」
しかしながら、それは援護射撃ではなかった。サクラの使用中止条件に対する見解には、俺と有樹の間で大幅な認識の相違が発生する。それも、有樹の見解は聞き捨てならない危険な言葉だ。
呆気にとられて固まる俺の横で、真生は目をパチクリとさせる。想像だにしていない言葉だったのだろう。そして、その言葉の意味を理解した後は、真生の表情がぱぁっと明るくなる。
「ホント! 有樹さん、ホントに?」
「……はぁ? おい、有樹、何言ってんだよ?」
一方の俺は、はしゃぐ真生とは対照的だ。有樹の言葉が想像だにしていないものだった当たりまでは真生と一緒だったはずなのに、……どうしてここまで違いが出たのか。
しかしながら、訝る俺の様子を前にして、有樹の暴走は留まるところを見せない。
「真生ちゃんが望むことならば、俺達は全身全霊を持って答えるよ」
真生は感極まって言葉もないと言わんばかりだった。そして、そうやって相好を崩す真生の様子の中に、芝居がかった面が見え隠れしなかったのは救いだろう。
万が一、そこに計算高い面が覗くようなら、俺は全力を持って有樹の言葉を撤回させたはずだ。即ち、俺は有樹の宣言撤回を求める動きを取らなかった。対象者を勝手に「俺達」と括られた形だったけれど、考えようによっては俺や泰治が断固たる態度で挑めば良いだけの話である。ほとほと呆れ果てて反論する気力も失せたというのも本音ではあったけれど、最初からサクラを使った強行策で来られるよりはいくらかマシだと思ったわけだ。
ふと、そんなやりとりを目の当たりにして、俺の脳裏にはフィードバッグする光景があった。
それは永曜学園から誠育寮への帰路に付く俺達に「使命がある」と言い出し同行を求めた須永の言動だ。では、須永にそんな台詞を口走らせたのは誰だろう。言わずもがな、こんな台詞を有樹に口走らせてしまう力を真生は持っているのだ。
しばし呆けながら固まっていたけど、俺はハッと我に返る。
「真生、もしかして、また……」
掴み掛からんばかりの勢いで真生へと詰め寄るけれど、当の真生は首を左右に振って能力の使用を否定する。
「使ってないよ。お兄ちゃんはサクラを見ることができるでしょう? サクラ、有樹さんに何かした?」
疑惑の視線に対して「心外だ」と言わんばかりの態度を見せる真生を前に、俺は真偽について判断できない。言葉に詰まってしまえば、俺は低い唸り声を上げるだけだった。俺の正直な寸感を述べさせて貰うと「真生の言葉に全幅の信頼を置くことはできない」となっただろうか。
但し、今回サクラの使役を俺が目撃していないことは、紛れもない事実だ。
確信が持てないことで真生を相手に真相解明を強く打って出られないから、自然と俺は有樹へと向き直る。
「正気か、有樹?」
「ふむ、それはとても難しい質問だな。正気と狂気の境界線なんてものを誰が定められるんだ? 誰が判別できる?」
てっきり有樹からは「当然だろう?」とか「愚かな質問をするな」とか言った類の態度で切り返されると思っていたから、正気という状態の認識について掘り下げるというスタンスに俺は当惑した。
正気という状態の認識について真顔で問う有樹の様子を「正気」だと判断する人は稀だろう。まして状況を何も知らない人間がこの場面だけを見て、有樹を「正気」だと認識することはないと思う。けれど、普段は見せることのないその突飛な面を垣間見たことで、俺は逆に今の有樹がサクラの影響を受けていないことを確信する。
「強いて言うなら、精神科の先生とかじゃないかな?」
有樹を刺激しないよう適当な言葉で相槌を打った後、俺は真生へと向き直る。すると、真生は小さく両手を挙げて見せて両の掌を俺に見えるようジェスチャーを取った、そうすることで、真生は自分が「潔白だ」と主張する形だ。
もちろん、こと有樹に関して言えば既に真生を疑う余地はない。けれど、追求すべき点は他にもあったわけで、俺は追求の矛先を泰治へと移し替え、再び真生へと向き直る。
「……有樹はともかく、泰治はどうなってるんだ?」
「サクラでできることは永曜学園でやったような、意識を乗っ取って人を操ることだけじゃないよ、お兄ちゃん。寧ろ、あれはサクラでできることの究極に近いの。もっともっと身近なところでサクラの力を使うと、例えば空腹感だけを増幅させたり、味覚だけを変質させたりできる。五感を制御することで「冷たい」と「熱い」を逆に感じるようにしたりね」
サクラを行使することによって「できること」を述べた真生の説明を聞いた上で、俺は改めて泰治を目を止める。
今回真生が泰治に対してやったのは、その説明の中の「味覚の変質」で間違いないだろう。しかしながら、味覚の変質のみが泰治に及ぼされた影響だというには、その異常な食欲の説明が付かない。
俺は改めて真生を見る。そうは言っても、もう答えは出ていたに等しい。ついさっきの説明の中に「空腹感の増幅」なんてものが混ざったのは、真生自身、間違いなく泰治にその影響が及んでいることを察していたからだ。
険しい追求の態度を身にまとい、真生へ説明を求めたつもりはなかった。けれど、真生は横目でチラリと泰治の様子を確認した後、サクラの力が「想定外の部分にも影響しました」と小さな声で白状する。
「だから、今泰治さんは心の底からこの中華料理を「こんなに美味しいものはない」と感じている筈だよ。……ちょっと、サクラの効果が空腹感の増幅にも影響しちゃったかもだけど」
それが意図せず起こった副作用だと解り、俺は安堵の息を吐いた。
尤も、サクラが泰治へもたらしている好影響よりも、副作用の方が大きな問題であるのは傍目に見ても間違いない。俺は泰治からサクラの影響を取り除くよう、真生へ命じる必要があるだろう。
ふと、サクラが副作用という予期せぬ効果をもたらしたことで、俺の脳裏を過ぎることがあった。それは「サクラを使役し他人に影響を与える力」を、真生自身が完全に制御できていない可能性だ。そして、その疑問は味覚の変化についても影を落とした。
「味覚を変化させられるってことは、極端な話をすると実際には中華料理を食べているのに、それをカップヌードルの味と感じることもできるってことだよな。それってつまり、泰治が感じている美味しさは、本物の味じゃないかも知れないってことか?」
泰治の感じる「美味しい」をあくまで本物ではないと認識する俺に、真生は納得できないという表情を剥き出しにした。そうして、真生は「本物」という言葉の認識に対して確認を求める。
「お兄ちゃんの言う「本物」って何? 美味しいかどうかっていうのは、人の味覚に左右されるんだよね? 料理の方を人の好みに合わせるのが普通のやり方かも知れないけど、人の好みの方を料理の味へ合わせることで得ることのできる「美味しい」は本物じゃないの?」
真生の見解を聞き、俺は言葉に詰まる。咄嗟に言い返せなかったのだ。
「……確かに、目の前に並べられた料理の数々は俺達の好みに合わないというだけだ。当然毒でも何でもないし、食べてしまっても害などない。それならば、素材本来の美味しさを味わっていない可能性が十分あるとはいえ、俺達の味覚を変えることで得られる「美味しい」も、確かに本物だといえるのかも知れない。野菜で鶏肉の食感と旨味を再現したものを何も知らずに食し、食べた当人が「鶏肉だった」と思うなら、実際がどうであれ、それは彼の中では紛れもない事実だ」
加えて、有樹がその真生の主張に理解を示して見せたから、俺は混乱状態に陥ることになる。
「でも、そんなの結局は騙されているわけであって、本当にその料理として美味しいと思えるものを食べているわけじゃない……。あれ、いや、待てよ。味覚として美味しいと感じるものを食べているから、体感上は本当に美味しいのか?」
「お兄ちゃんも有樹さんも、実際に試してみればいいんじゃないかな」
不意に聞こえる不穏な台詞。そうして、真生の足下には顔を覗かせた二匹のサクラが居た。
サクラの動きを牽制すべく、俺は真生の足下へと泰治カスタムの銃口を定める。泰治がやって見せたほどの俊敏さや、手慣れた感は無かったけれど、俺としては十二分に裏を掻くことができたと思った。サクラが実際に行動する前に、サクラへ照準を定め、いつでも引き金を引くことができるようにしたのだ。
しかしながら、ふと気付くと、サクラを牽制する俺の眼前にも銃口が向けられていた。
その銃を握る相手は真生である。
恐らく、それはさっき泰治が俺に向けたものだ。
どこかのタイミングで真生がちっゃかり拝借したのだろう。
「ね♪」
眼前には突き付けられた銃口と、全力で脅しに掛かろうかと言わんばかりの満面の笑み。
俺の表情には自然と苦笑が滲む。
「さっき、言わなかったっけか? 誰かに何かをさせたいだとか、何かをお願いしたい時にサクラを使うなってさ」
「別に無理強いしたいわけじゃないよ。試してみたらって提案しているだけだよ、お兄ちゃん」
そこまで言い終えたところで、眼前に突き付けられた銃口を睨み見る俺の表情に真生は気付いたようだった。銃の照準を俺の側頭部から泰治カスタムへと落として見せれば、銃口を俺へと突き付けることが「試すこと」を無理強いするためではないと改めて説明する。
「これはお兄ちゃんが、何回言っても何回言ってもサクラを虐めようとするから牽制しただけだよ」
事実、俺が泰治カスタムの照準をサクラから外すと、真生も構える銃を引っ込めた。
そして、お互いが銃の照準を外した矢先のことだ。不意に、真生が「閃いた」と言わないばかりに小さく手を叩き、そこに心有り顔を見せる。
「ああ、そっか。こういう場面で使うと効果覿面なんだね」
何か良くないことでも思い付いたんだろう。俺はそんな思いを強くしたけれど、当の真生は非常に緊張した面持ちだ。
真生は小さく「コホンッ」と咳払いをした後、すぅと息を呑み深呼吸する。すると、それまで見せていた不敵な態度からは想像できないほどの、落ち着きない挙動で件の言葉を口にした。
「お願い、お兄ちゃん、有樹さん」
それは有樹が真生へと向けて言った「魔法の言葉」だ。
「良し、俺は真生ちゃんの提案に乗るぞ! 試してみようじゃないか! どうせ、今のままでは料理を処理し切れないんだ。中華料理を口に頬張って極旨ハンバーグの旨味を味わう体験をすることになるにせよ、苦肉の策としては一興だ!」
自分自身を焚き付けるかのような有樹の乗り気の態度は、言い出しっぺとして引くに引けなかったからだろうか。
しかしながら、例えそうであっても、余りにも真生の提案を安易に許容したことに俺は驚かされた。
有樹だって永曜学園での一件を目の当たりにしている。少なくとも、サクラを受け入れることに「抵抗を覚えるな」というのは、俺には無理な話だ。加えて言えば、さっきから一人話に加わることもせず延々と料理を食べ続ける泰治の様子だって横目に捉えることができる。自分達の身にも副作用が降り掛かることだって十分考えられる。
魔法の言葉の効果を目の当たりにして機嫌を良くする真生と、積極姿勢の有樹を尻目に、一人俺だけ疑心が消えない。
「本当に効果あるんだろうな? 実は味覚なんて全く変化しなくて、ただただ体の自由が利かなくなって目の前の料理を嫌々食べ続けることになるとかないだろうな?」
サクラがもたらす味覚の変化について訝る俺に、真生は「バラツキがある」と前置きした上で胸を張る。
「もちろん、誰に対しても常に同じ効力を発揮できるわけじゃないよ。効き難い人と、効き易い人がいる。後、さっきも言ったかもだけど、身内が相手だと余程完璧に隙を突いたりしない限り効果が薄いみたい。それでも、相手を完全に操ろうとするわけじゃないんだし、味覚を変化させるぐらいなら問題なく行けるよ」
俺は一頻り考え倦ねた末、済し崩し的にサクラによる味覚変化を受け入れることを決めた。
そして、最後にもう一度、有樹に意志の変化がないことを確認した後、俺はサクラの使役を許可する。
「解った、……サクラの能力を行使することを許可します」
「それじゃあ、まずは有樹さんから行きますね」
そう言うが早いか、サクラは打てば響く反応を返した。有樹の胸元辺りにヒョイッと飛び付いて、そのまま器用に頭部を目指して登り出す。すると、首筋付近の肌に足を触れさせたところで、サクラはすぅと解けるように消えた。
「はい、オーケーです」
「……もう、良いのかい?」
完了を告げる真生に、有樹は拍子抜けしたことを隠そうともしなかった。想像以上に、すんなり終わったからだろう。そうして、二度三度と体の随所の感覚を確かめるように手足を動かすと、変化に対する率直な感想を述べる。
「何かが変わったような感じはしないな」
「そこは、……あれです。実際に食べて頂ければ、その効果の程が解ると思います」
真生は有樹の背後に回ると、その背中を押して席へと座らせた。
しかしながら、一度実際に「不味い」と判断した料理を再び口へと運ぶことには、さすがの有樹も不請顔だった。それは、ついさっきの率直な感想で述べたように、味覚の変化に対する実感が乏しかったことも影響していたはずだ。
踏ん切りが付かない態度の有樹を前に、真生は鶏の唐揚げにぷすりとフォークを突き立てる。そうして、泰治に対してやったように、有樹の口許へと料理を運んだ。
「はい、あーんして下さい」
そこまでやられてしまえば、有樹が不請顔を続けることはできなかった。そもそも、サクラの使役を許容したのも有樹自身だし、味覚の変化という真生の提案を試すと決めたのも有樹自身だ。有樹は真生が差し出す唐揚げを口へ含むと、味を確認するように二度三度と咀嚼する。すると、有樹からは「これなら美味しく食べられる」という評価が下る。
「おお! ちゃんと中華料理の味がする! それに、これは確かに、悪くない味だと思えるようになっているな」
「ふふ、そうでしょう。美味しく食べられるでしょう、有樹さん?」
サクラによる「味覚の変化」を賞賛する有樹を前に、真生は上機嫌で胸を張った。
有樹の言葉を信じるのなら、きちんと「中華料理」の味がするらしい。それなら、後はこれで副作用さえ発生しなければ、ひとまず完璧だと言えるだろう。わざわざ有樹が先行してくれたのだ、俺はそこを注意深く見守る必要がある。
真生は「この触感がオススメなんですよ」と言った具合に、次から次へと有樹へ鼻歌交じりに料理を勧める。有樹はコロコロと表情を変えるそんな真生の様子をいとおしそうに見ていたけれど、真生はそうやって反応を返さない有樹の態度をまだ踏ん切りを付けられないと受け取ったようだ。再度、料理にフォークを突き立てると、有樹の口許へと運ぼうとする。
ぼそりと有樹が呟いたのは、まさにその矢先のことだ。
「いや、しかし、美しいな、真生ちゃんは。昔の香奈恵さんを映した写真の中から、当時の姿のまま抜け出してきたかのようだ。……ああ、いや、香奈恵さんに似ているから美しいなんて言葉は失礼だな。断言するよ、香奈恵さん以上だ」
一瞬、固まった真生だったけれど、すぐに有樹の褒め言葉に相好を崩す。
「ふふ、ありがとうございます」
副作用の有無を確認すべく、それとなく有樹の様子を眺めていた矢先のことだっただけに、俺は思わず目を見張った。
ここ最近の有樹の言動を見てきた一人として率直に言わせて貰えれば、その台詞を口走ったこと自体をおかしいとは思わない。きっと「心酔する」とはこういう状態を言うのだろう。けれど、不安を覚えたのも事実だった。あまりにもドンピシャリのタイミングだったからだ。なにせ、有樹同様、俺もこれからサクラを受け入れようという状況なのだ。
不安に背中を押されるまま真生の耳許に顔を近づけると、俺は再度確認の意味を込めて尋ねる。
「本当に、サクラの力で味覚を変質させただけなんだよな?」
「有樹さんのこと? サクラの能力には、時間制限があるんだよ。どんなに持続させ続けようと思っても、永遠には持続させられない。だから、サクラの力を使ってあたしを好きになって貰っても意味がないよ。そんなことしたところで、魔法が解けた時に、虚しくなるだけでしょう? だから、そんなことのために、サクラの力を使うことはしないよ」
真生は心外だと言わないばかりの顔で反論した。
余りにも正論過ぎる指摘をされて、俺はただただ頷くしかない。
「……ごもっとも」
「じゃあ、次はお兄ちゃんだね」
真生に名前を呼ばれ、俺は思わず尻込みをした。そうは言っても、このままでは埒が開かないことは解っているし、サクラの使役を許容したのもこの俺だ。意を決してサクラを許容すると、真生は泰治と有樹を相手にそうしたように、俺に対しても口許まで料理を運んでくれた。すると、あれだけ「不味くて食えたもんじゃない」と思ったはずのものが、ちゃんとした中華料理の味に変わっていて、俺は思わず唸り声を上げる。
「うん、……確かにいける。旨いよ、旨く感じるよ、これ」
確かに有樹の通りだった。
香龍楼での一件が、サクラの有用な使い方を学ぶ好事例になったのは言うまでもない。真生の胸三寸で「効果」が変わるというのが最大の難点ではあるけれど、サクラを使役することに対する俺の中での認識が変化した瞬間だった。
霞咲から黒神楽への道すがら、泰治は終始青い顔だった。尤も、誰がどう見ても、許容限界量以上の料理を口に運んでいたのだからそれも当然だろう。
サクラの能力が味覚の変化に留まらず、副作用として空腹感の増幅にまで及んだことが最大の原因なのは間違いない。しかしながら、異常な食欲を発揮する泰治の様子に俺達が途中で気付いていたのも事実であり、それを早い段階で制止できなかったことも理由の一つだと言えた。
ともあれ、サクラの能力が空腹感増幅という副作用をもたらしたことを、真生は素直に「ごめんなさい!」と謝った。胸元で両手を合わせ深く頭を下げる姿勢は、叱責されることも覚悟していたはずだ。けれど、当の泰治はと言えば「大したことじゃないから怒っていない」というサバサバとした対応で、あっさり真生の失敗を許した形だ。
尤も、その時点でも泰治の顔色は真っ青で、ただただ叱責する余裕もない状態だった可能性も考えられる。それを証明するかの如く、誠育寮へと戻った泰治は「気分が優れないこと」を訴えて、早々に部屋へと引っ込んでしまった。
「もうしばらく中華料理はみたくもない」
最後に力なくぼそりと呟いた言葉を、俺は聞き逃しはしなかった。
一方、泰治とは打って変わって味覚変化の恩恵だけを受けたはずの有樹の方も、今夜はいつもよりかなり早い時間から自室へと戻った形だった。「後で顔を出すかも知れないが」と含みを持たせはしたものの、早めに片付けておきたい雑用があるらしい。
有樹と泰治が早々に自室へと戻ってしまったことで、必然的に俺と真生の二人きりとなる。
泰治ほどではないにしろ、サクラの力を借りて美味しいと感じる中華料理を許容限界ギリギリ当たりまで腹に詰め込んだことが原因だろうか。眠るにはまだ早いけど、だからと言って近隣地域を散策するのも気乗りがしない気分だった。
誠育寮の廊下で顔を見合わせると、俺は目顔でこの後どうするかの判断を真生へ求めた。
「んー……、部屋に戻ってゆっくりしようよ」
真生からは意外にもインドアな提案が出た。こういう場面ではもっとアクティブなスタンスを見せるタイプだと、勝手なイメージで真生を捉えていたのだ。
真生の要望に反対する理由もなかったことで、俺も早々に自室へ引っ込むことにした。
しかしながら、違和感が俺を襲ったのは施錠を外して自室へと足を踏み入れた直後だった。昨日の今日だということもあって、真生と二人きりになることにも特別警戒をしていなかったけれど、俺は早まったのかも知れない。
そして、厄介なことに俺はその違和感を具体的に「これだ」と言い表すことができなかった。それはきっと、真生がまとう雰囲気だとか言った類の酷く曖昧なものだったからだ。けれど「気のせい」だと自分に言い聞かせて騙し通せるほど薄っぺらい感覚でもない。
ともかく、真生を全面的に信用して、肩の力を抜くことを危険だと訴え掛ける直感がある。
俺は後ろを振り返ると、そこに佇む真生の様子を確認する。けれど、真生の様子にいつもと何ら変わるところはなかった。俺の視線に気付いて首を傾げる仕草もそうだ。疑って掛かるに足る何かはそこにない。
結局、その切れ長の目元に灯した鋭い視線に「どうしたの?」と尋ねられて、俺は言葉に窮した。
しかしながら、俺に続いて部屋へと入った真生が後ろ手にドアを閉めるてしまうと、その雰囲気がより顕著になる。
「力を使ったらお腹が空いちゃった、お兄ちゃん」
不意に、何の前触れもなく真生がボソリと呟いた。
この期に及んで食料を要求するかのような言葉が真生の口から出てきたことに、俺は怪訝な表情を隠せなかった。
少し記憶を手繰り寄せるだけで、真生が「旨い旨い」と良いながら唐揚げなんか摘む場面を思い返すこともできる。あの中華飯店で真生が摂取した料理の量は、間違いなくこの短時間で空腹感が首を擡げる程少量ではなかったはずだ。しかしながら、頭を捻ってみても真生の言葉を額面以外の、何か他の意味を含んだものだとも思えない。
目顔で何かを訴え掛ける真生を前にして、俺はその真意を確認する。
「お腹が空いたって、……さっき鱈腹食べたばかりだろ?」
「んー……、多分あたしとお兄ちゃんとの間には認識の違いがあるんだ」
俺の指摘に対して、真生は「認識の違い」という表現を返した。そうして、料理を食べるという行為が俺に取ってどんな行為に当たるものなのかを説明する。
「さっきみたいにみんなで料理を食べるっていう行為は、美味しいだとか楽しいだとか、そういった人間性を構築する上での感覚的な部分を味わうためのものであって、本能的な空腹を満たす「食事」とは違うんだ。お兄ちゃんで言うところの「三時のおやつ」だとか「夜食」だとかいうイメージに近いのかな。あくまで、一時凌ぎの「お腹の足し」みたいな感覚。だから、極端な話をするとなくても問題はないんだ」
真生の説明を聞いた俺は「あまり御飯を食べたことがない」といった言葉の背景を理解した。そして同時に、真生へ料理を食べさせることをおかんがしなかった大凡の理由についてもだ。
では、真生に取っての「食事」とはどんな認識なのか。
ふと、真生という存在を俺に隠した理由の一つぐらいはそこに関係するんじゃないのか。そんな気がした。
嫌な予感がチクチクと頭を刺すものの、だからと言って今更聞かずに済ますなんて真似ができるはずもない。
「それじゃあ、真生に取っての「食事」って言うのはどういうものなんだ?」
俺の問いに、真生は目を伏せる。
その仕草は「食事」について、どういう言葉を用いて説明すれば良いかを思案したものか。それとも真生に取っての「食事」という行為について、それを俺に話しても良いかどうかを迷ったものだろうか。ともあれ、そこには「答え難い」という真生の態度が滲んだ。
そして、どういう紆余曲折の元その台詞に達したかはともかく、真生は突然聞き捨てならないことを口走る。
「……食べてもいい?」
上目遣いに俺を見る真生の様子に、俺は不穏な匂いを敏感に感じ取った。立てて加えて、真生の瞳の奥に灯った光の中に、強欲の赴くままに俺を強請るような鋭い感情が見え隠れしていたことを俺は見逃さない。
俺は思わず後退っていた。背筋を冷たいものが走り抜けていったのだ。
真生はそんな俺の逃げ腰をただただ黙って見ていたけれど、それはあくまで俺が射程圏外まで移動しなかったからだ。恐らく、そこから本気で逃げだそうとして行動すれば、真生はそれを許容しなかったはずだ。
例えば、ドアを目掛けて全力疾走し、この部屋からの離脱を試みるだとかいう行為がそれに該当するだろうか。尤も、真生の立ち位置は部屋の出入り口であり、俺が本気で逃げるとなれば窓から飛び降り脱出を試みるぐらいしか手はない。
ジリジリと後退しながら間合いを取る俺の警戒に答えるべく、真生はさっきの突飛な発言の意図を説明する。
「司護はね、血の繋がりを持つ相手から力を分けて貰う必要があるの。そうしないと、この世界に存在する上で必要となる根本的なエネルギーを補給できないんだよ」
それが本当かどうかを、俺は判断できない。ただ、一連の主張をさらりと聞き流した限りでは、一応話に筋は通っていると思った。俺達が摂取するような普通の食事からでは、司護の存在を維持するエネルギーは得られない。そして、それは血縁者から分けて貰う必要がある。
では、黒神楽でその対象となり得るのは誰だろうか。それが真生と血を分けた俺だというわけだ。
一時凌ぎでも何でも良かった。他に良案がないかを俺は必死に模索する。けれど、そうやって真生から目を逸らした一瞬の思案の時間が仇になった。真生の方も俺の隙を狙っていたらしい。音もなく一足の間に飛び込まれてしまえば、あっという間に利き手を掴み取られ、勢い余った真生によって俺は壁際へと押し付けられる格好だ。
「手を離せ!」
後ろは壁、逃げ場はない。眼前には真生が居て、突き放すことも適わない。これは「詰んだ」という状態なのだろう。
状況を好転させ得る最後の手段である説得も、段階を踏む駆け引きをすっ飛ばして俺が声を荒げてしまった後では効果が薄いだろう。事実、真生からは頑なな拒否の意志が示され、強い口調で強行策に出たことに対する理解が求められる。
「嫌。だって、もうそろそろ限界なんだもん! お兄ちゃんもあたしのこと、自分自身に置き換えて考えてみて欲しいな。サクラを使役するのも力を使うんだよ。お腹が減るの。いつまでも空腹を我慢し続けることなんてできないよね? お兄ちゃん達だけ、サクラの力でお腹いっぱい美味しい思いをするなんて狡い」
「いいや、我慢できるね! 俺をそんじょそこらの根性なし共と一緒にして貰っては困るな! 欲しがりません、勝つまでは! 水と塩だけで一週間は粘ってみせるね!」
羨み顔の真生をそんな主張で切って捨てたものの、説得力に乏しいことなど俺自身解っていた。真生が訴えるように、既に腹一杯美味しい思いをした後だ。どうこう言ったところで、その事実は覆らない。
真生はあからさまに不興顔を覗かせると、余程その俺の主張が癪に触ったらしい。
「そんなこと言っちゃうんだ。じゃあ、これから試してみようか?」
真生の態度から本気が窺えて、俺は慌てる。
「待った! ちょっと待て! 待ってください! いきなり水と塩だけで一週間も生活することになったら、倒れてしまうよ! こういうのはだな、事前に少しずつ少しずつ準備をしていって……」
必死に思考回路をフル回転させ適当な言い訳を垂れ流すも、真生からは白い眼が向けられていた。慌てふためく俺の様子が仇になったのだろう。真生は端から俺を疑って掛かっているようだ。
どうにか押し切らないと大変な事態になる。それを強く意識した俺は、一か八かの強硬姿勢に打って出る。
「大体、俺の許可なく俺から力を奪い取ろうって言うのか!」
「それなら、お兄ちゃんの口から「はい」と言わせればいいんだね?」
俺の非難に一度キョトンとした後、真生はニコリと微笑み呑込み顔で切り出した。
それは俺に確認するべく口に出した言葉だったはずなのに、真生は俺に答える時間を与えない。いいや、そうして答える時間を与えないことで、半ば強制的に自身に有利な執行条件を決定付ける意図があったのだろう。
「ふふ、そんなの簡単なことだよ」
微笑を見せる真生の目付きは大真面目だった。
簡単だと言い切った真生の真意がサクラという手段かどうかは判らない。けれど、何らかの方法を用いて俺の口から「はい」という言葉を強制的に喋らせるつもりであるのは、もう間違いない。
このまま拒絶を続けることが最善策と言えない気配が漂い始め、俺はもう腹を括るしかないことを悟る。
「判った、判ったから! 良いか、痛くするなよ? ちょっとだけだぞ? 俺が止めろって言ったらすぐに止めろよ?」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんに何かあったら、困るのはあたしなんだから」
子供をあやすような口調で俺を宥め賺しながら、その片一方で足下へとサクラを忍ばせる。
俺は真生のそんな言動不一致を見逃さない。
「サクラを出すんじゃないよ! サクラをどうするつもりだ!」
サクラに対する俺の拒否反応を前に、真生の表情には困惑の色が混ざる。
「サクラの手助けは必要だよ? だって、お兄ちゃん、あたしに力を分け与える方法について、お母様から教えて貰ったことなんてないでしょう?」
それは確かに真生の指摘通りだった。真生へと力を分け与える方法をおかんから教えて貰った記憶はない。だから、それをサクラがサポートし可能にするというのなら、ここでサクラが必要だという主張も頭では理解できる。しかしながら、それを鵜呑みにできない俺も、そこには存在していた。
想定外の事態に発展したことで、俺は躊躇いを隠せなかった。けれど、対する真生は「我慢の限界」と言わないばかりに、俺の意思を無視してことを押し進めることを選択したようだ。俺の手首を掴む力をグイッと強めると、真生はサクラに目配せをする。言葉に出すことはしなかったけれど、サクラに何を命じたのかを俺ははっきりと感じ取った。
当然、真生が力業に出たことで、俺も黙ってはいられない。けれど、口から非難の言葉が吐いて出る間際になって、俺は真生の瞳に灯る懇願の色をはっきりと認識した形だ。
視線が交差した後も、一歩も引く素振りを見せない真生を前に、俺は逆にやりくるめられてしまう格好だった。ふいっと目を逸らしてしまえば、ぐっと唇を噛んで押し黙りサクラの襲撃に備えるしかない。
俺はてっきり、サクラは何か物理的な行動を俺に対して起こすものだと思っていた。けれど、サクラは俺の足下をするりと抜けると、まるでそこに穴か何かが存在するかのように俺の影の中へと進入する。すると、永曜学園で真生の影が変化したように、今度は俺の影が漆黒色に染まった。そして、ふと気付けば、俺は完全に壁にもたれ掛かり膝を突いていた。
ドクンッと心拍数が跳ね上がるのが解った。体を襲った異変に困惑するけど、既に俺はどうすることもできない。俺の手首を握り締める真生が力を緩めてしまっても、既に俺はサクラに体の自由を奪われてしまったようなイメージだ。意を決してどうにかしようとすると動かせないこともないけれど、真生をはね除けられるほどの強い力が出せるわけでもない。
真生の利き手がスルリと俺の胸元を滑って落ちていき、漆黒色に染まった俺の影の中にズブズブと埋まる。
客観的にその状況を眺めていることができたのも、そこまでだった。再び、ドクンッと心拍数が跳ね上がる。
体力のバロメーターが視覚化されて見えるところに置かれていたなら、きっと物凄い勢いでエンプティに向かって減っていくのが解っただろう。もちろん、途中で真生を制止しようと試みるも、言葉が実際に口を付いて出ることはなかった。それがサクラによる影響か、急激に力を奪われることで体が思うように反応しなくなっているからなのかは判別できない。
遠退き掛ける意識の中で、意図せず真生の表情が目に飛び込んでくる。
真生は恍惚とした表情だった。焦点の定まらないトロンとした瞳と、小さく開いて荒い吐息を漏らす唇がそこに艶っぽさを際立たせる。真生に取って「空腹を満たす」という行為は、かなりの快楽を伴うものなのかも知れない。
対照的に、俺は激しい心地悪さに襲われていた。最初は痺れるような感覚があって、次第に反応が希薄になっていき、気付けば体のあちこちの感覚が鈍重になっていたのだ。それに加えて、疲労感だけが蓄積していく何とも形容し難い心地悪さは、恐らく何回体験しても「慣れる」ことなどないだろう。そう思う。
不意に、体の芯から冷えていくような錯覚に襲われた。
そして、その直後には「このままではまずい」という直感に駆られる。
真生の空腹を満たすという行為が行き過ぎてしまった場合、俺はどんな状態まで追い込まれるのか?
それが解っていないにも関わらず、状況を客観的に判断する限り、俺の眼前にある真生の様子は簡単に加減を間違ってしまい兼ねない状態に見えるのだ。俺が感じる恐怖の根幹は、その疑問に帰結しただろう。
「も……、もう止め」
どうにか喉の奥から言葉を引っ張り出してきた矢先のこと。不意に、視界が暗転した。
続いて、ドサッと何かが床に転がる音がする。
どれくらいの時間、視界は暗転していたのだろうか?
ともあれ、暗転した視界がどうにかぼやけた輪郭を映すようになって始めて、俺はその音を発したものが俺自身であることを理解した。目に映る部屋の状況から察するに、俺は床の上に横たわっている状態だった。意識ははっきりしていたものの、金縛りに合っているかのように体は動かなかった。そして、どうにかまともに働く視覚と聴覚に頼って一つ一つ情報を拾い取っていくと、部屋の中に真生の気配があることが解った。
ぼやけた視界が捉える真生は、俺が実家から持ってきた漫画雑誌へ目を落としているように見える。一枚薄い水の膜を挟んで遠くで鳴るようなメロディーは、真生の鼻歌だろうか。ともあれ、真生の食事は滞りなく終わったらしい。
部屋には時計がないので現在時刻は解らないものの、真生がまだ起きているところを見ると、あれからそんなに時間は経っていないのだろう。
不意に、部屋のドアをノックする音が響き渡った。
真生は漫画雑誌から目を上げ立ち上がる。
「はい、開いていますよ」
「失礼するよ、真生ちゃん。言規は……と、何だ、言規は眠っているのか」
声を聞く限り、部屋を訪問してきたのは有樹のようだ。
有樹へ向けて「真生に力を吸い上げられて身動き取れないんだ!」と主張しようとするものの、喉の奥からは呻き声さえ出てこない。先ほど中華料理を鱈腹食べたはずなのに、空腹に晒されているかの如く体は冷え切っている感じがした。
「こんばんわ、有樹さん。お兄ちゃんに何か用でしたか?」
「ああ、いや、今日は言規にだけ用があるっていうわけじゃないんだ。寧ろ、用があるのは真生ちゃんに、……なんだ。ただ、言規も居た方が良いというか、何というか、その……」
部屋を訪れた理由を尋ねられて、俺ではなく真生に用があると有樹は答えた。
体が思うように動かないこと、且つ床に横たわっていることで、有樹がどんな表情で真生に対峙しているのかは解らない。けれど、有樹にしてはやけに歯切れの悪い言葉が続くと思った。
「朝方、今着ているジャージ以外には替えの服を持ってきていないと言っていただろう? もし真生ちゃんが俺の拙い作品でも良ければ、貸し出そうかと思って……」
そこまで有樹が言い終わったところで、不意に部屋を沈黙が包み込んだ。恐らく、ちょうどそこに差し掛かったところで、有樹は真生の反応を窺ったのだろう。
それまで真生がどんな表情で、有樹の話に耳を傾けていたかは解らない。けれど、次の真生の反応が全てを物語っていただろう。
「本当ですか!」
それは喜びと驚きとが半々で混ざった真生の声色だった。
真生の好意的な反応を前に、有樹はホッとしたようだ。饒舌に喋り始めれば「真生が了解してくれるのなら」という言い回しから「ぜひして欲しい」と勧める形へ言葉も変化する。
「地元を離れて黒神楽で生活するとなれば、そう頻繁に愚妹へ試着を頼むというわけにもいかない。そう言う意味でも真生ちゃんにお願いしたいと思うし、何より俺も真生ちゃんを美しく彩る、真生ちゃん用にカスタマイズしたものを作りたい。そして、何よりも、ぜひ真生ちゃんに着てみて貰いたいんだ!」
「はい、喜んで。ぜひとも、有樹さんの手で美しく彩って貰いたいと思います」
真生に迸る熱意を受け入れられたことで、俺はてっきり有樹が派手なガッツポーズを見せて喜ぶと思った。それこそ、有樹らしはないけれど、暑苦しいまでの感情の高ぶりを見せて咆哮を上げるぐらいの勢いをまとうと思ったのだ。けれど、真生を前に熱く要望を語った後は、一気にその熱気を冷ましたかのように有樹は押し黙ってしまった。
既にその思考はハイテンションの気分を通り越してしまって、如何に真生を美しく彩るかという点に向いているようだった。表面上に形として現れないだけで、その心の内には溢れんばかりの想像力が漲っているらしい。
「もう少し身形に気を遣うだけで、見違えると思うんだ」
それを証明するように、有樹がボソリと呟くように口にした寸感は酷く真剣な口調だ。
「……見違え、ますか?」
そう尋ね返した真生の言葉の端々には、有樹の目に自身の格好が「気を遣っていないように見えた」ことに対する不服と疑問が混ざった。恐らく、真生に取っては今の身形も十分気を遣ったものなのだろう。
それを有樹が理解したかどうかは解らない。けれど、有樹は真生の疑問を自信に溢れた口調で真っ向から否定する。
「うん、見違えるよ。例えば、そのボサボサの髪を少し整えるだとか、たったそれだけのことでも真生ちゃんの美しさは際立つようになると思う。加えて、真生ちゃんの魅力を引き立てる衣服と服飾がそこに揃えば、その辺にごまんと転がるファッション雑誌で見掛けるレベルのモデルなどでは相手にならないだろう。本当に、服装に無頓着なのは勿体ないよ」
いよいよ持って、真生に心酔する有樹の言動も度を超してきたと思った。
そこだけを切り取って比較すれば、永曜学園でサクラによって操られた須永の言動と大差ない。
「ふふ、ありがとうございます♪」
ベタ褒めする有樹の言葉に、真生は気をよくしたようだ。相好を崩すと有樹に弾む声で礼を返した。けれど、有樹は顔を真っ赤に染めて、照れ臭そうに真生からふいっと視線を外す。今更ながら、自分が胸を張って小っ恥ずかしいことを口にしたことに気付いたのかも知れない。
「そう言えば、どうして有樹さんは服飾関係に興味を持ったんですか?」
真っ赤に染まって押し黙ってしまった有樹に向けて、真生は何の前触れもなく服飾に関する趣味について尋ねた。それは有樹に気を遣って、話題を変える意味合いもあったように思える。
ともあれ、服飾関係に興味があることを俺が知らなかったこともあり、どうして有樹がそこに興味を持ったのかは俺も非常に気になるところだった。身動き取れないことで何の気なしに二人の会話を聞いていたけれど、そこを境に俺は「一言一句聞き逃すまい」と聞き耳を立てる姿勢に移行した。
有樹は一度咳払いをして体裁を立て直すと、まず自身の家族構成から話し始める。
「どこまで真生ちゃんが俺の家族構成について知っているかは解らないが、俺には姉が三人と妹が一人いるんだ。まぁ、愚妹はともかく常々姉共は可愛げの欠片もないような連中だと俺は思っていたんだ。それこそ、ずぼらで癇癪持ちでワガママ千万で、一番上の姉に至ってはちょっと気に入らないことがあると物に当たることさえある。身内と言うことで贔屓目に見ても、本当にこれと言って褒めるべきところなんかないと常々思っていたぐらいだ」
自身の姉三人を一括りにして、ボロクソに言う有樹の言葉は酷く機械的で淡々としていた。せめて、そこに怒りや軽蔑といった感情が少しでも混ざっていれば、姉に対してまだ改善を望む気持ちが有樹にあると思えたのだろうか。即ち、そんな有樹の言動からは、自身の姉に「可愛げ」を感じる素振りは微塵も感じられなかった。
「けれど、ある時、華やかに着飾っているのを目の当たりにして驚愕させられた。それは見た目だけでなく、性格まで含めて完全な別人になってしまったかのように俺には見えたんだ。今思えば、何かの行事に際して猫を被り外面を良くしていただけだろうし、見栄えにしろ化粧で上手く誤魔化していただけだとは思う。それでも、子供の俺には「着飾る」という魔法を見せられた気分だったんだ。それが最初のきっかけだと思う」
服飾に興味を持った理由を一通り聞き終えると、真生はニコリと笑う。
「それでは、あたしも有樹さんに魔法を掛けて貰うことにしますね」
「真生ちゃんのために、全身全霊を持って魔法を仕立てさせて貰うよ!」
改めて真生の了解を取り付けた有樹からは、溢れんばかりのやる気が感じられた。けれど、漲るやる気が表面へ姿を現したその直後には、有樹は興奮状態から立ち返っていた。そうして、話の矛先を俺へと移す。どうやら、有樹は俺にも用があるようだ。
「まぁ、それはともかくとして、できれば言規にも色々と意見を聞きたいことが……」
「お兄ちゃん、疲れているみたいだったから、今夜は寝かせておいてあげて欲しいです」
けれど、有樹が俺を起こすという素振りを満たせ瞬間、真生はささっと有樹の言葉を遮ってしまった。真生の口振りには、それが「俺を気遣った上での判断」といった雰囲気が漂う。そこに分別顔が加わってしまれば、真生に甘い有樹がコロッと騙されてしまう事態なんてものも想像に難くない。
ともあれ、そこには俺の置かれた状態を有樹に知られることを厭う真生の意図が見え隠れした。もしかすると、陣乃の家として司護の「食事」に関することは、あまり他人に知られたくはない事柄なのかも知れない。
「それじゃあ、ちょっと出てくるね。ゆっくり休んでね、お兄ちゃん」
真生は俺の側までやってきて耳許でそう囁いた。直後、ふわっと体に何かが掛けられる。どうやら、真生は俺にタオルケットを掛けて行ったらしい。俺を身動きできない状態へ追いやったことに対する反省だとかそういったものは一切窺えなかったものの、一応気遣いはしてくれたようだ。
パチンッと音を立てて部屋の電灯が落とされてしまえば、今からでも起き上がろうなんて考えは影を潜めてしまった。
「このまま眠ってしまおう」
せめて、眠ることで身動きさえ取れないこの状況が少しでも改善されることを切に願って……。