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Seen05 真生の居る日常生活(体験版)


 須永を含む風紀委員を全員見送った後、俺達は永曜学園を後にした。
 永曜学園から誠育寮までの帰路は、俺達三人に真生を加える何とも言えない空気が漂う中での移動となった。時間はたっぷりあったはずなのに、その移動時間で真生から聞き出せたことが非常に少ないという事実がそれを裏付けしただろう。少なくとも俺の真生に対する態度の中に、腫れ物に触るような感覚があったことは否めず、それが多分に影響したのは間違いない。
 聞き出すことのできた数少ない内容を要約すると、真生は俺の移動に合わせて蔵元町から四苦八苦しながら付いてきたということだった。当然、そんなことを宣う真生に行く当てなどあるはずもない。
 身を寄せる場所は、必然的に誠育寮の俺の部屋ということになる。そもそも「昨夜はどこに居たんだ?」という話にもなるわけだけど、真生は「後で説明する」の一点張りで話すことを拒んだ。どうせ「漫画喫茶で仮眠を取りつつ一晩明かした」というのが真相だろうから、俺もそこに深く突っ込むことはなかった形だ。
 途中、俺はおかんに連絡を試みたものの電話は繋がらなかった。しかも、おかんは電話に出る出ない以前の話で「携帯の電源が入っていないか、電波の届かないところに居る」というお決まりのパターンが返ってくる状態だった。
 結局血縁に関する真相が解らず仕舞いのまま、真生を誠育寮の俺の部屋へと転がり込ませるという事態になった。
 俺が電話を掛けたことはおかんが携帯電話を操作できる状態になった時に通知されるため、後はおかんが掛け直して来るのを待つ形になるのだろう。ただ、真実がどこに落ち着くにせよ、有樹と泰治の記憶の中に真生が存在している事実が、真生の言葉に確かな信憑性を持たせたことに違いはない。それがなければ、何の根拠も示さず「俺の双子の妹です」なんて名乗った真生の同行を俺が許可することはなかったはずだ。
 俺達が誠育寮へ到着したのは、完全に日が落ちて宵の薄暗さが黒神楽の住宅街を覆い始めた頃だった。
 ともあれ、誠育寮まで戻ってくると、ようやく一息付いたという感じがした。誠育寮で一晩過ごしたという事実があるからだろう。夜間の誠育寮の玄関を潜ることに物怖じしたのは、昼間の門構えとは雰囲気が異なっていたというのもあるけれど、出入りを許容されていない真生を転がり込ませることになったことが大きい。
 尤も、前にも述べた通り誠育寮は規則に厳しくない寮である。恐らく、寮生のモラルに基づき自由を謳歌できる度合いは、黒神楽に存在する寮の中でもトップクラスだ。女人禁制だとかそういった規則もないため、真生を転がり込ませること自体にも根本的な問題はない。もちろん、倫理的な観点で問題がないかと言えばそれは別の話になるわけだし、ずっと居座るだとかいう事態になれば話は別だろう。
 今夜の集合場所は座布団さえも満足にない殺風景な俺の部屋になった。昨夜のように泰治の部屋を希望したのだけど、部屋の主が難色を示したからだ。昨夜の様子を見た限りでは特別人目について困るものなんてなかったように見えたけれど、真生が居ることで泰治にも思うことがあるのだろう。
 固い床に腰を下ろすことを躊躇っていると、ふと俺はあまり良くないことを思い出す。
「そう言えば、晩御飯は出ないんだったっけか」
 何か腹の足しになるものがないかと部屋を見渡してみるものの、正式な引っ越しさえおわっていないこの部屋に買い置きの食料なんてものが存在するわけもない。泰治の部屋を漁れば、いくらかは出てくるかも知れないけれど、三人分を賄える量があるとも思えない。そうなると、食料を買い出しに行くか、外食しに行くかという案が脳裏を過ぎるわけだけど、永曜学園を往復したことによる疲労は良い具合に倦怠感という形で全身を襲い始めていた。即ち、非常に億劫だった。
「まだ正式入寮前だからね。それは仕方ないよ。事前に寮母さんへお願いしてあるとかいうならまだしも、さすがに用意はしてくれていないよ」
「というか、まだ挨拶すらしてないよ!」
 そうして「寮母さん」という単語を泰治が口にしたことで、俺はさらに良くないことを思い出した形だ。挨拶の件は、良くも悪くも深夜の妖精さん騒動で完全に頭の中から吹き飛んでしまっていたのが大きかっただろう。
 さすがの有樹もばつの悪い顔だった。けれど、有樹は今回もその状況をさらりと流してしまう。今更思い悩んだところでどうにもならないと言ってしまえばそれまでだ。空腹感に襲われるという現実的な問題を優先させたらしい。
「まぁ、挨拶の件は仕方ない。それよりも晩御飯をどうするかが差し当たっての問題だな。今から大通りまで出向いて外食するか?」
 発言した有樹自身、その案には「気乗りしない」という雰囲気が漂った。そうは言っても、俺や泰治が外食にしようと言い出せば、重い腰を上げるのは間違いない。
 外食という案に対し、俺が泰治の動向を窺っていると、そこには何とも言えない沈黙が流れた。即ち、泰治の方もその場の意見に流されてしまおうという口だ。てっきり「真生の口から要望が飛び出すんじゃなかろうか」と考えていた俺の当ても外れ、それぞれがそれぞれの出方を窺う気まずい沈黙だった。
 そんな沈黙の中、有樹同様外食案に対して消極的姿勢を見せる泰治から一つの代替案が提示される。そのまま出方を窺っていても、埒が開かないと思ったのだろう。
「坂道を下って一本目の通りを右手に曲がると、黒神楽発祥の持ち帰り弁当のお店があるんだ。霞咲市を始めとしたこの近隣地域にしかフランチャイズ展開していないんだけど、全国区で有名なその手の店のものより頭一つ抜けた味で、さらに安い。オススメだね」
 今から大通りのファーストフード店まで出掛けるのは億劫で、且つコンビニ弁当よりはましだろうというところでは、その泰治の提案は非常に無難な線だった。誰からも反論の声は上がらない。
 提案が大凡好反応という状況を受けて、泰治はポンッと膝を叩いて立ち上がる。
「よし。確か俺の部屋にチラシがあったはず、ちょっと待ってな」
 そう言うが早いか、泰治が部屋へ戻って取ってきたチラシには「彩屋(いろどりや)」という蔵元町では聞いたことのない持ち帰り弁当の店が乗っていた。チラシをパッと見た限りでは、どれも「量が多くて美味しそう」に見える。言ってしまえば、チラシに掲載される写真には良くありがちな広告詐欺の匂いが漂った。
 チラシの地図を確認する限り、正確な位置関係までは把握できないものの、確かに誠育寮周辺には存在しているようだった。簡素な地図には永曜学園からの帰路で見掛けた特徴的な建物が目印として描かれている。ただ、あくまで大通りまで出向く寄りかは距離的に近いと言うだけで、大雑把に見積もっても徒歩十五分ぐらい掛かる距離はあっただろう。
 有樹は横合いからチラシに書かれた地図を覗き込むと、鞄の中から一つの箱を取り出す。
「早速、これを使う時が来たようだな」
 有樹が取り出したものは、一見何の変哲もないダーツボードだった。けれど、何せ購入元があのウェイバースリントン黒神楽店で、その購入者が有樹である。普通のダーツボードではないだろう。
 ともあれ、ダーツボードなんて関連性のないものを取り出して見せた有樹の意図が解らず、俺は首を捻った。
 思い当たるのは、今から出歩くのは億劫だから、ダーツのゲームで買い出し役を決めようという腹積もりぐらいだ。
「見ての通り。こいつはダーツボードだ。でも、ただのダーツボードではない。画像を表示するための層と、矢が刺さったことを感知し、且つ画像表示層を保護するための二つの層から成っていて、ハードダーツとソフトダーツのどちらにも対応できる優れものだ。公式に取り決められている規格のものであれば、どんなポイントにも対応している。どんなハードなスローイングでも貫通しない超硬層を採用し、バラエティーに富む機能を盛り込んだデジタル式の最新型なんだ」
 いかにデジタル化されたダーツボードとしてそれが優れているかを説かれても、正直ピンと来なかったのは言うまでもない。それこそ「へぇ」と頷き返すことが精々だったわけだけど、有樹はそんな俺の反応が気に入らなかったらしい。
「言規、お前はこの超硬層の凄さが解ってないんだ。この超硬層があることによって、高性能なデジタルの恩恵を受けられるようになっているんだ。例えば、ダーツボードの表示はあくまで有機パネルに画像を投影しているだけだから、こんな風にスパイダーを自由に変えたりすることもできる。もちろんトリプルリング、ダブルリングのある一般的なダーツボード表示が基本だけど、ダーツボードの表示に名前を入れていくと……」
 そのダーツボードがいかに高機能であるかを有樹は俺達の目の前で実戦してくれたけれど「へぇ」と頷き返すことが精々だった。それはもちろん、ダーツを嗜んだことがないからかも知れないし、比較対象のイメージが頭の中にないからかも知れない。けれど、総じて、素人が見ても「これは無駄だろう?」と思える機能も満載だった。
「なんだ、この無駄にハイテクなのは……」
「あみだ籤とかでいいじゃん……」
 俺と泰治の遊び心を全く理解しない見解に、有樹は真っ向から反論する。
「何を言う、こういう何気ない遊びこそが生活に潤いをもたらすものなんだぞ。徒歩数分の場所に弁当屋まで、全員揃って買い出しに行くというのも億劫だろう? これで、買い出し役を決めようじゃないか」
 有樹は立ち上がって壁際まで行くと自分の目線と同じ高さ付近の場所へダーツボードを貼り付けた。
 ダーツボードの裏側にはゲル状の粘着シートが貼り付けられているらしい。壁に穴を開けたり工具を用いたりする必要はないようだ。そして、壁に設置したダーツボートから目測で距離を取って、スローイングラインを設けると、簡易ダーツ場が俺の部屋に完成した。
「まずは簡単にルールを説明しておこう。覚えることは多くない、単純なゲームだ」
 ゲームは持ち点をピッタリゼロにした時点で勝利となるゼロワン。持ち点は公式大会に準拠した501点。
 一ラウンド、一人三投ずつ矢を放り、持ち点をピッタリゼロに減算するまでラウンドを延々と続ける。即ち、勝ち抜け式で、最後まで残ってしまうと負けになる。
 得点をゼロにする最後の一投は、必ずダーツボード上のダブルリング内に投じなければならず、そうしないと仮にピッタリゼロとなってもバーストして終了しないというダブルアウトのルールが適用された。
 つまり、持ち点が残り20点なら、得点が10点となるエリアのダブルリング内へ投げ込まないとゲームを終了できないわけだ。間違って、トリプルリング内に矢が刺さるとマイナス10点となりバースト。点数として加算されないから残り20点の持ち点を減らすべく、再度得点が10点となるエリアのダブルリング内を目掛けて矢を放ることになる。
 一通り、有樹からダーツに関する説明を聞いた後、練習を間に一度挟み、買い出し役を決めるべく俺達はダーツに興じることになった。
 有樹がダーツの矢を三本ずつ俺と泰治へ渡す。
「いいか、恨みっこなしだぞ?」
 まず投げる順番を決めるためにボードへ向かって一投ずつ矢を放る。センターコークといって、ダーツの矢の刺さった位置がセンターに近い人から先攻とするスローイングの順番を決めるためのものだ。
 最初のセンターコークの段階で、そもそも盤上に矢を命中させられないことも予想されたけれど、どうにか全員盤上へダーツの矢を命中させる。中心から近い順に泰治、俺、有樹、真生となり、意外にも永曜学園で驚異の命中精度を誇った真生が最下位となる形だった。
 けれど、実際のゲームではさらに番狂わせが起きる。最初は言い出しっぺの有樹が有利と思われたものの、そもそも有樹は盤上に矢を命中させられないという自体が目立ったのだ。
 真生の方も風紀委員の影より遙かに小さな的が大きく影響したのか。安定しないスローイングで思うように得点を得られなかった。特に、点数が少なくなってからはバーストも目立ち、ゲームを抜けるに当たってさらに精度の高いスローイングを求められるダブルアウトのルールに足を引っ張られた形だ。
 泰治に続いて俺が持ち点をゼロにしてゲームを抜けると、有樹は「こんなはずではなかった」という不興顔を覗かせる。尤も、買い出し部隊の任命が嫌だというよりも、経験者としてその順位に甘んじている部分が納得いかないのだろう。
「泰治も、言規も、……ダーツの経験がないという割にはやるじゃないか」
「こういうところにも、サバゲーの経験と勘は生きるものなんだよ。狙いは外さないのさ」
 一番最初に持ち点をゼロにした泰治は、その好結果の理由を求められてサバイバルゲームの経験を挙げた。尤も、ハンドガンとダーツの矢では的を撃ち抜くために必要とされる技能は大きく異なる。
 泰治で言えば、手先の器用さが結果に上手く結びついたと言った感じだ。だから、ハンドガンのメンテナンスやカスタムといった緻密な作業を要求される経験が生きたという言い方の方が正しいだろう。もちろん、それを全部引っくるめて、サバイバルゲームの経験という言葉を用いたのかも知れない。
 一方、ゲームの結果で言えば、俺も経験者である有樹よりかなり上手いゲーム進行で得点をゼロにすることができた。特にこれが好結果をもたらしたという理由は見つけられないから、こういう遊びが「得意」という一言に尽きただろう。
「俺は、地味にこういうの得意なんだよ」
 俺と泰治の二人が抜け、有樹と真生の一騎打ちという形でゲームが最下位争いに差し掛かってからがある意味本番だった。一進一退の攻防が続く形になったのだ。
 ラウンドが二桁へと進んだ末、最初に持ち点をゼロにしたのは真生だった。真生の方は未経験という部分が大きく結果を左右していた部分があったのだろう。スローイングの数をこなす内に、徐々に狙いに近い場所へと矢を刺せるようになっていった形だ。
 最下位が決定した有樹は、実にけろっとしたとものだった。ズボンのポケットから財布を取り出し中身の確認をすると、チラシをさらりと一瞥し何を注文するかを瞬時に決めてしまったようだ。有樹の好みから推測するに、和風おしろハンバーグ弁当あたりだろうか。
 ともあれ、有樹は「出発の準備は整った」といわないばかりに、注文を決めるよう俺達に促す。
「……真生ちゃんにもしてやられたか。では、約束通り最下位の俺が買い出しに行くとしよう。さくさくと注文するものを選んでしまってくれよ」
 チラシの中の写真はどれも美味しさを強調する絶妙な角度で撮影されていた。基本的にはどれも主食と三から四個の副菜で構成されていて、オプションで副菜を追加したり大盛りにしたりもできる仕様だ。
「泰治は前回何を注文したんだ?」
「前回か。……確か、幕の内弁当だな」
「全くチラシに食い付いていないようだけど、真生ちゃんはもう何にするか決めたのか? 何が良いんだ?」
 俺と泰治が選びきれずにいると、有樹は一人所在なさげにしている真生の様子を目に留めたようだった。確かに有樹が言うように、真生は一人ちょこんと端に座ったままで所在なさげな風だった。
 言われなければ、俺は真生がチラシに食い付いていないことに気付かなかっただろう。
 真生はキョトンとした顔付きをした後、驚いた様子で有樹に問い返す。
「あたしも選んでしまって構わないんですか?」
「もちろん。真生ちゃんだって、お腹減っているだろう?」
「はい、お腹は減っていますけど……」
 有樹の指摘に真生は自身のお腹をさすり、俺の顔色を窺うかのようにこちらを向いた。尤も、その後に続く言葉を真生が言い淀んだから、そうやって俺に視線を向けた意図は不明だ。
 真っ先に脳裏を過ぎったことは「金銭的余力がないのかも知れない」という推測だ。
 顔色を窺うような真生の仕草を、そう受け取めたのは有樹も一緒らしい。その後に続いただろう真生の言葉を待たずして、有樹は夕食代金を徴収するつもりはないと明言する。
「なに、金銭的なことは何も心配しなくて良い。ついさっき、今後の学園生活に暗い影を落とし兼ねない言規のピンチを真生ちゃんが救ったんだ。これぐらいの金額は言規が喜んで支払ってくれるくれるはずだ。なぁ、言規?」
 思わず「何勝手なこと言っているんだ」と食って掛かりそうになる。けれど、有樹の言い分は確かにその通りで、少なくとも真生が永曜学園で俺のピンチを救ったという事実は揺るがない。俺の妹であるという主張の真偽がはっきりしないとはいえ、まさか夕食抜きというわけにも行かない。そもそも、そんなことをすれば、俺は非難の集中砲火を食らうだろう。
 俺は溜息を吐いた後、真生を手招きする。
「有樹が言うように真生の分は俺が出すから、好きなものを選べばいいよ」
 チラシから好きなものを選ぶよう促すものの、真生はまだ顔色を窺うかのように俺を見る。
「何だよ、俺のことじっと見て。……まだ何か、気に掛かることでもあるのか?」
「ううん、それじゃあ、お言葉に甘えさせて貰うね」
 結局、俺は有樹と同じものであることを狙って和風おろしハンバーグ弁当をチョイスする。有樹のチョイスは見事俺の予想通り和風おろしハンバーグ弁当で、そこに真生が「同じものをお願いします!」と続いた。その真生の言動は、俺や有樹に気兼ねしたものだったかも知れない。
 そこに泰治が続けば、注文は全て「和風おろしハンバーグ弁当」となったのだけど、当の泰治からは「回鍋肉プラス特製エビチリ弁当」という中華がチョイスされる。それを協調性がないと見るか、ノーと言える日本人と捉えるかはともかくとして、注文するものが出揃うと、有樹は上着を羽織り早々に近所の彩屋へと買い出しに出向いていった。
 有樹を見送った後、食料の到着を待つまったりとした空気が流れるかと思いきや、泰治の提案によって居残り組は再度ゲームに興じることになる。
「そう言えば、彩屋はインスタントの中華スープが付いてくるんだけど、今手元にお湯がない。俺の部屋に電気ポッドがあるけど中身が空だ。昨日使い切ったからね。そこでだ、有樹が帰ってくるまで時間もあることだし、誠育寮一階まで行って電気ポッドを満水にしてくる役を、もう一度ゲームで決めないか」
 仕切り役の有樹が居ない状況下では、それはまさに良案だと言えた。
 そして、提案と同時に泰治が放ったダーツの矢は、ダーツボードのトリプルリングエリアにトスッと鋭い音を立てて刺さる。挑発というほどのパフォーマンスではなかったものの、俺を再びゲームに向かわせるには十分だった。
「お、いいね。頂上決戦ってわけだ」
 泰治を真似て手元のダーツの矢を手に取って、俺もダーツボードを目掛けて放る。もちろん、狙うはダーツボードの中心に位置する円、ブルである。しかしながら、俺の放ったダーツの矢が思い描いたような軌跡を描くことはなかった。どうにかダブルリングのエリア内には刺さってくれたものの、これが本番だったら既に点差の開く展開である。
 そして、最後に真生が正規の位置ではない場所からダーツの矢を放る。
「それでは、あたしも番狂わせを狙って参戦しますね」
 真生が投じたダーツの矢の描く放物線に、俺は目を奪われた。鋭い音を響かせ矢が刺さった場所は、エリアの関係上得点だけで見るなら俺よりも少ない場所だ。けれど、位置的には俺よりもブルに近い位置へスローイングした形だった。しかも、真生は圧倒的に不利な場所からダーツの矢をスローイングした格好である。即ち、番狂わせも十分あり得る事態だ。
 奇しくもそれがセンターコークとなり、泰治と真生に先行を許す形で二度目のゲームの火蓋は切って落とされる。
 しかしながら、有樹がワンゲームを終えるよりも早く戻ってきたため、結局そのゲームはご破算になった。二度目のゲームの敗者に科せられるはずだったペナルティも、自室に電気ポッドが置かれたままという理由から泰治が対応する。
 ご破算になったとはいえ、二戦目は第一戦目と異なる真生のスローイングに押される形のゲーム進行を強いられた。俺のスローイングに肉薄する精度だったからだ。もう一度「ダーツで勝負」という流れになったら、二位と三位が入れ替わる可能性は十分考えられる。尤も、ただ単に真生のスローイングの精度が安定しないだけで、二戦目ではただのまぐれが連発された可能性もある。
 ともあれ、泰治がお湯を沸かすべく電気ポッドの対応している間に、俺は折り畳み式のガラステーブルや座布団と言ったものを泰治の部屋から運搬してきた。自室には弁当を置くためのテーブルさえなかったからだ。個人的には床に弁当を置いて食事しても良かったけれど、有樹がそんなずぼらを許さなかったのだ。
 有樹が買い出ししてきた弁当をテーブルの上に置いていくと、簡素ながら夕食の準備は整った。後はインスタントの中華スープが揃えば、いつでも「いただきます」と相成る。
 電気ポッドの電源コードをコンセントへ差し込み「急速沸騰ボタン」を押す泰治は、お湯が沸くのを待つ俺達に向けて忠告する。
「この電気ポッドなら沸騰まで二分と掛からないはずだから、温かい内に食べ始めちゃってよ。彩屋の持ち帰り弁当は冷めると急激に味が落ちるからね。それと、一度冷め切っちゃうと電子レンジで温め直しをしても元の味に戻らないからくれぐれも食べきるようにした方が良いぞ」
 お湯が沸くまで十分掛かるというのならばまだしも、電気ポッドでお湯を沸かす高々数分間で弁当が冷めることは考え難い。けれど、味が落ちると泰治に指摘されたこともあって、俺達はお湯が沸く前に彩屋の持ち帰り弁当の蓋を開けた。
 尤も、電気ケトルは泰治が言ったように急速沸騰ボタンを押してから僅か一分強でお湯を沸かした。水量は四人分でそれなりの量が入っていたのだけど、実にカップラーメンができるよりも早くお湯が湧いた形だ。
 泰治はインスタントの中華スープの粉を入れた四人分のマグカップにお湯を注ぎながら、自身が推した彩屋の弁当の味について確認する。
「どう? その辺のコンビニ弁当よりは悪くないと思うけど」
「美味しい! 美味しいですよ、これ! 信じられません! こんなに美味しいものなんですね、お弁当」
 真っ先に真生が和風おろしハンバーグ弁当に高評価を下したことで、俺と有樹は思わず顔を見合わせた。真生が食べているのは、俺や有樹と同じものだ。それなのにも関わらず、あまりにも口に入れた際の第一印象が異なったことで、俺も有樹もこの彩屋の弁当に真生のような大絶賛を浴びせるに足る味を感じているか探り合った形だった。
 お互い口には出さなかったものの感想は一致していただろう。真生の評価は言い過ぎである。
「いや、確かに彩屋はまあまあだけど、……そこまで太鼓判押せる味ではないよね?」
 オススメと太鼓判を押した泰治でさえ、真生の度を超した高評価に困惑したぐらいだ。泰治の感覚で言えば「コンビニ弁当や同種の大規模チェーン展開店よりかは高評価」ぐらいのものだったはずだ。
 けれど、真生は大絶賛の評価を曲げなかった。いや、ことは「評価を曲げなかった」では済まなかった。こともあろうに、真生の大絶賛は電気ポッドでお湯を沸かして作ったインスタントの中華スープにまで及ぶ。
「そんなことありませんよ。こんなに美味しいものを食べのは何年振りか解りません。このスープにしても、素晴らしい出来映えだと思います」
 真生の大絶賛が中華スープにまで及んだところで、泰治の困惑は頂点に達する。もちろん、インスタントとはいえ、スープは彩屋オリジナルのもので、僅かな違いではあるものの他とは異なる確かな風味がある。尤も、正直それはコンビニで売られている商品に毛が生えたレベルと言っても過言ではない。
「ま、真生ちゃん? 正気? こんなの、その辺のファーストフードでだって簡単に味わえるレベルだよ……?」
 絶句する泰治を余所に、ふと俺は真生の分の料理が一度も食卓に並んでいた記憶がないことに気付く。
「そう言えば、実家の食卓に真生の分の料理が並んでいるのを見た記憶が一度もないけど……」
 真生が言うように、例え俺が真生の存在自体に気付かないような細工がされていたとしても、真生が実家にいたというのならば、そういう場面を目の当たりにしたことがないというのはいくら何でも不自然な気がする。まして、おかんは仕事柄、家を留守にすることの多い人間だ。
 おかんが家を留守にしている間、真生もおかんに付随する形で家を離れていたのだろうか。
「んー……、普段、お母様からこの手のものは何も食べさせて貰ってないんだ」
 俺が何気なく口にした食卓に対する疑問が引き金となって、真生の口からは驚愕の事実が語られた。
 有樹と泰治の目が点になったのは言うまでもない。
「何だそれ、虐待じゃないのか!」
「おいおい、言規家はどうなっているんだ!」
 あっという間に悪者の一人であるかのように扱われ、俺は困惑を隠せなかった。謂われのない非難だ。どうにか喉の奥から引っ張り出した言葉も、当然実家での真生の食事に対して何も関与していないという立場に準じたものになる。
「そんなこと、俺に言われても……?」
 声を大にして「責任はない」などと口走ることはできないものの、それが真実なのだからどうしようもない。
 そもそも、本来ならば、それは俺のおかんに向くべき言葉である。
「んー……、あたしは栄養だとかそういうものを考慮する必要がないみたいだから仕方がないんじゃないかな」
 驚愕の事実には真生自身の手によってフォローが入ったものの、その内容は再び俺達を意気消沈させるに足るものだった。加えて言えば「仕方がない」という認識で片付けてしまって良いものではないと思いつつも、本来は必要のないものと言われてしまえば何も知らない俺達が口を挟むこともままならない。
 ともあれ、真生が彩屋の持ち帰り弁当を「旨い旨い!」と喜々として食す中、俺はその彩屋本来の美味しさを味わえていない気がした。それは主に精神的な部分から来るものだったろう。せめて食事の間だけでも頭の中を空っぽにできたなら、そんな事態には陥らなかったのだろうけど、残念ながらそこまで器用にできていないようだ。
 そして、彩屋本来の美味しさを味わえていないのは、恐らく有樹も泰治も同じ話だったろう。
 夕食時は真生の仰天発言で大幅にテンションが下がったせいか、話に花が咲くこともなかった。強いて言うなら、泰治から誠育寮一階最奥に位置するお風呂の利用方法についてレクチャーを受けたぐらいだ。
 途中、本人を余所に「真生をどうする?」という話も挙がったものの、そもそも誠育寮の風呂場が男湯と女湯に別れているということでことでそれも杞憂に終わる。女湯なんて寮母さん以外に利用しないと思ったものの、今回ばかりは有難かった。帰省中で寮生がほとんど居ないという状況も、真生に誠育寮の女湯を利用させるには好都合だった形だ。
 波乱を含んだ夕食が終わると、今夜は解散と相成った。
 夕食後、俄に眠気が襲ってきたこともあって、俺は早々に誠育寮の風呂場を利用することにした。誠育寮と永曜学園の往復で、疲労が堪っていたのが影響しているようだ。風呂の利用に対して、真生からも特に反論は上がらなかった。
 俺は実家から多めに持ってきた予備のバスタオルと、替えのパジャマを二人分用意すると真生を伴って部屋を出る。
 泰治からレクチャーを受けた通り、誠育寮の風呂場は男湯と女湯で別れていた。
「もし真生が先に上がったら、部屋に鍵掛かってないから先に戻っててくれよ。後、念のため、誠育寮の寮生とはできるだけ擦れ違わないようにした方が良いな。……問題はないと思うけど、一応な」
 そう注意を向けた後、俺は脱衣場の前で真生と別れた。
 誠育寮の男湯の湯船は六〜七人で入ると満杯になる大きさの内湯が一つある簡素な作りだった。無理して詰めれば十人程度は入るだろうけど、さすがにぎゅうぎゅう詰めになってまで湯船に浸かりたくはない。追い焚き機能がある以外は、全面タイル造りで今は貴重とも言える昔ながらの銭湯みたいなイメージだった。尤も、銭湯というには些か規模が小さいだろうか。洗い場にしろ一応五人分蛇口が設けられているとは言え、肩を付け合わせて体を洗おうとでもしない限り三人が限度といったところだ。
 軽く汗を流す程度に留めて自室に戻ると、そこには既に俺の替えのパジャマに袖を通した真生が居た。俺が地元から持ってきた漫画雑誌に目を落とす真生は、俺の帰来に合わせて顔を上げる。
「お帰り。これ、借りてるよ?」
 それだけを俺に告げると、真生は「今、いいところだから」と言わないばかりに再び漫画雑誌へと目を落とした。
 首から肩に掛けて真生がバスタオルを羽織っているのは、バスタオルを乾かす場所がないからだろう。真生の髪が湿ったままなのは、そもそも髪を乾かすためのドライヤーがこの部屋に存在しないからだろう。
 誠育寮で生活するに当たって、色々と揃えなければならないものがあることを俺は改めて痛感する。
「えーと、早い内にタオル掛けとドライヤーを購入しないとならないわけね」
 俺はてっきり、真生と部屋に二人きりいう状況は、俺に居心地悪さを感じさせるものだと思っていた。しかしながら、実際にその場面に際してみて、それがただの杞憂だったことを理解する。有樹と泰治がそれぞれ自室に戻ったことで、部屋が妙に静まり返っているような錯覚に襲われたものの、あくまで「それだけ」なのだ。
 何が起こるか判らない。それこそ、いきなり真生が態度を豹変させるかも知れない。最初はそんな思考が脳裏を過ぎったこともあって内心身構えていたけれど、時間の経過と共に自然と肩の力は抜けていた。
 取り立てて、真生と会話を交わすことはなかったけれど、その静寂さえ苦痛だとは思わなかったのだ。なんてことはない。一人留守番をする時の、実家のリビングとそう相違ない空気が部屋を包み込んでいたからだ。
 それはやはり、真生の方が俺の存在を意識していないことが大きかった。
 今更ながら、実家で真生の存在を俺が確認できなかっただけで、確かに実家のどこかしらには真生が居たのかも知れないと思った。そう思わされるだけの雰囲気が、部屋の中には横たわっていた。
 このままいつもの空気に流されてしまえば、波風立たずに一日が終わるだろう。けれど、有樹と泰治が居ない今だからこそ、俺は確認しなければならないことがある。風呂に入ったことで眠気も削がれてしまった。永曜学園で「それでも良いか?」と真生が念を押した項目について確認するには、今が好機だろう。
 俺はすぅと息を吸い込むと、真生に向かって口を切る。
「なぁ、永曜学園で言った危険なことに巻き込まれる可能性があるっていうのは、……一体どういうことなんだ?」
 今か今かと待ち構えていたわけではないだろうけれど、そうやって尋ねられることは真生に取って想定の範囲内のことだったらしい。パタンと漫画雑誌を閉じて顔を上げると、真生は何一つ言い淀むこともなく落ち着き払った口調ですらすらと語り始める。
「陣乃の家のことについて掘り下げていけば、陣乃の家が抱える問題とも無関係ではいられなくなるということだよ、お兄ちゃん。例えば、人の形をしたあたしが本当は何であるのかを知ることになれば、きっと有樹さんや泰治さんもある程度は陣乃の家の掟に縛られることになるとは思わない?」
 そして、それは自分自身について「人間ではない」とカミングアウトをする例え話の部分に至ってさえ変わらない。まるで前もって「用意していました」と言わないばかりの滑らかさに、俺は一瞬言葉を失う。
「な、何だよ、それ。……俺の妹だとか言って置いて、今更自分は人間じゃないとか言い出すつもりか?」
 喉の奥から出てきた不信をそのまま言葉へと変え、俺は真生へと向けた。突然のカミングアウトに、俺は動揺を隠す余裕もない。一つ遅れて、俺は真生へと警戒感を向けるものの、当の真生には俺の態度は滑稽に映ったようだ。
 慌てて弁明を口にするでもなく、真生はクスクスと笑いながらそこに誤解があると説明を加える。
「双子の妹っていうのは本当だよ。あたしもお兄ちゃんもお母様のお腹の中から人間として生まれた。でも、あたしはもう人間とは言えない存在なんだと思う。はっきりとそう言われたことはないけどね。お兄ちゃんだって、永曜学園であたしがサクラを使役したのを見ていたよね? きっとあたしは、精霊だとか神仏だとか呼ばれる存在に近い何かなんだと思う」
 出生については俺と同じスタートラインを切った。でも「そこから分岐したのだ」と、真生は言い直した。同じく「人間ではない」と述べたカミングアウトについても「思う」という口振りで、あくまでただの推測だとした。
 そして、何よりも俺に衝撃を与えたものは「そんなことは些細な問題」とでも言わないばかりの真生の態度だった。いいや、実際問題、真生に取って「自分自身が人間であるかどうか」なんて些細な問題なのだろう。
 不意に、真生の表情に真剣さが見え隠れするようになる。
 俺は息を呑んだ。恐らく、そこから語られる内容こそが、永曜学園で真生に念押しさせた部分だと思った。
「でも、一つだけ確かなことがある。永曜学園でもちょっとだけ触れたかもだけど、あたしはお兄ちゃんの影であり、お兄ちゃんをサポートする役目を担う存在だということ。そのために、あたしは精霊だとか神仏だとかいうものと限りなく近い存在になったんだよ。陣乃が属する術者の家系では、あたしみたいな存在を「司護(つかさご)」って呼ぶみたいだね」
「司護?」
 鸚鵡返しに尋ねた俺の言葉を、真生は「司護」についての説明を求めたものだと思ったらしい。
 ピンッと立てた右手の人差し指を唇へと当てて見せて、真生は「これはオフレコだよ?」とボディーランゲージで訴えてきた。そして、悪びれた様子一つ見せることなく正しい手段を用いることなく得た「司護」の知識について語る。
「その昔にあたしが盗み見た古い文献を信じるのなら、影の主、つまりお兄ちゃんからの力の供給がなくならない限り滅ぶことはなく、何度でも何度でも再生する不死身の存在。怪異に並ぶ力を持ち、影の主と同格の呪いを操り、人と同じ知性や理性を併せ持つ、呪いによって作られた影の守護者。それが司護らしいよ」
 古い文献で読んだものと真生が前置きした内容は、俺に取ってつっこみどころが満載だった。
「その司護っていうのは、元々は人間で、どこかのタイミングで人でないものに変化するっていうことか?」
「信じられない?」
 永曜学園での一件や、実際にサクラを使役する場面を見る前であったなら「信じられない」と答えただろうか。
 真生の問い掛けに、俺は首を横に振る。
「いいや、真生が、……司護だったっけ? とにかく、その精霊だか妖怪だかの類だって話を信じられないわけじゃない。そんなことよりも俺が信じられないのは、俺の、……陣乃の家が術者の家系っていう部分だよ。術者の家系だなんて、言っちゃ悪いが親父もおかんも何の変哲もない普通の会社員だぜ? 俺だって、今の今まで、何の変哲もない普通の学生生活を送ってきたしさ」
 そこまで言い終わってから、ふとおかんを指して「普通」という形容は訂正しておかなければならないものだと気付いて、俺はこう言い直す。尤も、それは術者云々の下りについての訂正ではない。
「いや、まぁ、おかんの方は全国津々浦々を飛び回るかなりのやり手だけど、それでも術者の血を引いている素振りなんて全く感じられないし、俺が思い出せる範囲の記憶では思い当たる節が全くない」
 自身の記憶を引き合いに出して、俺は「術者の家系」といった内容を信じられないと真生に伝えた。
 そんな俺の見解を、真生は複雑な顔付きをして聞いていた。その態度は、俺の認識に対して思い当たることがあり、且つそれを口にするべきかどうかを迷っているかのように俺の目には映った。
 不意に、激しい胸騒ぎに襲われる。俺はそれを看過できない。
「なぁ、俺、何か変なこと言ったか?」
「思い出せないように細工されているだけかも知れないよ、お兄ちゃん?」
 そんな疑問を投げ掛けた後、真生は俺の記憶について推測を続ける。
「どんなに陣乃の血が影響しないように対策したとしても、影響を完全に遮断してしまうなんて不可能だと思うんだ。だから、何かことある度に、お兄ちゃんの記憶は封じられてきたのかも知れない」
「おい! 恐いこと言うなよ」
 俺は反射的に声を荒げて真生の推測を制止していた。思い当たる節なんてない。……ないけれど、もしも、それを強いて挙げるとするならば、妖精と遭遇した経験があることぐらいだろうか。
 妖精?
 いや、まさか。……今は考えないようにしよう。
「ともかくだ、やっぱり判らないことがある。どうして、おかんは俺に真生の存在そのものを隠したんだ?」
「さすがに、あたしもその理由までは解らない。でも、あたしは「決して実家ではお兄ちゃんに干渉してはいけない」と言われ続けた。ここから先は、お母様に確認するしかないよ」
 真生がおかんに確認するしかないと言ったことを踏まえ、俺は携帯電話へと視線を落とす。無造作に床へと置かれた携帯電話を暫し眺めた後、俺の視線は自然と真生へと向いた。永曜学園の廊下で、携帯電話の使用を厭うような言動を真生が見せたことに起因した念押しだった。
 当の真生は、確認するもしないも「お好きなように」と言った態度だ。
 俺は携帯電話を拾い上げ、おかんの番号をコールしようとしたところまで行った。けれど、俺は結局、携帯電話を元の場所へと置いた。液晶画面に表示された現在時刻が丑三つ時に差し掛かろうかという時間だったからだ。
 親しき仲にも礼儀あり。いくら相手がおかんだからと言ってこんな時間に電話を掛けるというのは気が引ける。
 おかんが俺と真生を引き合わせないようにしたのは、意味があってのことだろう。しかしながら、今こうして真生と顔を合わせていることで、何か問題が生じるような雰囲気はない。緊急性がないのであれば、その理由を尋ねるのは別に明日でも構わないだろう。
「電話を掛けるというにはさすがにもう遅過ぎる時間だし、この続きはまた明日にするよ」
 それは真生に向けたものであると同時に、俺自身にも言い聞かせた言葉だった。
 逸る気持ちも確かにあるけれど、それは既に緊急の案件ではない。いいや、その言い方は正しくないだろう。それをおかんに問い質すだけの心の準備が、俺の中でできていなかったのだ。
「お兄ちゃんがそれでいいなら、あたしに異論はないよ」
 そんな俺の心情を、真生は見透かしていたかのようだった。ともあれ、真生がその方針を了解したことで、俺は「迷惑になる時間だから」という大義名分を盾に確認を先送りした。
 欠伸を一つ噛み殺すと、俺は部屋の入り口脇にあるスイッチで蛍光灯を消灯させる。
 真生に背を向けるようにしてゴロンと横になると、眠気はすぐにやってくる。どうやら、寝付けず余計なことを考えるといった状態に陥ることだけはなさそうだった。


「おはよう、真生ちゃん」
「おはようございます、有樹さん。泰治さん」
 ふと、有樹と真生のそんなやりとりが聞こえたと思えば、有樹の口からは呆れたような声色で俺の名前が続く。
「言規は、……まだ夢の中か」
「昨夜も遅くまで起きてましたからね。それで、今日はどこかへ出掛けるんですか?」
 真生はもう完全に起床しているらしい。明瞭な口調で有樹と泰治に受け答えをしていた。
 真生に今日の予定を尋ねられた泰治は、今の今まで完全に俺が失念していた内容について言及する。
「うん、今日は生活必需品の下見なんかを兼ねて、霞咲の家電量販店まで足を運ぶ予定なんだ。言規にも事前に伝えておいたはずだったんだけど、この調子だと忘れているみたいだけどね」
「さて、言規。いい加減起きないと、霞咲に到着する頃には正午を回ることになるぞ?」
 有樹にせっつかれて、俺は寝返りを打つ。正直、まだ目蓋が重かった。元々寝起きは余り良い方じゃないのだ。
 それでも、どうにか上半身を起こして思考回路の暖機運転を始めると、真生と泰治のやりとりが目に入る。
「真生ちゃんも一緒に行くだろう?」
「……霞咲、ですか」
 霞咲という行き先を聞いた真生は一目で気乗りがしないと判る表情を覗かせた。尤も、それはすぐに掻き消えた形だ。そして、不請顔が影を潜めた後は、霞咲へと同行を快諾し、且つ同時に要求する満面の笑顔へと切り替わる。
「もちろん、お供させてください。寧ろ、今更あたしに誠育寮への居残りを命じるようなら、サクラの力を使ってでも一緒に付いていくことを有樹さんや泰治さんに「了解」して貰っちゃいますね」
 サクラの名前を聞いた瞬間、泰治は表情を引き攣らせた。真生の口調は本気のそれではなく、あくまで冗談めかしたものだったけれど、泰治が肝を冷やしたことは間違いない。
「はは、大丈夫。言規を脅してでも、真生ちゃんを霞咲へ一緒に連れて行くよう説得するよ!」
 そんな事態に陥ることがないよよう全力で阻止すると、泰治の口からは力強く明言された。
 そんなやりとりを寝起きの頭でボーッと眺めていると、有樹に出発の準備を始めるよう再度せっつかれる。
「ほら、さっさと支度を始めるんだ、言規!」
「ああ、うん」
 むくりと起き上がると、体のあちこちには痛みがあった。敷き布団なく床で眠った所為だろう。
 有樹と泰治の格好を確認すると、二人は既に準備が万端の状態だった。有樹と泰治とで服の趣味が大きく異なるため、そこに統一感はないものの、二人とも外行きの装いだ。
 では、霞咲へ同行すると言った真生がどうかと言えば、まだパジャマ姿のままだった。用意をしなければならないという状況は変わらないものの、一人慌てて準備をするという事態ではないことに俺はホッと安堵の息を吐いた。
 適当な着替えを見繕うべくノソノソと壁際のボストンバックまで行ったところで、ふと気に掛かることがあって俺は真生へと目を向ける。
 誠育寮へと転がり込んできた真生は、完全に手ぶらの状態だった。手提げ鞄の一つさえ持っていなかったのだ。
 着替えなんて持っていないんじゃないか?
 ふと、そんな考えが脳裏を過ぎった形だ。
 そんな考えを証明するかのように、ちょうど支度へ取り掛かろうかという真生は、脇に畳んで置いてあったジャージへと手を伸ばすところだった。俺の予想は当たったのだろう。
「あたしも支度をしますね」
「ちょっと待った、真生ちゃん! まさか、……そのジャージで霞咲市街へ繰り出すつもりだったりする?」
 泰治も俺と同様、真生の着替えがないことに気付いたようだ。
 泰治からの指摘を受けて、真生はキョトンとした顔をする。ともあれ、手に持つジャージを広げ、それを上から下までマジマジと確認するけれど、そこに「不自然」を発見することはできないようだった。真生は不思議そうに首を傾げると、泰治が危惧する問題点について聞き返す。
「……何か問題がありますか、泰治さん?」
「ああ、いや、その、学校帰りに地元の商店街で買い食いするとかならまだ何とかって感じだけど、それ、胸元に名字の刺繍が入った学校指定のジャージだよ? さすがに霞咲へそれで行くには……」
 泰治は非常に言い難そうだった。それでもどうにか、慎重に言葉を選びながら泰治は学校指定のジャージでは霞咲の繁華街へ出向く格好として相応しくないと告げた。
 真生は打開策のない状況に陥って、低い唸り声を上げる。
「むー……、でも、これしか持ってきていないですし、そもそも変わりの服なんて……。あ! でも、実家に戻れば、アースバインの黒と黄色のジャージとか、レインレードがコラボした赤と黒のジャージとか、替えのジャージがあります!」
 実家に戻ればなんて一文が付く点で、それは実現不可能な案である。今から黒神楽まで着替えに戻るのかという話だ。
 そして、やはり真生は泰治の言わんとしたところを理解していない。問題は学校指定のものであるかどうかではないのだ。例え、それが学校指定のものでなくなったとしても、一集団として格好がジャージ姿で統一でもされて居ない限り、真生の格好は間違いなく浮くのである。
 もちろん、そんなことを気にしない豪の者も居るには居るだろう。
「というか、何でジャージばっかり……? ジャージ好きなの、真生ちゃん?」
 泰治は慎重に慎重を期しながら、真生の対応に取り掛かろうとしていた。万が一、その確認に対する真生の返事が肯定だったら、泰治は話の進め方に細心の注意を求められることになるだろう。下手に口を挟まない方が良いのは間違いない。
 しかしながら、それが解っていても俺は黙っていられない。俺に取ってのつっこみどころが他にもあるからだ。
「凄い聞き覚えのある単語が出た気がするんだけど、それ、もしかして俺のお下がりだったりしないか……?」
「そうだよ?」
 真生からは、その態度で「何か問題ある?」と聞き返された形だ。
 黒神楽にはまだ持ってきていないだけで、正直なところ実家にはお気に入りの服を多数残してきてある。
 俺は自分の両手がわなわなと震えていたことに気付いた。
 もちろん、俺と真生には体格の違いがある。だから、全てが該当するわけではないだろう。けれど、この分で行くと相当数がお下がりとして真生の手に渡っていると考えて良いんじゃないか。ふと、そんな考えが脳裏を過ぎったのだ。
 真生が勝手に持って行ったというのは考え難いので、仕分け段階でおかんが絡んでいるのは間違いない。今、真生を追求しても恐らく何も解決はしないと半ば解っていながら、俺は口を閉ざしたままで居られそうになかった。
 こんなこと言うのもあれだけど、レインレードのコラボ品は高級品で俺が大事に大事に取って置いた一着だ。
 話題が多方面に拡散し始めて収拾が付かなくなりそうな雰囲気を、有樹は敏感に感じ取ったらしい。「パンッ」と一際大きな音が鳴るよう手を叩いて視線を集める。
「よし、それならば、真生ちゃんのために俺の自前の服を出そう」
 有樹の提案を聞いた真生は一瞬キョトンとした顔を見せたけれど、すぐに目映いほどの輝きを放つ笑顔に切り替わった。今まさに、その口から感謝の言葉が出るという間際になって、有樹と真生の間には泰治が割って入る。
「待て待て待て! 真生ちゃんに、有樹のサイズは大き過ぎるだろ! 男物女物の違いはこの際置いておくとしても、そもそも体格が違い過ぎる」
「俺のサイズの服を真生ちゃんに宛がうと言ったか? 真生ちゃんに合いそうなサイズの、俺が持っている女物の自前の服を出すという話だ。少し考えれば、それぐらい判るだろう」
 有樹の指摘に、俺は頭を捻る。何か、話がおかしい。
「……うん? ちょっと待った。どうして、有樹が真生に合いそうなサイズの服なんて持ってるんだよ? というか、女物の服って……。え! あれ、もしかして、実は、有樹には女装癖がある、とか……?」
 そんな俺の推測を聞いた有樹からは、言葉にすると「呆れてものが言えない」という感情の籠もる視線が向けられた。
「真生ちゃんに合いそうなサイズと言っただろう? そんなサイズの服を俺が着れると思うのか?」
「ああ、……無理だな」
 確かに、冷静になって考えてみれば、有樹が真生の体格に合う服を着るのには無理がある。
 しかしながら、その有樹の答弁にはまだ根本的な疑問が残っていた。そもそも、どうして女物の服なんてものを持っているのかと言うことだ。有樹には妹の珠樹ちゃんが居る。けれど、もしそれが珠樹ちゃんのものならば「自前の服」なんて言い回しをするだろうか。しないだろう。
 そんな疑問が命じるままに、俺は有樹に追求の言葉を投げ掛ける。
「だったら! 尚更だよ! どうして、女物の服なんか持っているんだ? まさか、眺めてニヤニヤするためか? いいや、違うな! あれか、……珠樹ちゃんだな! 兄貴の立場を利用し、珠樹ちゃんを着せ替え人形代わりにしてニヤニヤしているんだな! たまに机の中へラブレターとか忍ばせられる身分の癖に、同学年の女子に全く興味を示さないと思ったら……! 実はそんな態度を表立って見せないだけで、しれっと珠樹ちゃんを溺愛するシスコンだったわけか! クソ、まんまと、騙されたぜ! でも、良かった、寧ろ、ちょっと安心した部分もあるよ!」
「……」
 有樹は、俺を見る視線の中に含まれた「呆れてものが言えない」という感情をより強いものにした気がした。いや、そのまま喋り続けたら暴力的手段によって黙らせられたかも知れない。
「確かに、今の俺が自作した洋服の大半は、実質愚妹のものになっている。だが、俺がいつあの愚妹を溺愛した? 愚妹に着せるべく制作したもので、愚妹を含めた全体のバランスの出来について自画自賛するならまだしも、あの愚妹単体を持ち上げるつもりにはならんな。あの愚妹を着せ替え人形代わりにして楽しむだって? 全く、馬鹿も休み休み言うんだな。そもそも、愚妹の服の好みは俺と方向性がかなり異なるんだ。愚妹が俺に制作を頼む服など、俺の理解を超えているものだってあるぐらいだぞ?」
 吐き捨てるように捲し立てた有樹に気圧されながらも、俺は今の今まで知り得なかった有樹の趣味について理解した。
「何だ、ビックリした。てっきり、隠された性癖をカミングアウトしたのかと思ったよ。でも、有樹にそんな趣味があったなんて、……知らなかった。泰治は知ってたのか?」
 泰治も「知らなかった」と首を横に振ったことで、有樹は溜息混じりにそれが中学時代からの趣味の一つだと言う。
「言っていなかったか? ちょくちょく手芸部や被服部、衣装部なんかにも顔を出していたんだがな」
 俺と泰治が納得したことで、有樹は真生へと向き直る。そうして、上から下まで改めて真生の体格をさらりと眺め見た後、自前の服を宛がうといった提案に見通しがありそうだと結論づける。
「パッと見た限り、真生ちゃんはうちの愚妹とそんなに体格が変わらないように見える。愚妹に頼まれていたもので最後の手直しを掛けるため、黒神楽まで持って来ているものが何着かあるんだ。既製品をベースに愚妹用に弄ったものだから、ところどころサイズの合う合わないはあると思うが、恐らくそのまま着れるだろう。残念ながら、愚妹の趣味が諸に出ていて私的にはあまりお勧めできないデザインだが、それでも良ければ、……どうだろう?」
「はい、ぜひ、お願いします」
 真生はニコリと微笑むと、その提案を二つ返事で受け入れた。
「よし、なら上着は俺の渾身の作品を出そう。ズボンは、泰治から借りるのが良いだろう。基本的な作りの違いがあるとはいえ、裾をまくれば男物も女物もそう大差ない。問題なく着られるはずだ」
 真生の承諾というか、お願いを聞いた後の有樹の行動は非常に迅速だった。
 真生の服を見繕うにあたって泰治に協力を要請したにもかかわらず、有樹は泰治からの返事を待たなかったぐらいだ。泰治の方も、今の有樹に何を言っても無駄だと悟ったらしい。有樹に引き摺られる形で、泰治は部屋を出て行った。
 渾身の作品を出すといった有樹が戻ってくれば、あれよあれよという間に真生は飾り付けられていった。真生の着替えに合わせて、何度か部屋の退出を繰り返せば、その外観による印象は大きく化ける。
 服装を整えただけなのに、今度は別の意味で真生の存在感が際立って、俺達の格好に溶け込まなくなったように感じた。有樹のコーディネートがかなり利いているようだ。
 泰治から借りたアメリカンカジュアル系のメンズのデニムパンツをベースに、有樹によって仕立てられた真生の出で立ちは、暖色系のカットソーとフェイクファーの付いたジャケットを羽織るといったものだ。ワンポイントには、オレンジ色した半透明の球体なんかがゴテゴテと付いたロングネックレスなんかが首元に鏤められている。
 昔のおかんに似ているだとか似ていないとか、そんなことは完全に俺の頭の中から吹っ飛んでいた。今の真生なら「眉目秀麗」と有樹が形容したのも頷ける。もちろん、それは有樹が自作した上着の出来が凄まじかったこともあるだろう。
「どうかな、似合う?」
 そう真生に尋ねられた俺は、ただただ黙って頷くだけだった。




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