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Seen03 新天地・永曜学園と蜘蛛女の推参


 永曜学園到着は夕暮れに差し掛かろうかという時間だった。
 ウェイバースリントン黒神楽店を後にしてからは、神楽坂商店街をの他の立ち寄り地点を経由したことも、永曜学園到着まで優に二時間以上の時間が掛かった。その中でも時間を食ったのが永曜学園までの移動で、軽く一時間近くは歩き続けた計算だ。もしかして道を間違っているんじゃないかという不安に怯えながら、住宅街の向こう側に巨大な校舎を発見した時には、思わず三人揃って安堵の息を吐いたぐらいだ。
 最初は国道や市道といった比較的大きな道路に沿って、俺達は永曜学園を目指した形だ。途中まではそのルートで順調満帆だったものの、そこには大きな落とし穴があったのだ。
 比較的大きな道路を選んで永曜学園を目指すルートは途中で幹線道へと合流してしまったのだ。その幹線道は線路と川を越えるに当たって跨線橋の形を取り、よりにもよって跨線橋は歩行者用の側道を完全に分離させるタイプの自動車専用道路の形だった。元々幹線道は住宅街を避けるように大きく弧を描く形を取っていたこともあって、途中から住宅街を突っ切るルートに切り替えたのだけど、それが次の誤算になった。
 住宅街は所々木造建築が目に付くような年代を感じさせるもので、お世辞にも計画的な都市計画のもと開発が進められたとは言えないような造りだったのだ。複雑に入り組んだ住宅街に何度進むべき道を阻まれたことだろう。大雑把な地図は役に立たなくなり、そこからは携帯電話で簡易地図を表示しつつ、位置関係を入念に確認しながらの移動になった形だ。
 永曜学園に近付くにつれて、ようやく碁盤の目に限りなく近い造りになり、その先はすぐだった。マンションやアパートと見紛うような比較的大きな造りの建造物が目に付くようになり、立て看板に「寮」の文字が目に付くようになってしまえば、永曜学園が目視できるようになったからだ。
 ともあれ、入学式当日にぶっつけ本番で自転車通学を決行するような馬鹿な真似を「しないで良かった」と心から実感した瞬間だった。下手をすれば、入学式早々遅刻という状況に陥ったかも知れない。


 敷地をグルリと囲む煉瓦造りの塀に沿って永曜学園の正門前まで行くと、入学試験の時に訪れた校舎が確認できるようになる。私立だとはいえ、非常にモダンで巨大な校舎を改めて目の当たりにし、俺は一言率直な寸感を口にする。
「しかし、こうして改めて眺めて見ても、……でかいよな。普通に迷えそうだ」
 俺の記憶が正しければ、入学試験で訪れた際にも似たような台詞を口にしたはずだ。一度その巨大さを垣間見ているのは間違いないはずなんだけど、改めて肌で感じるその巨大さは再び俺を驚かせるに足るものだった。
 それこそ詳細を教えられることなく永曜学園を遠目に眺めているだけだったなら「巨大なショッピングモールなんだ」と嘘を吐かれても疑問に思わないかも知れない。
「この近隣地域の高校としては、歴史もあって名前も通った私立の有名マンモス校らしいからね。何でも、ここには春から俺達が通う一般学部の他にも、商業科やら美術科やらもあるらしいよ。スポーツ強豪校として活躍するべく全国から特待生まで取ってる。ホント、何でもありだよ。何よりも、最大の魅力は余程落ち零れない限り、霞咲の永曜学園大学へエスカレーター式で入学できることだね。これがあるから一般学科は絶大な人気を誇る」
 永曜学園一般学科について「絶大な人気がある」と泰治は説明したけど、永曜学園自体、学科を問わずかなり偏差値のレベルが高い高校だ。それも、人気があるからこそ学力レベルが高い水準にあるというのを絵に描いたような高校で、わざわざ永曜学園ランク以上の偏差値レベルの人達が挙って受験をするほどだ。
 正門前でたむろする俺達の横を、部活動で居残っていたのだろう生徒の一群が通り過ぎていく。生徒玄関付近には他に人影はなく、俺は今が好機と泰治に働き掛ける。
「さてと、それじゃあ、せっかくここまで来たんだからちょっと探検させて貰いますかね」
「わざわざ制服まで用意してきたんだ。最初からそのつもりだろ?」
「語るに及ばず」
 何か障害があるようなら、早々に侵入を諦める案もあった中、誰からも反論は唱えられない。
 するりと正門を通り過ぎてしまえば、俺達は永曜学園の敷地内へと足を踏み入れた。
 周囲に誰もいないことを確認すると、俺は制服の内ポケットに忍ばせた冊子形状のパンフレットを取り出す。そして、パンフレットに照らし合わせて、敷地内部の建造物を順々に歩きながら遠目に確認していった。パッと見ただけで既に校舎と思しき建造物が三つほどあって、どれが春から俺達が通常出入りするものなのかが解らなかったからだ。
「まず目の前にあって一番大きいのが本校舎みたいだな。その右側にあって渡り廊下で繋がっているのが第二校舎ビーブロックで、その奥にあるのが第二校舎エーブロックらしい。えーと、俺達が普段授業を受けるのは本校舎みたいだから、目の前のあれだな」
 泰治はパンフレットを横合いから覗き込むと、俺の説明を「信じられない」という風に声を上げる。
「あの派手なデザイン志向のモダンかぶれの建造物が本校舎なのか? てっきり、落ち着いた佇まいしてる第二校舎の方が本校舎なのかと思っていたよ」
 永曜学園本校舎の外観は、確かに泰治が言ったようなモダンな佇まいで「ミッション系」と言われても疑問に思わないぐらいだ。特に円錐形の屋根や特徴的な窓の形状といった部分は、北欧の街並みにそのまま溶け込みそうな雰囲気があるといっても過言ではない。尤も、第二校舎の方はミッション系の外観を持つ本校舎とは異なり、至極一般的な日本の高校の佇まいをしている。
 ただ、至極一般的な日本の高校の佇まいとは言うものの、敷地の広さや設備の立派さという観点から見れば、地元の高校群では足元にも及ばない。こういうところは、さすが有名校と言わざるを得ない部分だ。
 俺はパンフレットに沿って、本校舎に隣接する施設群を順々に挙げる。
「ちなみに、本校舎の左手側には体育館があって、見えないけどその奥にはプール施設と、そこに隣接するように弓道場とかがあるらしい。これがみたいってものがあるなら、本校舎じゃなくそっちに行くのも良いと思うけど……」
「夕暮れ時に渡り廊下から黒神楽市街を展望する景色がどうのこうのって話を聞いたことがあるな。今からだと、最高の景色に差し掛かる時間として、ちょうど良いんじゃないかな」
 施設群に着眼点を置いた俺の言葉が言下の内に、泰治からは違った観点からの提案が出た。
 その提案には有樹からも賛同の声が上がる。
「それは悪くない。これから当たり前のものになってしまう黒神楽市街の景観を、特別だと思える内にじっくり眺めるというのも乙なものだろう。よし、ならば、まずはあれだな」
 有樹が顔を上げて視線を向けた先には、本校舎三階と第二校舎ビーブロック三階とを繋ぐ長い渡り廊下がある。
 今ここで俺達が味わいたいと思ったものは「ここはもう地元ではない」という端的な視覚情報だったんだと思う。それは、きっと今の段階では開放感にも似た心地よさを与えてくれるもので、きっと次第次第に郷愁へと変化する下地になるものだろう。下手に拗らせるとホームシックを併発する下地になるものだと言い換えても良かっただろうか。
 主に一般学科の生徒が通常の授業を受けることとなる本校舎へは難なく侵入できた。本校舎の生徒玄関は施錠されずに開けっ放しとなっていたのだ。まだ時間的に居残っている学生が居るからだろう。
 本校舎を入ってすぐの位置には中央階段があり、渡り廊下のある三階までは何の問題もなく進めそうだった。
 ふと、生徒玄関脇の掲示板に張り出されていた掲示物が目に付いた。
 そこには昨年度の主要な進学先として、大学名がずらっと並んでいた。即ち、俺達の入学と共に卒業していった先輩達の進学先だ。進学者が一定数に満たない大学名はその他で括られているようだったけど、その他で括られるまでに名前の通った大学名がちらほらと目に付く。
「……まさかこんなランクの高い高校へ来ることになるだなんて、一年前は思わなかったよ」
 感慨深げに呟く俺に、有樹は横合いから口を挟む形で「合格には本気で驚いた」と言わないばかりの態度を見せる。
「全くだ。良く受かったよ、言規は。英語を教えてくれと言い出した年初の頃には「ああ、言規ともここで道を分かつのか」と本気で思いもしたわけだが、まさに断じて行えば鬼神もこれを避くを体現したわけだからな」
 当時を振り返って言った有樹の率直な感想を前にして、俺も衝撃を受けた当時の感覚を述べる。
「だって、二年の終わりの進路希望調査で何の前置きもなく有樹泰治揃って第一志望は永曜学園ですなんてしれっと言い出すんだよ? てっきり地元の高校に進学するつもりだと思ってたからさ、衝撃だったよ! そりゃあ、俺だって奮起するしかないさ。今後の面白可笑しい学園生活のためにも「ここがデッドラインだ!」と思ったわけだよ。もう、頑張りましたし、その節は本当にお世話になりました。もうこの一年間で五〜六年分の勉強時間を使い果たしたね!」
 当時を思い返して、心の底から湧き上がってくるものは、主に有樹に対する感謝感謝である。様々な教科を、広範囲に渡って教えて貰った記憶だけがまざまざと思い上がってくる。あの勉強付けの毎日を思い起こすと「五〜六年分の勉強時間を使い果たした」という言葉も、強ち言い過ぎではないとさえ思える。
「いや、まだまだこれからだよ?」
 再度、感慨深げな顔付きで掲示物へと目を向ける俺に、泰治からは至極冷静な指摘が向いた。
 一体、俺の発言を泰治はどこまで本気と受け取ったのだろうか。俺の横顔を覗き込むように体勢を取る泰治の表情には、本気で俺を心配する雰囲気さえ漂う。尤も、それを真に受けたのは泰治だけではなかったようだ。有樹も同様らしい。
「正直な話、反動がかなり恐ろしいと俺も思ってる。だが、いいか言規、落ち零れないようにだけはするんだぞ?」
 有樹からも真顔で忠告されると、さすがの俺も苦笑いの表情を隠せずにいた。
 尤も、俺の台詞がかなり本気の色を帯びていたことも、否定しようのない事実ではある。あわよくば、何でもそつなくこなす有樹に頼み込んで、宿題なんかはパパッと「写させて貰おう」だとか色々思っていた部分も少なからずある。
 それにしたって「あまりにも信用がないじゃないか」と思わずには居られない。
「頼むよ、言規」
「有樹はともかく、その言葉、泰治にはそっくりそのままお返しするぜ! 泰治だってそんな余裕綽々で合格した口じゃないだろ!」
 五十歩百歩の泰治へはそうやって反発したものの、実際掲示物に驚かされたのは紛れもない事実だった。
 てっきり、俺はエスカレーター式でほぼ自動的に進学可能な永曜学園大学への進学者数が圧倒的多数を占めると思っていたからだ。けれど、永曜学園大学を含む上位三つに名を連ねる大学名は、どれも相当数の進学者数がカウントされている。上位三つは霞咲市やその近隣地域の大学名が名を連ねていたとはいえ、同地域内でこんなにも多くの学生がエスカレーター式を利用しないとは思っていなかった。しかも、残り二つのどちらの大学にしても、簡単に進学できるランクではない。
 俺や泰治はともかく、有樹はエスカレーター式を利用しないかも知れない。ふと、そんな予感が脳裏を過ぎった。
「言規、三階にビーブロックへ続く渡り廊下があるみたいだ。行ってみようぜ」
 泰治から名前を呼ばれ、俺は我に返った。
 既に泰治と有樹は、上層へと続く階段に差し掛かっているところだった。
「ああ、うん。今行くよ」
 遅れて渡り廊下がある本校舎の三階へ足を踏み入れると、目映い夕焼けが目に飛び込んできた。一面真っ赤に染まる本校舎三階の廊下で何気なく立ち止まると、俺の視線は自然に黒神楽の街並みへと向いた。
 永曜学園から展望する黒神楽の街並みは、お世辞にも壮大なものとは言えないだろう。それこそ、どこにでもある地方都市のものだ。けれど、それでも俺が長年過ごした蔵元町よりかは遙かに都市部の景観をしている。
 不意に、地元を離れることに対する寂しさと、これからの新生活に思いを馳せる期待感が同時に襲ってくる。尤も、今回はこれを味わうために、この場所へ足を運んだとも言えるわけだ。区切り、みたいなものだ。
「もう勝手知ったる地元じゃないんだよな」
「そうだね。新天地、……だよね」
 不意に、唯ならぬ気配が背後に生まれた。それは、何の前触れもなく突然そこに生まれたものだ。もちろん、泰治のものでも有樹のものでもない。ただ、全く異質な気配かと問われれば「そうでもない」と俺は首を横に振っただろう。
 どこかで感じたことがあると思うのは、霞咲駅のホームで接触したからだろうか?
「良くも悪くも背後に気をつけて」
 ここに来て、妖精さんの忠告の言葉が思い浮かび、俺は息を呑む。
 意を決して向き直ると、そこには見覚えのある蜘蛛女が佇んでいた。
 口許に微笑を灯し、これ見よがしに小さく手を振って見せる蜘蛛女の挙動は不敵な態度を俺に印象付けるものの、少なくともそこに敵意のようなものは感じられなった。巧く立ち回れば、衝突は容易に回避できるような状態だったと言ってもいいのだろう。しかしながら、霞咲駅での一件が今も尾を引く俺の対応は、柔軟さの欠片もないものに終始する。
「現れたな、蜘蛛女! 今回は霞咲駅での時みたいには行かない! お前の再襲撃は想定の範囲内だったからな!」
 泰治カスタムの銃口を蜘蛛女へと向けてしまえば、もう俺は自分自身を奮い立たせることしか頭になかった。
 喉の奥から引っ張り出してきた威勢の良い言葉にしても、俺の心に影を落とす一抹の不安を巧みに隠す役目を担ったことだろう。少なくとも、立ち居振る舞いに、その不安の色が見え隠れすることはなかったはずだ。
 俺の視線は自然と蜘蛛女の一挙手一投足を窺うように鋭くなる。尤も、改めて蜘蛛女の出で立ちを一つ一つ確認した後の俺の瞳の中には、隠しようのない困惑の色が混ざった形だった。
 見覚えのある黄土色のジャージには俺の名字である「陣乃」の姓名の刺繍がある。使い古して良い具合によれよれになった感じにしても見慣れた懐かしさが漂うわ形だ。それはやはり、中学時代に俺が愛用していた学校指定のジャージで間違いないようだった。
 どうして使い古した俺の中学指定のジャージを着ているんだ?
 真っ先にジャージの件が脳裏を過ぎった。けれど、まずは何よりも銃口を突き付けられた蜘蛛女のスタンスを見極めることが先決である。俺は口を真一文字に結ぶと、不利な状況に立たされた蜘蛛女がどう振る舞うのかを注視する。
 しかしながら、当の蜘蛛女に自分が不利な状況に陥ったという認識はないようだった。小首を傾げて見せると、俺が構える泰治カスタムを指差し、物怪顔で尋ねる。
「何だっけ、それ? 拳銃っていう奴?」
 それは「泰治カスタムを身構える」という行為が「何を意味するのか」について確認したようにも聞こえた。
 興味津々という顔付きで泰治カスタムを眺める蜘蛛女だったけれど、何の前触れもなく俺の方へと一歩踏み出さんとするから、俺の表情は一気に強張った。有無を言わさず引き金を引くことができる図太い神経を持っていたら、もう少し楽だったのだろうか。例え、それが蜘蛛女の足下を狙う牽制の一撃であったとしてもだ。いくら威力と命中精度を強化した泰治カスタムがこの手にあっても、その引き金を引けないので意味がない。
「近付くなっての! これは本物じゃない、ガスガンだ。だけどな、ガスガンでも当たり所によっては激痛に苦しむレベルまでチューニングが入った代物なんだぞ!」
 俺の牽制の言葉にも、蜘蛛女は怪訝な顔だった。
 やはり「銃口を向けられる」ということが、どういうことか解っていないのかも知れない。俺は一度頭を掻き毟ると、何とも言えない間の悪さを感じながら銃という武器について蜘蛛女にレクチャーする。
「いいか、俺がこの引き金を引いたらこの銃の先から弾丸が出る! 当たったら、お前、痛い! こうして銃口を向けるということは「近付いたら撃つぞ!」って意思表示だ! それぐらい理解しろよ、全く!」
 そこまで言われて始めて、蜘蛛女はようやく「合点がいった」という顔付きだった。尤も、ピンと立てた人差し指を唇に添えてみせて「ふーん」と頷く蜘蛛女の様子を見ている限りでは、まだ脅威を感じているような段階ではない。泰治カスタムの銃口を向けられて牽制されるという状況を、まだ深刻な状態だと認識できていないのは間違いない。
 苛々の募る俺が泰治カスタムの銃口を蜘蛛女の足下付近に定めて、牽制の一撃をぶっ放そうかと本気で思い始めた矢先のこと。不意に、蜘蛛女ががらりとその雰囲気を変える。
「そんなもので、あたしをどうにかできると思っているんだ?」
 表面上は、それまでと何も変わらないかのように映る優しい口調と笑顔だった。いいや、それらはより度合いを増したと言った方が良いかも知れない。けれど、その裏側からは有無を言わさぬ迫力が滲み出た。
 これが「凄み」という奴なのかも知れない。そう思わされたぐらいだ。
 ふと気付けば、俺は引き攣った顔で後退っていた。完全に「気合い負け」していたらしい。
 すぐさま俺は自身が優勢である事実を再確認する。
「まず距離がある。そして、俺の手にはハンドガンがあって、セーフティも解除済みだ。おいおい、……いつでも撃てるんだぞ? 何を怖がる兎さん?」
 けれど、そうやって一つ一つ呼称していっても第六感はずっと眼前の蜘蛛女に対する警告を発し続けていた。第六感の警告に抗おうとするも、そのスタンスを取ろうとした代償はもの恐ろしさという反動を引き連れてきた。苦し紛れに「兎さん」なんて戯けてみるものの、もの恐ろしさは微塵も揺るがない。
「あたしは争うつもりで出てきたんじゃないんだけどなぁ。それでも、丸腰の相手に武器を向けるつもりなの?」
「何言ってんだよ! 霞咲駅でお前が俺に、気色悪い色した蜘蛛を嗾けたのを忘れたとでも言うのか!」
 俺の反論に、蜘蛛女は一度ぽかんとした表情を間に挟んだ。
「気色悪い色した……って、それ、もしかしてサクラのこと?」
 蜘蛛女はふいっと視線を自身の足下へと落とす。
 そこには霞咲駅のホームで俺に飛び掛かってきたサクラが居た。サクラは蜘蛛女の後ろに隠れるようにして、俺の様子を窺う仕草を見せる。
 ついさっきまで、サクラの存在を認識できていなかった俺が顔を引き攣らせたことは言うまでもない。
「酷いよねー。ねぇ、サクラ? サクラの綺麗な色を気色悪いだなんて、趣味が悪いよね」
 サクラは蜘蛛女を見上げると、大人がぐっと掌を広げたサイズは優にある胴体を小刻みに上下に振って見せる。その様子はまるで蜘蛛女の意見を同意しているかのようだ。
「色彩がどうのこうのと言う前に、全体的なフォルムがもうそこはかとなく気色悪いんだよ!」
 思わず、そう反論してしまいそうになって、俺はくっと言葉を飲み込んだ。
 もしも、反論を我慢せず口にしていたら、そこにはさらに「趣味云々の話をお前なんかに言われたくない!」と続いたことだろう。ともあれ、俺が銃口を定めた時には、間違いなくそこに件の「サクラ」は居なかったはずだ。霞咲駅でそうだったように、またどこからか出現してきたのだろう。
 改めて、この蜘蛛女とサクラが普通の存在ではないことを俺は再認識する。
 趣味が悪いと攻撃したことについて俺が何も反論しなかったからだろう。蜘蛛女は反応の薄い俺の様子を拍子抜けしたという態度で瞥見した後、霞咲駅での一件について弁明する。
「サクラを嗾けたのは、サクラを嗾けなきゃならない状態になっちゃったからだよ。元々、身内が相手じゃあサクラの力は効果が薄いんだよ? わざわざ、サクラの力でどうこうしようなんて思ってはいなかったよ。それに、サクラじゃ能力不足だったんだって、試してみて改めて解ったしね」
「嗾けなきゃならない状態って、一体何だよ? あの霞咲駅で一体どんな……って、ちょっと待った! お前、今なんて言った? 身内だって? 身内って俺のことか?」
 当初は蜘蛛女が口にした弁明の、あくまで曖昧で理由になっていない箇所について厳しく追及するつもりだった。その「嗾けなきゃならない状態とはなんぞや?」という部分が何も語られていないのだから当然だろう。しかしながら、途中で蜘蛛女が口走った言葉は、それを些細な問題へと変えるに足るインパクトを伴い、話題を全て掻っ攫った形だ。俺は蜘蛛女が途中で口走ったその「身内」と言う部分について言及しなければならなくなったのだからだ。
 今まさに蜘蛛女へと疑問を尋ね返そうとしたその矢先のこと。俺を探す泰治の声が廊下へ響いた。
「言規、ここか?」
 俺を探す泰治は、突き当たりの丁字路からひょっこりと顔を出した。そして、廊下に俺の姿を見付けると、安堵の息を吐いたようだ。
「良かった、はぐれたと思って焦ったんだ……って、おいおい! 何やってるんだよ! 女の子に銃口なんか向けて!」
 泰治は俺が構える銃口の先を目で追い、眉間に皺を寄せる。しかしながら、蜘蛛女をまじまじと注視した後、泰治は警戒を解いてしまった。そうして、あろうことか、泰治の口からは信じられない台詞が飛び出す。
「あれ、君、言規の……。こうやって、面と向かって話をするのは初めてだけど、久しぶりだね」
「こんばんわ、泰治さん」
 蜘蛛女にしても、ニコリと微笑んで見せれば泰治相手に満面の笑みで会釈を返すではないか。
 どうやら顔見知りらしい。
「おお、喋った。何だ、君、ちゃんと普通の声で話せるんじゃない。こうやって声を聞いたの、もしかしたら初めてじゃないか?」
 どこにそんな驚く要素があったのだろうか。泰治と蜘蛛女の関係を知らない俺には事情を理解できそうになかったけれど、とにかく泰治はそうやって蜘蛛女が普通に挨拶を返したことに驚いているらしい。
 尤も、俺が気にするべきところはそんな場所じゃない。
「……泰治?」
「何だよ、言規? おっかない顔して」
 泰治から指摘されて始めて、俺は自分自身がその「おっかない顔」をしていることに気が付いた形だ。けれど、それもやむを得ないと言えただろう。俺に蜘蛛を嗾けた蜘蛛女と、悪友が顔見知りだなんて事態に「疑問を持つな」というには無理がある。今はそんな泰治の指摘にペースを狂わされている場合ではない。
「お前、本物の泰治か?」
 我ながら「何を馬鹿なことを口走っているのだろう」とも思った。けれど、それは確かめずにはいられない内容だったのだ。言ってしまえば、本物かどうか問い質すことによって、不自然な態度を見せることがないかを確認したかったのだ。
 もしも、それで泰治が突拍子もない挙動を取るようなことがあったなら、俺は有無を言わさず銃口を身構えたことだろう。既に、かなりの警戒心が泰治へと向いているのだ。
「はぁ? そんなの当たり前だろ。それとも何か、巷では俺のドッペルゲンガーでも出現してるのか?」
 泰治は俺の質問を冗談か何かだと思ったようだ。
 しかしながら、俺が真顔を崩さず上から下までマジマジと姿形を注視する様子を前に、泰治は狼狽する。
「ちょっと! ちょっと待ってくれ! 何だよ、真面目な話なのか? 俺の偽物とか出現しちゃってるの?」
 当惑する泰治を放っておくのは気が引けたけど、今の俺には状況を説明している余裕などない。
 なぜならば、当惑しているのは俺も同じだ。
「泰治、一つだけ答えてくれ。さっきの言葉の後には何が続いたんだ?」
「……何の話だよ?」
 答えを急いだ俺の質問は、泰治へ伝えるべき重要な部分が欠け落ちてしまっていた。
 怪訝な顔付きを返した泰治に、俺は慌てて求める部分を説明し直そうとする。しかしながら、頭では丁寧に言い直そうとするのだけど、口に出る実際の言葉にその思考は何も活かされない。寧ろ、考えれば考えるほどこんがらがってしまう風で、いざ俺が口に出した説明は酷い内容に終始する。きっと、俺は自分が思っている以上に動揺していたのだろう。
「さっき、あの蜘蛛女を指して「言規の」って言っただろう? その後に続く言葉だよ、その後に続く言葉を教えて欲しいんだ。あの蜘蛛女が俺の何だって言うつもりだったんだ?」
 そこまで言われて、泰治はようやく俺が求める「続き」を理解したようだった。
「え? ああ、最近はあまり見掛けてなかったけど、あの娘とは昔から言規の家で何度も顔を合わせてるし……」
 そうして、俺の求めた「答え」を口にする泰治からは、衝撃の事実が語られた。
 愕然とする俺の様子を前に、さすがに泰治もただごとではないと思ったらしい。尤も、状況を把握できない泰治は「ただごとではない」と感じ取ったはいいものの、ただ苦笑いの表情で当惑する他ないようだ。
 俺は一度二度とふらふらよろめいた後、蜘蛛女へと向き直る。改めて、その姿形を上から下までじっくりと確認していくけれど、やはり「見覚えがない」と思わないだけだ。思い出すことのできない「どこか」で、何度も何度も顔を合わせたことがある相手ではないはずだ。
 蜘蛛女は俺に「見られていること」を意識したのだろう。ファッションモデルが壇上で見せるようならしいポーズを取ってみせると、さも「気の済むまでどうぞ」と言わないばかりだった。加えて、らしい顔付きでウインクまで飛ばされてしまえば、俺は対応に窮する格好だった。その仕草にちらっと妖精さんが脳裏を過ぎったけれど、……違う、それじゃない。
 ふいっと目を逸らしてしまえば、言葉を向ける矛先も泰治へと変わる。尤も、そうしてしまえばそうしてしまったで、泰治へと問い掛けるべき質問も無数にあるのが現状だった。
「なぁ、あの蜘蛛女を俺の家で見ただって……?」
「何言ってるんだよ、親戚とかなんだろ?」
 あっけらかんと答える泰治に、俺は驚きの色を強める。
 そして、そんな俺の顔色などお構いなしと言わんばかりに泰治は親戚だと思った理由について言及する。
「昔、一緒に遊んだじゃないか。ああ、まぁ、かなり昔の話だけど、……一緒にゲームとかやっただろう?」
 どうやら「俺がまだ思い出せないだけだ」と泰治は思っているらしい。矢継ぎ早に、記憶の中にある俺と蜘蛛女とが一緒に居た場面を訴えてみせる。仕舞いには有樹の名前まで引っ張り出してきて、それはさも「俺だけが覚えていないだけだ」という言い方になる。
「確か、珠樹ちゃんも一緒に居たな。言規と有樹が二人で協力してステージをクリアしていくシューティングゲームか何かをプレイしていて、俺と珠樹ちゃんとあの娘とでそれを後ろから眺めていたんだよ。はっきり覚えてる。有樹にも聞いてみるといいよ、きっと「ああ、あの子か」って言うはずだ」
「有樹も覚えがないって言ってたよ。ああ、いや、見覚えがあるって曖昧なことは言ってたけど、だからって……」
 有樹の立場を代弁するその反論が意味を持たないものだと半ば理解しながら、俺はどうあっても有樹を泰治の方へと渡すつもりはなかった。形の上だけでも、有樹には「蜘蛛女を見たことがない」側へ立って居てくれないと困るのだ。そうでなければ、俺はあっという間に追い詰められてしまうことになる。
 尤も、泰治の記憶を元にすれば、有樹もすぐに事情を把握するようになる可能性はある。「あの時一緒にゲームをした娘と、蜘蛛女が同一人物なんだよ」という言い方をすれば、あっさり合点がいくかも知れないわけだ。「見覚えがある」と言った部分に対しても、辻褄が合うような感触さえする。
 不意に、ドサッと何かが床に落ちる音がした。
 慌てて、音のした方を確認すると、そこには小難しい顔をして立ち竦む有樹の姿があった。さっきの音は、有樹が鞄を床に落とした音だったらしい。床には鞄が転がり、中からはウェイバースリントン黒神楽店で購入した商品が覗く。
「おお、有樹、良いところに来たな! 確認したいことがある……って、鞄、落としたぜ?」
「ああ、……うん、そうみたいだな」
 泰治の指摘を受けて床に落ちた鞄を確認するけれど、有樹は一向にそれを拾い上げようとはしなかった。それどころか思案顔を覗かせてみせると、その体勢のまま腕組みをして黙り込んでしまった。
 どこからどう見てもそれは異様な光景に他ならない。現に、それは泰治を動揺させるに足るものだった。
「言規、黒神楽に来てからお前も十分おかしいと思うけど、あっちは度合いを逸して酷いぞ。何だよ、何があったんだよ! その、後頭部を何かに強く打ち付けたとか……?」
 俺も確かに有樹の様子は心配だったけれど、今はそれを説明しているだけの余裕がない。そもそも、俺も有樹の異変については推測でしかものを言えないわけであり、その根本的な原因が何なのかを把握はできていないのだ。
 そういった背景を言い訳に据えて、俺が返す言葉は蜘蛛女に対する泰治の記憶を試すものになる。
「有樹のことは、今は取り敢えず置いておく! なぁ、あの蜘蛛女と最後に俺の家で顔を合わせたのはいつだ?」
 どうだ、答えられないだろう?
 簡単には思い出せないぐらい昔のことだろう?
 そんな心積もりで出した質問だったけれど、泰治は一瞬考え込んだだけでその時期についてさえもすらすらと答える。
「言規の家で顔を合わせたのは……、確か永曜学園の受験前だな。言規から「年末の大掃除をして部屋を片付けたら、俺から借りた漫画が出てきたんで暇のある時にでも引き取っていってくれ」って言われて、言規の家に立ち寄った時に玄関先で顔を合わせて会釈したはずだ」
 しかも、その内容は俺の想定を悪い意味で裏切る内容だった。良くも悪くも、それは二度目の衝撃となった。
「つい最近のことじゃないか!」
「つい最近って言ったって、もう一ヶ月以上前の話だぜ?」
 慌てる俺に、泰治は平然と「もう一ヶ月以上前」という言い回しをした。即ち、それは割と高い頻度で、且つもっと短いスパンで、泰治と蜘蛛女が顔を合わせていたことを意味したに等しい。
 泰治と蜘蛛女、それぞれに顔を合わせた場所や時間について追求しても、裏を合わせたように同じ内容を話すのだろうか。問い詰めれば真偽がはっきりするかも知れないけれど、それをやるだけの勇気が俺にはなかった。
 だって、もしも、泰治の言葉が本当だったら、……俺はどうすればいい?
 嘘だと叫き散らすこともできず、だからといってそれを認めることも適わない。恐らく、俺はこれでもかと言うほど「当惑」の表情をして押し黙っていたことだろう。
 そうして、蜘蛛女の口からも俺の想定を悪い意味で裏切る言葉が出る。
「良く覚えてますね、泰治さん。あの頃は、受験前と言うこともあってさすがの有樹さんも一杯一杯だった気がしますね。普段はそんな印象を受けないのに、目を三角に尖らせて参考書を睨んでいた記憶があります」
 さらに悪いことに、その内容は相手が蜘蛛女から出たものでなければ、俺も笑いながら同意してしまい兼ねないほど的確なものなのだ。事実、泰治は笑いながら蜘蛛女のその見解に同意する。
「はは、確かに」
 端から見ていれば、泰治と蜘蛛女は完全に打ち解けた風だ。
 俺は反応に窮する。蜘蛛女がまるで見てきたかのように語っているだけか、それとも実際に見たからこそ語ることができているのか判断できない。恐らく、その日その時のことについて詳細を尋ねれば、蜘蛛女はすらすらと答えるだろう。
 有樹は有樹で我関せずと言わないばかり、ぶつぶつと自問自答を続けて記憶の底から蜘蛛女に関するものを引っ張り出そうと躍起になっている。
「確かに、見覚えはあるんだ。いいや、そんな曖昧な言葉に収まるレベルじゃないだろう? どこで見た? どうして思い出せない? ずっと昔であることだけは間違いないはずだ」
 厳しく自身を追求するかのような有樹の自問自答に聞き耳を立てる限り、少なくとも有樹の記憶の中にもこの蜘蛛女が存在していることは間違いないようだ。
 泰治の記憶の中では明瞭で、有樹の記憶の中では曖昧で、そして俺の記憶の中には存在しない相手。
 こいつは一体何なんだ?
 そして、三者三様の顔色が交錯する永曜学園の廊下には、不意に蜘蛛女の頓狂な声が響き渡る。
「あー! それ、ダーツですね。有樹さん、まだ趣味で投げ続けているんですか? 小学生ぐらいの時にうちの書斎に飾られていた本場のダーツに触れたことで、ダーツに興味を持たれたんですよね。ふふ、懐かしいです。一度だけ、あたしと勝負したこと覚えていますか?」
 蜘蛛女の視線は有樹が床に落としたままの鞄へと向けられていた。いいや、さらに正確に言うのならば、鞄から覗くウェイバースリントン黒神楽店で有樹が購入した商品へである。昔を懐かしむかのように、ダーツの箱を感慨深げな表情で眺める蜘蛛女の顔付きが印象に残った格好だ。
 ともあれ、蜘蛛女の確認の言葉に、有樹はただただ驚いた表情で頷き返すだけだった。
 どうしてそんなことを知っているのか。有樹の疑問はそこに収束しただろう。
「なぁ、君。いつ、どこで、俺と顔合わせたか、……教えてくれないか?」
 有樹はとうとうその疑問の答えを蜘蛛女へ求めた。きっと俺みたいに、自身の頭の中を引っ掻き回してみても、何の糸口も見つけられないのだろう。
「有樹さんがどこまであたしの存在を認識してくれていたのか、その正確なところはあたしにも解りません。けれど、あたしはいつも有樹さんと顔を合わせていたつもりです。「どこで?」なんて、そんなの泰治さんと一緒です。それこそ、蔵元町の有樹さんの行動範囲であれば至る所で……、ですよ」
 有樹は腕を組むと、思案顔で唸り声を上げる。蜘蛛女から有樹の望む答えが語られなかったからだろう。
 尤も、有樹と蜘蛛女とではそもそもの認識が異なっているのだから、それも仕方ない。
 有樹が思い出そうとしている地点は、あくまで蜘蛛女の存在を有樹が認識したある特定の「いつか」なのだ。
 ともあれ、有樹は再度思案顔をして黙り込むと、改めて記憶を手繰り寄せる作業に取り掛かってしまったようだった。しばらくは、そのまま戻ってこない気がした。
 そんな三者三様の対応の中で、不意に泰治が核心へと触れる。
「言規と有樹が何を思い悩んでいるのかは知らないけど、この娘、香奈恵さんそっくりだからさ。俺はてっきり言規の従姉妹か何かだと、ずっと勝手に思ってたんだけど……」
 蜘蛛女の容姿に対する泰治の感想を聞いた瞬間。有樹は合点がいったと言わないばかりに声を張り上げる。
「そうだ、泰治! 思い出した、その通りだ! 実際に会って話をしたことがあるわけじゃないんだ! 若き日の香奈恵さんだ。若き日の香奈恵さんにそっくりなんだ!」
 憑き物が落ちた顔付きで、有樹は興奮気味に蜘蛛女に対する既視感について説明した。
 おかんと蜘蛛女の両者を見比べることのできる泰治と有樹が、それぞれその容貌について「そっくりだ」と証言して見せた形だ。けれど、俺はすぐにそれを受け入れられない。
「……そんなに似てるか?」
 一方の蜘蛛女も「似ている」と言われたことに対して、露骨に眉を顰める。
「そんなに似てますか? それはちょっと、ショックです」
 俺と蜘蛛女の反応が気に食わなかったのだろう。有樹は顔を顰めて見せた後、蜘蛛女の容姿について力説を始める。
「何言っているんだ。顔の輪郭や目元の雰囲気をちょっと凛々しくするだけで、その昔、俺が写真で見た眉目秀麗を絵に描いたような、若き日の香奈恵さんに瓜二つだぞ! 特に目鼻の造りなんて申し分ないな。「写真の中から出てきました」と言われても、信じ兼ねないレベルだ」
 蜘蛛女は「おかんに似ている」と評されたことに対して露骨に眉を顰めて見せていたけれど、有樹から「眉目秀麗」なんて形容を向けられたことで、そこに「反応に困る」という顔付きを覗かせる。尤も、機嫌を良くしたことに変わりはないらしく、不興顔は影を潜めた形だ。
 一人、取り残されるように俺だけが納得できないままもやもやしていた。
 未だ首を傾げてみせる俺の様子を前に、有樹は呆れ顔を見せる。
「言規は当事者だから気付かないのかも知れない。けれど、容姿という面で言えば、彼女と言規との間にも共通点がある。俺から言わせて貰えば、兄妹だと言われればあっさり納得するぐらいには共通項があると思う」
「右に同じく」
 有樹の主張に泰治が賛同してしまえば、後は蜘蛛女に俺との関係を尋ねるしかなかった。俺が頑なに否定したところで、既に多数決の「多数」を取られてしまったのだからだ。
「誰なんだ、お前?」
 蜘蛛女は「その言葉を待ってました」と言わないばかり、自身が何者なのかの説明を始める。
「陣乃真生(じんのまお)。それがあたしの名前だよ。お母様、えーと、陣乃香奈恵の娘であり、お兄ちゃん、つまり陣乃言規と血を分けた双子の妹」
 真生と名乗った蜘蛛女からは三度となる衝撃の事実が語られた。
 尤も、それは到底「はい、そうですか」と信じられる内容ではない。
「……」
 俺は無言でポケットから携帯電話を取り出すと、着信履歴からおかんの番号を選択した。
 ちょっと待つようジェスチャーを持って要求すると、真生からは話の流れをぶった切るかのような俺の行動に対する非難の視線が向いた。
 尤も、例え話の流れをぶった切ることになってでも、それは早急に確認しておくべき内容だと思ったのだ。そう思ったからこその、その行動だ。
 しかしながら、そこに俺とおかんの通話が確立されることはなかった。俺が真生の不穏な動きを察知したことと、携帯電話の操作に対する物理的な妨害が加えられたからだ。
 ふと、視界の端に映った真生の挙動が霞咲駅のホームで俺にサクラを嗾けた時の挙動と被って見えたことが発端だった。俺は直ぐさま、携帯電話の液晶画面から顔を上げ、真生へと向き直らんと体勢を取る。けれど、その時点で既に、俺は視界の端に何かをはっきりと捉えていた形だ。
 それが真生の嗾けたサクラだと解った時には、口よりも先に手が動いていた。操作になれない左手で泰治カスタムを引き抜き、音もなく接近してくるサクラ相手に躊躇うことなく引き金を引いたのだ。
 この目でサクラの動きを捉えるのは二回目になる。けれど、俺は改めてその俊敏さを実感させられた。目で追うこと自体はそう難しいことではなかったものの、銃口を定めて引き金を引くとなると簡単にはいかない速度だ。
 泰治カスタムから撃ち放たれたゴム弾は、リノリウムの床に引っ掻き傷を付けるぐらいには強力だった。さすがは泰治の手によって、主に威力回りを重点的に改造されただけはある。反動を低減させたという部分も、集弾性能の意味も、実際にぶっ放してみて始めて体感できた形だ。これだけ連射をしても、サクラに照準を定めることが苦にならないのだ。
 しかしながら、肝心の目標に命中させられなければ何の意味もない。
「クソッ! 当たらない!」
 命中させられないのは俺の射撃の腕が未熟だからだろう。泰治カスタムの性能は申し分ない。
 サクラは俊敏な動作であっという間に距離を詰め、携帯電話を持つ俺の右手に飛び掛かってきた。てっきりハンドガンを持つ左腕の方を狙って来ると思ったから、右手を狙われたことは想定外だった。尤も、だからこそ、いとも容易く俺の携帯電話は「コーンッ」と一つ高い衝突音を響かせリノリウムの床を滑っていったのだろう。
 どうやら、サクラの狙いは最初から携帯電話だったらしい。俺の右手に体当たりをかまして目的を達成した後は、ささっと身を引き距離を取る。
「何だよ! どうして蜘蛛を嗾ける!」
 俺は改めて、ハンドガンの銃口を真生へと向けようとする。もちろん、それはあくまで牽制の意味合いを込めたものに過ぎない。けれど、まるでサクラがそうして見せたように、俺の眼前には真生が居た。この短時間でどうやって距離を詰めたのだろう。サクラと対峙していた時間は、十秒にも満たない僅かなものだったはずだ。
「!」
 俺は無意識の内に引き金を引いていた。
 サクラ相手に連発した銃声の後に、さもステップを踏み間違えたかのような間の抜けた銃声が響き渡る。それはまるで、俺の動揺を代弁するかのように際立っていた。せめて、その銃撃が真生の表情を苦痛に歪ませていればまだ様になっただろう。けれど、そもそも銃口は真生を捉えてさえいない。ゴム弾は完全に、明後日の方向へと射出された形だ。
 俺の懐へと飛び込んだ後、真生は俺の左手の付け根付近を掌で叩いて照準をずらしてしまったのだ。
 尤も、俺が状況を把握したのは、目標を逸した弾丸が永曜学園廊下の窓硝子を破壊する破砕音が響き渡ってからだ。
「言ったじゃない、そんなものであたしがどうにかできるわけないでしょう? まして、どういう原理で相手を攻撃するものなのかをサクラ相手に実践して見せちゃった後だもん。それが通用するとでも思ったの?」
 真生のにこやかな表情が印象的だった。
 耳許で囁かれた言葉に、俺は顔を歪める。
 慌てて胸元へと飛び込んできた真生を払い除けようとするけど、泰治カスタムを持つ右手首を掴まれてしまえば勝敗は決したようなものだった。
「どこに電話しようっていうつもりなの?」
「……」
 真生を睨み付ける。そうすることで、俺は答えるつもりがないことを態度で示した形だ。尤も、その反抗は真生の行動に対して抗議をするためのものだ。電話を掛けようとした相手の名前を、口にできない特別な事情があったわけではない。
 しかしながら、真生はそんな俺の態度を前にして、懐柔策ではなく強行策で攻めてきた。
「サクラー、お願い」
 真生の口からは、サクラの名前が出た。
 俺はこれ見よがしに舌打ちをした後、吐き捨てるように電話相手とその理由を口にする。
「おかんだよ! お前の言葉が本当かどうか、生みの親へ確かめるためだよ!」
 突っ慳貪で反抗的な態度を改めなかったけれど、真生がそんな俺の態度を気にする風はなかった。するっとサクラを引っ込めると、電話を掛けようとした行為に対してさらに突っ込んだ質問を続ける。
「何を確認するつもりだったの?」
「俺の双子の妹と言い張る、陣乃真生って名乗った女についてに決まってるだろ!」
 俺の主張を聞いた真生は呆れ顔だった。さも「まだそんなことを言っているの?」とでも言わんばかりだ。
 一つ溜息を吐いて見せると、真生は一つの提案を口にする。
「良いよ、腹を割って話そうか。何が知りたい、お兄ちゃん?」
 それは「どんな質問にでも答えるよ」という解り易いスタンスだ。
 尤も、俺の質問に答えるからといって、そもそも真生が真実を話すかどうかは解らない。完全なでまかせを口にするのならばまだしも、本当の中にそれらしい嘘を巧妙に織り交ぜて心理戦を仕掛けてくるかも知れない。
 やはり、おかんに確認を取ることが最善策だと俺の直感は告げていた。しかしながら、それを真生が許容してくれるとは思えない。なぜかは知らないけれど、真生は携帯電話というものを非常に警戒しているように見える。
 今はこうして態度を軟化させたけれど、電話を掛けて確認するという行為を要求するようなことをすれば、再び態度は硬化するかも知れない。サクラが出現し兼ねない事態は、避けるべきだろう。
「聞きたいことはたくさんある。……けど、まずは、百歩譲ってお前が俺の双子の妹だとする。どうして、今になって俺の前に姿を現した?」
 その質問は真生に取って想定外のものだったらしい。
 キョトンとした顔付きは、一瞬何を聞かれたのか理解できなかったように俺の目には映ったし、事実そうだっただろう。それを証明するかのように、真生は自身の質問に対する回答の中で、俺の真生に対する認識について改める。
「嫌だなぁ、別にあたしは隠れていたわけじゃないよ。地元に居た時から今みたいにお兄ちゃんの横には居たんだよ。ただ、あたしを見ることができなかっただけ。でも、……そっか、地元ではあたしの存在に気付いていなかったし、何かおかしいと思うことがあってもすぐに忘れちゃったんだね」
「見ることができなかったって? そんな馬鹿げた話が……」
 そこまで口走ったところで、泰治の話が脳裏を過ぎる。すると俺は真生の主張を切って捨てることができなくなってしまった。少なくとも泰治は、地元で真生という存在を認識していたのだからだ。
 俺は質問を変える。
「どうして、見ることができなかったんだ?」
「それは蔵元町に、そういうお呪いが施されていたからだよ」
 真生はさも当然という顔付きで答えた。
 しかしながら、その回答には矛盾が生じている。真生を「見る」ことを阻む呪いが地元に施されていたのならば、泰治だけが真生を認識できていた何らかの理由がなければ辻褄が合わない。泰治が例外だったとして、その基準はどこか。追求するべき内容は次から次へと浮上してくる。
「だったら、どうして、泰治には見えていたんだ? 俺や有樹には見えない、でも泰治には見ることができる。その違いは一体何なんだ?」
 俺は矛盾点を付き真生へと追求を続けるものの、対する真生は動揺する様子一つ見せることはなかった。
「泰治さんに効果がなかったのは、お呪いとの相性の所為……かな。その辺りの詳しい理由は実際にお呪いを施した張本人に聞いてみないとあたしも解らないよ」
 ポーカーフェイスというわけではない。けれど、少なくとも「本当のことを話している」という印象を俺に抱かせるその立ち居振る舞いは非常に厄介だと言わざるを得なかった。すらすらと言い淀むことなく話すところも、口許に細い指先を添えて考え込む仕草も、真生の印象を「嘘」というものから遠ざけていた気がする。
 この調子でいくつかの嘘を織り交ぜて真生に会話をされたら、俺はあっさり騙されてしまうだろう。
 そうして、ご丁寧にも真生は自身の憶測だという前置きをして、相性が生じたことについても言及する。
「でも、多分ね、誰の目からもあたしの姿を見えなくするような、そんな強力なお呪いを作り上げる必要がなかっからじゃないかな。お呪いによって、あたしの姿形を隠したい特定の相手は決まっていたんだから」
 憶測という形を取った言及の中で真生が断言をしてみせた部分に、俺は引っかかりを覚える。それは激しい不安を伴い、俺を動揺させるに足る強い衝撃だった。
「お前の存在を隠したい特定の相手って、もしかして……?」
 真生は首を傾げて見せて俺をじーっと眺めた。そうすることで、俺の予測が正しいことを肯定したのだろう。
「だったら、そのお呪いを作ったのは……?」
 その問い掛けに対してだけは、真生は直ぐさま回答するということをしなかった。まるで有樹と泰治の存在を俺に意識付けるように二人を交互に眺め見たのだ。そして、改めて俺へと向き直った後には、こう確認する。
「どうしてもここで話せと言われれば話すよ。けど、余計なことに巻き込まれないためにも有樹さんと泰治さんは、聞かない方が良いと思うな。最悪の場合、危険なことに巻き込まれる可能性があるし、聞いちゃったら後戻りはできないよ。それでも良い?」
 真生から念押しされたことで、俺の視線は自然に有樹と泰治へと向いた。
 有樹と泰治はそれぞれお互いのスタンスを確認するように、顔を見合わる。有樹と泰治はお互い頷き合って見せた後、意を決した顔付きで俺へと向き直る。
 俺はてっきり有樹と泰治が「どんな危険が待っていようとも真実を知る決意をした」と思った。
「ここまで来たら一蓮托生だよな!」
「まずは言規が内容を確認し、問題なければそれを伝え聞くことにしようか」
「俺は降りるよ、その、……遠慮しておく」
 お互いの意志が合致していることを確認し頷き合ったことは、ただの錯覚だったらしい。「せーの」で切り出した実際の言葉は、三者三様に終わった。寧ろ、良くもまぁここまで綺麗に立場を違えたものだ。
「何だよ、それ! 有樹も泰治も、もうあの蜘蛛女の関係者だろ?」
「君子危うきに近寄らずという諺を知らないのか?」
「危険なことに巻き込まれる可能性があるだなんて明言されてるんだ。躊躇うなっていう方が無理があるよ!」
 醜くも場が言い争いの様相を呈し始めたその矢先のこと。真生が口許に人差し指を添えて「静かにするよう」ジェスチャーを見せる。
「ねぇ、誰か来るよ。……それも、何か物々しい雰囲気をまとっている感じだね」




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