デフォルト設定での「フォント色+背景色」が読み難い場合、下記プルダウンからお好みの「フォント色+背景色」を選択して下さい。


デフォルト設定での「フォントサイズ」で読み難いと感じる場合、下記サイズ変更ボタンからお好みの「フォントサイズ」を選択して下さい。


奇譚「傍系陣乃は今日も才気走る!」のトップページに戻る。



Seen01 誠育寮「妖精さん」騒動


 霞咲駅のホームを走り回ることにはなったけれど、俺と有樹はどうにか特別快速に乗り込むことができた。それも、発車を予告するベルが鳴る前に、自由席車両へと乗り込むことができた形だ。蜘蛛女の強襲による混乱醒めやらぬという状況下だった割には、切替早く行動できたと自分で自分を褒めてあげたいくらいだった。
 自由席車両は指定席料金を嫌う乗客によってそれなりに混雑していたけれど、席に座れないという程でもない。首尾良く座席を確保し荷物を棚へと放り込めば、俺達はようやく一息吐く格好だった。
 距離的なことを言えば、地元である蔵元町から霞咲までの道程で黒神楽までのちょうど半分と言ったところだ。けれど、時間という点で見るとそうとは言えない。霞咲から黒神楽方面へ向かう電車では、特別快速か否かによって停車する駅の数が大幅に異なるためだ。特別快速に間に合わないと、霞咲から黒神楽への道程は倍以上の時間を必要とすることになる。
 ともあれ、霞咲駅での混乱が嘘のように特別快速は何の問題もなく淡々と運行され、俺達はあっさり目的地である黒神楽へと到着した。強いて問題を挙げるなら、有樹が黒神楽まで常時小難しい顔で押し黙り続けたことぐらいだろうか。お陰で、俺は有樹と会話らしい会話をほとんどしなかった。車中、何度か会話を試みたものの、有樹は常に上の空と言う感じで、まともな会話が成立しなかったのだ。
 黒神楽に到着しても、有樹の様子は相変わらずで元に戻ることはなかった。下手をすると、到着に気付かず、そのまま乗り過ごし兼ねないほどの熟考具合で、俺はそんな有樹を引き摺るように特別快速を降車した形だ。
 有樹を伴って黒神楽駅のホームへと降り立つと、すぐに黒神楽が霞咲の中心部よりもずっと規模の小さい都市であることが理解できた。駅のサイズで比較するとが大体霞咲駅の三分の一程度なので、黒神楽の都市の規模もそんなものかと思えば、そこには比較にならない相違がある。駅のホームから覗く風景は元より空気というか雰囲気というか、そう言った肌で感じられる部分が既に大きく異なるのだ。
 俺は携帯電話を片手に改札口へと足を向ける。駅に到着したことを、黒神楽へ先に移動している泰治に伝えるためだ。しかしながら、俺はコールを始めた携帯電話の電源を落とし、コールを取りやめる。通話をするまでもなかったのだ。黒神楽の改札口には、既に見知った顔が立っていた。
 蔵元町でいつも連んだ悪友の一人で、俺や有樹同様この春から黒神楽にある永曜学園へと一緒に通学することになる遠藤泰治その人である。そして、永曜学園合格が決まり誠育寮への入寮が早々に決まるや否や、早々に黒神楽へと移った一人である。
 事前に予定到着時間を話しておいたことで、わざわざ迎えに来てくれたらしい。
 泰治は人の流れの中に俺と有樹の顔を発見すると、大きく手を振って見せて自分の存在を主張する。
「おっす、言規、有樹。時間通りの到着だな」
「ちょっとしたトラブルはあったんだけど、どうにか快速を乗り過ごさずに済ませたんだよ。……と、あれ? 切符が見見当たらないな」
 改札口へと差し掛かったところで、ふと俺は切符が見当たらないことに慌てた。
 地元での近隣地域への移動では、料金の支払いに切符というものを必要としない。携帯電話に設けられたお財布機能で処理が可能だからだ。そういう背景もあって、ついつい切符への意識が薄くなり、その存在をぞんざいに扱ってしまうことが原因だろう。
 霞咲と黒神楽を結ぶ路線の運営会社も、料金の支払いを様々なシステムで処理できるようにしている。当然、携帯電話のお財布機能の支払いも対応している。しかしながら、俺や有樹の年齢認証カテゴリでは、一定金額以上の処理にお財布機能が使用できなくなっており、今回の移動料金はその上限をオーバーしているわけだ。
 上限は一回の使用料金、及び月の使用料金のどちらも制限があり、且つそもそも予めチャージしていた金額以上の使用ができないという縛りがあるため、いうほど便利でもない。
 一方の有樹はさくっと切符を取り出すと、するりと改札口を潜って行ってしまった。相変わらず、こういうところも抜け目はない。けれど、やはり有樹の調子はどこかおかしいと言わざるを得なかった。こういう場面ならば、有樹は俺へと向けて何かしら苦言や助言を口にして然るべき状況だ。
 当の有樹は俺の方に視線を向けてはいるものの、特別快速での移動中同様に上の空という感じだ。
 どうにかポケットの中から切符を見つけ出すと、俺も改札口を通過する。
「トラブル? あれか、いつもの香奈恵さん関係か?」
 トラブルと聞いて泰治はやはり俺のおかん絡みのことを思い浮かべたようだった。
「あはは、それもあったんだけど……」
 ふと気付けば、俺は自然と言葉を濁していた。未だにあれが何だったのか、俺自身良く解っていないからだろう。あの状況を説明してもきっと当事者ではない泰治は有樹と結託し「自分を担ぎ上げようとしている」とでも思うだろう。
 そんな俺の様子を泰治は不思議そうに眺めていたものの、深く突っ込むべきではないと察してくれたらしい。
「何にせよ、黒神楽へようこそ。この後は特に予定とか入れてないんだろ? 上手い具合にちょうど昼飯時を軽く過ぎた頃だし、まずは軽く腹拵えをしよう。それから荷物を誠育寮へ置いて、後は何だかんだとやってる内に今日はすぐに夜になるだろうから、今夜は明日の予定を立てて早く眠ってしまうのが良いだろうな」
 泰治の提案に異論はない。俺は荷物を担ぎ上げて移動の準備を整えると、有樹も異論がないかを確認する。
「有樹もそれで問題ないよな?」
「ああ、異論はない」
 有樹の反応が薄いことが若干気に掛かったものの、俺は敢えてそれをスルーした。ずっとこの調子なのだから、いい加減この調子を受け入れるしかない。その内、元に戻るだろう。そう考えるしかない。
 泰治も有樹の反応が薄いことを気にしているようだ。そうして、有樹が上の空である状況を打開するためには、インパクトのある話題を振れば良いと泰治は考えたらしい。駅のグルメマップを片手に、腹拵え先について有樹が食い付きそうな話題を振る。
「腹拵えは何が良い? 黒神楽周辺のグルメマップから、有樹の大好物、ハンバーグが絶妙な匙加減って店も押さえてあるよ? 美味しいと書かずに絶妙な匙加減って表現している辺りが何とも胡散臭い感じがするけど、冒険心を持ってこういうところに突撃してみるのも良いんじゃないか?」
「ああ、……そうだな」
 いつもなら「その店はどこにあるんだ! ぜひ行こう!」と声を大にして食い付きそうな話題だったにも関わらず、有樹の反応は淡泊極まりないものだった。
 余りにも想像の斜め上の反応だったらしく、泰治は戸惑いを隠さなかった。それこそ、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、その理由を俺へと尋ねる。
「心なしか、有樹の方もアンニュイな感じだけど、そのトラブルって奴は有樹も関係してるのか?」
「……そんなことはないはずだけど」
 泰治の指摘が気に掛かって有樹へ視線を向けると、そこには未だにどこか心ここにあらずと言った具合の顔色が窺えた。思い当たる節は一つしかない。けれど、いくら頭を捻ってあの場面を思い出してみても、有樹をこの状態に追いやる何かは発見できないのだ。
「まぁ、その内元に戻るって。取り敢えず、今日のところは一通り何でも揃っている定食屋で済まそうぜ」
 泰治はまだ納得できないという顔付きだったけれど、俺が早々に話題を逸らしてしまえば、それ以上言及してくることはなかった。しかしながら、実際に移動するという際になって、またも有樹の異変が際立つことになった。思案顔をする有樹が腕組みをした状態のまま、後を付いてこなかったのだ。
「有樹。おい、有樹! ボーッとしてると置いていくぞ」
「ああ、悪いな。ちょっと、考えごとをしていたんだ」
 そんなことは見れば解る。けれど、考えごとをする今日の有樹は度を超して酷い。
 それを口に出していうことはなかったけれど、それが俺と泰治の共通認識であったことは言うまでもない。


 黒神楽駅前の定食屋で昼御飯を食べた後、俺達は泰治の先導で誠育寮へと向かった。
 黒神楽駅前から徒歩にして約三十分強。ようやく辿り着いた誠育寮は平地の中にあって、少しだけ高低差のある坂の途中に立つ三階建ての建造物である。坂の途中にあるという立地条件もあって周囲よりも一際目立つように感じるけれど、少しでも離れてしまうと景色の中に埋没してしまうのが黒神楽だった。
 黒神楽は広大な盆地に開けた高低差のほとんどない土地だ。山間部へと近付いていけば、さすがに傾斜を感じるようにはなるけれど、都市部が位置する盆地内は全くと言っていいほど傾斜がない。
 そういう背景もあって、実際に誠育寮までの道程を歩いた俺が黒神楽に対して抱いた印象は、位置関係を完全に把握するまで迷いそうな街並みだということだった。特に、活気のある開けた駅前を過ぎて住宅街へと場所を移してしまうと、現在位置を把握するのが非常に困難になる印象だった。霞咲市のベットタウン、または学園都市としての顔を持つとは言っても、基本的に駅前以外は代わり映えのしない景色が続く街並みの所為だろう。目印にできるこれと言った高層建築物もない、遠くを見渡すこともできないからだ。前回の黒神楽滞在が永曜学園の受験のためのもので、公共交通機関による移動が主だったことで、俺は今回その印象に拍車を掛けることになったのだろう。
 小規模の旅館や民宿のようにこじんまりとしていて、それでいて普通の家庭の作りとは異なる玄関を潜ると、ひんやりとした寮内の空気が肌にまとわりついてきた。廊下は完全に静まり返っていて、全く物音がしない。
 そんな状況を前にして、俺は率直な感想を口にする。
「人の気配がしない感じなんだけど……」
「誠育寮も春休みに合わせて寮生の大半が帰省しちゃったんだよ。俺が入寮した直後は、まだ結構な寮生が残っていたみたいだったけど、まぁ、見ての通りだよ。それに、この近隣はまだ学生寮が少ないから顕著じゃないみたいだけど、聞いた話によると、永曜学園の指定寮が立ち並ぶ界隈では学生の帰省に合わせて人口密度がめっきり変わるらしいぞ」
 泰治に春休みであるという事実を指摘されるまで、それは俺の頭の中から完全に抜け落ちていた事実だった。
 そして、完全に静まり返った廊下を前にして、これでも人口減を表す光景として顕著でないと泰治はいった。それでは一体、人口密度がめっきり変わると言った永曜学園指定寮のある界隈では、どんな光景を見ることができるというのだろう。これ以上を想像するとなると、俺は人っ子一人見つけることのできない「ゴーストタウン」を思い浮かべざるを得ない。
 ともあれ、誠育寮の寮生が帰省してしまっていることに、俺は自然と安堵の息を吐き出した。大人数を相手に自己紹介するという事態が回避されたことを意識したからだ。
 自分自身の性格を自己分析する限りでは、人見知りをする性格ではないと思ってはいる。けれど、複数の初対面の人達を前にして、自己紹介するという事態に全く緊張しないだけの度胸があるわけでもない。まだ少人数を相手に回数を分け、小出し小出しに自己紹介をする方がいくらかマシだ。
 まずは寮母兼管理人と意気込み、自己紹介の挨拶に伺おうかと思った矢先のこと。泰治から俺達が間借りすることになる寮の部屋の鍵を与っていることを告げられる。
「多分この時間だと、寮母兼管理人さんも居ないと思うから、面通しはまた夕方にでも部屋を尋ねてやれば良いと思うよ。この春から入寮予定の言規と泰治が下見に来るって話は、俺から事前に通しておいてあるから鍵も与ってるしね。ちょうどいい、俺の部屋を教えておくよ」
 そういうが早いか、泰治は後を付いてくるよう俺達に促した後、二階の自室へと足を向ける。案内されるまま、後を付いていくと泰治の部屋は誠育寮の二階へと続く階段を登ってすぐの場所だった。
「汚い部屋だけど、まぁ入ってくれよ」
 促されるまま、泰治の部屋へ足を踏み入れたところで、俺は絶句する。
 そこはここ数日の間に誠育寮へと引っ越ししてきたばかりだとは到底思えぬ部屋だった。蔵元町の泰治の部屋を、そっくりそのまま持ち運びしてきたと言われても納得したかも知れない。既にその部屋は「部屋が趣味のもので埋め尽くされてしまっている」と言っても過言ではなかった。
 尤も、埋め尽くされているとは言っても足の踏み場がないと言った、酷い散らかり具合というわけではない。そこはあくまで、きちんと整理整頓の為された小綺麗な部屋だ。しかしながら、既にそこには新たな何かを新規に配置するスペースなどないだろう。
 ぐるりと部屋を見渡してみると、多趣味の顔を持つ泰治が見て取れる。
 来客用の小型ガラステーブルや、コップや小皿をしまうための収納棚といった実用的なものは置いておくとして、何よりも真っ先に目に付くものはパソコンだろう。
 それはケースのサイドカバーが両面外されてしまっている状態で、パッと見で「自作機です」というのが解る状態にある。パソコン自作なんてプラモデルを組み立てるようなものだと知識のある人達はいう。泰治もご多分に漏れず、そのスタンスに立つ側ではあるけれど、その手の友人との会話は意味不明且つ非常に厄介だと思える内容だ。
 例えば、このメモリの性能は最速。こっらのマザーボードに集積された統合チップの性能はキラーテクノロジーに成り得る。けれど、その二つの相性は最悪で安定性が損なわれるとか言った類の話だ。
 他にも、同じブランド名を背負いながら、且つ同メーカーから発売されている商品なのにもかかわらず、実は中身が異なるだとか、聞いていて思わず首を傾げる内容が平然と出る。正直、機械系を得意としない俺に取ってあまり近付きたくない世界である。
 窓の隣接する部屋の隅には、いつでも準備オーケーと言わないばかりに天体望遠鏡がスタンバっていた。俺の記憶が正しければ、泰治の趣味の一つである天体観測は中学時代の天文部員に誘われ片足を突っ込んだものだったはずだ。わざわざ黒神楽まで天体望遠鏡を持ってきたと言うことは、まだまだ夜空を眺め浪漫に思いを馳せるつもりがあるようだ。
 そして、本棚兼小物入れと化した収納棚には、泰治の最大の趣味が何であるかを物語るミリタリー系の雑誌やモデルガンが無造作に置かれている。特に雑誌の方はわざわざ秘蔵のバックナンバーも持ってきたらしい。黒神楽に来てから購入したと言うには辻褄の合わない発行日のものも無数に目に付く形だ。
「泰治、お前、……こんなものまで持ってきたのか?」
「何言ってるんだよ、ほぼ確実に大学卒業まではここ黒神楽で生活することになるんだぞ? 実家へ置きっぱなしにしてたって誰も使わなければ埃を被るだけだぜ。それなら、手入れやら何やらのことを考えたって、黒神楽に全部持ってきてしまっておいた方が良い」
 その主張の言い分も解らないわけではないけれど、これだけの量を持ってきたことに俺は開いた口が開かなかった。
 呆れる俺を尻目に、泰治は勉強机の上の小物入れから与った部屋の鍵を取り出すと、それを俺と有樹目掛けて放る。そうして、泰治はさらりと俺と泰治の部屋位置について触れる。
「ちなみに、言規の部屋は俺の右斜め向かいで、有樹の部屋は俺の左隣だ。申請が同時期だったから仕方ないのかも知れないけど、お隣さんって奴だな。間取りはここと完全に一緒だから期待はしない方が良いぞ。違いは朝晩の日当たり具合と、言規の部屋の方が道路側に面している分、騒音が喧しい可能性があるぐらいだろうな。それと、荷物を置き終わったら、明日の予定を立てよう。場所はどこでもいいけど、……俺の部屋が良いだろう? 電気ポッドもあるから、インスタントコーヒーぐらいなら出せるしね。まぁ、多分水を汲んで来ないとならないと思うけど」
 打合せ場所に自分の部屋を推した泰治の提案に異論はなかった。
 人を招くための座布団もテーブルもない殺風景な部屋と、地元・蔵元町から荷物を運送し終えていて黒神楽での生活に備えた泰治の部屋。どちらが当面の溜まり場として向いているかは一目瞭然である。尤も、電気ポッドの中身を覗き込んだ泰治が「やっぱり」という顔を見せたので、インスタントコーヒーを堪能するためには水を汲みに行く必要があるようだ。
 俺は早速、荷物を置きに行くべく席つ。すると、有樹からは鞄がもう一つ差し出された。
「俺のも一緒に与っておいてくれないか。言規の部屋に放り込んでおいてくれれば、後で回収する。泰治は少しガラステーブルの回りを片付けた方が良いな。万が一、コーヒーを零されて悲鳴を上げるようなものがあるなら早々に撤去しておけ。俺は電気ポッドに水を汲んでくる」
 それは各々が置かれる状況を確認した上での的確な業務分担と言った方が良かっただろう。俺は荷物を預かると、部屋の片付けを始める泰治を尻目に、電気ポッドを携えた有樹と一緒に泰治の部屋を後にした。
 再び泰治の部屋に三人が集まってからは、出だしこそ明日の予定を立てることで話を進めていたものの、ふと気付けばいつもの他愛ない雑談に花を咲かせることになった。それはこの春話題の新作ゲームの話題であったり、母校の同級生に俺達同様永曜学園へ進学する生徒が居るだとか、まさに雑談だ。地元でいつも顔を合わせていた泰治が一足早く黒神楽に移ったことで、そうやって雑談を交える機会が久しぶりになってしまったからだろう。
 ふと、それまでの話題が途切れて一区切りがつくと、泰治が永曜学園までの通学方法についての話題に触れる。
「そう言えば、言規と有樹はここから永曜学園までどうやって通学するつもりなんだ? 俺は永曜学園まで自転車で通学するつもりだったんだけど、実際問題ここから永曜学園まで距離にして実に五キロから六キロ近くあるんだよ。基本的に黒神楽は勾配のない土地柄だから大丈夫だとは思っているけど、正直、時間や体力面で苦痛を感じるようならバス通学もありかな……、なんて思ってたり」
 泰治の口振りは、俺や有樹が同じことを考えているかどうかを瀬踏みした感じだ。
 俺の回答を包み隠さず口にするなら「まだ何も考えていない」となる。ただ、今このタイミングでそれを「さも当然」という顔して喋ってしまって問題ないかは別問題だ。
「俺は自転車通学だな。通学用に購入する自転車についても、もう目星は付けてある」
 そんな経緯があって、俺も有樹の出方を窺い黙っていると、当の有樹は通学方法についてさらりと答えた。
 購入予定の自転車についても既に目星を付けているというぐらいだから、情報収集を含め有樹のプランは完璧なのだろう。そして、バス通学を視野に入れるといった泰治の考えについて、有樹は甘い話とばっさり切って捨てる。即ち、瀬踏みの結果としては「その選択肢はあり得ない」という結論だ。
「わざわざ永曜学園から距離のある誠育寮を選んでおいて、いざ通学する時になって体力的に厳しいのでバス通学にしますだなんて泰治のところは許してくれるのか? そんな甘い話、俺の家では間違いなく通らないな。恐らく、上の姉共からは総攻撃を食らうだろうし、愚妹にも鼻で笑われるだろうな」
 誠育寮から永曜学園までの距離について、五キロから六キロといった泰治の具体的な数字が本当ならば、それは偏に「徒歩での通学は困難だろう」と俺達に思わせるに足る距離である。
 徒歩はさすがに厳しい距離だけど、自転車なら五キロから六キロ程度は余裕だろうと思うかも知れない。しかしながら、中学時代の俺達の生活パターンを顧みる限り、それは十分遅刻の危険と隣り合わせになる距離だと言える。万が一、その数字が二桁になるようならば、自転車という通学方法が話題に乗ることもなかったはずだ。移動に多くの時間を取られるようになればなるほど、日々の遅刻の可能性が正比例するからだ。
 距離に問題があるなら「永曜学園周辺の寮を選べば良かったのではないか?」と思うだろう。
 俺達は永曜学園からそれなりに距離があることを知っていながら、わざわざこの誠育寮を選んだのである。もちろん、通学上の利便さで不利な条件にある誠育寮を選んだのには、きちんとしたそれなりの理由がある。
 では、なぜか?
 永曜学園周辺寮は、人気が高く早々に全室埋まってしまった?
 永曜学園周辺寮は、寮費が高く家計のことを考え泣く泣く敬遠した?
 そんなわけがない。それらの疑問の答えは悉く「いいえ」である。
 もちろん、永曜学園周辺寮に人気がないわけではないけれど、そもそもの分母が多い。それはこの少子化傾向が続く時代に全数埋まることなどないと思われる総数だ。そして、寮費に関して言うなら、永曜学園周辺寮の方が寧ろ安い。
 黒神楽において学生を受け入れしている寮の傾向は、主に二手に分かれる。
 一つは永曜学園の周辺に立地し、永曜学園からお墨付きを貰っているような、完全に永曜学園の生徒に的を絞った寮。もう一つは、黒神楽駅近隣に立地し、都市部へ通う大学生など永曜学園の生徒以外も同時にターゲットとする寮だ。
 そして、後者に属する寮は、永曜学園近隣に位置する寮と比較すると一線を画す特徴を持っている。門限や寮則といったものが非常に緩いのだ。それは偏に、メインターゲットが大学生へと移っているからだ。
 後者の中でも、誠育寮はまさにその典型例にピタリと当て嵌まる寮なのだ。
 当然その人その人の考え方はあるはずだけど、この利点は何物にも代え難いものとして俺達の目に映ったわけだ。
 こんな邪な理由で誠育寮への入寮について両親を説得することになった俺だけど、おかんに対する説得工作は非常に簡単だった。泰治と有樹が入寮先を先に誠育寮へ決めてしまっていたからだ。おかんにしても気の置けない友人二人が近くに居た方が良いと思うのは至極当然で、立地条件よりも環境が優先された形だ。
 この二人がどうやって先に親御さんを説得したのかは解らない。けれど、恐らくは俺達に取っての利点を巧みに隠し話をしたのは間違いない。
「言規も自転車だろう?」
 不意に話を振られ、俺は思わず苦笑する。
「いやぁ、実を言うとまだ何も考えてないんだよね。でも、多分二人に合わせることになるんじゃないかと……」
 結局、俺は自身の置かれる状況を、素直に打ち明けた。
 しかしながら、ご都合主義宜しく「二人に合わせる」と口にしたことで、泰治から鋭い指摘が向けられる。ついさっきの会話の流れを聞いていた限りでは、その指摘は可能性がないとも言えない内容だ。
「俺がバス通学で、有樹が自転車通学をすることに決めたらどうするんだよ?」
「あー……、うん。それは、利点欠点を総合的に判断してだね。旨味のある方を選択するに決まっているじゃないか」
「また訳のわからないことを。利点や欠点なんて、言規の主観一つで変幻自在だろう?」
 主体性を欠いた俺の言動に、有樹は呆れ顔だった。
 尤も、そこに反論の余地はなく、俺はただただ苦笑いするだけだ。
 有樹は溜息を一つ吐き出すと、さらりと話題を変える。それ以上、俺のスタンスについて話題を膨らませても、そこに有意性を求められないと思ったのだろう。
「泰治は、実際に永曜学園まで下見に行ったりしていないのか?」
「ああ、行ってないよ。有樹と言規が揃わないことには、なかなか一人で行動する気にもならなくてね。霞咲へ出て、パソコンパーツショップだとか大手家電量販店だとかを冷やかしに行ったぐらいだ。実を言うと黒神楽の誠育寮近隣も、ほとんど歩き回ってなかったりって状態だよ」
 恐らく、有樹はその泰治の回答を「そうだろう」と予想していたのだろう。
 有樹は明日の予定について、続ける言葉で永曜学園の下見を提案する。
「なら、明日は永曜学園まで実際に足を運んで見るというのも一つの選択肢として有りかも知れないな。永曜学園にしろ、誠育寮にしろ、下見は別々だったわけだし、これを機会にここから永曜学園までの移動が実際どれだけのものなのか実際に体験しておいた方がいいだろう?」
 自転車での通学が可能な道程なのかを実際に確認しようというその提案に、反論などなかった。寧ろ、永曜学園訪問という提案に対して、泰治からはそこまで出向くのなら「あれもやろう」という新たな追加案件が飛び出すぐらいだ。
「永曜学園まで行って蜻蛉返りじゃ詰まらないよな……。となると、見学も兼ねるってのが自然だよな。今夜の内に制服を用意しておくべきだな。大人しく神楽坂商店街だけを見て回るつもりなら必要ないだろうけど、……どうする?」
 泰治は疑問という形でそれを尋ねたけれど、実質的に腹は決まっていただろう。
「それでは、明日の予定をまとめようか。永曜学園方面にある黒神楽のめぼしい店をいくつか回りつつ、最後は永曜学園まで足を運び距離を確かめる。各自服装は永曜学園の制服を着用すること。朝は早ければ早いほどいい」
 有樹が各々の顔色を窺った後、明日の服装として永曜学園の制服の着用を明言してしまえば、それが明日の予定を確定させる解散の合図となった。
「了解。それじゃあ、今夜は早めにお開きだな」
「早めって……寝るのが今からじゃあ、起床は昼前ぐらいになっちゃうんじゃないか?」
 ふと、苦笑混じりに泰治が呟いたのを聞き、俺は携帯電話で時刻を確認する。そこでようやく、俺はかなりの時間を雑談タイムに割いていたことを理解した形だ。既に、時刻は日を跨いでから軽く二時間が経過しようかという頃だった。
 このままだと起床が昼を回る頃になる。そんな危機感を抱いて泰治の部屋を早々に後にしたところ、ふと、俺は首を傾げることが二つあって足を止める。
 一つは、昼時には静まり返っていた誠育寮の廊下に微かな喧騒が響き渡っていることだ。耳を澄ましてみると、喧騒は階下の一室から漏れ出ているような聞こえた。全員が全員、帰省しているというわけでもないらしい。
 そして、もう一つの方が肝心で、それは夕方にでも改めて寮母兼管理人さんへ挨拶しに行こうと話していたのを忘却の彼方へ追いやっていたことである。
「やっちまった!」
「何をやらかしたんだ?」
 思わず、口を付いて出た言葉に、有樹からはきつめの追求が向いた。しかながら、今回ばかりは有樹も同じ話だ。
「寮母さんに挨拶してないよ、有樹! 完全に忘れてた」
 俺に言及されるまで、有樹の意識の中からも挨拶のことは完全に抜け落ちていたようだ。しかしながら、一度「しまった」という顔付きを覗かせたものの、有樹はすぐにその顔付きを引っ込めてしまう。
「ああ、確かに忘れていたな。まぁ、泰治が事前に話を通してくれているんだ、問題ないだろう。それに、今更気に病んだところで今から何ができるというわけでもない。それよりも、明日も早い。早いところ言規の部屋へ行こうじゃないか」
 既に有樹の意識は「明日に備えて眠ること」に向いているようだった。
 俺の部屋へ寄り道をすると有樹が言ったところで、俺はようやく鞄を与っていることに気が付いた。指摘されなければ、忘れていただろう。俺は部屋の鍵をポケットから取り出すと、有樹を引き連れ部屋へと戻る。そうして、殺風景な部屋の中央に揃えて置いた鞄を有樹に渡すべく部屋へと足を踏み入れたところで、俺はもう一つ重大な事実を見落としていたことに気付く。
 これから眠るという状況を前にして、布団がないのだ。もしかしたら、それが寮母兼管理人への挨拶をすっ飛ばした最大の弊害だったかも知れない。前もって挨拶しておけば、布団一式を拝借することができただろう。
 日中の気温が春先の暖かさを伴ってきたとは言え、夜はまだまだ冷えることが予想される。何もない殺風景な自室を見渡して、せめてタオルケットの代わりになりそうなものを探して見るけれど、俺が実家から持ってきた鞄以外に何かが見付かるはずもない。そもそも何かがあったらあったで、それはそれで問題のような気もする。
 考え込んでも名案なんて浮かぶはずもなく、俺は早々に泰治を頼るという結論に達する。
「……やっぱり、泰治に借りるしかないよな。布団」
 ついさっき別れたばかりだから、泰治もまだ起きているだろう。そうは言っても、明日のことを考え急速潜行を目論んでいてもおかしくはないわけで、俺は早々に有樹を伴って泰治の部屋へ赴くことを決める。
「有樹もタオルケットとか、持ってきてないだろ? 望み薄だけど、泰治を当たってみようぜ」
 しかしながら、踵を返す俺に、有樹は何の反応も示さなかった。相槌を打つこともしなかった有樹の反応を怪訝に思って、俺は思わず有樹の横顔を覗き込む。
「どうした、有樹?」
 てっきり、今日一日の間で何度か垣間見せた例の思案顔でまた固まってしまったのかと思いきや、今回に限って言うとそうではなかった。当の有樹は、まだ何もないはずの俺の部屋へと足を踏み入れ鞄に向き直った状態で、眉間に皺を寄せて固まっていた格好だ。
「どうしたんだよ、恐い顔しちゃって。部屋の隅に幽霊でも見えちゃったか? それも何かおどろおどろしい形相の、如何にも祟りますっていう感じのさ」
 当然、俺は有樹に冗談を言ったつもりだ。けれど、有樹は相変わらずうんともすんとも言わない。眉間に皺を寄せたままの形相で固まったままだ。だから、俺もその視線の先へと恐る恐る目を向けざるを得なかった。
 有樹の視線の先をマジマジと注視する。しかしながら、そこに特筆する何かを見つけることはできない。俺は内心ホッと安堵の息を吐きながら、有樹へと向き直った。自然と有樹への非難が口から漏れる。
「はは、何も居ないじゃないか? 止めろよ、冗談にしても質が悪いぞ」
「俺は疲れているのかも知れない」
 有樹は俺から非難を向けられてなお、その挙動を改めようとはしなかった。挙げ句、自身の体調について言及するといった不可解な言動を突拍子もなく展開した形だ。
 俺は戸惑わざるを得なかった。
 何か異変を感じていることは間違いなさそうだけど、俺はそれに気付かない。だから、異変の具体的な場所について尋ねるべく、俺は有樹へと向き直った。有樹が突然ふいっと何かから視線を外すように横を向いたのは、その直後だった。
「なぁ言規。鞄の上に、見えてはならないはずのものが存在しているように俺には見えるんだ。俺が幻覚を見ているだけなのかどうか、確かめてくれないか?」
 そして、俺から尋ねるまでもなく、有樹は異変について俺へ語った。それも、有樹はその言葉の中で、俺にも異変について確認して欲しいと要求した格好だ。
 有樹に促されるまま、部屋の中央に置いた鞄へと視線を向けるけれど、パッと見そこに異常は見付けられない。
 万が一、そこに霞咲駅で俺を襲ったサクラという名の蜘蛛でもいれば、俺はきっと叫び声を上げただろう。しかしながら、言い得て妙ではあるけれど、もしもそこに何かが居るというのであれば、きっとサクラという蜘蛛の存在が一番しっくり来たはずだ。良くも悪くも、納得できたはずだ。そして、恐らく俺はサクラを追い払うべく敵愾心を剥き出しにして、スリッパを握り締め追い回しただろう。
 鞄を隅から隅までマジマジと眺める段階になって、ようやく俺も有樹同様ピタリと固まることになった。
 そこには格好こそ当時のものとは異なるけれど、子供の頃に俺が遭遇した妖精と思しき存在がいたからだ。滋養強壮ドリンクサイズの全長で、パッと身では人間をそっくりそのまま小さくした外観だ。ティンカーベルのような羽根もないし、御伽話に伝え聞く、それらしい服装に身を包むでもない。
 もしも、俺が見つけた状態のまま微動だにしなかったのなら、造形のリアルなフィギュアか何かだと思い込んだかも知れない。しかしながら、意志の強そうなきりっとした瞳が俺を捉え、目が合う形になってしまえば、それを作りものだと思うことは不可能だった。
「やぁ」
 そうして、意外にも意思疎通は妖精さんから試みられた。てっきり「もっと余所余所しい反応をするのだろう」と勝手に想像していたから、そうやって妖精さんの方から手を挙げて声を掛けてきたことで、俺は飛び跳ねんばかりに驚いた。
 尤も、霞咲駅での一件があったことで、敵意を剥き出しにされたり、いきなり襲い掛かられたりすることも頭の片隅に思い浮かんだのも本当だ。だから、妖精さんが友好的な態度を見せたことで、内心ホッとしたのも本当だった。
 ファーストインプレッションが良好だったことで、俺の妖精さんへの興味は一気に首を擡げる。
「……嘘じゃないよな? 本物?」
「やっぱり、その様子だとあたしのこと、見えちゃってる感じだよね」
 目を丸くして、マジマジと妖精さんを注視すると、妖精さんは少し困ったように頬を掻いて見せた。けれど、すぅっと透けて消えることもないし、人目に触れることを厭うように逃げ腰を見せるでもない。
 沸々と込み上げてくる感情は一体何だっただろう?
 強いてそれを言葉にするなら喜びとなるのだろうか。ともあれ、俺はその感情が導くままに有樹へと向き直る。
「はは、はははは、どうだ、有樹! 見ろよ、妖精は実在しただろ! 会話もしたぞ!」
 その一方で、振り向いた先の有樹の表情は対照的だった。そこには困惑を通り越し、眼前の光景に怯んだような態度さえ見て取れる。俺が有樹に向かって勢い良く一歩踏み込めば、有樹はそのまま勢いに飲まれ一歩後退ったかも知れない。
 俺は目顔で有樹に妖精さんと接触を試みることを強く要求する。言葉に出してそれを強要すると、目を背け兼ねないと思ったから気を遣ったつもりだ。けれど、見る見るうちに有樹の表情には困窮の色が混ざった。
 そうして、追い詰められた有樹の口からは、だだをこねる子供のような反発が漏れる。
「俺は認めないぞ! 幻覚だ! 幻覚に違いない! 幻覚じゃないというなら、そいつを掴まえて俺に触らせてみろ」
 苦し紛れにぶちまけたと思しき有樹の要求も、今の俺の勢いを削ぐことはできなかった。
 対象は眼前にあるのだ。有樹の要求は十分達成可能な範囲である。俺はその気になって腕捲りをする。
「合点承知!」
 しかしながら、その気になって妖精さんに向き直った瞬間のこと。妖精さんは不穏な空気を敏感に察したらしい。ささっと俺から距離を取った。その表情からは俺へと向ける警戒を窺い取ることができる。
 怯えさせてしまったのかも知れない。そう思った俺は慌てて猫なで声を出す。
「あー、恐くない、恐くないよ。恐くないから、……ちょっと触らせてくれるだけで良いんだ!」
「うわぁ、小さい子に悪戯する危ない人みたい、その台詞」
 けれど、妖精さんからはそれを引っくるめて訝る類の容赦のない辛辣な言葉が向いた。
 思わず、俺はピタリと固まる。確かに「その通りかも知れない」と思ってしまったからだ。猫なで声を口にしつつ、恐る恐ると手を伸ばす自分を客観視すれば、何とも言えない気分に襲われる。
 ともあれ、俺が狼狽したことで、妖精さんはしてやったりと言わないばかりに不敵に笑った。そんな態度を鑑みるに、妖精さんの辛辣な言葉は俺が固まることを見越しての発言だったかも知れない。
「ふふ。ところで、一つ相談なんだけど、あたしのこと、見なかったことにしてくれないかな?」
 それは、さも「さっきのことは見逃してあげるから」とでも言わないばかりだ。
 しかしながら、今回ばかりは俺も簡単には引き下がれない。尤も「引き下がれない」とは言っても、強い姿勢に打って出られるわけでもない。
「何を馬鹿なこと、……ああ、いやいや、そうだよね。妖精の存在が明るみになったら大事だもんね。でも、見なかったことになんかできないよ! 別人かも知れないし、別人じゃなかったとしても昔のことだから覚えてないかも知れないけど、子供の頃助けて貰って、ずっともう一度会いたいと思っていて……。だから、せめて! せめて、妖精さんの存在を決して認めようとしないこの馬鹿チンに、妖精が実際に存在するんだってことを証明して行って欲しいんだ!」
 結果、興奮から来る緊張と、泥縄対応への免疫のなさに起因した当惑によって、しどろもどろの懇願を妖精さんへ向けるという形になった。だから、最悪呆れ顔で見られることも覚悟したのだけど、当の妖精さんには好感触だった。尤も、俺の要求に答えるべく行動するのには、妖精さんなりの理由が合ってのことだという姿勢も見え隠れする。
「ふむ、それは確かにあたしも試しておきたいな。と、いうわけで、ちょいと失礼」
 ともあれ、妖精さんは俺の要求を受け入れた。
 大きさからは容易に想像できないほどの瞬発力でピョンピョンと跳ねるように移動すると、有樹の肩へと飛び移る。
 有樹はビクッと身体を震わせるも、その速度に反応できなかったらしい。寧ろ、身体が強張ってしまって動かなかったのかも知れない。それを証明するかのように、肩へと飛び乗った妖精さんにその頬を触られた瞬間、有樹は頓狂な声を張り上げた。
「うっわぁぁ!」
 当然、妖精さんからは非難の言葉が上がる。
「なんて声出すかなぁ、もう! 吃驚したじゃない!」
 そんな有樹の反応に、俺は妖精さん以上に驚いていた。ここまで取り乱す有樹を見る機会はなかなかない。軽く思考を巡らせてみても、ここ数年来でこんな有樹の言動を見た記憶は思い当たらないぐらいだ。
 そして、それは少なくとも、霞咲駅のホームで蜘蛛女やサクラという名前の蜘蛛を前にした時とは全く異なる反応であるのも気に掛かった。なぜならば、端から見ている限り、どちらも常軌を逸した驚愕の対象という点でそう相違がないように感じるからだ。まして、サクラという蜘蛛に何の反応も見せなかったのに「どうして妖精さんで?」というぐらいだ。
 強いて言うなら、妖精さんが直接有樹に接触したからだろうか。。
 ともあれ、深夜へ差し掛かろうかという時間に有樹が一際頓狂な叫び声を繰り出したことで、誠育寮の廊下には俄に人の気配が生じる。尤も、階下からは喧騒が聞こえて来ていた形で、騒ぎ声に敏感だったとは思えない。もしも、有樹の声が喜楽に起因するものだったなら、誰も気に掛けなかったかも知れない。
 やはり、尋常成らざる「異変」を感じさせるものだったことがまずかったのだろう。
 どうする?
 今から、楽しんでいる風を装って騒ごうか?
 そんなことを考えながら決断できずに戸惑っていると、その状況をあからさまに厭う妖精さんの表情が目に付いた。廊下に生じた人の気配の数が増え始めるとそれだけでは終わらなかった。妖精さんの口からは、あっさりと退散宣言が出る。
「このままここに居ると騒ぎが大きくなっちゃうだろうから、退散させて貰うことにするよ」
 俺の表情は苦渋に満ちていただろう。
「ちょっと待って! 妖精さん! ああ、でも……」
 咄嗟に口を付いて出るものは、妖精さんを呼び止める制止の言葉だ。しかしながら、それさえも言下の内に勢いを失ってしまっていた。このまま妖精さんにこの部屋へと留まって貰うということが、どんな問題を引き起こすか理解できないわけてばないからだ。
 頭を掻きむしりながら最善策を捻りだそうと躍起になるも、俺の思考回路は期待に添う働きをしてはくれない。すると、俺の視線は自然と有樹へ向いていた。有樹に協力を仰ごうというほぼ無意識の判断だ。尤も、今の今まで、そうして有樹を頼り続けてきたのだから、それもある意味それは俺の中で当然とも言える行動だった。
 しかしながら、今回ばかりは俺の期待に添う働きを有樹がしてくれるとは思えなかった。何せ、こと妖精さんについて言うなら、有樹は見ざる聞かざる言わざる状態だ。
「うぬぬぬぬぬ」
 良案が全く浮かばないことで、取り敢えず苦し紛れに唸っては見たけれど、事態は好転の気配すらない。廊下のざわつきは既に俺の部屋の前までやってきていて、いつこの扉が力任せに開けられてもおかしくはなかった。
 俺の制止の言葉に続くものを、妖精さんは首を傾げる格好で律儀に待っていてくれていた。けれど、そろそろ潮時だった。俺がそれを強く意識し肩を落とす中、不意に妖精さんからは忠告が向けられる。
「最後に一つだけ忠告。良くも悪くも背後に気をつけて。そこにはあたしみたいな何かが潜んでいるかも知れないよ」
「それ、……どういう意味?」
 妖精さんは俺の質問に答えなかった。答えの代わりと言わないばかり、これ見よがしにウインクして見せると、妖精さんは小さな手で器用に俺の鞄のチャックを開け、その中へするりと潜り込んでしまった。
 そうして、妖精さんが鞄の中へと潜り込んだ瞬間、部屋の扉がバンッとけたたましい音を立てて開いた。
「言規、一体どうしたんだよ? こんな深夜に大声出して」
 部屋に入って来るなり、そうやって非難を口にしたのは泰治だった。
「いや、妖精さんが……」
 そこまで俺が口走った矢先のこと。泰治は「最後まで話を聞くまでもなく、まずは事態を収拾するべきだ」と判断したらしい。疲れた顔で大きく溜息を吐いた後、くるりと廊下へと向き直ってしまった。
 泰治の背後には数人からなる人集りができている。何事かと野次馬根性で駆けつけた誠育寮の寮生だろう。
「何かあったのかい、泰治君?」
「どうした、新人?」
 泰治を指して名前を呼ぶ人もいれば、ふらふらと左右に揺れながら俺達を新人と括る人も居た。
 居残り組の寮生は、どうやら部屋で酒盛りでもしていたらしい。さらに言うなら、彼らはかなりの量のアルコールを摂取しているようだ。口を開いて「何事か?」を尋ねる寮生からは、非常に濃度の高いアルコール独特の匂いがした。
 飲酒していたという事実、及び、その背格好から推測するに大学生だろう。
 ともあれ、曖昧にことを濁してしまうには、彼らは非常に都合の良い状態だと言える。
 実際、その状態を目の当たりにした泰治は、一目見て解るレベルでその肩の力を抜いて話し始める。
「ああ、いや、ちょっと地元でも滅多に遭遇しないレアな昆虫が出現したらしくて! はは、それも、何か、超特大サイズの奴で、地元ではヨーセイって呼ばれてる奴なんですけど、正式な学名まではちょっと……。それで、なんか有樹の奴が大興奮しちゃったみたいで、……本当に何でもないんですよ。いやぁ、お騒がせしました」
 入り口で人払いをする泰治を尻目に、俺は鞄の中に潜り込んだ妖精さんを引っ張り出そうと躍起になっていた。けれど、鞄の中身を豪快にぶちまけた後でさえ、ついさっき潜り込んだはずの妖精さんの姿を発見することはできなかった。持ってきた服の全てを裏返し、鞄の中に存在するポケットというポケットも全て探ってみたけれど、痕跡一つ見つけることはできない。半ば予想していたことではあったものの、俺は力なく項垂れた。
 泰治は部屋の入り口に集まった寮生を体良く追い払うことに成功したらしい。疲労混じりの顔で俺の部屋へと入ってくるなり後ろ手に扉を閉める。そうして、すぅっと息を呑んで口を開けば、泰治からは強い口調で注意が向けられた。
「言規、悪いことは言わない。その妖精は言規にしか見えないし、言規としか会話をできない、言規の心の闇が生み出した産物だからな? 会話を試みるなとは言わない。でも場所と時間を考えるんだ! 一度危ない人だと思われたら、そのイメージを覆すのは大変なんだ」
 初期の有樹と全く同じ反応を返す泰治に、思わず俺は反論する。
 なにせ、今回は有樹も証人の一人だ。
「本当に見たんだって! 会話もしたんだぞ! というか、今回は有樹も目撃者の一人だ!」
 一歩も引かない俺の主張を聞いた後、泰治は大きく溜息を吐いた。そうして部屋の中をグルリと見渡すと、目顔で俺に「それで、その妖精はどこ?」と呆れた調子で尋ねる。
 今になって、証明する手段がないことに気付いた。せめて、携帯電話のカメラで画像を残しておくんだったと後悔するけど、時既に遅しである。俺はもどかしさから唇を噛む。
 藁を掴む気持ちで有樹に目を向けるけれど、有樹は座り込んだままの体勢で力なく首を左右に振ってみせるだけだ。
 そんな足並みの揃わない俺と有樹のやりとりを前にして、泰治はぴしゃりと言い放つ。
「いいか、まずは部屋の換気をしろ! それでも、その妖精とやらが頻繁に見えるようなら、病院へ行け!」
 泰治は窓際まで行くと、立て付けの悪い窓を全開にした。すると、多少肌寒さを感じる温度の空気が部屋の中へと流れ込んでくる。心なしか、頭がすっきりした気がした。
 しかしながら、改めてあの場面を思い返してみても、妖精さんが幻覚で、会話した内容も幻聴だったなんて、とてもじゃないけど思えない。尤も、だからと言って、泰治と見解の相違についてこの場で議論を重ねるつもりはない。有樹が俺の主張に加勢してくれるのならばまだしも、妖精さんに対する有樹のスタンスを鑑みるにそれは十中八九あり得ないことだ。
 泰治はまだ言い足りないという雰囲気を残してはいたものの、それ以上妖精さんに対する言及を避ける。俺や有樹が何も反論しなかったからだろう。
「いいか、とにかく今日はもう寝ろ! 何も言うな、寝ろ!」
 結局、それだけを告げると泰治はさっさと部屋を出て行ってしまった。
 部屋の前の人集りも捌け、廊下は再び静けさに包まれた状態になる。ふと、妖精さんの忠告が俺の脳裏を過ぎった。そして、それに呼応するかのように思い浮かぶものがある。霞咲駅のホームで俺を襲ったサクラだ。
 すると、妖精さんの忠告が酷く意味深なものに聞こえてきて、気付けば頭に付いて離れなくなっていた。有樹は妖精さんの忠告をどう捉えたのだろう。ふと、あの場に一緒にいた有樹にも意見を窺うべきだと思った。
「良くも悪くもってか。なぁ、背後に気をつけてって、どういう意味だと思う、有樹?」
 しかしながら、有樹からは相変わらずの一点張りが返る。
「忘れろ、幻聴だ!」
 こと、今回の蜘蛛女や妖精さんといった常軌を逸する存在の絡む話では、有樹にその能力を遺憾なく発揮して貰うことはできないようだ。けれど、有樹の力を充てにできないことが尚更、俺の危機感に火を付ける形となる。
「考え過ぎかも知れないけど、やっぱり用心するに越したことはないんだろうなぁ」
 ぼんやり思った言葉を口に出した瞬間、それはあっという間に決意へと結びついていた。言いそびれたことがあるというのも、背中を押したのだろう。泰治にタオルケットを借りに行かなければならない。
 俺は泰治の部屋を訪ねるべく、誠育寮の廊下へと足を向ける。
 幻聴という言葉を用いて妖精さんを認めなかった有樹は、今回の件についてこれ以上関わるつもりはないようだった。床に腰を下ろしてガクッと項垂れた格好のまま、有樹は手の甲をひらひらと振ってみせるジェスチャーで「俺のことは構うな」と要求する。
「盗まれるようなものもないし、鍵は気にしなくて良いから、気が向いたら鞄を持って部屋に戻ればいいよ。じゃあ、お休み、有樹」
 結局、俺は有樹を置いて部屋を出た。




奇譚「傍系陣乃は今日も才気走る!」のトップページに戻る。