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Seen00 霞咲駅の遭遇


 電車の乗換のために霞咲(かすみざき)駅のホームへと降り立つと、春先の陽気が肌を襲った。暑いというにはまだいくらか不足であるけれど、そこに肌寒さというものは存在しない。
 今年は桜の開花予測も例年よりも早いらしい。南の方では既に咲き始めたというニュースも聞こえてくるぐらいだ。
「もう少し寒いかもと思ってたけど、有樹(ゆうき)の言う通り薄着にしてきて良かったよ。この格好でさえ、さっきの快速の暖房を暑いと思ったもんな」
「そうだろう?」
 俺の横に立つ悪友・副田有樹(ふくだゆうき)は得意気な顔だった。そうして、最新型の携帯電話で天気予報をリアルタイムに検索すると、出掛けに俺へ向けた助言が午後からも当て嵌まることを確認したらしい。
「午後から夕方に掛けての天気予報も、午前の予報から何も変わっていないみたいだな。このまま気温の方も、軽く20度を超えるぐらいまでにはなるんだろう」
 俺は有樹の手にある携帯電話の液晶画面を覗き込む。そこには霞咲近隣地域について、晴れを意味する太陽のマークと最高気温、そして最低気温が映し出されていた。
 俺が横から液晶画面を覗き込んでいる最中に、画面の端にはポコンポコンと付箋みたいなポップアップが出現する。前もってキーワードを登録しておくとそれに関連した情報や、検索履歴や利用状況などから必要と思われる情報を、現在の位置データと参照し、リアルタイムでネットワークから表示させているのだ。必要・不要の判断も「曖昧さ」を携帯電話自体が学習しデータとして蓄積していくことによって、利便性と「余計なお世話」度を上手いこと両立させているらしい。
 有樹は側面に付いたスクロールボタンでグリグリと表示を変えて、しばらくその関連情報を眺めていたけど、興味を惹かれるものはなかったようだ。誤操作防止用のロックボタンを解除すると、収納に向いたコンパクトサイズへと折り畳みさっさと片付けてしまった。
「……というか、やっぱり良いよな、その携帯。俺もいい加減、最新機種にしたいよ」
「言規(ことのり)の携帯だって、まだ二年落ちかそこらだろう? まだまだ現役で行けるじゃないか?」
 俺の羨望の眼差しを、有樹はさも「何を言ってるんだ?」と言った顔付きで牽制した。けれど、最新のアプリケーションをどうにか現役で使えることと、最新機能盛り沢山にも関わらず動作がさくさく快適とでは大差がある。
 そうは言っても、俺がここで快適性について言及することはなかった。今ここには居ないけど、もう一人、円藤泰治(えんどうやすはる)という「これが気に入って居るんだ!」と言って骨董品を使い続けている悪友が居たりするからだ。ここで快適性の話題になれば、間違いなく泰治の携帯が比較対象に並ぶはずだ。
 泰治曰く、そいつは「惜しまれながらも会社精算となったメーカーが最後に世に放った芸術品」らしい。けれど、満足に利用できるものは携帯電話としての基本機能である通話だけという何とも時代遅れな、まさしく「骨董品」なのだ。もちろん、最近のアプリケーションなど悉く利用できない。
 泰治には悪いけど、そんなものと比べられも正直困るわけだ。
 ともあれ、本日は晴天なり。
 有樹と一緒に、新天地「黒神楽(くろかぐら)」へと向かう旅路は順調そのものだった。
 自宅から目的地までの折返し地点となる霞咲までの約一時間半の旅路は、何の問題もなかったと総括してしまっていいだろうか。このまま予定通りに進めば、昼過ぎ頃には目的地に到着できるはずだ。
 ふと、俺はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。現在時刻を確認するためと言えば、確かにそのつもりもあった。けれど、どちらかと言えば、それはおかんからの着信の有無を確認するためだったと言っていい。
「おかんからの着信は……、まだないか」
 今にも鳴り出しそうに思える携帯をマジマジと眺めていると、有樹はからかうような口調で俺の名前を呼ぶ。
「何だ、言規。いつもはあーだこーだ言って置きながら結局は母君からの着信が気になるのか?」
「そういうわけじゃないよ。ただ、家のホワイトボードにデカデカと書かれていたおかんの戻り予定日が今日の日付だったから、いつ着信があってもおかしくないよなって思ってさ」
 俺の主張がいかに的を射ているかは、有樹も知るところだ。なにせ、有樹とは小学校低学年からの仲であり、お互いの家を行き来した回数は数え切れない。当然、有樹は俺の家族についても大概のことは知っているし、俺の方も有樹の家族について大概のことを知っている。
「香奈恵(かなえ)さん。言規のことに関しては度を超した心配性だものな」
 俺のおかんを評した有樹の言葉には、その度を逸す「過保護さ」に対する諦めが混ざった気がした。即ち、きっとこのまま俺が成人したとしても「続くだろう」といった確からしい推測だ。
 そういう経緯もあって、俺はおかんからの連絡を「なしには済まないもの」と認識している。
 黒神楽を訪問するに当たって、親父との意思疎通は済ませてある。当然、了解も貰っている。しかしながら、おかんとは意思疎通ができていないのだ。それはここ数日間おかんが出張続きで家に居なかったことが主原因だけれど、きっとおかんは年甲斐もなく膨れっ面して事前連絡をしなかったことで俺を責めるだろう。
 一応、親父の方からおかんに事情を説明するという段取りは付いているものの、おかんが「はい、そうですか」とすんなり引き下がるとは到底思えないのだ。
 有樹が言ったように、良くも悪くもおかんには過保護気味な面がある。
 特に、例え近隣地域であっても地元から離れる際には、うるさいぐらいに心配するのが定例だ。過去幾度となく、おかんから注意をされた場面が脳裏を過ぎって、俺の口からは思わず溜息が漏れる。
「いい加減、少しは子供離れして貰いたいけどね」
「なに、まだ気に掛けて貰えるだけ良いのかも知れないぞ。俺のところは女が四人いて、内二人が気難しい年頃の真っ最中だから、手の掛からない息子なんてものは完全な放置プレイだぞ。尤も、それを寂しいだとか思う感覚はなく、有難くその放置状態を満喫させて貰ってはいるがね」
 有樹の家は上に姉が三人、下に妹が一人いる完全な女系家族である。
 俺の記憶が正しければ、すぐ上の姉が大学受験を控えた受験生で、妹の方が思春期真っ盛りの中学二年生だったはずだ。有樹が言うように、扱いに注意を要するまさに「気難しい年頃」という奴だ。
 しかしながら、俺にはさっきの有樹の言葉で賛同できない部分がある。それは自分が放置状態にあることを、その環境故といった部分だ。
 俺から見た有樹という男は、頭が切れて非常に要領の良い人間だ。しかも、学業の成績は上位で、運動神経も平均以上だ。人付き合いという観点から言えば、少々癖のある性格で馬が合う合わないは確かにある。それでも、総じて「放って置いたところで何事も上手く立ち回るだろう」と、他人に思わせるだけの要素が揃っていると言って良い。
 強いて欠点を挙げるとすれば、一つのことに熱く成り過ぎると周囲のことを気に掛ける余裕が無くなることだろう。それと、一度こうだと信じたことは、例えそれを覆すデータを突き付けられても簡単に曲げない頑固な部分があるぐらいだろう。引っ込みが付かないという奴だ。
 身内である俺の視点というところを差し引いても、赤の他人の目に映る有樹の立ち居振る舞いは完璧に近いものだと思う。それこそ、親御さんの間で開催される近所の井戸端会議で「誰々さんを見習って欲しいわ」といった世間話の中での、誰々さんにすぽっと当て嵌まるのは間違いないだろう。
「一度、行く先々について根掘り葉掘り聞かれて見るといい。いくら何でもうんざりするよ」
 例え、俺を心配する気持ちから故の行動であっても限度というものがある。俺はそれをおかんに訴えたい。それを切に願って口にしたのがその言葉だったけれど、対する有樹は相変わらず俺をからかうように笑う。
「後ろめたいところがないなら、胸を張って答えておけばいいのだよ。詮索されて返答に困るような場所があると言ったところで、大層な場所でもないのだろう。どうせ、泰治絡みの胡散臭いホビーショップ界隈か、思春期真っ盛りの抑えきれない好奇心故に足を踏み入れるエロ絡みの界隈ぐらいか。……適当に濁してしまえばよい」
 俺だってもう高校生となる年頃で、色々詮索されたくないことだってあるわけだ。その繊細な部分を「どうにか上手く訴えて……」と思ったわけだけど、有樹の指摘に対して俺に反論の余地もなかった。
「うん、まぁ、そうなんだけど……、そう言われると元も子もないよ」
 改めて、俺は自分の携帯電話へ視点を落とす。それは相変わらず今にも鳴り出しそうな雰囲気を持っていて、俺をこれでもかという程に気落ちさせた。だからと言って、俺の方から先に電話を掛けるというのも躊躇われるのだ。好ましくないことなんて、さっさと片付けてしまう方が最善策かも知れない。それは頭では理解しているんだけど、気乗りしないのだから仕方がない。
 結局、俺は携帯電話をポケットへと仕舞い込んだ。霞咲から黒神楽までの移動の間にでも着信があるだろうから、その時が来るまでは記憶の彼方に追いやってしまおうという魂胆だった。
 しかしながら、そうして追いやったら追いやったで、今度は別の現実が突き付けられるという事実。俺は一見複雑怪奇とも思える駅の電光掲示板を見上げた後、半ば無意識の内に有樹の服の袖口を引っ張る。
「なぁ、有樹。話は変わるけど、乗換のホームが何番だったか覚えているか? 乗換の時間自体はかなり余裕があったはずだから大丈夫だとは思うけど、さっさと移動してしまおうぜ。ここまで来て乗り遅れたんじゃ、笑い話にもならない」
 小心者であるが故に、ある程度の余裕があることを確認できないと不安が背後に忍び寄ってくるのだ。そして、それはこういった場面で特に顕著である。
 乗り遅れたらどうしよう?
 背後へ忍び寄ってきた不安に唆されて、そんな思考が強く頭を付いた形だ。
 最善とは言えないものの、実際にはその後の方策などいくらでもある。乗車を予定しているのは最終電車でも、予め時間や席を予約してある新幹線でもない。だから、それはあくまで俺の杞憂に過ぎない。しかしながら、だからといって、そんな俺の不安をこともなげにぶった切って見せる有樹の超然さも見習ってはいけないものの様な気がした。
「なに、乗り遅れたら乗り遅れたで駅弁でも買って腹拵えと行こうじゃないか。あちらで泰治が待っているとはいえ、一言連絡入れておけば何も問題ないだろう? 多趣味で通す泰治のことだ、めぼしい暇潰しポイントなんかも既に見付けているんではなかろうかな」
 こと黒神楽訪問に関して言えば、有樹に物事を計画通りに進めようというつもりがないように見えた。
 それは黒神楽までの旅路を存分に楽しまんとする「有樹なりの考え方があったから」と言えば聞こえは良いかもしれないけれど「では、そうしようか」というわけにはいかない。俺はそんな有樹の姿勢について、現在置かれる状況を突き付ける。残念ながら、駅の柱に貼り付けられたポスターの煽り文句のような「忙しない現代生活を離れ、ゆったりとした時間の流れる心のゆとりを楽しむ旅をあなたに」だとか宣うだけの余裕はないのだ。
「泰治に関して言えば、そうかも知れない。でも、だからって、黒神楽方面行きの電車の方は「じゃあ、次のにしよう」ってわけには行かなかったはずだ。次の特別快速を乗り過ごすと、しばらく各駅停車しかないんだ。単純に到着予定時間が倍になるんだぜ?」
 世間一般に取って、今日は週末や祝日ではない。俺や有樹を含む一部の学生陣は春休みという長期連休の真っ直中ではあるものの、サラリーマンを始めとした社会人に取って、あくまで今日はただの平日である。
 既に通勤ラッシュの時間も終わりへと差し掛かっていて、霞咲駅の混雑度合いも収束へと向かう時間だ。その通勤ラッシュに合わせる形で、霞咲から各地方へと向かう特別快速も電光掲示板からその姿を消すのである。そして、黒神楽へと向かう次の特別快速へ乗り過ごしてしまうと、平気で次の特別快速が二時間後とか言うダイヤに変わるわけだ。
 有樹はズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、霞咲から発車する電車のダイヤにアクセスしているようだ。そうして、ようやく状況を理解してくれたらしい。
「確かに、ダイヤを確認する限りでは次の特別快速を乗り過ごすと黒神楽方面へ向かう電車は全て各駅停車に切り替わるみたいだな。忙しなく時間に追われるのも性分ではないが、無駄に時間を浪費するのも好ましくはないな」
 横合いから有樹の携帯電話を覗き込んで見るけれど、液晶画面に表示された雑多な情報群から俺が求める答えを拾い取ることはできなかった。それは有樹がサクサクとボタンを操作していって、検索窓やら何やらを切り替えたことも影響していただろう。
 俺は操作に手慣れた有樹へ、当初の不安を取り除くべく再度尋ねる。
「それで、肝心の特別快速が停車するのは何番ホームか解……」
 しかしながら、その質問は言下の内に途切れることになった。突然、横合いから俺の問いにそれらしい答えを返す言葉が生まれたからだ。
「黒神楽行きの特別快速は14番ホームじゃないかな」
 腕を組んで熟考しホームの電光掲示板を見上げた後で、俺はその回答が見当違いのものであることを理解する。
「14番ホームって、……一体どこからそんな数字が出て来たんだよ? 大体、見れば解るだろう? 霞咲のホームは12番線までしかないんだ、何言って……」
 俺が「何かおかしい」と感じたのは、声のした方へと向き直り、いい加減なその回答について非難しようとしたところまで行ってからだった。その声には、聞き覚えがなかったのだ。
 あまりにも自然に飛び込んできたから、違和感を覚えなかったのか?
 自問自答は要領を得なかった。
 ともあれ、声がした方へと目を向けてしまえば、すぅっと自分の感覚が研ぎ澄まされていくのが解る。けれど、そんな俺の緊張が長持ちすることはなかった。声がした方へと視線を走らせ、その先に「何が居るか?」を確認するよりも早く、有樹から訝しげな声が向けられたからだ。
「それはこっちの台詞だ、言規。さっきから14番ホームがどうの何をぶつぶつ言っている? 例の、手乗りサイズの妖精でも見えたのか? 一応忠告しておくが、その妖精は言規にしか見えないし、言規としか会話をできない、言規の心の闇が生み出した産物だぞ? 言規の精神安定に一役買っているかも知れないから会話をするなとは言わないが、できれば衆人環視のもとではやらない方が良いな」
 聞き覚えのない声に反応して俺が口走った内容を、有樹はそっくりそのまま自分へ向けたものと受け止めたらしい。だから、恰も俺が一人芝居を演じたかのように、有樹には見えたようだ。俺へと向けた有樹の言葉は、若干哀れみの籠もった生暖かいものだったような気がする。
 ともあれ、俺は有樹の言葉に反応せざるを得ない。そこにはどうしても受け入れられない意見の相違がある。
「馬鹿! 妖精は本当に居るんだって! 昔、俺がガキの頃、本当に見たんだって! 家の鍵を落として困っていた時に、庭の植木鉢の脇から如何にもメルヘンチックでちょっとエロティックなドレスに身を包んだ妖精がひょこっと顔を出してだな、俺に家の鍵を届けてくれたんだ! 大人は誰も笑いながらテレビの見過ぎと言うけれど!」
「言規。前にも言ったかも知れないが、あまり親しくない他人にその話はしない方がいいからな。……というか、それこそ、第二次性徴に片足を突っ込んだ少年だったからこそ故に見た、エロ妄想ではないのか」
 有樹は呆れ顔を隠さなかった。
 尤も、もしも立場が逆だったなら、俺もきっと今の有樹と同等のスタンスを貫くだろう。妖精は実在すると宣うそんな非現実的主張を「信じられない」という気持ちも頭では理解できる。しかしながら、俺は実際に妖精と思しき存在を、子供の頃だったとはいえ目の当たりにしているのだ。そして、俺としても相手が有樹だからこそ、頑としてこんな白い目で見られ兼ねない主張をするわけだ。どうでもいい他人が相手ならば、ここまで「解って貰いたい」なんて思うはずもない。
 妖精を見たことを証明できるものが何もないことを、俺は今回も悔やまずには居られなかった。そして、願わくばもう一度、俺と有樹が居合わせる場所で妖精がひょっこりと顔を出してくれることを切に願うのだった。
 いやいやいやいや、それはともかくとして、今有樹と議論すべきことはそれじゃない。
「ちょっと待て! 脱線したぞ、話が逸れた! 過去に俺が出会した妖精が実在するかどうかなんてことはどうでもいいんだ! いや、良くはないけどさ! 取り敢えず、今はそんなことを議論したいわけじゃなくて! えっと、……だから、さっきの声が有樹には聞こえなかったのか? 俺が尋ねた言葉に対して、誰かがそう答えたんだよ!」
「俺は何も聞こえなかったけどな。少なくとも、言規のいう「十四番」と答えた声は聞いていない」
 慌てて話を元へと戻してはみるものの、有樹は首を横に振るだけだった。
 実際に、その声の主を探し出してしまうこと。それがこの疑惑を払拭する最良の方法だと思った。
 特別快速の到着ホームについて「14番」と、恰もまるで俺の疑問に答えを示したかのような内容だ。間違いなく、その声は俺へと向けられたものであるはずだ。
 改めて、駅のホームをグルリと見渡し、俺はその声の主を霞咲駅のホームから探し出そうとする。けれど、有樹は相変わらず俺の様子を怪訝な顔付きで眺める。本気で俺が何かパフォーマンスでも、演じていると思ったのかも知れない。
「何だ、霞咲駅のホームに何かあるのか? 意気揚々と行き付けの量販店で期待の新作ゲームソフトを新品で購入したはずなのに、その次の日に同じものがネットで定価の半額近くで投げ売りされていたのを発見した時の、絶望に打ち拉がれたような顔をして」
「おい、止めろ! あの件はもう思い出したくないんだ!」
 またも有樹の茶化す言葉に声を荒げる形で反応してしまう。けれど、その後に続くはずだった非難の言葉は、どれも実際に口を付いて出ることがなかった。
 ガヤガヤと様々な人の声が入り混じる霞咲駅のホームにあって、その声の主と思しき相手が俺の視界に確かな違和感として残ったからだ。認識として、さっきの声が有樹に聞こえていなかったのは間違いない。ではこの違和感を、違和感として認識することも有樹はできないのだろうか。
 霞咲駅のホームに存在した違和感は、一見何の変哲もない女の子のようだった。ただ、それは見るからに普通ではない。本来、その女の子自身が邪魔になって見ることができないはずの、女の子の向こう側にある景色を確認することができたのだ。即ち、その女の子は透けて半透明だった。距離にすると数メートルもない場所に立っていて、まるでこちらの様子を窺っているかのように俺には見える。
 乗換時刻を確認しないといけない。そんな考えは、あっという間に忘却の彼方へ追いやられた格好だ。
 俺はその女の子をマジマジと注視する。
 そうやって露骨にジロジロ見たわけだから、目が合うことも必然だったのだろう。
 目線の高さはほぼ一緒、即ち身長は俺とほぼ同程度だ。全体的に赤味がかったボサボサの髪を後頭部の髪留めでまとめることで全体的に多少幼い感じを醸し出していたけれど、年齢的にも俺とそう変わらないように見える。顔立ちは非常に整っていた。間違いなく美人のカテゴリーに含まれると言って良いだろう。
 ただ、その一方で身形というものにまるっきり洒落っ気がないのが印象的だった。黄土色のジャージを身にまとい、色の合わないティーシャツを組み合わせる出で立ちはまるで「近場だったし、大した用事でもないので部屋着で来ました」という風にさえ映る。地方都市とはいえ、政令指定都市クラスの人口を誇る霞咲市の交通の要所に立つ姿として、それは相応しくないと思うのは俺だけだろうか?
 そして、何よりも俺をドキリとさせたものは、女の子のまとう雰囲気に既視感があったことだった。
 確かに美人だと思う。けれど、顔の輪郭というか、目鼻の作りというか、姿形が俺に取って身近な存在の誰かに似ている。そう思わされたのだ。
「君、どっかで……」
 そこまで口走ったところで、脳の深いところに埋もれていた古い記憶が呼び起こされた。
 見覚えがあるかも知れない。過去に、どこかで会ったかも知れない。ふと、そんな思考が脳裏を過ぎる。そして、一度そんな思考が芽生えてしまえば、後は勝手に現実味を伴うだけだった。尤も、古い記憶自体は完全にぼやけてしまっていて、確かな輪郭を描くことはない。現実味だけが先行する形だ。
 俺はそれが本物なのか、都合良く脚色された記憶なのか、それともただの錯覚なのかを判別することができない。だから、見分けることのできないこの不確実な現実味は、今は振り払ってしまうべきものだと思った。しかしながら、いざそうするべく首を左右に振ったところで、見覚えに対する一つの心当たりへぶちあたってしまう。
「……というか、そのジャージ! 俺達の中学指定のジャージじゃないのか?」
「ああ、確かにそうだな。見間違いようがない、あれは母校の、評判の悪かったジャージで間違いない。それよりもだ、母校のものだとかいう以前にあのジャージは、……言規のものだった奴じゃないのか?」
 その女の子の姿は、有樹にも問題なく見ることができるようだ。そして、顔を顰めて見せる有樹からは思いも寄らない疑問が飛び出した。
 そんな有樹の指摘に眉を顰めながらも、俺は改めて女の子の服装へと目を向ける。すると、そう言われてみれば確かに、良い感じによれが生じた草臥れ感には見覚えがある。球技大会でバレーに参加した時に、でっぱりに引っ掛けて破いてしまった右肘付近の綻びもそうだ。
 恐る恐る胸元に刺繍されたネームを確認したところで、俺は言葉を失った。そこには確かに、俺の名字である「陣乃」の文字が綴られていたからだ。もちろん、同姓という可能性を完全に否定することはできない。
 ただ、そのジャージに限ったことを言うなら話は別だ。見間違うはずがない。それは俺が在学中に身に付けていた俺の中学指定のジャージである。
「あれ、もうそこまではっきり見えちゃうんだ? 霞咲ぐらいまでの距離で、お呪いの効力が薄れるのかぁ。てっきり、もっともっと尾を引くものだと思っていたんだけど、これなら物理的に……」
 彼女が意味深な台詞を言い終わるよりも早く、俺の携帯電話に着信が入った。尤も、状況が状況なので、最初は無視してしまおうかとも思った。けれど、着信メロディーが鳴り響き、それが誰からの着信なのかを解ってしまえば、そうも言ってはいられない。
 着信はおかんからだったのだ。
 俺がこの着信を無視したことによって、おかんが黒神楽へ向けて車をかっ飛ばすことも十二分に考えられた。俺のおかんはそれをやり兼ねないだけの積極性と行動力を持っているのだ。この対応如何によっては、例えそれが電話で簡単に済ませられるはずの内容であっても、おかんは俺と話し合いの場を持つためだけに黒神楽まで来るだろう。
 だから、半透明に透けるという常識を逸した存在が眼前に出現する状況下に置かれながら、俺が最優先事項と選択したのはおかんの対応だった。非常識の賜物が眼前にあるとはいえ、少なくともそれは意思疎通の適う相手であり、まして俺や有樹に襲い掛かると言った類の緊急性を伴っているわけでもない。
「ついに来たか……。悪い、ちょっと失礼」
 俺は溜息混じりに呟くと、ズボンのポケットから携帯電話を取り出そうとする。
 今まさに携帯電話へと目線を落とそうとした瞬間のこと。俺はその目に眉間へと皺を寄せる女の子の表情を捉えた。そして、異変が生じたのは、その表情に不穏な気配を感じ取って俺が女の子へと視線を戻そうとするまでの、ほんの一瞬の間だった。今の今まで眼前にあったはずの女の子の姿が忽然と消えてなくなってしまっていたのだ。
「言規!」
 有樹に名前を呼ばれて俺は顔を上げる。すると、そこにはあっという間に、俺との距離を詰めた女の子が居た。
 咄嗟には何も反応できず、俺は目を丸くするだけだ。けれど、不甲斐ない俺の対応を、有樹が機転を利かせてサポートしてくれる。俺は有樹に服の襟首を掴まれ、グイッと引っ張られていた。
 その女の子が何をしようとしたのか、正確には解らない。けれど、女の子が手を伸ばして勢いよく空を掴んだ空間に、ついさっきまで俺が居たことだけは確かだ。鋭い風切り音が耳許を掠めていって、俺は絶句した。
「どうして今の一撃を避けちゃうのかな! 話がややこしいことになるだけだって言うのにさ!」
 目を点にした俺に、一撃を回避したことに対する非難の言葉が向けば、そこにはあっという間に緊張が走った。
 女の子についさっきまでの穏やかな表情はない。代わりと言わないばかりにそこへ灯った表情は、鋭い目付きと真剣味が前面へと押し出される凄みの混ざる顔色だ。強いてそれを言葉にするなら「敵意」とするのがしっくり来るだろうか。
「そ、総員迎撃態勢を取って次の一撃に備えろ! 状況に応じて武力行使も許可する! 有樹、状況を分析してくれ!」
 俺の要求に応じて、有樹はすぐさま一つの解を導き出す。
「迎撃態勢に、武力行使……か。何をするにしてもここでは体裁が悪いぞ、言規。実態はともかくとして、相手の見た目は俺や有樹と同年代の、普通の女の子だからな。兵法三十六計、逃げるが勝ちっていうところが落とし所じゃないか?」
 有樹の見解を受けて、逃げに転じようといった類の、この後に向けた俺達の意図をその女の子は敏感に感じ取ったようだ。一定の間合いを確保しようという俺の行動を、その女の子は極端に嫌うような態度を見せる。
 すると、女の子は駅のホームに触れるか触れないかの位置で、右手人差し指をホームに向けて突き立てる。一種異様な気配が霞咲駅のホームに生まれ広がった瞬間だった。尤も、俺以外にそれを感じられた人は居ないようにも見える。少なくとも、俺の横で状況を窺う有樹に、それを察した風はない。
 そして、女の子が人差し指を突き付けた先からは、何かがひょこっと顔を出す。それはまるでコンクリートの駅のホームに、何か穴でも存在するかのような出現の仕方だった。
 パッと見た感じで言えば、それは「蜘蛛」と表現するのが適当だろう。細い毛の生えた八本の足、所々にどぎつい黄色の模様と、黒色の線が走っていたけれど、全体的には薄紅色で「禍々しい」という言葉がこれほど似合うのはそうそうないとさえ思った。
 ほぼ無意識の内に俺は眉を顰め、嫌悪感を前面に押し出していた。人の好みは千差万別だとは言え、ほぼ全ての人の共通項として、そいつは「見ていて気持ちの良い生物ではない」と言ってしまって良いと思えた。もしも「毒蜘蛛が出たぞ!」と大声を上げたら、霞咲駅のホームを混乱が支配しただろう。実態がどうあれ、少なくともそう思わせるだけの風貌をその大蜘蛛は持っていた。
 ともあれ、駅のホームに全貌を表した蜘蛛は、ぐぐっと最大サイズに広げた俺の掌ぐらいの大きいを持っていた。当然、駅のホームにそれだけの大きさを伴ったものが這い出てこれるだけの穴なんてものは存在しない。
 状況を理解できずに戸惑い固まっていたら、その蜘蛛によって俺はあっという間に窮地に追いやられる羽目になった。
 女の子がクイッと腕を動かしたことで、蜘蛛が俺の方へと音もなく接近してきたのだ。それも、それは想像していたものよりも遙かに俊敏で、且つ無音だった。せめて、カサカサと音を立てて、且つもう少し鈍重な動きだったなら、まだ「この野郎!」と立ち向かう気力も沸いただろうに、俺は完全な逃げ腰となる。
 蜘蛛はまるで俺に見られることを厭うように人混みを縫うようにすぅっと横に逃げた。そして、音を立てることなくジャンプする。ふと気付けば、右斜め前方の一足の間まで接近されていて、蜘蛛はそのまま俺の右膝付近を目掛けて飛び掛かってきた形だった。
 あろうことか、完全な逃げ腰になっていながら回避が間に合わない。
「うわぁッ!」
 ふと気付けば、素っ頓狂な声が口を付いて出ていた。その次の瞬間には、ほぼ無意識の内に俺はそいつを払い落とすべく腕を振り上げる。けれど、蜘蛛を払い落とすべく繰り出した一撃が、今度は実際に蜘蛛へと向けて放たれることはかった。いや、実際には渾身の力を込めて繰り出しはしたんだけど、それが蜘蛛に命中しなかったと言った方が適当だ。
 がしりと右腕を掴まれる形で、渾身の一撃は敢えなく制止させられてしまったからだ。そして、俺の渾身の一撃を防いだのは、ついさっきまで眼前に居たはずの女の子である。
 蜘蛛に気を取られていた間に、いつの間に至近距離まで接近されていた形である。
「おい、何の真似だ! 離せ!」
「それはできない相談かな。……抵抗すると力尽くでやっちゃうよ? そしたら、痛い思いをすることになるかも知れない。そんなの、嫌だよね?」
 その細い腕からは、見た目にそぐわない怪力が繰り出されていた。
 渾身の力を込めて振り払おうとするものの、俺の力ではピクリとさえ動かせない。正直な話、信じられなかった。力で簡単にねじ伏せてしまえそうなほど、見た目はか細い腕なのだ。
 ともあれ、力業で状況を改善させられないから、俺は無駄だと知りながら説得を試みる。尤も、追い詰められて焦燥に駆られた俺に、相手を説得するだけの手練手管を用いることができるはずもない。
「離せって! ちょっと! 登ってきてる! 這い上がってきてるって! 蜘蛛が登ってきてるから!」
「大丈夫♪」
 さも「大したことではない」と言わんばかりに一笑に付されて、俺は思わず大声を上げた。
「馬鹿か! 大丈夫じゃないよ!」
 そこが衆人環視の目に晒される場所だなんてことは、既に俺の頭の中から吹き飛んでしまっていた。
 何事かと思いながら遠巻きに眺める人から訝しげな表情をする人、ちらりとこちらの様子を窺ってはすぐに興味を無くして先を急ぐ人。反応は様々だったけれど、俺を助けるべく行動してくれる人はこの場に居ないようだった。
 端から見れば、ただただじゃれ合っているように見えるのかも知れない。パッと見では、俺が本気を出せばその女の子を振り払うことなど容易いように見えるだろろ。だから、その反応も当然かも知れない。まして、誰の目にもその女の子が半透明に透けて見えるなら、何かしらのパフォーマンスだとでも思われたかも知れない。
 そうなると、頼みの綱は有樹だけだった。
「有樹! 助けろ! こいつを何とかしてくれ!」
 しかしながら、俺の必死の訴えを前にして、当の有樹は何も反応を返さなかった。ぽかんと口を開けて、じーっと俺に襲い掛かる女の子を眺めていただけだ。微動だにしない有樹の名前を、俺は怒鳴りつけんばかりの声で叫ぶ。
「有樹! 聞こえているんだろ! おい、有樹!」
 有樹の耳にはまるで俺の言葉など届いていないかのようだ。ただ、その視点自体はこちらを向いていて、且つこちらの動きに反応しているわけで、意識がないとかそういう状態ではないはずだ。
「くぬぬぬぬぬ! なんて力だよ、この蜘蛛女!」
 頼みの綱とも言える有樹がその調子で、俺はにっちもさっちも行かなくなる。最後まで抵抗するのは当然ながら「このままでは押し負ける!」と、気持ちの面でも瓦解の一歩手前まで追い詰められ始めたその矢先のこと。完全に想定外の方向から、俺の名を呼ぶ声が響いた。
「言規。言規? 聞こえる?」
 必死で抵抗を試みている間に、どうやら携帯電話の通話ボタンを押してしまったらしい。しかしながら、劣勢に立たされた俺の状況は、そこを境として思い掛けず一気に好転することになった。
 おかんの声が聞こえた瞬間。パッと目で見て解るレベルで蜘蛛女の表情が強張ったのだ。ちょうどその蜘蛛女の耳許付近で俺のおかんの声がするという構図になったことも影響したかも知れない。全く予想だにしない方向から、それも至近距離で、人の声がすれば驚きもするだろう。
 俺はその隙を見逃さなかった。思った通り、その一瞬の緊張は俺を掴む蜘蛛女の力を著しく弱まらせた。
 後はもう文字通り、がむしゃらに、力任せに、その蜘蛛女の腕を振り解いていた。どうやったかなんて覚えていない。もしかしたら、蹴りの一発ぐらいはぶちかましたかも知れない。
 振り解いて距離を取ってしまえば、後の俺の行動は決まっていた。首筋にまでよじ登ってきた挙げ句、俺の口にその腕を掛けた蜘蛛を引っ剥がして、そのまま駅のホームへと叩き付ける。
「はなへッ、ほの野郎!」
 霞咲駅のホームに、ベチッと鳴る確かな手応えが響き渡った。
 そして、俺が蜘蛛を駅のホームに叩き付けるのと同時に、蜘蛛女もハッと我に返ったように血相を変える。
「ああ、酷いッ! サクラを叩き付けるなんて! 何も叩き付けることないじゃない!」
「サクラ……って、その蜘蛛のことか?」
 話の流れから言ってそのサクラという名称は蜘蛛の名前で間違いないだろう。あまりにもらしくない名前だと咄嗟に思ったから思わず当惑したけれど、改めて蜘蛛の外観を確認するとその由来も解らなくはない。
 ともあれ、俺へと非難を向ける激しい女の子の剣幕に、俺は完全に気圧される形となった。
 順を追ってよくよく考えてみれば、サクラがやったことは俺にそうされて然るべきことであるはずだ。それにも関わらず、気圧されるという形で一度勢いを削がれてしまえば、俺は完全に言い返すタイミングを逸した形だった。険しい表情で俺を睨み据える女の子が俺の話に聞く耳を持つとも思えない。
 色々と頭を悩ませた結果、俺は当初の最優先事項に対応することを決めた。すると、俺は手に持っていたはずの携帯電話がないことに気付く。
「あ、あれ? 携帯がない」
 そして、そうやって携帯電話に気を取られた一瞬の間に、女の子は目の前から忽然と姿を消していた。
 また一瞬のうちに距離を詰められて攻撃されることを警戒したこともあって、慌てて周囲に視線を走らせたものの、霞咲駅のホームから、サクラと呼ばれた蜘蛛と、そのサクラを使役した女の子の姿は影も形もなかった。
「……さっきの蜘蛛女、何処行ったんだ?」
 ようやく喉の奥から引っ張り出してきた言葉は今の今まで眼前に存在していた女の子の行方を怪訝に思う内容だ。
 恐らく一部始終を見ていただろう有樹に状況を確認すべく、俺は有樹に向き直る。けれど、振り返って実際に有樹の顔色を間近にした瞬間、そんな気持ちは掻き消えてしまった。そこには大きく目を見開いて固まる有樹が居たからだ。有樹の表情は、さも何か信じられない出来事でも目の当たりにしたかのような顔付きだ。
 俺が口を真一文字に結ぶ形で何も尋ねなかったからか、有樹は逆に俺へ「何が起こったのか?」を尋ねる。
「信じられないが、煙か何かのように消えてしまったぞ。上手い表現が出て来ないが、昼間に幽霊を見た思いだ。なぁ、言規。あれが妖精って奴か? 俺もとうとう、妖精って奴を見てしまったのか?」
 有樹に「妖精さん」の間違った認識が植え付けられることを危惧して、不本意ながら俺は過去遭遇した妖精さんの概要について説明する。有樹にはもっとちゃんとした場で説明したい思いもあったけれど、あんなものを妖精さんと思われてはたまったものじゃない。
「昔、俺が見たのは滋養強壮ドリンク瓶サイズの可愛い奴で、もっと愛嬌のある妖精だったよ。後、いきなり襲い掛かってこない友好的な妖精な。というか、仮にさっきのが妖精だったとして、俺の出身中学のジャージに身を包み、気色の悪い蜘蛛を使役するだなんて、随分メルヘンから程遠いところにいる妖精も居たもんだな。……そもそも、どうしていきなり襲撃されなきゃならないんだよ!」
 最後の一つは有樹に向けた言葉ではなかったものの、有樹からは一つの推測が示される。
「満月、……だったからじゃないか?」
「はぁ?」
 俺の怪訝な顔付きを前に携帯の液晶画面を覗き込んだ有樹は、さっきの自分の推測が間違いだったことを口にする。携帯電話の情報ページで、今夜の月の満ち欠け具合を検索したのだろう。
「残念ながら、今夜は満月ではないようだ。そうなると、知らないうちに恨みでも買ったかな?」
 満月云々はともかく、有樹の口からは思い掛けない単語が飛び出した。
 俺は過去の行動の中から心当たりになりそうなものをピックアップした後で、それをきっぱり否定する。
「……妖精の恨みを買う? ちょっと妖しげな仕掛けで捕獲を試みたことはあるけど、いやいや、……まさかな。やっぱり、そんなの全く心当たりがないな! 大体もう一度会いたいって思い立って、月に一度は妖精探しに公園を徘徊しているぐらいなんだぞ、日光浴を兼ねて! こんなに「もう一度俺の前に出てきてくれないかな」って心待ちにしてるのに恨まれているなんてこと……!」
 ふと気付くと、有樹は俺を白い目で見ていた。そんなに大層なことを口走ったつもりはなかったけれど、有樹に取ってはサプライズカミングアウトだったのかも知れない。
「と、とにかく、あれが妖精でも幽霊でも何でもいいよ。問題なのは、どうして得体の知れないその何かが「陣乃」の名前が入った俺達の中学指定のジャージなんかを着ていたのかってことだよ?」
「そんなこと、俺に聞かれても困る。言規を襲ったことからも何かしらの関係があるのは間違いないんだろうが、……今は何を言っても推測の域は出ない」
 状況を整理すればするほど、理解不能な現実が襲ってきた。そんな状況を前に、俺は混乱状態から思わず有樹に詰め寄りそうになる。しかしながら、その答えを有樹が知り得るはずはない。有樹に矛先を向けたところでどうしようもないのだ。有樹が言うように、正答が混じっているかどうかも解らない推測を、いくつか導き出すのがやっとだろう。
 それを頭で理解してしまえば、俺は若干の冷静さを取り戻す。
 有樹から携帯電話のことで指摘を受けたのは、まさにその直後のことだった。
「そんなことよりも電話は良いのか? 見たところ、さっきからずっと繋がっているみたいだが?」
 俺は思わずハッとなる。慌ててどこかに落としたのだろう携帯電話の捜索を再開する。
「すぐ後ろだ、足下に落ちている」
 有樹の言うように、携帯電話は足下に落ちていた。さっきの蜘蛛女と攻防を繰り広げた際に落としたのだろう。
 存在を認識すると、携帯電話からは俺の名前を呼ぶおかんの声が響き渡っているのが理解できた。
「言規(ことのり)? 言規、聞こえているの?」
 俺は携帯電話を拾い上げると、おかんの声に対応する。
「ああ、うん。聞こえてる。ごめん、ちょっと、携帯電話を落としちゃって……」
「ああ、やっと繋がった。何度名前を呼んでも反応がなかったから、何か事件に巻き込まれたのかも知れないと思って心配したのよ?」
 おかんから「事件に巻き込まれた」なんて認識が飛び出して、俺は肝を冷やす形だった。ただの過保護から来た言葉だろうけれど、余計なことを口走って実家に連れ戻されるなんて事態に発展するのは御免だし、おかんが黒神楽まで赴くなんて事態も回避したい。蜘蛛女の襲撃というある意味「物騒」で「不可解な」事件が発生したけれど、それを正直におかんへと話すつもりにはなれなかった。
「はは、……まさか。そんな物騒な事件なんて滅多に起こりはしないって。全くおかんは心配性だな!」
 そう受け答えをした時の俺の目は、きっと笑ってなど居なかっただろう。寧ろ、冷や汗を浮かべていたかも知れない。
 しかしながら、何も異常がないと俺が主張したことで、おかんは「黒神楽訪問について」へと話題を移す。それが本題だと言わないばかり、おかんの口調は一気にヒートアップした。
「そんなことより、どうして急に黒神楽へ向かったりなんかしたの? しかも、母さんに一言も相談なく……。母さん、言規が地元を離れて黒神楽へ行く前に言っておかなきゃならないことがたくさんあったのよ。それに、永曜学園の入学式の三日前には近所のお店を予約していて、お父さんの親戚も集めてささやかな送り出し会だって企画していたんだし……」
 それはいつも俺が対応してきたおかんそのものだった。強い口調で非難するというのではなく、拗ねた調子でチクチク長々とやられるのだ。顔を付き合わせている場合は尚更厄介で、こうなってしまうと非の有る無しに関わらず、こちらから「ごめん」と言って折れてしまうのが上分別だった。
「おかん、ごめん。でも、ずっと出張でいなかったじゃないか? 有樹と泰治と話をして、春休みの間中ずっと地元にいても仕方がないし、一足先に黒神楽を見て回ろうかという話になったんだよ。誠育寮(せいいくりょう)には一足先に入寮している泰治が事前に話をしてくれているから、寝泊まりする場所にも困らない。何も心配要らないよ」
「間もなく、七番ホームに特別快速・アカヌキライナー14号が到着します、白線の内側まで下がってお待ち下さい。なおアカヌキライナーは当駅にて三分間停車します」
 おかんに向かって黒神楽訪問が入念に準備を施した何も問題のない安全な旅行であることを説明していると、聞き覚えのある電車の名前がアナウンスされ、俺はハッとなった。おかんの対応をしながら有樹を見ると、有樹はあっさり俺の意図を汲み取ってくれたらしい。さくさくっとアカヌキライナーに対する情報収集を始めると、簡単なジェスチャーで「ビンゴ」だと返した。
「母さん、言規に黒神楽訪問をするなって言っているわけじゃないの。もちろん、下見も大切だと思う。ただ、黒神楽へ行く前にやっておいて欲しい手続きがいくつかあるのよ。だから、今からでも自宅に戻ってきて欲しい」
 下手をすると乗り遅れるかも知れない。そんな予感が漂い始めて、俺は半ば強引におかんの話を遮る。
「そんなの、無理だよ。もう折返し地点の霞咲まで来ちゃっているんだよ? 黒神楽の下見を終えたら、入学式の準備のためにまたそっちに戻るから、その時でいいだろう? あー……っと、そろそろ時間が来るから、向こうに着いてからまた連絡するからね。切るよ?」
「ちょっと待ちなさい、言規!」
 最後に制止を求めた強い口調が響き渡ったけれど、俺はそこで通話を切った。
 少なくとも、これでおかんが黒神楽へ車を飛ばすなんて事態には発展しないだろう。尤も、こちらから連絡を取らなければ、再度電話が掛かってくることは間違いないだろうし、それを無視すればおかんの黒神楽襲来もまだ十二分に可能性は残されていると言っていい。
 ともあれ、今はアカヌキライナーに飛び乗ることが最優先事項である。
「全くおかんは心配性なんだから!」
 ぼやく俺に、有樹が目的地を告げる。
「言規、二つ隣だ。七番ホームに急ぐぞ」
「了解って、特別快速・アカヌキライナー14号に、14番ホーム……?」
 最後に一度、霞咲駅のホームを振り返って確認したけれど、そこにさっきの蜘蛛女の姿はない。もちろん、サクラと呼ばれた掌サイズの大蜘蛛もそこには居ない。
 けれど、有樹の後を追うべくホームに背を向けた瞬間、感触の宜しくない第六感が俺の頭を指したのだった。
 再び、あの蜘蛛女と相見えることになる。そんな第六感だ。
「こういう時の俺の第六感は、……大体当たるんだよなぁ」
 思わず、溜息が口を付いて出た。




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