狭くも広くもない宿舎で寝起きをする里曽辺の生活も一週間が過ぎようとしていた。だいぶこの施設での生活に慣れたとは言え、正直日の光に当たらないと言う生活は里曽辺に取ってあまり慣れ親しめるものではなかった。
現在、里曽辺の生活時間の大半がプロフェッサーからの依頼である千宗の訓練に当てられていた。それらの用件が施設外に出る必要のあるものならば、否応にも施設外の……蛍光灯以外の光を浴びることに直結するのだが、如何せん現時点での千宗の訓練内容では施設外に外出する理由はないのであった。
里曽辺が真っ先に千宗に教えたことは間合いの取り方だった。人並み外れた反射神経と身体能力があるのだから、まずはこれを存分に活かせる様にすることが重要だと感じた為だ。取り分け、プロフェッサーの要望が「格闘能力面の充実を最優先に……」と言う内容だったことも重なって、里曽辺は本格的に千宗の格闘能力の向上に努めていた。
当初、見た目に華奢な千宗には何よりも筋力トレーニングが必要だと里曽辺は感じたのだが、プロフェッサーはそれよりも実際の攻防による経験を積ませて欲しいと要求をした。結果としてそのプロフェッサーの言葉通り、千宗に必要なものが経験だったのだと里曽辺は一週間の訓練の初日で身を以て知ることとなる。
顔合わせの際に設けた試合では一撃も千宗の攻撃を里曽辺が貰うことがなかったから解らなかったのだが、千宗の繰り出す攻撃にはどれも十分な威力が伴っていたのだ。
考えごとをしている間に千宗は里曽辺との距離を詰め、ヒュンッと風切り音を響かせて里曽辺の間接目掛けた一撃を繰り出した。里曽辺は手慣れた挙動でそいつをさばきながら、千宗に自身を打たせる為のアドバイスを口にしていく。千宗の一つ一つの挙動が終わるか終わらないかの内に、そのアドバイスは上積みされていて、恐らく千宗はその半分さえも耳で聞き、頭で考慮し、実際の行動に結びつけられてはいないだろう。
「教えたポイントだけを打とうとしても駄目だ。相手にダメージを与える為の攻撃はどんな強力なものであろうとも、それが相手に当たらなければ意味がない」
ブンッと千宗のストレートが風を切り、それが里曽辺に命中しないとなるとトンットンッと足の運びを変えた変則的な裏拳へと変化を始める。一週間の中で里曽辺の戦い方を正確に模す様にそれらを覚えていった千宗は、良く言えば攻め込む基礎を的確に覚えながら、悪く言えば千宗なりの応用が利かない戦闘展開を見せていた。攻め込むパターンを簡単に組み替えるだけで、千宗なりの瀬踏みとか挙動と言ったものがないのだ。
それらが元々は里曽辺の戦い方である為に、里曽辺に対してそれらは効力をはっきりすることがないのだが、取り分け今の千宗が保持する問題は応用が利かないところにあった。相手に行動を読まれ易いと言う致命的な弱点がある以上、どうにかしてそこを克復させてやらなければならない。
「相手の行動を予測すると言うことは本来経験を積まなければ出来ないことだが、ある程度同じ踏み込みだけで相手を攻め続ければ場当り的な推察ぐらいは出来る様になる」
他に千宗について解ったこととして、一朝一夕では本来覚えられない様なことをあっさり覚えてみせる一方で、当たり前のことが出来ない不器用さを持っていることだった。里曽辺が千宗に対して一度も仕掛けたことのない様な攻め込み方をすると、どう対処をして良いのか判断出来ないのだ。精々が生来のその反射速度で回避動作を取ることぐらいで、直前まで平然とやっていたはずの「払いの動作」とか言ったものがそれを境に唐突に出来なくなるのだから、里曽辺に取って千宗はかなり特殊な部類の訓練生となっていた。
「俺の物真似を軽く弄っただけじゃ本当に実力のある相手には手も足も出ないぞ。応用を利かせて打ってこい!」
「……」
相変わらずの……「如何にして相手を倒すか?」それだけを携えた真摯な目で千宗は里曽辺に向かってきていた。そうやって直ぐに熱の入ってしまう性格自体には善し悪しもあったのだが、里曽辺に取ってはその熱意は良しといったところだろうか。ともすれ、そうなってしまった千宗は一度床に突っ伏さないことには満足に会話も成り立たない程の負けん気があり、それが問題と言えば問題だったが、それはそれで同時に里曽辺の楽しみにもなっていた。直接、そこに技術だとか経験だとか言った具合の進歩を窺い知ることが出来るからだ。解った振りをして、何とかこの場をやり過ごそうとする連中よりはよっぽどやりやすいと言うのが里曽辺の本音である。
千宗が唐突に間合いを詰めて、里曽辺が時折見せる顎下を狙った右腕の一撃を繰り出した。いや、踏み込みの挙動から実際に攻撃を繰り出すまでの動作と言う点では、既に里曽辺のものを上回っているかも知れない。今は経験上の反射的な動作とかそう言ったもので里曽辺が軽々と千宗をリード出来ていたのだが、いずれそれもひっくり返るだろうと、里曽辺はここ数日の千宗の学習能力を目の当たりにして実感していた。
時間を掛ければ掛けるだけ、相手をすればするだけ、千宗は対里曽辺用の……里曽辺と全く同質の動きとか攻め方と言ったものを覚えて行っているのだ。里曽辺は千宗ならばいずれ完璧に自身の挙動をコピーするだろうとも考えている。
トンッと払い手でその右腕の一撃を絡め取って引き、左胸元を掴み上げて、そこから里曽辺は千宗を一本背負いの要領で投げ飛ばす。体重の軽い千宗が宙を舞った距離は、今まで里曽辺が同じ様に投げ飛ばした訓練者の中で恐らく最長のものになっただろう。後少しで壁に激突すると言う辺りで千宗は失速し、ドゴォッと落下音を響き渡らせた。
頭上から落ちた逆さの格好のまま、千宗は自身の思う様にことの運ばない歯痒さからか……不機嫌な表情をしていた。今回は攻め込めていたと言う実感でもあったのだろう。
「今のは何て言う技?」
「柔道で言うところの背負い投げと言うやつだな」
千宗は「柔道」と言う言葉を知らないらしく一度小さく考え込む仕草を見せた後で、それが自身の知識にはないものだとすぐに理解する。当初、プロフェッサーが里曽辺に話した「戦闘行為に対する先入観を植え付けさせない為の無教育」とは余程、徹底されて来たものらしい。
「……柔道って何?」
「基本的には相手の攻撃力に順応して相手を投げ、倒し、抑える。これが柔道だ。当て身などの攻撃・防御の技もあり、それらを習得するのと同時に身体の鍛錬と精神修養を目的とする」
そこに何を考えることがあると言うのか、千宗は思案顔をして押し黙っていた。里曽辺はそんな千宗に向けてタオルを放ると本日の教育の終了を告げる。
「まぁいい、今日は終わりだ。明日もみっちり扱いてやるから、早くあがって疲労を取っておけ」
円柱形の試合部屋(里曽辺はそう呼んでいる)で分かれ食堂へと足を向ける里曽辺は、期せずしてそこで見知った顔を二つ発見することになった。その一つである千宗は声を掛けるまでもなく里曽辺の存在に気付いた様だったのだが、その隣に浦野が座っていることと何か関係があるのだろうか、里曽辺の方へと向き直って声をあげることをしなかった。……目を閉じた例のツーンとした何食わぬ顔で、浦野の話でも聞き流している最中なのかも知れない。だから、敢えて里曽辺は浦野に向けて声を掛ける。
「……珍しい組み合わせだな?」
「そうですか、割と私は千宗と行動を共にしていることが多いと思っていますが?」
それは確かに浦野の言う通りだった。この施設内で千宗の同伴者が里曽辺ではない場合は七割方が浦野である。そして基本的に施設内では千宗一人だけを見掛けることは滅多にない。大概、プロフェッサーに里曽辺・浦野と、後は医療ブロックにいる里曽辺には名前も解らない特定のスタッフの誰か彼かが千宗には同伴しているのだ。
「食堂でこの組み合わせを見るのは初めてだぞ?」
浦野が里曽辺と会話をする為に千宗から目を離すのだが、その間にどうにか手早く食事を済ませてしまおうと千宗は画策していたらしい。浦野が里曽辺に向き直った瞬間、千宗は箸を持ち直して掻っ込む様に御飯・おかずを問わず口にする。
すぐに浦野は里曽辺に対して「失礼」と言った具合のジェスチャーを見せて、米神を押さえながら千宗へと向き直り、こうデカイ声で叱り付けた。
「千宗! 食事をする時の礼儀作法までを完璧に覚えなさいとは言わないが、せめて箸の握り方ぐらいは覚えなさい」
「むぅー……」
カツカツカツ……とある一点を境に、唐突に箸のもたらす音が変われば不正を働いたことがばれることまで、千宗は頭が回らなかったらしい。浦野に箸の握りを修正されて、千宗は不機嫌な表情をして小さく唸っていた。
「ははは、なるほど。合点が行った」
箸の握り方なんてものを練習させられている千宗の様子を里曽辺は豪快に笑い飛ばした。「人事だと思って……」と里曽辺に非難の視線を向ける千宗を黙殺し、里曽辺は浦野に向き直る。
「マンツーマンでの礼儀の指導とは大変だな? まぁ根気よくやってくれ」
千宗と言う存在を「ダメージと言う概念のない化物」へと育て上げた弊害。日常に存在する当たり前のことが出来ない様な成育を千宗が経てきた片鱗を、そんなところに目撃して里曽辺は小さく肩を竦めた。恐らくは精神年齢と言った要因も、見た目に相応しない子供っぽさも、その成育から来ている弊害の一つに過ぎないことなのだろうと里曽辺は理解する。
一体千宗に何を為したのかを問うだけの権限を里曽辺は持っていない。そしてそれを為したのだろうプロフェッサーの属する組織の翼下にある里曽辺がそれを非難することは出来ない。また、もしかすると里曽辺と言う存在そのものが、千宗にそんな教育を為さざるを得なくなった一因であることを里曽辺は自覚しているのだ。
「良かったな。浦野が教師では食事の席で恥を掻く様なことはないぞ。立派な立居振舞が出来る様になる、……言葉遣いなんかを含めてな」
里曽辺は千宗の頭をクシャクシャと撫でながら、冗談めかしてそう言った。千宗がそれを厭う仕草を見せないから、里曽辺はその手を離すタイミングを見失って、言葉を全て話し終えてしまってなお……しばらく千宗の頭を撫でていた。
「むぅー……」
千宗は嫌々ながら真剣な顔をして箸の扱いと格闘していた。里曽辺がそんな千宗の横顔に視線を落としながら思案をする。……恐らくは、自ら望んで化物となったわけではない化物。そもそも自分がそう見られる存在であることを認識出来ているのかどうかにすら疑問符は付いた。
「……必要最低限のことを教える必要はありますからね」
浦野の言葉で里曽辺はハッと我に返った。慌てて千宗の頭から手を離し、里曽辺はそこに滲んでしまった自身の感情を誤魔化す様に食事が配給されるカウンターへと足を向けようとする。それを呼び止めたのは浦野だった。
「ああ、今から私がトレイの返却に行くので、里曽辺三等陸佐は席に着いていてください。返却ついでに里曽辺三等陸佐の分は頂いてきますのでゆっくりしていてください」
千宗が食事中のものをテーブルに避けると、浦野は千宗のトレイに自分のトレイを重ね返却口へと席を立った。その浦野の足取りを追い掛ける様に視線を走らせる千宗は酷く真剣な顔付きをしていて、非常に里曽辺の笑いを誘った。そんな千宗は浦野が柱の陰に隠れると直ぐさま里曽辺へと向き直って口を開いた。
「ねね、そう言えば「Walker」って言うのは一体何なの、里曽辺三等陸佐?」
千宗はまるで水を得た魚の様にいつもの調子を取り戻していた。余程、浦野が相手の場合には遠慮・自粛をしていると言うことなのだろう。確かに浦野は子供っぽさを残した千宗の対応を厭う雰囲気を持っている。
「たいして面白くもない話だぞ」
「聞きたいの」
積極的と言うのか、好奇心旺盛と言うのか。千宗はそう自身の気持ちを直ぐさま断言して見せた。微かに里曽辺がそれを話すことを厭う調子を見せたことなどお構いなしだ。……いや、そんな些細なことになど気付いてはいないかの様だ。
その透明な硝子の様に透き通る瞳に、限度一杯湛えられた千宗の「興味」に里曽辺はあっさり折れた。渋々口を開いて、里曽辺は簡潔にそれの説明を始めた。浦野がここに里曽辺の分の食事を持って帰って来るまでの僅かな時間で口に出来る言葉では、恐らく千宗の理解の範疇に収まる説明には成り得ないと言う考えも、あっさりとそれを口にしてしまうことを後押ししたのかも知れない。
「Walkerとは、……立ち止まらない者のことだ。……いや、立ち止まることの出来ない者のことかも知れない」
真摯な瞳とは裏腹のキョトンとした表情で、千宗は里曽辺の言葉を聞いていた。里曽辺は千宗へと向き直ることなく、ここには存在しない何かに焦点を合わせた一見すると虚ろな目をして口を切っていた。
「立ち止まって自らを振り返ることはない。正当性を妄信し決して立ち止まることのない者だ」
「それは素晴らしいこと?」
唐突な千宗の言葉に里曽辺は思わず苦笑した。余りにも簡単に、結論を下せるはずのないことを他人に答えとして求めるのだから、苦笑をするなと言うのは無理な話だった。里曽辺は一つ深い息を吐くと、千宗に向き直ってこう話す。
「……その判断は俺に委ねて終わるものではないだろう。お前が自身で見つけ出しそして理解するべきことだ」
今の千宗にはそれは「難しいこと」の様で、顔を顰める様にしながらポリポリと頭を掻いて千宗は悩む顔をした。
「いずれお前も、お前自身が置かれ続けてきた状態というものをはっきりと理解する時が来る。例えそれがどんなものであろうと決して目を背けるな。それで解決出来ることなど何もない」
「……?」
千宗の疑問の目。里曽辺自身に嘘のない答えを求める目。そこには澄んだその瞳一杯に湛えられた疑問がある。
里曽辺はそれが自身の正当性に向けられたものの様に錯覚した。大義名分やら根拠やら、そこに事実を曖昧な現実に濾過してくれるフィルターはない。その目は最終的に物事を突き詰めた捏造も隠蔽も潤色もない……、何一つ着飾るもののない里曽辺自身の「己」と言うものに問い掛けているかの様だった。
「お待たせ致しました」
浦野の言葉に里曽辺はハッとなる。眼前に差し出されるトレイを小刻みに震える手で受け取り、里曽辺は食事を始めた。その隣でも浦野による千宗の箸の扱い方のレクチャーが再開されて、問いの答えはあやふやなものに終わった。
とても旨いとは思えぬ食事を口にしながら、里曽辺は複雑な表情でもう一度「己」に目を向けていた。そこに千宗の幼さから来ていたのだろう激しい手厳しさはなかったが、里曽辺は静かにゆっくりと「己」を突き詰め始めた。
食事の席の一件から一夜が明けて、円柱形の試合部屋で歩調のことを千宗に教え聞かせていると、不意に千宗が「変則的な歩調の相手」に対して「浦野さんみたいな歩き方のこと?」と里曽辺に質問を口にした。
恐らく今までそんなことを意識したことはないだろうと考えていた里曽辺はその質問にかなり驚かされた。
「良い所に目を付けた。そうだ、浦野みたいな歩調の相手だ」
パッと見だけでは判断出来ないが、事実……浦野は少し一般人とは異なった歩き方を見せている。普段一般の時でも一貫してその歩き方を見せているので、それは意識してのものではなく既に体得した武術ないし格闘技から来ているのだと考えられたが、千宗がそんな微少な変化を感じ取っていたとは里曽辺に取って本当に驚くべき材料だった。
ピンッと閃いた里曽辺の都合の良い様にことは運んでいて、硝子越しには浦野の顔が見て取れた。それは恐らくこの訓練が終わった後の食事の時間に、浦野が千宗に基本を教えるからなのだろう。つまり、浦野の本日の本職の方は終わっていると言うことを意味するわけだ。
里曽辺は千宗に「そこで待っていろ」と言った具合のジェスチャーを見せて、その場を離れる。扉を開ける音がしても浦野はそれに気付くことなく、円柱形の試合部屋中央に佇む千宗を直視していた。今晩の千宗に対して行う教育方法について、思考を巡らせているのかも知れない思案顔とも見て取れないこともない。
「そんな堅苦しい格好に、その態度と言葉遣いと来れば、ストレスも堪るだろう?」
ハッと我に返る浦野は突然の里曽辺の声にギョッとした様だ。しかしそれも一瞬のこと。すぐに浦野は自分が思考に意識を持って行かれていて、周囲に対しての意識が散漫になっていたのだと理解する。
「どうだ、軽く一試合設けようじゃないか?」
「随分と酷い冗談ですね。里曽辺三等陸佐に私では、万に一つも私に勝ち目などないですよ?」
まるで「身の程は弁えています」と、そう言わないばかりに浦野は素っ気なく里曽辺の提案を拒否する。里曽辺は首を横に振りながら、その提案による試合の相手が自身ではないことを述べた。
「相手は俺じゃない、もう中央に陣取っているだろう?」
里曽辺は親指を立てて背後の円柱形の試合部屋中央を指差し、ニィと言った具合の笑みで浦野に同意を求めた。「なめられたままじゃ、浦野の顔が立たないだろう?」と、恐らく言葉にすればそんな科白がその表情には言い表されている。
しばし意味を理解出来なかったのだろう浦野は里曽辺に対して怪訝な表情を見せていたが、「なるほど」と言った具合の顔をした。里曽辺同様、口許に笑みを灯して同意に賛同をする。
「……はは、面白い趣向ですね。これは千宗の要望を兼ねて……と言うことですか?」
「そう言うことにして置こうか」
里曽辺のその言葉で浦野の顔付きがすっと変わった気がする。浦野と里曽辺が何を話しているのか気になるのだろう、円柱形の試合部屋中央で千宗はそれを興味深げに窺っていた。そんな千宗と里曽辺を交互に見た後で、浦野はその提案をこう了承した。
「たまには身体を動かさないと、感覚が錆び付きますからね。……良いでしょう」
浦野は上着を脱ぐと、そいつをデッキの上へと放り投げた。バサァッと音を立てて翻る上着の着地点を確認することもなく、浦野はネクタイを解きながら出入り口の方へと足を向けていた。そこにあるのは「気は進まないが……」と言った具合の消極的なやる気ではない。散々手を焼かされている千宗を相手に一試合……となれば、浦野のそんなやる気も解らないではなかった。
円柱形の試合部屋へと入っていく浦野を呼び止めて、里曽辺はルールについて問い掛ける。一度で勝敗を決してしまっては千宗に取って恐らくプラスになることは多くない。そうして長く時間を掛けすぎても、そう大きな収穫はないと里曽辺は踏んだ。だから、二度床に倒された時点で負けとするルールを里曽辺は敷いた。
「勝敗をどうやって判断するかだが、床に二度倒されたら負け……と言うので構わないか?」
それは時間的にも千宗の訓練が終盤に差し掛かっている頃であり、千宗の肉体的・精神的な疲労と言う点を考慮しての提案だったが、もう一つ……千宗の負けん気と言うものを考慮した上での判断でもあった。
「それで構いませんよ、ただの余興ですからね」
ただの余興と言うには意気込みの度合いの大きい浦野がそう了承をし、千宗はキョトンとした不思議そうな表情をしていた。「どうして浦野さんが?」とか考えているのかも知れないが、いざ試合をするとなったら千宗に躊躇いなどないだろう。千宗とは良くも悪くもそう言う性格である。
「では、これから千宗と浦野の模擬試合を始める」
目算では先取は浦野があっさりと決めるだろうと里曽辺は踏んでいる。
そうして二度目。千宗がどうしてあっさりと先取をされたかについて自分なりに思慮を重ねながら、如何にして浦野と攻防を繰り広げれば良いのかを悩みに悩む。それでどう言った判断を千宗が下すのかを里曽辺は見ようと言うわけだった。
「高々一週間に渡り、Walkerから訓練を為されたぐらいで簡単に勝てるとは思わない方がいいですよ、千宗?」
「……行きます」
浦野と試合をするのだと理解した千宗はその理由は分からないながら余計なことを考えない様にしたのだろう。ボソリと呟く様に……けれどもはっきりとした明瞭な言葉で身構え、戦う意志をそこに示して見せる。
初めて千宗が里曽辺とこの場所で対峙した時と同様に開始の合図はなく、浦野・千宗の両者共にジリジリと小さな挙動で様子を窺い始めた。
おおよそ千宗が対する相手としては、やりにくいことこの上ない相手のはずだった。
里曽辺とは間合いの距離がどれほど開いているかによってある程度行動の予測を立てることが出来る相手だが、浦野はある一定の距離下であるのならどんな間合いからでも同様の攻撃を繰り出してくる相手だ。特定のリズムと言うものがなく、非常に動きを読みにくい。その分、里曽辺よりも攻撃に威力がなく、パターンが多彩と言う特徴がある。まして浦野の様なパターンを始めて相手にするのだから、千宗が感じる「やりにくさ」は相当なものになるはずだ。
千宗が浦野の攻撃範囲外にいる間は、浦野はジリジリと千宗に対して距離を詰める挙動を見せていたが、実際にはほとんどその距離を詰めてはいない。人の動きを凌駕する千宗の俊敏な挙動に慣れるまで、物怖じをして先攻してもおかしくはないのだが、浦野はそんな様子を見せることもなく自身の戦い方のセオリー通り、迎撃の体制を整えている様だ。つまり瀬踏みはなし。ぶっつけ本番でどこまで千宗の攻撃を凌ぎきれるのか……と言うのが浦野の側の見所の様だ。
この状況下で、浦野に対して千宗がどんな攻撃を仕掛けるのかを里曽辺は楽しみにしていたのだが、その千宗が取って見せたものは迎撃体勢を整える浦野へと安易に距離を詰めることだった。
浦野はそれを予測していたかの様に前に出る。互いが距離を詰めたことでその対処に困ったのは、言うまでもなく千宗の方だった。千宗が繰り出そうと身構えた一撃は確かに浦野にヒットしていたが威力を殺された格好で、ではそこからどうしていいのかが千宗には咄嗟に判断が下せない。一週間と言う付け焼き刃ではそれもしようがないのだろうが、致命的だったのはその状況下で上半身へと撃ち込まれるだろう浦野の一撃に千宗が意識を持って行かれ過ぎたことだ。
もちろん、浦野がそれを印象づける為に大袈裟な挙動を見せたから……と言うこともある。浦野はめり込む様に決まった千宗の脾腹への重い一撃に顔を顰めることもない。そこにある千宗の手首を握り取り、大きく振りかぶる。
瞬間、浦野の足払いが千宗に決まり、パンッと綺麗な音がした。余程の好条件が調わないことにはこうすんなりとは行かないだろうぐらいの綺麗な足払いを浦野が決めてしまうと、先取は浦野が取ったに等しかった。
体勢を立て直そうと歩調を乱す千宗に浦野が僅かにバランスを崩す為の攻撃を加え、軽く捻ってやるだけで千宗は仰向けの状態であっさりと床へと突っ伏したのだ。
何が起こったのか理解していない表情をして、千宗は浦野の所得顔を見ていた。ハッと我に返った様に自身を床に押し付ける浦野の右手を握り取ったが、そこで先取をされたのだと千宗は理解した。
所得顔のまますっと立ち上がる浦野はバッとその乱れた服装を正す。……最初の立ち位置に戻ろうと言うのだろう。浦野は千宗に背を向け里曽辺のいる方向へと足を向けながら、里曽辺に対してこう問い掛ける。
「千宗は実際のところどうなんです、本当に見所はありますか、里曽辺三等陸佐?」
挑発と……そう千宗が受け取ってもおかしくはない言葉だった。本人の眼前で千宗を教える立場にある里曽辺へと見所があるのかどうかを尋ねるのだから。ただ……そこで一番困った顔をしたのは里曽辺に他ならない。
「全てはこれからと言ったところさ」
そう確答を濁して、里曽辺は小さく首を傾げた。
「……」
浦野の背中を鋭い目つきで見据えながら立ち上がった千宗がすっと構えを取ると、二回戦は一回戦目同様に合図もなしに始まった。浦野が千宗へと向き直ると、千宗はトンッと身軽な挙動で距離を詰め、そこには一回戦目とは異なる激しい打ち合いが展開された。
いつもの通路を歩き、里曽辺は食堂に向かう途中のことだった。その通路の途中で壁にもたれ掛かる様に立つ浦野が目に映った。このブロックでは浦野を見掛けることがあまりないこともあって自然と目に付いた格好だったが、里曽辺が声を掛けるよりも早く浦野は里曽辺の姿を目に留め、顔を上げる。
「里曽辺三等陸佐」
「随分と神妙な顔をして一体なんだ?」
神妙な顔だと里曽辺に言われたことで、ようやく自身がそんに表情をしているのだと理解したのだろう。浦野はくっと横を向き、いつもの表情を装ってから話を始めた。
「本来は私が言うべきことではないのですが、私には黙ったままでいることが苦痛でしようがない。だから里曽辺三等陸佐には私の口から話してしまおうと思います」
浦野が珍しくもそんな調子だから否応なく里曽辺は身構える。その内容が身構えるに値するものなのかどうかも、先程の浦野の神妙な表情が示唆してしまっていたかの様だったから、それは尚更だった。そうして浦野がそれまで以上の真剣な顔をして見せるから、てっきり里曽辺はそこに本題が話されるのだと心の準備を整える。
「……私は里曽辺三等陸佐、あなたを心の底から尊敬している」
里曽辺は思わず呆気に取られた。それを前置きの言葉の一つだったと理解するのには、実にかなりの時間を有したほどだ。けれどもそれは確かに、里曽辺の緊張にも似た身構えなんてものを和らげる効力を発揮した言葉だった。
「随分と持ち上げるじゃないか。その話の内容とやらはそんなに悪い知らせなのか?」
「千宗に、あなたが持つWalkerを冠させたい」
間髪入れずに返った言葉は随分と唐突な内容ではあった。けれどもそれも里曽辺の予想の範疇から必ずしも逸脱しているものでもなかったのだ。だから里曽辺も驚きこそすれ、そこに怪訝な顔を見せることはない。
「……いずれその話をされると考えていたよ。俄には信じ難いことだが、俺が組織間の抑止力になっていたと言う話は時折されて来たことだからな。難儀なもんだな。人智を越える化物を必要とする社会というのは……」
里曽辺が語尾を濁したことで、そこには思いも寄らぬ静寂が生まれた。浦野は黙り込んだまま里曽辺の答えを待つのに徹するらしく、その問いの答えが返るまでは雑談を交わすつもりはないらしかった。
「千宗で良いのか?」
恐らくは端から千宗を後継にする為に教育を為してきただろうことを半ば理解しながら里曽辺は浦野に問い掛けた。
「今では私も、あれにしか……あなたの後を冠せる者などいないと考えていますよ」
「俺に教えられることは全て教えよう。……ただあれがどこまでの存在になれるのか、俺には予想が付かない」
それを浦野の問いに対する取り敢えずの答えとして里曽辺は返した。「上手く話がまとまってくれた」と浦野は考えているらしい、ホッと胸を撫で下ろす仕草を垣間見せた。もしかすると、里曽辺が自身の後継など望んではいないことを浦野は理解していたのかも知れない。話が取り敢えずのまとまりを見せ安堵する浦野に対して、里曽辺は唐突に口を開いてこう質問をぶつける。
「……良心の呵責はないのか?」
里曽辺へと向き直る浦野の表情に、いつもとは違う何かしらの変化を見て取ることは出来ない。表情と言うものを意識して消しているのかも知れないし、唐突なその質問も浦野に取ってはあらかた予測していた質問の一つなのかも知れない。
「仮初めにもまだ少女の域を出ない女を人殺しの道具として育て上げようとしているんだ」
「呵責……ですか」
里曽辺の目をしっかりと見据えて、はっきりとその質問の意図を咀嚼する様な仕草を見せる浦野がこのまま返答を口にするのを待っていたとしても、予め用意されたかの様な模範解答を口にするだろうことを予測するのは難しいことではなかった。だから浦野が口を開くよりも早く、里曽辺は言葉を続ける。
「あれに何を施したのかを尋ねるつもりはない……が、それも含めた上での浦野の本心を聞きたいものだな?」
浦野は開きかけた口を再度閉ざして、黙り込んだまま里曽辺を直視する。
「例えそれを聞いたところでどうしようもない、後戻りなど出来ない場所に自分が来てしまっていることを、理解出来ていないわけではないぞ?」
「ならば、それを私に問うてどうします?」
「ただの好奇心さ」
里曽辺はあっけらかんと言って退けた。確かに神妙な顔付きを見せない里曽辺から、口にした以上の真意を読み取ることは出来なかった。表情には表さないながら返答には困っているのだろう浦野は、結局「私の本心など、いずれ簡単に推測出来る様になりますよ」と曖昧に答えを濁して、その問いをやり過ごした。そうして一つそこで言葉を句切ってから、里曽辺に対して全く同じ内容の問い難い質問を、僅かな躊躇いの後に里曽辺へと問い掛け直した。
「……里曽辺三等陸佐はどうなんです? 実際に教育を為す立場として良心の呵責はないんですか?」
自身が困った問いの答えを里曽辺がどう切り返すのか。浦野はそれを見定めようとする鋭い目で里曽辺を捉えていたが、当の里曽辺は恐らくそんな質問が浦野から自身に向くだろうことを予測していたのだろう。
「本人が望まなかったのなら、上層部がなんと言おうと受けるつもりなどなかった。いや例え本人が望んだのだとしても、……その相手が感情や本心と言った類のものをまるで隠そうとしない千宗だったからこそ、俺は教育をしようと思ったのかも知れないな」
その言葉は、千宗の教育依頼に際して里曽辺が自身に自問して導き出した答えと寸分違わぬものだった。
「はは、Walkerになりたいかと問えば、恐らく千宗は千宗自身の意志でWalkerになりたいと答えるでしょうからね」
選択肢のない一本道を歩かされてきた千宗が、そこで選択肢を突き付けられてそれを選択した。例えその背後にプロフェッサーの思惑があって、千宗がそれを望む様に醸成されていたのだとしても、あの場で千宗が見せた望みは真意だったはずだ。少なくとも里曽辺にはそう見えた。だからこそ、里曽辺は千宗の教育依頼を引き受けたのだ。例え千宗の望みが旺盛な好奇心と負けん気から来ているだけの深い意図のないものだったとしても、千宗は確かに力を望んだのだ。そして良いも悪いも千宗が望んだ「力」はこの組織の中で、嘱望される千宗自身の将来の姿に合致する。
「……いずれ、後悔をする時が来るかも知れない。それでも俺や浦野が属するこの組織の中で生きていかなければならないのなら、千宗に取って能力を向上させて行くことは望むべくことになるだろう」
「……まるで後悔をしているかの様な物言いですね、里曽辺三等陸佐?」
その言葉を目の当たりにした浦野は笑みの表情から一転、顔付きを険しいものへと変えていた。だから、里曽辺は自身がどんな表情をしてその言葉を口にしていたのかを理解する。
「そう聞こえたか?」
どうしてか、……里曽辺は溜息を吐き出す様に自嘲気味の笑みを零して浦野に問い掛けた。そんなことは問うまでもないことだと言うにも拘わらずだ。まだ、立ち止まって自らを振り返ってはならぬ存在である以上、里曽辺に後悔なんてものがあってはならない。
「俺は千宗の様に、何かを為され人智を越える化物になるべく生み出されたわけじゃない。Walkerと呼ばれる様な存在になったことには考え至ることもある。それが後悔と呼べるものなのかどうかは俺自身にも解らないがな」
正確な言葉で表現することをせず、里曽辺はそれを「考え至ること」と曖昧に濁し、浦野の問いの答えとした。
「……」
浦野は暫く里曽辺を複雑な表情で直視していたが、里曽辺が「浦野」と唐突に呼び掛けたのをきっかけに、いつもの調子へと立ち返った。
「はい、なんでしょうか?」
里曽辺も浦野同様、表情から自嘲の笑みを掻き消し、いつもの調子を装った。浦野へと向き直った時には既にそれは完璧な装いとなっていた。そこには「立ち止まることのない者」がある。
「二人分、銃が必要だ」
「……銃ですか?」
唐突な要求に浦野は僅かに驚いた表情を見せたが「どうして?」と聞き返す言葉が返らないのだから、その理由は簡単に理解してしまったのだろう。
「一丁は45ACPクラスのものならどんなものでも構わない。もう一丁は、あれに見合うものを探さなければならないからな。……出来得る限りの種類を集めて貰えると助かる。その中から扱うべき一丁を探し出す」
施設内はブロックと呼ばれる独自の基準で分けられているのだが、そのブロック間のほとんどには仕切と言った様なものはない。そう言うのもブロックにはそれぞれに名前が付いていて、医療ブロックや外来者用のロビーブロックなどの分類でブロック間に仕切を設ける必要がないからなのだが、浦野に案内されて始めて足を踏み入れたそのブロックには仕切と言うものが存在していた。
それもそれは簡単に「仕切」と表現して終わる様なものではなかった。堅く閉ざされた分厚い金属製の扉は高さが三メートルはあろうかと言うほどに巨大なもので、横幅にしても戦車一台ぐらいならここを通過出来る幅がある。それを目の当たりにして、里曽辺は驚愕の表情を見せていた。
その横にはコンソールが存在していて、暗合ないし指紋ないしを入力しないとこの金属製の扉は開かない仕組みになっているらしい。浦野が歩み寄ってコンソールへと触れると、コンソールはピピッと音を立てて反応をした。どうやら暗合ないし指紋ないしを入力可能な状態になったらしいが、その近代的な電子制御式の扉に里曽辺の表情は未だ優れない。
浦野が手慣れた操作で暗証番号を入力するのを里曽辺は横目に見ながら、ここまで厳重に管理しなければならないこの扉の向こう側に存在するものに対して顔を顰めていた。もちろん「銃が必要だ」と言ってここに案内されて来たのだから、この扉の向こう側に銃が存在するのは確かだろう。しかし、ここまで厳重な管理を目の当たりにしてこの扉の向こうにあるものがそれだけだと思えないのも事実だった。
「……随分と近代的な設備だな?」
浦野は里曽辺へと一度向き直った後、「指紋認証」と赤い文字の浮かぶコンソールへと再度視線を戻し、小さな液晶画面に親指を押し付けながら、話し始める。
「そうですね。始めてここに着任する人間の大半が最初は左遷されてここに来たと思うようですが、これらの設備を目の当たりにすると大体が驚きますね」
取り分け、里曽辺は眼前にあるこのブロックについて言ったのだったが、浦野はそれをこの施設全体についての言葉と理解したらしい。そんな会話を交わしている間に画面には「認証完了」の文字が浮かび、ガシュッ……ガキンッと施錠の外れる音がした。
「いくつかの有名な施設を除いては、ここまで立派なものをそうお目に掛かることはありませんからね。はは……どこの組織にでも機密と言うものは存在すると言うことです」
鉄製の扉は中央から割れる様にゆっくりと開き始め、見る間にその開閉の速度を上げて行く。油圧式なのだろう金属の摩擦音もなく静かに開いた扉の向こう側にはこちら側と大差のない通路が続いているだけだった。そこに不自然さを感じるとするなら「一体この施設はどれだけの面積を持っているのか?」と疑問に思うほど長い廊下が続いていることだろうか。
ふと里曽辺はこの施設の外に出て、この施設の全貌を把握したことがないことを思い出した。しかしこの施設そのものがどこに位置するのかを知っていて、里曽辺は常々不思議に思っていたことを浦野へ問おうと口を開いた。
「……一つ聞いて置きたいと常々思っていたことがあるんだが、今聞いても構わないか?」
「なんでしょう、里曽辺三等陸佐?」
浦野は未だコンソールを弄りながら何か重要な後処理でもあるのだろう。里曽辺へと向き直ることもなく、口を開く。
「こんな辺境にこれだけの規模の駐在施設があると言うのはもちろん初耳なんだが、あまり他言しない方が良いのか?」
「そうですね。……お解りかとは思いますし、別段それが強制というわけではないですがあまり他言しない方が懸命かと思います」
浦野の口調自体には変化を見て取ることは出来なかった。けれども里曽辺が「了解した」とだけ簡潔に返事をしたのは、そこに「問うまでもないことです」と言った強い雰囲気が漂ったからだ。
「アクセス権限者の変更により一部仕様を変更致します。本当に宜しいですか?」
不意に響いた無機質な声はコンソールから発せられた浦野に適否を問うものだった。浦野は最後にタンッと液晶パネルに触れると里曽辺へと向き直り、この鉄製の扉を始めとした事情の説明を始める。
「ここのロックは里曽辺三等陸佐のデータが中央の管理サーバーに登録されるまで外して置きます。この階層のさらに地下に射撃演習場もありますので、千宗の射撃訓練はそちらで行うのが良いと思います。武器庫にある弾丸の使用に関してですが、おおよその使用弾数量を事後報告で構いませんのでお願いします」
それは里曽辺が思っていたよりも遙かに制限を受けない内容だった。浦野が里曽辺に信用を置いて、かなりの面倒を取っ払ってくれた可能性は否定出来ないながら、千宗の教育に際していちいち浦野にこの鉄製の扉の開閉をして貰わなくて済むというのは、機械音痴気味の里曽辺に取っては願ってもないことだ。
「了解した」
「それでは、こちらです」
浦野の案内で入室した部屋はそう広さのない部屋で、机が部屋の隅に一つあるだけの簡素な部屋だった。机は様々な部品か何かを整理して置く為の窪みだろう、大小入り混じる窪みが複数鏤められた特殊用途に特化したものだった。
里曽辺が机に目を落としている間に浦野はその部屋の壁際へと寄って行き、胸ポケットからキーを取り出す。壁には黒い円柱形の突起の様なものがあり、次の浦野の動作でそれが鍵穴を隠すキャップだと理解した。三つある鍵穴全てのロックを外すと、浦野は鉄製の壁に付けられた取っ手を力一杯に引き、室内にはガアアァァァとレールのスライド音が響いて、数十〜数百はあるだろうか、ハンドガンが並べ揃えられた棚が姿を現した。
「……良くもまぁ、これだけのものを集めたもんだな」
呆気に取られた顔付きもそこそこに、里曽辺は視線を走らせてその並べ揃えられた拳銃群を物色していたが目的のものを見付けたのだろう。その中から一丁のハンドガンを手に取る。
「普通に流通しているものは大体揃えられているでしょうかね。……まぁさすがにショートレイルやブレンテンと言った様な銃はここにはありませんが、千宗に見合うものを探すと言う目的には十分な種類が取り揃えられているはずです」
「確かに、十分どころか満足の行くレベルだ」
里曽辺は手に取ったハンドガンを入念に確認しながら、浦野に顔を向けることなくそう対応をする。遠目にそんな里曽辺の動作を見ていた浦野だったが、唐突に口を開いて里曽辺へと問い掛けた。
「……ガバメント、弾は……やはり45ACPですか?」
「これ以上の口径の銃は肌に合わなくてな。それに余計なカスタムが為されていないシンプルなものが好きなんだ」
里曽辺の対応に浦野は「里曽辺らしい」と思ったのか、小さく含み笑いをすると続ける言葉でこう問い掛ける。
「50AEなら、上手くやれば車を吹き飛ばせますよ?」
別段、大口径のハンドガンに思い入れがあるわけではないのだろうが、浦野独自の世間話と言ったところだろうか。どうやら浦野は手持ち無沙汰らしい。実質、里曽辺の入念なハンドガンチェックの間、浦野がするべきことは何もないのだ。
「そんなものを破壊する目的があるなら、端から別の武器を使うさ」
里曽辺の応対を、浦野は銃が格納してある棚の鍵を指で弄びながら聞いていたが、態度にいつもの堅苦しさを戻すと、たった思い出したかの様に里曽辺に尋ねる。
「ハンドガン以外の銃もありますがご覧になりますか?」
「いや、それは千宗にハンドガンを扱う才能がなかった時に考える」
里曽辺はあらかためぼしい銃のチェックを終えたらしく、すっくと立ち上がると一つ一つ拳銃群の中から千宗向きのハンドガンを抜いていく。
「さて……と、ある程度は見繕ってやらなければならないわけだが……。ザウエルに、グロッグに……」
浦野は不意に考え込む仕草を取って見せると、一体何を思ったか……こう里曽辺に進言をする。
「撃ち放つと言うだけならあまり千宗を過小評価しない方が良いと思いますよ、里曽辺三等陸佐。まぁ……目標に命中するかどうかは別の話ですが……」
意味深げな発言とも取れる浦野の言葉に、思わず里曽辺はハンドガンを選別する動作を中断して浦野に向き直ったほどだった。けれどもそこに浦野がそれ以上何かしらの言葉を里曽辺に向けることはなかった。
浦野は黙ったままではあったのだが、まるで「その進言に深い意味はありません」と口にしているかの様な目をしていた。そうして里曽辺が再度ハンドガンの選別の為に棚へと視線を戻そうとすると、それを浦野が「里曽辺三等陸佐」と呼び止めた。その呼び掛けに里曽辺が顔を上げると、ちょうど浦野がこのハンドガンを並べ揃えた棚の鍵を里曽辺へと放るところだった。里曽辺は半ば訝しげな表情をしてそいつを受け取ったが、すぐに鍵を放った理由が浦野の口から話される。
「千宗にここに来る様に言っておきます。射撃演習場はここを出て直ぐの右手の階段を下ったところにあります。……それでは私にも片付けなければならない仕事がありますので失礼致します」
浦野の言葉通り、千宗は里曽辺がハンドガンを適当に見繕っている内にこの部屋へとやってきた。その千宗を引き連れて射撃演習場へ続くと思しき階段を下ると、それはすぐに眼前に広がった。
センサーが常備されている様で、里曽辺が足を踏み入れた瞬間に蛍光灯が灯る。十数人が同時に射撃演習を出来る広大さもさることながら、それよりも特筆すべき点は的を機械制御で新規のものへと瞬時に取り替えることなどが出来るコンソール付きのシステムだろう。
里曽辺はマガジンに弾の入っていない拳銃群をコンソール脇のテーブルへとばらまくと、千宗に手招きのジェスチャーをする。まずはマガジンへと弾丸を込めるやり方から教えなければならないからだ。
「これから銃を使用するに当たって基本的なことをお前に教えていく」
小さく頷いて見せた千宗に、里曽辺は一通りのやり方を千宗の眼前で実際にやって見せる。マガジンの外し方に、セーフティの解除。マガジンへと弾丸の装填の仕方をやって見せて、セット……そして遊底を引き身構える。まずはそこまでの手順を想定していたのだが里曽辺は片手で的を狙い、そして引き金を引いた。
ドゴオオォォンッッとガバメントは銃声を響かせ、的には弾丸がヒットしたことを示す穴が生まれる。それは一丁ごとに異なる銃の癖について、そのガバメントがどんな癖を持っているのかを把握して置きたかったからなのだが、ことのほかそいつは里曽辺の言うことを聞き、狙撃目標地点から僅かに右に逸れたに過ぎない程度の癖を持っていただけだった。
「……とまあ、実戦して見せるとこんな具合だ。まずはこれが良いと思う銃で狙うところまでやってみろ」
里曽辺はゴトッと45ACPガバメントを机の上に置き、その場を離れた。
「里曽辺三等陸佐はいつもどれを使っているの?」
千宗は銃を手に取る段階で何を思ったか、選ぶその手を止めると里曽辺へと向き直りそう質問をした。目前に置かれた様々な種類の銃の善し悪しについて先入観のない千宗が、里曽辺の使用しているものを最初に扱ってみようと思うのも自然の成り行きだっただろう。
「俺か? 一番右端に置いたさっきの銃だ、ガバメントと言う」
「これ?」
里曽辺は同じガバメントで、45ACPよりも口径が小さく反動のないものを千宗に手渡そうと脇のテーブルにズラリと雑多に並べたハンドガンに視線を落とし、そして千宗の確認に答えることをしなかった。
そうして視線を上げた里曽辺に飛び込んできた光景は、今まさに45ACPガバメントを身構え撃ち放とうとする千宗の姿だった。それも里曽辺がやった様に片手で構えて的を狙う。体格的に見て、千宗がそれを出来るとは思えないポーズで……だった。
「……オイッッ!!」
思わず里曽辺は声をあげる。引き金を引く指に力を込める千宗に制止の言葉を掛けても、もう間に合わないと踏んだ里曽辺は続く言葉の内容を咄嗟に切り換え、こう注意を促す。
「きちんと構えろッ、お前が思っているほど容易く扱える道具ではないぞッ!!」
里曽辺の言葉が言下の内に銃声は響き渡って、ドゴオオォォンッッと言う音と連動して千宗がその反動で仰け反った。
「わわ、わわッッ!!」
里曽辺がやって見せた中では反動があることを理解出来なかったのだろうか。千宗は派手に一歩二歩と反動から後退し、かなり驚いた表情をして、手の中のガバメントに視線を落とす。
「お前のその細い腕で、それもいきなり45口径のガバメントなど撃とうと考えるからだ」
「……ふわー……」
未だ呆気に取られた様な表情をする千宗に、里曽辺はテーブルの上からグロッグを拾い上げる。
「ほら……グロックだ、こいつを使ってみろ」
バレル部を手に持ちグリップを差し出す形でグロックを薦めたが、千宗は一度里曽辺へと視線を向けただけで手にしたガバメントに再度視線を落とすと、グロックに手を伸ばそうとはしなかった。
「弾丸は九ミリパラベラム、バレルも短く反動が小さい。お前でも扱えるだろう」
その言い方が負けん気の強い千宗に火を付けたわけではないのだろうが、千宗はその勧めをやんわりと拒否する。上目遣いの、本来ならねだる様に要求をするその目に鋭く意志の強い懇願を込めて千宗は里曽辺に訴える。
「もう何発か……これで撃ってみたい、撃たせてよ」
千宗は試合や里曽辺との訓練の際に見せる様に「熱」が入ってしまっている様だった。それを説得するのにはかなりの時間を有すると踏んだ里曽辺はその訴えを聞き入れることにする。いずれそいつを振り回すことが厳しいと悟るだろうと、里曽辺は考えたのだ。
「別に構わないが最初の内はもっと脇を締めて肩を痛めない様にしろ」
見るからに初心者である千宗が大口径の銃の威力に惚れ込むのは理解出来るがそれもすぐに諦めるだろうと、里曽辺は高を括っていた。けれどもことのほか、千宗は辛抱強く狙いを定めてガバメントの引き金を引き続けていた。
45ACPガバメントのマガジンを入れ替える。それも五度目の動作になろうかと言う頃、……千宗は黙々と遊底を引き、両手で身構えてそれを撃ち放って行く。ほとんど的には当たっていなかった弾丸がポツリポツリと的に当たり始めて、里曽辺はその目を凝らした。
千宗はほとんど45ACPガバメントを撃った際の反動に身体を仰け反らせる様なこともなくなって来ていて、そればかりか構えた腕が少々ぶれる程度まで反動を殺せる様になってきていた。その細い千宗の腕でそんなことが簡単に、それもこんな短時間に出来るはずがない。里曽辺は先入観からその目を疑って、そして意図せず千宗を呼び止めていた。
「ストップだッ!」
千宗はそれが自分に向けられた言葉だとすぐに判断した。身構えた格好のまま撃つのを止め里曽辺の方へと向き直ったが、当の里曽辺は千宗を制止したは良いが何かしら向けるべき言葉を用意していない。だから、里曽辺は簡素なパイプ椅子から立ち上がると無言のままで歩き始めた。
「里曽辺三等陸佐?」
千宗は「どうしたの?」と言う具合にキョトンとした顔をしていたが、身構えた格好のまま微動だにしない。
「今まで銃を扱った経験はあるのか?」
「ううん、ないよ、始めて」
千宗は里曽辺の質問に即答し、さらに里曽辺の表情を驚きの度合いが甚だしいものに変える。
「45口径を軽く撃ってみてどう思った?」
「凄い衝撃だったよ、なかなか身体をその衝撃に合わせるのが大変だったもん」
千宗は得意顔をしながら、里曽辺には理解が難しい自分の言葉を使って感想を話し始めた。里曽辺はすぐに「問い方を間違った」と一つ溜息を吐いたが、すぐに千宗に向かってこう言葉を続ける。
「……引き金を引いていた方の腕を見せてみろ」
「はい」
千宗はガバメントをテーブルの上へと丁寧に置くと、投げ出す様に里曽辺に対して腕を差し出した。千宗が差し出した腕は、何の変哲もない年相応の腕だった。細くしなやかな腕をそのままに、触感もプニョンプニョンとした柔らかさがあり、そこに衝撃に耐えうる量の筋肉があるとは考えられない。到底ガバメント、それも45口径の反動を押し殺せる様には見えないのだ。
「どうかした?」
千宗は不思議そうな顔をして、自分の腕をマジマジと確認する里曽辺に問い掛ける。
「いや、……もう良い、ガバメントが気に入ったならそれで確実に的を狙える様にすることだ」
「はい、里曽辺三等陸佐」
小気味が良いほどの明瞭な返事をして、千宗は再度その目に鋭さを灯した。
訓練の終了を告げると「またこの後、浦野さんに扱かれるんだよー。あっちの方がきついから浦野さんに里曽辺三等陸佐から何とか免除する様に話をつけて欲しい」とか何とか、千宗はぼやきとも本音とも取れる言葉を残して食堂に向かった様だった。
そんな千宗から遅れること一時間。おおよその使用弾丸量を計算し、千宗の手に握られることもなかったグロッグやザウエルを棚に戻して里曽辺も食堂へと足を向けた。その途中のこと。このブロックの仕切となる金属製の扉に寄り掛かる様にプロフェッサーが立っていて里曽辺は小さく会釈をする。里曽辺には浦野に聞いて置きたいこともあったので、その会釈だけでプロフェッサーの横を通り過ぎようとしたのだが、プロフェッサーからは里曽辺へと呼び止める様に言葉が向いた。
「里曽辺君、あの娘に銃の扱い方を教えて欲しいと頼んだ覚えはないんだがね」
それは咎める様なものではなかったにせよ、「どうしてなのか?」とその理由を尋ねる強い調子がある。「格闘能力面の充実を最優先に……」と条件をつけたことと何か関係でもあるのかと勘繰ったが、余計な詮索をすることをせず里曽辺はその理由をこう明確に口にした。
「仮初めでも「Walker」の名前を引き継ぎ冠するんだ、銃ぐらい自分の腕の様に扱って貰わなければ困る」
プロフェッサーは「なるほど」と合点が行った様に頷くと、しかしその里曽辺の言葉に驚いた風はなかった。どこから千宗が次のWalkerを冠すると言う話が里曽辺へと伝わったのだとしても、そんなことはさして問題視はしていないらしい。
「ふむ……、しかし正直なところあれは銃の扱いにはまるで向いていないと儂は思ったんだがね」
小さく頷く様な仕草を見せたプロフェッサーは不意にそう言葉を続けた。「Walkerを冠する者だから」と言う理由自体には、プロフェッサーに異存を挟むつもりはないらしい。
「里曽辺君が教え込む気になったと言うことは見込みありと考えても良いと言うことなのかね?」
「……それ相応の結果は残してくれましたよ。今日だけで二十センチ円の中には間違いなく集弾出来る様にはなった」
里曽辺に取って「見込みがあるかどうか?」と言う問いは非常に確答することの難しい問いであった。実質、千宗の射撃能力について里曽辺はそこまで高い評価を下せないでいる。
確かに銃の衝撃などへの「慣れ」と言う点に関しては常人を凌駕する適応性を持っていた。けれどもこと集弾能力と言う話になれば、里曽辺はそこにいくつかの疑問符を投げ掛けることが出来た。
「そうか、里曽辺君。二十センチ円に撃ち込めるとは十分な能力を持っていると言うことだよ。嬉しいねぇ」
けれどもそこに返るプロフェッサーの対応と言うものは、里曽辺が想像していたものとは懸け離れた喝采にも似る賞賛の言葉だった。それが千宗の射撃に関してプロフェッサーの期待の低さが露呈された言葉だったのか、それともプロフェッサーが射撃に関する知識を持たない故の言葉なのかが里曽辺には判断ではなかった。
「俺の見解を包み隠さず述べさせてもらえば、正直……体格的に45ACPをあんな具合に扱える見込みはないと思ったんですがね。本人曰く、……反動にさえ慣れてしまえば問題はないと言って来ました」
千宗が千宗自身の感覚を言葉にした「反動に慣れる」と言うものが何か特別な意味を持つ言葉なのかと勘繰って、里曽辺はプロフェッサーにそいつをぶつけてみたのだが、そこに里曽辺の望む答えの様なものが返ることはなかった。
「銃が扱えるなら扱えるに越したことはないのだ。だがその命中率が低く、残弾に常に制限されていてはならない。里曽辺君のその拘りを理解出来ないわけではないが出来得る限り今の千宗には格闘能力面を優先させてもらいたいのだよ」
そしてまたプロフェッサーが口にする要求。前回同様そこに強制を暗示する強い調子はなく、あくまで判断を里曽辺に全て委任した上での「出来ることならば」と言う望みに過ぎないことを示していた。
「平行して銃の扱いに慣れさせていくのには儂としても何も異存はない。様々な戦い方を展開出来、また里曽辺君の様にどんな状況でも対応の利く臨機応変さをあの千宗が手に出来るのなら、それは願ってもないことなのだから」
プロフェッサーがそこに妥結点を模索する気がなく、またそれが強制力を持たない以上、ここでそのやり取りを続けることにさしたる意味はなかった。だから里曽辺は「……解りました、最大限に善処しますよ」とだけ言葉を残し、その場から立ち去ることを選択した。
千宗に対してハンドガンに留まらない自動小銃やライフルと言ったものの扱いを同時に考え始めた里曽辺には、ここでのプロフェッサーの会話よりも浦野と会うことの方が重要性を持っていたからだ。ハンドガンで反動に慣れて見せた千宗は確かに、かなりのばらつきを見せながらではあるが二十センチ円の中には何とか集弾出来る様になったのだ。
同じ様にその円を狭めて、より精巧なライフルを扱わせた場合の慣れはどうなのか。またより反動が強いながら威力の強力な自動小銃の場合での慣れはどうなのか。千宗に関して里曽辺は様々な可能性の模索を始めていたのだ。まだ里曽辺は千宗に関するそう言った特徴を完全に掌握出来ていないと言う思いがあった。