半径で言えば軽く十メートル強はあるのだろうか。それに加えて高さが一律三メートル程度の円柱形の空間。中央が小さく窪んでいて平行ではないので一律とは言えないのだが、その差異も十数センチとはない微々たるものに過ぎない。そんな不思議な空間がここだった。
壁はコンクリートとも金属とも異なる物質の手触りをしていて、色は白色。床の踏み心地と言うものも、コンクリートのものでも金属質のものでもない、白色の物質としか言いようのないものだ。
どうせネチネチと小言を言われるだけだろうと高を括り、ろくに話も聞かずに適当に相槌を打っていたのが仇になった形だった。男はどういう経緯でこんな円形の空間に閉じこめられたのかを全く理解していなかった。
ついさっきまでは会議室の様な中規模の部屋で、少なくとも階級章が自分よりも数個多く付いた偉そうな老人達に囲まれて、意味の良く通らない話を聞かされていただけだったのだ。それがいつの間にか、そこにいた彼ら「階級章の多く付いた老人達」を硝子張り、……それも恐らく強化硝子かナノ硝子で出来たものを一枚挟んだ向こう側の部屋へと置いて、自分だけがここにこうして立たされている格好なのだから、怪訝な目つきをするなと言うのも、不機嫌な表情をするなと言うのも……正直無理な話だろう。
「それでは里曽辺健一(りそべけんいち)君、用意は調ったかね?」
マイクを通し天井に設置されたスピーカー越しに老人達がそう質問をする。
男の名前は里曽辺と言った。外見の輪郭だけを捉えるとその体格は痩躯の長身の様に映ったが、実質そのほとんどが筋肉質であり、無駄な筋肉がない引き締まった肉体をしていた。
「引退間際の俺に一体何をやろせようと言うんだ?」
里曽辺は硝子越しの向こうの部屋に顔を揃えるこの催し物の見物人達を睨み見て口を開いたが、それに対して彼らから何かしらの返答が返ることはなかった。てっきり「話を聞いていなかったのかね?」と言った具合の小言の様な科白を言われると踏んでいたので、何一つ言葉が返らなかったのは里曽辺に取っても意外なことだった。
唐突にバタンッとドアの閉まる音がして、里曽辺は視線をその音のした方へと走らせた。真っ先にその里曽辺の目に飛び込んで来たのは少女が丁寧に自分に対してお辞儀をして見せる瞬間であり、思わず里曽辺はそんな光景に怪訝な顔を見せずにはいられない。ますます以てこの円柱形の空間に自分が押し込められた理由なんてものが分からなくなっていた。
「こんにちわ、里曽辺健一三等陸佐」
どんなに下の年齢を見ても少女と呼ぶ年齢ではない。だからと言って女と言い表すには不適切に見える。……年齢的なことを言うのなら女と言い表す方が適切なのだろうが、里曽辺が「女」とすぐに判断しなかったのは恐らく咄嗟に感じた印象による所為だった。見た目よりも一回りは幼い様な印象を里曽辺は受けたのだ。
「里曽辺君、君にはこれから千宗と一試合を持って貰い、千宗の全体的な身体能力について評価をして貰いたい」
耳を疑う言葉が老人達からは話された。
「……あなた方は俺を馬鹿にしているのか?」
それが寸分違わず、老人達から発せられた言葉だと理解すると里曽辺は呆れた表情を取って硝子の向こうに顔を揃える面々にそう言葉を向ける。老人達へと向き直って言葉でのやり取りを見せる里曽辺のその後方で、千宗は柔らかく伸びのある素材のズボンなのだろう、屈伸を始めながらそのやり取りを興味なさげな無表情で眺めていた。
千宗は一見するとどこかの民族衣装の様なゆったりとした風変わりな服装をしていたが、よくよく見ると至る箇所にセンサーの類が付けられていて、里曽辺にその身体能力を評価させようと言うのはどうやら彼らの真意の様である。それを肯定する様に硝子の向こうで顔を揃える面々の、その中で最も偉そうな態度の老人がこう弁明をした。
「馬鹿にしているとは……そんなことはない。里曽辺君と戦い得る能力を持っていると考えているからこそ私達は君にこの娘との戦闘を展開して貰い、評価を下して貰おうと考えているのだ」
硝子越しに顔を揃える面々と千宗と呼ばれた「少女」を交互に確認するが、そこに何かしらの共通点を見付けることは出来ない。ただ千宗に感じる違和感の様なものは、正直……里曽辺に取ってあまり気持ちの良いものではない。だから里曽辺は一体自分がこの千宗のどこに見た目以上の幼さを感じているのかを自問し、そして改めて千宗と呼ばれた「女」を上から下までじっくりと眺め見た。
小綺麗に整った顔立ち、右前髪だけが胸元まで伸びる特徴的な髪型。ヒョロリと長い身長。目つきは「捉えようがない」と形容するのが最も的確だろうか。鋭くもなく、また穏やかでもない。恰もその目で見た眼前にあるものを先入観なく捉えている様な……そんな澄んだ瞳で、その癖その目は感情だとか思惑だとか、そう言った類のものを隠さず曝け出す危うさを持っている。
「宜しくお願いしますね、里曽辺健一三等陸佐」
千宗はニコリと微笑むと、ペコリと大きくお辞儀をして見せた。そこに里曽辺は千宗と言う「女」の、……その見た目に対して自身が幼さを感じているわけではないことを理解した。単純明快に述べてしまうのなら発言が幼稚で、物腰に子供っぽさを残している。言い方などいくらでもあるが見た目通りの年齢らしさを、……雰囲気と言うか、……態度と言うか、そう言ったものから感じ取ることが出来ないのだった。
それは恐らく千宗と言うこの女が子供の振りをしているからではなく、中身が子供相当の年齢だからだと里曽辺は判断していた。それが「精神年齢」と呼べるものなのかどうか、まだその判断は付かなかったがそう感じてしまえば恐ろしいほどに澄んだこの千宗の瞳にもある程度の納得は出来た。
パシュンッと不意に音がして、里曽辺はハッと我に返る。
「……それは木刀とほぼ同程度の打撃ダメージを相手に与える事の出来る打撃具だ」
天井部に設置されたスピーカーからはいつの間にか試合に関する説明が話されていて、里曽辺は千宗からその打撃具へと視点を移した。眼前には床に出現した小さな穴から黒い漆塗りの木刀の様なものが、ちょうどその姿を現すところだった。ウイイィィィンと鳴るモーターの駆動音が鳴り止み、それの全容が明らかになる。見た目には反りのない西洋刀の様にも見え、長さで言えばそれは里曽辺の足先から腰付近まである相当なものだった。
「手に取ってみたまえ」
促されるままにそれを手に取ってみると金属の様な無機質の冷たさが感じられ、また木刀よりもやや重量がある様に思えた。軽く二度三度とそいつを振ってみるとビュンッと風切り音がなり、木刀と同程度の打撃ダメージとは少々信用出来ない話だった。
里曽辺が打撃具を手に取ったことを確認すると千宗は「パンッ」と勢いよくそいつを握り取る。試合開始の合図もないと言うのに里曽辺に対して身構える千宗に里曽辺は僅かな困惑を滲ませて、老人達の対応を横目に捉えた。そこにあるは静観。里曽辺へと向き直った千宗の瞳には既に真剣さが灯り、そんな顔をして千宗が眼前に立ちはだかっている以上、里曽辺も身構えないわけにはいかなった。
「行きます、里曽辺三等陸佐」
里曽辺が身構えた瞬間に千宗が口を切る。やはり老人達からの試合開始の合図は存在しなかった。強いて言うのなら、その千宗の言葉を合図として唐突にそれは始まったのだ。
千宗は機敏な挙動を見せながら、けれどもそれは牽制と様子見の意味合いが強い様で、攻め込む意図を持った踏み込みがないものだった。安易には距離を詰めて来ない千宗に対して里曽辺は即座の踏み込みを見せる。それは千宗が打撃具を握る右腕の関節へと狙いを定めてのものだった。
間合い的なことを言えば千宗は簡単にそれを迎撃するなり、後退するなり、あらゆる方法を用いて対処することが十二分に可能な間合いであった。けれども千宗は里曽辺にあっさりと胸元への接近を許した。既にその場所は里曽辺が繰り出す攻撃を回避出来る距離にはない。従って里曽辺の攻撃は確実に、それも最もダメージの大きい箇所を的確に捉えたものになっていた。
千宗がどんな反応を見せるのかを瀬踏みする意味合いの強い攻撃ではあったのだが、それはものの見事に千宗へヒットしていた。ドゴオォォッと肋の下から突き上げる様に決まった里曽辺の掌での一撃は、常人ならば呼吸器系に一時的な障害を起こしただろう一撃だ。
それを千宗は常人ならば無謀……と言える、その衝撃を前面に体重を掛けて凌ぎきるやり方で相殺すると、打撃具を大きく振り翳し、反撃をしようと挙動を見せる。
あまりにも簡単に、それも致命的ダメージを与えられる位置を千宗が里曽辺に許したことで里曽辺は当初繰り出す予定だった一撃を間接への一撃から胸元への一撃へと切り替えたのだが、千宗は苦しむ素振りを何一つ見せてはいなかった。
里曽辺の表情は自然と怪訝なものへと変化する。そうして里曽辺は打撃具を握る千宗の間接目掛けて再度一撃を繰り出すのだが、それもものの見事に綺麗に決まってしまった。
間接を狙った掌による一撃もドゴォッと鈍い音を響かせ、千宗の間接を曲がってはならぬ方向へとへし曲げた。その衝撃から半歩遅れたモーションで千宗の腕が、それも全く威力の伴わぬ一撃を強引に撃ち放つ。ヒュンッと音が鳴って、打撃具は簡単に千宗の手を離れ、白色の床を転がって行った。間接へと決まった一撃で千宗の握力はその一瞬の内に、ほぼ皆無になったのだからそれも当然。カーンッ……カンッカンッと打撃具が床を滑る音がして、里曽辺はそれが簡単に拾える位置には留まらなかったことを理解する。
打撃具に気を取られながらも体勢を立て直そうとする千宗は「あ……」と言った具合の驚いた表情をしただけで、間接に食らった一撃の痛みに顔を顰める様子は見せずにいる。
だからこそ、里曽辺の身体は反射的に動いたのかも知れない。
その顔面に里曽辺が繰り出す裏拳からの一撃がヒットする。これほどまでに「直撃」と言う言葉の似合うヒットの仕方はないだろう。痣の一つ二つは残りそうなほどに色白の肌には里曽辺の拳が食い込んで、千宗はグルンッと半回転をして床へと突っ伏す。遅れてドガァァァッ、ズザアアァァァッッと摩擦の音が響き、しかしながら次の瞬間にはトンッと千宗が身軽に体勢を立て直して状況は一気に緊迫の度合いを増した。
里曽辺の困惑はより度合いの強いものに、千宗の反応は次第次第に的を捉えたものに、……なりつつある。
「むぅー……、早い」と少し不機嫌な、それでいて真剣な表情をして感想を漏らす千宗の顔には、里曽辺の渾身の一撃が決まったにも関わらず痣の一つも残ってはいない。里曽辺はこの千宗が普通の相手ではないのかも知れないと言う推測を、強い確信へと変えざるを得なかった。
間接に加えた一撃にしてもそうであるのだが、千歳のか細い腕など簡単にバキンッと持って行ったっておかしくはない。……にも関わらずダメージを受けた風がないことは十二分に理解しなければならない。「どうして?」とは問わない。千宗と言う相手がそう言う相手なのだと理解するだけ……。
そうして同時に、里曽辺はあらかたこの試合に隠された意図と言うものを理解した。このまま数時間、いや十数時間に渡ってこの試合が続く様なら、その里曽辺の推測が外れたことを意味するが、恐らくこの試合は近いうちに終わりを告げると里曽辺は考える。そしてグルンッと一度首を回して構えを解くと、里曽辺はゆっくりと千宗との間合いを開いた。結局、一度もそれで撃ち込むことをしなかった打撃具を千宗へと向け放り投げ、里曽辺は体の各所の感覚を確かめる。
「時間はやる、そいつを拾え」
恐らく格闘戦などはやったことがないのだろう。打撃具を失った千宗は里曽辺との間合いを開くと、里曽辺の格好を真似ただけのなってないポーズで身構えて見せていた。間合いの取り方にしても然り、力を込めるべき箇所に全く力の込められていないど素人並みの体勢も然り。そこいらの街を闊歩しているゴロツキ相手にも簡単に連撃を許しそうな千宗の状態は否応なくこの試合の意図なんてものをさらに里曽辺に確信させる。
「どうした!? さっさと打撃具を拾え」
「んー……、あッ、はい」
里曽辺の言葉にハッとした表情をして「そうでした」と言わんばかりに返事を返す千宗に、里曽辺は思わず苦笑いをこぼす。トントントンッと軽快な動作で、千宗は里曽辺が放り投げた打撃具の落ちた場所まで行くと、一度……里曽辺の様子を窺った後で打撃具を拾い上げ、ギュッとそいつを強く握り締めて見せる。「どうしてわざわざ打撃具を拾わせてくれるのだろう?」と、そんなことを考えているのかも知れない。
……打撃具を拾い上げて、千宗はそれをじっくりと注視しながら暫し熟考。里曽辺はその様子を眼前に置いて一つ溜息を吐くと、千宗に向けてこう問い掛けた。
「お前はそれで俺に攻撃を仕掛けるつもりだっただろう?」
「……はい」
注視していた打撃具から顔を上げた千宗は酷く真剣な顔をして、小さく頷いて見せる。そんな千宗の態度に里曽辺は苦笑を漏らしながら、安易に答えを教えることはない。
「じゃあどうして、お前はしっかり握っていたはずのその打撃具を床に落とすはめになったと思うんだ?」
「ここに里曽辺三等陸佐が攻撃を加えたら、しっかり握ってたはずの力が抜けて……」
千宗は里曽辺に打たれた場所を指さし、そこを一度注視した後、里曽辺に向き直ってその答えを仰いだ。現在置かれる状況が試合中であり、また里曽辺が試合に置ける敵であると言う認識など、真剣に考え込んでいる千宗の頭の中にはない様だ。そんな顔をして考察を述べる千宗の、その言下の途中で里曽辺が口を開いて問い掛ける。
「だったら、どうしたら良い?」
千宗は一度二度と首を捻って「……うーん」と唸り考え込んだ後、「……力が抜けない様にすれば良いと思う」と答えた。まるで里曽辺がどうしてその部位を狙って一撃を加えたのか、それを把握出来ていない様だ。いや、……把握出来ていない、……原理を理解出来ていないからこそ、そんな答えを口にするのだろう。
里曽辺はニヤリと笑みを零した後で、千宗に向けてこう挑発にも似た言葉を紡ぐ。
「それじゃあ、お前が俺に勝つのは難しいな」
千宗は「どうして?」と言った具合の理解に苦しんでいる顔をして、それでも里曽辺の攻撃の意志を感じ取り身構える。里曽辺の速度を警戒しての防御の姿勢なのだろう。千宗は打撃具を下段に構える格好で一歩二歩と後退して見せると、牽制の意図があるのだろうか、打撃具を振り翳した無防備にも似る状態で静止した。
里曽辺は「ふぅー」と一つ息を吐き出し、防御に徹する姿勢の千宗に対して「掛かってこい」と顎をしゃくるジェスチャーを見せながら条件を一つ付けてこう言った。
「今度は俺から攻め込まないでやる、俺の体勢を崩してみろ」
里曽辺の言葉に千宗は再度「どうしてそんなことをするのだろう?」と、心底不思議そうな表情を見せたが、それもすぐに掻き消え、小さく……それでいて明瞭な返事をして見せた。深く自身が置かれる現状を熟考することは、今は意味をなさないのだと悟ったかの様だった。
「……はい」
トンッと軽く踏み出す程度の一歩に見えたが、常人を軽く凌駕する俊敏な挙動で千宗は里曽辺の間合いに飛び込んだ。大きく振り上げた打撃具で里曽辺を捉えようという腹積もりだったのが、たかだか千宗の速度が里曽辺の予測を遙かに上回る程度だったぐらいで、簡単に一撃を貰う里曽辺ではない。
攻めた時にやって見せた様に、間接目掛けて……それも攻めた時のものより威力の低い一撃で、千宗の打撃具はポーンと放物線を描いて空を舞う。続けざまにドゴッと千宗の脾腹にエルボーを加えて、蹌踉めく様に後退する千宗の顎下目掛けて撃ち放つハイキックがヒットする。ズガッと鈍い音が響く一撃、……それでも里曽辺から見れば、かなりの手加減をした一撃ではある。
それをまともに食らって千宗はそのまま床に突っ伏すかに見えた。トン……トントンとバランスを取る様にステップを踏んで、千宗は何とか体勢を立て直して見せた。それは里曽辺に取って感心出来る材料であり、また同時にさらなる攻撃を加える分岐点でもあった。どちらが良かったとは言わない……が、それが里曽辺に連撃を決意させる一因を担ったのは言うまでもないだろう。
「右腹を狙うぞッ!」
間合いを一気に詰めて、里曽辺のストレートが風を切る。千宗のガードは間に合わない、いや反応出来ていないのだ。だからそこにズドッと肉を打つ鈍い音が響く。それは100%の威力でヒットしていた。千宗は意図せず蹌踉めき、とてもではないがそこから反撃に転じるだけの状況にはない。
「顎下を狙うぞッ、回避して見せろッ!」
ビュンッと風切り音を鳴らして繰り出すは回し蹴り。どこからその一撃が来るのかさえ予測を出来なかった千宗はハイキック同様それをまともに食らい、重力に逆らいながら綺麗に宙を舞った。空中で体勢を立て直そうとはしたのだが、さすがにそれも間に合わず、千宗は顔面から床へと突っ伏す。
トンッと手を突き瞬時に起きあがりはしたのだが、その表情は優れない。どうして簡単に床に倒されるのか?
それを試行錯誤しながら理解しようとしている様が見て取れるのだが、それが自身の勝ち目を削ることに繋がっているとは気付けないでいた。余計な思考に集中力を持って行かれて千宗が里曽辺の連撃を回避出来るわけはなかった。数分と立たぬ内に千宗はまた床に突っ伏すことになる。
続けざまの里曽辺のストレートを内からの払い手で薙ぎ払ったまでは良かったのだ。……が、戦闘経験の浅い、それも近接的格闘戦に至っては恐らく経験さえないのだろう千宗は人の領域を逸した反射神経だけで防御と回避に徹していた。反射だけに当てていた集中力を余計な思考に持って行かれる様になるとすぐに身体が追いつかなくなる。だから、すぐにボロが出る形になっていたのだ。
ストレートを払った腕を絡め取られて、里曽辺も腕一本を本気で持って行くつもりで攻撃に転じていた。それは加えた攻撃のほとんどが千宗のダメージになった風がないから半端な攻撃を無意味だと踏んだことと、硝子の向こう側の連中に自分の衰えがないことを示す意味合いが強く含まれていた。
ドゴンッ……と間接とは逆向きの、くの字に折れた千宗の右腕は、しかしそこから骨が折れた音が鳴ることがない。だから、里曽辺は続けざまの連撃を否応なく選択せざるを得ないのだ。
指先まで大きく開いた右掌で千宗の肋を捉えようと右腕が撓る。千宗の細い胴体を鷲掴みにする様に里曽辺の腕が伸びるのだ。里曽辺は「千宗の右腕が動かない」と高を括ることはなく、あくまでどの方向から反撃が来ようとも対応出来る体勢を整えていた。
千宗が普通の人間とは違うことを、見た目通りの相手ではないことを、里曽辺は大前提として千宗に対していたのだ。そこに油断がないのだから、千宗の付け入る隙など存在しなかった。
状勢は里曽辺の一方的有利に見えてはいたが、実質それが見た目通りであるかと言えばそうではなかった。今も里曽辺の渾身の後ろ回し蹴りで千宗は二メートル近くの距離を吹き飛ばされて床に突っ伏したのだが、けれども平然と立ち上がって見せると、戦意を喪失した風もなくすぐに里曽辺に向き直って見せる。
本日それが何度目になるのかさえも、もう解らないほど繰り返された光景だ。
「はッ……、随分と達の悪い相手だな」
「……」
里曽辺はいくら打撃を撃ち込んでも平然と立ち上がる千宗に対し「勝つことが出来ない」と感じていた。それと同様に対する千宗の側も、このまま戦闘を続けてもただの一撃も攻撃を加えることの出来ない里曽辺を相手に「勝つことは難しい」と考えていた。
しかし「出来ない」と「難しい」では話が違う。このまま戦闘を続行すれば、最終的には……それがいつになのかまではまだ予想出来ないが里曽辺が負けるのだろう。体力が尽きるのか、それとも千宗が里曽辺の攻撃を見切れる様になるのか、それさえもまだ予想すら出来ないが、この状況に明瞭な変化がないのなら里曽辺が千宗に勝つことは出来ないのだと安易に予測出来るのだ。
里曽辺が構える。千宗の瞳に灯る戦意が揺らぐことはない。純粋に敵を敵と見なす千宗のその目が何よりも厄介だった。次第次第に双方どちらも簡単に攻め込まない状況が生まれていた。
「……もういいかな、里曽辺三等陸佐?」
状況を静観していた面々がそれを里曽辺と千宗の拮抗状態と見て、スピーカー越しに試合の終了の適否を問い掛け、終焉は急速に訪れた。
「……いいだろう、評価をするには十分見させて貰った」
大きく吐き出す安堵の息を隠そうともせず、里曽辺は吐き出していた。硝子越しの面々を見やる目つきにも「なんて代物と試合を持たせてくれるんだ?」と言った非難の色合いを混ぜながら、それでも里曽辺自身その試合を楽しんだ様で表情には気分の良さが滲み出ていた。
構えを解いて口を開いたそんな里曽辺の言葉に「えッ!?」と言う具合の驚愕の表情を見せ向き直ったのは、……他でもない千宗である。まだ決着が付いていないと言いたいのだろう。そうしてその視線を硝子の向こうの面々へと切り換え、こう訴える。
「……待ってよ、もう少しだけ……もう少しだけ続けさせて!!」
千宗の言うその「もう少し」で、里曽辺との決着が付けられないことが実際に里曽辺と対峙する千宗に解らないわけがない。それを熟知しているのだろう硝子窓を挟んで向こう側に居合わせる面々の代表は、口を開いてこう話す。
「いや、これで終了だ」
千宗に向けてピシャリッと言い放った人物こそ、当初その場にはいなかった白衣の老人「プロフェッサー」だった。階級章を付けた面々が一歩引いた格好で状況を静観する中、続ける言葉でプロフェッサーは千宗に向けてこう諭す。
「はは……、残念だが今のお前では例え後一日程の時間が与えられたとしても里曽辺三等陸佐に勝つことは出来ない。千宗、お前の眼前にある男はそう言う相手なのだ」
負けん気が強いのだろう。しばらくの間、千宗は俯いてグッと唇を噛む不機嫌な表情をしていたのだが「出来ないこと」と自身に言い聞かせたのだろう。里曽辺へと向き直り「ありがとうございました」とだけ口にした。そうしてスッとその場に背を向け、一人足早にこの部屋を出て行こうとするのだが、プロフェッサーの何気ない一言に千宗はその足を止める。
「一朝一夕ではWalkerに勝つことは出来ない。……そう言うことだ、皆さん」
それはプロフェッサーがその場に顔を揃えた面々に向けた言葉で、さらに言うなら里曽辺に対して直接向けることなく、且つそれを意識をする様に仕向けた賛辞でもあった。
「……Walker?」
足を止めた千宗がキョトンとした顔をして呟き、里曽辺へと向き直る。そうして、千宗の目の色は里曽辺に対する興味一色で染まったのだが、それを里曽辺が気付くことはなかった。
その円柱形の部屋を出ると既に階級章を付けた老人達は居なくなっていて、プロフェッサーだけがそこには残っていた。この試合をする様に仕向けた人物が、眼前にいる「白衣の老人」なのだと里曽辺は直ぐに理解する。階級章を付けただけの老人達とは明らかに一線を画す気配をこのプロフェッサーは持っていて、またそれを里曽辺に感じさせたのだから、そう直感するのも仕方がないと言えるのだろう。
「千宗と一戦交えてみた感想はどうだね、里曽辺三等陸佐? ……いやWalkerと呼んだ方が良いかな?」
里曽辺はそれら二つの問いに答えずに、鋭い目つきでプロフェッサーを捉えた。里曽辺の想像が正しいものなら、このプロフェッサーは複数個の階級章を持つ連中の、さらにその上に立つ人物と言うことになるのだ。しかも里曽辺にはプロフェッサーの顔に見覚えもなければこんな人物が存在すると言うことを風の噂にも聞いたことがないのだから、身構えるなと言う方が無理なのだろう。
「……あんたは誰だ?」
里曽辺の科白にプロフェッサーは驚いた表情を見せた。
「鳥谷部一雅(とりやべかずまさ)と言う、……そうか君との顔合わせは始めてなのか」
それはすぐにプロフェッサー、「鳥谷部」の自身に向けた苦笑いによって掻き消された。
「どうも年を取ると記憶が曖昧になっていかんなぁー……、いつも噂話に里曽辺三等陸佐の名前が出てくるのでね。どうにもこうして会うのが始めてと言う気がしないのだよ」
その言葉は里曽辺が有名人であると言うことを前面に押し出したものだが、逆を言えばそれだからこそ故に、里曽辺は一介の三等陸佐が知り得ない様な多くの人間を知っているわけである。もちろん表舞台に立つ様なことのない人間までも……である。
その里曽辺が風の噂にも聞くことがなく、しかも複数個の階級章が付く様な人間を思いのまま自由に動かすことが出来る相手を訝しがるなと言うのは無理な相談であるのだ。そんな里曽辺の考えを知ってか知らずか、プロフェッサーは里曽辺を気に掛けた様子も見せずに、マイペースに話し始めた。……どうやら必要以上に、自分に対する説明をするつもりはないらしい……と、里曽辺はそう判断をする。
「ふむ……そうだな、儂のことはプロフェッサーとでも呼んで貰えると助かるな」
返事を言葉にして返さない代わりにコクリと頷く里曽辺に対してプロフェッサーは満足に二度頷くと、すっとその表情を真剣味を帯びるそれへと切り換え、話を元へと戻す。千宗と一試合を設ける前に前提としていった通り、里曽辺の千宗に対する評価を聞くというわけだった。
「それでどうだね? 千宗は見所がありそうかね?」
「はっきり言わせて貰えば化物だろう、戦い方がなっていないが反射神経も身体能力も常人以上」
相手に不快な感情を与えかねない率直な感想を、誉めるでも貶すでもない言葉を、里曽辺はぶつける。ある程度、相手の意図というものが推測出来てしまっていたから、里曽辺は尚更その率直な意見を述べることに躊躇いは持たなかった。戦い方を知らない素人同然の千宗を、戦闘経験豊富な里曽辺と一試合設けさせたのは他でもない。そこから戦い方を学ばせる為に他ならない。それも恐らくダメージと言う概念を取り除く特殊な何かを施した千宗に、戦い方を学ばせようと言う手筈なわけだ。どんな生物であれ、生まれついて戦い方の全てを熟知する生物などいない。教育しなければならないのだ。
「訓練すればいくらでもあんた方が望む戦力にはなるだろうさ?」
「望む戦力に育て上げる為には協力がいるんだ、Walker」
里曽辺の言葉に間髪入れず、プロフェッサーからの言葉が返る。プロフェッサーの真摯な目つきに対して、明らかな困惑の表情を見せたのは言うまでもない、……里曽辺だった。
「……もう俺はWalkerではない、例えその呼び名が敬意を表すものだったとしても止めて頂きたいものだな」
「はは、これはこれは……Walkerとは勲章だよ。それも君の身体に刻み込まれた勲章だ、里曽辺三等陸佐。引退をするからと言って消えてなくなる様なものではない」
プロフェッサーの顔付きには笑みが混じっていた気がしないではない。けれども目元にはその笑みの欠片さえも見て取ることが出来ないのだから、険しい目つきをする里曽辺と視線を交差させれば、そこには張り詰めた雰囲気が漂うのだった。スッとそこから先に引いたのはプロフェッサーだった。ただそこに臆した調子がない以上、望まぬ名称で呼ばれることがどれほど気分を害するものなのかをプロフェッサーも身を以て知っていると言うことなのだろう。
「……とは言え、里曽辺三等陸佐が良い印象を抱いていないと言うのなら仕方がない。そう呼ぶことがない様に極力留意しよう」
「……三等陸佐と言う肩書きを付ける必要もない、実質俺はそんな立場にはない」
里曽辺の目つきが真剣であることをプロフェッサーは汲み取らなければならなかった。「Walker」との呼び方同様に里曽辺がそう肩書きを付けて呼ばれることを嫌がっていることをプロフェッサーは否応なく理解する。
「ではそうだな、……里曽辺君と呼ばせて貰おうか。……構わないかね?」
「あぁ、それで問題はない、プロフェッサー」
その里曽辺の言葉に今回はその目元にもきちんと笑みを灯して見せて、プロフェッサーは半ば強引に里曽辺の手を取って握手を求めた。「名前」であるか、それとも「通り名」であるか、そんな違いこそあれ特定の名称で呼ばれることを両者共に嫌う点に親しみを感じたのかも知れない。
「……里曽辺君には千宗を教育して貰いたいんだ」
唐突に、恐らくこの話の核心がプロフェッサーの口から話されて、里曽辺はその真意を窺う様にプロフェッサーのその目を見返した。白髪の老人と言うには鋭い目つきがそこにあり、また簡単には退かないだろう意志の強さも見て取れる。
「見ての通り、千宗には戦闘行為に対する癖や先入観を植え付けさせない為に、何一つそれに対する教育を為して来なかった。その結果は見ての通り里曽辺君には手も足も出ない。これがただの常人だったなら、里曽辺君の一撃目でノックダウンだっただろう」
言いたいことはすぐに理解出来た。現時点での千宗の能力は判断能力を含めたあらゆる点で生まれついての状態にあると言うことだ。それでいながら既に、反射神経を含めた身体能力については常人を軽く逸するレベルにある。これから教育によっていかようにでも伸ばしようがあり、その限界は未知数。
「教育を施すのが目的だと言うのなら、より優れた人間はいくらでもいる。俺の様に実戦経験が豊富と言うだけで相手を教育する能力が高いと判断されても、その……なんだ、迷惑な話だ」
「失礼しまーす」
突然、背後……扉越し、そこから千宗の声が響き渡った。てっきりカチャッと扉が開いて声の主「千宗」が姿を見せるかと思えば、ゴンッゴンッとその後にノックの音が響く通例の順序とは逆の行程がそこには展開される。そうしてたっぷりと一つの間を置きガチャリッと扉が開いた。
「まだ入室しても良いと許可が下っていないでしょうッ、良いですか、大体順序が……ッッ」
……キイィィィと扉が開き、浦野のそんなお怒りの言葉が響く中、プロフェッサーそして里曽辺の視線は自然にそちらへと向いていた。千宗は目を閉じた状態のツーンとした何食わぬ顔をしていて、そんな千宗に浦野が訓戒をしている光景がそこには展開されていた。そうしてその訓戒の途中、何気なくこちらを向いた浦野と里曽辺の目が合う。
「……失礼致します」
そこで一瞬押し黙った浦野だったが咄嗟に表情を取り繕い、装った平静でそう言うのがやっとだった様だ。浦野の表情には直ぐに「失敗した」「居心地が悪い」と言った具合の感情が浮かび上がってきて、目を覆う様なポーズを取って俯き……カリカリと来ているのだろう。そこに渋面を滲ませる。
「千宗、里曽辺健一三等陸佐だ、改めて挨拶しなさい」
浦野のそんな苦悩の状態などなんのその。まるで何事もなかったかの様にプロフェッサーが口を開くと、そこに一瞬存在していた凍り付いたかの様な時間もすぐに始動した。プロフェッサーの言葉を受けて、千宗はビシッと姿勢を整えるとペコリとお辞儀をして見せる。
「先程はご指導のほど、どうもありがとうございました。……と、言えば良いんだよね?」
千宗はお辞儀をした格好のまま、浦野の顔を見上げながらそう言って、……そうして浦野の怒りを買うのだった。里曽辺に対する千宗の印象を良くしようと浦野が吹き込んだのだろうが、……浦野の思い通りにはことは運ばなかった。
「私が考えていた段取りをものの見事に、それも繕いようがないほどに叩き潰してくれて、……覚悟は出来ているんでしょうね?」
「うぅー……、浦野さん本気で怒ってるの?」
その問いにニコリとだけ微笑んで答えを返さない浦野は、さも「当然です」と言っているかの様だった。ビクッと千宗が怯えた仕草を取って見せた辺り、この浦野が千宗の教育係なのだと里曽辺は理解した。
「浦野……、里曽辺君が居合わせる席なんだ。今回はそこら辺で勘弁してやってはどうだね?」
「しかしッ……、……そうですね」
浦野は苦渋の選択をしましたと、言わないばかりの顔をして引き下がる。その様子を食い入る様に見ていた千宗がグッと後ろ手に握り拳を作って喜びを表現していた。さすがのプロフェッサーもそんな千宗を多少呆れた顔付きで眺めていたが、「千宗、里曽辺君に挨拶を続けなさい」と挨拶の再開を打診すると、千宗は直ぐさま素直に返事をする。
「あー……っと、はい。わたしの名前は国見千宗と言います。えー……伏稚(ふくち)山系駐在施設所属、自衛隊第にじゅー……」
その千宗の言下の内にプロフェッサーは口を切っていた。そう言うのも千宗の名前の後に続くはずだったのだろう言葉がすらすらと出て来ない雰囲気を持っていたからだ。千宗に関して言えば解らないことは解らないと、すぐにその表情に出るのだから見ている側としては非常に解りやすかった。
「千宗はどう考えているんだね?」
キョトンとした不思議そうな表情をして、千宗はそう質問を投げ掛けたプロフェッサーに問い返す。
「考えているーって、何を?」
プロフェッサーの側(特に背後でこの一連のやり取りを静観している浦野)にしてみれば、こうして里曽辺に顔合わせをしたことで、それぐらいのことは察してくれるだろうとでも考えていたらしい。右手で頭を抑えて俯き溜息を吐き出したのは、他でもない……その浦野だった。
「里曽辺君に戦い方を教えて貰うことについてだ」
「……!!」
プロフェッサーのその言葉が話された瞬間、千宗はパッと目を見開いて……余程驚いたのだろう。上擦った調子ながら即座にこう反応をする。
「教えて欲しい、……です!」
そこに迷いはなかった。濁りのない透き通った硝子の様な目で振り返り、千宗は里曽辺を直視する。
「……里曽辺君、どうだね?」
一つの間を置き、プロフェッサーも里曽辺へと向き直る。千宗からは未だ里曽辺に対する懇願に似た真っ直ぐな眼差しが向けられていて、里曽辺は本格的に返答に困った形だ。出来ることなら、その役目を担いたくはないと考えている里曽辺がここに来て、悩みの表情を浮かべる。
「我々は正式に君に依頼をしたいんだ。もちろん、教育と言っても学問や礼儀を君に教えて欲しい……と言うわけではない。里曽辺君には千宗の戦闘面だけを見て貰えれば構わない」
プロフェッサーの言葉に強制的なものはない。口調や態度にしても同様で、居丈高なわけでもなければ謙っているわけでもなかった。だからこそなお、里曽辺はこう切り返した。
「……依頼なんて形を取らずに正直に言えばいい、俺に選択肢などないんだと」
そうでなければ階級章を付けた老人達をわざわざ引っ張り出して来た理由などないのである。選択肢を里曽辺に持たせても構わないのならば、始めからプロフェッサーが依頼という形を取り、里曽辺に尋ねるだけで全てことは片付いたのだ。ここに来て里曽辺の鋭い目つきがプロフェッサーを捉えた。
「その為にここに俺を呼び、試合を設けさせたんだろう? ……端から俺に選択肢などない様に見えますがね」
予想だにせずプロフェッサーはその里曽辺の態度に笑い声を漏らした。さも楽しそうに、……それが作りものの様には見えず、里曽辺は表情には表さないながら心の中に広がった当惑を隠せなかった。
「はははははは、招聘とは名ばかりかね。そうか……上層部の人間にはそう言われたのか?」
その言葉にある「招聘」をされた覚えもない。ただただ呼び出されて、意味も解らず千宗との試合をさせられて、そして今……ここにこうしているに過ぎないのだ。
「そんなことを気に掛ける必要などない。当然これを断っても里曽辺君に不利なことなど何一つない。……里曽辺君は招聘されるべき大切な客人であり、例え今回の依頼が君に承諾されなくとも、今後とも君の世話になることがないとは言えないのだから、それは当然だろう?」
里曽辺は押し黙る。そうやって返答がないことをプロフェッサーはどう捉えたのか。……言葉だけが後に続く。
「任務と言う意識を持つ必要もない。……この千宗が相手なんだ、少々手こずるかも知れないが根気よくこの娘を実戦レベルで使える様に仕上げて貰いたいだけなのだよ。どうだね、依頼を受けては貰えないかね?」
浦野・プロフェッサー、そして千宗の期待の瞳に直視されて、里曽辺は俯く様に僅かに首を下げる。プロフェッサーのその言葉通り、選択の余地がないわけではないらしい。もちろん、里曽辺よりもそう言った戦闘面の教育に長けた人間は存在するのだから、それも当然だと言えば当然なのだ。ではどうして「里曽辺」と言う白羽の矢を彼らが立てたのか、里曽辺は答えのない熟慮をしていた。
「……了解した」
十数秒程度の思考時間を挟んで、里曽辺が半ば無意識の内に口に出した答えは了承の言葉だった。直ぐさまそれに反応をしたのは他でもない千宗だ。身体全体で喜びを表現することに何の躊躇いも見せず飛び跳ねて喜んでいるところを、浦野に「止めなさい」と行った具合の諫めの言葉を貰っていた。
「浦野、里曽辺君が滞在する部屋についてと、ここでの里曽辺君の権限についての説明をしておく。あー……、里曽辺君と千宗は廊下に出て浦野への説明が終わるまで待機していて欲しい」
プロフェッサーのそんな言葉を合図に部屋を出て、後ろ手に扉を止める。……バタン、ガチャッと鳴る開閉音が廊下に響くか響かないかの瞬間だった。
「よろしくね、里曽辺三等陸佐」
部屋から出た途端、千宗はご機嫌な調子で里曽辺へと向き直り、深々とお辞儀をして見せた。余程、簡単に自分をやり込めて見せた里曽辺にものを教わることが嬉しいのだろう。しかしながらそれに対する里曽辺の表情はどうして了解の言葉を紡ぎ出したのかが自分自身腑に落ちないと言った具合の、自身に対して自問を向けた格好の渋い顔だ。そんな表情のまま、千宗に切り出した言葉はこんな内容のものだった。
「三等陸佐と肩書きを付ける必要はない」
「……むー、里曽辺君? 里曽辺さん?」
千宗は心底悩んだ様な顔付きをして「三等陸佐」に代える名称を探している様だったが、それに代わるものは浮かばなかったらしい。すっと里曽辺に真剣な表情をして向き直るとこう訴えた。
「でもでも、プロフェッサーはきちんと位の上の人には「三等陸佐」とか、そー言うのを付けて呼びなさいって言ったんだよ? 浦野さんにも規律を正す為にそー言うことはきちんとしなさい……みたいなことを言われているから、やっぱり三等陸佐って呼ぶの」
その千宗の言葉に呆気に取られると同時、やはり里曽辺は見た目の年齢にはない千宗の幼さを実感していた。濁りのない透き通った硝子の様な瞳。それは簡単にその中に存在する感情さえ覗き込めてしまえる。純粋で物事に対して一途なのだと言えば聞こえが良いが、言い方を変えれば他の要素を考慮に入れることが出来ない盲目さを持つに等しい。
けれども……だからこそ、里曽辺はこの依頼を承諾したのだと気付いた。あまりにも千宗の感情が純粋だからこそ、背後に漂うプロフェッサーらの意図がどんなものであったにせよ、それを払い除けられなかったのだと理解した。
「……規律か、そうだな、お前が教えを受けると言う立場である以上、それは重要なこと……か」
「ここだけの話ー、凄く怖いんだよー浦野さん」
千宗は里曽辺の横にチョコンと並ぶと、しみじみとした口調で頷きながらそう話した。余程、手厳しくやられている様で、そこには実感と言うものが籠もっている。……と、カチャリと扉が開いて浦野が姿を見せると千宗はすっと口を閉ざし、あっと言う間に大人しくなった。
「先程はお見苦しいところをお見せしました。私は浦野雅史(まさふみ)、気さくに浦野と呼んで頂ければ光栄です」
千宗のお辞儀はここから来ているのだ直感出来るほどの綺麗な礼をして見せて、浦野は里曽辺に握手の為の右手を差し出した。そこにはこれが初対面とは思えない程の、かなりの鈍感な人間でも感じ取れるだろう程の親しみが込められていて、里曽辺はすぐにその手を握り返すことを躊躇ったのだが、そこに握手を交わさない理由がない。差し出された手を握り返すのに弱冠の間が空いたのだったが、浦野はニコリと笑みを灯した表情のまま怪訝な顔を垣間見せる様なこともなかった。
「……こちらもさっきのやり取りで話していた通り、「三等陸佐」と肩書きをつける必要はない、浦野雅史殿?」
里曽辺に取っても、そんな真意の計り知れない浦野はどこか調子の狂う相手であった。実質、里曽辺に取って浦野の様な規律重視型の人間は付き合う上でも少々苦手とする部類に他ならないのだ。
「はは、そう言うわけには行きません、里曽辺三等陸佐。取り分け私は規律を重視する部類の人間です、……それにこれは性分と言うものでもありまして」
浦野は自身を自らそう言い表すと里曽辺と握手をするその手にくっと力を込めて、こう同意を求める。
「千宗に対する礼儀や規律などの見本にもならなくてはならないのが私です、……それは無理な相談でしょう?」
里曽辺に対してはそんな柔らかい物腰で笑顔を向けて、そうして千宗に対しては……先程の怒りがまだ完全には収まらないのか、ギロリと一つ睨みをくれて、浦野はゆっくりと歩き出す。そんな浦野の一瞥を千宗は素知らぬ顔で黙殺するとその直ぐ後に付いて歩き出し、結果として案内される里曽辺は最後尾に付くこととなった。
「では、里曽辺三等陸佐に滞在して頂く部屋まで案内致します」と良いながら、すぐに浦野は立ち止まる。恐らく足音が異なるところに不自然さを感じ、それが里曽辺のものではないと判断したのだろう。里曽辺の側へと振り返る浦野は、「どうしたの?」と言う具合にキョトンと見返す千宗を眼下に置いて、呆れ果てた様な表情を見せた。
「千宗は部屋に戻っていなさい。今日の用件はもうないはずです」
浦野の言葉に対して千宗は明らかな不服の表情を見せ、そのまま浦野をじっと注視すると言ったささやかな抵抗を行ったのだが、顔を突き合わせるその浦野の表情に、目に見える怒りの色が見え隠れする様になった頃、ササッと意志を翻しその場から立ち去って行った。それでも去り際にはきちんと「それでは明日からよろしくね、里曽辺三等陸佐」と言葉を一つ残していく辺りが、「ああこんな性格なんだな」と里曽辺の印象に強く残ったのだった。
浦野は呆れた顔をして「ふぅ」と一つ深い溜息を吐き出すと、その一連のやり取りを静観していた里曽辺へと向き直る。その浦野の顔はどこか疲労が溜まっている様にも見えた。
「はは……大変そうだな?」
そんな浦野の表情に、思わず里曽辺の口からはそんな労いの気持ちの乗った言葉が漏れる。
「これからはお互い様になるかも知れませんよ、里曽辺三等陸佐?」
「依頼を受けるのを早まったかな……と考えているところさ」
世間話の様な言葉を交わしながら、歩き始めたのはどちらからとも言えなかった。里曽辺の中には全く唐突にそんな浦野に対する親近感みたいなものも湧いてきていた。それも恐らくこれから内容は違えど、同じ教育係なのだと思えばこそ……なのだろう。