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Seen00 バスから飛び降りた男


 小刻みに上下動する震動に襲われて、俺は目を覚ました。
 いや、目を覚ましたという表現は適当ではないだろう。意識レベルはあくまで、どうにか揺れを認識できる程度のものだ。思考速度は鈍重で、それを覚醒と呼ぶのはおこがましい。けれど、そこを境にして、意識レベルがぐぐっと覚醒へ近付いたことだけは確かだった。
 時折激しくドスンッと来る突き上げがあるものの、基本的には小刻みに揺れる上下動が継続していた。恐らく、俺は何かの交通機関に乗車しているのだろう。そして、どこかへの移動の合間に、眠ってしまったのだろう。
 自分が置かれる状況について、思い出そうとする。
 そのまま再び眠ってしまっても良いか。それとも、そろそろ目を覚まさなければならないのかを確認するためだ。しかしながら、そんな思考は思いも寄らない外的要因によって阻害された。
 相変わらずの上下動が続く最中、覚醒へと近付く俺の意識が気温と湿度の異様な高さを認識したのだ。それも、それはあっという間に肌がじっとりと汗ばむほどの、肌にまとわりつくかのような暑さだった。
「……暑い」
 そう声に出して呟いてしまえば、覚醒はあっという間に目を開くか開かないかのレベルにまで到達する。ともあれ「そのまま眠り続ける」という選択をするには、もう既に無理があっただろう。加えて、そこには次々に俺を覚醒へと追いやる追い打ちが掛けられる。
 その暑さからは想像できないような良い香りが鼻を付いたのだ。そして、ざわざわとざわつく喧騒が俺の耳を襲い、極めつけは俺の右肩辺りに感じる何とも言えない生暖かさだ。
 俺は自分がどこで船を漕いでいるのか、見当付かなくなっていた。状況を一つ一つ改めて整理していっても「何かの交通機関に乗車している」という俺の推測が揺らぐばかりだ。鈍重な思考速度に鞭を打って、根落ちに至るまでの経緯を思い出そうとするも、そちらの方も芳しくない。
 意を決してしまえば、後はすぐだった。
 パチッと目を見開けば、全ての感覚がドッと現実感を伴い押し寄せてきたのだ。
 ボリュームを大幅に上げた俺の耳を襲うそのざわつきは、大半が人の喧騒から成るものだ。周囲を漂う真夏の気温も、あっという間に俺の額へ大粒の汗を浮き上がらせる。そして、すぅっと瞳に飛び込んでくる明瞭な視界。
 そこは年代物のバスの中だった。
 それも、満員と言って差し支えないほどの乗客率だ。
 マイクロバスと言うには少々図体が大きいだろうか。けれど、だからといって大型バスというにはサイズが中途半端だと思える。それでも、立ち乗りの乗客を合わせた乗客数はパッと見で35〜40人程度は詰め込まれていただろう。
 剥がれ掛けの座席のシートや錆び掛けた天板、効きの悪い冷房。そして、バスの床にはいかに多くの人間を運送してきたかを物語る靴擦れの汚れが無数に広がっている。
 俺はそんな年代物のバスの最後尾の席に座っていた。それも、ちょうど中央に位置する席だ。足下には見覚えのあるスクールバッグが置かれている。大きさに柄、そして汚れ、その全てがそのスクールバッグに対する見覚えを確かなものにする。間違いない、それは俺のものだ。
 スクールバッグのサイドポケットには携帯電話が入っているはずで、俺はそれを取り出そうと思った。
 しかしながら、スクールバッグに手を伸ばすために屈もうとしたところで、俺は腰から右肩にかけて強い痺れを感じた。どうやら、体の一部に無理が掛かるような体勢で眠っていたらしい。そこで体勢を立て直すべく体を捩ろうとするのだけど、思い通りに体が反応しない。
 そこで始めて、俺は自分の肩に寄り掛かるようにして眠る女の存在に気が付いた。体勢が体勢だということもあって、はっきりと女の特徴を捉えることはできなかったけれど、バスへ乗車する他の乗客から想像するにこいつも同年代だろう。
 ともあれ、全く見覚えのない制服姿の女子が肩により掛かるようにして眠っていることに、俺は思わずぎょっとした。それは少なくとも、俺の通う高校がある学区内で見掛ける制服ではないのだ。
 鼻を付く良い香りを改めて意識したことで俺は内心ドキリとしながら、この状態を良しとすべきかどうかを悩んだ。体を襲うこの強い痺れは、彼女が俺の右肩を枕に見立てて寄り掛かり眠っているということも原因であるはずだ。尤も、痺れの度合いは身体的な危険を感じたりだとか、もう我慢できないだとかと言うレベルのものではない。けれど、だからといっていつまでもこのままというわけにもいかないだろう。
 どうすべきかを決め兼ねながら、俺は改めて周囲の状況に目を向けた。目に付くことはやはりバスの乗車率の高さだった。ぎゅうぎゅう詰めと表現するほどではないものの、座席は全て埋まっていて、立ち乗りの人達によって吊革の方も満遍なく埋まっているような状況だ。
「年季が入っているって言うのもあるけど、冷房の利きが悪いのは許容乗客数をオーバーしているからじゃないのか?」
 俺はしばらくボーッとしながら車中の様子を眺めつつ、そんなことを考えていた。意識していないと「ボーッ」となるのは寝起きの頭だからだろうか。それとも、車内のこの暑さの所為か。ともあれ、車中の様子を観察していて解ったことが一つある。
 それはこの年代物のバスの中が、俺が学区内で見掛けることのない制服を来た連中ばかりだということだ。その制服姿にしても男女ともに統一されていない。恐らく、ここには複数校からなる学生が居るのだろう。
 しかしながら、それならそれで改めて一つの疑問が脳裏を過ぎるのも確かだった。こんな複数校の学生が乗り合いとなるバスに乗車する「心当たり」が全くないのだ。
「俺は、どうしてこのバスに乗っているんだ?」
 ハッと我に返って、俺も自分の格好を見返してみた。すると、俺の出で立ちも、このバスに乗車する連中とそう相違はない格好だった。これから「通学するのか?」とでも思わせられるようなビシッとした着こなしをする連中から見れば、いくらかラフな格好だと言えるだろうけど、制服姿がベースという点では変わらない。下には高校指定のズボンを履き、上はブロックチェック柄のポロシャツという、放課後に遊びへと繰り出す時の標準的な格好だ。
 では、今現在の時刻は放課後に相当するのだろうか?
 改めて、俺はスクールバッグのサイドポケットから携帯電話を取り出そうとする。しかしながら、スクールバッグのサイドポケットには見るからに目的のものが存在する膨らみがない。
「……また机の上に置きっぱなしにしてきたか?」
 携帯電話がスクールバッグに入っていなかったこと自体に対する衝撃は大したことはなかった。けれど、この状況下で携帯電話の恩恵を得られないということに、俺は動揺を隠せなかった。
 携帯電話さえあれば、俺の現在位置からここがどこなのかを検索する機能もある。ここから自宅までの帰宅経路の検索だってできた。もちろん、それはどんな公共交通機関を利用する必要があるかなどを含め、所要時間から必要となる金額までほぼ全ての情報だと言ってしまって過言ではない。最悪、自宅に電話をすることで、ここまで迎えに来て貰うということだってできただろう。
「あーあ、憑いてねぇの」
 そこで思考停止していても事態が好転しないことなど言うまでもない。
 差し当たって、当初の目的であった時刻を確認すべく俺はバスの外の光景に目を向けた。そこで俺は絶句する。
 バスの外に広がる見渡す限りの大田園地帯に、何一つ見覚えがなかったからだ。バスは左右を高い山に囲まれた盆地の中を走っているようで、パッと見た限りではこの近隣地帯は全てが田園地帯のようだった。流れる景色の中に建物という建物を見付けることができず、まさに平原と呼ぶに相応しい景色がそこには広がっている。
「おいおい。……何だよ、この長閑な風景は。一体どこに向かってんだ?」
 乗車するバスを間違えたんだ。そうして、あろうことかその間違いに気付くことなく船を漕ぎ、こんな事態に直面しているんだ。そうとしか考えられなかった。
 ともあれ、いつまでも惚けていても仕方がない。
 間違えたなら間違えたで、さっさとこのバスを降りてしまって本来の目的地を目指すべきだ。
 そんな思考の赴くままに、バスの停車ボタンを押すために立ち上がろうとしたところで俺はピタリと停止する。ズボンのポケットの中にあって然るべき感触がなかったからだ。
 俺は自分の尻ポケットをまさぐる。やはり、そこにはあって然るべき感触を見付けられなかった。
「ちょっと待て、財布がない! 財布がない……って、おい、冗談じゃねぇぞ」
 俺は足下に置かれた通学用のスクールバッグの中を、引っ掻き回すようにして財布を探す。いつも財布を尻ポケットにしまっているので、まさにそれは藁にも縋る行為だと言っていい。
 俺の肩へと寄り掛かるようにして眠る女が寝返りを打とうと小さな声を上げたけれど、今の俺にはそんなことを気に掛けている余裕などなかった。
 足下のスクールバッグを拾い上げ、その中身を確認する。しかしながら、やはり目的のものは見付けられない。
 出てきたものは体育の授業などで使用していた上下セットのジャージ二着や、学生ズボンでは入店できない遊び場へ赴く時のための私服が一式、袋詰めにされた肌着などだ。物理と英語の教科書なんかも入ってはいたけど、この窮地に役立ちそうなものは何もない。
 ついでに言うと、携帯電話もスクールバッグの中には入っていなかった。
「……マジかよ」
 俺は項垂れる。ふと、バスの窓ガラスに自分の横顔が映っていることに気付いて、俺は期せずして今の自分の表情を確認することになった。そこに映る顔色は、これでもかと言うほどに真っ青だった。
 どうするべきかと俯き押し黙っていると、俄に焦燥感が沸き上がってくる。そうしていることで「徐々に追い詰められる」ということを、強く意識させられるのが問題なのだろう。実際には思考をフル回転させて状況の打開を模索しているのだけど、具体策が何も思い浮かばないから「何も進展していない」という意識が先に来るのだろう。
 しかしながら、張り詰めた緊張感は横合いから飛び込んできた場違いな台詞によって一気に和らぐことになる。
「んー……、何? 後五分経ったら起きるから、もう少し寝かせてよ」
 俺は一度キョトンとした後、脱力する。一気に肩の力が抜けた格好だ。尤も、そうやって余計な力が抜けたことで、俺はどうにか冷静さを取り戻すことができたのかも知れない。
 気持ちよく眠っている様子だったから、その女の眠りを妨げることには気が退けた。けれど、俺は俺の肩を枕にして眠るこの女を退かしてしまおうと思った。どうせ、このまま財布を探すなりをし続けていたら、嫌でも起こしてしまうことになるだろうからだ。
「なぁ、悪いんだがそろそろ起きてくれないか」
 右肩を枕に見立てられていて、右腕にも強い痺れがあるため、俺は左手で女の肩を掴んで小刻みに揺する。しかしながら、女は目を覚ます素振りを見せない。仕方がないので、俺は肩を揺する力を徐々に強める。
「なぁ、俺はおいおいこのバスから……」
 肩を揺すり続けながら、そう言葉を掛けようとした矢先のこと。女が俺の方にガクンッと倒れ掛かる。
 俺は慌てて、女を支えるために手を出した。そのまま倒れ込まれたら、下手をするとどこかに頭を打つかも知れないと思ったからだ。ちょうど、痺れを感じる右手で腹部を、肩を揺すっていた左手で頭部を支える感じだ。
 しかしながら、俺は思わず差し出したその左手を引っ込めそうになった。滑るような生暖かい感触が左手を襲ったからだ。その感触を不思議に思う間もなく、俺はそれが何なのかを理解した。左手では女の頬から口許に掛けてをちょうど支える形になったからだ。
「というか、お前! 涎! 涎が垂れてるじゃねぇか! 垂れてるってレベルじゃねぇよ、だだ漏れじゃねぇか!」
 俺が大きな声を出したことと、大きくバランスを崩してしまったからだろう。
「ふぇ?」
 寝惚けた声と共に、ようやく女が目を開いた。
 女の頭が右肩からずれたことによってすぅっと痺れが和らぐも、そこには代わりに俺を襲う生暖かさがある。
 もしかして、この生暖かさの原因も涎か?
 脳裏を過ぎったその疑問の答えを確認すべく、俺は自分の右肩辺りに目を向ける。するとそこには確かに涎によるものと思しき染みが広がっていた。いつからただ漏れだったのかは解らない。けれど、広範囲に広がる染みの様子は短時間で形成されたものだとは思えない。
「あーあー……、ぐっしょり行ってるじゃねぇかよ。お前どれだけ、垂れ流していたんだよ!」
「……」
 むくりと起き上がった女はしばらく無言に無表情という状態のまま、焦点の合っていない目をしていた。そんな状態にあるにも関わらず、パッと身で整った顔立ちだと解る。肩上までのセミロングの髪には、俺の右肩があたっていた部分に掛けて変な寝癖が付いていたけど、美人の部類に括ってしまって良いだろう。
 女は涎で濡れた口許を服の袖口でコシコシと拭き取ると、次第にその表情を不機嫌そうなものへと変えた。ただ、相変わらず黙り込んだままで、何かを話そうとはしない。そこには罵倒や非難が女の口から飛び出しかねない雰囲気が漂っていて、俺の態度も自然と硬化した。
「何だよ、何か反論有るか? これは間違いなくお前の口から漏れ出た涎による染みだぞ」
 俺が向けた言葉からたっぷりと間を置いて、女が顰めっ面で俺の方を向くもその口からは想定外の言葉が漏れる。
「んー……、君、誰?」
 意思の疎通ができない状況に、俺は溜息を吐き出した。
 女の不機嫌そうな表情を前にして身構えた格好だったから、それは完全に肩透かしを食った形でもある。
「もう良いから。取り敢えず、目を覚ましてくれ。話はそれからだ」
 そんなやりとりをしていた最中のことだ。何の前触れもなくバスが急ブレーキに近い制動を掛けて停車する。停車する素振りを事前に全く見せていなかったから、思わずつんのめったくらいだ。
「!」
 予想外の出来事ではあったものの、俺は上手く立ち回れたのだろう。足に力を込めて踏ん張り、その場に留まっただけに留まらず、寝起きの状態で下手をするとそのまま吹っ飛んでいきそうだった女を咄嗟に抑えるということまでやって退けたのだ。
「大丈夫か?」
「……吃驚した」
 女は目をパチクリとさせていて、その衝撃を受けてようやく目を覚ましたような感じだった。
「何だよ、今の急ブレーキは!」
「ちょっと、どさくさに紛れてどこ触ってるんですか!」
「いや、今のは不可抗力……」
 それは他のバスの乗客も同じだったようで、車内のあちらこちらでは軽い混乱が発生していた。
「一体、何だっていうんだ? ……事故ったのか?」
 そんな俺の疑問の答えは、車中の喧騒の中から拾い取ることができた。
「茂みから動物が飛び出してきたみたいだぞ」
「あれは犬、……みたいだね。でも、おっきい。あの子、その辺の人間の子供よりも大きいんじゃない?」
 車内に広がる喧騒から少し遅れて「パァーッ! パァーッ!」とクラクションの音が二回響いた。けれど、バスは一向に出発する気配を見せない。バスの最後尾からでは状況を直接確認することができないため、必然的に俺は車内の喧騒に耳を傾けることになる。
「クラクションを鳴らされても避ける気配はなしか。図太い神経してるな、……あの犬」
「でも、こっちを威嚇してる様子もないよね。というか、首輪をしているからこの近辺にある民家の飼い犬なのかもね」
 ざわつきの中から拾い上げた情報を総括すると、どうやら大型犬が道を塞ぐ形で鎮座しているらしい。
 俺は思うところがあって窓際へと移動することにする。当然、バスは満車であって移動先には先客が居るものの、そこは無理矢理にでも奪い取る心意気だ。
「悪いな、ちょっと席を替わってくれないか?」
「おい、何だよ、お前!」
 怒り混じりの非難の言葉を無視して半ば強引に窓際の席へと割り込むと、俺はバスの窓を全開にする。そうして、身を乗り出すようにしてバスの外部の状況を探った。
 どうやら、現在のバスの停車理由は、ついさっき車内で交わされていた話の通りのようだ。バスの進行方向には大型犬と思しき動物が見える。全容までは解らないがその大型犬は尻尾を左右にゆっくりと振りながら、バスの進行方向に鎮座し運転手を見上げているようだった。少なくとも、遠目に見た限りではバスに道を譲るつもりはないように見える。
 道幅はそう広くないが大型犬を避けて進むこと自体は可能だろう。運転手がそれをしないところを見ると、クラクションなどで大型犬が自発的に道を避けるのを促そうということなのだろう。今回はたまたま轢かずに済んだけれど、こうやって車の進行方向に飛び出すことを続けるようでは、次も無に済むとは言えない。それを危惧したのだろう。
 ともかく、バスはまだしばらくこのままこうして停車したままである雰囲気を漂わせていた。
 俺は視点を車中の状況へと移す。
 運転手の注目も、乗客の注目も、バスの進行方向に飛び出してきた大型犬へと向けられている。端から見ていて、今から何かをやらかすというには、注目を最小限に抑えられる状況だと思えた。
 そんな状況が「今しかない!」と俺の背中を押す。
 バスから飛び降りてしまおう。
 バスの終着駅まで行動せずにいて、にっちもさっちも行かなくなるなんて冗談じゃない。無賃乗車それ自体は「財布を忘れたんです、ごめんなさい」と正直に頭を下げれば、ことなきを得るかも知れない。しかしながら、これだけ多くの奴らの目に触れながら、無賃乗車云々を謝罪する事態に陥るのは御免被る。
 俺は再びバスの最後部座席の中央まで強引に戻ると、スクールバッグを手に取る。
「悪いな、前を失礼するぜ!」
 目指すは反対側の窓際だ。
「ちょっと、君。何するつもりなの……?」
 真っ先に異変を感じ取ったのは、俺の肩に涎の染みを作ってくれた女だった。
「なに、大したことじゃねぇよ。気にしてくれるなよ」
 それだけを言い返すと、俺は反対側のバスの窓際まで強引に進み、窓の作りを確認する。窓はスライド式で、好都合なことに落下防止の仕掛けが用いられていなかった。
「よーし、さすが年代物の旧式バス!」
 俺は立て付けの悪いバスの窓を力尽くで全開にする。すると、そこにはどうにか、人一人が体を縮こませて通ることのできる空間が生まれる。「バキッ」とあまり好ましくないタイプの音が響き渡ったけれど、今はそんなことを気に掛けている余力などない。
 一足先にとスクールバッグを勢いよく窓の外に放り投げてしまえば、後は意を決するだけだった。
 そうして、バスの窓枠に足を掛けた瞬間、車中にどよめきが響き渡る。
 ことを大袈裟にはしたくない。そう思っていたから、内心そこに生まれたどよめきにはヒヤヒヤものだった。けれど、動揺を誰かに悟られるわけにはいかない。
 平静を装う澄まし顔で、俺はバスの窓から草むら目掛けて飛び降りた。その刹那、違和感が俺を襲った。
 バスから地面までの僅かな高低差を、良く解らない感覚が「見た目よりも遙かに膨大な距離がある」と訴えかけてきたのだ。そして、俺の脳はそれをさも本当のように認識するから質が悪い。
 視覚によって得られた情報に、どことも知れない場所から無理矢理に割り込んで来た感覚が「その情報は適切ではない!」と強く主張するのだ。それは確かに、俺の中に存在する機関から発信されているようだったけれど、俺はそれをどこからの情報なのかを特定できなかった。
 一瞬にして、俺はバスから地面までの距離感が掴めなくなる。
 強制的に割り込みしてきた情報を処理しきれず、俺は適切な姿勢を保つことができなかった。結果、難なく着地できて然るべき高低差しかないバスから地面までの距離にもかかわらず、俺はまるで受け身を取るかのような派手な着地をする羽目になった。何せ、ふと気付いたら眼前に地面が迫っていたような形だ。
「おいッ! 誰かバスから飛び降りたぞ!」
 遅れて聞こえてきた誰かの声が、それまでぼやけてしまっていた俺の視界に確かな輪郭を伴わせる。
 そして、次に俺を襲ったものは、バスで目覚めた時と同様の激しい現実感だった。具体的にその現実感を挙げるなら「痛み」だとかや「草むらの匂い」だとかになる。
「いってぇ……、クソッ、しくじった!」
 痛みから来る怒りに任せ、俺は誰に向けるでもない悪態を吐き出す。
 ともあれ、そうやってバスから飛び降りたことがきっかけになったのかも知れない。そこを境に全ては動き始めた。
 バスはエンジンをけたたましく振動させると、ノソリと発車する素振りを見せたのだ。何度となく鳴らされたクラクションに耐えかね、犬がバスに道を譲ったのだろうか。理由はともかくとして、後はそのまま何事もなかったかのようにスピードを上げていってくれれば万々歳だった。
 しかしながら、ことはそう上手く運ばない。
「運転手さん! バスを止めて!」
「発車、待った!」
 いくつか響き渡る制止の言葉に、バスは急制動を掛ける。
 その急制動によって、バスの車内には再びざわつきが響き渡った。
「どこの誰だか知らないが、余計なことをしやがって!」
 内心、そう思わずには居られない。
 しかしながら、ではさっさとその場を後にしてしまおうとするものの、俺を襲う違和感は消えない。
 視覚情報に対して横から割り込みを続ける余計な情報が、俺のバランス感覚を著しく阻害する。俺はどうにか立ち上がるもまっすぐ進むこともままならず、ふらつきながらバスの側面に手を付いていた。
「まずいな、さっさと荷物を拾い上げて逃げなきゃならないのに……」
 深呼吸をして激しい動悸を落ち着かせていると、バスの車内からは好ましくない内容の言葉が響き渡った。
「さっきの奴を連れ戻してくる! 運転手さん、乗降口を開けてくれ!」
「おっと、それなら俺も加勢するぜ。取り押さえるつもりっていうんなら何人かいた方が良いだろ? 俺も手伝うぜ」
「ああ、頼む」
 しかも、こういう場合は大半の人間が「面倒事に関わり合いたくない」と言うスタンスを取るのが定例だけど、追っ手として俺の後を追おうとする奴が少なくとも二人はいるらしい。
「お前、名前は?」
「俺か? 俺は兼本辰真(かねもとたつま)。そっちは?」
「小野寺和彰(おのでらかずあき)だ」
 俺に向けたものでない車中の追っ手二人が名乗るのを聞きながら、俺は苦笑いの表情で気炎を吐いた。
「ハッ、兼本だか小野寺だか知らないけど、簡単に捕まるかよ」
 自慢じゃないが運動には自信があるのだ。さすがに運動部の本職相手だというなら分は悪いだろう。けれど、そうでない限りは十分張り合えるはずだ。尤も、それも俺の体を襲うこの異変が収束しないことには別の話だ。
「悪い、ちょっと通してくれな」
 追っ手として名乗り出た二人が混雑するバスの車内を乗降口に向かって移動する気配がヒシヒシと伝わってくる。
 バスの先頭にある乗降口へ追っ手二人が辿り着くまでには、まだ少し車中の移動に時間が必要だ。
 俺はそれを「感覚から得られた情報」を元に頭で理解した形だった。ただ、ふと、それが「聴覚が拾った音を元に、頭の中で距離を予測したもの」ではないことを同時に認識する。バスの窓は俺の身長よりも若干高い位置にあり、当然バスの外にいる俺が視覚情報を元にその距離なんてものを推し量れるわけがない。
 では、俺は何の感覚を元にその「距離」を推し量り、僅かながら「まだ時間がある」という確信を得たか。
 元を辿っていくと、それはついさっきバスから飛び降りる際に視覚情報へと割り込んできた「どこから来るものか解らない感覚」から発信されたものだった。
 視覚や聴覚といったものよりも、それが信頼できる情報かどうかは解らない。けれど、少なくともそれは聴覚から得られる情報と比較しても、大きく外れていないように思えた。多少の誤差はあるかも知れないけれど、僅かながら「まだ時間がある」という確信は揺らがない。
 尤も、だからといって悠長に構えていられるかと言えばそうではない。体の異変は一向に回復する素振りを見せないばかりか、心なしか変に体が火照ってきているような感覚があるのだ。
 俺の中には強い焦りが生まれる。
 焦りに顔を顰めるそんな俺に対して、思い掛けない方向から言葉が向いた。
「何で? 意味、解んない。何してるの? どうして、飛び降りるなんて発想に至るの?」
 声のした方を確認すると、俺の肩に涎で染みを作った女がバスの窓から身を乗り出すようにして俺を見下ろしていた。
 正直な話、対応するつもりなどさらさらなかった。俺の頭の中にあったものは「さっさとここから離れてしまおう」という意識だけだ。さっさとこの場を離れるべく、俺も体勢を取る。
 しかしながら、そいつは予想だにしない言葉を投げ掛けることによって、俺に反応をさせるのだった。
「えっと、……もしかして、あたしが上着を汚したこととか関係してる? だったら、ごめん、その……」
「関係ねぇよ! 大丈夫だ、こっちの都合だよ」
 無視してしまってその場を離れようと思っていたのは本当だ。けれど、その女があまりにも見当外れなことで顔を曇らせるから、俺は思わず立ち止まって言い返していた形だった。
 やってしまった。
 俺はそう思わずには居られない。
 勢いを付けてバスから離れようとしたのに、そうやって言い返すために立ち止まってしまったことで、俺はもう一度ふらふらとバスの側面まで戻ることになる。
 まだ、俺を襲う違和感は消えない。
 こめかみを押さえる俺に、女は遠慮することもなく言葉を向ける。
「こんな中途半端なところで脱走して、一体どうするつもりなの?」
「戻るんだよ、地元に。こんなところに来るつもりはなかったからな。もし、お前に俺のワイシャツを涎塗れにしたことに対する申し訳ないという気持ちがあって、この事態を収拾する気があるなら、俺を掴まえようとか言ってる連中を止めてくれよ。バスの運転手にも俺のことなんて気にしなくていいから、さっさと目的地に向かうよう言ってくれ」
 そこまで言ってしまってから、運転手に「気にするな」というのは無理があると思った。何せ、やってることは無賃乗車そのものなのだからだ。
 けれど、女の口から俺の頼みを直接的に拒否する言葉は出なかった。そればかりか、そこには「こんなところに来るつもりはなかった」という点に、共感する内容が伴ったぐらいだ。
「そりゃあ、ちょっと気持ちは解るよ。君がどういう場所を想像して淀沢村(よどさわむら)に来たかは知らない。けど、ここは見渡す限り、あまりにも何もないもんね」
 俺は大田園地帯へと目を向けて「見渡す限り何もない」と言った女の主張を改めて噛み締めた。即ち、淀沢村とやらに失望して、この送迎バスから脱走を試みても不思議に思われないだけの状況下に俺は置かれているわけだ。
 尤も、女は「気持ちは解る」と前置きした上で、淀沢村についてこう続ける。
「でも、淀沢村の夏期プロジェクトに参加したこと自体を後悔するのは早いんじゃない? だって、まだ始まっても居ないんだよ? 考えられないような、あっと驚くサプライズが待っているかも知れないじゃない! ここでの体験を面白いものにするのも、面白くないものにするのも、君の心掛け次第じゃないかな!」
「淀沢村の夏期プロジェクトに参加……?」
 聞き覚えのない単語が女の口を付いて出て、俺は首を傾げる。すると、バスの側面に掲示された「淀沢村夏期プロジェクト参加者・送迎バス」の文字が目に付いた。
 俺がここにいるのはバスを乗り間違えたからではないのかも知れない。
 ふと、そんな思考が脳裏を過ぎるけれど、既に後へと退ける状態でないことなど言うまでもない。
 バスの前方に一カ所しか存在しない乗降口が解放されると、そこからは追っ手と思しき男が二人現れる。先ほどの会話から察するに、兼本・小野寺と名乗った連中だろう。
「全く、野郎を追い掛けようなんざ、物好きな連中だよな!」
 俺は顔を顰め、腹を括る。もちろん、俺が選ぶものは「逃げる」の選択肢だ。
 走り出そうと体勢を取ったところで、ふとついさっきまでの視覚や聴覚の情報に対して割り込みをする余計な感覚がなくなっていることに気付いた。体の火照りが若干残っていたけれど、これだけならば逃げ回るのにそう大きく影響しない。
 しかしながら、体調が改善しても事態は好転しない。
 今まさに走り出そうとした矢先のこと、今度は足首に痛みが走ったのだ。
 バスから飛び降り、着地に失敗した時に負傷したのだろう。それ以外に心当たりはない。
 苦笑いしか出て来なかった。
 この足首の痛みがある限り、追っ手を振り切って逃げ切るというのは無理だろう。では、走り続けることで体が温まって改善される痛みかどうかというところが焦点になるわけだけど、経験から言ってこれはその手の類ではない。
 では、どうするか?
 逃げるポーズだけでも取っておくか。それとも、追っ手を前にして大人しく投降するか。バスから飛び降りるという、今となってはただの大袈裟なパフォーマンスに成り下がった行為によって、俺は完全に追い詰められた格好だ。
 苦虫を噛み潰す顔で途方に暮れる俺へ、女が言葉を向ける。
「ここで君を置き去りにしていくという選択はないよ。その代わりと言っては何だけど、あたしでも君のためにしてあげられることがある!」
 俺は女を見上げながら首を傾げて見せて、その態度で「してあげられること」の内容について尋ねる。
「君にサプライズを一つプレゼントしてあげる。君の淀沢村の夏期プロジェクトが素晴らしいものになるように、あたしが協力するよ!」
 高らかに女が宣言する内容は、はっきり言って見当違いも甚だしい内容だ。ただ、俺が何も反論を返さなければ、俺がバスから飛び降りた理由はきっとこのまま勘違いされたままになるだろう。
 淀沢村の夏期プロジェクトとやらに参加したことを「後悔したから」という理由だ。
 尤も、今となってはその勘違いさえ好都合だった。この騒動を起こした理由をそう勘違いして貰えるのならば、落とし所はもう見えている。後はこの女の提案を聞いて説得されたように振る舞えばいいだけだ。
 バスの窓から身を乗り出すようにして俺を見下ろす女に尋ねる。
「お前、名前は?」
「あたし? あたしは宿野美晴(やどのみはる)」
 俺は宿野と名乗った女をまじまじと注視した後、これ見よがしに溜息を吐き出して見せた。そうすることで、渋々ながらその提案に「納得した」という雰囲気を作り出すためだ。
「解った、……お前の言う通りだ。もう少し、淀沢村の夏期プロジェクトって奴に付き合ってみることにするぜ」
 宿野にそう宣言をするのとほぼ同時、俺の前には追っ手の二人が立ち塞がる。
「兼本は右から回り込んでくれ。俺は左から行く」
「はいよ、了解」
 言葉の掛け合いから察するに、僅かに身長の高い方が小野寺で、低い方が兼本だろう。別の見分け方をするなら、このクソ暑い中、ベストを羽織っている方が小野寺で、半袖のワイシャツのみの方が兼本だ。尤も、ズボンのデザインが全く違うので二人が通学する学校が同じということはないだろう。
 俺は緩慢な挙動で万歳をする。抵抗する気がないことを身を持って示すためだ。
「もう逃げ回る気はないよ。大人しく投降する。宿野さんからも言ってやって……」
 そうして、取っ組み合いにならないよう宿野に働き掛けようとした矢先のこと。宿野からは俺に取って想定外の台詞が口走られることになった。
「今だ! 早く掴まえて!」
 俺は思わず耳を疑った。
「はぁ? 宿野さん何言って……、おいおい、ちょっと待てよ!」
 しかしながら、宿野の言葉が完全にトリガーを引いた形になる。賽は投げられたという奴だ。
「よし、目標補足! とっ掴まえるぜ!」
 威勢の良い兼本の言葉が響き渡って、俺は慌てる。しかしながら、そもそも何も抵抗せずに済ませる目論見を考えていた俺に、咄嗟の対応などできるわけもなかった。
「おいッ、投降するって言ってるじゃ……」
 声を張り上げて訴えるものの俺が言い終わるよりも早く、兼本がタックルの要領で俺の脇腹付近に飛び掛かってくる。
「ぐふッ」
 腹部に激しい衝撃が加わって、俺は意図せず呻き声を上げていた。
 いつの間にか小野寺はよろめく俺の背後に回っていて、後はあっという間だった。小野寺に羽交い締めにされる格好で俺は完全に身動きが取れなくなる。
 そして、最後の締め括りは見るからに薄汚れたついさっきの大型犬だった。尻尾を振りながら草むらから勢いよく飛び出してくると、兼本同様に俺の脇腹目掛けて飛び掛かってきたのだ。俺を取り押さえるために立ち回った兼本と小野寺の様子を、じゃれ合っているとでも思ったのだろうか。
「待て、止めろ、馬鹿犬ッ!」
 俺の制止の言葉が炎天下の青空に響き渡るも、三人と一匹、後は砂に塗れながら大地を転がるだけだった。




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