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Seen11 廃線「草央線」踏切の怪と正義の味方


 深夜零時過ぎ、村上・仁村と共に緑陵寮を後にしようとした時のこと。俺達は玄関先で若薙と出会した。
 それは玄関を開けて、まさに足を踏み出そうとした矢先のことだった。眼前には若薙の顔があった形だ。
「おっす。奇遇だな」
 警戒感を丸出しにして身構える俺とは対照的に、若薙はにこやかな挨拶を口にする。
 良くも悪くも、若薙は何も変わっていなかった。そして、その横には永旗と岸壁といういつもの面子がいたけれど、様子がおかしいと言うこともない。
 法則が変わったのではないのか。それはそんな俺の考えが揺らいだ瞬間でもあった。法則を意識して緑陵寮を確認すると、そこには確かに谷交堂神社夏祭りの二日目の夜のような雰囲気が感じられないのも事実だ。
 ともあれ、惚けた顔をして緑陵寮をボーッと眺めているわけにも行かない。俺は若薙に対して何らかの反応を返す必要がある。けれど、若薙を前にした俺は、そこでどんな対応をすればいいかを躊躇ってしまった。想定外の事態に、普通の振りさえできない状態だったと言ってしまっても過言ではなかっただろう。
 どうにか出来の悪い作り笑いを拵えるけれど、致命的だったことはそこに肝心の言葉が伴わないことだった。俺は口を開いた格好のまま固まって、仁村に脇腹を突かれてようやくどうにか若薙へと会釈をした形だ。
「……おっす」
 あまりにも挙動不審過ぎる。誰かに指摘されるまでもない。けれど、法則が変わった後という意識を強く持ってしまったことで、俺はどうしても今までと同じ目線を保てなかったのだ。ついつい「どちらに属するんだろう」と、そんな思考が脳裏を過ぎってしまう。
 普通の状態を装うことのできない俺に変わって、若薙との間に割って入ってくれたのは村上だった。
「若薙も寝付けない夜の……って感じじゃないな」
 村上の視線を追って、改めて若薙が引き連れる面子を確認すると、その中には岸壁達以外にも見た顔がちらほらと窺える。総数十一人にもなるその集団は、名前が解っているだけでも先ほど挙げた二人以外に、米城なんかが挙げられた。ただ、中には俺が一度も顔を見たことのない相手もいることから、そこには他の寮の寮生も混ざっていると思われた。尤も、緑陵寮の寮生を全員把握しているわけではないので、断言はできない。
 若薙は村上の肩にポンッと手を置くと、こんな場所で出会すに至った理由を俺達へと尋ねた。
「こんな時間に散策か? もしかして、同じものが目的ってわけじゃないよな?」
 目的を「同じもの」と探る若薙の態度に、思わず俺は口を切っていた。
「……若薙の目的っていうのは?」
 俺の声が強張っていたのを、若薙は敏感に感じ取っただろうか。若薙は一瞬、俺を見る目に怪訝そうな表情を覗かせたものの、そこに何か言葉を続けることはしなかった。代わりに若薙が見せたものは「その言葉を待って言いました」と言わんばかりの得意気な顔だ。そして、意気揚々と口を切る。
「草央線の……」
 若薙の口から草央線という単語が続き、俺は思わずビクンッと身体を震わせた。
「……なんて顔してんだよ、笠城?」
 不意に、岸壁からそう指摘されて、食い入るようにして若薙の話を聞く自分の姿勢に俺は気付いた格好だった。恐らく、誰の目にも解るほど、俺は酷く真剣な表情をしてその話を聞いていたのだろう。
「いや、その、余りにも若薙が自信満々の顔をして話し出すからさ、よっぽどのことなのかなって思ったんだよ」
 しどろもどろになりながらも、咄嗟の切り返しにしてはこれ以上なく上手い言いわけができたと思った。事実、俺の食い入るようにして話を聞く態度は、若薙に「俺が強い興味を持った」として受け止められた形だ。
 気分を良くした若薙は、勢いに任せて一際大きな声を出した。
「そうか? じゃあ、笠城が期待するその内容について話をするぜ!」
「馬鹿! 大きな声出して、馬原や綾辻に聞かれたらどうすんの!」
 しかしながら、そんな暴走気味のテンションも、すぐさま横合いから冷や水を浴びせかけられることになる。
 永旗の指摘を受けて、若薙は「しまった」というばつの悪い顔をする。もしも綾辻なんかが飛び出してくることになったらなら、面倒なことになるとでも思っているのだろう。一つ大きく咳払いをすると、緑陵寮の様子を横目で窺いながら若薙は玄関先に集合した目的について小声で説明を始めた。
「実は最近、草央線の廃線沿いに取り残された「動かないはずの踏切の遮断機が作動する」っていう現象が多々目撃されててな。そんな話があるのなら、本当かどうか確かめてみようかっていう話になったわけよ」
 それを確認するのに「この人数なのか?」と首を捻る俺に、岸壁が続けた。
「まぁ、要約すると肝試しって奴だな」
 改めて、そこに集まる面子を確認するけれど、いつかの時のようなイベントだと言われれば納得できる人数だった。
「なお、今回の案内役は実際にその現象を目撃した群塚高校天文部員の木元夕(きもとゆう)と、遊木祭寮の稲岸徹(いなぎしとおる)の二人だ、拍手」
 若薙の掛け声と共にパチパチと疎らに拍手が起こった。すると、名前を呼ばれた二人が小さく会釈をしながら一歩前に進み出る。ただ、最初からそういう段取りだったかというと、そういうわけでもないらしい。木元と思しき女は一歩前へと進み出た後、若薙をまじまじと注視し、それからどうすれば良いかを確認した。
「……自己紹介とか、した方が良いの?」
「そうだな、そうして貰った方が良いだろうな」
 その自己紹介は俺や村上に対してのみ行われるいう雰囲気ではなく、今回の肝試しに参加する集団全員へと向けられるものようだ。若薙のことだから、もしかするとこうやって全員が面と向かい合うのは初めてなのかも知れない。それを意識すると、確かにその集団にはまだ打ち解け切れていない雰囲気というものがある。
 木元は「そうすべき」という若薙の見解を受け、一度深呼吸をした後、そこに愛想の良い表情を作り上げた。
「えーと、先ほど紹介に与りました群塚校指定寮の木元です。ちなみに天文部所属してます。もし、この中に、星とか天体観測とかに興味を持っている人が居ればぜひ声を掛けてね。今夜はよろしく」
 自己紹介を終えた木元は、同様に若薙の紹介に与って一歩前へと進み出た稲岸へと視線を向けてバトンタッチの合図をする。しかしながら、一方の稲岸はというと、困惑を隠せない様子だった。そうして、どうにか口を開いて自己紹介を始めるものの、そこに若薙がした稲岸の紹介以上の情報が伴うことはなかった。
「あー……、同じく、遊木祭寮の稲岸だ、よろしく。その、あれだ。特に言うこともないんで、若薙に返す」
 そんな体たらくな自己紹介に対し、岸壁は不満顔を覗かせる。そして、稲岸へと向ける言葉は野次だった。
「おいおい、せっかくのアピールの機会なんだぜ。「恋人募集中です!」とか言って置かなくて良いのかよ?」
「ああ、そっか、そういうのもありだな。……って、この場で誰がそんなこと言うかよ」
 一度納得仕掛ける稲岸だったけれど、そこにはすぐに反発の言葉を続けた。当然、そんな滑稽さは一同の笑いを誘う。何だかんだで、そこには和気藹々とした雰囲気が漂い始めていた気がする。
 それはさておき、若薙の目的を理解した上で、ではどうやってこの場を切り抜けるかということに話は移る。
「さてと、笠城に村上、仁村が追加で参加するとなると、グループ編成は見直しすべきだろうな」
 若薙の言葉は既に俺達が参加することを想定したものになっている。早い内に断っておかないと、今夜はずるずるとこの肝試しに参加することになるだろう。
 では「どう断るか?」が差し当たっての問題だった。「これからどこかへ出掛けます」という状況下で出会っている以上、深夜の訪問先とその理由について若薙は俺達へと問うだろう。もちろん「用事がある」と断ったことで、若薙がそれ以上詮索せずに引き下がってくれれば最良だ。ただ、俺達を肝試しへと引きずり込もうと若薙が考えている以上、そんな簡単にことが運ぶとは思えなかった。
 断るに足る明確な理由は欲しい。
「自動販売機までジュースの買い出しに行くんだ」
「暑くて寝付けないから、気分転換のために深夜の散策へ行くんだ」
「肝試しはちょっと気分が乗らない……」
 パッと思い付くものはどれも、若薙の誘いを断る理由としては重要度に欠ける。そもそも、それをでっち上げようと言うこと自体に無理があるのかも知れないけれど、それを言ってしまうと元も子もないわけだった。
 腕組みをして頭を捻る俺へと、不意に村上から言葉が向いた。
「目的地が踏切の肝試しだそうだ、……どうする?」
 てっきり、村上は俺と同じようにその誘いを「どうやって断るか?」について思考を巡らせていると思っていた。だから、村上のその質問に俺は怪訝な表情だった。
「どうするって……、何がだよ?」
 村上は俺と仁村に手招きすると、小声で一つの予測を説明した。
「倫堂が草央線の淀沢村駅跡から電車を出発させるから、それが通過する時に踏切が作動するとは思わないか?」
 その予測は確かに「あり得ない」とは言い切れない内容だった。
 そうして、俺の脳裏を過ぎることは「今夜、草央線の淀沢村駅跡で本当に倫堂と接触することができるだろうか?」ということだ。既に、今夜の雰囲気は谷交堂神社の夏祭り後に漂ったものとは何もかもが異なっている。それは若薙達がこうやって眼前に居るからという理由だけではないだろう。
 それに、廃線である草央線の駅は淀沢村駅跡だけだろうかという疑問もあった。もちろん、それだけなんてことがあるはずはない。あの電車へと乗客を案内する場所が、淀沢村駅跡でないことだって十分考えられる。
 草央線について少し下調べをしておくべきだったと、俺は今更ながらに後悔した。
「肝試しに参加して、それを確かめようっていうのか?」
「電車の進む先には何かがあると俺は思う。目的地は異なるかも知れないが、この淀沢村の外を目指すという点では一緒だ。その何かがヒントになるかも知れない。ここで意固地になって肝試しに参加しないことで、若薙達に不自然さを感じさせるぐらいなら、電車が進む先にあるものを確かめてみるという手もありだと思う」
 いざとなったら、途中で意図的にはぐれるという手もありだろうか。
 村上の提案を聞き、俺は若薙達をじっと見据える。
 そこには俺達を肝試しに飛び入り参加させるものとして、侃々諤々とグループ編成についての議論を展開する若薙達が居た。尤も、若薙達と言っても、その議論の枠の中にいるのは岸壁と永旗だけだ。他の面子は議論の行方を黙って見守っている。その三人の決定に、黙って従うつもりなのだろう。
「一つのグループの人数が多すぎると、純粋に肝試しを楽しめなくなるじゃない? やっぱり班分けはするべきだね」
 永旗の見解が聞こえて、俺はぐるりと参加者達の顔触れを確認する。俺達が加わることで参加人数は十四人となる。確かに肝試しという観点から見れば、グループ分けをした方がより楽しめる人数だろう。
 若薙、永旗、岸壁の三人があーだこーだと肝試しに対する熱い持論を展開するのを聞きながら状況をまとめると、元々は五人と六人の二つのグループに別れ、それぞれ木元の目撃場所と稲岸の目撃場所の二カ所に行くつもりだったらしい。
「じゃあ、こうしよう。案内役を俺が務める新しいスペシャルな班を作る。そして、肝心の肝試し先は草央線の踏切でも最も淀沢村の外れに位置する踏切とする。どうだ?」
「外れの踏切って言うと、あの場所かぁ。……あそこ、夜はホント不気味だよね。踏切の遮断機云々以前に何か出そうな雰囲気がある」
 若薙が提案した肝試し場所について、永旗は顔を顰めてそんな見解を口にする。それはこういう機会でなかったら「自分では絶対に行きたくない」と言ったに等しい。
「でも、そこは木元や稲岸が実際に現象を目撃した場所じゃないぜ? それでも良いのか?」
 岸壁の見解に、若薙は今回の趣旨があくまで肝試しであることを改めて説明した。
「別に怪奇現象の原因を特定しようだとか解決しようだとか思ってるわけじゃねぇんだよ。今回の目的はあくまで肝試し。どうしても「動かないはずの踏切の遮断機が作動する」って現象が見たければ、また別途機会を設けるさ」
「そっか、……そうだよな」
「次の機会が有れば、その次の機会も俺の参加は間違いないだろう。だから、俺は別に、木元と稲岸が例の現象を目撃した場所へ今夜行く必要はない。それを考えると、本日の参加者を最優先で楽しませるためにグループ分けはこうすべきだと思う」
 納得顔の岸壁に対して追加でその意見の適切さを若薙が説いてしまえば、それで結論が出たようなものだった。そこに反論を加えられる人物など永旗ぐらいだろうし、その永旗にしても岸壁同様その意見には肯定的だった。
 ひょいとその提案を覗き込むと、永旗・稲岸、岸壁・木元で二つのグループを作り、そこに若薙以外の当初からの参加者を振り分けた班構成が最有力候補のようだった。そのまま革新的な対抗案がない限り、若薙率いるスペシャル班は若薙プラス俺達の四人で構成されることになるだろう。
 本音を言わせて貰えれば、今夜は実際に現象が確認された場所へと「足を運びたい」という思いはあった。対抗案の一つには、七人のグループを二つ作るという岸壁の提案もあったので、無理を言えばそうすることもできたかも知れない。
 そうしなかったのは「無理を言う」という行為を取ることによって、腹を探られたくなかったからかも知れない。
 加えて言えば、それはこの肝試しというイベントについて若薙なりの考えがあって導き出した結論である。俺達が当初からの参加者ではなく、あくまで飛び入りであることを考慮するとそれが一番しっくり来るはずだ。
 そういった背景を理解した上で、俺や村上が異論を口にすることはできなかった。
 ともあれ、俺達がそうやって議論の行方を窺っていることに気が付くと、若薙はさも当然という口調で断言した。
「ちなみに、笠城、村上、仁村には他の班へと移る権限はありません。強制的に俺の班に参加です」
 まだ参加するという返事をしていないにも関わらず、班分けに対する意見を聞く耳持たないのは正直どうかと思う。尤も、何か意見を述べたところで口八丁で言いくるめられるだけだろうし、話がややこしくなるだけだろうからそこに反論することない。少なくとも、今は俺達がよしとする方向に話は進んでいるのだ。
 結局、班分けについては若薙の案が採用された。
 ただ、三つの班に分かれてそれぞれ別の目的地を目指すとはいえ、大まかな方向で言えば一つ箇所に集まっているという言い方もできたのだろう。途中までは一緒に行動することになった。
 田園地帯のど真ん中でその進行方向を別にしたのは、緑陵寮を後にして十五分近く歩いた頃だったろうか。まず最初に俺達の班が肝試しに向かう集団から離れた形だった。
「俺達はこの分岐路を右だな。さて、あの不気味な踏切を堪能してくるとするか」
 分岐路に立って不敵に微笑む若薙に、岸壁が念を押した。
「若薙、肝試しをしてきましたって証拠になる写真撮影を忘れるなよ? そっちは何なら、心霊写真を撮ってきたって構わないないからな?」
 若薙は「解っている」と言わないばかりに、胸ポケットからカメラを覗かせた。
 稲岸と木元が先導する班に見送られて、俺達は該当の設置感覚が大通りよりもずっと疎らな薄暗い通りへと足を進めた。そうやって集団から別れ、緑陵寮から一番離れた草央線の踏切へと向かう途中のこと。不意に若薙から尋ねられた。
「あんな時間から、笠城達は元々どこに行くつもりだったんだ?」
 それは緑陵寮の玄関前で鉢合わせになったことに対するものだ。
 若薙は何気なく聞いただけかも知れないけれど、俺の方はボロを出すことがないよう注意する必要がある厄介な質問だった。また村上が間に割って入ってくれないかと期待するけれど、そう上手くもいかない。何より、若薙が質問を向けた相手は俺なのだ。横合いから村上が口を挟むというのも不自然だろう。
 村上と仁村は俺をじっと見据えると、そこに「対応を一任する」といった意志を示した。
 俺はすぅと息を呑む。それは緊張した面持ちを隠すことに重点を置いたためだ。そこに続ける理由や目的地など、辻褄さえあっていればどんなものでも良いと開き直って口を開いてしまえば、それは好ましい結果を手繰り寄せた。
「暑くて眠れなかったから共同リビングに行ったんだ。そしてら、そこでばったり仁村と村上にあってさ。二人とも全然眠れそうにないっていうんで「それじゃあ、涼を取るのも兼ねて川上さんのところの自販機までジュースを買いに行こうか」って話になったんだよ」
 それは取って付けたような尤もらしい嘘である。
 そして、若薙もそれを微塵も疑うことはなかった。
「だったら、今夜はちょうど良かったんじゃねえかよ。肝試しなんて誂えられたようなイベントで涼が取れるんだぜ」
 若薙の指摘を聞いた俺は、ぺらぺらと喋ったデタラメが全て本当だったなら「確かにその通りだろう」と思った。
 そこからは何だかんだと言って雑談に花が咲いた。いつも以上に軽快なテンポで会話に加わる村上と、対照的に相変わらず積極的に話へ参加しようとしない受け身の仁村という構図はいつも通りとは言えなかったけれど、肝試しに赴くという得意な状況がそれを隠してくれたのだろう。
 そうやって草央線の踏切へと向かっていると、唐突に若薙が顔色を変える。「一体何事か?」と、若薙の視線の先を慌てて追ってみるけれど、どうやらそれは俺達を怖がらせるためのものだったらしい。
「そろそろ、目的の踏切だぜ」
 若薙がそう言うが早いか、俺の視界が踏切を捉える。
 俺の視界に飛び込んできた光景は暗闇の中にポツリポツリと外灯が点在していて、その灯りの一つによって照らし出される場所に踏切があるというものだった。既に見晴らしの良い田園地帯から、鬱蒼とした森林が広がりつつある山間部へと差し掛かっているため、そこは強い圧迫感を受ける場所だった。そんな状況に人気の全くない夜の薄暗さが加わるのだから、不気味さが漂わない方が不思議なのだろう。
 野々原の一件があったことで「淀沢村自体がその手の場所に限りなく近いもの」という認識があったからまだ抵抗感は微少だったけれど、それがなかったなら間違いなく俺はこんな場所に近付こうとはしなかっただろう。
「……これは酷いな。不気味というにも程があるよ」
 口を付いて出た言葉にも嫌悪感が混ざったし、何より俺は知らず知らずのうちに後退ってしまっていた。しかしながら、俺は背後に居た若薙によって背中をがしりと掴まえられる。
「そうだろ? でもな、淀沢村にある不気味スポットの中でもここは上位に入る場所だとはいえ、まだまだ上があったりするんだぜ。今度、また肝試しを企画して笠城を連れて行ってやるよ」
 俺の怖がっている様子が若薙には面白可笑しいらしい。「趣味が悪い」と非難することもできたかも知れないけれど、それが肝試しの醍醐味といわれれば確かにその通りという考えも確かにあった。ともあれ、怖がれば怖がるほど「若薙を増長させるだけだ」と察した俺は、無心の境地で反論することもなく若薙のされるがままになる。
 そうやって、されるがままとなる俺の様子を前にして、若薙はさも面白くないという風だった。するりと俺の背中を掴んだ手を離してしまえば、興味は当初の目的であった草央線の踏切へと移ったようだ。
「さてと、目的地に到着したわけだけど、ここでも廃線の踏切は鳴り響くのかね?」
 廃線である草央線の踏切へと到着した時刻は、まさに倫堂が淀沢村駅跡で電車を出発させた時刻に重なるような絶妙のタイミングだった。倫堂がやって見せた、例の「法則を変える」行為が時間に影響を及ぼさないものであり、草央線の淀沢村駅跡から出発した電車が廃線に沿って移動するのなら、もうそろそろこの地点に差し掛かるだろう。
 俺は息を呑む。
「そろそろ良い時間だ、笠城」
 村上に肩を叩かれて、改めて俺は野々原を見送った時刻が近付いたことを再認識する。
 そして、それは起こった。踏切が赤く点灯を始める。続けざまに危険を知らせる甲高い音が鳴り響き、周囲は一層と不気味さを増した気がした。
 踏切がけたたましい警告音を鳴り響かせた瞬間、仁村に至ってはビクンッと体を震わせたぐらいだ。
「ほ、本当に鳴るんだ」
 電車が「どの方向へ進むか」を示す矢印は点灯していない。
「……何だろうな、コンピューターに時間が来ると作動するようなプログラムが組まれてて、今もまだそれが稼働しているのか。それとも、今まで作動していなかったものが何かの切っ掛けで作動するようになったか」
 若薙は小難しい顔をして、踏切の様子を眺めている。端からそれを怪奇現象などとは思っていない様子で、若薙は冷静にその状況を分析していた。
 俺や村上が事情を全く知らないのであれば、その若薙の態度は非常に頼もしく思えたのだろう。
 しかしながら、俺に限って言えば、草央線の踏切が鳴り響いたことで逆に冷静さを取り戻したぐらいだった。村上が的確に状況の整理を始めたことで、それはより鮮明になった。
「草央線の淀沢村駅跡はどっちだ?」
 俺は頭に淀沢村の地図を思い描くと、この踏切と緑陵寮との位置関係を確認する。
「あー……と、山側を後ろにしているから、恐らく左手の方だ」
 村上は淀沢村駅跡の方角へと目を向けた後、この踏切を通過して電車が向かう方角へと向き直る。
 そこには鬱蒼と茂る森林が広がっていた。廃線は山の奥へ奥へ進んでいるようで、そこには黒い闇が横たわっているかのようだった。外灯の光に慣れる今の状態から暗順応が進めば、月明かりを頼りにして廃線に沿って進んでいけるようになるだろうか。尤も、気が進まないのは言うまでもない。
「……あの電車の進む先はこの奥だな」
「だな」
 俺と村上の連携を前にして、若薙は怪訝な表情だった。
「電車? 電車なんてこねぇよ、ここは廃線だぜ?」
 若薙の言葉に、俺は村上と顔を見合わせる。
 言うべきか、言わないべきか。それを村上に確認した格好だ。
 村上は答えに詰まっている様子だった。その表情には当惑が窺える。それを教えても問題ない相手かどうか、咄嗟に判断できないのだろう。
 俺は村上からの返答を待たずして、口を開いていた。
「このレールの先に、淀沢村から続く道があるかも知れないんだ」
 若薙は法則が変わる前の淀沢村に置いて、この先に何があるかを知っているらしい。直ぐさま、俺の言葉に反論した。
「この先には古いトンネルがあるだけだぜ、その先は……」
 けれど、若薙が知るこの先に続くものは、あくまで法則が変わった後のものではないはずだ。
 俺は若薙の言葉が言下の内に、それを遮った。
「違う! ……上手く説明できないけれど、ある一定の条件で切り替わるんだ。今夜はこの先に何かがある。それが俺のここでやるべきことに関係しているんだ。俺の求める直接的な答えに繋がるものじゃないかも知れないけれど、今夜、この先に何かがあるんだ!」
 それはありったけの熱意を込めて若薙に向けた言葉だったけれど、全く想像していない方向からの言葉によって冷や水を浴びせ掛けられた。
「それがここからどこかへと続く出口なの、郁?」
 ざらりと耳に残る嫌な声。そして、それはあろうことか最後に仁村の名前を呼んだ。
 俺も仁村も村上も、咄嗟にその声が誰のものかを判断できなかった。
 ただ、仁村を「郁」と呼ぶ相手を俺は一人しか知らない。
 その声が引き金となって、周囲の雰囲気ががらりと変わる。元々、そこは不気味さを感じる空間だったけれど、新たに不穏な空気が加わった感じだ。バチッと音を立てて、明滅した街灯はそこに漂う負の空気を察知したからだろうか。淀沢村駅跡で倫堂の出現に合わせて起こった明滅よりも、ずっと居心地が悪い。
 俄に、ざわざわとざわつく気配が生まれる。いや、気配だけではない。ざわつきは確かな音に変化し、一定の法則を持った言葉のように変化する。あっと言う間に認識できる数が暗闇の奥に増えていって、俺は思わず息を呑んだ。
 それらがあまり感触の良いものでないことは、直感的に理解できた。
 それは暗くて重い。そして、感情的な部分で歪んでいた。居心地の悪さは恐らくそこから来ているのだろう。
 俺はそれらの気配が発する言葉の意味を正確には理解できなかった。それは聞き覚えのない言語のようだったし、俺達に向けて明瞭に投げ掛けられていたものじゃない。それでも言葉に寄らない感覚的な部分で、それらが妬み嫉みを含んだ罵詈雑言に近似したものであることを理解する。
 そんな負の気配をまとう集団の中に、俺は発見する。嫌な予感は的中してしまった。
「……浅木さん」
 パッと見、浅木の表情はいつもの笑顔のように見える。けれど、そこにいつもの人懐っこさは微塵も感じられない。
「誰にも言わないつもりだったし、全部飲み込んで見送りるつもりだったの。でも駄目だった、……どうしてだろう」
 雑多に混ざり合った言葉がざわざわとざわつく中にあって、その浅木の言葉だけは非常にはっきりと明瞭な輪郭を伴って俺の耳まで届いた。恐らく、この場に顔を揃える他の面々に対してもそうだろう。
 仁村は顔面蒼白だったし、村上は敵を牽制するかのような鋭く怖い顔をする。
「……ふっとね、そう全く唐突にね、ずるいなぁって思ったんだ。そしたら、胸の奥の、奥の、奥の深いところから色んなものが溢れ出してきて止まらなくなったの。抑えられなくなったの。何だろう。「こんなのあたしじゃない!」って何度も思ったけど、止まらなかったの!」
 ゆっくりと切り出された浅木の言葉は途中一気にその勢いを上げ、鬱憤を吐き出すようにそのボルテージを上げる。
 そうして、ぷつりと言葉が途切れた後、浅木は今にも泣き出しそうな顔をする。けれど、同時に酷く冷たい目をしていた。今にも泣き出しそうな顔というには、それには不相応過ぎる目だ。
「あたしはあたしの知らない何か新しいものになんてなりたくない、そんなの嫌だ! 怖いよ、……凄く怖いよ! お願い、あたしも連れて行ってよ、郁」
 黒く抉れて見えたその深淵の底のような目には、渇望が見え隠れする。嫉みや妬みが見え隠れする。葛藤があり、感情の鬩ぎ合いが見え隠れする。だから、誰も声を発することをしなかったし、誰もそこを動けなかった。
「ねぇ、どうして、あたしに気付かせてくれたの?」
 浅木の問い掛けを聞いた仁村は小さく首を横に振った後、俯いたまま押し黙ってしまった。それは眼前の現実から目を逸らしてしまったかのようにも見える。そうではないと思いたかったけれど、仁村はそのままその場に蹲って泣き出しそうに見えるほど弱々しかった。
 問いに対する答えを仁村は口にできないでいたけれど、浅木は一方的に言葉を投げ掛け続けた。
「……でも、気付かせてくれて嬉しかった、凄く嬉しかったよ」
 優しい言葉に人当たりの良いいつもの浅木の顔が一時そこには浮かんだ気がする。
 けれど、今は何よりもそれが恐ろしい。なぜならば、それがあっさりと変貌してしまうからだ。その一面が簡単に別の一面に飲み込まれてしまうからだ。浅木の中に生まれ吹き上がらんとする黒い感情は俺達が思うよりもずっとずっと強いのだろう。それは浅木の「抑えられなかった」という的確な言葉で吐露されている。それも、それは既に妬みというレベルを逸脱し、憎悪の感情に近いものへと変貌しつつある。
 ついさっき、浅木の顔に浮かんで消えた深淵の底のような目はそれを俺にまざまざと実感させた。
 いとも容易く浅木を豹変させてしまうほどのその感情は、果たして浅木だけに沸き起こるものか。
 いいや、それは一部の例外を除き、淀沢村に来るべくして来た存在であるものの全てに当てはまるはずだ。
「でもね、嬉しかったけど、きっと、あたし達に気付かせちゃ駄目だったんだよ。ひっそりと、まるで最初からここに居なかったみたいに居なくならなきゃ駄目だったんだよ。あたし達の誰にも知られず、あたし達の誰の目にも触れることなく、まるで最初からこんな場所には存在しなかったみたいに居なくならなきゃ駄目だったんだよ!」
 悲痛な叫びにも似た浅木の言葉を前にして、村上が顔を歪めた。
 浅木を筆頭とした集団がまとう暗く重苦しい雰囲気を、俄に村上も身にまとい始めた瞬間だった。
 目に見えてその顔色を変える村上に、俺は困惑する。
 おかしくなってはならない何かがおかしくなりかけていた。壊れてはならない何かが決壊し掛けていた。きっと一度それが壊れてしまったら、誰も、彼ら彼女らを止めることはできないだろうと思った。
 俺は息を呑む。
 俺はどうしたらいい?
 村上の名前を呼ぶべきか。俺は村上を信じているか。それは本当か?
 ただ、利己に固執しているだけではないか?
 それは俺があるべき世界に戻るために、村上を犠牲にすることではないか?
 結局、俺は村上の言動と、その一挙手一投足に全神経を集中させて成り行きを見守るしかできなかった。
「浅木、その感情、俺にも解るんだ。でもな、それに押し負けちゃならない。こう思うんだろ? どうして、笠城達だけここから出て行けるんだ? どうして、笠城達だけ救われるんだ? どうして、笠城達だけが「特別なんだ!」ってさ」
 浅木は答えない。けれど、俯いて唇を噛むその力は血が滲むほどに強いもののように見えたし、その瞳は村上を睨み見るかのように鋭く険しい。
 村上の言葉が浅木にどのように作用しているのかは見た目に判断できない。けれど、俺が直感的に感じていたものは、頭を指す嫌な感覚だった。
「全部解ってるはずだろ? 笠城も仁村も俺達とは違う。だから、ここから解放されるべきだって」
 浅木はわなわなと震えて見せた後、深淵の底のような黒く抉れて見える目で村上を睨み付ける。そこには村上に対する激しい敵意があった。
「あたしは村上君みたいに強くない! ……違う、村上君だって本当は嫉ましい癖に! 平気な顔して強がっているだけの癖に! 解っている振りをしているだけの癖に!」
 激しい口調で責め立てる浅木の言葉は、村上を怯ませるに足るものだったらしい。
「……止めろ、その目で俺を見るな! 俺は一度、それを押し返した。それを押し返せないのはお前の心が弱いからだ」
 ついさっきまでの、浅木が黙って村上の言葉を聞いていた時の雰囲気は既にそこにない。形勢は完全に逆転していた。
 顔を顰めて浅木に対峙する村上が、再度浅木を押し返すことができるだろうか。
 そして、俺はそこに口を挟めない。何を言っても自己弁護にしかならない気がしたし、俺のスタンスが淀沢村から脱出するというものである限り、全てにおいて逆効果にしかならないだろう。俺は無力だった。
「あーあ、駄目だな。全部駄目だ、台無しだ」
 それら全てをたった一言で遮り、雰囲気ごとその場を否定してみせたのは他でもない若薙だった。
 一気にその存在感を増した若薙からは全てを圧倒する程の迫力が滲み出ていた。その場に顔を揃えた誰も彼もが、その一挙手一投足を見守る。口を挟もうとするものなどいない。なぜならば、それはいつも対峙していた若薙ではないからだ。
「浅木の言う通りだな。どうして、話した? 何で気付かせた?」
 若薙の口調に突き刺すような鋭さはない。それを頭ごなしに非難する棘はない。けれど、その答えを追求する有無を言わさぬ厳しさがある。
 仁村はくっと唇を噛みしめる。全てを見通すような若薙の瞳に注視され、仁村の目線は空を彷徨った。けれど、一度瞑目した後、仁村の目には決意の色が灯った。すぅと息を呑むと、その口からは仁村の感情の全てが吐露された。
「……そんなことも解らないの? 大切な友達だからだよ。ここで出会った忘れたくなんかない大切な思い出だから! もう二度と会えないかも知れない! 大切だから、……別れの言葉も言わないまま黙って消えるなんて耐えられないじゃない! そんなのあたしは絶対に嫌だね!」
 理由は単純明快。どうしても譲れないから。
 本来は、俺も仁村を責めるべきなのかも知れない。「誰にも喋ってはならない」といった約束を破って浅木に淀沢村の話をしたのだからだ。けれど、仁村の真摯な言葉を聞いた後で、俺にそれを咎めることなどできなかった。
 若薙は仁村の気迫が混じった言葉を前に、心地よさそうに笑って見せる。そして、目を閉じ何かをじっくりと咀嚼するような若薙の顔つきが俺には印象深く残った格好だった。
「……ごめん、今まで黙ってた。あの夜、友香は途中で目を覚ましたみたいで、全部じゃないけど聞いてたんだ。だから、全部話した。笠城君には話しておかないと駄目かなって思ったんだけど、……だって、聞かれた相手は友香だよ? あたしが淀沢村に来てずっと一緒に居た友香だよ? 絶対に大丈夫だって、思ったんだもん」
 仁村は自分に説明責任があると思っているかのように、悲痛さを漂わせてそこに至る経緯を吐き出した。それは浅木に「どうして?」と非難を向ける風ではない。尤も、それは向けられないことを解ってしまった後だったからかも知れない。
 俺も、村上にも、仁村を責めるつもりなどさらさらなかった。
 例え、誰かが仁村の不用意さや過失を責めようとも、仁村には浅木を信用するに足る下地があったのだ。
 では、この場で一番居た堪れないのは誰か。それは恐らく、抗い切れない感情に呑まれて仁村の信用を裏切り、結局誰からもそれを咎められることさえなかった、淀沢村の住人になるべくここに来た存在。
 誰にも話してはならないと倫堂が要求した理由を、今更ながら俺はその身を持って痛感した。
 力なく俯く仁村の様子をまざまざと見せ付けられて、浅木は一瞬キョトンとした顔をする。そうして、項垂れるように顔を伏せてしまえば、ドサッと音を立ててその場に両膝を付いた。
「もしも、あたしがここから解放されて向こうの世界で会うことができたら、ちゃんと「浅木友香」だって気付いてね。お願い、郁。あたしがどんな姿形になってても、あたしを見付けてね。そしたらね、力一杯ひっぱ叩いて貰うんだ。そして、ちゃんと「ごめんね」って謝るから……」
 一時、浅木をまとう重苦しい雰囲気は掻き消える。
 けれど、すぐにそれは再び浅木を覆い尽くしてしまった。
「何で? どうして駄目なの? 駄目だ、……駄目なの。頭では解っているはずなのに、あんなあたしになりたくはないって思っているのに! どうしてあたしはこんなに弱いの。どうしてあたしは、……村上君みたいに強くなれないの?」
 未だ渇望が見え隠れする深淵の底のような目から、浅木は止め処なく涙を流す。頭を掻きむしるようにして叫んだヒステリックな言葉も、酷く歪んだ表情も、全てが痛々しかった。
 再度、俺は認識する。自分自身をコントロールできていないのかも知れない。浅木の心に荒波を立てる黒い感情がいかに強大であるのかをだ。もう、浅木一人の力ではそれを抑え付けられないのかも知れない。
 それを証明するかのように、浅木は今まで傍観者という形でその場に存在していたおぞましい気配の中に取り込まれてしまった。それは無数の人の形をどうにか保つ、ただの巨大な黒い塊だったけれど、取り込まれてしまえばただでは済まないと解る禍々しさを放っている。
 空虚な目と悲痛な表情をして「取り返しの付かないことをした」と悔やむ浅木が、黒い塊の中で次第次第に輪郭を失い始めてしまうと、若薙はするりとその表情を変えた。
「誰一人、ここを通さない」
 大きな声ではない。けれど、それは恐ろしいまでに通る声だった。その言葉を口にした若薙へと誰もが向き直り、注目する中で、若薙はその通る声で宣言する。
 その場の空気が変わったことを理解しないものはいなかっただろう。
「淀沢村字君積の番人の一人として、誰一人、向こうの世界には帰さない。不公平になっちまっただろ? 始めから存在しなかったみたいに消えていったら誰も気に留めなかったのに、……気付かせちまった。だから、誰一人として、ここを通すことはできなくなった。全部、忘れて貰う」
 淡々と語られる言葉に口を挟もうとするけれど、誰もがその迫力に呑まれてしまっていた。
 俺を始めとして、仁村も、村上も、そして浅木も、この場に顔を揃える誰もが声を失っていた。
 若薙はその場で有無を言わせぬだけの迫力を持っていた。外灯に照らし出された若薙から伸びる大きな大きな影は人の形をしておらず、その迫力がどこから来ているものなのかを暗示する。
 もう誰も若薙に反論などできなかった。俺もそうだ。一言「ふざけるな、俺は向こうの世界に戻る」と叫き散らそうとするけれど、口を開けてみたところで喉元からは枯れた声さえ出てこない。
 足が竦んで全身が小刻みに震える自分を客観的に捉えて始めて、俺の感じているものが「恐怖」なのだと理解した。心の奥底から沸き上がってくる止めようのない恐怖心。足の震えが止まらなくなって俺は息を呑む。
 一方の若薙はこの場にある全てを震い上がらせるほどに強烈な威圧感をまとっていた。全てを悟り尽くした上で見せる微笑と言えばいいだろうか。そんなどこか悲しげな表情を見せてはいたけれど、そこには付け入る隙など無い。
 誰も何も口を挟まない、挟めない。若薙の主張を飲み込んでしまう他ない。
 そんな重苦しい雰囲気の中、不意に村上が口を開いた。
「なぁ、何だよ、それ? だったら、笠城達はどうなる? 本来ここにいるべきではない笠城達はどうなる?」
 恐怖に震えるような枯れた酷い声で、まるで苦し紛れに出たもののようにも聞こえたけれど、それは確かに我慢ならないという顔をして若薙へと意見を向けたものだった。
 村上の問い掛けに、若薙は答えない。
 若薙は険しい目付きをし、黙って村上を注視するだけだった。
 村上の言葉が聞こえていないというわけではないだろう。だから、それは「答えない」ということを選んだのだろう。
 ただ、その「答えない」という若薙の対応を前にして、村上は敏感に感じ取ったらしい。言葉にしないという形で、そこに生まれた空白の中に若薙が鏤めた意味をだ。
 村上の表情はあっという間に、まるで能面のような覇気のない顔になる。
 押し黙ってその場に立ち尽くす村上に向け、若薙が問い掛けた。
「どうした、自称・正義の味方?」
「それは間違ってる。そう思わないか、……若薙?」
 眉間に皺を寄せた酷い顰めっ面を見せた後、喉の奥から必至に絞り出してきたかのような声で村上が答える。それは必至に訴えかけて理解を求める声にも聞こえたし、自分の主張を正しいものとして強く相手を諭すもののようにも聞こえた。
 理由を口にする時になってようやく、村上は大きくその声を張り上げた。
「……まだまだ笠城達は歩いてる途中なんだぜ? 俺達みたいな歩みを終えた存在じゃないんだぜ? 俺達と同じように、一度、一緒に消滅して新しい存在になるなんて間違ってる! そうだろ!?」
 若薙が淡々とした抑揚のない声で問い直した。
「だったら、どうする?」
 そこに言葉を返す村上の目には確固たる意志の光が見え隠れした。
「俺が正しい道を示してみせる。……俺があいつらを向こうの世界に帰してみせる! ふざけんな、お前の思い通りにはさせねぇよ、若薙!」
 目一杯張り上げた村上の言葉にも、若薙は顔色一つ変えなかった。
 感情のない目で村上を睨む若薙の対応に、村上の表情は落胆の色と険しさを強めた。
 ただ目付きが変わっただけで、ここまで別人だと感じられるものなんだろうか。いや、目付きを変えて見せただけという言い方は正しくないのだろう。その目付きとともに、若薙は別人になってしまったのかも知れない。そうだ、オレンジ色の光に照らされ伸びる影の形のように、完全に変貌してしまったのかも知れない。少なくとも、俺はそこにいる若薙を形をしたものが、俺の知っている若薙だとは思えなかった。
「畜生ッ!」
 そうボソリと呟き出すと、若薙を捉える村上の目に確かな敵意が灯った。
 身構える村上の動きに合わせて、若薙も体制を整える。あっという間に張り詰めた空気が流れ、場は一瞬にして緊張感に包まれた。
 若薙は草央線・淀沢村駅跡で倫堂が手にしていた金属製の筒を手にする。そして、それは倫堂がそうして見せたのと同様に、うっすらと青白く発光する刃を筒から発生させた。刃渡りにすると十五センチ程度だろうか。刃の横幅がなく、それは一見すると「くない」みたいな武器だった。
 僅かな睨み合いの時間を間に挟み、村上と若薙は互いの動きを牽制しあう挙動へを見せる。そこから事態が急展開するまでは一瞬だった。先に仕掛けたのは武器を手に持つ若薙だ。
 突きの動作を繰り出した後、流れるような挙動で村上へと連続で斬り掛かる若薙は、恐ろしいほどに綺麗だった。それは村上を攻撃することに対して迷いを見せないからだろうし、何より刃を振るうことに熟練していたからだろう。
 村上は瞬く間に追い詰められてしまう。いや、村上でなければ、若薙の攻撃を回避することすらままならなかったかも知れない。そういう意味では村上の身体能力も平均を高いレベルで凌駕していると思えた。
 刃を真横に薙ぐ若薙の一撃を、村上は紙一重で避ける。けれど、直接刃の切っ先が村上を捉えていないというのに関わらず、村上は若薙の攻撃によって頬に引っ掻き傷のような怪我を負っていた。
 そこにどういうカラクリがあるのかは解らない。けれど、そうやって簡単に追い詰められてしまうから、村上は金属の筒を握る若薙の右手へと集中的に攻撃を向けるしかないようだった。
 まずは若薙が持つその武器をどうにかしないと、万に一つも勝ち目がないと村上は判断したのだろう。それが村上の対応を単調なものに変えてしまっていたように思えたけれど、そうするより他なかったとも言える。村上が攻勢に転じるには、存在するかも解らぬ若薙の僅かな隙を突くより他なかったからだ。状況を一度に引っ繰り返してしまえるような必殺技があれば、また状況は変わっただろうか。
 しかしながら、若薙が武器を持つ右手を狙う村上の単調な動きが、逆に若薙の攻撃を許す隙を作る。若薙が変則的なステップを踏んだかと思えば、その体はあっという間に村上の懐に飛び込んできた。逆手に身構えられた刃から放たれる一撃が狙ったのは、村上の体のどの部分だったろう。
「クソッ! ……早い!」
 村上が顔を顰める。
 若薙の一撃が村上をまさに捉えんとしたその矢先のこと。そこに金切り声が響き渡った。
「若薙先輩! もう止めてください! あたしが村上先輩を説得します……、だから、もう止めて!」
 金切り声の主は、傍観者によって構成される黒い塊の中にあった。
 若薙はそこに下部の姿を見付けたことで、攻撃の手を止め一度村上から飛び退いた。
 下部という想定外の存在の介入によって、村上の対応がどう変化するかを確認しようという腹積もりかも知れない。
 若薙だってできることならば、村上と争いたくなどないはずだ。
 一方の傍観者の中に下部の姿を見付けた村上は、大きく目を見開き驚きを隠そうともしなかった。けれど、その当惑が徐々に姿を消してしまった後は、俺が不穏さを感じるほどに穏やかな顔付きを見せる。
「大丈夫。何も心配することはない。俺がその気になって本気で行動したらどんなことでも上手くいく、そうだろう?」
 村上にじっと見据えられて、下部は押し黙る。「何も言い返せなくなってしまった」といった方が適当かも知れない。なぜならば、それは下部自身が村上に向けて言ったものだからだ。
 痩せ我慢か、覚悟を決めたとしか思えない酷い笑みを見せると、村上は自信満々に胸を張った。そうして、若薙へと向き直れば、その表情は追い詰められた側が見せるものとは思えないほど大胆不敵なものだった。
 そして、次の瞬間、何の前触れもなく村上が取った行動は驚くべき内容だ。無謀と言っても過言ではないだろう。
 村上の側から、若薙の胸元へと切り込んだのだ。
 反射的に若薙が刃を振るって牽制を見せるけれど、村上はそれを回避しない。威力に乏しい牽制の一撃を、村上はその左手でがしりと掴んでしまった。左手を犠牲にして、若薙の攻撃を封じた形だ。そうして、すぐさま右手でその青白く発光する刃を伴う筒を叩き落とそうと行動する。
 それは意図を察した若薙によって制止させられてしまったけれど、そこには拮抗状態が生まれる。若薙からの一方的な攻撃を受けるという状況を打破したのだ。圧倒的な威圧感を放ち続ける若薙が、始めて顔を顰めた瞬間でもあった。
「諦めろ、お前じゃ俺には勝てない」
「いいや、例え差し違えてでも俺はお前を止める!」
 諭すような若薙の言葉に、吠えるような村上の反発が返る。
 このまま形勢逆転できるかも知れない。そう思った矢先のこと、不意に村上の表情が苦痛に歪んだ。村上がその掌に掴んだ刀身から青白い炎が吹き上がっていたのだ。そこに肉が焦げるような臭いはないけれど、村上の手は青白い炎によって見る見るうちに焼け爛れていってしまう。
 決死の行動で得たこの拮抗状態さえ、長くは続かないのか。
 もう、どうしようもないと思った。ここは本当の記憶を尤もらしい嘘で取って代えてしまうことのできる世界だ。だったら、一度みんなその「尤もらしい嘘」に取って代えて貰ってしまおう。例え、それが淀沢村で築いた全ての関係を壊してしまうことを意味するのだとしてもだ。そうだ、全ての記憶を失ってしまうとしてもだ。その方が良いと思った。
 村上が若薙の動きを止めるという拮抗状態は、若薙から譲歩を引き出すことのできる最後のチャンスかも知れない。
 ここで叫ばなければ、俺は必ず後悔するだろう。だから、俺は声を振り絞った。尤も、その言葉は完全な竜頭蛇尾に終わり、あろうことか若薙に縋るような内容に取って代わる。
「……もういい。もういいよ! みんな全部一回忘れよう、リセットしよう。例え、そうすることで俺や仁村が本来あるべき場所に戻れなくなったとしても……。できるんだろ、若薙?」
 間髪入れずに村上からは反発の声が上がった。俺を睨み付ける村上の表情からは「そんなことは絶対に許さない」という意志が前面に押し出されている。
「駄目だ、それだけは絶対に駄目だ! 野々原のことを完全に忘れてしまっても良いのか! 向こうの世界で再会した時、お前達が野々原のことを覚えていなかったらどうするって言うんだよ!」
 村上の意識が俺へと向いたその一瞬の隙を突き、若薙が村上の腹部へ蹴りを放つ。尤も、それはダメージを与えるためのものと言う寄りかは村上を押し退けて距離を取るためのものだったろう。決死の行動で村上が左手に掴んだ刃もその不意の一撃で離してしまって、場は完全に仕切り直しという状態になる。
 尤も、仕切り直しとなったことで明らかな形勢不利へと転じたのは言うまでもなく俺達の方だ。
 若薙は半身に身構え直すと、俺と村上とを交互に眺める。そうして、村上へとその行動の意義を問い質した。
「ここで、お前が全てを賭して俺を止めたとする。そして、お前はどうする? 笠城や仁村は良いかもしれない。だけど、お前はここで何の意味もなさず、掻き消えることになるんだぜ?」
 何の意味もなさないといった若薙を、村上は真っ向から否定した。
「意味? 例え俺が消えてなくなっても意味は残る。笠城と仁村を本来あるべき世界に帰したっていう意味が残る!」
 しかしながら、俺には村上のその主張が褒められたものだとは思えないのも事実だった。
 仮に、俺や仁村と、新しい存在になった野々原が向こうの世界で再会したら、どちらも手を取り合って喜ぶだろう。けれど、それが村上の犠牲の上に成り立ったものだったらどうだ。
 戻りたいか、戻りたくないか。それを問われれば、当然「戻りたい」と答える。けれど、それが誰かの犠牲の上に成り立つというのなら、それはまた別の問題だ。そうだ、浅木に対してそうしてしまったように、誰かを豹変させてしまうのであれば、それは別の問題でなければならない。
 リセットしよう。
 だから、俺が若薙に縋ったその言葉が確かな正当性を得る。野々原のことを忘却してしまうのは本当に忍びないと思うけれど、俺と仁村がそれを了解してここにあるべきもの達が平穏を得るのなら、それは最善じゃないか?
「同じ世界を共有し知り合った者同士なのに、どうして笠城や仁村だけ今の形のまま向こうの世界へ戻ることができるのか。不公平だと思わないか? 悔しいと思わないか? そう、思うだろう? だから、淀沢村にいた全てのものに平等で真っ新な存在になって貰おう、そして、みんな向こうで再会する。それでいいじゃないか?」
 そんな若薙の言葉はまるで、俺と村上との意見の相違へ付け込むかのようだった。そして、俺が「リセットしよう」と若薙に対して縋ったから、それを踏まえて見せる態度とも受け取れなくはない。
 けれど、若薙の提案を聞いた村上は「どうしようもない」という風に笑うのだった。村上に取って、その提案には妥協点など存在しないのだろう。
「どうせ、真っ新な存在になる時には、今の記憶なんてほとんど留めておけないんだろう? だったら、全員真っ新な存在になって姿形を今とは全く異なる別のものに置き換えてしまったら、何の手掛かりもなくなってしまって、それぞれがそれぞれを思い出すのが一苦労になるだけじゃないか。せめて、笠城や仁村が今のまま成長した姿であれば、後は向こうの世界で再会した時に俺や野々原が思い出すだけだ!」
 村上の言葉を聞いて、俺は改めて今の状況が何かの犠牲を前提にして成り立つものであることを痛感した。
 真っ新な存在になることについて、今の記憶なんてほとんど留めておけないと村上は言う。それなのにも関わらず、向こうの世界で再会した時には自分達が思い出すだけだなんて、随分と簡単に言って退けるのだ。可能性がないとは断言できないけれど、その主張にリセットを拒否するに足る正当性が伴っていないことを本当は村上だって解っていただろう。
 向こうの世界で再会して全てを思い出すこと。そして、その上でお互いを認識することなんてリセットしようがしまいが困難なのだ。いや、不可能に近いと言ってしまってもいいかも知れない。
「……それで納得できるのか? 嫉ましくはないか? 悔しくはないか?」
 若薙は改めて、問い掛ける。
 その質問を村上は鼻で笑った。
「悔しくないかだって? 悔しいさ、ああ、悔しいね!」
 それは「当然だろう?」と言わないばかりの態度だ。
 悔しいと口走った村上を若薙が畳み掛けようとするけれど、それを村上が一掃した。
「でもな、勘違いするなよ? 俺が感じる悔しさはお前が思っているようなものじゃない」
 自分の胸元を指して見せると、村上はその「悔しさ」について腕を振り上げて言及した。
「俺が何よりも悔しいと思うことは、何よりも「畜生」って声を張り上げたいことは、俺が俺の形のままで笠城や仁村とこれからも同じ時間を共有できないっていうことだ! いつかは終わると解っていたけど、野々原や若薙と、これから先も繋がりを持ち続けられないってことに対するものだ! 確かに黒い感情が心の奥底から止め処なく沸き上がってくることもあった。それに囚われかけたことある。だけど、それは押し返さなきゃならない。不公平だから、そうなるべきでないものまで道連れにして、みんな一緒に真っ新なものになる? それはただの甘えだ、罷り通って良いはずがない。それが自分の大切だと思う相手ならば尚更だ」
 自分をコントロールできない浅木を「心が弱いから」と切って捨てた村上の拠り所がそこにはあった。
 浅木に村上と同じ強さを求めることは酷だろう。けれど、村上は浅木に同じ強さを持って貰いたいと思っていたのかも知れない。浅木に全てを打ち明けたのは仁村であって、そこには積み上げられた時間があったのだからだ。
「知ってるか、若薙? 俺や浅木にあって、笠城や仁村にはないものがある。それはここでやるべきことだ。それがないってことは、即ちここで輪廻の世界を目指すべき存在ではないっていう意味なんじゃないのか? いや、そもそものスタートラインは輪廻の世界がどうのこうのって話ではなかったよな? 本来、まだまだ歩むべき道が続く笠城や仁村を、もう進むべき先のない俺達と、同じ時間、同じ場所で終わらせて良いわけがないだろう?」
 若薙は口を真一文字に結んで押し黙る。その様子は「答えられない」という顔だ。肯定否定といった明確な意志を示すことを躊躇している。そういってしまっても良いかもしれない。
 若薙がスタンスを明確にしないから、村上はそこへさらに一歩踏み込んだ。
「……なぁ、いつまでここに閉じ込めておくつもりだよ? 本当は、お前だって全部解っているんだろう?」
「その言葉で、後ろにある連中が納得してくれると思うか? その主張で、お前よりも儚く弱い存在達がそれを許容してくれると思うか?」
 若薙の指摘を聞いて、村上はキョトンとした顔をする。想定外の言葉だったのかも知れない。けれど、それは若薙の比重を置くものが「淀沢村に来るべくしてきた存在」であることを、村上に再認識させただろう。
 村上は一度後方を振り返って、対決の行方を苦虫を噛み潰したような顔付きで眺める傍観者達を一瞥する。
「例え、納得させられなかったとしても、それが間違っている限りは誰かが正す必要がある。後は力業でも何でも、やるべきことを解っている奴が全力を尽くすだけだ」
 そこに申しわけないという気持ちはあるのだろう。けれど、村上に迷いなどなかった。
 意見の対立が鮮明になって、再び若薙と村上が対峙する。二人の相違はどちらに比重を置いていたかだけだろう。そして、お互い比重を置かないものを粗末に扱ったわけではない。けれど、それは決定的な相違だったのだ。
 若薙が比重を置いたものは淀沢村へ来るべくしてきた存在。
 村上が比重を置いたものは淀沢村にあってはならない存在。
 何の前触れもなく、村上と若薙の距離が詰まる。どちらが先に仕掛けたといった類の、明確な動きは確認できなかった。状況は村上が圧倒的に不利である。若薙を牽制する動作を含めて、徐々に挙動が鈍くなりつつある村上の様子を見る限りでは勝ち目は低いだろう。次の一撃が全てを決めるかも知れない。そうも思える。
 では、この状況を打開するために何をするべきか。村上を助けるために何をするべきか。
 言うまでもない。
 しかしながら、若薙が伴う威圧感を前にして、俺は若薙相手に飛び掛かることさえ適わない。
 そうやって、俺が情けなくも立ち竦んでいる間に、決着を付けるべくお互いの一撃が放たれた。
 若薙の一撃は金属製の筒から伸びる刃で突きの構えを取り村上の喉元を狙うもの。
 一方の村上は無謀にも若薙の懐へと飛び込んで脇腹へと渾身の一撃を繰り出そうかという挙動だった。
「村上!」
「村上先輩!」
 俺と下部の怒声にも似た叫び声が重なって、その場を静寂が包み込んだ。
 村上の喉元に突き付けられた刃は喉元まで数ミリという距離でピタリと制止していた。そうして、村上が放ったボディブローは若薙の脇腹へとクリティカルヒットしていた。
「へへ、……痛ぇな、さすがはヒーローの一撃だぜ」
 痛みに顔を歪める若薙だったけれど、そこには淀沢村の日常生活で見せていたいつもの表情がある。
 今になって俺達の慣れ親しんだ顔を若薙が見せるから、村上は当惑を隠さない。
「どうして、俺を突き刺さなかった? どうして、寸止めなんかした?」
 若薙に向かって村上はそう尋ねるけれど、その答えは聞くまでもないことだっただろう。そこに居るものが本当にいつも通りの若薙であるならば、村上を消してしまうなんてことを平然とやって退けられるわけがない。例え、どんな仮面を付けていたとしてもだ。
 融通の利かない村上の言葉で、若薙が煮え湯を飲むこともあっただろう。その一方で、若薙の悪ふざけで村上が心底困ることもあっただろう。若薙が持つ飄々とした面や無責任さに納得できず喧嘩になったこともあっただろう。
 良くも悪くもこの二人は惹かれ合いながら反発し、お互いがお互いをそれ相応に認めているのだ。居なくなって欲しくはない。そう思っているのだろう。
 攻撃の手を止めた理由を説明する若薙は、何もかもを知り尽くしたかのような得意顔だった。
「ふと、俺のやり方が間違ってるかも知れないって思ったからさ。お前の言う通りだろうな、正義の味方」
「始めから、全部解ってた癖に! とんだ茶番だな」
 村上は吐き捨てるかのように非難した。
 けれど、当の若薙は首を横に振って、その指摘が間違いだと言う。
「いーや、始めから解ってたわけじゃないぜ。お前が俺を本気で止めようとしなかったなら、俺は誰一人ここを通さなかっただろうさ。お前はお前が大切だと思う相手を守ったのさ、豹変した怪人をその力で止めたのさ」
 尤も、若薙の様子からは「怪人」を十二分に堪能した様子が見て取れた。
 そんな対応を合間に覗かせるから、若薙の調子はどこか戯けたように見えてしまう。
 けれど、村上はその言葉に嘘偽りがないことを理解したのだろう。最初は「どうしようもない」という風な苦笑の表情だったけれど、結局すぐに真顔へ戻ってしまえば、そのまま押し黙ってしまったのだ。
「……」
 若薙は瞑目すると、口元だけに笑みを灯していう。
「どうだ、本物になった感想は?」
 それはまるで、悪戯っ子がその悪戯をまんまと成功させた時に見せるような、掛け値のないものだった。やるべきことをやった達成感から漏れるもの、そんな笑みだ。
「……」
 村上は答えない。答えられないといった方が良いのかも知れない。
 一方の若薙は遠慮なしに言葉を続ける。ただ、相変わらず戯けたような調子を合間に覗かせるのは変わらない。
「いつも言ってたじゃん、お前。大切な人を守りたいだとか、怪人が出てきて一騒動起こしてくれねぇかなーとかさ」
「……ああ、言っていたな。でも、その危機を救うはずの正義の味方も、格好良い場面だけじゃないんだな」
 村上は力なく項垂れる。今の自分の姿がずっと求めていた理想像とは懸け離れたもののように、村上には感じられたのかも知れない。「そんなことはない」と俺が口走るよりも早く、若薙がそれを真っ向から否定した。
「格好良かったじゃん。テメェの本音をぶちまけて、……辛いとか、本当は羨ましいとか、そんな黒い感情も押し退けて、お前はお前がそうするべきだと信じた心を取り戻したじゃんか。そうするべきだと思ったことをやり通したじゃんか。自分の心の中に住む悪魔にも打ち勝って、今更これ以上、どんな名場面があるって言うんだよ?」
 村上というヒーローを評した若薙の言葉は的確で痛快だった。そうして、言葉の最後には村上へと向けて力強く拳を突き出して見せる。
 躊躇いながらも、それに拳を合わせる村上は心中の複雑さを体現した顔で笑った。
「はは、……格好良かったか? 無様で滑稽だったの間違いだろう?」
「本物のヒーローなんて無様なくらいがちょうどいいんだよ。何から何まで完璧で、人当たりも性格も顔も良いヒーローなんざ作りものの中だけで十分だね。大体、そんな完璧超人のどこに共感するっていうんだ?」
 再度、村上は力なく項垂れる。けれど、今度はそこに確かな達成感が滲んだ。
 そんな村上の肩をポンッと叩くと、若薙は目を見開きこの場に顔を揃えた傍観者達へと向き直る。
 若薙と村上とのやりとりを固唾を呑んで窺っていた傍観者達はその収束を持って、俄に禍々しさを増していた。
 それらは若薙がこれから何をしようとしているのかを、その瞳が見開かれたその瞬間に理解したのだろう。何を許容しようとしているのかを理解したのだろう。だから、若薙へと強い負の感情を向ける。それは本来、若薙へと向くべきものではないかも知れない。けれど、その間に若薙が立ち塞がるから、それらは矛先を若薙へと向ける以外に他ないのだ。
 不穏な動きを感じ取ったのだろう。村上の目付きが変わる。
「あれを押し止めるつもりなら手伝うぜ、……若薙」
 今度は若薙が惚けた顔をする番だった。まさか、村上がそんなことにまで気を回し、そんな言葉を自分へ向けるとは思っていなかったのだろう。
「馬鹿、これは俺の仕事だよ。そんなところまで正義の味方に取られちまったら、俺は何をやればいい? お前はお前のやるべきことをやれよ。この廃線の先に笠城と仁村を送り出す場所がある。淀沢村に迷い込んだ笠城と仁村はお前が緑陵寮に連れてきたんだ、お前が緑陵寮から送り出すんだ」
 若薙はくっと顎をしゃくって見せて、俺達の存在を村上に再認識させる。そうやって、村上のやるべきことを指摘してみせた若薙は得意顔だ。
 尤も、指摘を受けた村上は若干納得がいかないという顔付きを含んでいたけど、最終的にはその指摘を受け入れた。
「ああ、そうだな。若薙の言う通りだ。それは確かに俺の役目だ」
 それはいつか見たやりとりだった。俺の記憶が正しければ、それは俺と仁村が緑陵寮で初めて夕食を取る時に、若薙と村上とのやりとりの中で見たものだ。
 そうやって始まって、そうやって終わる。これが若薙と村上の関係だったのかも知れない。
「ここで全て押し止めるつもりだ。けど、もしかしたら、取り逃がすなんてへまをやらかすかも知れない。その時はしっかり守ってやってくれよ。何せ、ずっと成りたかったヒーローにお前はなったんだろ?」
 再び、若薙は右手を力強く握りしめて拳を作ると、それを村上へ向けて掲げ挙げる。
 村上も村上で同じように拳を握りしめると、それを若薙のものと併せた。
「了解」
 若薙が拳を離した後も、村上はその場から動こうとはしなかった。そして、若薙に向かって小さく頭を下げると力のない声でお願いを口にした。
「若薙。一つだけ頼む。……下部を頼む」
 そう切り出した村上の表情に見え隠れするものは、懇願。
 若薙はそこに「仕方がないな」という態度を滲ませた後、胸を張って答えた。
「心配するな、任せとけって! どんな結末が待っていようとも、俺は最後まで付き合うつもりだ」
 力強くそう言い切った若薙を、村上はじっと注視していた。
 それはまるで「俺と同じような目には遭わせるなよ?」と、忠告しているかのようでもある。
「そんな恐い顔するなって! 俺が最後まで付き合ってやるって言ったんだぜ? 大船に乗ったつもりで居りゃあいいのさ。……だから、間違っても心残りだなんて思うなよ」
 そうやって、村上に注視されることを若薙は嫌った。そうすると、そこにはいつも感じていた軽薄な印象が伴った気がした。最後の最後までシリアスで通し切らない辺り、それはいつも俺が緑陵寮で見ていた若薙だったのだろう。
 苦笑しながら若薙に背を向けた村上は、言い残すべき言葉を飲み込んだのだろう。これ以上、傍観者達へと向き直るに足る若薙の重厚な雰囲気をぶちこわさないようにだ。そうして、俺と仁村へ手を伸ばしてしまえば、それを「吹っ切った」と言わないばかりに声を張り上げた。
「行くぞ、笠城」
 俺は伸ばされた村上の手を握り取ろうとした。けれど、村上の手には触れられなかった。俺が伸ばした腕は村上の手と確かに重なり合ったはずなのに、擦り抜けてしまったのだ。
 けれど、それさえもいつか見た光景だった。
 擦り抜けた後、一度半透明になったかと思えば、俺が触れようとした村上の腕から手に掛けての部分は白く発光する。
 それは野々原の時と全く同じ現象だ。
 俺の手に触れられなかったことに村上は惚けた顔をする。けれど、それも一瞬。「触れられないこと」が何を意味するのか理解してしまえば、後は何とも形容し難い苦笑いに終始した。
「お別れだ、村上英太。心残りややり残しを片付けるなり諦めるなりで、あっさり浄化される魂が大半の世界の中で、淀沢村に長く長く留まり続けた最古参の一人だ、胸張って行けよ」
 そんな別れの言葉を口にする若薙がこちらへと振り向くことはなかった。そして、再び威圧感をまとう若薙の背中に目を奪われた俺に、傍観者達の中にいて村上へと目を向ける下部が留まる。
 下部は村上に向けて言葉を向けようとする。けれど、それは喉元まで出掛かりながら、結局飲み込まれてしまった。
 飲み込んだ下部の言葉を俺は理解する。感じられたといった方が適当か。
「行かないで」
 下部が飲み込んだ言葉を俺はしっかりとその耳で聞いた気がした。
 混ざり合って一つのどす黒い塊へと変色していく集団の中にあって、下部は去っていく村上をただただその目で追うだけだった。名前を口に出して、呼び止めることをしない。だから、若薙がそうしたように村上が振り返ることはない。
「何だ、下部ちゃんももう少しなんじゃないか。もう少しで、あいつの後を追うことができるぜ」
 若薙は下部の頭をくしゃっと撫でる。そこに傍観者達へと向けた威圧感は微塵もない。
「若薙、先輩」
 縋るように名前を呼ぶ下部へと向き直る若薙は、いつもの自信満々な態度だ。尤も、そうでなければ、下部は若薙に寄りかかろうとはしなかったかも知れない。軽薄な印象を与えるその雰囲気があってこそ、そうも思える。
「浅木の声に惑わされたのか? さぁ、その黒い感情は忘れてしまおうな。大丈夫、俺が元に戻してやる、目を閉じろ」
 行動で強い拒否を示すことはなかったけれど、下部は若薙の言葉を強い意志の灯った目で拒否する。そこにあるものは記憶を奪われることに対する恐怖のように見えた。
「安心しろって、村上のことを忘れてしまうなんてことはねぇよ。そんなことになったら、本物のヒーローになった村上が飛んできて、今度は俺がコテンパンにやられちまう」
 戯けた若薙の声を聞き下部はようやく安心したらしい。穏やかな顔をして、若薙の要求通りすぅっと目を瞑った。
 そうして、若薙の手が下部の額に触れた瞬間、下部はドサッと音を立てて、その場に横になった。
 下部が意識を失ったのを確認すると、若薙はゆっくりと浅木が先導をした黒い塊へと向き直る。そうして、その暗く重苦しい雰囲気をまとう塊を前にして、まるで戯けるように切り出した。下部の一件で露呈してしまった軽薄な雰囲気をそのままに話し始めたように感じられたけれど、それは語尾へと近付くにつれて言い様のない迫力を伴う。
「……正義の味方に活を入れられて、怪人は改心しましたとさ。たった今から、誰一人、ここを通さない。今夜、ここを離れるべき存在はもうここにはいない」
 若薙の表情とは酷く懸け離れた真剣さで、その言葉は静かに発せられた。それはどよめきとざわつきの中にあって、恐ろしいほどに通る声で、同時に全ての音を意味のないものに変えた。どんなに叫き散らしてみても、どんなに奇声を発してみても、その声はありとあらゆる音を押し退けて優先されたのだ。
 だから、その場にある全ての者に若薙の言葉は届いた。
 てっきり、最初そうして見せたように強い迫力や威圧感を伴って、それらに対峙するのかと思った。けれど、若薙がまとった雰囲気は「申しわけない」といった謝罪の意志を全面的に押し出したものだ。
「納得、できねぇだろうな。自分が何なのか、ここで何をしていたのかを知らされて、その上、この留まった世界から出て歩みを始める奴らがいるなんてさ。……すまねぇ、お前らを巻き込むつもりはなかったんだ」
 傍観者達へと向ける敵意と威圧感を霧散させる若薙の様子は、何に比重を置いているかを改めて感じさせる。
 そして、深々と頭を下げる。謝罪の後にはすぐに説得が続いた。
「向こうに行きたい。自分という形を失って、全く新しい何かに生まれ変わりたくはない。その気持ちは解る。でも、お前らは向こうに行っても幸せにはなれないんだ。お前らはあいつらとは違う。もう、向こうの世界に戻っても苦しむだけだ、悲しいだけだ、理性を保てず色んな者を恨み妬み壊れていくだけだ。お前らがお前らで在り続けられる場所はここだけだ。お前らはここで輪廻の輪に戻って、新しい存在にならなきゃならない」
 立ちはだかる自分を乗り越えて行こうとするものを、若薙は容赦しない。だから、傍観者達が決してそうすることを選ばぬように、若薙はそこにありったけの熱意を込めて説得の言葉を口にした格好だ。どうして俺や仁村のように向こうの世界へ行くことが許されないかを説明したのだ
 そして、若薙は最後にこう結論づけて締め括った。
「だから、俺は誰一人、お前ら新しい存在にならなきゃならない奴らを通すことはできない」
 それは抑揚のない冷たい口調で、そこに生まれた激しい落差は傍観者達を一気にざわつかせる。
 自身へと向く激しい憎悪の感情さえも、さも「当然のこと」と受け流してしまうと、若薙は下部のことで村上に対して胸を張って見せたように、傍観者達にもそれを示して見せた。
「最後の最後まで付き合うぜ、最後の最後まで楽しませてやるぜ」
 両手を広げるようなジェスチャーを合間に挟み、若薙は傍観者達に歩み寄ることを求めた形だ。
 そうして、そこに一つ間を置くと、若薙は改めて自分のスタンスをそこに明示する。それはあらゆる音の中にあって端から端まで通る声で、そこには全てを震え上がらせる類の激しい威圧感が伴った。
「……だから、向こうに行かせてやることはできない」
 既に数人を覗いて、一定の形さえ保ってはいなかった。
 絵の具の色を混ぜ合わせていくと黒へ黒へと近づいていくかのようだった。解け合って、混ざり合って、不定形の異形なものへと姿を変えるにつれて、それは夜の闇よりも黒く変色する。
 茫然自失の体で立ち竦む者、地に膝をつき項垂れる者、涙を流す者。
 若薙自身は何の変化もなく人の姿を保っていたけど、その場にいた誰もが若薙を人だと認識しなかっただろう。外灯の光に映し出される若薙の影は、相変わらず人のそれではなかった。
「笠城!」
 名前を呼ばれて、俺はハッとなった。
 若薙へと背を向けしまえば、後は村上を追って草央線の廃線をひたすら走る。
 そうしていると、この廃線が山へ山へと続いていくのが解った。ここはこうして人が通ることを想定していないのだろう。全く手入れが為されていない。そんな道を走るのは想像以上に大変だった。
 月明かりの光だけを頼りに走る薄暗い廃線の先は、決して見通しが良いとは言えない。そんな中を必死に走っていって、ふと遙か前方に廃線が分岐する場所が見えるようになると、俺は終わりが近付いてきていることを理解した。
 廃線のレールが分岐する場所には三メートル強はあろうかと言うほどの巨大な標識があった。標識に何が記載されているかを判別することはできなかったけれど、俺はその標識の頂上に周囲の薄暗がりよりも色の濃い黒い物体が存在しているように感じた。廃線のレールが二つに分岐する箇所へと近付けば近付くほど、その影の輪郭はぼやけてしまって曖昧になっていく気がする。
 俺は強い不安を感じて、走る速度を緩めた。不用意に近付くべきではないと思ったのだ。
「何、あれ?」
 そう呟いた仁村も同じことを考えている様子だった。徐々に走る速度を落としてしまえば、その目は眼前に聳える標識をじっと見据えるようになる。
 そんな中で、真っ先に声を上げたのは村上だった。しかも、それはその影の名前を呼ぶというものだ。
「倫堂!」
 どうして、それを村上は倫堂だと判断できたのだろう。
 少なくとも俺にはそれが倫堂の形を伴っていたようには見えなかった。
 ともあれ、村上がそう名前を呼んだことで、それは倫堂の形を伴った気がする。
 倫堂は朽ち果てたレールの分岐点に設置された標識の頂上に腰掛けていた。俺達を見下ろす表情は「待ちくたびれた」といわないばかりの顔だ。
「随分と遅かったね。でも、いい顔してるよ」
 倫堂の物腰は俺や村上を牽制するような類のものではない。けれど、逆にその柔らかい物腰が不安を煽る形でもある。
 俺も村上も自然と身構えていた。いくら思考を巡らせてみても、ここに倫堂が姿を現す理由を見つけられない。だから、その警戒はどんどんと強いものになる。
「ちょっとちょっと、そんな恐い顔しなくてもいいじゃない。あたしは笠城君達の邪魔をしに来たわけじゃないよ」
「信じられない!」
 そんな言葉を口にしないまでも、安易に倫堂の言葉を信用する気になれないのも確かだ。
 じっと倫堂を注視して、俺と村上はここに倫堂が姿を現した理由の説明を要求する。
 すると、倫堂はあっけらかんと言ってのけた。
「言わなかったっけ、案内人だって? 淀沢村から離れる資格を持ったものを案内しに来たの」
 そうして、倫堂は分岐点の先へと続く二つのルートを指した。
「笠城君達はそっちのルートへ。このまま廃線に沿って進んで、トンネルを潜ってその向こう側に行ってね」
 倫堂が指さすルートには鬱蒼とした森林が広がっている。
「村上君はこっちのルートへ。村上君については特別にあたしがエスコートしてあげる」
 続けざまに、倫堂が村上に対して指示したルートは俺達に指示したものよりも山へ山へと入っていく形だった。
 倫堂は村上へと向けて手を差し出すと、村上の待遇についてこう言及した。
「村上君はかなり特別扱いになっちゃったね。まぁ、状況が状況だから仕方ないのかも知れないけど」
 差し出された倫堂の手を、村上はいつまで経っても握り返そうとはしなかった。
「少し、時間をくれないか? 笠城と仁村に別れを告げるための僅かな時間だ、良いだろう?」
 村上の要求を、倫堂は小さく頷く形で許容した。そうして、差し出した手を倫堂が引っ込めてしまえば、後は村上の言葉を待つ形となる。
 ふと、覗き見た村上の横顔には哀愁が見え隠れした。月明かりに照らし出されて影が差す形だったから、はっきりとそれを確認できなかったけれど、そこには今になって「別れ」を痛感するぎこちなさが漂っていた。
「お別れだな。言いたいことはたくさんあったはずなんだが、いざとなったら言葉が出て来ない。はは、……何を言うつもりだったのか、考えがまとまらない。だから、……こんなことしか言えない。けど、それが全てだ。どこかでまた会おうぜ。浅木が仁村に言ったのと同じだ。もしも、俺がどんな姿形になっていたとしても必ず思い出してみせる!」
 胸を張った村上の別れの台詞は、非常にらしさ溢れる内容だった。それは湿っぽいのを嫌ったという意味でもそうだったし、必ず思い出すと言い切って締め括ったのもそうだ。
 しかしながら、避けたはずの湿っぽさは思わぬところから吹き出し、そして全体に波及した。
「……友香」
 浅木の名前が村上の口から出た瞬間、仁村はビクッと体を震わせたのだ。まだ、引き摺っているのだろう。
 俯いてしまった仁村の頬へと、村上が右手を伸ばす。直接、村上の手が仁村の頬に触れることは適わなかったけれど、仁村は半透明になって白く発光を始める村上の右手に気付いて顔を上げた。
「俺や野々原よりは少し時間が掛かるかも知れないが、浅木だって必ずお前に会いに行く。待っていてやってくれ」
 村上の慰めに仁村は一度キョトンとした顔をした後、胸を張って答えた。
「……当たり前じゃない。淀沢村で出会った大切な友達だもん」
 放っておけば、きっとそこにはまだまだ別れを惜しむ言葉が続いただろう。しかしながら、そこに倫堂が割って入って口を挟んだことで、湿っぽさは一気に薄れた。
「あー、うん。その、……ごめんね。お別れの挨拶を邪魔したくはないんだけど、あんまり時間が残ってないんだ」
 一目で「きまずい」と解る顔をしていた倫堂が印象的だった。尤も、誰かが口を挟まなければ、直接的に別れを切り出す言葉はまだまだ先延ばしされたかも知れない。
「こちらこそ、長々と時間を掛けてしまって、……すまない。もう構わないから、始めてくれ」
 村上の了解を受けて、倫堂は村上を上から下までマジマジと眺める。そして、そこに困ったような表情を見せた。
「本当ならここで手にした大切なものを切符として確認するわけだけど、差し詰め村上君の場合は怪人「若薙」に付けられたその手の怪我になるのかなぁ」
 そして、好奇心を隠そうともしない言動で、村上に要求した。
「一応見せてくれない? まぁ、これはただの好奇心なんだけどさ」
 村上が左手に負った怪我を倫堂の眼前に差し出すと、倫堂は目を大きく見開く引き攣った顔で頓狂な声を上げた。
「うわぁ、これは酷い!」
 淀沢村駅の時と異なり、倫堂の言動からは緊張感というものを全く感じられない。それは草央線の淀沢村駅跡と、この場所とで何らかの相違があるからだろうか。少なくとも、状況で言えば、この場所の方があの時倫堂が「忌むべき」と言った夾雑物の混ざる可能性が高いように思う。
 若薙が押し止めていることで、傍観者達がここまでやってくることをあり得ないと思っているのかも知れない。
 別れの時間が近付いて、俺は改めて倫堂という存在を見る。若薙という存在に対して思考を巡らせる。
 倫堂は自身を案内人と名乗り、若薙は番人の一人と名乗った。淀沢村という世界に存在しながら、彼らもまた淀沢村に来るべきくしてやってきたものではないはずだ。そもそも、人がその形を変えて為った何かではないのだろう。
 村上に野々原、そして浅木は俺達の世界での再会を約束した。
 では、若薙や倫堂は?
 淀沢村という世界を一緒に共有し楽しんだのは若薙や倫堂も同様だ。再会を約束する時には、その場に顔を揃えていなければならないのは若薙や倫堂だって同じ話じゃないのか。
 脳裏を過ぎったそんな疑問を、俺が倫堂に尋ねることはなかった。
 明確な答えをそこに示されてしまうことを恐れたのだ。
 倫堂は鼻歌交じりに腰を掛けた標識から飛び降りると、ついさっきまで腰を掛けていたその標識へと向き直る。そして、淀沢村駅跡の扉を開いた時と同じように手を翳して見せると、標識はその全体を青白く発光させる。そうこうしている内に、標識は大小様々な大きさからなる複数個のブロックに分割されていった。
 倫堂は分割されたブロックへと手を翳すと、それらを自由自在に動かしていく。カコンカコンと軽快な音を立てて、まるでパズルでも組み立てるように倫堂はそれを操作する。そうしてカチンッと音が響き渡ると、分割されたブロックは別の標識の輪郭を描き、見る見るうちにその形状へと変化した。
「さぁ、名残惜しいかも知れないけど、お別れの時間だね。今から僅かな時間、輪廻の世界へと続く扉が開いて、同時に、ここに来るべきではない存在を元の世界へと帰すための扉が開くよ」
 操作の終わりを倫堂が告げるけれど、淀沢村駅跡のような目に見える形での変化はそこになかった。
 倫堂に示された廃線の先に目を凝してみるけれど、そこには「トンネル」を見付けることは適わない。俺と仁村が進むべき道も、村上が進むべき道も、月明かりに照らされただけの薄暗がりが横たわっているだけだ。まだ結構な距離を進む必要があるのかも知れない。
 草央線の廃線に沿って歩きトンネルに辿り着いたとして、淀沢村の終わりが一体どんな風に訪れるのだろう。
 元の世界に戻った時、俺と仁村はどこに居るのだろう。
 様々な疑問が浮かび上がってきて一歩を踏み出すことを躊躇う俺に、倫堂が忠告を向けた。
「良い? 笠城君。最後の忠告。ないとは思う。けど、もしも今から笠城君達が進むことになるトンネルの中で、何かに声を掛けられても絶対に返事をしちゃ駄目だよ。例え、それが笠城君の知っている誰かの声だったとしても。もしも、トンネルの途中に何かが居るように感じられる時は、それを見ようとするのも止めた方が良いからね」
 倫堂の忠告はトンネルへと辿り着いた後のことについて述べられた内容だった。歩き出すことを躊躇う俺に、トンネルまでの道程について「そこまで危険はない」と言ってくれたようにも聞こえた。けれど、同時に元の世界を目指すに当たり、そこが最も危険な場所であることを理解せずにはいられい。
 倫堂の忠告はトンネルの中で俺達が出会す可能性のあるものについて言及する。
「ここは美しいものも醜いものも、高等なものも下等なものも、全部ごちゃ混ぜになった場所なの。そしてね、人間の魂だけが集まる場所じゃないんだ。笠城君達を騙し、付け込み、力を得ようとするものもある。形を得ようとする形なきものもある。あたし達は淀沢村という囲いを守り、輪廻の世界へと進むものを守っているけど、それ以外の場所へ行こうとするものを送り届けることはできない。だから、もしもここから先、何かがあってもあたしは助けてあげられない」
 そして、この分岐点こそが行動範囲の最も外側であると締め括った。
「……ここで道案内をするのが精一杯かな。ここより先に進もうとすると、あたしはあたしと言う形を保てなくなる」
 形を保てなくなると言った言葉に、先ほど村上がその名を呼ぶまで、それを倫堂だと認識できなかったことを俺は思い出した。この分岐点から俺達が進もうとしている世界は、もう「淀沢村」と呼ばれる場所ではないのかも知れない。
「良い? トンネルの中で後ろからあたしや若薙の声がしても、絶対に振り返っちゃ駄目だよ」
 意を決し、この分岐点から一歩を踏み出そうとする俺と仁村に向けて、倫堂が再度忠告を口にする。
 それを繰り返し告げる倫堂の目は真剣そのもので、如何にそれが重要なことであるかを俺に印象づけた。
「ありがとう、倫堂さん」
 仁村の感謝の言葉に、倫堂は草央線の淀沢村駅跡で野々原達を見送った時のように満面の笑顔を返した。それは俺達がそうあるべき場所に戻るからだろうけれど、俺は「ありがとう」だとか「さようなら」だとかいう言葉で締め括ってしまうことを嫌った。感謝の気持ちは当然ある。しかしながら、同じ世界を共有し、ここまで世話になっておきながら「もう二度と会えない」ではあまりにも哀しいではないか。
 せめて「口約束だけでも」と、そう思ったのだ。願わくば「また」と、そう思ったのだ。その気持ちに嘘はない。
「また、機会が有れば……」
 けれど、俺の言葉が言下の内に、倫堂はそれを遮って話し始めた。俺に向けるその表情は呆れ顔だ。
「笠城君、ここでの再会を約束する言葉は不吉だから止めておいた方が良いと思うよ? 淀沢村に来るべく存在になるってことはつまり、……ね?」
 指摘をされないとそれに気付かない辺り、俺は淀沢村についてまだ完全に信じられていないのかも知れない。
 気落ちする俺に、倫堂は戯けた調子で「次の訪問」について言及した。
「まぁ、笠城君がまた「迷い込んで来ちゃった」なんてことをやらかした時には歓迎もするし、本当に「淀沢村へ来るべく存在になっちゃった」なんて時はフルコースを用意して特別扱いしてあげちゃうけどね」
 俺はどんな言葉を返して良いか解らず、苦笑するだけだった。「その時は頼むよ」とか「楽しみにしてるよ」とか、そうやって戯けて返すのもおかしな気がしたのだ。
 それでも倫堂に向けるべき言葉を諦めきれずに、思案顔をして探す俺の眼前には村上の握り拳が掲げられた。
 俺はハッと我に返る。
「時間だ、笠城。最後は簡潔な言葉で別れよう、またな!」
 このまま、倫堂や若薙へと、言葉を残すこともままならないか。俺は苦心する。けれど、一度気付いてしまえば、後に続く言葉などさらりと口を付いて出ていた。
 村上が言ったじゃないか。「それが間違っている限りは誰かが正す必要がある」と。そして「やるべきことを解っている奴が全力を尽くすだけだ」と。それはまさにその通りだ。「不吉だから」「形を保てないから」「思い出せないかも知れないから」と、障害はあるだろう。けれど、そんなことで約束さえできないなんてことがあっていいわけがない。
「ああ、……またな、村上! 倫堂さんも、必ずまたどこかで会おう!」
 俺が張り上げた言葉の内容は淀沢村での直接的な再会を誓ったものではない。けれど、それであっても人によっては信じられない言葉だったかも知れない。淀沢村で「また再会しよう」だなんてそれこそ狂気の沙汰だし、淀沢村の外でその形を保てないと倫堂は言った。野々原と村上に至ってはその姿形を変えてしまって、俺や仁村の記憶なんてものはその九割九分を忘れてしまうかも知れない。だから、「必ずまたどこかで」という形としたのだ。
 最初からハードルが高いのであれば、あと一段目標を高く掲げ挙げたところでそう相違ないだろう。
 例えそこに万難が付随しようとも、やるべきことを解っている奴が全力を尽くすだけだ。
 俺をまじまじと見る倫堂は、苦笑するのを隠そうともしなかった。けれど、最後に俺へとウインクを投げ掛けてみせれば、呆れた様子ではあったものの俺の再会の約束を受け入れたようだった。
 そうして、別れが来る。
 倫堂が村上を案内するといった山の奥へ進む道へと向き直ってしまえば、俺達もこの分岐点に留まり続けるというわけにもいかなくなる。倫堂の横顔に焦りの色は窺えないけれど、そうやって別れを促す理由はもうそろそろここでの会話可能な時間の猶予に限界が近付きつつあるからだろう。
 まだ、胸の奥に支える気持ちは残ったままだった。けれど、俺達に背を向けた倫堂と野々原を再度その目に焼き付けると、俺と仁村も分岐点から足を踏み出した。俺は喉元まで出掛かった言葉を飲み込む。ただ、そうやって走り出してしまえば、後は余計なことを考える余裕などなかった。
 仁村を伴い、ひたすら草央線の廃線に沿って進みトンネルを目指す。
 やがて鬱蒼と生い茂る森林は月明かりを完全に遮るようになってしまって、周囲の景色はまるで暗闇に同化するかのように変貌を始める。そして、それがトンネルだろうと解る黒い穴が視界の中に現れた。
 この先にトンネルがあると事前に教えられていなければ、そこを行き止まりだと思ったかも知れない。崖と評しても差し支えないだろう急勾配に面するトンネルの入り口はまるで、漆黒の闇が口を開いているかのようだ。
 トンネルへと入る前に一度後ろを振り返ってみる。けれど、ついさっき歩いてきたはずの道さえ、もうそこには見付けられなかった。森林の姿形をかろうじて残した漆黒と見紛うほどの背丈の高い樹木が、まるで引き返すことを拒むかのように鬱蒼と生い茂っているだけだ。
 一応、そこには廃線である草央線のレールが残ってはいたけれど、恐らくそれに沿って戻ったところで淀沢村には辿り着けない気がした。中に漆黒の闇以外の何かを外から窺うのことのできないトンネルを前にして、俺は仁村へと向かって手を差し出した。
「引き返すことはできないみたいだし、行こうか?」
 仁村は大きく深呼吸した後、小さく頷きその手を取る。
「行こう。向こうに戻って、再会するんだもんね」
 トンネルを入り口を潜ると数メートルも進まない内に、視界が完全に失われた状態となる。俺はトンネルの側壁に片手をついて、草央線の廃線を頼りに中へ中へと進んでいった形だ。曲がりなりにも電車が通過することを想定されて作られたトンネルであるため、天井は高く横幅もかなりあるらしい。少なくとも、何かに頭をぶつけたりといったことを心配する必要はないみたいだった。唯一、足下に細心の注意さえ払ってさえいれば当面問題はないのだろう。
 そして、倫堂が俺に警告を向けたような何かがトンネルの中に居る気配はなかった。耳を澄ますと微かな風の音だけが聞こえるこのトンネルの中に、少なくとも今は俺と仁村の名前を呼ぶ何かなど存在して居なかっただろう。
 今がチャンスだと思った。このトンネルの中に何かが存在していて、俺達に気が付いてしまう前に、行けるところまで行ってしまおう。そう考えてしまえば、先を急ごうとする俺は足早になった。けれど、前へ前へと果敢に足を進める俺の行動は、ある一時を境に静止する。
 不意に、今の今までずっと足の下に存在していた廃線の段差が消えたのだ。トンネルの入り口からどれだけ中へと進んだのだろう。
 それは目蓋を閉じて、次にそれを開くまでのほんの一瞬。
 ふと気付けば、仁村の手を握っていた感覚が消失していて、トンネルの中に横たわっていた暗闇も霧散してしまっていた。淀沢村独特の高い気温と湿度も、文字通り瞬く間に払拭されてしまって、俺は咄嗟に何が起きたのかを理解できない。
 一瞬にして切り替わり、そして目の前へと広がった光景は真っ白い世界だった。先ほどまでトンネルの中を歩いてはずの俺は、柔らかい何かの上に仰向けになる格好だ。恐らく、それはソファーか何かだろう。
 俺は顔を顰めながら上半身を起こして、視界に飛び込んでくる情報一つ一つを確認する。そうして、自分の置かれた状態というものを理解した。そこは白く真っ白い部屋だった。俺はその部屋に並べられたベッドの一つに、パジャマ姿で横になっていた形だ。
 部屋には六つのベッドがあって、そのいずれにも俺と同年代と思しき男が寝かされている。微かに聞こえる寝息以外に、その部屋に音はない。
 確かに見覚えのない部屋ではあったけれど、そこが何であるかは簡単に推測できた。
「……どこかの病院の病室だよな、ここ?」
 ベットから起き上がろうとすると、俺は鈍重な体の反応を意識させられる。尤も、そこに痛みだとか、感覚が全くないだとかいった致命的な何かはない。体の鈍重な反応があるため「異変がない」とは言えないものの、少なくとも立ち上がれないと言うことはないようだった。
 ふと、ベット回りにいくつもスイッチ類が並んでいることに気付いた。その中にはナースコールもあっただろう。けれど、俺はそれを押してしまうことを躊躇った。
 頭の中を整理しておきたいと思ったからだ。多少の混濁はあったものの直前までの記憶を手繰ると、すぐに草央線の廃線を抜けて、この場所に繋がったことを俺は理解する。
 病室と思しき部屋の窓に目を向けて見る。そこには燦々と降り注ぐ日差しがあった。少なくとも、淀沢村とこちらの世界で時間の流れは合致していないらしい。
「仁村は、……仁村は帰ってこれたのか?」
 記憶の中に残った仁村の手の感触を確かめるように拳を握ったところで、俺はハッとなる。
 俺がそれを口に出した次の瞬間のこと。扉の向こう側から医者を呼ぶ女性の大きな声が響き渡った。
「先生、大部屋の患者さんが一人目を覚ましました! 例の、原因不明で眠り続けていた子の一人です!」
 目を覚ましたもう一人。仁村だと思った。俺と同じタイミングで目を覚ましたというのなら、間違いないだろう。
 ふと、俺が元の世界に戻れたかどうかを仁村が心配していると思った。ちょうど良い、仁村に会いに行こうと思った。
 そう思い立って、ベットから起き上がろうとすると、突然体が激しい倦怠感を訴えた。
 ベッドの回りにはスリッパといった類のものが見当たらなかったので、俺はリノリウムの床に素足で降り立つ。そうすると、足に力が入らず、タイミングも掴めないという状況に陥った。ふらっとよろけてしまえば、俺は体勢を立て直すことも適わず、壁に手を付き寄り掛かる。
 俺はどれだけ、この病室で横になっていたのだろうか。仁村の居る病室へ向かう途中、もしも看護婦と出会したなら、きっと俺も仁村同様「目を覚ましたこと」を驚かれるのだろう。



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