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Seen10 切り取られる人


 睡眠時間の少なさの割に、朝の目覚めは驚くほどスムーズだった。ここ最近の俺の生活習慣からは考えられない時間の目覚めだと言ってしまって良い。尤も、それと反比例するかのように、気分の方は最悪レベルに近い状況ではある。
 まるで眠りに落ちる前の緊張や物恐ろしさというものを引き摺っているかのようだ。
 直前まで物恐ろしさに震える形でありながら、実に呆気なく俺は眠りに落ちたようだった。それは眠りに落ちる直前の記憶さえ、思い出せないほどだ。まさか、それは頭からタオルケットを被った効能というわけではないだろう。
 法則が変わると言った大野の台詞を、俺は強く意識せざるを得なかった。
 そして、その変わった法則とやらは俺や緑陵寮の寮生に、強い眠気をもたらしたのではないか。例えば、草央線の淀沢村駅跡から資格を持った寮生を、倫堂が送り出すその行為の邪魔をできないようにだ。
 酷く嫌な感じがした。
「昨夜見たものは全てが夢だった」
 そう自分自身を騙してしまおうにも、否応なくがらんとした自室の様子が目に入る。それは昨夜の出来事が本当であったことを強く主張した。居たたまれなくなって、俺は逃げるように自室を飛び出していた。
 そして、行く当てのない俺が落ち着いた場所は、立ち替わり入れ替わり常に誰かが居る共同リビングだ。
「おはよう、笠城。珍しく早いじゃないか?」
 俺が共同リビングへと顔を見せたことに気付いて、定例の挨拶を向けたのは馬原だ。それらは何の変哲もない、いつも通りの態度だった。ソファーに腰掛けて片手に文庫本を持つ、そんないつもの馬原だ。
 俺は思わず、拍子抜けした。当たり前のことではあるけれど、俺と村上以外には何の変哲もないいつもの朝なのだ。
「……ああ、おはよう、馬原」
 俺の様子をマジマジと眺めた後、馬原が顔を顰めた。
「どうしたんだよ、怖い顔して」
 平然な態度を装ったつもりだったけれど、表情までは作り込めていなかったらしい。けれど、そんな自分自身の表情や態度といったものを咄嗟に取り繕うことよりも優先されたものがあった。
 緑陵寮での野々原の扱いはどうなっているんだろう?
 それは不意に俺の脳裏を過ぎった疑問を確かめることだ。嫌な予感が頭を指したのだ。
 気付けば、俺は馬原へその質問を向けていた。
「なぁ、馬原。野々原のことなんだけど……」
「ああ、実家に戻ったっていう話だろう? 急な話だったな。でも、サマープロジェクトの特性上、それも……」
 野々原が居なくなったことを、馬原は「実家に戻った」と言った。
 けれど、その馬原の野々原に対する「認識」を聞けただけで、俺は安堵の息を吐き出した。少なくとも、俺が一番聞きたくなかった言葉が馬原の口から話されなかったからだ。
 馬原が野々原について示した「実家に戻った」という認識は、昨夜馬原へ野々原が挨拶に行ったのかも知れない。そうも思った。けれど、それ以上に「実家に戻った」という尤もらしい嘘を事実として刷り込まれたのだと俺は強く思わされた。それはただの推測に過ぎず、根拠は示せない。けれど、倫堂みたいな役割を担った存在がこの緑陵寮にも紛れ込んでいて、尤もらしい嘘を事実として吹聴して回っていると思うのだ。
 もちろん、それが馬原という可能性もある。情報屋として立ち回る米城も疑わしい。
 ともあれ、野々原の存在について言及した馬原の認識を確認できてしまえば、その後につらつらと続いた言葉など俺に取って何の意味もなかった。言ってしまえば、後に続いた言葉の大半など「会おうと思えばいつでも会える」という類の気休め程度の慰めである。昨夜の一部始終を見た俺はそれが適わないことだと理解してしまっている。
 馬原の言葉を聞き流していると、ふとその会話の中へと入ってくる相手がいた。
「誰か退寮したのか?」
 それはいつかのポーカー勝負で顔を合わせたことのある兼本だった。一対一で話をした記憶はないけれど、見知らぬ者同士というわけでもない。最初から経緯を説明することを面倒だと思いながら、俺は何を語ることができて何を語ることができないかの整理を始める。本当のことを話すわけにはいかないからだ。
 ただ、そうやって俺が思案顔を見せている間に、兼本への対応は馬原がやってくれた。馬原と兼本は、それなりに親しい間柄らしい。
「兼本か、おはよう。退寮の話は野々原だよ。期間満了前に実家の都合で退寮することになったんだ」
 質問の矛先が完全に馬原へ向いたと解ってしまえば、俺は兼本への対応を軽く会釈を返すものに留める。内心、俺は胸を撫で下ろしていた。兼本への対応を馬原がやってくれたのなら、俺が間違って口を滑らせることもない。
 しかしながら、間に思案顔を挟んだ兼本からは、俺が一番聞きたくはない言葉が漏れた。
「……野々原? 野々原ってどんな奴だったっけ? いや、名前は聞いたことがあるんだけど」
 そして、俺は気付かされる。
 何だ、俺自身も「そうされた」じゃないか。
 不意に、大野に指摘された言葉が脳裏を過ぎった。
「笠城が信じ込めば、例えそれが嘘でも、その嘘は笠城の中で本物に取って代わるぞ?」
 何とも形容しがたい心地悪さが喉の奥から込み上がってきた。
 一度に全てをがらりと変えてしまったら、辻褄が合わないところも出てくる。だから、少しずつ少しずつ、ここは切り取っていくのだ。少しずつ少しずつ、けれど、それは恐ろしい速度で、尤もらしい嘘を本物に取って代えてゆくのだ。
 須藤が口にした淀沢村訪問の理由を、さもそれが自分に取っても「本当らしい」と信じたように……。
「おい兼本、冷たいな。兼本は、野々原と絡んだことがないんだったっけか?」
 今は馬原の認識も「実家に帰った」という内容だ。けれど、ここではあっという間に野々原という存在は忘れ去られてしまうのだろう。「実家に戻った」という尤もらしい嘘が本物に取って代わった後、今度はそれに「野々原なんて奴は最初から存在しなかった」という尤もらしい嘘が取って代わるのだ。
 淀沢村から姿を消してしまった野々原を記憶に留め、保ち続けられるものがどれだけここに居るだろう?
 兼本に野々原と面識があったかどうかは定かではない。でも、兼本に取って野々原は重きの置かれた存在ではなかった。だから、馬原よりも早く「野々原なんて奴は最初から存在しなかった」という尤もらしい嘘に取って代わられたのだ。
 俺の表情は自然と顰めっ面に変わっていただろう。そして、俺は人目も憚らず首を左右に振った。そうすることで誰かに何か訴えたかったわけではない。物凄い速度で共同リビングにまでやってきて、俺の背後を襲った物恐ろしさを振り払いたかったのだ。その物恐ろしさは昨夜と今朝に俺を襲ったものよりもさらに強大で、明瞭な恐怖の形を伴っていた。
 ここで俺は何を失ってしまったのだろう。そして、今まさに、何を切り取られているのだろう。
「ごめん、気分が悪い。俺、部屋に戻ることにするよ」
 未だ会話を続けていた兼本と馬原にそう断りを入れて、俺は共同リビングを後にした。もう既に、俺は二人がどんな会話をしていたのかも聞き取れないような状態だった。周囲を流れる声や音の全てが雑音に聞こえる。
 俺は村上の部屋へ急いだ。
 他人の部屋を訪れるには、まだ常識的な時間に差し掛かっていないのは知っていた。村上はまだ眠っているかも知れない。それも理解していた。けれど、例えその安眠を妨害してでも確かめたいことがあった。
 歩き慣れた緑陵寮の廊下を走り、俺は村上の部屋へと急いだ。そして、村上の部屋の扉を力任せにノックする。
 中から返事はなく、俺はドアノブへと手を掛けた。けれど、村上の部屋は中から施錠が為されていて開かない。
「村上、村上? 俺だ、笠城だ! こんな朝早くから悪いとは思う。だけど、どうしても確認したいことがあるんだ」
 俺が声を張り上げたことで、扉の向こう側からは覇気のない声が響いた。
「……笠城か? 済まない、少し考えたいことがあるんだ。今は一人にしてくれ」
 悲痛ささえ漂わせる村上のそんな要求を聞かされても退けなかった。どうしても確かめなければならなかった。
 もしも、村上が「尤もらしい嘘」に浸食され掛かっているなら、俺はそこから村上を力尽くで引き摺り出してでも本当のことを教えなければならない。「もしも、既に切り取られてしまった後だったなら」と、そう続くもう一つの可能性については考えたくなかった。
「一つだけ確かめさせて欲しい、大事なことなんだ。なぁ、野々原は確かに、緑陵寮の、俺の部屋に、俺のルームメイトとして存在していたよな? 俺と村上とで見送りをして、野々原は野々原の望む未来へ、旅立ったんだよな?」
「……何血迷ったこと言ってるんだ、当たり前だろう?」
 覇気のなかった村上の声に、僅かながら感情が灯った気がした。それは「怒り」といった類の、向けられて心地の良い感情ではなかったけれど、それすらも今の俺には嬉しかった。
「はは、そうだよな。そうだよ。……良かった! また、後で来るよ」
 俺はそう言い残すと、村上の部屋を後にした。向かう先は自室だ。もう、何処に行ってもこの物恐ろしさが完全に掻き消えることはない。そんな気がしたからだ。
 自室に戻ってボーッと天井を見上げていると、ここにある全てのものが偽物のように思えてくる。でも、どうやったらここから出られるのかは皆目見当も付かない。いっそのこと、駐輪場にある自転車を一つ借り出して、淀沢村の外へと繰り出してみようか。本物の世界がそうであるように、延々と続いているかも知れない。
 ふと「実際どうなっているだろう」と、そんな思考が脳裏を過ぎる。それは考えてみても答えを導き出せない内容だ。けれど、すぐにこうなっているに違いないという答えが返った。
 きっと、それと解らないように同じ所をグルグルと回る無限回廊のような仕組みになっているに違いない。
「笠城君達はここから出て行くための方法を探すんだ」
 野々原に言われた言葉が脳裏を過ぎる。
「そう言われても具体的に何をすればいいか解らないよ、野々原」
 自室の壁に野々原の絵を立て掛けて、俺はそれをマジマジと注視する。せめて、それがそこにあれば、俺が野々原の存在を忘れるような事態には陥らない。そう信じたい。
 思考を巡らせてみても何の打開案も思い浮かばず、俺は深い考えもなく草央線の淀沢村駅跡へと足を向けた。
 そこには金属製の扉を南京錠とチェーンで完全に封鎖し、中へ入れない状態にされた淀沢村駅跡があった。
 倫堂がやって見せたように金属製の扉へ手を翳してみるけれど、昨夜のような現象が起こるはずもない。淀沢村駅跡の待合室を硝子窓から覗き込んでみると、中は全てが撤去されてしまっていてがらんとした状態であることが解った。
 待合室への入り口を閉め切った金属製の扉を改めて確認すると、そこには無数の汚れがあった。いや、扉だけではない。その建物自体にもあちらこちらにひび割れが確認できて、昨夜のこの駅の待合室が特別だったことを理解させられる。
 裏手へと回って、俺は野々村を見送った駅のホームへ足を踏み入れる。こちらも昨夜感じた小綺麗さは見る影もない。さらに言うなら、燦々と降り注ぐ太陽光に熱せられたレールは既に長い間手入れが為されていない様子だ。あちらこちらに錆と歪みと罅を生じてしまっていて、とてもではないけれど列車が走行できるような状況にはない。
 では、それを覆したのは誰か。言うまでもない。この淀沢村駅跡で「法則」をコントロールしたのは倫堂である。
「やっぱり、倫堂さんか。……倫堂さんに会いに行くしかないか」
 いいや、キーパーソンが誰であるかなんて、考えるまでもないことだ。けれど、そうやって自分自身を追い詰めていかないと、苦し紛れの状態にならないと、俺は倫堂と対面するための行動を起こせなくなってしまっていた。倫堂を前にして平然としていられる自信がないのだ。
 情けないことは解ってる。でも、それを一度「恐い」と思ってしまったその時から、俺は無意識に倫堂を避けていた。
 あの時、倫堂はどこから俺達と野々原の話を聞いていたのだろう。どこまでを知っているのだろう。
 何よりも、倫堂を恐ろしいと思う部分はそこが明確になっていないからだ。
 俺がここにあるべき存在でないことを倫堂は知っているのだろうか。もし知らないとすれば、俺がそれを打ち明けることでどういう反応を示すだろう。俺にここから離れる資格を得るように要求するのだろうか。仮に倫堂がそれを要求するとして、本来ここにあるべきでない俺に取っての「ここから離れるための資格」とは一体何だ。
 次から次へと疑問は止め処なく溢れ出た。考えても答えを導き出せないことなど解っていた。けれど、解っていたけれど考えないわけにはいかなかったのだ。
 なぜならば、ここにあるべき存在でないが故に、存在を消される可能性が脳裏を過ぎったからだ。今俺が置かれる状況に直接は関係ないだろう。けれど、電車に夾雑物が混ざった話題の時に倫堂が覗かせた雰囲気は、それを回避するためならば「何かを傷つけることさえ厭わない」という風だった。
 ここにあるべき存在でない俺は、ここにあるというだけで本来ここにあるべき存在に対し悪い影響を及ぼすことがないと断言できるだろうか。全ては想像の域を出ない。けれど、一歩を踏み出すために俺が抱えるリスクは大き過ぎる。
 追い詰められてようやく、俺は深夜の大逃走劇以来遠目に眺めるだけで近付いたことのない遊木祭寮へ足を運んだ。
 遊木祭寮内へと邪魔したことがないため、勝手知ったる緑陵寮のように上がり込んでいって良いのか解らず、俺は玄関先で二の足を踏む。寮としての呼び名こそ違えど「基本的な構造は似通っているのだろう」と勝手に思っていた俺は、玄関の時点で門構えが異なることに驚いた格好でもあった。
 意を決して遊木祭寮の門を叩いてしまえば、後はとんとん拍子にことが進んだ。倫堂に会いに来たけれど、部屋が解らないということを説明すると、パーマ掛かった肩までの長さがある癖っ毛をヘアバンドでまとめた背の高い男が案内してくれたのだ。
 事前に大まかな場所を説明した後、男は俺を先導する形で遊木祭寮の寮内を進んだ。倫堂の部屋は遊木祭寮の三階に位置しているらしく、階段を上って三階へ出る。そうして、説明通りならば間もなく倫堂の部屋に到着するという間際になって、三階廊下で擦れ違う女が男の名前を呼んだ。
「あれ、山遠さん? 珍しい。何かナツに用でもありました?」
「倫堂に客が来てるんだ。部屋が解らないと言うから案内してきた」
 女はそこに思案顔を挟んだ後、倫堂は留守だと説明してくれた。女が口にするナツとは倫堂のことだろう。
「ふーん、そうですかぁ。でも、ナツなら確か朝っぱら早くから出掛けていきましたよ」
 それを聞いて、俺は思わず安堵の息を吐く。もちろん、ホッとして良い状況ではないと解っている。けれど、俺は自分を制止できなかったのだ。額に浮かんだ大粒の汗も、倫堂との対面が近付いたことで、強い緊張を感じたから故だ。
「そっか、それじゃあ、また出直すことにするよ」
 倫堂が居ないと解れば遊木祭寮に長居をする理由はない。俺はささっと遊木祭寮を後にしようと考える。けれど、踵を返したところで俺はその足を止めた。
「……もし知っていたら教えて欲しいんだけど、大野友貴ってどこの寮の人か知ってる?」
 それは不意に脳裏を過ぎった大野のことを尋ねた形だ。もちろん、それは思い付きの行動に過ぎず、端から返答があることを期待してはいない。もし、判明すれば儲けもの。その程度の感覚だ。
「んー……、あたしは聞いたことない名前やねぇ」
「俺も聞いたことはない名前だ」
 期待をしていなかったとはいえ、何の手掛かりも掴めずあっさりと「知らない」と回答され、俺は倫堂にしろ大野にしろ一筋縄ではいきそうもない状況に苦笑した。
「そっか、知らないなら良いんだ。ありがとう」
 そう言い残すと、俺は早々に遊木祭寮を後にする。そして、空が真っ赤に焼ける時間を待って、いつも大野と顔を合わせていたバスケットコートにも足を運んだ。けれど、そこに大野の姿はなかった。可能性が低いと知りながら、俺は太陽が完全に沈んでしまってからもバスケットコートで大野がひょっこり姿を現すのを待ち続けた。
 夜の闇が周囲を包み込んでも諦めきれないでいたけれど、やはり大野は姿を現さない。
 結局、一日掛けて何の収穫も手に入れられない。このまま、じりじりと瀬戸際まで追い詰められて行くのだろうか。
 俺の中で強い焦りが急速に確かな輪郭を伴い始めた。


 緑陵寮へと戻った時には既に夜と呼べる時間になっていた。夕食などはとっくに終わっている時間だ。尤も、コンビニエンスストア川上で購入した買い置きのカップラーメンがあるので、空腹を満たすこと自体については問題ない。
 ただ、今感じているこの「空腹」という感覚も作りもののような気がして、俺は戸惑いを隠せないでいた。
 野々原の居なくなった寮の部屋はがらんとしていて妙に広く感じられた。そして、そこには野々原がいた痕跡は何もない。せめて油絵の具の色を零した汚れだとか、イーゼルを引き摺った引っ掻き傷だとかがそこに残っていれば、まだこの部屋に暖かみを感じることができたかも知れない。
 短い時間ではあったけれど、俺はここで野々原とともに生活してきた。だから、最初は「この部屋に留まることで野々原の存在を強く記憶に止めておくことができるかも知れない」と、そんな風にも思った。でも、今はそう思わない。
 ここに一人で居ることが当たり前になって、この淀沢村に漂う何かよく解らないものに浸食されて、俺はきっと記憶を失ってしまうだろう。野々原が描いた絵を見ても、それを描いたのが誰なのか思い出せなくなってしまうだろう。
 そう思うのだ。
 仮に、この部屋を立ち替わり入れ替わり使ってきた誰かの痕跡が堆積していることを視覚的に感じられたのなら、焦燥感にも似るこの気持ちは沸き上がってこなかったのだろうか?
「……やるなら徹底的にやれよ。紛い物をそれらしく本物のように見せることが目的なら、ここは出来損ないだぜ!」
 俺がここから去れば、同じようにここには何も残らないのだろう。
 ともかく、俺はこの部屋に長い時間留まりたくはなかった。淀沢村に来た理由を求めたいつかの時のようになってしまうことを何より恐れたからだ。
 野々原なんて人物は淀沢村に最初から存在しなかった。
 突然、それが酷い現実感を伴って、俺の知らない間に、それも物凄い早さで俺の中で「本当のこと」に取って代わってしまう。振り払っても振り払っても、その物恐ろしさは消えなかった。
「俺は絶対に忘れないぜ! ……約束したからな」
 この部屋にいると、俺は全てを疑って掛かろうとする。「猜疑心に苛まれる」とはこういうことを言うのだろう。
 ここにあるものの全て、俺が口にしようとするものの全て。喉の渇きを癒すものから空腹を満たすもの。それらが俺に影響を及ぼして「嘘」を本当のことに取って代えようとしている。そう思えて仕方がなかった。
 部屋の隅の小さな収納棚の中からカップラーメンを手に取ると、俺はそれをマジマジと眺める。
 そいつは俺が知っている形状、手触り、大きさを寸分違わず持っていて紛れもない本物のように感じさせる。誰が見ても、その辺りのスーパーやコンビニで売っている有名なメーカーの奴だと言うだろう。恐らく、お湯を注いで三分待って、それを食したなら俺が知っているものと寸分違わぬ味も再現してくれるのだろう。
 でも、それがここで感じる空腹感を満たす代わりに、俺から少しずつ何かを切り取っているとしたらどうだ?
 顔を顰めると、俺は腹の底から沸き上がってきた感情の赴くままにカップラーメンを壁へと投げつけた。
 グシャッというそれらしい音がして容器が拉げた後、それは虚しく床へと転がった。
 ここに留まることを我慢できず、俺はその足は廊下へと向ける。そうは言っても行く当てなどはない。
 脳裏を過ぎったのは村上と仁村の顔だ。時間が時間だけに、俺は行き先を村上の部屋へと定めるけれど、頻りに反対意見を挙げる思考がその速度を鈍らせる。
 反対意見の主張はこうだ。
「今朝の村上の様子からして、部屋に入れてくれるとは思えない。仮に、部屋へ入ることができたとしても自室で感じた焦燥感よりも苦しいものを見ることになるかも知れない」
 村上の部屋へと進む速度は徐々に減衰し、そして俺の意識は反対意見に押し負けた。緑陵寮の薄暗い廊下でピタリと足を止めると、踵を返してその進行方向を仁村の部屋がある三階層へと切り替える。
 この時間、基本的に二階から上は男子が立ち入りできない場所だ。いや、できないという言い方はおかしいだろうか。近付くことをあまり良く思われない場所だ。もちろん、それは三階層から女子の部屋があるということがある。
 誰かに怪訝な顔付きで見られることを避けたかったので、俺は足早に仁村の部屋を目指した。夜間の訪問になる点についてはルームメイトの浅木が嫌な顔をしないかと多少不安はあったものの、いつも見せる浅木の人当たりの良さが背中を押した形だ。
 そして、三階テラスへと続く階段へと差し掛かった時のこと。
 不意に、階上から村上の名前を呼ぶ聞き覚えのある声が聞こえた。
「……あれ、村上先輩?」
 その声は聞き慣れた下部のものだったけれど、だからこそ俺は思わず身を隠してしまったのだろう。
 村上の名前を呼んだ下部の声が間違いでないのなら、村上は部屋に籠もっていないということになる。それはつまり今朝方よりもいくらかは村上がマシな状態であることを俺に期待させた。そんな村上の目に俺の姿が映ることによって、あの鬱屈とした今朝方の姿が再び顕著になるかも知れないことを嫌ったのだ。そんな状態にある村上の姿を下部に見せるなんて事態は、当然避けるべきだ。
 もちろん、今の村上の状態というものが今朝方から何も改善されていないということも十分考えられる。だから、下部の呼びかけに答える村上の第一声を、俺は緊張した面持ちで聞いていた。
「下部か」
 村上の声には覇気がなかった。けれど、声を聞くだけでも今朝方の状態よりは遙かにマシだと思った。
 下部としてはそんな村上の様子を「アンニュイになっているだけだ」とでも思ってくれただろうか。昨夜の出来事さえ知らなければ、一時的に黄昏れているだけだと思えたのだろうか。
 俺は息を呑む。もちろん「盗み聞きをするのはまずい」という意識はある。けれど、俺は三階のテラスへと続く階段の踊り場から動けないでいる。
「こんな時間にテラスにいるのが綾辻先輩に見つかったら怒られますよ? それに、きっとみんな「何でこの時間に村上先輩がテラスにいるんだろう?」って思ってますね。相手が村上先輩だから誰も声を掛けたりジロジロ見たりしないだけで、もしもこれが村上先輩じゃなかったら、馬原寮長とか綾辻先輩とか呼ばれてちょっとした問題になっているかも」
 その下部の口調は注意というよりかは忠告といった方が適当だろう。それが注意の域に達しないのは「相手が村上だから仕方がない」という諦めの感情が多かれ少なかれ介在しているように見える。若薙が馬鹿をやらかした時などに誰もが向ける「こいつなら仕方ない」といった類の諦観に近いだろうか。
 ともあれ、村上がそこに言葉を返さないことで会話は途切れた。
 そんな二人のやりとりを聞いていた限りでは、お世辞にも村上が下部の介入を快く思っているようには聞こえない。だから、俺はてっきり下部が半ば一方的に会話を始めるのだと思った。
 けれど、その予想に反して、そこに漂う静寂を切り裂いたのは村上だった。
「下部、ちょっと頼まれてくれないか?」
 それは下部へ頼み事を口にするという思い掛けない内容だ。
「用件によりますけど?」
 そして、それはいつか聞いたやりとりだ。尤も、いつか聞いたそのやりとりと完全に一致していたわけではない。相違点を具体的に挙げるならば、それは村上と下部の言葉のイントネーションが逆だった点だろう。
 村上の口調は力なく弱々しいもので、そこには頼み事を口にしながら迷いが垣間見える。その一方で、下部の口調には村上の頼みを積極的に聞き入れようという姿勢がある。
 村上が口にするだろう頼み事に俺は耳を澄ます。断じて言うけれど、それは単純な好奇心ではない。
 今朝方の村上の様子を垣間見ているから「今の村上の状態が普通ではないかも知れない」と、そう思うのだ。声色だけを聞き、実際に三階テラスにいる村上の表情や仕草をこの目で見ていないから、尚更そう思わされるというのは確かにそうかも知れない。けれど、もしも「何か問題を起こしてしまいそうな」危なげな雰囲気を村上が持っているのなら、俺が止めなければならない。
 俺はそれを強く意識したのだ。
「少しだけ、我慢してくれ。嫌だと思っても、今だけは我慢して欲しい。……先輩、命令だ」
 耳を澄ましていなければ、恐らく聞き取れなかっただろうほどの小さな声で村上はその頼み事を口にした。最後に、それが「懇願」であり「渇望」であることを、躊躇いがちに口にした村上の弱々しさは生半可なレベルではなかった。
「えっと、村上先輩?」
 何を言われたのか。下部は咄嗟に理解できなかったのかも知れない。聞き返す言葉には困惑が滲み、そこには村上がこれから何をしようとするのかを窺う様子も見て取れる。
 ガタンッと椅子が倒れる音がする。一つ遅れて、頓狂な下部の声が響いた。
「うあ! ちょ、ちょっと! む、村上先輩?」
 尤も、その声も村上の名前を呼ぶ頃には「何事か?」と、三階フロアの部屋から人が飛び出してこないよう配慮された押し殺すような声だった。
 テラスへ続く階段の踊り場に身を隠し、聞き耳を立てる俺以外は気付かないかも知れない。俺は思わず三階テラスへと駆け上がろうとする。当然、躊躇いはあったけれど、このままそこで黙っているつもりにはなれなかった。
 身を翻して階段を駆け上がり、俺は踊り場から三階フロアへと足を踏み入れた。そうして、俺はそこで足を止める。
 村上は下部を抱き締める格好だった。ちょうど下部がテラスから外の光景を見る向きにいて、一方の村上が緑陵寮内を見る向きだ。即ち、俺は下部を抱き留める村上の表情を、まざまざと目の当たりにすることになった形だった。
 村上は完全に瞑目した状態であり、眼前に俺の存在があると気付かなかったのは救いだっただろう。
 下部は風呂上がりなのだろう。上下パジャマ姿という格好で、首にはバスタオルが掛けられている。
 下部は突然の事態に村上を拒絶しようとしたらしい。けれど、村上の口から縋るような弱々しい言葉が漏れた瞬間、強張っていた全身から力が抜けたように見えた。
「温もりが欲しいんだ。少しだけでいい、我慢してくれ」
「……」
 下部は黙ってその状況を受け入れていた。そうして、一度腕を伸ばし掛けて空で制止させる。そんな躊躇いを見せた後、その手を村上の背中へと回して、きゅっと抱き締め返した。そこには下部の温かく柔らかい言葉が続いた。
「何があったかのかは知らないけど大丈夫ですよ、何も心配することなんてないですよ、きっと。あたしは知ってます、村上先輩がその気になって本気で行動したらどんなことでも上手くいくはずです」
 まざまざとその様子を見せ付けられて、俺は不味い場面に闖入したことを悟らずにはいられない。
 ただ、幸運にも下部を力強く抱き留める村上はまだその目を瞑っており、俺の存在に気付いた様子はない。このまま黙ってこの場を後にすれば、村上にも下部にも気付かれることはないかも知れない。そう思った矢先のこと。
 下部の頓狂な声が俺の名前を告げた。
「か、笠城さん!」
 まずい、見つかった。
 真っ先に俺の脳裏を過ぎった思考である。
「いや! これは、その……、仁村の部屋に行こうとして偶然通りかかったら……」
 しどろもどろになって言い訳をする俺の様子は、見苦しい以上の何物でもなかった。せめて、頭を下げてスマートに立ち去ればまだよかったものの、下手に口を切ってしまったことで事態は一気に混乱の様相を呈し始めていた。
「む、村上先輩! 笠城さんに見られているから今は……」
 下部も下部で、一気に顔を真っ赤にして慌てた様子を取り繕えない。
 そんな混迷状態を沈めたのは村上の言葉だった。すぅと目を見開いて俺を見る村上に、下部が見せる類の動揺はない。強いて言うならば、そこには諦めと決意が灯っていたように見えた。
「クソッ、怖いんだ。今日一日掛けて、色々と思い出そうとした。でも、拾い上げられないことばかりだった。矛盾だらけだった。恐らく、あいつの言葉に嘘はない」
 それは声を張り上げるような力強さを伴ったものではなかったけれど、静かな迫力を伴ったものだ。
 そして、下部ではなく俺へと向けられたものだ。
 草央線・淀沢村駅跡で、村上と共に倫堂と向かい合った俺へと向けられたものだ。
 村上は最後にぐっと力を込めて下部を抱き締めると、口を真一文字に結んだ。そうして、下部の首へと回していた腕を優しく離してしまえば、そこで村上が被った仮面は頼り甲斐のあるいつもの横顔だ。
 下部の両肩に手を置き、その顔を覗き込むように体勢を取ると、村上は感謝の言葉を口にした。
「ありがとう、助かった下部」
 それは「抱き締められる」という状況を、下部が黙って受け入れてくれたことに対する純粋な感謝の気持ちである。その言葉に一切の誇張はないだろう。
 下部に受け入れられたことがどれだけ村上の心を落ち着かせたか。それは俺には解らなかい。けれど、仮面の下に隠された村上の雰囲気は、いつも俺が接してきたものへと確かに近付いた気がしたのだ。
「どういたしまして……」
 村上に面と向かってそう感謝の言葉を口にされた下部は顔を真っ赤にして俯いた。ついさっきまでの状況をまざまざと客観的に思い返していたかも知れない。
 村上は下部の背中をそっと押す。そこに「ここから離れろ」といった類の、行動を強要する強引さはない。
 背中を押されて振り返った下部へと向けて、村上が口を開いた言葉も非常に優しい口調に終始した。
「お休み、下部。今日は突然、悪かったな。ありがとう」
 そこに至る事情を多少なりとも知っている俺に取って、その村上の言動は非常にハラハラと来る内容だった。いつもと違うその言動が逆に下部に不安を抱かせるんじゃないか。本気でそう思った。
「お休みなさい、村上先輩。その、今度は……!」
 立ち去り間際、下部はじっと村上を見つめる。その態度には強い主張が続く気配があったけれど、結局下部はふいっと横を向いてしまって、そこに続けるべき言葉を語らなかった。
「……いいえ、何でもないです。お休みなさい。笠城先輩も、また明日」
 下部はまだ顔から首筋までをも真っ赤にしていて、村上に抱き留められたことによる熱が引けていないことは一目瞭然だった。そして、ささっと足早にテラスを後にすると、後ろ手に自室の扉を閉めてしまった。パタンと小さな音が響き渡ると、テラスには静寂が訪れる。
 もしかしたら、俺は今まで最大級の邪魔をしたのかも知れない。
 村上にその意志があったかどうかはともかく、下部が村上を抱き締め返した後、あのまま邪魔が入らなかったならどうなっていたかは想像に難くない。
「俺は、馬に蹴られてあの世行きかも知れないな」
 ぼそりと呟いてみると、自嘲にも似た苦笑いが漏れた。
 下部が部屋に戻ったのを見届けた村上は俺の横を黙って擦り抜けていくと、テラスと緑陵寮の廊下を仕切る扉を閉め切った。そうして、倒れた椅子を持ち上げ元の状態に戻した後、テラスと廊下を仕切る扉にもたれ掛かるような体勢を取る。
 今から誰にも聞かれたくない話をするんだと、俺はすぐに理解した。
 影の差した物凄く怖い顔をして、村上がゆっくりと口を開く。
「温もりも感じる、感触もある、心臓の鼓動だって聞くことができる。でも、これらは偽物なんだな」
 その言葉に頷き掛けるけれど、俺は返答を濁す。十中八九、それを偽物かも知れないと俺も思っている。けれど、それは村上自身を「お前は偽物だ」と指摘することになる。そんな言葉を不用意に口にできるほど、俺は強くない。
「偽物かどうかは解らない、けど……」
 俺の言葉が言下の内に、村上は言葉の節々に無機質さをちりばめ遮るようにいった。
「偽物さ、……俺も色々と思い出した」
 相変わらずの怖い表情も、決して掻き消えることはない。
 俺がその表情に気付いてじっと様子を窺うようになるとさすがにそれは影を潜めたけれど、村上当人は気付いていないように思える。尤も、その表情も当然だと言えば当然だと思った。現状を口にすればする程、村上自身が置かれる異様な状況が浮き彫りになるのだ。
 村上へと投げ掛ける適当な言葉を見付けられずに口を噤んでいると、村上からこう提案が向いた。
「淀沢村から抜け出す道を探そう、……お前はここにいるべき存在じゃない」
 じっと俺の目を注視する村上には確固たる意志が見え隠れする。それが何を意味しているのかを含めて、全て受け止めた上での言葉なのだろう。
 村上の提案は俺がここでするべきことであるのは間違いない。では、だからといって「村上を巻き込んでしまっていいのか?」という葛藤がある。それは俺と村上の「淀沢村にいる」ということが持つ意味の違いに収束される。
「村上」
 俺は意を決して名前を呼んだ。けれど、そこで口を噤んでしまった。
「お前はどうするんだ?」
 何も考えずにそのまま口を切っていたら、恐らくそんな言葉が続いたはずだ。いずれ問わねばならない質問だとは頭では解っているけれど、今の俺にはそれを口にする勇気がなかった。ぐるぐると俺の思考について回る重しが続けるべき言葉を躊躇わせたのだ。
 名前を呼んだまま、その次に続くはずの言葉を口にしない俺の様子に、村上は俺が戸惑っていると思ったらしい。この後どうするべきかについても提案という形でこう言及をする。
「まずは淀沢村からの出口を探すに当たって、状況を説明する相手を絞ろう」
 本来、俺が色々と考えを巡らせて、俺が提案しなければならないことをまたも村上が口にする。淀沢村にある自分自身が何であるかを理解してしまった村上に、その言葉はどれも苦しいものであるはずなのにだ。
 心底「申し訳ない」と感じながら、俺は村上の提案に頷いた。
「それじゃあ、あれだ。まずは俺の高校からこの淀沢村に来てる同級生に声を……」
「待て!」
 村上の口から出たものは強い静止の言葉だった。
 そして、その言葉を口にした村上が伴う真剣さは俺に口を挟むことを許さない。
「それは慎重に判断する必要がある。笠城の同級生だからといって、ここに来るべくして来た存在じゃないと断言はできない。淀沢村の住人になるべくここに来た存在にこの話はするべきじゃない、……今の俺になら解る」
 村上の「今の俺」という言葉に、俺は何とも言えない気分になった。それは村上自身がここに来るべくして来た存在であることを言ったに等しい言葉だからだ。そして、それは強い説得力を伴っていた。その状況下に置かれる当人が恐ろしさを感じさせ兼ねない形相で告げるのだ。
 俺は何も言えない。
 何も言わない俺の様子を村上はどう捉えたのだろう。
 ともあれ、村上は続ける言葉でその忠告の信憑性について再度訴える。
「倫堂も言っていただろ? 草央線の淀沢村駅跡で見たことは誰にも話しちゃならないって。笠城には解らないかも知れない。でも、これだけは迂闊に話すべきことではないんだ」
 元から村上の忠告に反論するつもりなんかない。
 俺は素直に頷いた。
「そうだな、慎重に判断していこう」
 真剣な顔付きをして「それは譲れないこと」だと頷き返す村上だったけれど、仁村についてはこう続けた。
「でも、仁村だけは俺も間違いないと思う。一応確認はするつもりだが、仁村は笠城と同じだ。ここに来るべくして来た存在ではないだろう」
 村上の見解を聞き、俺は一つの提案を口にする。視線を向ける先は閉め切った扉の向こう側、緑陵寮三階層だ。
「……今から行くか?」
 どうせ、この焦燥感に駆られている内は、自発的にあの部屋へと戻るつもりになんてなれないのだ。仁村を「淀沢村に来るべくしてきた存在ではない」と判別することで、少しでも俺のもやもや感が改善されるならば、それは願ったり適ったりだ。例え、仁村が村上の側に属する存在であったとしてもだ。
 ただ、そう村上に尋ねた後で、そもそも俺達に見分けることができるのかという疑問が脳裏を過ぎる。見分けるに当たって、村上には何か秘策があるのだろうか。村上は確認するといったのだ。何らかの手段を用いて判別するのだろう。
 そう言う意味で仁村はちょうどいい試金石かも知れないと思った。
 村上にその判別方法がどんなものかを問うよりも、実際にこの目で確認する方がその方法が適当かどうかを直感的に判断できるだろう。そして、俺がその判別方法を習得し、見分けることができるようになれば、少しは俺の心に渦巻く猜疑心が小さくなる気がした。
 仁村がここに来るべくして来た存在ではないことはほぼ確実だ。だから、例え村上の判別方法が適当でなかったとしても大きな問題を引き起こすことはないだろう。俺はそう思った。
 後はただただ、その判別方法が確実性を持った適当なもので、俺にも習得できるものであることを祈るばかりだった。
 村上はテラスを閉め切った扉を開くと、仁村と浅木の部屋へと目を向けた。
「早いに越したことはないだろうな。今から、行くか」
 お互い腹を括ってしまった今が最良のタイミングなのだろう。今、退いてしまったなら、次のタイミングなどいつになってしまうか解らない。再び俺が行動するためには、もう一度自分自分を追い込まなければならないのだ。
 もう後戻りはできないと思った。
 仁村と浅木の部屋をノックすると、中からは警戒感を前面に押し出した仁村の声がした。
「……こんな時間に、誰?」
 それも仕方がないだろう。事前承諾がない状況で、他人の部屋を訪れるには好ましいとは言えない時間だ。
「笠城だけど、今ちょっとだけ時間いいかな?」
 俺が名前を名乗ると、僅かな間を置いて扉が開かれる。
 中から顔を覗かせた仁村はパジャマ姿で、そこにはさすがに歓迎という態度はない。
「こんな時間に何かあったの?」
 深夜の訪問に至った事情の説明を始める前に、俺は浅木の状態を確認した。
「浅木さんは?」
「友香? 友香なら、もう眠ってると思うけど」
 仁村はルームメイトである浅木の様子を窺った後、俺がこの場で望む答えを返す。
 浅木を邪険に扱うつもりはないけれど、今だけは浅木に割って入って貰いたくはない。浅木の状態がどうあるかによって、俺はそこに続ける態度や言動といったものをがらりと変える必要があるのだ。
 俺は村上を見る。そうして、村上が頷き返すのを確認した後、仁村へと要求を切り出した。
「この三人以外には誰にも聞かれたくない話がある」
 仁村は怪訝な表情をしていたけれど、それが大真面目だと理解すると後の話は早かった。そして、秘密の話をする場所として仁村は自分の部屋を提案した。
「その顔だと、真面目な話みたいだね。中、入る?」
 俺は仁村の部屋へ足を踏み入れることを躊躇った。
「ここで話をしても大丈夫だと思うか?」
 村上へと向けたその質問を、仁村は「浅木を起こしてしまうこと」を心配しているからだと思ったらしい。
「友香は寝付きが良くて、熱帯夜でも一度眠ったら朝まで熟睡するタイプだから大丈夫だと思うけど……。もしかして、ほんの少しでも誰かに聞かれたくない話なの? だったら、テラスって言う手もあるけど……」
 俺は仁村の質問に対する明言を避けた。そうして、俺の目は再び村上へと向いた。
 今回の件に関しては、俺はその全てを村上に委ねる格好だ。
「ちょっと、失礼させて貰うぞ」
 そう前置きした後、村上は仁村と浅木の部屋の様子に視線を走らせた。加えて、じっと浅木の様子を窺う。村上の考えの中には浅木を一緒に判別するという選択肢は存在しないように見えた。
「下手に、緑陵寮の外で話をするよりも仁村の部屋の方が良いかも知れない」
 今回の件に関して村上の決定に反論するつもりはなかったけれど、俺は一応村上に習って浅木の様子を確認する。
 規則正しく上下する浅木の胸元と静かな寝息は見ていて羨ましくなるぐらいに、この熱帯夜の中で心地よさそうに眠っている印象を俺は受けた。
 俺達の訪問時、既に浅木が就寝していたのは言うまでもないとして、仁村の方はまだ眠るつもりではなかったようだ。仁村のベットには後付けする形で設置されたベッドライトの明かりが灯っていて、すぐ脇のスタンドの上に読み掛けの文庫本が置かれていたのだ。
「来客用のクッションがそっちの衣装ケースに立て掛けてあるから、適当に座ってよ」
 俺と村上を入室させると仁村は扉を施錠した後、ベットへと腰掛ける。
 部屋の蛍光灯のスイッチを押さないところを見ると、仁村はこの話し合いの場をベットライトの明かりでやり過ごすつもりのようだ。尤も、浅木を気に掛けるなら、そうする方が望ましいだろう。後は浅木を起こさないよう秘密の話を展開する声量に気を遣うだけだ。
 クッションを敷いて腰を下ろしてしまえば、後はすぐに村上が口を開く形だった。
「教えて欲しいことがある。仁村の今後を左右する、大事なことだ」
 前置きなしで、そうやっていきなり核心から話し始めるところは相変わらずだと思った。
 唐突に真顔でそう突き付けられたことに、仁村は一気に緊張感をまとった様子だ。
「まず最初に聞きたい。仁村に取って、仁村自身がこの淀沢村でやらなければならないと思うことは何だ?」
「これと言って何もない、……かな。何も思い付かない。強いて言うなら、せっかくサマープロジェクトに参加したんだから、淀沢村にいる間に淀沢村でしか体験できないことを目一杯楽しむことだね」
 仁村は首を横に振り、ここでやるべきことはないという。
 寧ろ「やるべきことを為すために淀沢村に来た」というようなことを口走ることがあった場合、俺もこの仁村と村上のやりとりを余裕の表情で眺めることはできなくなったことだろう。
 そして、そんな二人のやりとりを眺めていて気がついたことがある。仁村の一挙手一投足を注視する村上はその言葉だけを確認しているわけではないということだ。恐らく、表情だとか仕草だとかいうものにも注意を向けているのだろう。
「では、仁村はどうして淀沢村に来たんだ? どうしてサマープロジェクトに参加してみようと思った」
 その質問が村上から仁村に向いた時、仁村は村上から視線を外して俺を見据える。
 それは村上へと本当のことを話してしまっても良いかどうかを、同じ境遇である俺へと確認した格好だ。いや、それは同じ境遇である俺から話して欲しいということだったかも知れない。けれど、今はその答えを改めて仁村の口から聞く必要があると俺は思っていた。
 俺は頷き返す形で、仁村の疑問に答える。
 仁村は緊張した面持ちで、淀沢村の光景が突然眼前に広がった瞬間のことを語り始めた。
「村上君はもう聞いているのかも知れないけど、あたしも笠城君と一緒なんだ。ふと気付いたら、見知らぬ光景の中にいた。あたしはあたしの通う高校の制服姿で、淀沢村の田園地帯をまっすぐ伸びる焼けたアスファルトの道路に立ち尽くしてたの。だから、どうして淀沢村に来たかは解らない。何度もそれを思い出そうとしたけれど、何も思い出せない」
 それは俺もまだ村上へと語ったことのない内容だ。だから、仁村が前置きした「もう聞いているのかも知れない」とは村上に取って完全に初耳だっただろう。現に村上からは「そんな話は聞いていない」といった鋭い目付きが俺へと向いた形だ。しかしながら、そこまで解ってしまうと村上は確認するまでもないという風に天を仰いだ。
「そこまで知っていたなら、お前のことも含めて先に話しておいて貰いたかったな」
 村上からはそんな苦言が俺へと向いた。
 申しわけないとは思いながらも、俺の方にも認識を改めておく必要があったことを説明した。
「悪い。でも、俺も一度あの状況を仁村から聞いておく必要があると思ったんだ。それに、淀沢村に来るべくしてきた存在かどうかを判別する村上の方法も、一度見ておきたいと思ったんだ」
 ふっと村上は真剣な顔に戻ると、その判別方法についてこう説明した。
 それは今の今まで言い忘れていたと言わないばかりだ。
「何かを求めてここに来たと答えたり、何かを達成するためにここに来たと答えるものは恐らくここに来るべくしてきた存在だ。それが曖昧で深掘りしていっても理由を手繰れない場合、次に重要なのはここへやってきた手段だ。もしかしたら、手段に限らず自分がどこからやってきたのかさえも曖昧かも知れない。全てが当て嵌まるとは思えないが、この基準である程度の目処付けはできるはずだ」
 一人取り残される形となって話しについて来れない仁村からは非難の視線が向いた。
「……一体全体、どういう話なの?」
 俺はゆっくりと口を開くと、それまでの経緯をいくらか端折って事情の説明を始める。緊張からか口の中が乾燥する感覚に襲われながらではあったけれど、思いの外すんなりと話は進められたと思う。


 一夜が明けて、俺は村上、仁村と食堂で顔を合わせた。
 食堂に集まった面々の中で、仁村はパッと見ただけでそれと解る酷い顔付きをしていた。「平静を装え」とまでは言わないけれど、そこまで顔に出るタイプだったなら話すべきではなかったとも思った。
「どったの仁村? 大丈夫、何か元気ないけど?」
「うん、ちょっと体調が優れないだけ。大丈夫、永旗さん」
 そんなやりとりを遠目に眺めながら、仁村が何かボロを出さないかと不安になってきたところに声が掛かった。
「おはよう、笠城!」
 俺は思わずビクッと体を震わせた。自覚している以上に、俺も普通の状態ではないのかも知れないと思った。
 俺の名前を呼ぶ若薙の声は周囲の喧噪よりも一際大きく、自然と周囲の視線を集めるほどのものだった。
 その視線の中には岸壁も居るし、永旗も居た。そして、俺が緑陵寮で関わった全員ではないけれど、数多くの顔見知りが居る。当然、そこには村上と仁村の視線も含まれる。
 いつもの自分はどんな風に答えていただろう。
 この輪の中でどんな顔をしていたのだろう。
 こんなことを考えている時点で既にいつもの「調子」なんてものを装うことはできないのかも知れない。でも、それならば尚更、いつもに限りなく近い調子を装うだけだと思った。
「おっす、おはようさん。相変わらず、朝から元気が漲ってるな、若薙。……つーか、あれだな。凄い久しぶりの感じがするな。谷交堂神社の夏祭りでは途中で居なくなって、どこ行ってたんだよ?」
 若薙は露骨に嫌そうな表情を見せると、それを「あまり思い出したくない」と言った雰囲気を漂わせた。尤も、それは八里端温泉騒動の後に村上や岸壁が見せたものとは比較にならないほど些細なものだ。
「綾辻に呼び出されたってところまでは聞いてるか? まぁ、色々ありまして。……裏方に徹してたんだよ。参加したくても参加できなかった俺が虚しくなるから、深くは聞かないで貰いたいね」
 若薙に「深く追求するな」と言って貰ったことは俺に取って非常に好都合だった。それでこの一連の話の流れを終わらせてしまうことができる。昨夜の浅木と一緒だ。邪険にするつもりはないけれど、例え僅かであっても今は若薙にペースを乱されたくはなかったのだ。
「そっか。まぁ、聞かれたくないって言っていることを、根掘り葉掘り聞こうとするほど俺も悪趣味じゃないよ」
 しかしながら、そこでさくっと片が付かないのも若薙だった。若薙はそれを誘い水にして、俺を遊びに誘う形だ。
「まぁ、それでだ。参加できなかったお詫びも兼ねて、面白そうな話がある。今日、ちょっと付き合わないか?」
 若薙に「お詫びも兼ねて」と前置きされたことで、俺の心は僅かに揺れ動く。けれど、到底その誘いに乗れるような状況ではない。まして、無理して誘いに乗ったとしても、俺は空笑いをして見せるのが精々だろう。既に答えは決まっていた。けれど、俺は誘いを断る前段階に、腕組みをして考え込む仕草を間に挟んだ。その方が「らしい」と思ったからだ。断る理由として続ける「用事」がいかに重要度のあることかを先に印象づける意図がそこにはある。
 そうして、俺は申しわけないという表情をした仮面を被ると、若薙の誘いをやんわりと断った。
「悪い、今日はちょっと片付けてしまいたい用事があるんだ。またの機会にでも誘ってくれよ」
 しかしながら、若薙は俺の眼前で大きく溜息を吐き出すと「やれやれ」と言わないばかりの態度だった。そうして、これみよがしに咳払いをして見せた後、らしくない口調で話し始め、いつかと同じような脅しの台詞を口走る。
「はぁ、笠城は解ってないな。笠城に拒否権はありません。強制参加となります。なお、参加しないと駄々をこねる場合、そりゃあもう大変なことが起きてしまいます。言うまでもなく……」
 若薙がそこまで脅しの台詞口にした矢先のこと。それは村上の妨害によって途中で遮られた。それも、妨害手段は食堂のトレイの角で、若薙の後頭部に打撃を加えるという過激なものだった。「ガンッ」と小気味良い音が鳴り響き、若薙は後頭部を押さえて蹲った。
「いい加減にしておけよ、若薙。悪乗りが過ぎるぞ」
「おーう、今のは利いたぜ! いったいな、おい! 角はねぇだろ、角は!」
 掴み掛からんばかりの勢いを伴う若薙を、村上は適当にあしらう。
「さっきの調子ならこうでもして俺が止めなければ、お前は無理矢理にでも笠城を連れて行っただろう? 笠城にだってここでやるべきことがあるんだ。いつもいつも若薙に付き合えるわけじゃない」
 若薙は渋々という形ではあるものの納得してくれたようだった。
「まぁ、用事があるっていうなら今日は仕方がねぇな。……村上、代わりにどうだ?」
「俺も今日は駄目だ。やることがある」
 若薙とやり合って見せる村上の様子は驚くほどいつも通りで、ぎこちなさを感じさせなかった。
 俺は呆然となる。少なくとも、そこに昨日自室に引き籠もった面影は微塵も感じられない。
 村上自身のこと、そして野々原のこと。完全に吹っ切ることができたのだろうか。そんなことがあるわけないと思うから、俺はいつも通りで有り続けることのできる村上の強さを痛感せずには居られなかった。なんて、強いんだろう。
 朝御飯を食べ終わると、俺達はバラバラに食堂を後にして、バラバラに緑陵寮を出発した。昨夜の段階で既に、集合場所も集合時刻も取り決めてあるのだ。場所は遊木祭川に掛かる中端橋とした。わざわざ緑陵寮の外での集合としたのは、まとまって行動するよりも邪魔の入る可能性が少ないと思ったからだ。
 浅木を例えとして出すならば、俺や村上と一緒になって仁村が出掛けることを知ったら「自分も行きたい」と言うだろう。もしも、あの人懐っこさでその了解を俺に求めてきた場合、俺はそれを頑として断る自信がない。例え仁村がいい顔をしなかったとしても、誰かが陥落直前の状態で浅木の攻勢を退けられるとは思えない。そして、それは攻勢のタイプこそ違えど、若薙にしろ永旗にしろ同じ話だ。
 集合場所として定めた中端橋には、俺と村上が約束の時間より早く到着する。当然、仁村を待つ形になったわけだけど、当の仁村は三十分以上遅れて姿を現す形となった。そして、遅れてやってきたことよりも俺達が気に掛かけたことは、仁村の表情に影が差していたように感じられたことだ。
 すぐに、仁村に感じたその部分は影を潜めてしまったけれど、見間違いだったのだろうか。
「ごめん、遅れた。友香に捕まっちゃって、説得するのに時間が掛かったの」
 眼前で手を合わせて謝罪を口にする仁村を責めるつもりはさらさらない。最も遅れる可能性があると最初から予想できた相手が、予想通りの理由で遅れたに過ぎない。そこに浅木が付随してこなかっただけ大したものである。
 ただ、そうやって厳密な予定の元に始まった本日の行動も、昨日俺が一人で行ったものと大差ないものに終始した。村上と仁村を加えたことによる劇的な状況の改善なんてものは何もなかった。尤も、ここから抜け出すためのヒントについて、キーパーソンとなりそうな人物と接触することが目的だから、人数が増えたところでやれることなど限られていると言えばそれまでだ。
 そして、まるまる一日費やしても、俺達は現在唯一の対象となる倫堂を掴まえられなかった。今日も倫堂は朝からずっと出掛けていて、いつまで待ってみても遊木祭寮には戻ってこなかったのだ。
 倫堂のルームメイト曰く、ここ数日はずっとこんな調子だという。尤も「決まった時間ではないけれど、部屋には戻って来ている」とのことなので、根気よく部屋に張り付いて居れば、いつかは会えたのだろう。佐伯に呼び止められて雑談をしたりと遊木祭寮で少し倫堂の帰来を待っては見たものの、運良くその間に倫堂が戻ってくることはなかった。
 素性も入寮先も解っている倫堂を掴まえられないことに、俺は焦りを感じずにはいられない。
 焦りは重大な見落としやミスを誘発する可能性がある。それは解っていたけれど、どうしても俺は遊木祭寮にどっしりと腰を据えて倫堂の帰来を待つつもりにはなれない。
 俺の中ではっきりとその輪郭を示し始める漠然とした不安が、そこに留まり続けることを許さなかった。「漠然とした」なんて不確かさが強調される言葉でそれを表現したけれど、俺は既にその不安を黙殺できないし、抑え付け続けることもできそうにない。それは確証がないから、明確な形を示していないだけだと思える。
 まだ、村上や仁村に対して直接口にはしていない。けれど、ここにはタイムリミットがある気がして仕方がないのだ。この「淀沢村」に延々と居続けられるとは思えないのだ。
 誰もが「夏休み」という決まった期間を利用して、このサマープロジェクトに参加していると思っている。目的を達成するまでこの淀沢村に居続けられるのなら、そんなタイムリミットなんて設ける必要はない。
 どれだけの人達がそのタイムリミットを認識しているかは解らない。けれど、例え目的を達成できない場合であっても、ここには何らかの終わりがあるはずだと俺は思うのだ。それはここに来るべくしてきた村上や野々原に限らず、俺や仁村にも満遍なく存在すると思う。
 倫堂のルームメイトに番号を聞いて、倫堂の携帯へと電話も掛けて見たけど「電源が切れているか、電波の届かないところにいる」というパターンだった。そもそも、この淀沢村で「携帯電話」というものが正常に機能しているかどうかは疑わしい。携帯電話という手段は早々絵に諦めた。
 結局、手がかりが何もない暗中模索の状態にあると解りながら、俺は倫堂の行方を探すことを選択する。但し、次の日、その次の日が同じことの繰り返しにならないよう倫堂に接触するための手筈だけは整えておく。具体的には遊木祭の副寮長である山遠などに「会って話がしたい」ということを伝えて貰えるよう頼んだ形だ。
 尤も、倫堂へと言伝が通っても、連動にその意志がなければ実現しないだろう。
 やはり望ましいのは、遊木祭寮でも何処でも良いから倫堂を掴まえることだと思った。そうして、群塚高校から谷交堂神社の境内と、倫堂が出現しそうな東地区のポイントをひたすら探し回る。淀沢村商店街にも足を運んだけれど、その姿は見付けられない。倫堂の行動範囲が西地区にまで及んでいる可能性も考えられたけど、当の俺達に西地区を探し回るだけの時間などなかった。
 ここに来た当時は淀沢村を何もないところだと思ったけれど、こういう状況になって俺は初めて理解する。淀沢村がいかに広大で、その気になって歩き回った場合、いかに訪問先があるのかをだ。筒磐台風力発電所科学館や淀沢村で最も山間に位置する風上寮などなど、この二日間という時間を掛けても訪問できなかった場所は無数にある。
 そもそも、俺や村上も知らないような場所が、まだまだこの淀沢村にはたくさんあるだろう。
 また明日がある、それでも駄目ならまたその次の日がある。
 そう自分を言い聞かせては見るけれど、ではその「次」はいつまで続くだろうか?
 あっという間に山間へと真っ赤な夕日が沈む頃になって、ふと俺の脳裏を過ぎるものがある。
 それは案内人と名乗った倫堂ほどではないかも知れないけれど、恐らく淀沢村の秘密を知るもう一人の顔だった。この時間になら、高確率で会うことのできる手品師だ。法則が変わることを俺に教えた大野を忘れるはずもない。
「……もう一人、淀沢村の秘密について知っている奴に心当たりがいるんだ。どこまで知っているかは解らないけど、何か重要な情報を握っているかも知れない。そうじゃなければ、延々と手品をやって確かめるなんて真似をするはずがない」
「誰だ? 俺も知ってる奴か?」
 村上の言葉に、俺は首を横に振った。恐らく、村上とは面識がないだろう。
「大野友貴っていう変わった奴さ」
 村上と仁村を先導する形で、俺は大野がいつも一人シュートの練習をしている場所へと急いだ。ポイントはいくつかあり、何度か想定外の場所で大野が練習しているのを見掛けたことがあるけれど、俺は始めて大野と会った場所を選んだ。
 そこは谷交堂神社の夏祭りの日に、大野がシュートを外した場所でもある。
 そうだ、スリーオンスリーに特化したあの小さなバスケットコートだ。
 ここ最近になって、ようやく位置関係が把握できるようになった近道を使い、俺は先を急ぐ。この夕日が完全に沈みきって夜の闇が周囲を包む前に、そこに辿り着く必要があると思ったからだ。
 道路脇にバスケットコートへと続く小さな下り階段がある通りへと出ると「トンットンッ」とバスケットボールをドリブルする音が聞こえた気がした。俺は期待を膨らませて、階段を下った。
 けれど、階段を下り終えて緑色のフェンス越しに見たバスケットコートには、俺の望んだ人物は居なかった。藁をも縋る気持ちが聞かせた幻聴だったのだろうか。
 落胆が俺を襲った。
「……いないか」
 その空間は直接街灯に照らし出される位置関係になっていない。真っ赤に焼けるような夕日が沈んでしまった今、そこは既に薄暗さが支配する世界だ。大野が練習を続けることに対しては「問題ない」と言えるぐらいの明るさがあるとはいえ、ここで偶然、大野と遭遇するというには「定刻」を過ぎてしまったのかも知れない。谷交堂神社夏祭りの夜を除き、いつも俺が大野と出会した時刻は夕日が沈む前の時間だ。
 けれど、ここで大野に出会えないことに俺は強い違和感を感じる。その強い違和感の原因はすぐに俺の目に留まった。
 バスケットゴールの真下にはバスケットボールが一つまるで取り残されたかのようにポツンと転がっていたのだ。
 もしかしたら、ついさっきまでここに大野が居たのかも知れないと思った。野々原が淀沢村を去ったあの日と同じように、今夜「法則が変わった」のかも知れない。そう思った。
 仮に今夜、法則が変わっていなかったのなら、大野はここでバスケットゴールと向かい合って、まだまだシュートを放っているか、バスケットボールを全て回収して引き上げていただろう。
 ふと、法則が変わった後のことについて俺は考える。
「大野は淀沢村で何をやろうとしているのだろう?」
 それは淀沢村について大野がどこまで知っているかを疑問に思った内容でもある。
 尤も、その理由について思考を巡らせてみたところで、大野なしに俺がその答えを導き出せるはずもない。
 バスケットコートの中へと足を踏み入れると、俺はポツンと取り残されたバスケットボールを拾い上げる。そうして、ボールを手に持ったまま、シュートが決まればスリーポイントとなる位置まで距離を取る。大野を真似てシュートのポーズを取れば、俺はそれをバスケットゴールへと向けて放った。
「ゴオオォォォォンッ!!」
 次の瞬間、けたたましい音が鳴る。どうにかバスケットゴールのリングにはボールを当てた格好だ。もちろん、リングにボールを当てただけで、リングの内側を通過したわけではない。
「クソッ、こんなことなら手品を習っておくんだった」
 そんな言葉が口を付いて出たけれど、今夜が法則の変わった日だという俺の認識は揺らがない。
 一連の行動の意図を理解できない村上と仁村は俺を怪訝な顔付きでじっと見ていたけれど、そこに俺は曖昧な笑みを返した。どうしてそう思ったかを問われても答えられないけれど、どうしてかそれが間違いないと思ったのだ。
 敢えて言うならば、取り残されたかのようにバスケットボールがバスケットコートに一つ置かれていたからだろう。
 一転して真顔を取ると、俺は村上と仁村に向け「法則の変化の有無」についての見解を口にした。
「……今夜、草央線の淀沢村駅跡から、また電車が出ると思う」
 村上はどうして俺がそう思ったのかを追求しない。そして、じぃっと俺を注視した後、その見解を全面的に肯定した。
「そうか。……それなら今夜、倫堂にはまた会えるな」
 自分が感じられない何かを、俺がここで感じているのだと思ったのかも知れない。
 一方の仁村にしても、俺の直感に対して異論を口にすることはなかった。ただ、仁村が反論しなかったのは、村上が俺の主張を受け入れたのとは異なる理由からだろう。どこか心ここにあらずというボーッとした仁村の表情がそれを物語っていただろう。
 俺は仁村へ向けて、その異変の理由を確認しようとした。けれど、結局そこに続くべき言葉は全て飲み込んでいた。
 思い当たる節はある。
 なにせ、昨日の今日だ。まだ心の整理が付いていないのだろう。今夜の散策が終わった後にでも、少し腹を割って話す時間を設けた方が良いかもしれない。俺はそれを頭の隅に留める。
 ともあれ、深夜の散策に向け、緑陵寮へと戻って仮眠を取ることを俺達は選択した。



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