デフォルト設定での「フォント色+背景色」が読み難い場合、下記プルダウンからお好みの「フォント色+背景色」を選択して下さい。


デフォルト設定での「フォントサイズ」で読み難いと感じる場合、下記サイズ変更ボタンからお好みの「フォントサイズ」を選択して下さい。


「夏結」のトップページに戻る。



Seen09 気付かせる人


 あれだけ楽しみにしていたはずの花火を前にしても、俺の気分は全く盛り上がらない。
 誘いたい人物が居ると言って村上達と別れた手前、大野を誘えなかったことについて「振られた」だとか適当に御茶を濁す必要があったけれど、それ以外は総じて俺の意識の大半は「法則」とやらに向いていた。
 やるべきこと。やりたいこと。
 淀沢村、引いてはサマープロジェクトのあちらこちらはこれで溢れている。「やらなきゃならない」という強迫観念に追われるレベルの人から、それを意識しながら全く動けない人。やりたいという希望を口にするだけの人もいる。
 けれど、大野は俺に対して「やるべきことを見付けられない」ことがさも当然であるかのように言った。そして、法則が変わるから「笠城にもここでやるべきことが見つかるかも知れない」と続けた。
 あの法則の変化に伴って、淀沢村で変わるものとやらは一体何だ?
 そもそも、どうしてここでやるべきことを見付けなければならない?
 やるべきことをやり切ってもやり切れなくとも、いずれはサマープロジェクトに終わりは来る。やるべきことを見付けられないまま、終わることだってあるだろう。それは当然ではないのか。
 考えれば考えるほど、胸の奥に溜まっていたもやもや感はその存在感を増していった。
 気付いたら夏祭り二日目の喧騒の中にいて、その夏祭り二日目でさえも時間はあっという間に流れていった。そうして、二日目の最後を締め括る本堂前に設けられた櫓の前での踊りが始まった。盛り上がりの最高潮は間違いなく夜空に咲いた大輪の花火群だったけれど、こちらはこちらで別の趣がある。
 尤も、その趣があったのも一人の代表者が神前に捧げるものとして、流れるような舞を完璧に披露した最初だけではあったけれどだ。その後は拍子もメロディも違う音楽だというにも関わらず、一部の連中はフォークダンスを踊ったりと各自が好き勝手にやっていた。しかしながら、誰もそれを咎めないから、ここでは毎年こんな感じなのかも知れない。型にはまったきちんとした手順を踏むことも大事だけれど、最初から最後まで格式張っても面白くない。そう言うことだろう。
 櫓の前で舞を踊ったりしたのは地元民や、予めここで踊ることを想定していた人達が主流だったけれど、中には緑陵や遊木祭の寮生と思しき面子も相当数いた。そして、俺や村上も誘われるまま、仁村と浅木、そして永旗や下部と辿々しいものながら踊りに参加した。
 それで少しはこの鬱屈した思考から解放されて、気分が晴れるかも知れない。そう思ったのだ。
 俺の心の根底に横たわるこの支えるようなもやもや感の原因は何だろう。求めても、考えても、その答えは出ない。
 ふと、この二日間、野々原と若薙の顔を見ていないことに気付く。それは夏祭り二日目が完全に幕を閉じ、俺が自室で一人天井を見上げていた時のことだった。
「何だろう、……何かがおかしい気がする」


「笠城君」
 そう俺の名前を呼んだのはルームメイトの野々原だった。
 心地よい眠りから全身を襲う気怠さを感じつつも、俺は急速に覚醒する。
「……野々原?」
 自分の名前を呼んだ相手が野々原だということは解っていた。だから、そう問い掛けたのは相手を確かめるためではない。それは俺を起こした理由を確認するためだ。
 寝起きで判断力の悪い俺にも、今の野々原の姿がこの場所と時間にそぐわないものであることはすぐに理解できた。ちらりと窺い見た窓の外はまだ暗闇に支配されていて、全身を襲う倦怠感もまだ夏祭り二日目の余韻が残る深夜の時間であることを俺に主張した。壁に掛けられた時計を確認すると、それは深夜一時を回るか回らないかを指していた。
 安眠を妨害されたことに対する苛々もあるにはあった。相変わらずの寝苦しい夜だったけれど、今夜は驚くほどすんなりと眠りに付くことができたからだ。しかしながら、そんな苛々も野々原の真剣さの前に影を潜めた形だった。俺の安眠を邪魔するに足る正当な理由があることを、その雰囲気は示唆している。
「何か用なのか、……こんな夜中に?」
「突然なんだけど、今日でお別れみたいなんだ」
 野々原は小さく頷くと、その用件をさらりと口にする。
 その他人事を話すかのような口振りに違和感を覚えながら、俺は反射的に切り返していた。
「こんな時間に、何言ってるんだよ?」
 ただ、そう口走ってしまってから、俺は様々な可能性へと思考を拡散させる。
 真顔でお別れと口にした野々原が冗談を言っているようには聞こえない。そして、ピシッと余所行きの服装に身を包んだ格好と、野々原の私物が片付けられた部屋の様子が目に入る。その事実が別れの言葉を本物だと強く訴えた。
 僅かな思慮の時間を挟み、俺は尋ねた。
「実家に帰らなきゃならなくなったのか?」
 詳しいことは聞かない方が良いのかも知れない。
 そんな思考が頭を過ぎったから、突然の別れの理由を求める俺の言葉はそんな内容に留まった。
 けれど、答えに困るはずのないそんな質問に対してさえ、野々原は曖昧に笑って見せて返事を濁すだけだった。辿々しい言葉で話し始めてしまえば、野々原は俺の問いに対する答えを後回しにする。
「少しだけ、今から時間を取って貰ってもいいかな? 笠城君に話しておきたいことがあるんだ」
「ああ、構わないよ」
 そんな野々原の様子に、俺はできる限り平静を装った。動揺を隠さない言動で、野々原を困らせたくはなかったのだ。
 野々原は窓の外を指差すと、申し訳なさそうな顔をして深夜の散策を提案した。
「夜風にでも当たりながら話そうか、……回りを気にしてここで声を殺して話すのは大変だろう?」
 身体が睡眠を要求する感覚もあるにはあったけれど、それは野々原の提案を断る理由にはならない。今夜、野々原との会話をしないことで味わうだろう後悔に比べれば、そんなものは些細な苦痛だ。
「少し待ってくれ、今用意するから」
 俺の言葉に黙って頷いた後、野々原は部屋の様子を名残惜しそうに見渡していた。
 蛍光灯に明かりが灯っていないので、室内を照らし出すものは月明かりだけだ。けれど、そこに「電気を付けようか?」だとか、何かしらの言葉を挟むことは躊躇われた。月明かりの微かな明るさでさえ解るのだ。
 野々原の目には何とも表現できない覚悟のようなものがある。何とも言えない雰囲気があるのだ。
 俺は黙々と外出の支度をした。
 支度を終えると、野々原が俺を先導する形で部屋を出た。
 緑陵寮の廊下は物音一つしない。どうやら、緑陵寮は完全に寝静まり返っているようだった。これが何の変哲もないいつもの夜ならば、この時間でも誰かしら共同リビングに居たりするのが普通だ。
 二日間に渡った谷交堂神社の夏祭りで、みんな騒ぎ回り疲れ果てて眠っているのだろう。
 大きな足音を立てないように注意を払いながら静まり返った廊下を進む。玄関まで辿り着いてしまえば後は楽だった。
「荷物があるから、先に外に出て待っていてくれ。すぐ行く」
 野々原に促されて、俺は緑陵寮玄関を先に出る。そうして、改めて緑陵寮の様子を外から確認し、俺は驚かずにはいられなかった。そこには電灯の一つさえも灯っていなかったのだ。
 深夜の時間だというにも関わらず、相変わらず外気温は高い。寝苦しさはいつもとそう変わらないか、下手をするとより酷いはずだ。これが祭りの効果という奴なのかも知れない。
 肩から提げるタイプの小さな鞄を持った野々原が、少し遅れて緑陵寮の玄関から出てくると深夜散策が始まった。
「それじゃあ、ちょっと歩こうか」
 どうやら、深夜散策についても野々原が先導してくれるらしい。そう前置きすると、ゆっくりと歩き始めた。
 最初、野々原は「夜風に当たろうか?」と言った。俺はそれを「適当に散策しよう」と言う内容に解釈したけれど、当の野々原には目的地があるようだ。先導する野々原の足取りは確かであり、少なくとも適当に歩みを進めているという感じはなかった。
 そして、向かう先は遊木祭川とは反対方向で、広大な田園地帯の広がる方角だった。大まかに括ってしまうと、俺が村上に救出された方角である。加えて言えば、記憶を手繰ってみても何があるかを俺が今一把握できていない方角でもある。
 野々原の先導に従って、黙って後を歩く俺は満天の星空へと視線を向けていた。相変わらず、あちらこちらにオレンジ色の街灯が煌々と灯る淀沢村は明るい。それでも、都会のものとは比較にならないほどの星空が広がっていたのだ。
 そして、そうやって星空を見上げる形で、俺は野々原から話し始めるのを待っていたのだろう。俺がせかせか続けざまに質問をぶつけるよりも、野々原が野々原のペースで話すのがベストだと思ったのだ。
 だから、まともに会話のない状態が続いていた。待つことを殊更苦痛だとは思わなかった。けれど、そうやって言葉を交わさないことで、限られたものかも知れない貴重な時間が減って行ってしまっているような気がして、結局俺は我慢できずに口を開いていた。
「また、会えるよな? 今生の別れってわけじゃないんだしさ」
 雑談をするつもりで口を開いたはずなのに、実際にそこへ放たれた内容は別れを惜しみ再会を願う言葉になっていた。緑陵寮を出てから続いた互いの沈黙を切り裂く最初の言葉がそんな内容になるなんて、思いも寄らなかった。
 尤も、それを口先だけの言葉で終わらせるつもりはない。
 きっかけはたまたまこの緑陵寮でルームメイトになったことだったかも知れないけれど、ここでその縁を終わらせるつもりはなかった。メル友という形だってあるし、インターネットだってある。直接会うという方法ではないけれど、縁を終わらせない方法はいくらだって考えられる。
「実家に戻ったらまずは連絡くれよ。えーと、俺の携帯番号は……」
 そこまで俺が口にして、今まさに連絡先を続けようとした矢先のことだ。野々原がその俺の言葉を遮って口を切った。
「そうだね。ここでのことを忘れなかったら、その時は必ず連絡するよ」
 そう言った野々原の表情は、一目で作られた笑顔だと解る酷いものだった。けれど、そこには哀愁だとか諦観だとかが漂うわけでもない。野々原の「ここでのことを忘れなかったら」という仮定の言い回しもそうだけど、それは俺に不思議な感覚を味わわせる。
 そうして、野々原は俺へと向き直って口を開く。けれど、野々原から何か言葉が向けられることはなかった。くっと真一文字に口を結んでしまえば、言い掛けた言葉を飲み込んでしまったようだった。口に出すべき言葉を選び迷った。
 少なくとも俺にはそう見えた。
 唇を噛む仕草を合間に挟み、野々原は心底困ったように苦笑いを滲ませる。そして、力強く断言する形でその一連の流れを締め括った。けれど、それはあくまで野々原が飲み込んでしまった言葉の代替品だっただろう。
「いつになるかは解らないけど、必ず連絡する」
 まるで「約束」だと言わないばかり、野々原は俺へと向けて手を差し出す。
 野々原がそれを約束としたことで、俺はそれ以上、野々原に向けて何かを言える状況ではなくなってしまっていた。そこに野々原の決意が見え隠れしたから、俺は差し出された野々原の手を黙って握るしかないのだろう。
 ただ、それで全てを飲み込んでしまうつもりにはなれなかった。少なくとも、野々原の言葉の中に感じた違和感を、質さないわけにはいかない。
 ところどころ芝居じみた対応を見せる野々原は、明らかに普段の野々原ではない。
「なぁ、いつになるか解らないってのはどういうことだ? 連絡なんていつだって……」
「その話はもう少しだけ、後にさせてくれないか?」
 野々原は困った顔を隠そうともしなかった。
 立て続けにそんな言動を見せられてしまえば、俺もさすがに口を噤むしかない。どうすることもできなくなって、俺は差し出されたままの野々原の手を握り返そうとした。
 すると、そこで野々原は何かに気付いた様子だった。慌てた様子ですっとその手を引いてしまう。そこに滲んだものは、目を大きく見開いた慌てる調子だった。
「はは、やっぱり握手も最後に取っておこうか。今、それをやってしまうと有難みがなくなる気がする」
 野々原は手を隠すように引っ込めると、くるりと俺に背を向ける。心底「申し訳ない」という顔をする野々原に、俺との握手を嫌った様子はない。けれど、それら一連の挙動は不審と思える内容ばかりで、俺は思わず怪訝な顔を返していた。
 もしも、握手を避けた理由が取って付けたようなものだったら、俺はどう反応しただろう?
 無理矢理に野々原の手を握り取ったかも知れない。ともあれ、野々原がそういうのであれば、俺もそれを最後に取っておくことにしようと思った。野々原が重点を置く何だか良く解らない「有難み」を立てることにしよう。
 てっきり、またどこかを目指して歩き始めれば、沈黙が俺と野々原との間に横たわると思った。また、虫の鳴き声が延々と鳴り渡る中を、二人歩くことになると思った。けれど、そんな俺の推測は村上の出現によって外れることになる。
「大事な話があるなんて、こんな時間に呼び付けた割には遅かったじゃないか?」
 街灯の設置された電信柱を背にして、村上は待ち惚けを食っていた様子だった。
 村上の出現に驚く俺とは対照的に、野々原は平然と対応を返した。予め、解っていたことなのだろう。
「はは、ごめんね。笠城君を誘っていたし、僕も思いの外、まだ割り切れていないみたいなんだ」
 野々原の紹介を受けて村上が俺へと視線を移す頃合いを図り、俺は遠慮がちに手を挙げて自分の存在を主張した。
「……おっす」
 しかしながら、野々原の話を聞いた後で、どんな顔をして村上に挨拶すればいいかが俺には咄嗟に解らなかった。そもそも、俺自身、今そこにどんな顔を作ることができるかも解らない。きっと酷い顔だろう。
「笠城か?」
 村上の対応は俺が目を疑うほどにいつものものと変わらなかった。そして、俺の顔を見るなり、村上は俺がいつも通りではないことについてこう尋ねてきた。
「どうした、辛気くさい顔して?」
 もしかしたら、今夜で野々原が淀沢村から離れることを知らないのかも知れないと思った。
 自然と、俺の言葉は荒々しさを帯びていた。
「だってさ、野々原が今日でお別れしなきゃならないなんて言い出すから!」
 案の定、俺の言葉に村上はその表情を強張らせる。そして、真偽を求める鋭い瞳は、自然と野々原へと向けられた。
「……なんだって?」
「ごめん、言い忘れていた訳じゃないんだ。笠城君と同じタイミングで話をしようと思っていたんだ。まぁ、話の流れもあって先に笠城君へ話すことになってしまったんだけど、……今の話は本当だよ」
 緑陵寮を出発してからしばらくの間、野々原が無言で歩き続けたのには「そんな理由があったんだ」と納得した。
 村上は掴み掛からんばかりの勢いをまとって、野々原にその理由を確認する。
「どうして?」
「その質問はおかしいよ、村上君。いつまでも、ここに居られるわけじゃない」
 野々原はさもそれが当然というように切り返す。
 それは確かにその通りで、別れはいつか必ずやってくる。このサマープロジェクトが永遠に続くものでない限り、それは必然だ。しかしながら、これはあまりにも急過ぎる。
 村上が言及するのもそこだ。
「だからって、何でこんなにも急な話になる?」
 端から見ていても「熱くなり過ぎている」と思わせる村上に、野々原はクールダウンを促した。今のままではまとまる会話もまとまらない。そう思ったのだろう。
「少し、落ち着こう。歩きながら説明するよ。目的地はもうちょっと先なんだ」
 村上が納得いかないという顔をしてピリピリとした雰囲気を持っているから、そこには自然とぎこちなさが生まれた。特に、野々原には諦観にも似る泰然とした態度があり、そこに生まれる温度差は顕著である。
「倫堂さんの心と体に触れて、僕は色んなことを理解したんだ」
「……その点については、おめでとうと言えばいいのかな」
 それを「彼女ができました」といったような、惚気の報告だと思ったから俺の言葉は軽い調子になる。まずはそういう話から持って行って、この張り詰めた雰囲気を緩和しようと野々原が試みたと思ったのだ。
 けれど、野々原から俺へと向いたものは、自嘲の混ざった苦笑いだった。
「はは、僕に倫堂さんの心は掴まえられないよ。いや、それは僕だけじゃないな。恐らく、ここには倫堂さんの心を掴まえられるものなんていないよ。ここで倫堂さんが担う役割はきっと、様々なことを気付かせることだろうしね」
 倫堂について述べる野々原の見解に、俺は思わず首を捻る。
 誰も倫堂の心を掴めないと野々原に言わしめた「倫堂の担う役割」とは、理解に苦しむ言葉だ。様々なことを気付かせるといったその内容は、淀沢村にいる全ての人を対象とした内容だとでも言うのだろうか。そして、気付かせる役目とやらを倫堂が担うことで、どうして誰も倫堂の心を掴むことができないか。
 俺には何一つ、それらの意味を正確に把握できない。
 誰も倫堂の心を掴むことはできない。それは倫堂の心に野々原が触れたから、解ったことだろうか。
「僕がこの淀沢村で何をしようとしていたのか。何を求めて、この淀沢村で足掻いて苦しんでいたのか。色んなことを理解し、また、思い出した。もちろん、僕がここに来た目的は笠城君や村上君が知っての通り、ここでしか描くことのできない絵を描くためだ。だから、理解し思い出したといった内容はより根っ子に近い大本の理由って言った方が正しいのかな。その目的を、ここで達成しなければならないと思った根本的な理由だよ」
「その言い方、倫堂さんに触れるまではその根本的な理由を思い出せなかったというようにも聞こえるけど……?」
 どうしてもそこが気に掛かって、俺は野々原の言葉を遮る形で確認する。その言葉は、少なからず「野々原にも過去に対する記憶の忘却がある」と述べた風に聞こえたからだ。もちろん、それは俺のように淀沢村へと至る経緯の全てを完全に思い出せないというような内容ではないかも知れない。
「みんな、うっすらとは認識していると思うよ。でも、それは同時に不明瞭な部分だらけのはずなんだ。そして、ここではみんな余計なことなんて考えないんだ。その不明瞭な部分を「どうして?」だなんて突き詰めないようになってしまっているんだ。今の僕になら、それを鑑みることができる。けど、渦中にある人達はきっとそれを認識することはできない」
 そんな見解を述べた後、野々原は不意に村上へと視線を向ける。
 それはつまり、渦中にある人の一人を村上だと指摘したに等しいように思えた。
 それを証明するかのように、野々原が続けた言葉は村上へと向けられたものだった。
「村上君はどうしてヒーローになりたいと思った? 僕らがこの淀沢村で初めて会った時からずっとその目的は変わっていないと思うけど、そうありたいと思った一番最初の切っ掛けはどうしてなんだっけ?」
「そんなの、……子供の頃に見た変身ヒーローに憧れたからだよ」
 村上の返答を受けて、野々原はさらにそこに一歩踏み込んだ質問を続けた。
「質問を変えよう。どうして淀沢村だったの? どうしてサマープロジェクトって方法だったの? 恐らく、それは最良の方法ではなかったよね? 一度、村上君には考えてみて欲しい。それを突き詰めてみて欲しい」
 村上は思案顔を滲ませると、足を止めて押し黙ってしまった。それに答えるべく、記憶を手繰っているのだろうけれど、それは非常に長い。そうやって突き詰められなければ、その答えなんてものは恐らく「何となく」で済ませてしまったかも知れない。
 野々原は村上が何らかの結論を出すことを待たなかった。それはまるで答えが簡単には出ないことを解っているかのようだ。いや、事実解っているから故の言動だったのかも知れない。
「ここでは、みんな自分が定めたゴールに向かって邁進している。もちろん、邁進し続けられる人達ばかりじゃないし、目的があってもついつい誘惑に負けて遊び倒しちゃうような人達もいる。これといった目的というものを持たず、漠然とした何かを追い掛ける人もいるかも知れない。それは個人個人の性格や情熱に左右されるんだろうね。ゴールにしたってそう。彼女を作りたいだとか、一夏の経験だとかそういったことをゴールとして目指してる人達だっている」
 野々原で言えば、それはここでしか描くことのできない絵を描くこと。村上で言えば、それはヒーローになること。佐伯で言えば、それは蝶を探すことなんだろうか? では永旗は? では岸壁は? では若薙は?
 この際、それもどうでもいい。
 では、俺で言えばそれは何だ?
 みんなに該当しない俺は、例外なのか。それとも、やるべきことを見付けられていないだけなのか。
「率直に言うことにするよ。やっぱり、僕に取ってここで一番信用できるのは村上君だった。だから、村上君にはここへ来て貰ったし、笠城君にだけでなく村上君にも君自身が何ものであるのかを今から話すことにする。恐らく、僕はここでやってはならないことをしようとしてる。でも、笠城君も村上君もここで出会った僕の大切な友人だから、やっぱり話さないわけにはいかない」
 タイミングを見計らっていたと言わないばかり、そこまで言い切ったところで野々原はピタリと足を止める。
 野々原が足を止めた場所には小さな建造物があった。それは二階を持たない長方形のシンプルな構造でコンクリートでできている。扉や窓は完全に閉め切られていて、人が中に進入できないよう南京錠で鍵が掛けられていた。
 当然、中に人が居る気配は感じられない。強いて言えば、周囲には民家などはない。それどころか、それは緑陵寮がそうであるように、平原のど真ん中にポツリと存在していた。
 ここには虫の音と自動販売機の稼働する「ブーン」と鳴る機械音以外には何もない。
 何のために存在している建造物なんだろう?
 しかしながら、マジマジとその建造物を注視した村上によって、その建造物が何であるかはすぐに示された。
「ここ、草央線の淀沢村駅跡か?」
「ご名答。さすが、村上君は淀沢村について色々知ってるね」
 野々原はズボンのポケットから財布を取り出すと、自動販売機の灯りに群がる虫を厭うこともせず、そこに小銭を投入していった。ボタンが赤く光って購入可能な状態になると、野々原は俺と村上に尋ねた。
「奢るよ、何が良い?」
 確かに喉の渇きはあったけれど、それは微かで欲求というほど強いものではなかった。そういう背景もあって、俺は自動販売機に並ぶ商品を一々確認するつもりにもなれない。だから、俺は方向性を示して見せて、その中であれば何でも良いという形で答えた。
「ありがとう。……俺は炭酸系なら何でもいいや」
「村上君はあれだね、栄養補給系のドリンクだろう?」
 俺の返事を聞いた時点で、野々原は心得顔でボタンを押してしまっていた。村上の返事を聞かずにことを進めた様子は「それ以外の選択肢なんてないだろう?」と言わないばかりだ。尤も、そこに異論が挙がらないところを見れば、それで村上に不服はないようだった。
 ガコン、ガコンと音が二つ鳴って、自動販売機は缶ジュースを吐き出した。それを手に取って、野々原はマジマジと眺める。何でも良いと言ったから、炭酸系の缶ジュースを適当に選んだのだろうと思った。
 しかしながら、野々原の口からは意味深な言葉が漏れた。それは缶ジュースを通して、ここにはない何かに軽蔑を向けたようにも見える。
「こういうところまではさすがに気が回らないのかな。……これはどこで留まった形なんだろう? よくよく注意深く見ていけば、きっと色んなところに疑うべき余地はあったはずなのに、見落としていたんだな。見えているものを見落としたのか、それとも……」
 そこで言葉を句切ってしまうと、野々原は俺へと向かって缶ジュースを放り投げた。
「笠城君が住んでる街で、今もこんなデザインの炭酸飲料の缶を見掛けたりする?」
 俺の胸元付近を目掛けて放られた缶ジュースを受け取ると、俺はそれをマジマジと確認した。
 それは一時期流行った復刻版で見掛けたデザインをしていた。これがその手の復刻版でないのであれば、いつからこの自動販売機に入っているのだろか。可能性が全くないとは言わないけれど、淀沢村が位置する地方では今も時代を感じさせるこんなデザインで作り続けているのだろうか。
 それが意味するところを掴み兼ねて、俺は顔を顰める。嫌な感覚だった。顔をがしりと掴まれて、気付きたくはない何かに向かって無理矢理視線を向けさせられるような、そんな心地悪さが吹き出してきた瞬間だった。
「はは、でもこっちは良くも悪くも変わらないんだね」
 栄養補給系ドリンクのデザインを確認した後、野々原は同じように村上へと向けてそれを放る。
 その一連の言動で野々原がやりたかったことは俺達の喉の渇きに気を遣って缶ジュースを飲ませることなどではなかったのだろう。それを解ってしまうと、到底缶ジュースの中身を飲もうなんて思えなかった。
「色々と理解し思い出した後も、僕はここでたくさん飲んだり食べたりしてきたから、中身に仕組まれた何かなんてないと思う。それを僕が言っても信憑性がないかも知れないけど、……保証するよ。それに、奢るといった気持ちは本当なんだ。せっかく買ったんだし、飲んでくれよ」
 野々原に促され、俺も村上も缶ジュースのプルタブを持ち上げた。
 喉の渇きを潤し一息吐いたところで、頃合いだと言わないばかりに野々原が口を開いた。
「結論から言うよ。笠城君はここに留まり続けてはいけない。恐らく、仁村さんもそうだろうけど、笠城君と仁村さんはここにあるべき存在じゃないんだ」
「どういうことだ?」
 村上の険しい視線に睨まれて、野々原は本当に申し訳ないという顔をした。そして、一度くっと口を真一文字に結んで見せれば、その質問に答えることには何らかの決意が必要であることを示唆した。
「村上君、僕らはもう、きっと、魂みたいな存在なんだ。そして、ここで何かを為すために存在してるんだ。恐らく、その目的は人それぞれで、ゴールへ到達か、それを諦めてしまうまでここで生活することができる」
 野々原の言葉を聞く村上の目付きは険しい。
 俺と違って、村上がどこまで淀沢村に「異変」を感じていたかは解らない。今の今まで疑う余地など持っていなかったかも知れない。野々原に突き付けられた質問で、初めて波紋を感じた口かも知れない。けれど、言下のうちに否定を口にしないところを見ると、心のどこかで野々原の見解を本当だと思う何かがあるのかも知れないと思った。
「でも、笠城君や仁村さんは違うんだ。確かにここでは同じ魂みたいな存在だけど、なんて言えばいいか……、違うんだよ。ただただ率直に言うのなら、まだここにあるべき存在じゃないんだ。僕達とは違うんだ。きっと、ここで為すべき目的なんて持ってないし、持っていてはいけないんだ。僕達に取ってはこの留まった世界が本当だけど、きっと笠城君達に取ってこの世界は偽物で、本来あるべき場所があるんだ。戻るべき場所があるんだ」
 俺はドキリとした。そして、同時に安堵し、すぐに強い不安を覚える。
 淀沢村での目的を持っていないことを的確に言い当てられて、そして、それを正しいと言われたからだ。最後には、ここではない戻るべき場所について言及されたけれど、全てを引っくるめてそれらを本当だと思った。
 野々原は俺をじっと見据えると、ここでやるべきことを俺に提示した。そして、自分自身をその例として示す形で、ここに俺がいたことを無駄ではないと言う。ここで俺が無為に過ごした日々に意味があったといった。
「笠城君はここから出て行くための方法を探すんだ。この色んなものが留まった世界にいたら、きっと取り返しの付かないことになる。……でもね、思うこともある。笠城君と僕とが同じ部屋でルームメイトとして生活することになったのは、もしかしら偶然じゃなかったのかも知れないって。笠城君が居なかったら、きっと僕はここで目的を達成できなかった。だから、僕が生まれ変わって、もしもどこかでまた巡り会うことがあったら、また友達になって欲しい」
 そこで言葉を句切ってみせると、野々原の表情は儚い笑顔へと切り替わった。まるで最初から、そこでそうするつもりだったかのようにだ。
「だから、さようならだ」
 野々原が俺へと向けて手を差し出す。
 この時のために野々原が「握手」を取っておいたと理解できるから、俺は当惑を隠せなかった。ここでこの手を握り替えしてしまったら、全てが終わる。第六感がそれを強く警告していた。
 聞きたいことは山ほどある。それは俺だけではなく、村上も一緒だろう。
 それを証明するかのよう。村上は俺と野々原の間に割って入ると、声を張り上げた。そして、差し出した野々原のその手を叩いて払い除けようとする。
「馬鹿言うなよ! お前が何を勘違いして……」
 けれど、村上が張り上げた声は、途中でその勢いを失速させる。繰り出した一撃も野々原が差し出した手を実際に払い除けることはなかった。
 直前で野々原がそれを回避したわけでも、村上が意図的に外したわけでもない。村上の一撃は確かに野々原の手を払い除けようとしたけれど、まるでそこに野々原の手などないかのように擦り抜けてしまったのだ。
 村上の一撃が擦り抜けてしまった後、野々原の手は半透明となり、そして白く発光した。
「ここでやるべきことをやったから、僕にはもうここに留まり続けるだけの時間がない」
 白く発光する手に視線を落とすと、野々原の横顔には程度の酷い苦笑いが滲んだ。それは手を払い除けて貰えなかったことに対する「哀しさ」を、体現しているかのようだ。
 その一方で、同じように掌へと視線を落とす村上は、真っ青な顔だった。野々原へと触れることが適わなかったその事実を、噛み締めていたのだろう。
 あの時、野々原が握手を避けた意味を俺は身を持って理解した。有難みがなくなるといったその意味もだ。
 不意に、バチンッと激しい音を立てて、オレンジ色の街灯が明滅する。それも、この区画にある全ての街灯が一斉にだ。何か普通ではないことが発生したのだと嫌でも理解させられる現象だと言えただろう。
 そして、俺と村上の背後から聞き覚えのある声が響き渡った。
「困るなぁ、それは何も知らない淀沢村の住人に話すべきことじゃないよ?」
 それはあっという間にその場に漂う空気を塗り替えてしまった。確かに聞き覚えのある声だったけれど、それは俺が知っているものよりもずっと冷たく、ずっと威圧感を伴ったものだ。だから、相手が誰かを確認する言葉にも、俺は確信を持てなかった。
「……倫堂さん?」
 振り返った場所には確かに倫堂その人が居た。見た目も佇まいも、何度か顔を合わせたその時の様子と何ら変わらないように見えるのに、俺は無意識の内に「警戒心」を倫堂に向けていた。直感や本能と言ったものが、警告していたのかも知れない。
 けれど、それ以上に激しい警戒が村上から倫堂へと向けられたことで、俺はどうにか冷静さを保つことができた。
 警戒の目に晒されながら、それを気に掛ける様子の一つさえ倫堂は見せない。そして「参ったなぁ」という顔付きをすると、こう俺と村上へ持ち掛けた。
「そこにいるのは村上君に、笠城君だね。今、野々原君から聞いたこと、聞かなかったことにはできないかな?」
 当然、それは無理な相談だ。
 村上が倫堂に食って掛かってしまえば、返事をするまでもなくそこには「拒否」が示された。
「何も知らない淀沢村の住人っていうのはどういう意味だ」
「そのままの意味、かな」
 倫堂の回答に惚けた様な調子はない。では「そのまま」とはどういうことか。
 今ここでそれを区別するならば、俺や村上が何も知らない側で、野々原や倫堂が何かを知っている側なのだろうか。
 俺が感じた疑問を、村上は鋭い口調で率直に倫堂へとぶつけた。
「お前はその内の一人じゃないのか?」
「あたし? あたしかぁ」
 そこで言葉を句切ると、倫堂は不意に真顔を見せる。そうして、俺達に身構える間も与えず、そこに倫堂が続けた言葉は警告だった。殊更警告の雰囲気強調された感はなかったけれど、倫堂からは「聞かない方がよい」といったニュアンスが漂った。
「あたしがそれを答えちゃうと、後悔するかも知れないけど良いの? さっきのことも、誤解を招かないように敢えて付け加えさせて貰えるなら、村上君や笠城君に取って知らない方が良かったことだよ」
 村上はじっと倫堂を注視する。その目で強く事情説明を求める形だ。
 倫堂は終始小難しい顔をしていたけれど、結局は村上の要求に応える形で口を開いた。
「あたしは淀沢村を離れる資格を得た住人達を輪廻の世界へと導く案内人、……とでも言えばいいかな」
「輪廻の世界?」
 咄嗟に問い返した俺の質問に倫堂は答えない。ただ、ニコリと笑って見せただけだった。けれど、そこに答えを曖昧に濁す態度はない。言葉通りの意味だと、倫堂はその態度で俺の質問に答えたようなものだ。
 俺と村上は押し黙った。そうして視線を向ける先は一つ。野々原だ。
 その言葉が本当ならば、倫堂の目的とする相手は野々原しか居ない。
 倫堂は視線を野々原へと移すと、そこに険しい表情を滲ませる。そして、ゆっくりと開かれた口から漏れたものは、注意と思しき内容だった。
「一応、全部説明しておいたと思ったんだけど、野々原君には理解できない部分があったかな?」
 それはあくまで子供を教え諭すかのような口調だ。けれど、逆にそれは恐ろしいほどの迫力を伴っていた。口で言っても道理が解らないなら、その身を持ってでも解らせる。まさにそんな雰囲気にも受け取れた。
 野々原は一瞬怯んだ様子を見せるけど、すぐさま口を切って反論した。
「例え、ルール違反だと解っていてもやらなきゃならないこともある。……それに、僕は倫堂さんがそうであったように、倫堂さんの真似をしただけだよ。そうあるべきだと思った人達に、僕がそうあるべきと思うことをやっただけだ」
 野々原が口にした「ルール違反」とは俺と村上に淀沢村の真実の姿を話したことだろう。そして、恐らくこの場所に俺と村上を連れてきたことだ。
 しかしながら、僅かな睨み合いの後、倫堂は驚くほど呆気なく野々原のルール違反を許容した。
「まぁ、いいか。今回のことは大目に見てあげる」
 意を決して口を切った野々原の迫力に「押し負けた」というわけではないだろう。言っては悪いけど、倫堂がまとったものと比較すれば、野々原の言葉に伴った迫力など大したものではない。だから、そんな倫堂のスタンスは、まるで野々原のルール違反を重大なものと捉えていないような印象を俺に与えた。それとも、倫堂が野々原の主張を「ある程度正しいもの」として、受け止めてくれたとでも言うのだろうか。
 ともあれ、倫堂が野々原を許容した理由を説明をしないから、その真相は倫堂にしか解らなかった。
 そして、右腕にはめた腕時計に目を落とすと、倫堂は野々原へと向けて何かの時間が来たことを告げた。
「さてと、そろそろ定刻かな。それはそれ、これはこれとして切符は持ってきた、野々原君? 忘れてきたりなんかしていないよね?」
 対する野々原も、肩に担いだ手提げ鞄の中からカンバスを覗かせる。
「……忘れたりなんてしない。僕が最初に願ったものとは違うもので、形も懸け離れてしまったけれど、これは僕がここで手に入れた大切なものだ」
 倫堂が確認をした「切符」とは、そのカンバスのことを指していたのだろう。
 カンバスの有無を確認する倫堂が、満足そうに頷いたのが印象的だった。そこには既に、当初この場に姿を現した倫堂がまとっていた雰囲気はない。俺や村上へと向けた威圧感というものも、いつの間にか完全に掻き消えてしまっていた。
 倫堂は俺と村上を交互に眺め見た後、小さく会釈をする。そうして、俺の横を音もなくするりと擦り抜けていった。倫堂が足を向ける先は草央線の淀沢村駅跡だ。
 草央線の淀沢村駅跡の扉の開閉部は南京錠と、錆びかけた金属のチェーンによって完全に封鎖されている。だから、もしも、それらを解除するための鍵を倫堂が持っていたとしても、中に進入するには相当の時間が必要だと思った。
 そんな俺の予想は想定外の事態によってあっさりと外れた。
 倫堂が草央線・淀沢村駅跡の扉に触れた瞬間、異変が起こったのだ。
 固く閉ざされた金属製の扉が青白く発光を始めたかと思えば、それは音もなく大小様々な大きさ、且つ様々な形状をした複数個のブロックに分割されていった。南京錠や金属製のチェーンなど何の意味も為してはいなかった。
 金属製の扉がブロックへと分割されてしまえば、後はあっという間だった。倫堂はそのブロック群へと手を翳し、それを自由自在に動かしいった。原理は解らないけれど、倫堂がぐぐっと引き出すように手を引けば、ブロックも引き出され、位置を変えて押し込むように手を動かせば、ブロックも押し込まれると言った具合だった。
 俺と村上、そして野々原が見ていることなど気に止めた様子もない。倫堂は鼻歌交じりに次々とブロックを動かして見せた。それはまるで、そこに何かの絵を描くかのような動作にも見える。
 そして、淀沢村駅跡の脇に設置された大時計の針が尋常ならざる速度で回転を始める。今の今まで作動を続けていたものか、それとも誰も手入れをしなくなってしまっていて、作動していなかったかは定かではない。しかし、それが通常の動作でないことだけは間違いない。
 時計の長針と短針が綺麗に二十四時を指した瞬間、針はピクリとも動かなくなった。一つ遅れて「ゴーン」とけたたましい鐘の音が鳴り響き、淀沢村駅跡の固く閉ざされた扉が開いた。いや、開いたという言い方では語弊があるだろう。倫堂が操作するのを止めて金属製の扉の前から離れた瞬間、それはうっすらと透け始めて半透明になってなっていき、あっという間に消えて無くなってしまったのだ。まるで始めからそこに存在していなかったかのようにだ。
「中へどうぞ、野々原君」
 野々原は倫堂に促されるまま、草央線の淀沢村駅跡へと足を進める。そうして、ちょうど扉が存在していた辺りで立ち止まると、俺と村上へと向き直り深々と会釈をした。その表情はにこやかであり穏やかであり、そして酷く儚かった。これが「最後」かと思わされるほど完璧な小綺麗さで作り込まれていて、そこには口を挟む余地などなかった。
 たった一言「行くな」と口にすることが、野々原の命運を左右するかも知れない。それをまざまざ理解させられるのだ。その場に際して、俺と村上は納得いかないという顔付きだった。野々原の表情と比較すると、それはあまりに対照的だっただろう。けれど、見送らなければならないことを否応なしに理解させられて、声を掛けることもままならないのだからそれも仕様がない。
 野々原が淀沢村駅跡へと姿を消しても、俺と村上はその場に立ち尽くしたまま動かなかった。いや、動けなかったといった方が正しいかも知れない。まだ淀沢村駅跡の中に残っている微かな野々原の気配が完全に掻き消えてしまうまでは、眼前で起こった出来事を「信じたくない」という気持ちがそこにある。
 そんな俺達を倫堂は呆れ顔で眺めていた。そして、呆れ顔の倫堂からは思いも寄らない言葉が飛び出した。
「正直な話、そこに立っていられても困るんだ。笠城君も村上君も、中に入ってよ。身の安全は保証する」
 俺と村上は一度顔を見合わせた後、倫堂に促されるまま淀沢村駅跡へと足を踏み入れる。
 淀沢村駅跡の中へと進むと、そこは待合室のようだった。ただ、外観の薄汚れた感じからは想像できないほど、待合室は小綺麗で真新しい。白色の蛍光灯に照らし出される床も壁も天井もまるで作られたばかりのよう、そう言ってしまっても過言ではなかった。
 待合室は腰を掛けて休むことのできる二人掛けのベンチが四脚設置されている以外には、他に何もない。そもそも大人数を収納するだけの広さを持っていないので、元々大人数の利用者を想定した作りではないのだろう。よくよく確認してゆくと中には券売機や改札さえも見当たらないので、どうやらここは無人駅らしい。
 それと、もう一つ気付いたことがある。俺達よりも先に中へ入ったはずの野々原がそこに居ないことだ。待合室の中には倫堂の姿もなかったけれど、倫堂の方は待合室の外に位置する淀沢村駅跡のホームで発見できた。
 倫堂は待合室にいる俺達へこっちへ来るよう手招きをして要求した。
 てっきり、野々原も駅のホームに居るんだと思った。だから、倫堂に要求されるまま待合室を抜け、駅のホームへと進んだのだけど、そこにも野々原は居ない。
 駅のホームは二両編成の電車がどうにか収まる程度の長さしかないサイズだった。線路にしても単線だ。それらはいかにこの路線の利用客数が少ないかを物語るいい指標だっただろう。そう大きくない淀沢村駅跡の薄暗いホームをぐるりと見渡して、改めてそこに誰もいないことを確認すると、俺は顔を顰めた。
「なぁ、野々原はどこだ?」
 倫堂はその質問に答えない。すると、その代わりと言わないばかりに、すぅと空に手を翳して見せた。そうすると駅のホームの電灯が一斉に灯っていって、再度その手を振り上げて横に薙ぐように動かせば、今度はホームの外れに青白い円が浮かび上がった。それは幾何学的な文様を描いた後、ホームのコンクリートの上にその文様の形を維持したまま跡を残す。
「ここまで来た人達なら、余程のことがない限り問題なんて起こらないとは思う。けど、念を押すに越したことはないから、念押しさせて貰うね。その円陣の中で黙って見ていること、そして、決して喋らないこと。約束が守れるのなら、特別に野々原君の見送りをさせてあげても良い。……どうする?」
 倫堂に突き付けられた条件は何も難しいものではない。
 横にいる村上の様子を窺って、村上も俺と同様の見解であることを確かめる。村上が「確認するまでもない」と言わないばかりの顔付きで頷き返したことを確認すると、俺は倫堂へと要求した。
「守らなきゃならないのはさっき挙げたことだけなんだな? だったら約束は守る。見送りをさせてくれ」
「今からここに電車がやってくるけど、ここから先は何があっても一言も喋っちゃ駄目だよ。ホームに集まる人達が全員乗車を終えて電車が出発するまでは決して!」
 改めてそう念押しをする倫堂の迫力に、俺は気圧された。
 俺と村上が強張った顔で頷くのを確認した後、倫堂は俺達に背を向け待合室へと歩いていった。そして、がらりと雰囲気を変えた倫堂の声が淀沢村駅跡に響き渡った。
「お待たせ。そろそろ到着の時間になるから、ホームへどうぞ」
 誰に向けたものだろう。ふとそれが気になって、待合室の様子を窺った俺は呆然とした。そこには待合室のベンチに腰掛ける野々原の姿があったからだ。
 既にこの草央線の淀沢村駅跡は、俺が頭で理解できるような場所ではないのかも知れない。そう思った。
 加えて、待合室の中には野々原以外にも乗客と思しき数人の男女が居た。野々原以外に見たことのある顔はなかったけれど、村上はそうでもないらしい。倫堂との約束がある手前、面と向かってそれを村上に尋ねることはできないけれど、待合室の方を向いたまま唖然とした顔付きをする村上の様子を気に掛けないわけにはいかなかった。
 野々原が立ち上がって、駅のホームへと足を進めようとした矢先のこと。倫堂はさも「今思い出した」といわないばかりに風に口を開いた。
「ああ、そうだ。野々原君はあの外灯の下にちょっと立って見てくれないかな?」
 待合室と駅のホームを繋ぐ出入り口に立って乗客を誘導する倫堂は、ちらりと俺達の様子を窺った気がした。そして、倫堂が野々原を案内した場所は、俺達の側にある外灯の下だった。そこは駅のホームで電車を待つに当たって、最も俺達に近い位置だ。
 それは倫堂なりの心遣いだったのかも知れない。
 野々原は不思議そうな顔をしていたけれど、黙って倫堂の指示に従う。
「そうそこ、その場所。そこが一番、このホームで野々原君に似合っている場所だから。……うん。野々原君には解らないかも知れないけど、いい絵になってるよ」
 野々原は鼻の頭を掻きながら、曖昧に笑った。そう言われて悪い気はしないのだろう。
「そうかな」
 直後、けたたましい音を響かせてホームに二両編成の小さな電車がやってきた。「キィィィィィ」と鳴るブレーキ音もそうだけれど、それはところどころ塗装が剥がれた非常に年代を感じさせる電車だった。
 電車が減速をしていって駅のホームの停車位置付近へと差し掛かると、倫堂はその電車の先頭車両へと近付いていった。そして、ホットパンツのポケットから携帯電話を取り出すと、そこにストラップで括られた掌のサイズの鍵を用いて鍵乗降口を開いた。倫堂は他の電車の乗降口に対しては、同じように開け放つことをしなかった。どうやら、先頭車両の、それも前側の乗降口一つのみからしか乗車を認めないようだ。
 ただ、その理由もすぐに判明する。
 駅のホームで指示を待つ面子に向けて、電車に乗るための資格を見せるよう倫堂が要求したからだ。
「一応、みんながここで得た切符の代わりを確認させて貰うね。みんなの顔は覚えてるから何も問題ないって解ってるんだけど、規則なんだよね。だから、あたしに切符の代わりを見せた後、必ずこの乗降口から乗車していって」
 駅のホームにいる面々の手荷物は本当に僅かだ。野々原のように肩から提げる鞄であったり小さな手提げ鞄が精々で、中には手ぶらという人までいる。
 各々が鞄から、または胸ポケットから、倫堂へと切符の代わりとなるものを見せ電車へと乗車していった。
「バイバイ」
「世話になったな、それなりに楽しかったぜ」
 その手の別れの言葉が次々に倫堂へと向く。もちろん、倫堂へと小さく会釈するだけで何も語らない人もいるにはいたけど、倫堂は終始彼らを満面の笑顔で送り出していた。
「それじゃあね。……君達の向かう先が素晴らしい未来でありますように」
 そうして、次々と電車に乗り込んでいく面々へと向けて倫堂が別れを口にする頃には、ホームに残る人物が野々原だけという状態になった。野々原は、そうやってホームに一人となる状況を待っていたのだろう。
「ねぇ、倫堂さん。ちょっと良いかな?」
 野々原は倫堂へと歩み寄ると、肩に提げた鞄の中から白い布にくるまれたカンバスを一つ取り出した。そして、それを倫堂へと向けて差し出し、そこに一つのお願いを続けた。
「全部持って行くつもりだったけど、これを笠城君に渡して欲しい。……これは彼に持っていて貰いたいんだ」
 倫堂は野々原が差し出したカンバスを受け取ると「任せなさい」という具合に胸を張った。
「うん、解った。確かに預かったよ」
 野々原は何かを探すように淀沢村駅跡のホームをぐるりと見渡した後、困ったように苦笑した。そして、どこにも焦点を合わせることがない空を見る目でぺこりと会釈をする。大雑把に言えば、その方向は俺と村上が居る位置として間違っていなかった。
 俺や村上の姿はもう野々原から見えなくなってしまっているんだと、改めて気付かされる。それでも、野々原は気配のようなものを感じ取ってくれたのだろうか。
 そんな野々原の様子を前にして、俺はついつい反射的に口を開き掛ける。駅のホームに野々原以外誰もいなかったことが、俺の背中を押したのだろう。
「……野々」
 ただ、そこまで口を開き掛けた矢先のことだ。ピタッと喉元に冷たい感触があって、俺は言葉を飲み込んだ。
 いつの間にか、倫堂は俺の側にいた。そして、その手には金属製の筒が握られている。それは俺へと突き付けられるように向けられていて、その筒の先端からは青白い刃が伸び出ていた。刃という表現は適当ではないかも知れない。それはパッと見た限り、そういう形を取っていたに過ぎない。
 倫堂は立てた左手の人差し指を口元に当てて見せる。「約束を破らないで」と念押ししたわけだ。
 そんな倫堂の迫力に、俺と村上は完全に気圧された格好だ。
「特別に見送りをさせてあげてるんだってこと、忘れちゃ駄目だよ?」
 倫堂は小声でそう釘を刺すと、列車へと向き直る。ちょうど、野々原が一両目の電車の中央の席に腰を掛けるところだった。
 そして、出発を告げる鐘の音が鳴る。
 倫堂が唯一となる電車の乗降口を閉めてしまえば、後は一瞬だった。ゆっくりと電車が動き始め、徐々に加速しながら淀沢村駅跡のホームを後にすれば、すぐにその姿は見えなくなってしまった。
 姿が見えなくなってしまった後も、倫堂は余韻に浸るかのようにじっとその方向を眺めていた。
「たまに居るんだ、野々原君みたいに約束を守らない人もね。中には見送って貰うでは飽き足らず、一緒に連れて行っちゃおうって考える人までいるんだよ。ここで得た大切なものが愛おしい人だったりする場合は特に、ね」
 まるで「気持ちは解る」とでも言いたげに、倫堂は困ったように笑いながら話した。そして、がらりとまとう雰囲気と口調を変える。
「資格がない人達は、この電車には乗せられない」
 それは「気持ちは解るけど許されないことだ」と強く言い放ったように聞こえた。
「もしも、資格のない人達が一緒に乗って出発することがあったなら、それは大惨事になる」
「……どうなるんだ?」
 何気なく切り出した俺の質問に、倫堂はここにはない何かをじっと見据える冷たい目をして答えた。
「乗客全員が目的地に辿り着けなくなっちゃう。たった一つの夾雑物が混ざるだけで、全て台無しになるの。例え、乗客が一人だけだったとしてもそんなことが許されて良いわけがないのに、それが現実になった場合には下手をすると数十人という規模の人達が目的地に辿り着けないなんてことになる」
 倫堂のまとう雰囲気は過去にその大惨事が実際に起こったことを予想させる。それを尋ねることは叶わないけれど、倫堂からは「再びそんな事態を引き起こさせはしない」という強い意志が見え隠れしていた。倫堂は一度瞑目すると、誰彼構わずに刺々しさを感じさせる態度が、この場に相応しくないものだと思ったようだ。長い息を吐き出し肩の力を抜いてしまえば、それは一気に穏やかな雰囲気へと変化した。それはまるで「この話はここでおしまい」と言ったかのようだった。
 しかしながら、倫堂の話を聞いて新たに生まれた質問が二つある。
 一つは目的地とは何か。もう一つはその目的地に辿り着けなかったらどうなるかだ。
 聞かないわけにはいかなかった。ここでそれを尋ねなかったら、次の機会がいつになるか解らない。
「目的地ってのは、一体どこなんだ?」
「さて、どこでしょう?」
 回答者にヒントを出し惜しみする意地の悪い司会者みたいな顔をして、倫堂は俺へと向き直った。
 当てずっぽうでも良いからまずは答えてやろうと思った。そして、あわよくば正解を狙う。大凡は推測できた。
「輪廻の世界って奴か?」
 倫堂は何も答えなかった。いや、答えないという態度を持って俺のその推測を肯定して見せたのだろう。
「……輪廻の世界に辿り着けなかったら、どうなるんだ?」
 唐突に村上が口を開き、倫堂へそんな質問を突き付ける。村上の言葉は低く、そして鋭く、倫堂に向かって問い詰めるかのような迫力を持っている。尤も、今更そんな態度で倫堂から譲歩を引き出すことができるとは思えない。そうやって倫堂を睨み付けることは事態を進展させるどころか、寧ろ逆効果であるかも知れない。
 そして、それが本当に特別だったどうか別として、倫堂は俺達に野々原の見送りをさせてくれた。それは偽りのない事実だ。村上にそれが理解できないはずはなかった。
 村上は咳払いをして態度を正せば、仕切り直しといわないばかりに新たな質問を倫堂へと投げ掛けた。
「淀沢村って何なんだ?」
「ある程度、推測できるようになっちゃったのかも知れないけど、その答えは知らない方がいいと思うな。特に、村上君はそれを知っちゃうと、大切なものを得られなくなっちゃうかも知れないよ」
 間髪入れず、村上は倫堂へと問い直していた。
「それは淀沢村を離れるための資格って奴か?」
 倫堂はじっと村上を見据えて口元に微笑を灯したまま、肯定も否定もしなかった。それは電車の目的地を「輪廻の世界だ」と態度で示して見せた状況と酷似する。即ち、それは野々原同様、村上がここで資格を探す存在だということを示したに等しい。
 村上は押し黙る。その表情は茫然自失の体で、見る見るうちにそこには苦渋が滲んだ。
「おっと。そうだった、忘れない内に野々原君から笠城君へ渡すよう頼まれたものを渡しておくね」
 倫堂は脇に抱えた白い布にくるまれたままの野々原のカンバスを俺へと差し出す。
 俺の中でそれを受け取ることに拒否反応が生まれる。もしもそれを受け取ってしまったら、ここに野々原が居なくなってしまったことを受け入れなければならない気がしたのだ。けれど、結局俺はそれを恐る恐るという形で手に取った。
 受け取っても、受け取らなくとも、それが「変わりようのない事実」であるということを認識しなければならない。そして、これは「俺に渡したい」といって野々原が倫堂に預けたものなのだ。それを俺が受け取らないわけにはいかない。
 けれど、それを受け取った瞬間、俺は何とも言えない喪失感に襲われた。野々原が居なくなったことを真実だとして受け入れるだけの準備が、俺の中で整っていなかったらしい。
 そんな喪失感に駆り立てられるまま、俺は倫堂へと目を向ける。倫堂もその意図をすぐに理解したらしい。俺の要求をあっさりと受け入れた。尤も、そこに倫堂が覗かせる態度は興味津々という風で、それは受け入れられたという寄りかは同意を得たに近いだろうか。
「その絵はあたしもまだ見てないんだ。だから、あたしも見てみたい」
 倫堂からの催促が加わったこともあって、俺はその場でカンバスを保護する白い布を剥ぎ取った。
 そこに描かれたものは、いつかの深夜の大平原だった。
 あの時、野々原が詩的にその光景を表現したままの世界がそこには描き出されている。口にして並べた表現の数々は、緑色の大海原と平原にポツンポツンと等間隔で並ぶ街灯はそこに浮かぶ誘魚灯のよう。そんな感じだっただろうか。
 何より、俺の印象に残ったものは、野々原の描いたものとしては珍しく「人物」が描かれていたことだ。俺の記憶が正しければ、何度か見せて貰ったカンバスには悉く人物が描かれていなかったのだ。だから、そう思うのだろう。
 野々原の絵の中には人物が二人描かれていて、それぞれ書き手、この場合は絵を見る人物に視線を向ける格好だった。
 野々原がそこに描いた人物。それは佐伯と俺だった。
 尤も、俺は最初それが自分だと判別できなかった。そこには得意気な顔をした佐伯と、同じように上機嫌の様子で今にも笑い出しそうな俺が居る。
 この時のことを思い出してみるけれど、疲れた顔をして曖昧に笑うぐらいが精々だったと記憶している。
 野々原から見た俺はこんな顔をしていたのだろうか。
「いい絵だね。……きっと、あたしにはこんな絵は描けないな」
 言葉の端にどこか悔しそうな感情を滲ませた倫堂の感想が印象的だった。何かを噛み締めるかのようにゆっくり頷いてみせると、倫堂はまるでここでやるべきことを全てやり終えたと言わないばかりだ。そうして、ホームの外灯を点灯させた時と同様に、すぅと手を翳して見せれば、淀上村駅跡のホーム内に点在する全ての明かりを落としてしまった。
 同じように待合室の明かりを消してしまえば、きっと何事もなかったかのように全てが動き出すのだろう。大野の言葉を借りて言うのなら、手品が通用する世界の「法則」へと戻るということだろう。
「最後に、一つだけ約束して貰おうかな。今日、ここで見たことは誰にも話しちゃいけない。……解るよね?」
 俺と村上へそう要求をする倫堂の目つきは鋭い。断ればただではすまないだろう。そう思わせる雰囲気を倫堂がまとって見せるのは態とだろうけれど、では「ただの脅し」というには状況が悪すぎた。
 それだけは決して譲れないことだから、その倫堂の態度がある。それは間違いない。
 ただ、俺が村上の様子を確認するよりも早く、村上からはその要求を了解する覇気のない言葉が漏れた。
「……解った」
 そうぼそりと呟く村上は、完全に血の気を失った顔だった。そして、その目は心ここにあらずという風だ。
 ともあれ、村上が了解した以上、俺だけがそれを否定するというつもりはなかった。
「ああ、解った。誰にも話さない」
 倫堂に向けて、その要求を呑むと言ってしまえば、後の処理はあっという間だった。
 待合室の照明が落とされ、淀沢村駅跡の金属製の扉を開いた時と同様に倫堂が操作をする。尤も、今回倫堂が操作の対象としたものは、淀沢村駅跡のホームの片隅に設置された古く色褪せてしまった道先案内板だった。けれど、見た目が異なるだけで何の相違もないのだろう。それを俺や村上が扱えるのかというそもそもの疑問もあるけれど、それらは俺達の目に見える形で「鍵」として認識できないような形状をしているのだろう。
 倫堂が「法則の変わった世界」を終わらせると、俺達は薄暗くなった淀沢村駅跡のホームに取り残されたかのように突っ立っている格好だった。ついさっきまでの出来事が夢幻でないことを、そこへ横たわる暗闇に対してすぐさま対応できない暗順応の遅れだけが物語っていた形だ。
 周囲の状況を完全に見失い、俺は慌てる。けれど、淀沢村駅跡のホーム自体は待合室の照明が消える前と消えた後で大きく形状を変えただとか、配置を換えただとか、そう言うことはないらしかった。倫堂にしろ村上にしろ、ついさっきまで存在していた場所に、そっくりそのまま存在している。
 ふと目に飛び込んできた倫堂は、腕時計へと視線を落とし現在時刻を確認するシルエットだった。暗順応によって徐々にその詳細を確認できるようになると、不意に倫堂は大きな欠伸を噛み殺して見せた。そこに、ついさっきまでの鋭い目付きといった類の攻撃的な雰囲気は微塵も感じられない。
「さて、もう良い時間だし、あたしはそろそろ失礼させて貰うことにするね。これからどうするつもりかは知らないけど、夜更かしは程々にね。お休み、笠城君、村上君」
 そけだけを言い残すと、俺に呼び止める間も与えず、倫堂は淀沢村の夜道へと溶けるように消えた。今すぐ遊木祭寮へと続く道を走って後を追っても、倫堂の姿をそこに見付けることなんかできないんじゃないか。そんな気がした。
 取り残される形となった俺達も、どちらからともなく淀沢村駅跡を跡にした。緑陵寮へと戻るまでの間には、思い雰囲気が漂い一言会話を交わすこともしなかった。交わせなかったと言った方が適当だろうか。村上がまとう様々な感情が入り交じった気配は、俺に声を掛けさせることを許さなかったのだ。
 しかしながら、緑陵寮の玄関まで戻ってきたところで、俺はどうにか意を決して口を開いた。今を逃せば、いつになるか解らない。そう思ったからだ。
「村上」
 それは名前を呼ぶだけの短いものだったけど、村上は俺が名前を呼んだ意味を完全に汲み取ったらしい。
「すまない、……今日はもう勘弁してくれないか」
 村上から明確な「拒否」の意志が示されてしまえば、俺はそれ以上何も言えなかった。
「そっか。……そうだな。もういい時間だしな」
 村上の拒否を時間の所為にして、俺はそれ以上今夜のことについて触れるのを避ける。もちろん、そこに大きな影響を及ぼす要因として「現在時刻」なんてものが関わっていないことなど百も承知だ。
「お休み」
 心ここにあらずという風に村上が口にした定例の挨拶に激しい不安が込み挙がってきたけれど、今の村上を言葉でどうこうできるとは思えなかった。
 一晩ゆっくり眠りに付けば、少しは改善されるだろう。そんな淡い期待に胸に、俺も定例の挨拶を返して別れた。
「ああ、お休み」
 けれど、村上と別れ、野々原が居なくなってがらんとした自室へと戻ってしまえば、不意に物恐ろしさが襲ってくる。
 それは淀沢村全体へと向いたものだ。
 俺や仁村はここにあるべき存在ではない。それが本当だったとしよう。
 では、ここに留まり続けたらどうなる?
 ここに留まり続けることでどんな影響を受ける?
「この色んなものが留まった世界にいたら、きっと取り返しの付かないことになる」
 根拠を持たないながらも、その野々原の指摘を肯定する思考は次から次へと沸いて出た。既に、暑いだとか寒いだとかそんな感覚は無くなってしまっていて、俺は頭からタオルケットを被ると無理矢理に目を瞑った。
 俺の思考の中には「眠るべきではない」という強い訴えもあった。それは「今の内に色々と頭の中で整理をしてしまって考察するべきだ」と訴えるのだ。けれど、今は眠ってしまいたかった。一晩ゆっくり眠りに付けば、この物恐ろしさも少しは改善するだろう。そんな淡い期待に縋った形だ。



「夏結」のトップページに戻る。