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Seen08 手品の成立しない夜「谷交堂神社夏祭り」


 八里端温泉での騒動から一夜が明けた次の日、緑陵寮は朝から妙に静かだった。
 寮対抗戦二日目が開催されていたけれど、一日目で敗退が決まった緑陵寮の寮生が寮対抗戦の話題で騒ぐはずもない。もちろん、試合を見学しに行った寮生が居ないわけではないけれど、それはあくまで極々少数だ。では「どうしてここまで静かなのか?」と言えば、やはり寮対抗戦に参加した面子が大人しくしているからだろう。
 八里端温泉に浸って疲労回復を促進したとはいえ、それだけで完全回復できるはずもない。まして、八里端温泉に行った内の大半は、綾辻からの説教を食らっているのだ。説教を食らわなかった俺でさえ、帰りのマイクロバスの中で流れた何とも言えない険悪な雰囲気に精神的なダメージを与えられたぐらいだ。プラス説教組は肉体的な疲労に加えて、精神的な疲労も加算されているだろう。
 加えて言うなら、昨夜の八里端温泉で発生した騒動の張本人とその一味、及び果たすべき責任を果たさなかった馬原が綾辻に引き連れられて朝早くから出掛けているというのが大きいのだろう。傍観を決め込んだ連中は昨夜の説教で解放された形だけど、若薙達は本日も綾辻のあのオーラに晒されているというわけだ。
 かく言う俺もあちこち歩き回ることを億劫だと思うぐらいには体のあちこちがまだ気怠さを訴えている。
 若薙達が戻ってくるまでは、この妙な静かさに包まれたままだろう。たまには一日がのんびりと過ぎるのも良いだろう。そう思っていたら、夕食時になっても若薙達は戻ってこなかった。もちろん、綾辻もだ。
 夕食時の食堂では米城が速報という形で優勝した寮の名前を話していたけれど、大半の連中は余所の寮のことなど興味がない様子だった。尤も、それも仕方のないことだろう。どこの寮に大型エアコンが入ったという情報を知ったところで、毎夜毎夜の寝苦しさが改善されるわけではないのだ。
 それに、やはり寮生の興味の対象は明日から始まる谷交堂神社の夏祭りへと移ってしまっていた。
 結局、夕食後も若薙達が顔を見せにくることはなく、寮対抗戦二日目はまるで無かったことのように緑陵寮で扱われたのが印象的だった。
 次の日になっても、若薙達が顔を見せない以外は朝から全てがいつも通りだった。
 相変わらず、野々原は朝早くから倫堂に誘われて群塚高校へと出掛けてしまったし、じりじりと午後に向かって気温が上昇するのも変わらない。一つだけ違ったことは野々原と一緒に朝食を取った時に、谷交堂神社の夏祭りの話題が出たことだろうか。そして、一緒に谷交堂神社を見て回りたいから、昼食までには戻ってくると野々原は約束した。
 午前中をまったりと過ごしながら午後に備えて英気を養っていると、不意に部屋の扉がノックされる。
 時刻は午後に差し掛かかろうかという頃だ。だから、俺はてっきり野々原が帰ってきたのだと思った。野々原は自室へと戻る時でさえも、俺に気を遣って必ず扉をノックする。
「開いてるよ」
 俺の返事を受けて扉が開き、部屋の中へと入ってきたのは若薙達だった。
 各々疲労が見え隠れする顔付きで、何より入室してくるなり溜息を吐いたのが酷く印象的だった。
「一応確認しておくけど、昨日はどうだった?」
「……頼む、聞くな。何も思い出したくない」
 あの若薙が顔を真っ青にしてそこまで言うぐらいだから、それはさぞかし想像を絶する体験だったのだろう。言っちゃ悪いけれど、この面子をここまで大人しくさせる綾辻副寮長という存在に物恐ろしさを感じずにはいられい。
「まぁ、今夜は谷交堂神社の夏祭りだろ。嫌なことは忘れてしまって楽しもうぜ!」
 村上にしろ岸壁にしろ、それに「触れてくれるな」という雰囲気を醸し出すから、俺はさくっと話題を変える。
 しかしながら、そうやって話題を変えようとしたにもかかわらず、俺の気遣いは不発に終わった。なぜならば、そこに絶妙のタイミングで八里端温泉騒動当事者の一人である永旗が俺の部屋を訪れたからだ。
「笠城、居る?」
 俺が返事をするよりも早く、永旗は部屋の扉を開く。そして、部屋へと入室してきた瞬間、眉を顰めて見せた。
「お、ムッツリスケベ共が顔を揃えてるんだね」
 その物言いはあくまで態と棘を混ぜた感じだ。救いなのはそこに明瞭な拒絶の意志がないことだろうか。
 永旗が意図的に棘を混ぜた言葉にも、誰も言葉を返さない。特に、村上は返す言葉もないといった顔だ。例え、罵声を浴びせかけられても、反論せず黙って聞いたのだろうか。
 綾辻と過ごした昨日一日はまだまだ尾を引く気配を醸し出していた。
 さすがの永旗も苦笑いの表情だ。
「暗いなぁ、もう。昨日一日、綾辻ちゃんにみっちりとやられたぐらいで、あの若薙がこうまでなるの?」
 若薙達が醸し出す、それに「触れてくれるな」という強張った雰囲気は永旗の追求を受けてより一層強いものになる。
 そうすると、岸壁がその刺々しさをまとったまま気落ちする理由について言及した。そこには「そこまで知りたいなら教えてやる」というやけっぱちな態度が滲んだ。
「会う奴会う奴に白い目で見られ、露骨に避けられたりしたら嫌でも気分が塞ぎ込むさ」
 岸壁が口にした温度差を、少なくとも俺は緑陵寮で感じたことがなかった。
 それを「昨日丸一日をまったりと部屋で過ごしていたから」と言ってしまうには、あまりにも説得力がないだろう。朝昼晩の食事時には食堂を利用したし、一日中部屋の中で横になっていたわけでもないのだ。
 その疑問は永旗によって解消された。
「八里端温泉での一件は笠城と穂坂以外誰も覗きに反対しなかったってところまで含めて、もう大々的に知れ渡っちゃってるからね。若薙も村上も岸壁も、しばらくは風当たり強いぞ」
 即ち、その答えは俺が白い目で見るべき対象ではなかったからというわけだ。改めて、俺は穂坂に「罠に嵌めてくれてありがとう」と感謝するべきなのだろう。
 一方「風当たり強いぞ」と脅かされた村上は、永旗をまじまじと見た。
「永旗は随分とさっぱりしてるんだな?」
 村上から見た永旗の態度は他の女子とは一際違うものだったらしい。もちろん、人によって反応は区々だろうから、一概に永旗だけがさっぱりとしているとは言えない。
「んー……、罵られたいっていうなら罵ってあげないこともないけど?」
 けれども、満面の笑みで「対応を変えることもできるけどどうする?」と提案してみせる永旗は、他の女子の対応とは確かに一線を画していると言えるだろう。「後で笑い話になるような程度のこと」と、八里端温泉での一件で若薙が村上を説得した言葉がある。そうやって、笑い飛ばしてくれるのはきっと永旗のようなタイプなのだと思った。
 ともあれ、その永旗の提案は真顔の岸壁によって拒否された。
「絶対に止めてくれ!」
 若薙や村上とは違い、岸壁は相当堪えているようだった。
「おっと、その反応は罵ってくれっていう前振りだね、さすが!」
 拒否反応を示す岸壁に永旗が目を付け、事態は悪化の前兆を醸し出し始めていた。けれど、そこで部屋の扉がノックされ、場は一旦平静さを取り戻す。
「笠城君、ちょっと良い? 谷交堂神社の夏祭りについて何だけど……」
 部屋の扉が半分開きっぱなしだったということもあってか、仁村も俺の返事を待たず入室してきた。そして、永旗同様、部屋の中に顔を揃える面子を確認した瞬間、仁村も眉を顰めて見せる。
「おっと、女の敵が顔を揃えてるかぁ」
 その反応は永旗ほどさっぱりしていない。少なくとも、そこには不潔なものを見るかのような態度が少なからず存在した。尤も、それは呆れて物が言えないという程度の態度ではある。
「そこまで言っちゃ可哀想だよ、郁。羽目を外し過ぎちゃっただけで、綾辻副寮長にはみっちりやられちゃったんだし」
 仁村の後ろにいた浅木は永旗よりも寛容で、既に限りなくいつもの物腰に近い。尤も、それは覗き行為を「馬鹿だね」と笑い飛ばすというよりかは「その気持ちも理解して許容してあげるよ」というような心の広さから来る態度だろう。
 それでも、永旗に続き仁村にまで眉を顰められたことに、岸壁は我慢できないと言わないばかりに声を上げた。
「……未遂に終わったっていうのに、そこまで言うか?」
 落ち込む岸壁の肩には若薙の手が伸びる。ポンッと岸壁の肩に手を置いて気休めの言葉でも向けるのかと思えば、若薙は「より酷い対応をされた」ことを喜々として話した。
「言われるだけ、まだ良い方なのかも知れないぜ、太一。俺なんて、朝方下部と擦れ違った時、いつも通りに挨拶したけど完全黙殺されたからな」
 尤も、それを岸壁に向けて話す若薙の態度は「どうだ、俺の方が酷い待遇だぜ?」と自慢するかのようだ。なぜ、そこで得意気な顔をできるかは永遠の謎である。加えて言えば、さも笑い話でもするようなその軽薄な言動は、反省など全くしていないことを印象づけただろう。
 さすがの岸壁も呆れ顔で答えた。
「それは八里端温泉でのお前の発言が下部の耳に入ったんだろ……、自業自得だって」
 忘れもしない。穂坂が下部の名前を出した時、若薙は下部を「発育不順」と評しているのだ。確かに、それが下部の耳に入れば、彼女の性格的にも口を利いてくれない態度は理解できる。
「そもそも、いくら未遂に終わったとはいえ良い気持ちはしないよね。ねぇ?」
 永旗が同意を得ようと、話題を向けたのは仁村だ。
「そうだね。良い気持ちはしないよね」
 まるで示し合わせていたと言わないばかりに、永旗と仁村は手を合わせた後、若薙を注視する。
 俺の記憶が正しければ、永旗と仁村に接点はなかったはずだ。寮対抗戦で仲良くなったということも考えられたけれど、その連携はあまりにも秀逸だった。
 若薙は苦虫を噛み潰したかのような表情だ。
「言え、何が望みだよ? どうして欲しい? 土下座でもすればいいのか? それとも「わたしは覗きを働こうとしました」って書いたプラカードを首から提げて市中引き回しの刑にでもしたいのか? こんなことでいつまでもチクチクチクチク攻撃されるのは真っ平御免だ」
 仁村と永旗は顔を見合わせると、一度キョトンとした表情を間に挟んだ後、満面の笑みを見せた。
「何が望みだなんて、それはつまり何か一つ好きな願い事を叶えてくれるっていうことかな?」
 仁村にしろ、永旗にしろ、若薙を叱責できる理由を手に入れので、ここぞとばかりにからかっていただけだろう。そこには反省の色が見えない若薙に「お灸を据えてやる」ぐらいの意図はあったかも知れない。しかしながら、少なくとも、覗き行為を画策した若薙を許すことを餌にして、何か言うことを聞かせようなんて意図はなかったはずだ。それにも関わらず、若薙が「望みを聞いてやる」なんてニュアンスの言葉を口走ったから、二人にしてみれば棚からぼた餅だった形だろう。
 若薙と、永旗・仁村連合が「見返り」に対する条件交渉に入ったのを尻目に、俺は谷交堂神社の夏祭りについての疑問を口にした。俺の中では、未だその夏祭りが周囲のざわつきに見合うほどの規模なのかが疑問だったのだ。
「谷交堂神社の夏祭りってのはどれぐらいの規模なんだ?」
 その疑問を解消すべく、説明をしてくれたのは岸壁だ。
「ここいらの近隣地域のものでは最大規模の祭りなんだぜ。サマープロジェクト参加者だとか観光客だとかが一杯お金を落としていってくれるから、屋台や出店にしても参道埋め尽くさんばかりの凄い数が出店するんだ。ショボイながらも、あっちこっちに知恵を絞ったイルミネーションが灯って華やかさを演出する。そして何より、夏祭りに合わせて開催される花火大会だな。村興しにも一役買ってるって言うんで、ど派手にやるんだぜ」
 岸壁の説明を聞いても今一、谷交堂神社夏祭りの規模は計り知れなかった。もともと、俺の「規模」という聴き方が悪かったのは否めない。それは明確な指標がなく、基準が曖昧すぎる。大小の認識にしても人それぞれ違うはずだ。
 けれど、岸壁の説明の中には夏祭りそのものよりも、俺の興味を惹き付けたものがある。花火大会だ。
「花火! それはちょっと楽しみだな」
 俺が強い興味を示したことで、岸壁は説明不足だった点について補足しなければならないという顔をした。
「言い忘れたけど、花火大会自体は谷交堂神社の夏祭り会場とは場所が違うんだ。遊木祭川の河川敷の一部を封鎖して打ち上げ場所にするんだったかな。まぁ、谷交堂神社の夏祭り会場からは花火をパノラマで楽しめるから、花火を間近で下から眺めたいとか、音も楽しみたいだとか言う理由でもない限りは特に場所移動する必要はねぇけどな」
 俺が強い興味を向けなければ、恐らく岸壁にそこまで詳細な説明をするつもりはなかっただろう。
 ふと、谷交堂神社の夏祭りを直前に控え、浮き足立つ雰囲気を尻目に村上が小難しい顔をしていることに気付いた。
 村上は野々原が部屋にいないことを気にしている様子だ。尤も、そうやって野々原を気にするのも頷けた。
 谷交堂神社の夏祭りへと連れ立って行く面子の大半はこの部屋に揃いつつある。出発時刻やはぐれた場合の待ち合わせ場所など、重要なことが野々原の居ないところで決まって仕舞い兼ねない雰囲気があるのだ。
 そして、野々原を気に掛けるが故の質問は、ルームメイトである俺へと向けられた。
「なぁ、野々原は夏祭りにも顔を出さないつもりなのか?」
「いや、今日は谷交堂神社の夏祭りに参加するから、昼食までには戻ると言ってたんだけど……」
 時計に目を向けると、そろそろ昼食に差し掛かろうかという頃だ。もう帰ってきてもおかしくはない時間だ。
「野々原君も熱中すると時間を忘れるタイプなのかな。誰かが呼びに行った方が良いかもしれないよ?」
 浅木の提案に、村上は溜息を吐く。そして「俺が呼びに行くか」という雰囲気を村上は伴った。
 そして、村上が重い腰を上げようとした矢先のこと。ひょこっと俺の部屋を覗く人影が現れる。
「……村上先輩、ここに居ますか?」
 遠慮がちに顔を覗かせたのは下部だった。千客万来、とうとう下部までもがこの部屋に集まったわけだ。
 下部は村上に用事があって俺の部屋を尋ねた様子だったけれど、真っ先に顔を鉢合わせたのは若薙だった。
「お、下部。ちょうど良いところに来たな」
 歓迎の言葉を口にする若薙とは対照的に、下部はあからさまな「不機嫌です」オーラを身にまとう。
 一方の若薙はそんな不機嫌オーラを向けられて、そこに苦笑いを滲ませた。
「実際にこの目で確認させてくれたわけでもないのに、まだ根に持ってるのか」
 朝方会った時には挨拶もしてくれなかった。そう言っていたにも関わらず、この場に際して若薙が口にした言葉は下部を刺激するような内容だ。「言うに事欠いて」という形容がこれほど似合う場面はそうそうないだろう。
 当然、下部からは反発の声が上がった。
「当たり前じゃないですか! 言うに事欠いて発育不順だなんて! 大体、着痩せして見えるだけでこう見えてもちゃんと身長以外は成長してるし……って、何言わせるんですか!」
 尤も、その反発も含めて若薙はその状況を楽しんでいるようにも見える。
 そうして、芝居じみた挙動で「参ったなぁ」といった具合に溜息を吐くと、下部に対して和解を提案した。
「解った、ここらで和解しよう。……そうだな、今日はちょうど谷交堂神社の夏祭りだし、今日一日エスコートしてとことん楽しませてやる。どうだ?」
 けれど、下部からは連れない言葉が返った。加えて言えば、下部の態度は取り付く島もないように見える。
「物凄く不安が頭を過ぎるので遠慮しておきます」
 下部に断られることを想定していなかったのだろう。若薙はそこで「おろっ」という驚きの表情を見せる。
 俄に拗れそうな雰囲気が漂い始めたけれど、そこに村上が口を挟んだことで険悪な雰囲気は一転した。
「何だ、下部は一緒にこないのか?」
「えっと、……だって、邪魔じゃないですか?」
 遠慮がちに答える下部の態度に、さっきの冷淡な調子はない。
 若薙と村上とでそこには明瞭な態度の違いがある。結果的には村上も覗きを遂行しようとする側に回ったはずなんだけど、これが日頃の行いの相違という奴だろうか。
 ともあれ、下部の言い分に村上は呆れ顔だ。そして、その手で下部の頭を鷲掴みにする。
「俺達から誘っているのに、何をどうしたらそう言う考え方になるんだ? 邪魔になんかなるわけないだろ」
 下部はさも「言い難い」と言わんばかりに躊躇った後、渋々と口を開いて反論した。
「いや、だって、世の中には社交辞令って言葉もありますよ……」
「ここで、俺や若薙がお前に社交辞令を使って何の意味がある?」
「そうそう。騒ぐ相手は多ければ多いに越したことはねぇよ! 下部ちゃんも参加しな」
 下部と村上のやりとりに横合いから岸壁が口を挟んだ瞬間のこと。下部はビクッと体を震わせた。
「ッ!?」
 その下部の反応に、村上は眉を顰める。下部のその挙動が気に食わなかったらしい。
 にゅっと、その手を伸ばして下部の頬を抓ると、下部の「悪い癖」についてこう言及した。
「何だ、相変わらずか。まだまだ人見知りが直らないんだな」
「ひたいひたい! 離して、村上先輩!」
「今の反応で決定だな、下部も連れて行く。久々の先輩命令だ、拒否権はないぞ。解ってるな? なに、せっかくだ、若薙に一日エスコートして貰えばいい。何でも言うこと聞いてくれるぞ」
「何でも言うこと聞いてくれるって、……本当ですか! それなら、……不安はありますけど、参加します」
 若薙は村上に対して苦言を口にしたかったのだろう。村上に対して恨めしそうな目付きを向ける。しかしながら、溜息混じりに村上から視線を外すと、若薙は最終的にその発言を良しとして受け入れたようだった。
 村上が下部に向けて言った「若薙が何でも言うことを聞く」という発言は、既に簡単には撤回できる雰囲気にない。「とことん楽しませてやる」とは、そのものずばり「何でも言うことを聞く」と受け止められても仕方のない言葉だ。
 まして、若薙には下部に対する後ろめたい部分がある。立てて加えて、ついさっき和解を提案して振られたばかりだ。せっかく機嫌を直した下部を、再びむくれさせるつもりにもなれなかったのだろう。
 若薙がそこに言葉を挟まなかったことで、何でも下部のいうことを聞くというのは決定事項となったようだった。
 そして、何か思い当たることがあったのか。村上は下部に対して、野々原について尋ねた。
「なぁ、下部。野々原を見掛けたりしなかったか?」
「野々原さん、ですか? さっき物置で会いましたよ。いくつかカンバスを持って出て行ったけど、イーゼルを持ってなかったから群塚高校の美術室とか、そういうところに向かったんだと思いますけど」
 思い掛けない情報が下部の口から出てきた。
 思わず、その内容に俺は素っ頓狂な声を上げそうになる。村上の表情にしても呆れ顔だ。
「下部はああ言っているけどな? 一度帰ってきてまた出て行ったとなると、何か食料を摘んで行った可能性が高い。夕方まで戻ってこないつもりだと、俺は思うな」
 過去にも、同様の状況があったのだろうか。
 野々原に対する村上の鋭い考察を垣間見て、俺はそう思わざるを得なかった。
「下部さん、それってどれくらい前だったか覚えている?」
 下部は野々原を見掛けた時間について「ついさっき」と表現した。だから、早朝に出掛ける野々原を見掛け、それを言ったものではないだろう。けれど、時間の認識については一応確認しておくべきだろう。
「一時間ぐらい前だったと思います」
 もしかしたら「俺と下部の時間に対する認識の違いかも知れない」といった俺の淡い期待も、下部の返答によってあっさりその可能性を失った。
 俺は村上、浅木と顔を見合わせる。野々原に対する見解は「三人ともが一致している」で、間違いないだろう。
「野々原、忘れてるみたいだな。だったら、俺は夕方まで待ってみて、それでも戻ってこないようなら群塚高校の美術室で野々原を拾ってから谷交堂神社へ向かうことにするよ」
 基本的には、溢れる情熱のまま行動している野々原の邪魔はしたくない。けれど、今朝の段階では参加すると言っていたのだ。再び、誘いに行くぐらいは問題ないはずだ。
「これからも何かあったら誘って欲しい。遠慮は要らない。もしも、本当に僕が望まないことなら、その時ははっきりと断らせて貰う」
 そう言ったいつかの野々原の言葉も俺の背中を押した。そうだ、それは野々原も了解済みのことだ。
 群塚高校を経由してから谷交堂神社に向かうことを決めた俺の方針を聞いて、若薙が横合いから話題に入ってくる。永旗・仁村連合との交渉は妥協可能な落とし所を見付けられたのだろうか。
 ともあれ、夏祭りに対する方針を、若薙もここで予め決めておこうという腹のようだった。部屋に集まる面子に向けて、その方針を提案と言う形で話し始めた。
「笠城は野々原待ちで夕方からの参戦するって言っているが、俺達はどうする? 一足先に会場に足を運ぶことにするか、なぁ、太一? そうだ、浅木と仁村もどうだ? 下部と一緒に、旨い屋台と出店の楽しみ方とで、しっかりと谷交堂神社の夏祭りをエスコートして差し上げるぜ?」
「……ちょっと不安だけど、お願いしようかな」
 不安という言葉を口にしながら、仁村は傍目に見る限りかなり乗り気のように見えた。なにせ、若薙の提案を聞いた仁村の表情からは、食い気がはみ出ている。食欲に話題を振ったその誘い文句はかなり魅力的だったようだ。
 一方で、乗り気の仁村とは対照的に、浅木はその誘いをやんわりと断った。
「あたしはちょっと用意があるし、先行隊は遠慮しておくね。ごめんね、せっかく誘ってくれたのに……」
 会場となる谷交堂神社へ先に移動せず「用意」といった単語で含みを持たせた浅木の意図を、俺は何となく理解した。夏祭りを心の底から楽しむため、夏祭りに相応しい出で立ちなんかを整えるのだろう。
 そして、浅木は後発組となることを加味して、一つの提案を俺に向けた。
「群塚高校で野々原君を拾ったら、笠城君はまっすぐ最短ルートで谷交堂神社に行くつもりなの? それとも遊木祭川を北上する? どうせどんなルートで向かったって途中で緑陵寮付近を通るんだし、それなら一緒に行こうよ」
 その浅木の提案に、俺は思わず答えに窮する。高度な淀沢村についての地理の知識が要求されたからだ。
 しかしながら、答えに詰まる俺の様子を目の当たりにして、俺が置かれる状況を敏感に察してくれたのが村上だ。
「笠城。お前、もしかして群塚高校と谷交堂神社の位置関係を解ってないな?」
「いや、群塚高校の場所は把握してるぞ! ただ、谷交堂神社の方はこれから……」
 慌てて俺は否定する。しかしながら、その指摘は半分的を射ていた。
 谷交堂神社について言えば、俺は大凡の位置も把握できていないのが実情なのだ。群塚高校から谷交堂神社までの道程については、綾辻から渡されたパンフレットを頼るつもりだったのだ。
 けれど、いざそれを説明すると村上はジト目で俺を見た。
 そこには「全く反省してないな?」といった類の、叱責が込められていただろうか。そして、壁に立てかけられた野々原のスケッチブックを一枚破ると、村上はその場でさらさらっと図を描いてみせる。それは緑陵寮と谷交堂神社などの位置関係を描き、且つ大まかな道程と大凡の所要時間を記したものだ。
「いいか、笠城。ここに描いた通りの道順で行くんだ。絶対に近道しようだとか、寄り道しようだとか思うな」
 俺は村上に「方向音痴」のレッテルを貼られてしまっているらしい。尤も、それは筒磐台風力発電所科学館と村役場を目指して淀沢村を歩き回った際に、迷った前科があるからだろう。
 半強制的に俺へと簡易地図を持たせた後も、村上は心配顔を崩さなかった。そして、俺が口を挟む間もなく、あれよあれよという間に話は進み、俺はまるで「一人で行動させると危険を伴う子供」のような扱いだった。
「……寮対抗戦で一度足を運んだことのある群塚高校へはともかく、谷交堂神社へは誰かと一緒に向かった方が良いだろうな。二度あることは何とやらだ。すまないが、浅木、頼めるか?」
「了解したよ。それじゃあ、あたしは笠城君と一緒に夕方から谷交堂神社に向かうことにするね」
 そこからは待ち合わせ時間についてなどの話が交わされていたけれど、俺は一人蚊帳の外に置かれた格好だった。基本的には浅木と一緒に行動するものだと、そう認識されたかららしい。そして、時間の管理にしても浅木に一任しておけば間違いないというわけだ。そこには下手に俺が情報を得ることによって、勝手な行動をするかも知れないことを未然に防止する意味合いもあったのだろう。
 この方向音痴というレッテルは必ず返上しなければならない。
 俺はそれを心に誓った。


 正午を回って、食堂の昼食提供時間が終わってしまっても、野々原は緑陵寮へと戻ってはこなかった。
 やはり「昼食までには戻る」といったのを、完全に忘れてしまっているようだ。まさかとは思うけれど、谷交堂神社の夏祭りのことまで忘れてしまっているかも知れない。ふと、そんな考えが脳裏を過ぎる。
 佐伯の協力を得て倫堂と知り合いになった後の、ここ最近の野々原の絵に対する情熱は並ではない。それは約束を忘れてしまうことさえ「あり得るかも知れない」と俺に思わせる程だ。同じ志を持つ倫堂と知り合ったことは、野々原に取って凄まじい刺激になったのだろう。
 若薙と岸壁が仁村や永旗を伴い谷交堂神社へと出発する時間は、あっという間にやってきた。当初の計画では下部も若薙達にくっついて行く手筈だったけれど、結局下部も先遣隊からは外れる形となった。夏祭りに向けて浅木が何の用意をするかを耳にした後、下部も「自分も用意がしたい」と言い出したためだ。野々原に話したいことがあると言い出した村上も、先遣隊からは外れ、結局後発組は俺と野々原を含めて五人となった。
 そして、さらに時間は経過し、夏祭りへの夕方からの参加を視野に入れても、そろそろ行動を起こさないと不味い時間が近付いてくる。俺は浅木に「野々原を迎えに行ってくる」と一言告げた後、群塚高校へと足を向けた。
 外は南中の一番暑い時を過ぎたはずだったけれど、気温はまだまだ真夏日の様相を呈しており、燦々と降り注ぐ太陽光も一向に衰えはしなかった。
 群塚高校の遠望を確認できるところまで来ると、それが四階建ての校舎であることを俺は再認識する。それは村という規模にはそぐわないと思えるほど大きい。都市部に見る私立のマンモス高校と比較すれば可愛いものだけど、軽く都市部の平均的な公立市立高校並の大きさはあるだろう。
 群塚高校も緑陵寮同様、平原のど真ん中に位置していて周囲に何もないから余計にその強調されるのだろうか。
 いや、それだけではないのだ。群塚高校は規定で定められたフルサイズのサッカーフィールドを持ち、屋根付きの立派なものではないけれどグラウンドに隣接する形で五十メートルのプールまである。実際、かなりの敷地面積を誇るのだ。
 寮対抗戦で初めて訪れた時、俺は田舎に見るもっとこぢんまりとした校舎を想像していた。けれど、こちらも淀沢村商店街同様、良い意味で意表を突かれるほどに立派な建物だった。年代を感じさせつつも、簡単に色褪せることのないオーソドックスな雰囲気があるのだ。
 淀沢村について書かれたパンフレットで群塚高校について確認してみると、そこには「淀沢村の最盛期には相当数の生徒数を誇った」と記載されていた。何でも、近場に鉱山があった時の名残らしい。大方、右肩上がりの人口増加を見越してこの群塚高校を作ったのだろうけど、産業の衰退と共に人口が減少し「町」になるのも適わなかったという感じだろう。そして、生徒数の減少と共に、現在はその大半が使われていないというわけだ。
 疎らではありながら、確かにこの炎天下の中グラウンドで活動する運動部の生徒と思しき影を横目に流れながら、俺は群塚高校生徒玄関へと進む。
 生徒玄関の大半は施錠された状態で、一部の出入り口だけが文化系部活動のために、解放されている形だ。ただ、その扉も完全に閉め切られていたということもあって、俺は校舎の中を「クーラーが利いた状態」だと期待する。けれど、そんな上手い話があるわけもない。ドアを開けると、中からはむあっとした暑さが流れ出てきた。
 中から流れ出てくる暑さに怯みつつも、俺は生徒玄関を潜って校舎内へと足を踏み入れる。そこは山々から響き渡る蝉の声とグラウンドで活動する運動部の掛け声以外、何も音がしないかのような世界だった。
 もっと文化系の部活動が精力的に活動しているものだと思っていたから、俺は拍子抜けした格好だ。同時にひっそりとして人気のない廊下に、もの恐ろしさを覚えたりもする。
 群塚高校の生徒が上履きに履き替えるためのスペースがあり、続いて靴箱がずらっと並んだ広場を抜ける。俺はまず校舎のどこに何があるかを掲示した見取り図のようなものを探した。合って然るべきだと思ったからだけど、どうやらそれはすぐ目に付く場所にはないようだった。
 見学がてら適当に歩き回ってみても良かったけれど、それならば野々原と合流してからの方がいいだろう。ある程度の余裕を持って群塚高校までやってきたけれど、これから野々原を探していく中でぶらつく時間が残るとは断言できない。
 俺は次に校舎の中央に位置する階段の脇に接地された横長の掲示板を見て回った。部活動案内やイベント情報を始めとした雑多な掲示物がそこには並べられていたので、美術室などの位置を示した案内なども一緒に掲示されてやしないかと思ったのだ。
 そうして横長の掲示板に沿って廊下を進んでいくと、ふと生徒玄関の方へと向かってくる男が居ることに気付いた。
 声を掛けるには絶妙のタイミングだっただろう。そして、答えが載っているかも解らない掲示板を、端から端まで眺めていくよりかはてっとり早く、且つ答えに辿り着ける可能性が高い。
「なぁ、ちょっと良いかな?」
 そう声を掛けてしまってから、俺は初めて相手が日本人離れした外見をしていることに気が付いた。
 彫りの深い顔立ちがまず印象的で、次に特筆するべきは赤味がかった髪の色だ。脱色や染色で出すには難しい色であり、俺はそれが天然物であることを理解せずにはいられない。正直な話「声を掛けるべき相手を間違ったかも知れない」と、思った。自分の顔が引き攣っていく様子を、まざまざと実感するなんて機会はそうそうないだろう。俺はそんな貴重な体験を身を持って味わうこととなる。
 けれど、そんな予想に反し、相手の男は流暢な日本語で返事をした。
「何か用か?」
 日本語の発音を聞いた瞬間、俺は思わず安堵の息を吐く。ぺらぺらと英語で話し始められた日には「ソーリーソーリー」と駄目な日本人丸出しで、そそくさとその場を立ち去ったかも知れない。
「美術室がどこにあるか知ってたら、教えて貰いたいんだ」
「美術室は三階だな。中央階段を上った右手側にある」
 サマープロジェクトの参加者というにはあまりにも田舎の風景に相応しくない風貌だと思った。尤も、地元民というにはさらに場違いな感じもする。けれど、群塚高校の構造についてはその詳細までを理解しているらしかった。
 男は中央階段を指差すと、さらに中央階段を上りきった後の進行方向にまで言及してくれる。
「三階まで行って、右手方向ね。サンキュー」
 俺は教えて貰った情報を復唱すると、感謝の言葉を言い残してその場を後にしようとする。中央階段へと足を向け、今まさに先を急ごうとした矢先のこと。じっとこちらを見ていた男が俺を呼び止めた。
「ちょっと待て。もしも美術部員に用があるなら、美術室には居ないと思うぞ。それと、誰に用があるかは知らないが、この時間なら美術室には鍵が掛かっているはずだ」
 男は続ける言葉で、美術部員と美術室について言及する。群塚高校の構造についてのみならず、どうやら美術部そのものについても、その詳細を把握しているらしい。
「そうなの? つーか、君、美術部の関係者だったりする?」
 男は合間に思案顔を挟んだ後、ゆっくりと頷いて見せた。
「まぁ、そんなようなものだな」
 そうやって曖昧な言い方で濁したことに対して、俺には思うところがあった。
 もしかしたら、美術部には属さないものの美術室を利用している人間じゃないか。そう思ったのだ。
 俺は思い切って、野々原について尋ねた。
「……野々原って名前、知ってたりする?」
「野々原? いや、聞いたことのない名前だな。そいつは美術部員なのか?」
 当てが外れて、俺は答えに窮する。野々原が美術部員かどうかを質問されても、俺はその答えを知らない。
 実際、ここ最近はほぼ毎日のように群塚高校の美術室へと足を運んでいる野々原だけど、部には属さずただ施設を利用させて貰っているだけかも知れない。
 俺は解る範囲のことを答えるしかないと思った。俺の方から尋ねたのだ。うやむやにするわけにも行かない。
「はは、どうなんだろう。ただ、群塚高校美術室の設備を使わせて貰っているとか何とか言ってたからさ……」
 辿々しく答える俺の言葉では要領を得ないと思ったのか、不意に男は聞き覚えのない名前を廊下に向けて口にした。
「村近(むらちか)、お前は知っているか?」
「……あたしもその名前は聞いたことない」
 そして、打てば響くような反応は、俺の真後ろから響いた。
「うわッ! ……びっくりした」
 全く意図していなかった方向からの声に、俺は思わず頓狂な声をあげる。いつの間に背後を取られたのだろう。俺は周囲に人の気配を全く感じていなかったから、尚更目を見開いた格好だった。
 俺の背後には左右の後頭部に二つシニョンを作った背の低い小柄な女の子がいた。その身長はシニョンの出っ張り分を含めても、若薙よりも低いだろう。
 ともあれ、村近と呼ばれたその女も野々原を知らないと言った。
「悪いな、力になれそうにない」
 申し訳なさそうにそう結論付ける男に対し、俺は感謝の意味を込めて会釈した。
「いや、十分だよ。後は自力で探すさ」
「美術室には鍵が掛かっているはずだが、美術部員自体はその辺の空き教室で作業をしているはずだ」
 男は最後に、野々原を探すにあたっての有力な情報を教えてくれる。
 俺は手を振ってその二人と別れた。目指すは中央階段を上り三階層。そして、教えられた通りに、三階廊下を右手方向へと進むと、目的の部屋はすぐに見つかった。
 開かないかも知れないことを認識しながら、俺は一応美術室の扉へと手を掛ける。力任せに扉を開こうとしてみたけれど、ガタガタと音を立てるだけで扉は開かなかった。やはり施錠されているらしい。
「開かない、か」
 それならば、助言された通りに周辺の空き教室を歩き回ってみるだけのことだ。谷交堂神社の夏祭りに対して、きっかりと集合時間を取り決めたわけではない。まだまだ時間はある。
 群塚高校の三階廊下を歩き始めた矢先のことだ。俺は微かに廊下へと響く声があることに気付いた。
聞き耳を立てて、それがどこから聞こえるのかを探ってみる。聞き覚えのあるその声は美術室から離れた空き教室が発生源のようだ。
「これも野々原君が描いたもの? 見ても構わない?」
 その空き教室へと近付いていくと、微かだった声が確かな輪郭を伴い、それが倫堂のものだと解る。
 そこには倫堂の質問に答える野々原の声もあった。
「そこには傑作と言えるような大層なものはないよ? それでも良いのなら好きに見て貰って構わない」
 誰を前にしても変わらない野々原らしい受け答えだった。必ずしも人当たりが良いとは言えないけれど、誰を相手にしても嫌みな感じを与えない言動だ。
 俺は予備教室と張り紙された扉の前で立ち止まる。扉を開くことを躊躇ったのだ。なぜならば、僅かなドアの隙間から、俺の目に倫堂の真剣な表情が飛び込んできたからだ。
「こんな顔もできるんだ」
 それが俺の率直な感想だった。少なくとも、その倫堂の表情は、俺が今まで見たことのない顔付きだ。だから、邪魔をするのもどうかと思ったわけだった。
 少し時間をおいてから、また来ようか。
 考え自体は既にまとまっていたのだけど、俺はついつい中の様子が気になった。
 倫堂は棚に放り込まれ積み上げられたカンバスの一つ一つを手に取ると、その一つ一つをゆっくり時間を掛けて眺めていた。そして、間に僅かな静寂を挟んだ後、まずはその全てを総括する形で寸感を述べた。
「本当、野々原君は繊細で綺麗な絵ばかり描くんだね。技術的には申し分ないと思うし、構図とか色遣いとか、全てにおいて高いレベルにあるんだなぁって思う。でも、この綺麗な絵の中には何か足りないものがある気がするんだ」
 野々原のカンバスに目を落とす倫堂は、曖昧な形ではありながら不足を指摘し寸感を締め括る。
 野々原はその不足が気になって仕方がないようだった。すぐさま、倫堂にその不足の具体的な形を求めた。
「それって、その、倫堂さんから見て何が足りないと思う? 僕も何かが足りないとは思うんだ。でも、それが何か解らない。村上君とか笠城君とか若薙君とかに混ざって、色々やってる中で何かが掴めそうだといつも思うんだけど、結局、後一歩のところでそれが何か解らないんだ!」
 倫堂を前にして、真剣さを帯びる野々原の表情がとても印象的だった。
 俺は完全に入室するタイミングを失ってしまったようだ。少し時間をおいたところで、このシリアスな状況が解決するとは思えない。では、空気を読まずこのタイミングで入室を強行するか。そんなことできるはずもない。気まずいことこの上ないだろう。
 そんな理由で予備教室の扉の前に佇む俺はついつい聞き耳を立ててしまうのだった。「野々原には悪い」と思いながらも、倫堂と野々原との会話は俺の興味を惹くに足るやりとりだ。
「……足りないものかぁ。それをあたしが感じたままに口にしちゃっても、野々原君は構わないの? 全然見当違いなことを口にするかも知れないし、そもそもそれは野々原君にとって心証の良い言葉じゃないかも知れないけど?」
「それでも構わない。僕とは違うタイプの絵描きである倫堂さんの視点で、色々と指摘してみて貰いたい。それに、きっと、もう僕一人で考えているだけじゃ簡単には気づかないことだと思うんだ」
 野々原にそう促されて、倫堂は改めてカンバス群に目を落とす。それは本当に真剣な目だ。
 時間にすれば数秒足らずに過ぎない長い静寂の時間が流れ、倫堂がゆっくりと口を開いた。
「暖かみがないと思う、かな」
「暖かみ? もっと暖色が強い方が良いってこ……」
 間髪入れずに問い直す野々原の言葉を倫堂が遮った。
「そういう技術的なことじゃないと思うな。だって、野々原君の描いたこの絵の中から機械的な、表現的な冷たさを感じるというような極端な話じゃないもん。……えーとね、どの絵もね、掘り下げていくと、後一歩のところで「近付き難い」って印象を受けるっていえばいいのかな。そういう題材でもないのにね」
 倫堂がそうやって言葉を遮ったのは、野々原の理解と倫堂自身の認識との間にずれが生じたからだろう。
 野々原の描く絵は基本的に風景画である。緑陵寮で俺が見せて貰った描きかけの絵もほとんど全てが風景画だった。ただの風景画が、それを見る人に与える近付き難さとは何だろう。
 倫堂のしなやかな指先が野々原の描いたカンバスに触れる。カンバスに描かれた絵が放つ雰囲気を一つ一つ確かめるように指先でなぞって行くと、倫堂はその目で野々原を捉えた。
「まるで……」
 口許に人差し指を添えて見せて言葉を句切れば、倫堂はそこに思案顔を見せた。後に続けるべき、適切な言葉を探しているのだろう。
 野々原はその先に続く答えを一分一秒でも早く聞きたいようだった。
 例え、それが乱暴な言葉であっても構わない。焦燥感に駆られたような野々原の態度は、それを切に訴えていた。そして、それを体現するかのように、まるで我慢できないと言わないばかりに野々原は口を切った。
「まるで?」
 倫堂は野々原の顔色をマジマジと窺って、感じたままの言葉を口にすることに対する確認を取ったように見える。
 心証の良い言葉じゃないかも知れない。倫堂のいったそんな言葉が、俺の脳裏を過ぎる。
 野々原が決意を伴った顔で小さく頷くと、倫堂は促されるままに口を切った。
「野々原君その人みたい」
 その感想は野々原を後退りさせた。少なからず、野々原はその言葉にショックを受けたんだろう。
「僕に、近付き難い印象がある?」
 そう問い直す野々原は、当惑を隠せない様子だ。倫堂の指摘に思い当たる節があるのだろうか。それとも、目から鱗が落ちる言葉だっのだろうか。尤も、そのどちらだったのかを窺い知ることはできない。
 ただ、野々原の当惑を見せ付けられてなお、倫堂はさらりと言葉を続ける。その口調に重みはないけれど、じっと野々原を見据える真摯な瞳には真剣さが伴っていた。野々原を思うからこそ、それは率直にぶつけられたものなのだろう。
「表面的な部分でそれを感じさせることはないと思うよ。でも、野々原君が引いたラインの内側には絶対に誰も入れない。もちろん、それは少なからずみんなが持っているものなんだって思うよ。だけど、野々原君は極端にその距離を取り過ぎているんじゃないかなって思う」
 そこから倫堂は野々原に畳み掛けた。
 野々原に答えを求められた「足りないもの」を聞いた質問に対して、倫堂なりの答えを返した形だ。
「そのラインを緩和することが必ずしも良いことだと思わないけどね。でも、今の野々原君に足りない部分はそのラインがあるからこそ、野々原君が得ることのできていないものだとあたしは思うよ」
「……でも、僕はこのサマープログラムで定めた目的を達成したいんだ。早く、このスランプから脱出したいんだ! 描いても描いても、何かが足りないと感じるこのむず痒さを何とかしたい! 満足できないで苛々の貯まるこの状況を何とか打開したいんだ!」
 教え諭すような倫堂に、野々原は顔を上げて反発する。それはそうしたかったから出た反応というよりかは、追い詰められたからこそ表に現れてしまったものと言えば良かっただろうか。
 恐らくそれは、人によっては建前だとか柵だとかそういったものを全部取っ払ってしまって初めて口にすることのできる部分だ。けれど、それはいつかの夜に聞いた野々原の「淀沢村へとやって来た理由」と違いのない内容だった。だからこそ、いかに野々原がここでそれを求め続けてきたかが解る言葉でもある。
 胸の奥に支えた思いを吐き出し終えた野々原に、倫堂は一つの選択肢を突き付けた。
「立ち止まるわけじゃないと思うよ。足りないものを埋めるため、そこにカチリとはまる必要なものを手に入れるの。それは今、野々原君が歩いている道では手に入らないものかも知れない。もちろん、それを必要とせず、不足していることさえも綺麗に飾り立てて素晴らしいものを作っちゃう人達も居るだろうけれどね。でも、野々原君にはそれが必要だとあたしは思う。今からでも遅くはないんじゃないかな、……今回は諦めちゃって今から探しに行こうよ? すぐに見付かるよ?」
 倫堂に選択肢を突き付けられたことによって、野々原の前に示されたものは二つになったのだろう。
 例え、多くの時間を費やすことになってもラインを踏み越え不足しているものを得ようとするか。それとも、倫堂がいったそれを必要としない人達であるべく邁進し続けるか。尤も、そのどちらの選択肢も野々原が望む到達点に続いているとは限らない。
 倫堂は満面の笑顔で野々原へと手を差し出した。それは二つの選択肢の内、前者へと誘うもので、野々原を苦悩から解放するため差し出されたものだ。けれど、その差し出されたその手は、野々原に取って望ましいものではないのだろう。
 野々原は差し出された手を、ただじっと注視する。徐々に、それは苦悶に歪む。いつもの凛とした振る舞いなどそこには微塵もなかった。
 そして、差し出された倫堂の手を握り取ろうと腕を伸ばすけれど、それも後少しのところで静止した。野々原は眉間に皺を寄せる酷い表情だった。野々原の胸の内で鬩ぎ合う激しい葛藤が見え隠れした瞬間だ。
「僕は、僕には……」
 突き付けられた選択肢を振り払うこともできず、弱々しく呟くことしかできない野々原へと、倫堂の手が伸びた。
「それはきっと遠回りなんかじゃないよ」
 それは優しく野々原の頬へと触れる。
 ビクッと体を反応させる野々原は、咄嗟に後退ろうとしたのだろう。けれど、倫堂はそれを許さない。
 そして、倫堂の顔が野々原へと近付き、唇が重なった。
「ん……」
 微かな吐息が漏れた後、野々原は倫堂から離れようとする。けれど、倫堂はさらに野々原の懐へと接近し、それを許さなかった。先ほどカンバスをなぞったしなやかなその指は野々原の胸元へ伸び、するりと背中に回る。そこまで行ってしまえば、野々原が倫堂を許容するのに時間は掛からなかった。
 これ以上は「覗き見て良い場面じゃないな」と、その場を離れることを意識し始めた矢先のこと。ふと、背後に人の気配が存在することに俺は気付いた。
 恐る恐る背後を確認すると、そこには俺と同じような格好で野々原と倫堂の様子を窺う人影がある。俺は慌てた。
「ッ!?」
 けれど、ニョキッと伸びてきた手が俺の口を塞いだお陰で、幸か不幸か俺の口から頓狂な声が漏れ出ることはなかった。それがなければ、俺は倫堂と野々原に覗きがばれてしまったことだろう。
 いつかの記憶がフラッシュバックする。遊木祭寮をロケット花火で爆撃した夜のこと、そうやって俺の口をその手で塞いだのは永旗だっただろうか。
 今回、俺の眼前で口許に人差し指を立てて、声を立てないよう要求したのは浅木だった。いや、浅木だけではない。その横には村上と下部の姿もある。
 空き教室の二人がこちらに気付いていないことを確認すると、俺は押し殺した声で浅木にここに居る理由を尋ねた。
「どうしてここに……?」
「ちゃんと迷わず辿り着いたのかなって心配になったことと、予定よりも早く用意が調ったからかな。それなら、笠城君を群塚高校で拾ってしまってまっすぐ谷交堂神社に行っちゃおうかって話になったんだけど、まさかまさかこんな事態になっているとはね!」
 村上に描いて貰った地図の中に記された目安の時間を考慮すると、現在時刻は確かにおいおい谷交堂神社へ向かい始めるには最良の時間だった。ゆっくりと散策するペースで歩いていけば、ちょうど薄暗くなり始める頃に谷交堂神社へと到着するはずだ。
「それにしても、覗き見なんて悪いんだ。まさか笠城君がこんなことする人だったなんて、ちょっと幻滅しちゃったな」
 浅木の声色に、本気のそれはない。けれど、俺としても反論しないわけにはいかない。
「そういう浅木さんだって、一緒になって覗き見してたんだろ!」
 すぐさま浅木は覗きについて弁明した。それはまるで、自分自身にも言い聞かせたかのようにも見える。
「これは後学のため! そう、後学のため! こういう雰囲気になっちゃった時、経験ないと咄嗟にどうしていいか解らないじゃない。これは勉強になるよ」
 しかしながら、俺の目に浅木の瞳は輝いていたように映ったわけで、説得力は貧しかった。確かに後学のためという理由もあるにはあったんだろうけれど、恐らくその大半はただの好奇心だろう。
「普通の人が見たら、今の浅木さんの覗きに対する姿勢の方が他人を幻滅させると思うけど?」
 そんな言葉を浅木に投げ掛けようかとも思ったけれど、俺はその言葉を飲み込んだ。静まり返った群塚高校の廊下で、仮に口論なんてものを始めてしまったら、中の二人を邪魔することに直結するだろう。
 俺が口を閉ざしたことで、場には再び覗きを推奨するような雰囲気が漂うものの、そんな不埒な空気は村上の手によってあっさりと破壊される。覗きに熱中し始める浅木の襟首を、村上が徐にむんずと掴んだのだ。そうして、力任せに空き教室の扉の前から引っぱがすと、中央階段を指差し俺へと問いかけた。
「行こうか。このままここで覗き見を続けるなんて、悪趣味なことするつもりはないだろ?」
 空き教室の中にいる野々原を横目に流し見た後、俺は黙って頷いた。
「そうだな」
 続きが気にならないかと言えば、もちろんそんなはずはない。けれど、興味本位で覗き見ていいことではない。
 野々原に声を掛けるという目的が果たせない以上、ここにいてもどうしようもない。どこかで時間を潰して野々原を待ったとしても、今夜ばかりは夏祭りへ足を運ぶとは限らないと思った。
 野々原にその気があるなら、倫堂と一緒に来るだろう。
 俺は野々原と倫堂が居る空き教室に背を向けた。
「邪魔者は立ち去るべきだよな」
 浅木は不服そうな顔付きで俺と村上を見ていたけれど、実際に反論を口にすることはしなかった。
 けれど、そうやって、いざ立ち去ろうとした矢先のこと。再び、思わぬところから異論が挙がった。
「……もうちょっとだけ、見ていきましょう」
 それは下部だった。首筋までを真っ赤にしながら、未だ空き教室の中の様子にじっとその目を向ける様子はまさに興味津々といった感じだ。
 村上はそんなことを口走る下部に呆れ顔を向ける。そうして、もう一本の手でその口を押さえてしまえば、浅木同様そのまま引き摺って行こうという腹積もりのようだった。
「むー、むー!!」
 そんな仕打ちに下部は抵抗わ見せたけど、同じように襟首を掴まれる浅木が大人しく引き摺られているのを見ると大人しくなった。ここで騒ぐことで中の二人の雰囲気をぶち壊してしまうことを危惧したのだろう。


 群塚高校の校舎を出て、谷交堂神社へと続く道に入った矢先のこと。そこまでずっと不満顔をしていた下部が「やっと言いたいことが言える」という具合に、非難の言葉を村上へと向けた。
「もう少し見ていたって罰なんか当たらないのに、あの仕打ちは酷いですよ」
 そんな下部の主張に対して、村上が取った態度は「呆れてものがいえない」と言うものだった。そうして、下部の鼻先に人差し指を突き付けると、こう教え諭した。
「下部、いいか? 最初はただの好奇心だったかも知れないが、気付いてみたら変な性癖が生まれてしまっていて、後戻りできないところまで病状が悪化していたなんてこともある。悪いことは言わない、覗きなんて趣味を持つことは止めておけ。……まぁ、もう手遅れなのかも知れないけどな」
「な、何言ってるんですか! あれは笠城さんが! それに手遅れなんて、そんな……」
 真っ赤になって反論する下部の様子を、村上はさも楽しいという顔付きでいなしていた。それはもう何度と見てきたやりとりで、村上の方も加減というものを知り尽くしているのだろう。少なくとも、そこから口論に発展するだとか言ったような不安な感じはなかった。
 ただ、下部の口から俺の名前が出たについては何らかの制裁を加える必要があるだろう。自分がやった行為を人の所為にするのは頂けない。だからといって、俺が下部を村上がそうするように扱うというわけにもいかない。
 ではどうするか。そこは村上にさらなる弄りを加えて貰って、鬱憤を晴らすことにしよう。
 そうやって下部が村上に噛み付く様子をボーッと眺めていると、ふと気付いたことがあった。それは俺以外がみんな浴衣姿であり、その中に混ざる俺だけが明らかに浮いているということだ。
「今気付いたんだけど、俺以外はみんな浴衣姿なんだな」
 俺の言葉に村上達は顔を見合わせる。
「何を今更。格好から入れとは言わないが、せっかくの夏祭りだぞ。今、浴衣を着ないでいつ着るっていうんだ?」
 これこそ祭りの醍醐味の一つだ、村上は言わないばかりだった。
 そして、その意見に浅木も仁村も首を縦に振って賛同する。
 改めて、俺は浴衣に身を包む三人の出で立ちを確認する。
 村上は群青色のオーソドックスな浴衣だった。柄の方は戦国武将の家紋などで見掛ける「鷹の羽」に似たもので、派手さのないオーソドックスな柄だろう。良く言えば普通、悪く言えば無個性と言ったところだろうか。尤も、男物の浴衣に個性もへったくれもないと言われればそれまでだけど、村上に関して言うと殊更それが強調されている感じがした。
 一方で、浅木と下部の浴衣姿に目をやると、そこには趣味の違いがくっきりと現れた。
 浅木の浴衣は濃い目のピンクの下地に、赤と白で華やかな花々の柄がちりばめられている。これもまた浅木の人当たりの良い雰囲気が持つイメージにカチリと填ると思った。結い上げた髪を髪留めでまとめて、しっかりと項を強調していることも含めて、普段の少女趣味全開の服装を好む浅木とは違った色気がそこにはある。
 下部の方は馬子にも衣装という言葉が一番しっくり来るだろう。ただ、黄色に赤の蜻蛉柄をちりばめた浴衣は、良くも悪くも意表を突かれた感じだ。俺の個人的な感想を言わせて貰えば、もっと落ち着いた色の方が下部らしいイメージだと思う。けれど「適当に見繕ってきました」といわないばかりその雰囲気も、それはそれで下部らしいとも思えた。
 ただ、下部に関して言えば、あくまであまり接する機会のない俺の個人的な感想だ。下部に対する俺のイメージの方が間違っている可能性もあると思ったけれど、下部の浴衣姿については村上も俺と同じ感想を抱いたらしい。
「しかし、下部は馬子にも衣装って言葉がしっくりくるな。お前はもっと落ち着いた色合いの方が似合うと思うぞ」
 そんな村上の寸感を聞き「はっきり言うものだ」と思った。それが村上らしいと言えば、確かにそうだろう。けれど、その率直さは、下手をすると下部の機嫌を損ね兼ねないとも思う。ハラハラとする俺の心配を余所に、返す言葉にチクリと棘を混ぜる様子も含め、下部はそんな村上の態度にも慣れた調子を見せ付けた。
「わたしまでオーソドックスな色と柄でまとめたら、村上先輩の影が薄くなっちゃいますよ? 浅木先輩とわたしが華やかさを演出することで、村上先輩の存在感を高めているんです。そういうところも考えたんです」
 下部の言うように、浴衣姿の村上は確かにいつもの確固とした存在感を失っているように見える。人を選ばない無難な色合いでまとめたことで得たものは、悪く言うなら「風景に溶け込むような」イメージだ。今の村上が一人待ち合わせ場所にポツンと立っていたら、俺はそれが村上だと気付かないかも知れない。
 下部に言われて初めて、村上は自分の影が薄くなったことを認識したようだった。
「なぁ、笠城。浴衣姿の俺は影が薄いのか?」
 俺は村上の質問に、正直に答えることを躊躇った。けれど、結局は黙って頷く形でそれを肯定することになる。俺を見据える村上の視線は「はい」か「いいえ」の明確な答えを要求し、俺に曖昧に濁す答えを許さなかったからだ。
 ただ、その俺の見解を前にして、村上はこれみよがしに肩を落とした。
「大丈夫です。そのためにわたしがこんな派手な色合いの浴衣を選んだんですから。笠城さんや若薙先輩に負けないように、いつも以上に存在感を主張したかったらちゃんとわたしの側にいて下さい。しっかり、村上先輩の存在感を高めてあげますから。それにせっかくのお祭りですから、たまにはこう言う華やかなのも良いじゃないですか」
 下部は若薙の手を取って同意を求めるけれど、その見解に同意する村上にはいつもの元気は見受けられなかった。
「ああ、それは確かにそうだな。……華やかなのは良い、華やかなのは」
 何だかんだ言ってダメージを受けているのだろう。尤も、そもそも論で、華やかな下部や浅木と一緒にいたから村上の存在感が高まるかという疑問もあったけれど、そこは突っ込まない方がいいのだろう。
 そんな風に雑談を交わしながら谷交堂神社へ向かって歩いていると、同じ方向へと進む人の数は目に見えて増えていった。谷交堂神社へと近付けば近付くほど、人が増加していって道が混雑していくのだ。それはここ淀沢村では非常に新鮮な感覚だった。
 目的地へと近付けば近付くほど喧騒も大きくなっていって、そこには活気というものが感じられた。これも、淀沢村に来てからこっち体験していない感覚だ。良くも悪くもここは長閑な世界であって、それこそ時間の流れさえ曖昧に感じてしまうほどなのだ。
 ふと、小高い丘の上が一際光を放っていることに気付いた。そして、そこから華やかながら独特な祭りの音楽が流れてきていることを理解すると、そこが谷交堂神社なのだと認識する。谷交堂神社は俺が想像していたものと大分違うようだった。てっきり平野にドカンと門構えがある神社を想像していたので、大きいと言ってもそう迫力のあるものではないだろう。そんな意識が頭の中にあったのは確かだ。
 眼前にある谷交堂神社は遠目にも長く続くことが解る参道を含めて、山一つがその敷地内なのだろう。
「谷交堂神社ってのはあんな山の中にあるんだな」
「あそこは参道を上ってすぐの本堂の辺りだな。奥の院まで行くとなると、あの辺りまで行くことになる」
 村上が指差した場所を目で追うと、俺が谷交堂神社として認識した場所よりもずっと山の中に入っていったところに奥の院の存在を確認できた。
「谷交堂神社の夏祭り会場からは花火をパノラマで楽しめる」
 ふと、岸壁の言葉が脳裏を過ぎった。
 確かに本堂の位置するあの高台からならば、花火をパノラマで楽しめることだろう。
 谷交堂神社へ近付くにつれ増加していった人の数は、参道へと到着した時点で近隣を埋め尽くさんばかりになっていた。とてもじゃないけれど、何かの拍子で一度はぐれてしまったら、偶然再会するなど余程の幸運にでも恵まれない限りは無理だろう。素直に、淀沢村の全人口がここに集まって居るんじゃないかと思ったぐらいだ。もちろん、淀沢村以外の土地から人が来ているからこんな状態にあるのだろうことは解っている。
 それでも、道行く人の大半はある程度年齢の行った人達が多いように思えた。もちろん、中には子供連れの人達や、若年層も見受けられたけれど、はしゃぎ回る甲高い子供の楽しげな声を聞いたのは本当に久しぶりな気がした。サマープロジェクトの影響か、同年代の男女を見掛けることは多いけれど、淀沢村でこうやって親子連れや若年層を見掛けることはほとんどないと言ってしまっても過言ではない。
 電信柱や送電線なども、近くで見ると新が目立つものではありながら華やかなイルミネーションをまとっていて、谷交堂神社の夏祭りを彩っていた。谷交堂神社へと続く長い上り坂には、ずらっと続く屋台や夜店もある。それらは夕焼けにも負けないほど煌々とした灯りを伴っていて、これから夜の時間に掛けてその華やかさをより際立たせることだろう。
 俺達は長く続く参道を、ゆっくりと上る。その進行速度は非常に鈍い。勾配はきつくなく、足下も石畳のしっヵりとした作りなのだけど、人口密度が高く思うように前へと進めないのだ。加えて言えば、参道の両端に店を構える屋台へと人が立ち止まることによって、人の流れ自体も悪い形だ。
 背伸びをして前の様子を窺ってみても、思うように状況を把握できない。だから、我慢できずに俺は尋ねていた。
「本堂までは後どれくらいなんだ?」
 殊更、人混みが苦手というわけではない。けれど、仮にこれが延々と続くと言われればさすがに辟易もする。基本的には本堂まで一気に登り切ってしまうつもりだったけれど、状況によってはそこらの屋台に飛び入って、間に休憩を挟むという選択肢も有りだろう。そう考えたのだ。
「ほら、あの先に見える石段を登り切れば、そこが本堂だ」
 村上の言った石段を確認すると、俺は思わずげんなりとした。そこまで多くの段数を構える石段ではないし、特別段差があるというわけでもないけれど、やはりその手のものを想定していなかったというのが大きい。尤も、同時にそれが最後の踏ん張りどころだと思ってしまえば、俄然気合いも入った。
「普段はほとんど人も居ないから、時間を忘れて森林浴をするには静かで絶好の場所なんだけどね」
 いつもと違う谷交堂神社の様子を、今の混雑振りから窺い知ることはできない。けれど、参道を覆い隠すように生い茂る広葉樹などは、確かに炎天下の太陽光を遮るに足るもので、閑散とした参道をゆっくり散策するとなると、また違った雰囲気を持っているのだろう。
 石段を登り切ると、そこには遠目に眺め見た谷交堂神社の本堂が鎮座していた。本堂前の広場には櫓が組まれており、ここでは夏祭りによく見る「踊り」なんかが披露されるようだ。
 ふと、俺は谷交堂神社の本堂に目を留める。誰もが名前を知っているような神社仏閣の煌びやかさはなかったけれど、そこには荘厳な雰囲気を持つ立派な木造建築があった。
「どうかした、笠城君? 本堂なんかをじぃーっと見つめちゃって。見えちゃいけないものでも見えた?」
「そういうんじゃないよ。ただ、変わった作りしているんだなって思ってさ」
 本堂はあちらこちらに特徴的な作りの細工が鏤められていた。尤も、俺にそれが何なのかを語る蘊蓄はなかった。この手の建築物や様式に対する学問を齧った人間ならば「屋根は寄棟造だ」とか「柱は明治時代のものだ」などと、流暢に説明できたのかも知れない。けれど、少なくとも今ここに顔を揃える面子の中には居ないようだ。
 横合いから覗き込むようにして、俺の視線の先を窺った村上の言葉はそれを俺に強く印象づけた。
「変わった作り? 神社なんてどこもこんな感じの建築物じゃなかったか?」
 本堂前の広場の中で通行人の邪魔にならない位置まで移動すると、今後の予定と待ち合わせ場所について浅木が説明を始める。それは一度緑陵寮で確認し終えている内容だったけれど、俺はそれを聞き逃さないようにしないといけない。なぜならば、道案内を浅木に任せたことで俺はその内容を真面目に聞いていないからだ。
 仮に、待ち合わせ場所も解らない状態で、この混雑具合の中、迷子になどなった日には俺は途方に暮れるだろう。
「郁達とは午後六時の鐘が鳴る時に、谷交堂神社表参道下の鳥居で待ち合わせ。それまでは自由行動っていうことになってるから、何か見たいものがあれば見に行って貰ってオーケーだよ」
 参道下という単語に、俺は首を捻った。ここは参道を登り切った本堂前の広場である。
「表参道下の鳥居って、途中の分岐路で左手側の坂の下に見えた奴のこと?」
 俺の質問を、浅木は鳥居までの移動ルートを尋ねたものだと思ったらしい。
「うん、そうだよ。あたし達は裏参道から表参道に合流するルートで登ってきたから、さっき通った途中の合流点を左手に下っていけば待ち合わせ場所に出るね」
「だったら、本堂まで登って来る必要なんてなかったんじゃないか?」
 真顔で尋ねる俺の言葉に、浅木は可笑しそうに笑った。
「今から鳥居になんて向かったら、待ち合わせ時間までボーッと待っていないとならないよ?」
 それは確かに浅木の言う通りだった。時刻を確認すると、待ち合わせ時間まではまだまだその辺りをぶらつくぐらいの時間が優にある状況だ。群塚高校を出る時にはちょうど良い時間だと思ったけれど、実際に掛かった移動時間はそう多くなかったらしい。尤も、その移動時間は村上から手渡された簡易地図に目安として記載されたものを根拠にしているから、そもそも多めに見積もられていた可能性もある。
 またも「想定外」となる自由時間を与えてられて、俺は当惑する。てっきり、そのまま仁村達と合流して、何か意見を述べる間もなく花火を楽しむ流れになると思っていたからだ。夏祭り会場で「何をしようか?」なんて考えていなかった。だから俺に取って、降って沸いた自由時間は持て余すに足るものである。そもそも、谷交堂神社の夏祭りに対する事前知識なんて何もないのだ。
 その一方で、その自由時間を目一杯楽しもうとしたのが下部だった。
「そうだ、村上先輩! 灯籠! 灯籠見に行きましょうよ! ね?」
 下部は唐突に若薙の手を引いて走り出す。
「おい、下部。ちょっと待……」
 下部に振り回される形で、村上は一足先に谷交堂神社の境内に広がる雑踏の中へと吸い込まれていった。俺や浅木に向けて、村上は訴えかけるような仕草を見せていたけれど、俺も浅木も振り回されるその様子を笑顔で見送った形だ。
「テンション上がってるな、下部さん」
 もちろん、俺の中にも心躍る感覚がないわけではない。けれど、一緒になってはしゃぎ回る相手が居ないというのも確かだった。隣にいたのが若薙や佐伯だったら、また違ったのかも知れない。
 夏祭りだからという理由に託けて、浅木の手を引いてしまおうか。浅木は驚いた表情一つ見せることなく、俺に手を引かれることをまるで当然のことのように受け入れるかも知れない。……なんて、そういうわけにもいかない。
「谷交堂神社ってのはさ、灯籠が有名なの?」
 下部が声を大にして言った灯籠が少し気に掛かって、俺は浅木にその詳細を尋ねる。
「あたしも詳しいことは知らないけど、奥の院には何か灯籠の凄い奴があるらしいよ。夏祭りとか奉納祭だとか特別な行事の時にだけ火が灯されるっていうような話を、この前馬原寮長が話してた。興味有るなら時間もあることだし、灯籠を見に行ってみる?」
 浅木は俺の顔を覗き込むようにして、その目で「どうする?」と聞いてきた。
 奥の院へと足を向けることに反対する理由などなかった。
「そうだね。でも、先にちょっと摘めてお腹の足しになるものを確保してからに……」
 そこまで言い掛けた時、俺の目の前を見覚えのある横顔が横切った。
 髪を結い上げたりと多少見た目は変わっていたけれど、それは浴衣姿の新垣だった。間違いない。
 俺は慌てて、くるりと新垣に背を向ける。
 そんな挙動不審な態度を見せる俺に、浅木は怪訝な表情だ。
「……どうかした?」
「いや、ちょっと、見つかっちゃうとややこしい話になりそうな相手が居て」
 決して、新垣と鉢合わせしたくないということではない。そもそも、向こうは俺のことなど覚えていないかも知れない。ただ、新垣がここに居るということは、例の二人が近くにいる可能性を示唆する。それは非常にまずい。当然、俺の脳裏を過ぎるものは遊木祭寮での一件だ。
 新垣の記憶の中から俺が消えている可能性は十分考えられるけれど、遊木祭の一件に絡んだ男の記憶の中から消えているという可能性は考え難かった。あれは肝を冷やしながらも、どうにかこうにか事なきを得た騒動だ。それでいながら、まだ時効になったとは言えない。
 遊木祭寮の寮生が俺や若薙をあの時の犯人だと知った時、黙って済ませてくれるとは思えない。
 新垣はともかくとしても、やはり例の二人と顔を合わせるわけにはいかないことを俺は再認識する。
 ちらりちらりと横目で様子を窺ってみた限り、恐らく新垣はその櫓の前で誰かと待ち合わせをしているのだろう。頻りに時計を気にしている様子だ。けれど、一度そこに不満顔を灯して見せると、するりとその場を離れて行ってしまった。新垣が足を向けた先は、奥の院へと続く道だ。
「毎回毎回、あっちこっち勝手気ままに行く」
「気付いたら居なくなってたなんてしょっちゅうだぞ!」
 いつかの商店街での台詞が俺の脳裏を過ぎる。
 新垣はあまりその手のことを重視しない性格なのだろう。自由奔放といえば聞こえは良いけれど、集団行動が苦手で子供時代は「協調性に欠ける」と通信簿に書かれた口かも知れない。
 ともあれ、灯籠がある奥の院へと行くことに対し、俺の第六感が危険を告げた。この手の「虫の知らせ」が的中した記憶は乏しいけれど、今回ばかりは念を押すに越したことはないだろう。
「灯籠を見てみたいのは山々なんだけど、次の機会に回すことにするよ。ちょっと、今そっちに行くのはまずい状態なんだ。俺だけで済む問題ならまだしも、下手をすると他に色々と迷惑が掛かることに繋がりかねない危険が潜んでるんだ」
 遊木祭寮爆撃事件を知らない浅木への説明は色々と内容を伏せたがために、ツッコミどころが満載の酷いものだった。
 けれど、マジマジと俺の表情を眺め見た後、浅木はその説明で納得してくれた。
「そっか。複雑な事情がありそうだし、詳細は聞かない方が良いんだよね? まぁ、でも、どうせあれでしょう? 若薙君とか永旗さんが絡む話なんでしょう?」
 にこりと微笑みながら鎌をかけるかのような浅木の言動は、相変わらず鋭かった。
 俺は答えに窮して苦笑する。結局「そうだ」とも「そうじゃない」とも言わなかったけれど、それは肯定したに等しい態度だっただろう。
 現に浅木は、俺の態度を目の当たりにして、その追求の言葉をあっさり引っ込めた。そして、そこには納得顔がある。
「浅木さん。奥の院やその道中で村上や永旗さん、後は若薙に仁村もだけど、もし会うことがあったら伝えて欲しい。大逃走劇の夜に、俺達が迷惑掛けた面子も夏祭りに来てるから十分注意しろって」
 俺は真顔で浅木にそう言い残すと、早々にその場を離れた。頻りに周囲の様子を窺いながら、心なしか頭を低くするかのような挙動は、さぞ不審に見えたことだろう。
 俺が逃げるようにして向かった先は谷交堂神社の参道だった。そして、石段を下りきって本堂から一定距離を確保すると、俺は思わず天を仰いだ。
「悪いことはするもんじゃないなぁ……」
 ともあれ、そんな具合に気落ちしていても仕方がない。俺は谷交堂神社の参道をびっしりと埋めた屋台を尻目に、祭りの空気を楽しむことにした。何かを食べて腹拵えしようと思ったけれど、今一屋台で綿菓子やフランクフルトを購入する気にもなれない。ただ、だからといって、本格的に腹が膨れるものをチョイスというのもしっくりこなかった。
 そうやって、今の俺の中途半端な空腹感を適度に満たしてくれる食品を探して谷交堂神社の参道を彷徨っていると、人混みの中に仁村の姿を発見した。中規模の屋台が軒を並べる中、その軒下で見掛けた仁村は大量のビニール袋を腕に抱えていた。どうやら、食料を買い込んでいるらしい。
 それはパッと見「尋常でない量」と表現してしまっても良いだろうか。もしもそれを一人で平らげるなら、どこぞで開催されるような大食い選手権でも、良いところまで戦い抜けるかも知れない。
「……仁村?」
 思わず、仁村の名前が口を付いて出た。
 仁村の方もすぐに俺の姿に気付き、その表情をパァッと明るくさせた。
「笠城君、ちょうど良いところに! ちょっと色々と買い過ぎちゃってさ。悪いんだけど、……荷物持ち、頼まれてくれない? ジャンボフランクフルトを奢るからさ、お願い!」
 ちょっとなんてレベルの量じゃないだろう。
 ふとそんな思考が脳裏を過ぎってしまえば、俺は呆れた顔付きで仁村を見てしまっていたようだ。もちろん、それは無意識の内にそれと気付かずやってしまったことだ。仁村に指摘されるまで、俺は自分がどんな顔をしているのかなんて、全く気にしていなかったのだからだ。
「……もしかして、これ全部わたし一人で平らげるとでも思ってる?」
 仁村から棘のある対応があって、俺は不意に脳裏を過ぎった自分の考えが間違いだったことに安堵の息を吐き出した。
「はは、そうだよな。さすがに違うんだよな?」
 けれど、仁村はそんな俺の言動がお気に召さない。仁村からは鋭いジト目が向いた。
「笠城君がわたしをどういう目で見てるか、ちょっと解っちゃったな」
「滅相もない。まさかと思っただけだよ」
「まさかと思うこと自体が既に失礼なことだと思わないのかな? こんなスタイル抜群のあたしを相手にしてさ」
 自身のスタイルについて「抜群」と評する仁村の姿を、俺は上から下までマジマジと眺め見た。けれど「その通り」と全面的に同意をするには、俺の脳裏に思い浮かんだ比較対象は相手が悪い。
 スリムと言えば確かに仁村はそうだろう。けれど、スタイルが良いとはまた別の話だ。その手のことに確かな目を持つ奴がこの場にいれば、仁村の言葉を鼻で笑ったかも知れない。
 しかしながら、頑と否定すれば角が立ち、仁村の機嫌が悪化するのは間違いない。
 結局、俺は曖昧に頷き返事を濁した。
 ちなみに、俺の脳裏を過ぎった比較対象は佐伯だったり、永旗だったりする。
「これはね、花火を見ながらみんなで食べる分」
 仁村の言葉を額面通りに受け取るなら、その量の中には緑陵寮で顔を揃えていた面子の分も含まれているらしい。しかしながら、そこで俺は違和感を覚える。仁村の言った「みんな」の範囲がどこまでを含めたものかは解らないけれど、下手をすると二桁に届くかも知れない「みんな」を想定した量と言うには少なすぎるのだ。
 そして、みんなと言いながらも、周囲には仁村と一緒に先遣隊として出発したはずの面子が見当たらないのだ。仁村だけが買い出し部隊ということも考えられるけれど、その状況も今一しっくり来ない。
「ところで、若薙は? 岸壁と永旗さんもだけどさ」
「最初の内は一緒に色々と見て回ってたんだけど、若薙君は綾辻さんから呼び出しが掛かったとかで途中で別れちゃった。多分、緑陵寮に戻ったんだと思うけど、正確なところは何とも。岸壁君と永旗さんもその絡み。まぁ、二人は待ち合わせ時間までには集合場所に集まるからって言ってたけど」
 仁村の口から綾辻の名前が出たことで、俺の脳裏を過ぎるものは不安だ。この状況下で、若薙と綾辻の組み合わせである。少しでも緑陵寮の状況について知識がある奴ならば、誰もが好ましくない事態を連想するだろう。
「……また、若薙は何かやらかしたのかね」
 俺は溜息混じりにそんな推測を口にする。
 引き起こした「問題の内容」に、心当たりはない。けれど、問題を起こした上で呼び出しが掛かったというその推測は若薙の普段の行動を分析すると、ピタリと型にはまる。
 だからだろう。そんな推測を仁村も否定しなかった。
「あはは、そうかもね」
 まぁ、綾辻が相手でも集合時間までには顔を見せるだろう。
 それはいつものことであり、気にしても仕方ないことだと思った。
 仁村から荷物を半分受け取ると、そこにはずしっと来る重さがある。
「しっかし、これだけの量となるとかなりの金額掛かったんだろう? 後でみんなで割り勘するにしても、一人頭結構な額になりそうだよな。……手持ち、有ったかな」
 懐具合を心配する俺に、仁村は思案顔を覗かせた。
 そして、今まさに財布を取り出そうとする俺に向けて、仁村はその心配がないという。
「実はこれ、全部お金掛かってないんだよね。だからこそ、こんな量になっちゃったっていうのもあるんだけどね。……どういうルートで手に入れたのかは教えてくれなかったんだけど、若薙君が屋台で支える無料チケットをたくさん持っててさ。別れ際に「残ってももったいないから全部使い切っちゃってくれ」って渡されたってわけ」
 さっきの思案顔は、それを言うべきか言わないべきかを迷ったものだろう。尤も、俺でも相手によっては、適当にはぐらかしたかも知れない内容だ。
 確かに直近でのお金の心配はなくなったけれど、別の心配が生まれたことは言うまでもない。しかも、それを「聞かなかったことにする」というには、少々内容が悪すぎる。
 改めて、俺が担ぐものと仁村が持つ食料を確認する。それは四〜五人で容易く食べ切れる量ではない。出店や屋台の看板に記された実売価格で計算するなら、それは軽く福沢諭吉が一人二人と居なくなる量だろう。
 最初に何枚の無料チケットがあって、仁村は一体どれだけの量を使ったのだろうか。一つだけ言えることは「やっぱりチケットを返して欲しい」と言うような話が上がったとしても、それを返却するのは非常に困難だということだ。
 もしも、そんな話が上がった場合は若薙が何とかしてくれるのだろうか?
 ふと、若薙が綾辻に呼ばれていったのは、この無料チケット絡みのような気がした。もちろん、それはただの推測であり、確証はない。ただ、手持ち資金は確認しておいた方が良いかもしれない。本気でそう思った。
 仁村に先導されて参道下の鳥居を目指して歩いていると、ふっと見覚えのある顔が横切った気がした。俺は特に意識することなく、その見覚えのある顔を目で追う。
 その女の子は浴衣姿の女子の群れの中にいて、一際異彩を放っていた。友達と談笑する何気ない仕草も含め、そこに佇むだけで人の目を惹く器量がある。淀沢村商店街のロゴが入った団扇を帯へと挟むようなどこか垢抜けない浴衣姿ではあったけど、それさえも誂えたように似合っていたのだ。
 ふと気付いたら、その場に立ち止まって凝視してしまっていたぐらいだから、俺の興味は相当だったろう。
 けれど、一瞬誰だか解らなかったその人物が不意に「佐伯」だと解ってしまえば、俺はその目を疑った。祭りの雰囲気にやられた所為か、それともいつもと異なる浴衣姿にやられた所為か。何にせよ、俺の心拍数は急上昇した。
「……本当に佐伯さんか?」
 ふと気付けば、それを確認するかのように佐伯の名前が口を付いて出ていた。尤も、その言葉に佐伯の耳まで届くような声量はない。それは軽く呟いたに過ぎないようなものだ。
 俺はそんな佐伯の姿を目で追うけれど、さすがに声を掛けられるような雰囲気ではなかった。いつかの散策の時のように一人で参道を歩いているのならばともかく、佐伯は浴衣姿の女子の群れの中にいるのだ。立てて加えて、何を間違ったか佐伯に見惚れるなんて状態に陥ってしまった俺が、その当人を前にしてまともな会話ができるとも思えない。
 今まさに、気付かなかったことにして、その場を離れてしまおうとした矢先のこと。偶然、俺の方へと振り向いた佐伯と目が合った。ジロジロと眺めてしまったことで、俺の視線に気付いたのかも知れない。
 俺を見付けた佐伯はニコリと微笑み、小さく会釈した。永旗や若薙を相手にする時に見せたような癖は見る影もない。全体から放たれる穏やかな雰囲気に、柔らかさを連想させる仕草。何匹猫を被ったら、こうなるのか。
 想定外の事態に、咄嗟の対応ができないほど俺は慌てた。どうにか会釈を返しはしたものの、佐伯は俺の挙動をさぞかし不審に思ったことだろう。浅木や新垣で多少なりとも感じたことではあるものの、俺は佐伯を前にして改めて「夏祭りの雰囲気と浴衣姿でここまで印象が変わるものか」という思いを強くした。
 そんな一杯一杯の状態まで陥った俺の脇腹を、仁村が突いた。
「彼女と、知り合いだったの?」
「佐伯さんとは、面識無いんだっけか?」
 仁村の言葉に、俺は首を捻る。確かにそう言われてみると、佐伯と仁村が一緒に居た記憶はなかった。
 仁村は佐伯の背中をじっと目で追った後、少し怖い目付きで俺を見た。大食疑惑の一件以外に仁村の機嫌を損ねるような挙動や発言をした記憶はない。
 それでも、事実そうやって仁村から怖い目付きで睨まれたのだから、俺は確認しないわけにはいかない。
「……何か気に障ることがあった?」
「んー、そういうのじゃないよ。ただ、佐伯さんには寮対抗戦のバレーの試合で、これでもかってほどにやられたからさ。あまり気持ちの良い戦い方をする子じゃなかったし、こう月夜の晩だけだと思うなよ、みたいな感覚がね」
 佐伯は寮対抗戦でバレーに参加したらしい。当然、遊木祭寮の寮生なので緑陵寮としては敵になる。
 そして、仁村のその言い様から察すると、佐伯は対緑陵寮戦で縦横無尽に暴れたのだろう。
 そこに遺恨が残るような何かがあったのだろうか?
 不穏な言葉を口走る仁村に、俺は不安を覚えずにはいられなかった。
「はは、一応勝負だから、それも仕方ないんじゃない? 豪華な景品も掛かってたんだしさ」
 仁村は俺の顔をマジマジと注視した後、納得がいかないという顔をする。
「んー……、笠城君はあっちの肩を持つんだ? 何か色々と佐伯さんについて知っているみたいだし、聞かせて貰えないかな?」
 藪を突いてしまった。そう思った。
 俺は慌てて仁村から視線を外すと、参道の屋台へと目を向ける。
 何かこの雰囲気を打破する話題を提供してくれるものを、そこから探し出そうとしたわけだ。そして、そこからどうにか見付け出すことのできたものは、出店の棚へ設置された置き時計だ。
 脳裏を過ぎるものは集合時間。
「おっと、そろそろ時間になるから参道下へ向かうことにしようか?」
「あッ! ちょっと!」
 逃げるようにさくっと走り出してしまえばと、仁村は慌てて俺の後を追った。
 長く続く参道を、人混みを縫って走る。尤も、参道下の鳥居といった集合場所の正確な位置を知らないので、あくまでそれはポーズに過ぎない。はぐれて困るのは間違いなく俺の方だ。
 結局、そんなゴタゴタの中、午後六時を少し回った頃になって俺と仁村は谷交堂神社参道下の鳥居に到着することになったした。鳥居前には既に村上に下部、浅木、そして岸壁と永旗が集合していた。そこに居るべき面子として姿が見えないのは若薙だけだ。けれど、それはやはりと言うべきなのだろう。
 若薙だけは十五分が経過しても集合場所に姿を現さなかった。
「……やっぱり、何かやらかしたんだろうな」
 俺はその思いを強くする。
 仁村が溜息混じりに相槌を打った。
「若薙君だし、そうだろうね。間違いないだろうね」
 そんなやりとりを村上は怪訝に思ったようだ。俺に話題の主役が誰かを尋ねるけど、当の村上も俺と仁村のやりとりを聞き大凡理解していたようだった。
「それ、若薙の話か?」
「ああ、若薙の話。何でも綾辻さんに呼び出されて行ったらしい。何かやらかしたと思うだろ?」
 綾辻の名前を聞いた瞬間、村上までもがその見解に呆れ顔で太鼓判を押した。
「……そいつは間違いなさそうだな」
 一同からは溜息が漏れる。
 そして「ここでさらに若薙を待ち続けようか」というという今のスタンスに、岸壁が異を唱えた。
「……待ち人来ず、か。花火を見るための場所が本堂前の広場だって教えてないわけじゃないんだろ? だったら先に行っちまおうぜ。あいつが花火の途中で顔を見せたとして、俺達がここに突っ立ってるなんてことがあったら「なんでせっかくの花火をこんなとこから眺めてるんだよ!」って焼きを入れられるぜ、きっと」
 岸壁の言葉も一理ある。実際に花火をここで見上げる事態にならなかったとしても、ここでギリギリまで若薙を待った場合に、若薙が俺達に苦言を口にする様子は鮮明に思い浮かんだ。
 そして、鶴の一言は村上の口から出た。
「そうだな、綾辻から無事逃げ延びてくることを祈って、先に行くことにしようか」
 それはこの場に漂うもやもや感に結論を出した台詞だったけれど、同時に一同を苦笑させる内容でもあった。綾辻から無事逃げ延びてくることを願って良いかどうか、判断できないからだ。そして、恐らくそれは望ましくない。
 ともあれ、再び本堂を目指して言い出しっぺの村上が先導する形で歩き始めた矢先のことだ。不意に俺の視界には、見覚えのある路地が目に飛び込んできた。直ぐさま、その先へと続く道順が浮かび上がってくる。
「この路地を曲がってまっすぐ行けば、確か……」
 こんな夏祭りの夜にまで、一人バスケットボールをゴールポストに向けて延々とシュートしているのだろうか?
 ふと気付けば、俺は足を止めてしまっていた。
 そして、俺が足を止めたことに気付かず、本堂を目指して進む村上を呼び止めた。
「あー……、ちょっといいか? 一人、花火に誘いたい奴が思い付いたんで、今から声を掛けてこようかと思うんだけど良いかな? 場所は本堂なんだろ? 花火までには戻るよ」
 俺の言葉に、仁村は思うところがあったのか。再び怖い顔をした。
「……それって、佐伯さんじゃないよね?」
 仁村に佐伯の名前を出されたことで、俺の心の中でその線も「有りかな」と思った。但し、それは佐伯オンリーという形ではなく、あくまで大野とセットという形でだ。
 ともあれ、仁村がいい顔しなかったのを、俺は目の当たりにしているのだ。
 わざわざ火種を持ち込むつもりにはなれない。
「あはは、まさか」
 村上が俺にその相手を「誰か?」と尋ねることはなかった。そして、ちょっと気掛かりに思った「浅木や下部が面子の追加を厭うかも知れない」という心配も取り越し苦労に終わる。
 あっさりと別行動を了解されて、俺は参道前の鳥居で仁村達と別れた。
 向かう先は遊木祭川。
 迷うことなくその方向に例のバスケットコートがあると解るのだから、大分淀沢村について詳しくなったと思った。もちろん、あくまで緑陵寮と遊木祭寮の近隣地域に限った話ではある。それでも、遊木祭寮がどの方向にあるか、緑陵寮へと戻るにはどうしたら良いかをもう迷うことはない。
 一人、バスケットコートへと続く道を歩いていると、不意に群塚高校での刺激的な光景が脳裏を過ぎった。
「倫堂と野々原というタイプの異なる二人が、惹かれ合った理由はなんだろう?」
 ふと考えることは、そんな疑問だった。
 ただ、ファーストインプレッションとしてそう感じたと言うだけで、改めて倫堂と野々原について思考を巡らせてみると、二人が惹かれ合う理由も簡単に理解できる。佐伯という最初のきっかけを継起に、同じ志を持つもの同士として二人は頻繁に会うようになっていったのだ。そうだ、そこには美術の志を持つという確かな共通項がある。
「なんだ、そういう風に考えると全然お似合いなのか、あの二人。あー……、俺も彼女とか欲しいよな。せめて、夏祭りを一緒に歩ける相手がいればねぇ、もっと夏祭りを満喫できるのかも知れないけど」
 しみじみと口に出してそれを噛み締めてみるけれど、そこには焦燥感のような必死さや渇望が滲むことはなかった。
 その感想も、ただの結果論に過ぎないからだ。極論すれば、彼女を作るという一つの結果を出した野々原を見て、ただ俺もそれに肖りたいと思ったに過ぎない。俺は淀沢村にそれを求めてやってきたのではないのだろう。だから、肖りたいと軽く思うだけで、そこに「先を越された」だとかいう類の強い焦燥感が生まれないわけだ。
 そこに色濃く浮かび上がるもの。
 それはやはり、俺が淀沢村に来た理由である。
 村上は精神的にも肉体的にも強くなるために、佐伯は蝶を探すため、そして野々原はここでしか描けないものを描くために、淀沢村に来たといった。今日、野々原が淀沢村で得た形は、野々原が求めたものとは違うものだったかも知れない。けれど、各々が何かに向かって前進していることを俺にまざまざと実感させるには十分すぎる内容だった。
 不意に、自分一人だけが取り残されているかのような錯覚に襲われる。実際には「ここに来た目的が何なのかが解らない」者同士である仁村もいるし、面白そうだからという理由で淀沢村を訪れた須藤もいる。
 ここに来た目的などないのかも知れない。ふと、そんな考えが脳裏を過ぎる。
 だったら、俺は何をすればいい?
 無為に時間を過ごせばいいのだろうか。
 ともあれ、谷交堂神社に野々原が顔を見せなければ、今夜は戻ってこないかも知れない。俺は最後にそれを意識した。


 どうして、大野のことを気に掛けたのか?
 正直、その自問自答には俺にも明確な答えを導き出せそうになかった。
 建前で塗り固められたものでも良ければ「大野に会いに来た」というのが答えだろうか。そこに続くものは「では、どうして大野に会いに来たか?」と言う問いになるのだろう。もしかしたら、それは大野へと向けて「どんな目的を持って淀沢村に来たんだ?」と、そんな質問を心の内ではぶつけたいと思っていたからかも知れない。
 ふとドリブルをする音が聞こえてくれば、俺はそこに大野がいることを確信する。そして、相変わらず、響き渡る靴音は一人分しかない。今日も一人、バスケットコートで練習しているのだろう。
 バスケットコートの全貌が確認できる位置まで出ると、ちょうど大野がシュートを放るところだった。相変わらずの綺麗な弧を描き、ボスケットボールはリングに吸い込まれていった。
 俺は頃合いを見計らうこともせず、大野に呆れた調子も隠さず言葉を向けた。
「こんな夏祭りの日にまで、一人でゴールポストに向けて延々とシュートを打ち続けているのか?」
「いつもいつもここにいるわけじゃない。俺もついさっきまでは夏祭り会場にいた」
 ついさっきまでと言った大野の言葉に誇張はないだろう。大野は側頭部に夏祭りの夜店で売っていたお面を付けているし、バスケットコートの隅に設置されたベンチにはプラスチック製の器に入った焼きそばが置かれていた。
「いつもそうだが、たまたま気分が乗ってここに居るときにお前が来るんだよ、笠城」
 出現タイミングが絶妙過ぎることを大野に指摘されたけれど、俺も狙ってここにやってきているわけではない。だったら、それは波長が合うとか、神様の思し召しだとか言えばいいだろうか。
「そっか。ここに行きたいなって思う時の、その感覚が似通ってるのかもな」
 尤も、俺としては大野がかなりの頻度でここに居る気がしてならないというのが本音だ。けれど、そうやって何度も顔を合わせていることもあって、大野がまとう雰囲気も大分柔らかいものになった気がする。いや、初めて大野にあった時と比較するなら、それは大幅に改善されているだろう。
 不意に、大野から質問が向いた。
「そういえば、笠城は淀沢村に来てどれぐらいになるんだ?」
「もうかれこれ、二週間ちょっとになるのかな」
 そう答えてしまってから「もう二週間も経ったんだな」という思いが浮かび上がってくる。言葉にしないと、実感できないものもあるんだと知った瞬間でもある。
「二週間か、だったらもうそろそろいい時期だな。何かここで達成するべき目的は見つけられたか?」
 何か目的を持って淀沢村にやってきた奴ならば、確かに二週間は何かを決断するに十分な時間だ。
 俺はここに何をしに来たんだろう?
 大野に会うと、俺は色んなことを再認識させられる気がした。
 ともあれ、俺は曖昧に笑って、目的を定められない不甲斐ない自分について答えた。
「いや、それが全然。無駄にサッカーやったりと、毎日毎日遊び歩いている」
 そして、それは自然とルームメイトである野々原との比較に変わった。そこには野々原を羨ましいと思う気持ちがある反面、達成すべき目的を見付けられない自分をそれでよしとする思考もある。不思議な感覚だった。
「俺の同室に野々原って絵描きがいるんだけど、毎日毎日カンバスに向かっててさ。本当に凄いと思うんだ。ああ、目標に向かって頑張ってるんだなって。かといって、毎日毎日遊び歩いているにも関わらず、俺はと言えばこの夏祭りの日にはしゃぎ回って一緒に馬鹿をやる相手もいない。この淀沢村で俺は何か掴めるのかなって思ったりもするわけだよ」
「……そうだろうな」
 その大野の言葉は思いも寄らないものだった。
 まさか大野に肯定されるとは思わなかったのだ。いや、違う。その言葉は根本的に矛先が異なっていた。
「俺が若薙達と遊び歩いているのを小耳に挟んだのだろう」
 ちょっと考えれば、そんな意味合いに捉えて然るべき言葉だ。それなのにも関わらず、その言葉は俺の耳に酷く印象的に焼き付いた。まるで、そうなることが粗方解っていたかのような大野の言い回しだったことも確かにある。けれど、その言葉が持つ違和感はそれだけでは説明できない。
 思わず、俺は尋ねていた。
「……どういう意味?」
 俺が思っていた以上に、口走った言葉には真剣さが伴っていた。だから、慌てて角が立たないように言い直す。
「いや、その、怒ったとかそういうことじゃないんだ。その、今の大野の言葉は、……あれだ。俺の駄目っぷりを肯定した言葉じゃないよな?」
 大野は俺の慌てる様子を眺めながら笑う。そうして、一頻り笑った後、俺に質問を向けた。
「寮に帰ってカレンダーを確認したか?」
 俺は首を捻る。
 それはいつかのやりとりだった。大野が俺に曜日を確認した時、俺が安易に「確認するよ」といったことへ繋がる台詞だ。俺はそれを完全に失念していた格好で、大野に向かって苦笑を返す。
 大野は俺がカレンダーを確認し忘れていたことを悟ったようで、もう一度俺にそれを尋ねた。
「もう一度、聞こうか。今日は何曜日だ?」
 そして、俺が答えを口にするよりも早く、大野は僅かな思案顔を間に挟みその問いの答えを口にした。
「……月曜日、かな」
 俺は思わず口を切っていた。大野の認識が明らかに間違っていると思ったからだ。
「土曜日だろ? 今日は谷交堂神社の夏祭りの日だぜ? 谷交堂神社の夏祭りが開催されるのは土曜と日曜で、今日夏祭りが開催されている以上、月曜ってのはあり得ない。花火大会と夏祭りが重なる曜日は確か……」
 色々と今日が週末である証拠を引っ張り出そうと試みる俺をじっと見据えたまま、大野は再度俺に尋ねた。
「それは本当か?」
 顔を顰める俺に、大野は続けた。
「笠城が信じ込めば、例えそれが嘘でも、その嘘は笠城の中で本物に取って代わるぞ?」
 思い当たる節がある。そう断言してしまえるほど、確かな心当たりなど存在しない。けれど、その言葉が全く当て嵌まらないかと言えば、そうとも言い切れない。
 言葉を失って押し黙る俺に、大野は質問を付け加えた。
「淀沢村に来る前日の記憶があったりするか? そこが何曜日だったか覚えているか? 淀沢村に来る前の記憶はどこまでなら思い出せる?」
 何でもないことを聞くような雰囲気で大野は切り出した。けれど、既にそこには何とも言えない後味の悪い空気が漂う。それは平静さを失いつつある俺のぎこちなさが生み出したものだろうか。
「前日の記憶?」
 俺は自分の思考をその質問の答えを導き出すためにフル回転させる。もちろん、その答えが簡単に手繰り寄せられないものだと解ってはいる。けれど、今ならば、僅かでも切っ掛けを掴めそうな気がした。
「別に、前日のものじゃなくてもいい。どうして、淀沢村に来たのか? この質問に笠城は答えられるか?」
 今日の曜日を尋ねた大野の質問は淀沢村へ来る直前の記憶を問う内容へと変わり、最終的な形として俺が答えを求める疑問へと集約された。大野が俺に尋ねた質問の大まかな方向性は最初から最後まで変わらなかったけれど、それはアプローチを変えただけで俺が答えを求める疑問へと向いていたのだ。
 俺は俯く形で大野から目を逸らすと、意識の矛先を大野の質問の答えを導き出すための思考へと集中させた。
 大野は足下に転がるバスケットボールを拾い上げると、いつもの動作でそれをゴールポストに向けて放つ。そこに真剣さはない。俺が思考を巡らせる間、手持ち無沙汰だからやってみたと言わないばかりの緩慢な動きだ。
 それはいつもの放物線を描き、そして「ガアァァン」とけたたましい音を響かせた。
 ゴールポストの金属が弛んだ音だった。
 俺は顔を上げる。
 バスケットボールは地に落ち「トン、トン、トン……」と、フェンスの方へと転がっていった。
「……外れたのか」
 俺はぼそりと呟いた。特別、驚くわけでもない。別に大野がシュートを外すことを特別だとは思わなかったのだ。
 大野はああ言っていたけれど、百発百中なんてことはないだろう。心の中でそう思っていたから、それは尚更だ。
 けれど、バスケットコートに立つ大野の顔付きはついさっきまで見せていたものから豹変していた。
 大野は別のバスケットボールを拾い上げると、何かを確かめるようにもう一度ゴールポストに向かってシュートを放つ。それはいつもより数段全体的な動きの速い挙動で「焦り」のようなものを俺に印象づける。
 俺は黙ってそのシュートの結果を目で追った。そして、そこで俺は唖然とすることになる。
 綺麗な放物線を描いた大野のシュートが空中でぴたりと静止したのだ。それは空中で静止した後、小刻みに震え、最終的には何事もなかったかのように動き出す。けれど、大野が放ったコースから、そのシュートは大きく軌跡を外す形となる。再度「ガアァァン」とけたたましい音が鳴り、ゴールポストの金属が弛んだ。
 時間にして数秒にも満たない僅かな時間。けれど、それは確かに俺の眼前で起こったことだ。
 今回は見間違いなどではない。即ち、佐伯がこの場にいた前回も、同じことが起きたと証明したに等しい。
「まただ、……何だ、今の?」
「たまに世界が入れ替わるんだ。大半は太陽が沈む時間に起こる。……こういう日は夕暮れまでのそれまでの時間と、夜の時間とで、この淀沢村は全く別物になる」
 大野はさも当たり前のことを話す口振りでそれを説明した。即ち、それは今までに少なくとも一度はこの事態を体験していて、それを説明できるだけの何かを知っていることを示唆した。
「どういうことだ?」
 信じられないという顔付きをする俺の質問に、大野は端的に答えた。
「手品が通用しなくなる、法則が変わるんだ」
「……?」
 それが何を意味するのかが理解できない。だから、俺は大野が何を言っているのか理解できなかった。
 俺はシュートを外した大野をじっと注視した。その後に続くだろう説明を、ただ黙って大野に要求する格好だ。
「笠城に取って法則が変わる淀沢村は初めてか。だったら、やるべきこと、見つかるかもな」
 俺に向かって、今更「淀沢村でのやるべきこと」が見つかる可能性について大野は言及する。手品が通用しなくなることが「何を意味するか」を知っているからこそ、それは言及できる内容なのか。それすら大野は教えてくれない。
「大野!」
 俺は思わず大野の名前を呼ぶ。そうやって、法則が変わることの意味の説明を再度大野に求めたのだ。しかしながら、大野の意識は既にこのバスケットゴールになど向けられてはいなかった。まして、俺を気に掛けている余裕など、大野にはないように見える。
「悪いな、急用ができた。そこの焼きそばは笠城にやる」
 それを証明するかのように、先を急ぐといった大野の横顔は真剣そのものだった。
「またな」
 そう言い残すと、大野はバスケットボールを片付けることもせず、この場を後にした。
 一人取り残された俺は胸の奥に広がる混乱を隠せなかった。混乱は不安となり、不安はもの恐ろしさへと変わる。いや、それが何だか解らないものだからこそ、俺はそれを恐れたのだろう。



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