デフォルト設定での「フォント色+背景色」が読み難い場合、下記プルダウンからお好みの「フォント色+背景色」を選択して下さい。


デフォルト設定での「フォントサイズ」で読み難いと感じる場合、下記サイズ変更ボタンからお好みの「フォントサイズ」を選択して下さい。


「夏結」のトップページに戻る。



Seen07 回る時間と変化するもの


 うっすらと目を覚ますと、部屋の中に多数の人間の気配を感じた。
 若薙の声だと一発で解る威勢の良い声が部屋へ響き渡ると、俺は完全に覚醒する。
「フルハウス! どうだ?」
 若薙が叩き付けるようにして手札をオープンにすると、そこに居並ぶ面子からは溜息が漏れた。
 裏返しのままカードがフィールドへと投げ捨てられ、そこに若薙の手を越えるだけのものがないことを窺わせる。
「オープンエンドで張ってたのに……」
 最後の一人が険しい表情で手札を裏返しのままフィールドへと投げると、若薙は声高々と宣言した。
「良し、俺の勝ちだな!」
 言うが早いか、若薙は場に積み上げられたコインを掻っ攫っていく。そうすると、手元のコインを全て失ったのが一人いた。その勝負は決したようだ。
「美晴ちゃんのコインが無くなったか。勝負あり、だな」
 どこから持ってきたのだろうか。壁掛けタイプの小さなホワイトボードまで用意して、若薙達はポーカーをやっていた。ホワイトボードには八人の名前が記載されいていたけど、実際にカードを投げたのは若薙意外に五人だけだ。他の三人は早々に今回の勝負から降りてしまっていたのだろう。
 名前と顔が完全に一致するところからゲームの参加者を挙げていくと、まず岸壁に永旗がいる。そして、俺の記憶が正しければ、若薙に「美晴ちゃん」と呼ばれた宿野(やどの)に穂坂(ほさか)が続き、後の三人は食堂で擦れ違ったことがある顔という程度の認識だ。樋浦(ひうら)・篠倉(ささくら)・兼本(かねもと)とホワイトボードにはあるものの、当然誰が誰なのかを俺は区別できない。
 宿野はフルフルと肩を震わせていたけれど、立ち上がってその場を後にすることはない。それは即ち「リベンジをする」つもりがあるということだろう。
 若薙は丁寧にカードを集めて行くと、それを一つに束ねる。どうやら、カードを配るディーラー役と、プレイヤーを若薙は兼ねているらしい。
 ともあれ、そこでゲームは一段落付いた形だ。尤も、場はすぐにゲームを再開しそうな雰囲気を持っていたから、口を挟むタイミングはそこしかない。一種異様な雰囲気を醸し出す鉄火場に向かって、俺は口を開いた。
「なぁ、どうして、俺の部屋でポーカーやってるんだ?」
 誰もここが俺と野々原の部屋であることなど、気にしていないようだった。加えて言えば、その部屋の主の一人であるはずの俺が、今の今までベットで眠っていたことに対してもそうだ。俺が口を挟んだことで初めて、視線を集めた形だ。
「起きたか? おはよう、笠城」
 俺の質問に、定例の挨拶を返したのは岸壁だった。しかしながら、俺の質問に対して、さも「大したことではないだろ?」「いつものことだろう?」といった顔をするのを前に、俺は苦笑いしか出てこない。
「……ああ、おはよう」
 取り敢えず、定例の挨拶を口にはしてみるものの、爽やかな朝と言うには程遠い。
「今日は天気予報で降水確率80%だそうだ。そんな日に外出しようなんて気にはならないだろ? だから、本日は夕飯後のデザートを賭け、ポーカーで盛り上がろうかという趣旨だ。俺に勝負を吹っ掛けてきた相手もいるしな」
 誰とは口にしなかったけれど、若薙はこれみよがしに宿野へ視線を向ける。その相手を宿野だと示唆した形だ。
 若薙を恨めしそうな目付きで見返す宿野に、若薙へと向けたどんな怨恨があるかは解らない。けれど、それは俄に信じ難い内容だった。宿野と関わったことのない俺が言うのも何だけど、若薙相手に勝負を挑むタイプには思えない。
 しかしながら、宿野の隣の席へと腰を下ろす穂坂が溜息を吐き出したのを見る限り、宿野の方から勝負を吹っ掛けたのは間違いないようだった。俺の記憶の中では宿野と穂坂はいつも一緒にいるイメージがある。そして、穂坂は何かと宿野を手助けしたり、厄介事に巻き込まれたりしている感じだ。
 誤解を承知で例えるならば、性別こそ違えど、浅木と仁村の間柄に近いだろうか。今回の参加にしても、穂坂は完全に巻き込まれた形だろう。
「ポーカーで盛り上がるのは別に問題ないよ。でもな、どうして俺の部屋?」
 俺はそこまで口にした後、ふと「野々原がこんな事態を看過しているのだろうか?」と思い立つ。ぐるりと部屋を見渡して、俺は野々原の姿を探した。けれど、部屋の中に野々原の姿は発見できない。
 いや、野々原だけではない。浅木や仁村がいないのはまだ解るとしても、ここには見知った顔が一つ確実に足りない。
「野々原と、村上の顔が見えないけど?」
 俺の問いに若薙はトランプをシャッフルしながら答えた。
「野々原は朝早くから倫堂と群塚高校美術室に制作途中の水彩画の仕上げに行った。村上はこのどんより曇り模様の中、早朝から外出中。雨が降ったら戻ってくると思うがどこに行ったのかまではさすがに解らないな」
 改めて部屋の中を確認すると、遠巻きにポーカーの勝負を窺う面子も含め、部屋の中には結構な数の寮生が居ることが解った。降水確率が非常に高いということで、みんな外出を控えているようだ。
 若薙は慣れた手つきでヒンズーシャッフルを数回繰り返すと、最後にリフルシャッフルを披露する。そうして、綺麗にトランプを一つの束に戻して見せると、眼前に雁首揃える面子に対し、まるで見せ付けるかのように首を傾げた。
「さて、もう一戦行くか?」
 それはこれでもかというほどに、不貞不貞しい余裕たっぷりの態度だ。そして、挑発とも受け取れなくはない。
 眼前にある面子の大半は、すぐさまそんな若薙の態度に食い付いた。挑発に乗るか、それとも大人しく引くかの決断を唇を噛んで迷う面子も、最終的にはその態度に反発の声を挙げた。
「吠え面かかせてやるから覚悟しな」
「若薙君には絶対に苦渋を舐めさせてやるもん、絶対に!」
 若薙は下卑た印象を受ける顔でにんまり笑うと、宣戦布告をした面々にコインを配る。
 前回と全く同じ面子がそこには揃ったのだろう。ホワイトボードに新たな名前が追加されることはなかった。
「それじゃあ、まずは今回のゲームで運悪く最下位となった場合のペナルティを決めようか?」
 それを決めておかないとゲームが始められないと言わないばかり、若薙はそこに居並ぶ面々に向かって確認する。
 改めてホワイトボードを確認すると、宿野の名前の横には×印が一つ描かれてあった。それが負けを示す記号だろう。では、若薙他二名の横にある○印は何だろう。三人が勝利したという意味だろうか?
 そんな俺の疑問はペナルティを提案する岸壁によって解消された。
「上位三人に、風呂上がりのジュースを一本振る舞う。現実的だし、そんなところで良いんじゃねぇの?」
「その程度のペナルティじゃエンジン掛かんないな。もっとハイリスクなのでもいいんじゃない?」
 そこに異論を唱えたのが永旗だ。相変わらず、さらりと恐ろしい台詞を口にする。その溢れんばかりの自信はどこから来るのだろうか。
 宿野が負けたさっきのゲームも、永旗に取ってはエンジンの掛からないゲームだったんだろう。ホワイトボードに記載された永旗の名前の横には○印がなかった。
「まだ始めたばっかりだぜ? 勘を研ぎ澄ますにも慣らしは必要だ。それに、ペナルティは徐々に引き上げていく方が盛り上がる。心配しなくても、後半戦には自然と永旗の望むハイリスク・ハイリターンのペナルティになるだろうさ」
 永旗を教え諭す岸壁は呆れ顔ながら、こちらも永旗同様さらりと恐ろしい台詞を口にするものだと思った。岸壁がハイリスクと評した内容が、どんなものを指しているかを知る指標はここにはない。けれど、そこに若薙と永旗が関わっている以上、それが相当なものになるのは火を見るよりも明らかだろう。
 ここにいる面子はそれを理解した上で、この勝負に挑んでいるのだろうか。
 勝ち逃げが許されるとは到底思えない。最後まで付き合わされるんじゃないか。
「ふふ、それは楽しみね」
 ハイリスク・ハイリターンなペナルティを望むのは永旗や岸壁だけかと思ったけれど、そうでもなかった。
 ここに集う面子は揃うべくして揃ったらしい。
「ハイリスク・ハイリターン、望むところだ」
「次は勝つ、絶対に勝つよ。そして、昨日までの負けを取り返して、最後に笑ってやるんだ」
 最後に宿野が口走った台詞を聞いて「この子にギャンブルを教えてはいけないんじゃないか?」と俺は思った。ふと宿野の横で穂坂が大きな溜息を吐き出したのを、俺は見逃さない。そんな宿野の一面に苦労させられているのかも知れない。
 ともあれ、ペナルティについて、当初の岸壁の提案内容に異を唱えるものはいなくなる。
 永旗も異を唱えなかったことで、若薙はペナルティに対する結論が出たものと見なしたのだろう。勝負相手をぐるりと見渡し、問い掛ける。
「席順は今のままで良いか? 後悔しないな?」
 反論の声は挙がらない。
 それを確認し終えると、ディーラー役を兼ねる若薙がゲームへ臨むに当たっての現状説明をした。
「だったら、さっきの続きからだな。ステークスはさっきと同額。ディーラーポジションは穂坂で、スモールベットが太一だ。じゃあ、始めようか?」
 各々からの質問がないことを確認し、若薙がカードを一枚ずつ計二枚伏せて配り始めたところで、それは起こった。
 廊下の方から若薙を呼ぶ声が響いたのだ。
「若薙! 若薙はどこいった?」
「若薙? あいつだったら野々原の部屋に居たぞ」
 そんな廊下でのやりとりが聞こえた後、すぐに男が部屋に入室してきた。
 勢いよく入室してきた相手の名前を、若薙はその顔を確認することなく口にする。視線は常にポーカーの勝負相手へと向いていたので、若薙が名前を呼んだ相手は声で判断できる人物だったのだろう。
「どうした、そんなに慌てて何かあったのか、米城(よねしろ)?」
 若薙に米城と名前を呼ばれた男は、俺の記憶の中ではあまり緑陵寮内で見掛けたことのない顔だ。痩躯の長身にデザイン重視のフレームを採用した眼鏡、そして上から下まで洒落た服飾に身を包む。改めて確認してみるけれど、やはり記憶に残って居なかった。ただ、顔自体は見覚えがあるので、あまり印象に残らない形で擦れ違ってはいるのだろう。
「たった今、仕入れてきた情報だ。また、寮対抗戦が決行されるみたいだ。種目の方はまだ決定していないみたいだったけど、いつものように代表者立ち会いの下、抽選方式で決めるんだろう。正式には馬原か綾辻から展開があると思うけど、俺の予想では来週の土日の前に持ってくると思うね」
「へぇ。それで? なにか目玉でもあったの?」
 永旗が向けた質問の言葉からは、寮対抗戦への関心はあまり感じられなかった。そもそも興味を惹かれなかったのか、意識がポーカーへと向けられていた所為だろうか。それは定かではない。
 けれど、当の米城が興奮気味に口を開いたことで状況は俄に変化した。
「最新型の大型エアコン二機が目玉だね! 湿度調整機能は当然として、花粉除去から空気清浄もできて、ボタン一つで自動的に掃除までやってくれるメンテナンスフリーの最新式。ぜひとも、緑陵寮に設置したい代物だとは思わないかね?」
「……どっかの寮のオンボロがお亡くなりになりましたっていう話はないんだよね? 補填用でした、もう行き先が決まってました、なんて話だったらぬか喜びもいいところだよ?」
 目玉と言った内容は、確かに永旗や岸壁の興味を引くに足る内容だったらしい。目玉に対する具体的な確認を永旗が始めたことからも、それは明らかだろう。尤も、それは俺も同じ話だ。「少しでも毎夜毎夜の寝苦しさが改善されるなら」という思いから向く興味は既に並のものではない。
 誰もが米城の言葉に耳を傾ける。
 そんな中で当の米城はその態度で大袈裟に勿体振って見せた後、その不安は見当違いだと告げた。
「そこは事前に調査済みだ。サイズ的にどうだとか、他の寮での老朽化がどうだとかいうところまでは調査してないが、全寮絶賛まだまだ現役稼働中だ。争奪戦の可能性が非常に高いと、俺は見たね」
 そこまで解ってくると現金なもので、場は一気に色めき立つ。一部がざわつき始めると後はあっという間だった。
 そのままポーカー勝負を続行という空気は完全に掻き消えてしまっている。良くも悪くも、米城が持ってきた寮対抗戦の話題が一段落付くまで、この空気は変わらないだろう。
「ところで、寮対抗戦って?」
 俺は聞き覚えのない単語に首を捻る。それは特定の誰かに向けたものではない。
 そこには自由気ままに質問を口にして、米城や岸壁といった事情を理解している人間がその問いに答える流れがあったのだ。俺の質問もその流れに乗っかかった形だ。
 そして、そんな俺の疑問に答えたのは岸壁だった。
「新規導入される備品や設備を寮で競い合って奪い合う、熾烈なイベントがあるんだ。総合ポイントの高かった寮から欲しいものを獲得していく。旧公民館に風上、緑陵、遊木祭、群塚高指定に華帯と六つの寮で争う恒例行事だな。まぁ、行事っつっても設備的に恵まれていない寮の奴らは目の色を変えてくるから、かなりの緊迫感があるぜ」
 不意に、岸壁の回答に対して廊下の方から質問が続いた。それも特定の誰に向けた質問ではなかっただろう。
「……寮対抗戦って、ちょっと前にもやってなかったっけか?」
 そして、その質問に答えたのも俺の知らない誰かの声だ。
「別に一夏に一回ってわけじゃない。備品や設備の入れ替えや、導入の時には決まって開催されてる」
 米城が若薙の名前を呼びながら廊下を走り回った所為だろう。俺の部屋の入り口付近には寮生が集まり始めていた。ただでさえポーカー勝負の物見が居るのに、さらに増加した形だ。そこには男子女子を問わず、活動時間帯が合わず食堂で顔を合わせることのないような面子までいるようだった。
 そんな中、俺は部屋の入り口付近に須藤の姿を見付ける。須藤の方もすぐにベットの上で胡座を掻く俺の様子を見付けてくれたらしい。入り口付近の混雑を掻き分けると、俺の側までやってくる。
「おっす、……もしかして、朝起きたらこの状態だったとかないよな?」
「おはよう。鋭いな、全く持ってその通りだよ。なぁ、ちょっと聞いてくれよ。朝起きたら部屋に人がたくさん居たから「一体全体どうなってんだよ?」って聞いたら「大したことじゃねぇだろ」って顔されたんだ。信じられるか? これでも一応、俺はこの部屋の主だよ? あれだな、部屋の使用料金ぐらい払って貰わないとやってられないな」
 俺は溜息混じりに答える。そこには若薙に向けた嫌味なんてものも多分に含まれたけれど、当の若薙までそれが届いたかは怪しいところだ。既に、若薙の関心は寮対抗戦へと向いている。
「寮対抗戦、か。何にせよ、一通り面子は絞っておいた方が良さそうだな。太一に村上と、戦力になりそうなところは決定として、……確か穂坂は運動全般得意だったよな?」
 ぐるりと部屋の中を見渡して、若薙が真っ先に戦力になりそうだと見なしたのは穂坂だった。既に、運動が得意なんて情報を得ていたみたいだけれど、当の穂坂は肯定しつつもその高い期待には念を押した。
「ああ、一通りは何でもこなせる。……とはいえ、どれも本職には及ばないけどな」
 ポーカーに参加する面子の一人である穂坂から視線を外すと、若薙は次のターゲットを俺へと向けた。須藤が俺の側へと移動してきたのを目に留めたのだろうか。もしかしたら、ついさっき態と聞こえるように嫌味を口走ったことも影響していたかも知れない。
「笠城と須藤は何か得意な種目があるか? 実は「昔はバスケット部に所属してたんぜだ!」とか、サッカー観戦の趣味が高じて部には所属してないけど「実はサッカー得意だぜ!」とかさ」
「こと運動に関して、俺は全く何も協力できそうにねぇな。つーか、確実に足を引っ張るから側だから、俺は駄目だわ」
 名指しで指名された上に、高いハードルを要求されたけれど、須藤はあっけらかんと答える。胸を張って「戦力外だ」とそこまで宣言してしまえる潔さは、見習いたい部分でもある。
 では、笠城は?
 若薙と須藤を含む、そんな視線が俺へと向いた。
「俺も一通りは行けると思うけど、これが得意だって言えるものはないな」
 球技に対する著しい苦手意識はない。名前が知れ渡っている球技なら、人並みにはこなせるはずだ。加えて、須藤のような言い方で「参加しない」という立場を明示するつもりにもなれない。だから、それは当たり障りのないものだった。
 俺の回答を聞いた若薙はこれ見よがしに溜息を吐く。そこから先は部屋に居並ぶ相手一人一人に確認した形だ。
 しかしながら、積極的に俺がやると言い出す奴も居なければ、期待に添う返事をするのも居ない。良くて、俺がそうしてみせたような差し障りのない返答だ。
 さっきは溜息で済ませた若薙だったけれど、今度はこれ見よがしにガクッと肩を落として見せる。そこには落胆が滲んだ。しかしながら、そんな落胆の態度もすぐに一変する。次の瞬間、唐突に勢いよく立ち上がって見せれば、居並ぶ面子を前に若薙が吠えた。
「あー!! 駄目だね、お前ら。なってない、なってないよ、本当に! 特訓だ、特訓するぞ! 望んだ快適生活が得られるかも知れないんだぞ! そんな淡泊でいいのか! 貪欲に行くぞ、勝ちに行くぞ! 経験者が居ない? それが何だ! 気迫で勝つぞ! 反則にラフプレイ? 勝てば官軍、なんでもござれだ!」
 そこには有無を言わさぬ迫力が伴った。最後の方はちょっと暴走気味だったけれど、総じてそのやる気を入魂する鼓舞は望ましいものだっただろう。今回ばかりは、その何事も諦めない若薙の姿勢は一際輝いていた。
 尤も、放っておくと今すぐにでもその特訓とやらに人を駆り出しそうな雰囲気を若薙は持っていたから、ポーカー参加者の一人からはその熱血振りを宥める言葉も口を付いて出た。
「まぁ、何だ、落ち着け。まずは寮対抗戦を何の競技で争うのかが決定してからだろ?」
 的確な指摘を前に、咆哮を挙げた体勢のまま若薙はピタリと固まる。そして、まるで何事もなかったかのように、大人しくその場へと座り直した。冷静になって考えてみて、その指摘に「まさにその通りだ」と納得したのだろう。
「それもそうか。それなら……」
 若薙がそこまで言い掛けた時のこと。さも「言いたいことは解っている」と言わないばかり、米城は馬原と綾辻の動向について説明した。
「馬原なら居ないぜ。ついでに言うと、綾辻も出掛けてるみたいだ」
 聞きたいと思ったことを、米城から先に告げられたのは間違いないみたいだ。若薙は何とも表現し難い顔をする。それは知りたいと思った情報をすぐに入手できたことを良しとしつつ、言動を予測されてしまったこと自体は気に食わないという複雑な心境のように見えた。
 そして、咆哮を上げる形で気迫をまとった若薙だったけれど、肩透かしを食らったことで一気に消沈した格好だった。寮対抗戦について結論づけた若薙の言葉に覇気はなかった。
「だったら、馬原か綾辻が帰ってくるまでは寮対抗戦のことでやれることなんてねぇな」
「それじゃあ、仕切り直して勝負の続きと行こうか?」
 そんな若薙に変わり、勝負の続きを望む発言をしたのが名前と顔の一致しないポーカー参加者の内の一人だった。
 そいつは裏向きにして配られた二枚のカードを若薙へと向けて投げ返す。そのまま配られたカードでプレイを続行しても問題はなかったはずだけど、そうすることでそこに鉄火場の雰囲気を呼び戻したのだろう。加えて言えば、それは若薙に気迫を入れ直す役目も負っていたように見える。事実、そのやりとりを経たことで、若薙は目付きを変えた。
「そうだな、勝負の続きといこうか! さっきの参加者で、さっきの席順で、……と言いたいところだけど、何と野々原寮室杯に笠城が飛び入り参加だ」
 すぅとその表情を切り替えて見せて「一体何を言い出すか」と若薙を眺めていたら、唐突に俺がポーカー勝負へ飛び入りすると口走る。当然、状況を飲み込むことができない俺は素っ頓狂な声を上げて当惑した。
「俺ッ!?」
 しかしながら、そんな俺の様子などお構いなしに、ポーカー参加者からは歓迎の気配が漂った。尤も、それは「一緒に遊ぼうか?」といった類の生易しいものではない。「標的が一人増えた」といった類の殺伐とした気配だ。
 若薙を注視する形で事情説明を要求すると、そこには悪意混じりの笑みが滲んだ。
「いや、さっきから笠城がちらちらと俺を見ては「俺が参加してそこに居並ぶ雑魚どもを蹴散らしてみせるから、さっさと俺の席を用意しろよ」ってプレッシャーを掛けてくるからさ。ホールデムは理論上23人まで参加できるんだ。だから、さくっと飛び入り参加させてしまった方がいいだろうと思ったわけだよ。あまり人数が多くなると醍醐味が薄れる面もあるから難しい判断の場合もあるけれど、10人程度ぐらいまでなら何の問題もない。許容範囲だ」
 俺は顔を引き攣らせる。
 もちろん、若薙に対してそんなプレッシャーを掛けた覚えはないし、ポーカー参加者達を「雑魚ども」だなんて微塵にさえも思ったことはない。しかしながら、そこはもう「言ってしまったものの勝ち」で、俺が全力で否定の言葉を口にしたところで、多かれ少なかれその印象は払拭できなくなってしまった部分がある。
 若薙の言葉をあくまで誇張だと思ってくれた連中はまだいい。厄介なのはその大半を本当のことだと受け止めた連中が居たことだ。ポーカー参加者の内、俺を見るいくつかの視線はその鋭さを増していた。
 若薙は頼んでもいないのに、わざわざ敵を用意してくれた形だ。
 俺の引き攣った顔は、その程度をより酷いものへと変えていただろう。
 場には既に参加を拒否できないような雰囲気が漂っていたけれど、さすがにそんな状況下で参戦する度胸はない。それこそ、飛んで火に入る夏の虫だ。しかしながら、喉元まで出掛かった拒否の言葉を、俺が実際に口にすることはなかった。
「もし笠城が上位三人に入ったら、この部屋の使用料に迷惑料を上乗せして支払ってやるよ」
 若薙が「部屋の使用料」について言及する。嫌味はしっかり聞こえていたようだった。
「ああ、後もう一つ。解っていると思うけど、もし美晴ちゃんが今回のゲームで上位三位に食い込んだら、いつも通りさっきのペナルティは免除ね。その時は前回の上位三人もめでたく賞品を失います」
 若薙が前置きした通り、それはこのポーカーに参加する常連者に取っては周知の事実なのだろう。そこに流れる空気は「そんなことは言うまでもないことだろう?」といった類の白けたものだ。
 しかしながら、俺は常連者ではない。周知の事実に代表される習慣なんて知らないし、それを確認しなかったことで間違った理解をし、後であーだこーだと文句を付けるわけには行かない。聞くべきことは聞く必要がある。
「なぁ、さっきの話。それは次のゲーム一回切りの話か? それとも全体を通しての話か?」
 若薙は俺の問いに、まるで「何だ、そんなことか」という顔をした。
「どっちでも良いぜ。次の一回こっきりで上位三人に食い込めると思うならそれでもいいし、やって見て駄目だったから全体を通してという話に途中で変えて貰っても結構だ。上位三人に食い込んだ時点で勝ち逃げしても文句は言わない」
「それはつまり、上位三人に入った時点で抜けるのも有りってことだな?」
 俺は念を押して確認する。それが本当ならば、部屋の使用料を払うというにはあまりにも美味しい条件だと思った。
「全く持ってその通り。そこは笠城の好きなようにして貰って良いさ」
 若薙からはその認識で間違いないと言葉が返る。加えて、誰もそこに異論を唱えない。
 ポーカーなんて運の要素が強いポピュラーなゲームなんだから、そう簡単には最下位になんてならないだろう。そして、一度ぐらいは上位三人に食い込めるだろう。俺の中でそんな色気が急速に首を擡げる。
 結局、甘言に背中を押され、俺は若薙が用意した特等席に腰を下ろした。
「よし、言ったな? やってやろうじゃないか!」
 ポツポツと小雨が降り始めたのはまさにそんな矢先のことだった。そして、午前に小雨で始まった雨模様は夜へと掛けて大雨に変わっていったのだけど、勝負の行方も天気同様大荒れとなったことは言うまでもないだろう。
 結局、一度の勝負で上位三人に食い込めるほど甘い戦いではなかった。そして、欲に負けて「次こそは、次こそは!」と意気込み挑み続けて、一度最下位へと転落してペナルティを食らえば後は深みに填るだけだった。
 昼御飯と、途中の休憩を挟み計二十戦。勝負相手を変えながら争って、二度の最下位という屈辱を味わったものの最後まで上位三人に食い込むことはできなかった。それでも上手く立ち回った方だと思った。
 実際に参加して解ったことは、何気にペナルティルールが酷かったことだ。上位三位に入ることができれば、前回のペナルティをチャラにできるというのは、あくまである程度の経験者に取って有利なルールだ。もっと言えば、それは「初心者には必ずしも有利とは言えないルール」となる。
 ビギナーズラックを発揮して最初の内は運だけで勝つ可能性があるとしても、それが継続的に続くはずはない。やがて、安定的な強さを発揮できなくなる。そして、逆に安定的な強さを発揮するのが経験者の側だ。
 例え最初の段階で経験者のビギナーズラックに押し負けても、そのルールでペナルティを返上することができる。一方の初心者は運が続かず負け始めるようになったら、後は落ちるだけだ。その上、その負けを取り返そうとゲームに参加せざるを得なくなる。なまじ最初の内に良い線まで行けたから、引き際が解らなくなってしまうと言うのもあるだろうか。
 もちろん、順位によって強いカードと弱いカードを入れ替えるようなルールがあるわけではない。だから、勝負と言う観点では常に対等ではある。けれど、運と経験の差が顕著に勝ち負けへと影響するため、やはり初心者は不利だろう。
 夕食前のこと。大雨が降りしきる中、ポーカー勝負でペナルティを食らった面子が俺の部屋へと集まった。
 大雨を理由にペナルティとして献上を課せられた品物の差し出し延期を懇願した。
「外は大雨だ、罰ゲームの奴は明日でも良いだろう?」
 けれど、とりつく島もない傲慢な態度で一蹴された。
「駄目だ、今日の夕食後にないと駄目だ。それを含めてのペナルティだぜ? 雨が降ろうが、雪が降ろうが、槍が降ろうが、負け犬は今日買い出しに行って揃えてくるんだ」
 そんな態度を前にして、俺は「次こそは同じ目に遭わせてやる」という黒い感情が沸き上がってくるのをひしひしと感じた。もしかすると、その傲慢な態度も計算尽くでのものかも知れない。そして、もしそうだとするなら、それは「素晴らしい効き目だった」と声を大にして言わなければならない。
 次があったら、また参加するだろうか。その答えは、恐らく「イエス」だ。
 当然ながら、最下位転落組全員が俺の部屋に集まったというわけではない。そもそも、ペナルティの内容も途中からより難易度の高いものへと変更され、何かを購入してきて献上するというレベルでは済まなくなった。加えて、ここにいるのは宿野や穂坂を始めとした集団で買い出しに行くことを了解した奴だけだ。
 窓の外の様子を確認してみても、雨脚が弱まる気配は一向になかった。それどころか、ボーッと外の様子を眺めていると、時折バケツを引っ繰り返したような土砂降りになる。
「この雨の中、……淀沢村商店街まで買い出しに行くのか」
 そこに億劫さを感じれば感じるほど、渦中に飛び込んでいった自分の浅はかさを思わずには居られない。加えて、ペナルティで余計な出費を強いられるのだから尚更だ。ただ「楽しかった」と言えば、確かにその通りで、ポーカーへ参加したことについては心中複雑な面もあった。
 思わず漏れた溜息に、宿野が励ましの言葉を向けてくれた。
「その悔しさが次に生きるんだよ、笠城。後ね、淀沢村商店街じゃないよ、川上さんだよ」
「……川上さん?」
 淀沢村商店街に行くという認識を宿野に訂正されて、俺は思わず聞き返していた。それは聞き覚えのない名前だったし、どうしてそこに人の名前が関係してくるのかが解らなかった。
 その俺の疑問を解消してくれたのは穂坂だ。
「コンビニエンスストア川上っていう深夜十二時までやってる店があるんだ。こんな大雨の中、それもこんな時間から淀沢村商店街まで歩いて向かったら、夕食が食べられる時間には帰ってこれないぞ」
 さっきの疑問に対してはその説明で完全に合点がいったけれど、それを理解すると新たな疑問も生まれる。
 再度、俺は聞き返していた。
「それはここから近いのか?」
「まぁ、淀沢村商店街よりは近いな。歩いて片道二十分ぐらいだ」
 片道二十分という目安の時間を聞いて俺は項垂れる。それは確かに淀沢村商店街まで足を伸ばす寄りかはマシかも知れない。いや、淀沢村商店街までの距離だって、それが満天の星空の下を散歩がてらというなら苦とも思わないかも知れない。しかしながら、この大雨の中を歩く時間となるとそれはかなり苦痛だ。
「なぁ、そろそろ出ようぜ? 行って戻ってきたら、ちょうど良い頃合いになる」
 風がないことだけは救いだろうか。尤も、風がないということは同時に酷い蒸し暑さがそこに存在することを意味する。しかしながら、この降雨量で横殴りの雨だったなら、帰ってくる頃には全身びしょ濡れになっただろう。
 改めて心に誓った。
「次こそは同じ目に遭わせてやる」


 夕食後、各部屋の扉を馬原と綾辻が叩いて回り、共同リビングへの集合が掛けられた。
 珍しく野々原からはっきりと「参加する気がないから代わりに行ってきてくれないか?」と言われたため、共同リビングへは俺が説明を聞きにきた格好だ。
 指定された時間通りに共同リビングへ行ったけれど、そこには既に結構な数の寮生が居た。そして、そんな共同リビングの中に村上の姿を発見すると、すぐに俺は声を掛けた。
「おっす」
 しかしながら、俺の声に振り返って見せたたのは村上だけではなかった。そう遠くない位置にいた浅木と仁村もだ。
「おっす」
「笠城君?」
 浅木は俺の姿を確認すると大袈裟に手を振って見せて、自分の存在をこれでもかとアピールする。そうして、仁村と一緒に俺の方へと向かって移動を始めたのだけど、そこに村上の姿を発見すると浅木は一気にその進行スピードを落とした。
 余程、何か村上に対する苦手意識があるのだろう。
 そんな浅木の代わりと言わんばかり、口を開いたのは仁村だ。
「綾辻さんに呼ばれたから出てきたけど、こんなに寮生を集めて何があるって言うんだろうね? 何か知ってる?」
「仁村は周りの連中から何も聞いていないのか? 何でも寮対抗戦って奴が開催されるらしいぞ」
 仁村はいつかの俺のように首を傾げて、その聞き覚えのない単語を訝しく思っているようだ。一方、そこで予想外の反応を見せたのが村上だった。
「……寮対抗戦!」
 それは仁村のように知らない単語を訝る調子ではない。どちらかと言えば、その真偽を問い質すという風だ。
「米城から聞いた情報が正しければ、寮対抗戦が開催されるんだと。えーと、日時は確か……」
 俺は米城や岸壁に説明して貰った寮対抗戦についての前情報を記憶の底から引っ張り出そうと試みる。そうして、まずは日時について言及しようとした矢先のことだ。
 共同リビングに、綾辻の声が響き渡った。
「皆さん、聞こえますか? 聞こえない方はいませんね? それでは少しの間、話を聞いてください」
 綾辻の声によって共同リビング内を覆い尽くしていたざわつきがすぅと収まり始めると、俺達の会話も自然と途切れた。そして、そうやって口を閉ざしてしまえば、後は綾辻の言葉に耳を傾けるため、声のする方へと向き直るだけだった。
「もう知っているかも知れませんが、近々寮対抗戦が開催される運びとなりました。そこで、入寮者である皆さんに参加をお願いしたいと思い、まずはこうして集まっていただくことにしました。ここで、寮対抗戦と言われてもまだ何も知らない寮生のために、まず説明から始めたいと思いますが……」
 そこから寮対抗戦について綾辻が話した説明は、内容に簡単に掻い摘んだものだった。そして、その大半は俺が昼間の時点で知り得た情報ばかりだった。
 一通り綾辻からの寮対抗戦に対する説明が終わると、場は自然と質疑応答へと移る。
 そこで真っ先に質問を投げ掛けたのは若薙だった。
 集合時間よりもかなり早い段階から共同リビングにいたのだろうか。若薙はほぼ共同リビング中央に位置している。加えて言えば、その付近には岸壁、そして永旗の姿も窺うことができた。
「寮対抗戦の種目はもう決まっているのか?」
「確か、男子がサッカーで、女子がバレーボールだったはずだ」
 馬原はそう答えた後で綾辻の方へと視線を向ける。自分の記憶が正しいかどうかを綾辻に確認したのだろう。そこに綾辻が訂正を加えることはない。馬原の認識で、間違ってはいないようだ。
「バレー、か。それで、開催日はいつ?」
 続いて神妙な顔をした永旗から日時に対する質問が向き、馬原は手にある小冊子へと目を落とした。
 しかしながら、馬原が答えを探し出すよりも早く、その質問には綾辻が答えた。
「来週の木曜日。ちょうど、今から一週間後ね」
「あまり時間ないな」
 綾辻から示された日時に対し、間髪入れずにそんな見解がどこかからか漏れた。それも、その見解は特定の一人から漏れたものではない。少なくとも、共同リビングに集まった内の数人の口から同時に漏れた見解だ。
 俺は思わず首を捻る。
 一週間。それは各寮が激突をするに当たって設けられた準備期間として、十分な時間だと俺には思えたのだ。それこそ、サッカーやバレーボールなら誰でもルールを知っている競技だ。試合をするだけならば開催日時が明日であっても、人数を適当に見繕って「さぁキックオフ!」と言えば問題なくやれると思う。
 けれど、時間がないという認識は俺の身近な面子も同様のようだ。永旗も全く同様の見解を示した。
「確かに時間はないね。けど、それはどの寮も同じ話じゃない」
 時間がない。そんな認識が生まれるのはなぜだろう?
 サッカーで言えば、交換要員を含めた競技参加者全員を経験者で固められれば強いチームができあがるだろう。しかしながら、そんなチームを編成するだけの人材がいないことはいうまでもない。即ち、他を蹴落とし勝ちに行くためには、素人をある程度役に立つようにするための練習が必要だ。万全の体制を整えるという観点から見れば、確かに一週間なんて時間はないに等しいかも知れない。
 つまり、時間がないという認識は寮対抗戦を勝ちに行くつもりがあるから故のものだというわけだ。
「それで、編成はどうする?」
「基本的には、参加は任意って形になるんじゃないのか? 強制なんてできないだろ?」
「何生温いこと言っているんだ。そんなの、戦力になる奴は強制も視野に入れなきゃ駄目だろう?」
 そこから先は緑陵寮のチーム編成の話へ話題が移り、一気に議論は白熱した。寮対抗戦にあまり乗り気でない面子や、寮対抗戦を始めて体験する新入寮者などは、既にそこに割って入っていける雰囲気ではない。
 そして、それは俺達も同様の話だ。遠目にその白熱した議論の落ち所をボーッと眺める形となる。
 そんな様子見ムードの中、不意に村上が浅木の名前を呼んだ。
「なぁ、浅木、ちょっと良いか?」
 浅木は苦手意識を持つ村上に対して、いつもはなるべく関わらないよう心掛けているように見える。けれど、今回ばかりは名指しをされたわけで、返事をしないというわけにもいかない。
「……何か用かな、村上君?」
 浅木は端から見ても強張っているのが一目で解る作られた笑顔をしていた。誰にでも人当たりの良い浅木がそんなだから、そこには殊更ギクシャクとした雰囲気が浮き彫りになる。
 けれど、そんな浅木の態度も、ちぐはぐ差を浮き彫りにする雰囲気も、村上の目には留まらなかったようだ。浅木の名前を呼んでおきながら、そもそも村上の視線は浅木へと向いてはいない。
 村上の視線の先に佇む人。それは共同リビングの隅っこで、腕組みをして議論の行方を眺める下部だった。
「なぁ、下部を誘ってやってくれないか? 参加したくてウズウズしている癖に、自分からは能動的に言い出せないんだ。誰かに誘って貰えれば、簡単に首を縦に振るんだけどな。本当に、あれの悪い癖だ。……人見知りもするしな。ああ見えて身体能力は高いんだ、球技という枠の中から何をさせても役に立つだろう」
 浅木は一瞬何を言われたのか理解できなかった様子だ。目をパチクリとさせた後、困惑気味の表情を見せる。
「……それはやる気になってる永旗さん辺りに言って貰った方が良いと思うんだけど?」
 浅木は共同リビングの壁際にいる下部を横目に確認すると、自分よりもそれを言うべき相手が別にいることを伝える。はっきりとは言わなかったけれど、浅木は寮対抗戦に参加するつもりがないのだろう。だから、浅木としては「そんなことを自分に言われても困る」というわけだ。
 ちなみに、浅木が相談に適した相手として、その目で訴えたのは永旗だった。永旗は白熱した議論の輪の中にいて、戦力確保について持論を展開している真っ最中だ。確かにそのチョイスは悪くないだろう。けれど、村上が浅木を選んだのにも理由がある。
 浅木自身はその理由に気付かなかったのだろう。尤も、浅木に取っては、何か特別なことをしているつもりなんてないのだろうからそれも当然かも知れない。
 下部は人見知りをする性格だ。だから、下部に人当たりの良い浅木をぶつけることを、村上はチョイスしたはずだ。
 ただ、下部と永旗は遊木祭寮爆撃事件時に、一緒になって逃げ回った組だ。そう言う意味では、永旗をぶつけても思わぬ好反応が期待できたのかも知れない。けれど、リスクが大きいことは否定できない。
 ふいに、村上は浅木から視線を外して仁村を見た。そうして、再度浅木へと視点を移すと、そこでようやく合点がいったという顔をした。
「そうか、そもそも浅木は参加する気がなかったか。ルームメイトの仁村がやる気になっているから、てっきり浅木もそのつもりだと思ったんだ。考え違いだったみたいだな。なら、仁村に話を通すことにする」
 村上の言葉に、浅木は素っ頓狂な声を上げた。それし仁村に真偽を問うものだ。
「ええ! 本気なの郁?」
「あー……、うん、村上君の言う通り、大分その気にはなってるけど、何か気に掛かることでもある?」
 仁村は仁村でその若薙の見解を肯定して見せるから、浅木の表情には険しさが滲んだ。
「あたしや郁が参加しなくたって、綾辻副寮長辺りがバシバシッと勝ち進んで景品をゲットしてきてくれるよ?」
 仁村の参加が気に入らないというわけではないだろう。けれど、浅木の態度は仁村に考え直すよう促す内容だった。
 そこに苦笑いを覗かせて、仁村は「困った」という顔をする。仁村は浅木を説得するつもりのように見えたけれど、実際にその言葉が浅木へ向けられることはなかった。
 なぜならば、浅木が主張する綾辻副寮長万能説を、永旗が真っ向から否定してみせたからだ。ついさっきまで、白熱した議論の輪の中にいたはずなのに、永旗は横合いから割って入ってきて反論を口にした形だ。
「あー、あれは駄目駄目。確かに綾辻ちゃんは頭が切れて記憶力も行動力も抜群だけど、基本的にはどんなことに対しても大味だから絶妙なコントロールを要求される球技のような種目じゃ役に立たないよ。男女入り交じって竹刀でど突き合いするとかいう野蛮で粗暴な競技でもあれば、適材適所で比類無き強さを発揮するだろうけど、バレーでは全力でレシーブかまして味方前衛の後頭部にボールをめり込ませたりするね、きっと」
「ひははは、それは言えてる! でも、綾辻のことだ。相手を睨み付けるだけで、立ち竦ませて動けなくしたりするね。後はあれだ、場外乱闘するとなったらこれほど心強い味方は居ないぜ!」
 そして、そこに若薙が同調してしまえば、綾辻を評した言葉は誇張混じりの酷いものに変わる。
 恐らく、何が何だか解らない内に綾辻は話題の中心へと引き摺り出された形だっただろう。事実、最初の内は何も事情が飲み込めていないようだった。けれど、その優れた頭脳で自身の置かれた状況をあっという間に理解してしまえば、その表情はすぐに色を為した。
「結衣、若薙。あんた達、人のこと何だと思って……」
 一段、低い綾辻の声が共同リビングへと響いた瞬間、若薙は身を低くして奥の方へとささっと引っ込んでしまった。一方の永旗は一人取り残された形となり、その表情を「しまった」という具合に引き攣らせる。
 あっと言う間に綾辻は永旗までの距離を詰め、その襟首に掴み掛からんと手を伸ばす。それを間一髪のところでがしっと受け止めると、永旗は慌てて綾辻を宥めた。
「ストップ! ねぇ、ちょっと落ち着きなよ。ただのお茶目な冗談だって! それとも、そんなにカッと来るなんて、実は図星だったりするわけなのかなー……?」
 相変わらず、永旗は言わなくても良いことを口にする。完全に、火に油を注いだ形だ。
 口を挟む間もなく始まったドタバタ劇を前に、浅木と仁村は置いてけぼりを食って固まる格好だ。二人がどういう反応をするのかと思って口を挟まず見ていたら、仁村はそれを見なかったことにしてしまった。
「ええっとね。バレーは六人でやる球技だから、綾辻さん一人でバシバシッと勝ち進めるものではないと思うよ? これからしばらく緑陵寮で生活するわけだし、あたしの力が涼しく湿度も高くない快適な生活を送ることに繋がるかも知れないでしょう? それに体も鈍り気味だったから、ちょうど良い機会かなって思ってさ」
 さも仕切り直しと言わないばかりに、仁村は浅木を説得に掛かる。そして、そんな仁村からは不意に提案が漏れた。
「そうだ! 友香も一緒に参加しようよ?」
 その提案内容に、浅木の表情はこれでもかという程に強張った。恐らく、それを口にしたのが仁村でなければ、浅木はすぐさまきっぱりと断っただろう。しかしながら、今回ばかりはそう言うわけにも行かない様子で、その当惑振りにはいつもの浅木らさしは微塵もない。
「その、あたしは、駄目だよ。いくら郁が誘ってくれても、こればっかりは! だって、運痴でみんなの足を引っ張っちゃうし、きっと……」
「いいじゃない、そんなの。できないできないって言ってやろうとしないと、いつまで経ってもできないよ。別に本番に出なくとも、それまでの期間を楽しくやろうよ、ね?」
 仁村の駄目押しを前に押し黙ってしまえば、そこから形勢逆転できる余地など浅木にはなかった。浅木は渋々という形ながら小さく頷くと、仁村の誘いを受け入れる。
「まぁ、やるとなったらスパルタ式だけどね」
 不意に悪戯っ子の顔を覗かせると、仁村は前提条件を覆すそのものずばりの発言をする。こんな機会は滅多にない。今がチャンスと言わないばかり「浅木をちょっと困らせてしまえ」という腹積もりのようだ。
 浅木からしてみれば、甘い言葉に釣られてみたはいいもの、さらりと掌を返された形だったろう。
 そこに抗議をする浅木は本気だった。仁村がどんな顔をしているかを確認する余裕もないほど驚いたようだ。
「ええ! 酷いよ、約束が違う! 郁、酷い!」
 もちろん、仁村の言動に、それを本気で実行しようなんて意志はない。
「冗談、冗談だって」
 想像以上の浅木の剣幕に、仁村は慌てて浅木を宥める。すぐに浅木は落ち着きを取り戻したけれど、仁村を見る目には未だ強い非難が混ざった。
 ともあれ、そんな風に浅木が取り乱したことで、仁村達は自然と周囲の視線を集めることになった。その中には下部の視線もあった。だから、そこにはたまとない絶好のタイミングが生まれたのだろう。浅木の非難をうやむやにするための仕切り直しをする機会としてもそうだったし、村上の要求に応えるという観点からいってもそうだ。仁村もそれを十分理解していたようで、その話題の矛先を迷うことなく下部へと向けた。
「じゃあ、後はそこで参加したくてウズウズしてる下部ちゃんも一緒に楽しんじゃおうか」
「え! あたし、ですか?」
 唐突に話を振られ、下部は完全に意表を突かれた形だっただろう。けれど、下部の反応は概ね村上が予想した枠内に収まる。即ち、反射的に否定の態度を見せはするものの、最終的にはそれを受け入れるという内容だ。
「別に、そんな参加したくてウズウズしてるなんてことは……。あ! いや、参加したくないわけじゃないです。その、誘って貰えるなら、参加することには全然異論ないですし……」
 態度としては未だ煮え切らないものながら、既に下部は参加を了解したようなものだ。
 仁村は村上に向けて親指を立てて見せると、そこには「どうだ」と言わんばかりの得意顔が滲んだ。
 一方の村上は予想通りの反応を見せた下部の様子を眺めながら、安堵の息を吐くという対応だ。そうして、仁村がそうして見せたように、親指を立てるという同様のジェスチャーを返した。そんな村上の胸の内を代弁するなら「グッジョブ!」となっただろう。
 ともあれ、寮対抗戦の参加者選びは男子も女子も混迷を極める雰囲気を醸し出していた。
 結局、参加者の選出方法は一部の立候補者を除き、推薦と籤引きで決まった。立候補者で必要面子が埋まらないことが、緑陵寮のやる気を図るバロメーターになっただろうか。
 ちなみに、若薙を始めとした複数人の推薦で名前が挙がり、俺も寮対抗戦へと参加する羽目になる。
 断ろうとも思ったけれど、それが無駄な抵抗だと悟ってしまえば、俺が抗議を口にすることもなかった。
 どうせ、なるようにしかならないだろう。


 時間は一週間あった。けれど、実質練習に割り当てることができたのは四日だ。
 馬原・綾辻からの収集があった日を含めた前半三日間は曇り模様から大雨へと天気が変わったことで、野外での練習ができなかったのだ。前半三日間はサッカーのルールや戦術と言ったものを勉強する時間に割り当てられた格好だった。
「実践しないで戦術の妙なんて理解できるか!」
 途中、若薙がそんなことを宣い、なぜか寮対抗戦に妙に乗り気な村上とで知恵を絞って、緑陵寮内で練習を試みたりもした。少し考えれば解ることだと思うけれど、その試みは緑陵寮内の備品を破損するという事態を招き、綾辻の雷を落とすことに繋がったりした。
 そんな風に、村上も綾辻が発する威圧感への苦手意識を植え付けられていったのだろう。何だかんだ言って、無茶をする時には村上も進んでやることがあるというのを理解した瞬間でもあった。
 後半四日間は朝から晩までグラウンドを走り回っていた気がする。
 そして、本番と相成り、試合の相手は面識のない面子ばかりの華帯(はなおび)寮。
 サッカーの試合で演じた致命的なミスや鈍重な動きは華帯の面々も大概であったけど、こちらが全体的にそれを上回った形だ。俺や須藤のように常日頃から運動していない寮生は、連日の練習で蓄積した疲労が筋肉痛という形で足を引っ張り、何の役にも立たなかったのだ。村上や若薙を始めとした数人は終始良い動きをしていたけれど、さすがに俺を含めた他の役立たず共の穴埋めはできなかった。
 結果、一回戦敗退に終わる。
 詳細までは聞かなかったけれど、女子のバレーボールの方もどこかの寮を相手に一回戦敗退に終わったらしい。
 そして、寮対抗戦で緑陵寮が一回戦敗退を決めた夜のこと。
 馬原、綾辻の先導の元、俺達はマイクロバスに乗って淀沢村西地区の外れにある八里端(やつりばた)温泉へとやってきていた。試合終了後、緑陵寮に戻って共同リビングであーだこーだと反省会をしていると、馬原と綾辻に手招きされ、あれよあれよという間に八里端温泉までやってきた。
 外が真っ暗だったこともあって、マイクロバスでどこをどう走ったのかは覚えていない。けれど、自転車で走破するには覚悟の居る距離だったことだけは間違いない。
 基本的に寮対抗戦に参加した面々は、男女ともに全員揃っていたのだろうか。そこにプラスアルファで温泉に入りたいと希望した寮生が追加で参加しているようだ。しかしながら、当然「寮対抗戦の参加者を労うイベントに参加するわけにはいかない」というスタンスの寮生もいて、寮対抗戦参加者以外の面子は限られていたように見えた。ちなみに、野々原も「参加していないのだから、温泉にはいけない」というスタンスだった。
 そんなこと気にしなくても良いと俺は思うんだけど、野々原にそう言われてしまっては無理強いもできなかった。


 八里端温泉。
 それは良い感じに外観の古びた木造建築物だった。見掛けとしては休憩所もないような小さな建物であり、受付を潜ってすぐの位置に「湯」と書かれた暖簾が掛かる。受付と言っても、そこは人一人が座ることのできるスペースが設けられただけの簡素なものだ。
 普段はそこに受付者が居て、入浴料を支払うのだろう。もしくは田舎によく見る無人販売のように、料金を入れる箱か何かが設置されているだけで、後はセルフサービスという感じなのかも知れない。ともあれ、今回に限って言えば受付には誰もおらず、馬原や綾辻が人数分の料金を精算している様子はなかった。料金などの話は事前に調整済みなのだろう。
 そして、八里端温泉の施設内には俺達以外の利用者の気配はなかった。貸し切りなのかも知れない。
 暖簾を潜って奥へと進むと、男湯と女湯に別れた。湯と書かれたら暖簾までは一直線の道しかなかったので、混浴を期待した寮生も居たみたいだけれど、そんな旨い話があるはずもない。そもそも、八里端温泉が混浴だったなら、馬原や綾辻が俺達を連れてくるわけがない。
 脱衣所には貴重品ロッカーもなければ、髪を乾かすためのドライヤーもない。むしろ、そんな文明の利器が似合わない雰囲気さえあった。無造作に脱衣籠が置かれた木製の棚は表面が剥げ掛けており、髭剃りや石鹸を売る錆がかった自動販売機は隔世感さえ漂わせるのだ。
 実際に湯船へ浸かるまでに、そういう経緯を経たものだから、実際温泉の方も「期待できたものではないだろう」と思ったけれど、そんな俺の予想は良い意味で裏切られる。
 満天の星空に、源泉掛け流しの広々とした露天の岩風呂。夏場の温泉でも苦と感じさせないぬるま湯と、文句の付けようがなかった。湯船の数自体は内湯一つに露天が一つとオーソドックスな作りだけれど、大人数で入るにしても必要十分な広さがあるというのは大きい。あちらこちらで挙がる賞賛の歓声が、八里端温泉の良さを物語っていたはずだ。
 筋肉痛という形であちこち悲鳴を上げる体を湯船に浸して癒していると、唐突に若薙が立ち上がって声を張り上げた。
「レディース、アンド、ジェントルメン! さあさあ、お待ちかねの時間だぜ」
 それは明らかに周囲の面子の目を惹くための行為である。嫌な予感が俺の頭を指した。尤も、同じ予感に襲われたのは俺一人ではないはずだ。それを証明するように、若薙へと向く視線にはいくつか不安が混じっていたように見える。
「レディースなんていねぇよ! ここは男湯だぞ?」
 どこかからか飛んできたそんな揚げ足を取る言葉にも、若薙は顔色一つ変えない。
「連日の疲労がたっぷり蓄積した身体でぬるま湯の露天風呂に浸かって、心地よい月夜の夜風にさらさられて、今更何がお待ちかねだっていうんだろうな? ……酒でも出るっていうんかね?」
 俺の横でも須藤が呆れたような顔付きで、そんな寸感を口にしていた。「ああ、そうかもな」なんて適当に相槌を打ってはみるものの、既に俺の意識の大半は若薙へと向いている。
 悠然と構える若薙の態度は、見ていて俺の不安を煽るに足るものだ。
「何だ何だ、覇気がねぇな、お前ら! なぁ、太一?」
 若薙は得意げな顔して「何も解っていないな」と言う雰囲気をたっぷり醸し出して見せる。にんまりと悪戯っ子がする得意満面の笑みがいかにも邪悪な感じがして、とても印象的だ。そして、それは若薙にとても似合っている。
 ともあれ、そんな態度を前面に押し出して、思わせ振りな科白を口にして見せるから、誰もが若薙の次の言葉を待って口を閉ざしていた。
 若薙は心得顔でこれ見よがしに頷くと、まるでその静寂を堪能しているかのようだ。馬鹿をやる醍醐味の一つがそんな雰囲気だとでも言わないばかりだった。
 そして、そうやってたっぷりと勿体振って見せた後、一つ声のトーンを落として若薙が信じられない事実を口にした。
「ここから女湯が覗けたりするんだぜ」
 そこには間違っても隣にある女湯の誰かに聞こえることがないよう細心の配慮が為されている。
 水を打ったように静まり返った後、咆哮とも取れる野郎共の喚声が響き渡った。
「うおおぉぉぉぉ!」
 しかしながら、その次の瞬間にはそんな不埒な期待に冷や水を浴びせる発言が男湯に続いた。
「馬鹿野郎! 俺が居ながらそんな悪事を許すとでも思っているのか」
 声を荒げたのは村上だ。
「馬鹿、でかい声出すんじゃねぇよ!」
 そこに若薙が注意の言葉を向ける。
 露天風呂には若薙と村上が対峙したことによる緊張感が生まれ、妙な静けさが漂った。
 覗きを悪事と切って捨てた村上を見る目には「ですよね」と言った類の安堵のものもあれば、真逆に「余計なことしやがって!」といった敵意剥き出しのものもある。だから、てっきり双方に協力者が名乗りて、一層対決姿勢が浮き彫りになるかと思った。
 しかしながら、若薙以外に村上へと食って掛かるものはいないし、村上に加勢するものもいない。上手くいけば若薙に便乗し、そうでなければ無関心を装って冷めた態度でスルーする。どいもこいつも、そんなスタンスらしい。尤も、偏に若薙へは期待の籠もった視線が数多く向けられていたような気がする。
 そんな期待に応えるべくというわけではないだろうけど、若薙は村上を籠絡すべく持論を展開した。
「あのな、こんなもんは悪事なんて言わねぇんだよ。確かに道徳的には問題ある行為かも知れねぇけど、ばれてもばれなくても「あんな馬鹿なこともやったよな」とか「あいつらほんっとうに救いようのないスケベばっかりだ!」とか、後で笑い話になるような程度のことだぜ?」
 それは覗きを正当化したものではない。今からやろうとしていることを「問題がある」と認めた上で、若薙はその行為がもたらす好影響を訴えかけた形だ。
 行動を起こさないことでここに何も残さないより、例え間違っていても行動を起こすことで後に残る面白可笑しい体験を作る。そう言ってしまえば、聞こえは良い。しかしながら、それが笑い話で済むかというと、どうだろうか。
 しかしながら、それは村上の動きを止めるに足る説得力を伴っていたようだった。下手に覗きという行為を正当化しなかったことで、村上の心に響いてしまったのかも知れない。確かに悪事ではあるけれど、今を面白可笑しいものに変えるため必要なことかも知れない。言うなれば、そんな間違った錯覚を植え付けられたようだ。
「……確かに、これはそういう観点から見ると、青春の1ページと言えなくもないかも知れないな」
 村上は上手く言いくるめられたというか、簡単に引き下がったというか。ともかく、あまりにも呆気なく若薙の甘言に押し負けた。いとも容易く村上が態度を一転させたことに、誰もが拍子抜けしたことだろう。そして、村上の陥落が現実味を帯びたことで、場は一気に覗きという行為に対する期待を加速させた。
 若薙は村上へと歩み寄ると、その肩に手を回して囁いた。
「そうそう、馬鹿なことやらずして何が青春だよ。大体、そんなこと言ってみせたって、お前はどうなんだ?」
 ふいっと若薙から視線を外す村上に、若薙は容赦なく畳み掛けた。
「本音ぶちまけちまえよ、……見たいと思うだろ?」
「……見たいな」
 僅かな間を挟み、そう口走ってしまえば村上にはもう抵抗する余地などなかっただろう。
「よく言った! それでこそ男だ! たまにはテメェの欲望に素直にならなきゃな。大体、こんな何もないド田舎だぜ、楽しみは自分で作るしかねぇだろ」
 呆気なくも村上の陥落を見届けた俺は「後はなるようにしかならないだろうな」と思った。
 しかしながら、ことはそう簡単に運ばない。この状況下で村上の穴を埋めるべく声を上げる奴が居たのだ。
 それは穂坂だった。誰に取っても意外な登場人物だっただろう。
「若薙、それは違うだろ? 何でこんな……」
「どうした、穂坂?」
 若薙に「なぜ反対するか?」を聞き返されて、穂坂が見せた表情心の中の葛藤を体現する顰めっ面だ。けれど、満天の星空を仰いで唸り声を上げた後は、小さい声ではあったものの通る声で宣言した。
「確かに見たい、そりゃあ見てぇよ。……でも、俺は阻止する側に回らさせて貰うわ」
 穂坂の言葉には固い決意が見え隠れした。少なくとも、あっさりと陥落した村上とは異なるように俺の目には映る。
「ここで格好付けたって、誰も解っちゃくれないぜ?」
 岸壁の悪魔の囁きにも、穂坂は一度苦悶の表情を滲ませはするものの、最終的には首を左右に振ってそれを払い退ける。すぅっと真顔で岸壁を注視すると、そこには拒絶の意志が鮮明に現れていた。
 岸壁は「困った」という顔付きをして若薙の方を窺った。
 一方の若薙は、納得顔で二度頷いて見せる。
「まぁ、穂坂がそういうんなら仕方ないな」
 その様子は意見が十人十色あるのは仕方がないと受け入れた上で、穂坂との意見の相違を容認したように見える。では、容認したからどうだといえば、次の若薙の言動はその夾雑物を排除するためのものに取って代わった。説得してこちら側に引き込もうというのではない。意見の相違はあってもいい。けれど、邪魔をするのは許さないというわけだ。
「太一、村上、穂坂を押さえ付けろ!」
 ノリノリの若薙がパチンッとその指を鳴らし指示を飛ばす。すると、岸壁と村上は打てば響く反応を返した。
「ラージャー!」
「若薙の指示に従うのは納得いかないが、今回ばかりは仕方ないな。覚悟して貰おうか!」
 傍目に見ている限り、二人はかなり乗り気だ。
 そして、誰もが「そこで若薙に協力するのかよ!」と村上にツッコミを入れかけたことだろう。反対の立場から一転、積極性を持って能動的に若薙へと協力するでは、態度を豹変させるにしても内容が酷すぎる。
 尤も、では「俺は穂坂に加勢するぜ!」という立場の奴が居るかと言えば、居ないのだ。若薙に名前を呼ばれた以外の面子は、あくまで状況を静観する立場を決め込むようだった。それだからこそ、態度を翻した村上へ非難の言葉を向けるものが居ないのかも知れない。
 ともあれ、穂坂には協力者が誰もいないという状態だ。いや、そこには「穂坂には負けて貰いたいな」といった願望を持つ層を始め、潜在的には「負けて貰わなくては困る」と思う層が居る。四面楚歌、そう言っても良いだろう。
「馬原! 馬原寮長!」
 状況の悪さを痛感した穂坂が助けを求めたのは馬原だ。
 しかしながら、当の馬原は露天風呂の端っこの方で、肩まで湯船に浸かった状態のまま動こうとはしなかった。加えて、あろうことか両耳を塞いで見せれば、そこに「我関せず」という立場を表明した格好だ。
 今回の騒動で、ツッコミを入れなければならない相手の二人目がそのスタンスに立った馬原だろう。なるべく厄介事には巻き込まれたくないのかも知れないけれど、寮長という立場上そのスタンスは非難されて然るべきだ。
 穂坂はこれ見よがしに舌打ちをし馬原に侮蔑の表情を向けた後、程度の酷い顰めっ面を見せる。ぐるりと周囲に目を走らせるけれど、打開策は見つからない様子だ。そこには状況の悪さに裏打された焦りが見え隠れした。
 そして、二度三度と八里端温泉の露天風呂へ居並ぶ面子を確認した後、穂坂が目を留めたのは俺だった。
「笠城! お前は良いのか? 今、女湯には仁村だって居るんだぞ!」
「な、何で俺?」
 唐突に穂坂から名前を呼ばれ、俺は当惑する。
 しかも、何を勘違いしたのだろうか。穂坂の口からは仁村の名前なんてものまで挙がる。
 俺は慌てて、否定した。
「別に、仁村が居たからどうだっていうわけじゃないし……」
「仁村じゃないのか。それなら、永旗か? 浅木か? あっちにはそういった面子がいるんだぜ? 良いのか?」
 穂坂は根本的に何か勘違いをしていたようで、続ける言葉で永旗や浅木といった名前を続けた。そして、穂坂はそれが完全な逆効果に繋がることを解っていない。
 俺の脳裏を過ぎるのは、穂坂の口から名前の挙がった女子のシルエットだ。今は白い靄が掛かった状態で、その体のラインさえも曖昧にしか想像できない。けれど、今若薙の側に付けば、その白い靄は全て払拭できるかも知れない。
 ……むしろ、見たいよ。
 そんな俺の意見を表明すると、それはそれで「人としてどうだろう」という思考が俺を抑止する。
 ふと気付くと、岸壁が俺を覗き込むようにして様子を窺っていた。
「……笠城? まさか、穂坂に付くなんて言わないよな?」
 岸壁の疑惑を否定したかったけれど、では本音を声高々にぶちまけられるかと言えば、……そんなはずもない。
「そんなわけないだろ! 俺は見たいよ、見たい人だよ!」
 それを口走ることは、またも理性によって完膚無きまでに拒否された。
 俺が押し黙り続けたことで、岸壁から向く疑惑の視線が険しさを増す。
「笠城……?」
「うー……、これは参ったね」
 明確な立場を表明できないで居ると、事態はどんどん不味い方向へと進んでいった。ぐるりと周囲を見渡して打開策を探してみるけど、この状況を打破してくれそうな面子は見当たらない。事態を解決するにしろ悪化させるにしろ、それができそうな面子は既にこの件へ関わってしまっている。
「大事の前の小事、灰色は黒と見なすべきだ。やむを得ねぇな、笠城も押さえ付けろ!」
 そうやって若薙が再び指示を飛ばせば、岸壁と村上は完全に俺を敵と見なしたようだった。
 優柔不断にも事なかれ主義に徹したことを俺は後悔するけど、時既に遅し。
「あーッ! クソッ! 穂坂の罠にはめられたね!」
「罠に嵌めただって? 悪魔の囁きに負けて、悪事に手を染めかけていたところを助けてやったんだよ!」
 穂坂はさも正しいことをしたかのように言って退ける。俺を巻き添えにしたなんて意識はないようだ。
 でも、俺はそんな穂坂の行動から重要なヒントを得た。上手くいけば、この騒動を収束させられるかも知れない。
「村上! そっちに付いていて良いのか? 女湯には下部さんがいるんだぜ」
 下部の名前が挙がったことに、村上は表情を曇らせる。その心に葛藤を生み出すことに成功したらしい。腕を組んで立ち止まるようになってしまえば、村上はどうするべきかを考え倦ねているようだった。
 その問い掛けが有効と知るやいなや、穂坂はそれを若薙へと向けた。
「若薙、お前だってそうだ。あっちにはお前が色々と面倒見てやってた下部が居るんだぞ?」
「あの発育不順の成長具合を確かめてやるのに、こんな良い機会はねぇよ」
 若薙はさも当然という顔をして答える。
 それを聞いた瞬間、穂坂は早々に若薙の説得を諦めたようだった。その判断は正しいだろう。こいつは駄目だ。そもそも、村上のような反応を期待したこと自体が間違いだったのかも知れない。
「さてと。覚悟は良いか?」
 まるで「掛かってこい」と言わないばかりに、若薙が大胆不敵な態度を見せたその矢先のことだ。
 内風呂の方から叫び声が挙がった。
「うわぁッ!」
「何! 何事だよ!」
 叫び声が段々露天風呂の方へと近付いてくると、唐突に内風呂と露天風呂とを繋ぐ扉が勢いよく開け放たれる。そして、そこに姿を現したのはバスタオル一枚を巻き付けただけの格好をした綾辻だった。
「君達、ここまで騒げば嫌でも気付くと思わない?」
 笑顔の綾辻からは誰もが嫌でも気付くほどの凄まじい怒気が放たれている。そんな綾辻の出現を境に、一瞬にして周囲を漂う空気が二〜三℃下がった気がした程だ。
 誰も口を開かない状態を前に、綾辻は首を傾げて諸悪の根源が誰かを尋ねた。
「誰にお灸を据えてあげれば良い?」
 そこを明確化することで、先ほどの質問を再度浴びせかけるつもりなのだろうか。
 ともあれ、それは特定の誰かに向いた質問ではなく、この場にいる全員へと向いていた。
 状況の静観を決め込んでいた連中は基本的に若薙を応援した側だ。だから、その名を口にすることに罪悪感を感じたのかも知れない。そうなると諸悪の根元を「若薙です」と名指ししてしまえるの穂坂だけだ。しかしながら、当の穂坂は完全に綾辻の怒気に呑まれて固まってしまっている状態だった。
 結果として、そこには静寂が生まれる。
 尤も、そんな静寂も長くは続かない。露天風呂をぐるりと見渡した綾辻によって、処刑台へと連行される名前が一つ告げられたからだ。
「馬原ッ!」
 怒号が向けられた瞬間、馬原はビクッと体を震わせる。けれど、決して綾辻の方へと向き直ろうとはしなかった。もしも、そこで綾辻の方へと向き直ったら、何も言い訳などできなくなってしまうだろう。
「俺は空気です、空気です。何も知らないし、無関係。覗きたいとか覗きたくないとか、ホント全部無関係だから」
 静まり返る露天風呂で、馬原は自身が今回の騒動には無関係であることを主張する。しかしながら、そんな主張が聞き入れられるわけがない。笑顔が掻き消えた綾辻から、馬原へと向く視線は鋭く冷たい。
「寮長ともあろう立場の人間が騒動の渦中にいて「自分は無関係」だなんて口走るだけで、裁かれる理由としては十分だと思わない? ねぇ、馬原寮長?」
 それは馬原の主張を切って捨てるに飽き足らず、制裁を加えるに足るものか否か当人に同意を求めた形だ。
 同意をすれば全面的に非を認めることになり、否定をすればそう思う理由について辛辣な追求が加えられるだろう。
 断罪されることが確定的な状況を前に、馬原は顔色を真っ青に変える。そして、すぅっと深呼吸をすると、意を決した顔付きで綾辻に反論した。何もせずそれを受け入れるよりかは言うべきことを言っておこうと考えたわけだ。
「いや、だって、俺が何か言ったところでこいつらを止められるわけ無いじゃないか!」
 既に凄まじい怒気をまとった綾辻の視線は若薙や岸壁といった諸悪の根源へと向いていた。けれど、そうやって反論を試みたことで、馬原は改めてその視線に晒される格好となる。
 馬原は数歩後退ると、ふいっと綾辻から視線を外し弱々しく呟いた。
「……すいません。何でもありません。仰るとおりです。全く持って、その通りだと思います」
 意を決して声を上げながら、あっさりと白旗を揚げた馬原を一瞥すると綾辻が声を張り上げる。そうすることで、馬原同様この場にあって未だ若薙の反発に期待を向ける連中の気持ちを削ぐことを試みたわけだ。
「内風呂にいた連中と、覗きを抑止する側に回った連中は見逃してあげる。でも、後は全員お風呂から上がったら説教ね。一匹も逃さないし、言い逃れができるだなんて思わないことね」
 その綾辻の宣言によって、事態は急速に終息へと向かった。少なくとも、状況を静観していた面子は腹を括り、抵抗を諦めるのが大半だった。しかしながら、回りの状況になど流されず、諦めの悪さを見せつける奴もいる。そうだ、若薙だ。俄に策動すると、綾辻相手に起死回生を狙った。
「太一、俺の後に続いて復唱しろ。いいか、なるたけ大袈裟な身振り手振りを加えて、なるたけ一杯注目を集めるんだ」
「復唱? 一体何だって言うんだよ?」
 若薙の要求を疑問に思いながらも、岸壁は首を縦に振ってそれを了解する。このまま何もしなければ、この状況を打開できる手立てなどない。それを理解していたからだろう。
「綾辻、いつも偉そうな態度で人の大切なものを踏みにじるお前に宣言しておくことがある」
「聞け、綾辻! いつもいつもクソ偉そうな態度で、人の大切なものをたくさんたくさん踏みにじってくれやがるテメェに向かって宣言しておかなきゃならないことがある!」
 若薙は岸壁の耳元でボソリと呟き、岸壁は要求されるがまま大袈裟に身振り手振りを加えてその内容を仰々しく言い放つ。あちこちパワーアップが施されたのは岸壁が期待に応えようと頑張ったからだろうか。
 綾辻の鼻先に人差し指を突き付けるような勢いを持った岸壁に、誰もが視線を向ける。
 そして、それは当然名指しをされた綾辻もだ。小首を傾げるようにしてその先に続く言葉を要求する。
 綾辻のプレッシャーをまともに受けて、岸壁は若干怯んだような様子を滲ませるけど、良くも悪くも傀儡であることによってボロは出さなかった。大胆不敵の表情をした仮面を被り、綾辻へと対峙する。実際には若薙の次の指示を待つ格好だけど、それは見事な演技だった。
 けれども、次の若薙の指示によって、それはあっさり瓦解した。
「後はアドリブだ、適当に言っとけ」
 そう言うが早いか、若薙は体勢を低く取るとその場を離れた。離れ際に岸壁の背中を軽く押して、一歩二歩と綾辻の前へと進ませると、機敏な動きを見せて若薙はここからが本番と言わないばかりだ。
 想定の範囲外の言葉だ。瓦解した後に、岸壁が見せる驚愕の表情がそれを物語った。
「後はアド……って、何だって? おい! 冗談じゃ……」
「何、岸壁君? 言いたことがあるならはっきり言って貰って構わないよ?」
 岸壁は引き攣った顔をして、綾辻のプレッシャーに晒されていた。大胆不敵の態度なんてものはもうどこにもない。
 しかしながら、ことは概ね若薙の目論見通りに進んだのだろう。綾辻のプレッシャーは岸壁一点に向けられていて、周囲へ向ける警戒は完全に薄れてしまっていたからだ。
「あッ、危ない!」
 唐突に、その場に警告が生まれる。
 それが自分へと向けられたものだなんて、綾辻は到底思いもしなかっただろう。
 気配を消して綾辻の背後へと回った若薙は、あろうことか綾辻の背中目掛けて蹴りを噛ます格好だ。
「一名様、ご案内っと!」
 それは打撃を加えるためのものというよりも、背中を押して綾辻を露天風呂へと叩き落とすためのものに近い。
「お、あ、……っと」
 どうにかバランスを取って頭から湯船に突っ伏すことは避けたものの、露天風呂へ進入してしまえば水の重さに足を取られるのに時間は掛からなかった。ドパーンッと一つ大きな音を立て、綾辻は前屈みの大勢で露天風呂へとダイブした。
「全く彩芽ちゃんは頭が固いんだから。少し、湯船にゆっくり浸かって柔らかくしておくことをオススメするね」
 綾辻が露天風呂に突っ伏した瞬間、どよめきが起こった。状況の静観を決め込んだ連中からも、思わず「なんてことを……」といった驚愕の言葉が漏れたぐらいだ。
「……」
 湯船から顔を出した綾辻は、一瞬自分の身に何が起こったのかを理解できなかったようだ。けれど、回転の速い頭脳ですぐに状況を理解すれば、凄まじい怒気が立ち上る。そして、ギロリと目を釣り上げて睨み見る相手は若薙である。
 体に撒いたバスタオルが離れてしまって、湯船に浮かんだことにも気付いていない様子だ。
 尤も、そこは穂坂が絶妙のタイミングでフォローを入れた。湯船に浮かんだバスタオルを拾い上げると、綾辻から視線を外しそれを差し出す格好だ。
「綾辻さん、大丈夫?」
 一瞬、綾辻はぽかんとした顔をする。けれど、それが自分を手助けするための行為だと理解すると、素直に感謝の言葉を口にした。
「ありがとう、穂坂君。でも、体に異常はないよ、大丈夫」
 バスタオルを受け取らない状態で、そのまま立ち上がろうとする綾辻を穂坂は慌てて静止した。
「いや、その、綾辻さんは前を隠した方が良いと思うよ。そういうの、あまり気にならないのかも知れないけど……」
 綾辻は自分の格好を見返した後、穂坂からバスタオルを受け取った。そうして、再びバスタオルを体へと巻き付ける。自然と注目が集まることにも、それを気にした様子は見せなかったけど、心なしかその顔が赤らんでいるようにも見えないことはなかった。やはり「セミヌードを披露してしまった」という意識はあるようだ。
 けれど、その恥じらいを覗かせた横顔も、再び露天風呂へと響き渡った不敵ない声を聞き瞬時に険しさを増す。
「馬原! 太一! 綾辻ふんじばっちまおうぜ!」
 高々とぶちあげた狼藉を促す若薙の言葉を、真っ先に否定したのは馬原だった。
「そ、そんな大それたことできるか。後で地獄を見ることになるんだぞ!」
 馬原は既に逃げ腰とも取れる体勢だった。けれど、若薙は「逃げ腰の態度は無意味だ」と、馬原に真理を説いた。しかも、それが確からしいからなお始末に悪い。
「さっきの話、聞いていなかったのか? それをやってもやらなくとも、馬原は俺と一緒に地獄を見ることになるよ。なぁ、それで良いか? このままだと馬原は何もやってないのに、地獄を見せられることになるんだ。どうせ同じ目に遭わされるなら、綾辻をふんじばっちまって今日一日ぐらいはゆっくり眠ろうぜ?」
 誰もが若薙の言葉には疑問を抱いただろう。そして、訂正を付け加えたい思いに駆られたはずだ。それは「何もしていないのに」ではなく、馬原が「何もしてないから」の間違いだ。
 馬原はその表情を苦渋に染める。心の中に葛藤が生まれたようだった。そうやって、葛藤が生まれること自体が問題だと思ったけれど、名指しで馬原を非難しその葛藤を止めさせようとは思わない。なぜならば、馬原が若薙に協力するかどうかなど、もはや大勢に影響しないからだ。
 若薙と岸壁、綾辻と穂坂が対峙し、双方がじりじりとその距離を詰める。場は既に、若薙の一言によって緊迫感に包まれていて、一触即発の状態と言ってよい。
 どちらにも位置的な優位性はないように見えるけれど、強いて言うなら綾辻を湯船に突き落としたことで露天風呂を見下ろす位置に立つ若薙が何をするにしても若干有利だろうか。
 そんな中、内湯からひょこっと永旗が顔を出した。バスタオルを体に撒く綾辻と同じ格好でだ。
 永旗は露天風呂で展開される事態をまじまじと観察すると、見る見る内にその表情をいつか見た笑顔へと変える。邪悪ささえ漂う例の奴だ。そして、何かの拳法を真似たような奇抜なポーズで身構えると、その標的を若薙へと定めた。
「必殺、サイコクラッシャー!」
 綾辻の時のように、誰かが警告の声を上げる間もなかった。助走を付けた永旗のドロップキックが若薙の背中に命中する。尤も、サイコクラッシャーとどこぞの技名を言い放っておきながら、実際にはドロップキックだったという辺りは誰もが意表を突かれたことだろう。
 ともあれ、若薙の口から漏れた「げふっ」という呻き声は、それが全く想像だにしない一撃だったことを物語る。僅かな静寂を間に挟み、露天風呂には再び湯船へとダイブする音が二つ響き渡った。
 永旗の推参を境にして、露天風呂を漂う雰囲気はまたも一変した。今回のそれは若薙がどうの綾辻がどうのという雰囲気ではない。
 静観を決め込んだ連中に対し、綾辻は説教するといった。言い換えれば「説教で済ませてあげる」と言ったのだ。
 静観を決め込んだ連中はそれが永旗の出現によって翻り兼ねないと思ったのだろう。永旗はこの騒動を暗転させるにたる行動力を伴っていて、もしもそれが現実のものとなればこの場に顔を揃える全員が説教で済まなくなることも十二分に考えられた。
 注目を集める中、すぅと湯船から顔を出した永旗はしたり顔だ。
「永旗、ちょうど良いところに! 加勢しろ!」
 一方、そんな思惑が漂うことを知ってか知らずか。岸壁は永旗の出現に声を弾ませる。文句の付けようのないほど見事なドロップキックを、永旗が誰に放ったのかを咄嗟に理解できなかったのかも知れない。
 手助けを求める岸壁の懇願に、当然永旗は困惑の表情だ。
 言葉にするなら「それをあたしに言う?」とでもなっただろうか。
「いやぁ、常識的に考えて、さすがに今回そっちに加勢するのは無理でしょう。ねぇ、笠城?」
 そこでどうして、永旗が俺に同意を求めたのかが理解できなかった。突然、話を振られ俺は当惑する。
 永旗は湯船の中を移動して岸壁と距離を取ると、ぽかんとした表情のまま固まる俺の方へとやってくる。てっきり、そのまま綾辻・穂坂の加勢に行くかと思っていたので、俺はさらに当惑する格好だった。
「おー、……っと、歩き難い! というか、笠城。手! 手を貸して!」
 永旗はごつごつとした岩風呂と、水がもたらす抵抗に足を取られたらしい。大きくバランスを崩して前のめりの体勢となる。そんな永旗に要求されるまま、俺は手を差し出した。
 俺の腕にずしっと来る永旗の体重が掛かったのはその直後のこと。一緒になって横転することがないよう、永旗を引っ張った。ふと、永旗が体に巻くバスタオルの結び目が解け掛かっていることに気付いたのはその時だった。
 指摘しても良いものかどうか、俺は判断に迷う。もしも、永旗の体を隠すバスタオルがはだけるハプニングが起きたとしても、それは不可抗力として処理されるべきことだ。
 合法的に役得を得られるかも知れない。そんな思考が脳裏を過ぎる。しかしながら、それを指摘しないことで、何か理不尽な厄介事に巻き込まれることも十二分に予測の範囲内だった。結局、俺はその一時の甘露な誘惑をはね除けた。
 指摘を永旗へと向けるに当たり、俺はなるたけ紳士を気取り、さりげなさを強調した。
「永旗さん。バスタオル、ずれ落ちそうだから気をつけなよ」
 俺の指摘に、永旗は両手で庇うように胸元を隠した。あっという間に永旗の表情は険しさを増し、対する俺は苦笑いの度合いを程度の酷いものへ変える。
「エッチ」
 そうして、それが永旗から口にされてしまえば、俺は怯んだ。疚しい心がなかったわけではない。確かに、俺のこの目は永旗の胸元へと向いていた。もしかしたらジロジロ眺めてしまったかも知れない。
 俺へと向けた険しい視線は、不意にすぅっと霧散した。ペロリと舌を出して見せれば、そこへ代わりに浮かび上がったものはしてやったりといった表情だ。
「……なんてね。こんなこともあろうかと思って、下は水着なんだよね!」
 言うが早いか、永旗は勢いよく体に撒いたバスタオルを自らの手で剥ぎ取って見せる。バスタオルの下に着用していたものは肩紐のないチューブトップ型のビキニと、両サイドを紐で結ぶタイプのパンツだった。風呂場で着用すると言うにはかなりの際どさを持っているように見えたけれど、永旗にその感覚はないようだ。
 バスタオルを剥ぎ取った時に、恥じらう態度も一変させて見せた永旗だ。もしかしたら、格好同様「態度や雰囲気も着せ替え可能」なのかも知れない。そう思った。
 ともあれ、永旗はわざわざバスタオルを巻くことで隠すことのできるタイプをチョイスしたのだろう。ピースサインと合わせて見せた「どうだ、驚いたか!」と言わないばかりの得意顔に俺は言葉を失った。
 正直、想像の斜め上を行く展開だ。
 遅れて脳裏を過ぎった言葉をそのまま口に出して行くと、それはどれも永旗へツッコミを入れる内容だった。
「こんなこともあろうかって何だよ! 何を想定してたんだよ!」
「いやいや、半分冗談だし、そんなに本気にならなくても良いじゃない。笠城」
 それでも半分は本気……。
 俺は呆れて物が言えなかった。
「あー、でも、笠城がエッチだっていうレッテルは変わらないかなー」
 ふと、妙に永旗からの風当たりが柔らかい気がした。その理由が俺の立ち位置に所以すると解ってしまうと、俺は綾辻を助ける側に協力せざるを得ないことを理解した。即ち、俺は穂坂へ協力する側に立っているのだ。
 村上や若薙を相手に立ち回るのかと気重になったけれど、既に大勢は決していた。
 村上は小難しい顔をしてことの成り行きを眺めていて、既に綾辻サイドにも若薙サイドにも協力する気はないようだ。
 岸壁は穂坂と対峙中で、ほぼ行動を封じられた状態だ。馬原も若薙が永旗のドロップキックで湯船に沈んだ辺りから、憔悴し切った顔付きをしていて、既に抵抗する気力などないように見える。
 そして最後に今回の騒動の諸悪の根元たる若薙だけど、立った今綾辻によって背負い投げを食らったところだ。背中から湯船に叩き落とされて、完全に腕の付け根の間接を決められてしまえばもうどうしようもない。何より、永旗のドロップキックによって湯船に沈んだ場所が悪かった。そこは綾辻のすぐ横で、若薙は体勢を立て直す間もなくやられた形だった。
「決まってる! 綾辻、本気で決まってるって! ロープ、ロープ! 折れるって、折れるから!」
 若薙の苦痛に呻く声を聞きながら、穂坂に嵌められて本当に良かったと思った。




「夏結」のトップページに戻る。