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Seen06 顕在化


 ハッと夢の世界から覚醒し時計を確認した後、俺は慌てる。既に共同リビングへの集合時間を軽く一時間は回っていたからだ。ただ、体の調子は重い倦怠感が緩和され、今朝方よりかはずっと軽い。これこそ二度寝の効力だろう。
 姿見で自分の格好を確認すると、さすがにそのまま外出できる出で立ちではないことを俺は改めて理解させられた。頭では理解していたけれど、せめて「出掛ける用意を調えてから眠っていたら……」という後悔が脳裏を過ぎった。そして、次には「昨日購入した服の引き取りをしていない」だとか、雑務が残存していることに気がつく形だ。
 着替えを終えたら、すぐに緑陵寮を飛び出していけるわけではないことを理解すると、俺は落ち着きを取り戻した。言い方を変えると、半ばイベント二日目を諦めたといってしまっても過言ではなかったかも知れない。
 ともあれ、側頭部に軽く寝癖が付いていたのを直してから、俺は集合場所である共同リビングへ足を向けた。当然のことながら、そこには既に馬原や浅木の姿はなかった。疎らに寮生が居るだけだ。
 共同リビングに入室するなりキョロキョロと中の様子を窺った後、深い溜息を吐くなんて挙動不審な様子を見せる俺は、自然と注目を集めたらしい。そして、俺はその内の数人と目が合う形となる。尤も、その目付きの大半は訝しげなものであり、積極的に関わりを持つことを嫌うタイプの内容ではある。
 ともあれ、そこにはここ数日間の間に、食堂で見掛けた顔もちらほらといた。
 相手も俺を食堂なんかで目にしているはずだろうだから、声を掛けても邪険には扱われないだろうか。
 そんな考えの元、俺は近くの一人掛けソファーに座る女の子に声を掛けた。ボブに近いショートカットの髪型に、デザイン指向の眼鏡を掛けたパッと見、文系タイプの女の子だ。手には文庫本を持っていたけれど、その目は共同リビングで挙動不審な様子を見せた俺へと向いている。
「なぁ、ちょっと聞きたいだけど、構わないかな?」
 その子は用件を話し終えるよりも早く、俺が置かれる状況を察してくれた。
「もしかして、淀沢村を練り歩く例の奴に参加するつもりだった? あれなら、もうとっくに出発したはずだよ。それに、出発してから、かれこれもう大分時間も経ってるはずだし」
「そうだよね」
 俺は心底納得しながら、その場で脱力し項垂れた。
 一つ深呼吸をして気合いを入れ直すと、共同リビングに設置されたホワイトボードへと目を向ける。
 そこには最初の訪問先ポイントに「村役場」とあった。昨日はほとんど馬原と綾辻の説明を聞いていなかった俺だけど、最初に訪問先を説明したことを覚えていたのだ。念のために、今回は次のポイントも確認しておくことにする。そこには「府央(ふおう)スポーツ会館」とあった。
 聞き覚えのない施設名を前に俺が「もう後を追うのは無理だ」と諦めなかったのは、そこに簡易地図が描かれていたからだろう。誰が描いたのかは解らないけれど、それは非常に解りやすい地図だった。プリントアウトして持って行きたいぐらいだと思ったけれど、その年代物のホワイトボードに複写機能などという高度な機能は付いていなかった。
 俺はメモ書きを用意して、その簡易地図を写し取る。
「追い掛けるつもりあるんだ? 健闘を祈るよ、頑張って」
「ありがとう」
 その心遣いの言葉に、俺は素直に感謝した。
 雑務を片付け終えた時には、既に時刻は正午に差し掛かろうかという頃だったけれど、俺は「もういいや」と弱音を吐くことなく緑陵寮を出発した。そこに「緑陵寮に残ったところで、どうせ誰も残っていないんだし……」という思いがあったことは否めない。
 緑陵寮を後にして、まず俺が目指した場所は中端橋だった。そこから、軽食喫茶リバーサイドへ向かって進路を取り、淀沢村の村役場へと向かう計画だ。土地勘のない俺ががむしゃらに西地区を目指して突っ走っても、迷ってしまっては元も子もない。簡易地図を元に、イベント組が通った道を順に追おうというわけだ。
 昨日の段階で、軽食喫茶リバーサイドから遠目に村役場を確認できたことを俺は記憶している。俺の記憶が正しければ、大きさ的にはこぢんまりとしたものながら、小高い丘の上にある赤土色の立派な建造物だったはずだ。軽食喫茶リバーサイドまで行けば、後はそこを起点に西へと進路を取って村役場を目指す。
 写し取ってきた簡易地図を見る限りでは、イベント組はそのルートで村役場を目指したわけではないようだ。けれど、そのルートが一番西地区を知らない俺に取って解り易いルートだと思った。軽食喫茶リバーサイドという確かな目印もある。脳裏に留まる淀沢村の全景も、朧気なものではありながらその考えを「確からしい」と裏付けてくれた。
 村役場まで行ってしまえば、簡易地図を見る限り次の目的地はまっすぐ南下するだけだ。すぐに発見できるだろう。
 炎天下の中、一人軽食喫茶リバーサイドに向かって走っていると、不意に哀愁が漂ってきた。
「くっそ、誰も呼びに来てくれないんだもんな!」
 昨日の今日という状況だから、部屋で眠りこける俺の様子を前に「誰かが気を遣ってくれた」ということも考えられた。けれど、そこは敢えて口にしないことにする。なぜならば、俺の気持ちは「参加する」つもりで固まっていたからだ。だから、例え「良かれ」と思ってそうしてくれたのだとしても、俺の中には置いてけぼりを食ったという印象しかない。
 既に茹だるような暑さと成りつつある気温の中をひたすら走り、俺はどうにか軽食喫茶リバーサイドを経由するところまでやってくる。立ち止まって遠目に村役場があると思しき方角へ目を向けると、小高い丘の上には点在する人工物が確認できた。
 後はそこを目指すだけと思いきや、同じ丘の上ではないながら赤土色の建造物以外にも、二つほど別の建造物が確認できることに気がついた。それぞれ、赤土色の建造物より東地区寄りのものが一つと、さらに西地区の奥に位置するものが一つだ。そして、立派さ加減では、どれもそう大差ない。
 よくよく思い出していくと、確かに昨日の段階でもそれらを見た記憶があった。結果として、赤土色の建造物を村役場と思い込んだけど、当然その思い込みを真実だと裏付けてくれる証拠はなかった。
「……村役場ってのは、本当にあの建物で良かったんだっけか?」
 そこまで口走った後、俺はまたも綾辻から手渡されたパンフレットを携帯し忘れていることに気が付いた。昨日の反省は全くといっていいほど生かされていなかった。そして、またしても俺は目的地を見失う形になる。
 一度「緑陵寮へ戻ろうか」と考えた。けれど、それをやるとイベント組に追いつくことは、より困難になるだろう。それは「本日の淀沢村案内ツアーの全容を知らない」だとか、後を追うに当たって生じる問題が解決できないからではない。この暑さの中を緑陵寮まで戻り「再び出掛ける気力があるか?」と言う問題だ。
 俺はその自問に対して、情けなくも首を左右に振った。恐らく、そんな気力は残らない。
 遠目に見える建造物群のどれかは間違いなく目的のものだろう。だから、まずは一番東地区寄りの建造物を目指すことにしよう。途中で誰かと擦れ違った時に道を尋ね、方向修正すれば良いんだ。そう考えた。
 そして、そんな俺の目論見通り、村役場と思しき建物を目指す途中で道を尋ねることは容易だった。
 一人目は色合いこそ違うけど浅木と趣味の合いそうなフリフリの付いた服を着て、これまた派手な装飾のついた黒い日傘を差した女の子だった。俺の身長よりも背丈があったことで人形みたいな印象を受けることはなかったけれど、恐らく浅木で見慣れていなかったら好奇の目を向けてしまったことだろう。
 二人目は「本格的なオフロード走行をします」と言わないばかりのゴテゴテの装備をして、マウンテンバイクに乗っていながら線の細い男だった。ゴーグルにヘルメットを装着するといった完全装備の様相で、見ているこちらが暑さを感じる相手だ。
 そんな印象的な二人の後も三人目、四人目と道を尋ねる相手には困らなかった。けれど、擦れ違った面々は悉く村役場の場所を知らなかった。それだけは完全に誤算だった。昨日の筒磐台風力発電所科学館の時のように、今回も上手くいくだろうと思った考えが甘かったのかも知れない。尤も、地元民でもない限りは村役場に用などないと俺も思うわけで「それも当然かも知れない」と納得する一面も確かにある。
 加えて言えば、緑陵寮ではやっていることだといっても、同じことを他の寮でもやっているとは限らない。即ち、他の寮では淀沢村を案内などしていないのかも知れない。パンフレットを渡して「はい、終わり」となった場合に、誰が村役場なんてものに興味を持つだろうか。
 そして、最も東地区寄りとなる建造物を目指していて進んでいると、周囲の景色もあまり感触の良くないものへと移り変わっていった。具体的に言うのなら、それは山の麓に差し掛かったような印象で、少なくとも村役場なんて建造物が立つ場所に相応しい風景ではないと俺は思う。
 今回、俺が取った行動として優れていた点は途中途中の分岐路を全て直進してきたことだ。引き返せばすぐに軽食喫茶リバーサイドへ戻ることができる。そのため道に迷う心配はないけれど、今度はこのままこの道を突き進むことを躊躇う思考が首を擡げる。その思考の根本にあるのは「目的とする建造物が村役場ではないんじゃないか?」という疑心である。景色が変わった上に、めっきりと人通りがなくなった点も、その疑心を後押しした形だ。
「……参ったね」
 俺は溜息を吐く。
 最も東地区寄りにある建造物。それが目的地という確信が欲しかった。道を尋ねる相手を探してキョロキョロと周囲の景色に目を向けていると、不意に山々へと続く道の途中に見覚えのある後ろ姿を発見する。
 俺は思わず立ち止まった。
「……佐伯さん?」
 佐伯と思しき、その後ろ姿までは距離にして十メートル以上はある。
 半信半疑で呟くように名前を呼んだ俺のその言葉が届く距離ではない。
 村役場と思しき建造へと続く道の先と、佐伯と思しき後ろ姿のある山道を見比べた後、俺はその後ろ姿を追いかけるように山道へと足を踏み入れた。率直に言えば、そうしたのは好奇心からだ。けれど、好奇心だけに背中を押されたかというと、そういうわけでもない。佐伯を相手に、村役場の認識が正しいかどうかの確認を取ろうという考えもある。
 但し、今の俺の認識と、村役場の実際の位置とが異なっていた場合、既にイベント組の後を追うつもりはなかった。その場合は「もう合流できない」と割り切るつもりだ。
 そう言う意味で、見覚えのある後ろ姿が佐伯ならば、俺に取って何よりも都合が良かった。道を尋ねてみて、俺の目的とするものが村役場だったならそれでよし。そこに向かって前進すればよい。結果として間違っていれば、佐伯に付き合ってあちこち散策してみるのも悪くない。そのまま緑陵寮に帰っても暇を持て余すことは確実だ。もちろん、後半の「佐伯とあちこち見て回る」案は佐伯の了解を得る必要があるだけど……。
 佐伯の現在位置を確認する。
 佐伯は山道の途中にある大木に手を付いて、遠くの景色を眺めているように見えた。
 俺は「追い付くなら今しかない」と、佐伯との距離を縮めるために進行速度を上げる。そうすると、ふと佐伯の後方一メートルぐらいの位置に真っ青な蝶が舞っていることに気付いた。羽根には白とオレンジで綺麗な模様が描かれていて、俺の掌よりちょっと小さいぐらいの大きさがある奴だ。
 尤も、別にそれが何か特別な光景だというつもりはない。田舎で特大サイズのオニヤンマやギンヤンマを見付けて「おお」と驚きの声を上げるのと何も変わらない。たまたま、殊更に俺の目へと留まる対象がトンボではなくその真っ青な蝶だったという話だ。
 気付けば、足を止めてハタハタとはためきながら佐伯の背後を舞う蝶の姿に見惚れていた。俺はハッと我に返る。
「蝶なんかに見取れてる場合じゃないな」
 山道はお世辞にも手入れが行き届いているとは言えない状態だ。道の脇から伸びる雑草が道幅の半分以上を埋め尽くしているような箇所もあれば、道を遮るようにど真ん中から腰の高さぐらいまで樹木が伸びる箇所もある。
 佐伯の後を追う俺は雑草を掻き分けて進む度にガサガサと音を立てた。そうやって、音を立ててしまったことに、俺は思わず「しまった」という顔をする。ちょっとだけ「脅かしてやろう」なんて悪戯心があったのだ。そして、そんな具合に「しまった」という胸の内が顕著に現れている時に限って、佐伯に気付かれ振り向かれてしまう。
「……笠城、何してるの?」
 非常にばつが悪かった。苦笑いを返すしかない。
 そんな俺の不審な態度に、当然佐伯は怪訝な表情だ。
「やっぱり、佐伯さんだったか。ちらっと見えた姿が佐伯さんぽかったからもしかしてと思ったんだ」
 俺は何食わぬ顔をして口を開いた。まるで、不審な態度なんてものは微塵も存在しなかったかのようにである。
「佐伯さんはこんなところで何やってんの? 森林浴とか? それとも、何か探し物?」
 口に出して尋ねた後で「森林浴はないな」と思った。森林浴をする場所として、ここは相応しくない。
 佐伯は俺の質問に思案顔を滲ませた。そして、俺を訝る様子を霧散させると、質問に質問を返す形で口を切る。
「こんなところで何をやっている、か。それはこっちの台詞でもあるとは思わない?」
 早朝緑陵寮で別れた佐伯が知っているところまでで状況を整理すれば、俺は今頃淀沢村案内ツアーに参加して西地区を見て回っているはずだ。だから、そんな佐伯の疑問も当然と言えば当然だと思った。同意を求める佐伯に、俺は全面的に頷くしかない。
「まぁ、全く持ってその通りだね」
 そして、佐伯が同意を求めた意図を、先に「俺がここへ来た理由を尋ねたもの」だと解釈した。答えるべきは俺が現在置かれる状況だろうか。俺はそれを言葉にすることを躊躇ったけど、結局溜息混じりに答えた。
「あの後、淀沢村案内ツアーに参加するつもりで部屋に戻ったんだけど、うとうとしていた間に、……置いてけぼりを食ったんだよね。それで、合流しようと慌てて後を追ったら、あろうことか道に迷ってさ。道行く連中に尋ねてみても「そんな場所は知らない」って返されて、それで「どうしようか」って途方に暮れていたら、ちょうど佐伯さんの後ろ姿が見えたんで、これは道を尋ねる絶好のチャンスだと思って」
「あはははは、……おっかしいの。でも、それも笠城らしいよね」
 佐伯は声を立てて笑う。それはそうだろ。逆の立場だったら俺だって、指差して笑ったかも知れない。
 ただ、笑われるだけだったなら気にもしなかっただろうけど、俺は後に続いた佐伯の言葉に違和感を覚える。
「俺らしいって、……どういう意味?」
「んー、言葉通りの意味。あまり要領良くなさそうって言えばいいのかな」
 佐伯の口振りに俺は苦笑いを隠せなかった。佐伯が感じる「俺らしさ」の意味を求めたのは俺だけど、まさか「要領良くなさそう」なんて言葉が出てくるとは思ってもみなかった。
「本人を前にしてそういうことを言うかい? さすがに今のはちょっと傷ついたね」
 佐伯はにこやかな表情を見せると、申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にした。
「ごめんね、けど……」
 けれど、その言葉の後には「けど」と続くものがある。にこやかな表情のまま、佐伯は俺にこう同意を求めた。
「変にはぐらかされたり、綺麗な言葉に置き換えられて、思ってもない台詞を言われるよりはマシだと思わない?」
 佐伯は佐伯でその感じたままを口にすることに対し、何か思うところがあるらしい。
 ともあれ、佐伯の真意なんてものが解るはずもない。俺は答えに困って黙り込む。
「えーと……」
 佐伯は俺の返答が気になるらしい。黙り込んだ俺を、じっと眺めながらその答えを待っていた。
「……そうかぁ」
 結局、安易に同意することも躊躇われて、曖昧に笑いながら俺は答えを濁す。
 どうにも納得できない部分もあるにはあったけれど、俺がそれ以上言及しなかったことでその話題はそこで一区切りがついた形になる。仕切り直しという形を取って、俺は再度尋ねた。
「それで、佐伯さんはこんな場所で何やってんの?」
「森林浴を兼ねた探し物って感じかな」
 佐伯からの返答に、俺は首を捻らずにはいられなかった。「それはないな」と思った森林浴の単語が含まれていたこともあるけれど、何より「探し物」というのが引っ掛かる。改めて確認するけれど、ここは起伏の激しい獣道で普通に人が行き来をするような場所ではない。
「こんな獣道しかないような場所で探し物?」
 改めてそれを尋ねるけれど、佐伯ははにかみながら頷き、その認識を肯定する。
 どうやら、探し物というのは本当らしい。
 いくら何でもこんな場所で、佐伯一人に探し物を続けさせるというのは気が引けた。
「何を探しているのかは知らないけど、……俺で良ければ手伝おうか?」
 俺の提案に対し、佐伯は腕を組みをして思案顔を覗かせる。そうして、たっぷり数秒に渡って「うーん」と唸った後、ここで探し物が見付けられない可能性について言及した。
「ここでは、見つからないものかも知れないよ?」
「……うん?」
 俺は思わず、佐伯にその意図を聞き返していた。
 何の前触れもなく「話がおかしな方向へと進んだ」と思った。それでも俺は佐伯の意志を確認する。
「……でも、佐伯さんはここでそれを探しているんだろ?」
「探していると言えば確かにそうだけど、それが淀沢村で必ず見つかるとは言えないんだよね」
 俺の親切から出た提案を二つ返事で受け入れられないことに、佐伯は申し訳なさそうな顔をした。
 俺は率直に尋ねた。単純に、佐伯の探し物が何なのか気になったからだ。
「その、探し物っていうのは具体的に何なのさ?」
 佐伯は「何だろうね?」とか「なんだと思う?」とかいう具合に、答えをはぐらかすんじゃないかと思った。
 秘密主義というわけではないだろうけれど、佐伯の態度からはあまりこの件について話をしたくないような印象を受けたからだ。だから、答えをはぐらかされても俺は驚かなかっただろうし、これ以上踏み込むべきでないと感じたら素直に引くつもりだった。けれど、佐伯はあっさりと、探し物について言及した。
「蝶を探してる。そいつは全体的に真っ青な蝶で、アゲハチョウぐらいの大きさがあってね。羽には左右対称の模様が、白とオレンジで描かれている。後は……」
 両手で蝶の形状を模したりしながら、佐伯はその探し物について説明する。
 俺の記憶には引っ掛かるものがある。具体的なイメージも、すぐに俺の頭の中で構築されてしまった。
 なぜならば、それはついさっき見た蝶の形容にピタリとあてはまったからだ。いや、あてはまるも何も、佐伯の探し物はあの青い蝶そのものではないのか。確信は持てないながら、ここでそれを黙っている理由はない。
「非常に言いにくいんだけど、……その説明に信じられないぐらいバシッと当てはまる蝶をついさっき見た」
 ついさっきという言葉に誇張はないつもりだ。まだ、この近辺に視線を走らせれば見つけることができるかも知れない。しかし、実際に俺が蝶の行方を探して周囲に視線を走らせることはなかった。顔色を変えた佐伯に、胸倉を掴み掛からんばかりの勢いで詰め寄られたからだ。
「嘘! それ本当? からかってるんなら承知しないよ?」
「ホントホント。佐伯さんがあの大木に片手を付いて景色をじっと眺めていた時に、こう後ろの方をパタパタッと飛んでたんだよ? ……ちょうど佐伯さんの視界には入らない位置だったかも」
 そんな俺の言葉に「嘘はない」と判断したらしい。それが佐伯の求める蝶だったかどうかは定かじゃないけれど、佐伯は内心複雑そうな表情を覗かせた。そうして、神妙な顔付きをして、再度俺に確認した。
「ホントに? ホントにここで見たんだよね?」
「それは間違いないよ。大体、嘘なんか付いたところで俺に何の得もないじゃないか」
「そっか、それじゃあ今日はこの周辺を念入りに探してみることにしようかな」
 佐伯の目には俄に希望という輝きが灯った気がする。そうして「手伝おうか?」と、俺が提案したことに対するネガティブな面もあっさりと撤回された。
「手伝って、くれるんだよね?」
 にこやかな笑みを口許に形作ると、佐伯は俺に確認を求める。そして、そこには安易に断ることを躊躇わせる雰囲気が漂うわけだ。もう何を言っても逃してくれない気がした。仮に俺が反論をする場合は、俺が観念して「手伝うよ」という言葉を口に出すまで、この空気は変わらないのだろう。
 イベント参加組に追い付くという当初の目的は、もう達成できそうになかった。
 尤も、このことを材料にというつもりはないけれど、佐伯に対し「その代わり、淀沢村の西地区を案内してくれないか?」と然るべきタイミングで切り出すのもありだと思った。それぐらいの役得があっても、文句は言われないはずだ。
「ああ、解ったよ。手伝うよ」
「よし! 笠城がここで見たって言うんだから、また見付けてくれるよね。期待してる!」
 佐伯からはプレッシャーとも受け取ることのできる期待を向けられて、俺は苦笑するしかなかった。
 ともあれ「手伝う」なんて言ってはみたものの、俺がやることはと言えば、佐伯と一緒に散策しながら周囲の景色の中から蝶を見つけ出すことだ。蝶が見付からなければ、延々と淀沢村を散策するに等しい。
 それから小一時間。俺と佐伯は起伏の激しい獣道を上ったり下ったりして山道を進んだ。すると、不意に山道が遊歩道と思しき場所と合流する。ちょうど一本道に伸びる遊歩道へ、山道が横から突き当たった形だ。
「……淀沢村って場所は本当に、あちこち入り組んでて検討外れの場所に続いていたりするよね」
 佐伯は腕組をして立ち止まる。特に行く当てが決まっているわけではないらしく、どちらに行くかを決め兼ねているようだった。すると、佐伯はくるりと俺の方へと向き直り、こう尋ねてきた。
「笠城は、どっちに行きたい?」
 俺は苦笑いの表情で答えた。そもそも、どちらの方角に何があるのかさえも、俺は理解できていない。
「どっちでも。佐伯さんが行きたいように行けばいいよ」
 俺の返答に佐伯はさらに思案顔を強めた。そして、ポンッと手を叩いて見せて言う台詞に、俺は思わず耳を疑った。
「やっぱり、ここは笠城に決めて貰うことにしようかな」
 どういう経緯で佐伯がそんな結論に達したか。理解できなかったのだ。
 呆気にとられて固まる俺の様子を、佐伯はまじまじと注視する。そして、そこに滲んだその心を問う俺の態度を、佐伯はすぐに察したようだ。進むべき方向を俺に委ねる理由について言及した。
「淀沢村にきてからこっち、蝶を探し続けているって話をしたことあったんだっけ? ずっと探しているんだけど、あたしはまだ一度もここで目的の蝶を見付けたことがないの。それなのにも関わらず、今日初めて蝶の概要を知ったはずの笠城は、もう一度見付けてるわけじゃない? 笠城の方が何かと相性が良いのかもって思うんだ」
 ただの偶然じゃないか。俺としてはそんな白けた感覚もあったけれど、験を担ぐというやり方も確かに存在する。そうやって佐伯の説明に頷いてしまえば、代わって思案顔を覗かせるのは俺となる。
 さて、どっちに行ったものだろうか。
「……というか、佐伯さんはこの遊歩道の右と左の、それぞれの方角がどこに続いているのか知っているの?」
「実際にこの遊歩道を歩いたことがあるわけじゃないけど、んー……、遊歩道が途中で大きく方向を変えない限り、方向的に左手側は遊木祭川の上流辺りに続いているかな。右手側は淀沢村商店街の方角、山を下りる方向になるね」
 さらりと言って退けた佐伯の予測に、俺は持って生まれた能力が違うことを実感せざるを得なかった。特に、絶対的な方角を察知する能力に対しては間違いないだろう。予測が正解だったかどうかの答えは出ていないけれど、佐伯は適当を宣う顔をしていない。むしろ、そこには自信さえ窺える。恐らく、それで合っているのだろう。
 ともあれ、どっちに向かえば蝶を発見できそうかなんて解るはずがない。俺は直感を元に選択した。
「えーと、それじゃあ、遊木祭川上流にでも向かうことにしようか?」
 今回、佐伯は験を担ぐというやり方に徹するつもりらしい。端で聞いていてさえ「適当に選んだ」と解る俺の言葉に対しても、佐伯は何一つ口を挟むことをしなかった。
 俺の一言であっさりと進行方向が決まってしまうと、何だか重責を負わされた様な気がした。蝶を探す俺の視線にも、心なしか気合いが込もったのは言うまでもないだろう。
 ふと、自然の景色の中へと視線を走らせ、蝶を探す佐伯の横顔が横目に映る。ついさっきまでの獣道でのものと違い、俺と佐伯を包む空気はより「散策を楽しむ」といった類の緩いものへと変わっていた。それは主に、足下へと注意を払う必要がなくなったことが大きかっただろう。獣道から遊歩道へ代わったことで、道悪が改善され、足へと掛かる負担が大幅に軽減されたのだ。
 そして、そんな散策の雰囲気は、会話をせずに蝶を探すという行為を気まずく感じさせた。雑談を交わす余裕ができたにも関わらず、雑談をしないという状況が不自然さを強調させるせいだろう。
 俺はそんな雰囲気に押し負け、佐伯に話し掛けていた。
「佐伯さんは変わってるよね」
 それは蝶を探す佐伯の横顔を横目に捕らえた俺が一番最初に思い浮かべた感想だ。オブラートに包むこともせず口にしたものだから、その感想は誤解を招いてもおかしくはない内容だった。
「そう? 自分ではそんなつもりはないけど、笠城はあたしのどういうところが変わってるって思う?」
 佐伯からはただ反論があるだけでなく、俺が「代わっている」と感じる部分についての具体的な説明を要求された。
 そこに具体的な説明を展開できなければ、俺は言い淀んだのだろう。けれど、今回ばかりは佐伯のその姿を感じるままに、そのまま述べるだけでよい。失礼を承知で喋るのであれば、言い淀みようなどなかった。
「だってさ、花の女子高生が夏休みを利用して、淀沢村なんて辺境の土地を訪れてるだけでも変わり者だと思うのに、そこでやってることが昆虫採集だよ?」
「うわ、笠城は今、何気に失礼なこと言ったよ。淀沢村を訪れている花の女子高生はあたしだけじゃないんだよ? それを一括りにして変わり者だなんて、その台詞は多くの敵を作ったね」
 言われてみれば、その通りだった。俺はあくまで佐伯を対象として話をしたわけだけど、確かに淀沢村のサマープロジェクトへ参加している花の女子高生なんて無数にいる。
 当然、参加の理由は十人十色だろう。けれど、どんな理由であっても自発的に「淀沢村へ行ってみよう」と思うことが既に、俺は「普通とは異なる」とも思うわけだ。もちろん、みんながみんな自発的にここへ来たとは思っていない。極々少数ではあるだろうけど、中には強制的に淀沢村に送り込まれた人達もいるかも知れない。だから、淀沢村にいる花の女子高生のみんながみんな変わり者だなんて、カテゴライズをするつもりはさらさらなかった。
 尤も、その理論で行くと大半は変わり者だと言うことになるだろうか。加えて言うと、俺はその理論を推す。
 俺は身近にある例を挙げて、自分の意見の正当性を証明しようとする。
「いや、でもさ、……俺の知ってるクラスの女子なんて一夏のロマンスがどうの、この夏のダイエットが勝負だの、サマーライブがどうの。そんなこと言ってる奴ばっかりだよ?」
 そう話しながら、頭の片隅にはそんなことを話しているのを一度も耳にしたことのない仁村の顔が浮かんだりもした。
 まぁ、どこにでも変わり者は居ると言うことだろう。いきなり前提が崩れそうになり、身近な一例である仁村については都合良くそう解釈をして締め括る。
 不意に、佐伯が立ち止まる。そうして俺を覗き込むように体勢を取ると、俺がそうしたように身近な例を挙げ「俺を変わり者だ」と証明しようとした。
「それはこっちの台詞でもあるとは思わない? 欲しいバイクのためにバイト三昧とか、この夏こそ恋人作って甘くとろけるラブラブな夏にするだとか。わたしの知ってる男子っていうのはそういうこと考えてる奴ばっかりだったけど、話を聞いてきた限りでは、笠城は淀沢村なんて場所にこれといった目的も持たずにやってきたっていうじゃない?」
「はは、確かにね。それについては返す言葉もない」
 佐伯は容赦なく俺の痛いところを突いてくる。反論の余地などなかった。
 本当に自分の意志で何の目的も持たず、ただふらふらっと淀沢村にやってきたというのなら否定の仕様はない。例え、それを「放浪癖」という言葉でカテゴライズできたとしても、少数派の変わり者に違いはないだろう。
 つまり、整理をすると淀沢村は変わり者の集まりということになるのだろうか。
 佐伯は興味津々という態度を前面に押し出すと、変わり者の俺にその理由を尋ねた。
「教えてよ、どうして淀沢村のサマープロジェクトに参加したの? 面白そうだと思ったから?」
 俺は言葉に詰まる。それは俺自身がまだ本当の答えを導き出せていない問いだからだ。だから、喉元の奥から引っ張り出してきた返答は差し障りのない都合の良い内容だった。
「何となく、……かな」
 さすがに淀沢村へと至る経緯が全く思い出せず「ふと気付いたら田圃のど真ん中に立っていた」なんてことを真顔で言えるわけもない。仮に苦笑しながら言ってみたって「冗談」だと思われるのが関の山だろう。加えて言えば、冗談だと思われなかった場合の方が状況として恐ろしい。それこそ、精神科への通院を進められるかも知れない。
「うわ、出たよ。今流行の何となく。笠城はきっとこれから、何となく友達がここを目指すって言った大学へ一緒に行くことになって、何となく四年間可もなく不可もなく大学に通って、何となくここが良いかなって思った会社に入って、何となく可愛いかもなんて惹かれた人と一緒になって、何となく一生を終えるんだ」
 佐伯は大袈裟に驚いて見せた後、俺の返答である「何となく」という言葉の使用例を列挙した。俺を具体例に混ぜて、列挙されたその「何となく」はどれも好意的に受け取って普通か、マイナスイメージの一歩手前だ。
 佐伯はその言葉に良いイメージを持っていないのだろう。
 尤も、その言葉が世間一般で良いイメージを持っているかと言えば、それも疑問だ。
「あははは、何だよ、それ」
「ないとは断言できないんじゃない? 淀沢村に来た理由が本当に今の台詞なら。まぁ、何となくやり始めたゲームが面白くって面白くって止められなくなって留年しました。何となくやる気が出なくて大学行きませんでした。何となくつまらなかったのでせっかく新卒で就職した会社を辞めました。……とか、そういう選択肢も無数にあるけどね」
 続ける言葉で、佐伯はさらにマイナス面に振った具体例を列挙する。
 さすがにそれは笑い飛ばしてしまえる内容ではなかった。
「何となくって理由で、そんな選択肢は選びたくないな……」
 それらは確かにどれも「あり得ない」とは言えない内容だ。佐伯の言う通り、淀沢村に来た本当の理由も「何となく」といった類のもので、これからもそれを選び続けていけば、それらは現実へと取って代わるかも知れない。
 佐伯はそこで唐突に真顔を見せると、俺に同意を求めた。
「何となくっていうのはさ、突き詰めていないから出る言葉だと思わない? 例えば、何となくやる気が出ないっていう中にはやる気のでない本当の理由があるはずなのよ。理由を掘り下げて考えることさえメンドクサイのか、それとも本当は解っているけど何か理由があって理解するのを拒否してるのか。ともかく、曖昧なところで止めておきたいから出る言葉だと思うんだ」
「あぁ、そんなものかも知れないな」
 佐伯の指摘に俺は納得する。確かに、それは曖昧に濁してしまいたいから故に、引っ張り出してきた言葉だ。
 ただ、俺がそれを認めたことで、佐伯は「淀沢村に来た理由」についてさらに掘り下げることを俺に要求した。
「それじゃあ、笠城にはもう一度聞こうかな。どうして淀沢村のサマープロジェクトに参加したの?」
 そこを突き詰めて、佐伯が求めたいものは何なのだろう?
 俺は首を捻る。尤も、佐伯から言い出さない限りは俺がその理由を窺い知ることはないだろうし、深掘りをしてみたところでその質問の答えを俺は導き出せない。さっきのやり方とは異なる方法でお茶を濁すしかなかった。
「淀沢村のサマープロジェクトっていうのがあるんだって、周りの奴らが言う話をしててさ、クラスメートでも参加するって言ってた奴もいて「面白そうかなぁ」なんて思っちゃったんだよね」
 それは須藤の言葉の受け売りである。
 改めて自問してみるけれど、俺自身はその時のことを相変わらず何も思い出せない。だから「どうして淀沢村のサマープロジェクトに参加したか」の本当の答えは未だ解らないままだ。けれど、その理由なんてものは須藤が述べたものとそう大差ないものであるはずだと、今更になってまじまじと思った。まだ、きっかけ一つ掴んでいないけど、恐らくはそうなんだろう。そして、何かのきっかけで全てを思い出した時に「やっぱりな」と納得するのだろう。そうなんだろう。
 ……それは本当か?
 しばらくその疑問から目を逸らしていた間に、あっという間にそれらは俺の中で「真実らしい」という立場を固めていた。けれど、まだそこに反発する確かな意識が残っていたらしい。
 なぜならば、まだ納得できていないからだ。
 俺が俺自身を的確に分析できているだなんて思わない。いざ「言ってみろ」と言われたところで、長所も短所も自分が思っている以上に並べ立てられないだろうし、どんな性格かを聞かれれば、返答にも詰まるだろう。
 でも、これだけは言える。
 本当に、俺は自発的に淀沢村へとやってきたか?
 その問いに、自信を持って「はい」だなんて答えられない。
 俺が「何となく」という言葉を用いて、本当に曖昧に濁してしまいたかったものは「疑問」そのものではないか?
 佐伯にその意図はなかっただろう。けれど、佐伯が切り込んできたことで、俺はその「何となく」という言葉で曖昧に濁した本当の部分を露呈させられた気がした。忘れ掛けていたものを、思い出したような感覚だ。
 ただ、今はそれよりも俺の返答を聞いた佐伯がどんな反応をするのかが気に掛かった。少なくとも、俺には「何となく」という言葉で曖昧に濁してしまうことを許さなかったその意味を、確認する権利があるはずだ。
 俺は佐伯の顔をまじまじ注視する。
 一方の佐伯はキョトンとした顔をしていていたけれど、俺の視線に気付いた後はその表情を笑顔へと切り替える。しかしながら、それは若薙や永旗なんかに良く見るあまり良い印象を受けない笑みだ。その裏に悪意が隠れている気さえした。
 俺は思わず口を開いて、その笑顔の真意を尋ねた。
「な、何だよ?」
「確かに笠城の言うように、あたしは変わり者かも知れない。でも、結局笠城も自発的に淀沢村へとやってきた正真正銘の変わり者なんだなって思って」
「俺は違う! クラスメートの奴らに唆されたんだ! だって、淀沢村へやって来た時に本気で思ったもんね、俺。なんだってこんなところに来てしまったんだって」
 ふと気付けば、そんな分の悪い反論が口を付いて出た。けれど、それはあくまで結果論であって、ついさっきの言葉が本物ならば、自発的に淀沢村へとやって来たことは否めない。そう、須藤の言葉を借りた受け売りが「本物ならば」だ。
 そこに確かな疑問を残し、俺は本来の目的である蝶探しへと重点を置く姿勢に徹した。
 佐伯の視点で見れば、それは「痛いところを突かれたことで、俺が話題の終息を図ったもの」と映っただろうか。佐伯の目にそう映ってくれれば、幸いだろう。
 そして、途中途中で休憩を挟みつつ、俺達は遊歩道から続く道をそのまま三時間近く歩き続けることになった。もちろん、それは遊歩道一週に三時間が必要だったというわけではない。そもそも、遊歩道という決まった道を歩き続けたわけではなかった。遊歩道の途中で脇道に入り、またそこから別のルートへと逸れていったりしたことが大きい。
 特に、遊木祭川上流へと続くルートから「こっちの方が蝶に遭遇できる気がする」という理由で脇道へと逸れた時には、かなりの時間を浪費した形だった。結局、佐伯の目的とする蝶を見付けることはできなかったけれど、俺はこの一日で無駄に淀沢村の自然を堪能したのだろう。
 たっぷり森林浴を楽しみ、ウォーキングを楽しみ、果ては鬱蒼と木々が生い茂る遊木祭川最上流まで足を運ぶ形になったのだ。遊木祭川最上流では高さにして十数メートル、幅にして三メートルはあろうかという豪快な推量の滝が、一つの滝壺に三本流れ込むという大自然を、無駄に目の当たりにしたぐらいだ。
 俺の記憶が正しければ、明日の淀沢村案内ツアーはこの手の自然散策に焦点を当てたものだと聞いた。明日のイベントには参加しなくても良いだろう。自然散策はしばらくお腹いっぱいというのが正直なところだった。
 遊歩道を淀沢村商店街方面へと進み、山道を下り終え、佐伯と一緒に緑陵・遊木祭の寮へと続く共通の帰り道を歩いていた時のこと。不意に、バスケットボールをドリブルする微かな音が聞こえた気がして、俺はその場で足を止めた。「もしかしたら」と、そんな考えが俺の脳裏を過ぎる。思い浮かぶは大野の顔だ。
「どうかした?」
「ちょっと気になることがあってさ」
 そう前置きすると、俺は大通りから分岐した脇道の様子を窺う。その脇道の一つには見覚えがあり、俺のその推測は確かなものとなった。目印という目印はないけれど、ありありと昨夜の道順が浮かび上がってきて、ここからなら迷うことなく大野と出会った昨日のバスケットコートまで行くことが可能だろう。
「そうか、この通りはあの場所に続く道へ分岐してるのか」
 その事実を再認識すると、今日も大野があの場所で練習しているのかが気になり出した。時間的にも昨日大野と出会った時刻に近付きつつある形だ。「どうしようか?」と考え込んだ後、俺は佐伯へ「用事ができた」と告げることを決める。
「佐伯さん。悪いんだけど、俺……」
「ん?」
 佐伯は脇道へと進路をシフトとした俺の真後ろにいた。目的の進路を脇道の方へと変更することを決めた俺としては、ここで佐伯と別れるつもりだった。けれど、別れの挨拶を口にするよりも早く、当の佐伯は俺の後を付いてきた形だ。
「それじゃあ、また次の機会にでも」
 そんな言葉で締め括ろうと、喉元まで出掛かっていた一連の別れの言葉は、俺の驚きと共に再び喉の奥へと飲み込まれてしまった。そして、俺は佐伯を前にして、咄嗟の切り返しをすることができず固まる。
「悪いんだけど、何?」
 少し口を閉ざして間を開けただけで、佐伯はグイッと身を乗り出すようにして俺に言い掛けた言葉の後に続くものを確認してきた。そういった佐伯の言動からは曖昧な言葉を許さない印象を受ける。そこに俺は若干の付き合い難さを感じるわけだけど、こればっかりはこういう性格なんだろうと納得するしかない。
「寄り道したいところができたから、ここで佐伯さんと別れようかと思ったんだけど……」
 俺が飲み込んだ言葉の内容を聞いた瞬間、佐伯は眉をつり上げる。
「それ、平たく言うとあたしに「付いてくるな」ってこと?」
 俺は慌ててその佐伯の認識を否定した。
「そんなことは、言ってないだろ?」
 そんな考えはこれっぽっちも持っていない。ただ「佐伯が一緒にいて楽しめるものではないかも知れない」と思う考えを俺が持っているのは確かである。そして、佐伯に対する大野の態度が、昨日俺に向けたようなものだった場合「最悪喧嘩に発展するかも知れない」なんて考えが脳裏を過ぎったりもした。若薙、永旗との応対を目の当たりにしてきたから尚更、俺はそこを心配に思った。
 気が進まない。それが「佐伯とここで別れよう」という結論を導き出した俺の理由の大本である。
「その寄り道先とやらは、あたしが一緒にいると困るような場所?」
「そんなことはないよ」
「だったら、あたしも付き合うよ。どうせ、このまま遊木祭寮に帰ったって特にやることもないんだし」
 もう何を言っても佐伯とここで別れるという結果には辿り着けない気がした。そして「佐伯がそこまで言うのなら」と自己弁護の言葉を引っ提げて、俺は後のことを深く考えないことにする。
「じゃあ、まぁ、……案内するよ」
 佐伯を先導する形で昨日も歩いた脇道を進んでいくと、そこには目的の人物がいた。
 前回の時と全く同じ服装で、大野は一人バスケットボールを思いのままに操っていた。
 真剣な目付きをして、今まさにシュートを放ろうとする大野に声を掛けることは気が引けた。けれど、大野がシュートを放った後、そこには一つの区切りが生まれる。シュートが外れた時のリバウンドを狙うと言うには大野のシュート位置からゴールポストまでの距離は離れすぎている。そして、大野の足下に予備のボールはない。つまりはそのシュートが決まっても決まらなくとも、大野はバスケットボールを拾いに行かなければならない。
 俺はその一区切りの瞬間を見計らって大野に声を掛けた。
「おっす、また練習中?」
 大野は俺をちらりと一瞥すると、素っ気ない返事をした。
「……おっす」
 そして、黙々とボールを拾いに行く様子は「邪魔をするな」という意思表示にも見える。
「邪魔しちゃったかも知れない」
 大野の無愛想な態度にそんな寸感が口を付いて出たけど、当の佐伯は何も反応を返さなかった。
 佐伯は興味深げな表情で、スリーオンスリーに特化した小さなコートとその周囲の様子に目を向けていた。その視線の先はバスケットコートを囲うように設けられたフェンスであったり、ここへと続く下り坂の向こう側の景色だったりする。もしかすると、ここは佐伯が初めて訪れる場所だったのかも知れない。
 キョロキョロと落ち着きない挙動を見せる佐伯を見ていて俺はそう思った。
 不意に、佐伯が俺に視点を合わせる。そして、佐伯は口を開いて俺に何かを伝えようとするけれど、俺がそれを最後まで聞くことはなかった。
「笠城、彼……」
「笠城」
 なぜならば、一つ遅れて別方向から俺の名前が呼ばれたからだ。俺の名前を呼んだのは他でもない、大野だ。
 そうして、名前を呼ばれるがままに大野へと向き直った直後のこと。俺は高速で接近してくる物体に、思わず頓狂な声を上げていた。
「うわッ!」
 慌ててそいつを制止しようと両手を突き出した瞬間、パンッと乾いた音が響き渡る。形として、俺はその接近する物体を両手で受け止めた格好になる。受け止めたものはバスケットボール。大野が俺に向けて放ったのだ。
 ともあれ、勢いを殺しきれずにバスケットボールを受け止めた俺は、両手にヒリヒリと来る軽い痛みを感じた。
 一つ遅れて、俺にアクションを要求する大野のアナウンスがバスケットコートに響いた。
「ボールをそっちに向けて投げるから、受け取ってくれ」
「次は投げる前に一声掛けて貰いたいな!」
 思わず、怒鳴っていた。尤も「怒鳴るな」という方が無理があるだろう。
「悪い」
 素っ気なく謝罪の言葉を口にすると、大野はバスケットコートに転がる他のバスケットボールを拾いに行った。少なくとも、そんな大野の態度から俺に対する「申し訳ない」という気持ちを感じ取ることは難しい。
「友達?」
 そんな佐伯の質問に、俺は特に意識することもなく答えた。
「ああ、うん」
 ただそう返事をしてしまってから、大野の側がそんな風に思ってくれていない可能性について俺は気付かされる。ちらりと横目で様子を窺った大野は特に気にした風ではなかったけれど、俺はこう付け加えた。
「実はまだ知り合って間がないから友達なんて言ってしまっていいかどうか、ホントのところは解らないんだけどさ」
 大野が手を挙げ、ボールを投げることを宣言する。対する俺も手を挙げ、オーケーの意思表示を返す。
 大野はバスケットゴールの下にあるボールを拾ってこちらに向かって投げる格好で、バスケットコートの入り口付近にいる俺まではかなりの距離があった。大野が放ったボールは相変わらずの凄まじいコントロールで、俺の胸元付近へ放物線を描き落ちてきた。最後の二つは大野自身がその手に持って俺のところまで運んできたけれど、それ以外のバスケットボールは全て俺の胸元へと絶妙なコントロールで放られた。
 それを見ていた佐伯は感嘆の声を上げた。
「へぇ、良いコントロールしてるね、彼」
「……というか、もしかしてお互い全く面識ない感じ?」
 俺としては「大野が見せる緻密で正確な遠距離シュートが知れ渡っていないなんて!」と、いう思いがそこにはあった。加えて、佐伯に対する俺の印象にしてもそうだ。若薙に散々脅かされたこともあって、遊木祭川云々の話と結びつけられたことである程度の知名度を持っていると思っていたのだ。だから、質問に対する双方の回答に、俺は単純に驚いた。
「うん、面識どころか顔も名前も知らない」
「俺もあんたのことは知らないな」
 相変わらずどこか素っ気なさを感じる大野の態度を前にして、俺は若薙が佐伯を指して述べた言葉を思い出す。
 俺はすぅと息を呑むと、佐伯について鳴り物入りの紹介を口にした。その「言い方」でなら、佐伯のことを大野が知っているかも知れないなんて思ったわけだ。
「実は彼女こそが噂に名高い遊木祭川の怪物こと、佐伯ゆう……」
 しかしながら、俺が佐伯を紹介した受け売りの言葉は最後まで続かない。
「かーさーぎー?」
 トーンが一つ下がった佐伯の声に、俺の背筋には冷たい汗が浮かんだ。加えて、俺の首を絞めるようにニョキッと伸びてきた佐伯の冷たい手には容赦なく力が込められる。もちろん、そこには本気で俺を絞め殺そうとする握力が伴うことはない。けれど、馬鹿なことを口走ろうとした俺に制裁を加えるに足る握力は十二分に伴っていた。
「悪かった、ごめん、出来心! 若薙がそれっぽく言ってたからこの辺りでは有名なのかなって思ってさ」
「……悪い、それも解らないや」
 大野は「どう反応していいか解らない」といった具合の困ったような苦笑いだった。
「いい? あんなこと宣ってるのは若薙とその周りの一部の連中だけだからね!」
 佐伯に胸倉を掴まれながら、俺は「仰々しいこの紹介でも駄目だったか」と心の中で溜息を吐いた。どうやら、普通に紹介した方が賢明なようだ。佐伯の吐き出す気炎が一服するのを見計らって、俺は大野の紹介を始める。
「えーと、こちら大野」
 俺の紹介を受けて、大野は小さく頭を下げて見せて、軽く佐伯に会釈をする形だ。
「それで、こっちが佐伯さんね」
 対する佐伯も大野に向かってにこやかな表情を拵える。絶妙なコントロールでのスローイングというパフォーマンスが合ったためか、心なしか佐伯の態度はいつもより人当たりの良いもののように感じられた。尤も、そのにこやかな表情もすぐに、俺へと向けた悪意塗れで棘のあるものへと切り替わる。
「ふーん、ちゃんと正義馬鹿とか以外にも友達作ってるんだね。てっきり、今日もはぐれたなんて言って見せたけど、本当は緑陵寮にいる名前を言うのも憚られるような変人達以外とは上手く溶け込めなくて「ハブられちゃってるのかな」なんて思ってたんだけど……」
 俺は一瞬、佐伯が何を言ったのかを理解できずに固まった。佐伯へと向けた視線は驚愕の色を伴っていたはずだ。
「ちょっと! ちょっと待った、そんな風に思ってたのか!」
 佐伯が俺のことをそう認識しているのなら、今ここで是が非でも誤解を解いておかねばならないと思った。
「嘘、嘘。さすがに冗談だって」
 俺が慌てふためく様を見て、佐伯は小さな舌を出すとしてやったりという顔をする。
 俺は思わず安堵の息を吐いた。
「勘弁してくれよ。ここに来てまだ日は浅いけど、それなりに上手くやってるつもりだよ」
「そう、だったのか? てっきり、寮での話し相手がいないから、こんな時間にこんな場所までやってきてるんだと、俺も思ってた」
 しかしながら、続けざまに全く予想外の方向から俺に対する間違ったイメージがさらに提示される。
 それを聞いた時、俺はどんな顔をしていただろうか。ともあれ、再び一気にどん底へと叩き落とされたショックからは簡単に立ち直れない。慌てるだけの元気も削がれ、俺はガクッとその場で項垂れた。
「ちょっと待ってくれよ……。お前まで俺をそんな風に思ってたのかよ!」
 どうにか腹の底から声を引っ張り出してきて、俺はその印象の撤回を求める。
 必死ささえ滲む俺の訴えを前に、佐伯同様大野もしてやったりという顔を見せた。
「はは、冗談だ」
 そういって笑った大野の表情を前に、俺は固まる。ここにきて始めて、大野が笑って見せたからだ。
 俺は不服の気持ちを前面に押し出す不興顔をしていたけれど、そうやって俺が笑いの種になることで打ち解けられるのなら今はそれでもいいかと考えた。納得いかない気持ちも確かに存在したけれど、さらりと気持ちを切り替えてしまって、俺は話題を変えることにする。
「さっきの遊木祭川の話はともかくとしても、……正直以外だな。佐伯さん、淀沢村に長い時間滞在してるみたいだから、色んなところに顔が広くて若薙みたいにあっちこっちに名前が知れてるんだと思ってた」
 俺が若薙の名前を口にした矢先、大野の表情が切り替わる。それは「若薙とは関わり合いたくない」と受け取れる露骨に警戒を混ぜる態度にも見える。
「若薙か、その名前はさすがに聞いたことがあるな。色々と面白い噂もちょくちょく耳にするしな」
「……だろうね」
 きっと、若薙の名前はあちらこちらに轟いていることだろう。それも悪い意味でだ。
 そう思っていたから、俺が大野の言動に驚かされることもない。きっと、それは俺でなくとも合点がいっただろう。
 その一方で、佐伯は若薙と比較されたことがまず何よりも気に食わないらしい。
「それも酷い発言だよね。誰が若薙みたいにだって?」
 佐伯が真っ先に指摘したのはその点だった。「若薙のような」という言い方を俺がしたことで、名前の知れ渡り方をあまり良い意味ではない方へ捉えた可能性もある。もちろん、俺にそんな意図はない。
「大体、長い時間滞在してるも何もあたしだって淀沢村に来て、まだそんなに経ってはいないよ。遊木祭川の怪物云々の話だってついこの前やらかした失敗のことで……」
 続ける言葉で話は淀沢村の滞在期間に及んだけれど、それは尻窄みに終わる。そこで言葉に詰まった佐伯はその「ついこの前」を、具体的な日にちへ置き換えられなかったのだろう。
 尤も、そのやりとりがいつ行われたものかは俺に取ってあまり大きな問題ではない。
 俺が気にした点は佐伯の淀沢村滞在期間だ。
「あれ、違った? 佐伯さん、淀沢村で蝶をずっと探してるって言ってたし、淀沢村について土地勘があるみたいだったから、てっきり淀沢村に結構な期間滞在してるんだって思ってた」
 佐伯の滞在期間を「長いんだろうな」と思った根拠は、何よりその地理の詳しさである。それは今日の昼間に見せた優れた方向感覚が成せる技なのかも知れないけれど、それにしたって一朝一夕で身につくものだとは思えない。
「確かに淀沢村に来てからはずっと蝶を探していたけど、淀沢村にやって来たのだってそれこそ……」
 佐伯はそこで再度言葉に詰まった後、その表情に本格的な思慮を混ぜる。そして、それは見る見るうちに思案顔の度合いを逸していった。傍目に佐伯が置かれる状態を言葉にすれば、それは「当惑」だろう。
「それこそ、……あれ?」
 佐伯は何日とか何週間とかいう具体的な数字を咄嗟に計算できなかったんだろう。
 確かに淀沢村という場所はその日の充実度によって時間が長くも短くも感じられる気がする。それこそ日数という単位が曖昧になる感覚だ。ここに来たばかりの俺でさえ、それを感じる場面がある。だから、俺よりも長くこの淀沢村にいる佐伯や大野は尚更それを感じるだろう。
 腕を組んで考え込み始めた佐伯に話を振るのも気が引けて、俺はその話題を大野に向けた。
「大野は淀沢村にどのぐらいの期間、滞在してるんだ?」
「俺は長いよ。……詳しく知りたいなら具体的な日にちを計算するけど?」
 大野も佐伯のように具体的な日数を咄嗟には算出できないらしい。ともあれ、取り敢えずは「長い」という言葉だけで十分だ。別にそれが三週間でも一ヶ月でも「長い」の定義に大差はない。そこに、俺が日数の正確さを求める意味は感じられない。
「逆に一つ聞きたいな、今日は何曜日だ?」
 大野からの質問ということで咄嗟に身構えたけど、その質問の内容を理解すると俺は一気に脱力した。
「なんだ、そんなことか」
 それは大野の質問を前にした俺の率直な感想だ。けれど、ではいざそれに答えようとすると、俺はその答えを導き出せないことに困惑した。それはいつもの学生生活ならば、ポケットから携帯電話を取り出し確認するだけで済むことだ。いいや、そもそも普通に学生生活を送っている限り、答えに迷っていいような質問ではない。
「今日? 今日は、えーと、確か……」
 俺も思案顔をして腕を組む格好になる。
 大野の質問について思考を巡らせるけれど、答えに直結するものは疎かヒントとなりそうな記憶さえ手繰り寄せられなかった。強いて言うなら、食堂でローカル新聞を読んでいる寮生の姿が脳裏を過ぎったことぐらいだろうか。けれど、その記憶の中から情報を拾い上げるというには、それはあまりにも曖昧すぎる。俺としては「こんなローカル新聞があるんだ」くらいの雑多な記憶の一つに過ぎない。
 そんな具合に「うーんうーん」と唸りながら思考を巡らせる俺を前に、大野はあまりにも呆気なく答えを口にした。
「火曜日、かな」
 唸る俺の様子を目の当たりにして、その調子では答えを導き出すには多くの時間が必要になると思ったのだろう。
 そして、俺は言われるままに「そうなんだ」と頷いた。
「そっか、火曜か」
 答えることができて当然だ。そんな質問に答えられず、俺は苦笑いを隠せなかった。
 言いわけに過ぎないと解りながら、俺は質問に答えられなかった理由について弁明した。
「淀沢村ってさ、テレビは地方ローカルの二局に民放一局しか映らないし、曜日を認識するイベントもないから曜日の感覚がどんどん薄れていくよな? それも、時間感覚が狂う要因の一つなのかな?」
 それは大野に同意を求める形だったけれど、当の大野は頷きもせず否定もしなかった。そして、怪訝に思った俺が大野の表情を確認しようとしたところで、逆に大野からこう確認された。
「……今日は本当に火曜日であっているか?」
 大野の顔は意地の悪い子供のように見えた。
 まるで、そんなに簡単に「信じていいの?」とでも言わんばかりの口調だ。
「うおーいッ! 当てずっぽうかよ! 大野も解らないのかよ!」
 俺は思わず声を挙げて大野を非難していた。
「寮に帰ったら、確かめてみるといい」
 大野は俺の肩をポンッと叩くと、自分自身で答え合わせをするべきだという。
「……ああ、そうするよ」
 大野に勧められるまでもない。寮に帰り次第、俺はカレンダーを確認するだろう。
 ともあれ、俺と佐伯がバスケットコートにやってきたことで、大野はそこで練習に一区切りを付けるつもりらしかった。フェンス付近に置かれた水筒を拾い上げると、そのキャップを開けて喉を潤す。休憩するのか、それとも今日はもう引き上げるのか。どちらにせよ、もう一球パフォーマンスという形でシュートを決めて貰うには今が最良のタイミングだろう。
「そうだ、佐伯さん。大野のシュートを見させて貰いなよ。ホント凄いんだよ」
「……え? ああ、うん」
 俺に名前を呼ばれるまで、佐伯は小難しい顔のままだった。
 まさか名前を呼ばれて我に返るまで、淀沢村の滞在日数を計算していたわけではないだろう。
 足下に置いたバスケットボールを拾い上げると、俺はそれを大野へと向かって放る。尤も、大野の了解は得られていないので、俺は大野にお願いをしなければならない。性格から言って、大野はパフォーマンスを進んで見せてくれるなんてことはないだろう。俺は大野に向けてボールを放ると、胸元で両手を小さく合わせて小さく頭を下げる。
 バスケットボールを受け取る大野の表情は優れない。シュートを見せることに対して特に断る理由はないけれど、乗り気というわけでもないようだ。大野からは非難にも似た視線が俺へと向けられた。
 そうして「一球だけだぞ?」と念押しするかのような溜息を間に挟むと、渋々という感じではありながらも大野はバスケットコートの中へとゆっくり進んだ。「タンッタンッ」とリズミカルなドリブル音を響かせ、俺と佐伯の真正面にくる位置で体制を整えると、大野はゆっくりとした動作でシュートを放る。
 バスケットゴールからの距離は相変わらず遠い。スリーポイントシュートとなる位置よりもずっと遠くだ。けれど、それが当然であるかのようにバスケットボールは大きく綺麗な弧を描き、吸い込まれるようにゴールへと収まった。
「凄い」
 目を丸くしてポツリと一言そう呟いた佐伯は、時間の経過と共に興奮の色をその表情へと混ぜていった。
「何、これは一回きりの一発芸? それとも、この距離で何本でもゴール決められるの?」
 佐伯は興奮気味に尋ねる。それは俺と大野の双方へと答えを求めた形だ。
 大野は俺の方へと向き直ると、訴えかけるような視線で「佐伯に説明してくれ」と要求してきた。
 しかしながら、俺はその要求に気付かないふりをする。大野が佐伯に対しても、昨日と同じ説明をするのかどうかを静観しようと思ったのだ。
 大野は身振り手振りを交え、どうにかその要求を俺に伝えようと苦心する。
 何を言いたいかはすぐに理解できたけれど、俺は何食わぬ顔をしてこれみよがしに首を傾げてみせた。実は緑陵寮で浮いているんじゃないか疑惑を掛けられた時に、大野にはしてやられているのだ。これぐらいの仕返しも、妥当の範疇だ。
 自分の言わんとするところがジェスチャーで伝わらないことに、大野は激しいもどかしさを感じているようだった。結局、俺が首を傾げて気付かないふりをし続けたことで、大野は大きな溜息を吐き出した後佐伯へと向き直った。ただ、佐伯に臨んだ大野の態度には、さも「めんどくさい」といった雰囲気が滲んだ。
 一瞬、そんな大野の態度が佐伯の神経を逆なでしないかとも思ったけれど、興奮冷めやらぬという状態にある佐伯の目にその態度も留まらなかったらしい。
「基本的には外さない、何度でも繰り返し繰り返し決められる」
 昨日は「バスケットボールをバスケットゴールに入れる法則」があるなんてことを話した大野だ。俺としては「絶対に外すことがない」と言い切って欲しかった。けれど、大野は「基本的」という言葉を使って、外す可能性がゼロじゃないことを示唆した形だ。
 その大野の言い方は外した時の逃げ道を用意したもののように聞こえて、俺は思わず口を挟んでいた。
「法則を知っている限りは絶対に外すことなんてないのかと思ってたけど?」
「……法則を成り立たせるための大前提が崩れることもある」
 大野は真顔で答える。そして、その大前提まで含めた話を大野は展開させたいような態度だったけれど、今回はその機会を佐伯によって奪われる。佐伯に「もう一度、やって見せて欲しい」とせつかれたからだ。
「もう一回! もう一回やって見せてくれない! ……駄目?」
 大野はそこに未練がましそうな表情を残していたけれど、佐伯の攻勢の前に渋々という形で頷いた。
 俺は足下に転がるバスケットボールを拾い上げると、それを大野に向けて放る。
「頼むぜ!」
 バスケットボールを受け取った大野はじっと俺を注視する。時間にしてそれは数秒に満たないものだったけど、大野の表情が不満顔だったこともあって強く俺の印象に残った形だ。
 余程さっきの話題について俺と語りたかったらしい。
 いつか時間を設けるよ。俺は心の中で大野に向けてそう言った。
 そんな俺の心の内が大野に伝わったかどうかはともかくとして、ふいっとバスケットゴールへと向き直ってしまえば大野はその目に真剣さを灯らせた。トンッ、トンッとその場で二度ドリブルさせると体勢を整えシュートを放る。それは綺麗な放物線を描き、パサッと静かな音を響かせゴールネットへ吸い込まれた。
 相変わらず「見事」としか言う他ないシュートだった。
「この距離でゴールを狙えるって普通じゃないよね? そうだ、笠城もちょっとやってみてよ」
 トンッと佐伯に勢いよく背中を小突かれ、俺はバスケットコートへと足を踏み入れる。しかしながら、その気になってみたところで結果は見えているし、仮に運良くシュートを決められたとしてもそれはまぐれに過ぎない。
「無理だよ。普段からたまにでもバスケに興じてるんなら、まだまぐれも期待できるけど、今の俺じゃあ良くてリングにボールを当てるのが精々だね」
 昨日はリングにすら当てられなかったわけだけど、そこは見栄を張ったのだ。
「バスケなんて久しくやっていないけど、……一丁挑戦してみようかな」
 言うが早いか、佐伯は足下に置かれたバスケットボールを拾い上げ、無造作にドリブルを始める。「タンッタンッ」と小気味よい音を響かせながら、バックボードに向かってそのスピードを上げていけば、まずはレイアップを決めようという腹積もりらしい。
 リングにバスケットボールを置きにいくというには、佐伯のジャンプは跳躍力が足りない。しかしながら、その手を離れたバスケットボールはかなり良い軌道を描いた。けれど、俺と大野がその行方を見守る中、僅かな静寂を間に挟みリングの撓む大きな音がした。
 誰もリバウンドを拾いに行かないから、佐伯の放ったシュートはコントロールを失ってバスケットコートに転がる。
「駄目だったかぁ、幸先悪いな」
 テンッテンッと転がるバスケットボールは大野の足下付近へと転がっていった。大野はそれを拾い上げる。
「いや、悪くなかったと思う。紙一重だった」
「仮に紙一重だったとしても、ゴールを決められなかったのには違いないじゃない?」
 それは確かに佐伯の言う通りだけど、その動きは現時点で既に前回の俺のものを軽く凌駕している。そんな動きができるのなら、まぐれも十分期待できるだろう。
 そして、そのまぐれを佐伯は貪欲に狙いに行くつもりらしい。目付きには鋭さが伴った。
「さて、次が本番だね」
 そう宣言すると佐伯はスリーポイントライン付近まで後退してくる。大野はそこに向かってバスケットボールを放った。けれど、当の佐伯はスリーポイントラインを跨いで、さらに大野の方までやってこようかという勢いだった。
 大野がシュートを放った位置から、同じようにゴールを狙うつもりだったのかも知れない。
 結果、大野が放ったパスは誰もいない空間に向かって投げられた形になる。
 二人の頓狂な声がバスケットゴールに響き渡った。
「しまった、悪い!」
「おおっと!」
 すぐに佐伯は大野からのパスが放られた方向へと、その進行方向を機敏に軌道修正するけれどさすがに間に合わない。
 そして、それは起こった。
 まるで佐伯が追い付くのを待つかのよう。一瞬、ボールが空中でピタリと静止したのだ。それは空中でピタリと制止し留まった後、上下左右に小刻みな振動を数回繰り返し、まるで何事もなかったかのように再び動き出した。時間にして数秒にも満たない僅かな時間ではあったけれど、それはそう見えただけではないはずだ。通常のタイミングであったなら距離的にも時間的にも決して間に合わなかったはずなのに、バスケットボールが佐伯が伸ばした手に当たり、あらぬ方向へと弾かれてしまったのだからだ。
 バスケットボールがもう少しそのままそこに静止していれば、佐伯の手にすっぽりと収まったかも知れない。
 大野が本物の手品師か何かで、その現象を「意図的にやったのか?」と思った。けれど、当の大野は目を点にして手を伸ばした格好のまま固まっている。その目は佐伯を捉えるでもなく、自分の手を捉えるでもない。その現象が発生した空間をじっと注視しているように見えた。
 やはり、そこで何かが起こったのだろう。
 大野はすぐにハッと我に返ると、佐伯に謝罪を向けた。
「悪いな、その、下手なパスボールを出した……」
「いや、あたしの方もきちんと受け取れなくて、ごめん」
 対する佐伯も大野のパスを受け取れなかったことに対して申し訳なさそうな態度を見せたから、そこには双方頭を下げる不毛な構図が生まれた。空中にバスケットボールが静止したという事実がなかったかのように扱われたことで、俺はボーッと二人のやりとりを眺めていた。「佐伯が頭を下げるなんて珍しい光景だな」なんて感想を抱きながら、それが一段落付いたらさっきの事象について二人に言及するつもりだったのだ。
 しかしながら、事態はそこで一段落が付かない。俺の視界にすぅっと横切るものが映ったことで、一瞬にして俺の頭の中からもバスケットボールが静止したという事実が吹き飛んでしまったのだ。それはいつかの蝶である。
「あッ!」
 佐伯の後方に見覚えのある蝶の姿を捉えたことで、俺は思わずすっ頓狂な声を上げていた。
 そいつは俺の方へと向き直った佐伯と大野の、ちょうど後頭部付近をハタハタと舞う形だ。
 俺は蝶の存在を佐伯へ伝えようとするけれど、想像以上に慌てたことで適当な言葉が口を付いて出なかった。だから、身振り手振りを交える形でどうにか訴えるのだけど、そのジェスチャーは要領を得ない酷いものに終始する。
 恐らく、二人の目には滑稽に映ったことだろう。
「どうしたの? 大きな声出して?」
 怪訝な表情をした佐伯にそう尋ねられて、俺はようやく単語レベルで言葉を喉の奥から引っ張り出してくる。
「佐伯さん! 蝶! 後ろ後ろ!」
 俺に言われるまま佐伯は背後へと視線を走らせる。けれど、蝶もその佐伯の動きに合わせてハタハタとその進行方向を変えてしまった。しかもそれは、まるで意図的に佐伯の死角をなぞるようなルートになる。
 背後を確認した後、そのままくるりと再びこちらへと向き直った佐伯は怪訝な表情だ。
「……何? どこ? 蝶なんてどこにいるの?」
「右、右! 俺が見たのはまさしくそれだよ!」
 俺が言う右方向とはあくまで「俺から見て」という意味だったけれど、佐伯はそれを「自分から見た場合の右方向」だと受け取る。即ち、俺の認識とは逆方向へと向き直った形だ。しかしながら、はためく蝶の動きが幸いし、結果的にその認識違いは良い方向に作用した。ちょうど佐伯の視線が蝶を捉える形になったのだ。蝶を見付けた佐伯の瞳は大きく見開き、佐伯も自信もその場でピタリと固まる。しばしそうやって蝶をマジマジと注視していた佐伯だったけれど、バスケットゴールには一つテンポを外した頓狂な声が響き渡った。そいつは佐伯が目的とする蝶だったのだろう。
「あーッ!!!」
 その声に驚いたのか。蝶は逃げるようにその進行方向を河川敷の方向へと変えた。
 佐伯は直ぐさま、その後を追う。
「ちょっと待った! 佐伯さん。虫取り網もないのにどうやって掴まえるっていうだ?」
 生死を問わず、且つ原形を留めていなくとも良いというのなら、やってやれないことはないかも知れない。けれど、佐伯がそれを望むとは思えない。
 俺の指摘に佐伯は足を止め、そこで初めて蝶を掴まえるための道具がないことに気付いたのかも知れない。
「えっと、うん、あー……道具がない、か。何か、何か掴まえるものないかな!」
 佐伯はことに当たって当惑の様子を覗かせた。一旦蝶の後を追うのを止め、蝶を掴まえるための道具を探すけれど、そうそう都合良く適度な道具なんてものが転がっているはずもない。
 そして、そうやって目を離していた隙に、蝶はバスケットコートを囲うように設けられたフェンス付近まで飛び去ってしまっていた。加えて、蝶に取ってはそのフェンスさえ障害にならない。浮き上がって、飛行高度を変えてしまえば、二メートル強はあろうかというフェンスをあっさりと越えていってしまった。
 佐伯は慌ててフェンスまで駆け寄ったけれど、そこまでだった。飛び去っていった方向をじっと注視する。
 そんな佐伯の悔しそうな背中を眺めながら、俺は横に立つ大野に尋ねた。
「なぁ、大野。ここで練習していて、今までにさっきの蝶を見掛けたことってあるか?」
 もしも、さっきの蝶をここで見掛けた目撃証言を大野から得ることができれば、佐伯を慰める良い材料になると思ったわけだ。けれど、大野は俺の質問に答えなかった。不審に思って大野の様子を窺うと、大野は大野で未だバスケットボールが静止した空間をじっと注視しているように見えた。
 もしかしたら、俺と佐伯が蝶をどうやって掴まえるかでバタバタしていたことにも気付いていなかったかも知れない。
「……大野?」
 反応を示さない大野の様子を、俺は覗き込むようにして窺い名前を呼ぶ。
 視界に俺の姿が入ったことで、ようやく大野はハッと我に返ったようだった。
「ああ、悪い! ボーッとしていて聞いてなかった。何だって?」
「ここでさっきのような蝶をちょくちょく見掛けることってあったりするか?」
 大野はまだどこかボーッとしたような感じを覗かせていたけれど、俺の質問には明瞭に答えた。
「いいや、ここであんな真っ青な色した蝶を見たのは初めてだ。まぁ、いつもここにいるってわけじゃないし、ここにいる時はあまり周囲のことに目を向けていないから、俺が気付いていないだけで実際にはこの周辺を頻繁に飛び回っているのかも知れないけどな」
 大野の答えを聞いた限りでは、ここで目的の蝶を見付けられたのはあくまで運が良かったからだろう。そう考えると、今回の遭遇は、千載一遇のチャンスだったかも知れない。
 その場に立ち尽くしたまま動かない佐伯の様子を前に、俺はてっきり蝶を掴まえられなかったことに愕然としていると思った。けれど、くるりとこちらへ向き直って佐伯が見せた顔に、落ち込んだ様子はない。そこには愕然した様子どころか、確かな希望の光が灯っていた。
「やっぱり、笠城は相性が良いって思ったあたしの感覚に間違いはなかったね! 今日は凄い収穫だったよ、明日からこの近辺を精力的に探し回ってみることにする」
 掴まえられなかったという思いよりも、今まで見付けることさえ適わなかった蝶を見付けることができたという思いの方が強いらしい。尤も、そこに「掴まえられなかった」という悔しさがないかと言えば、そんなことはない。フェンスから離れるまでの僅かな時間、じっと蝶が飛び去った方角を眺めていたのは諦めきれない気持ちがあったからだろう。
 ともあれ、佐伯が俺のところまで戻ってくると、大野は徐に後片付けを始めた。今日の練習はもう切り上げてしまうつもりらしい。バスケットボールを格納するためのネットをスポーツバックの中から取り出すと、その足をバスケットゴールに向けようとした。
 一度、俺に向かってバスケットボールを放って一つの場所に集めたものの、俺がパフォーマンスを要求したこととと佐伯が「自分もやってみる」と言い出したことで、再び散乱してしまったわけだ。それを解ってしまえば、どちらからともなく俺と佐伯も後片付けを手伝い始めた。
 大野の後片付けを手伝っていると、ふと自分を含めた三人が全く異なる三者三様の顔付きをしていることに気付いた。
 大野は人当たりが良いとは言えないいつものクールフェイスだったけれど、その雰囲気に強い真剣味を混ぜる。その表情の奥に、長く尾を引く思案があることは明らかだ。
 一方の佐伯はフットワークの軽快さに鼻歌を交じえる、見るからにご機嫌な調子だ。
 では俺はどうか。聞きたいことを大野と佐伯に尋ねられなかった歯痒さを、前面に押し出す納得いかない表情だろう。
 今日という日が佐伯に取って、充実した日になったことが救いだろう。
「それじゃあね」
「今日は大丈夫か? 地図が無くても帰れるな?」
「さすがに昨日野の今日だぜ? 帰れるよ!」
 片付けを終え、バスケットコートへと続く階段を上ったところで俺達は別れる。佐伯は遊木祭寮方面、俺は緑陵寮方面へ、大野は西地区方面へとそれぞれ足を向けた。そこに再会を約束するような言葉はなかったけれど、それが俺と大野との適当な付き合い方であるような気もした。
 ふと、別れた後になって、俺は大野に「どこの寮へ入っているのか?」を尋ね忘れたことに気付いた。尤も、それは知らない方が良いかもしれない。偏に距離を縮めようとしなくとも、この場所へ来ればまた再会できるだろう。
 緑陵寮へ戻ると、そろそろ夕暮れに差し掛かろうかという時間帯だった。イベント参加組はまだ戻ってきておらず、どこか閑散とした感じがあったけれど、それは騒々しさの元となる面子が揃っていないからだと思った。人数的なことを言えば、十数人が居ないに過ぎないのだ。
 その後、完全に日が落ち暗くなると群塚高校から野々原が戻ってきた。さらにその二時間後、イベント参加組が帰ってくると、俺と野々原の部屋は一気に騒々しさを増す。それは参加すると宣言していたにも関わらず、結局参加しなかったことに対してイベント参加組、もとい永旗と若薙、そしてそこに須藤と浅木を加えた面々から俺が言いたい放題に詰問ないし叱責をされるという形でだ。
 本日の淀沢村案内ツアーには若薙や村上を始めとした俺の顔見知りの大半が参加したらしい。
「参加するつもりだなんて言って、あたしを騙すなんてやってくれるじゃない?」
「永旗に騙し討ち食らわせたのは良いだろう。だが、俺まで巻き添えにしたのはちょっと気に食わねぇな」
 野々原が仲裁に入ってくれたけれど、俺の方にも言いたいことはある。
「逆に言いたいね! 酷いじゃないか、誰も呼びに来てくれなかったんだぜ」
 けれど、そのお陰で佐伯と大野と打ち解けられたのは収穫だっただろう。
 程よい疲労感に包まれながら、一日が終わる。


 コンッコンッと、控えめに部屋の扉をノックする音がした。
 今日は暑さ対策として風通しを確保するため、基本的に部屋の扉は施錠していない。扉が閉まらないよう支えを設置して、僅かに開けっ放しにしておいてあるのだ。その気になれば誰でも強引に押し入ることができる。
 訪問者がそれをやらないということで、俺は緑陵寮でも綾辻を代表とするような品のある面子の来訪か、本格的な来客があったことを意識した。ベットに横になった状態のまま、半覚醒の意識の中で周囲の様子を探ってみたけれど、そこに夜の気配はなかった。どうやら、もう朝の時間のようだ。
「お邪魔するね」
「あれ、笠城はまだ眠ってんの?」
 聞き慣れない声が一つと、聞き覚えのある声がした。いや、それは聞き間違いようがない。一つは佐伯のものだ。
 続いて、来客に対応する野々原の声が聞こえた。
「昨夜も寝付きがよくなかったみたいだからね」
「そっか、起こすと悪いし場所を変えた方が良いかな?」
 気を利かせてくれるというような話が聞こえてきて、俺は本格的に起床を意識した。確かに睡眠不足気味ではあるけれど、眠らないとどうにかなってしまうというようなレベルでもない。必須で睡眠が要求されるような状態ならばまだしも、今の眠気は惰眠を貪るためのものに等しい。野々原と佐伯に対して不便を強いるわけにもいかなかった。
 そして、来訪者の一人である佐伯は、俺の睡眠不足の原因に関わっているのだ。睡眠不足の原因は大野と佐伯が揃った昨日のバスケットコートでの一件だ。それを尋ね体と思う俺に取っても、佐伯の訪問は都合が良かった。
 徐にむくりと上半身を起こした後、俺は一応来客者を確認する。部屋に差し込む目映い太陽光に明順応が追い付かず、その姿はちらりとしか確認できない。しかしながら、そのシルエットで俺は確信する。
「……佐伯さんだよね?」
「お? 起きたね。おはよう、笠城」
 佐伯は部屋の入り口付近で野々原と話をしていた。けれど、俺の起床を確認すると有無を言わさず部屋の中まで入ってくる。もう気を利かせる必要がないと考えたのだろう。
「おはよう。ちょうど良かった。佐伯さん、昨日のことで聞きたいことがあるんだけど、後で……」
 そこまで話し始めてようやく、俺は入室してくるもう一人の客の存在に気付いた。佐伯と永旗を前にしたいつかの須藤ではないけれど、俺は目を奪われたのかも知れない。俺の言葉はそこで尻窄みに終わる。
 聞き覚えのない声は彼女のものだったろう。
 日焼けした褐色の肌が何よりも印象的だった。色を抜いた茶髪は後頭部の低い位置で一つに束ねられ、振り向く度に尻尾のように揺れて動く。肩から胸元までを露出させるキャミソールに、ニーソックスとショートパンツの組み合わせで素足の部分を強調させる出で立ちだ。
 一つだけ断っておくけれど、一目惚れしたとかそういうわけではない。単純に、その容姿に目を惹かれたのだ。下品な感じこそしないけれど、良くも悪くも彼女には扇情的な印象が残る。
「昨日のことって何? 別に後である必要がないなら、今聞くけど?」
 不意に佐伯から言葉が向いて、俺は倫堂に目を向けたまま自分が固まってしまっていたことに気付いた。慌てて佐伯に視点を移す。佐伯は首を傾げるようにして「昨日のことで聞きたいことがある」と言った俺の言葉の続きを求める形だ。
 部屋の中にいるのが気心の知れた野々原だけならばまだしも、来客がいる中で昨日の話を展開するつもりにもなれない。どこまで話が波及するかによって、それはおかしな展開へと発展することも十分あり得る。
「来客が居るなら、また今度でいいよ」
 佐伯は「来客」という単語に反応する。
「そうそう。ちょうどいいタイミングだし、笠城にも紹介しておくよ。この前、話した倫堂」
 佐伯の紹介に与って、倫堂はペコリと頭を下げて会釈する。
「ああ、遊木祭寮爆撃事件の時に綾辻さんの声真似した……」
 倫堂はその俺の言葉を綾辻の声真似をリクエストしたものと受け取ったらしい。喉元をさするとすぅと息を呑み、綾辻の声真似をして話し始めた。
「こんな時間まで眠っているなんて、笠城君は随分だらけた生活しているんだね? 少し、活を入れてあげようか?」
 俺は慌てて時計に目を向ける。
 それは目を閉じその台詞を聞いていたら「綾辻に話し掛けられている」と簡単に錯覚できるレベルだ。遊木祭寮でも聞いたけれど、俺は改めてその凄さを体感した。
 時計が示す時刻はまだ午前十時を少し回った程度だ。少なくとも「こんな時間」と冷たく言い放たれるような時刻ではない、……と思う。綾辻に言われたわけではないと頭では解っていながら、俺は胸を撫で下ろさずにはいられなかった。
「ホントに、声色だけは怖いほど似てるんですけど。まぁ、でも本物に比べたら言葉の節々に溢れる冷淡さと迫力が足りない感じかな」
 その声真似には佐伯も惜しむことなく感嘆の言葉を向ける。ただ、手放しで褒めないところは佐伯らしかった。
 ともあれ、彼女が「倫堂奈津恵」だと解って、俺の中で何よりも違和感を覚えた部分は、やはり日に焼けたその褐色の肌だった。絵描きというイメージにそぐわないと思うのは俺だけではないだろう。もちろん、それが偏見だというのも解っているけれど、どうしてもその外見からはアウトドア派の活発的な印象を受けるのだ。
 ベットの上でボーッと倫堂の姿形を眺めていると、不意に佐伯から言葉が向いた。
「今日はさ、群塚高校の美術室まで行って野々原と倫堂の絵を本格的に見せて貰おうかって話になっているんだけど、どうする? 笠城も一緒に行く?」
 せっかくの佐伯からのお誘いではあったけれど「気乗りしない」というのが俺の率直な感想だった。やはり、絵に関する話題というのが辛い。全く興味がないとは言わないまでも、一日中それに付き合わされるとなると身構えてしまう。
 結局、俺は断ることを選択した。
「……今日は遠慮しておくよ。俺がついて行っても、美術に関することでは力になんてなれないし、それどころか邪魔になったりした日には俺が居たたまれないしさ」
「そんなの、あたしだって一緒だよ? ずぶの素人なのは変わらないし。ねぇ、たまには美術を堪能するのも悪くないでしょう? というか、あれだ。つべこべ言わず一緒にきなさい」
 そうやって「自分も変わらないこと」を強調することで、佐伯は俺に参加を強く促した。促したというか、最終的には命令形にすら変化した。
 そんな佐伯の態度を前に、俺は「道連れを欲しているんだな」と思った。
 絵を専門とする二人と一緒に連れ立っていくことで、仮に話が高度な次元へ波及して佐伯がついて行けなくなった場合でも、同レベルの話し相手がいれば一人取り残されることはない。
 もしくは野々原の絵について議論を展開させたいつかの続きをやりたいようにも見えた。あの時のやりとりの中で、俺は佐伯の主張を受け入れていない。だから、リベンジと言うわけだ。
 野々原からも「邪魔になるなんてことはない」と言われたものの、今回は倫堂もいる。二人が本気で集中したい時に、俺が周囲をうろちょろするようなことがあれば、そうとは思わなくとも悪影響を及ぼすことは十分考えられる。
 そして、前哨戦と言わないばかりに、部屋の中で野々原と倫堂が水彩画の描き方についてあれこれと議論を始めてしまえば、俺はすぐに欠伸を噛み殺すようになった。コアな話題になると佐伯もついて行けないようだったけれど、その議論に耳を傾ける横顔には熱心さが灯る。少なくとも、俺とは異なり美術と向き合う確固としたスタンスがそこにある。
 改めて思った。やはり、俺は群塚高校には行かない方が良いだろう。
 今日は一日のんびり過ごせるだろうか。昨日の今日でこちらもあまり乗り気ではないけれど、最悪暇を持て余すようなら淀沢村案内ツアーの三日目に参加してみても良い。
 白熱する議論を前に、俺は大きく伸びをした。横目に捉えた淀沢村の空は晴れ間が五割に雲が五割といった具合だ。どちらかと言えば曇り空と表現した方がしっくりくるだろう。いつもよりも、今日はいくらか涼しいだろうか。




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