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Seen05 手品師とトラブルメーカーと遊木祭川の怪物(下)


 永旗が会心の一撃を放ち、遊木祭寮を後にして、既に十数分の時間が経過していた。その間、走りっ放しの状態に置かれ、さすがに息切れが休憩を要求するようになってきた。全身をびっしょりと濡らす汗が心地悪いけれど、背後にはまだ俺達を追い掛ける気配が付かず離れず存在している。
「全くしつこい連中だな。ちょっと爆撃されたぐらいで必至になって追いかけ回すなんて、カルシウムが足りてないんじゃないのかね」
 良くもまぁ、そんな言葉が口を付いて出るものだと思った。尤も、余計なことを口走るとすぐに長距離走に必要となる酸素が足りなくなるため、俺はそこに口を挟むことはしない。既にいい感じの疲労が襲ってきているのに、敢えてそれを度合いの酷いものへ変えるつもりはない。まして、これからどれだけ走り続けなければならないかも解らない状態だ。
 ふと気付けば、ついさっきまで等間隔で設置されていた街灯が疎らになり始めていた。俺は大通りを外れた場所に入り込んだことを理解する。
 そうこう言っているうちに、走り抜ける風景の中に電気の灯っていない民家が数件続いた。そこからは人の気配というものを感じる取ることができない。即ち、それは寝静まっているというよりも、そもそも人が長年住んでいない独特の感じを放っていた。
 あくまで夜の暗闇の中、ちらりとそれを横目に眺めただけだ。だから、そこが荒ら屋だったのか、きちんとした佇まいを残した状態だったのかは解らない。けれど、言葉では言い表せない寂れた感じがそこを支配していた。俺は淀沢村の別の一面を垣間見たのだろう。このまま進むと、まだまだそういった地域に入り込むのかも知れない。そこに苦手意識が生まれるけれど、なにせ方向転換を考える余裕など俺にはなかった。
 そうして一本道をひたすら走っていると、不意にY字路が現れる。
 そこへ差し掛かった時、俺達は期せずして二手に分かれることになった。それはあまり距離を置かずに団子になって走っていたことと、先導者が曖昧だったせいだ。列の先頭を走っていたのは俺と若薙で、ちょうど併走する形でY字路へと差し掛かった格好だった。結果として、それぞれが別方向へと進路を定めたのだ。
「まずった!」
 次の瞬間、通りには若薙の声が響き渡る。
 その分岐点から分かれる道は双方完全に別方向へと進む道だ。道と道との間には石垣が存在していて、合流を考えるならどちらかが引き返し、もう一方の後を追うしかない。
 咄嗟に「引き返そう」という考えが脳裏を過ぎるけど、背後には付かず離れず後を追ってくる気配がある。躊躇えば躊躇うほど、引き返した時のリスクが高くなることを頭では理解しているものの、俺は即断できない。
 分岐に差し掛かって俺の後を付いてきたのは野々原と佐伯で、他の面子はもう一方の道へと進んだ。佐伯や野々原に今後の対応を相談しようと、俺は走る速度を緩める。そんな俺の行動を察したわけではないだろうけど、若薙から俺達へと向けて投げ掛けられた言葉は「引き返すな」という内容だった。
「そっちに合流できるようなら合流を試みる。だから、今はそのまま行け! いいか、間違っても捕まるなよ!」
「解った!」
 若薙に負けじと声を張り上げそれだけを言い返すと、俺は再び速度を上げてひたすら逃げる。
 そうは言っても、分岐点に差し掛かった時点で俺は既に自分が淀沢村のどの辺りを逃げ回っているのか解らなくなっていた。それだけならばまだしも、既に緑陵寮がどの方角にあるのかも解らない状況だ。佐伯や野々原からは進行方向に対する指摘は何もない。
 そういう理由で、俺は「緑陵寮に近付いているんだ」と自分自身を言い聞かせ、突き進んでいるわけだった。
 しかしながら、周囲の景色は一向に見覚えのあるものに切り替わらない。しかも、景色が切り替わらずに田圃や平地を延々と走り続けているのならまだしも、それは次第次第に起伏のある風景に取って代わった。あの分岐路で俺達は山側へと続く道へと進んでしまったらしい。
 俺が自分自身を言い聞かせ続けるのも、そろそろ限界だった。
 俺は佐伯や野々原さえその気になれば、いつでも抜き去ることのできるスピードまで減速をする。それには「先頭を譲る」という意図があったのだけど、佐伯も野々原も俺と併走する形で先頭に立とうとはしなかった。
 佐伯にしても野々原にしても、俺が的確な逃走経路を先導していると思っているのだろう。
「なに? もうバテてきた?」
 そう俺へと尋ねる佐伯の視線の先には野々原が映る。横目に捉えた野々原はかなり苦しそうな表情をしていて、その「バテる」の矛先が俺だけに向いたものではないことを理解した。
「佐伯さん、ちょっと頼みごとがあるんだけど、……いいかな?」
 そんな野々原の状況を確認したからだろう。俺の頼みごとという台詞に、佐伯はすぐさま念押しした。
「休みたいだなんて言う頼みごとなら、言うだけ無駄だけど?」
 野々原がビクッと体を震わせる。そろそろ弱音が口を付いて出そうな頃だったのだろう。
 尤も、それは確かに佐伯の言う通りで、例え野々原が苦悶の声を上げたとしても首を縦に振ることはないだろう。
 佐伯と村上、若薙のやりとりを聞いていた限り、それは今後の淀沢村での生活を考えた上で選んではならない選択肢の一つだ。それこそ一夏という期間を一区切りに見た場合、それはバッドエンドへと続く選択肢に他ならない。
「いや、確かにそれもそろそろ頭の片隅にはおいておかないといけないとは思うんだけど」
 そこで一旦言葉を区切ってしまうと、俺はそれをここで言うべきかどうかを今になって迷い始めた。
 そんな俺の言動を訝しく思ったのだろう。佐伯は鋭い目付きで、言い淀んだその先に続く言葉を要求する。
 俺はコクンッと唾を飲む。若薙とはぐれた以上、俺は全てを運に任せて闇雲に走っているに過ぎない。
 この先は行き止まりかも知れないし、あり得ないとは思うけれど環状線のようにグルグルループする仕組みになっていて遊木祭寮前へと続いているかも知れない。全てを白状した方が良いだろう。こういうものは後になればなるほど、事態が悪化するのが定例だ。
「……それ以前に問題があってさ。はは、その、道に迷ってるんだけど、どうしよう?」
 全てを真顔で白状すると悲壮感が漂う気がして無理に笑って見るけれど、所詮それは空笑いに過ぎない。そして、あろうことか、その空笑いが俺の言動に軽薄さを印象づけたらしく、佐伯の雷が落ちた。
「そういうことは先に言いなさいよ!」
 怒りに身を任せて声を張り上げた後、佐伯は「しまった」という表情をして押し黙る。それは追っ手に俺達の位置を教えたに等しい。
 そうは言っても、俺に佐伯を非難できる権限はなかった。その憤怒の声を引き出したのは他でもない、この俺だ。
 唯一、救いだったのは分岐点を境として、俺達を追う気配の数が減り、距離的にもかなり遠離っていたことだろうか。
「こっち!」
 佐伯は俺を抜いて先頭に躍り出る。そして、パンッと音を立てて引ったくるかのように力強く俺の手を握り取ると、道路の中心を大きく外れる方へと誘導する。お世辞にも走り易いとは言えない道路のギリギリ右端へと寄った形だ。
 そこは街灯が疎らになって明かりの絶対量が減った所為か、道路と路外との輪郭が曖昧だった。特に路外は土が剥き出しになっており、あちこち凸凹があって足を取られる。自然と視線はその境界線を捉えようと足下へと向いていた。
 立て続けに佐伯が声を上げたのはそうやって俺が視線を足下へと向けた矢先のことだ。それは前置きだった。
「次の脇道に入るからね」
 そんな佐伯の宣言に頷くこともままならないまま、その脇道は突然姿を現した。
 それは例え地元民であってもそう多くの人が知っているとは思えないほどの道だった。人によっては自分の身の丈よりも背丈のある雑草が生い茂ってるのだ。そして、何よりも立地条件が脇道の存在を解り難くしていた。見落とさないよう注意深く探していたとしても、そこに脇道があることを知っていなければ簡単には気付けないだろう。
 佐伯を先頭にしてその脇道へと逸れると、緩やかな下り坂が姿を現した。そして、坂を下り終えた先には二メートルぐらいの高さを持つ見慣れた緑色のフェンスがある。傍目には「行き止まり」と思えたけれど、佐伯はそのフェンスへと向かって走る進行速度を緩めなかった。
 俺や野々原が若干速度を緩めて佐伯の動向を窺う中、先導をする佐伯は迷うことなくフェンスに沿って続く道へと進んだ。フェンスに沿って街灯が点在している様子を遠目に窺うことはできたけれど、まさかフェンスに沿う形で道があるとは思いもしなかった。
 下り坂からフェンスに突き当たる部分には周囲を照らす明かりはない。夜間に始めてここを訪れた人が、その道を発見できる可能性は極めて低いだろう。
 佐伯は何度もこの道を通ったことがあるのだろうか。
「どうしてこんな道を知っているんだろう?」
 そんな疑問はあったものの、逃走中という状況にあっては佐伯の土地勘は非常に心強かった。
 佐伯の後を追って、フェンスに沿って移動する。そこは舗装が為されていない畦道みたいな感じだった。
 そして、本当に人が行き来することを想定して作られた道であるかどうか疑いたくなるほどに、通行者が圧迫感を受ける場所だった。両脇には雑草が生い茂り、それは俺の身長よりも若干低いか同程度という背丈があるのだ。加えて、道幅そのものが狭いということがその圧迫感を顕著にしていただろうか。
 尤も、圧迫感を受けること以外には、特筆するものもない道だった。立地条件的な薄暗さはあるものの、移動に支障を来すほどでもない。疎らにではあるものの、そこにはきちんと街灯が点在している形なのだ。
 言い得て妙ではあるけれど、それはまさに迷路そのものだと思った。野々原の様子を窺うために背後を振り返ったところで、その意識はより一層強くなる。
 俺の認識の中では、佐伯の後を追ってずっとまっすぐな雑草の中の道を進んでいるつもりだったのだ。けれど、実際には雑草の中の道は僅かにカーブを描いていたらしく、今来た道の全てを確認することができない形だ。その事実は俺に自身の方向感覚を疑わせる。俺から見て常に右手に存在するフェンスの存在がなければ、ふと立ち止まって状況を確認した時、どちらへ向かって進んでいたのかが解らなくなりそうとまで言ってしまうと言い過ぎだったろうか。
「こんな場所、一人で来たら延々と迷い続けるかも知れないな」
 ぼそりとそんな寸感を口にすると、不意に空恐ろしさがやってきた。佐伯に置いて行かれた日には、その懸念が実現するかも知れない。俺は首を左右に振ってそんな考えを振り払うと、佐伯の後を追うことに専念した。
 途中、フェンスが途切れてこの畦道を横切る形で交差する道が二本出現するけれど、佐伯はそれに見向きもしない。どうやら、目的地は決まっているらしい。
 雑草の中の道をひたすら進んで丁字路へと突き当たると、そこでようやく佐伯は右へと曲がった。丁字路通過後、道幅が若干広がったかと思うと畦道はあっという間に砂利道へと姿を変えた。そして、眼前に姿を現したものは年代を感じさせる古いトンネルだった。尤も、その見かけの古臭さに騙されると、しっかりと整備の行き届いた状態にビックリさせられる。トンネル内部はアスファルトによる舗装が為されていて、白色の光を放つ電灯までがきちんと設置されていた。
 トンネルへと差し掛かると、佐伯はようやく走る速度を緩めた。
 目的地はこのトンネルだったのだろう。
「脇道までは見つけられるかも知れない。でも、フェンスに沿って走り回って、ここまで辿り着くのは簡単にはいかないはず。まぁ、後は追っ手にここを知っている奴が居ないことを願うばかりだね」
 ここが身を隠す場所として最適かどうかを、俺は判断できない。土地勘を持つ佐伯を信じるしかないのが現状だ。尤も、佐伯は言葉の節々に自信を覗かせていたので、余程のことがない限りは大丈夫だろう。
 農道の下に設けられたその古いトンネルに身を隠し、俺は息を潜めつつ外の様子を窺った。
 どうやら、このトンネルはその上を走る農道を横切るためだけに存在しているものらしかった。
 トンネルは軽自動車でも通行が難しいと思える程度の高さと幅しかなく、入り口から反対側までの全長も五メートルに満たない程度だ。反対側に広がる風景も、たった今俺達が走り回ってきたものと大差ない。正直、どれだけの人がこのトンネルを利用するのかは解らないけれど、淀沢村の原住民でさえ知る人ぞのみ知る場所だと思った。
 周囲に広がる平原からは虫の鳴き声以外に拾い上げることのできる音は存在しない。トンネルの真上に位置する農道へと近付いてくる足音もなければ、誰かの話し声も聞こえなかった。
 息を潜めて十数分が経過しようかという頃、俺は誰に尋ねるでもなく口を切った。
「さすがに諦めたかな?」
 そう結論付けてしまうのは早急すぎる気がしたけれど、そんな楽観で一息ついてしまいたいのが本音だ。
 てっきり佐伯がその楽観を否定するかと思ったけれど、佐伯も俺の見解に同調した。
「さすがに、諦めたんじゃない?」
 それを聞いた瞬間、ドッと疲労が襲ってきた。緊張が解けたのだろう。
 俺はトンネルの壁にもたれ掛かるとそのままずるずると脱力していってペタンとその場に尻を付いた。
「良かった、……逃げ切れて本当に良かった。後は緑陵寮に戻るだけだな。ここで軽く休憩取ったら出発しようか」
 休憩を取るという言葉は俺自身がそれを求めたということもあったけど、何より野々原を気遣って口にした言葉だ。そして、野々原の様子を確認しようとした俺は、トンネルの側壁に手を突き周囲の景色を熱心に眺める野々原の姿を捉える。てっきり、俺みたいにその場に座り込むなりして疲労回復の真っ最中だと思った。けれど、そこには逃げ回っていた時の死にそうな表情など見る影もない。野々原の目は少年がお宝を発見したかの如くキラキラと輝いていた。
 そこに何か特別なものがあるのだろうか?
 不思議に思った俺は、野々原の視線の先へと同じように目を向けてみた。しかしながら、そこに目を輝かせるような特別な何かを見つけることはできなかった。目を凝らせば凝らすほど、俺の眉間には皺が寄った。
 一言でいってしまえば、それは「感性の違い」という奴かも知れない。特別意識したことはない。けれど、改めて自分を客観視してみると、確かに俺はあまり感動することのないタイプだと言ってもいいだろう。
 野々原には見ることのできる「特別な何か」を見つけようと躍起になる俺の様子を余所に、野々原の口からぽつりと言葉が漏れた。強いて言えば、それは佐伯へと向けられた言葉だっただろうか。
「よく、こんな場所を知っているね」
 そして、それは同時に野々原自身へと向けたもののように、俺には聞こえた。
 こういう光景が存在することを発見できなかったことについて、自分自身を責める言葉のよう。そう聞こえたのだ。
 佐伯にはどう聞こえただろう?
 尤も、それを確認する術はない。佐伯にそれを尋ねるタイミングは逸してしまっていたし、野々原当人を前にしてそれを確認するほど重要なことでもない。得意気な顔を佐伯が野々原へとして切り返してしまえば、それは確定的だった。
「淀沢村に来てからこっち、無駄にあっちこっちと散策してるからね」
 しかしながら、眼前に広がる光景を「特別なもの」だと思わなかったのは佐伯も同じようだ。野々原の顔付きと、その視線の先の風景とを交互に確認すると、その眉間には皺が寄った。
「……気になるものでもあった?」
「そうだね、新鮮な感覚と、言えばいいかな」
 野々原は腕組みをして小難しい顔を間に挟んだ後、ばつが悪そうに笑いながら答える。それは野々原の「上手い言葉を見つけられないもどかしさ」を余すことなく体現した挙動だっただろう。
「今回は、……あの騒動を含めて、僕は若薙君に感謝する必要があるかも知れない。もちろん、笠城君と佐伯さんにもね。僕一人ではきっと、ここに辿り着けなかった」
 ここからでは、佐伯に対峙する野々原の表情を窺うことはできない。けれど、佐伯の質問に答えたその声の調子から、大凡は推測できた。野々原はきっと、いい顔をしていただろう。淀沢村で野々原が探す「そこにしかないもの」のきっかけを掴んだのかも知れない。
「目の前にあるものはただの平原というよりも、濃緑の大海原のようだと思わないか? 寄せては返る小波の音はないけれど、ここには代わりに止むことなく鳴り響く虫の音の大合唱もある。点在する街灯とその周囲をポツンと照らす明かりはまるで、この大海原で漁をするために設置された誘魚灯のよう。……僕もそれなりに淀沢村を歩き回ったつもりだったけど、そうか、まだまだこんな場所があるんだな」
 トンネルの入り口に立つ野々原は、夜の平原の中に点々と立つ街灯の世界を余すことなく堪能しているようだった。顎をさする手は絵筆を求めているかのようで、真剣ささえ滲むその瞳は眼前にある光景を記憶に模写しているかのようだ。
 眼前に広がる光景を「そうそう見ることの適わないもの」と認識することぐらいは、俺にもできる。けれど、それを素晴らしいものと捉えるかどうかはやはり、人それぞれなのだろう。
 それらは確かに幻想的な雰囲気を放ち、どこか普通じゃない世界に足を踏み入れたような錯覚を感じさせる風景だ。
 野々原の言葉を聞いて、俺もそれまで以上にはその光景を「幻想的だ」と感じるようにはなった。しかしながら、それを野々原と同等の高いレベルで感じているかと言えば、その答えは「いいえ」となるだろう。
「また、上手いこと言うね」
 平原を大海原に例えた言葉に、佐伯は感嘆を口にする。
 野々原は少し照れたような仕草を間に挟み、平原の先へと続く道を指差して佐伯に尋ねた。
「この先にある道がどこに続いているのか、佐伯さんは知っているの?」
「この道は裏野浦(うらのうら)サイクリングロードに出る道なんだよね。ひたすらまっすぐ行くと、途中で合流しちゃうんだ。道自体は途中でいくつか分岐するんだけど、なんとその内の一つは谷交堂神社の境内に続いてる」
 佐伯がさも「有名な施設です」という紹介の仕方をするので、俺は気になって聞き返していた。
「谷交堂神社?」
 俺の記憶が正しければ、それは淀沢村案内ツアーの一日目の中に記載のあった場所だ。俺がイベントから離脱していなければ、訪れたはずだ。尤も、それは俺に取って心をときめかせる響きを持った場所ではない。
 どうこう言ったところで、ただの神社だろう?
 そんな考えが俺にはある。
 佐伯は思案顔を見せた後、こう提案した。
「行ってみる? ナイトウォーカーズが集まる場所の一つだよ」
 恐らく「はい」と言ったら、佐伯は嫌な顔一つ見せずにそこへ案内しただろう。少なくとも、俺に行くかどうかを尋ねた時点で、佐伯の気持ちは行く方向性で固まっていたはずだ。
 佐伯の能動的な態度を前に俺は首を縦に振り掛けるけれど、そこに苦言を口にしたのは野々原だった。
「今日は追われている身だよ、迂闊な行動はしない方が良い。谷交堂神社なんて場所に遊木祭寮の追っ手は居ないと思うけど、まかり間違って鉢合わせになったらどうするの? 今日じゃなくたっていいんだ、また別の機会にしよう」
 それは俺と佐伯を、現実へと引き戻してくれる。俺達は確かに追われている身であり、若薙達と途中ではぐれた状態だ。だから、今やるべき最優先事項は緑陵寮へと戻ることだ。もしも、若薙達が先に戻っているなら、俺達が帰来しないことで心配させてしまうだろう。
「野々原の言う通りだね、谷交堂神社は次の機会に回しますか。それじゃあ、そろそろ遊木祭の近隣を迂回するルートで緑陵まで行こうか?」
 佐伯・野々原に先導して貰う形で、俺は緑陵寮を目指した。土地勘を持つ佐伯の道案内があったお陰か、遮二無二走り回り、且つ遊木祭寮を迂回した割には、そんなに多くの時間を使わず、俺達は緑陵寮まで無事戻ることができた。
 寝静まった緑陵寮がそこにはあった。馬原や綾辻が玄関先で仁王立ちしているなんてこともない。俺達以外の誰かが逃亡に失敗していた場合、静寂が緑陵寮を包み込んでいるなんてことはあり得ないので、今のところは全てが上手くいったことを俺は意識した。
「若薙達もきっと無事逃げ延びたんだな」
 そんな思考が脳裏を過ぎてしまえば、ふっと肩の力が抜けてしまった。緑陵寮の玄関を潜り、後ろ手に扉を閉めてしまえば、自然と安堵の息が付いて出たりした。あちらこちらを走り回った疲労が途端に身体をずっしりと襲ったりもしたけれど、俺は「後はこれが最後の難関」と気合いを入れ直して、緑陵寮の廊下へと臨んだ。
 寝静まった緑陵寮は廊下を進む時の軋む音さえかなりの音に聞こえる程だった。忍び足で廊下を進み、自室に入って後ろ手に扉を閉めると、何とも言えない達成感に満たされた。
「到着だな」
「うん、到着したね」
「はー……、本当に逃げ切ったんだな」
「ああ、無事逃げ切ったね」
 最初は惚けた顔をしてぽつりと呟き出したに過ぎない言葉だった。けれど、それがじわりじわりと現実感を帯びれば、後はあっという間だった。ぐっと拳を高く天井に向け掲げ挙げ、俺は体を震わせた。
「やった! やったぜ!」
 尤も、遊木祭寮の寮生にえらい迷惑を掛けたわけで、決して素直に喜びを味わって良いことではないだろう。けれど、今だけは反省も後悔も何もかも捨て去ってその達成感に浸っていたかった。
 ともあれ、追われる側の恐怖というのを、俺は今日一日で存分に味わった気がした。
 そんな状況から俺と野々原を現実へと引き戻してくれたのが佐伯だ。
 ただ一人、佐伯だけは心穏やかではないという様子で、声を荒げてこう怒りを露わにしたのだ。
「さーてと、それじゃあ、若薙の奴をどうしてくれようかな!」
 俺は思わず佐伯の口を塞いだ。唇に人差し指を当て、俺は佐伯に怒りの感情を抑えるよう要求する。
「ここで大きな声は出さないでくれよ、な? クールダウン、クールダウン!」
 下手をすると、その足で若薙達の帰来を確認しに行きそうな雰囲気を佐伯は醸し出していた。いや、それは確認に行くなんて表現で済むレベルではない。殴り込みに行く雰囲気といっても過言ではなかったかも知れない。
 ちなみに、この部屋に佐伯を匿えるような場所はない。
 今、大声を不審に思った馬原なんかが部屋を尋ねてきたら、それこそ言い訳なんてしようがない状態だ。
 当の佐伯もここで向こう見ずな行動をした場合、それが自分に跳ね返ってくることを理解はしてくれているようだ。すぅと息を呑んで深呼吸すると、その不満顔も徐々に平静さを取り戻していった。
「あーあ、せっかく良い感じに涼んでたのに、汗でびっしょり。そうは言っても、下は水着なんだけどね」
 改めて佐伯の格好を見ると、かなり際どい格好をしていることが解る。装飾・露出の少ないセパレートタイプの水着に大きめの半袖パーカーを羽織っただけの格好だ。膝上数十センチのミニスカートどころの話じゃない。佐伯が動く度に健康的な小尻が見え隠れする。
 ここが海水浴場だとか、プールサイドだとかいうならその格好に違和感を感じることはないだろう。けれど、ここは寮の私室で、仮にも俺と野々原が日常的に寝起きしている場所である。まだ数日しかここで寝泊まりしていないとはいえ、俺は何とも言えない感覚を味わった。黙っていると、この場の雰囲気までその何とも言えない感覚に呑まれてしまいそうな気がしる。
 俺は溜まらず口を切った。
「あー……、佐伯さんはどうして俺達のところに?」
 そう尋ねてしまってから、俺は自分の言葉の端に漂ってしまった隠すべき感情に顔を顰める。
 正直なところ、話の内容なんて何も考えていなかった。尤も、それは「だからこそ」漂ってしまったのだろう。
 それは「今日はもう解散したい」という結論へ露骨に繋がるものではないながら、表面的な部分で佐伯を「最後の心配事」と匂わせたものだった。そして、それは厄介なことに否定しようのない本音である。当然、是が非でも「その心配事をさっさと取り除いてしまいたい」なんてことを思っているわけではない。あくまで「可能ならば」という希望である。
 思案顔を見せる佐伯に、俺のその希望を察した様子がなかったことは救いだっただろう。
「二手に分かれた時に偶然こっちについて来ちゃったってのが最大の理由かな。特別何か意図があってこっちに来たわけじゃないよ。でも、笠城の方について来て良かったと思ってる。なにせ正義馬鹿とは馬が合わないし、あのまま若薙と顔を付き合わせていたら、まず間違いなく口喧嘩に発展していただろうしね。あたしが向こうに行ってたら、今頃捕まってたかもね? そしたらロケット花火爆撃事件の犯人全員芋蔓式だ」
 部屋に入室した直後の佐伯の言動から察するに、若薙の方へと佐伯がついていった場合、口喧嘩は間違いなかっただろう。そして「捕まっていたかも」といった推測も、十中八九その通りになったと思えた。
 そう考えると、途中で若薙達と別れたことを始め、俺達の側に佐伯がついてきたことも最良の展開だったのかも知れない。それこそ、若薙や村上との仲違いを原因とした連携の悪さで遊木祭寮の追っ手に捕まり、後は芋蔓方式なんてことも十二分にあり得る話だ。
「色々想像してみたけど、……佐伯さんがこっちについてきて本当に良かったと思う」
「そう思うでしょ?」
 佐伯は同意を求めるように笑って見せたけど、俺の表情はどう頑張っても苦笑いにしかならなかった。結果オーライだったとはいえ、それが綱渡りだと解ってしまった後ではそれも仕方ないだろう。
 一頻り苦笑いの表情で相槌を打った後、俺は溜息を吐いた。そもそも、一連の逃走劇に対して今更「もしも」の話をしたかったわけではないのだ。佐伯に向けた質問はその手の答えを求めたものではない。
 俺はすぅっと息を呑むと、一歩踏み込んだ質問をする。
「佐伯さん、遊木祭寮の寮生だろ? こんな時間にここに居たらまずかったりするんじゃないか?」
 佐伯は俺の指摘に対して、すぐに「問題ない」と笑って見せる。
「そこんとこは心配してないよ。きっこちゃん。ああ、あたしのルームメイトなんだけど、一度眠りに付くと簡単に目を覚ますタイプじゃないんだ。超低血圧で朝も弱いしね。もしも、朝起きてあたしが部屋にいなくても、自分が寝てる間にさっさと起きて出掛けちゃったんだって思うはずだよ」
 俺は固まる。それはどう聞いても、今夜の内に遊木祭寮へと戻る気なんてないように聞こえる内容だったからだ。
「ごめん、……もしかして、朝までここに居るつもりなのか?」
「笠城と野々原さえオーケーなら、あたしはそうするつもりだけど、何か問題ある?」
 さも当然という口調で返されて、俺は当惑した。
「朝までここにいるって、眠るにしてもベッドは二つしかないしさ、その……」
「さっきから遠回しに「ここから出ていって欲しい」って言ってる? 自分達が安全地帯まで逃げ帰ってこられたら、後は「ここに居られると何かと厄介なあたしを追い出しちゃえば万事解決!」みたいな感じ?」
 佐伯にジト目で睨まれ、俺は慌てて否定した。
「そんなつもりはないけどさ!」
 その否定の言葉に嘘はない。だからといって、全て本当でもないところが厄介だった。
「あはは、冗談だよ、冗談。何だかんだ言って、笠城と野々原、一番常識人っぽいしね。まさかまさか、そんな酷いことを言ったりはしないよね?」
 佐伯は念を押すようかのに、俺へ聞き直す。それは全てを理解した上で発言している言い回しだ。だから、佐伯自身が冗談といって茶化してしまったけれど、そこで俺が「いいえ」と答えようものなら修羅場が待っているかも知れない。
 もちろん、今の俺と野々原があるのは佐伯のお陰だし、そもそもそんな言葉を面と向かっていう度胸はない。
「遊木祭寮周辺の喧噪が落ち着くまでは匿ってよ。「ベットを貸しなさい」なんてわがまま放題言い出すつもりはないから大丈夫。まぁ「ぜひあたしに俺のベットで眠って欲しいんだ!」っていうならあたしもやぶさかではないし、あたしもすっごく嬉しく思うけどね」
 すうっと前屈み気味に体勢を取ると、佐伯は俺の顔を上目遣いに覗き込んだ。
 緑陵寮まで案内して貰った手前「佐伯のお願いを無下に断ることはできない」という意識が頭にある。遊木祭寮の追っ手を撒けたのは佐伯の土地勘があったからだし、今回佐伯には感謝しきれないぐらいにお世話になった。そんな意識があるところに加えて、佐伯のその態度だ。俺は対応を躊躇って固まった。
 思わず首を縦に振ってしまいそうになってどうにか踏み止まる俺に、佐伯は悪戯っ子のような笑みを見せた。
「冗談だって」
 にゅっと伸ばした人差し指で固まる俺の頬を突くと、佐伯はふいっと俺から離れる。それ以上佐伯がベットで眠ることについて執着することはなかった。
 ともあれ、俺がそこで安堵の息を吐いたことは言うまでもない。
 佐伯はキョロキョロと部屋の中を見渡すと、ちょうど荷物の置かれていなかった部屋の隅を指差した。
「タオルケットと予備の枕を貸して貰えれば、その辺で丸くなって眠るから気にしないでいいよ」
 俺は返す言葉を見付けられなくて、ルームメイトである野々原の様子を窺った。
 けれど、佐伯を匿うことに野々原は肯定的だった。その目で「別に問題ないんじゃないか」と俺に言う。
 俺は腕組みをして唸ることになった。佐伯を匿うということの危険性を、どうしても軽視できなかったのだ。
 なにせ、この部屋は誰が断りなく入室してくるかも解らない場所である。
 俺は綾辻から渡された小冊子を小物置きから拾い上げると、そこに羅列された寮則群へと目を落とした。パラパラと捲りながら中身を確認していくけれど、そこに「他の寮の寮生を無許可で宿泊させた場合」なんて具体例が記載されているはずもなかった。
 そして、その俺の行為を目の当たりにした佐伯は良い顔をしない。それは結果的に、佐伯をここから追い出す理由を探しているのに等しいのだから、当然かも知れない。
「もう一回聞くよ、あたしをここから追い出したい理由でもある?」
 ジロリと佐伯に凄まれて、俺は胸中を包み隠さず吐き出した。
「……決して追い出したいわけじゃない、それは誓うよ。ただ、緑陵寮に泊まるなら、せめてここじゃなくて上の女子の階層へ行って欲しい。この部屋はこう見えて割と訪問者のある部屋なんだ。だから、朝方誰か断りもなく入ってきて、佐伯さんが部屋の隅で毛布にくるまって眠っているのを見られたら、大変なことになると思う」
 佐伯は大きく息を吐くと、それが難しいことをあっけらかんと答えた。
「緑陵寮に知り合いいないよ、あたし」
 俺は項垂れる。
 そんな俺の様子を前に、佐伯は思案顔を覗かせて、もう一度心当たりを探してくれているようだった。
「戻ってきてない可能性が高いけど、……永旗さんとか? 永旗さんのルームメイトにどう説明するかっていう問題もあるし、何より若薙と顔を合わせるのとそう変わらない事態になると思うけど、それでも良い?」
 佐伯の口から出た名前に、俺は無言で首を左右に振った。あり得ない選択肢だ。結果は火を見るよりも明らかだ。加えて、佐伯にも自重する気なんてないように見える。
 俺の脳裏を過ぎる都合の良い相手は、仁村と浅木だった。
「俺の知り合いに仁村っていうのが居るんだ。ルームメイトの浅木さんも話を通し易い子だから、事情を話してお願いするとか、手はいくらでも……」
「それは止めた方が良いと思う。事情を話すって、どこまで? 浅木さんや仁村さんを信用しないわけじゃないけど、どこからどんな風に話が漏れるかは解らないよ?」
 俺の提案を言下の内に遮ったのは野々原だった。
 その指摘は「自分達の身を危うくする危険性の拡散は防ぐべき」という観点からなっている。
「……」
 俺は押し黙る。
 佐伯を部屋に泊めるということを口止めしたとしても、そこに実行力はない。もちろん、浅木や仁村が進んで触れ回るとは思わない。けれど、何気ない会話からポロリと遊木祭寮襲撃のヒントを誰かに与えてしまう可能性は十分考えられた。
「それに、実際誰かが断りもなく部屋に入ってきたとしても、なるようになると思うよ。確かにそれが綾辻副寮長なんかだと洒落にならないだろうけど、馬原寮長レベルならどうにかなる」
 加えて、俺の危惧している事態についても「なるようになる」と野々原が太鼓判を押せば、俺はその見解を信じるしかなかった。俺は「うーん」と唸り声を上げながらも、渋々了解をする。
 そんな俺の様子を横目に見ながら、佐伯は「緑陵寮に一晩泊まることについて」へと話題を切り替えた。
「ところで、何か着替えを貸してくれない? 後、バスタオルも欲しい。いくら熱帯夜だからって言ったって、いつまでも水着に上着を羽織るだけっていう格好もあれでしょう?」
 その頼み事は俺と野々原の両方へと向けられたものだ。「あたしに貸せる服を二人の私服の中から適当に選んで」という感じだ。俺は野々原と顔を見合わせた後、佐伯の要求に「尤もだ」と頷いた。
「ああ、うん、ちょっと待って……」
 しかしながら、そこまで言い掛けて、俺は緑陵寮に自分の私物がないことを改めて気付かれる。昨日の今日で下着や靴を新調したばかりの俺に、佐伯に貸し出せるだけの着替えなどあるわけはなかった。
 必然的に、その佐伯の要求に応えるのは野々原となる。
 俺が口を開くよりも早く野々原は状況を理解した様子だった。部屋の隅に置かれたボストンバックへと足を向けると、チャックを開けて適当に服を取り出し物色を始める。佐伯の着用に耐え得るものを適当に見繕っているのだろう。
 しかしながら、小難しい顔を合間に挟んだ野々原は、最終的にボストンバックを佐伯の前に置くと両手を広げて見せた。つまりは「好きなものをどうぞ」と、ジェスチャーで回答したわけだ。野々原と佐伯の体格的な差は、服のサイズにそのまま影響し、そこに男物と女物の作りの違いが加わって、選ぶに選べなかったのだろう。
 佐伯は促されるままボストンバックの中身を覗き込むと、ひょいひょいと服を拾い上げていく。
「これと、これを貸して貰って、……後はそうだな、この新品の下着をあたしに譲ってくれれば最善かな」
 佐伯の手には値札が貼られ袋に入ったままのトランクスがあった。そうやって一通りを見繕うと、佐伯は野々原の顔色を遠慮がちに窺った。
「問題ない?」
「このバックの中にあるものであれば、どれでもいいよ。その手の奴も含めてね」
「ごめん、ありがと」
 佐伯は見繕った服を手に取ると、バスタオルを肩へと掛けた。てっきり、そのまま風呂場の脱衣所にでも行って着替えてくるのかと俺は思った。けれど、佐伯は部屋の隅まで行くと、その足を止める。そうして、そこで何をするかと思えば、佐伯は羽織ったパーカーのジッパーへと手を掛けたのだ。
 俺は思わず佐伯の挙動に釘付けになった。
 もちろん、露骨な視線はすぐに佐伯に気付かれる。
 俺は慌てて視線を外すけれど「佐伯をどんな目で見たか」を、その当事者ならばすぐに理解できただろう。俺のその行為はほぼ無意識のうちにやってしまったことで、若さ故の過ちといっていい。ともあれ、嫌な感覚のする汗が背中を濡らしたことは言うまでもない。
 ジロリと怖い目付きで睨まれると思った。もしくは「これだから男って奴は」という言葉が付随した、呆れた目付きで見られるかと思った。けれど、佐伯からは突き刺さるような鋭い視線もなければ、蔑むような冷たい視線もない。
「着替えるから、ちょっとそっち向いててくれる?」
 佐伯に言われるまま、俺と野々村は部屋の入り口とは反対方向へと目を向けた。
 本当に、この状況で着替えるのか?
 そんな疑問が脳裏を過ぎるけれど、今更佐伯に向かって何か話し掛けられるような雰囲気でもない。そして、静まり返った部屋に衣擦れの音が響き渡れば、俺の心拍数は跳ね上がる。
 一目だけでも、その様子を盗み見てしまおうか?
 不埒な劣情が首をもたげ掛けるけれど、俺達へと向ける警戒心が佐伯にないわけではない。そこには何とも表現しようのない気まずい空気が漂った。堪らず、俺は同じように佐伯へ背を向ける野々原の様子を横目に窺った。
 野々原は頬杖を突く格好で、一人小難しい顔をしていた。その様子を見る限りでは、佐伯が後ろで着替えをしているなんてことなど眼中にないようだ。きっとその目は、あの緑色の大海原でも思い出しているのだろう。
 何だ、こいつ、聖人君子か!
 今だけは俺も野々原にそんな悪態を吐くことができただろう。
 どんどんと俺の中でその存在感を増す不埒な劣情を、どうにか押し止めようと自分自身を相手に壮絶な格闘を繰り広げていた矢先のこと。不意に「コンッコンッ」と部屋の扉がノックされた。
「!!!!!!」
 佐伯が声にならない声を上げる。それはどうにか大声を出すという反応を、理性によって無理矢理押し止めた結果だったろう。本当ならば、大声を出してしまっていても何もおかしくはない状況だ。「よく持ちこたえた」と佐伯を褒めるべき状況だろう。
 しかしながら、追い打ちを掛けるかの如く深夜の訪問者はこちらの返事を待たずにドアノブを捻る。今まさに着替え真っ最中の佐伯がいるだなんて思いもしないから、それも仕方ないとは言えないか。
 そんな深夜の訪問者達は律儀に名前を名乗りながら、入室してきた。
「俺だ。村上だ。……失礼させて貰うぞ?」
「下部です、こんばんわ」
 次の瞬間、部屋の空気が変わった。それは緊迫というよりかは寧ろ混乱と呼んだ方が適当だろう。
「ッ! 村上先輩、見ちゃ駄目!」
 下部の声が事態として最悪の方向に進んだことを物語る。
 俺は一触即発の事態に陥る前に状況を打開すべきだと判断した。一刻の猶予もないと思ったのだ。それは「まずいことになった」という顔付きを見せる野々原も同様の認識だったろう。目配せをして野々原と目的意識を共有すると、すぅと深く息を呑んで意を決し、俺は佐伯へと向き直る。後で佐伯に半殺しにされるかも知れないけれど、羽交い締めにしてでも事態の収拾を図る心構えだった。
 振り返ると、そこには一糸まとわぬ佐伯の後ろ姿があった。真っ先に俺の目に飛び込んできたのはその透き通るかのような真っ白い柔肌だ。重力に引かれるまま背骨のラインをなぞるように視線を落としていくと、小振りながら肉付きの良いお尻があって、すらりと伸びる足へと行き着いた。その綺麗なフォルムに思わず、俺は思わず見惚れ掛かったぐらいだ。
 ともあれ、村上と下部の入室タイミングは、佐伯がちょうど水着を脱ぎ終わった直後のことだったらしい。佐伯はバスタオル一枚でどうにか前を隠す格好だ。
 咄嗟のことで拾い上げる時間もなかったのだろう。野々原の服が床に置かれていた。
「佐伯さん、ここは冷静に……」
「こっち向くな!」
 半身に構えた佐伯からは、大声ではないながらも迫力の籠もった声が向く。
 俺と野々原は慌てて回れ右をして、佐伯に背を向け直した。
 意を決して整えたはずの心構えはどこへ行ったのだろう?
 ともあれ、あまりにも想定外な事態に直面したお陰で、佐伯は適度な冷静さを保っているように見えた。もちろん、それはあくまで激高を一回りか二回りかぶっちぎった後に生じたもので、これから徐々にその盛る怒りが吐き出されることになるのかも知れない。
「正義馬鹿もあたしの着替えが終わるまであっちに行ってて!」
 結局、佐伯に背を向けて着替えが終わるのを待つ面子に、下部と村上を加える形で場は一時的に秩序を取り戻す。
 尤も、何とも言えない居心地の悪い空気はついさっきまでのものとは比較にならない。佐伯が着替えをする衣擦れの音が静まり返った部屋の中に響くから、その居心地の悪さは尚更だった。
「取り敢えず、オーケー。もうこっち向いても良いよ、……っていうか、こっち向きなさい」
 命令形で俺達に自分の方へと向き直ることを要求する口調には、有無を言わせぬ迫力が伴う。
 振り返ると、佐伯はティーシャツに動き易さを重視したストレッチ性の高い綿パンツという出で立ちをしていた。野々原が選ぶ服装には汚れの目立たない濃い目の色が多いため、拝借をする佐伯もそれに準じた形だ。
 佐伯の表情は優れない。矛先のない怒りと、込み上がってくる恥ずかしさをどうにか抑え込んでいる感じだ。
 佐伯が喋り出さないことで一時的に静寂が生まれたけれど、それは村上によって破られた。
「すまない、……まさか佐伯が居て、着替え中だとは思わなかった」
 さすがに目をまともに合わせられない様子の佐伯だったけれど、対する村上はそんな様子を気に掛けた風もなく真摯な態度で謝罪に臨む。正攻法と言えば聞こえは良いけど、見ようによっては佐伯の判断力が元に戻る前に押し切ってしまおうというやり口にも見える。
 謝罪は迅速さがポイントであるという格言を地で行ったと見るか、相手の混乱状態に乗じて一気に片を付けに行ったと見るか。人によって見方は分かれただろう。
 ともあれ、その誠実な村上の姿勢は佐伯の怒りを効果的に沈めた。
 顔を顰めて俯く佐伯は、あくまで今回の一件が事故なのだと自分自身に言い聞かせているかのように見える。結局、不服そうな顔付きをしながらも「今回の件は綺麗さっぱり水に流す」と、佐伯は溜息混じりに宣言した。
「……見られて減るものではないけど、正義馬鹿に見られたってのは正直納得いかない。あー……、何言ってんだろ。まぁ、今回は見逃してあげるから感謝しなさい」
 ふいっと顔を背ける佐伯は、これ以上この件について触れて貰いたくはないのだろう。
 佐伯の怒りが何事もなく鎮火したことにホッと胸を撫で下ろすと、一息吐く間もなく次の感情が俺を襲った。無事村上と下部が緑陵寮へ戻ってきたという事実がもたらす歓喜の感情だ。
「でも、良かった。無事逃げ切れたんだな。ホント、安心したぜ」
 俺は村上の手を取って喜んだけれど、その横では野々原が真顔で村上を注視していた。そして、俺の頭の中からすっぽりと欠け落ちていしまっていたことについて、村上へと尋ねた。
「若薙君は一緒じゃなかったのかい?」
 俺はハッとなる。確かに野々原の言う通りだ。
 別れた時の状況から考えると、ここに若薙がいないというのは確かにおかしい。まして若薙の性格ならば、無事逃げ延びたのならば得意顔で「してやったり!」と報告しに来てもおかしくない。いや、来るなと言っても来るだろう。
 俺は思わず村上へと目を向ける。それは野々原の質問に対して、その答えを求めた形だ。
「あの後、さらに二手に分かれて俺と下部だけになった。ついさっき若薙の部屋を覗いてみたが、まだ戻ってきてないようだった。あの若薙と永旗が簡単に捕まるとは思えないが、まだ逃げ回ってるのか捕まったのかは解らない」
 若薙の帰還について、既に村上が確認済みだったという事実がそこに重い雰囲気を漂わせた。
「ごめんなさい、村上先輩。あたしが足を滑らせたから若薙先輩達と……」
「下部がドジ踏んだお陰で、俺達は先に逃げ切れたんだ。お前が気にすることじゃない」
 村上は申し訳なさそうに縮こまる下部の頭を優しく撫でた。その行為は下部の表情に心なしか明るさを取り戻させる。
 下部は上目遣いに村上の様子を窺い、対する村上は下部を見下ろすその表情に悪戯心を覗かせた。それは仲の良い後輩をからかう先輩の顔付きだ。
「まぁ、足を挫いたお前を担いで走り回るのは大分しんどかったけどな。なぁ、貸し一つだな?」
「……はい」
 再びシュンと縮こまる下部の様子を、村上は小動物に悪戯でもするかのような顔で見ていた。そして何より、そんな下部の反応を目の当たりにして村上は楽しそうだった。
 ここにきて、俺は若薙のそんな表情を初めて目撃した気がする。
 野々原と村上の関係みたいに、下部と若薙の間には単純な先輩後輩以上の縁があるのかも知れない。
 若薙の逃亡成功の可否から話題が逸れ掛けた矢先のこと。佐伯が悪態を吐くという形で、話題は再び引き戻された。
「一度とっ捕まればいいのよ、あの馬鹿二人」
 こんなことを言っては佐伯に失礼かも知れないけれど、俺はようやく佐伯らしさが戻ってきたと感じた。
 ともあれ、場は佐伯の一言で一気に緊張感を失った。
「そうだね、一度痛い目を見るのも若薙君に取っては大事なことかも知れない」
 自分達に被害が及ばないならば、野々原も内心「若薙達が捕まっても面白いかな」なんて思っているようだ。佐伯の言葉に苦笑いの表情で同意する。尤も、その表情はすぐに影を潜めてしまって「では、実際そうなった場合にどんな問題が生じるか」を野々原は真顔で口にした。
「でも、若薙君が捕まると、実際問題、僕らも芋蔓式になる可能性が高いんだよね」
 その内容は笑って済ませられるものではない。
「……捕まっていないことを、祈るしかないな」
 俺の口から出るのは溜息だけだった。
 正直な話、緑陵寮へと戻った時点で、俺の中では「問題は全て解決した」というぐらいの認識だったのだ。それが一気に、問題はまだ何も解決していない段階まで引き戻されたのだから、その溜息もやむを得ないだろう。
 もし、若薙達が追っ手に捕まるようなことがあれば、鬼の形相をした綾辻・馬原がすぐにこの部屋へとやってくるだろう。そして、追っ手に捕まった若薙達が共犯者について口を噤んでくれたとしても、俺達の存在が明るみになるのは火を見るよりも明らかだと思えた。遊木祭寮ではその姿を寮生に見られているし、緑陵寮では俺の部屋へと来る前に一悶着やらかしていたのだ。順を追って調べていけば、そこに関連性を見出すことは容易いだろう。
 そして、綾辻達から事件への関与について疑いを掛けられ詰問されることになった場合、何食わぬ顔をして言い逃れし続けられる自信など俺にはない。
 不意に、何度か目の当たりにした綾辻の威圧感が記憶の中でリプレイされた。あくまで記憶の中の綾辻によって再現された恐怖だというにも関わらず、身震いが俺の体を駆け抜けていった。
 是が非でも若薙達には逃げ切って貰わなければならない。俺はそれを強く願った。
 そして、戦く俺の様子は目敏く村上に見付けられた。
「そんなに心配そうな顔するな、笠城。こんなことを俺が言うのもどうかと思うが、あいつらは大丈夫だよ。岸壁はともかく、相手はあの若薙と永旗だぞ? 簡単に捕まるような連中じゃない」
 村上が口にしたのは根拠の伴わない気休めの言葉だったけれど、簡単に捕まる相手ではないという認識には俺も迷わず首を縦に振る。強いて根拠を言い張るのなら、それは目の当たりにした二人の行動力と狡猾さと言えば良いだろうか。不謹慎ながら、今なお追い掛け回されているのが若薙と永旗であることに、俺は確かな安心感を得たぐらいだ。もしもこれが下部や野々原だったなら、俺は結果が解るまで不安で不安で夜も眠れなかったに違いない。
 そして、確かにその通りだと納得してしまうと、ついさっきまで感じていたはずの恐怖も一気に薄れていった。若薙と永旗と岸壁が無事逃げ切ってくれれば、俺が綾辻の威圧感に晒されることなどない。それを頭で理解したわけだ。
 俺が安堵の息を吐いたことを確認すると、気が抜けたと言わないばかりに村上ね大きな欠伸を噛み殺した。
「ともかく、笠城に野々原、後は佐伯も、無事逃げ切れたことを確認できて安心したよ。若薙達に続いて笠城達まで緑陵寮に戻っていなかったら、覚悟を決める必要があると思っていたからな。これで何とか、今日はゆっくり眠れそうだ」
 覚悟を決めるとはそのものずばり、綾辻・馬原コンビを相手に投降するということだろう。
 但し、投降という行為によって、科される罪が軽くなるかどうかは正直疑問だ。投降は謝罪と反省の意志を示す自発的な行為だから、二人の憤怒の度合いを多少は抑えてくれるかも知れない。少なくとも、死に物狂いで逃げ回った挙げ句の、見苦しい逮捕劇という最後よりかはマシなのは確かだろう。
「少し休んでいかないか、村上?」
「さすがに今夜は遠慮しておくよ。……下部の挫いた足も見てやらないとならないし、何より今日は疲れた」
 疲労感たっぷりの顔で笑う村上を前にして、これ以上俺が引き留める理由は見つからない。
「そっか。お休みな」
「ああ、また明日。……じゃあないんだな。また後でな」
「失礼します」
 軽く手を挙げ会釈をした村上と、小さくお辞儀して後を追うように下部が廊下へ出て行くと、部屋は妙な静けさに包まれた。そして、扉を後ろ手に施錠してしまえば、全てが片付いたような気持ちになった。
 現実逃避という奴だったかも知れない。
 ともあれ、熱帯夜の中を走り回ったことによって肌着が湿るほどの汗を掻いていたけれど、体を襲うものは心地よい疲労感だ。汗を洗い流したいという思いも首を擡げるものの「今はこのまま眠ってしまおう」という欲求に押し負けた。
 そして、ベッドに倒れ込んだ矢先のこと。部屋の中を漂う静けさを切り裂いて、佐伯の感嘆の声が響いた。
「へぇ、野々原は美術に心得がある人なんだ」
 ゴロンと体の向きを変えて、佐伯の様子を窺う。
 佐伯は描きかけの風景画を覗き込んでいた。わざわざカンバスに掛けられた白い布を捲り、その中のものを確認する格好だ。それが何かを尋ねる前に中身を確認する佐伯の行動だったけれど、描きかけの絵を見られることに対して野々原は特に抵抗を感じないらしい。嫌がる様子の一つを見せることなく、壁際に並べられた絵の具を指して自身の美術の心得について説明した。
「絵だけは水彩油彩問わずに描くんだ、彫刻だとかには全く興味ないんだけどね」
 野々原の描く絵に興味を惹かれたらしい。佐伯は興味津々という態度で尋ねた。
「見せて貰っても良い?」
「大したものではないけど、それでも良いのならどうぞ」
 そう答えた野々原の対応からは相応の自信が窺えた。少なくとも、制作過程を含めて「誰かに見られても恥ずかしくないレベルのものを作っている」という意識がそこにはあっただろう。
 俺もまじまじと野々原の表情を窺った後、そこに嫌がる素振りが本当にないことを確認すると佐伯の図々しさに便乗することにした。正直な話、ずっと気にはなっていたのだ。
「俺も見せて貰おうかな。……前々からちょっと気になってたんだよね、どんな絵を描いてるのかなってさ」
 野々原は簡単なジェスチャーを用いて、俺が絵を見ることを許容した。
 俺はベットから起き上がると、佐伯が手に持つカンバスを横から覗き込んだ。
「綺麗な色遣いに繊細な構図、さすがに何でもない夜の平原を大海原に例えられる人間の美的感覚は違うね。でも、こう、何か寂しい感じがしない?」
 佐伯が「寂しい」と感想を述べた風景画を、俺は横から覗き込み改めて確認する。
 俺は思わず首を捻った。
「そうか?」
 佐伯が言ったような「寂しい」という感覚を、率直に言ってそこから感じ取ることができなかったのだ。
 カンバスに描かれた風景画は写真の一部を切り出したかのような精巧さを持っている。それは淀沢村を囲むように立地する山々の一部を描いたもので、青々と茂る景色をとても上手く表現しているように俺には見えた。少なくとも、そこに「寂しさ」というものが表現されているとは思えない。
「確かに、この、夏の勢いを感じさせる色遣いに迫力はあるんだけど、全体的な雰囲気っていうのかな。それが、……こう、逆に落ち着き払い過ぎているっていうか。色遣いの迫力に対して完全に押し負けてるっていうか、そのー……」
 佐伯はどうにか感覚的なことを俺へ伝えようと、頭の中から適当な言葉を拾い上げるのに四苦八苦しているようだ。対する俺はそんな佐伯の曖昧な表現の度に首を捻る。佐伯はそんな俺の行動が気にくわないらしく、躍起になってその見解を述べる口調をヒートアップさせていった。
 仕舞いには野々原の描いた風景画をいくつか引っ張り出してきて、その見解に具体性を持たせようとする。
 しかしながら、そんな佐伯に対する俺の理解は非常に浅い。加えて、風景画の差異に、そこまでの興味を惹かれないから必然的に受け答えも軽いものに終始した。綺麗なものは綺麗で良いじゃないか。それはもちろん、解るならば解るに越したことはないとは思うけど、基本的な知識が足りない今の俺に、それを理解できるとも思えない。
「絵心がなく、表現法とかそういう基本的なことが解らない今の俺には理解できないよ」
「絵心とか表現法とかそういうんじゃないって! もっと、こう描かれている対象対象に注目すると……」
 その率直な感想を述べた佐伯と俺の言い合いを、野々原は食い入るような目付きでじぃっと眺めていた。
 そんな視線に気付いてしまえば、俺は慌てて弁解を口にするしかなかった。
「あ、いや、……素人が言いたい放題言ってるだけだから、気に触ったらごめん」
「いや、そういう率直な感想が聞けて嬉しいんだ。もっともっと忌憚のない意見を聞きたいね」
 野々原からそう要求されても、一度冷静になって自分たちが置かれる状況を理解してしまったのだ。そこから「忌憚のない意見」を改めて好き勝手に言い合えるほど、俺も佐伯も図々しくはできていない。
「……」
 今の今までヒートアップしていた佐伯も、一気に冷静さを取り戻した形だった。尤も、佐伯にはまだ、どこか納得がいかないという顔付きも残ってはいた。もしかすると、まだまだ俺にその「寂しさ」を感じる根拠を語りたかったのかも知れない。何かきっかけさえあれば、再びその話題が展開されることになってもおかしくはない状況だったろう。
 しかしながら、俺に取ってそれは望まなしくはない展開だった。このまま沈黙が空間を支配することを嫌って、俺は何か話題を振ろうと考える。沈黙が再び、佐伯の論争に火を付けるかも知れない。そう思ったのだ。けれど、咄嗟に思いつく話題なんてものはこの状況を劇的に変えることができそうもないものばかりで、俺は安易に口を開くことを躊躇った。
 佐伯はことの成り行きを窺っていて、野々原は「さぁ、続けてくれ」と言わないばかりに俺と佐伯へ交互に視線を送る。結果、そこには沈黙が漂うこととなった。そして、野々原が望む俺と佐伯の言い合いは一向に始まる様子を見せない。
 だからというわけではないだろうけど、野々原は一つ大きな息を吐くと徐に口を開いた。そこにはなぜ野々原が忌憚のない意見を求めるかが、包み隠さず示された。
「ここに来るまでは、色んな、……描きたいものがあったはずなんだ。だけど、いざ、ここに来てみたら何が描きたかったのか解らなくなった。今はもやもやの中でがむしゃらに足掻いてる。だから、正直なところ、どれもできは良くない。佐伯さんが感じるように、絵の中には僕が気付くことのないアンマッチが無数にあるかも知れない。何か、……何か、ここでしか描けないものがあるはずなんだ。ずっとそう思ってた。だけど、それが何なのかずっと見付けられなかったんだ。描いて描いてそれを見つけようとしていたけれど、見つからなかったんだ」
 ところどころ辿々しく言い淀んだその言葉は紛れもない野々村の本音なのだろう。悲痛な感じこそしないが、そこには焦燥感のような漠然としたものが見え隠れする。
「野々原も、ここで探し物をしてるんだね?」
 それまで黙って話を聞いていた佐伯が口にした言葉に、俺は違和感を覚える。それが描きたいものを淀沢村で探す野々原に対して、佐伯が「野々原も」という言い方をしたことだと解るまでに、そう多くの時間は掛からなかった。
「佐伯さんも、淀沢村で何か探しものをしているの?」
 そんな言葉が喉元まで出掛かったけれど、それが実際に佐伯へと向くことはなかった。
 佐伯はここで一体何を探しているんだろう?
 佐伯の質問に野々原が頷いた後、見せた表情は程度の酷い苦笑いだった。そして、そこには野々原が味わう苦悩から、若薙が企画した深夜の散策へと参加するに至った経緯までもが吐露される。
「最初はがむしゃらに目に映る美しいものを描き続けていれば、それを見付けることができるはずだって、そう思っていた。だから、遮二無二描いた。だけど、やっぱり全然見付からないんだよね、手掛かりさえも見つからなかったんだ。……だからというわけじゃないけど、少しこの淀沢村にしっかりと目を向けてみようかなって思ってた矢先のことだった。笠城君が僕と同じ部屋に来て、若薙君が笠城君を遊びに連れ出したのは本当にちょうど良い機会だったんだよね。最初はただの気紛れから参加したけれど、その結果、僕はきっかけの一つを見つけたんだと思う。だから、これからも何かあったら誘って欲しい。遠慮は要らない。もしも、本当に僕が望まないことなら、その時ははっきりと断らせて貰う」
 野々原の頼みを断る理由は何もない。
 野々原が俺に求める役割の一つがそんなことで良いのであれば、期待以上の活躍をして見せる自信がある。
「そんなことで良いなら、任せとけ。大船に乗ったつもりで居てくれよ、例え嫌だと言っても半強制的に連れ出して見せるからさ!」
 俺は漲る自信のままに口を開いて胸を張る。
 結果、野々原からは不安げな表情で見返された。
「……さすがに体調不良だとか、そういう状況の時は勘弁して欲しいな?」
 どうやら、俺の言葉を額面通りに受け取ったようだった。
 俺の背後に若薙という存在がちらちらと見え隠れする時点で、その「半強制的」という言葉が相当な現実味を帯びるというのは解らないでもない。なにせ、その手のイベントが絡むとあれば、間違いなくセットで若薙も付いてくるだろうことは誰の目にも明らかだ。それは否定の仕様がない。
 ただ、だからといって野々原のその表情には納得がいかなかった。
「その、……半強制的にってのはさすがに冗談だぜ? 若薙じゃないんだ、その辺の常識は弁えてるって。そうだな、例え野々原を誰かが無理矢理連れて行くと言おうとも、野々原がそれを拒否する限り俺も一緒になって断固抵抗してやる」
「はは、それじゃあ、その言葉には期待させて貰おうかな」
 熱意を込めた俺の言動を目の当たりにしても、野々原の表情は期待半分、諦観半分といったところだった。
 それでも期待を半分持ってくれただけ、胸を張った甲斐があったのだろう。後は実際の行動が伴うかどうかの問題だけだ。実はそこが一番難しい部分ではあるのだけど、こうして口にしてしまった手前、やるだけやってみるしかない。
 相手によっては二人一緒に強制連行される結果に終わるだけかも知れないけれど、それでも約束だけは守るだろう。
「任せとけ、約束だ!」
 ふと気付くと、佐伯はそんな俺と野々原のやりとりを、青春ドラマでも見るかのような顔付きをして黙って見ていた。
 そんな佐伯の視線に晒されて、自身の言動を思い返してみると小っ恥ずかしさが一気に首を擡げる。それを意識し始めてしまうと、あっという間に俺は冷静ではいられなくなった。さぞかし真っ赤に赤面していたことだろう。
 せめて、俺の言動を目の当たりにした相手が野々原だけだったら、まだいくらかマシだったのだろう。けれど、その一部始終を佐伯に見られたというのは堪らない。「悶絶する」というのはこういうことは言うのだろうか。
 そんな俺の一杯一杯な挙動を前にして、佐伯はニコッと満面の笑みを間に挟みがらんと話題を変えた。
「そう言えば、遊木祭にも凄い絵を描くのが一人いるよ。ほら、遊木祭寮で綾辻の声真似して若薙と村上をびびらせた。倫堂奈津恵(りんどうなつえ)って言うんだけど、あれも凄いよ」
 佐伯がそうやって場を仕切り直してくれたお陰で、俺はどうにか落ち着きを取り戻す。
 その佐伯の心遣いは非常にありがたかった。
「……倫堂奈津恵?」
 名前だけを聞いても倫堂という存在はピンと来ない。けれど「綾辻の声真似」という手掛かりからは、すぐにその相手を思い出すことができる。尤も、俺は倫堂に関する視覚的な記憶を何一つ残していなかった。倫堂の印象として俺の記憶に残っているのは、インパクトの大きかった綾辻の声真似と逃げ足が早いということぐらいだ。
「一度だけ倫堂の描いた絵を見たことがあるけど、引き込まれるような躍動感ある絵だよ。その空間を写真として切り取ったような精密さはないんだけど、……要所要所を締めるっていうの? 精密さのある描写じゃないし、迫力ある大胆な色遣いの癖に、全体で見ると何一つ破綻していないんだ。正直なところ、凄いとしか思えなかった」
 倫堂の情報を野々原に教えることで、佐伯は「きっかけを掴む手助けになればいい」と思ったのかも知れない。そして倫堂を評していった佐伯の言葉に、野々原も強い関心を持ったようだった。
「ふーん。佐伯さんにそこまで言わせるものなら、僕も一度見てみたいな」
 それは言葉にこそしなかったけれど、倫堂との面会を望んだに等しい内容だ。
 野々原が倫堂へと関心を向けることは佐伯に取って想定通りの出来事だったのだろうか。ともあれ、佐伯は野々原の反応を前に思案顔を覗かせた後、提案という形で口を開いた。
「一応、友達付き合いもあるにはある、あんまり絡まないけど。……紹介しようか?」
 何か思うところがあったのか、佐伯の提案には辿々しさがある。それを物語ったのは「一応」と加えた単語だろう。恐らくは、自分が間に立つことで倫堂と野々原の面会が実現するかどうかを思慮したのだろう。
 けれど、そこに社交辞令の雰囲気はない。野々原が頷けば、佐伯は面会の実現に向けて動くだろう。
「それはぜひ! お願いするよ」
 野々原が迷うことなどなかった。二つ返事で、面会の実現を佐伯に頼む。
「オーケー、近いうちに場を設けるね」
 あっさりとまとまる話を尻目に、俺は欠伸を噛み殺す。もうそろそろ限界が近付いてきていると思った。
 佐伯と野々原は倫堂というきっかけを元に、まだまだ絵の話題に花を咲かせていた。けれど、それは俺に取ってあまり興味のない話題であり、一気に俺の眠気は勢い付かせた形だ。
 まるで寄せては返る波のよう。二人の会話が何だか良く解らない言葉に聞こえて来るようになれば、後はもう多くの時間を必要としなかった。とろんとし始めた目付きは、恐らくその焦点を失い始っていただろう。
 目蓋の重さを感じて目を閉じたが最後、意識はそこでぷつりと途切れた。


 突然、耳元で何かガサゴソと物音がした。
 それでも俺は目を開けることを億劫だと感じたものの、その物音は一向に止む気配がない。仕方がないので状況を確認しようと目を開いていくと、目映い太陽光が飛び込んできて俺は思わず顔を背けた。
 それでも物音は止まない。ガタッガタッと立て付けの良くない窓を開く音がすると、心なしか爽やかさを感じることのできる微風が吹き込んできた。誰かがカーテンと窓を開けたようだった。
 相手を確認しようと目を細めていくと、不意に佐伯の顔が飛び込んできた。それは鼻先十数センチの位置にあっただろうか。ちょうど、佐伯はベットの脇に立って前屈みの体勢で、俺の顔を覗き込む形だ。
 佐伯と目があって、俺は思わず頓狂な声を上げた。
「な、何してんの?」
 眠気は一気に吹き飛んでいた。いいや、それは眠気どうこうのレベルではない。心拍数が跳ね上がり、顔が紅潮していく様をまざまざと感じたぐらいだ。もちろん、それは「相手が佐伯だったから」という点でより度合いが甚だしいものだったというのは否定できないだろう。けれど、少なくとも相手が仁村や浅木、ひいては若薙や村上でも俺は同様の反応をしたはずだ。目覚めた瞬間、誰かの顔が眼前にあって驚かないわけがない。
「おはよう、笠城。部屋が暑いからさ、ちょっとでもマシになるかなって思って窓を開けたの」
 俺の動揺を知って知らずか、佐伯は至って冷静な対応を見せる。
 変に意識したのは俺だけだったらしい。
 ともあれ、俺は大きな欠伸を噛み殺しながら、定例の挨拶を返した。
「……ああ、おはよう」
 まだまだ心拍数は収まらず、俺は佐伯の顔を直視できないようだ。変に佐伯を意識してしまったのが問題だ。俺はできるだけ冷静を装いながら、佐伯から視線を外した。そして今度は、こちらの様子を窺う野々原とちょうど目が合う。野々原はピシッとした作業着姿で、イーゼルを前に絵筆を走らせていた。
「ん? 起きたのかい。おはよう、笠城君」
「……今、何時ぐらいなんだ?」
 時刻を尋ねる俺に、返答したのは佐伯だった。
「もう結構いい時間、八時ちょっと過ぎぐらいかな」
 俺は拍子抜けする。てっきり、もっと正午に近い時間だと思ったのだ。昨夜の逃走劇の後だというのにも関わらず、野々原の表情に疲労の色が窺えないことと、筆を走らせるその姿が妙に板に付いていたせいだろう。
「野々原にしろ、佐伯さんにしろ、昨日の今日だって言うのに朝早いんだな?」
 佐伯に起こされたお陰で意識の方はしっかりしている。けれど、俺の体は倦怠感という確かな現象を伴って、睡眠不足を訴えるのだ。時間にしてどれだけ眠ったのだろうか。昨夜の詳細な就寝時間を覚えていないから正確には解らないけれど、このまま横になれば難なく眠りに付けることだけは間違いない。
「実を言うと、あたしも起きたばっかりだよ。ついさっき顔を洗って戻ってきたところ。まぁ、あたしは起きたというよりも、もっと早い人に起こされたんだけどね」
 佐伯は野々原を指して「もっと早い人」と言う。
 話題に挙がった当人は、佐伯に対して申し訳なさそうな顔で謝罪の言葉を口にした。
「その、ごめんね、佐伯さん。ついつい佐伯さんが部屋にいることを失念してて……」
 その二人のやりとりを聞いていて、俺は首を捻る。
 野々原の方は自発的な起床だったとして、あくまでもう一方の佐伯は野々原に眠りを妨げられたわけだ。それなのにも関わらず、寝直さなかったというのは何か理由があるのだろうか。俺は疑問に感じるまま、それを二人に向けた。
「二人はこの後何か予定でもあるの?」
 佐伯は小さく首を傾げて思案顔を覗かせる。そうして、自分自身だけでなく野々原の今後の予定についても答えた。但し、野々原の予定については、改めて確認すると言う形だ。
「あたしは別に何もないけど、……野々原は風景画が描きかけだから、群塚校の美術室で仕上げ作業をするんだっけ?」
「うん、そのつもりだよ。今から食堂で朝御飯を食べて、その足で気温が上がりきらない午前中に群塚高校まで行くつもりだ。後は日がな一日、仕上げ作業をすることになるかな」
 そんな具合に質問の答えを導き出して、佐伯はくるりと俺に向き直る。
「それで、予定なんか聞いちゃって何か思うところでもあった?」
「いや、昨日の今日だって言うのに、こんな朝早い時間から活動開始っていう感じだから何かあるのかなって思って」
「それはもう昨夜の一件のお陰かな。もう空腹感が半端なくてさ。それなら、足並み揃えて食堂に行って朝御飯にしようかっていう話になって、それなら笠城も起こして誘ってあげた方が良いんじゃないって話に繋がったわけ」
 お腹を押さえて空腹感を訴える佐伯を前にすると、ふと俺も自分が確かな空腹感に襲われていることに気付いた。倦怠感の度合いの方が強かったから、あまり意識しなかっただけだろう。
 そのまま眠り続けていたら、食堂で朝食を食べることのできる時間帯に起床できなかったのは間違いないだろう。それはこのまま二度寝をするという選択肢を選んでも同じ話だ。一食抜いたぐらいでどうのこうのという話はないけれど、俺は二人に感謝するべきなのかも知れない。
「なるほど、それはご丁寧にどうも」
 それならばと、俺は早々に食堂へ行く支度を始めた。そうして、肌着を脱いでいざ室内着へと着替えようとした矢先のことだ。ふと、佐伯について思い当たることがあった。
「ところで、佐伯さんは遊木祭寮の人じゃなかったっけ? 緑陵寮の食堂で朝御飯を食べたりしても問題ないのか?」
 俺の指摘に対して、佐伯はあっけらかんと答えた。
「どうせ緑陵も朝はバイキング方式なんでしょう? なら、大丈夫。一人二人減ったり増えたりしても誰も気付かないって。まして、気付いたところで文句をいう奴なんかいないいない」
「……そういうものなの?」
 俺は野々原へと向けて、その素朴な疑問を口にする。そこに至るまでの話を佐伯から聞いた限りでは、佐伯が緑陵寮で朝食を取るという行為に対して野々原が難色を示した風はない。
 俺の心配し過ぎなのだろうか。
 少なくとも、馬原あたりは寮長という立場からその辺りをうるさく注意しそうな気がする。けれど、同時にいつかの馬原の「みんなが同意していて、周囲にばれなければいい」というようなニュアンスの言葉が脳裏を過ぎったりもした。
 野々原にしろ、佐伯にしろ、俺よりもずっと淀沢村での寮生活に詳しい。その二人が問題ないと判断しているのだから、俺がどうこう言うべきではないのかも知れない。俺は思わず腕組みをして唸り声を上げた。
 そんな俺の様子を前に、佐伯が遊木祭寮の状況を説明してみせた。
「遊木祭の食堂だって、たまに「他の寮生じゃないの?」ってのが混じってるけど、特に問題になることはないよ。十人も二十人も他の寮の人間が混ざってて、本来の寮生の分が足りないなんてことにならない限りは大丈夫。食堂のおばちゃん達には怪訝な顔されるかもしれないけどね。何食わぬ顔して、元気よく挨拶しておけば、どうのこうの言われることなんてないって」
 実体験を交えた佐伯の話を聞きながら、俺は野々原の様子を頻りに窺いその反応を確認した。
 佐伯の行為が問題になるようならば、野々原から佐伯を制止するよう俺に向けて何らかのコーションが発信されると思ったのだ。ちらりちらりと野々原の様子を確認する俺に、野々原は簡単なジェスチャーで答えてくれた。そして、それの意味するところは「特に問題ない」という内容だった。
「そっか。それなら、いいのか」
 一度はそこで頷き納得し掛けたものの、すぐに俺の脳裏を別の気掛かりが過ぎる。俺は佐伯の顔を覗き込むようにして、それを確認した。そうすることで、僅かな機微さえも見逃さないとしたのだ。
「一応聞いておくけど、若薙や永旗さんと顔を合わせることになっても大丈夫だよね?」
 当の佐伯は、俺に言われて始めて気がついたのかも知れない。小難しい顔をして、押し黙った。
 それは食堂で若薙と顔を合わせるという事態になった場合を、頭の中でシミュレーションしているようだった。
「何も問題なんてないよ」
 すぐに、そう切り返してくれないというだけでも、俺の不安はこれでもかというほど煽られるというのに、時間の経過が佐伯の表情を改善することはなかった。
 思案顔のまま押し黙り続ける佐伯に、俺は心の中で思わず「おいおい、勘弁してくれよ」とツッコミを入れた。
 そんなやりとりを見ていて、野々原も不安になったのだろう。懇願にも似た確認を佐伯に求める。
「朝一の食堂で罵り合いとかだけは本当にやめてよ、佐伯さん? 昨日の今日だよ?」
「正直なところ、実際に顔をつきあわせてみないと何とも言えない部分が……」
 佐伯はふいっと目を逸らすと、どうなるか解らないという至極正直な見解を口にした。非常に怖い台詞だ。
 尤も、何事もなく済ませる自信がないというのに、自信満々の笑顔で「大丈夫、任せなさい!」と太鼓判を震われるよりかはいくらかマシなんだろう。そうも思った。少なくとも、そちらの方が「問題が発生する可能性がある」ということに対して、いくらかでも心構えを持つことができるからだ。
「まぁ、さすがに自重するよ。昨日の今日だし、何かあったら洒落にならないしね。大丈夫、任せときなさいって!」
 俺と野々原に目を合わせることなく、佐伯はばつが悪そうに笑う。説得力が伴っていなかったことは言うまでもない。
 しかしながら、色々と思うところはあったものの、結局はそんな佐伯の言葉を信じる形になった。あっさりと佐伯の言葉を受け入れたのは、空腹に背中を押されたというのもあっただろうか。いつもならば起きがけの食欲なんて皆無に等しいのに、今朝は激しい空腹を訴えるのだ。
 ともあれ、俺達は佐伯を引き連れて、緑陵寮の食堂へと足を向ける。
 緑陵寮の食堂へと足を踏み入れると、俺は食堂内に人が疎らにしかいないということに驚かされた。ここ数日を通して言えることの一つに、窓際を始めとする一部の人気席はいつも埋まっているということがあったからだ。さすがに、開店直後の食堂というだけはあるようだ。どの場所でも選び放題という状況を前にして、思わず鼻歌が漏れる。
「あー、あの席も空いてるな。なぁ、どこの席にする? 普段は滅多に確保できない特等席にしようか?」
 俺は上機嫌で野々原に尋ねる。野々原もそんな俺に引き摺られる形で、高いテンションを保っていたけれど、そこに聞き覚えのある声が向けられてしまえば、その表情はあっという間に一変する。その声は俺達の背後から向けられた。
「あれ、佐伯さんじゃない? こんな時間にここに居るなんて、もしかして遊木祭寮に戻ってないな?」
 聞き間違いだったらどれだけ良かっただろう。振り返ってその声の主が誰なのかを確認するまで「聞き間違い」であることを期待したけれど、現実はそんなに甘くない。振り返ると、そこには昨夜の大逃走劇を一緒に演じた共演者が居た。
「……永旗さん?」
 俺達は食堂でばったりと永旗に出会した形だ。それは「運悪く」と表現するのが適当だろうか。
 佐伯の表情がみるみる内に不機嫌なそれへと変化する。尤も、それも当然だろう。昨夜の大逃走劇を引き起こした、ある意味では若薙を凌ぐ主犯格だ。俺でさえ、こういう状況下でなければ、一言言っておきたいこともある。
 何にせよ、エマージェンシーアラートが俺の脳内で響き渡った。非常にまずい状況だ。
 ただ、状況のまずさを認識はするけれど、俺が実際に何か行動を起こすことはなかった。佐伯の「自重する」といった台詞が俺の足を引き留めたのだ。まさかまさか数分前にいった言葉を、舌の根の乾かぬうちに反故にはしないだろう。そう思ったのだ。まして、佐伯も今俺達が置かれる状況というものをきちんと理解しているのだ。
 しかしながら、佐伯を信じた俺の行動はあっという間に裏切られる。
「さっそくお出ましだよ、昨夜一番の問題児」
 その不機嫌な顔付きのまま喧嘩腰とも取れる棘のある言葉で切り出したのは、他でもない佐伯だった。そして、俺と野々原が「話が違う」と頭を抱える様子も、もう佐伯の目には入っていないのだろう。
「昨夜一番の問題児だなんて、随分嬉しい褒め言葉をいってくれるね。楽しくなかった? あたしは最高だったけど」
 永旗の方に佐伯の言葉を軽くあしらうつもりはないらしい。そこには「喧嘩腰には喧嘩腰で対応するよ?」という姿勢が見え隠れする。そして、その得意気な表情からは悪びれた様子の一つ滲むことはない。いや、そもそも悪いなどとは思っていないかも知れない。
 これは露骨に皮肉を言ったところで通じはしないと思った。皮肉を皮肉と解った上で永旗は同じ顔をするだろう。
 佐伯のこめかみがヒクヒクと引き攣っていたのを俺は見逃さない。佐伯と永旗に、このまま好き勝手に会話をさせれば、一触即発の事態は免れないと思った。
 二人の機嫌を損ねるかも知れないことを承知で、俺は間に割って入ることを決意した。まだ食事も取っていないというのに、心なしか胃が痛いように感じるのは気のせいだろうか。
「なぁ、永旗さん? 若薙も岸壁も、無事逃げ延びたんだよね?」
 突然、会話の相手が入れ替わったことで永旗は一瞬キョトンとした顔をする。その目は次の佐伯の言動に注意を払っていたように見える。けれど、当の佐伯が押し黙ったまま反応を返さなかったため、永旗の態度からは緊迫感が掻き消えた。
「んー、もちろん。捕まるなんてヘマをやらかすわけないじゃない?」
 得意顔でそう言って退ける永旗からは「してやったり」という態度が見え隠れする。そこには一晩掛けて逃げ回ったことに対する懲りた様子を窺うことはできない。
 それは頼もしくもあり、恐ろしくもある。
 永旗を何かのイベントに巻き込むときには気をつけなければならない。俺は心の奥底にそれを刻み込んだ。
 ともあれ、若薙に岸壁、そして永旗が無事だったことで、腹に支えた大きな心配事が一つすぅと溶けて消えた瞬間だった。これでもう、想像の中の綾辻の威圧感に怯える心配もない。
「どっちもまだ寝てると思うよ。朝御飯、食べないつもりかも。あたしも朝御飯を食べ終えたら眠り直すつもりだし」
 そこまでいうと、永旗は大きな欠伸を噛み殺す。眠り直すつもりというのは本心だろう。
 喧嘩腰で対応をされた側である永旗に、佐伯に対する蟠りはないように見える。少なくとも、誰かが間に入ってクッションの役割を果たす限り、永旗が直接佐伯に対して攻撃的な態度を取ることはないと思った。
 では、喧嘩腰で対応をした側である佐伯はどうか。
 背後にある佐伯の様子をちらりと窺ってみると、そこには相変わらずの不興顔がある。俺の背中に刺さるような視線はないけれど、佐伯から永旗へと向く目付きは鋭いのだろうか。
 再び、胃がキリキリと痛くなるような錯覚に襲われた気がした。
 そんな状況に置かれた俺に、助け船は思わぬところからやってきた。
「結衣! 何やってんの? コーヒーに冷たい牛乳入れてカフェオレ作ると美味しくないからとかいって、人に牛乳を電子レンジで温めた後カフェオレ作るように指示した癖に! せっかく作ったカフェオレ冷めちゃうよ?」
 それは永旗を呼ぶ友人の声だ。そして、そこには「さっさと、こっちに来い!」といった有無を言わさぬ迫力がある。
 永旗は「しまった」という顔をする。永旗自身、それを頼んだことを失念していたのだろう。
「あー、ごめんごめん! 今行く! ……じゃあ、また後でね」
 永旗はそう言い残すと、足早に自分の名前を呼んだ友達の元へと去っていった。
 思わず、俺は安堵の息を吐き出した。いや、俺だけではない。それは野々原も同様だ。
 そうして、永旗が去った後、まだ若干険しい雰囲気を残す佐伯に気を配りながら、俺達は和洋折衷各種の料理が並べられたスペースへと移動した。俺は三人分のトレイを手に取ると、それを野々原と佐伯に手渡す。その時点で佐伯の様子を窺ってみたけれど、その意識は既に眼前のバイキング料理へと向けられているようだった。ついさっきの永旗とのやりとりが大きく尾を引いているような感じはない。取り敢えず、一安心と言ったところか。
 そして、空腹を訴える腹の虫に命じられるまま適当に朝食をよそい始めると、俺のトレイはあっという間に埋まってしまった。これが「深夜の逃走劇の効果か?」なのだろう。一方、昨夜の共演者二人はどうか。そんな疑問を感じるまま横目に様子を窺ってみると、二人のトレイはまだそのほとんどが埋まっていなかった。いや、埋まっていないというよりも、まだ選んでいる最中だという言い方の方が適当だろう。
 野々原は料理を指差しながら、佐伯相手に緑陵寮のバイキングについて何か説明している様子だった。
 バイキング方式だと言うのに、遊木祭寮とで何か勝手が違うのだろうか。そんな疑問を感じるまま話の内容に聞き耳を立ててみると「どの料理が緑陵だと不味い?」とか、そういった点を佐伯が野々原に確認しているようだった。
 何にせよ、二人が朝食をよそい終えるまでには、まだ時間が掛かるだろう。
 それでは、一足先にやっておくべきことがある。
「野々原、俺は先に行って席を確保しておくからな」
 野々原に向けた言葉はそんな内容だったけれど、実際には席選びというよりも佐伯・永旗対策と言った方が適当だったろう。食堂の中へと視線を走らせたのも、永旗の現在位置を確認するためだ。なるべく二人が顔を合わせないよう離れた席をチョイスするのが上分別だと考えたわけだ。
 永旗はさっきの友人達と食堂中央にある柱付近で談笑していた。その永旗に視線を固定し死角を探してみると、食堂を入ってすぐの左手にあるスペースが発見できた。この後、永旗が友人達とどこの席で食事をするかによって状況は大きく変わるけれど、ここは運が良ければ永旗と顔を合わせず済ませられる位置だ。いつも誰かが座っているような人気席とは程遠いけれど、背に腹は代えられない。俺は迷わずそこに腰を下ろした。
 そうして、野々原と佐伯を待つ形で手持ち無沙汰でいると、ガタッと隣の椅子を引く音がした。
 てっきり、野々原と佐伯が朝食を選び終えて戻ってきたのだと思った。当然そのつもりで横を向いたから、俺はそこに座った意外な人物の登場に驚かされる。
「おっす、笠城。随分早いんだな?」
「ああ、須藤か。おはよう……って、朝が早いっていうのはお前も人のこと言えないだろ?」
 須藤はトーストにマーガリンを塗りたくりながら、俺に苦笑いを返した。
「朝日が諸に差し込むお陰で、毎日毎日暑さでこの時間に起こされるんだよ。……健康的でいいかも知れないけどなー」
 つまりは起床したくて起床しているわけじゃないというわけだった。どこも似たような間取りだから、強烈な朝日が差し込む構造的な問題は変わらないらしい。
「そう言えば、昨日の淀沢村案内ツアーに参加したんだって? 参加するなら参加するで、一言俺に声を掛けてくれても良いじゃないか。お前や仁村さんが参加するって知ってたら、俺も参加を検討したのにさ」
「声を掛けるべきだと思ったんだけど、気付いたのが出発直前だったんだよ。悪かったな。いいや、ホントにさ、声を掛けられるタイミングじゃなくて……」
 須藤の指摘を前に、俺は弁明する。誘おうかと思ったのも、タイミングが悪かったのも本当だ。
 恰も須藤は「皆まで言うな」という風に俺の言葉を制止すると、話題を本日の参加可否へと変更した。
「今日の淀沢村案内ツアーにも参加するのか?」
「ああ、特に予定も入ってないしな。参加するつもりだよ」
「そっか。なら、今日は俺も参加することにしようかな」
 そんなことを言い出すところを見ると、何だかんだと言っても須藤も暇を持て余しているようだった。
 立てて加えて、やはり顔見知りが参加しているというのは大きいのかも知れない。強制力が働かない以上、見知らぬ相手ばかりではどうしても尻込みしてしまうというのがある。
 ともあれ、淀沢村案内ツアーの話題になったことで、俺には思うところがあった。
 それは昨日に引き続き、若薙や村上が参加するのかどうかということだ。
 永旗の話だと「若薙と村上は寝直すつもりかも知れない」と言っていたので、参加しないことも十分考えられる。だからどうしたというわけではないけれど、それを知っているか否かによって俺の事前の心構えも変わってくるのである。
「ところで、笠城は朝飯食わないのか?」
 ハモハモとトーストを食べコーヒーを啜る須藤を前に、俺はトレイへとよそった朝食に未だ手を付けないでいる。もちろん、それは野々原と佐伯を待っているからだ。
 説明しようと口を開き掛けた直後のこと。ちょうどトレイを片手に持った佐伯と野々原が姿を現した。
「おはよう、須藤君。君も早いな」
 須藤の存在に気付いた野々原が軽く会釈する。
「おっす、野々原。さっきも笠城に言ってたんだけど、ホント朝から暑くて寝てられないんだよ。大体、俺の部屋……」
「おはよう」
 朝が早い理由を不満という形で口にする須藤だったけれど、それは佐伯の会釈を境に尻すぼみになった。
 佐伯がまとう雰囲気は昨夜の遊木祭川での対面の時に、俺や野々原相手に見せたあまり愛想がいいとは言えないものだった。それでも、永旗と険悪なムードを醸し出した後としてはマシな方だったといえたのだろう。
 その愛想のなさをあくまで「クールな感じ」といった、佐伯の器量を演出する材料にできたのだからだ。少なくとも、不満を尻すぼみに終わらせてしまって、佐伯に見惚れる須藤相手に、それがクールな印象として映ったことは間違いない。
 かなりの量の朝食がよそわれたトレイをテーブルへ置くと、佐伯は野々原の横の席へ腰を下ろす。ちょうど、俺と須藤の向かいの席に座る形だ。
 須藤は俺と野々原の顔を交互に見た後、ようやく佐伯が俺達の知り合いであることを察したようだった。そして、このグループに佐伯が混ざることも「おかしなことではない」と理解したらしい。そこまでいけば、佐伯の挨拶というものが自分にも向けられたものだと、須藤が気付くのもすぐだった。
「おはよう。初めまして……で、合ってるよね? えーと、見掛けたこと無いけど、緑陵寮の寮生?」
 自信なさげに確認をする須藤を前にして、今まさに佐伯が答えようと口を開き掛けた矢先のことだ。
 佐伯の座った席に、不穏な人影が差した。
「朝御飯、ご一緒させて貰ってもいいかな?」
 それは佐伯の背後に立ってニィッと微笑みながら小首を傾げて一同に問う永旗だった。この邪悪とさえ感じる満面の笑みの永旗相手に、面と向かって「遠慮して貰いたい」なんて言える人間がここにいるだろうか。もし居るとすれば、それは佐伯だろう。けれど、その言葉を佐伯に口走って貰っても困る。
 佐伯もそれを言ったら再び険悪なムードになることを嫌と言うほど理解しているようだ。疲労感たっぷりに溜息を吐き出した後、佐伯は口を真一文字に結んで俺と野々原を交互に見る。それは「ことの成り行きは二人に任せる」と言わないばかりだった。
 俺と野々原が目を背ける形で、状況のまずさを痛感して押し黙ってしまえば、そこには誰も返事をしないことによる静寂が生まれた。放っておけば何も事情を知らない須藤が何かしら対応をしてくれるかも知れない。そんな甘ったれた意識に背中を押されて黙って様子を窺っていると、再度予想だにしない方向から助け船が出された。
「あれ、結衣ちゃんは?」
「その辺にいない? さっきまでヨーグルトに好物のブルーベリージャムを馬鹿みたいに上乗せしてたんだけど」
 それは永旗を探す声だ。
 俺達が入り口側近くの席に陣取っているのに対して、その声は食堂の奥まった方にある席から聞こえた。
「ごめん、言い忘れてた、今日はこっちに混ざる。それと馬鹿みたいにってゆーな、ブルーべリーは体に良いんだよ!」
 永旗の口から出た受け答えには「こっらに混ざる」という言葉が含まれ、既にそれは決定事項のように聞こえた。いや、誰も拒否の意志を示さなかったのだから、それは既に事実上の決定事項なのだろう。
「だーかーら、他の子のところに混ざるなら混ざるでいいけど、人に頼んだものは持って行きなさいよね」
 永旗は持っていたトレイを佐伯の横の席に置くと、渋々という形で頼んだものを取りに行く。
 須藤は永旗がこの場を離れたその隙を見逃さない。透かさず、俺の肩に腕を回すと追求の言葉を向けた。
「おいおいおい、いつの間にこんな可愛い子達と知り合いになったんだよ?」
 まだ、その「可愛い子達」に含まれるのだろう佐伯が席にいるので、須藤の言葉は強い調子ではない。しかしながら、そこには「俺も紹介してくれ」という強い主張がある。
 ただ、そんな須藤の主張を前に、俺は曖昧に笑うことしかできなかった。
 確かにどちらも平均以上と思える器量を備えていると思う。けれど、それ以上にこの二人は癖のある相手だ。
「佐伯も永旗も一癖も二癖もある相手だぞ?」
 ここに佐伯も永旗も居なかったのなら、俺は迷わず須藤にそう忠告しただろう。
 それに、若薙が居なければ、佐伯にしても、永旗にしても、僅かな時間でここまで仲良くなることはなかったはずだ。
 須藤の要求を前にどうしようかと思った矢先のこと、野々原のテーブルを叩く音に呼ばれた。それは指先でトントンと軽く叩くもので、傍目には誰かを呼ぶための行為だと気付かれはしないだろう。
 もちろん、俺がそれに気付いたのも偶然に等しい。指先でテーブルを叩く音を俺が全く気に掛けなかった場合、その合図に気付くことなどなかったはずだ。前もって打合せでもしていれば別だろうけど、今回に限って言えば「運が良かっただけ」といえる。
 音に惹かれて野々原の様子を窺う俺に、野々原からは真剣な表情と目付きが向いた。そして、そこには強いメッセージが伴っている。
 野々原はすぅと視線を走らせて佐伯、そして永旗を見、再び俺を注視する。その言わんとするところを、俺は容易に汲み取ることができた。
「永旗さんと佐伯さんが直接的に会話をするのを極力回避しよう」
 俺は苦笑しながら、頷き返す。上手く立ち回らなければならない。胃がキリキリと痛まないか心配になってくる辺り、それを強いプレッシャーと感じていた証拠だろう。
「や、お待たせ」
 そう言いながら戻ってきた永旗は何事もなかったかのように、佐伯の隣の席に腰掛けた。
 その手にはコーヒーカップとクロワッサンが二つよそわれた皿が握られている。コーヒーカップには例のカフェオレが入っているのだろう。そして、時間的なことを考えると、それはいい具合に冷めてしまっていると思えた。
「佐伯ちゃん、一日ぐっすり眠った後なのにどうしてそんなに機嫌悪いかな? 笑って済ませて、なんて言う気はないけど、何事もなく終わったんだからいいじゃない?」
 佐伯「さん」から「ちゃん」に呼び名を変えて、永旗の攻勢が始まる。
「すぐ頭に血が上ってカッとなるのはカルシウムが足りてないからじゃないかな。カフェオレ、あげようか?」
 ずいっとコーヒーカップを差し出す永旗の様子には、パッと見佐伯をからかう調子は見て取れない。では、永旗がカフェオレを差し出す行為が親切心から来るものかどうか。そこは非常に疑わしいと思った。それは既に冷めてしまっているだろうし、要約すると冷めたカフェオレの味について永旗の友人はこう述べていた。
「冷めたら美味しくない」
 忘れもしない。
 そして、俺の記憶が正しいなら、それは永旗自身が友人に向けて述べた見解だったはずだ。そういったところを全部引っくるめて、永旗はそれに気付いていないのだろうか。それとも、解っていながら素知らぬ顔して差し出しているか?
 それが解らないから永旗の言動が佐伯に対して喧嘩を売っているのか、それとも矛先を大幅に間違った親切心なのかは判断できなかった。
 それは永旗の攻勢を受ける佐伯も同様のようだ。今のところ、一貫して佐伯が永旗の言葉を聞き流す形で反応を返さないから、そこには目に見える形での険悪さはない。けれど、周囲を漂う雰囲気が急速に悪化しているのはいうまでもない。
 反応を返さない佐伯に変わって代弁するなら「機嫌が悪いのはお前のせいだ!」となるだろう。
 ともあれ、佐伯はそんな永旗をちらりと横目に流し見ると、ふいっとそっぽを向いた。そこに「要らない」という確かな言葉を残さなかったものの、体よく言えば「遠慮」の姿勢を見せた形だ。それは「拒否」というほどの強いものではない、あくまで遠慮という姿勢だ。
「いくらあたしの存在が癪に触るからって言ったって、返事ぐらいはしようよ。ね、佐伯ちゃん?」
 永旗はそっぽを向いた佐伯の顔を覗き込むように体勢を取ると、あろうことか佐伯の頬を指で突いた。
 佐伯がまとう雰囲気に、怒りが露骨に混ざった気がした。
「食事中にちょっかい出すのはやめて。それとも、口の中にそのクロワッサンを突っ込まれて静かになるのが良い?」
 佐伯に永旗を構ってやる意志がないのは明白なので、そこに割って入っても問題はないだろう。いや、問題ないというか何というか、そこに割って入らないとあれよあれよという間に取っ組み合いの喧嘩へと発展してもおかしくはない。
 馬が合わないんだろうな。
 思い切って、俺は切り出す。
「永旗さんはさ、今日も淀沢村の案内ツアーに参加するの?」
「んー、どうだろ? 正直なところ、今の段階で既にもうかなり眠いから、そこは状況次第かな」
 永旗は目を閉じると、ふらふらと左右に揺れて見せて今の「眠い」という状況がかなり差し迫ったものだとアピールする。そうして、パチッと目を開いた永旗からは返す言葉で俺の参加有無を尋ねられた。
「笠城はどうするつもり?」
 その答えは決まっていた。ついさっき、須藤相手にもはっきりと意思表示している。
「俺は参加するよ」
 そう言い切った後、俺は一つ間を置き永旗に尋ねる。
「……そこでさ、永旗さんに一つ聞いておきたいんだけど、若薙と村上が今日参加するつもりかどうか知ってる?」
 そんな質問を前に、永旗はニィと意地の悪い笑顔を見せる。
 そこに不穏な空気を感じ取って、俺は思わず永旗にその笑みの意味を確認していた。
「な、何だよ?」
「笠城が参加するって言い切ったことをあの二人が聞いたら、例え最初は参加するつもりがなかったとしても「参加するぜ!」っていう話の流れになるだろうなぁって思って。……これはまた昨夜同様に楽しくなりそうな匂いを感じ取っちゃったな。眠いなんて言ってられないよね。あたしも参加しなきゃ、だね」
 俺は押し黙る。永旗に聞くべきことではなかった。本気でそう後悔した。
 今回ばかりは墓穴を掘ったのだろう。
 佐伯と野々原が「ご愁傷様」と言わないばかりに哀れみの目を俺へと向けていたのを俺は見逃さない。
 ともあれ、そこからは若薙・永旗側の昨夜の逃走劇についての話になった。
 終始、佐伯は聞き手に回り、必要最低限しか喋っていなかったように感じた。永旗相手の場合、自発的に口を開けばどんな場面からでも口喧嘩の様相を呈する可能性があることを佐伯自身理解したのかも知れない。何だかんだ言っても、食堂で永旗と顔を合わせた時、最初に喧嘩腰で口を開いたのは佐伯の方なのだ。
 食事を終えての別れ際、俺は永旗にポンッと背中を叩かれる。
「じゃあ、また後でね」
 振り返ると笑顔の永旗にウインクされた。相手が永旗でなかったら、少しはときめいたのだろうか。
 今更、参加しないというわけにも行かないか。俺は腹を括る。
 永旗から若薙へ、情報は確実に伝達されるだろう。ならば、部屋に立て籠もって参加拒否をしてみたところで、昨夜の若薙がやって見せたような扉を開かざるを得ないような手段を用いられるのは目に見えている。
 緑陵寮食堂で永旗と別れた後、部屋へと戻る途中の玄関口で佐伯が立ち止まった。その目は下駄箱の上に置かれた温度計へと向けられている。
 佐伯の視線を追って温度計に目をやると、そこに表示された気温は既に二十六℃を指していた。そして、見ている分には心地よさを感じるほどの快晴がそこにある。ただ、これから南中へと掛けてまだまだ気温が上昇するだろう午前中でこれなのだ。今日は間違いなく真夏日になるだろう。
「さて、と。朝御飯も食べ終えたことだし、あたしも本格的に暑さが増す前に遊木祭寮へ戻ろうかな。このまま緑陵寮にいても、笠城も野々原もいなくなるんじゃ仕様がないしね」
「そうする? 野々原の方はともかく、俺は淀沢村案内ツアーまでまだ時間があるし、食後の休憩ぐらいなら喜んで付き合わせて貰うけど?」
 俺の提案に佐伯は思案顔を見せる。
 てっきり、その思案の矛先は気温上昇後の過酷な帰路と、食後の休憩を天秤に掛けたものだと思った。
 食後の休憩の中で、さすがに「ケーキを用意しなさい」と言われて「はい、ご用意させていただきました」とは行かないけれど、スナック菓子の備蓄ぐらいは部屋にある。冷たいジュースはないけれど、食堂を利用することでアイスコーヒーぐらいは用意できる。優雅というには程遠いけど、食後の休憩には十分だろう。
 そういうところを悩んでいると俺は思ったけれど、佐伯の思考は別の着眼点へと向いていた。
「笠城と野々原と一緒に緑陵寮にいると、……若薙と顔を合わせる羽目になる気がするんだ、あたし。そうすると、永旗さんを相手にしたみたいな展開になるだろうなーって思う」
 言われて始めて気付いたわけではないけど、それは確かに俺が失念していたことの一つだった。今後の展開を想像すると、淀沢村案内ツアーへの参加について、永旗から状況を耳にした若薙が俺の部屋へとやってくる様子がありありと目に浮かんだ。
 もしも、その場に佐伯が居たら?
 言うまでもない。
「……」
 押し黙る俺に、佐伯は再び思案顔を見せた。そして、佐伯が導き出した結論は、遊木祭寮に戻るという内容だ。
「やっぱり、戻るよ。昨日の今日だしね。下手に顔を合わせたら、どこから口喧嘩に発展するか解らないでしょう?」
 佐伯の頭には「自重する」と言いながら、永旗相手に喧嘩腰を取った自身の行動が強く残っていたのかも知れない。
 佐伯は下駄箱の中から突っ掛けを取り出し、それに履き替えると玄関へと足を向ける。そうして、玄関の扉に手を掛けたところで一度立ち止まると、振り返って野々原を見た。
「あー、そうそう。倫堂の件、近日中には何とかするから、まぁ期待しててよ。借りた服もその時に返すね」
 佐伯はそう言い残すと緑陵寮を後にした。
 一方の野々原も部屋へ戻ってカンバスを手に取ると、すぐに群塚高校へと出掛けてしまった。佐伯を見送った後、十分も経たないうちのことだ。
 俺は一人部屋取り残される格好になる。久しぶりに、ボーッとできる時間がやってきた気がした。
「……まだ、結構時間あるな」
 壁掛け時計に目をやって、俺は淀沢村案内ツアーの出発時刻まで余裕があることを確認する。
 ちょっとだけ横になろう。結果としてはそんな意識に負けた形だ。
 昨夜の逃走劇の疲労が抜けきっていなかったことが多分に影響したのだろうか。それとも、決定的な敗因は室内へと差し込む太陽光だったのだろうか。普通は朝日を浴びて体内時計の調整をするらしいから、朝日を浴びたことは眠気を誘う直接的な要因じゃないかも知れない。そもそも、午前九時を回ろうかという頃の太陽光を「朝日」といっていいかどうかはまた別の話な気がする。
 そんな思考がぐるぐる頭を過ぎっていたかと思えば、俺の意識が急速潜行するまでに多くの時間は掛からなかった。




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