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Seen04 手品師とトラブルメーカーと遊木祭川の怪物(中)


 どうにか緑陵寮へと戻ることができたのは、辺りが完全に夜の闇に包まれた後だった。
 あの後、大野には綾辻から手渡されたメモ書きの裏に緑陵寮までの簡素な地図と、目印となるポイントを書き込んで貰った。俺は余計なことを何も考えずその地図通りに進み、どうにか緑陵寮まで戻ってきた形だ。
 実際問題、緑陵寮を目指して進んでいたはずの俺は、途中からかなり見当違いな方向へと歩いていたらしい。大野と出会ったバスケットコートから緑陵寮へと戻る途中で、俺はまざまざとそれを思い知った形だった。大野に出会わなければ、見当違いな方角に進み続け、一日彷徨ったかも知れない。
 ともあれ、緑陵寮へと帰着した俺は、時間ぎりぎりではあったものの何とか夕食にもありつけた。
 夕食後はイベント参加組の部屋へと足を向けたりしたけれど、結構な遅い時間にもかかわらず、イベント参加組はまだ帰宅していなかった。てっきり夕食を外食で済ませてきたから食堂に姿を現さないだけだと思っていたけれど、そう言うわけでもないらしい。
 プラネタリウムのことや、途中でイベントを抜けたことに対して先手を打ったりと、色々聞きたいことや言っておきたいことがあったけれど、相手が居ないのではどうしようもなかった。俺は風呂で汗を流した後、大人しく自室へと戻る。自室に戻った俺を待っていたのは、絵の制作を続けいた野々原だ。
 俺は邪魔にならないよう意識して大人しくしていたけれど、野々原に取ってはその気遣いが逆に気になったのかも知れない。それは野々原の方から他愛のない雑談を振るという行為に、顕著に現れていた気がする。尤も、俺は途中からそんな野々原の言葉にも反応できなくなってしまった格好だった。
 いつ眠りに落ちたのかは解らないけど、俺は眠気に襲われるままベットへ横になったらしい。意識を失う直前の記憶は、壁に寄り掛かりながら野々原と話していたという内容だから、意識を失ってからベットまで移動したのかも知れない。
 ともあれ、ガタッというイーゼルを動かす音がして、俺はハッとなった格好だ。ふと気付いたら、時計は三時間も進んでしまっていて、野々原は後片付けの真っ最中という光景だった。
「すまない、起こさないようにと思ったんだけど……」
 申し訳なさそうな野々原に、俺は曖昧に笑いながら答えた。俺を起こしたことを気にしないよう野々原に促す適当な理由と言葉も、都合が良いことにすぐに見付かった。ベットから起き上がった俺の格好がその答えだ。
「気にしなくて良いさ。眠るっていうのに外出着のまま、着替えもしないんじゃ横着するにも程があるだろ?」
 ただ、その言葉は本音半分に、嘘半分だ。
 どんな言葉を用いてみせたところで、やはり心地よく船を漕ぎ、そのまま本格的な眠りに落ちるところだったというのは否めない。そこには「起こされた」という思いが少なからずある。
 加えて言うなら、いざ本格的に眠ろうかという時になって直面した熱帯夜の寝苦しい夜だ。「あのまま眠っていたら……」と、ちょっとだけ俺は後悔した。
 今宵の寝苦しさは半端ではなかった。本格的な眠気が俺を襲わないことについては、先ほど中途半端に船を漕いだことが多分に影響しているだろう。けれど、それを差し引いても今夜の寝苦しさは際立った。何度も寝返りを打つ野々原の様子がそれを物語っただろう。
 時刻は深夜一時を回ろうかという頃。眠ろう眠ろうという意識が強くなればなるほど、眠気が遠ざかる気さえした。深夜になっても鳴り止まぬ、虫の奏でる大合唱がそれに拍車を掛ける。
 既に、窓は網戸一枚を残して全開の状態だ。寝具のタオルケットも暑苦しさから何処かにほっぽってしまった。空気の入れ換えだとか、文明の利器に頼らない手段で室内温度を下げる術は全て講じたと言えただろうか。
 それでも、事態が何ら好転しないのだから、睡眠を諦めることも視野に入れる必要があるだろう。
 共同リビングに備え付けられたエアコンで、一時の涼を取りに行こうかと本気で悩み始めた時のこと。もう何度目になるかも解らぬ寝返りに合わせるかのようなタイミングで、不意に部屋の扉がノックされた。
 それは控えめに「コンコンッ」と二度ノックされただけだったけれど、確かに人為的なものだと解るタイミングだ。
 俺は気配を殺して様子を窺う。
 すると、ドアの向こう側からは聞き覚えのある声が響いた。
「返事がねぇな。……もしかして、笠城ももう眠っちまったか?」
 それは恐らく若薙のものだ。
 いや、そもそもこんな深夜に訪問してきて、無遠慮に部屋の扉をノックする相手に心当たりはそうそういない。ただ、俺が深夜の訪問者に向けて言葉を向けるよりも早く、ルームメイトである野々原が反応した。
「こんな夜中に、誰だい?」
 不躾な深夜の訪問者に対し、野々原の切り返しは心なしか棘の混じる不機嫌な口調だ。尤も、それは深夜の訪問によって眠りを邪魔されたからというよりも、何をやっても改善されない熱帯夜の暑さのせいだったかも知れない。
 ともあれ、野々原が反応したことで、深夜の訪問者はそのテンションを上がる。
「こんばんわ、淀沢村の深夜の時間を彩るミッドナイト情報便のお時間です。本日は「こんな気温で誰が寝れるか! 全室クーラー完備しやがれ!」的な寝苦しい夜に涼を取る素晴らしいイベントのお誘いです」
 野々原は不機嫌な調子を引っ込めると、溜息混じりにその声の主を確認する。
「その声は、若薙君……だね?」
 若薙からの返事はなかったけれど、野々原がまとう雰囲気は既に「若薙なら仕方がない」と諦観するようなそれだ。そんな態度は野々原が若薙をどういう風に見ているかを如実に表していただろう。
「ああ、この声は若薙だなぁ」
 俺は堪らず、そこに言葉を挟んだ。
 若薙が野々原に絡んでいるのを見たことはない。若薙の目的は恐らく俺だろう。そのまま、野々原に若薙の相手を押し付けるつもりにはなれなかった。
「ちなみに、昼のイベントの途中で黙って姿を消してくれやがりました笠城賢一君に拒否権はありません。強制参加となります」
 俺のその推測を証明するように若薙の口からは俺の名前が出る。フルネームで俺の名前を呼んでみせたりする様子や「ありません」だとか「なります」だとか宣うらしくない口調は俺に嫌な予感を引き起こさせる。
 このままドアを開けない方がいいんじゃなかろうか。ふとそんな思考が脳裏を過ぎる。
 例え、それが明日の朝、烈火の如く非難を受けることに繋がったとしてもである。
 ベットから起き上がった状態のままドアを開けることを躊躇う俺に、向こうも不穏な動きを感じ取ったらしい。閉ざされたドアの向こう側で「部屋に入れさせないと大変なことになる」と口走る。
「後十数え上げる間にこの扉を開けてくれないと、大変なことが起きてしまいます。そりゃあ、言うまでもなく馬原はぶち切れるだろうし、神社の石畳の上に有無を言わさず正座させられて、時折、何の落ち度もないのに背中を竹刀で叩かれるような特等席で、怪人「綾辻」のヒステリックな叫び声を数時間に渡って堪能できちゃうかも知れない」
 酷い脅迫もあったものだと思いながら、俺はルームメイトの野々原に対して申し訳ない気持ちで一杯になった。熱帯夜のお陰で、野々原も眠りに付いていなかったことだけが唯一の救いだろうか。本来ならば眠りを邪魔する苛々の原因でしかないはずの熱帯夜に、俺はちょっとだけ感謝する。
「それで、……どうする? 笠城君に遊びの誘いみたいだけど」
 その質問は施錠を外すかどうかを確認したものというよりも、俺にその気があるかどうかを確認したものだった。恐らく、俺にその気がなければ野々原は色々と理由をつけて、強制を口にする若薙を押し退けてくれたかも知れない。それで、野々原に迷惑が掛かったとしてもだ。
 ドアの向こう側で若薙がカウントダウンを始める。けれど、逆に言えばそのカウントダウンが終わるまでは時間があるということだ。俺はその時間を使って、野々原と若薙の今後の対応について話しをしようと思った。今日はともかくとしても、今後も同じようなことをやられると野々原にまで迷惑が掛かる。
「本当にごめんな。俺と一緒の部屋になったばかりに、こういう形で迷惑が掛かることになっちゃって……。以後、こんなことがないようにきつく言っておくから!」
「はは、若薙君相手じゃ事前に何を言っておいても無駄だったと思うよ。それに、これだけ寝苦しい夜なんだ。涼を取るって考えは、強ち悪くない提案かも知れない」
 間延びした声で読み上げられるカウントダウンの数字はまだ「六」に差し掛かったばかりだ。時間はまだまだたっぷりあるから「ギリギリまで粘ってやれば良い」と思っていた矢先のこと。
「うわッ、ちょっと待った! これは、まずいぞ!」
「馬鹿! 大きな声を出すな!」
 若薙のカウントダウンに異変が生じれば、そこに漂う雰囲気は一気に緊張感を帯びた。
「おい! 取り敢えず、部屋に入れてくれ!」
 不意に、押し殺した声で廊下からそう要求してきたのは若薙でなかった。
「その声は、村上?」
「ああ、俺だ、村上だ! 開けてくれ、頼む!」
 村上の切羽詰まった調子を聞く限り、廊下では何やらまずい状況が起こっているらしかった。まぁ、馬原だとかが廊下の騒がしさに気付いて見回りを始めただとかそういうことだろう。
 ともあれ、俺の部屋の前で若薙や村上が捕まった日には、色々と俺にまで飛び火してくるのは明白だった。
 施錠を外すため、俺は溜息混じりにドアまで足を向けた。
 てっきり、廊下には若薙と村上だけがいるものだと思っていた。けれど、施錠を外した瞬間、部屋にぞろぞろと雪崩れ込んできたのは若薙と村上だけではなかった。若薙を筆頭に、村上と下部、そして名前を知らない男女が各一名ずつ。「深夜の訪問者」というには結構な大所帯だ。
 俺は思わず、想定外の事態に頓狂な声を上げそうになる。
「うあッ! なん……」
 そこまで口走った瞬間のこと。にょきっと誰かの手が伸びてきて俺の口は塞がれる。それが見覚えのない女のものだと解って、俺は再び頓狂な声を上げそうになった。
 見知らぬ女は部屋に雪崩れ込んでくるなり、口元に立てた右手の人差し指を強調し、声を立てないよう俺と野々原に注意を促した。口を塞がれていなかったなら、俺の頓狂な声が静まり返った緑陵寮に響き渡ったに違いない。
 一体何事かと若薙と村上の様子を窺うと、若薙は部屋の扉に耳を当て廊下の様子を窺う格好だ。真剣そのものといった表情はここに来るまでにやばい橋を渡ってきたことを容易に想像させた。
 どうしてそんな事態に陥っているのか。俺の部屋に来るまでに何をしてきたのか。それさえも大凡予想できてしまうのが若薙だった。恐らくは、俺と野々原相手についさっきやって見せたことをあちらこちらでやらかしてきたのだろう。
 扉に耳を当てて、廊下の様子を窺っていた若薙が大きく安堵の息を吐く。
「……よし、ことなきを得たみたいだ」
 それが引き金だった。雪崩れ込んで来た面々も、その一言で一斉に緊張の糸が切れたらしい。その場で脱力する。
 そうして、一通り脱力し切って落ち着きを取り戻した後、今度は俄に言い争いの様相を呈し始めた。
「若薙は行き当たりばったり過ぎなんだって。もっとこう、緻密に行かなきゃ駄目だ!」
 見知らぬ女の指摘に、若薙が反論する。
「お前に浅木や仁村を誘う役目を頼んだのが俺の間違いだったね! 大人しく下部に任せておくんだった」
 ただ、そこで若薙が「下部に任せる」という台詞を口走った瞬間、下部がそれを拒絶した。
「もう二度と嫌! 事前に話がついてるなんて嘘ついて、全然話が付いてなかったじゃないですか!」
 放っておくとせっかくことなきを得たのに、事後の対応が不味かったことによって全てが無駄になりかねない。
 別にそれで若薙や村上が連行されていくだけならばまだ構わないけど、最悪の場合、俺と野々原を含めた連帯責任になり兼ねない。そうなってしまってからは手遅れである。けれど、いざ「仕方がないから」という理由で俺が間に入って宥めようかという時になって、部屋に雪崩れ込んできたもう一人の男が間に入ってくれた。
「まぁまぁ、ここで大声出すとせっかくやり過ごしたのが無駄になるぜ? 今は落ち着こうな?」
 一同、自分の置かれる状況を改めて再認識したらしい。一部、下部がむすっとした顔のままではいたけれど、部屋に雪崩れ込んできた面々は口を閉ざして静かになった。
 心なしか重い空気が漂う中、俺は見知らぬ二人の詳細を求めた。
「えーと、誰?」
 俺の疑問の声に見知らぬ二人は顔を見合わせた後、どちらからともなく名前を名乗った。
「俺は岸壁太一(きしかべたいち)だ。これから何かと顔を合わせることになると思うぜ。まぁ、よろしく頼むわ」
「あたしは永旗結衣(ながはたゆい)。よろしくね、笠城」
 それぞれ岸壁、永旗と名乗った二人はどちらも非常に軽いノリだ。
 浅木ほどの人懐っこさこそ感じさせないけれど、どちらも話し掛けにくい雰囲気とは無縁のタイプに見える。若薙とのやりとりを見ていただけでも解ることだけど、気難しさだとか堅苦しさだとか言ったものは微塵も感じられない。
「ああ、うん、……こちらこそよろしく」
 あまりにも第一印象で感じたままの二人の受け答えに、当の俺の方がやりにくさを感じてしまったぐらいだ。
 改めて部屋に雪崩れ込んできた面子の内二人を俺は確認する。
 岸壁は自然に逆立つぐらいに短い茶髪を整髪料で散らした髪型をしていた。服の上からでも筋肉質だと解るぐらいに体格が良く、一度見掛けたら意識せずとも記憶に留まるタイプだろう。ただ、俺が入寮してからまだ数日しか経過していないとはいえ、緑陵寮の食堂などでも見掛けたことのない顔だった。
 一方、永旗の方はイベント参加組の中に居た一人だった。昼間の時とは髪型が違うのでパッと見では解らなかったけれど、改めて確認をして気付いた形だ。接点がなかったので一度も話したことはないけれど、遠目に友達と談笑しているのを何度か見掛た限りではハキハキと喋り笑う活発的なタイプだと思った。ここまでさっぱりとしたタイプだとは思わなかったけれど、総じて永旗は遠目に見て感じたままの性格のようだった。
 どんどん知り合いが増えるなぁ。そんなことを思いながら、岸壁と永旗の二人をボーッと眺めていると、野々原が村上に向けた言葉が耳に飛び込んでくる。
「でも、こんなイベントに村上君が参加するなんて意外だよ」
 それは確かにその通りだと、俺も思った。何より村上のイメージにそぐわないように思える。
 そんな野々原の率直な感想を前に、村上は何かを思い出したように頭を抱えた。そして、どういう経緯でこのイベントに参加するに至ったかを、疲労の見え隠れする顔で説明した。
「夕食の時に「今夜、花火でもやって涼を取ろうぜ!」って若薙に誘われて安易に頷いた結果がこれだよ! ついさっき、俺も部屋の前で同じ台詞で脅されたばっかりだ。深夜零時を回っても何のアナウンスもないから忘れていると思ったら、あれよあれよという間にこんな状態だ」
 らしくないと野々原が感じた通り、イベントに参加したのにはやむを得ない理由があっただと村上は弁解した格好だった。その弁解の矛先が野々原に向けられたものか、自己弁護の言葉だったかは解らない。ともあれ、そこには「こんなことになるなら参加しなかった!」という意志が見え隠れする。
「そっか、それはお気の毒に……だね」
 村上がここにいる理由の説明を聞いた野々原は、苦笑いの表情だった。
「しかし、あれだな。三階から上は風紀担当の警戒態勢っぽいし、もう女子を誘いに行ける雰囲気じゃないな。この面子で決行するしかないんじゃないか?」
「面子が足りないって言うのなら、もう一度特攻しても良いけど無事に帰ってこれるかどうかは保証できないなー」
 岸壁の見解と永旗の申し入れを聞き、若薙は小難しい顔をして押し黙る。
 若薙はこれから始まるのだろう「深夜のイベント」について、俺に拒否権はないと言った。けれど、俺も当事者となるのだから、一応確認しておく必要があるだろう。まだ、参加の要否について返事はしていないのだ。あまりにも酷い内容ならば、降りるという選択肢も十分あり得る。
 話掛けるタイミングを窺う俺の様子に、若薙はすぐに気付いたようだった。そして、俺が何を求めているのかも、すぐに察したらしい。若薙は深夜のイベントについて説明を始める。
「普通に生活しているとなかなか関わる機会がないだろうと思って、緑陵寮の面々で面白可笑しく楽しめる深夜のイベントを企画してみたわけだ。特に新入寮者の付き合いの幅なんて知れているだろ? まぁ、何だかんだ言ったところで結局集まったのはこれだけなんだけどな!」
 態度に「全く付き合いの悪い連中ばかりだ」という雰囲気を混ぜる若薙の調子に、俺は苦笑いを隠さなかった。
 俺としては今現在進行形で体験しているこの誘い方に「問題があるんじゃないか?」とも思うわけだ。敢えてそこに触れることをしなかったけれど、深夜に前置きなしの突然の訪問では参加者も限られるだろう。
 それを踏まえた上で、俺はこれから誘える面子について須藤の名前を推そうと思った。昼のイベントの時に誘えなかったので、今回はと思う気持ちがあったわけだ。須藤の人付き合いから俺の高校の同級生繋がりで被災者を増やすことも可能かも知れない。
 ただ、俺が須藤の名前を推すよりも早く、若薙は愚痴という形で既に誘って駄目だった面子の名前を挙げる。
「笠城繋がりで須藤に声を掛けてみたけど反応ねぇし、穂坂(ほさか)にはきっぱりと断られるし、参戦するっていってた米城(よねしろ)は廊下にまで響くほどのイビキをかいて爆睡してるしな! 色々と声を掛けてみたわけだけど、なんともまぁ寂しいもんだよ」
 どうやら、須藤とは今回もタイミングが合わなかったらしい。
「やっぱり、一番最初の女子の誘いで失敗をやらかしたのが大きいよな」
「そうだな、宿野(やどの)が居れば穂坂は絶対断らなかっただろうし、……なんて色々思うところもあるけど、今更グダグダ言ってもそれはしょうがねーよ」
 そんな岸壁の寸感に、若薙が共感した。
 そして、その責任追及は矛先を永旗へと向ける。
「貸し一つだな、永旗」
 永旗はどう見てもその前後の会話からはミスマッチだと思える得意顔で答えた。
「まぁ仕方ないかな、ミスはミスだし。せっかくだから、ここはでっかく貸されておいてあげよう!」
 何の反論も返さず、素直にその貸しを永旗は受け入れた。俺の部屋に来るまでにどんなやりとりがあったのかまでは解らないけれど、その失敗とやらをやらかしたのは永旗なのだろう。尤も、当の永旗は「仕方がない」と、その責任を認めつつ悪びれた様子一つ見せないのだから大したものである。
「……威張っていうことじゃねぇだろ?」
 さすがの若薙も苦笑いの表情を隠さなかった。
「じゃあ、そろそろ始めようぜ?」
 岸壁がそんな言葉で、この場にいる全員に投げ掛けてしまえば、実質そこから長い夜は始まったのだろう。
 そして、それに呼応するようかのように得意気な顔をした若薙が畳み掛ければ、それは一層顕著になる。
「なに、いくらか人数が足りないだけで悪くない面子じゃないか! 眠れない熱帯夜の蒸し暑さを吹き飛ばすため、深夜の納涼と洒落込もうぜ」
 若薙に発破を掛けられて、殊更にテンションを上げたのは岸壁と永旗の二人がメインだった。最初は呆れ顔だった村上や下部も、その一言で気分を切り替えたらしい。
 若薙の「深夜の納涼と洒落込もう」といった言葉に異を唱えるものはいない。尤も、ここにこうして顔を揃えている以上、今更何を言っても無駄だと思っているだけかも知れないけれど……。
 そんな中、ふと野々原が小難しい顔をしていることに俺は気付いた。
 そして、その小難しい顔のまま、野々原は若薙へ言葉を向けた。
「それ、僕も参加させて貰っていいかな?」
 若薙は一度キョトンとした顔をする。若薙に取っても、それは思い掛けない方向からの言葉だったのだろう。尤も、断る理由などあるはずもなく、若薙は二つ返事でそれを快諾する。
「もちろん、旅は道連れ。大人数の方が面白いに決まってる」
「野々原がこの手のことに首を突っ込むなんて珍しいが、たまには羽目を外すことも大事だと思う。……うん、それが若薙の企画した深夜のイベントっていうのが少々受け入れ難いことだけど、……歓迎するよ」
 そんな村上の言動を、俺は「なにか芝居じみている」と思った。敢えて、そこに口を挟むことはしなかったけど、俺がそうしなかったことで意外な人物がその村上の言動に言及した。
 野々原である。そして、それは「何か芝居じみている」という部分から、さらに一歩踏み込んで鋭い指摘だ。
「それ、自分だけが巻き込まれるのは納得いかない。どうせなら、みんな巻き込んでやるっていう気持ちが根底にあったりしないかい?」
「はは、まさかまさか、俺がそんなこと考えてるわけないだろう?」
 野々原の指摘に目を泳がせる村上。
 野々原は呆れ顔を隠さなかった。
「どうだか。……とはいえ、色々思うこともあって、少し気分転換がしたい。参加させても貰うよ」
 村上と野々原がそうやって会話をしていることに、俺は驚かされた。もちろん、同じ緑陵寮の入寮者同士なのだから、全く接点がないなんてことはないだろう。けれど、そうやって談笑するような仲だということが意外だったのだ。馬原と野々原のぎこちなさを目の当たりにしているからこそ、俺はそう思ったわけだ。
 村上と野々原はものの考え方がかなり異なるタイプのように、俺には映る。
 どんな経緯があって馬があったのだろう。ふとそんなことが気になった。


 緑陵寮を抜け出すと、熱帯夜の暑さが肌へとまとわりついてくる。歩くという当たり前の行為をするだけで、うっすらと汗ばみ始めるぐらいの気温がそこには横たわっていた。
 もしかすると、部屋の中の気温の方がいくらかマシかも知れない。そう実感してしまえば、俺は苦笑いを隠さなかった。深夜の散策で「多少は涼が取れるかな」と思っていただけに、期待が裏切られた気分だ。
 こうして、深夜の淀沢村を散策するのは始めての体験だ。まず何よりも驚いたことは、俺が思っていたよりもずっと村全体が明るいことだった。それはあちらこちらに設置された街灯が、淀沢村全体を照らし出しているからだ。
 俺が思い描いていた山の中の田舎というイメージは、もっともっと街灯が少なく夜が暗いイメージだ。その代わり「空気が澄んでいて」「星空が綺麗で」といった月並みな美点が続く。ただ「虫の鳴き声が聞こえる」だとか、そういった部分は俺が思い描くイメージそのままだった。良い意味で山の中の田舎のイメージを、裏切られたといっていいだろう。
「驚いた、夜の淀沢村ってのは凄い明るいんだな」
「サマープロジェクトが始まった頃から主要な通りは大体こんな感じに整備されたんだ」
 若薙の言葉を聞く限り、この辺りは全てが主要な通りということになるのだろう。オレンジ色の灯りを放つ街灯が至る所に設置されていて、下手な地方都市よりも明るいかも知れない。
 その明るさに素直に感心していると、若薙がこう付け加えた。
「ちょっと通りを外れると不気味な薄暗がりが残っていて、肝を冷やすこともできるぜ?」
 さも「行ってみようか?」と言わないばかりの若薙の言動に、俺は思わず身震いしながら口走る。
「……勘弁してくれよ」
 情けないことだけど、俺はその手の肝試しや怪談話を苦手とするタイプだ。本日のイベントがその手のものだったなら、俺は強制参加に異を唱え、若薙達を部屋から閉め出してていたかも知れない。
「そう言うところを目の当たりにすれば、この辺りが特別に整備された場所なんだってのが実感できると思うけどな」
 若薙が言わんとすることは理解できたけれど、俺としてはそんなものを実感したくはなかった。御免被る。
「まぁ、何だかんだ言って、天体観測を趣味に持つ奴らはこれだけの明かりでも目視できる星座の数が減ったと宣って、観測場所を山の方に移したり色々と工夫しているみたいだけどな」
 俺は実際に天体観測をしたことがあるわけではない。けれど、素人目にもこの近隣の淀沢村の星空は、観測をするには向かないと思えるほどに明るいことだけは理解できた。もちろん、そうは言っても、都会とは比較にならないほど、淀沢村の方が天体観測に向いた場所ではあるだろう。
「それでも、俺の地元よりは遙かにきちんと星空してるよ。この辺りでも十分にね」
 ふと、若薙が「天体観測を趣味に持つ奴ら」という表現を使ったことで、俺の脳裏を過ぎる疑問があった。それはそういった集まり全般についての疑問だ。俺はそれを気に掛かるままに質問した。
「クラブ活動って言うの? そういうのってさ、サマープロジェクトの参加者が企画して、有志の参加者を募ってやってるのか? それとも淀沢村の地元民によってある程度そういう輪が作られてあって、そこに有志が参加する形なのか?」
 それは特定の誰かに向けて尋ねるという形を取ってはいなかったものの、返事は思わぬところから向けられた。
 それは下部である。
「どちらのタイプのものもありますよ、笠城さん。馬原寮長か、綾辻副寮長から説明受けていませんか?」
 下部は形として「説明を受けていませんか?」と締め括ったけれど、その実は俺がその手の活動に興味を持っているかをその目で確認した形だ。その手の活動に参加していて、新規の参加者なんかを求めているのかも知れない。今の下部の顔付きは、高校の新入生歓迎会などで部員勧誘をする生徒の顔付きに似ている。
 興味の有無を引っくるめ、俺は曖昧に答えを濁した。
「あー……、うん、どうなんだろう? 説明受けたのかも知れないんだけど、記憶になかったりするんだよね」
 記憶にないだなんて口走ってしまってから、下部から白い目を向けられるかも知れないと思った。けれど、下部はそんな俺の受け答えを気にした様子を見せなかった。その話し口調は一度俺に活動参加を勧める調子一辺倒だ。
「非公式なもの以外はどんな活動であっても群塚高校に拠点を構える必要があるので、興味があるなら一度行ってみると良いですよ。きっと、笠城さんに取ってこれこそはって思うものがあるはずですから」
「へぇ……って、非公式なもの?」
 軽く頷いた後、俺は違和感に気付いて頓狂な声を上げていた。
「えーと、あまり上手く説明できないんですが……」
 言葉に詰まる下部の様子に、野々原が助け船を出す。
「これが実はかなりの数存在していたりするんだ。寮単位での活動を前提としたものだとか、厳格な参加資格を設けているものとかね。そういうのは代表者に直接掛け合うしかないし、そもそも普通に生活していてその活動を知る機会がめったにないと思うよ」
 野々原は「あまり踏み込んだ質問をしないでくれ」という雰囲気をまとっている。あまり詳しくはないのだろう。
 ともあれ、俺に非公式な活動について踏み込んだ質問をするつもりはない。そもそも、このクラブ活動の話題をさらっと流してしまいたいと思っているのだ。
 そこに口を挟むものが居ないことを確認すると、俺はさらりと話題を変えてしまった。
「そういえばさ、この中で淀沢村のサマープログラム参加者って俺以外にどれだけいるの?」
「んー……、気にしたことないけど、若薙以外はみんなそうじゃないの?」
 永旗は顔を揃える面子を確認した後、その正否を確認すべく若薙へと視線を向ける。
 一方の若薙は小さく首を傾げて見せた後、この場にいる全員の顔を見渡した。サマープログラムの参加者かどうかを確認しているのだろう。
 思わず、俺は「覚えてないのかよ!」とツッコミを入れ掛けたけれど、どうにか後一歩のところで踏み止まった。
 一通り確認をし終えた若薙は、永旗の見解について「正しい」というお墨付きを与えた。
「永旗の言う通りだな。俺以外全員、ここに居るのはサマープログラムの参加で淀沢村に来た面々だ、と思う」
 尤も、最後の最後で断言し切らない辺り、若薙自身も確信を持てていないのかも知れない。永旗の見解が本当に正しいかどうかを確認するためには、サマープログラムの参加者かどうかを一人一人確認するしかないようだ。
 改めて、俺はぐるりと面子を見渡した。
 若薙以外の全員がサマープロジェクトの参加者と言われてみると、とても不思議な感じがした。地元民である若薙を除き、これだけタイプの違う面々が何らかの目的を持って、この淀沢村という一つの場所に集まっているのだ。
 みんな、どんな目的があって淀沢村に来たのだろう?
 俺は興味を惹かれるまま、すぐ隣に居た野々原へと問いかけた。
「どうして、野々原はこの淀沢村のサマープログラムに参加したんだ?」
「うん?」
 急にそんな話を振られたせいか、野々原は驚いたような顔をした。
 俺は慌てて、その質問に取り立てて深い意味があるわけではないことを口にする。仮に、強いてその理由を口にするならば、野々原の描くカンバスを眺めていて「ふと気になったから」と言う程度の理由だ。大層な理由ではない。
「いや、ちらっとカンバスを見せて貰ったことがあるんだけど、淀沢村に何か決まったモチーフがあって絵を描きに来たのかと勝手に思ってたら、特にこれといった題材があるわけじゃないみたいだったからさ」
 モチーフが決まっていないと言った俺の見解は、間違っていないようだった。仮にそれが俺の勘違いだったなら、野々原からはすぐに否定の言葉が続いただろう。
 野々原は歩きながら思案顔を覗かせた後、その決まっていないモチーフを見付けに来たという趣旨の言葉を口にした。
「都会では描けないものがここにある気がしたから、……かな。僕はまだそれが何なのかを掴んでいないけど、良くも悪くも何もないこの場所で、一夏を過ごしながら描きたいと思えるものをゆっくり見つけてみようと思ったんだ」
 それはところどころ、どこか言葉を選んでいるようにも聞こえた。
 恐らくは俺に解り易く説明できるよう思考をまとめていたのだろう。
「言葉で言うのは簡単だけど「そこにしかないもの」って言った方が適当かな。それは何も特徴的なものだけじゃない。例えば、……そうだな。延々と連なる送電線。それはどこにでもあるものだけど、僕はここでしか得られない、感じられない、何か淀沢村独自の「エッセンス」みたいなものを加えて、それを描きたいと思ってる」
 俺は首を捻る。
 野々原の言いたいことの曖昧な部分は理解できる。では、俺の中での具体的なイメージは何かを突き詰めてみると、それを言葉にできないわけだ。それは即ち、俺の中で淀沢村から連想される「エッセンス」のイメージが固まっていないからだろうか。
「……独自のエッセンスか。難しいな」
「題材としては、どこにでもあるものだって構わない。だけど、それを見る人が「これは特定の場所を描いたものだ」と感じるような仕上がりにすること。それが今の僕の目的かな」
 誰か特定の一人にそれを感じさせるのであれば、その特定の一人について嗜好を突き詰めていけばまだ何とかなるかも知れない。もちろん、対象が誰か特定の一人であったとしても、それは簡単なことではないだろう。野々原はそれを不特定多数の共有部分という形で求めようというわけだ。並大抵のことではないと思った。加えて言えば、野々原のその目的は、淀沢村に対する深い理解を必要とするはずだ。
 野々原の返答を聞いた後、俺は何気なく横を歩いていた村上へと視線を向けた。
 そんな俺の挙動を、当の村上は野々原同様ここに来たわけを求めたものと受け止めたらしい。
「俺がここに来た理由か?」
 それを尋ねない理由はなかったし、何より率直に村上の理由も聞いてみたいと思ったから俺は黙って頷いた。
 村上は得意気な表情を見せると、さも当然という風に切り出した。
「それはだな、精神的にも肉体的にも強くなる為さ」
 村上の言葉がどこまで本気なのかを俺は計り兼ねた。けれど、どうやらそこに冗談の類は一切含まれていないらしい。どう反応して良いものかを判断できずにいると、横から野々原と下部が反応する。
「その理由、前も聞いたけど、村上君は本気でヒーローになりたいんだね」
「……まだ自己鍛錬続けているんですか?」
 村上は迷うことなく答えた。
「当然」
 ただ、下部の質問についてだけは、そこにこう付け加える。
「まぁ、最近は他の為すべきことに時間を取られ気味だったりするけどな。それでも、自己鍛錬は時間を見つけて常にやっているぞ」
 野々原はまたいつかの小難しい顔をすると、一つの間を置き切り出した。それはこの場で言うべきか、言わないべきかをギリギリまで迷っていたように、俺の目には映った。
「……解っていると思うけど、ヒーローってのは自分一人だけでなれるものじゃないよ?」
 それは村上の夢に対して、条件的に不利な部分まで突っ込んだ内容だ。具体的な言葉にこそしなかったけれど、そこには「今のままでは適わないもの」と言ったに等しい雰囲気がある。
 ただ、村上もそれは重々承知しているようだった。そして、淀沢村で掲げるゴールラインを「ヒーローになる」というものではないと告げた。
「解ってる。だから、いつその役割を与えられても対処できるように、俺は準備を整えているんだ。完全な備えなんてものはない。来るべき時に備え、常に肉体と精神の強さを磨き続ける必要があるんだ。俺が淀沢村にやってきたのはそれを遂行するためさ。それに簡単に適うなんて思ってはいないぜ。夢だぜ、夢」
 真顔で答える村上に、俺は驚かされた。
 そこまで理解した上で、ヒーローというものに憧れているというのが俺には信じられなかったのだ。
 村上のヒーロー像がどんなものか具体的には解らないから、その到達点はイメージできない。それは些細な困難から人を救い出すことかも知れないし、いつしか村上が言った怪人から街を救うレベルのものかも知れない。そこにはどこぞの戦隊ものみたいに「変身して」というような条件が付随しているかも知れない。
 だから、聞いても仕方のないことと解っていながら俺は村上に尋ねてしまった。
「……ヒーローになってどうするんだ?」
「笠城、それは宇宙飛行士になって宇宙から地球を眺めてみたいんだって言っている相手に宇宙飛行士になってどうするんだって聞いているのと一緒だぞ? 突き詰めていっても理由なんてないんだよ、それが夢なんだから」
 村上は呆れ顔だった。
 ともあれ、野々原がそんなことにまで踏み込んだ指摘をしたことに俺は心底驚かされた格好だった。野々原と村上の間には簡素な友達付き合い以上のものがあるのだろう。俺はいつかその馴れ初めを聞いてみたいと思った。
「ここは誘惑の少ない土地だ、自己鍛錬をするには打って付けだろう? 淀沢村でなら有意義な夏を過ごせそうだと思ったわけだ。まぁ、蓋を開けてみれば、何の因果か……」
 そこまで村上が言い掛けたところに、今度は若薙が横から口を挟んできた。尤も、そうやって若薙が口を挟まなければ、村上からはつらつら愚痴めいた内容の話が続いたのだろう。
 それは絶妙のタイミングだったといって良いのだろう。
「有意義さを突き詰めることを悪いとは言わねぇけど、相変わらず村上は固いな。息抜きは必要だろ? ふと立ち止まってみて、改めて見付けることのできるものもあるぜ。やる時はやる、遊ぶ時は遊ぶ、メリハリつけてりゃいいのさ。後は、やるべき時にやるべきことをできたなら、それで万々歳ってもんだろ?」
 取り立てて、村上はその若薙の見解に反論をしなかった。けれど、その表情は心なしか冴えないように見える。ふと、村上に取ってここに居るということは「不本意」なのかも知れないと思った。
 そんな邪推をした俺の思考は諸に顔に出てしまっていたらしい。
「そんな顔するな、俺は俺の意志でここにいるんだ。野々原もそうだ。若薙の言う通りだよ、それ一辺倒だけではどうしようもない。何事もバランスが重要なんだ。こういう馬鹿騒ぎは俺の心に潤いを与えてくれる。笠城も、俺と仁村の昼間のやりとりを聞いていただろう? 俺も自己鍛錬だけでは駄目なのさ」
 当の本人にそこまで言われてしまうと、俺も曖昧に笑うしかなかった。そうして、村上にしてもそれだけを言い残すと、下部と野々原との雑談に戻った形だ。
 サマープログラムに参加した理由について、既にそれ以上話を広める雰囲気ではなかった。それは若薙が男性陣に色恋沙汰の話を振ったことで確定的になる。
「話は変わるが誰か誘いたい奴とかいなかったのか。別に緑陵の入寮者に限定しなくてもいいぜ? もしも、気になる「あの娘」がいるなら、今から誘いにいったって問題はないんだぜ? ……まぁ、仁村や浅木はもう無理だけど」
 そんな他愛のない雑談を交わしながら「そろそろ結構な距離を歩いたんじゃないか?」と思い始めた矢先のこと。先導をする若薙が、唐突に探し物を始める。
「懐中電灯、懐中電灯は……と。んー、おかしいな、確かサイドポケットに放り込んだと思ったんだけど」
 スポーツバッグの中にあるのだろう懐中電灯を手探りで探していた若薙だったけれど、実際に取り出したものはペンライトだった。後頭部を掻きながら訝しげな表情をする若薙は「納得いかない」という様子だ。けれど、ペンライトのスイッチをカチカチと弄って、それがきちんと点灯するのを確かめると「これでもいいか」という風に、スポーツバッグのファスナーを閉めてしまった。
 ペンライトと言えども、それは遠近関わらずかなりの明るさをもたらすものだった。さすがに遠距離で広範囲を照らすと言う目的の上では懐中電灯に一歩譲るのだろうけれど、それでも同等レベルの性能を持っているに見える。
 ともあれ、そろそろ目的地に到着するのだろうと思った。
 どこに向かっているんだ?
 そんな質問をぶつけようとした矢先のこと、俺の脇にいた村上の口から目的地と思しき名称が出る。
「なぁ若薙、遊木祭寮に何か用でもあるのか? ここ、遊木祭寮の裏に出る道だろう?」
「お、さすがは村上。淀沢村の地図が頭の中に入っているねぇ。正解だ、このまま行くと遊木祭寮の裏手に出る」
 遊木祭という名前が出たことで、さっきから聞こえるようになった水の流れる音が遊木祭川のものであることを理解する。それは確かに足を進めるにつれ、徐々に明確な音の輪郭を伴うようになってくる。そして、水の流れる音がはっきりと聞こえるようになってくると、遊木祭寮と思しき建物の存在もすぐに確認できるようになった。
 時刻は丑三つ時に差し掛かる頃。それなのにも関わらず、遊木祭寮はまだぽつりぽつりと電気を灯していた。遊木祭の寮生がまだ眠りに付いていないことは一目で見て取れた。
「……遊木祭寮の連中も、この熱帯夜で寝られないんだろうな」
 岸壁が電気の灯る遊木祭寮を眺めてぽつりと呟いた。
 ふと、俺の脳裏を過ぎる思考がある。
 それは遊木祭の寮生との交流の可能性だ。普通に生活していれば、緑陵以外の寮生と絡む機会などほとんどない。
 最初に若薙が説明した井部かとの趣旨を改めて反芻すると、そんな考えに至っても不思議ではないだろう。
 尤も、そこで不穏な空気を匂わせるのが若薙だった。事前に話を付けていない場当たり的な例の勧誘を遊木祭寮でもやるんじゃなかろうか。そんなことを「確かにあり得る」と思わせてくれるのだから、恐ろしい。
 そして、その最悪の事態を村上も想定したようだった。不安を色濃く滲ませた顔付きで、若薙へと詰め寄る。
「なぁ、まさか、人数が少ないからってこの時間から遊木祭寮に乗り込もうなんて腹じゃないよな? しかも事前に話が付いていないだとかさ。止めてくれよ、冗談じゃないぞ?」
 若薙は詰め寄る村上を押し退けると、その心配が杞憂だという。
「さすがに緑陵以外の場所でそんな危ない橋を渡るつもりはねぇよ。そりゃあ「遊木祭の寮生とコンタクト取れないかな」とかいう気持ちがないかと言えば嘘になるけど、基本的には花火をやるために水辺に移動してきただけだぜ」
「基本的には……?」
 若薙の言葉の中にどうしても引っ掛かる部分があるらしく、下部が声を上げる。
 けれど、その疑問に答えが返ることはなかった。聞こえなかったのか、はたまた聞こえなかった振りをしたか、それは定かでない。
 ともあれ、若薙はペンライト片手に遊木祭川を跨ぐ橋へと急ぐと、川面へとペンライトを向ける。
 橋から川面までの高さは一メートルもないだろう。仮に、遊木祭川が豪雨などで増水したらすぐに通行不能に陥りそうだと思ったけれど、そこは昼間に横幅で驚かされた川である。中端橋のものよりかは川幅が短いようだけれど、それでも簡単に橋の高さまで増水することはないと思わせるだけの川幅がある。
 何より、遊木祭寮が川沿いのすぐの場所に立地していることが増水と氾濫の可能性の低さを示唆していただろう。
「さーて、今夜は出現するかな? すぐ近くに遊木祭川の怪物がいるかも知れないぜ。襲われないよう気をつけろ!」
 若薙が尤もらしくそんな警告を口にするから、事情を知らない面子は一斉に身構えた。けれど、一番「怪物」という単語に反応しそうな村上が呆れ顔で若薙を見ていたことで、俺の頭には疑問符が浮かんだ。
 そして、そんな警戒の言葉とは裏腹に、実際に「遊木祭川の怪物」という単語に反応したのは聞き覚えのない女の声だった。加えて言えば、その棘のある声はペンライトで水面をサーチする方向とは全く見当違いな場所から響いた。
「誰が遊木祭川の怪物よ」
 遊木祭川の川面から顔だけを出したものはなんてこともない。ただの女子である。
 水深のない場所なのだろう。ちょうど川の中腹ぐらいの位置で立ち上がったにも関わらず、彼女は膝上程度までしか水に浸かっていなかった。黄色をふんだんにあしらった色遣いのセパレートの水着に身を包んだ肢体を月明かりの下に晒したかと思えば、彼女は再び倒れるように背中から水面に身体を投げ出す。チャポンと微かな水音を響かせた後、彼女は何をするでもなく夜空に浮かぶ月を眺めているようだった。
「ちっす、佐伯(さえき)ちゃん」
 若薙の挨拶に、佐伯と呼ばれた女が愛想良く返事をすることはなかった。
「いい加減、人のことをネタにするの止めてくれない? ただの偶然が重なって見間違いが発生しただけのことをいつまでもいつまでも引っ張られると、そろそろこっちとしても迷惑なんだけど」
 佐伯が若薙へと向けるのは非難の混じった棘のある言葉だ。尤も、それで若薙が怯むようなことはない。
「佐伯はノリが悪いねぇ。せっかく遊木祭川の怪物なんて大層な名前で呼ばれるようになっちゃったんだから、橋の反対側から音もなくよじ登って、俺達を川に突き落としてみせるぐらいの積極性があってもいいんじゃない?」
「なんでそんな真似しなきゃならないのよ。大体、返上できるものなら返上したいわよ、その遊木祭川の怪物って奴」
 佐伯は疲労混じりの声で吐き捨てた。
 事情は解らないけど、佐伯に取ってその名称が余程不本意なことだけは間違いないだろう。
 橋から身を乗り出して佐伯の様子を窺ってみる。佐伯はこちらに視線をよこさず、相変わらず月を眺めながら話をしているようだった。
 永旗はそうやって遊木祭川の水面に漂いながら涼を取る佐伯の様子に興味を持ったようだった。
「いくら熱帯夜だからって言ったって、この時間になるとさすがに川の水って結構冷たいんじゃないのかな?」
「どうだろうな。……って、目の前にあるんだ、実際に確認してみればいいじゃないか?」
 そんな岸壁の見解に、永旗は「それもそうだ」と納得したらしい。ポンッと手を叩いて見せれば、実際に行動を起こすまでに僅かな時間さえ必要としなかった。橋の欄干を乗り越え、遊木祭川の河川敷へと飛び降りる。そこに岸壁が続けば、場は一気に騒々しくなった。
「うわッ、これは気持ちいい水温かも!」
 バシャンと水を叩く音がしたかと思えば、岸壁の慌てる声が響き渡る。
「ちょッ、おいッ、やめろ! 水浸しになるだろ! 待って、止めて! 止めてください!」
 岸壁は先に河川敷へ降りた永旗に一方的にやられているようだ。傍目に見ている限りでは既に水浸しである。
 ふと、佐伯があまりいい顔をしていないように見えた。尤も、静けさを好んで遊木祭川で水浴びしていたのなら、その喧噪は歓迎すべきものではないだろう。何をするでもなく、ただ水面に浮かんで月を見て涼を取っていたところに、その二人の喧しさが加わったのだ。
「それで、何か用なの?」
 突っ慳貪な対応ではあったけど、佐伯は一応若薙に自分を訪ねた理由を確認した。有無を言わさず追い返さないところを見ると、そういうところは律儀なのかも知れない。
「遊木祭川の怪物を紹介しておかないと、後で大変なことになっても困るだろ? またぞろ変な騒動……」
「だから、いい加減にしないさいよ!」
 若薙の言葉が言下の内に、佐伯からは棘の混じった鋭い非難が向いた。
 けれど、若薙のリアクションに反省の色はない。まるで「それを待ってました」と言わないばかりだ。挑発したと見て取れないこともない対応に佐伯からは牽制が向くけれど、若薙は何事もなかったかのようにさらりとその対応を変える。
「はは、まぁ冗談はそれぐらいにしておくとして、一緒に花火でもどうかなって思って誘いに来たわけだ。どうだ? どいつもこいつも満足に夜更かしもしないような優等生チックな連中ばっかりで、面子が足りないんだ」
 花火という単語が出た瞬間、佐伯はそれまでの怪訝な顔付きを一転させる。
「花火! ……花火かぁ。生粋のトラブルメイカーにしては、たまには粋なこと考えつくものね」
 パッと聞いた限りでは「褒め言葉?」とも受け取れるけれど、よくよく聞くと褒めてはいないだろう。
 当然、若薙もすぐさま反論する。けれど、トラブルメイカーという指摘に少なからず心当たりがある様子で、語尾は口を切った勢いそのままにというわけにはいかなかった。
「誰がトラブルメイカーだよ! 俺はいつもみんなが心から楽しめることを考えてだな、……うん。まぁ、結果的にハチャメチャになっちまうことも確かにあるにはあるけど」
「それ、いつものことじゃないの? まさか、自覚なかったり? それはちょっと重傷なんじゃない?」
 佐伯に畳み掛けられ、若薙は「うーむ」と唸る。反論できないということが、既に何が結論なのかを示しているように思えたけれど、どうだろうか。
 ともあれ、そんな若薙を尻目に佐伯は遊木祭川の水中から河川敷へと移動する。髪を掻き上げ水を払うと、佐伯は俺達にそこで待つよう告げた。
「ちょっと待ってて、河川敷にパーカーとか置きっぱなしだから取ってくる」
「佐伯がこっちに来る必要はねぇよ。花火をやろうっていうんだぜ? 俺達が河川敷へ移動するさ」
 そう言うが早いか、若薙は既に河川敷にいる岸壁・永旗に続き、橋の欄干を乗り越え河川敷へと降り立った。俺も、村上・野々原と顔を見合わせた後、欄干を乗り越えて河川敷へと飛び降りた。下部が村上の手助けを得て橋から降りると、河川敷には全員が揃う形になる。
 河川敷では一足先に、若薙がスポーツバッグの中の花火を広げていた。ちょうど、人一人が寝転がれるサイズの平らな岩があり、そこへ無造作に並べた形だ。
「じゃじゃーん」
 大袈裟な効果音を口にして、若薙が岩の上に広げた花火はかなりの量があった。それこそ、この人数でも普通に遊んだなら二〜三日分はあろうかという量だ。
「また、凄い量を持ってきたな……」
 思わず、そんな寸感が口を付いて出る。
 けれど、それに答える若薙の言い分も確かな説得力を持っていた。
「参加者が何人になるか解らなかったしな。まぁ掻き集められるだけ、掻き集めてみたらこの量になったわけだ。それに量があるっていったって、なにも今日一日でこれ全部消費しなきゃならないってわけじゃねぇよ」
 カチンカチンとその手でジッポライターを弄りながら、岸壁は岩の上に広げられた花火に手を伸ばす。けれど、その手は空中でピタリと制止した。そして、心なしか険しい表情を見せると、このままここで花火をエンジョイという流れについて、溜息混じりに異を唱えた。それは「これだけは言っておかなければならない」という風だ。
「寝苦しい夏の夜に花火って考えは最高だとは思う。でも、花火の種類が偏り過ぎだろ、若薙! ここで、このまま花火をやるっていう流れは、俺は止めておいた方が良いと思う。どこか別の場所に移動しようぜ?」
 ただ、岸壁のその言葉も若薙がストックしてきた花火の種類を見れば、すぐに納得できた。15連発20連発といった文字の躍る細長い筒だとか、ロケット花火だとかそういった類の花火が半分を占めている。さすがに爆竹だとか危険な物は混入していないようだったけど、静かに花火を楽しむ雰囲気にはなれそうもないものばかりだ。花火ははしゃぎ回って楽しむものという見方もあるかもしれないけれど、だったらここは場所が悪い。
 確かに水辺ではあるけれど、なにせ遊木祭寮のすぐ裏手だ。遊木祭寮の一階部分こそ茂みで隠れているけれど、二階三階からはこの河川敷は丸見えだ。石を投げれば、硝子を割ることのできるる距離と言っても過言ではない。ここで騒げば、その喧噪は諸に遊木祭の寮生の耳に届くだろう。
「全く、たまには面白そうなこと思いつくかと思えば、どうしてこういつもいつも火種になりそうなものばっかり揃えてくるの。移動するなら移動するで、着替えてくるからちょっと待っててくれる?」
 佐伯は「呆れてものが言えない」という顔をするものの、花火を楽しむことについては相変わらず乗り気な様子だ。さくっと「それじゃあ、移動しよう」という雰囲気をまとい、移動のための準備に取りかかる。
 他の面子も場所を移す意見に賛成の様子だ。そこには既に場所を移すことを大前提で話を進める雰囲気があった。
 ただ、そこで一人、広げた花火をじーっと眺める若薙だけは何やら納得できないという不穏な顔付きだった。
 言ってしまえば、佐伯の言葉に俺や村上が移動を開始しない理由がそれだ。若薙が何か怪しい動きでもしようものなら、いつでも羽交い締めにできるポジションを取っていた形だ。
 けれど、若薙は一頻り唸った後、溜息一つ吐き出し表情を緩めてしまえば「場所を移す」という案を許容した。
「そうだな、いい加減、一時の欲望に負けて馬鹿なことをするのは止めておくか。ここで花火という流れになれば、嫌でも遊木祭の寮生を巻き込めるという思いもあったけど、わざわざ馬原と綾辻に般若の形相をして頂くこともないしな。それなら谷交堂神社か、三角公園かどっかに移動して……」
 事態を注意深く見守っていた面々が、その一言でホッと胸を撫で下ろしたまさにその瞬間。
 遊木祭寮の方向から、声が響いた。
「君達、そこでなにをやってるの」
 抑揚のない冷たい声。それはリビングで馬原と若薙を黙らせた声だ。
 今回もそれが響き渡った瞬間、若薙の身体は面白いぐらいに「ビクンッ」と跳ね上がった。同様に、村上に野々原、下部、そして佐伯までもが身体を強張らせたのを俺は見逃さない。
 若薙がいった「怪人」という単語が脳裏を過ぎった。そして、色んな意味で現実味を帯びた瞬間だった。
 当然、それは俺にも聞き覚えのある声だ。けれど、俺としてはそこまで驚く声ではない。色々やらかしてきた結果として若薙達が身を持って植え付けられた声の主に対する畏怖の気持ちがないからだろう。これから同じように植え付けられるのだろうか。
 勘弁願いたい。
 ともあれ、その声のした方向を慌てふためきながら確認する若薙に対して、今度は笑いを押し殺した声が響いた。
「ふふ……、あはは、なんてね。彩芽ちゃんの真似」
 綾辻の真似といったその声は、ついさっきのものとは違って、綾辻のものとは似ても似つかない性質の声だった。そこまで似せられるものかと疑って掛かったぐらいだ。
「り、倫堂(りんどう)? ……びっくりさせるなよ! 今のは本当に驚いたわ、洒落になってないぜ」
 若薙が倫堂と呼んだその声の主は、遊木祭寮二階中央に位置する大窓から俺達を見下ろしていた。ちょうど遊木祭寮の照明で逆光となる形だ。輪郭以外ははっきりとその特徴を確認できない。けれど、どんな表情をしているかだけははっきりと見て取れた。してやったりという得意顔だ。
「勘弁してよ! 冗談にしても質が悪い。あー……、まだ心臓がバクバク言ってる」
 佐伯から非難を向けられても、倫堂に懲りた様子はない。
 カラカラと笑ってみせると、返す言葉で声を掛けられて慌てるようなことをしている方に問題があるという。
「驚き過ぎなんじゃない? 後ろめたいことがたくさんあるのかな?」
「あのね、後ろめたいことの有無なんか関係ないよ。背筋も凍るあの抑揚のない綾辻の冷たい声を、いきなり向けられて慌てない奴なんていないから」
 綾辻を評した佐伯の言葉を聞いて、俺は「酷い言い様だな」と思った。けれど、そこに異論を唱えるものが居ないのも確かで、俺は改めて綾辻という存在に対するみんなの認識を理解せずには居られなかった。
「花火をやるけど倫堂もどうだ? 他にも遊木祭で声を掛けられそうな奴がいれば誘ってくれても……」
「あっ!!」
 頓狂なその声を響かせたのは下部だ。
 一同、何事かと下部へ視線を集める。そして、下部が驚きの表情を隠そうともせず、ただじっと注視する岸壁の足下へと自然にその対象を変えた。
 そこには、今し方、若薙が広げたばかりの花火がある。そして、その花火の上には火が付いたままのジッポライターが存在していた。綾辻を真似た倫堂の声に本気で驚き、岸壁が落としたのだろう。
 けれど、その後の対応が非情に不味い。慌てて拾い上げることもせず、ただただ黙ってジッポライターの炎が揺らめくのを数秒に渡って眺めていた格好だ。
「太市、お前!」
 若薙が一つ大きな声を上げて名前を呼ぶまで、岸壁はジッポライターを落としたことに気づいていなかったらしい。
「あ? ……ああ!!」
 慌てて拾い上げようと、岸壁はジッポライターへと手を伸ばす。しかし、次の瞬間、ジッポライターの炎が花火の導火線に引火した。勢いよく火花を散らす導火線の様子に怯んだのか、あろうことか岸壁は伸ばしたその手を引っ込めた。
 ロケット花火の導火線へ次から次へとジッポライターの炎が燃え移り、そこには諦観と放心と覚悟完了の顔色が入り混じる。特に酷かったのは覚悟完了の後の顔だ。
 ジッポライターの炎は導火線だけに留まらず、若薙の悪戯心にも燃え移ったのだろうか。「ニィ」と口元を笑みで歪めて見せて、それは「放って置いても乾いた破裂音が響き渡るなら、派手に彩るしかないだろ!」と言わないばかりだ。
 そして、覚悟完了の顔色をしたのがもう一人いた。永旗だ。一度「あーあ、やっちゃった」という具合に眉間に皺を寄せたけれど、それはすぐに良い印象を受けない独特の笑顔に切り替わったのだ。
「ど、どーするんだよ、これ!」
 改めて、そこにいる面子を確認するけど、冷静に対処できそうな顔色をしているものは一人もいない。
 もう一度、綾辻の声色でこの場を何とかして貰えないかと淡い希望を抱いて遊木祭寮の二階へと目を向けてみるけど、そこには既に倫堂の姿は見る影もなかった。二階の窓が開けっ放しの状態であることだけが倫堂がそこにいた痕跡だといっても過言ではないだろう。
 巻き込まれまいと逃走を図ったらしい。
 足音一つ響かせず逃げ去るのだから大したものだと俺は関心した。
 巻き込まれまいと逃走を図る。これ以上ない、正しい判断だと思った。
 そして、慌てる俺の下には「ジジジ……」と導火線が音を立てて燃えるロケット花火が投げ渡された。
「踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら、ね?」
 時限爆弾を俺へと投げ渡したのは永旗だ。俺を指差し発言した内容は、事態を悪化に向かわせる悪魔の言葉だ。
 既に若薙以上とさえ思える満面の邪悪な笑顔は、この事態を若薙以上に楽しんでいるのかも知れない。
 こいつはクレイジーだ。本気でそう思った。
 踊るも何もそれを見ているのさえ、躊躇うというのに……。
「やるしかねぇな、神様のお導きだ!」
 まるで何かを悟った修行僧みたいな顔をして、若薙は俺の心の退路に立ち塞がって永旗同様悪魔の囁きを口にする。
 そんな若薙に呼応して、主体的な行動を起こすことを俺は躊躇する。しかしながら、事態はもうそんなことを言っていられる状況にはない。俺の手の中で「ジジジ……」と音を立てて燃えるロケット花火の導火線と、若薙を交互に見返した後、俺は一つ咆哮を挙げ、様々なものを吹っ切った。
「うわああああああ! 畜生!!!!」
 それでも俺はなるべく遠くで爆発するようにと、遊木祭寮とは反対方向へロケット花火を投げる。
 被害を最小限に抑えようと考えたのだ。
 しかしながら、ロケット花火は俺の意図しない方向へと空中で向きを変えるのだった。加えて言えば、火薬に点火するタイミングを読めていないことも大きく影響したのだろう。あろうことか、俺の投げたロケット花火は地面すれすれの位置で遊木祭寮の方向へ頭を向け推進力を得る。
 俺の思いやりの心がもたらした善意の行動は、その全てが裏目に出た形だ。
 ヒュンッと風切り音が響いた後、けたたましい炸裂音が響き渡る。それが遊木祭寮に衝突した後か、衝突する直前のものかは解らない。けれど、かなりの近距離で炸裂したことだけは確かだった。
 ぽつりぽつりと電気が灯っていたに過ぎなかった遊木祭寮は一気にその明かりの数を増やした。そうして、俄にざわつき始めてしまえば、その内容は「炸裂音が何だったのか?」を追求する喧騒に収束する。
 俺は思わずその場に項垂れた。背中はぐっしょりと冷たい汗で濡れていた。言い訳のしようがない。
 そんな俺の横に立ち、肩にポンッと手を置いた若薙がいう。その手には導火線に火の付いたロケット花火があった。
「最高だったぜ。……でも、俺はそれ以上をやって見せる男だ」
 親指を立てて得意顔をする若薙の言葉に、俺は耳を疑った。聞き間違いであって欲しかったのだ。
 俺が制止の言葉を口にするよりも早く、若薙は絶妙のタイミングでそいつを空に放った。空中で火薬に火が回って推進力を得たロケット花火は、これまた上手い具合に倫堂が開け放った状態のままの窓の方へ頭を向ける。
 先の破裂音に対して、遊木祭寮の寮生がぼちぼち廊下に様子を窺いに出てくる絶妙のタイミングだった。若薙の放ったロケット花火がけたたましい音を立てて炸裂する。
 パーンッと乾いた後に響き渡るは、遊木祭の寮生の喧噪の声。
「きゃあッ!」
「うわぁぁぁッ!!」
「危ねぇ!!!」
 その喧噪の声を聞き、満足げに口元を歪めると若薙が気炎を挙げた。
「はっはー! この一撃が世界を変えるぜ!」
 尤も、その次の瞬間には羽交い締めにされたことは言うまでもない。
 テンションが上がり過ぎて自制が聞かなくなったのかも知れない。何にせよ、やっぱり若薙もクレイジーだと思った。
「馬鹿、何してるんだよ!」
「馬鹿じゃないの、あんた!!」
「馬鹿野郎!」
 端からその若薙の行為を攻める気のない永旗。
 真っ青にその色を変えて頭を抱える岸壁は茫然自失の体。
 そして、導火線に火の付いた花火の処理に四苦八苦する様を前にオロオロする野々原と下部。
 それ以外の三人の罵声が一斉に響き渡った瞬間だった。見事に出だしの揃った「馬鹿」とは、その場の誰もが共通見解として若薙を認識した言葉だっただろう。
 村上に羽交い締めにされ、俺と佐伯に詰め寄られた若薙が抵抗することはなかった。ただ、為すがまま物陰へと引っ張られていった若薙は、真面目な顔付きでこんな質問を口にした。
「……遊木祭の寮長副寮長のコンビは直上(にかみ)・山遠(やまとお)コンビだな?」
「そう、とっ捕まったら群塚高校グラウンドっていう名前の灼熱地獄が待ってるよ!」
 最初はその質問に何の意味があるのかと思ったけれど、佐伯の返答で理解した。仮にとっ捕まった場合、どうなるかを確認したのだ。佐伯の台詞から察するに、馬原・綾辻の緑陵寮コンビとそう変わらないか、より過酷なお仕置きが待っているのだろう。
「不埒な悪戯心がメラメラと燃え上がっちゃったんです、なんて言ってみろ。楽しいぞー、きっと。不埒な悪戯心なんざあっという間に青春の美しい汗とやらに昇華させられて、口に入る物全てが美味しく感じられるようになるまで灼熱地獄を延々と扱き倒されるね、きっと」
 ここに至ってニィッと口元に邪悪な笑みを灯す若薙を前にして、俺はもう駄目だと思った。そこに反省の色はなく「つい勢いでやっちゃったんだ、てへ」といったせめてもの後悔の色もない。強いて言うなら「まだまだ面白可笑しく場を掻き乱してやる」といった具合の、矛先を間違った情熱がそこにはある。
 そのまま遊木祭川にダイブさせて頭を冷やしてきて貰った方が良いんじゃなかろうか。本気でそう思った。
「……もし、直上・山遠コンビにとっ捕まることがあったら、あんたにはぜひともその台詞を口にして貰いたいね!」
 佐伯はそう吐き捨てると村上へと向き直る。若薙とこの後の対応について話し合っても無駄だと悟ったようだ。
「どうする?」
「……そんなこと言っても、そうあれこれと今後の対応を話し合う時間はないみたいだけどな」
 遊木祭寮の様子を横目に捉え、村上がそんな見解を口にした。
 今はまだ遊木祭寮の寮生は何が起きたのかを把握していない。混乱状態に近いだろう。けれど、村上の言うようにそう多くの時間を待たずして、何が起きたのかを理解するはずだ。そうなる前に、今後の身の振り方を決めておきたい。つまりはここから全力疾走で離脱するか、腹を括って頭を下げるかのどちらかだ。
「どうするなんて聞くまでもなかったか。そうだね、取りあえず、この場から離脱しよう!」
 佐伯は「逃げる」という選択肢を支持する立場を表明する。それに対して、村上は真っ向から反対した。
「何言ってる? 逃げるなんて、そんな真似ができるか! こっちに非があることを認めて、その上で、こいつが全ての元凶だと説明をして突き出せば……」
 意見の食い違いを境に、佐伯と村上は一気にヒートアップした。
「別に正義馬鹿がどんな理想論的展開を妄想しようと勝手だけど、これだけは言える!」
「誰が正義馬鹿だ!」
 ざわつく遊木祭寮の様子を眼前において、冷静でいろというのがそもそも無理なのかも知れない。遊木祭寮を漂う雰囲気は殺気じみてきていて、その矛先は俺達に向けられると解っているのだ。
 ただ、あっという間に言い争いの様相を呈した二人だったけれど、言い争いの上では若干佐伯に分があるようだ。何より、佐伯が遊木祭寮の事情に詳しいと言うことが大きかった。そこには村上の理想論を棄却するに足る経験という名の説得力が伴う。
「良い、正義馬鹿? 正義馬鹿は遊木祭の人間じゃないから知らないかも知れないけど、直上・山遠にはどうしてそういう事態になったかなんて関係ないからね。「若薙が一人暴走しました」も「ロケット花火がたまたま間違って寮の方向に飛んでいっちゃたんです、誰も悪くないです」も同じ話。素直にごめんなさいすれば、もしかしたら緑陵の馬原・綾辻に話が伝わらないよう配慮ぐらいはしてくれるかも知れないけど、絶対に「はい、無罪放免、釈放です」なんてことはあり得ない、断言する!」
 佐伯の強い調子に、村上は返す言葉がないようだった。
 二人のやりとりを聞いた上で、俺は横から口を挟んで恐る恐る尋ねる。
「……もしも、逃げて捕まった場合は?」
「さぁ? 鬼の形相になった馬原・綾辻が直上・山遠コンビに加わって、全員コンクリートの上に正座させられて朝まで代わる代わる詰られるんじゃない? その時になって若薙が全部やりました、あたし達は悪くありませんなんて言っても、有無を言わさず250%連帯責任だろうけど」
 佐伯はあっけらかんと言ってのけた。何を持って250%なんて確率が佐伯の口から出たのかは解らないけど、それは「絶対に」という意味合いだろう。逃げると腹を括ったら、逃げ切るしかない。そういうことだろう。
「……!!」
 村上は苦虫を噛み潰したような顔をしたかと思えば、反論もせず押し黙る。綾辻相手に何か苦い経験でもあるのだろうかと勘繰ってみるけど、今はそんなことに話を言及させている場合ではない。
「良い? ことはこの馬鹿一人を突き出しても解決しない」
 佐伯はむんずと若薙の襟首を掴んで引き寄せると、俺と村上へ突き付けて断言する。
 佐伯と村上が言い争いの様子を呈していたことで、若薙はこれ幸いにと言わないばかりに我関せずという顔をしていた。そして、あろうことか、この騒動の元凶を自分ではないと言い出す始末。
「チッチッチッ! ことの元凶は俺じゃないだろ? 倫堂だよ、倫堂。そして、ジッポを落とした太市だ」
 自分の名前が挙がったことに、岸壁は不服の声を上げた。
「えッ、俺かよ!」
 確かに若薙が名前を挙げた面々に責任がないとは言わない。けれど、それはあくまで間接的なもので、事態をここまで悪化させたのは他ならぬ若薙だ。それともう一人、ここで全く話題に上ってはいないが永旗だ。
「俺はその後を面白可笑しく飾り付けただけだ。よく言うだろ、問題ごとはでっかく大袈裟に騒ぎ立てちまった方が早く解決するんだってさ」
 若薙は自分が事態を悪化させたことを解っていて、そういう物言いをするのだから尚更質が悪いと思った。
「頼むから、ちょっと黙れ」
「今のあんたに発言権はない」
 言い回しは違ったけれど、ほぼ同義の言葉を出だしを揃えて口にした佐伯と村上は、額に青筋でも浮かび上がり兼ねない程の引き攣った表情をしていた。もう一つ二つ刺激を加えると鬼の形相になるだろうか。
 ともあれ「喋るな!」と念を押された若薙は心なしか申し訳なさそうな顔付きをして、一回り小さくなった気がした。
 ふと、そんな佐伯・村上と若薙との会話に混ざらず、せっせと何か作業をしている永旗の様子が目に飛び込んでくる。もう一人の要注意人物は、完全に野放し状態だった。
「……あの、永旗さんは何をしてるの?」
 恐る恐るという具合に尋ねる下部に、永旗は悪戯っ子の顔をして答える。
「んー、知ってる? みんなお尻に火が付いてないから言い争いしているけど、いざお尻に火が付いたらそれどころじゃなくなるんだよ。どうせ言い争いで結論なんて出ないんだから、どうせやるなら大火災じゃない?」
「……はぁ、大火災ですか?」
 下部は永旗が何を言っているのか咄嗟に理解できなかった様子だ。首を傾げた格好のまま、鸚鵡返しに聞いていた。
「岸壁! 岸壁! ジッポ、ジッポ貸して!」
 屈んだ状態のまま岸壁のシャツの裾を掴んで引っ張る永旗はジッポライターを貸すよう要求する。
「うん? ……ああ、ほら」
 そして、岸壁は要求されるまま永旗に向かってジッポを放った。
 岸壁は、……どういえばいいだろう。危機意識が足りないと言えばいいか、永旗という人間がどんな性格なのかを把握できていないと言えばいいか。その様子を傍目に見ていたに過ぎない俺でも直感的に「まずい!」と思える状況だ。
 当事者でないから故に、俺は客観的にその状況を見ることができたんだろうか。いや、違う。若薙と一緒になって、事態を悪化させた様子を岸壁も目の当たりにしていたのだから、それぐらいは岸壁自身で気付かないといけない。
 ともあれ、俺の悪い予感は寸分違わぬ制度で的中した。
 永旗の行動を不審に思ったのは俺だけではなかったけれど、永旗の行動を制止できる人物はそこにいなかったのだ。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」
 パシュンッと火薬の点火とともに推進力を得る聞き覚えのある音が響き渡って、俺は思わず頭を抱える。
 遊木祭寮の玄関付近にはついさっきの破裂音の正体をおっかなびっくり窺う寮生達が集まっているようだった。それはそこに向かって飛んで行き、そして信じられないほど絶妙なタイミングで炸裂した。
 パンッと破裂音が響き渡った次の瞬間、叫び声が上がる。
「うわぁ!」
「なになになになになに! 何事?」
 そのざわつきから察するに相手は、また混乱状態に陥ったと見ていただろうか。それでも、そう多くの時間を必要とせず、彼らは河川敷へとやってくるだろう。
「あんた、何やってくれてんの!」
 佐伯が永旗の胸倉を掴み掛からんばかりの勢いで迫り掛かるも、永旗は例の邪悪な笑顔で平然と答えた。
「毒を食わば皿までだって! 素直に「ごめんなさい、てへ♪」なんて選択肢はあり得ないんでしょう? 逃げるなら逃げるで腹括っちゃおうよ! そんで、コソコソ逃げ回るよりは派手に立ち回る方が後腐れないじゃない? さぁ、大逃走劇の始まりだ!」
 永旗の言い分を目の当たりにした佐伯は引き攣った表情のまま固まっていた。
 村上が疲れた顔をして天を仰ぎ、佐伯は眉間に皺を寄せて溜息を吐いた。ただ、そこに言い争いが再開される雰囲気は皆無だ。そもそも、もう言い争いをしている余裕なんてない。ことは永旗の思惑通りに進んだのだろう。
 誰か一人が逃げる体制を整えれば、後はそこからドバッと崩れた。
 誰が最初にそっちへ走り始めたかはともかく、気付けば俺が先陣を切っていた。
 訳もわからず、俺は河川敷を北上する形で裏手を回り、遊木祭川に沿って風車へと向かって走る。ただ、結果的にそれは遊木祭寮の玄関方面を迂回する形の、追っ手を撒くには最良の逃走経路となる。緑陵寮に戻る方向ではないけれど、それもまた相手の追跡を考えた上では攪乱するに最良と言えた。
 茂みを抜けて遊木祭寮の脇から、アスファルトの舗装がされた足場の良い道へ出ようとした矢先のことだ。突然、目の前に現れた人影と正面衝突しそうになって、俺は慌てて回避する。
「おわっと!」
 バランスを崩した俺はふらふらと進行方向を変えた後、体勢を立て直すために立ち止まる。体勢を立て直した後はすぐに走り出すつもりだったのだけど、どうにか衝突を免れた人影を横目に捉え、俺はそのままそこで足を止めた。
 今まさに、俺と衝突寸前の状態までいった相手は、昼のイベントの時に道を尋ねた茶髪の男だった。
 まさかこんなところで再会することになるとは思わなかった。
「……昼間の!」
 相手も俺に気付いた様子で、手に持ち身構える攻撃態勢のモップを引っ込める。尤も、攻撃態勢こそ若干緩和されたものの、その目付きは俺を訝る鋭さを湛えたままだ。
「すまない! 出来心だったんだ! って、……違う、出来心じゃ駄目だろ! あ、いや、事故だったんだ、事故! 頼む、見逃してくれ!」
 咄嗟に俺が口走った言葉はあろうことか出来心ときたものだ。それでは全面的にこちらの非を認めたようなものだ。俺は慌てて訂正しようとしたのだけど、実際に口を付いて出たものがセルフツッコミという酷い混乱状態だった。臨機応変な対応を突然求められても立ち回れないもので、俺はしどろもどろになりながらどうにか「見逃して欲しい」という言葉を引っ張り出した。
「事故ってお前、こんな時間にこんなところで事故も何もあったものじゃな……」
 茶髪の男がそこまで言い掛けたときのこと。俺は頭を低くして茶髪の男の胸元へと急接近する永旗の姿を確認した。
 そして、ドゴッという鈍い音が響いたかと思えば、永旗の強烈なボディブローが茶髪の男の脇腹に炸裂していた。俺に気を取られていた茶髪の男は完全に虚を突かれた格好だ。目を白黒させた後、何とも形容し難い「ぐふっ」という唸り声を上げその場に蹲る。
 俺は一瞬の間に眼前で起きた想定外の出来事に対して、沸き上がる感情を咄嗟に言葉へと変換できない。ただ「永旗の行為を非難しなければならない」という思考だけは確固たる形を伴っていて、俺はどうにか声を上げる。
「おいッ! ちょっと! なんてことしてくれる!」
「えー、笠城が怪しげな男に説得されて裏切りそうな雰囲気だったから、これはまずいなーって思って」
 上手く説得できたら、この場所から逃げ回るにあたって有利に働くかも知れないと思った。それこそ、投降するにしても事情説明をして若薙と永旗が諸悪の根源だと解って貰うだとかできたかも知れない。全てが台無しだった。今更何を言っても聞く耳を持ってはくれないだろう。
 下手をすると、俺が気を惹き永旗が攻撃をする作戦だったと思われたかも知れない。
「だ、大丈夫か?」
 蹲ってゴホゴホと咳をする茶髪の男の様子を確認しようとした矢先のこと。今度は佐伯が俺の脇を擦り抜ける。
 佐伯は擦り抜けざまに俺の手を取り、半強制的にその場から俺を離脱させた。
「余計な口叩いてないで、いいから走る! 一人でも捕まったら、そこから芋蔓方式一蓮托生なんだからね! とにかく全員、死ぬ気で走るの!」
 苦悶の表情が俺の目に焼き付いたけれど、茶髪の男の肩へと伸ばした俺の手が目的を達することはなかった。
 俺は申し訳ない気持ちで一杯になった。
「マジごめん! ホントすまん! ……その、機会があったら、また」
 俺はそう言い残しながら、もしも次の機会なんてものがあった日には土下座ものだと思った。せっかく相手が遊木祭寮の寮生だと解ったけれど、もうこちらから顔を出すのは憚られるような状態だ。相手に取っても「どの面下げて……」という感じだろう。そもそも、もう迂闊に遊木祭寮へ顔は出せないかも知れない。
 それを思うと、若薙が企画したこのイベントに参加したことに後悔の念が沸き上がってくる。
 俺のテンションをどん底に叩き落とした諸悪の根源はまだまだ絶好調だ。
「日頃の恨みー、晴らすときー♪」
 怪しげな鼻歌を歌いながら、手に握るロケット花火にジッポライターで火を付けてゆく永旗は驚異だった。これ以上、相手を刺激してどうしようというのだろうか。ともあれ、佐伯はもう何も言わなかった。野々原と下部を気遣う村上にも、既に永旗を制止する余力はないようだ。
 永旗は半身の姿勢を取って、ロケット花火をばらまく。
「撃ってきたぞ!」
「なめやがって、絶対、捕まえろ!」
「追え! 必ずひっ捕まえるんだ!!」
 後方から聞こえる声は殺気立っており、捕まったらただでは済まないだろうことが容易に推測できる。
 それはそうだろう。
 どうにか眠りに付いた寝苦しい熱帯夜かも知れない。そんな中で睡眠を邪魔されれば、俺だってぶち切れる。立場を逆にして考えてみると、その激怒の度合いを推し量れたからこそ尚更、俺は絶対に捕まるわけにはいかないと決意した。
「はは、ひはははは、期せずして楽しい夜になったな」
 若薙の笑い声が響き渡る熱帯夜に、怒声が続く。
「あんた、頭に虫でも湧いてるんじゃないの!」




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