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Seen03 手品師とトラブルメーカーと遊木祭川の怪物(上)


 寝惚け眼を手の甲で擦り欠伸を噛み殺しながら、俺は食堂へと足を向ける。
 顔も洗っていないし、鏡を見て寝癖のチェックをしたわけでもない。もしかしたら、人前に出るというにも相応しくない状態だったかも知れない。それでも、野々原と一緒に朝食を取るべく食堂に向かったのは、そうでもしないとそのまま二度寝をすると思ったからだ。
 ただ、食堂へと向かう廊下の途中で、俺はその考えが間違いだったことに気付かされた。
 昨日の雨模様とは打って変わって、今日の天気は快晴だ。そして、早朝と呼ぶのはおこがましいながら、まだ朝の時間帯だというにも関わらず既に気温はかなり高い。廊下を歩いて食堂に向かうという動作で、全身うっすら汗ばみ始めた状況はそれを如実に表していただろう。続いて「早く水が飲みたい」とせっつく喉の渇きに襲われ、延々と二度寝ができる状態ではないと実感した形だ。
 実を言うと、二度寝することを懸念した以外にも、朝食の時間に起床したのには理由がある。
 昨日は昼前まで眠っていたこともあって、俺は朝食を取っていない。何だかんだで、須藤との会話後に同校生の部屋を回ったことで昼食も取っていない。一日一食でも、特に空腹を感じなかったというのが大きいけれど、それはあくまで生憎の雨模様だったことで緑陵寮外へと足を運ばなかったからだろう。
 話が逸れたけれど、緑陵寮で朝食を取るのは今日が初めてなのだ。正直な話、仕組みやルールなんかが夕食時と大きく変わることはないと思っている。けれど、一度野々原と一緒に行動しておくことで食堂利用時の疑問点を潰し込んでおこうと思ったのだ。席順だとか何だとか、夕食時と違う場合には野々原の存在は心強い。
 食堂の入り口に設置された暖簾を潜ると、入ってすぐの場所にテーブルが設置されていた。テーブルにはトレイと大と小とで二サイズの平皿と、数種類の取り皿が積み上げられている。食堂の一角のスペースには無数の大鍋が設置されていて、朝食はその中から好みのものを選んでゆくバイキング形式のようだ。夕食時のものとは大幅にメニューが異なる点以外に、朝食時の食堂に違いは見受けられなかった。基本的に緑陵寮の食堂で出される食事はバイキング形式なのだろう。
 朝食をどんな構成にするか迷うようになってようやく、俺は自分の意識がはっきりとしてきたように感じた。食堂に来るまでの俺は、言うなればパソコンで言うスタンバイモードみたいな状態だったかも知れない。
 そして、スタンバイモードの片鱗は朝食の構成を選ぶ段階になってさえ、窺い見ることができた。
 食指が動くままに朝食を選んでいけば、恐らく酷く偏った朝食になるだろうと俺は頭では理解していたのだ。しかしながら、結局食指に主導権を握られたまま無造作に朝食を盛りつけていったその行動がまさにそれだろう。
 ポークソーセージをメインにおいて、ポテトサラダや唐揚げなんかをチョイスしていけば、トレイの上には明らかに緑黄色野菜不足の朝食ができあがっていた。そして、何かが足りないことを回転数の低い頭で思慮した結果、俺はコップに野菜ジュースを注いでトレイに添える。その時はそれで完璧だと思ったのだ。
 そんな朝食構成で、いざ空きテーブルへと足を向けた矢先のこと。野々原から的確なツッコミが入った。
「……笠城君はトレイの上にパンも御飯もないけど、主食は肉かい?」
 改めて、自分のトレイに目を落とす。そこには確かに主食がない。
「何かが足りないと思ってたんだけど、主食がなかったのか」
 俺は頭を掻きながら苦笑する。
「あー……、まだ寝惚けてるみたいだ。それか、この暑さにやられたかのどっちかだな」
 正直な話、昨夜いつ頃眠りに付いたのかを俺は覚えていなかった。ただ、かなり遅い時間だったことだけは確かだ。
 野々原の話では降り続いた小雨のお陰で昨夜の気温はいつもの熱帯夜よりもいくらか低かったらしい。けれど、ジメジメと来る湿度は何度も何度も俺に寝返りを打たせ、その都度眠気を排撃してくれた。エアコンが当たり前である都会の生活に慣れきっていたからといえばそうかも知れない。しばらくはこの熱帯夜に悩まされそうだ。
 主食の追加が睡眠不足から来る集中力の欠如をいくらか改善してくれるかどうすは定かではなかったけれど、俺は言われるままそこにクロワッサンを主食として追加した。その気になれば、二口程度で完食できるサイズの奴だ。主食に御飯をチョイスしても問題はなかったけれど、手軽さでクロワッサンがリードした形だ。
 尤も、言われるまま主食を加える行為は、俺が未だにスタンバイモード醒めやらぬ状態だったからかも知れない。
 ともあれ、主食を補完し終えた俺は、そこで一旦野々原を待つつもりだった。
 けれど、当の野々原から先に朝食を取るよう促された。
「僕はコーヒーを入れていくから、笠城君は先に食べていてくれ。夕食同様、座席なんかは決まっていないから、適当に空いている場所を選んでくれればいいよ」
「オーケー」
 俺は野々原に言われるまま、その場で適当な空きスペースを探す。そして、窓際のテーブル席に目星を付けた。適度に太陽光が差し込む席で、緑陵寮の庭の様子が一望できるのが特徴だ。
 朝が早い所為か食堂は全体的に人が疎らで、絶好の食事ポイントと思しき場所も空いていた。慌てて場所取りなどせずとも、希望の位置で食事ができる状況ということもあって、俺は近場のテーブルへとトレイを置いた。野々原を待つことにしたのだ。一応席の目星を付けたとはいえ、そこでなければならない理由は何もない。野々原はああ言ったけれど、日光の差し込む場所を嫌がるかも知れない。急ぐ必要がないなどないのだから、野々原を待って意見を聞いた方が良いだろう。
 すぐにコーヒー片手に野々原が姿を現して、俺は座席について野々原の希望を尋ねた。
「窓際でも、食堂の一番奥の席でも選びたい放題だけど、どこか希望はある?」
 仮に野々原が「どこでも良い」と言うようなら、このままこのテーブルで食事という流れもあり得るだろうか。事実、野々原は俺のトレイの横にコーヒーを置き、既にここで食事を取るつもりのようにも見える。
「験担ぎにいつも座っている指定席があるとでも思ったかい? 別にどこでもいいよ」
 俺の推測通り、野々原がどこでもいいといったことで、食事をする席は俺がトレイを置いた近場のテーブルになった。野々原が椅子に腰を下ろしてしまえば「あっちの窓際の席にしないか?」とも言い出せなかったのだ。
 野々原と連れだって食堂で朝食を取っていると、食べ始めから数分と経たないうちに馬原が姿を見せた。馬原は他の寮生と連れだって食堂へとやってきて、手慣れた手つきで朝食を盛りつけていく。馬原と談笑するのはルームメイトの相手だろうか。
 そんな様子をボーッと眺めていると、不意に馬原がこちらの方を向いた。
 そこで目が合う形となって、俺は小さく会釈する。
 ふと、そのまま馬原に視線を向け続けるのは好ましくないかも知れないと思った。例え俺にそのつもりが無くとも、じろじろ見られれば「何か用事があるのか?」と、勘違いさせることにも繋がり兼ねない。
 俺はふいっとあらぬ方向へと目を逸らすけど、当の馬原はそこでルームメイトとの会話を切り上げてしまったようだった。そして、馬原は俺と野々原の居るテーブルまでやってくる。俺か野々原に用事があるらしい。
「おはよう、笠城。おはよう、野々原」
「おはよう」
 朝の挨拶を返すと、馬原はどちらに向けるでもなく切り出した。
「同席させて貰っても良いか?」
「ああ、もちろん。断る理由なんかないよ」
 そんな馬原の突然の申し出を、野々原は快諾する。けれど、野々原の快諾とは裏腹に、そこを境として周囲を漂う空気が微妙に変化したことを俺は見逃さなかった。
 コトンと音を立てて置かれたトレイは野々原の隣の席に置かれる。
 そんな構図から推測して、馬原の用事がある相手は俺だろうか。ふと、そう思った。
「二人とも小食だな? そんな少量で昼まで持つのか?」
 俺と野々原のトレイに視点を落とした馬原が、口を開いて話し始めた内容は雑談だった。
 ともあれ、そんな馬原の指摘を受けて、俺は各々のトレイの中身を確認する。
 馬原のトレイは洋食寄りの内容でトーストとスクランブルエッグ、それにベーコンとアスパラガスの炒め物が少量盛りつけられていた。ただ、俺や野々原の朝食よりかは「栄養が考慮されている」と思うぐらいで、量的にはそう変わらない。精々がちょっと多いぐらいだろう。
 一方、野々原のトレイは確かに馬原の指摘通り、非常に少ない量だった。お世辞にも大きいとは言えないおにぎり二つに、サラダを盛りつけただけだ。トレイの上には、マグカップに並々と注がれたコーヒーがあるものの、野菜スープと違ってそこに栄養的なものは期待できない。朝食だとは言え、量的にも栄養的にも少ないイメージは拭えない。
 だから、馬原は主に野々原を指して小食と言ったのかも知れない。
 馬原のトレイを指して俺は指摘する。
「そういう馬原だって、俺とそんなに変わらないだろ?」
 痛いところを突かれたみたいな顔をするかと思ったけれど、馬原はしれっと自分のトレイが少ない点についてこう弁明した。そして、その上で改めて馬原は俺と野々原を小食だと指摘し改善を促すのだ。
「こう見えても俺は燃費が良くてな。食べ過ぎると逆に調子を落とすんだ。だから、俺を基準に考えるべきじゃない。俺のことは置いておいてだ、一番腹の空く年代にしては笠城も野々原も少なすぎだろう?」
 改めて、俺は自分のトレイに視線を落とす。普段は朝御飯を抜くことが多い俺から言わせて貰えば、トレイによそった量を特別少ないとは思わない。それよりも問題なのは「これくらいなら問題ないだろう」と思ってよそったこの量を「完食できそうにない」と思い始めたことだ。
 その理由について考えられることはいくつかあるけれど、一番しっくり来る理由がこれだった。
「淀沢村の暑さに体が参っちゃって、食欲が沸いてこないんだよ……」
 一方、野々原の返答はそれが適量だと言い切る内容だ。
「僕は基本的に日がな一日、絵を描いているだけだからね。そもそもの量が少なくても問題ないんだ。それに、食べ過ぎると感性も鈍る」
「……そうなのか」
 馬原としてもそう言われてしまってはどうこういうわけにもいかない様子だった。
 そして、不意に妙な静寂が生まれる。
 馬原にしろ野々原にしろ、話題を探しているというよりも次に話し始める切っ掛けを窺っているという感じだ。
 少なくとも、食堂に友達と談笑しながらやってきた馬原がまとっていた雰囲気の柔らかさはそこにない。それは野々原も同様で、微かに強張ったような構える態度がその挙動からは滲み出ていた。
 馬原の申し出を受けて野々原が同席を快諾した形だけれど、個人的な付き合いを持つ二人ではないのだろう。
 俺は苦笑いを隠せなかった。そして、態とらしく自分の服の襟首を掴んで緩めると、話題を作るべく口を切る。
「しっかし、今日は朝から暑いよな? 暑ければ暑かったで外に出るのが億劫になるよ」
「そうだな。けど、それでも昨日と違って今日の天気は快晴だ。小雨が降り続く雨模様よりかは良いだろう?」
 馬原はここの暑さに慣れているのだろうか。
 同意を求める馬原の言葉は、俺に取って安易に頷くことを躊躇う内容だった。思慮の時間を間に挟み「快晴の天気の方が雨模様よりかはマシなんだろうな」といった結論を俺が導き出すまでに、俺はかなりの時間を要した。
 そして、俺が結論として導き出した答えはドングリの背比べながら、快晴の方が若干マシという内容だ。
「……どっちも大差ないけど、じめじめと来る湿度を伴った暑さよりかはこのからっとした暑さの方がいくらかマシかも知れないな。外に出るとなった場合のことを考えても、天気が快晴だったらずぶ濡れにはならないしね」
「昨日と違って今日は朝が早いみたいだけれど、まさか、それもこの暑さが原因だったりするのか?」
 猿の指摘に俺は苦笑する。
 もちろん、野々原に起こされたというのもある。けれど、やはり主原因は馬原がいうようにこの暑さだろう。俺は起床時に部屋を漂っていたもわっと来る何とも言えない暑さを思い出して、それを振り払うように首を左右に振った。
「それたよ、それ。暑くて暑くて眠り続けられる室温じゃないだろ。どこの部屋もこんな感じなのか? ……まだ午前中だって言うのが信じられないぐらいだ」
「それじゃあ、この暑さのお陰でこれから健康的な生活ができるんだ。良かったじゃないか」
 他人事だと思ってか、馬原はさも解ったかのような顔付きをしてその状況を「良かった」と表現した。
 昼ぐらいまで眠り続けたかも知れない怠惰な生活を、半強制的に奪い取られたという点では確かに良かったと言えなくもない。けれど、今回に限って言うなら、眠りに付いた元々の時間が遅く睡眠時間が少ないという点で、健康的な生活とは言えないはずだ。まして、夜遅くまで起きていたのも、俺の生活習慣上の問題ではない。熱帯夜がもたらした寝苦しさのせいだ。
「天気予報によると少なくとも二〜三日はこのまま快晴が続くらしい。今日は気温の方も真夏日になるらしいし、まだまだ暑くなるだろうね。本当の熱帯夜はこれからかも知れないよ、笠城君?」
 野々原の言葉はまるで「覚悟しておいた方が良いかもしれないよ?」とでも言わないばかりの内容だった。
「はは、勘弁して貰いたいね」
 俺は思わず力なく項垂れていた。「冗談じゃない」といった言葉は紛れもない本音である。
 ここで生活していれば、この暑さにも耐性が付くものだろうか?
 ともあれ、一度上手く歯車が噛み合い回り始めると、それなりに会話は続いた。まだまだどこかギクシャクした感覚は否めなかったけど、野々原にしろ馬原にしろ再び黙り込むなんて事態にはならないはずだ。
「そう言えば、話が変わるんだけど、笠城は今日この後、何か予定があったりするのか? もう何処か行きたいところが決まっていたりするのか?」
 馬原にそう尋ねられて、脳裏を過ぎるものは二つしかない。
 俺はその内の一つであり、且つ割と早急な対応が必要だと思われる方を答えた。
「気温が上がりきる前に服を揃えに行こうかなとは思ってる。けど、特に決定事項というわけでもないよ。……というか、野々原でも馬原でも良いけど、暇があるなら淀沢村にある服屋を案内して貰えると助かるかな。綾辻さんから渡されたパンフレットを見てみたけど、いまいちその手の情報は拾えなくてさ」
 俺に服を貸してくれている野々原は、返却について「そんなに急がなくても良い」と言ってくれている。
 けれど、俺としては今日にでも一式揃えてしまいたいと思っていた。そこには申し訳ないという気持ちもあるし、何より借り物を汚すわけにはいかないという思いがある。何をすると言うわけではないけれど、その思いが色々と制約になっているのも本当のところだ。例えば、食事をするにしてもそう。いつも以上に汚さないよう注意を払っていたりするわけだ。
 俺の頼みごとを前に馬原は思案顔を間に挟んだ後で、何か閃いたという風に諸手を叩いた。そうして、本日予定がされているイベントについて説明を始めた。
「昨日も話したかも知れないが、実は今日、新人相手に淀沢村の様々なスポットを案内して回るというイベントがある。いきなり淀沢村に来て「後は勝手にやってくれ」と言われても正直困るだろう?」
 淀沢村を案内して回るイベントと、俺の頼みごとがどう絡んでくるかは不明だった。しかしながら、イベントそのものは淀沢村初心者である俺に取って有難い内容だ。
 俺は素直にそのイベントに興味があることを口にした。
「それは非常に助かる。なにせ、どこに何があるかも全く解ってないしね」
 そこで一旦、馬原は俺の顔を窺った。それはイベントに対する俺の興味の有無が本物かどうかを確認しているかのようだ。そして、馬原は俺の興味が本物だと判断したらしい。
 イベントを開催するに当たり、一つ俺のために提案をしてくれた。
「その際、服屋まで足を伸ばそうか? 順を追ってあちこち回るから一番最初に商店街へというわけにはいかないが、ルート的には商店街まで案内できないこともない。商店街まで行ったら、そこで一言俺や綾辻に声を掛けて貰って、笠城は別行動してくれて全然構わない」
 馬原のその提案に、俺は思わず馬原の手を取った。
「それはいい! ぜひとも、そうして貰いたい!」
 このままの流れだと、一人寂しく商店街へと向かうことになると思っていた俺に取って、それは非常に魅力的だった。
「そこまで喜んで貰えると提案した甲斐がある。それじゃあ参加者のメンバーリストに加えておくからな。本日、午前十時に出発予定だ。十分前ぐらいまでには共同リビングに集まっててくれ」
「了解したぜ」
 ふと、黙って俺と馬原のやりとりを聞いていた野々原の動向が気になった。
「野々原も参加するのか?」
「僕は参加できそうにない。色の手直しだか色々やらなきゃならないことがあるんだ。早いうちに今の奴を片付けてしまって、次に取りかかりたくてさ」
 野々原は申し訳なさそうに答えた。昨日と打って変わって快晴の天気となったため、部屋に籠もりきりで作業をするのかどうかまでは解らなかったけど、少なくとも今日も一日、昨日の作業の続きをやることだけは理解できた。
「そっか。まぁ、それなら仕方ないな」
 そう言われてしまうと、今から「服を物色しに行こう」と野々原を誘うことはできない。一人で服屋を物色というのもつまらないと思ったけれど、では「馬原を誘おうか」というわけにも行かない。馬原や綾辻は、寮長・副寮長として緑陵寮の新人を先導し、淀沢村を案内する立場にあるわけだ。
 そうなってくると思い浮かぶ顔は決まっていた。
「村上や若薙はどうなんだろう? 参加するつもりなのかな?」
 それは野々原や馬原に向けて尋ねた言葉ではなかった。けれど、俺がその名前を挙げた途端、馬原はトレイの上の食材を口に運ぶその手をピタリと止める。そして、たっぷり数秒の間を置き神妙な面持ちでこう切り出した。
「……知っていたら、一つ教えて貰いたいことがあるんだ」
 触れるべきではなかったことに触れてしまった。そう後悔した。
 わざわざ馬原が居る場で、若薙と村上の名前を出すべきではなかった。少し考えれば、そんなことはすぐに解って然るべきことだったはずだ。俺は誰が見ても「しまった」という顔をしていただろう。けれど、馬原はそんな俺の表情など目に入っていないかのように話を続けた。
「昨日から若薙が何か企んでる節があるんだ。どうせろくでもないことだと思っているんだが、ちらりと話を聞いた限りでは村上も今回それに一つ噛んでいるらしい。若薙に村上とくれば、俺は笠城絡みのことしかないと思っているんだが、何か心当たりはないか?」
 そう言われると、昨日から一度も若薙と村上の姿を見ていないことに思い当たる。それを不自然だとは思うけれど、だからといってどうだというようなこともない。まして、俺に対して何かの打診があったわけでもないのだ。
「いや、昨日も今日も俺は若薙にも村上にも会ってないよ。何かの誘いがあったってこともないしな」
「そっか」
 一度は俺の返事に頷いた馬原だったけど、余程不安を感じているのだろう。改めて尋ねてきた。
「……些細なことでも何でも良いんだ。何か思い当たることはないか?」
 そんな馬原を気の毒に思いながら、俺は曖昧な笑みを灯して首を左右に振った。
 ただ、そんな噂を耳にすることができる状況ならば、十中八九、若薙は何かを企んでいると俺は思った。


 馬原から指定された時間が近付いたので、俺は共同リビングへと向かった。
 余裕を持って自室を出たつもりだったけれど、既に共同リビングには今回のイベントの参加者と思しき面々が集まっていた。自室の時計と、共同リビングの時計とに差異があって「遅刻した?」とも思ったけれど、そうではないらしい。
 共同リビングに集まる面々の話に聞き耳を立ててると、これと言ってやることがないので早めに集合したようだ。
「おっす」
 不意にトントンと肩が叩かれる。
「おっす。……村上と、若薙か」
 俺は思わず溜息を吐いた。やっぱり居たか。それが俺の正直な寸感だった。
「おいおい、その溜息は一体何だよ?」
 怪訝な顔をする若薙からはその溜息に対する追求が向いた。
「溜息? 気のせいじゃないかな」
 俺は曖昧に笑うと、御茶を濁すことに徹する。まさか、馬原とのやりとりを話すわけにもいかない。仮に、それで若薙が少しでも自粛してくれるというのならともかく、そんな期待はするだけ無駄だろう。
 当初、共同リビングに集まる面子は、見覚えのない相手が大半だと俺は思っていた。けれど、実際には食堂などで見た顔を含め、見覚えのある顔が半数を占めている形だ。尤も、半数を占めるだなんて言ったところで、今のところ共同リビングに集まった人数は俺を含めて九人と多くない。それも、それは新人以外の面々を全て含めた総数だ。
 単純な新入寮者の数は、俺が把握しているだけでそこから若薙と村上の二人が差し引かれる形だ。まだ出発時間前なので全員が集合したわけではないだろうけど、新人の参加者は俺が思っていたよりもずっと少ないみたいだ。
 共同リビングには仲間内で集まって雑談をするものも居れば、一人腕を組んで時間が来るのをじっと待っているものもいる。こうして見ると、全員が全員何らかの輪に入っているというわけではないらしい。そうやって共同リビングへと集まる面子の様子を観察していると、まるで見計らったように集合時間かっきりとのタイミングで馬原が姿を現した。
 しかしながら、共同リビングへと足を踏み入れた瞬間、馬原はピタリと硬直した。
 理由は推測するまでもない。共同リビングの中に、馬原と村上の姿を確認したからだろう。
 若薙は馬原と目が合うと、満面の笑みで小さく手を振る。自分の存在をこれでもかとアピールしている感じだ。対する馬原は馬原で、その集団の中に若薙の顔を見付けた瞬間、こめかみを押さえて大きく溜息を吐き出して見せる。そうして、馬原はこめかみを抑えたまま、頭が痛いというような仕草を間に挟むと、イベント参加者の中に混ざる天敵へと険しい顔付きを向けた。
 出会って間もないとはいえ、それは既に「見慣れた光景」だと言ってしまっても過言ではないだろうか。
「さて、そこで何をやって居るのか尋ねても構わないか、若薙? まぁ、笠城の件があるから村上はともかくだ。……お前がこんなイベントに参加するなんて、一体どういう風の吹き回しなのか答えて貰おうか?」
 馬原がそう詰め寄った瞬間、共同リビングには不穏な空気が立ちこめる。
 周囲の面々もその空気を肌で感じたのだろう。喧噪は自然と静かになった。
「俺もそろそろ迎え入れる側として「淀沢村の楽しみ方をアドバイスする役目を負うべきかな」なんて思ったり思わなかったりするわけよ、馬原寮長。色々と馬鹿をやって積み重ねてきたノウハウもあるし、淀沢村で遊ぶことに関してなら役に立つ情報をいくらでも提供できると思うんだ」
 胸を張って答える若薙は、まさに大胆不敵という言葉が似合っていただろう。馬原と比較すると、若薙の言葉には全くといっていいほどその節々に棘がない。しかし、その一方では飄々とした態度で適当に馬原をあしらっている感も否めず、それが逆に馬原を殊更に苛々させている気がした。
「それが額面通りの意味を持つなら、殊勝な心掛けだ。それが額面通りの意味ならな。けど、俺の個人的な意見を述べさせて貰おうか? あまり余計なことはして貰いたくないっていうのが正直なところなんだ、若薙」
 言葉の最後に若薙の名前を口にして、馬原は釘を刺すかのようだった。
 一方で、そこに対する若薙は悪戯っ子がするかのような笑みを灯して立ち回る。ぐるりと共同リビングに集まる面子の顔を眺め見た後、その判断を委ねると言わないばかりに尋ねたのだ。
「余計なことだなんて酷いじゃないか、なぁ?」
 特定の誰かに向けるという形でなかったから、そこに同意を口にする誰かの返事が響くことはない。けれど、全く事情を知らない人がこの二人のやりとりを見たら、馬原の態度に悪い印象を持っただろう。
 唯一、そこに若薙を疑う余地があるとすれば、それは馬原をあしらうような態度が健在だったことぐらいか。
「楽しみ方のアドバイスだって? 正直に言えよ、何を企んでいるんだ?」
「企むだなんて、またまた人聞きの悪い。ここにいるみんなに心底淀沢村を楽しんでいって貰いたい。俺はそう思ってるだけだぜ、馬原寮長」
 一触即発の様相を呈してきた若薙と馬原のやりとりを、リビングに響き渡る澄んだ声が中断させた。
「何か揉めごとなの?」
 その声は綾辻のものだ。
 若薙、馬原共に綾辻の声が響き渡った瞬間、びくっと体を硬直させたのを俺は見逃さなかった。そうして、馬原も若薙もついさっきまでの啀み合いなどなかったかのように振る舞ってみせるのが印象的だった。
 馬原は一つ咳払いをすると口を真一文字にして押し黙る。綾辻に背を向ける格好ではあるけれど、その背中には綾辻が向ける鋭い視線がずぶずぶといくつも突き刺さっていたことだろう。一方、若薙の方は周囲の面々より頭一つ低い身長を生かし、集団に埋没する形で綾辻の視界から隠れる格好だった。
 そして、綾辻が睨みを利かす妙な空気が漂う共同リビングに、まさに絶妙のタイミングで横やりが入った。
 その役目を担ってくれたのは仁村である。
「すいませーん、遅くなりました」
 遅くなったという言葉に共同リビングの時計に目をやると、ちょうど予定出発時刻に差し掛かる時間だった。
 共同リビングに姿を現した仁村は、昨日俺が見たものより明らかにあちこちパワーアップした格好だった。全体的にゴテゴテのフリルがあちらこちらに追加された形で、今が中世ヨーロッパというなら違和感もなかっただろうか。
 仁村と別れた後の光景がまざまざと思い浮かんできたのは言うまでもないだろう。浅木によって取っ替え引っ替え着せ替えられた服装のパターンは何種類ぐらいに上ったのだろうか。
 ともあれ、仁村自体は既に色々と吹っ切ってしまっているようだ。
 俺と目があっても、平然とした対応を返して見せた。
「おはよう、笠城君。慣れない服装っていうこともあって、準備に時間掛かって遅れちゃった」
 そう言って可愛く舌を出してみせるという仁村のらしくない言動から、俺は服装については触れるべきでないことを悟った。浅木が仁村と同様の格好をしていることだけが、せめてもの救いだろうか。
 仁村と浅木を始めて見る新入寮者が共同リビングの中にはいたようで、小さなどよめきが起こった。馬原と若薙が展開した一触即発の雰囲気と、そこに綾辻が加わることで生まれた張り詰めた雰囲気なんてものは、仁村と浅木の登場で簡単に吹き飛んでしまった形だ。馬原と若薙は、仁村の登場に感謝したことだろう。
 綾辻は未だ厳しい顔付きをしていたけれど、大きく息を吐くと馬原に向かって状況を尋ねる。
「馬原、これで全員?」
 馬原は共同リビングに集まった面子の顔を一人一人確認してゆくと、過不足ないことを綾辻へと伝える。
「あーっと、そうだな。……これで全員だ」
 どうやら、新入寮者であっても参加しない面々がいるらしい。
 具体例を挙げなら、ここには須藤の姿がない。
 一言、声を掛けて置けば良かったとも思った。俺が参加すると解っていれば、恐らく須藤も参加しただろう。ただ、今から声を掛けて、飛び入り参加というわけにもいかないのは言うまでもない。
「それじゃあ、本日のイベントについて説明する。まずは……」
 馬原が共同リビングでイベントについての説明を始めたところで、俺は思うことがあって綾辻へと声を掛けた。
「綾辻さん、ちょっと良いかな?」
「真面目に聞かない悪い子誰だ?」
 軽い気持ちで声を掛けた俺に、綾辻からは想像を逸する台詞が返ってくる。
 先ほどの厳しい顔付きをした綾辻の片鱗が見え隠れした気がして、俺は思わず仰け反った。
「あ、いや、……話を聞くのも重要なことだとは思うんだけど、その、これはどうしても先に言っておかないとならないことでさ。だから……」
 しどろもどろになって説明しようとするけど、何を言おうとしていたかは既に頭の中から吹き飛んでいた。言葉が喉の奥から出てこないから、口を開いた状態で固まるしかない俺に、綾辻は呆れ顔だった。
 ただ、そんな俺の言動は綾辻がまとう険しい雰囲気を緩和する効力を発する。「脱力させた」という奴だろう。
「ほら、深呼吸する」
 綾辻に深呼吸を促され、俺は大きく息を吸う。そんな間を置いてようやく、俺は落ち着きを取り戻した形だ。
「綾辻さんに話したかどうかは覚えてないんだけど、俺、実はかたっぽ靴がないんだよね」
 今度は綾辻が固まる番だった。咄嗟にどう反応して良いのかを戸惑ったのだろう。
 綾辻は眉を八の字の形に変化させていくと、俺を見るその目を徐々に怪訝なものへと変える。
 俺の方はと言えば、綾辻を顔色を窺うものから愛想笑いへとその表情を変えていった。
「緑陵寮のロゴが入った突っ掛けなんかでもよければ、靴箱にあるものを自由に使ってくれて構わないけど、……靴がないってどうやってここまで来たの?」
「いや、最初から靴がなかったわけじゃなくて、緑陵寮に来る途中で片方紛失したというか何というか……」
 事情説明をする俺に、綾辻は相変わらず訝しげな目を向ける。
 どうしたらそんな事態に陥るのか、理解に苦しんだのだろう。
 ただ、それも尤もだと思う。
 ともあれ、俺は一足先に玄関へ赴き、下駄箱の中から足のサイズに会う突っ掛けを探し出すことになった。俺の足のサイズが平均的だったことと、緑陵寮に保管されていた突っ掛けが大量にあったことが幸いして、目的のものはすぐに見つかった。けれど、共同リビングでの馬原の説明を俺が聞く時間はなかった。
 突っ掛け片手に共同リビングへと戻ろうとした矢先のこと。ちょうど説明を聞き終えた仁村達が廊下へ出てきて、俺と鉢合わせになる形だった。


 緑陵寮を出発して、一番最初に案内された場所は車一台がどうにか通れるかどうかの横幅しかない石橋だった。それなのにも関わらず、石橋の全長はパッと見で百メートル以上の距離がある。もしも交通量が多い道だった場合、まっ先に渋滞発生ポイントになりそうな場所だ。ざっと見渡した限りでは、石橋を迂回して橋の下を流れる川を渡る手段はない。嫌でもこの石橋を渡らなければならないようみたいだ。
 河川敷から川の様子を眺めてみた限りでは、水深はなさそうだった。その代わりと言わないばかりに、川幅があるようだった。インチのあるタイヤを履き車高も高い、所謂SUV車のCM映像などで良くみる豪快に川を走破するシーンの撮影に使えそうといえば、そのイメージが伝わるだろうか。
 ボーッと川を眺めていると、馬原が石橋についての説明を始める。
「はい、ではちょっと注目して欲しい。この石橋、中端橋(なかはたばし)と言うんだが、淀沢村の地元民は便宜的にこの中端橋の向こう側を西地区、緑陵寮側を東地区と呼ぶんだ」
 西地区、東地区という呼び方を俺は始めて耳にした。けれど、中には合点がいったと頷いてる面々もいるので、既にその呼び方を耳にしたことがある面々もいるのだろう。
 続けて、綾辻がその中端橋の下を流れる川についての説明を始める。
「それで、この橋の下を流れるのが遊木祭川(ゆきまつりがわ)と言います。さっき馬原が中端橋の向こう側を西地区と言ったけど、正確にはこの遊木祭川の向こう側をそう呼びます。遊木祭川はこの辺りだと深みのある場所でも精々膝上ぐらいまでの深さしかないの。中流くらいまで行くと水遊びができるぐらいの深さになるけれど、中流まで行って水遊びをする場合は細心の注意を払うこと!」
 綾辻はカンペを見るわけでもなく、さらりさらりと遊木祭川とそれにまつわる説明を続ける。頭の中で話す内容を即座に組み立てているのだろう。そうでなければ、話の途中で馬原の説明に訂正を加えることはできないと思う。
「ちなみに、最上流まで行くと湧き水の溜まる沼から落ちる滝があって国定公園になっています。さすがに四国の四万十川なんかには適わないけれど、遊木祭川も上流の湧き水なんかはそのまま飲める美味しい天然水だと一部では評判なので、一度味わって見ることをお勧めしておきます。話のタネになるかも知れないしね」
 綾辻の説明を聞いていて、ふと遊木祭という単語を「どこかで聞いたことがある」と思った。頭を捻ってみると、それが若薙に関係していた覚えがある。それを確認しようと思って俺は若薙の方へと向き直った。
 そこにはしみじみと何かを噛み締めるような顔をした若薙が居た。若薙はすぐに俺の視線に気付いたらしく、その視線で「どうした?」と俺に尋ねる。けれど、その表情はついさっき俺が見た真顔のままだ。首を左右に振って大した用件ではないことを示唆すると、若薙が口を開いた。
 俺は思わず身構える。そんな顔付きをして「一体何を考えているのだろう?」と思ったからだ。
 けれど、若薙が口にする台詞はこんな内容だった。
「この橋を越えて向こう側に行くと敵が強くなるんだよ」
 それが到底真面目な内容の話だとは思えなかったから、俺の対応は苦笑いを混ぜた軽いものになる。
「……どこのRPGだよ。大体、敵って、淀沢村には人を襲うモンスターでも出現するっていうのか?」
「さすがにモンスターは出現しないけど、怪物だとか怪人だとかは出現するかも知れない」
 若薙は思案顔を間に挟み、俺の指摘についてそう答えた。
「……はぁ?」
 俺は思わず聞き返していた。それは「何を言っているんだ?」と訝るような対応だったかも知れない。内心「まだ言うか?」という気持ちがあったから、そんな対応もやむを得ないだろう。
 けれど、対する若薙は相変わらず冗談を言うような顔をしていなかった。
 俺は押し黙る。そして、改めて若薙の言葉を反芻してみるけれど、やはり冗談か何かの類だとしか思えない。
 そんな中、若薙の発言の扱いについて当惑する俺の背中がバンバンと叩かれた。
「いいね! こうドーンと怪人でも出現して、一騒動起こしてくれないかな!」
 若薙の話について、村上は妙に高いテンションでそんな自身の要望を付け加えた。それはまるで自分の得意なことが話題に上り、得意顔をして語り出すかのようなテンションにも似ている。
 頭に疑問符をいくつも付ける俺が反応できないでいると、浅木が横合いから話題に参加する。
 浅木の表情は「一言言っておかないと我慢できない」と言わないばかりの呆れ顔だった。
「何ぶっそうなこと言ってるのかな、この若薙君達は」
 その口調には非難の色が混じっていただろうか。
 さすがに一騒動起こすとは穏やかじゃない。サマープロジェクトの参加者に危害が加えられることだって考えられる。
 けれど、当の村上は誤解が生まれるかも知れないことを気に掛ける様子もなく、言葉を続けた。
「まぁ、その、俺の夢なんだよ」
 村上が唐突に口にしたその仰天発言は、一気にその場の雰囲気を一新させた。
 浅木は大きく目を見開いてまじまじと村上を注視する。それが本気の発言なのかどうかを見定めているのだろう。
 一方、俺や仁村もそうだ。
 自然と村上は注目を集め、そこには発言についての詳細を求める雰囲気が生まれる。
「俺は一度で良いからヒーローって奴になって、誰か大切な人をこの手で守ってみたい」
 村上は照れたような仕草を見せながら、その夢の具体的な内容を説明する。「怪人と一緒になって暴れ回ってみたいんだ」とか言い出さなかっただけマシだったのかも知れない。怪人の側に立って暴れてみたいだとかカミングアウトされた日には、どんな反応をするべきかを真剣に熟考しただろう。ヒーローになって云々という夢を語られた時点で、俺達は既に反応に困っているのだからだ。
 若薙、浅木ともに押し黙る中にあって、それならばと仁村が質問をぶつける。
「大切な人って、村上君にはそういう人が居るんだ?」
 その鋭い質問に、村上は沈黙した。
「……」
「怪人が出現して一騒動起っていうのは淀沢村でってことだよね。だとすると、村上君には守りたいと思うその大切な人がいるっていう話になると思うんだけど……」
 村上は一気に歯切れを悪くすると、仁村の質問にしどろもどろになりながら答えた。
「あー……、それは何も恋人だとかそういう関係に限ったことじゃないぞ? そうだな、例えば、強く結ばれた信頼関係だったり、大切に想っている親友だったり……」
「だから、村上君は淀沢村にそういう人が居るんだ?」
 仁村の口から発せられる鋭い指摘に、村上は回答に窮したようだった。
 すぐさま「誰々だ」と答えられるような相手が居ないのだろう。
 淀沢村の外部からサマープロジェクトに参加者している人であれば、その手の「大切な人」を挙げられる奴などそうそう居ないと思う。仮に、幼馴染みだとか親友だとか恋人だとかと一緒にサマープロジェクト参加している奴がいれば、話は別だ。けれど、そうでないならこの淀沢村に来てから、その手の人間関係を構築する必要があるわけだ。
 仁村が話の落とし所をどこに持って行きたいかはともかく、最終的に突き詰めていけば村上の回答は「これから作る」となるのだろう。まだまだ、仁村と村上とやりとりの続きを聞いていたかったけれど、俺はとある一つの重要な事実に気付いて、そこに一つの質問を携え割って入った。
「ちょっと、ちょっと待ってくれ。敵が強くなるってことは東地区にもその怪人やら怪物やらがいるってことか?」
「当たり前だろ。ほら、あれとかだよ、あれ」
 さも当然という具合に若薙が切り返す。そうして、若薙は俺の顎をガシリと掴むと、強制的にその「あれ」の方へと向き直らせてくれた。その方向にいたものは、遊木祭川について説明をする綾辻だった。
「はは、おい、いくら何でもそれは!」
 俺は思わず吹き出した。なるほど「怪人」か。
 ただ、そうやって吹き出した次の瞬間のこと。不意にこちらの様子を窺った綾辻と目が合う形になって、俺の背筋を冷たいものがいくつも流れていった。サーッという音を立てて、血の気が引いていくのを俺は実感した。
 綾辻はすぐにその視線を話を聞く面々に移したけれど、後でたっぷりと絞られるかも知れないと俺は思った。
「本日の淀沢村案内ツアーは主に東地区のポイントを案内します、明日は西地区。そして三日目最終日にはちょっと異なる観点からあちこち案内しようと思っているから、特にサイクリングロードとか自然散策に興味がある人は最終日にもイベントに参加して欲しいと思います。それでは次のポイントへ移動します」
 中端橋での説明を終えると、綾辻は列の先頭に立ってすぐに移動を開始するようだった。説明が終わった後、名指しで指定されて「今言ったことを復唱しなさい」とか言い出された日には俺はひたすら頭を下げるしかなかっただろう
 俺はホッと胸を撫で下ろした。しばらくは綾辻に近付き過ぎないことを留意する必要があるだろうか。
 ともあれ、中端橋通過後は特筆する点のない二つの訪問ポイントを経由し、遊木祭川の上流へと向かった。遊木祭川に沿って続く道をY字路となる分岐点まで進むと、ちょうど分岐点に位置する喫茶店・リバーサイドで昼御飯となった。これも当初の計画通りらしく、リバーサイドの軒先に置かれた洒落た黒板には「歓迎・緑陵寮新人入寮者」と書かれている。
 店内にもサマープロジェクトの参加者に対する歓迎の暖簾があった。そこには他の寮の名称が入っていたりしたけれど、そこはご愛敬だろう。
 本日のお勧めランチ四種の中から各自好きなものを選択して昼御飯を食べた後、次の目的地である淀沢村商店街へと向かう。移動時間はリバーサイドから約三十分程度。終始、馬原か綾辻のどちらかが何かを説明していたのを覚えているけど、その内容は記憶にない。
 田園地帯の風景から雑居ビルなどが立地する近代的な一角が見えるようになると、列の集団の中からは歓声が挙がった。もちろん、都市圏のそれと比較すると、縦横ともにその規模は非常に小さいと言わざるを得ない。けれど、ずっと田園地帯を眺めてきた後だと言うこともあって、それが輝いて見えたことは否めない。
 中端橋でもそうしたように馬原と綾辻が淀沢村商店街について説明を始める。簡潔に言うと、それは基本的なものであれば何でもここで揃えることができるという内容だった。理容店や美容室、歯医者はもちろん、土日のみしか営業していないけれど映画館があったり、カラオケやプラモデルショップがあったりと、一応娯楽施設も完備されているらしい。
 一通りの簡素な説明を終えると、馬原は次の目的地へと移動を開始しようとする。今日の予定の中では、淀沢村商店街の中を見て回るということはしないようだった。列の集団の中からは「もっと淀沢村商店街を見て回りたい」という要望も挙がったけれど、それは綾辻によって棄却される。
 そろそろ頃合いだと思った。俺は列の先頭へと駆け寄ると、馬原へと話し掛けた。
「馬原。前もって言っておいたように、用件を片付けたいんで俺はここで一旦抜けることにする」
 もちろん、このまま商店街へと服を揃えに行くわけだ。
「ああ、そうだったな」
 馬原とは対照的に綾辻は一旦抜けると言った俺を不思議そうな顔で見ていた。馬原から綾辻へ、特に事情の説明は為されていないらしい。それで問題がないなら、そこに俺が口を挟む理由は何もないけれど、念のため、俺は綾辻に向かって状況の説明をした。
「実はこの服、ルームメイトの野々原からの借り物なんだ。淀沢村に来るに当たって実家から何も生活用品送っていない上に着替えも持ってきてないから、服を買い揃えないと明日着る服さえなかったりするんだ」
 綾辻は「ふーん」と頷いただけで、特に途中で抜けることに対してどうこう言うことはなかった。それはもちろん馬原が知っていたからというのもあるだろう。
 どこか「納得いかない」という雰囲気をまとう綾辻の様子を窺って、俺はハッと気付いた。馬原が「寮長」なのだ。そうだ、立場上は馬原の方が綾辻よりも上にあるのだ。馬原が知っていたという点で、やはり問題はないのだろう。
 俺は「それじゃあ」と一言告げると、淀沢村商店街へと足を向ける。手を振る綾辻と馬原に見送られて、何事もなくという具合にことは運びそうだ。
 仁村達は一目で淀沢村商店街の街並みを確認できる案内板を前にしてざわつく集団の中にいる。後で文句を言われるかも知れないけれど、声を掛けることは止めておいた方が良いだろう。
 いざイベントから抜けようとした矢先のこと。抜き足差し足忍び足で集団を離れる俺を綾辻が呼び止めた。
「ちょっと待った。笠城君は後でこっちに合流するつもりとかあるの?」
「あー……、どうだろう? 考えてなかった。一応、用事はそれだけだから、できたらそうしたいけど……」
 我ながら煮え切らない答えだとは思った。けれど、俺自身それは明言できないことだから仕方ない。そもそも、俺は緑陵寮出発前に説明していた今後の予定を覚えていない。ふと「するつもりがあっても、合流なんてできないんじゃないか?」という思いが脳裏を過ぎった。
 ただ、そんなところも綾辻にはお見通しだったようだ。
「笠城君に合流するつもりがあるとして、この後の予定とか覚えてる?」
 綾辻の鋭い指摘に、俺は苦笑いをただただ苦笑いを返すだけだった。
「はは、……実を言うと覚えてない」
 綾辻は呆れ顔だった。そして、腰に付けたポシェットの中からメモ書きを取り出すと、それを俺へ向けて差し出した。
「そんなことだろうと思った。これ、目安となる滞在時間を書いたこの後の訪問予定場所」
 受け取ってしまって良いのだろうか。
 差し出されたメモ書きを目の当たりにした瞬間、そうも思った。けれど、恐らく綾辻はこんなメモ書きなどなくとも、イベントの運営に何の支障もないだろう。今後の予定なんてものは頭の中に叩き込んであるだろうし、このメモ書きももしもの時のために用意したものに過ぎないはずだ。
 そんな俺の考えを証明するかのよう。綾辻はそれがもう必要のないことを説明し、俺に受け取るよう促した。
「今日のこれからの段取りはもう頭の中に入っているから、笠城君がこっちに合流する時間の目安にでも使って」
「その、何から何までありがとう」
 俺と綾辻のやりとりを見ていて馬原は不安を覚えたらしい。横から口を挟む格好でこんな提案をする。
「そんなに時間が掛からないようなら、少しここで休憩挟んだりして待つこともできるけど、……どうする?」
 それは俺のためだけにこのイベントの予定を変更してくれるということだろう。
 その馬原の気持ちは素直に有難かったけど、俺はその申し入れを断る。
「さすがに、そこまでして貰うのは悪いよ」
 申し訳ないという理由だけでは馬原が引き下がらない気がして、俺は待って貰うことに問題があることを説明する。それは俺が有する問題だけど、俺を待つことに無理があると理解させるには十分な理由のはずだ。
「それに、すんなりと買い物できる性格でもなかったりするんだ、俺。靴は適当に安物を買うつもりだけど、服の方は一応フィーリングに合うものを探したいしさ。そうなると結構な時間が掛かるだろうし、待って貰っているとなるとどうやったって俺の方も焦るだろ? 構わないからここに俺を置いて、先行っちゃってくれよ」
 馬原は残念そうな顔をしていたけど、最終的には納得してくれたようだ。淀沢村商店街での買い物についての便利な情報を最後に説明すると、今度はすんなりと俺を見送った。
「笠城。淀沢村のサマープロジェクト参加者だってことを説明すれば、寮の名前と部屋番号で荷物を送り届けてくれるから配送を活用するといい。配送料金もまけてくれるしな」
「へぇ、そんなシステムがあるんだな。さすが地元密着型の商店街。まぁ、ありがたく活用させて貰うよ」
 事前に話が付いていたこともあり、イベント運営側に取って俺が抜けること自体については何の問題もない。そこに問題が生じるとすれば、俺が抜けることを知らない面子にその事実を知られることだろう。知られてしまった場合の影響度合いが不明というところも、質の悪さに磨きを掛けていただろうか。
 後が恐いので、やっぱり村上や若薙にだけは一言声を掛けていこうかとも思った。けれど、また何かややこしい問題に発展することも考えられて、俺は気配を消すことを選択する。
 忘れてはならない。今のところ、若薙と村上こそが最大のトラブルメーカーに成り得るのだ。一言声を掛けることがどんな結果を招くか想像できない所以はこの二人がいて、そしてここに馬原が居るからなのだ。
 呉越同舟とまでいってしまうのは言い過ぎだろうか。ともあれ、これ以上、例えそれが間接的にであっても、俺が関係することで馬原の胃をキリキリと痛めるのは気が引ける。
 加えて言えば、出掛けに馬原へ向けた若薙の言葉もある。新人へ淀沢村の魅力について教えると、若薙は言ったのだ。そんな意図が若薙にあるならば、俺が途中で単独行動するだの何だの余計な情報は与えるべきではないだろう。このイベントの新人の参加者が俺と仁村だけだというならばまだしも、対象者は他にもたくさん居るのだ。
 考えすぎかも知れない。けれど、若薙にそんな意図があるのなら俺のことを気に掛けずやるべきことをやって欲しい。
 尤も、若薙のその言葉がどこまで本気だったのかは解らないけれど……。
 集団からそっと離れようとした矢先のこと、今度は思わぬところから呼び止められた。それは浅木だ。
「あれ、笠城君。どこか行くの?」
 人懐っこさが主として際立つ形だけど、浅木はこういうところに抜け目がないように思った。全体を満遍なく見ているというか、変化に敏感といえば良いか。たまたま気付いただけかも知れない。けれど、それは俺が集団からそっと離れるか離れないかの、あまりにも絶妙なタイミングだ。
「ああ、ちょっと単独行動しないとならなくてさ。日々の生活を送る上で必要になるものを買い揃える必要があるんだ」
「そっか、笠城君はここで抜けちゃうんだ……」
 残念そうな顔をする浅木に向けて、俺は心にもないことを口走ることになった。
「いや、抜けるとは言っても、一応、綾辻さんからこの後の予定と時間の目安を聞いているから、用件が片付いたらすぐに追い掛けるつもり」
 正直なところ「すぐに追い掛ける」だなんて、思ってもみなかった言葉だ。
 もちろん、追い掛けるつもりが微塵もなかったと言えば嘘になる。けれど、俺の中で予定はあくまで未定だったはずで、その言葉は浅木という存在が俺から引き出したのだろう。
「本当? なら、戻ってくるのを楽しみにしてるね。こういうイベントの時にはみんなで楽しさを共有したいもんね!」
 本当に嬉しそうに笑う浅木を前にして、俺は心にもないことを口にした罪悪感に顔を引き攣らせる。そして、それを果たせなかった時のためにこう後付けするのだった。
「道に迷うとかさ、不慮の事態があって戻れないことも考えられるから、期待はしないで……」
 けれど、浅木はその後付けを許さなかった。
「それじゃあ、また後でね。……待ってるからね?」
 ハキハキとそう宣言し、俺を上目遣いに見る仕草で念を押すと、浅木はくるりと踵を返して集団へと戻っていった。
 破壊力は抜群だ!
 若薙や村上よりも、浅木に対して口走った約束の方が厄介だったかも知れない。取り残される形となった俺は、はっきりと浅木に合流の可能性を否定できなかったことを後悔した。尤も、そうやって浅木に合流を強く希望されたことを喜ぶ一面も確かにあるわけで、俺は内心複雑だった。
 ともあれ、浅木が集団に戻った今、いつまでも一人ポツンと佇んでいるわけにはいかない。俺は踵を返すと、淀沢村商店街へと足を向ける。どうにか若薙と村上には気付かれずに、集団を離れることには成功したようだ。
 改めて淀沢村商店街の街並みを確認してゆくと、そこが俺の思っていたものよりも、ずっときちんとした商店街だということが解る。かなり失礼な話だけど、よくて中規模の商店が五〜六軒並んでいるようなしょぼいものを想像していたわけである。実際には地方都市にみるショッピングモールのような作りをした一角があり、村という名称には見合わない規模の商店街がそこには存在していた。
 さすがに絶対的な面積は小さいけれど、風雨を凌げる立派な屋根が商店街全体を覆っている。何処も彼処も真新しさを感じさせる上に、センスも良い。寂れた感じは皆無で、無駄に近代的な佇まいだと思った。こじんまりとしていながら、軽食の取れる喫茶店なんかも点在していて、商店街全体が非常に洒落た佇まいだった。こういうところはサマープロジェクト様々なのかも知れない。需要があるから供給が生まれるわけだ。
 ちなみに、淀沢村商店街には服屋が二店舗あった。一つはカジュアル&ジーンズを歌う店舗で、もう一つが低価格路線で様々なタイプの服を売る店舗だ。どちらも俺の地元では聞いたことのない店の名前だったけれど、看板に「淀沢村店」とあるところを見るとチェーン展開しているらしい。
 どちらの店舗もかなり大きかった。俺の地元にある同種の店舗と比較しても大きさだけは遜色ない。尤も、この二店舗だけで淀沢村にいる若者の需要を補っていると考えれば、そんなに不思議ではないのかも知れない。先ほども似たようなことを考えたわけだけれど、サマープロジェクト参加者という一時的な需要の増加も見込めるわけである。
 店舗にはちらほらとサマープロジェクトの参加者と思われる同年代の面々が居た。同年代とはいっても客層は様々で、パッと見でアクセサリなど「洒落てるな」と思う人もいれば、色合わせに「?」を覚える人も居た。
「七番のプリント布を二メートルと、後カラーズのテトロン糸を……」
 何に使うのかは解らないけど生地を買い求めている女子もいる。
 ともあれ、さすがに品揃えの方は口が裂けても豊富とは言えない内容だ。「気に入った」と、すんなり手に取れるものもなかなかなくて、品物選びにはある程度の妥協が必要だった。結局、商店街のちょうど中間あたりにある低価格路線の店舗と、外れにあるカジュアル&ジーンズの店舗を二度行き来した形だ。双方の店舗で買い物したけれど、馬原が言っていたようにどちらの店舗も緑陵寮まで無料配送してくれるということだった。
 配送日の日付が書かれたレシートを貰って店舗の外へ出ると、俺は大きく伸びをする。取り敢えず、手持ちのお金が少なくなったこと以外、当面の問題は片付いただろうか。
 靴も揃えたので、これでようやく本格的にあちこち足を伸ばすこともできるだろう。服屋の配送に、緑陵寮で借りた突っ掛けを「一緒に配送して貰えないか?」と頼んだため手持ちの荷物は何もない。
「さてと、どうするかな」
 そう口に出して言ってみるけど、気持ちは半分以上固まっていた。
 一応「期待せずに」とは断ってきたけれど、浅木に「……待ってるからね?」なんて言われてしまった上に、俺も「後を追うつもり」と口走ってしまっている。すぐに後を追わないにしろ、その辺りで休憩という形で軽く腹拵えをした後、俺はイベント参加のために奔走するのだろう。
 時間を確認するために、淀沢村商店街の中腹にある広場へと足を向ける。中腹にあるこぢんまりとした広場は休憩所という位置づけのようで、巨大な柱時計の他、自動販売機やベンチなどが設置されているのだ。
 柱時計は後数分で十六時に差し掛かろうかという頃を指していた。
 何だかんだ言って、俺はかなりの時間を日用品の購入に割いたことに気付かされる。
 自動販売機でペットボトルのスポーツ飲料水を購入すると、俺は綾辻から貰ったメモ書きをポケットから取り出す。
「今から合流するとなると……」
 綾辻が書いたのだろう小さい文字を読み進めていくと、予定では筒磐台(とうはんだい)風力発電所科学館という施設に向かっている時間であることが解った。
「筒磐台風力発電所科学館……?」
 その場所の名前を確認したところで、俺はとても重大なことに気付いた。
 施設の名前が解っても、その施設自体がどこにあるのか解らないのだ。メモ書きを改めて端から端まで読み進めてみるけれど、そこに住所なんかは書かれていない。
「しまった……。綾辻か馬原の携帯番号を聞いておくんだった」
 いざとなれば公衆電話で連絡を取るという手もある。事情を説明すれば、どこかの店先で電話を借りることだってできただろう。自分が携帯を持っていないという思いが頭にあって、俺はもしもの時のために「携帯番号を聞いておく」と言うことまで考えが及ばなかった格好だった。
 メモ書きを渡した綾辻からしてみれば、淀沢村の簡易地図が載ったパンフレットを俺に渡しているという思いがあったかも知れない。けれど、そんなものを常日頃から持ち歩くはずもない。いや、腰回りに装着するポシェットを携帯する綾辻なんかは常に持ち歩いているのかも知れないけれど……。
 ともあれ、綾辻から貰った淀沢村のパンフレットを緑陵寮に置いてきたのが痛かった。今から緑陵寮に戻ったのでは仁村達に追い付こうなんて考えは、もたない方が賢明だろう。
 そうなると、俺が取るべき選択肢は一つ。その辺りの人に道を尋ねながら後を追うしかない。
 そんな結論を導き出してしまえば、後は行動するだけだった
「悪い、ちょっと良いか?」
 俺は休憩所で缶ジュースを飲みながら雑談をしていた男二人組に声を掛けた。その理由は、話し掛けにくい雰囲気を持っているでもなく一番近くにいたからだ。けれど、相手の二人は非常にフレンドリーな対応を返してくれた。
 正直、あしらうような対応をされることも念頭に置いていたけれど、それは取り越し苦労だったらしい。
 二人の男はそれぞれ特徴が異なっていて、俺の問い掛けに反応してくれたのは茶髪の男の方だった。髪型は短めの髪を整髪剤で適度に散らした感じで、どこにでもいそうな話し掛け易いタイプだ。
 尤も、俺も他人からみればそう思われるタイプだろうけれど……。
「ああ、構わないけど、何か用?」
「筒磐台風力発電所科学館っていう場所までの道を聞きたいんだけど、知ってたりする?」
 茶髪の男は少し考える仕草を間に挟んだけれど、すぐに心当たりがないと口にした。
「筒磐台なんて場所は知らないけど、……風力発電っていうとあれじゃないのか?」
 そうして、男が指差してみせる方向には高台の上にあってグルグルと回転する風車が見えた。
 きっと淀沢村の上空では強い風が吹いているのだろう。
「俺もあれだと思うんだけど、確信が持てなくてさ。もしも、あそこまで行ってから違うとなったら凹むだろ?」
「ははは、そりゃそうだ。あそこまでとなると結構な距離がありそうだもんな」
 茶髪の男は目蔭を作って、風車までの距離を確認しているようだった。そうして、一頻り笑った後、もう一人へと目線で心当たりを尋ねる。
 話を振られるまで、もう一人の男は我関せずという風だった。俺と茶髪の男のやりとりを黙ってみていた格好だ。けれど、だからといって話を聞いていなかったというわけではないらしい。的確に答える。シャイな奴のかも知れない。
「俺の方も心当たりはないよ。大体、一緒に淀沢村にやって来たんだ、俺だけが知っているわけないだろう?」
 もう一人はパッと身では優等生タイプと言えばいいだろうか。さらさらの黒髪に、角張ったフレームの特徴的な眼鏡が一番目を惹くけれど、目元にある穏やかさが印象的な男だ。雰囲気的には馬原と野々原を足して二で割って、さらに角を削って丸くした感じだ。
「そうだよなー」
 眼鏡の男にも心当たりがないことを確認した茶髪の男は「どうするかな」と呟くと、意を決したように手を叩く。
「ちょっと待ってくれな、今、俺達よりも淀沢村に詳しい女を呼ぶから」
 茶髪の男はそう前置きすると、すぅと息を呑み商店街に向かって声を張り上げる。
「祐理香(ゆりか)! 祐理香どこいった? 新垣(あらがき)祐理香さーん!」
 茶髪の男が呼んだ新垣と思しき女は不機嫌そうな顔付きをして現れる。端正な顔付きに、意志の強そうな鋭い目付きで不興顔をしているものだから、余計にその不機嫌そうな印象が強くなっているのだろう。
 パッと見た感じでは美人と形容するのが適当だろう。少なくとも可愛いという言葉が不似合いなぐらいには美人の方が彼女の印象に合っている。さらりと風に靡く腰元まである黒髪と、身長が高いことがその「美人」の形容をより相応しいものにしている気がした。ただ、それも綾辻とはまた違った美人の方向性だと俺は思った。
「あのさー、天下の往来で人の名前を叫ばないでくれない? 何、あたしの名前を叫びたいって気持ちが唐突に吹き出してきて抑えが効かなくなる例の病気?」
 言葉の節々には、往来で自分の名前を大声で呼んだことを非難する棘がびっしりちりばめられていた。
 そんなきつめの言葉を向けられるけど、茶髪の男も間髪入れずに反論する。
「どんな病気だよ、それ!」
「あんた、昔っからよくあたしの名前を叫んでたじゃない? てっきりそういう病気なんだと思って」
「毎回毎回、お前があっちこっち勝手気ままに行くからだろ! 気付いたら居なくなってたなんてしょっちゅうだぞ!」
 どこかで見たようなやりとりが展開されて、俺は頭を抱えそうになる。仮に、眼前の二人が口喧嘩の様相を呈してきたら俺が止めに入ることになるのだろうか。眼鏡の男がついさっきそうしたように、我関せずといった具合に傍観を決め込んだならそうなったのだろう。
 ともあれ、新垣と茶髪の男がそのまま口喧嘩へと発展することはなかった。
「ちょっと、この病人に何か言ってやってよ、とき……、おろ、こっちの人は友達?」
 くるりとこちらを向いた新垣はもう一人の男に話を振ろうとしたのだろう。結果として、そこでようやく新垣の目には俺の姿が留まったようだった。ちょうど目が合う格好になる。新垣は俺より若干低い程度の身長で、ほとんど目線の高さは同じだった。
 吸い込まれるかのような澄んだ瞳が印象的だった。
「いや、今、道を聞かれてたんだ。祐理香は筒磐台風力発電所科学館って知っているか?」
「ああ、そうなの……って、筒磐台風力発電所科学館? それなら、あの高台の上の風車の脇にある建物よ」
 新垣は施設の名前を確認した後、風車に向かって指を向けた。
 それはもちろん、ついさっき「あれじゃないか?」と話題に上った風車である。
「やっぱり、あれか」
 思った通りの展開だ。俺は大きく息を吐く。言葉にすると「参ったね」とでもするのが適当だろうか。
「風車まで行くつもりなの? 近くまで行けば標識とかもあるはずだからすぐに解ると思う……って、近くまで行くも何もあんなでっかい目印見落とすわけはないか。一応言っておくと、ここからだとかなーり遠いよ?」
 新垣の口調は「行かない方がいい」と俺に促すかのようだった。
 ここから風車を眺めてみただけでも、かなりの距離があることは一目瞭然だ。
「……やっぱり? でも先にあそこに行ってる奴らが居てさ、後を追わないわけにはいかないんだよね」
「風車まで歩いて行くつもりなら止めておいた方がいいと思うけど。せめて、自転車とか。何か移動手段はないの?」
 かなりの距離があることを解っていて、なお俺に風車まで行く意志があることを説明すると、今度は「止めておいた方がいい」と、はっきりと言われた。
 新垣は俺を心配してくれているのだろう。そう思うと無下に対応することも適わず、水分補給を含めた事前準備をしっかりやってから挑むことを説明して切り抜けた。
 道を尋ねられて教えただけの縁だとはいえ、その相手が「日射病で病院に運ばれました」と後日談でも聞かされれば後味は悪いだろう。それこそ「あの時もっとしっかり制止しておけば……」なんて考えるかも知れない。
「でも、あれだよな。科学館なんて、いかにも子供向けのつまらなさそうな響きだよな。淀沢村も何だかなぁ」
「これからそこに行かなきゃならないっていう当人を目の前にして、……それを言うか?」
 俺がそこに向かう気を削ぐような感想を茶髪の男無遠慮に述べる。俺はやんわりと非難を向けたわけだれど、頭の中では俺もそう思っていた。ただ、口に出して言われてしまうと、尚更そこに向かう気持ちが削がれるわけだ。何より、新垣からははっきりと「止めておいた方がいい」と言われた後なのだから、それも尚更だ。
「はは、悪い悪い」
 男は申し訳なさそうな顔をしながらカラカラと笑った。
 一気にやる気のバロメーターを落とした俺は再び溜息を吐く。
 けれど、そんな俺の様子を尻目に、新垣はその「つまらなそう」といった色眼鏡を否定した。
「科学館にはプラネタリウムとかあるよ。それもかなりでっかい奴。確かこの近隣地域では最大規模だとか何とか」
「へぇ、プラネタリウム。そんな洒落たものが淀沢村にもあるんだ」
 俺は素直に感心した。尤も、そういうものがあるからこそ、馬原や綾辻が新入寮者向けのイベントで案内場所に選んだのだろう。新垣の話を聞いただけでも「この近隣地域で最大規模」という興味深い台詞が出てきたのだ。緑陵寮から結構な距離があるにしても、十分足を運ぶ価値があることが解る。
 今頃、イベント組は満天の星空を体験しているのかも知れない。
 何かピンと来るものがあったらしく、茶髪の男が頓狂な声を上げた。
「プラネタリウム! いいじゃんいいいじゃん! 科学館なんて仰々しい名前が付く施設ならクーラーもがんがん効いているんだろうし、俺らも暇潰しを兼ねて今から行ってみるか?」
 そうして、茶髪のあまりにも唐突な提案をする。
 もちろん、その提案は新垣と眼鏡の男に向けて言ったもので、俺がその発言に対してどうこういう筋合いはない。ただ、筋合いがないとはいえ、部外者である俺ですらその発言には思わず「おいおい」とツッコミを入れ掛けた。
 尤も、もう少しさりげなさが前面に押し出されていれば、その発言に対する見方は変わっていたかも知れない。具体的には「親切心から俺を目的地まで案内するために、態とそういった言い方をしたのか?」だとか、いい話的な見方だ。
 ともあれ、俺が喉元まで出掛かったツッコミをどうにか飲み込んだレベルなのだから、新垣が反論しないわけがない。それどころか、そのあまりにも唐突な提案には、ここまで傍観を決め込んでいた眼鏡の男までもが横から口を挟んだ。
「もしかして、それは今日これからってことで言っているのか? それはいくら何でも……」
「さっきから行動が場当たり的すぎなんですけど! 馬鹿じゃないの?」
 そのまま三人のやりとりを傍観していると、まだまだ掛け合いが続きそうだった。
「悪いけど、ちょっと急ぐんだ」
 俺は悪いと思いながらも、そこに口を挟む。彼らがプラネタリウム目当てに、筒磐台風力発電所科学館まで行くかどうかを決定するのを待つ時間はない。
 茶髪の男は一度キョトンとした顔付きをした後、俺が何を言おうとしたのかを理解したらしい。そのやりとりを最後まで傍観する必要はないと言ってくれた。
「ああ、俺らのことは気にしなくていいぜ。行っちゃって行っちゃって。もしかすると、向こうで会うかも知れないけどな。その時はまぁ、また声を掛けてくれよ」
「取り敢えず、色々とサンキューな」
 俺は道を教えて貰ったこと、心配して貰ったことなど全てを引っくるめて感謝を口にした。
 俺に急ぐ理由がなければ、茶髪の男に加勢してみたりして、一緒に筒磐台風力発電所科学館を目指すのもありかも知れないと思われさる三人だった。サマープロジェクトの参加者ならば、また合う機会もあるだろうか。
「君達もサマープロジェクトの参加者だろ? まぁ、縁があったらまた」
「そうだな、縁があったらまた」
「気をつけて、じゃーねー」
 新垣に手を振る形で見送られ、俺は淀沢村商店街を後にした。
 取り敢えず、風車を目指して歩き始めたわけだけど、俺が考えるよりもずっとずっとその筒磐台までは距離があった。
 晴天の日の遠方の景色は、本来の距離よりもずっとずっと近く見えるという例の現象なんだろう。
 どれくらいの時間が経過しただろうか。携帯電話が手元にないということもあって、俺はそれを確認することもできない。当てにできない俺の不確かな感覚で言えば、既に淀沢村商店街を後にしてから一時間は経過しているはずだ。
 どんなに贔屓目に見ても、綾辻から教えて貰った筒磐台風力発電所科学館の滞在予定時間は超えていた。
 仁村や馬原達は次の訪問先へ移動しているはずだ。
「クソッ、このままじゃ二日前の再現になるな。……また村上が助けてくれるかな」
 弱気な発言が口を付いて出る。
 二日前の再現とは、言うまでもなくまた迷子になるという意味だ。尤も、例え迷子になったとしても、今回は村上の助けが必要になる状況にまでは陥らないはずだ。それは二日前の状況と比較して、俺の置かれる状況が大幅に異なっている点が大きい。
 まず疲労の状態が全然違う。これは淀沢村商店街で喉の渇きを潤してきたことが大きい。
 俺が置かれる状況もそうだ。迷っているとは言っても緑陵寮と現在位置との大体の関係は把握できている。それに、今歩いて来た道を戻れば、淀沢村商店街まで戻ることができる。さすがに今来た道を戻ることができないなんてことはない。
 次に、俺の周囲に広がる風景だ。二日前は見渡す限り、延々と田園地帯が広がる風景であった。しかしながら、今は木々が生い茂る山の麓という感じだ。その気になれば、降り注ぐ太陽光を木陰に入って遮ることもできる。山の中腹に設置された風車へと向かって歩き続けたのだから、それも当然だろう。
 そして最後に、降り注ぐ太陽光の違いが挙げられる。南中を過ぎ、西日のそれへと近付き始めた太陽は、視覚的にも赤味を帯び始めている。燦々と降り注ぐなりにも、体感温度は徐々に下がり始めているのだ。
 尤も、二日前の時のような状態に陥らないとはいえ、合流できる望みがない以上このまま進み続けることに意味はない。引き返す余力がある内に、引き返しておくのが上分別かも知れない。
「……戻るか」
 俺は呟いた。
 そう口に出していってしまうと、意識がそちらにぐぐっと傾くのだから不思議なものだ。そして、その言葉を口にした俺の選択の正当性を、後押しする考えや言い訳が次々と浮かび上がってきた。
 具体的にはこのまま風車を目指して歩いても、もう浅木や仁村と合流することができないこと。そして、合流できないことに対して、既に浅木に後付を済ませていることなどだ。
 俺は綾辻から貰ったメモ書きを取り出す。
 時計がないので正確な時刻は解らない。けれど、体内時計から現在時刻を換算し、俺は仁村達の滞在先を推測する。
「浅木や仁村は今頃、……群塚高校(むらづかこうこう)か、この谷交堂神社(やこうどうじんじゃ)あたりに居るんだろうな」
 ボーっとメモ書きを眺めていると、俺はふとあることに気付いた。そして、思わず頓狂な声を上げた。
「って、イベント参加組は昼食だけじゃなくて夕食も外で食べるのか!」
 綾辻から貰ったメモ書きは夕食後に「緑陵寮帰寮」となっている。一応、夕食を取る予定場所だろう店の名前も書かれていたけれど、当然その場所を俺が把握しているはずもない。
 須藤を始めとしたイベント不参加の新入寮者もいるし、その新入寮者を迎え入れる既存の寮生もいる。だから、緑陵寮でも夕食自体はいつも通り振る舞われているだろう。
 問題なのはイベントに参加しながら、俺がそのイベントで振る舞われる食事にありつけないことだ。
「寮に戻っても、イベント参加者には夕食が出ませんとかないよな……?」
 緑陵寮は夕食もバイキング形式だから、よっぽど大丈夫だろうとは思う。最悪、紛れ込めば解らないだろう。そんな思考が頭を過ぎった。
 ともあれ、夕食のことを考え始めたことで、俄に腹の虫が騒ぎ出す。ついさっきまでは「疲れた」という思考が頭の中を支配していたはずなのに、今は様々な訴えが体の節々から上がってきていた。
 その中で、最も強いものが空腹感だ。
「淀沢村商店街を経由して緑陵寮に戻るとなると、……かなりの時間ロスになるな」
 大体の位置関係は把握できている。淀沢村商店街を経由して緑陵寮を目指すことはかなりの遠回りだ。
 俺は悩んだ結果、淀沢村商店街を経由せずに緑陵寮を目指すことを選択した。「ぐぅぅ」となる腹の虫もその選択を大いに歓迎した。夜の闇が周囲を包むようになって方向感覚を失う前に、帰宅したかったという思いもあった。
 誤算だったのは、俺の思い通りにことが運ばなかったことだ。
「駄目だ、完全に迷ったな……」
 どうせ田園地帯に出るだろうと思って、途中途中の分岐路を深く考えずに進んだのが間違いだったのだろう。今になって「大人しく淀沢村商店街を経由していけば良かった」なんて後悔してみたところで、既に後の祭りである。引き返そうにも、途中途中の分岐路を適当に進みすぎていて、元居た場所に戻れるとは到底思えない。
 立ち止まり、改めて周囲の景色を確認する。片側の景色は見覚えのある田園地帯が広がるようになったけれど、もう片側は相変わらず山の麓という感じの風景だ。
「ここは一体どこなんだよ……」
 誰かに道を聞こうにも、誰とも擦れ違うことなくここまで小一時間歩き続けた。
 ふと、今日中には戻れないかも知れない。そんな考えが脳裏を過ぎる。大きく首を左右に振って、そんな気落ちに繋がる思考を振り払っては見るけれど、状況が改善する見通しはない。これから夜の時間に差し掛かれば、今まで以上に誰かと擦れ違う可能性は低下する。
 急がば回れとはよくいったものだね。溜息しか出なかった。
 そんな中、トントントンとバスケットボールをドリブルする音が聞こえて、俺はハッとなる。
 最初は暑さによって意識が朦朧としたことによる幻聴か何かと思ったけれど、意識ははっきりしている。耳を澄ますと今度ははっきりとその音が聞こえた。バスケットボールをドリブルする音の方へと目を向けてみると、道路の脇に小さな下り階段を見付ける。
 全段の高さを合計しても一メートル程度しかない階段を下っていくと、そこにはどこにでもある見慣れた緑色のフェンスがあった。そして、ドリブル音を響かせる当人がいた。
 人の姿を確認したことで、俺は思わず安堵の息を吐いた。
 そして、話し掛けるタイミングを窺っていると、ふと気付いたら男のその挙動に目を奪われていた。特に意識してそれを見ようと思ったわけではない。けれど、ハーフパンツにダボダボのティーシャツ姿の男は、あまりにも華麗にシュートを決めてゆくのだ。
 身長は若薙と同じくらいだろうか。標準的な体格と比較すれば、間違いなく小さい方に属する身長だ。けれど、男は身体をバネのように伸ばした綺麗なフォームで驚くほど容易くシュートを決める。
 スリーオンスリーに特化した小さいバスケットコートではあったけど、シュートを外すことは一度もなかった。
 もう何度目だろうか。まるでリピート再生を見ているかのように、ゴールポストへと吸い込まれてゆくバスケットボールを見ながら、思わず俺は声を上げた。
「凄いな、さっきから一度も外してないじゃないか」
「……誰?」
 男が俺へと向けた声は、お世辞にも友好的とは言えないものだった。けれど、そこに俺が話し掛けることを断固として拒否する意図が見え隠れするほど、排他的でもない。
 だから、俺はパフォーマンスを見せられた興奮そのままに口を切って言葉を続けた。
「俺は笠城賢一っていうんだ。緑陵寮に入寮してるサマープロジェクトの参加者さ」
 男は足下に転がるバスケットボールを拾い上げる動作の間、その横顔に思案顔を覗かせた。恐らくは俺という存在にどう対応するかを思案していたのだろう。
 思案顔自体はすぐに影を潜めたけれど、その後の男の行動はお世辞にも人当たりの良いとはいえるものではなかった。
「俺は大野友貴(おおのともたか)」
 男は大野と名乗った。いや名乗っただけと言うのが正しいだろうか。自己紹介と言えば、そういえなくもないのだろうか。ともあれ、それは「俺が名乗ったから仕方なく自分も名乗った」とさえ感じさせる口振りだ。
 大野はすぅっと息を吸って横を向くと、再びシュートを放る。
 バスケットゴールが置かれただけで、ラインが引かれているわけではないので正確な距離は解らない。けれど、大野の立ち位置は、スリーポイントとなる距離よりもかなり遠いように感じる。それにも関わらず、またも大野はいとも簡単にシュートを決めた。
 そして、俺は「凄い」と感じるままに拍手を送る。
「いや、凄い。ホント、凄いわ」
 大野は、いきなり現れて好き勝手に自分を賞賛をする俺に対して、どう反応して良いのか解らない様子だった。
「大したことじゃない」
 ぶっきらぼうにそれだけを口にする大野の様子は、傍目に見ると照れ隠しのようにも見える。
「俺も投げさせて貰っていいかな?」
 深く考えるよりも先に、俺はそう口を開いていた。
 大野があまりにも容易くシュートを決めるものだから「俺にもできるかも知れない」なんて思考が首を擡げたわけだ。「見るは容易く行うは難し」とある。もちろん、頭では解っているのだ。しかし、それでもなお「もしかしたら」なんて思わせるのは大野が容易くシュートを決めてみせるからだろう。
 断られるかも知れない。最悪、そんな反応が返ってくることも頭の片隅に置いていた。
 けれど、大野はあっさりと俺の頼みを聞き入れた。
「ああ、構わない」
 足下に転がるバスケットボールを拾い上げると、大野は俺へと向けてそれを放った。
 俺はバスケットボールを受け取り身構える。ギリギリスリーポイントととなる辺りまでゴールに近付くと、シュートを放つ体勢を取って狙いを定め、力加減を調整する。しかしながら、実際にパスケットボールを構えた俺に、大野がやってみせたような長距離シュートを決める自信はなかった。なにせ、こうやってバスケットボールに触るのだって、体育の授業以来だったりする。
 僅かな風切り音を響かせ、俺の放ったバスケートボールが宙を舞う。しかしながら、俺の放ったシュートは見るからに最適ではない放物線を描いた後、ゴールポスト手前のコートの上でバウンドした。
「はは、思いつきで投げてみようなんて思ってみても、やっぱり駄目なものだな。シュート一つ取ってみても、練習練習あるのみか。それにしても改めて実感したよ。そんな位置からゴール決められるなんて、やっぱり凄いことだよ」
 それは心底、大野の技術を凄いと思ったから口にした言葉だ。
 けれど、大野はそんな賛辞の言葉に困ったような表情を見せた。そして、口にするかどうかを迷うような仕草を間に一つ挟んだ後、俺に向かってこんな質問を投げ掛けた。
「もしも、その理由がバスケットボールをバスケットゴールに入れる法則を知っていたからだとしたらどうする? しかも、それは一度やり方さえ知ってしまえば、誰にでも簡単にやって退けることができるんだ」
 変なことを言う奴だなぁ。俺の寸感はその程度のものだった。
 だから、大野の表情は冗談をいう風ではなかったけど、そこに対応する俺のスタンスは軽いものになる。
「それは、手品ってことか?」
 俺はシュートを投げるポーズを取ると、大野に向かってそう尋ねる。俺自身、手品という言い方は「正しくないだろう」と思っていたから、てっきり大野からは否定の言葉が返ると思っていた。けれど、大野は手品という言葉をあっさりと許容する。
「あぁ、そんなものかも知れない」
 その大野の受け答えを聞いた俺は、さぞかし驚いた顔をしていたことだろう。まさか、そんな言葉が返ってくるとは思っていなかった。尤も、それは確かに手品と言ってしまえば、手品と表現できないことはない類のことかも知れない。
 では、手品に付きものとなる種や仕掛けは一体何だろう?
 常識的に考えれば、それは日頃の積み重ねによる修練だ。そして「その精度は才能と努力の度合いによって変わってきます」というわけだ。
 俺は手品という言葉を否定しなかった大野に、その種について確認を求める。
「……何か、種でもあるの? そんな手品があるんだったら、ぜひ教えて貰いたいね。でも、毎日毎日コツコツ練習するのがその種なんですなんて台詞は簡便な?」
 大野は答えない。
 痛いところを突かれて、返事ができないのだと思った。だから、俺は半ば強引に話を切り替える。
「ところで、……バスケする面子が集まるのを待ってるのか? それとも、ここで一人練習とか?」
 今からメンバーが集まって一試合を設けるというには、時間的に考え難い。一人で練習というのが現実的だろう。
 そんな俺の思考を肯定するように、大野は「面子を待つ」という質問に対してこう答えた。
「バスケがしたいなら、こんなところにはいない。群塚高校の体育館や西地区のスポーツ会館まで行けば、バスケをやる人数には困らないだろうし、きちんとしたゲーム形式でやれる。審判もいれば、道具一式も借りられるはずだ」
 そんな大野の見解にはところどころ「ここにいてもバスケの試合はできない」といった趣旨のニュアンスが滲む。
 バスケをするなら俺も参加したい。そんな考えがあって俺がここにいるのだと、大野は思ったようだった。
 ただ、そんな説明を聞かされたことで、俺は尚更考えさせられる。
 それならどうして、一人こんなところでシュート練習をしているんだろう?
 一人の方が集中できるだとか、考えられる理由は様々あるわけで、俺はその質問を大野にぶつけることをしなかった。
 一人の方が集中できるし邪魔も入らない。仮に大野からそういう趣旨の返答を貰うことになれば、俺は「邪魔者」以外の何者でもない。加えて言えば、今になって俺はその可能性が非常に高いんじゃないかとさえ思い始めていた。そう考えると、大野に声を掛けた時の素っ気ない態度も理解できるわけだ。
 どうやら、俺はまたしても話題を変える必要があるようだった。藪は突かないことに越したことはないだろう。
 態とらしく、天を仰ぐと俺は一際大きな声を出す。
「おーっと、もう良い時間だな」
 日が沈み、夕焼けの色が徐々に濃紺へと代わり始めれば、辺りを闇が包み込むのに多くの時間は掛からなかった。
 空がまだ夕焼け色に染まっていた時には気付かなかったけど、このバスケットコートの周辺には複数個の街灯が存在していた。それら街灯の明かりのお陰だろうけど、夜になっても俺はこの場所をあまり薄暗いと感じなかった。まだ練習を続けようと思えば、それに困らないだけの光量がここにはあるだろう。
 尤も、大野に練習を続けるつもりはないようだ。コート近くの草むらに置かれたスポーツバックからバスケットボールを格納するネットを取り出すと、ちゃくちゃくと片付けの準備を整えていった。
 俺もコートに転がるバスケットボールを一つ二つと手に持てるだけ拾い上げると、それを大野の元へと持って行く。
「手伝うぜ」
「ああ、サンキュー」
 俺が手伝うと申し出たことに関して、大野は驚くほど素直に感謝の言葉を口にした。練習を邪魔されなければ、それなりに当たり障りのない対応を見せてくれるのかも知れない。
 大野がネットを広げると、俺はバスケットボールを放る。バスケットボールは緩やかな放物線を描き、パシッという小気味良い音と共に大野の右手に収まった。
 俺は思わず感心する。
「良く片手でボールを受けられるな」
「これは特別なことじゃないだろ?」
 さも当然という風に聞き返してきた大野に、俺は首を傾げる。
「バスケットボールだぜ? ……よし、いいだろう。ちょっと投げてみてくれよ」
 大野は俺の要求通り、俺へ向けてバスケットボールを放る。ゆっくりとした速度に、緩い放物線。その軌跡についても完璧だ。ちょうど俺の胸元あたりに落ちるようにコントロールされていて、受ける側の立場に取って不足はない。
 パンッと乾いた音が鳴り、俺は片手でバスケットボールを掴んだ。けれど、それはすぐに俺の手を離れて地に落ちる。
 受け方が下手だったのか、俺の握力が足りないのか。それとも指の長さが足りず、バスケットボールを片手で掴むだけの面積が確保できていないのか。ともかく、今の俺には片手でバスケットボールを掴むことは困難だった。
「ほらな? 簡単なことじゃないよ」
 大野は納得がいかないようで、しばし自分の掌を眺めていた。
 大野が最後のバスケットボールをネットに収納する。パンパンに膨らんだネットには六個ものバスケットボールが収納されていて、見るからに持ち難そうだ。
「途中まででも良ければ、バックとか、俺が持とうか?」
 すっと手を差し出してバックを受け取ろうとする俺に、大野は申し訳なさそうに口を開いた。
「緑陵寮に入寮してるんだろ? だったら方向が正反対だ、途中なんてない」
 大野にそう説明されて、俺は苦笑いの表情で差し出した手を引っ込める。さすがに緑陵寮のある地域に全ての寮が集まっていると思っていたわけではない。けれど、俺の頭の中には大野が緑陵寮のある方向に、俺と一緒に移動することになるという思い込みがあったのは確かだ。
 寮の名前は何か。また、寮が正反対の場所にあるにしても、大体どの辺りに位置するのか。
 俺は話の流れからそういった寮の情報を確認しようと口を開き掛ける。けれど、例えそれを確認したとしても、淀沢村の土地勘がない俺では、場所の特定ができないことを痛感した。緑陵寮に戻れば、パンフレットでその位置関係を把握することはできるだろうけど、今それが解らなければ意味がない。
 俺はどうするべきかを考える。
 この時間から遠く距離のある寮へと大野が移動するとは考え難い。ここにしか、練習できる場所がないということも考えられるけど、そう遠くない場所から来ているんじゃないか?
 色々と考えを巡らせる俺の葛藤を汲み取ったかのように、大野は別れの挨拶を口にした。
「それじゃあ、またな」
 くるりと踵を返し、大野はバスケットコートを後にする。
 ふと気付けば、俺は大野の名前を呼んでいた。
「大野、いつもここで練習してるのか?」
 そんなことを聞いてどうしようというのだろうか。そう口走ってしまってから俺自身そう思った。
「他にもいくつかポイントはあるが、大体ここにいる」
「気が向いたら、また立ち寄っても構わないか?」
 俺自身、どうしてそんなことをわざわざ大野に確認したのかは正直解らない。
 バスケに興味を持ったのかも知れない。いや、バスケと言うよりもそのロングシュートを決める方法に興味を持ったのかも知れない。例え、それが毎日毎日コツコツ練習するという努力の上に成り立つものだとしても、である。
 そして恐らく、俺は念を押したのだ。
 そこで大野が「駄目だ」と言わない限り、俺のことを邪魔者扱いできないはずだ。例え、今日みたいに俺が大野の練習に割り込むことになってもだ。
 返答を躊躇う大野に、俺は追い打ちを掛けるようにいった。
「その法則とやらを盗みたいんだ」
「……変わった奴だな。好きにすればいいさ」
 大野は呆れるように言った。
 すっと大野が俺に背を向けようと矢先のこと。俺はハッと我に返って、重要なことを思い出した。
 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。そんな言葉がある。
 ここで大野にそれを尋ねなかったことで緑陵寮に辿り着けず、まかり間違って心配した馬原あたりから捜索願が出されるなんてことになった日にはまさにその言葉通りとなるだろう。
 俺は恥を忍んで、大野にそれを聞かないわけにはいかない。
「後さ、……緑陵寮までの道を教えてくれないか? その、……実は迷子なんだ」
「……」
 大野から俺へと向けられた視線がその沈黙の理由を物語っていた。
 それは「呆れてものが言えない」だ。




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