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Seen02 欠損記憶探索


 コンコンッとドアがノックされる音が聞こえた気がした。それが自室のドアを叩いたものだと解っていながら訪問者を確認するのが億劫に思えて、俺はタオルケットを被り直す。俺が返事をしなければ、そのまま訪問者は去っていくだろうと思ったからだ。
 けれど、再び寝直そうと体勢を取った俺の耳には訪問者と思しき相手の声が飛び込んできた。
「何だ、笠城はまだ寝てるのか?」
「かなり疲れてたんじゃないのかな? 例によって昨夜も寝苦しい熱帯夜だったけど、僕と違って彼はすぐに眠りに付いたみたいだったし」
 昨夜の俺の様子を口にするその声の主がルームメイトである野々原のものだと解るまで、俺はかなりの時間を有した。そうして同時に、その声の主を野々原だと理解してようやく俺は自分が置かれる状況を理解した格好だ。
「ああ、俺は緑陵寮にお世話になっているんだった」
 ただ、そこまで思考の回転速度が上がっても、口を開いて漏れ出る言葉はその場にそぐわないものになる。
「……誰か、来てるのか?」
 明順応が追い付かない寝惚け眼へと飛び込んできたのは覗き込むように体勢を取った野々原だった。
 野々原は朝の挨拶と共ににこやかに微笑むと、その訪問者が俺を尋ねてやってきたことを説明する。
「お、目が覚めたかい? おはよう、笠城君。馬原寮長と綾辻副寮長が笠城君の顔を見に来てるよ」
「馬原と、綾辻副寮長?」
 そう野々原に問い直すが早いか、野々原の背後から馬原が顔を覗かせる。
「おはよう、ゆっくり休めたかい?」
「お陰様で、ぐっすりと眠れたよ」
 本音を言えば、まだまだ惰眠を貪りたい欲求があった。事実、馬原が俺を訪ねて来ず、野々原が俺を起こさなければ、俺はまだまだ睡眠時間を稼いでいたはずだ。そうは言っても、馬原を前にして今から寝直すなんて真似ができるはずもない。俺は仕方なく欠伸を噛み殺して起き上がる。
「それで、何か俺に用だったんだろ?」
 俺は馬原に訪問の理由を尋ねた。そして、ちょうどその時に、馬原のすぐ後ろに立つ女の存在に気付いた。
 その女が野々原に副寮長という肩書きで名前を呼ばれた綾辻だと思った。綾辻に該当する相手が他にいなかったと言うのもある。けれど、彼女は副寮長という役職が持つイメージがそのままそっくり当てはまるとさえ思える風貌だったのだ。
 装飾のついた髪留めで掻きあげて、ちょうどつむじの高さ辺りで一つにまとめた簡素な髪型が真っ先に印象に残ったけれど、綾辻の全体像を捉えた上で俺は一点訂正を加えなければならない。副寮長という肩書きに、綾辻はそぐわない服装をしている。
 全体的な雰囲気を含めていうと可愛いというよりかは綺麗だと表現した方が適当だろう。それはパッと見た感覚だけで誤解を恐れず述べるなら「近付き難さ」さえ感じるぐらいのレベルにある。仁村や浅木が持つような柔らかな物腰はないといっていい。
 その代わりといっては何だけど、綾辻からは頭の回転が非常に速そうな印象を強く受けた。そのキリッとした眉毛と、鋭い目付きがその要因だろうか。ともあれ、それらは綾辻の存在感をこれでもかというほどに強調する。
 そして、何よりもやはり、その服装が印象的だった。見掛けで人を判断するのは問題があるけれど、少なくともその綾辻の服装から副寮長らしさは微塵も感じられない。服装は全体的にダークな色合いだ。ゴテゴテとしたアクセサリと刺繍がちりばめられたVネックのカットソーは体のラインを強調するタイプの奴で、濃紺のジーンズも所々に素肌をちらつかせる程のダメージ加工が施されたものだ。
 俺は咄嗟になんて声を掛けて良いか判断できず、ただ黙って会釈だけをした。綾辻もぺこりと頭を下げて会釈を返してくれるけれど、俺は改めてこちらから声を掛け難い雰囲気を感じずにはいられい。
「あの後、綾辻と旧公民館の寮長を交えて話をしてだな。……二つ返事でオーケーされたよ」
 俺は「二つ返事でオーケーされた」という言葉が何を指しているのか理解できない。
 馬原へと聞き返す。
「えーと、その、……何の話だったっけ?」
 俺が素で忘れてしまっていたことに、馬原は呆れた顔付きだった。
「笠城と仁村さんをそのまま緑陵寮に入寮させる話だ」
 そこまで説明されて始めて、俺は合点がいった形だ。ただ、その要望は村上が主体となって動いたもので、俺と仁村はあくまで受け身である。こう言ってしまうのは憚られるけれど、忘れてしまうのも仕方ないだろう。
 ともあれ、まさかオーケーが出るだなんて思っていなかったから、俺は思わず頓狂な声を上げる。
「あぁ、そっか。……って、オーケー出たのか?」
 馬原は旧公民館の寮長と話をしたと言った。本来、俺が入寮する先はその旧公民館だったのだろう。
 緑陵寮への滞在についてオーケーが出たと言うことはつまり、俺が淀沢村に来るべきして来たことを意味する。
 改めて立場をはっきりさせて置くけれど、俺は「どうして淀沢村にいるのか?」についての納得できる理由を得られていない。俺は当惑する。
 正直、気味が悪かった。
「笠城君はサマープロジェクトの参加者じゃなかったみたいだね」
 そう言われた方が俺はホッと胸を撫で下ろしたはずだ。尤も、そう言われたなら言われたで、淀沢村に俺が居る理由の方はさらに説明が付かなくなる形ではあるけれど……。
 ともかく、このサマープロジェクトに参加するという意志決定をした記憶がないこと。そして、淀沢村に辿り着くまでの記憶がすっぽりと欠け落ちていること。これらを解決する必要がある。俺はそれを強く意識した。
 ただ、緑陵寮に滞在することになったということそれ自体を否定する理由は何もない。須藤の居るこの寮へ滞在が決まったことにホッと安堵の息を吐く気持ちもある。
 俺の当惑した様子を前に、今の今まで口を挟まなかった綾辻が、俺と仁村の緑陵寮入寮に至る経緯を説明してくれた。
「村上英太に若薙源也、それに緑陵寮には元からの笠城君の友達もいるんでしょう? 緑陵寮に溶け込む下地ができてしまっている以上、今更、他の寮に移すって言うのが好ましいとは思えないしね」
 そうして、綾辻はにこやかに微笑むと、すっと俺へと向けて手を差し出した。
「ようこそ、緑陵寮へ」
 予想だにしていなかった綾辻からの歓迎の言葉に、俺は拍子抜けした格好だった。
 綾辻の視線はまっすぐ俺の目を捉えていた。俺の中にある本質だとか気持ちだとかいう類のものをその目は見透かしているような気がして、俺はふっと視線を外した。けれど、差し出された綾辻の手を握り返してしまえば、歓迎に対する謝意は自然と口を付いて出た。
「ああ、うん、こちらこそよろしく」
「忘れないうちにこれを渡しておくわ。暇な時にでも目を通しておいて」
 綾辻は腰に付けたポシェットから縦長サイズのパンフレットと厚さにして5mm程度の小冊子を取り出す。表紙を確認した後、綾辻はそれを俺へと差し出した。
 パンフレットの方には淀沢村の文字があり、もう一方の小冊子の方には緑陵寮の文字がある。
 ちらっと流し見た綾辻のポシェットの中には他にも同サイズの小冊子やパンフレットが入っていた。俺以外の新規の入寮者にも渡すためだろうけど、何冊か種類があるのだろうか。
 綾辻から小冊子とパンフレットを受け取ってぱらぱらと中を捲ってみる。小冊子の方は緑陵寮を利用するに当たって寮則なんかが記されたもので、パンフレットの方は淀沢村についての様々な説明書きが載せられたもののようだった。
「まぁくだらないものから重要なものまで規則は色々あるけど、規則は規則。破ったら罰則があるから気をつけてね」
 にこやかな顔をして告げる綾辻に、俺は背筋にぞくりと来るものを感じた。……気のせいだろうか。
 綾辻の言う通り、さらりと流し見ただけでも小冊子には様々な規則が記載されているのが理解できた。どちらかというと綾辻は杓子定規に規則の遵守を求め、規律の確率を望むタイプだろうか。少なくとも、馬原と比較するとそのスタンスであることは間違いないだろう。
 だから、てっきり楽しさを重視する寮長・馬原から独自の「緑陵寮ルール」について言及があるかと期待をした。けれど、当の馬原はキョロキョロと室内を見渡した後、俺に向かってこんな質問を投げ掛けただけだった。
「そういえば、笠城は淀沢村に来るにあたって何か荷物を送ったりしたのか?」
 室内を見渡してみて、淀沢村で生活するに当たって必要となる俺の荷物が何もないことを不思議に思ったのだろう。もしかしたら、俺を保護した時の状況について村上に確認したから出た質問だったかも知れない。
 ともあれ、当然俺はその馬原の質問に明確な答えを返せない。
「いや、……どうだろう?」
 そんな曖昧な受け答えをして作り笑いをする俺に対して、馬原は訝しげな顔だった。
 ともあれ、馬原は荷物の有無についてそれ以上、俺を追求することをしなかった。俺の返答が肯定であっても否定であっても、馬原に取っては関係なかったのだ。そのどちらであっても、馬原はその後に続く言葉を俺に言付けとして話しておく必要があったのだからだ。
「笠城や仁村さんの場合、手続きの都合上、荷物は緑陵寮ではなく旧公民館に届いているはずだ。もし何か送ったのなら、旧公民館まで取りに行く必要があるから覚えておいてくれ。仁村さんにもそう話しておいてくれると助かる」
「それは解ったけど、えーと、旧公民館……」
 淀沢村の地図が頭に入っていない俺としては旧公民館と言われても取り敢えず頷くことしかできない。
 そんな俺の置かれる状況を、綾辻が一早く察してくれる。
「ちょっと拝借」
 そういうが早いか、綾辻は俺の手にあるパンフレットをひょいっと持って行った。すると、それをぱらぱらと捲っていって、淀沢村の簡易地図が載るページを開き、視覚的にその旧公民館と緑陵寮の位置関係を示した。
「緑陵寮がここ。そして、旧公民館がここね」
 パンフレット上の地図の比率は解らなかったものの、緑陵寮と旧公民館との間の距離はかなりのものだと思えた。地図上の位置関係で言うと右端から左端といったレベルなのだ。
 そんな俺の寸感を馬原が肯定する。
「歩いて移動するにはかなりの距離があるから、もし旧公民館方面に用事がある時は駐輪場にある自転車を使ってくれ」
 その口調から察するに、駐輪場にある自転車は特別それが誰かのものということはなく共用のものなのだろう。
 ふと、思うことがあって俺は旧公民館について確認する。
「本来、その旧公民館ってところに、俺は入寮することになっていたんだよな?」
「正規の手続きの上ではね」
 正規の手続きとは入寮先を緑陵寮に変更する前という意味だろう。
 綾辻は腰に付けたポシェットをまさぐると、厚さにして5mm程度の小冊子を取り出した。そして、それは再び俺へと差し出される。「一体何だろう?」と思いながらそれを受け取ると、表紙には旧公民館の文字が確認できた。
 一頻り頭を捻ってみるけど、綾辻がそれを俺に渡した理由は考えつかない。
「綾辻さん、俺にこれをどうしろと……?」
「旧公民館に行ってみるつもりなんでしょう?」
 綾辻の鋭さに俺は驚いた。
 どこから読み解かれたんだろう。もしかしたら、顔に出てしまっていたのかも知れない。
「後になって旧公民館の事情を知って、あっちの方が良かったなんて言われるのはあれだからね。責任の所在の明確化と、念押しをしておこうと思って。もしも旧公民館の方が良かったなんて思うことがあったら、淀沢村で迷子になった自分と村上に助けられたことを恨んでね」
 責任の所在とはつまり、淀沢村でいい年になって迷子になった自分自身が悪いということだろう。
 村上の方は感謝することこそあれ、恨むなどお門違いだ。例え、村上に救出されたことによって、設備がしょぼく規則が厳しい寮へと入寮することになったとしてもだ。
「後、二人の面倒はこっちでしっかり見るって旧公民館に啖呵切って来ちゃったから、残念ながら今から旧公民館に移るというのは無理な相談なので、そこのところも了承してね」
 そんな背景があったのならば、わざわざ俺にこんなものを渡す必要なんかないんじゃないのか?
 内心、強くそう思ったけれど、俺がその心の内を吐露することはなかった。というか、今の綾辻の話を聞いている限り、馬原が言った「二つ返事でオーケーされた」という言葉の信憑性が疑われるわけだけど、そこも突っ込まない方がいいのだろう。
「大丈夫だ、緑陵寮の寮長である俺が言うのも何だけど、旧公民館相手なら緑陵寮はあらゆる点で勝ってる」
 いつだったか、村上からも同じようなことを言われた気がする。相変わらず具体例は出なかったわけで、俺自身が実際に比較してみたわけではないその評価を全面的に受け入れることは憚られた。
 結果、そんな馬原のフォローに俺は曖昧に笑うだけだった。
「……そうなんだ」
 旧公民館へ足を運ぶ。
 淀沢村に何かを送った覚えはない。けれど、それは俺の記憶が欠損しているだけで、実際にはここでの生活に必要となるものを送っているかも知れない。何より、そういった手掛かりを見つけて積み重ねていけば、記憶を取り戻す足掛かりになるはずだと思った。
「散歩がてらに旧公民館方面へ足を伸ばして見るか」
 この後、特に予定もなかったことが俺の気持ちを固める決め手となった。
 時間を確認してみても、まだ昼前だ。午前中に旧公民館まで行って、昼食を取るために緑陵寮へと帰ってくるには無理があるかも知れないけれど、まるまる午後の時間を当てることができる。しかしながら、続いて天気を確認しようかというところで俺は固まった。
 外は雨が降っているようだった。
 昨日、俺と仁村を疲弊させた目映いほどの太陽光が差し込んでいないことを薄々感じてはいたけれど、極端な薄暗さを感じるほどではなかったのだ。だから、正直な話「曇り空なんだろう」ぐらいの認識だった。
「もしかして、雨降ってるのか?」
 雨音が全く聞こえなかったから、俺は窓の外の光景とのギャップに驚いた。
 音を拾い取ることに神経を集中させていくと、確かに微かな雨音を確認することができた。
 それは激しく打ち付けるような雨脚の強いものではない。もしかしたら、それは小雨程度のものだったかも知れない。けれど、地面には既に小さな水溜まりができていて、長時間この状態が続いていたのが解る。
「そうだね、今日は早朝からずっとこんな感じだよ。ラジオによれば、今日一日降り続くらしい」
 そんな俺の推測を証明するかのように、野々原が付け加えた。
 ついさっきまでは話に加わることをしなかった野々原だけど、天気のことへと話題が移ったことでもう気兼ねすることもないと思ったのだろう。
 野々原はカンバスに向かって筆を走らせている。そうやって色を重ねてゆく水彩画は晴天の空を描いたものだけど、それを室内で作業しているのはやはり、外が雨模様の天気だからだろう。
「新聞の方では夕方から曇りマークだったぞ? 確か降水確率も30%ぐらいだったと思う。……共同リビングで天気予報も見ていたんだけど、そっちの方の降水確率は記憶にない。……が、似たようなものだろう」
 そんな馬原の情報が正しいとしても、この生憎の雨模様は少なくとも夕方ぐらいまでは続くようだった。
 散歩がてらにあちこち足を伸ばすことに対してやる気が首を擡げていただけに、俺はガクッと肩を落とした。
 俺の様子を目の当たりにした野々原が苦笑する。
「今日は一日緑陵寮で大人しくしているのが得策だと思うよ」
 言われるまでもない。小雨が降り続く天気の中、あちらこちらへ足を伸ばす気になどなれない。もう、このままベットに横になって疲労回復のために寝直すという流れで良いんじゃないだろうか。本気でそう考え始めたところ、綾辻にポンッと背中を叩かれ励まされる。
「そんなに落ち込まない、明日からがあるじゃない」
 傍目にも解るほどに、俺は気落ちした顔をしていたのだろうか。俺は曖昧に笑った。
「それじゃあ思う存分、淀沢村を楽しんでね」
 最後にそう言い残すと、馬原と綾辻は部屋を出て行った。
 俺はベットに体を投げ出すと、しばらくゴロゴロと寝返りを打ちながら横になっていた。けれど、中途半端に覚醒した影響が大きいようで、眠気が襲ってくることはなかった。
 手持ち無沙汰と言ってしまっても良いだろうか。やはり、出鼻を挫かれたことが痛い。
 ベットの上でゴロンと寝返りを打つと、野々原の様子が目に入った。延々と色を重ねる野々原の作業を横目で眺めていると、不意にその絵が見覚えのある風景だと気付いた。
 そう、淀沢村の風景だ。
 いや、それはあくまで俺が似ていると感じたに過ぎない。実際には違うものを描いた可能性も大いに考えられる。けれど、野々原によってカンバスへと描かれていくものが、少なくとも淀沢村の風景に似ていることだけは間違いない。
 淀沢村の風景を描くために、野々原はこのサマープロジェクトに参加したのだろうか?
 ふと、些細な疑問が脳裏を過ぎった。
 俺はタオルケットを払い退けると勢いよくベットから起き上がる。未だ小雨が降り続いているとはいえ、気温は南中の時間に近付くにつれ、少しずつ上がってきているらしい。次第次第に高い湿度が気に掛かるようになってきていた。
「なぁ、野々原君」
「何だい?」
 野々原は律儀に俺の方へと向き直る。
「野々原君は淀沢村に……」
 そこまで言い掛けたけど、結局俺は質問を飲み込んだ。
「いや、なんでもない」
 俺が部屋に居ることで野々原の集中力を欠いても悪いと思い、俺は一言「出掛けてくる」と断って部屋を出た。特にやることもない状態に置かれたまま、部屋の中にいたなら俺はきっとまた野々原に声を掛けるだろう。
 いや、声を掛け、取り留めのない話をするのも悪くはない。もちろん、そこには野々原がその会話を「鬱陶しいと思わないのであれば」という前提条件が付くけれど、だ。取り留めのない会話は俺と野々原のルームメイトとしての距離を縮める役割を果たすはずだ。そして、他人行事な感じの残るお互いの態度を改善するだろう。
 俺が不安に思ったことはそうやって取り留めのない会話をすることで、おかしなことをポロッと口走ってしまわないかと言うことだった。少なくとも、俺が口走ってしまい兼ねない言葉は野々原に今ぶつけるべきものではない。
「気をつけて」
 そんな律儀な野々原の言葉に見送られ、俺は特に行く当ても持たず緑陵寮の廊下へと足を踏み入れる。
 緑陵寮の廊下にはわいわいと騒ぐ喧噪が響いていた。俺はそれが同じ階層から聞こえてくるものか、階上から聞こえてくるものなのかを確認しようと聞き耳を立てる。すると、その喧噪はあちこちの部屋から発せられているのではなく、階上の一つの部屋から発せられていることを理解した。どうやら大勢の寮生が一つの部屋に集まって何かをやっているようだ。
 雨降りだから仕方なく寮内で騒いでいるのか、それとも元々寮内で騒ぐ連中がいるのかは定かじゃない。
 ともあれ、それは馬原が顔を真っ赤にして飛んできそうな音量の喧噪に俺には聞こえる。そこに注意の怒声が響き渡らないところをみるとこの喧騒自体がいつも通りのことなのか、注意する側の人物が不在なのだろう。
 そんな楽しげな喧噪に惹かれ、俺はその発生源へと足を向ける。発生源へと近付いて行っても、そこに排他的な雰囲気はなかった。ただ「では誰でも受け入れる」という雰囲気かと言えば、それとも異なる。事実、そこには遠巻きにそれを眺めるだけの寮生が多数を占めた。即ち、何も知らない新参者が飛び込んでいくにはかなりの度胸が必要な熱気が、そこにはあったのだ。
 そこでは男女混合でカードゲームをやっているようだった。
 みんなで遊べるタイプのフルCGのゲームなんかも普及する中、随分と原始的だと思った。けれど、気迫の籠もった次の一言が廊下に響き渡った瞬間、俺もその考えを改める。
「イカサマだ! 今の絶対、イカサマ!」
 確かに原始的であるが故に、テクニックでズルができるというのはあるだろう。相手の顔を見ながら駆け引きを楽しむこともできるだろう。
 特に一部の男女が白熱しているらしい。まさに目の色が変わっていた。
 どんなルールで何をやっているのかまでは解らなかったけど、どうやら何かを賭けているのは確からしい。些細な状況の変化に一喜一憂する様子は確かに傍目に見ているだけでも引き込まれる魅力がある。
「イカサマだなんて、言い掛かりは止めて欲しいな。初心者にも熟練者にも場は公平なものだよ、後はテクニックと運の問題だ」
「むかつく、ホントむかつくわ、お前! 月夜の晩だけだと思わないことだね」
「容赦ねぇよ、なさすぎるよ……」
「美晴、もう一戦行けるか? 必ずお前にあいつの吠え面を拝ませてやる!」
「え? え? でも、これ以上負けが込むとあたし……」
 そこには次から次へと、挑発やら諦観、怒声にも似た気迫の籠もった言葉なんかが飛び交う。がっくりと肩を落として燃え尽きた奴もいれば、雪辱を誓うのもいるし、恨み節を口にするのもいる。この調子なら、まだまだ盛り上がるだろう。
 ただ、そこに若薙や村上の姿を見つけることはできなかった。
「こういう集まりの場には常に顔を出してそうなイメージなんだけどな」
 村上にしろ、若薙にしろ、出逢ってからまだ多くの時間を共有しているわけではない。従って、それはあくまでイメージである。そうは言っても、いつひょいっと若薙や村上が顔を出しても俺は驚かないだろう。それぐらい俺の中では若薙や村上というキャラクターは固まってしまっている。
 そこにずらりと顔を揃える面子を改めて眺めてみる。ちらほらと見た顔がいるけれど、やはりそこには目的の人物はいなかった。ちなみに「見た顔」とは淀沢村の食堂などで見掛けたというのもあるけれど、須藤同様に同級生という形で顔を合わせてきた面々も含む。
 ふと須藤や仁村の顔が思い浮かんだ。そして、ここにいないと言うことは部屋に籠もっている可能性が高いことを理解する。特に須藤の方は、こんな雨降りの天気にわざわざ出掛ける性格ではない。少なくとも俺が知っている須藤というのはどちらかというと出不精の男だ。
 そうと決まれば、やることは決まっていた。
 俺はまず仁村の部屋を目指した。部屋番号も昨晩の夕食時に聞いておいてある。緑陵寮への本格的な入寮が決まった後で、部屋割りが変更になっていない限りはそのまま浅木の部屋にいるだろう。全てを真に受けるのはあれだけど、浅木からは「いつでも遊びに来てね」と言って貰っている。今回ばかりはその言葉に甘えさせて貰うことにしよう。
 喧噪が漂う廊下を離れ、俺は階上を目指した。
 三階へと続く階段で女子と擦れ違うけど、特に咎められることもない。何か立ち入り難い雰囲気を感じたのわけだけど、それは俺の気のし過ぎだったのかも知れない。俺はあっさり女子の階層である三階へと足を踏み入れる。緑陵寮の寮則が書かれた小冊子をぱらぱらと眺めた限りでは夜間の各階層間の移動と、夜間の自室以外の出入りについて禁止となっていただけなので、それも当然と言えば当然かも知れない。
 部屋のナンバーを間違えないように慎重に確認して行き、俺は目的となる浅木の部屋を見つける。
「間違いないな、ここだな」
 再度、部屋のナンバーと入寮者名を確認した後、俺はドアをノックする。
「誰? 入っていいよー」
 間延びした声は浅木のものだった。訪問者が誰なのかを尋ねておきながら、その次の台詞で部屋に入ることを許可する辺りが「浅木だな」と思った。浅木からは一応「誰?」と尋ねられたわけで、俺は名前を名乗った上で改めて部屋に入っていいかを確認する。
「笠城だけど、ちょっと失礼するよ?」
 ドアノブに手を伸ばし、今まさにドアを開けようとした矢先のことだ。仁村から制止の言葉が向いた。
「ちょっと待って!」
 仁村の強い口調に、俺は慌ててドアノブから手を離した。けれど、浅木は相変わらず問題ないと主張する。
「入ってきていいよ、笠城君」
 仁村と浅木の返答が正反対だから、俺は当惑せざるを得ない。
 もしかしたら、そのままこの場を去るのが最適解だったかも知れない。
「えーと、いや、でも仁村が……」
「郁(かおる)が恥ずかしがってるだけだから、笠城君が気にする必要なんてないよ」
 郁というのが仁村の下の名前であることを理解するまでに俺はかなりの時間を有した。その間、俺はドアの前で小難しい顔をして固まっていたわけだけど、端から見ればさぞかし不審だったことだろう。
 ともあれ、俺が固まっている間にも浅木と仁村のやりとりは続いた。
「だって、あたし、こんな服、絶対似合ってないし!」
「そんなことないよ、可愛いよ、似合ってる」
 強い口調で否定的な主張をする仁村に対し、浅木が優しい口調で説得する。構図としては常にそんな感じだった。
「友香は似合し着慣れてるのかも知れないけど、あたしはこういうタイプの服って着たことないんだって! その、どういう風に振る舞えばいいかも解らないし……」
「特別構えることなんて何もないよ? いつも通りで良いんだよ」
「でも……」
 時間の経過とともに仁村はトーンを下げてゆく。尤も、それは説得されているというよりも、人当たりの良い仁村の雰囲気に押し負けているというのが適当だろう。
「……お邪魔します」
 どうにか入って行っても問題なさそうな雰囲気をそんな二人のやりとりから感じ取り、俺は浅木と仁村の部屋へと入室する。意を決して、ドアを開けると仁村と浅木の姿形よりも先に部屋の間取りに目がいった。
 部屋自体は俺と野々原の部屋と完全に一緒の作りだ。けれど、そこら彼処には小物が配置されていたり、ベットの枕元には俺の身長の半分はある大きな熊のぬいぐるみが置かれていたりと、殊更にその部屋の飾り付けは目を惹いた。
 昨日の今日で仁村の荷物なんてものがあるわけもないので、それらは全て浅木の好みなのだろう。
 そして、部屋へと足を踏み入れた瞬間、鼻をくすぐる心地よい香りがある。ストレス解消やリラックス効果を持つアロマという奴だろうか。ともあれ、その部屋は俺が感じる浅木らしさが所狭しと敷き詰められていた。
「いらっしゃい、笠城君」
 浅木は俺を笑顔で迎え入れる。けれど、俺は浅木に軽く会釈をしただけで、部屋の中央に位置する椅子へと腰掛けた仁村を凝視する形で固まっていた。
 仁村は昨夜浅木が着ていたような少女趣味な服装を身にまとっていた。いや、服装だけではない。浅木のセッティングと思しき髪型もいつもクラスメートとして見ていた仁村のものとは異なる気合いの入りようだ。まるで人形みたい、……とは言い過ぎか。それは綾辻の格好を先に目の当たりにしているから尚更、そう感じるのだろうか。
 ともあれ、髪型と服装だけでここまで変わるものなのかとさえ思った。
 ただ、当の仁村は顔を真っ赤にしていて、見るからに自分の出で立ちを恥ずかしいと思っていることが見て取れる。
 仁村の前には姿見鏡が置かれている。自分がどんな格好なのか、仁村はそれを嫌と言うほど理解しているだろう。
 どう声を掛けて良いものかを戸惑い、未だ固まったままの俺の様子に仁村も気付いているようだった。
 仁村は上目遣いに俺の顔色を窺う。けれど、俺の視線が釘付けになっていることを理解してしまえば、ふいっとその視線を外してしまった。
 俺はそれが仁村だと解っていながら、思わず口走っていた。
「……えーと、仁村だよな?」
 その言葉が引き金になったらしい。仁村は「似合っていない」という自分の主張が正しかったと大きな声を上げる。
「ほら、笠城君だってあんなこと言ってるじゃん!」
「それは郁があまりにも可愛く変身しちゃったからだよ」
 仁村を宥める浅木の様子に「まずいことを言ったかも知れない」なんて思ってみても既に後の祭りだ。不満顔の浅木からきつい視線で非難を浴びて、俺は慌ててその場を取り繕うことに徹する。
「いや、うん、可愛いと思うよ、仁村」
 心にもない言葉……というわけでもないけれど、少なくともそこには言葉以上の気持ちは伴っていなかっただろう。けれど、今の仁村にそんな行間を読み解く鋭敏さがあるわけもない。
「そうだよね、凄く似合ってるよね!」
 立てて加えて、浅木が仁村をその気にさせるために畳み掛けるのだ。
 仁村は「納得いかない」という顔をしながらも、あれよあれよと言う間にその声を小さくしていった。
 ともあれ、浅木と仁村は昨日の今日であっという間に打ち解けたようだった。
 もちろん、それは浅木の人懐っこさが多分に影響しているだろう。けれど、やはり仁村と馬があったのだろう。浅木の言動に対して受け身に徹する仁村だけど、その表情は呆れ顔ながらもどこか楽しそうで、内心では満更でもないように映る。尤も、満更でもないように見えるといったところで、仁村は自ら進んでその格好をしているわけではないだろう。その服装は浅木が勧めたものだということは確認するまでもない。
 では、仁村はどうして為すがまま、その服を身にまとっているのだろう。
「どういう経緯で、仁村がこんな格好することになったんだ?」
「郁ね、制服以外に何も服を持ってきてないって言うからあたしの服を貸してあげるっていう話になってね。身長もほとんど変わらないし何の問題もなく着れるんじゃないかなって思ったら、案の定っていうわけ」
 浅木の話を聞き、俺もこの制服以外に服を持っていないことに気付かされた格好だった。
 野々原や馬原から借りるという手もあるけど、淀沢村に滞在する間ずっと借りっぱなしというわけには行かない。何より、昨日の応急手当で綺麗にしたとはいえ、裾には泥汚れの跡もある。
 記憶を失う前の俺が旧公民館に荷物を送りつけていなかった場合、どこかで調達する必要があるだろう。特に、下着や肌着を借りるなんてことはできない。割と早急に、服を調達する必要があることを俺は痛感した。
「その場合、どこで服を調達することになるんだろう?」
「淀沢村で好みの服を手に入れるのは無理だろうな」
 服の調達について色々と考えを巡らせていたところ、俺が部屋を訪ねた理由を浅木に尋ねられた。
「そういえば、笠城君、何か用だったの?」
 その言葉で、俺は自分がここに来た目的を思い出した。
「遊びに来たんだ」
 そう答えてしまって「このまま面白可笑しく雑談を続けてしまってもいいか」とも思った。情けないことに、浅木から部屋を尋ねた理由を確認されるまで、俺は完全にそれを忘れていたわけだ。もちろん、仁村の格好に衝撃を受けただとか、記憶を飛ばすに至った理由を言いわけすることはできるけれど……。
 俺は小さく息を吸い込み浮き足だった思考を落ち着かせると、演技をするための体勢を整える。仁村と「意思疎通ができている」と俺が認識している部分は、あくまで「須藤を含めて一度話をしよう」という点に過ぎない。
 話を合わせるよう仁村へ目配せすると、俺は肩の力を抜いて適当に話し始める。多分に嘘を含んだ出任せを口走る時は、ガチガチに理論立てしない方がよいと思った。前後不一致となるしどろもどろの展開に発展する可能性もあったけれど、そうなったらそうなったまでと意を決してしまえば、俺の口からはさらさらとデタラメが口を付いて出た。
「昨日からちょっと約束してたんだ。俺達の高校の連中が緑陵寮にも結構入寮してるから、せっかくだから内輪で会合でも設けようかっていう話になってて、今日はこの雨だろ? ちょうど良いかと思って仁村の意見を聞きに来たんだ」
 そこまで言い終わってしまってから、ふと浅木が「自分も付いていっても構わない?」という趣旨のことを言い出す気がした。根拠はない。けれど、浅木本人を前にして俺が真っ先に感じ取ったのはそんな雰囲気だった。
「会合に集まるのは笠城君と郁の知り合いの人達? 須藤君とかも居るの? あたしも色々と友達の輪を広げたいし、紹介して欲しいな」
 案の定、浅木は予想通りの発言をした。けれど、そこは仁村が上手いかわし方をする。
「まだ友香からは服を借りることになると思うから、適当に似合いそうな奴を見繕っておいてくれると嬉しい……かな」
 思いも寄らない方向からのお願いに、浅木は鼻息を荒くして「任せなさい」と大きく胸を張る。ベットの下へ格納するタイプの収納ケースを鼻歌交じりに引っ張り出す様子はご機嫌そのものだった。
 どうやら仁村はこれからまだまだ着せ替え人形の役を演じることになるのだろう。当の本人もそれをヒシヒシと感じ取ったらしく、疲労混じりに大きな溜息を吐き出す様子が見て取れた。それでも次の瞬間には笑顔を作って見せる早業はさすがで、傍目には空元気と解らない勢いがそこには装われる。
「それじゃあ、ちょっと出掛けてくるね、友香」
「うん、了解。たくさん見繕っておくから楽しみにしててね」
 満面の笑みで答える浅木は見るからに張り切っていた。
 対する仁村は遠目に見る限りでは普通の笑顔をしているように見えただろう。けれど、近場で見る仁村の笑顔が若干は引きつっていたことを俺は見逃さない。
 仁村に取って「似合いそうな服を見繕って欲しい」発言はその場凌ぎの言葉のはずだ。けれど、額面通りにその言葉を受け止め張り切る浅木の厚意を、仁村が無下にできるとは思えない。これからしばらくは「この手の少女趣味の服に身を包んだ仁村を見めことになるんだろうな」と俺は思った。
 パタンと後ろ手にドアを閉めた仁村の横顔からは疲労の色を窺うことができた。
「……大変そうだな?」
 ついさっきまでの光景を一通り見た上で、俺が口にしたのはそんな寸感だ。
「基本的には悪い子じゃないけど、ああいう積極性には疲れるというか何というか。まぁでも、仲良くやれて何より。何だかんだ言って楽しいは楽しいしね」
 仁村は苦笑混じりに答える。それは仁村自身が置かれる状況を「大変」だと肯定したものだ。ただ、同時にそれを悪くないと思っている複雑な胸の内を率直に述べたものでもある。
 やはり、仁村は良くも悪くも浅木との出会いを楽しんでいるのだろう。そう思った。
 浅木と仁村の部屋がある三階層から須藤の部屋がある二階層へ移動する際、仁村の出で立ちは擦れ違う人擦れ違う人の目を惹いた。考えようによっては仁村は浅木の服を借りているだけなのだから、浅木もいつもは同じような状況にあると考えるのが自然だ。こと浅木について言えば、緑陵寮内にいる限りは寮生も慣れてしまっているかも知れないけれど、寮の外では今の仁村のように人目を惹くと考えて良い。
 それらを踏まえて、仁村が自分の置かれる現状について表現した台詞は「ここまで意識によって捉え方が違うのか」という内容だった。
「……これは恥辱プレイだ」
 仁村がボソッと呟きだした言葉を俺は聞き逃さなかった。
 緑陵寮へ入寮している同じ高校の同級生と擦れ違わなかったことだけは仁村にとって幸運だっただろう。
 ただ、決して似合っていないというわけではない。だから、俺としては浅木が言うように「可愛く変身した」ことによって単純に注目を浴びているだけなんじゃないかと思った。尤も、今の仁村に何を言っても追い打ちを掛けることにしか繋がらない気がして、俺は口を噤んだ形だったけれど……。
 須藤の部屋の前まで来ると、ふと須藤のルームメイトのことが頭をついた。
 ルームメイトが在室だった場合、さすがに部屋で須藤と話せることは限られる。もちろん、その場合は場所の移動を考える必要があるわけだけど、俺の部屋では野々原が作業中で、仁村の部屋では浅木が仁村の着替えを準備中だ。緑陵寮内には移動先として候補に挙げることのできる場所は思い浮かばず、緑陵寮の外を視野に入れようにも外は小雨が降り続く生憎の空模様ときたものだ。
 須藤のルームメイトはなんていう名前だっただろう?
 昨夜の夕食時にちらっと名前を聞いたはずだけど、思い出せない。ともあれ、須藤に話を聞いた限りでは、俺と仁村が突然部屋を訪問しても露骨に嫌がるタイプではないということだった。
 須藤曰く「まぁ、あいつは気にしないと思うよ」という言葉を信じたからこそ、俺はここにいるわけだ。しかしながら、厚かましくも「少し席を外してくれないか?」とまで言い出せば、さすがに気を悪くするだろうか。
 後の展開を気に病みながら、俺は須藤の部屋の扉をノックした。
「須藤、ちょっと良いか?」
 反応はすぐだった。部屋の中からは目的の人物の声が返る。
「お、笠城か? 入ってくれよ」
 須藤の言葉に促されるままにドアを開き、俺と仁村は須藤の部屋へと入室する。
 部屋には文庫本を片手にベッドに横になる須藤がいた。
「おっす、おいおい訪ねて来ると思ってた。……って、仁村さんも一緒か」
 その須藤の言葉に深い意図があるかのように錯覚するけど、恐らくそこに俺が求めるような隠された意図はないだろう。それが証拠に、須藤からはクラスメートとの楽しい雑談へ挑む雰囲気が滲み出ている。須藤は笑顔でスナック菓子を取り出すと、態度で俺に「遠慮せずに入ってくれ」と告げていた。
 俺の思いを「察知してくれ」と言う方が無理があるのだろう。
「ルームメイトの森門(もりかど)は出掛けてるから、誰に気兼ねするでもなく騒げるぜ」
 この生憎の空模様、出不精の須藤は部屋に居るだろう。そんな読み通りにことが運んだ上、ルームメイトも部屋に居ないというのは俺に取って格好のチャンスだ。淀沢村に至る記憶が欠損していることについて、誰に聞かれる心配をするでもなく須藤と話ができる。
 早速、俺は核心となる話を切り出してしまおうと思った。話を聞かれて困る誰かが居ない以上、場所を変える必要もなければ、雑談を交えて場の雰囲気を探るような仲でもない。けれど、ふと目の前の須藤が落ち着かない様子で居ることに気付いて、俺は開き掛けた口を閉じた。
 須藤は仁村の格好が気になる様子だった。その仁村の格好は、須藤に取ってもあっさりと流してしまえるものではないようだ。触れるべきなのか、それとも触れないべきなのかを判断でき兼ねる。そんな感じだ。特に須藤は、仁村が浅木の服装を借りているという背景を知らないのだから尚更なのだろう。
 結局、俺がそうしたように須藤も仁村を注視する形になる。
 そうして、上から下までをじろじろと食い入るように眺める須藤を今度は仁村がスルーできない。「睨んだ」というのも言い過ぎではないだろう。そんなきつい目付きが表情に灯ってしまえば、仁村は棘のある口調を須藤へと向けた。
「何?」
「ああ、いやぁ、……仁村さん凄い可愛い格好してるなって思って」
 須藤はさも当然という顔付きで、仁村の格好を「可愛い」と形容する。
 卦体な格好とでも言われれば、まだ「似合ってないから」とでも派手に笑い飛ばせたのかも知れない。けれど「可愛い」なんて形容が須藤の口から出てきたものだから、当の仁村も顔を真っ赤にして俯くことしかできなかったようだった。仁村にしてみれば、思ってもみなかった言葉を須藤から向けられた形だったのだろう。
 須藤はそうやって俯いた仁村の様子を改めてマジマジと眺める。
「ホント凄い良く似合ってる。高校での仁村さんからはちょっと想像できない姿で意表を突かれたけど、可愛らしい私服姿でいいと思うよ」
「……ありがと」
 小さな声でボソッと呟くようにそう言うと、仁村は気恥ずかしさに耐えられなくなったのだろう。そのままふいっと顔を背けてしまう。
 浅木の部屋で「……誰?」なんて聞き返した俺とは比較にならないほど上手い対応だと思った。高校であれこれと一緒に馬鹿をやっている限りではこんな対応をさらりとやって見せるようには見えない。この緑陵寮で俺は須藤の新たな面を垣間見た気がする。
 ともあれ、未だ顔を背けたままの仁村はなかなかいつもの調子を取り戻さず、何とも言えない空気が辺りを包んだ。
 須藤としてはまさかそんな事態に陥るとも思っていなかったようだ。首筋までを真っ赤にした仁村を前にして、須藤は慌てて話を切り替えた。
「三人揃って突っ立ってるのも何だし、座らないか? 顔を見せにちょっと寄っただけっていうわけでもないんだろ?」
 須藤はフロアリングの床の上に座布団を二枚放ると、簡単なジェスチャーで俺と仁村へ座るように促した。当の須藤自身はベットへと腰掛ける格好だ。須藤に勧められるまま腰を下ろすと、仁村も俺に続き、そこには一応雑談を楽しむ雰囲気が生まれた。
 尤も、仁村の様子を本調子というにはまだほど遠かっただろうし、強張りがちの俺の様子もいつものそれとは程遠い。
 それでも須藤はそんな俺と仁村を前に、いつもの調子で口を開いた。
「いやー、でも笠城が淀沢村のサマープロジェクトに参加していたなんて知らなかったな。というか、笠城はこういうのに興味を持つタイプじゃないって思ってたからさ」
 須藤の言うことは、俺自身「尤もだ」と思う内容だ。高校生活を送っていた俺が、何を考えてこの淀沢村のサマープロジェクトなんてものに参加したのか不思議でならない。自分自身を客観的に分析した場合、この手のイベントに参加するタイプでないと断言できるのだ。
 ただ、それは「須藤にしても同じ話」だと、俺は思っている。
 相手が須藤だということもあって、俺は率直にその考えをぶつけた。
「それを言ったら須藤だって、一緒だと思うんだけどな?」
 須藤自身、そう言われると予想していたようだった。移動はその指摘を否定せず、苦笑混じりに肯定した。
「だよなぁ、そうだよな」
 そして、一頻り苦笑いを見せた後で、サマープロジェクトに参加するに至った理由の説明を続けた。
「周りの連中が「参加してみようかな」なんて言い出さなければ、俺も興味を持たなかったと思うしな」
 その須藤の説明の後に続く展開は容易に想像できた。興味を惹かれたままに、須藤は淀沢村のサマープロジェクトへの参加を決意し、正規の手続きを踏んで緑陵寮へ入寮したのだ。
 それを理解すると改めて、疑問が脳裏を過ぎる。
「では、俺の場合はどうだったのか?」
 その手のことが完全に記憶の中から欠け落ちていたわけだけど、俺は須藤へと向き直る。
 時間はある。邪魔さえ入らなければ、俺はここで須藤から聞きたいことの全てを聞き出すことができるだろう。俺と仁村の淀沢村に対する認識合わせも含めて、問題なく全てを済ませることができるはずだ。
 仁村が横で神妙な面持ちをする中、俺はすぅっと息を呑み、意を決して切り出した。
「……そういえば、誰が最初に参加してみようって言い出したんだっけ?」
 口にしてしまえば、後はその答えを待つだけだ。そして、この場にその答えを口にできる人物は一人しか居ない。
 自然と、俺と仁村の視線は須藤へ向く。
「なぁ、知っていたら教えてくれないか?」
「何だよ、珍しく真面目な顔なんかして」
 須藤にそうツッコミを入れられて、俺は始めて気がついた。俺自身はそんなに意識をしていなかったけど、どうやら思った以上に緊張した顔付きをしているらしい。一つ咳払いをする形で仕切り直しを図ると、世間話でも切り出すような態度を意識的に装い俺は再び口を開いた。
「淀沢村のサマープロジェクトってさ、どういう経緯で俺達に案内が来たんだったっけ?」
 須藤はその質問に思案顔を覗かせる。けれど、俺と違ってその辺りの記憶は確かなようだ。僅かな間を置き、誰が言い出しっぺで、どんな展開が為されたかをすらすらと答えてみせた。
「確か世界史の芝坂(しばさか)あたりが授業中にこんなイベントがあるみたいな感じで話したんじゃなかったかな。それで、後になって興味がある奴は教材室にパンフレットを置いておくから自由に持って行けみたいな流れだったと思うぜ」
 芝坂というのは俺や仁村が通う高校で世界史を教える初老の教師だ。初老とは言っても、体育会系の部活動顧問を務めるがたいの良いじいさん先生で、記憶の方も非常にはっきりしている。授業中であるにもかかわらず、かなりの頻度で話を脱線させては色々と変わった話をすることでも有名だ。
 須藤の話を聞くと、鮮明な映像を伴ってありありとその光景が思い浮かんできた。そして、そこには何の違和感もなかった。だから、芝坂が淀沢村の話を持ってきたという「光景」はすぐに強い現実感を伴う。
 けれど、それが本物の記憶なのか。それとも、違和感がないだけのリアルな想像なのか。俺は判断に困った。
 ちらりと横目に捉えた仁村も俺と同じ感覚に陥っている様子で、小難しい顔だった。
「俺、それに参加するっていうような話をしていたか?」
 須藤からしてみれば「おいおい、自分のことだろう?」という思いがあるのは否めないだろう。
 淀沢村のサマープロジェクトに対する俺の態度について述べる須藤は苦笑混じりだ。
「そこまでは覚えてないけど、少なくとも笠城は興味を持ってなかったと思うぜ」
 須藤の見解に俺はほっと胸を撫で下ろす。同時に、須藤のその記憶は「本物だろう」とも思った。
 実際にはこうして淀沢村にいるのにこんなことを言うのはおかしな話だとは思う。けれど、それは俺自身のことだから、断言できるのだ。芝坂がどんな魅力的な話をしたかは知らない。けれど、俺という人間が簡単に淀沢村なんてものに興味を持つはずなんてない。
 改めて、俺はそれを認識した。
 淀沢村を訪れる最初の切っ掛けを作ったのが芝坂だとする。では、どうして俺はその記憶を忘却してしまったか。
 須藤の話を聞き、それを「本物だろう」と感じる。けれど、俺は忘却した記憶を思い出す切っ掛け一つ掴めそうにない。この手の記憶喪失者の話にありがちな、頭を刺すようなズキズキと来る鈍い痛みもなければ、支えるようなもやもや感もない。言ってしまえば、それが凄く不気味だった。
 黙りこくっていると沸々と胸の奥から来るそんな物恐ろしさを意識的に黙殺すると、俺は質問を続けた。
 須藤に聞くべきことはまだまだたくさんある。
「須藤は淀沢村へ、バスで来たのか?」
「ああ、バスで来た。……っていうか、最寄り駅までバス以外に交通手段なんてないはずだから、バスで来る以外に選択肢はなかったと思うぜ? 昔は草央線(そうおうせん)って路線があって普通に電車が行き来していたらしいけど、数年前に廃線になったらしいしな」
 バス以外に交通手段がないのであれば、俺もそのバスに乗ってやってきたのだろう。
 俺としては「どこから淀沢村行きのバスへ乗ったか?」だとか、その疑問を深掘りしていきたい思いもあった。
 けれど、それを深掘りしてみても「何も思い出せることはないだろう」と思った。恐らく、須藤はすらすらと淀沢村までの経路を話してみせて、ついさっきそうだったように俺は忘却した記憶を思い出す切っ掛け一つ掴めないと感じたのだ。今の形のままでは、俺が田圃の真ん中に佇んでいたことについても、恐らく何の手掛かりも得られないだろう。
「どうして、……俺や仁村は須藤や他のクラスメートと一緒に淀沢村へ来なかったんだと思う?」
 俺は質問の内容をそう変える。いや、そもそもそれは質問と括ってしまっていいかどうかさえ怪しい。少なくとも須藤に向けるべきものではない。俺自身のことについて尋ねた質問に、須藤が答えられるわけがないのだからだ。
 けれど、俺が何を確認したいと思って意図の不明瞭なその問いを口にしたかを、須藤は感覚的に感じ取ったらしい。
「さっきから、色々変なこと聞いてくるけど、……もしかして、覚えてないのか?」
 俺や仁村が何の反応も返せないでいるのを目の当たりにすると、須藤はその答えを汲み取ったようだった。自身が淀沢村へとやってきた時の状況について語り、俺と仁村だけが遅れてやってきたことを指摘した。
「俺は他の奴と一緒にバスに乗って来たぜ。緑陵寮に入寮してるクラスメートの奴ら全員じゃなかったけど、他の連中も大体適当なグループを作って、俺と同じ日にまとまって淀沢村に来てたと思う。俺の方が聞きたいね、どうして笠城と仁村さんだけ別行動の上、遅れてやってきたんだ?」
 俺と仁村は顔を見合わせる。「どうして」と聞かれても答えられないのだ。
 俺はぎこちない動作で首を左右に振ると、一言「解らないんだ」という返事した。
「なるほど、重症なわけね」
 須藤は俺と仁村が置かれる状況を大凡理解してくれたのだろう。
「何でも良い、……何か、俺や仁村のことで印象に残ってることとか、思い出せることとかないか?」
 須藤は腕を組んで思案顔を見せると、俺と仁村とサマープロジェクトで共通項を持つ記憶を手繰ってくれたのだろう。しかし、長い思案の時間を挟んだ須藤の言葉は俺の期待に添うものではなかった。
「……駄目だ。笠城や仁村さんがサマープロジェクトについてどういうスタンスだったなんて思い出せないぜ。何か、明らかにおかしかったとかいうんならともかく、少なくとも教室で俺が見た笠城も仁村さんもいつも通りだったぜ」
「そっか。なら、……最後にもう一つだけ聞きたいんだ。いや、聞きたいって言うか、なんて言うか。推測して貰いたいって言った方が適当かも知れない。とにかく、直感で答えて欲しい」
 そこまで言って一つ息を呑むと、俺は意を決して胸中にある根本的な疑問を吐き出した。
「どうして、俺、ここに居るんだと思う?」
「それを俺に聞くか? そんなこと、俺が聞きたいよ」
 須藤は間髪入れずにそう笑った。
 けれど、俺は現状について喉の奥から言葉が沸き上がってくるままに訴えた格好だ。そこには淀沢村に至る記憶を持っていないことに対する俺の不安がヒシヒシと漂った。今まで、平静を装う形で言葉を噤んできたから尚更、それは程度の酷いものになっていたかも知れない。
「財布の中には辛うじて福沢諭吉が数人入っていたから、淀沢村ってところに行くんだって意識はあったのかも知れない。けどさ、携帯も持ってきてない。着替えの服も持ってきてない。挙げ句、淀沢村で迷子になっている間に靴までなくした。まるで着の身着のまま思い付きで家出でもしてきたみたいだ」
 さすがの須藤も不安に駆られる俺の様子を前にして、真顔にならざるを得なかった。
「……何か精神的に追い詰められて、自暴自棄にでもなってたんじゃねぇの?」
 俺はその指摘に腕を組んで唸った。
 自暴自棄になっていたと仮定して客観的に俺自身を眺めてみるけど、思い浮かんでくるものは何もない。芝坂の話を聞いた時のように、鮮明にその状況が思い浮かぶようなことがあるかも知れないと一縷の望みを掛けてみたけれど、その望みは絶たれた形だ。
「もしかして、仁村さんも笠城と全く似たような感じなのか?」
 須藤の指摘に仁村は黙って頷いた。
 そんな仁村の反応に俺は不謹慎ながら少しだけ安心した。「俺だけじゃない」という間違った仲間意識がそこにはあったのだろう。
 俺は仁村と自分達が置かれる状況についてその詳細までを確認し合ったわけではない。だから、仁村の置かれる状況については「自分と似たような状態にある」という曖昧な認識があるだけだったのだ。仁村は俺よりもいくらかマシな状態かも知れない。
 例えば、俺は記憶についての線引きができていない。どこまでをはっきりと思い出せるのか。どこから記憶が不明瞭になって欠損が始まるのか。それが判断できていない。加えて言えば、須藤の話を聞いて思い浮かんだ「まるで本物のように感じる鮮やかな光景」が本物の記憶なのかどうかさえも、判別できない状態だ。
 安心を感じたのも束の間のこと。すぐに自己嫌悪が襲ってきて、俺はググッと拳を握りしめた。
 重い沈黙が部屋に横たわる。
 誰かが口を開いてそれを払拭しようとしない限り、それは暗澹たる雰囲気を伴って部屋に居座り続けただろう。
 言い出しっぺは俺である。俺がそれを排撃すべきだと思った。仕切り直しと言わないばかり、俺は須藤に向けて改めて質問をぶつける形でそれをやった。
「須藤はどうして、淀沢村のサマープロジェクトに参加したんだ?」
「俺か? 俺はこの話を聞いた時に「面白そうかな」なんて思っちゃったんだよね。周りの奴らが淀沢村のサマープロジェクトについて話をしてて、何気なく聞き耳を立てていたらクラスメートの中にも参加するって言ってる奴もいて、話を聞いている内に「俺も参加してみようかな」なんて思ったわけよ」
 須藤ははっきりと答える。
 しかしながら、その須藤の明瞭さこそが俺の不安を掻き立てる。恐らく、それは仁村に対しても同様だろう。
 俺も仁村も須藤と同じ話を聞いていて然るべきなのだ。
 では、どうして俺や仁村ははその記憶を持っていないか?
 やはり、不安の根幹はそこに収束した。
 ただ、須藤から聞き出したことを改めて整理していくと、世界史教師である芝坂の話を聞いたことによって淀沢村へ来たのかも知れないと思えた。「須藤達が参加する」という話を小耳に挟んで俺も参加に乗り気になったのだとすれば、俺が十分納得できる範囲で「ここに居る理由」を組み立てることもできる。
 それは都合良く取って付けた記憶だろうか?
 欠け落ちた記憶の部分にピタリと合致するかのように感じるピースだけど、それが本当に合致しているかどうかを確認する術を俺は持っていない。
 俺は歯痒さを感じて押し黙る。
 結論を導き出すことができない。結局は手詰まりだった。
 最後に緑陵寮へ入寮する顔見知りについて須藤に尋ねると、俺は仁村と共に須藤の部屋を後にした。
 須藤から名前と部屋番号を教えて貰っただけでも、緑陵寮へ入寮する同校生は俺と仁村を含め七人と結構な数がいた。上級生や下級生といった顔触れを須藤が網羅できているはずはないので、実際には緑陵寮だけでももっといるかも知れない。他の寮も引っくるめて考えると、淀沢村のサマープロジェクトには相当の人数の同校生が参加していると考えて差し支えないだろう。
 取り敢えず、名前と部屋番号が判明している緑陵寮内の相手については、その足で直に話を聞いて回った。名前が挙がった女子の方は仁村に前面へと立って貰って話を聞いたけれど、須藤から得た以上の目新しい情報は何も得られなかった。
 淀沢村のサマープロジェクトに興味を持ったきっかけはみんな芝坂の話であり、決められた日に決められた移動手段で淀沢村へとやってきていた。俺と仁村のような例外は見つからない。尤も「例外」なんていったところで、見付かるのは当初村上がいったような「バスから飛び降りた」人達かも知れない。しかしながら、例えそうでも例外の話を聞くことが「記憶を手繰る手掛かりになるかも知れない」という、縋るような思いがそこにはあったのだ。
 芝坂の話がきっかけとなって、俺が淀沢村に来たというのは正解かも知れない。しかしながら、「バスに乗って淀沢村に来た」というのがどうしても俺にはしっくりこない内容だった。
 須藤にも尋ねたけれど「なぜ他の連中と一緒に来なかった?」という疑問が根底にある。まして、何か特別な理由があって俺一人だったのならまだしも、そこに仁村が一緒に居たのがどうしても納得できない。
 仁村はどうして、クラスメートや仲の良い友人と一緒に来なかった?
 仮に「仲の良い友人がサマープロジェクトに参加していなかった」としても、ではクラスメートと一緒に来なかった理由は何だ?
 仁村にも、クラスメート達と一緒に来ることができない特別な理由があったからか?
 首を捻れば捻るほど、疑問が湧いて出た。
 須藤に名前を挙げて貰った最後の同校生の話を聞き終えた頃には、既に一日が終わろうかという時刻になっていた。
 同校生が入寮する緑陵寮三階の部屋を後にし、後ろ手でその扉を閉めたところで俺は深い溜息を吐いた。今の気持ちを率直に言い表すならば、落胆となるのだろう。
 晩御飯を食べて、風呂に浸かれば、もう眠気が襲ってくる時間だろう。何も成果を得られなかったけれど、今日はもう手詰まりだった。
「須藤から聞いた話以上の情報を何も得られなかったけど、今日はここまでにしよう。今度は別の寮の奴らの話を聞く機会を設けるから、その時はまた仁村にも声を掛けるよ」
 どうにか、仁村に向けては「まだ始まったばかり」という前向きな姿勢を示してみせたけれど、それが空元気に過ぎないという点はあっさり見抜かれてしまったかも知れない。
「うん。その時は、お願い」
 神妙な面持ちで仁村が頷くのを確認した後、俺は仁村へ背を向ける。けれど、階下の自室へ向かって歩き出そうとしたところで、俺はその足を止めることになった。
 自室へ戻ることを躊躇うような仁村の様子が目に付いたからだ。二の足を踏むかのような仁村の動作は、下手をすると今から時間を潰せる場所を探すつもりのようにも見えた。記憶を手繰ってみても成果が上がらなかったことに対して、気落ちしているのかとも思ったけれど、別の心当たりはすぐに思い浮かんできた。
 それは仁村が出掛けに浅木へ向けたお願いだ。
 期待に答えるべく、浅木はさぞかし多くの服を用意して仁村を待っていることだろう。
 既に、それを「やっぱり止めた」と、取り消すことができるとは思えない。だったら、後は腹を括るしかないと思うわけだけど、仁村はそれを頭では解っていても決心できない様子だった。
 そうやって浅木に時間を与えれば与えるほど、状況は悪くなるだけだと思ったけれど、既に手遅れだろうことは間違いない。見方を変えれば、今更それを先送りにしたところで仁村が被る精神的ダメージに大差はないのだろう。
 明日からしばらくはゴシック調の服装に身を包んだ仁村の姿を見ることができるだろう。
 浅木に臨むにあたって二の足を踏む仁村の様子を前にして、俺は心なしか癒された気がした。
 わけも解らず淀沢村という土地へ滞在することになったけれど、そうなったらそうなったで淀沢村でしか体験できないこともあるだろう。それが面白可笑しいことなら幸いで、仁村が見せるその一面はその一つだろう。
 これから淀沢村で体験するだろう様々な出来事が、その片鱗を見せているのはありがたい。
 仁村と別れた俺はまっすぐ自室へと足を向けた。そこで俺を待っていたのは、カンバスへと向き直る真剣そのものの野々原の表情だ。恐らく、俺が部屋を出た時から変わらず、一日カンバスに向かい続けているのだろう。
 まずいタイミングで帰ってきたかも知れない。俺はそう思わずにはいられなかった。正直な話、そのまま開いた扉を閉めて回れ右をしようかとも思った。けれど、俺の帰来に気付いた野々原からは、すぐに定型の言葉が向いた形だ。
「お帰り」
「……ただいま」
 俺は「邪魔をしたかも知れない」と感じるままに、張り合いのない顔付きだっただろう。加えて言えば、今日一日記憶を手繰った結果として、何も成果を上げられなかった事実がまだ長く尾を引いていたのは言うまでもない。
 ともあれ、俺の顔をマジマジと注視した野々原は、俺を「浮かない顔」と形容した。
「浮かない顔しているみたいだけど、何かあったのかい?」
 ただ、それを野々原に指摘されても俺は驚かなかった。意識していなかったけど「そういう顔付きをしていてもおかしくはないな」という思いが根底にあったことは否めない。そのまま勢いに任せて喋っていたら、口にするべきでないことが口を付いて出る気がして、俺は適当な話題を思考の片隅から引っ張ってくる。
 運良く、ちょうど良い話題もすぐに見つかった。
「いや、特別何かがあったってわけじゃないよ。ただ、ここで生活するに当たって必要なものを揃えなきゃならないなって思ったら結構な出費が必要になるって気付いたんだよ。かたっぽしかない靴だとか、バスタオルだとか、洗顔フォームだとか、日用品とかエトセトラね」
「はは、それは浮かない顔にもなるね」
 俺の投げやりな口調に、野々原は苦笑する。野々原にしてみれば、そもそも「どうしてそんなに荷物がないんだ?」とでも言わないばかりだろう。俺が野々原の立場だったなら、間違いなくそう尋ねたはずだ。
 ふと、浅木と仁村の一件を思い出し、野々原に服を借りるという手段が脳裏を過ぎった。それはなにも、淀沢村にいる間ずっと拝借させて貰いたいという話ではない。俺が淀沢村で服を揃えるまでの間だ。
 どうやって野々原に話を切り出そうかと頭を捻ってみたけど、まずは現状を率直に訴えるべきだと思った。
 特別、野々原は人付き合いに神経を使う必要がある性格ではない。
「差し当たって、服を買わないとこれ以外に替えがない。リアルで服を買いに行く服がない状態だったりする」
 俺が全てを口にするまでもなかった。野々原は俺が置かれる状況を察してくれる。
「サイズ的に合うかどうか解らないけど、何なら一式貸し出そうか?」
「……悪い、そうして貰えると非常に助かる」
 胸元で手を合わせると、俺は野々原の厚意に感謝する。
「一段落付いたら用意するよ。今日中に用意できれば問題ないだろう?」
 野々原は外の様子へと目を向けると、いつまでに必要なのかを俺に確認する。
 相変わらず、外は小雨が降り続く天気だ。さすがに今から緑陵寮の外へと出掛けるつもりはない。
「もちろん。早く着替えを揃えなね必要があるだなんて言ってみたところで、明日もこの調子で雨が降り続くなら明日も出掛けられないんだ。なにせ、移動手段が徒歩か自転車しかないからな」
 今日中に見繕ってくれるならば万々歳。まして、明日も雨が降り続くようなら、その期限は明日中でも問題ない。
 今後の予定が全く決まっていないことを改めて意識すると、俺は降って湧いた余暇にため息を吐いた。今になって改めて感じる。本当に、どうして淀沢村になど来たのだろうか。不思議で仕方がなかった。
 夏休みには楽しみにしていたゲームを二〜三本片付けてしまうつもりだったし、親戚の家に一泊させて貰ってライブに足を運ぶはずだった。それらを擲ってここに来た理由は何だったのだろう。
「……うん? 何のゲームを片付けるつもりだったんだっけか? 凄い楽しみにしてたはず何だけどな」
 そんなことまで曖昧になっていることに驚いたけれど、今となってはゲームの名前なんて些細なことだ。
 俺はベットにゴロンと横になるけど、すぐに手持ち無沙汰になった。綾辻から貰った淀沢村のパンフレットを何気なく手に取ると、それに軽く目を通す。そこには簡単な淀沢村の歴史が書かれていたり、観光客向けに見所を紹介する簡易マップなどが載っている。
 ただ、俺が知りたい情報は大まかにしか載っていなかった。
 淀沢村のマップの中には何の捻りもない「淀沢村商店街」の文字を見つけることができる。けれど、そこにカジュアルファッションを取り扱う店舗があるのかどうかまでは記載されていない。尤も、一応は「商店街」なんて名乗るぐらいだから、存在しないということはないとは思いたい。けれど、ここは勝手の知らない街、……いや、村である。
「なぁ、野々原君」
「何だい?」
 今朝のリピート映像を見ているかのように、再び野々原は律儀に俺の方へと向き直る。
 聞きたいことは決まっていた。けれど、俺は野々原の顔をマジマジと見返した後、その「聞きたいこと」を飲み込んだ。まずはこれを言っておこう。
 それは浅木と仁村を見ていて思ったことだ。
「……君付けするのがしっくりこないから、野々原って呼び捨てにさせて貰ってもいいかな?」
 野々原は一度キョトンとした顔をする。そして、俺が何を言ったのかを理解すると声を出して笑った。それは「何だ、そんなことか」と言わないばかりだ。
「はは、どうぞどうぞ、好きに呼んでよ」
 その後、商店街の話を野々原に振ってみたけれど、野々原も商店街には行ったことがないということだった。野々原はここでの生活必需品を実家から郵送で送った口らしい。淀沢村での目的が最初から決まっているのであれば、それも当然の対応かも知れない。
 呼び名を「野々原」という呼び捨ての形に変更したことで、直感的に親近感が上昇したとは思わない。けれど、そこを境にして雑談に花が咲いたのは事実だった。まだまだ他人行儀な態度はそこかしこに残っていたけれど、少なくともそこに気まずさはない。
 俺の興味が野々原や淀沢村へと向いている間は、俺は俺を気落ちさせるものの全てから目を逸らすことができた。
 しかしながら、会話に一区切りがつきお互い黙ってしまうと、そういうわけにもいかない。気落ちした一面が俺の前面へとしゃしゃり出てくるのだ。俺の思考は、どうしても結論のでない欠け落ちた記憶へと向けられてしまった。
 せめてもの救いは、野々原が俺の様子の変化に気付かなかったことだろう。カンバスに向き直り、パレットの色をカンバスへと重ねる動作に集中力を割いてしまえば、周囲の様子など目に入っていない様子だ。
 そういう経緯もあって、俺も色々と思考を巡らせてみるけれど、やはり思い出せることなど何もなかった。そして、それなのにも関わらず、頭は酷くすっきりとしていて、そこにもやもや感は皆無である。それはまるで思い出せないことが当たり前であるかのような錯覚を起こさせた。
「どこまで思い出せるか?」
 そこを強く意識してみても手繰り寄せることのできる記憶はどれも曖昧な内容だった。しかも、下手に同校生から話を聞いてたことで、まるで実際には同級生達が体験したに過ぎない話が、さも自分にも当てはまるかのように感じてしまうから始末に悪い。
 思い出そうとしない方が良いのかも知れない。そういうスタンスで居る方がふとしたきっかけで色々と思い出すこともあるかも知れない。ふと、そんな考えが脳裏を過ぎったりもする。
 しない方が良いとまで言ってしまうと、それは極端過ぎる話だろうか。けれど、それを淀沢村で生活する上での主目的とするのはやはり気が進まなかった。
 何も俺一人、重度の記憶喪失に陥った状態で見知らぬ環境に投げ出されたというわけではないのだ。同じ高校の同級生が居れば、何かと気が置けない友人もいる。そういう意味では度を逸した不安を抱え込む必要などないだろう。
 淀沢村という環境を楽しむために、少し記憶を手繰ることの優先度を下げるべきだと思った。
 取り敢えず、旧公民館に足を運ぶことと、服を仕入れることを頭の片隅に置き、俺は目を閉じる。
 結局、シトシトと降りしきる小雨の方は俺が夕食を取って眠りに付くまで止むことはなかった。
 明日は晴れるだろうか。




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