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Seen01 緑陵寮攻防戦


 マウンテンバイクに乗った村上に声を掛けられた地点から、時間にすると大体一時間近くは歩いただろう。
 俺と仁村は村上のマウンテンバイクに荷物を括り付けて貰って、その一時間を歩き続けた。
 一方、当の村上は荷物の括り付けられたマウンテンバイクを押す格好で、俺と仁村を案内してくれた。もちろん、そこには「徒歩の速度に合わせてマウンテンバイクのペダルを漕ぐのは大変」というのもあっただろう。けれど、歩調を合わせて一緒に歩き言葉を交わすことで、疲労の色が見え隠れする俺と仁村を励ます意図が村上にあったのは確かだ。
 事実、平原一辺倒の景色に変化が現れ、俺と仁村の興味がそっちに移るようになるまで、村上はずっと雑談を交わしてくれた形だった。茹だるような暑さの中で交わしたその雑談の内容の大半は既に思い出せない。けれど、黙々と歩き続けていた時よりかはずっと早い速度で体感時間が進んでいってことは間違いない。
 そして、いつの間にかという形で、炎天下の淀沢村はその景色を変えていた。平原一辺倒であった景色も、民家がポツリポツリと点在する様子を確認できるように変化し、遠目には商店街と思しき心なしか賑やかな建造物を発見できるようにもなった。ただ、ではそれらが「長閑な田舎の風景」という淀沢村の全体的な印象を覆すものかと言えば話は別だ。
 さすがにどこまでいっても「基本は平原」という風景の中に、都会的なエッセンスを感じ取ることは不可能だろう。
 良くも悪くも、そこは俺が「田舎」という単語から連想する世界そのものだったのだ。
「……なぁ、この淀沢村っていうところは何処も彼処もこんな感じの場所なのか?」
 こんな感じだなんて具体性に欠ける言い方をしたものの、俺が言いたかったものを村上はすぐに理解した。そうして、高台の上に巨大な風車がぐるぐると回る方角を指した。
「郵便局なんかが隣接する村役場辺りや、商店街がある場所まで出れば、多少は都会的な光景になるぞ。それでも、地方都市の繁華街とは比較にならない佇まいだし、淀沢村を流れる雰囲気というものの大本は変わらない感じだけどな」
 俺は目を凝らして、その方角の様子を確認する。
 そこには村上が言うような建造物の密集する様子が窺えたけれど、それは俺の求めるものからは懸け離れたものだ。村上が言った比較対象である「地方都市の繁華街」がどの程度のものかを確認するまでもなかった。
「そっか」
 それだけを呟くと俺は口を閉ざす。
 難儀な場所にきたものだ。下手に口を開けば、そんな風に率直ながら辛辣な俺の感想が口を付いて出ただろう。それは言っても仕様のない言葉だったし、何よりこの場でいうべきではない言葉だ。だからこそ、俺は口を閉ざしたのだけど、見るからにテンションを落としたことは言うまでもない。
 そんな俺に変わって、話題を変えるべく仁村が口を切ってくれた。
「村上君はここの出身なの?」
「いいや、俺もサマープログラムの参加者で、わざわざこの淀沢村にやってきた口だよ。まぁ、前々から一度、淀沢村を訪れてみたいと思ってたんで、俺は特殊な部類に入るかも知れないけどな」
 村上の言葉に仁村は「信じられない」という雰囲気を伴った。
「……どうして、こんなところにわざわざ来ようと思ったの?」
 村上は苦笑いの表情だ。
「そんな怪訝そうな顔するなよ」
 言われて初めて仁村は自分が怪訝な顔をしていたことに気付いたらしい。慌てて、表情を繕った。
 尤も、俺も仁村のその気持ちは良く理解できる。
 なぜ、わざわざこんな場所に来てみようと思ったんだろう?
 村上の言葉を聞いて、真っ先に俺の脳裏を過ぎった言葉も仁村と同じ内容だったのだからだ。
 村上は僅かに考える仕草を間に挟んだ後、ほぼ即答に近い形で仁村の質問に答えた。少なくとも、その答えを口にすることに、迷いなどは見受けられなかった。
「何もないっていうことが魅力的な場合もあるとは思わないか? 俺が目的を果たすにはここが絶好の場所だと思ったのさ。ここには誘惑が何もない。だから、何も考えず一つのことに打ち込める。そう思ったんだ」
 何もないことが魅力。
 そんな結論に俺が辿り着くことは恐らくないだろう。今、考えなしに口を開けば「そうか、ここには何もないのか……」などと口走って、さらにテンションを続落させたかも知れない。そんな懸念もあって、同意を求める村上への対応を、俺は仁村に任せるスタンスに徹した。
 次の反応を待つ俺と村上を前に、仁村は興味なさそうに頷き返した。
「……ふーん」
 てっきり、村上の目的について尋ねるかと思ったんだけど、仁村は興味をそそられなかったらしい。
 村上も村上で、そこに詳細を求める言葉が続くと思っていた様子で、肩透かしを食ったようだ。
「ふーんて、……それだけか? あれ、……続きとか、聞きたくない?」
 村上はその続きを口にしたくて仕方がないのだろうか?
 ここにきて発せられたらしくない口調からはそんな意志が見え隠れする。
「それじゃあ、一応、聞いておこうかなー。村上君は淀沢村のサマープログラムに参加して、何をしようと思ったの?」
「その「それじゃあ、一応」って何だよ……」
 見るからに肩を落とす村上の様子に、仁村はしてやったりという顔をした。
「ごめんごめん、冗談だって。参考までに教えてよ。どうして淀沢村のサマープログラムに参加したの?」
 仁村に悪気はないのかも知れない。けれど、そこに「参考までに」なんて言葉が付随した以上「実はそんなに興味ないんだよね」と前置きしたようなものだ。
 村上は大袈裟に肩を落として見せた後、喉の奥から絞り出すようにして言った。
「……秘密」
 それはまるで子供みたいに「教えてやらないもんね!」という拗ねた反発の態度だ。
 ちょっと冷静にそれを客観すれば、すぐにさっき仁村にやられたことの仕返しであることが解るだけど、当事者の仁村はそこに気付かない。すぐさま村上の言動を批判した。
「なにそれー! さも言いたくて仕方がないっていう態度を醸し出すから聞いてあげたのに!」
「気分を害しました、教えてやるつもりになれませんな」
 不平不満を口にする仁村を前にして、村上はさらにつんと突き放す態度を見せる。尤も、そのつっけんどんな対応も、すぐについさっき仁村がそうして見せたようなしてやったりという顔になった。
「……なんてな。なに、次の機会があればその時にでも教えてやるさ」
 ただ、そうやって話を締め括ってしまった村上に、今その理由について話をする気はないようだった。
「それと、さっきも言わなかったか? 俺の名前を呼ぶときは村上って呼び捨てにしてくれて構わない」
 そうして、するりと話題自体を切り替えてしまう。そんな対応を見ている限りでは「気分を害した」という言葉も強ち嘘ではないように聞こえたのだけど、実際どうだろうか。
「ああ、うん、……そうだったな。いや、あれだよ、まだ呼び慣れてないだけだから気にするな」
 炎天下の中で交わした雑談の記憶が不意に呼び起こされる。そには確かに「君付け不要」と言われた記憶があった。
 一応「まだ慣れていない」という趣旨を答えとしたけど、今の今までその部分の会話が記憶としてすっぽりと抜け落ちていたのは秘密だ。自分が思っている以上に疲れているのかも知れないことを、俺は改めてそこで強く意識した。
「なぁ、後どれくらいでその緑陵寮(みどりおかりょう)に到着するんだ?」
 結論から言うと、村上に助けられた後、俺と仁村は緑陵寮へと向かうことになった。
 寮云々の話に答えを返せないでいた俺が「このままでは間違いなく熱射病でぶっ倒れる」と危機感を抱き、村上へ「どこか休憩できる場所はないか?」と尋ねた回答が「緑陵寮」だったのだ。
「もう見える距離にある。あれが目的地、俺がサマープログラムで世話になってる緑陵寮だ」
 村上は建造物のある方角を指差した。けれど、そうやってわざわざ「あれ」と強調する必要などなかっただろうか。その周辺には緑陵寮と見紛う建造物などなかったのだからだ。
 緑陵寮と思しき建造物は周囲よりも幾分なだらかに高くなった丘の上に位置していた。目測の距離で一キロあるかないかが精々だろうか。
 少し視線を上に向けていれば、すぐに気付いただろう。俺も仁村も眼前にある建造物を見落としていた形だった。では、なぜ見落としたか。それはやはり、俯きながら自分の足下ばかり見て歩いてきたからに違いない。
 相変わらず太陽光は燦々と照り付けてきて、額には大粒の汗が自然と滲んでくる気温がある。加えて、そこには蓄積された疲労もある。俺も仁村も自分達では気付かぬうちに、視線を下へと向けてしまっていたわけだ。
 ともあれ、後もう一踏ん張りだと解ってしまえば、すぐに枯れたはずの気合いが首を擡げてくる。
 改めて、目的地を確認する。そうすると、緑陵寮の大きさが目に付いた。ここへ至る道の途中で、比較的立派な佇まいをした民家をいくつかやり過ごしてきたけれど、その比ではない。少なくとも、本格的な旅館だとか、寄宿舎といったレベルである。まだ、遠目に眺める距離にあるにも関わらずそう感じるのだから、軒下まで行けばそれを肌で実感するはずだ。
 それとも、それは他に比較対象がないからそう感じるだけなのか?
 まぁ、緑陵寮まで行ってしまえば、自ずとその答えも解るだろう。


「到着だ」
 そう宣言するが早いか、村上は緑陵寮駐輪スペースと掛かれた敷地にマウンテンバイクを停車させる。そこには自転車の転倒防止機構が備わっていて、風雨を凌ぐための屋根まで備わった本格的な設備がある。尤も、停車可能な自転車の総数は十数台程度であり、絶対数的には不足しているらしい。駐輪スペース外に駐輪された自転車も目立った。
 改めて、緑陵寮が位置する場所から周囲を見渡してみる。けれど、そこにこれといった建造物は見つけられない。
 一応、遠目には商店街の様子なんかを窺うことができるものの、到底それが気軽に買い出しへ出掛けられる距離には思えない。目測で言えば、最低でも五キロはあるだろうか。加えて言えば、そうやって目で見て感じる以上の距離が実際にはそこにあるはずだ。
 緑陵寮という建造物が「平原の中にポツンと佇むように立地している」という表現が正しいかは解らない。けれど、商店街や淀沢村の歓楽街から離れた場所に立地していることだけは間違いようのない事実だろう。
 年季の入った味のある木製の表札には「緑陵寮」と大きく書かれていた。尤も、実際の建物は表札のイメージとはだいぶ懸け離れた感じだ。少なくとも外観はコンクリート造りだし、年期ものといった雰囲気は持ち合わせていない。建物自体は四階建てとかなり大きく、三階部分にはテラスの存在も確認できる。こう言っては何だけど、俺が想像していたものよりもずっとモダンで立派な外観だ。
 やっと休める。そう肩の力を抜いた瞬間、ドッと疲労感が襲ってきた。それは立っているのを億劫だと感じるレベルだ。仁村に至っては、木陰に入って腰を下ろし、その場に座り込んでしまったくらいだ。ちっょと待っていれば、俺達を村上が緑陵寮へと案内するだろうことは予測できる状態だから、そのちょっとも我慢できなかったのかも知れない。パッと見、顔色が悪いという感じはしないけれど、炎天下の強行軍は相当堪えたらしい。
 そんな俺と仁村の様子をまじまじと注視すると、村上は何かを決心したように小さく頷いた。
「俺としては「取り敢えず、軽く休んでいくか?」ってぐらいの気持ちで休憩を勧めるつもりだったわけだが、二人とも今日は緑陵寮で一日休んでいった方が良さそうだな」
「いや、でも……」
 喉の渇きからか、それとも疲労からか、咄嗟に口にしようとした言葉は掠れた酷いものだった。さすがに「それは悪い」という思考が頭を過ぎった形だ。けれど、反論を述べる思考もすぐに首を擡げた。そして、それは頻りに「村上の提案を素直に受け入れるべきだ」と強く訴える。結局、村上の提案を断る言葉に覇気が伴わず、俺は押し黙ってしまった。
「休んでいけよ、二人ともちょっと無理をしたらそのままバタンと行きそうな顔をしてるぜ?」
 最初はそんな村上の言葉にもピンとこなかった。けれど、意見を窺おうと横目に捉えた仁村の表情が目に飛び込んできたところで、俺は理解しないわけにはいかなかった。木陰で天を仰ぐ仁村の表情はどこか虚ろにさえ見えた。自分がどんな顔をしているのかまでは解らなかったけれど、恐らく仁村とそう大差のない疲れ果てた顔をしていたかも知れない。
 村上の指摘は的を射ていただろう。
「……そうさせて貰った方がいいかもな」
 改めて、自分の置かれる状態と、仁村の表情を確認し、俺は村上の提案を受け入れる。
 横になって目を瞑ったら、きっとそのまま数分と持たずに深い眠りに落ちるだろう。端から仁村の様子を見ていて思う。それは体格や体力といった相違点はあれ、恐らく俺にも当てはまると思えた。
「そうだろう? その間に、本来入寮する手はずになっていた寮なんかを調べて貰えばいい。……いや、これも何かの縁かも知れない。もう、このまま緑陵寮に入寮するって流れで良いんじゃないか?」
 まるで「素晴らしい提案だろ?」と言わんばかりに同意を求める村上に、俺は返答を躊躇った。迂闊に曖昧な肯定の返事を返せば、そのままその提案を前提に話を進められてしまいそうだ。ただ、だからといってすっぱり否定するというのもなんだか申し訳ない気がする。
 内心では「日本人的な思考だな」と思いながらも、俺はそこに口を挟めないでいた。
 そうこうしている内に、村上の口調は自身の提案を勧める方へとその内容を切り替えていった。
「緑陵寮は設備的な面から見てもかなり上位に食い込む方だ。そうだな、俺的にランク付けすると、上から二番目だな」
「はは、……そうなのか?」
 結局、俺は曖昧に笑って、その一連の流れに対して明確な意思表示をすることを避けた。何より、入寮の有無やサマープロジェクトについて、何も情報を持っていないというのがその態度の所以の一つでもある。休憩ができて、さらに何か情報が得られるならば、それでも良いだろうと思う思考がそこにある。
「そこで休んでな、話を付けてくる」
 そう言った村上は建物に沿う形で作られた花壇へと足を向ける。てっきり、まっすぐ緑陵寮の玄関へと足を向けるかと思ったので、その行動は意外だった。
 村上は花壇にホースで水をやる女の子の後ろ姿を見付けると小さくガッツポーズを見せた。
「下部(もとべ)は本当にちょうど良いところにいてくれる。これで大分やりやすくなった」
 村上が下部と呼んだ女の子は麦わら帽子に薄青色をあしらったキャミソール姿という出で立ちだった。右側頭部に飾りのないシンプルな髪留めで髪をまとめている。僅かに幼い印象を残しつつも綺麗な顔立ちだった。俺が感じた下部の第一印象は大方そんな内容だ。
 しかしながら、そんな「綺麗な顔付き」だった下部の表情はくっと歪んだ。村上を訝しげな顔つきで注視した形だ。尤も「やりやすくなった」なんて村上の不穏な発言があった後だから、それも仕方ないことなのかも知れない。
「……なに、村上先輩?」
 そこには露骨に関わることを嫌がる雰囲気が見え隠れしたような気がする。しかし、村上の背後に俺と仁村の姿を見つけると、下部の興味は途端にこちら側へと移ったようだった。
「誰ですか、後ろの二人?」
 下部はマジマジと、特に俺の様子を注視する。
 それはそうだろう。仁村はともかく俺は注目を浴びても仕方のない格好だ。尤も、それを理解しているとはいえ、正直どんな反応を返すべきかは咄嗟に判断できない。このまま黙っているわけにもいかないのは確かだけど、だからといって下部に掛けるべき言葉も見つけられない。仕方がないので、俺は挨拶という形で取り敢えずの対応をした。
「こんにちわ、下部さん」
「……初めまして」
 下部はぺこりとお辞儀をする。
 礼儀正しい子なんだな。そんな印象を俺が受けたその次の瞬間、下部はマジマジと俺の様子を注視する。下部に感じた印象はすぐに「好奇心が旺盛」という内容に書き換えられた。
「下部、ちょっと頼まれてくれないか?」
 村上がお願いをした瞬間、下部の眉毛が八の字になる。
「用件によりますけど……」
「そんなに警戒するな。なに、大した用件じゃない」
 村上がいったように、下部からはあからさまな警戒の色が窺えた。それは村上が「大した用件じゃない」と説明した後も払拭されることはない。そこにあるのは、用件の内容を聞くまでは「安心できない」という顔だ。
 けれど、村上にそんな下部の様子を気に掛けた風はなかった。ドンドンと話を進める。
「副寮長を呼んできてくれないか?」
「綾辻(あやつじ)先輩ならお昼過ぎに出掛けたっきり戻ってきてないですよ」
 副寮長は綾辻というらしい。
 ともあれ、その綾辻がいないと解った瞬間、村上は隠そうともせずに舌打ちをした。
「……ということは、交渉相手はあの馬原(まはら)になるわけか。解った、ありがとう」
 さらりとそう謝意を口にすると、村上はその場を後にしようとする。
 そんな村上の服の裾をむんずと掴み、行かせまいとしたのは他でもない下部だ。
「何を交渉するつもりなんですか?」
 下部は村上が舌打ちしたことが相当気になるようだ。じっと村上の様子を窺う下部の表情には警戒を通り越して、不安の色さえ見え隠れしていた。
 そんな下部に対して、村上は自信満々に答える。尤も、そこに具体的な交渉の内容が伴うことはなかった。
「大したことじゃない」
 下部は村上から視線を外すと、考え込むように小難しい顔で押し黙った。ただ、その手はまだ村上の服の裾をしっかと握ったままだ。そんな下部のまとう雰囲気を言葉で言い表すと「信用できない」とするのが一番しっくり来るだろう。
「それに、今回は人助けだ」
 村上の口から出た人助けという言葉に、下部は俺と仁村を交互に眺めた。そして、村上の服の裾をそっと離す。それは安心したからだろう。それとも、これ以上何を言っても無駄だと思ったか。
 ともあれ、下部は馬原の居場所について心当たりを教えてくれた。
「馬原寮長なら共同リビングに居ると思いますけど……」
 しっかと握った服の裾を手放したものの、下部の村上を見る目にはまだ注意深さが色濃く窺える。そんな下部の言動を目の当たりにし、俺は下部が村上のことをどう評価しているかを垣間見た気がした。
「また何か問題を起こしそうな気がする」
 敢えて、下部の感覚を言葉にしたならそうなるだろう。
「共同リビングか。……論争するのには不向きな場所だな。さて、どうでるか。いっそのこと周囲を巻き込んで……」
 話の進め方を思案しているのだろう村上は、ちらっと聞こえただけでも「不穏だ」と感じることを呟いてくれる。そして、色々と思考を巡らせているように見えて、既にその足は緑陵寮の玄関口へと向いていた。
 俺の第六感がその後の展開を予測した。
「正面突破を図ることになるだろう」
 村上と出会ってまだ数時間と経過していない。だから、その性格を完全に把握したなんてことはない。けれど、恐らくその推測はあたるだろう。そんな気がした。
 それを証明するかのように、村上の背中を目で追う下部は大きな息を吐き出した。それは今にもここまで「はぁ……」と聞こえてきそうなほどだった。そして、ホースを花壇の脇へ置き、水道の蛇口を捻って水を止めれば、緑陵寮の玄関へと足を向けた。村上の後を追うのだろう。
 特に指示をされなかったことで俺と仁村は完全にその場に取り残される格好となる。しばし、途方に暮れていたけれど、どちらからと言わず顔を見合わてしまえば、後の対応はすんなり決まった。
「取り敢えず、玄関まで上がらせて貰うか?」
「……そうだね」
 緑陵寮の玄関を潜る。小さな旅館などで良く見る作りの玄関を想像していたけれど、そこに広がっていた光景は普通の家のものと何ら相違なかった。普通の民家で見掛けることがないのは天井の高さまである靴箱と、数十本もの傘を収納できる傘立てぐらいだろう。それ以外は至って特筆する点もない。
「ちょっとここで待っていてくれ」
 そう言われたわけでもないのに、俺と仁村は緑陵寮の玄関に佇んでいた。
 勝手にずかずか上がっていくのは気が引ける。根底にあるのはそんな思いだけど「このまま放置されたらどうしよう?」なんて若干の不安があるのも確かだった。下部も村上の後を追って中に引っ込んでしまった様子で、緑陵寮の玄関はひっそりとしていた。
 玄関から窺える範囲での緑陵寮の様子に目を走らせていると、数分もしないうちにひょこっと下部が姿を表した。
「その、すいません。玄関に立っていられると邪魔になるのでリビングまで来てください、だそうです」
 お邪魔させて貰おうと思って、靴を脱ごうとした矢先のこと。俺は自分の格好を改めて客観視して、そのまま緑陵寮に上がって行って良い格好ではないことを改めて理解する。
 玄関口でどうしようかと躊躇っていると、下部がタオルを差し出してくれた。
「これ、足拭き用のタオルです、使ってください。水で濡らしてきたんで泥も落とせると思います」
「ありがとう、助かった。……さすがにこのままってわけにはいかないから困ってたんだ」
 タオルを受け取ると、俺は早速泥汚れを拭い取ろうと踝から脛に掛けそれを押し当てる。瞬間、適度な冷たさが熱を持った足全体へと波及した。俺はその心地よさに、思わず脱力感に襲われたぐらいだ。それは意識して表情を作っていないと、顔がにやけてしまうほどだった。
 俺としては表情を繕っていたつもりだったけれど、どうやら下部にはばればれだったようだ。
「……必要なら、バケツに水を汲んできますけど?」
 恐らく、その申し出を受け入れたなら、下部はバケツ一杯に冷たい水を汲んできてくれただろう。ただ、見るからに華奢な下部にそれをお願いすることも躊躇われて、俺はその申し出を断った。わざわざ、そこまでして貰うようなことでもない。今は泥汚れを落とせれば、それで良い。
「さすがにそこまで下部さんに頼めないよ。ただ、後でも良いんで、本格的に泥を洗い落とせるところに案内してくれると助かるかな。これだと応急処置にしかならないしね」
 俺は下部にそうお願いをすると、泥汚れを拭うことに専念する。花の柄があしらわれた薄黄色のタオルは見る間に汚れていった。緑陵寮の共同リビングに通して貰うに当たり、どうにか俺自身問題ないと思えるレベルまで泥汚れを拭う間、仁村と下部は俺の様子を窺う形で特に会話が弾むでもない。
 何か話題を振ろうと俺が顔を上げた瞬間、下部から質問が向いた。
「というか、さっきから疑念に思っていたんですけど、どうして裸足なんですか?」
「うん? えー……、これには、その、深いわけがあって」
「後、泥塗れだし。……村上先輩みたいに、何かの修行ですか? それともイジメ? というか、そもそも村上先輩の知り合いの人なんですか?」
 俺が的確な答えを口にできないでいる内に、何かのスイッチが入ったかのように下部の質問攻めが始まった。俺の奇妙な出で立ちが下部の好奇心に火を付けたのかも知れない。
 好奇心旺盛な目付きをした下部にぐいぐいっと胸元に切り込まれ、俺は仁村に助けを求める。それは口に出して「どうにかしてくれ!」という露骨なものではなかったけど、仁村は俺が投げ掛けたその視線の意味を的確に理解してくれた。
 質問を受ける俺と質問をする下部との間に仁村が割って入り、事態はどうにか改善する。
「下部さん、このままお邪魔させて貰っていいのかな? 靴とか片付ける場所ある?」
「あ! スリッパは下駄箱の中に入っている奴であればどれを使って貰っても構わないそうです」
 下部が指差す下駄箱の中にはスリッパが無数にしまってあった。どれを使っても構わないと下部は言ったけれど、半数以上のスリッパには個人名の入ったシールが張られ、勝手に使うことを許さない雰囲気が漂っている。そんな中に「来客用」というシールの貼られたスリッパを発見し、俺と仁村は迷うことなくそれを手に取った。
 スリッパへと履き替え、下部に案内されるまま緑陵寮内へと足を踏み入れる。
 そして、それは共同リビングへと足を踏み入れた瞬間、響き渡った。
「そこにいたか、馬原!」
 そんな村上の言葉に反応し、一人の男が顔を上げる。
 馬原と呼ばれた男は一人掛けのソファーに座り、文庫本を片手に持つという体勢だった。ソファーに隣接されたガラステーブルの上にはマグカップが置かれていて、暇潰しという風ではない。恐らくは本格的に読書を楽しんでいたのだろう。
「どうした、村上?」
 十五畳か、それ以上あるだろう広大な共同リビングには他にも同年代の男子と女子が数人居る。特に、馬原が腰掛けるソファーの真向かいには三人掛けのソファーがあり、そこには馬原同様に文庫本に目を落とす寮生なんかも居た。
 そんな状況下で村上は馬原の名前を口にした形だ。当然、当事者達は視線を集める格好だ。尤も、馬原にしろ村上にしろ視線を集めたことを気に留めた様子はなかった。そうやって視線を集めることに慣れているのかも知れない。
「ちょっと相談事があってだな」
「相談? お前が俺に?」
 村上の第一声を聞いた瞬間、馬原は訝しげな表情だった。それだけで馬原と村上の関係の片鱗が窺えた気がする。ともあれ、村上が大真面目な顔をして頷くから、馬原の方も相談事を聞く姿勢を整えた。
「突然なんだがこの二人、緑陵寮で寝泊まりさせてやってくれないか?」
「……」
 馬原は村上が何を言ったのかを咄嗟に理解できなかったようだ。眉間に皺を寄せて数秒間に渡って押し黙った後、俺と仁村と村上の顔を交互に注視する。
「すまん、その、もう一度言ってくれないか?」
 村上は村上でご丁寧にもその馬原の要求通り、ついさっき口にした言葉を復唱する。
「この二人、笠城賢一と仁村郁を緑陵寮で寝泊まりさせてやって貰いたい」
 馬原は再度眉間に皺を寄せる。そして、溜息混じりに俯いたかと思えば、目の色を変えて声を張り上げた。
「いきなり何を無茶苦茶言ってるんだ! 大体何だ、事前説明もなしに「寝泊まりさせてやってくれないか?」だと! 吐け、一体どこの寮から連れてきたんだ?」
「おいおい、若薙(わかなぎ)じゃないんだ。そんなことをして俺にどんなメリットがある?」
 さも、冗談じゃない。
 そんな雰囲気を前面に押し出して見せる村上は馬原の言葉に不快感を覚えたのだろう。
「……」
 村上の指摘に馬原は押し黙り、思案顔を滲ませる。そして、一頻り「うーむ」と唸った後で、馬原が導き出した結論は村上の指摘に対して全面的に同意をする内容だった。
「確かに、それもそうだな。「次の寮対抗戦にはどうしても必要な人材なんだ!」だとか、お前が言うわけないものな」
 そんな具合に納得してしまえば、馬原はガラステーブルの上のマグカップへと手を伸ばした。一服入れて、落ち着くためだろう。けれど、ちょうどマグカップを口元まで持って行ったところで馬原は重大なことに気付いたらしい。
 俺と仁村の二人を緑陵寮へと連れてきた、そもそもの理由を説明していないことをだ。
 馬原は俺と仁村に険しい視線を向けた後、その素性を説明するよう村上に要求する。
「ちょっと待て! じゃあ何なんだ、その二人は?」
「詳しい経緯はまだ聞いていないんだ。順を追って説明していくとだな、まず……」
「ここまで連れてきておいて、詳しい経緯はまだ聞いていないだって?」
 その回答を聞いて俺は村上の性格を一つ理解した。
 村上はまず結論をビシッと口にするタイプのようだ。村上についていうなら、段階を踏んで事情を説明するというのが不得手だと補足できるかも知れない。加えて、前置きをした方が良いという状況や相手に対してもそのスタンスを崩さない我を通す性格なのだろう。
 相手がじっくりと話を聞くタイプならともかく、相手によっては本題とは関係のないところからでも口論に発展するリスクを背負うだろう。まさに馬原との関係がそれだといえるかも知れない。
 場が言い争いの様相を呈し始めたその矢先のこと。「コホン」と存在をアピールするための咳払いが一つあって、下部が口を開いた。
「馬原寮長。掻い摘んでいうと、村上先輩は迷子を助けて連れてきたんです」
 下部は共同リビングの隅の方にいた。今の今まで気配を消していたのかも知れない。恐らく、言い争いに発展しそうな気配を敏感に感じ取って、村上へと助け船を出すためやむなく割って入って来たのだろう。
「……迷子だって?」
 下部の言葉に馬原は惚けた顔付きで固まった。
 そうやって聞き返すのも解らないではない。
 そうして、馬原は村上へと、俺達を緑陵寮へと連れてきた経緯の説明を求めた。
 説明は質疑応答を含め時間にして三十分強は掛かっただろうか。端から聞いているだけでも、もしも俺が会話をする当事者だったなら「頭が痛くなるだろうな」と思わせられるやりとりが続いた。
 村上から一連の経緯を聞き出した馬原はこめかみに皺を寄せながらではあったものの、俺と仁村が置かれる状況に配慮してくれた。具体的には「一晩、緑陵寮で寝泊まりすることは許可する」というような配慮だ。それを踏まえた上で、馬原が難色を示す内容は「そのまま緑陵寮に入寮でいいじゃないか?」といった村上の見解だ。
「……彼らは本来、緑陵寮に入寮が予定されていたわけじゃないはずだ」
 もちろん、それは正論であり、寮長という規則を守るべき立場から言えば当然の台詞だ。
 村上の方もそれを理解していないわけではないだろう。けれど、それを踏まえた上で、村上はなお攻める。
「いいじゃないか、別に満室ってわけじゃないだろ? 本来この二人が入るべきだった寮に、別の誰かを宛がって調整すれば良い。そう問題のあるようなことでもないと思うがどうなんだ?」
 一体何が村上をそこまで突き動かすのか解らない。けれど、少なくとも村上に退く気配は皆無だった。
「上手くやり繰りしてくれよ? な、馬原寮長」
 そして、申し訳なさそうに頭を下げてしまえば、馬原も頭ごなしにそれを否定するというわけにもいかなくなった。
 馬原は俺と仁村をマジマジと注視する。そして、溜息混じりに口を開いた。
「そもそも、何をしたら迷子になんかなるんだ?」
 それは俺と仁村へ向けたものか。それとも、村上へ向けて「思い当たる理由を述べてくれ」と要求したものか。そして、その何れでもないのかは、はっきりしなかった。だから、俺や仁村が「何かしらの反応を返さなかった」といえばそれまでだけど、そもそも口を挟んでいい雰囲気だったかどうかも微妙なところだ。
 誰も反応を返さなかったからというわけではないだろう。しかしながら、馬原は続ける言葉でより踏み込んだ質問を口にする。今度のそれははっきりと、俺と仁村へ向けたものであることが理解できる形だった。
「淀沢村のサマープロジェクト参加者なら直送のバスで来るはずだろう? バスには乗らなかったのか?」
「いや、俺もどうしてこういうことになっているのか、解ってなくて……。その、正直な話、淀沢村のサマープロジェクトっていう奴に参加した覚えもあったりなかったり……?」
 咄嗟に受け答えをしようと思考を巡らせてみても、俺は状況を上手に説明できない。口を開いてみたのはいいけれど、思考がまとまることはなかったのだ。
 結局、この場で言うべきでないことまで口走りそうになって、俺は途中で口を閉ざす形になる。
 当然、途中で言葉を濁した俺に、馬原は怪訝な顔だ。
「うん?」
「いや、何でもない。げふんげふん」
 これみよがしに咳払いをして、俺はその場を漂う何とも言えない雰囲気の幕引きを図ることを模索する。仁村の方へ視線をやって助け船を求めてみるけど、不安げな表情で首を横に振られてしまえば、話をそちらに振ることもできやしない。
 そんなやりとりを経て、馬原は頭が痛いとばかりに深い溜息を吐き出した。
 眉間に皺を寄せるその姿も妙に板に付いている。馬原と村上とのやりとりから始まって、それはもう何度目だろう?
 良くも悪くも馬原に寮長という肩書きが身に染みている様子を、俺は垣間見た気がした。
「事情は大体把握したが俺の一存じゃ決められないな」
「……お前、寮長だろう?」
 実際にそれを口にしたのは村上だけだったけど、その場にいた全員がそう思ったかも知れない。
 そして、そんな村上の言葉が引き金となって、馬原へと視線が集まる。
 視線を集めることに慣れているように見えた馬原だったけど、ここにきて狼狽えるように仰け反った。
「な、何でもかんでも決定できる権限が寮長にあると思うな! 大体、今回の件は緑陵だけじゃなく他の寮も絡む話だ。それに寮長権限がそんなに強大だったら、毎日三食、俺が食べ飽きるまで俺の好物の山菜料理に献立を変更したさ!」
 ふいっと顔を俯かせると、馬原はその場に哀愁を漂わせる。そして「別にそんなこと聞いてないんだけど……」といった具合に口を挟む間もなく、馬原は何かの支えが壊れたかのように続けた。
「いいか、献立が今のバイキング形式になる前の話だ。寮長になってすぐの頃に試したのさ、ああ、画策したさ。どうしても克服できない、あの、……口に入れるのも躊躇われる、苦手なメニューを食堂のおばちゃんに献立から外してくれって頼んだんだ! 寮長になったんだ、これぐらいのことをする権限はあるだろう、そう思ってね! 袖の下のつもりで折詰のお菓子も持って行ったよ」
 最初は淡々とした調子だったけど、馬原は途中から大袈裟な身振り手振りを交え熱を帯びる。それはまるで、当時の自分の考えや必死さというものを再現し、周囲の人間に向けて同意を求めるようにも聞こえた。
「……どうなったと思う? あんた、それは駄目ねぇ、食べられないものがあると人生損するわよって逆に気遣いされて、俺がそいつらの本当の美味しさに気付けるようにって、様々な料理に工夫を重ねられて投入されたんだ! 完全に折詰のお菓子は裏目に出たんだ、……地獄の日々だった」
 当時の悔しさや悲哀、憤慨といった感情を馬原は包み隠ことなく吐露してゆく。
「その上、献立変更を打診したのが綾辻の耳に入った。寮の運営・共同生活上、他の寮生の模範とならなければならない寮長が馬鹿なこと考えるなって叱責され、一ヶ月間、大風呂洗い固定シフトのペナルティを言い渡されたんだぞ!」
 馬原としてはそんな事例を引き合いに出して、寮長という役職に如何に権限がないのかを主張したかったのだろう。
 入寮者の受入変更など以ての外。そう示したかったのだろう。
「自業自得だろ、……それ」
 一通り馬原の主張を聞いた後、村上が真顔で一言見解を述べる。ごもっともな意見だった。
 加えて、リビングでそんな告白を展開した馬原はこのやりとりに全く関係のない寮生から失笑を買う格好となる。
 馬原としてはその経験談を持って「寮長の権限について」へと話を飛躍させたかったのだろう。けれど、その場の雰囲気は完全に寮長という立場で馬原が画策したことを責め立てる風だ。
「馬原寮長ー、そんなことしてたのー?」
「いやー、面白い話聞いちゃったな」
「馬原らしいな」
「いつも寮長として規則規則言ってるけど、そもそもその規則を言う寮長自体の底が浅いよね」
 しばらくはふるふると震えながらも、それらの言葉に甘んじていた馬原だったが鳴り止む気配を見せない言葉責めに何かがプチンと切れたらしい。拳を握りしめた渾身の一撃をガラステーブルに向けて放つと、声高々に言い放つ。
 ガラステーブル上のマグカップからコーヒーが飛散した挙げ句、マグカップが倒れコーヒーがドバドバと床に零れていくのさえ目に入っていない様子だ。
「いいか! それだけ寮長なんて肩書きに権限が与えられてないってことだ! だから、お前らも俺に無茶な要求を通させようとするのは止めろよ! お前らがやらかした騒動の落とし前を俺に付けさせようとするなよ! お前ら、俺がどれだけ綾辻相手に神経磨り減らしているのか解らないんだろ!」
 緑陵寮のリビングで馬原が吠え、その騒動を聞きつけた寮生がリビングに集まる。すぐに収拾は付かなくなった。
 馬原は何と言えばいいか。余程、鬱憤が堪っていたのだろう。
 よく解らない内に、結局まずは一晩という制限付きではあるものの、俺と仁村は緑陵寮に寝床を得ることになった。


 一通り騒動が沈静化した後、俺は馬原に、仁村は下部に、それぞれ今夜の寝床へと案内されることになった。尤も、案内されることが決まってから時間にして既に三十分近くが経過している。その三十分の間に、馬原は俺と仁村の部屋割りを決め、フロアリングの床にコーヒーをぶちまけたその後処理をしていた。
 部屋割り自体は寮長である馬原がさくさくっと決定した形だ。余計に時間が掛かっているのは、コーヒーをぶちまけた後処理の方というわけである。
 ちなみに部屋の割り当ては、現在二人部屋に寮生一人となっている部屋へ俺と仁村をそれぞれ配置するというものだった。当初は「空き部屋もある」ということで「そのまま空き部屋へ」という意見もあった。けれど「何かあったときに色々聞ける相手が居る方が良いだろう」ということで、現在の形へ落ち着いたわけだ。
 せっせとフロアリングの窪みに入り込んだコーヒーの除去をする馬原を前に、俺は手持ち無沙汰という状況だった。既に寮の風呂場で泥汚れを適度に落とし終え、村上から拝借した寝間着姿へと着替えも終えている。「手伝おうか?」と尋ねたけれど、それは当の馬原に固辞されたのだ。
 疲れている人間にそんなことはさせられない。そして何より「これは暴走した自分がやらかしたことで、人に手伝って貰うようなことではない」というのが馬原の主張だった。
 そんな経緯もあって、特にやることもない俺は黙って馬原の処理をじっと眺めていた。寄せては返す波のように眠気が襲ってきて、もう何度目かも解らない欠伸を噛み殺した時のこと。不意に馬原が口を開いた。
「みっともないところを見せた。すまないな、もう終わる」
 欠伸を噛み殺したところを見られたか。
 馬原は俺を待たせていることを気にしたのだろう、心底申し訳なさそうだった。
「気にするなよ、馬原寮長。……その、色々と鬱憤堪ることがあるんだろ?」
 ついさっき目の前で繰り広げられていた馬原への言葉責めの集中砲火を見れば、普段の馬原の気苦労も容易に想像できる。さらに言えば、俺に馬原をどうこういう権利などない。
 俺の同情の言葉に、馬原は自嘲気味に笑った。鬱憤が堪っていたからといって起こして良い行動じゃない。馬原は無言の中にそんな言葉を織り交ぜていた気がする。
 広範囲に渡って飛散したコーヒーの跡も、ふと気付けば馬原の丁寧な対応によって見る影もなくなっていた。
 俺は馬原に向かって手を伸ばす。拭き掃除をするため屈んだ格好の馬原を引き起こそうという腹だ。
「もう終わりなんだろ? そろそろ緑陵寮を案内してくれよ、馬原寮長?」
 馬原は一瞬惚けた顔付きをしたけど、俺の手を取りゆっくりと立ち上がる。
「馬原でいい。緑陵寮に入寮することが決まっているわけでもない相手に、寮長と呼ばれてしまってはそのまま後戻りできなくなる気がする」
 それは村上が口にしていた要望のことを言ったものだろう。
 こういうことを真顔でさらりと言うあたりが「寮長なんだなぁ」と改めて実感させられる。
 ともあれ、村上の要望が俺の真意ではないことを思いながら、俺は苦笑いの表情で頷いた。
「そうだな、ごもっとも」
 大きく伸びをして、馬原に先立ち緑陵寮の廊下へと足を向けたところで思い出す。
 俺も言っておかなければならない。
「ああ、後、俺も笠城でいいよ、馬原」
 馬原は満足そうに頷くと、今になって「客人の緑陵寮訪問を歓迎する」という寮長の立場を振る舞った。
「それでは緑陵寮を案内するよ、笠城。一晩だけかも知れないが、取り敢えず、ようこそ」
 本当であれば、それは仁村にも向けるべきはずの言葉で、今更感の漂う内容だ。完全に機会を逸して今になったことが解るだけに、俺は素直に返事するしかなかった。
「こちらこそ、よろしく」
 馬原に案内された緑陵寮は想像以上に立派な建物だった。
 チラッと覗いた食堂にはクーラーも完備していたし、木目をあしらったフロアリングやテーブルも人の出入りが激しい大衆食堂のそれに見る年期の入った汚れが見当たらない。もちろん、綺麗とはいっても、実際にはそこで何人もの人間が生活しているわけだから、細かく列挙していけば指折り数えられるものもある。
 根本的な設計思想にはバリアフリーが組み込まれていて、廊下から室内へと続くドア部分などには段差がない。フロアリングの床がそのまま室内へと続く形だ。洗面所やトイレなどといったスペースを一通り案内すると、馬原は緑陵寮一階の奥に位置する部屋へと俺を案内する。部屋の入り口には「16」と書かれたプレートが掛けられていた。
 寝床として案内された部屋はかなり広い。正確には解らないけど広さにして十二畳近くはあるだろう。尤も、その広さを享受するためには部屋に雑多なものが置かれていないことが前提条件だ。そういった観点から言って、その十六号室は額面通りの広さを持っているとは言えなかった。
 部屋には両端の壁際に簡素なベットが二つ設置されていて、ベットがない空間にも寮生のものだろう物品が雑多に置かれている。部屋の中央部にはでかでかとイーゼルが置かれ、それを中心に新聞紙にくるまれたカンバスが置かれている。床に敷かれた新聞紙の上にはパレットが無造作に投げ出されており、いつでもそのまま創作活動を再会できる状態にされているように思えた。
 十六号室の寮生は絵を嗜むのだろう。
 ともあれ、そんな部屋の状況を目の当たりにした馬原は呆れ顔だった。
「全く、一人部屋だからっていいように散らかしてくれてるな。今は緑陵寮の入寮者が少ないから一人部屋だが、新たに寮生が増える場合は相部屋になるといつも言っているのに……」
 馬原はぶつぶつ言いながら、雑多に置かれたカンバスなどを踏みつけることがないよう留意しながら足を進める。
 唯一の救いは現在使用者の居ない側のベットの上だとかにまで、物品が散乱していないことだろうか。
 ふと気になって、俺は馬原に尋ねる。
「今、ここには何人ぐらいが入寮しているんだ?」
 その質問に馬原は思案顔を見せる。そして、指折りその総数を数え上げ確認しているようだった。
「そうだな、今は男女合わせて三十人ちょっとぐらいだな」
 その回答は俺が考えていたよりも大分多い。淀沢村には他にもいくつか寮が点在すると村上から聞いていたからだけど、単純に寮数を掛け算するだけでも二百以上の同年代の男女がいることになる。
「そんなに人数が居るんだ?」
 俺が思わず聞き返したのは緑陵寮に限った話ではなかったわけだけど、馬原はそれを緑陵寮のことだと理解したらしい。そして、律儀にも緑陵寮について説明してくれた。
「緑陵寮は管理人室や物置、多目的ルームなんかを除くと、基本的に一つの階層に二人部屋が六室ある構造になってる。一階二階に掛けて男子の部屋があり、三階四階に掛けて女子の部屋がある。全室満室になれば、この緑陵寮だけで四十八人が寝泊まりできたはずだ。さっき挙げた部屋や食堂だとかに雑魚寝させても良いならもっと詰め込める」
「そんなに詰め込んだら、あちこち酷く混雑しそうだな……」
 外観で緑陵寮の大きさを実感しているから尚更、俺は率直にそう感じた。
 少なくとも、共同リビングにそれだけの人数が一堂に会するのは不可能だし、食堂で同時刻に全員が食事することは難しいと感じる。尤も、そこは上手く人を分けてやればいいだけの話ではある。同じ寮に暮らす人達の交流という点で、いくらか困難な部分が生じるかも知れないけれど、実際はあまり実害がないのかも知れない。
「それだけ入るとは言っても、緑陵寮が満室になったことはまだ一度もない。ただ一度だけ、他の寮が改修工事をやっていた時に、一時的な収納人数が四十人を超えたことはあるらしいけどな」
 それまでの馬原の話を聞いていて、ふと思ったことがあった。俺は特に意識せず、その疑問を馬原へとぶつけた。
「というか、一つの建物内に男女が寝泊まりしてるってのはまずいんじゃないのか?」
「寮が複数あるなら男子寮・女子寮に分けるべき、そう思うってことか?」
 それはまさに俺が率直に感じたことだ。
「いや、まぁ、そうなるのが普通なんじゃないのかなって思ったっていうだけの話なんだけどさ」
 馬原は苦笑する。それは俺の見解を「普通はそうだろうな」と馬原自身が同意したようにも見えた。
「寮長という立場にある俺がこんなこと言っていいのかは解らないけど、それじゃあつまらないだろ?」
 俺は思わずきょとんとしてしまった。
 よもや「つまらないだろう?」なんて聞き返されるとは思っていなかった。それは完全に俺の想像を逸する回答だった。どう反応するべきかを俺は咄嗟に導き出せず、戸惑い顔で押し黙る。
 そんな俺の様子をじっと注視した後、馬原はするりとその表情を切り替えた。それが俺の疑問に真面目に答えるためのものだと解ったのは馬原が緑陵寮の運営方法について自身のスタンスを明確にする言葉を話し始めてからだった。
「いいか、笠城? 根本的なところを突き詰めていけば、問題が起きなければいいんだ。そして、お互いが同意の上であれば、問題があるようなことが起こっても、それが周囲にばれなければいいんだ。もちろん、だからといって好き勝手に各個人に暴走されては困る、そのためには規則と節度が必要だ。そういう意味では部屋が相部屋になっているのはお互いを監視して貰う意味合いがあったりもする」
 正直な話、俺は馬原のそのスタンスに度肝を抜かれた。俺はただただ頷くしかない。
「そっか」
 始めは「冗談か何かだろう?」とも思ったわけだけど、そんな予想に反して馬原は大真面目だった。それは馬原個人の意見ではなく、この淀沢村のサマープロジェクトを運営するものの総意なのだろう。それを証明するように、馬原は淀沢村のサマープロジェクトについて説明を始める。
「ここは様々な交流と可能性を提供する場なんだ」
 そんな切り出しから始まり、その提供をする淀沢村というフィールドそのものについてへと話は及ぶ。
「そして、ここはフリースクールみたいな意味合いも兼ねている。淀沢村は短期長期のどちらでも人の受け入れをしてるんだ。短期はいわば、笠城達のように夏休みなどの長期連休を利用してここに滞在する人達だ。長期の方は現在進行形で不登校だったり、病気の療養なんかで通常の学校には通えないような生徒が多い。誤解を招く言い方だけど、問題を抱える奴もいる」
 淀沢村についての知識を俺は何も持っていない。だから、その馬原の説明は初耳となるものばかりで、そこで始めて俺は淀沢村のサマープロジェクトというものが担う役割の一端を理解したわけだ。同時に「どうして俺が淀沢村にいるのか?」という疑問は深まった格好ではあるけれど……。
「俺は淀沢村のサマープロジェクト参加者に、ここで何でも良いから繋がりを手に入れて帰って貰いたいって思ってる。そのせっかくの繋がりが平凡なものだったり楽しくないものだったりしたら……、なんて考えたくないだろ? だったら、とことん楽しめるような舞台を用意するべきだと思わないか?」
 馬原の言葉は少し熱を帯びていた。そんな熱気を前にして、俺はまたもただただ頷くしかなかった。
「ああ、うん、……その通りだと思う」
 その部分について否定する要素は何もない。寧ろ、心構えとしては素晴らしいものだとさえ言える。
 素直に感心して拍手をする俺に、馬原は照れ臭そうに後頭部を掻いた。
「なんて言ってみたところで、今のはただの、俺の寮長としての心構えだったりするんだけどな。一つの同じ寮内に男女が寝泊まりするという各寮の運営方法は元から決まっていたことだ。でも、ここはそういう趣旨の場所らしい。まぁ、良くも悪くも楽しむことだよ。何か一つの目的のために邁進し達成するも良し、友達の輪を広げ面白可笑しくやるも良し、気になるあの娘にアプローチするでも良い」
 馬原はカラカラと笑いながら、俺の背中をバンバンと叩いた。
 俺が色々と思考を巡らせている間に、馬原はさくさくっとベットの状態などを確認し使用上の問題がないと判断する。
「さて、笠城は右側の空いているベットを使ってくれ。一応、熱帯夜が続く中で必要ないとは思うけど、毛布なんかはこの開き戸の中に全部入っている」
 馬原が開いて中を確認させてくれた開き戸の中には秋口から冬場に用いるような毛布が格納されていた。
「何か解らないことがあれば、俺を見つけて聞いてくれ。それか、二階の二十四号室まで来て貰えば答える」
 部屋までの案内を終え一通り緑陵寮の簡単な説明をし終えた馬原はくるりと踵を返す。
 そんな馬原を廊下へと出て途中まで見送った後、改めて室内へと足を踏み入れた俺は顔を顰めた。室内には昼間の過酷な日射しに熱された空気が漂っていたからだ。部屋の様子をボーッと眺めた後、俺は差し当たってやることの順序づけを行った。ただ、そこに立っているだけでじわっと汗が浮かびそうな室内の状態に、最優先事項はすぐに決定した。
「取り敢えず、……換気だな」
 乱雑にちらかった室内を見渡し、窓際までの移動経路を確認する。
 勝手に片付けるわけにはいかないので、ルームメイトが帰ってきたらそれとなく苦言を呈することになるだろう。緑陵寮に宿泊するのは今晩だけかも知れないけれど、こればっかりは気になるのだから仕方ない。
 どうにか窓際まで足を進め、今まさに窓を開け放とうとした時のことだ。背後から馬原の声が響いた。
「言い忘れていた。寮長からの忠告だ。今は構わないけど、夜間に電気を付けっぱなしにして窓を開放するのは絶対に止めた方が良い。例え、どんなに寝苦しい夜でもやらない方が良いな。網戸があっても奴らは来る。電気をつけたまま、さらに網戸まで全開だったとなれば、それはそれはもう大惨事が予想される」
 苦い経験が馬原にはあるらしく、その忠告はところどころ非常に感情の籠もった内容だった。馬原はそれだけを言うと「邪魔したな」と言わんばかり、小さく手を振り俺の部屋を後にしようとする。
 そんな馬原を俺は呼び止める。
「……なぁ、奴らって何だよ?」
 去り際に足を止め、馬原が「奴」について言及する。
「虫だよ、虫。ここがどれだけ田舎なのかが解るぐらいに見たことない奴らが来るぞ。まぁ、一度、身をもって知るのが最も効果的なのかも知れない。ただ、ルームメイトに迷惑は掛けないようにな」
 それだけを言い残すと、馬原は再び廊下の奥へと歩き去っていった。
 その「見たことない奴」という言い方も、非常に不気味さを醸し出した。恐らく、正式名称をあれだこれだと言えない奴か、定番の奴でも異常に成長し都会では信じられないほどに巨大化したのが襲来するのだろう。
 ともあれ、この部屋に留まるからには窓を開けて換気をしないと熱波にやられてしまう。
「電気を付けるときは窓を閉める。いいか、電気を付けるときは窓を閉めるんだ」
 それを自身に言い聞かせながら、俺は窓を全開にした。


 手持ち無沙汰な時間と身体を襲う疲労感からベットの上でうとうとし始めた時のこと。ガタンと何かを床に置く音がして、俺はハッと夢の世界から現実に引き戻された。
 室内には人の気配がある。
「……起こしちゃったかな?」
 相手の声は確かに聞こえていたけど、覚醒が遅く俺はその意味を理解するのに時間を要する。
「まさかこんな時間から寝てるとは思わなかったんだ。すまない」
 寝起きで思考の回転速度が鈍い俺はまだ反応を返せないでいた。
 そんな俺の様子を知ってか知らずか、そいつは一方的な会話を続ける。
「なにせ、寮に帰ってきたらいきなり「部屋にルームメイトがいるからよろしく」なんて話だったしね。こんなことになるならイーゼルなんかは普段から片付けておくべきだったよ」
 明順応が追い付かず、目映さに薄目を明ける形で相手を確認していたけど、ルームメイトと思しき相手は見るからに人当たりの良さそうな好青年だった。部屋の一角に設けられたイーゼルを片付けながら、申し訳なさそうに笑う姿がその性格の良さを如実に表しているようにさえ感じられる。
「……いや、気にしなくいいよ。うとうとしてただけだしさ」
 状況把握に戸惑ったものの、俺はどうにか言葉を引っ張り出してくる。
「そういって貰えると助かるよ。僕は野々原雅文(ののはらまさふみ)。これからサマープログラムの間、よろしくお願いするよ」
 ルームメイトは野々原と名乗った。なよなよしいと言えば、悪いイメージを与えるだろうか。利発そうな顔付きも、キリッとしながら少し神経質そうな目元も、芸術に携わる人という印象そのままだ。ただ、耳が完全に隠れ、肩に掛かる髪の長さなんかはスタイルでそうしていると言うよりかは手入れをめんどくさがっている風だ。入念な手入れがされているとは言い難いだろう。
 ともあれ、野々原は絵描きという言葉から俺が想像する特徴をそのまま描き起こしたような相手だった。唯一、あちこち日に焼けた肌の色だけが俺の想像と異なる部分だ。それは炎天下の元、絵を描くからだろうか。
「ああ、よろしく」
 俺がそう挨拶を返した後、野々原はたっぷりと俺の顔を十数秒は注視していただろう。
 対する俺はと言えば、その野々原の注目の意味を理解できなくて固まっていた格好だ。握手でも求めて居るんだろうかとも思ったけど、野々原から手を差し出す様子もない。
 野々原は痺れを切らしたようで、俺に向かって苦笑いの表情で尋ねる。
「……君の名前は?」
 そう言われてようやく気付くのが情けなかった。俺は慌てて自分の名を名乗る。
「ああ! そう言えば名乗ってないね、俺。はは、……寝惚けてるみたいだ。俺は笠城堅一って言うんだ」
「笠城君か、改めてよろしく」
 そこで始めて、野々原は俺に握手を求めた。
 一日限りのルームメイト。「そういう話を馬原から説明されていないのだろうか?」と思いながらも、俺はベットから上半身を乗り出してその握手に応じる。
 ふいに馬原の忠告が脳裏を過ぎった。俺は慌てた。
 なぜならば、既に部屋には蛍光灯の明かりが灯っていて、窓の外は暗闇が横たわっているのだ。
「おっと、忘れてた! 窓を閉めないと!」
 握手の最中に頓狂な声を上げる俺の様子を前に、野々原はぽかんとした顔だった。けれど、俺が何について慌てているのかを理解すると声を上げて笑った。
「あはは、馬原寮長から聞いたのかい? 大丈夫、僕が帰ってきたときに閉めておいたよ」
 換気のことを考えてだろう、窓は僅かに開けられていたけど、取り敢えずそこの部分から虫が進入してくる気配はない。尤も、開け放たれている部分にはカーテンで外に光が漏れないようになっているし網戸もある。
 そこはさすがに俺より先に緑陵寮へ入寮している野々原だ。対策はばっちり心得ているのだろう。
 俺はベッドから完全に起き上がると、その手持ち無沙汰の度合いに顔を顰める。まして、野々原は対照的にせかせかとイーゼルやらパレットやらを片付けているのだ。
「手伝おうか?」
 そんな風に声を掛けていいものなのかどうかを迷っている内に、野々原は片付けを終わらせてしまった。その手際の良さは長年それらの道具を使い続けてきたからだろう。
 絵描きに使う道具を片付け終えると、室内には結構なスペースが生まれた。如何に野々原がこの一人部屋という環境を謳歌していたかが良く解る。いきなりやって来て、その環境を壊してしまったことに申しわけなさを感じていると、室内の片付けを終わらせた野々原に提案された。
「そろそろ晩御飯の時間になるね、食堂に行こうか?」
 時計を確認すると、確かにそろそろ夕食の時刻に差し掛かりつつあった。食堂の場所と一緒に野々原から教えて貰った食堂の解放される時間ともマッチする。今から向かうと、ちょうど夕食の提供開始の到着となるだろうか。
 ちなみに、夕食を提供するために食堂が開放される時間はかなり長い。蛇足になるけど、昔は部屋毎に時間が決まっていたと馬原は言っていた。食堂の開放時間であれば、好きな時間に好きなように食事が取れるようになったのはバイキング形式に変更されてからということだ。
 ふと「混み合う中でせかせか食事というのは嫌だな」と思った。
 俺は野々原から差し出された手を握り返せないでいる。
 尤も、食堂を初めて利用する俺に、利用時間帯の変化による混雑度合いの違いなど解らない。そして、俺の腹の虫は夕御飯という空気を敏感に察知して、宿主である俺に空腹感を訴えていた。
「何か、気になることでもある?」
「いや、食事ぐらい落ち着いてゆっくり食べたいなと思ったんだ。もし食堂が開放される最初の方が混み合うようなら「時間をずらさないか?」って、提案しようと思ったんだけど……」
 そこまで口にした矢先のこと、これでもかというタイミングで「くうぅぅ」と腹が鳴る。
 俺は苦笑いを返した。
「やっぱり、今すぐ晩御飯にしようか」
 野々原に先導され、俺は部屋を出た。
 緑陵寮の廊下にはざわざわと騒がしい喧噪が漂っている。それは食堂の方角から聞こえてくるもので、もう既にかなりの人数が食堂へと集まっているのが窺えた。
 案の定、食堂は結構な数の寮生がいた。設計上で想定された定員が何人なのかは解らないけど、ざっと見た感じで言うならば二十人も入れば満員になるのだろう。ちらりと中の様子を窺った限り、若干数空席が目に付いたので食堂内には十後半数の寮生がいると思えた。
 食堂へと入室する際、野々原は自然と視線を集めた。それはもちろん、突然緑陵寮に一泊することが決定した俺の存在があるからだろう。緑陵の寮生から見れば、一部を除いて野々原は見知らぬ人間を連れているわけである。けれど、そうやって視線を集める野々原は一部の相手に軽く会釈するだけで、特に言葉を交わすことをしなかった。俺の存在を紹介するという流れにならないことからも、そこにいる寮生とはあまり関わり合いを持っていないのかも知れない。
 野々原は食堂の入り口からちょっと入った場所で立ち止まると、空きスペースを探しているようだった。いや、空きスペース自体はすぐに見つかったので、その検索には何か別の要素も絡んでいたかも知れない。
 ともあれ、食堂には特に席順というものがないようだった。俺達の後からやってきた寮生が適当な空き机を見つけて座っていく様子からもそれが理解できる。
 野々原がやっているのを真似て食堂内の様子を観察していると、乱雑に人が入り交じる中にあって見知った顔を発見する。俺は思わず頓狂な声を上げた。
「須藤(すどう)! 須藤じゃないか!」
 そこには俺の高校の同級生である須藤努(すどうつとむ)がいた。
「おっす、奇遇だな」
 須藤は俺の呼びかけにも、特に驚いた様子を見せない。
 いつも高校で見せるものと何ら変わらないノリで挨拶を返してきた。
 奇遇という言葉に強い引っ掛かりを覚えながらも、ともかくそこで俺は一つ安堵の息を吐き出していた。仁村という顔見知りの存在に加えて、この場に気心の知れた友人がいたという事実が今は心底心強い。
「何だよ、珍しくでかい声出して?」
「いや、正直な話、見知った顔が居なくて心細かったんだ」
 その後に続くはずだった「どうして、こんな所に来たのかも思い出せないし……」という言葉は、取りあえず今は飲み込むことにした。食堂という不特定多数が集まる場所だということもあるし、視界の端に仁村の姿を見付けたこともある。
 しかしながら、今すぐ須藤がここに至る経緯を尋ねたいというのが紛れもない俺の本心だ。
 ともあれ、俺の「見知った顔が居ない」発言を受け、須藤は呆れた様子でその具体例を列挙した。
「見知った顔がないだって? この寮でってわけじゃないが藤堂(とうどう)も見掛けたし、下村(しもむら)や中川(なかがわ)もいたぜ。女で言えば、バレー部の高敷(たかしき)や、生徒会副会長・那浜和己(なはまかずみ)もいたな」
「……そんなに、淀沢村に来てるのか」
 須藤がさらりと挙げた名前は俺も知っている連中だ。恐らく、須藤は見覚えのある相手の名前全てを列挙したわけではないのだろう。須藤が口にした名前はあくまで俺と須藤が知っている共通項だけだった可能性が高い。
 もっとたくさんの数がこの淀沢村に来ているんだろうと思った。
 野々原がすぐ横にいることも忘れて、須藤に疑問点をぶつけようとしたところを俺は仁村に救われる。
「笠城君! ……と、それに、須藤君!」
 須藤は若干驚いたような表情を見せたけど、仁村がここにいることに対してそれを不思議に思ったりする風はなかった。それはつまり、須藤に取って仁村がここにいても別段不思議に思うことではないことを意味する。
 やはり、須藤に色々と聞くべきだと俺は再確認した。
「おお、なんだ、仁村さんも来てたのか」
 仁村もそんな普通の反応に、須藤がここに来た何らかの経緯を知っていると判断したようだった。一瞬、複雑な感情の入り混ざった険しい表情を見せる。しかし、それはすぐにいつものにこやかな顔つきに変わっていた。
「夕御飯、同席させて貰っても構わないかな?」
 仁村は何食わぬ顔をして俺と須藤に尋ねた。
 当然、断る理由なんかない。まして、須藤に色々と尋ねたい事情を持つもの同士である。
 須藤が何かしら口を開くよりも早く、俺は仁村の意図を汲み取り空席を勧めようとする。けれど、結局その勧誘の言葉は別の乱入者によって遮られる。仁村の背後から、ひょこっと人懐っこい笑顔をした女の子が顔を覗かせのだ。
「あたしも同席させて貰っていいかな、仁村さん?」
 ちょうど仁村を全体的に一回り大きくした感じと言えば適当だろうか。女はそう尋ねるが早いか、仁村の返事を待たず、仁村の着席予想座席の横にある空きスペースへと夕食の載ったトレイを置いた。仁村の名前を知っているからには仁村の知り合いなんだろう。けれど、俺には見覚えのない相手だった。
 淀沢村に来てから知り合った友達だろうか?
 一目見ただけで「可愛らしい」と思える女の子だった。それは「ちょっと少女趣味ではないか?」と思える服装にしてもそうだし、態度として現れる全体的な雰囲気にしてもそうだった。僅かに色を抜いた髪の色は暖かな印象を与え、いちいち細かな身振り手振りが非常に女の子女の子していると思わせられる。
 ともあれ、その女の子が可愛いらしい仕草で仁村と俺、そして須藤を責め立てる。首を傾げて「駄目?」と確認をする女の子を前にして、須藤が「駄目だ」などと宣う理由があるわけもない。
 個人的にはこの場で色々と須藤に確認してしまいたいと思っている。もしくは確認をするための雑談の場を設ける約束を取り付けてしまいたいと思っている。そんな目論見もあって、俺としては無関係な第三者の同席を許したくはなかった。では、俺が「駄目」と口にできるかと言えば、そんなことができる雰囲気にはないわけだ。
 半ば「押し負ける」と予測できていながら、俺はその判断を仁村に委ねた。
「浅木さん」
 その女の子は浅木というらしい。
 仁村は曖昧な笑顔を浅木に返すと、困ったように俺と須藤を見た。
 仁村自身が浅木の存在を疎ましく思っているかどうかはその顔付きからは判断出来ない。仁村の困惑の所以は突然の浅木の乱入を、俺と須藤が許容してくれるかどうかということに向いていただろう。
「別に構わないんじゃないか」
 須藤が言う。
 それは「承諾して当然」というような即断で、当然そこに俺の意見が介在する余地はなかった。俺が発する微妙な雰囲気を、事情を知らない須藤に読み解けというのは酷である。
 しかしながら、そこに生じる落胆を隠しきれないのも事実だった。
 失態だったのはその様子を浅木に目撃されたことだ。
 尤も、それは俺が油断していたというよりも、浅木が微妙な変化を見逃さなかったという方が大きい。事実、浅木以外に俺の落胆を見抜いた相手はいない。
「迷惑?」
 落胆した様子を見抜いた浅木にすかさず上目遣いで顔を覗き込まれる形となって、俺は当惑した。
「あ! いや、……そんなことはないよ」
 ここで「迷惑だ」なんて言える奴がいたら見てみたい。わざとらしく咳払いをして俺はふいっと顔を背ける。
 俺は仁村に手先のジェスチャーで「話を進めてくれ」と助けを求めた。
「ええっとね、こちら、わたしと同室の浅木友香さん」
 仁村は敏感に俺の意図を理解してくれたらしい。若干、強引さが目立ったけれど、仁村の先導の元で話はするっと切り替わる。
 まだ、浅木は俺の態度を気にする様子をそこかしこに漂わせていたけれど、そうやって唐突に仁村が浅木の紹介を始めてしまえば、それも収束する。
 浅木は人当たりの良い笑顔を振りまき、元気よく会釈した。
「よろしくね」
「こちらこそ!」
 須藤の対応は仁村に負けず劣らず快活なものだった。浅木に触発されたのだろうか。
 いや、それは今後のことを考えた上で浅木に良い印象を与えておきたいという下心が首を擡げたのだろう。浅木とどうのこうのという話ではなく、そこから広がる交友関係を含めての話だ。尤も、浅木が須藤のハートを打ち抜いた可能性も否定はできない。
 しかしながら、そんな須藤の対応があったからこそ、俺の返事が悪い意味で強調された。
「ああ、……よろしく」
 どう好意的に受け止めても愛想が良いとは言えなかっただろう。俺自身、どうしてこんなに低いテンションになったんだろうと思ったぐらいだ。
「ッ!!」
 不意に痛みが走って、思わず俺は顔を顰める。
 仁村にギリッと右肘近くの肉を抓られていた。そして、怖い目付きで睨まれた。せっかく取り繕ってやったのに「その愛想の悪い態度は何?」と、仁村としては言いたいのだろう。すぐにその形相は影を潜めてしまって、浅木に俺と須藤を紹介するための顔に切り替えられたけれど、俺は自分の対応を反省しないわけにはいかなかった。
「で、こっちが笠城堅一君と須藤努君。わたしのクラスメートなの。……と、そっちは?」
 正直な話、仁村に話を振られるまで俺は野々原の存在を完全に忘れていた。慌てて、俺はその場を取り繕おうとするけれど、俺が野々原のことを完全に忘却の彼方に追いやっていたことは当の野々原にもばれていただろう。
「あっと! こっちは俺のルームメイトの野々原」
 俺の紹介を受けて、野々原はにこやかに会釈する。
「十四号室の野々原です、二人ともよろしく。浅木さんとはあまり話したことはないけど……」
 そんな自己紹介合戦を展開していると、そこに割って入る言葉がある。
「よぉ、どうだった、良い部屋に当たったか?」
 背後から響いた聞き覚えのある声に、俺は「はぁ」と重い息を吐いた。
 そこには「須藤相手にこの場で色々と事情を聞くのはもう無理だな」といった諦めの色が滲んだ。
 他でもない。その声は淀沢村に来てから知り合いになった村上のものだ。
 浅木は人懐っこい笑顔を崩して大きく目を見開いたかと思えば、村上の顔をマジマジと注視する。そして、これでもかという程の頓狂な声で、村上の名前を口にした。
「うわぁ、村上英太! ……君」
 それは周囲の注目を集めるにこと足りる程の声量だ。
 何事かとこちらの様子を窺う食堂の面々に、大きな声を出した当の浅木は顔を真っ赤にして俯く格好だった。こういった場で、注目を浴びることになれていない節が見え隠れした形だ。
「いやはや、……その、ちょっと驚いただけで、あの、なんでもないので、……気にしないでください」
 今にも消え入りそうな声量でそう周囲に向けて事情を説明するものの、一度集めた注目はなかなか霧散しない。結果、浅木はぷるぷると震えながら押し黙ってしまった。
「何だか、随分な反応だな? なぁ?」
 一種異様とも言える雰囲気が漂い始めた中、俺は誰に向けるでもなく口を切る。けれど、そこに反応を返してくれる誰かは居なかった。恐らく、誰も彼もその言葉が「自分に向けられたものではない」と認識したのだろう。
 そんな俺の言葉が決定打となり、その場にはより何とも言い難い雰囲気が漂った。そんな状況が生まれてしまえば、自然と注目を集めるのはやはりその根本的な原因を作った浅木だった。
 まともな受け答えができる状態にはないと解りながらも、俺にも打つ手はない。ついさっき事態を打開しようと手を打って、逆に悪化させたばかりなのだ。結局は俺も回りに習って浅木に視線を向けざるを得なかった。何も解決しないとは解っていながら、取り敢えずというのが、もうどうしようもない。
 このままでは事態が改善しないと踏んだのだろう。黙りこんだままの浅木に代わり仁村が口を切った。すうっと息を呑んで気合いを入れたことからも解るように、そんな仁村からは「意を決して」という雰囲気が漂った。
「村上君は有名人なの?」
「有名も有名。それも半端じゃない。なぁ、村上英太?」
 そんな仁村の質問に村上が答えるよりも早く、そこには新たな闖入者が生まれた。それは予想だにしない方向からで、唐突にこの会話の和の中に飛び込んできた形だ。
 それは全く聞き覚えのない声で、俺や仁村が知らないこの寮の人間だろう。
 しかしながら、それさえも願ってもない展開だった。
 ただ、闖入者の声を聞いた途端、今度は村上が深い溜め息を吐き出したことを俺は見逃さなかった。
 そして、その深い溜め息を裏付けるかのように、闖入者へと向けた村上の口調は冷たいものだった。
「……お前に言われたくはない、若薙」
 くるりと周囲を見渡して、村上が若薙と呼んだ闖入者を探すけど、俺はすぐにその若薙を見つけることができない。村上の視線を追って始めて、俺は縮こまった浅木のすぐ後ろに立つ若薙の姿を発見した。
 若薙は村上よりも頭一つ小さく、かつ縮こまってぷるぷると震える浅木と同等の身長を持つ男だった。「ボサボサ」と表現して差し支えないだろう髪型は、整髪料なんかで意図的にそうしているわけではないだろう。長髪でないからまだ他人に暑苦しさを感じさせないものの、程よく日に焼けた肌色といい行動的な雰囲気が一目で感じ取れる。一言で言うと、そんな容姿と意志の強そうな鋭い目付きとが相まって「快活さ」を感じさせるタイプだと言えた。
「違うね、俺は有名人じゃねぇ。クラスに必ず一人はいるタイプのムードメーカーで、ただ顔が広いだけの一般人さ」
 正直「自分でいうか?」と思った。けれど、確かに若薙と呼ばれた男からは初対面でもすっと溶け込んでしまえる取っ付き易さが滲み出ていた。「ムードメーカー」というのも強ち大袈裟に言ったものじゃないかも知れない。
「大体、お前が俺に絡んでくるなんて、一体どういう……」
 村上の言葉が言下の内に、若薙が口を開く。
「明日、新参者に対するレクリエーションをやる予定だ。村上も参加するんだ」
 それもそれは命令口調で、断ることを許さない頑とした迫力を持っていた。
 村上も一瞬その迫力に押され、その命令口調に従う寸前まで行った。
「ああ……って、どうして俺が! 大体、俺にはそんなことに参加してる……」
「馬鹿! そこの二人を迎え入れるのは、今回ばかりは村上の役目だろ!」
 声を張り上げてレクリエーションへの参加を拒否する村上の声は、それを打ち消す若薙の叱責によって完全に途中で掻き消される。ニヤニヤ笑いながらの若薙の調子を「叱責」と表現すると語弊を招くかも知れないけれど、そこには有無を言わせぬ雰囲気があるのも確かだった。
 ともあれ、若薙の言葉にも一理ある。
 迷子になっていた俺達をこの緑丘寮へ入寮させる一連の手続きを踏んだのは他でもない村上である。まずは一泊という形に落ち着いたけれど、それは副寮長である馬原に半ば無理を通させる形だったわけだ。
 村上は俺と仁村をマジマジと直視した後、困ったようにふいっと視線を外した。
 若薙は村上を背後から羽交い締めにする形で身動きを取れなくすると、その顎をぐいっと掴んだ。そうして、力尽くで俺と仁村を交互に見るよう村上の顔の向きを調整する。
「お前がここに連れてきた二人に、ここの楽しみ方を紹介しなくて良いのか? ここの歩き方を教えなくて良いのか? つまらねえ、つまらねえって言って部屋に引き籠もるようになったらどうする? きっとまた迷子になるぜぇ? 今度は田圃に俯せで浮いてましたなんてことになったらどうする?」
 最初は若薙に対して脇腹に肘を突き立てるなど激しい抵抗を見せた村上だったけど、すぐにそれも影を潜めた。
 抵抗をものともしない若薙に諦めて身を委ねたというのもあるだろう。ただ、それ以上に若薙の言葉が村上に取って的を射たものだったということが大きいのだろう。
「深夜二時のあの場所に近づいちゃ行けませんよって注意しなかったことで、遊木祭川の怪物に足を引かれちゃったらどうする? んー、どうするんだ、村上? まだ緑陵寮に落ち着くって決まったわけじゃねぇけど、それでも緑陵寮に連れてきた張本人が責任を全うせず他人任せにするのか? そこいらの連中がそれをやるならまだしも、村上英太ともあろう男がそれをやるのか? 例え、自分の時間を多少なりとも犠牲にすることになってでもお前がそれをやっちゃあならないんじゃないのか?」
 執拗に責め立てる若薙だったけど、村上は神妙な顔で黙ってそれを聞いていた。
 ただ、それを目の当たりにする俺と仁村は心中複雑だ。
「いや、そんなに嫌なら無理に歓迎して貰うつもりは……、なぁ?」
 村上が露骨に乗り気でない態度を見せていたから、俺はそう口走ってしまっていた。そもそも若薙が言った「新参者」とはサマープロジェクトの参加者のことだろう。俺と仁村ががそれに該当すると決まったわけではないのだ。
 尤も、途中「何にせよ、俺の一存では決められない」という思考が頭を過ぎったから、後半は完全に仁村へと話を振る形を取る。対する仁村は「こっちに話を振らないで!」という強い非難の混じった目を俺に向けた後、困惑顔をして俺と村上を交互に見やる。
 そんな水面下でのやりとりを目の当たりにしたからではないだろうけど、村上は若薙の主張を受け入れる。
「いや、若薙の言う通りだ。それは確かに俺の役目だ」
 いや、村上のスタンスは主張を受け入れたというよりも、間違いを認め考えを改めたといった方が正しいだろう。
「そうだろー?」
「その通りだ! 俺は役割を果たさないとならないな!」
 再度若薙に主張の正当性について同意を求められた村上は「それは自分の役目だ」とまで言い切ったのだ。渋々それを受け入れたという様子は微塵もない。打って変わって村上からは積極ささえ感じられた。
 結局、晩飯は村上と若薙をテーブルに取り込み、わいわいがやがやとやる羽目になった。後から食堂にきた下部と目があったけれど、下部は俺だけに小さくお辞儀をした後、何も見なかったように素通りしていったことをはっきりと記憶している。
 ともあれ、食事を終えて部屋に戻った俺はそのままベットへと直行した。昼過ぎに取った休息だけでは足りなかったらしい。「須藤と話をしなければならない」と理解しながら、体を襲う疲労感には逆らなかったのだ。俺はベットに横になったままあっさりと眠りに付いた。




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