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Seen00 淀沢村字君積


 ふっと気付いたら、そこは真夏の田園地帯だった。
 田園地帯独特の何とも言えない草の匂いがすぐに鼻をつく。燦々と降りしきる太陽光の眩しさに目を細めていると、じわじわーっと周囲の景色が現実感を帯びた。周囲の景色は徐々に確かな輪郭を帯び、今まさに自分が二本の足で立っている場所が広大な田圃の一角であることを理解する。
 周囲の景色をマジマジと見渡してみる。そこは見覚えのない新緑の山々に挟まれた盆地のようだった。
 遠くに聳える山々が目に飛び込んでくると、俺はますますそんな場所に自分が立ち尽くしている意味が解らなくなる。
「……あれ? え? 何だ、これ?」
 必死に記憶を手繰る。
 思い出すことのできる最後の記憶は自分の部屋で眠りについたところまでだった。そこから先はいくら記憶を辿ってみても何も思い出せない。自分の部屋で寝ていたはずなのに、目を覚ましたら全く違う見知らぬ場所にいた。
 まさにそんな感覚だった。
 自分の置かれる状況が真夏の炎天下だということを意識し始めると、じわじわーっと肌にまとわる熱波が襲ってくる。そして、その意識を境として、俺の肌もうっすらと汗ばみ始める。
 それはつまり肌が汗ばみ始めるその瞬間まで、俺がその場所に居なかったことを示唆したに等しい。けれど、ここに至る経緯について必至で頭を巡らせていた俺には、そんなことにまで気を回す余裕はなかった。
「何で、こんなところに居るんだっけか?」
 パンッと両頬を軽く叩いて、回転速度の鈍重な思考に鞭を打ってみてもその答えは返らない。
 どうして、こんな所に立っているのか?
 ここが一体どこなのか?
 本当に状況の把握ができない状態だった。
 何度頭を捻って考えてみても、ここに至る経緯の一欠片さえ拾い上げられない。
「うーん……」
 腕を組んで唸り声を上げていると、ふっと自分の格好が目に飛び込んでくる。俺はいつもの通学姿をしていた。上は俺の通う代栂(よつが)中央高校指定のワイシャツ姿だし、下は同じく指定のズボンを着る出で立ちだ。不自然な点といえば、長袖のワイシャツなんてものをビシッとを着込んでいることぐらいだ。
「なんでこのクソ暑い炎天下の中、長袖なんて着てるんだよ、俺は?」
 取り敢えずの応急処置、袖を捲って半袖相当の格好になってみる。しかし、体感温度はほとんど変わらない。
「何で、こんなところに居るんだっけか?」
 改めて口を開いてみても、口を付いて出るのはさっきと同じ疑問だけだ。
 腰に手をあて深呼吸をしてみる。焦る思考を押さえつけて、じっくりとここに至る経緯に意識を集中させる。
「……参ったな、何も思い出せない」
 駄目だった。
 まるでここに至る経緯についての記憶がごっそりと奪い取られてしまっているかのようだ。何も思い出せない。
 取り敢えず、現在時間を確認しようと俺はズボンのポケットを探る。通学スタイルなんて出で立ちならば、ポケットの中には携帯電話が入っていて然るべきだ。いや、ないわけがない。自慢じゃないけど、携帯がない生活なんて考えられないぐらいに肌身離さず持ち歩いている。
「……ん、あれ?」
 財布と学生証はポケットの中にあったけれど、肝心の携帯電話が見つけれらない。
「待てよ、ないわけがないだろ?」
 余計なものなど何も入ってはいないポケットの中は何度ひっくり返してみても財布と学生証しか出てこなかった。
 普段は何も入れない胸ポケットまでを含めて確認したけど、目的のものは見つけられない。
「ないな。……ない」
 基本的に腕時計はつけないタイプだ。理由としては腕時計としての機能の全てを携帯電話が持っているからだ。現在時刻を確認する機能はもちろん、タイマーをセットして音を鳴らすなんてことも含めて全て携帯電話で事足りる。
 尤も、アクセサリーの類をつけるのがあまり好きじゃないというのもある。だから、一時期流行ったミサンガなんてものもつけたことがない。
 それはともかく、俺は携帯電話を携帯していないという事実で愕然とした。
「どーすんだよ! 暇潰しのゲームはともかく、メールもできない、誰かに連絡を取ることもできないってか!」
 ふと思い至って、俺は慌てて財布の中身を確認する。これで手持ちのお金もなかったなら、俺は文字通り途方に暮れるしかない。
 財布の中には福沢諭吉先生が一人鎮座していて、俺は思わず安堵の息を吐き出した。
 ここが余程の辺境でもない限り、福沢諭吉先生の力があれば帰宅できるはずだ。できないにしろ、この田園風景が続く見覚えのない場所からの脱出は可能だろう。いざとなったら公衆電話から親父に助けを求めることもできる。
 自分が身を置く状況のまずさがいくらかその度合いを緩和したことで、俺は少しだけ余裕を取り戻した。改めて、ここがどこなのかの情報を風景の中から拾い上げようとした時のこと、素っ頓狂な声が響き渡った。
「暑い! クソ暑いって、……何、どこ、ここ?」
 ビクッと肩を震わせるほど、俺は驚いた格好だ。
 声の主は田圃と田圃の間を一直線に伸びるアスファルトで舗装された道の上にいた。アスファルトの道を「一直線に伸びる」と言ったけど、よくよく見るとその道からは何本も何本も道が枝分かれてしている。ただ、枝分かれをする道はどれも、地面が剥き出しとなる舗装のされていない道である。恐らく、アスファルトによる舗装が為されていないのは、農道か、ただの脇道だろう。
 俺からその声の主までは大体20メートルぐらいの距離があった。それでも、聞き覚えのある声と日々見慣れた格好から俺はその人物を特定する。何よりそれは俺が日々通学する代栂中央高校の女子の制服であるし、その声は高校一年の美化委員会の時から何度となく聞いてきた声に非常によく似ていた。
「……仁村(にむら)?」
 ただ、口からぼそりと呟き出したに過ぎないそんな音量の言葉では二村と思しき生徒まで届かなかった。俺の呼びかけに、こちらへと向き直る様子はない。
 仁村と思しき生徒はアスファルトで舗装された道の上に、所謂「尻餅をついた」状態でいた。
 恐らく、俺は怪訝な表情でその様子を凝視していただろう。
 何せ、立ち上がろうとも座り直そうともせず「今、尻餅をつきました」みたいな格好でそこに座ったままなのだ。肩からずり落ちた紺色のスクールバッグを担ぎ直そうともしない。自分の置かれた状態というものをまざまざと確かめているかのようだった。
 すぅっと息を吸うと、俺は声を張り上げる。
「仁村!」
 仁村と思しき生徒の名前を呼ぶ声を邪魔する音は何もない。長閑な田園風景の中にあって、敢えてそれを邪魔するものを挙げるとすれば、虫の鳴き声くらいだ。
「……笠城(かさぎ)君?」
 俺の名前を聞き返す返事があって、それが仁村だと確信した。
 仁村はすっくと立ち上がると大きく手を振って、俺にその存在をアピールする。
「どうして仁村は高校の制服なんか着て、こんな所にいるんだ?」
 俺自身、仁村のことを言える格好じゃないのは言うまでもない。けれど、そんな疑問が自然と俺の口を吐いて出た。
 少なくとも、ここが代栂町近郊地域でないことだけは確信が持てる。気温に湿度、周囲の景色を含め、こんな場所は代栂町の周辺地域には存在しない。わざわざ制服姿なんて格好をして、ここにいる理由が見つけられないのだ。
 ぶんぶんと大きく手を振る仁村へと向かって歩き出そうとしたところで、ずぶっと来た。泥の中にまずは踝までが埋まった格好だ。俺は思わずその場で固まる。
 靴下を浸食するぬめっと来る感覚に顔を顰めつつも、このままじっとしていても事態は何も改善しないことは明瞭だった。そして、事態を打開する名案も咄嗟には浮かばなかった。何より、進むも戻るも四方八方田圃である。
 俺はすぅっと大きく息を呑むと、開き直って仁村の方へ歩みを進めた。そうして、俺はすぐに田圃を最短距離で仁村の元へと横切ろうとしたことを後悔することになる。
 泥の深さは田圃の中でも場所によって異なっていた。踝までがずぶっと埋まった場所なんて、田圃の中でもまだまだ浅い部分だったのだ。
 それはズボンに汚れが広がることよりもバランスを崩さないことを念頭に置いて田圃を進み、仁村まで後半分という距離まで来た時のことだ。ずぶっと、完全に右足を取られる。一気に膝下十cmぐらいまでが泥の中に埋没した格好だ。そして、一度そうやってバランスを崩してしまえば、俺はすぐに前のめりの体勢を余儀なくされる。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
 頭からダイブすることだけは是が非でも回避する。そんな強い意志で、体勢を立て直そうと四苦八苦するけれど、田圃の深みに填った右足が思うように動くことはなかった。
 俺は渾身の力を振り絞る。
「くぬぬぬぬぬぬぬぬぬ!!!」
 不意に「ズポッ」と脱力するような情けない音が鳴った。そして、田圃の深みの中から右足が抜ける。左足だけで踏ん張れるはずもなく、俺は一歩二歩と勢いのまま田圃の深みを進むことになった。けれど、開き直って深みを進んでみると、深みはすぐに終わる。そして、また踝ぐらいの深さしかない浅瀬の部分がやってきた。
 田圃は深みと浅瀬が交互に設けられているらしい。
 それがある一定の間隔で交互にくると解ってしまえば、深みに差し掛かったからと言って慌てることもなくなった。
 慎重に深みを進み、三度目の浅瀬へと差し掛かった時のことだった。俺は右足のスニーカーを紛失していたことに初めて気付いた。慌ててスニーカーを紛失したと思しき田圃の深みの部分へと向き直るけど、そこには「この場所で深みに填りました」という痕跡は何も残っていない。紛失したと思しき大凡の位置ぐらいは特定できるものの、それを頼りにするというには暗中模索もいいところだろう。
 俺は頭を抱える。
「そんなに値段が張らない奴だったって言ったって、ショップ限定販売のお気に入りの奴だったんだぞ、おい!」
 誰に向けるでもなく鬱憤をぶちまけてみるけれど、空しさが襲ってくるだけで何の解決にもならない。今更、この田圃の中を戻ってスニーカーを救出する気にもなれない。さぞかし、発見困難な深みに填っていることだろう。
 まして、スニーカー救出作戦なんてものを展開した日には何のために全身泥塗れになる事態を必死に回避したのか解らなくなること必至だ。膝下までが埋没する泥の中だ。腕を突っ込んで探すことになるだろう。それこそ本末転倒甚だしい。
「どうして俺がこんな目に……、クソ!」
 瞬間沸騰した怒りに任せて、田圃の水面を「パンッ」と力任せに叩いてみたら頬にまで泥が飛び跳ねる。
 結局、制服のズボンは疎かワイシャツにまで泥が跳ねた格好になった。頭からダイブしなかっただけ、マシといえばそれまでだったけど、もういっそのこと全身泥塗れになった方が良かったんじゃないかとさえ思えた。
 一頻り惚けた後、顔に跳ねた泥を拭うと俺は再び仁村へと向かって歩き始める。仁村へと近づくにつれ、その姿形が明瞭に捉えることができるようになって、俺は安堵の息を吐いた。
 そこには俺が知っているクラスメートとしての仁村その人がいた。
 色を抜いて微かに茶色がかった髪は肩下までの長さがあり、毛先から中ぐらいに掛けてツイストパーマが掛けられている。美化委員会で初めて会ったときよりかは幾分「大人っぽくなった」よなぁと感じるけれど、全体的にはまだまだ子供っぽい印象を受けるのが仁村の特徴だろう。
 身長にしても150cm前半と、170cmを超える俺よりも頭一つ分小さい。恐らく、初対面で仁村を中学生と紹介されれば、特に違和感を覚えることもなくほとんどの人間が信じるだろう。
 ともあれ、俺がこんな目に遭うことになったそもそもの原因について、仁村が何か知っているかも知れない。そんな淡い期待が俺の中に存在したことは確かだ。
「おっす、珍しいところで会うな?」
 どんな挨拶をするべきか。仁村を前にするまで頭の中で必死に言葉を選んでいたけど、結局口を付いて出た成り行きの言葉に任せる形になった。
 仁村は俺の挨拶をそのまま返す形で口にすると、マジマジと俺の出立ちを注視する。
「おっす。……酷い格好だね、大丈夫?」
「何を持って大丈夫っていうかはあれだけど、まぁ、怪我とかそういうものはないよ」
「……その、聞かない方が良いかも知れないんだけど、田圃のど真ん中で何してたの、笠城君? 農業体験、とか?」
 恐る恐るという形ではあったものの、農業体験とはあまりにも的外れな質問だろう。
「そんなわけないだろ!」
 思わずそう声を荒げてツッコミを入れてしまいそうになって、俺は慌てて言葉を飲み込む。俺が思っている以上に、お気に入りのスニーカーを失ったという事実からくる苛々は尾を引いていたかも知れない。
 仁村にしてみれば、どんな言葉を向けるべきか解らなかったのだろう。
 ズボンは泥塗れの上に、片方のスニーカーを履いていないなんて出で立ちだ。ともあれ、すぅと大きく深呼吸をしてどうにか落ち着きを取り戻すと、俺は仁村の質問に自分なりの答えを導き出した。
「いや、気付いたら田圃のど真ん中に突っ立っててさ。その、自分でも何をやってたのか全く思い出せないんだよね。はは、暑さで、頭やられちゃってたのかも知れない。……なんてな」
 途中までは割とストレートに俺の置かれる状況についてありのままを説明した。尤も、その後半部分は仁村の様子を窺い、惚けた形に転調させた。
「それ、笑って済ませていいことじゃないんじゃないかな?」
 仁村の雰囲気はヒシヒシと、俺の言葉に対する感想を真正直に告げてくれていた。
 自分の置かれた立場を冷静に客観視した結論として、俺も仁村と全く同じ感想だ。到底、笑って済ませてしまっていいとは思えない。いや、笑って済ませちゃ駄目だろう。
「……あはは。どうしてこんなところにいるのか解らないなんて、まずいことだよねぇ」
 仁村からは乾いた笑い声があがった。ただ、その表情は引き攣った苦笑いに近い。その目は全く笑っておらず、俺を捉えることもなかった。
 大凡、その時点で仁村が置かれる状況も、俺が置かれるものと大差ないことを察する。即ち「自分がどうしてこんなところにいるのか?」ってことを、解っていないってことだ。
 それでも一応は確認しておかなければならない。
「まぁ、それはさておき、質問があるんだ。知ってたらでいいんで、教えて欲しいんだ」
「ちょうどあたしも笠城君に聞きたいことがあったんだよね。でもまぁ、先にどーぞ」
 仁村の受け答えに、俺は「先に話して貰いたい」とも思った。けれど、結局仁村に先手を打たれたこともあり、一度躊躇った後、思い切って口にした。
「……ここ、どこだか知ってるか?」
 一瞬の沈黙の後、仁村が答えた。
「それ、あたしも聞きたいことだったんだよね」
 挫けず、俺はもう一つ仁村に確認をする。
「後さ、携帯持ってない?」
「それ、あたしも聞きたいことだったんだよね、……その二」
 固まる俺と仁村の表情には目に見えて「失望感」なんてものが漂ったことだろう。


 取り敢えず、俺と仁村は人気のある場所を目指して歩くことになった。
 見渡す限り「長閑な田園地帯」なんて風景が広がっていたから、最初はどこを目指して歩こうかと悩んだ。けれど、遠くの高台に風車を三基見つけると自然と進む方向は決まった。
 尤も、当面の目的地はギラギラと照り付ける直射日光を避けることができる場所である。そこが水分補給のできる冷房の効いた空間ならば最良だけど、そんな贅沢も言っていられない。田園地帯の風景の中には木造の米倉みたいな建造物を見つけることができるだけで、民家という民家も満足に見つけられないのだ。
 道路に沿って送電線が併走していることがこの先に文明の機器を利用可能な都市部がある望みの綱だ。
 ふと「歩き始めてどのくらい進んだろう」と思い、立ち止まってみる。高台にある風車までの距離は全く縮まったように見えない。その癖、晴天の日には遠くにある山々が実際の距離よりも近く見える効果が発動しているらしく、そう遠くにはないように見えるのだ。
「今日中には辿り着けない距離があるかも知れない」
 そんなことを思い始めてしまえば、足を前へ前へと押し出す気力も一気に減衰する。「ちょっと休憩しようか?」と、そんな言葉を仁村に向かって口にしようにも、休憩できる木陰もないと来たものだ。
 仁村は仁村で俺が立ち止まったことに気付いていないのか。とぼとぼと一人先を進む格好だった。そうは言っても大した速度ではないため、置いて行かれるようなことはない。
 不平不満をひたすら口にする形ではあったけれど、仁村にも最初の内は色々と喋る元気があった。けれど、それは時間の経過とともに影を潜め、今のように無言となってしまったのだ。
「こんな炎天下の中、紫外線を浴び続けたら肌がボロボロになっちゃう」
「暑い暑い暑い、もう下着まで汗でびっしょり、酷い状態だよ!」
 最後にそんな仁村の言葉を聞いてからどれくらい経ったんだろう?
 時間感覚が薄れてきている気がした。
 喋る元気がなくなったという状況が、まずい方向へと突き進んでいることを示唆していただろう。けれど、だからと言って俺に仁村を気遣う余力があるかというと、それも苦しい。仁村同様に過酷な境遇に置かれ歩き続けているのだから、それも当然だろう。
「……まずいよな」
 不意に、思っていたことが口を付いて出る。そんな弱音と取れる言葉を口にしてしまってから、俺は「しまった」と思った。けれど、それは仁村の耳まで届かなかったらしい。
 仁村は何の反応も返さない。
 本当に聞こえなかったんだろうか?
 逆に何の反応も返さない仁村の状態が心配に思えて、俺は仁村へと駆け寄ろうと足を速める。
 ちょうどその矢先のことだ。
 ふと、自動車のエンジン音が聞こえた気がして、俺はハッと我に返る。
 今来た道を振り返ってみると、そこにはこちらへと向かってやってくるバスを一台確認できた。バスは割と近距離まで接近して来ていた。十数秒と経たないうちに俺達の横を通過していくだろう距離にある。
 俺と仁村は車道のど真ん中を歩いている形だ。意識をしっかりと持って路肩を歩いていたつもりだったけど、俺の方も熱に浮かされ朦朧となっていたのだろう。
「ほら仁村、車が通るぞ。道の真ん中を歩いてると交通の邪魔……」
 そんな言葉で仁村を左の路肩へ誘導しようという時になって始めて、俺は「途中乗車をさせて貰う」という名案を閃いた。普通に思考を巡らせたなら、すぐに名案として閃くことができたはずの思考だろう。まだまだ熱に浮かされた状態から、俺は回復しきっていない様子だった。
 決断してしまえば、後は行動を起こすだけだ。
 俺はバスを停車させようと思い立って、バスの方へと向き直る。
 その瞬間のこと、傍目にかなりの乗客を乗せたバスがその巨体を震わせ、俺と仁村のすぐ横を通り過ぎていった。路肩にいる俺と仁村を大きく避ける形でバスが対向車線側へとはみ出し走行したため、逆に俺はその全貌を把握できた格好だ。
 あちこち塗装が剥げてはいたものの、バスは薄緑色で統一され年代を感じさせる雰囲気だった。行き先には「群塚高校前」とある。ちらりと横目に捉えただけで、制服姿と思しき服装に身を包み歓談をする学生の姿がそこには窺えた。
 一見した限りでは「スクールバス」には見えなかったし、そう思えなかった。通学というには時間が時間だし、バスの側面には会社名と思われる「草央交通」の文字もある。
 ともあれ、横切ってゆくバスを目で追いかれながら、俺はその表情を顰めっ面に変えていった。頭を過ぎる思考は「一足遅かった」という後悔の念だ。しかしながら、このまま黙って諦めるつもりはない。どうにかして「バスを停車させよう」と思考を巡らせていたところ、俺はふとあることに気付いた。
 バスの最後部座席に乗っていた何人かがこちらを振り返り、俺と仁村の様子を「何事か?」と窺っていたのだ。それもそうだろう。もしも逆の立場だったなら、俺だって「この炎天下の中、何やってんだ?」と不思議に思ったはずだ。
 小さく手を振ってみれば、バスの最後尾に乗っていた女子の一人が同じように手を小さく振り返してくれる。
 このままバスが去っていく様をただ黙って眺めて良いのか。
 良い訳がない!
 バスが停車してくれる可能性は低いだろう。けれど、それでもやってみる価値は十二分にある。
 俺は意を決すると、大きく手を振り声を張り上げる。
「バスを止めてくれるように運転手さんに話してくれないか! 俺達もそのバスに乗りたいんだ!」
 俺の張り上げた声に、仁村は驚いた顔をして振り返る。けれど、俺が誰にその訴えを向けているかを理解すると、途端にその目に精気を宿した。そして、その場でピョンピョンと跳び跳ねて見せれば、自身の存在を強烈にアピールする。
「お願い、止まって!!」
 全身を使って「停車してくれ」という切羽詰まったオーラを、とにかく必死になって解放した。
「今、最後の力を振り絞らないでいつ振り絞る!?」
 そんな具合に全身を使って「HELP ME!」を表現し、俺と仁村は同年代と思しきバスの乗客に向かって訴えた。けれど、バスは停車する素振りの一つも見せず、どんどん遠離っていってしまった。
「クソッ、非情な世の中だな!」
 額に浮かび上がった大粒の汗をワイシャツの裾で拭い取っていると、俺の口からは自然とそんな悪態が付いて出た。尤も、それは紛れもない俺の本音に他ならない。
「全くだよね……」
 遠離っていくバスの様子に呆然とする仁村がぼそりと呟き、俺は快晴の天を仰いだ。肉体的な疲労がドッと襲ってきたということもある。けれど、どちらかといえば淡い期待が裏切られたことに対する精神的な疲労の方が大きいか。
 肩を落とす俺を励ますように、仁村は元気よく笑顔を見せた。
「でも、しばらく歩けばバス停があるかも知れないし、ちょっと希望が湧いてきたよね?」
 先ほどまでの疲れた顔とは違う。バスが通るという変化を受けたことで仁村は元気を取り戻したようだった。
「そうだな。案外、バス停までそんなに距離がないかも知れないしな」
 しかし、そんな推測が激甘だったことを俺と仁村は身をもって実感することになる。
 そりゃあもう、最高級ホワイトチョコレートを味わう最初の一切れで、口に広がる甘味よりも甘かったと言っていい。二十分近く、ゾンビのように炎天下の下を歩かされれば、そんな淡い希望を撤回せざる得なかった。
 希望がなければ絶望などない。まさにそれだ。
 きっとすぐバス停が見付かって、なんか都合良く次の運行バスに乗ることができて、クーラーの利きは良くないもののそこそこ涼しいバスに揺られる。そんな甘く楽観的な希望を抱いてしまったからこそ、炎天下の強行軍はそれまで以上に苦しい道のりとなったわけだった。
「もう、……もう駄目。これ以上、水分補給せずに歩き続けたら乾燥ワカメみたいに干涸らびちゃう」
 つい二十分前に持ち直した元気は全てギラギラと容赦なく照り付ける直射日光に晒され蒸発してしまったらしい。歩き始めた頃とは打って変わり、仁村は今にも消え入りそうな声で水分補給を懇願する。
「もう駄目だー!」
 心の叫びにも似た声を、唐突に青空に向かって張り上げらると、仁村は焼けたアスファルトの上にぺたんと力なく座り込む。そして、焼けたアスファルトの熱を前にして、仁村はついさっき陸に打ち上げられた活魚のようにピチピチと飛び跳ねた。
「熱ッ! 熱い熱い!!」
 そんな仁村の一連の行動に、俺は思わず笑ってしまった。どっと疲れが襲ってきた後だっただけに、心なしか気分が安らいだ気になったのは有難い。
「熱いッ、マジ熱いって! 熱い!!」
 ゴロゴロとアスファルトの上を転がった後、仁村は堪らず立ち上がる。
「はは、仁村は愉快だな」
「そこ、笑いごとじゃないって!」
 凄い剣幕で人差し指を眼前に突きつけられるけど、仁村がそうやって元気よく振る舞ったのも束の間のこと。ぺたんと座り込むのが無理だと判断すると、今度はその場にしゃがみ込んでしまった。
 俺が声を上げて笑ったから、ふて腐れたんだと思った。
 しゃがみ込んだ仁村を立ち上がらせるため、俺は手を差し出して言う。
「悪い悪い。ほら、行こうぜ」
 仁村は手を差し出した俺の顔をマジマジと注視する。
 当然、その意図を理解できないから俺はそこに不思議そうな顔を返すことになる。
「……どうした?」
 仁村は小難しい顔をして「うーん」と唸った後、唐突に俯いた。けれど、次の瞬間パシッと俺の手に掴まって立ち上がった仁村からはそんな小難しい表情は消えていた。そこには代わりにビックリする程の真顔がある。
「恥を承知でお願い、負ぶって」
 仁村は差し出した俺の手を両手でしっかと掴むと、そんなお願いを口にする。そこには引き込まれるような上目遣いがある。都合良くもお願いを聞いて貰うために装われた隙のない態度だ。
「……ゴメン、無理だ」
 一つの間を挟んで、その唐突すぎる仁村のお願いを俺は一体どんな顔して断ったのだろう。
 そんなことをお願いされたのは生まれてこの方始めてだったし、どんな対応をして良いか解らなかった。ともあれ、心底嫌そうな顔をして断ったわけじゃないことだけは確かだ。俺の思考の片隅には仁村を負ぶうことによって得られる、その感触を想像してしまった自分が確かに存在したのだから……。
「そんな冷たい台詞を平気な顔して口にするんだ、この人でなし!」
「何言ってんだよ。いくら仁村が中学生みたいな形だからって言ったって、この炎天下の中じゃ俺の体力が……」
 そこまで弁明を口走ってしまってから、俺はハッとなる。いくら「中学生みたいな体型」というのを誰もが仁村に対して頭の中で思っていたとしても、本人を前にそれを口にした強者は数える程しかいない。
 これも熱に浮かされている状態に置かれているからだろうか。通常の思考回路では注意をして口走らないようにしている言葉がぽろりと漏れる。これは実に厄介なことだ。
「今、何と言いましたかね? 笠城君? 聞き捨てならない台詞を口にしたように聞こえたんだけど、良かったらもう一度言って貰えないかな?」
 仁村はむっとした顔つきをして俺へと詰め寄った。大した迫力だった。
 対する俺はそんな仁村と目を合わせられるわけもない。相手の迫力を面と向かって受け止められないのだから、既に俺には勝ち目なんてない。どうにか御茶を濁してこの場を無事やり過ごすことに徹する。
「げふんげふん、いや、……何でもない」
「今の台詞、聞かなかったことにして貰いたいなら、あたしを負ぶって」
 ググッとさらに距離を詰める仁村の迫力に気圧されるけど、その要求を呑むことだけはできない。
「勘弁、それだけは勘弁! 百メートルも進まないうちに俺がくたばる! 仁村を担いだ状態でグシャッて潰れる!」
「じゃあ鞄! 鞄でいいよ、持って!」
「そんなことで良ければ、いくらでも背負わせていただきます……」
 仁村から突きつけられたスクールバッグを渋々受け取った瞬間、その重さに俺は思わず顔を顰めた。重いとは言っても「鉄アレイが入っているんじゃないか?」というような重量はない。ただ、俺が想像していたものよりはずっと、そのスクールバッグが重かったというだけの話だ。
「何入ってるの、これ?」
「重さから言って多分、教科書とか参考書とかかなぁ?」
 仁村の言い方から察するに、何が中に詰め込まれているのかを把握していないらしい。
「実は要らないものとか入ってるんじゃないか? 少しでも軽くしてくれよ」
 徐にスクールバッグを開こうとして、俺は仁村に背中を思いっきり叩かれる。聞いていて「パンッ」と小気味良いと思える音が鳴ったぐらいだ。背中がひりひりした。
「ちょっと! 女の子の鞄を勝手に漁ろうとしないの! 笠城君、デリカシーが足りないよ! ……大体、中に要らないものがあったからってどこに捨てていくの?」
 確かに仁村の言うとおりだ。不要なものがあったからといって、捨てていく場所なんかない。
 俺は仁村のスクールバッグを背負うと、まだ延々と続くアスファルトの道の先へと目を凝らす。
「……先を急ごうか?」


 もうどれくらい歩いただろうか。時間にすると大したことはないかも知れない。
 どうにかアスファルトの道の先に米粒ほどの建築物の様子が窺えるようになってきた時のこと。
 チリンチリンと、最近めっきり聞かなくなった自転車のホーンの音が鳴る。
 それが俺と仁村に向けられたものだと気付くまでに、俺は悠に数秒の時間を有した。この暑さで脳の回転数は愚か、集中力が大幅に減衰していることが裏付けられた良い証拠だろう。あまつさえ、暑さに項垂れる頭を起こすのさえ億劫に思えて、俺が後ろを振り返ったのはホーンを鳴らした相手から言葉が向けられた後だった。
「よお、随分と酷い状態みたいだけど、こんなところで何やっているんだ?」
 相手はシンプルイズベストを地で行く、飾り気のないマウンテンバイクに乗った男だった。アンダーは濃紺色のジーンズに、上は半袖のパーカーを羽織る出で立ちだ。加えて言えば、リュックサックを背負り、派手目なシンボルがでかでかと描かれた帽子を被っていた。年の頃は俺と同じか、上を見ても一つ二つぐらいしか変わらないだろう。
 パッと見、中背中肉という感じだけど、半袖から覗く二の腕はがっしりとしていて筋肉質であることが解る。身長は俺よりもあるけれど、特別高いという程ではない。
 そいつは「絡んできた」という口調ではなかった。
 少なくとも、そこに敵意や悪意は感じられない。だから、俺もそれ相応の対応をする。
「取りあえず、あれだ。……日陰を目指して歩いている?」
 首を捻って見せた後、答えになっていない答えを疑問系の形で切り返した。
 俺は一体どんな顔をしていただろう?
 良くて、苦笑い。悪けりゃ恨めしそうな目つきでそいつを見ていたかも知れない。何せ、万全の熱対策をして、マウンテンバイクなんて移動手段を持っているのだからだ。
 改めて、バスが向かっていった方角を見る。そこには建物の存在を遠目に目視できるものの、それは酷く小さい。ここからそこまで、徒歩で一体どれぐらいの時間を必要とするのか考えると本当に溜息しか出てこない。
 俺は額に滲む大粒の汗を拭うと、また歩き出そうと前を向く。兎にも角にも、この凶悪な直射日光がギラギラと降り注ぐ日陰のない平原に、これ以上居たくはなかった。
 そいつは俺の歩く速度に合わせてマウンテンバイクを漕ぐ。どうやら、そのまま抜き去っていくつもりはないらしい。
「……この直射日光の降り注ぐクソ暑さの中、日傘や帽子もなしで散策かい?」
「日傘も帽子も用意してる時間なんてなかったんだよ、なにせ……」
 その後に続くべく、用意できなかった理由を咄嗟に飲み込んだから、それはどこか突き放すような口調になった。まさか、どうしてこんなところにいるのか自分でも解らないなんて初対面の相手に話し始めるわけにもいかない。
「なにせ……?」
 そいつは不思議そうな顔つきをして、俺の飲み込んだ言葉の続きを求める。
 俺は一つ咳払いをして間をおき、こう切り出した。
「今、ここにこうしている以上、強行策しかないんだよ。この凶悪極まりない直射日光の下で、休憩なんかできそうもないしな。……そこに横たわっているだけで干涸らびちまうよ」
 我ながら上手く話を切り替えられたと思う。
 けれど、そいつは俺を呆れたような目つきで見た。仕方のない奴だと思ったのかも知れない。それはそいつが続けた言葉に色濃く現れていた。
「強攻策? 自殺行為だな。熱射病か脱水症状で倒れるぜ。……取りあえず、こいつをやる。飲めよ」
 そいつは背中に背負ったリュックサックのファスナーを徐に開ける。そうして、保冷パックに入った1.5Lのペットボトルを俺と仁村に向かって差し出した。
 俺は思わず声を張り上げた。
「おいッ、マジか! 有難い!」
 こんなところで救いの手が差し伸べられるなんて思っていなかったから、その嬉しさも一入だ。
 そいつから差し出されたペットボトルを受け取ると、ひんやりとした心地よい感触が手に伝わってくる。堪らず俺はそれを口に含んだ。しかしながら、その次の瞬間、俺は口に含んだペットボトルの中身を吹き出した。何とも表現し難い刺激的な味覚が口内に広がって、身体がそれを摂取することを拒否したのだと俺は思った。
 ゲホゲホと咳き込む俺に、ペットボトルを手渡したそいつは凡そ見当違いな注意を向ける。
「おいおい、欲張るから咳き込むんだ、そんなに慌てなくても誰も奪いはしないよ」
 カラカラと笑いながら注意をするそいつの様子から察するに、どうして俺がその液体を口から吹いたかなど頭の片隅にもないのだろう。
 保冷パックの隙間からペットボトルの中身を窺うと、それは多少濁りのある黄金色をした液体だった。鼻を近づけて匂いを嗅いでみる。特別、嫌な匂いはない。滋養強壮剤などが持つ匂いを薄めた感じに近いかも知れない。
 俺はペットボトルをまじまじと注視した後、思い切って切り出した。
「つかぬことを窺わせて貰っても構わないか?」
 俺はそいつから何かしらの反応が返るよりも早く、言葉を続ける。つまりはそいつが「はい」と言おうと「いいえ」と言おうと、俺はその質問を突きつけただろう。
「……これ、何だ?」
 そいつは悪びれた様子一つ見せずに答える。
「疲労回復用の特製エキスだ。夏バテなんかにも効果大な代物だ」
 そう断言されてしまうと、確かに滋養強壮系のドリンクに良くある感じの味に似ていた気がした。
 再度、俺は恐る恐るその液体を口に含む。口に含んだ瞬間、味覚を苦みが襲ってきたが「この手のドリンクはこういうものだ」と自分を騙し、俺はそれを飲み干した。
 一口飲み干してしまえば、二口目からは不思議と飲める味だと思えるのが不思議で仕方がない。ただ、このクソ暑い最中に、じわじわと体の芯から暖かくなってくる感覚があって、俺は思わず当惑した。喉の渇きから来る水分補給の欲求を満たしながら爽快感を味わえないあたり、大した特製エキスである。尤も、疲労回復には十分効果があるようで、全身を襲っていた気怠さというものは払拭されていった。
「あー、でも良い感じに冷えていて良いな! これは生き返る!」
 ぽかーんとした顔で成り行きを眺めていた仁村も、俺が元気を取り戻す様子を契機に、その目に光を取り戻した。そして、まるでバネ仕掛けの人形みたいにピョンッと起き上がり、駄々っ子みたいに大袈裟に手を振り要求する。
「わたしもわたしも。生き返りたい、生き返らないと倒れちゃう! 生き返らせろ!」
 仁村の意外な一面を見せられた気がして、俺は苦笑した。
 尤も、仁村には俺の手にあるペットボトルを無理矢理奪い取ろうなんて節はない。あくまでそういう行動を持って「早く飲みたい」と子供みたいに要求しているわけだ。
 仁村にペットボトルを手渡すと、俺は礼を言うためそいつに向き直る。
「まぁ味はあれだったけど、取りあえずサンキューな、……えーと?」
 そいつの名前を思い出そうと思考を巡らせて、俺はまだそいつが名乗っていないことに気がついた。
 ちょうど、そいつも自分がまだ名乗っていないことに気付いたのだろう。俺の思案顔を前にして、口を開いた。
「村上(むらかみ)。村上英太(えいた)だ」
 そいつは村上英太と名乗った。
「偶然、俺が通り掛かったからいいものの、ここは三時間に一本バスが通るか通らないかの道だぜ。……しっかも、この真夏の炎天下の中だ、人通りなんて皆無に等しい。飲料水も携帯しないなんて無謀にも程がある。本当にぶっ倒れてたら干涸らびて死んでたかも知れないぜ?」
 村上の「死んでいたかも知れない」とはさすがに大袈裟過ぎる言葉だとは思った。けれど、あのまま延々と炎天下の下を歩く状態に晒されていたら、熱射病で倒れていた可能性は十分考えられる。「その原因を作ったのは俺じゃない」という思いも確かにあったけれど、今は素直に頷いておいた。
「面目ない」
「それで、こんなところを男一人女一人でとぼとぼ歩いている真相は? 愛の逃避行とかか?」
 そこで俺に向けた小言は終わりという具合に、村上はスパッと話題を切り替える。ただ、切り替わった先の話題は俺と仁村に取ってあまり好ましいものとはいえない。
「いや、あー……、はは、何だろうな? 迷子?」
 どう答えて良いものか解らず、俺は愛想笑いを返した。曖昧に御茶を濁しておいた方が良いんだろうな。
 そう思った。
 水分補給をしたことですっかり回転数の回復した思考が、そいつに真実を告げることに警鐘を鳴らしていたのだ。
「気付いたら田圃の中に立っていたんだ。どうしてそんなところにいたのか全く記憶にないんだ!」
 今「ミステリー体験です」めいた口調でそんなことを告げたなら、間違いなくこの熱波で頭がやられた変な人だと思われること間違いない。変な奴だと思われるだけならまだ良い。下手をすると救急車なんてものを呼ばれるような事態に転ぶ可能性さえ考えられる。そんなことになったら目も当てられない。
「迷子……って、二人仲良くか?」
 村上は俺と仁村を訝しげな表情で交互に見た。
 普通であれば、確かに迷子に至る経緯というものがそこにあって然るべきだ。どこどこの目的地に向かう途中、調子に乗ってショートカットを実行したら迷っただとか、そういう理由がないとおかしい。
 それを答えられず曖昧に笑っていると、村上は俺と仁村に経緯を話すことができない理由があると思ったのだろう。それ以上、追求の言葉を口にせず、さらりと話題を切り替えた。
「そんな格好でここにいるってことはどっかの寮に入る、もしくは入ってるんだろう? 一体、どこの寮だ? 迷子になったっていうんなら連れて行ってやるよ」
 その申し出を受けるべきか受けないべきかを俺は咄嗟に判断できない。少なくとも寮というからには電話や移動手段が確実に存在する場所までは行けるだろう。このまま炎天下の下を自力で闇雲に歩くよりは何をするにしても確実性がある。けれど、では「寮には入っていないけど連れて行ってくれ」といって不審がられないものか。それこそ「どうしてこんな場所にいるんだ?」という根本的なところに疑問は立ち返るはずだ。
 そして、俺と仁村は少なくとも今の現状でその理由を答えたくはない。
 俺が答えられないでいても、村上は遠慮なしに「どこの寮か?」を確認する。
「緑陵(みどりおか)か? それとも風上(かぜかみ)? 旧公民館?」
 まったく聞いたことのない名前を羅列されて、俺は困惑顔しか向けられない。
 困った挙げ句、俺は仁村にその話題を振ることにする。
 そこには「この事態を打開してくれ」という思いがある。
「寮……って、一体どこのだろうな? なぁ、仁村?」
 ペットボトルを片手に俺と村上のやりとりを黙って窺っていた仁村はいきなり話を振られたことに驚いた顔をした。
 俺に任せておけば「全部上手くやってくれる」とでも思っていたのかも知れない。
 ともあれ、仁村は俺の問い掛けに首をぶんぶんと横に振って見せて、全く寮の話に心当たりがないことを強調した。
 村上は再度、俺を訝る表情を見せる。そうして、相変わらずの困惑顔をする俺にこう確認した。
「……もしかして、二人揃ってバスから飛び降りたとか言うんじゃないだろうな?」
「えっと、……それはどういう意味?」
「たまに居るらしいからな。親御さんに勝手に決められ淀沢村(よどさわむら)のサマープログラムに放り込まれたは良いものの「ここまで何もない隔離空間だとは思わなかった!」とか宣って目的地に着く前に脱走を試みる奴だとか」
 村上の雰囲気は「どうだ、図星だろう?」と俺と仁村に聞く風だ。
 けれど、俺と仁村は揃って頓狂な声を上げる格好だ。
「……淀沢村のサマープログラム?」
 村上は当惑しながらも、さも当然といった口調で答える。
「そう淀沢村。正確には淀沢村、字(あざ)、君積(きみづみ)」
 それは「違うのか?」とか「知らないのか?」という具合に、俺と仁村に確認をする口調に聞こえた。




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