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Seen08 敵対種


 夕焼けの時間帯が終わり、ポツポツと灯る街灯の明かりが目に付く様になって、机を指先でトントンと叩く音の感覚が心なしか短くなった。その音の主である料理部部長、鳥谷美菜子(とりやみなこ)は窓の外へと視線を向けながら、時折、教室内へと視線を移し、自分を取り囲むかの様に座る広瀬と蒲原の様子を窺っていた。頬杖を付いた不機嫌そうな表情で、興味なさげに二人の様子を窺う様は「構って欲しい」とでも言っているかの様にも映る。
「さっきからチラチラわたしの様子を窺っているけど、わたしの顔に何か付いている?」
 蒲原にしても、広瀬にしても、そんな落ち着きのない鳥谷の様子を解っていながら声を掛けることをしなかった。しかしながら、黙ったままの均衡をこうして保っているのも、いい加減、限界だと蒲原は感じたらしい。尤も、本当にそうやってチラリチラリと様子を窺われることが気になっただけかも知れない。
「いや、いつまで待たせるのかなーって思って」
 時間にするとこの均衡は既に四十分近く持続してきたことになり、鳥谷がそう考えるのも当然なことだと言えた。立てて加えて、鳥谷をここにこうして呼び付け待たせている張本人達が、生徒会所属の広瀬と、魔術研究会会長である蒲原という全く関連の窺い知れない二人なのである。この組み合わせだけを取ってみても、不穏に思う材料となることはあれ、相手に安堵を与えることはまずないだろう。
「すまないな、約束の時間に遅れるとメールを寄越したきり、いつ来るとか追加の連絡がなくてな。……もう少し待ってくれ、まだ、夜は長い」
 慌てて機嫌を取る弘瀬を鳥谷は棘のある目で流し見るだけだった。
 弘瀬は弘瀬で蒲原へと「女同士で何か盛り上がる話題を振ってくれ」と、再三、目配せをして要求するのだったが、どうにも共通する話題もないらしい。この場に「男である自分が居るから……」とも弘瀬は考えたわけだったが、だからといって蒲原一人にこの場を任せて席を立つわけにも行かなかった。「その斑のない綺麗な茶髪は美容室で染めているんだ?」だとか、髪型やファッションに関する話題を弘瀬が振ることも出来ず、自然と場は冷めるわけだった。
 そんな状態で鳥谷を引き留めなければならないのだから、弘瀬としては堪ったものじゃなかった。
 サアアァァァァ……と、朝方から降り始めて今の今まで降り続いている小雨も一向に止む気配はなく、徐々に高くなりつつ湿度も不快指数を押し上げる働きをしていたのだろう。
「……何か飲む? 待って貰っている間はやることなんてないわけだから、飲み放題、食べ放題、好き勝ってやって貰って構わないわ」
 蒲原が利き手に持ったペットボトルを傾け「おかわりどうぞ」と勧めるのを前に、鳥谷は溜息を吐き出さずにはいられなかった。その溜息には「呆れてものが言えない」という態度がこれでもかというほどに鏤められている。
「特価品で五十円引きの鳩麦茶とかサイダーを、わたしに二リットル以上飲ませた方が勝ちとかいう罰ゲームか何かなの? 蒲原さんが鳩麦茶で、広瀬君がサイダー、……違う? それに食べ放題って言ったってスナック菓子と酒のつまみじゃないの」
 また静寂という、何とも言えない均衡が生まれて、鳥谷がトントンと小刻みに机を叩く音が教室を占拠する。しかし、そんな中、机を叩くものとは違う「コンコン」と教室の引き戸がノックされて、勢いよく開け放たれる。
「ちっす、遅れました、すんませんね」
 軽く息を切らせた若山の姿を「待っていました」と言わないばかり、蒲原が立ち上がって迎え入れる。
 若山の制服はしっとりと雨に濡れていて、小雨の中をあちらこちらと走り回った様が見て取れた。
「遅れる分には構わないが、もっと頻繁に連絡を入れる様にしてくれ、こちらにも段取りというものがある」
 そんな若山を前にするから、鳥谷の手前、注意を促しはするものの、弘瀬の言葉は労いの色の強いものだった。
「いやー、連絡って言ったって「今、チャリで町民会館前を通過しました。傘差しててあんまりスピード出せないんですけど、急いでそっちに急行します」とか言われても、実際、困るでしょ? それこそ、そんな連絡する余裕があるなら急げよって話になりますしさ」
 カラカラと笑って見せながら、若山は雨の滴が垂れる傘を教室脇の傘立てへと放り込んだ。蒲原からタオルを受け取って、しっとりと濡れた手や顔を拭くと、若山は「おや?」という顔をして、鳥谷の存在に気付いた様だった。
「お! こちら噂の鳥谷さんっすか? 滅茶苦茶、美人さんじゃないっすか! これで料理もセミプロクラスなんてホント犯罪ものですよね! あ、握手して貰って良いですか? 去年の文化祭の時の、肉じゃがのあまりの旨さに惚れました」
 その若山の言葉が本心からのものか、教室内の雰囲気が悪いことを察して鳥谷の機嫌を取ろうとしたものかは解らないながら、鳥谷は小さく息を吐いて微苦笑を滲ませるとその握手に応じる。もちろん、それを真に受けて……ということはないだろう。良くて話半分、しかしながら、そう解っていてもなお褒められると満更ではないのかも知れない。
 交際でも申し込むかの様に鳥谷の手を丁寧に取って、満面の笑顔で握手をする若山を広瀬は真顔で呼び止める。
「若山、ブツはどうだった?」
 若山は「今気付いた」と、そう言わないばかりの顔をする。そして、ズボンのポケットから黄土色した粉末状の粉が入った小さな瓶を取り出す。それは掌に収まってしまうサイズで、粉の内容量でいうなら数グラムもないのだろう。
「生徒会一、融通が利かないとご評判の弘瀬先輩から、まさかこんなもの頼まれるとは思いもよらなかったよ」
 若山の「まさかこんなもの」との発言に、鳥谷の表情が俄に険しさを帯びた。第六感が働いたというか、嫌な予感が頭を刺したというか、ともかく、そこに鳥谷は不穏な空気を感じ始めたわけだった。
 てっきり、そのまま広瀬の手に渡るのだろうと思われた小瓶は蒲原へと向かって放られる。
「はいっす、蒲原会長。市販で出回ってる睡眠薬の比じゃない重度不眠患者用の睡眠薬ですよ。無味無臭、粉末状で何にでも混入し易い便利な一品。特定の化学物質や、それを含む食材と一緒に摂取しない限り、効果が薄まることはない代物です。もう、朝までバッチリ不眠解消!」
 鳥谷はピクリと眉毛を吊り上げ、蒲原は満足げで得意気な表情を広瀬へと向け、広瀬は広瀬で呆れた様子を隠そうともしない。三者三様の表情がそこに漂う不穏な空気をより鮮明に浮かび上がらせたのだろう。
「良く、こんなものが手に入るな? つくづくお前達、魔術研究会は問題児だと思わされるよ」
「おいおい、ちょっとそれは酷い話だよ。今回、これを欲しいって言ったのは弘瀬先輩でしょうが?」
 苦笑いの表情で「勘弁して下さいよ?」という若山の態度も当然だろう。
 それを欲したのは当の弘瀬である。提案をしたのは蒲原だが、あくまでもオーケーを出したのは弘瀬である。
 小雨の降りしきる中、駆けずり回ってそれを手に入れてきたというのに、感謝をされるならまだしも溜息混じりに呆れられるのでは到底割に合わない。
 この計画にオーケーを出したのはあくまでも弘瀬だったわけだが、当の弘瀬は後になって「本当にこれで良かったのか?」と思い悩んだだろう心中を告白する。
「最悪、市販用のを多めに使って凌ぐことも考えてたよ。若山がその重度不眠患者用の睡眠薬を手に入れられず、市販のものを用いることによって個人差による効果の斑が出ても仕方ないと思ってた。……最悪だって? くくく、寧ろ、期待をしてたと言った方がいいかも知れないな。なぁ、知ってたか? 教師からは生徒会に魔術研究会所属の会員をしっかり見張っておけって通達が来ているんだぞ」
 途中、自問自答と自嘲にも似た笑いが弘瀬の口を吐いて出て、弘瀬の苦悩の度合いが甚だしかったことを顕著に示唆した格好だった。フルフルと小刻みに震える様はそれこそ最悪の事態が訪れたとでも思っているかの様だ。
 そんな弘瀬の肩をポンポンと二度叩いて蒲原は問う。
「それはわたしも含めての話なの?」
「何を当然なことを言っているんだ」
 拍子抜けするほど感情のない顔をして弘瀬は答えた。しかし、そう答えてしまってから、ここに来て蒲原を不機嫌にする言動は避けるべきだという葛藤も心中には生まれたらしかった。ぶんぶんと首を左右に勢いよく振りながら、頭を抱えるような仕草を見せる弘瀬を蒲原は楽しげに眺めていた。
「……しかし、蒲原のところの会員連中は金さえ渡せば麻薬でも手に入れてきそうな勢いだな」
「大学生の間で流行るような錠剤タイプのだったら簡単に手に入りますよ、必要がないんで仕入れないですけどね」
「……」
 弘瀬は気分を、引いては場を盛り上げるために冗談をいったつもりだったらしく、まさか若山から「出来ますよ」と答えが返るとは心にも思っていなかった様だった。確かな沈黙を持って、弘瀬は「二の句が継げない」と、非難と警戒の目を若山へと向ける。
 若山は若山で「しまった」と言わないばかりに、カラカラと作り笑いを見せて、あわよくば「お茶を濁してしまえ」という意図がそこには見え隠れする。しかし、弘瀬の沈黙は続き、やむを得ずという形を持って若山は弁明をする。
「そんな目で見るのは勘弁してくださいよ、使いませんって、やってませんてば。……まぁ、例えば、ブードゥー教とかでは儀式に置いて幻覚作用の強い麻薬を使ってるらしいですが、うちの活動ではそういうのはさすがにねぇ。これからもやる予定はないですし」
 様子を窺う若山の眼前にあって、弘瀬は対処に困っている様子だった。
 立場上「そうか」と納得することも出来ず、だからと言って、蒲原の手前、魔術研究会を視野に入れた追及の手を向けるわけにも行かないらしい。弘瀬はまたも葛藤に苛まれる形になる。尤も、弘瀬の立場で言うなら、端から無理を通そうとしているのだから、どこかで意を決して開き直らないことには葛藤や矛盾が生まれることは火を見るよりも明らかだった。
 言葉に詰まり、本来は言うべき言葉をどうにか飲み込もうとする弘瀬の顔などそうそう拝めるものではなかった。
「あー……、無粋な話になるわけですけど、それで、立て替えた薬代はいつ支払って貰えますかね?」
 若山が半ば強引に話題を切り替えるのを、弘瀬が良しとして甘んじたのはやはり、そのまま話が厄介なところへ及んでしまうことを嫌ったからなのだろう。ともあれ、弘瀬は半ば自棄クソ気味に「ことが全て片付いたら……」と明言する。
「今現在進行中の、厄介事に片が付いたら、生徒会予算切り崩して利子付きで支払ってやる」
 それは紛れもない問題発言だったのだが、そのやりとりを驚愕の目で見ていたのは鳥谷ただ一人だった。殊更、鳥谷は融通が利かないことで有名な弘瀬がそんなことを口走ったことが信じられないと、疑惑の目を向けていた。
 しかしながら、当の弘瀬は毒を食らわば皿までだと、ここに来て様々なものを吹っ切った感が強かった。
「いや、まぁ、利子っていうか、うん。うちの活動を今まで以上にちょっと生徒会側が黙認して貰えれば、ありがたいっすね、わはははは。ねぇ、蒲原会長?」
 同意を求めた若山に呼応して、蒲原は弘瀬に優艶ささえ滲ませる目を向ける。
「ふふ、そうね」
 それは「お願いね」とでも、柔らかな物腰をして弘瀬の耳元で囁いたようなものだった。
 ふいっと、慌てて蒲原から目を逸らす弘瀬だったが、その挙動は逆に心が揺れ動いたことを周囲に知らしめたようなものだった。立てて加えて、弘瀬は決まりが悪いと言わないばかりの態度なのだ。
「……今回の厄介事の主原因どもが何言ってくれやがる」
 蒲原と若山のやり取りに、弘瀬は溜息混じりに呟いた。溜息には呆れと疲労と僅かな怒りがたっぷりと染み込んでいて、色々なものを吹っ切った弘瀬の心労の度合いが見て取れた。それを表情に見せることはないながら、頭を抱える仕草を垣間見せて、正直、弘瀬はかなり参ってはいる様子だった。
 弘瀬らのやり取りが一段落付いたのを見計らって、恐る恐るという具合に鳥谷が様子を窺いながら質問する。
「あのさー……、それで、調理部部長のあたしは一体何をするためにここに呼ばれたのか、聞いても良いかな?」
「何、大したことじゃない」
「そうそう、ちょっと十数人分の、メッチャ美味しいカレーとか、消化の良い料理を作って貰えればいいんすよ」
 本当なら、鳥谷に詰め寄る弘瀬・若山の両者を、蒲原は腕を組んで遠目に眺めているだけのつもりだっただろう。しかしながら、的外れもいいところの若山の言葉に、蒲原は呆れ顔を隠さない。ついつい言葉が出てしまった格好だろう。
「カレーって消化が良いものなの?」
「……消化は悪いねぇ」
 どうにか相槌を打ち、話を合わせてはいるものの、引きつった苦笑いの表情は「今直ぐにでもここから逃げ出してしまいたい」と、その心中を物語っていた。さすがにここまでの話を聞いて、広瀬達が何をしたいのかを理解出来ないわけはなかった。鳥谷は鳥谷で「いよいよヤバイ話の流れになってきた」と思っていたのは間違いないだろう。
 そんな鳥谷の怯える様子など目に入っていないと言わないばかり、蒲原は弘瀬に確認を取る。
「深夜活動してる部活動の数は把握しているの?」
「もちろんだ、生徒会には申請書が来るからな。例え、天文部だとか魔術研究会だとか、ゲリラ活動しようって部活動があっても顧問は参加していないだろうからカウントする必要がない、間違いはないだろう」
 弘瀬が当然のことの様に返事をしたことで、鳥谷は「もう駄目だ」と思った。
 蒲原はクルリと鳥谷へと向き直ると要求を口にする。
「そう、なら、部活動顧問と宿直の教師、後は真面目なのか不真面目なのか判断付かない居残り教師の分を頼むわ」
 その要求には「何を頼むのか?」の主語が存在しない形だったが、それは敢えて伏せられていたといって過言ではないかも知れない。カレーじゃなければならないわけでもない。今はたまたま若山が口にした話の流れでカレーとなってはいたが、鳥谷がその人数分を拵えられるものならば、何であっても良かった。
「あは、あはははは、蒲原さんさー、正気? 立て続けに問題起こせば、今度は停学じゃ済まないかもよ」
 鳥谷の空笑いは狂気じみた話を真面目な顔して真剣に協議する蒲原と広瀬を前にして、無意識の内に漏れ出たものだった。恐怖に酷似した感情を覚えたのかも知れないし「こいつら、敵に回せない!」といった実感を得たのかも知れない。
 もちろん、何か理由があって、睡眠薬混入カレーを作ろうとしていることは鳥谷にも容易に推測出来ることだった。しかし、それでもなお、それを実際に実行しようという蒲原達の狂いっ振りが浮かび上がった格好だった。
「緊急事態なの。停学どうこう言っていられない状態ね」
「見ての通りだ。生徒会も片棒を担いで動いているわけだから、どれぐらいの緊急事態か判るだろう?」
 腰に手を当てて「緊急事態」を告げる蒲原の表情の、どこをどう取っても冗談を言っている雰囲気はなかった。立てて加えて「見ての通り」と両手を広げ、生徒会の介入を告げる広瀬には断ることを許さない確かな威圧感がある。
「断るに断れない。まして、犯行計画を聞かされてしまっている以上、断ったら何をされるか解らない」
 鳥谷は心底、この二人を前にしてそう実感した。
 蒲原によって鳥谷の座る椅子の真横にある机へと、そっと小瓶が置かれる。響いた音は「コトッ」といった具合の微小なものだったが、鳥谷の耳に届いたそれは重圧を伴った耳障りなものであった。
 小さく首を傾げて見せて「さぁ」と、その手に小瓶を握り取ることを促す蒲原を前に鳥谷は頭を抱える。
 広瀬ないし蒲原はあくまでも、協力を無理強いされたわけではなく、説得に応じ自らの意志で計画に参加する形を整えたいらしい。尤も、それは広瀬と蒲原、双方の意志によるものかも知れない。
 二人からの無言の圧力に耐え切れなくなって、鳥谷は渋々、机の上に置かれた小瓶を手に取った。
「カレールーの分量を間違う分には構わないが、間違っても睡眠薬の分量は間違わないでくれよ」
 弘瀬が「ポンポン」と鳥谷の肩を叩きながらいった冗談は気楽に笑える類のものではなかった。引きつった表情で手元の小瓶に目を落とす鳥谷は軽くその分量を間違う事態を想像して、カタカタと小刻みに手が震えたぐらいだった。
「若山クン、この薬の致死量ってどれくらいなの? 間違って固まりで入っちゃって、その固まりを口に入れたらコロリ何てことはないんでしょうね?」
「えーとですね、あれ、……どんくらいだったかな?」
 耳元で行われた蒲原と若山とのやり取りを聞き、もう我慢出来ないと言わないばかりに鳥谷は声を荒げる。
「そこ、不吉な発言してるんじゃないわよ!」


 電気の灯っていない薄闇に支配された杉代の教室。
 そこで緒形は軽く腹ごしらえするための食品をコンビニへと買いに出た杉代の帰りを待っていた。
「あー、あー、……聞こえますか? 聞こえますね? マイクテストです」
 各教室に備え付けのスピーカーから蒲原の声が響き渡って、緒形はふっと顔を上げた。
「え……と、三年五組の蒲原幹乃です。まだ、部活動や放課の活動で校舎に残っている生徒のみなさんに告げます、……今から出来るだけ早く活動を止め帰宅してください。これから起こり得る確かな可能性を持った不測の事態が、みなさんに何らかの影響を及ぼしても、わたしは責任を負いかねます」
 スピーカーから聞こえる蒲原の警告は端から聞いている分には手前勝手で無責任なものに聞こえる。
 尤も、前持ってそれを通達できるような内容ではないから仕方ない。
「今から十五分、……いや、二十分の時間を置きます。その間に、帰宅準備を整えて、校舎の中に残るようなことがないようにしてください。繰り返します、わたしは今から起こり得る確かな可能性を持った不測の事態に対して、責任を負いかねます」
「生徒会役員の弘瀬宏一だ。今さっき、蒲原からの連絡放送があったように、後二十分の間に、完全に帰宅するようにして貰いたい。今回の連絡に反し校舎に残っていた生徒に対して、例え何らかの弊害が発生したとしても、同じように生徒会は責任を負いかねる」
 蒲原からの警告だけでは説得力に欠けると踏んだのか、続いて弘瀬が警告を告げた。
 後二十分と弘瀬が言った様に、穴を開く約束の時間は刻一刻と迫ってきていた。
 一つだけ、どうしても確かて置くべきことがあって、緒形は杉代が戻ってくるまでに行動を起こすつもりだった。寧ろ、杉代が自分の元を離れる時を緒形は今か今かと待っていた格好である。
「寄生した宿主を食することは叶わないけど、他の人間の意識を食することは出来るのかな?」
 緒形は薄暗い教室の机に指を走らせながら、そんな自問自答を口にしていた。確かな答えなど返るはずがないと判りながら、緒形が蓄積した過去の記憶に尋ねていたのかも知れない。ともあれ、薄闇へと目を向ける緒形がそこに存在しないものへと目を向けていたことは確かだっただろう。
 そんな中、唐突にガラッと扉の開く音が鳴って、続けざまに叫び声が響き渡る。
「うわッ! あんた、誰?」
 緒形の存在にビックリしたのだろう。
 明かりが灯っていないから、教室には誰もいないと思っていたらしい。
 緒形に名乗る間を与えず、教室へと入ってきたジャージ姿の女子生徒は緒形に親切心から忠告をする。
「人のクラスで何やってる……って、まぁ、そんなことはどうでも良いんだけど、放送聞いたでしょ? 早く帰んなさいよ。下級生は知らないかも知れないけど弘瀬ってのは融通が利かないんで有名なんだから、残ってるの見つかっちゃうと、後々、ねちねち言われることになるよ」
 学年を示すものは何もなかったが「人のクラス」といったことから、緒形から見た上級生に当たることはすぐに推察出来た。ジャージに刺繍されたローマ字から、その女子生徒の名前が「ミサワ」であることを緒形は理解する。
「いえ、わたしはここで杉代先輩を待っていまして」
「杉代? あぁ、あのサボり魔の後輩なんだ、あんた? なら、人を待ってるなら待ってるで電気ぐらい付けなさいよね、心臓に悪いじゃない。まぁ、でも、生徒会もいきなり意味不明な放送掛けて帰宅しろなんて横暴だとは思うけど、杉代に連絡取れるようなら取って帰宅した方が良いと思うよ」
 緒形は見沢を「ちょうど良い実験台」だと考えた。
 ジャージを脱いで制服に着替えるその無防備な背中へと近付き、そして緒形は見沢の肩へと手を伸ばす。
 それは一瞬の出来事。
 ゴトッと鈍い音を響かせて、見沢はリノリウムの床の上へと横たわった。
 知性の光を失い濁った瞳は宙をさまよい焦点を持ってはいない。ゆっくりと瞼が閉じられて、見沢はまるで眠りにつくかのように動かなくなった。
「この見沢っていう生徒の、見沢たる人格を食い尽くしてみたけど、見沢の記憶は一つも手に入らなかったよ。人格を食い荒らしても、その人格と関連する記憶は手に入らないみたいだね。……人間っていう生き物は本当に複雑な構造をしているんだね、緒形さん」
 緒形は自分自身の利き腕に視線を落としつつ、自らの内にいる本物の緒形奈美に向けてそう言った。不服そうな表情は思い通りにことが運ばないことに対する苛立ちから来たものだろうか。
「これが、実質上の、手詰まりって奴なのかな」
 緒形はリノタイルの床に転がる見沢を横目に捉えた後、廊下で杉代を迎えるために教室を後にした。


 緒形が杉代を引き連れて、備品倉庫へとちょうど入室した時のこと。
「えー……、聞こえてますか? 天文部副部長の秋前です、はい、こんばんわー」
 ザザァと耳障りなノイズの音が乗った後、備品倉庫に備え付けのスピーカーから秋前の声が響き渡った。沈痛な感じの切り出しから一転、深夜の陽気なラジオのパーソナリティーのテンションに切り替わる辺りが秋前らしかっただろう。
「もしも、まだ、校舎の中に残っている不届きな輩が居る場合は至急、帰宅してください。代栂中央高校きっての問題児、蒲原がまた何かやらかそうとしているので帰宅した方が身のためです。この放送に背いて帰宅しない場合は全て自己責任となり、仮に頭痛、目眩、吐き気などが長時間に渡って続くような症状が高校に居残ったことで現れた場合も、泣き寝入りしなきゃらないことになります」
 校舎内にほとんど生徒が残っていないと推測される状況ではあったものの、スピーカーという媒体を通して響き渡った、ある種、蒲原への罵詈雑言と受け取れる言葉に、弘瀬は開いた口が塞がらない様子だった。
 尤も、当の蒲原は「クスクス」と楽しそうに笑うだけで、意に介した様子はない。内心、煮えくり返っているかと、心の奥底を見透かそうとしても、蒲原からは怒りの欠片を見付けることも出来なかった。
「なお、弘瀬から予め連絡があった面子は規定の場所に集合して下さい、……もちろん、当人達は判っていると思うんで、名前は挙げないけど、間違っても勝手な行動しないように! 以上!」
 内心「どうして自分が駆り出されるのか?」などなど、納得の行かない鬱憤を放送にぶちまけるかの様に、秋前は最後に声を荒げた。「キイイィィィーン」と耳障りな音を響かせた後「プツンッ」と音が途切れたわけだったが、組原が止めに入った様子がまざまざと浮かび上がって、備品倉庫の中では失笑まで起きていた。
 そんな具合に、備品倉庫には砕けた雰囲気が漂っていたのだが、それも緒形の一言によって瞬時に切り裂かれる。
「佐々木クンの対策はどうなってるの?」
 緒形の疑問に、弘瀬、そして蒲原の両者は自信を持って答える。「胸を張って」と言っても構わないだろうか。
「万全だ」
「今頃、可愛い彼女と代栂か櫨馬の夜を堪能している頃じゃない?」
 意味深な二人の得意顔に、怪訝な表情を返す緒形の様子を蒲原は見逃さない。
「……?」
「確認してみる?」
 間髪入れずに、蒲原は緒形に対して「心配はないけど、それでも不安なら……」と尋ねた。
 緒形はすぐに首を縦に振るようなことはなかったが否定もせず、結果、それは確認することを選んだに等しかった。
「弘瀬クン」
 蒲原から名前を呼ばれると、弘瀬は周囲に静かにするよう態度で告げた後、佐々木へとコールする。ワンタッチでコールが掛かるように設定してあるらしく、それは非情に手慣れた動作だった。いかに、弘瀬から佐々木へと呼び出しが掛かる回数が多いのかを感じずにはいられなかったものもいるかも知れない。
「佐々木か? ……どうだ、楽しんでるか? 労いの意味を兼ねて俺がセッティングしてやったデートだ、存分に楽しんでくれよ。ああ、そうだ、ちょっと、お前が楽しんでるのを信じられない連中がいてな、本村の携帯に付属したカメラで時間と場所が判るものを背景に、いちゃついてる様子を一枚転送してくれ」
 佐々木が電話に出るが早いか、弘瀬はパッと聞いた感じ「勘弁して下さいよ」と言われかねない要求を平然と突き付けた。まして、理由をその「信じられない連中に見せ付けるから」と弘瀬は言っているのだ。
「馬鹿、俺がセッティングしてやったんだ。……それぐらいは構わないだろ?」
 予想に反さず、佐々木からは「勘弁して下さい」といった旨の言葉が返ったのだろうが、弘瀬はデートを取り持ったのが自分であることを盾に、再度、その要求を突き付けた。
 若干の間を置き、弘瀬の携帯からは「ジャーン」とメールの着信音が響き渡った。
「代栂元町にある……と、名前を行っても判らないか? 複合アミューズメント施設の大時計前にいるらしいな。時間が時間なんだから、もう少し、気の利いた場所に連れて行ってやればいいものをな」
 弘瀬が緒形に携帯を放ると、そこに杉代、若山が転送された画像を見ようと集まる。
 画像は佐々木と代栂中央高校三年の女子生徒が仲睦まじげに映っていて、弘瀬のいう様に背景にはゲームキャラクターの描かれた大時計が映っていた。佐々木の首には女子生徒の腕が回されていて、二人の時間を楽しんでいるのだろう笑顔が印象的だった。尤も、佐々木の側はどこかぎこちない笑いで、まだ、緊張が残っている感じではある。
「さてと、予定開始時刻になったわけだけど、天文部の面子の仕事は捗っているのかな? 一応、校内の見回りをして人払いをして貰っているわけだけど……」
「備品倉庫に闖入者がなければ問題ないだろう。……準備は万端だ、始めよう」
 弘瀬が合図をすると、蒲原が無言で頷き、若山が蝋燭に炎を灯していって、儀式は始まった。
 蒲原、弘瀬とが目配せをする様はまるで打ち合わせてあったかのようでもあった。
 尤も、それに気付いたものはいないだろう。
 電気が消され、人数の相違、儀式を彩る小物の総数などなど些細な違いはあるものの、備品倉庫はあの時の、穴の開いた時と同じ装いになった。蒲原がすぅと息を飲むと、備品倉庫は呪文が唱えられるのを今か今かと待つ風潮になる。
「シグザクトアクトフェリエス、サグセクトヘリムメギナス、テハト、ラクセタナス、イオテトロ……」
 ちょうど、弘瀬からの制止の言葉が響き渡ったのは蒲原がブツブツと呪文を唱え始めた時のことである。
「蒲原、止めてくれ」
 弘瀬の要求を受けて、蒲原が呪文の詠唱を止めると、弘瀬は一気に注目を集める。
 弘瀬を訝る目、何か問題が発生したことを不安に思う目に、儀式を中断させたことを問い質す目、それは様々だ。
「……どう呼んだら良いのか見当付かないんだが、なぁ、緒形の中の寄生種さんよ。お前は本当に、緒形奈美を解放することが出来るのか? お前の説明だと緒形は眠っているらしいじゃないか、少しで良いんだ、話をさせてくれないか?」
 切り出し難そうに、ポリポリと後頭部を掻いた後、弘瀬はすぅっと息を飲み、その吐き出す勢いに任せて口を切った。そうやって、口を開いて「緒形の中の寄生種」と言ってしまえば、弘瀬の後の話は大袈裟な内容ではなかった。
 ここに来て、儀式の再開を盾に取り「緒形を本当に解放出来るのか照明してくれ」と言ったに過ぎない。
「精神感応というのが適当かは判らない、でも、お前はそう言う世界を他人と共有することが出来るんだろう? その世界で緒形を少し目覚めさせてみてくれないか? お前の監視の元で構わない、……なぁ、見せてくれないか? ……なぁ、呼び掛けさせてくれないか? 本当に、お前の中に緒形奈美が残っているんだって、信じさせてくれないか?」
 弘瀬の要求を聞き終えて、数十秒の時間を経てなお、緒形は返事をしなかった。
 そう要求を突き付けた弘瀬を冷たい印象を覚える無表情で見返すだけで、まるで固まってしまったかの様だった。
「……弘瀬クンが何かやらかすといけないから、わたしも帯同するわ。杉代クンも必要なら連れて行けばいいし、そこは緒形サンの判断に任せるけど、弘瀬クンは緒形サンを信用出来ていないみたいだから良い証明になるんじゃない?」
 蒲原が弘瀬の提案を褒めると、緒形の無表情はその度合いをより一層酷いものにした。
 蒲原、弘瀬、杉代、そして蒲原の補助を務める若山に、備品倉庫の扉に背中を預けて無関係な第三者の闖入を防止する幹門までが緒形の一挙手一投足を注視する、そんな状況が生まれた。緒形が「はい」とも「いいえ」とも口にしないから、備品倉庫は静寂に包まれる。赤い蝋燭の炎の揺れる備品倉庫にあって、俄に緊張感が幅を利かせ始めていた。
 緒形は魔法陣の中心に位置する蒲原を無表情で眺めるだけだった。その静寂を打開出来るのは自分だけだと判りながら、緒形はどう切り出すのが上分別なのかを迷っていたのかも知れない。
 弘瀬の提案を断れば、恐らく、この儀式は取り止めになるだろう。儀式の執り行うことの出来る唯一の人物である蒲原がその弘瀬の提案に賛同しているのだからだ。
 しかし、だからと言って、緒形は安易に「はい」と答えるわけにはいかない。
 緒形自身、身体の主である緒形奈美を目覚めさせることが可能かどうかが判らなかったということもあるだろう。さらに言うなら、それよりも何よりも緒形は恐ろしかったのだろう。
 本来の身体の主を目覚めさせた場合、自分が緒形奈美の身体に対して持っている主導権がどうなるのか。そして、本来の身体の主へ主導権が移ってしまった場合、自分がどうなってしまうのか。再び、身体の制御権を奪い取ることが出来るのか。弘瀬の要求を聞き入れることを想定すると、様々な脅威がいくつもいくつも湧いて出たのだろう。
 沈黙、それはこの事態を決して打開するものではない。
 では、どうするべきか?
 一か八か。
 追い詰められた緒形は腹を括るしかなかった。
「幹門クン!」
 全く唐突に腕を掲げ挙げて緒形が指示を下すと、幹門は打てば響く反応を見せる。
 一応、儀式では火を扱うだけに備品倉庫の物陰にバケツが複数個、置かれている。ぼや騒ぎなど起こした日には洒落じゃ済まないことが判っているからなのだが、そのバケツのいくつかには水以外の液体が入っていたらしい。
 幹門は縁に油性ペンで印の付けられたバケツの一つを手に取ると、それを備品倉庫の床へとぶちまけた。無臭ながら、それは薄緑色をした何かの水溶液だろうか。
 蒲原が魔法陣を描いた上から、コンクリートの床には透明の特殊な塗装剤がまかれていたらしい。そして、今回、幹門がぶちまけた液体によってコンクリートの床は黒く変色してしまって、蒲原の描いた魔法陣も完全に見えなくなってしまった形だった。
 しかしながら、蒲原を驚かせたものはその黒く変色した上に赤褐色で新たな魔法陣が浮かび上がったことだった。立てて加えて、それは備品倉庫に穴を作った時の魔法陣である。ご丁寧にも、あの時と寸分違わぬ記号が魔法陣のあちらこちらに鏤められていて、それは新たな穴を作るに足るものにさえ思えた。
 事実、一瞬ではあったものの、ぐにゃりと備品倉庫内の景色が歪んだのを蒲原と杉代は感じていた。
 バケツを放り投げると幹門はそのまま弘瀬に襲い掛かった。緒形がさらに命令を下したのだろう。胸倉を掴みかかって、そのまま弘瀬を巻き込み横転し、幹門は弘瀬の首を絞めようとする。弘瀬が抵抗をするから、弘瀬の首に幹門の両手が掛かることはないが、弘瀬はマウントポジションを取った幹門の攻撃から抜けるに抜けられない状況だ。
「何か様子がおかしいな……とは思ってたわけだけど、幹門は緒形に何かやられちまってるわけですか!」
 それを思っていたのは若山だけではなかった。いつもと違う様子を感じてはいたのは蒲原を含め、幹門と関わりわ持つ人間の大半を占めたものの、緒形が人を操る能力を持っているなど、誰も予測出来なかったのだ。
「杉代! 緒形を止めろ!」
 怒声にも似た弘瀬の要求が備品倉庫に響き渡るものの、杉代は二の足を踏んで行動を躊躇う。苦虫を噛み潰した表情は葛藤に揺れ動いているからだろうか。動くに動けない、そんな杉代に対して緒形は感謝の意を示す笑顔を見せる。
「下がれよ、緒形。会長には指一本触れさせられないぜ」
「指一本触れる必要もないよ」
 すっと蒲原を守る形で前へと出る若山に、緒形はクスクスと微笑みながら告げた。
 すぐに蒲原は「まずい」と直感した。一気に緒形との距離が近付いた感覚を覚えていた。それはそうだろう。相手の視覚を通して、緒形は相手の中に進入することが出来るのだ。
 蒲原もすぐにそのことに気付いたわけだった。しかし、その対処は間に合わない。
 それは中に入ってきてどうのこうのではなかったのだ。ただ一言、簡潔に命令を下されたに過ぎない。
 それは「穴を開け」という内容だ。
「……ああ、そんなことで良いのか」
 蒲原はしたり顔で、そんな具合にほくそ笑んだ。
 緒形に命じられがままにブツブツと呟いてゆくと、備品倉庫内の雰囲気はある一時を境に一転した。
 蒲原の眼前に小さな黒い点が生まれ、緒形はマジマジとそれを注視する。数秒と立たないうちに黒い点は膨大なスピードを持って拡大し、緒形の中の寄生種がこちらへとやってきたあの日のものよりも巨大なもの肥大した。「バチッ」と音を立てて、黒い漆黒の穴の周囲で青白い火花が飛ぶ様になると、緒形の目には既にそれしか映っていないのだろう。


「よし、転送完了!」
 代栂元町、複合アミューズメント施設前の大時計で画像を転送し終えると、本村は一仕事やり終えた顔をした。人通りのある往来で大きな声を出したものの、僅かに注目を集めただけで、特に非難の目を向けるものもいない。もっと喧しい人種が道端に座り込んで携帯片手に騒いでいるというのもあるし、複合アミューズメント施設に入って直ぐの場所にある人気格闘ゲームの対戦台で、時折、その手の叫び声が挙がることが多々あるからとも言えた。
 首に腕を回す格好ではしゃぐ本村の対処に、殊更、佐々木は困惑した面持ちだったが、内心では満更でもないのかも知れない。本村に対して、佐々木は強い口調を向けられない。結局、本村の呼び方も「初納さん」に落ち着いた形である。
「もうそろそろ、……その、離れて下さいよ、初納さん。必要な画像は撮ったわけだし……」
「あは、照れちゃって可愛いな! でも、生徒会がどうだとかネゴシエーターがどうだとか、そう言うことばかりじゃなくて、こういうことにも慣れて置かないと後々大変だぞ、佐々木クン」
 ツンツンと頬を突っつかれて、佐々木はさらに困惑の体を極めた。悪戯っ子のようなにこやかな表情もそうだ、佐々木が対処に困るのを判って、本村はやっているかの様だった。
「尤もだ、ご指導願ってみたらどうだ、祐太? 脈もあるぞ、気に入られている」
「うるさいって! 今はそういうこと……」
 全く唐突にオフサルモから口を挟まれて、思わず佐々木は声を荒げて反論してしまった格好だった。
 しかしながら、オフサルモの話を聞けるものは佐々木以外にはおらず、当然、その言葉の矛先は本村へと向いたものと受け取られることになる。
「あ! いや、その、初納さん、今のは……」
 しどろもどろになる佐々木の対応だったが、本村が気分を害した風はなかった。
 寧ろ、それは好意的に受け取られたのかも知れない。本村は「悪ノリした」と神妙な顔付きで言う。
「ふふ、そうだよね、そういう話は後でも出来るよね。今はやらなきゃならないことがある!」
 しかしながら、首に腕を回された格好のまま、ぎゅっと背後から抱きしめられて、佐々木は顔を真っ赤にした。そこには本村の謝罪の意志があったのだから、変な気持ちになるのは失礼に当たるわけである。けれども、佐々木は背中に二つの豊満な胸の感触を、そして鼻を突く甘い香りに、沸き上がるおかしな気持ちを堪えるのがやっとだった。
 ふっと気付くと本村は首に回した腕を解いていて、佐々木は「パンッ」と勢い良く肩を叩かれる。
「よし、急ごうか」
 複合アミューズメント施設に入って直ぐのUFOキャッチャーの並ぶ小ホールを抜けて、佐々木と女子生徒はエレベーターへと乗り込む。時間帯が時間帯なこともあって、一階と二階のゲームコーナー以外はあまり人がいない様で、一階に到着したエレベーターから下りてきた人の数は少数だった。三階、四階とカラオケ点が入居していて、五階から六階が小型のシアターが入居している。
 佐々木達の目的階はそのシアターが入居している六階層だった。
 但し、エレベーターの側壁に張られた複合アミューズメント施設の見取り図には六階層が改装中であることを説明する張り紙がなされている。それを踏まえた上で、佐々木達の目的層はその改装中の六階層だった。
 エレベーターが到着し、その扉が開くと、他の階層とは明らかに雰囲気の異なる六階層の静けさが真っ先に際立つ形だ。看板が置かれていて「矢印の方向にお進み下さい」と、階段へ誘導されるその六階フロアは人気なくがらんとしていた。壁や天井、床を含めて全て塗装を塗り直すなりするのだろう。通行の邪魔になるようなものは何もなく、侵入の妨げになるものもロープぐらいしかない。
 その関係者以外立入禁止の札が掛かったロープを跨いで、改装中の室内へと足を運んでいくと、通路の端に清掃機材などが置かれているのが目に付いた。当然、人気はなく、佐々木は六階フロアの、元々は小規模シアターの存在していた小ホールへと入室する。シアター独特の席を離れると、パタンと元に戻るタイプの椅子は全て撤去されていて、そこには既にシアターであった面影はなかった。
 けれども、そこには佐々木が必要とするものが存在している。尤も、それがそこに存在しているということは事態が好ましくない方向へと転んだことを意味していたから、佐々木の表情は複雑だった。
 シアターの中心、今まさに、そこには漆黒の穴が開くところだった。
 薄闇の中にあって、その輪郭をはっきりと確認出るほど、穴は完全な黒だった。
「考え悩んでも仕方がないし、なるようになるしかない」
 佐々木はそう開き直ったのか、緊張はしていない様だった。
 本村がスイッチを見付けて電気を灯したのだろう。足下を照らすタイプの照明が灯り、がらんとしたシアター跡は幻想的な雰囲気を灯す。尤も、天井に設置されたライトは配線の関係からか、電気が通っていないらしく、一向に明かりを灯す気配はない。結果、足下を照らす照明は黒い穴へと続く佐々木の歩むべき道を示し出したかの様だった。
 同時に、それは中央に浮かぶ漆黒の穴をより一層強調したわけだったが、それでも、時間の狂いが生じた備品倉庫を漂う雰囲気よりは随分マシだった。シアター跡を漂う雰囲気はまだまだ、もの恐ろしさを感じるような酷いものではない。
「それじゃあ、ちょっと後片付けに行ってきます、初納さん。今日は、その、有難うございました、楽しかったです」
「佐々木クン、その、……宜しく頼むね」
 本村がどこまで事情を知っているのかは判らないし、緒形や弘瀬との関係についても佐々木は知らなかった。しかし、本村のその心配は見ている佐々木が悲痛な気持ちになるほど強いものだった。真剣な顔付きで言われた本村の頼みに、佐々木は無言で頷いた。
「まぁ、今度はこういうの抜きでお姉さんに付き合ってよ、佐々木クン。さっき怒鳴られて、ちょっと気分を害しちゃったから、今度は佐々木クンがエスコートしてあたしを楽しませてよ」
 穴へと足を向ける佐々木に次のデートの約束を取り付けると、本村はもう一度、佐々木の肩を「パンッ」と叩いて送り出した。
 トントンと軽い足取りでシアター跡の床に設けられた段差を下ってしまうと、佐々木は一度躊躇いがちに足を止めた。
「オフサルモ、出来れば、緒形を助けてやってくれな」
 オフサルモに返事をする間も与えず、そう一方的に切り出すと佐々木は穴へと足を踏み入れる。


 黒い穴の中心からうっすらと光が漏れる様になると、その光が漏れる穴の中の穴は一気に拡大し、人一人が通れる大きさになる。次の瞬間、穴の向こう側の世界、複合アミューズメント施設のシアター跡が確認出来るようになり、そこから佐々木が姿を表した。
「頓狂な顔してどうした、緒形さんよ? 主役は送れてやってくるって奴だよ!」
 得意満面の佐々木とは対照的な、緒形の当惑は見物だった。
 尤も、幹門の腕を振り払いながら弘瀬は「どうにか上手く行った」と安堵の息を吐いていて、蒲原にしても内心では「本当に成功するかどうか?」と、ドキドキだった格好だ。
「……何をしたの?」
 眼前の佐々木に注意を向けながらではあったものの、緒形は強い口調で蒲原を問い質した。
 蒲原は緒形に「始めから仕組まれていたことだった」と、平然な顔で答える。
「どうして、先生方をわざわざ眠らせたと思う? 秋前や組原クン達は本当に、校内を見回って人払いをしていただけだと思う? ふふ、備品倉庫に、佐々木クンを呼び出す穴を開けるための模様を校舎のあちらこちらに描いて貰ったていたの。誰かに発見されて手を加えられるわけにはいかなかったから人払いをしたわ、そして、人払い出来ない相手にも眠って貰ったわ。わたしが唱えていたものも、佐々木クンを呼び出すためのもの」
 得意顔で蒲原から疑問を向けられる度に、緒形の渋面はその度合いを増していた。
 しかし、その緒形を前に蒲原が増長することはない。得意顔が影を潜めてしまえば、蒲原は沈痛な面持ちで申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にする。
「ごめんなさい、今回のことに関して言うなら、全面的に非があるのはわたしの方だわ」
「そう言って謝りながら、蒲原さんはわたしを消すつもりなのね」
 間髪入れず、そこには緒形から蒲原への非難が向いた。
 謝罪の意志に嘘偽りないだろう。しかし、寄生種を緒形の中から排除する考えを蒲原が翻すかどうかは別問題だった。
「ふふ、自力で穴を開けた後、気を失ってしまうのも今回ばかりは好都合ね。ここにはわたし以外に、穴を開けることの出来る人間がいないから、あの日と相違ない魔法陣がここに存在していても穴は開けられないものね」
 したり顔で微笑みつつも、既に蒲原は意識を保っているのが辛い様子で、微少な幅ではあったがふらふら揺れていた。それでも「これだけは言って置かなきゃならない」と思ったのか、蒲原は佐々木に対する感謝と謝罪を口にする。
「佐々木クン、後は任せるわ。ごめんなさいね、嫌な役を押し付けてしまっ……て」
 言葉は途中で途切れてしまったものの、そこまで意識を保っていたのはさすがだと言えただろうか。
 ドタッと片膝を付く蒲原を若山が咄嗟の反応で支えたものの、蒲原はそのまま意識を失った。
 蒲原のいった「嫌な役」との意味が理解出来ないものなど、そこにはいなかっただろう。
 佐々木と緒形以外の面々は皆、一様に緊張した面持ちでそのことの成り行きを眺めている。
 呆然と立ち尽くす緒形には抵抗の意志はない様に見えた。いや、どうこの場を切り抜けるべきかを必死に思索しているのかも知れない。何が活路に成り得るのかをしっかり見定めなければ、この敵対種からは逃れられないと実感していた。
 ちらりと杉代を見やる緒形の視線に、杉代も気付いてはいた様だった。しかしながら、佐々木と緒形との間に割って入るつもりはない様だった。敵対種から緒形を守る約束を口にした杉代ではあるものの、社員寮跡での時の様に佐々木に噛み付く意志はないらしい。
 それは弘瀬の呼び掛けに応じなかった姿にも似ていた。
 当然、緒形は眉間に皺を寄せる強い嫌悪の感情を露わにし、約束を反故にした杉代の姿勢を非難する。
「裏切るんですか、……杉代先輩?」
 杉代は一度、申し訳なさそうに目を伏せた。
 緒形奈美ではない、緒形の中の寄生種に、杉代は確かな恩義を感じているのだろう。その恩義がなかったなら、杉代は間違いなく佐々木や蒲原同様、緒形の「敵対種」となっていただろう。その恩義こそがことの一部始終を杉代に束手させていた要因だった。
 改めて、緒形を見返す杉代の目には確かな決意の色が灯る。
「裏切る……か、それは違うぜ。そいつはお前の敵対種じゃねぇよ、……緒形奈美、お前を助ける存在だ」
 葛藤に苛まれながら、結局、今の今まで一部始終を注視していた杉代からも協力出来ないことを明言されて、緒形は観念した様子だった。まして、杉代は緒形の中の寄生種に語りかける形を持って、緒形奈美へと言葉を向けたわけだった。
 緒形が「パチンッ」と指を鳴らすと、弘瀬を襲っていた幹門も動きを止め、場は沈黙に包まれた。
 弘瀬が電池が切れた人形の様に動かなくなった幹門を払い除け、立ち上がると、緒形はぐるりと顔を揃える面子を睨み見た後、ゆっくりと口を切る。
「……多分、こんな結末が訪れると思った。わたしが蒲原さんを食い散らかして、その記憶を奪えないと判った瞬間から、ずっと、こういう展開になると思った。わたしを消す、……あなた達のその判断は、多分、正しい。向こうの世界に拘るつもりは最初からなかった。寧ろ、あなた達、人間に寄生しなければ、こちらの世界で存在していられないのだとしても、これはわたし達の種族に取っての一つの大きな可能性になるとさえ考えた」
 再度、穴を開いて緒形は「こちらの世界に仲間を呼び寄せたかった」ことを述べた。
「帰る帰らない云々に拘わらず「お前の存在は認められない」って、こいつは言ってたんだけど、俺の自由にやらせてくれるって言い出したから蒲原の話に乗ったわけさ。結果、あんたは蒲原の予想通りに動いたわけだ、緒形に関してもそう、穴に関することもそうだ」
 佐々木は自分の右目を指して「こいつ」と言うと、一向に目を覚ます気配のない蒲原を感心した顔で見た。
 複合アミューズメント施設との穴を開く方法を提案したのはオフサルモだったが、緒形の中の寄生種が緒形奈美を端から解放するつもりが無いことを照明するに至った計画は全て、蒲原によって立案されたものだった。佐々木自身もその詳細な内容を聞かされてはいなかったが、ここに来て、緒形の中の寄生種を佐々木が力尽くで排除しようというのを非難するものは誰もいない。余程、上手くやっただろうことは佐々木の目にも容易に推察出来る状態だ。
 四面楚歌。緒形に救いの手を差し伸べるものはない。
「こういう時、人間ならどうすると思う?」
 佐々木の質問に、蒲原は瞬時に敵意を剥き出しにして答える。
「猫を噛まない窮鼠なんかいない、……そうでしょう!」
 物理的な攻撃で、佐々木に対する勝ち目がないと緒形は踏んだらしく最後の足掻きは精神感応に頼るものだった。しかしながら、緒形の瞳が佐々木を注視したその瞬間、決着は付いた。
 緒形の目に映った佐々木の姿。それはオフサルモの寄生に大きく影響を受けたものだった。
 佐々木の頭部にはびっしりと根が這っていた。ありとあらゆる事象を捉えるアンテナ、外部の変化を敏感に読み取ることの出来る感覚神経、そんな言い方が正しいかも知れない。そして、緒形が捉えた佐々木の右目は「目」と呼べる構造などしていなかった。佐々木の眼球部位は言うなれば、それこそ、まさに様々な攻撃を繰り出す武器である。様々な攻撃を繰り出す攻撃器官である。
 そこから発せられた一撃で緒形は半身ごと真っ二つにされたわけだった。
 尤も、それは意識の上での話である。但し、寄生であっても融合であっても関係など無かった。それは力任せに引きちぎったようなものだったのだからだ。防御も攻撃もない、それはまさに一瞬だった。緒形の中の寄生種はその一撃で、緒形奈美から引き離された。
「これがこっちの世界の敵対種、か」
 手も足も出ない相手に感服したと言わないばかり、緒形は自嘲気味に笑った。
 敵対種たる佐々木の姿を最後にその目に焼き付けようとでも思ったのだろうが、緒形の瞳は既に焦点を持ってはいない。そればかりか、その一撃で方向感覚、平衡感覚も完全に破壊されてしまっていたのだろう。二度、ふらふらと蹌踉めいた後、緒形は片膝を付く。
「あなた達は自分を「人間」という大きな一つの枠で括るけど、そんな制限、取り払ってしまえるんじゃないかな? ふふ、だって、わたしから見たあなた達はそれぞれ「全く異なる種族」に属する生物のようにしか見えないよ。あなた達が日常と呼ぶ、この空間で生活する姿を正常時のものだと言うのなら、わたしの目が捉えるあなた達はみな奇形だよ。どこも似通った所なんてない、本当に同じ生物かどうかさえ皆目見当も付かない」
 カラカラと笑いながら、人間をそう評した緒形は予言する。
 平凡だとか日常だとか、そういうものを閉塞感と感じる奇形がいる以上、また、穴が開く旨を、……である。
「融合し分裂し、新たな生命体に生まれ変わることをしなかったけれど、わたしはあなた達へとバトンを渡すという形で、ここにわたしの意志を残せたはず。そうだよね、杉代先輩? そうだよね、緒形さん? ここを狭いと感じるからには「どうにかして閉塞感を打開しよう」と足掻くでしょう。そして、こことは違う別の次元、……少なくともわたしが存在した世界があると知ったからにはあなた達の目は他の世界へと向くでしょう」
 神妙な面持ちで緒形を注視する杉代に、意識を失っていて備品倉庫の床へと丁寧に寝かされた蒲原。緒形が問い掛けた二人は答えを返さない。沈黙は肯定なのか、それとも否定なのか。当人以外にそれを知るものはない。
 けれども、緒形は満足そうに笑う。緒形は確信を持って再開を信じていたらしい。
「また、会いましょうね。……わたしがわたしという個へと分裂した時の、わたしの片割れがあなた達と遭遇する可能性を信じて」
 再び穴を開くものが蒲原とも杉代とも明言はしなかった。
 それを実行するのは力に覚醒をした蒲原と杉代を偶然目撃し、そして、二人に偶然目を惹かれただけの第三者で良かった。この世界の閉塞感を打開したいと思った顔も見知らぬ第三者で良かった。そう、穴さえ開いてしまえば、再開出来る可能性が確かに残ることを緒形の中の寄生種は言ったのだ。
 ふっと体勢を崩してしまうと、緒形はそのまま「ドタッ」と鈍い音を立て備品倉庫の床へと突っ伏した。




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