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Seen07 Gatekeeperの策動


「停学中のお前から「備品倉庫に来て欲しい」だなんて連絡を受けるとは思わなかったよ、蒲原? 俺は幻覚でも見てるのかな、……随分と珍しい組み合わせだ、ホント、信じられん」
 二限目の授業の始業を告げるチャイムが鳴り終わって、ちょうど良い開始の合図だと弘瀬は切り出した。
 冷静を装う弘瀬の表情の奥に、動揺が隠されていることを敏感に察することが出来て、蒲原はクスクスと笑った。それが弘瀬の機嫌を悪くするかも知れないと判っていながら、蒲原は口元を隠すように、力を入れず軽く握った拳を置き微笑み続けた。泰然自若が板に付いていた頃の蒲原の雰囲気とは明らかに一線を画す仕草を前にして、弘瀬は眉間に皺を寄せる。
「おっす、弘瀬クンよ」
「始めまして、弘瀬先輩」
 弘瀬は弘瀬でそんな蒲原のいつもとは違う態度にばかり注意を向けてはいられない。言うなら余裕のない状態だった。
 蒲原に加えて、そこには緒形と杉代という繋がりの見えない面々が居るのだからだ。
「杉代、……それに緒形、か」
 弘瀬は二人の顔を忙しなく見比べると、表情に警戒の色を灯した。
 緒形、蒲原、杉代、三者三様で異なる感情が見え隠れしたはしたが、偏にその顔には「弘瀬に対して言うべきことがある」と、そんな意思表示が存在した。そして、誰一人、穏便にことを運ばせようなんて顔をしてはいなかった。何を要求するのかは判らないながら、偏に、弘瀬が要求を呑まないのなら力尽くでもと言わないばかりだ。
「失踪中の緒形がこうして目の前にいることは喜ばしいことなんだろうが、その顔付きから察するに事件が全て解決したとわけじゃないようだな?」
 緒形は忙しなく、備品倉庫内の様子に目を配りながら、さも「そのついで……」と言わないばかりの対応をする。
「杉代クンの話と、幹門クンから佐々木クンについての話を聞いて色々と考えた上で、時間がないって思ったからね」
 時折、その先には壁しかない方向へと向けて、さもその壁を掴もうとするかの様に手を伸ばしてみたりなど、端から見ているとその行動は異常だと思えるものである。
 弘瀬にしてみれば、そんな蒲原の対応は「適当にあしらわれている」と感じてもおかしくなかった。唯一、蒲原の態度に、いい加減に扱う風がないから安易にそう判断しないだけである。尤も、気を悪くしたからといって、備品倉庫を勢いに任せて簡単に出て行けたかというと、そうはいかない。
「……うん? ああ、ごめんなさいね、気を悪くした? ちょっと気に掛かったことがあってね」
 そんな弘瀬の雰囲気に気付いたらしく、蒲原は興味津々といった顔付きで備品倉庫内へと目を向けるのを止めた。蒲原は「こほん」と小さな咳払いをして、自分の方を向く様に促すと本題に至る話を始める。
「それで弘瀬クンは若山クンから緒形サンに対する説明は受けているんでしょう?」
「ああ、……大体の事情は理解した。この目で緒形を見るまで信じられなかったが、どうやら、出鱈目を話してくれたわけじゃないらしいな。はは、何とも言えない嫌な気分だな、それも、途轍もなくだ」
 顔を顰めて「クソッタレ!」とでも吐き捨てかねない弘瀬の態度に、蒲原は苦笑いを隠さない。
「しかし、また、よくもまぁここまで跡形を残さず綺麗に片づけたわね。ここで儀式を行った痕跡なんて、目に見える形で何も残っていないじゃない?」
 蒲原は儀式の道具が綺麗に片付けられた備品倉庫をぐるりと見回すと、感心した様子で切り出した。
 それがまた弘瀬の蒲原に対する不信感を増幅させる。一連の経緯に蒲原が感心する材料は何もないのである。勝手に魔術研究会の私物を片付け、洗いざらいその痕跡を消したことに、蒲原が怒りを向ける理由はあれ感心する材料は何もない。
「あぁ、そうだな。唯一、残ってるのは時間の狂いがあることぐらいだろうな。それも数日経過すると何事もなかった様に元に戻るそうだ。……それで、一体、俺に何の用だ?」
 蒲原は「その言葉を待っていた」と言わないばかり、勢いよく弘瀬へと向き直る。「パチンッ」と指を鳴らして見せた得意顔では「判っているじゃない」とでも口にしたようなものだ。
 もちろん、当の弘瀬は困惑する。苦し紛れに佐々木の受け売りを口にしたに過ぎなかったのだからだ。
 そうやってたじろぐ弘瀬の様子を前に、蒲原は微笑を隠さなかった。
「緒形さんを元に戻すため、……即ち、緒形奈美の中の寄生種を元の世界へと送り返すため、もう一度、黒い球体を作りたい。そのために、生徒会役員である弘瀬の力を借りたいわ」
「断る!」
 蒲原からの要求が切り出されるや否や、弘瀬は顔色を変え声を荒げて拒否をした。
 ガタッと音を立てて、緒形が無言でその弘瀬の拒否に反応すると、間髪入れずに弘瀬も身構える。
 緒形と弘瀬が睨み合う構図が生まれて備品倉庫には緊張が走った。尤も、弘瀬は緒形が立てた物音に反応しただけで、その敵対の構図は本意ではなかった。だから、そのまま睨み合いが続いたなら、先に手を引いたのは弘瀬だっただろう。
 人数的に三対一という圧倒的に不利な状況下で、弘瀬には格闘技の心得があるわけでもない。体格的には杉代よりも若干ガタイが良いものの、生徒会に所属してやっていることと言えばペーパーワークが大半だ。勝ち目などない。
 しかしながら、その緒形の挙動を静止したのは杉代だった。無言のまま、腕を伸ばして緒形の行く手を遮った格好だ。
 内心では深い安堵の息を吐きながら、弘瀬はそこに漂う緊迫した雰囲気を取り払うべく口を開く。
「……まずはきちんと検証をすることが第一だと言いたいんだ。緒形奈美の中にいる人格を消す確かな方法なら協力もする。あの時と同じ状況を再現して、緒形のような感染者を増やしたらどうするつもりだ? 下手をすると緒形の中にいる寄生種を増やすことになるだけかも知れないんだぞ?」
「だからといって、このまま何もしないわけにはいかないわ! ……緒形サンの中の寄生種にはちょっとした恩義があるの。このまま放っておくと佐々木クンの手によって消されることになるかも知れないわ。それも、それは緒形奈美である意識そのものを含めた話になるかも知れない。そして、何より、……幹門クンから聞いたのよ、時間の狂いの残っている内が最も向こうの世界に穴を繋げ易いって。だったら、今しかないじゃない?」
 強い口調で同意を求める蒲原の言葉に、弘瀬は息を飲んだ。冷静に、淡々と、自身の意見を頑なに述べ、押し通そうとした過去の蒲原とは一線を画す感情的な様子を目の当たりにしたからだろう。
 もう、蒲原には物静かに我を通していた頃の印象はなかった。時折、妖艶ささえ匂わせる仕草もそうだ。
 蒲原から滲み出る自信は「蒲原が確固たる何かを得たのだ」と弘瀬に確信させるほど顕在化されたものだった。
「……確かに、佐々木がそんなことを言っていたような気がする。けどな、佐々木だってどこまで本当のことを話しているかは判らない。ただの出鱈目を……」
「佐々木クンは緒形奈美の中の寄生種に取っての、敵対種になったみたい。多分、緒形奈美みたいに何かを寄生させたんだと思うわ。杉代クンも感じたみたいだけど、佐々木クンは既に、緒形サンみたいに純粋な人間だとは言えないと思う」
 蒲原はその後に付け加えるべき言葉を躊躇い飲み込んだ。「自分や杉代も、既に純粋な人間とは言えない」といった趣旨の言葉をだ。
 しかしながら、蒲原のその言葉に思い当たる節を持つらしい弘瀬は苦渋に充ち満ちた表情を見せる。唸り声を挙げて、判断を迷う弘瀬に、蒲原、杉代、緒形と、誰も声を掛けることはなかった。
 協力をするかしないかの判断は弘瀬に任せる立場を取ったわけだ。しかしながら、正常な判断が下せるのなら、実質的に弘瀬が取るべき選択は再び黒い球体を発生させるフラグしかない。
 そうだ、下手な言葉を掛ける必要性などそこには微塵も無かった。
「……クソッ、きちんとした下調べを要求する! 少なくとも、再びこっちの世界に何かを呼び出すようなことがあっちゃならないんだ! それぐらいは思考のぶっ飛んでいるお前にも解るだろ!」
 緒形を横目に一瞥し、その様変わりした雰囲気に弘瀬は顔を顰め、蒲原へと詰め寄った。
 当の緒形がその一部始終を見ている中で、蒲原は本来ならば言い難いだろうことをはっきりと明言する。
「わたしは自惚れ屋じゃない。張る必要のない見得を張って、出来ないことを出来ると宣うつもりはない。……あの成功例はただの偶然だった。一応、儀式の形は取っているけど、あれには正しい手順があるわけではないし、まして、備品倉庫の床に描いた魔法陣には独自のアレンジを加えている」
 酷くサッパリとした物言いで、自らの力量と知識のなさを語り、全てが偶然の産物だったと述べる蒲原の様子を弘瀬はただただ呆然と眺めていた。蒲原がそんな謙虚な態度に終始徹することが信じられなかったのかも知れない。そこにはいつも弘瀬が見てきた、頑なに我を通そうとする蒲原の顔など微塵も窺えなかった。
「正直な話をすると、異変が完全に沈静化してしまったら、緒形さんの中に寄生する存在を「どうしたら向こうの世界に帰すことが出来るのか?」なんて、わたしには皆目見当も付かない。でも、今の段階ならまだ、もう一度あの穴を開くことが出来れば、緒形サンの中の寄生種を向こうの世界へと帰すことが出来る可能性が高いの」
 蒲原が続けた話の内容に、緒形はどんな思いを抱いたのだろう。
 総括して、それらは緒形の中の寄生種を向こうの世界へと帰す確固たる方法はないと言ったに等しい。
 緒形は冷めた目をして意図的に表情を消している様にも見えた。けれど、蒲原を捕捉する澄んだ目には恨み辛みの濁りが見え隠れした気もした。向こうの世界へと戻ることに拘っていないかのような雰囲気さえもある。蒲原のいつかの問いに対して「明確な目的がない」といった様に、様々なことを緒形は模索している最中なのかも知れなかった。
 尤も、弘瀬には緒形のことを気に掛けている余裕などなかった。佐々木が黒い球体に対して述べた説明が脳裏を過ぎり、弘瀬は上分別を模索する深い葛藤の中にいたのだ。
 蒲原が言う様に、もう一度、黒い球体を生成して「向こうの世界」への道を繋がない限り、緒形の中にいる寄生種の行くべき場所は存在しない様に思える。既に、緒形さえ助かれば良いという問題ではないのかも知れない。そう、緒形に取って代わるべき誰かが犠牲にならなければ、根本的には何も解決しないのだと弘瀬は結論を下さざるを得なかった。
 何か、緒形を救うことに繋がるという確証が欲しい。そんな意図の見え隠れする顔で、苦し紛れに弘瀬は口を切る。
「……先に、緒形を解放して見せてくれないか? 僅かな時間しか解放出来ないなら、それでも構わない」
「向こうの世界への穴が開いていないと、わたしは緒形サンの身体から離れることさえままならないみたいなんです、弘瀬先輩。多分、何かに寄生していないと、こっちの世界に存在していられないからだと思います」
 そんな緒形の受け答えに、弘瀬の表情には一層険しさが色濃く灯った。
 自分自身には確かめようのない緒形の言葉。
 それが本当か否かを緒形の仕草や表情から探っているかの様に、弘瀬の目は緒形だけをじっと睨み据えていた。対する緒形は淑やかに目を瞑り、頭を下げる格好で「申し訳ないです」といった趣旨の言葉を態度で示して見せていた。それが繕われたものかどうかを見定めることは実質不可能だった。
 緒形が見せる謝罪の態度も仕草もその場にそぐわないものではないから、弘瀬は「顔を上げて俺の目を見ろ」とも言えない。自然とその表情は酷い不興顔になり、また、弘瀬はそれを隠そうともしなかった。「ギリッ」と力を込めて握り締めた拳は不自然に赤みが差していて、そこには悔しささえ滲んだ形だ。
「……俺に何をやらせたい?」
 弘瀬の渋面を前にして、蒲原はクスクスと微笑み「要求が大したことじゃない」と、その態度で強調する。
「佐々木クンを騙せられるのは弘瀬クンしかいないみたいなの。どうやら、佐々木クンは無条件で緒形さんを消し去る立場にあるみたいだから、佐々木クンがわたしの計画に気付くと全て水の泡になりかねないわ」
「佐々木に嘘の情報を流して、ここに近寄らないようにしろ……と、言いたいわけか?」
 蒲原は顎をしゃくって見せて「ご名答」と、その仕草で答えた。


「何か、手伝うことはねぇか、蒲原サン? ただ黙って静観してるってのが性に合わなくなってきてるんだ、……何でも良いんだ、自発的に動いていたいんだ」
 蒲原がコンクリートの床に魔法陣を描く行程を遠目に眺めながら、杉代が唐突に口を開いた。腕を組み壁を背にして、我感せずの顔をしていたから、一人そうしていることが気まずくなったのかと思えば、そういうわけでもないらしい。
 実質的に、思案顔をしたまま長時間に渡って固まっている弘瀬にしても、ここにいることが何か蒲原の役に立っているわけではないのである。
 三限目の授業が始まる時間が来て、弘瀬は一旦、授業へと出席するために備品倉庫を後にするだろうと蒲原は考えていた。しかしながら、当の弘瀬はこうして備品倉庫に留まった格好だ。けれど、残ったからと言って何をするわけでもないのが蒲原としては不気味なわけだった。邪魔をするわけでもない、雑多な質問を向けるわけでもない。
 蒲原の心境を述べると、緒形が退室し、そして、杉代と弘瀬、どちらか一人が備品倉庫に残る形が最も望ましかった。
「手伝ってくれるって言うなら、うちの会員二人に今の授業が終わったら、ここに来るように伝えて貰えないかな。ちょうど、三限目の授業がそろそろ終わる頃だから、幹門クンと若山クンをね」
 杉代は備品倉庫にある時計へと目を向けた後、備品倉庫には時間の異常があることを思い出したらしい。すぐに自分の腕時計へと視線を落とした。しかし、そこで再度、杉代は「ああ、またやっちまった」という具合に、苦笑いを見せる。
「はは、時間の流れが狂うってのはホント厄介なものだな? 外の時間が何時なのか、俺にはとんと判断つかないぜ。……蒲原さんは何でそろそろ三限目が終わるって判断出来るんだ?」
 杉代は緒形の時間感覚について尋ねつつも、実際にはそれを通して蒲原が覚醒した力にまで話が言及されると期待していた。外の時間の判断が付かないことは本当で、蒲原との間には何か根本的な感覚の差があるとでも思っていた様だ。
「まだチャイムが聞こえないから三限目が終わる前だって判断したけど、わたしも正直なことを言うとそろそろ終わるかどうかは判っていないわ」
 しかし、蒲原から返ったその答えは杉代が期待していた内容とは懸け離れたお粗末なものだった。思わず、杉代が「なるほど」と、そう笑ってしまうほど「当然のこと」だといった方がしっくり来るかも知れない。
「はは、そっか。あー……、パシリついでに差し入れも買ってくることにするぜ。ここに居ても、俺が出来ることは何もないみたいだしな。適当に見繕って買ってくるけど、金は後で請求するからな? いいか、奢りじゃないぞ?」
 杉代はそう念を押すと、備品倉庫を後にした。
 そんな具合に、杉代が備品倉庫を出て行くのを目で追う緒形も手持ち無沙汰なのだろう。バタンと備品倉庫の扉が閉まると、杉代同様、緒形も蒲原へと「出来ることはないか?」と言い出す。
「……わたしは何をすればいい?」
 蒲原は魔法陣を描くその手を止めると、僅かな時間、思案顔を見せた後、こう提案する。
「ナイト杉代を引き連れて、囮が適材適所、かな。取り敢えず、用意が調うまでここにはいない方が良いわね。まぁ、……囮ってのは言い過ぎだけど、佐々木クンが高校に居るらしいから、佐々木クンに偽情報を流して攪乱出来るまでは高校には居ない方がいいわ」
 ここにはいない方が良いと言われたことに対して、緒形は若干不服そうな顔を見せる。……緒形が蒲原へと全幅の信頼を置いていないことは確かである。しかし、では、その不服が蒲原の言動を不審に思ったから故のものかと言うと、そうではなかった。
「その間に、佐々木がここに来たらどうするつもりなの? 蒲原さん一人じゃ対処出来ないじゃないですか?」
「ふふ、忘れたの? また、どこか遠くにすっ飛ばしてやるわよ。……まぁ、暇だろうけど杉代クンが帰ってくるまでは大人しくしてて頂戴。仮にも失踪者が校内をうろうろしてると問題でしょう?」
 得意顔で含み笑いを見せる蒲原に、緒形は返す言葉もないと頷いた。
 備品倉庫に来てからこっち、主導権は完全に緒形の手から蒲原へと移っていた。
 緒形は蒲原に言われるまま、備品倉庫の壁へと寄りかかると蒲原が魔法陣を描いていく様を傍観する状態へと戻る。それは弘瀬も同様で、口を挟むことも出来なければ、手を貸すことも出来ない格好だ。ただ見ていること以外にするべきこともないわけだ。もちろん、魔法陣の用意や儀式の準備を始め、緒形や弘瀬に知識がないのだからそれは当然である。
「なぜ、魔法陣の中の記号を描かないの? それを描いておきさえすれば、この備品倉庫の時間の狂いが維持されるんでしょう? 完成させられるべき箇所を完成させずにいる理由は何?」
 緒形がそれを不自然に思ったように、蒲原は複雑な構図の魔法陣を描く段階にあって、既に記号や文字を描き完成させることの出来る箇所にもそれをしないでいた。刻一刻と「正常な状態へ戻ろう」と修復を続けているだろう時間の狂いを少しでも押し留められるかも知れない可能性を敢えて行わないことは不自然以外の何物でもない。
 しかし、蒲原は平然と「自分よりも描くに適した人物が居ること」を答える。
「あれを描いたのはうちの幹門クンなのよ、何を描くかを指示したのはわたしだけどね。前回、幹門クンが描いて成功例に繋がったから、今回も幹門クンが描いた方が良いと思っているの。まして、描画に失敗すると魔法陣の一部も修正で欠損するだろうから、あまり迂闊には出来ないわ」
 緒形は「なぜ?」とその理由を尋ねながら、その答えは緒形にとって確認のしようなどないことだった。緒形には魔法陣や記号に対する知識も技術もない。蒲原からの説明を聞き、言われるがまま「そうか」と納得するしかないわけだ。もし、それでも「それが本当かどうか?」の確認をしたければ、ここにはいない幹門を問い詰めるぐらいしかない。
 しかし、蒲原のその言葉は緒形に逆転の発想をさせた。尤も、もし、それが本当ならば……の話である。
 しばらく時間が経過して、差し入れを買いに出た杉代が若山と幹門を連れて戻り、緒形を引き連れて囮になるため出掛けると、蒲原は深い息を吐き出した。緊張の糸が途切れたと言わないばかりである。髪を掻き上げて見せて神経質そうな鋭い目元を押さるえと、蒲原は眉間に皺を寄せて、急遽、用意されたパイプ椅子へとどっかり腰を下ろす。
 ハッと気付くと、期せずして備品倉庫からは蒲原の望んだ形が出来ていた。一時的に余計扱いになる二人が増えたものの、そこはどうとでも融通が利くのである。それは間違いなく蒲原の望んだ状況だった。即ち、緒形がおらず、杉代か弘瀬かの片方が備品倉庫に居残っているという形だ。
 杉代と緒形と入れ違う形で備品倉庫へと残った若山と幹門の二人に、蒲原は満面の笑みで手招きをする。しかしながら、そこに歓迎の態度はない。備品倉庫の扉の前で「他の連中が来るのを見張って、誰かがここに来たら追い返して」という趣旨の言葉を蒲原は二人へと向け、若山と幹門は渋々という具合に備品倉庫を後にする。
 これから昼休みだと言うならともかく、三限目の終わりに呼び出されて、四限目の授業が始まるという時になって「廊下に立って見張りをやれ」と言うのだから不満たらたらなのも仕方ないだろう。
 ことの成り行きに任せた感は強いが備品倉庫には蒲原と弘瀬だけが残る形になり、蒲原は満足そうに微笑んだ。
 そして、沈思黙考、そう表現するのが板に付く弘瀬へと、蒲原は詰め寄る。
「さて、と。邪魔者はいなくなったわね、弘瀬クン。少し、……腹を割って話しましょうか?」
 蒲原は備品倉庫の扉に中から施錠をした。
 備品倉庫に備え付けの鍵が鳴らす、独特の「カコンッ」という施錠の音が鳴って、弘瀬は顔を顰める。
 しかし、当の蒲原はその鍵だけでは不安らしい。弘瀬の方へと身体を向けた格好のまま扉の前で腕を組むと、そのまま扉に背中を預ける様に体重を掛けたのだ。蒲原がそんな用心をしてみせるから、一層、弘瀬の怪訝はその度合いを増す。
「……どう思った?」
 そう尋ね終えてから、それだけでは言いたいことは伝わらないと思い直したのだろう、蒲原はこう言い直す。
「今、緒形さんを解放出来ない理由を「あれ」が話したわけだけど、弘瀬クンはどう感じた?」
「どうとでも言えるだろうさ。実際、俺達にはそれを確かめる手段なんて無いんだからな。緒形が何を企んでいようとも、それを確かめる手段など……」
 悲観の籠もった弘瀬の言葉を遮る様に、緒形が心得顔で言う。
「そこが実質的な問題点なわけだよね。誰も、緒形さんが本当に助かるかどうかを確かめられないのだから」
 蒲原が思案顔をして口にした発言に、弘瀬は目を丸くする。
 ついさっきまでの、黒い球体を再び発生させるという立場を鮮明にしていた蒲原からは考えられない言葉だったというのがある。そして、それよりも何よりも弘瀬には蒲原が百八十度その立ち位置を変えた様に見えたのだった。
「まず、……何から話せばいいものかな」
 しおらしくも蒲原は言い難そうに目を伏せると、一度、そこで言葉を句切った。
 勢いよく、口を切ったはいいものの、説明すべきことの整理がついていなかったらしく、蒲原は腕を組んだ格好のまま「うーん、うーん」と、何度も小さく唸り声を上げる。
 そんな蒲原の仕草はその後に続くのだろう話の内容が厄介なことを弘瀬に想像させた。
 そして、蒲原は順を追って自らの考えの説明を始める。
 それは蒲原が説明すべきだと思ったことが含まれ、また、弘瀬が蒲原に対して疑問に思っただろうことを補うものだ。
「そうだね。まず、佐々木の緒形に関する行動は本当。佐々木は緒形に寄生する寄生種を、……下手をすると緒形ごと消し去るつもりみたいね。だから、弘瀬クンに要求した様に、考えられ得る最悪のケースへと事態が発展するまで、佐々木は遠ざけておいて貰いたいわ。後は、……緒形が元に戻るのなら、黒い球体を再び創り出して、寄生種を向こうの世界に送り返すつもりがあることも本当。ふふ、何よりも重要なのはやっぱり、その見極めになるみたいね」
 心中、複雑な感情が入り混ざっているのだろう。蒲原はその会話の間、様々な感情を表情に灯して見せた。
「備品倉庫の中であの時に発生した黒い球体は、佐々木曰く、穴だそうだ。……あれ以来、誰も大っぴらには口にしないあの黒い球体を呼び出した手順を、もう一度、しっかりと確認したい。どんな事態に陥っても、あの時の再現だけは避けなければならない。そう、俺は思う」
 弘瀬の言葉は再び穴を開くことを良しとしない旨を明言したに等しかった。穴を開かなければ、緒形の中の寄生種を送り返せない可能性が高いことは弘瀬も承知の上だ。それでもなお、穴を開くことを良しとしないのには確かな理由がある。言うまでもなく、それはあの時の二の轍を踏むわけにはいかないからだ。
 弘瀬はてっきり蒲原が反論をしてくるものだと踏んでいたが、意外にも蒲原からの反論はなかった。
 魔法陣の中心を指さし、自らが構築した魔法陣を見下ろす形で蒲原は説明を始める。
「あれは「道を開く記号」だって書いてあったわ」
「……何に? インターネットか? 何かの書籍か?」
 その出所を突き止めれば、何か良い対策が浮かぶとでも考えたのだろう。弘瀬は蒲原に詰め寄る形で出所を尋ねた。
「多分、古い書籍か何かだと思う。あちこちから引っ張ってきた情報を書き留めてまとめたノートがあるの、ルーン文字とか、人食い人形の呪いの儀式とか、……信憑性の有無はともかくね。ただただ、わたしが興味を持ったものをひたすらにまとめたノートね。それに書き留めてあったわ、……いつのものかは判らない。元となる情報源が何だったのかを書き記していない所を見ると、そんなに信憑性の高い媒体から映したものではないと思う」
 しかしながら、蒲原からの返答は「それが判らない」ことを告げる内容だった。蒲原のその口調から察するに、蒲原の記憶にその情報源を思い出して貰うことも期待は出来ない。
「……それが成功例に繋がったってわけか。パターンとしては最悪のケースなわけだな」
 一瞬ではあったものの、期待が高まった分、弘瀬は失望を感じた。
 続ける言葉で、蒲原はその記号自体はともかくとして、儀式に用いた順序や配置に特別な意味がなかったことを告げる。強いて成果を上げるなら、蒲原の感覚に頼って作った魔法陣だと判ったことだろうか。しかしながら、弘瀬が再びその不確かな蒲原の感覚に頼って、緒形の中の寄生種をどうこうしようと思わないことだけは確かだった。
「あの記号群を魔法陣に記したのは今回が初めてだし、各記号に対する説明も何も記述していなかったから、備品倉庫の床にはわたしのフィーリングで順番を選別して描いてみた。だから、描いた記号の順番に特別な意味などないわ。あの記号群の順序を弄ることで何がどう変化するのか、全く見当も付かない」
 蒲原には追い打ちを掛けるつもりはさらさらなかった。
 しかし、結果として蒲原の記号群に対する説明は弘瀬に追い打ちを掛けたようなものだった。
「お前の考えを杉代も理解しているのか? ……杉代はそれを踏まえた上で行動しているのか?」
 蒲原は首を左右に振って簡潔に答える。
「いいえ」
 余計な言葉を一切足さないことで、緒形に関する意思疎通が何ら出来ていない状況を示したわけでもあった。
「わたしは杉代クンを信用しているわけじゃない。緒形奈美を守る戦闘種という役目を了解した彼が何を考えているのか、それが判らない限りは信用を置くわけにもいかないわ。もう少し、時間に余裕があれば、色々と話し合うなり、鎌をかけてみるなりとやったんだけどね、今回は本当に切羽詰まってるの」
 一呼吸を置くと、蒲原は弘瀬を睨み見る。それは信用を置くに値するかどうかを判別するための目でもあり、また、弘瀬がここに来て何を考えているのかを苛察する容赦のない目でもある。
「わたしが今から話すことを聞くからには後に退くことは許されないわ、弘瀬クン?」
「はは、はははは。はっきり言ったらどうだ? 端から片棒を担がせるつもりだったんだろ?」
 心底、可笑しそうに笑う弘瀬の態度にも、蒲原は顔色一つ変えなかった。「胸の内を隠すためのものかも知れない」と疑って掛かったわけである。蒲原はそれを「絶対に見誤れないもの」と位置づけていた。
 弘瀬は自分の真意を見抜こうとする蒲原に、では「どうしてそう思ったのか?」を説明する確かな根拠を挙げる。
「それに、俺が下りると言ったなら「俺の身の安全は保証出来ない」って顔をしてることに、魔術研究会の会長ともあろう蒲原は本当に気付いていないのか?」
 思わずハッとなった蒲原の様子を、弘瀬はただただ失笑していた。


 三限目と四限目の合間の十分休み、佐々木は何をするでもなくボーっと黒板を眺めていただけだった。尤も、傍目には惚けている風にも見えたわけだが「もし、緒形が教室にいたとしても、校舎内で一騒動起こすわけにはいかないな」だとか、雑多なことを考えていたわけである。
 佐々木としては昼休みに緒形と接触を試みるつもりだった。
 緒形がどんな対応をするか以前に、そもそも「高校に来ているのか?」という根本的な問題があるものの、居ないなら居ないで佐々木は蒲原、杉代と次の優先順位を持っている。そして、もう一度、備品倉庫に足を運んで時間の狂いが正常に戻るまでの間、穴を創り出すことを不可能にする対策を施すつもりだった。
「君が佐々木クンか、……ねぇ、ちょっとお姉さんに顔貸してくれないかな?」
 コンコンと机の端をノックされて、佐々木はハッと顔を上げた。
 佐々木の名を呼んだ女子生徒は自分を「お姉さん」といった様に、上級生であることを示す色のタイをしていた。生徒会に所属していて、何かと人の顔を覚えることを余儀なくされる佐々木が見たことのない顔だったが、思わず佐々木が顔を覗き込まれてドキッとするほどの美人だった。
 目元にキツイ印象はないが、女子生徒のまとう雰囲気には安易に近づき難いものがある。外ハネの毛先が肩下で揺れる薄茶のセミロングの髪、微妙に着崩した制服、これと言って特筆する点はないながら「近付き難い」と思わせるのはやはりその端正な顔立ち故だろうか。
「ここじゃまずい用事なんですか? もう一分か二分で次の授業が……」
「弘瀬クンと蒲原サンから言付けされた用事なんだけど、それでも無理かな?」
 女子生徒はすっと佐々木の耳元に顔を近づけると、その佐々木の言葉を遮って自分を派遣した主が誰なのかを告げた。
 佐々木は重々しい溜息を吐くと、それが「断れない」ものだと理解する。キョロキョロと周囲を見渡して、そこから適当な人選をすると、佐々木は事後処理を任せる旨を告げる。
「あー……、羽場、ちょっと良いか? 次の時間、用事あってふけるから、俺がいないことに里藤が気付くようなら適当に理由付けといてくれないか? ……そうだな、元町商店街の屋台ラーメンを奢ってやる。あぁ、後、理由付けたらその内容をメールで送れよ、口裏合わせなきゃならないんだからな」
「何だよ、デートか、羨ましいな、コノ!」
 羽場は佐々木の脇腹を小突くと「オーケー」だと態度で告げる。
「そんな色気のあるものなら願ってもないことなんだけど、羽場の鼻には焦臭い匂いが漂ってこないのか?」
 そう尋ねておきながら、佐々木は答えなど聞く気はなかったのだろう。いや、答えなど聞かずとも「いいえ」と返るだろうことは判りきっていた。その匂いを感じられるのは佐々木以外にいないのである。苦笑いの表情で席を立つと、佐々木はひらひらと手を振って「宜しく頼む」と羽場に告げ、女子生徒を引き連れ教室を後にした。
「それで、どこに連れて行こうって言うんだ?」
「そうだね、……取り敢えずは弘瀬クンから呼び出しが掛かるまで、適当にぶらつくことになるっぽいかな」
 真顔で尋ねた佐々木が反発するだろうことは女子生徒も、当然、予測出来ていたらしい。するりと佐々木の腕に自分の腕を絡めてしまうと、女子生徒は先手を打って「教室に戻る」だとか、そういった類の言葉を封じた格好だった。
「まぁ、段取りってものがあるんだし、それが整うまでは楽しく行こうよ、佐々木クン!」
「……」
 無言を持って同意を拒む佐々木を気にする様子をも見せず、女子生徒は自己紹介を始める。
「あたしは本村初納(もとむらういな)って言うの、宜しくね。……そうだなぁ、佐々木クンには年上の恋人っぽく初納さんって呼んで貰っちゃおうかな」
 一人、心底楽しそうに提案をする本村を佐々木は呆れた顔で眺めていた。
「はぁ……、それで、俺は本村さんとどこに楽しみに行けばいいですかね?」
「乗りが悪いな、佐々木クンは!」
 棘のある口調で、敢えて「本村さん」と名前を呼ぶ佐々木に、本村は不服極まりないと頬膨らませた。
 そして、佐々木の顎を掴んでクッと自分の方へと向き直らせると、本村は悪戯好きな年上の顔をしていう。
「だーかーら、段取りがあるんだってば。大人しく、今日一日はお姉さんに付き合いなさい」
 本村と佐々木との身長がそう変わらないため、ちょうど佐々木の鼻先数センチの位置に本村の顔があって、佐々木は思わずドキッとした格好だった。相手が端整な顔立ちをした美人だから、佐々木は尚更何も言えなかった。
 ふっと、どこか拗ねたような顔付きを垣間見せると、本村は佐々木に要求する。
「さぁ、あたしの名前を呼んでみて」
「初納、さん」
 辿々しく要求された名前で本村を呼ぶと、本村は満面の笑みを見せた。
「んふふ、オーケーオーケー、ご褒美に腕組んであげちゃう」
 そう言うが早いか、本村はするりと佐々木の腕に自分の腕を絡ませてしまった。
 佐々木はいつかの秋前とはアプローチが対照的なものの、恐らく、もう抵抗が無駄なことを悟った。


 蒲原から「佐々木の対策が出来た」と連絡が入って、緒形が代栂中央高校へと戻ったのは放課後に入って直ぐの時間帯だった。杉代から受け取った二度目の差し入れを持って、緒形は備品倉庫へとむかったわけだったが、そこには蒲原や弘瀬の姿はなかった。
 備品倉庫にいたのは一人黙々と魔法陣と、その中の記号を描く幹門である。
「こんばんわ、幹門クン」
 どこか甘えるような態度で、緒形は備品倉庫の中で魔法陣の仕上げをする幹門へと挨拶をした。差し入れを持ってきたことを示すため、手に提げたビニール袋を示して、緒形は備品倉庫の中へと入る。
「……緒形さん、何か用? 弘瀬先輩と会長なら」
 蒲原から緒形には「関わり合うな」とでも警告されているのか、対する幹門の対応は素っ気ないものだ。
 しかし、緒形は半ば強引に幹門の素っ気なさを遮る。
「まぁまぁ、取り敢えず、この中から好きなものを選んでよ」
 そうやって、実際にビニール袋を両手に持って差し出されると、幹門も「いらない」と突っぱねることは難しかった。明らかに蒲原や弘瀬の分もあるだろう膨れたビニール袋を前に、幹門は「仕方ないか」という顔をする。
「そんじゃ、こいつを貰うことにするかな」
 サンドイッチとツナマヨおにぎりをビニール袋からひょいひょいっと取り出すと、幹門は一応、緒形に問題ないかどうかを確認する。素っ気なく対応してはいたものの、正直、その差し入れは小腹をすかせていた幹門には有難かった。何せ、昼の杉代の差し入れには幹門と若山の分が含まれていなかったのだ。
 しかし、そうやって確認を取るために顔を上げた幹門の眼前には緒形の端正な顔が鼻先数センチの距離にあった。
 微笑を灯す妖しげな緒形の表情に、幹門は言葉を返すことも忘れてたじろぐ。ドンッと幹門の顔を掠めて緒形の掌が壁を叩き、幹門は緒形に壁際へと追いやられることになる。ドサッと緒形の手にあったビニール袋が床へと落ちた音がした。
 婉然とする緒形は幹門の目にはとても優艶に映った。
 何をどうすれば、そう見えるのかを計算尽くでやっているわけではないだろう。しかし、緒形奈美という個体が持つ魅力を引き出すことに、緒形に寄生した「寄生種」は当の本人以上に熟達し始めていたことは確かだった。
「手先が器用で、魔法陣を描く手伝いをするのが幹門クンの役目でもあるんだよね?」
「悪いけど、ノーコメントだ。魔術研究会のことについて部外者に話せることは何もない」
 心が揺らいだことを隠そうと、幹門はふいっと目を伏せる。そして、一瞬の葛藤の後、幹門は決意の堅さを体現するため、緒形の瞳を鋭い目つきで睨み見た。その瞬間のこと、幹門は「グニャリ」と視界が歪んだのをその目で捉える。視界の歪みと同時に襲った目眩かせ何らかの影響を及ぼしたのだと幹門は思ったわけだったが、緒形の瞳を睨み返したのがそもそもの失敗だった。
 緒形の瞳は鋭かった、そして、もの恐ろしさを覚えるほどに澄んでいた。
 ずっと、それを見ていると飲み込まれてしまいそうになる黒い水晶のよう。いつの間にか、見取れてしまっている自分に気付いて、幹門は慌てて首を振る。そして、近接する緒形を払い除けるために、幹門は緒形の肩を掴もうとした。
  そんな幹門の挙動は完全に読まれていたのだろう。じゃれ合うかの様に楽しそうな顔をする緒形に伸ばした手を絡め取られて、幹門は身動きが取れなくなる。トンッと身体を預けられる様に肩へと頭を置かれてしまうと、幹門の切羽詰まった表情はこれ以上ないほどに極まった。
 中身はともかく、身体が緒形のものだと判っているから、幹門としてもあまり乱暴な手段に出ることは出来ない。何か裏がある、それが判っていながら強硬手段に打って出れない辺りが幹門に勝ち目などないことを示唆していた。
 幹門は気付かなかった。既に、緒形に意識を絡め取られてしまったことにだ。そこは現実世界ではなく、緒形の中の寄生種が最も力を発揮する空間である。
 ずぶっと緒形に絡め取られた腕が緒形の中に飲み込まれていくことに、幹門は当惑する。何が起こっているのか、理解出来なかったのだろう。そして、緒形の頭部から灰褐色の先が尖ったうねうねと動く触手が伸びた時、幹門の当惑は最大値に達した。
「お前ッ、一体な……」
 緒形の後頭部から伸びる触手を回避する術など、幹門にはなかった。幹門の右手は完全に緒形の身体の中に飲み込まれてしまっていて、そのまま中へと引きずり込まれない様に対処するのが精一杯だったのだからだ。後頭部に伸びた触手が幹門に刺さって、激しく身体を揺する幹門の最後の抵抗が止むと、後はトントン拍子にことが運んだ。
 幹門はズブズブと緒形の中に沈んでいって、その半身が完全に緒形に取り込まれる位置まで来ると、もうそこに抵抗をする意志など微塵も窺うことが出来なくなった。緒形に優しく抱き留められて、幹門は幸福感に充ち満ちているかのように相好を崩していた。
「もう一度、聞くよ? 魔法陣を描く手伝いをするのが幹門クンの役目でもあるんだよね?」
「……ああ、俺の仕事です。製図の道具とか使って、魔法陣を描く手伝いをすることが多いです。ただ、同じように手先が器用な若山が手伝う場合もあります」
 トロンとした目をして、幹門は聞かれたことに答えた。
 従順な子供の顔をするその様子は催眠術にでも掛かった風にも見えた。……実際、そんなものなのかも知れない。
「幹門クンは蒲原さんに一体何を命じられているの? 蒲原さんが何を企んでいるのか、知っていることを全て話して」
「……ああ、詳しくは俺も何も聞かされてないんですよ。ただ、魔法陣に細工して、もう一つ下に魔法陣を描いて欲しいって。カーペットとか引いて、すぐに別の魔法陣が現れる様に細工して欲しいって言われてます。後は「これは本当に重要なことだから」って弘瀬先輩と話しているのを聞いたけど、それ以上は何も……」
 緒形の質問に、幹門はペラペラと答えた。幹門は嘘を付くことが出来ない状態にあるらしい。いや、嘘を付いたら付いたで、緒形はその幹門の嘘を見抜ける状態にあると言った方が適当だろうか。ともあれ、緒形は幹門が嘘を付いていないことを理解すると「それ以上は知らない」との言葉に納得をして、次の質問へと移る。
「黒い球体が出現した儀式、その儀式の日の魔法陣を描くのも幹門クンが手伝ったのかな?」
「はい、若山は絵心があまりなくて、ものを真似て描くことに向いていないので、同時に複雑な記号を描くことになったあの日の儀式の魔法陣は俺が会長のノートを真似て描きました」
「そっか」
 簡潔に呟いて、緒形は思案顔を滲また。
 そうやって緒形が思索している間、幹門はじっと直立不動で緒形からの指示を待っていた。
「それじゃあ、幹門クンにやって貰いたいことがあるんだけど、構わないよね?」
「ああ、はい、判りました」
 緒形の要求を幹門は二つ返事でオーケーした。幹門は相変わらず、トロンとした目つきでをしてはいたものの、強くその脳裏には「緒形の頼みを聞かなきゃならない」と印象づけられた格好だった。




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