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Seen06 オフサルモと名付けられたもの


 透き通る青空が広がり、落下防止フェンスの向こう側には見覚えのある代栂の町並みが広がっていた。見間違えるはずなどない。そこは杉代と緒形が始めて顔を合わせた代栂中央高校の屋上だった。
 恐らく、眼前に広がるこの代栂の光景を本物のそれと見比べても、杉代は相違点を述べることなど出来ないだろう。例え、それが巨大でその細部までが精巧なスクリーンを横に置き、そこに本物を投影して見比べたとしてもだ。寸分違わず、これは本物を再現しているのかも知れなかった。
 けれど、杉代はこれを偽物だと理解した。
 屋上を吹き抜けてゆく風だとか、屋上を漂う独特の匂いだとか、意識はしてこなかったものの今まで感じていた感覚が確かにそこには存在していた。長時間、燦々と降り注ぐ太陽光に身を当てていれば、それは間違いなく肌を焼くだけの熱量を持っているだろう。ざわざわと風に揺れる木々の音もあり、耳を澄ませば階下や校庭で騒ぐ生徒の喧噪が聞こえてきそうなほど臨場感がある。コンクリートの校舎を踏み締める感覚、それらは全て、普段は意識したこともないような感覚ではあるけれども、恐らく、寸分違うことがないものなのだろう。
 けれど、杉代はそれを本物だとは感じなかった。
 では「一体、何が違うのか?」と、そう問われても、杉代はきっと答えられないだろう。厄介なことに、ここは具体的に「これだ」と杉代がはっきりと言葉にして挙げることの出来ない何かが本物と異なっているのだ。
 すっきりとしない後味の悪さを覚えながら、杉代は学ランの内ポケットの中に忍ばせてある煙草の箱を取り出した。その昔、パチンコの景品として引き替えた安物ジッポも、同じ様に内ポケットの中には入っていた。
 神経を張り巡らせて違和感を認識していないと、本物だと錯覚してしまいそうになる世界。
 カチンッと聞き慣れた音を響かせジッポに火が灯り、吸い慣れたマイルドセブンウルトラライトの味が口内に広がると、杉代は苦笑いを見せた。もう笑うしかないといった具合の、痛々しい苦笑いだ。塗装の剥げたジッポの表面をさすると、杉代はその手に触り慣れた金属質のザラザラ感まで感じた。
「よう、蒲原。なんつーか、本気、……参るね。何だよ、ここは? 気持ち悪くってしょうがねぇ」
 その困惑はここが本物ではないことを判っているから尚更、強く杉代を襲った感覚だった。……もしかすると、腕を組んで杉代同様に風景へと目を走らせるその蒲原までもが偽物かも知れない。杉代はまじまじと蒲原の上から下までを眺め見て、そこに偽物だと訴える直感がないことを確認する。
「物凄く、精巧に再現のなされた空間だけど、ここにはいくつも不自然な点があるわ。恐らく、それが杉代クンの感じる気持ち悪さの正体でしょうね」
「どこに不自然な点があるか、蒲原は具体的に言えんのか?」
「そうね、例えば……」
 蒲原の答えが口を吐いて出るよりも早く、背後から何か言葉を投げ掛けられた気がして、杉代は後ろを振り返った。
 蒲原もそうだ。肌をザラッと逆撫でしていった質量を持った風とも音とも取れない不明瞭な何かに、杉代へ説明をすることも忘れて押し黙っいた格好だ。そして、その音の主へと目を向けていた。
 もしかすると投げ掛けられた言葉は人類が発することの出来ない音によって構成されたものだったかも知れない。
 けれど、どうしてか、杉代にしろ蒲原にしろ、確かに「呼ばれた」のだと理解した。
 そして、振り返って、ようやく、ここが現実世界ではない確固たる確信を杉代は得る。何もかも「合点がいった」と、まさにそんな心得顔で頷いて見せて、杉代は眼前にあるものを注視した。それは敵を見る険しい目ではないし、警戒を込めた鋭いものでもなかった。今まで見てきたものを、今まで見てきた様に直視する迷いのない目だ。
「俺は昔の緒形奈美を知らない。だから、屋上で始めて会ったお前を緒形奈美その人だと思った。特別な力に目覚めちまった第二人格か何か、今の今までそんな風に心のどこかでずっとそう思ってた。でも……」
 杉代は一度そこで言葉に詰まって、その先を言い淀む。はっきりとその後に続き言葉を言って良いのかどうか、それを今になって迷ったのかも知れない。苦笑いを押し殺しきれなくなったのか、何とも場にそぐわない微苦笑の表情をすると、杉代は断言する。
「へへ、……ようやく、解ったよ。お前が緒形奈美じゃないんだって」
 杉代の眼前に姿を現した緒形の声を操る意識は、確かに人の姿を伴ってはいなかった。輪郭やシルエットだけを見せられていたなら、それを人間だと認識することが出来たかも知れない。しかし、その全容を隠そうともせず、杉代の前へとその姿を表した緒形は明らかに人の形をしていなかった。
 鼻の膨らみや口元の輪郭を持ちつつ、顔には目も鼻も口も存在しない。その代わりと言わないばかり、両腕には大小無数の目と思しき機関が存在している。その目は人間のものと言うよりか、猫などの動物に近いのだろう。縦に鋭く尖る感じの瞳で、それは杉代一人を捉えるではなく、絶えず同時に他の何かを見ているようだった。
 けれど、杉代がそれに対して恐怖心を覚えることはなかった。なぜなら、杉代は理解していた。それが今の今まで「緒形奈美」だと感じ、接していた意識だと杉代自身の感覚が信じて疑わなかった。言い換えるなら、見掛けの形に惑わされなかったとすることも出来るのかも知れない。
 緒形は感心した顔付きで杉代を見る。
 いや、感心の矛先は杉代だけに向いたものではないだろう。代栂中央高校の廊下で出会して、同じように見抜いてみせた若山などにも向いていた。そう、大袈裟に言うのなら、それは形が寸分違わないのに中身が違うと見抜ける全てのものを対象に向いていた。
「それがあなた達の凄いところだ。肉体に頼らない状況に置かれてもなお、自分の形を正確に記憶しているし、相手が肉体の時と同じ形をしていると信じて疑わない」
 尤も、蒲原にしても杉代にしても褒められた気にはなれなかった。
 なぜならば、緒形の口振りは「疑うことが当然」だと告げていたからだ。
「杉代先輩は正確にものを見る力に優れていると思いますよ。いつもいつも人間が人間の形をしていることを、心のどこかで疑い直視しているんだと思いますよ。……これはわたしの私見ですけどね。わたしの姿を緒形奈美だと認識しないのは杉代先輩の立派な才能だと思います。……立派な「特別」だと、わたしは思いますよ」
 それが「特別」と扱われることを嫌って、杉代は鋭い目を持って反論する。
「俺と同じ状況に置かれて、今のお前を緒形だと思うなら、そいつはかなり感覚のおかしい奴だと思うぜ」
 杉代に言わせれば、それは判って当然のことなのだ。寧ろ、杉代の主観で言うなら「判らなければならないこと」だとさえ、述べてしまってもいいかも知れない。この場所で同じように緒形を見た蒲原も、それが「緒形奈美」だと感じていなかったことが杉代の主張を後押ししていた格好だった。
 杉代は蒲原の目にも緒形が自分と同じ異形のものに見えていると信じて疑わなかったのだ。尤も、それは完全に杉代の思い違いだったのだが、幸運にも蒲原には杉代とは別の感覚で、緒形を「人ではない」と判断する能力があった。
 杉代から見て、そいつは顔を持たない緒形の輪郭を持っただけの異質な生物だった。
 蒲原から見て、そいつは顔形を含めて緒形奈美と寸分違わぬ見掛けを持った中身の異なる生物だった。
 こと「形」に関して言うなら、緒形の言うことに間違いはなかった。……いや「緒形の中の寄生種の」と、するのが正しいか。ともあれ、形を見抜く目を持った杉代は「特別」だと括ってしまって間違いなかっただろう。
「見方によって、形というものはどんなものにも見えますよ。まして、わたしは、……えーと、どう言えば良いでしょうか。「緒形奈美の形の中に寄生している」わたしには定形などありませんから。声や口調、話し方などでわたしを緒形奈美だと認識して先入観を持てば、恐らく、その人にはわたしが何の相違もない緒形奈美に見えるはずです」
「くく、くくくく、……そう言うことじゃねぇんだよな。……わかんねぇかな、わかんねぇんだろうな」
 緒形の言わんとすることとの根本的な相違を、一人、杉代は心得顔をして楽しそうに笑って見せた。
「お前が「ここの世界にも敵対種がいる」って言ったことはともかくとして、お前のいう「向こうの世界」ってのは意識の奥底の、ここではない世界のことだって俺は思ってたわけだよ。何かの本で読んだんだよ、一人の人間の中には形にならない無数の意識体が存在してるんだと。……で、それらの内のいくつかが何らかのきっかけによって形になって、表に出て来るようになったものが多重人格なんかに見る第二人格、第三人格なんだと。……俺が判ったのはお前が緒形奈美の中で生成された、緒形奈美に取って代わる第二人格じゃねぇってことだぜ。……ここでお前を見て、お前の存在を肌で感じりゃ嫌でも判る。形がどうのって話じゃねぇんだよ」
「それは同じことですよ。杉代先輩はわたしを本物の緒形奈美じゃないことを見抜いた。いつも、必ず「人間は人間の姿をしているんだ」と頑なな先入観を持っていたなら、それは見抜けないことですから」
 緒形の反論に、杉代は頷きもせず否定もしない。それは緒形が理解出来ないなら教え諭すまでもないという態度だ。
 杉代ははっきりと区別が出来ることを痛感した。見掛けがどんな取り留めのない形をしていようとも、恐らく関係などなかった。人は人で、人でないものは人でないのだ。杉代自身、その相違をどう言葉にするのが適当なのかを理解出来ていなかったが、少なくとも緒形を「人」として認識することは出来なかった。
 眼前にある異形が緒形の第二人格として生まれたものだったなら、杉代はそれを人だと感じただろう。例え、それが性格的に人間離れしたものであってもだ。そうだ、捉えた形が取り留めのない異形の体であってもだ。
 そこには緒形に取って代わる第二人格と、全く異なる人でないものとの間に感じる確固たる差違があった。
「ちなみに聞くが、……ここは何なんだ?」
 そう尋ねてしまってから、杉代は「何なんだ?」とは正確さに欠ける表現をしたと思ったのだろう。何とか適当な言葉へ言い直そうと口を開き欠けたのだったが、すぐに杉代はどう表現し直せばいいのか言葉に詰まったらしい。キョロキョロと周囲に視線を走らせながら、結局、何も切り出せずに終わった。
 そんな杉代の挙動を緒形は興味深そうに注視していた。そして、杉代が「何を質問したいのか?」を敏感に推察したらしい。緒形は答える。
「ここはわたしと緒形さん、そして杉代先輩、それぞれの意識が存在しているだけの質量を持たない空間、……と言えば適当なのかな」
「テレパシー……みたいなもんか?」
「まぁ、そんなようなものだと思って頂ければ、問題ないと思います」
 緒形がニコリと笑うと、景色は一変する。
 そこは夕暮れの教室だった。
 蛍光灯の灯っていない教室は夕日の色に真っ赤に染められていて、物寂しい空気が漂っている。綺麗に整頓が成された机や椅子に手を添えると、それらは一様にひんやりとしていながら、それでいて木材の温もりある感触をしていた。黒板脇の連絡掲示板に指された画鋲、そこに吊された学級日誌の表紙に書かれた見覚えのあるの文字。「カチ、カチ……」と人気がないことで妙に響く秒針の音も、運動部が体育館で派手に活動しているのだろう振動も、そこには存在していた。
 ついさっきの屋上で、杉代が「気持ち悪い」と評した感覚を、今度は蒲原がまざまざと感じていた格好だった。
「ここはわたしと蒲原さん、杉代先輩、それぞれが体験したことのある共通部分で構成された世界なんです。誰か一人だけが体験したことのある感覚を一方的に相手に押し付けることは許されません、だから、蒲原さんが全く体験したことのないものはここでは存在出来ないですし、同じように、杉代先輩が全く体験したことのないものはここでは存在出来ません」
 蒲原はキョロリキョロリと忙しなく教室の様子に視線を走らせてはいたが、眼前にある緒形が不穏な動きを見せればいつでも対処出来るように体勢を取っていた。平静を前面に押し出しながら、その一方で警戒心を剥き出しにする蒲原は一見矛盾だらけのようにも思えたが、それは蒲原の心の内を的確に示し出していただろう。
 緒形を全面的に信用してはいない。だから、不安な心の内を緒形に悟られたくはない。
 そんな蒲原の姿勢をである。
 まして、蒲原はここに来てからずっと雰囲気を強張らせている。
「そんなに緊張しないでください。わたしは蒲原さん杉代先輩を取って食おう何てつもりはありませんよ」
 緒形がカラカラと笑いながら諭してしまえるほど、その蒲原の緊張というか、強張った雰囲気は顕著なものだった。
 さも「ここなら、緊張しませんか?」と言わないばかり、再度、緒形は周囲の景色を一転させる。
 そこは暗幕によって外部からの光が完全に遮断された備品倉庫である。赤々と独特な炎の灯る蝋燭が無数に置かれてはいたが、それはあの日の備品倉庫を忠実に再現したわけではないらしい。中央には魔法陣が存在せず、あの日の儀式に用いた無数の小物もそこにはなかった。尤も、その感覚を共有出来るはずがない杉代がこの場に居るのだから、それも当然と言えば当然なのだろう。
 ここがあの日のものを忠実に再現していたなら、蒲原は間違いなく緒形の説明に不信感を抱いたはずだ。
 しかし、緒形の緊張はそんなことから来る故のものではなかった。杉代へと不自然さを具体的に答えようとした、途中で掻き消えてしまった続きの言葉がそれを物語っていた。それは蒲原が最も敏感な部分であり、他人と接する上で重要視するものでもある。
 そこは蒲原にとって距離感の掴めない空間だった。
 自分と物質との距離、自分と他人との距離、それはありとあらゆる距離感に及ぶ。
 見掛けの距離は確かに離れていた。視覚の上では蒲原の望む杉代との距離がそこにはあったのだ。しかし、蒲原は納得出来なかった。第六感か直感かも判らない。けれど、そこには蒲原の望む距離がないと訴える何かが確かに存在したのだ。
「質量がないっていう割には物に感触があるぜ」
 杉代は備品倉庫の壁を大きく開いた掌で叩いて見せた。「バンッ」と壁を叩いた音の鳴る、その事実を確かめた杉代は緒形を鋭い瞳で捉えた。まるで納得の行く事情説明でも求めるかの様にである。
「……そして、叩いた時の音がする」
「ここは記憶を元に構成された空間なんです。まず、この空間を構成する大前提である視覚、次にものに触れた時の感触や、それに対して何らかの動的な力を与えた時に返る反応。それらは全て蓄えられた記憶を元に、現実であるかの様にわたし達が感じているに過ぎません。バーチャルリアリティに実際の感触を持たせたようなものだと言えば適当なんですかね? そして、ここから先には物体が存在するから進めないといういくつかのルールも現実世界のものと相違ありません」
 緒形の説明とは裏腹に蒲原の表情は怪訝に歪む。蒲原は気持ちが悪くて仕方なかった。
 壁を叩いた音がどこから聞こえてくるのか掴めない気持ちの悪さだ。視覚の位置と、その実際との間にあるズレも、はっきりとその所在を掴めるなら、そこまで気持ち悪くはないのだろう。蒲原は苦笑いするしかない様子だった。
「ああ、……何となく、解った。だから、さっきの教室にも例の居心地の悪さがなかったんだな」
「……?」
「はは、その反応があれば十分だ、理解した。そうだよな、居心地の悪さはお前とは共有出来ない感覚なんだな」
 さも「なるほど、合点がいった」という心得顔で微苦笑する杉代に、緒形の表情は優れなかった。
 自分には解らない範囲のことを、勝手に、それもあっさりと理解されたことが気に障ったのかも知れない。
「さて……と、それじゃあ、杉代先輩と緒形さんとの約束を果たしますね」
「一応、聞いておくぜ。今の俺はお前を緒形奈美じゃないと認識したんだぜ?」
 間髪入れずに杉代がそこに言葉を挟んで、緒形はピタリとその場に制止する。
「わたしが緒形奈美じゃなかったら、杉代先輩は約束を果たしてくれないんですか?」
「敵対種からお前を守る、その約束は果たすさ」
 その後に「でも」と打って続けるはずだった言葉を飲み込み、杉代はただ緒形を注視した。
 緒形は杉代が何を言いたいのかを理解出来ない様子だった。怪訝な顔で首を捻って見せると、その言葉の後に続く内容を話すよう杉代へと要求する。
 しかしながら、頑として杉代は行動を起こさなかった。「理解出来ないなら、理解しなくても構わない」と、そう言わないばかりの杉代を不審に思いながらも緒形は痺れを切らすと、再度、杉代と蒲原に向かって尋ねる。尤も「尋ねる」とは言ったものの、それは強い調子で切り出した言葉で、どちらかと言うと承諾を迫ったに等しい。
「……約束を果たしますよ?」
 確答を避ける二人の沈黙を緒形は承諾の意と受け取って話を進める。そうでもしなければ、埒があかないと言うのもあっただろう。トンッと床を蹴ると、緒形は蒲原と杉代が向き合う形で位置取るその中心点で足を止める。
 そして、次の瞬間のこと。
 緒形からそれぞれ二人に向けて触手が伸びた。尤も、それは触手と形容することが正しいかどうかは定かではない。
 一本は緒形の下腹部から伸び、もう一本は髪の一部が意志を持ち自由自在に伸縮しながら向かってきたかの様だった。根本の色はそれぞれ緒形の髪色である黒と赤みを帯びた肌色をしていたが、蒲原と杉代に向かって伸びて来たその先端は灰色がかった白色をしていた。それは握り拳よりも、サイズ的に一回り小さいぐらいのものだった。
 そして、それらは僅かな躊躇もなく、蒲原と杉代の頭部に突き刺さった。鋼鉄製の刀身や、先の尖った鉄の棒が体内に侵入する感覚ではない。まるで柔軟性の非情に高いゲル状の物質にものを突き刺すかのような感覚だろう。ぬめっと、それは体内に侵入してきた。痛みはなく、また、強い異物感もなかった。
 身体が脱力感に包まれて、杉代はだらんと体勢を崩した。立っているのがやっとの状態だと言いかも知れない。意志に反して言うことを聞かない口から伝った涎が顎を濡らして、杉代は情けなさから顔を顰めた。
 意識をしっかりと持っていないと焦点を失うらしく、杉代はふらふらと頭が揺れる状態だった。
「不安ですか?」
「解らねぇよ、そんなことは」
 緒形から質問が向いたことに気付くのにさえ時間を要しながら、杉代はくぐもった声で答えた。
 満足に呂律も回ってはいなかったのだが、杉代の言わんとすることを緒形は態度と表情から察したのだろう。
「恐ろしいですか?」
「だから、解らねぇって」
 主語を伴わない質問を緒形が続けたことで、問答は続いた。
「力を手に入れて、首尾良くその「特別」になることが出来たら、杉代先輩は一体何を望みますか?」
「へへ、答えられないことなんだよ、……それは力を手に入れてから考えることだからな。それと、もう一つ言っておく。ただ、力を得ることで特別にはなれないさ。力は特別を得るための手段にはなるかも知れないがな」
 自ら重ねて問いをぶつけておきながら、いざそうやって杉代から推察を返されると、緒形はその態度を曖昧なものへと変える。約束を果たすと明言しながら、杉代が「一体何を考えていたか?」を緒形は不安に思っていた。
「……良く解らないですけど、わたしはこの取引が全うされるのなら、それで構いませんよ」
 緒形が求めても杉代が声に出して話すことを良しとしなかった言葉。
 それに対する見解として緒形は言った。その内容が予想出来ないから不安を覗かせてはいたものの、もう後には退けない段階まで来てしまっている。緒形としても腹を括るしかなかった。
「蒲原さん」
 緒形が名前を呼ぶと、蒲原は緒形を確かな意識を持って注視する。
「わたしはこっちの世界に引きずり込まれて、制限を取り払われたみたい。敵対種と闘争を続けることだとか、複合体の一つとして担っていた「考える」という役目だとか、そういう制限からね。それはわたしの望んだことじゃないけど、こうして実際にその立場に置かれてみると複雑な気持ちだよ」
 唐突に喋り出した緒形の言葉に、蒲原の表情は複雑だった。
 困惑だとか、警戒だとか、様々な感情が入り交じっていながら、徹して感情を表に出さないようにしている。まさにそんな言い方が正しかっただろうか。意識が朦朧としていながら、頑として気を強く持つ蒲原の様子はさすがだとも言える。
 しかしながら、緒形の側がそんな蒲原の様子を気に出来る状態にはないらしく、一方的に言葉を続けた。ただ、そうやって一方的な話を続ける緒形の表情にも、雑多な感情が複雑に入り交じる様子が見て取れた。
「……色々と余計なことを考えている」
 具体的にその「色々なこと」については言及せず、緒形は曖昧に微笑んだ。
 どちらかと言えば、それは苦笑いに近いだろうか。
「どうして突然、そんなことを言い出したのか、自分自身にも判らない」
 その曖昧さは緒形のそんな心中を的確に表現していたかも知れない。
「元々、わたしは考え判断することを要求され続けてきたからなのかな」
 蒲原、杉代。
 緒形はその両者とまだ会話を続けたかった様子を窺わせていた。しかし、ズブッ、ズブッ……と触手を引き抜くと、力を覚醒させる作業が終了したことをその態度で告げたのだった。
 緒形にその気があれば、作業の終わりを告げずに会話を続けることはいくらでも出来たはずだった。「騙して」とは言葉が悪いだろうか。しかし、緒形が本当に会話を続けたければ、……それこそ、騙してでも続けることは出来たのだ。
 では、なぜ続けようとしなかったか?
 緒形が几帳面だったからではない。二人を騙すことに罪悪感を覚えるわけではない。
 それは緒形自身が会話を続けることに不安を覚えていたからだ。どんな力に覚醒したのか、緒形自身が把握出来ない二人を相手に、そうやって共有部分を持つ繋がった状態のまま、会話することを危惧したからだった。
 トロンとした虚ろな目をバッと開眼した杉代は、触手を引き抜かれたのを境に、意識がはっきりとしたらしい。そして、力を覚醒させる段取りが終わったことを理解したらしい。
「俺は一体どんな力が使える様になったんだ?」
 両手に視点を落とす杉代は興奮醒めやらぬ様子で問い掛けた。
 それは緒形へと向けられたものと言うよりかは自分自身に向いたものである。
「さぁ、……それはわたしには解らないことですから。目が覚めたら、実際に、使って確かめてみて下さい」
 すっと緒形が手を掲げると、ふっと周囲の風景が掻き消えて、杉代と蒲原は自由落下に似た感覚に襲われた。そうして、蒲原、杉代は急速に現実世界へと引き戻される。


 目を覚ました蒲原は自分がコンクリートの上に胡座を掻く格好で座っていることに気が付いた。
 一つ遅れて目を覚ました杉代も、蒲原と同じく社員寮跡の屋上に大の字で寝転がっていることに気が付いた。
 ジジッ、ジジッと音を立てる蒲原のランプはいつの間にか度合いの増した暗闇を切り裂く様になっていて、時間にして三十分近くが経過していたのだろうか。夜が更けて風向きが変わったのだろう、櫨馬の中心部の方向から吹き抜けてきていた乾いた風は代栂町の南方から平野を吹き抜けてくる湿気を伴ったものになっていた。
 ムクリと上半身を起こした杉代につられる格好で、蒲原が立ち上がる。すると、それに呼応する様に、足を折ってぺたんとお尻を付く格好に、惚けた顔をして空を見上げていた緒形が体勢を取り直した。瞳の焦点の定まるのが最も遅かったところを見ると、現実世界に戻ってくるのに一番時間を要したのは緒形だったのだろう。
「何かが変わった」
 蒲原はボソリと呟くと、変化を確かめるかの様に身体のあちこちを動かし、その反応を窺った。けれど、妙にスッキリとした気分以外は取り立てて変わった様子を蒲原は感じない。
「正直な話、そんな実感はないけど、今、それだと実感出来ないだけでわたしの中の何かは変化したんだろうね」
 空に浮かぶ青白い月を両手で掴み取ろうとするように手を伸ばし、蒲原はピタリと静止する。視線を忙しなく移ろわせて、蒲原がその瞳に納めていたものは月ではなかった。翳す様に月へと伸ばした腕をゆっくりと下ろしていって、その矛先を遠目に映る夜景へと変えると、蒲原は満足そうに口を真一文字に結んだ。自身の身体の中で起こった変化に対して、蒲原は徐々に何か「引っ掛かるもの」を覚え始めている様子だった。
「……それも、何だか、かなり劇的に変わったみたいね。ふふ、あはははは」
 唐突に高笑いを始めた蒲原の様子を、緒形は不機嫌一色の表情で眺めていた。杉代は杉代でそんな蒲原の様子に顔色一つ変えることはない。まるで、その蒲原の感覚も「理解出来る」と言わないばかりの心得顔だ。
 それが尚更、緒形の機嫌を悪化させたのだろう。
 潜在能力を覚醒させるに至った張本人を差し置いて、自らに変化が起こったことを嬉々として楽しむ二人の様子を緒形は理解出来ない。尤も、その覚醒に導いたのが緒形なのだから、二人が楽しむ「未知の感覚」を共有することなど出来るはずはない。しかしながら、ことはその「未知の感覚」に限らず、何かを悟るだとか、何かを理解するだとか、そういった感覚の上のことで緒形は「置き去り」にされた感があるのだろう。
 緒形自身が判らない範囲のことを、自分を差し置き勝手に理解されるのが気に食わないのかも知れなかった。
「今、心が躍る気分だ、……わたし。信じられないくらい心地が良いよ。生成されてはいけない量のアドレナリンが脳内で生成されちゃってるのかも知れないよね。どうしてだか、緒形さんには解る?」
 蒲原が唐突に緒形へと向き直ったことで、緒形はあからさまな不機嫌の表情を潜ませた。しかし、態度に滲み出るその「不機嫌さ」を隠し通すことは適わない様に見える。
 けれど、それに気付かないのか、気付いていてもそれを気に出来る状態にないのか、蒲原の慶色は微塵も揺らがない。
「……潜在能力に、目覚めたから?」
「あぁ、それもあるかも知れない。でも、そんな些細なことじゃないよ」
 思い至る範囲のことで最も有力だと信じた答えを、蒲原に「些細なこと」と楽しそうに片付けられて、緒形の不機嫌さはさらにその度合いを強いものにした。
 そして、絶妙のタイミングで蒲原が「クスッ」と含み笑いを漏らす。
 それはまるで、緒形が不機嫌を加速させてゆく様子を笑うかの様だった。
 もちろん、そこまであからさまな「蔑視」とも取れる態度を見せられて緒形が黙っているはずはない。
 緒形はキッと蒲原を睨み据えると、今まさに、怒りを込めた第一声を口にしようと口を開く。しかし、実際に緒形が蒲原へと向けて非難の言葉を向ける事態は回避される。なぜならば、蒲原がそれを遮るタイミングで覗き見をする第三者へ向け、警告を向けたからだ。
「出て来なさい、そんなところで様子を窺っていないで。……覗き見って、あんまり良い趣味だとは思わないわ」
 その声の先に広がるものは暗闇、そして、屋上の終わりを告げる縁があるのみだ。
「いやー、覗き見はしてないじゃないっすか? 見てないですもん。ちょっと、立ち聞きする格好にはなっちゃってましたけど、それもたまたま、ここ、通りかかっただけで、ホント、そんなつもりは無かったんですよ」
 しかし、トンッと屋上の縁に手を掛けて、クルンッと身体を捻る要領で、佐々木は屋上へと姿を現した。弁解にもならない弁解を口にして、それはまるで蒲原を小馬鹿にしているかのような内容である。ちょっと考えれば「通りがかっただけ」という言葉が嘘であることは明白なのだからだ。
「あらら、代栂中央高校近隣にまで名を馳せる問題児のお二人も、随分と様変わりしちゃったご様子で」
 動揺を誘いたかったのだろう、続ける言葉で佐々木は意味深な発言をし、蒲原と杉代をそれぞれ交互に注視する。一応は腰を低くした態度で二人の先輩を立ててはいるものの、そこに二人を敬う気持ちが微塵もないことは明白だ。白々しいとはこのことを言うのだろう。
 それが判るから、佐々木に対する蒲原の口調も、……態度にしても、きついものになる。
「生徒会の使いっ走りに過ぎないあなたが一体ここに何の用? 弘瀬に言われて自宅謹慎の様子でも見に来たの?」
「廃墟というか、葎の門といいますか、ここが蒲原さんの自宅というのなら、蒲原さんのご自宅とはまた悪魔とか妖怪とかが彷徨いていそうな場所ですね。まぁ、それが蒲原さんらしいと言えばそうなのかも知れませんけど」
 社員寮跡をぐるりと見渡し、一瞥した後、佐々木はここが蒲原にお似合いだと寸感を述べる。蒲原の「自宅謹慎の様子を見に来た」発言を受けて、揚げ足を取ったわけだった。
 尤も、それを蒲原が気にした様子はない。「挑発には乗らない」と言わないばかりに、努めて冷静に対処する。どことなく、佐々木に寄生をしたオフサルモの存在に気付いている節さえある。
「口が達者なネゴシエーターという肩書きも、強ち嘘ではないみたいね?」
「それ、弘瀬さんとかが俺を評した言葉っすか? うわ、酷ぇな。ネゴシエーターって、聞こえは良いけど、生徒会での役割に照らし合わせて考えると、ただの怒られ役っすよね」
 カラカラと笑って見せて、曖昧に場を濁しはしたが蒲原と杉代の強い警戒の視線は微塵も揺らがなかった。何か不審な挙動を佐々木が見せた時には直ぐさまその警戒は敵視へと変わるのだろう。
 ただ一人、緒形だけが突然の闖入者である佐々木の思惑に気付いていないらしかった。怪訝な表情をしてはいるものの、そこに明確な敵視の色はなかった。
「さてさて、蒲原に会いに来て、緒形奈美と鉢合わせするとは思ってなかったよ、……へっへー、どうする?」
 佐々木は苦笑いを灯すと、横目で緒形の様子を盗み見た。オフサルモにその判断を委ねるものの、当のオフサルモも何が上分別なのかを探っている様だった。
 この場は佐々木の話術に頼って、事態がどう動くのかをオフサルモは注視する。しかしながら、しばらくは佐々木に任せて様子を窺おうというオフサルモの思惑も杉代によって根底から崩されることになる。
「あぁ、こいつだ」
 小さく二度頷いて見せて、杉代は誰に向けるでもなく切り出した。
 緒形はそんな杉代の心得顔に、怪訝の度合いをより強いものへと変える。
「?」
 緒形はじっと佐々木を注視するも「事情を飲み込めない」と言わないばかりに、杉代へと向き直った。
 対する杉代はそんな緒形の様子に微苦笑を隠さない。敵対種に強い不安を抱き、その存在に拘りながら、実際に敵対種といえるだろう相手を見抜くことが出来ない。突然、そんな緒形が可愛いいもののように見えたわけらしい。
 そして、緒形がいった「自衛をするに十分な力を備えていません」との言葉に杉代は強い真実味を覚えた。
「緒形、……判んねぇのか? そいつだよ、お前の言う敵対種」
「……ッ!」
 緒形は一瞬にして目の色を変える。
 佐々木を見る瞳に敵意を混ぜて、警戒を向けながら躙り足で距離を取る緒形の様子は滑稽だった。今の今まで佐々木に対して何の警戒も向けていなかったからこそ、その間の抜けた様子が浮き彫りになった格好だ。
 慌てふためいたかの様にも映ったそんな緒形の様子には「敵対種から守る」役割を担うはずの杉代までもが思わず、笑いを噛み殺せなかったぐらいだ。
「生徒会の使いっ走りだって? 弘瀬はともかく、俺はお前なんざ知らねぇな。……で、緒形に何の用がある?」
 緒形を庇う様に一歩前へと歩み出る杉代に、佐々木はお手上げのポーズを見せた。そのポーズのまま無言で首を左右に振って、佐々木は「否定」をする。それは「敵対種」と呼ばれたことに対するものであり、また、同時に当初の目的が緒形ではなく蒲原であることを暗に示したわけでもあった。
 もちろん、佐々木にはそのジェスチャーの意図を相手に判って貰おうという考えはない。だから、実際に否定の言葉を用いて、それを真っ向から「違う」とは言わないし、敵対種だと決めて掛かられることにも顔色一つ変えはしなかった。
 最終的に緒形へと話が及ぶことは確定的で、佐々木が緒形の「敵対種」になるだろうことも確定的なのだからだ。
「……あんたは有名だぜー、杉代先輩? 喧嘩に喫煙、教師に暴力行為、……エトセトラ。今時、義理堅くて、実は面倒見の良い親分肌ってのもポイント高いっすよ。そうだな、代栂中央の校名を聞いて思い付く問題児で十本の指には入るだろうさ。ちなみに俺は生徒会所属の佐々木祐太ってもんだ、ぜひ、これからはお見知りおき下さいよ」
 丁寧にお辞儀をして見せる様が、また、何とも言えず嫌味に映る当たりが佐々木だった。もちろん、佐々木自身もそれを意図して「お辞儀」なんてして見せたことは否定のしようもない。
 その自己紹介を杉代は笑い飛ばす。
「はは、嫌でも忘れねぇだろうな。こんな感覚は生まれて初めてなんだぜ?」
 そして、お見知りおきもへったくれもない、もう忘却など出来ないと口にした。
 杉代は個人差の大きい感覚云々の話をしたが、それを境に佐々木は理解した。オフサルモの存在そのものか、オフサルモという「特別な何か」を有していることを杉代が肌で感じていることをである。
「……何でかは俺にも判らない、でも、お前は緒形よりよっぽど人じゃない感じがするぜ? ビコーン、ビコーンって俺の中の危険信号が灯ってるっつーか、……何だろうな、気配が違うって言えば良いのか? 正直に言えよ、お前もその儀式の時に何かに寄生されておかしくなった口じゃねぇのか?」
 事実、それを杉代は杉代自身の言葉を持って、そう佐々木に問い詰めてきた。
 どう切り返すべきかを迷う佐々木に、杉代は推測の言葉をぶつける。
「そうだな、例えば、緒形の中にいる奴の、その敵対種だとかな!」
 それはこちらの世界には緒形の言う敵対種がいないと信ずるからこその杉代の言葉だった。
 そして同時に、オフサルモが佐々木のどこに寄生しているのかを見抜けていないこと、また、オフサルモの存在自体が何なのかを把握出来ていないことを佐々木は理解する。
「酷い話だよな、それ。人間だぜ、俺は。そっちの緒形サンと違って、一番大事な、中身が人間だよ」
 杉代の言葉をスパッと否定すると、佐々木は緒形を睨み据えて、一歩、前へと進み出る。
 佐々木と緒形の間には杉代が立っている。それはまるで、佐々木の進路を妨害する様に、そう、緒形を守る様にだ。
 けど、緒形は後退った。追い詰められた鼠の顔をしてだ。
 オフサルモを有した佐々木の、根拠のない自身が放つ迫力に押されたのか。オフサルモを有した佐々木を敵対種に限りなく近い存在だと認識したのか。それとも、杉代では佐々木を止めることが出来ないと判断したのか。
 それは定かではない。
「お前はさ、こっちの世界に存在するべき種族じゃないそうだ」
 佐々木は言った。尤も「佐々木は言った」というのはおかしいのだろう。あくまで佐々木はオフサルモの言葉を代弁していたに過ぎないのだ。しかし、冷徹に淡々と代弁をしたからこそ、そこに灯る迫力は際限のないものになったのだった。
 杉代が内心、怯臆するほどに、佐々木は揺るぎない自信をまとっていた。
「外来種って判るか? ……お前はそれと同じそうだ、必ず生態系を崩す存在になるんだとさ。緒形奈美を解放し、黙ってお前の世界に戻るのなら良し。そうじゃないなら……って、そもそも、緒形奈美はきちんと原型留めて残ってるのか? お前、全部、食っちまったんじゃあ、ないのかッ?」
 その佐々木の口振りで、緒形は瞬時に理解した。
「人間の意識を食することが出来ること」
 その事実を佐々木が知っていることをだ。
「……食う?」
 蒲原が怪訝な表情でボソリと呟いた。
 佐々木が用いたその言葉は緒形の動揺を誘うだけでなく、蒲原を足止めするという付加効果をも発揮する優れた材料になった。もちろん、佐々木がその付加効果を意図して用いたはずはなく、佐々木は強い追い風を受けた形だ。
 険しい表情で身を強ばらせた緒形の、動揺したその一瞬の隙を見逃すことなく、佐々木は行動に転ずる。クルクルと利き手の人差し指を空に存在する何かと絡ませる様に動かすと、次の瞬間、ふっと蒲原のランプの明かりが掻き消える。それと同時「トンッ」と、これ見よがしな足音を立てて、佐々木は動いた。
 杉代を攪乱するため、進入経路を微妙にずらして佐々木は蒲原と杉代のちょうど中間点を駆け抜けた。足場が悪いはずの社員寮跡の、あちらこちらに罅が入って突起まで存在するコンクリート上を佐々木はあっという間に距離を詰めたのだった。暗順応が追いつかない杉代と蒲原は咄嗟の行動出来ないながら、オフサルモを有する佐々木の右目は関係なかった。
 緒形奈美という生身の肉体に対して向けた佐々木の物理的な攻撃が致命傷になり得ると判っていたからこそ、緒形の意識は自身の肉体を守るが故の挙動になった。普段は常に自身の本体である、意識だとか精神だとか呼ばれる部分に向けていた防御の意識を裂いて、肉体の防衛に当てたのだ。
「佐々木には自分を殺すことは出来ない」
 緒形がそう考えることはなかった。
 物理的な手段を用いてでも「佐々木は自分を殺すだろう」と思う緒形の理由も明確なものだった。それは意識を食した事実を佐々木が知っているからである。あらゆる意味で意表を付いた佐々木の挙動に緒形は完全に体勢を崩されたわけだった。そして、それは佐々木の緒形に対する攻撃にしてもそうだった。緒形が杉代や蒲原を相手に意識を共有して見せた様に、佐々木も緒形に対して同じことをしたのだった。
 佐々木に取ってしてみれば、直ぐにその共有をはね除けられても構わなかった。緒形という肉体の奥に隠れた形がどんなものであるのかを一瞥したかったに過ぎないのだからだ。事実、佐々木はすぐにはね除けられることを良しとする。
 すぐに緒形の抵抗も生まれ、杉代と蒲原からの攻撃の意志を感知したこともあった。しかし、攻撃の対象となった当の緒形が信じられないといった顔をするほど、佐々木はあっさりと引いて見せた。それが逆に緒形の警戒を強いものにしたのは言うまでもなかった。
「……捉えたか?」
「あぁ、捉えた。今なら、あんたの言ってたことが良く解るな。……見えるってのも難儀なものなんだねぇ」
 オフサルモからの確認の言葉に、一度、佐々木は首を捻って見せた後、苦笑いの表情を取る。
「あんたも確認したんだろ? ……率直に聞かせてくれよ、どう思った? 俺は寄生とかいう表現で済むレベルじゃないって感じたぜ? 融合って言葉の方がしっくり来るんじゃないのか?」
 佐々木が緒形をその目に捉えて、はっきりと確認したその全貌は杉代のものに近かった。
 緒形のどの部分に寄生をし始めて、その形へと変容したのか推測出来ないほど、それは凄まじかった。佐々木が見た緒形は、既に緒形のその半身が原形を留めていない状態だった。原形を留めるもう一方の半身は完全に目を瞑ってしまっていて、深い眠りに付いている様に佐々木には感じられた。外からの刺激に対して反応を見せるのも、変容してしまった半身の側で、もう一方は佐々木の接触に反応出来る状態にないらしい。
「そうだな、融合の方がしっくり来る状態ではあるな。恐らく、緒形奈美の持つ感覚の大半を共有しているのだろう。簡単に切り離して片が付く状態ではないのは確かだが、同時に、緒形奈美自体を食い尽くすことが適わないのも理解した」
 オフサルモからの言葉を余裕を持って聞いていられる状況にはないらしかった。
「いきなり何をしやがる! テメエはここに緒形を消しに来たのかッ!」
 敵意を剥き出しにした杉代から佐々木へと罵声が響き渡ったからだ。
 誰も触れていないはずのランプに炎が灯るのを確認出来たのは蒲原だけだっただろうか。佐々木にしてもオフサルモにしても気が付けなかったわけだが、それを行ったのは緒形その人である。
 尤も、佐々木が緒形へと継続して意識を向けていられる状態になかったことだけは確かである。
 なぜならば「離れろ!」ないし「そこをどけ!」という意図を持って感情的に腕を振り上げた杉代の、その指先から衝撃波が生まれたからである。佐々木に対して強い敵対視をしたことも影響したのだろう、そして、何よりも感情的になっていたことが影響したのだろう。それは佐々木に向けて撃ち放たれたものだった。
 佐々木は半ば無意識的に右目を見開いていた。
 瞳孔が収縮し、急接近するそれを捉える。
 当の佐々木は気付かなかった格好だから、それは「オフサルモが……」と言った方が適当なのだろう。
 それは剣で空を切って生まれた斬撃が、そのまま距離を詰めて猛スピードで飛んでくるようなものと言えば適当だった。本来ならば、刀身で触れた部分でしかものを切ることが出来ないにも拘わらず、空を切った延長線上にあるものを刀身で叩き切るかの様に扱うことが出来るようなものだ。
 しかも、その斬撃は一本ではない。杉代がその腕で、一度、空を切っただけで、同時に複数個が生まれたのである。
 しかし、無意識のうちに腹部を庇う様に体勢を取った佐々木の、その腕を掠めることもなく、それは拡散する。そうだ、佐々木を叩き切ろうか切るまいかと言う距離に来た次の瞬間、それは完全に拡散していた。
「恐れるな! 身にまとう障壁の、強度の調整さえ間違わなければ、こんなものは簡単に防ぐことが出来るものだ」
 佐々木は声を荒げてオフサルモに反論をする。
「障壁の強度だってッ? そんなもん、どうやって調整すれば良いのか判んねぇよ! そもそも、障壁って何だよッ! 俺はあんたから何も説明受けちゃいないぞ!」
「相手の攻撃に対して目を閉じようとするな! それが何なのかを見抜いて的確に対応することこそが障壁の力を最大限に引き出すことになる」
 その障壁に至る根本的な説明を要求する佐々木に対して、オフサルモは障壁の使い方を理解した上で必要となる話をするから、そこにはものの見事に溝が生まれる。
「だーかーらー!」
 佐々木はオーバーアクションをして「そもそもが障壁の存在も、使い方も判らない」旨をオフサルモに強く訴えた。抗議したと言ってもいいかも知れない。ともあれ、端から見れば、そんな佐々木の言動は奇怪極まりなかっただろう。
 事実、杉代も蒲原も、意図の不明瞭な佐々木の言動には不審な目を向けていた。ただ、蒲原はその奇怪な行動が衝撃波を掻き消す何か特殊な力を発動させる前兆か何かと勘繰っていたらしい。杉代に至っては「だーかーらー!」と唐突に叫んだ佐々木の言葉を秘密の呪文か何かと判断して様子を見たぐらいだ。
 それだけ、杉代の攻撃を無効果した佐々木に二人は衝撃を覚えた格好だった。杉代の生み出した衝撃波を拡散させたという事実がなければ、間違ってもその奇怪な佐々木の行動に対して身構えるなんて真似は見せなかっただろう。
「仕方がないのだ、こればっかりは実際に身体で覚えるしかない類のことだ。どうだと言葉で教えられることではない。まして、わたしは祐太と感覚や思考を共有しているわけではないのだからな。一度出来るようにさえなってしまえば、後は精度を引き上げていくだけだ。何度か、わたしがわたしの意志を用いて障壁を使ってみせる、その方法をその身で感じて覚えるのだ!」
 佐々木は杉代に対して半身の姿勢を取って一つの箇所に佇むと、腕を組んで思案顔を見せる。それは「障壁の発動がどんなものなのか?」を感じようとする姿勢であり、同時に、杉代に隙だらけの面を晒すものだった。
 オフサルモが障壁を使って見せてくれると言うのだから、佐々木としては気が楽だった。
 ただただ、杉代の攻撃の的になるだけで良いのだからだ。
「目を開け、そして、空を掻いて接近してくるものが何なのかを見抜くのだ。捉えてしまえば対処は容易だ。あれは圧縮空気を撃ち出したに過ぎないようなものだ。指先で描いた直線上に空気を収縮させて、それを前方に打ち出しているに過ぎない、衝撃波の類だ。人によって捉えた方は異なるだろう、しかし、祐太にはその形も輪郭も捉えることが出来るものだ」
 オフサルモから佐々木がそうやって「何をすべきか?」を諭されている間に、杉代が第二波を撃ち放つために空を切る。佐々木は杉代の方を一瞥さえしない格好だったが、杉代の指先から生まれた第二波は佐々木を掠めることさえなかった。
 佐々木の頭部を狙ったものかどうかも疑わしいほど、軌道の外れた衝撃波に杉代は顔を顰める。
「クソッ! まだ、上手く狙えねぇのかッ!」
 焦りの色を強くする杉代の肩をポンと叩いて、蒲原が杉代の前へと出る。尤も、肩へ手を置いた動作は杉代に落ち着く様に諭したものでもあっただろうか。
「……動きを止めるわ」
「……何? 今、なんつった?」
 すっと手を伸ばして佐々木の位置を確かめ瞑目すると、蒲原は言い直す。
「佐々木クンの動き、止められそうな気がするもの」
 まるで視覚が邪魔だと言わないばかりに、瞑目した蒲原はぐぐっと伸ばした利き手で距離の離れた佐々木を掴み取ろうと言わないばかりだ。
 しかし、次の瞬間、佐々木の顔色が変わる。佐々木の感覚の上では誰かに足を掴まれた感覚と言うよりも、それは足枷と重りを両足に付けられた感覚に近似していた。微動だに出来ないほどの重さではなかったが、突然の事態だったこともあって佐々木は焦燥感に囚われる。焦れば焦るほど、対処方法を思索する思考はこんがらがって取り留めのないものになったが、逆にそれが功を奏した形になる。
 蒲原によって、ふっと冷静さを取り戻した杉代が撃ち放った衝撃波を否応なくその目で注視することになったのだ。
 佐々木と杉代との距離を衝撃波が詰めてくるスピードを捉えて、薄闇にうっすらと輪郭を取って浮かび上がる確かな形を佐々木は理解したのだ。それは佐々木が想像していたものよりもずっと、切れ味のないもののように見えた。いや、その衝撃波を紡錘形と捉えて切れ味がないと判断したことは、イコール、切れ味がないことを見抜いたに等しかった。
 再度、佐々木は右目を見開いた。
 オフサルモの「障壁を使ってみせる」といった言葉が頭に残っていたわけではない。だからといって、観念した訳でもなかった。「どうにかやり過ごして見せる」といった確固たる意識がそこにはあった。
 その直後、ボフッと大きな音がなって、初めて佐々木はその障壁の存在を確認した格好だった。そこに「障壁が存在するんだ」と認識してしまえば、佐々木の右目がそれを捉えるのはすぐだった。
 呆気にとられたような顔で「ああ、忘れてた」と言わないばかりの佐々木に、オフサルモは佐々木が見抜いた衝撃波の性質が間違いではなかった旨を説明する。
「最初の一撃より、ずっとずっと密度の低い一撃だ。まだ完全に力をコントロール出来る状態にはないのだろう。怒りや焦り、畏れなどの感情、集中力などの諸々の要因によって、大きく威力が左右される段階なのかも知れない。あの当人の当惑した様子からも判る様に、自らの意志で威力のコントロールはままならないようだ」
「下手な鉄砲みたいなもんだな?」
 佐々木はそう口にしながら、それを「鉄砲」と呼ぶには少々迫力不足であることを感じていた。銃身から射出される弾丸の速度と比較すると、その衝撃波の進行速度はお世辞にも「弾丸同様に高速なもの」だとは言えないのだからだ。
「これなら、わざわざ障壁に頼らずともかわせるんじゃないのか?」
 率直な佐々木の感想は身の程を弁えないものでもなければ、杉代の撃ち放つ衝撃波を過小評価したものでもなかった。少なくとも、今の杉代が扱うレベルの衝撃波であるならば、その形と進行方向を見ることの出来る佐々木の脅威になりえるものではなかった。
「そうだ、そして、そこに補足をするなら「数を撃ってもあたらない」下手な鉄砲だ」
 その言葉が佐々木の感想を踏まえた上で言ったものかどうか、それは定かではない。
「何発、撃ち放たれようとも障壁で相殺することが出来る」
 そこにはそんな意図があったかも知れない。
 しかしながら、佐々木が杉代に必要以上の警戒心を感じなくなったのは確かだった。
「へへ、なら、怖くはねぇよな! あー……、でも、二対一、三対一じゃ分が悪いんじゃないのか?」
 佐々木は蒲原、杉代、そして、我感知せずの顔をして束手する緒形をそれぞれ順番に横目に捉えてた。三対一と言い直したのも、今は傍観に徹している緒形がいつ参戦してきてもおかしくはない状態だと思ったからだ。
 しかし、オフサルモは例え三対一の事態に陥っても、どうとでも立ち回れる旨を説明する。まして、目的としているところが相手を打ち倒すことではないことをオフサルモは強調する。
「そんなことはない、全ては力の使い方だ。尤も、杉代という男以外はまだ手の内を見せていないから、事態が暗転する可能性はある。しかしながら、その可能性は限りなく低い、案ずるな。今やるべきことは奴らをどうこうするのではなく、手の内を開かさせ対処方法を模索することだ」
「オーケーオーケー、あちらのお二人さんにも力を使わせりゃいいわけだ。……なんとでもならぁな」
 いくら暴れて見せても杉代が脅威にならない状況下、それは完全な佐々木の楽観だとは言えなかった。
 佐々木の視野は既に、佐々木から蒲原へ、さらに言うなら緒形へと向いている。
「さっきから何ゴチャゴチャ独り言、呟いてんだよ!」
 思い通りに衝撃波を操れない状況は杉代を苛つかせているらしい。杉代の攻撃は狙いを定めて撃ち放つものから、完全に闇雲な下手な鉄砲へと変わっていた。杉代は二重三重に衝撃波を重ねて撃ち放ってはいたものの、一度目を撃ち放ってから二度目を放つまでにはタイミングを容易に取れるほどの間が生まれている。
 回避をするという観点から見ると、それは付け入るべき弱点と言ってしまっても過言ではない。
 杉代が撃ち放つ衝撃波を縫う様に位置取り、佐々木は身軽にそれらを回避した。当人である佐々木は意識はしていなかったのだろうか。しかしながら、杉代に衝撃波が通用しなくなったことを痛感させたのは他でもない、佐々木の自信に充ち満ちた得意気な顔だった。
 佐々木はタンッと地を蹴って、杉代への距離を一気に詰める。
 杉代の眼前までの距離を詰めるに要した時間には当の佐々木自身が驚いたほどだった。節々の感覚が身軽さを物語り、反応が著しく向上していることに、佐々木は距離を詰めてしまった後になってようやく気付いた格好だった。
 杉代は大きく目を見開いて、当惑の表情を隠さなかった。有り得ないスピードで切り込まれて、どうしていいものか咄嗟に判断出来なかったのだろう。苦し紛れに見せた感の強い防御姿勢も、頭部を守るお粗末なもので、佐々木にしてみればそのまま杉代の腹部を強打することも可能だった。
 そんな防御姿勢を見せる杉代の脇を擦り抜けて、佐々木の攻撃の矛先は蒲原へと向いた。
 その佐々木の挙動にはさすがの蒲原も、杉代同様、一瞬、驚いた様に大きく目を見開いた。けれど、佐々木の狙いが自分だと理解すると、蒲原は不敵な笑みを灯して見せて、佐々木を真っ向から睨み返す。
 傍観を決め込んでいた蒲原の度肝を抜いただけで、正直な話、佐々木は気持ちがすっとするのを覚えていた。
 今の今まで、手の届かないところにいて我がもの顔であしらわれていた相手に、その分野で喉元まで切り込む術を手に入れた。そんな感覚がささやかな満足感の大本だっただろう。
 そんな一種の、優越感に浸らなければもっと早い段階で、視覚に捉えることが出来たのだろうか?
 蒲原まで後二メートルとない位置まで接近して、佐々木を違和感が襲った。それは急激な気温の境目があったただとか、そういう類の、誰もが肌で感じられる変化ではない。しかし、確かに佐々木は蒲原へと接近をして踏み込んだ空間が通常のものではないことを察した。
 言い方を変えるなら、佐々木の中の危険信号が灯ったという言い方でもいいかも知れない。
 次の瞬間、蒲原の表情は不安と期待の入り交じった複雑なものに切り替わっていた。そして、佐々木は回避するべく術もなく、両腕を差し出す様にして作り上げた蒲原の黒い亀裂に飲み込まれていた。社員寮跡の屋上を覆う薄闇の中に生まれながら、それは漆黒の闇でもあるかの様だった。
 佐々木の姿が完全に黒い亀裂の中へと掻き消えると、蒲原は呆然とした表情でその場に立ち尽くしていた。そして、クルリと緒形へ向き直ると、強い期待と微かな困惑の入り交じった顔で話し始める。
 対照的に、そこには緒形の惚けた表情があったことなど、蒲原の目には留まらなかったのだろう。
「ねぇ、緒形さん? わたしが持っていた潜在能力っていうのは……」
 そこまで言葉を続けた所で、突然、蒲原は「力尽きた」といわないばかり「トサッ」と静かな音を立ててコンクリートの上へと倒れた。
 あまりにも、突然の出来事だったからだろう。杉代はしばらく呆然とその蒲原の様子をただただ注視していた。
「おいッ、大丈夫か!」
 杉代がハッと我に返って声を挙げたのは蒲原が苦しそうに一度呻き声を上げた後だった。そして、蒲原へと走り寄ろうとして、再度、杉代は立ち眩みを覚えて片膝を付く。
「何だよッ? さっきから妙にふらつくぜ! これは……立ち眩みか?」
 頭を抑えつける様にしてはいたが、別段そこに苦痛や鈍痛を感じているわけではないらしい。杉代の表情にあるものは立ち眩みの理由を探る苛々で、痛みに歪んだ風はない。
 冷静さを欠く杉代の髪を梳くかの様に頭を撫でて緒形は告げる。
「覚醒したばかりの慣れない力を使ったから負荷が掛かったみたいです。特に、蒲原さんの覚醒した力は消費するエネルギー量が多いみたいだから、この負荷に慣れるまでは大変かも知れない」
 慈しむかのような緒形の目は約束を果たそうとした杉代を労ったから故のものだろうか。
 杉代は気恥ずかしさを感じて俯いたものの、その手を振り払う気にもなれなかったらしい。緒形のなすがままになっていた。するりと緒形の手が離れると、杉代もようやく顔を上げる。
「今日は……、もう、襲撃されることはないでしょうね」
 そう呟いてみせた緒形は風に靡く髪を厭う様子もなく、不気味なほどに冷たい目を夜空へと向けていた。
 向こうの世界では敵対種と食うか食われるかの熾烈な闘争を繰り広げていたと緒形は口にした。だから、佐々木を敵対種と認識したことで激しい闘争心が沸き上がったのかも知れない。寧ろ、この世界にも佐々木のような「敵対種」がいると再認識をしたのだから、そう感じるなと言う方が無理があるのだろう。
 それが闘争心なのか、確固たる理由なく無意識的に沸き上がる憎悪なのかはともかく、それを瞳に灯す緒形の横顔は杉代に見せたことのない新たなものだった。人間が人間を憎悪するものとは明らかに一線を画す、妬みだとか、恨みだとか、そういった柵を一切持たない純粋な闘争心に杉代は目を奪われた。
 そして、杉代は改めて、緒形が人ではないのだと認識した。
「杉代先輩も少しこの場で休んでいた方が良いと思います。……何か、必要なものがあれば、ここに持ってきますから遠慮せずに言って下さい。……ああ、立ち眩みが無くなったからと言っても、蒲原さんが目を覚ますまではきちんとここに居てあげて下さいね」


 寸止めをするつもりで伸ばした腕がそのまま空を切った。
 しかしながら、本来ならば蒲原を殴りつけていただろう腕がその目標を捉えることはなく、佐々木は勢い余って踏鞴を踏む形になる。
 一瞬の浮遊感、それがなかったなら幻覚でも見ていたのかと錯覚さえしただろう。杉代が衝撃波を放って見せたことも、蒲原や緒形と会話をしたことも、である。
「……何が起こったんだ?」
 佐々木はボソリと呟いた。
 周囲の景色に視線を走らせて「ここがどこなのか?」を確認する佐々木に、取り敢えず、焦りはない。
 少なくとも、その場所は人の生活する範囲の空間だった。そして、見渡す限りは日本的な一軒家が立ち並ぶのだ。自動車二台が行き違うことの出来ない狭い路地も、遠目に見える夜空が人工灯に染まる様も、ここが現実世界と一線を画すようなおかしな場所ではないことを証明してくれる。
 明かりの灯る周囲の一軒家には人の気配もあり、どこかの国道を疾走しているのだろう乾いたエンジン音も聞くことが出来る。唯一、不安な材料があるとすれば、ここが代栂を遠く離れた場所かも知れないことだが、それもオフサルモを持つ今となっては「どうにかなるだろう」ぐらいの楽観視が出来る問題だった。
「蒲原とかいったか、あの娘に穴を開けられた」
 オフサルモから「何が起こったのか?」の簡易な説明を受けて、佐々木は声を荒げる。
「おい、それってッ!」
 佐々木自身の勝手な判断で「どうにかなるだろう」と考えていた楽観視が揺らいだ瞬間だった。
 反射的に口から漏れ出た大きな声は閑静な住宅街に響き渡り、佐々木はハッとなった。
 周囲の路上に人影がないとはいえ、不審に思った地域住民に通報されるかも知れない。
 オフサルモを有する以上、多少の騒動になったとしても「どうとでも言い逃れ出来るだろう」という佐々木の仲での勝手な推測も確かにあったわけだが、それ以上に、佐々木はことの真相を気にして押し黙った格好だった。
「案ずるな、ここは櫨馬との界隈、代栂町の外れだ。中層アパート群の立ち並ぶ代栂町の中にあって、古くから一軒家の建ち並ぶ唯一の住宅街地区、今の時代の呼び名で言うところの羽山丘(はやまおか)とかいったかな」
「あー……、あぁ! このまま、山に沿ってまっすぐ行くと線路沿いの国道に出て、櫨馬学院大学とかがあるわけね。オーケー、オーケー、大体の位置は理解した。そっか、この辺りは羽山丘っていうのか」
 自分の立っている地点の位置関係を理解すると、佐々木は思わず安堵の息を吐き出した。焦燥から解き放たれて、改めて周囲の景色に目を走らせると、確かに遠目にはチラホラと見覚えのあるものを確認することが出来た。
 櫨馬と代栂の境にあって、代栂で唯一、山岳地帯があって起伏のある代栂町羽山丘。
 多少、時間は掛かるものの、そこからならばオフサルモに頼らずとも容易に佐々木が自宅へ戻ることの出来る場所だった。尤も、そこが本当に現実世界の代栂町羽山丘であるのなら……と言う大前提がそこには必要である。
「どうして、こんな場所へと穴を開けられ飛ばされたのか?」
 佐々木はそれを「取り敢えず、自分を遠ざけるためかな?」とか、簡単に考えたわけだった。しかし、オフサルモは羽山丘へと飛ばされたことについて、それが蒲原の意図した場所ではなかったことを説明する。
「あの娘の意図する場所には飛ばされなかった。わたしが警告を下す前に、祐太は抵抗をしていたからな。本来なら、弾かれどこに飛ばされていてもおかしくはなかったわけだが、代栂町の範囲内で済んだのは運が良かったのだろう」
「恐いこと言うねぇ。ちなみに、それは抵抗しない方が得策ってことか?」
 佐々木自身には抵抗をした意識はなかった。状況を把握出来ないでいるうちに、ふっと気付けば、ここへ飛ばされていたわけだから、佐々木として複雑な心境だった。
 オフサルモへと抵抗の有無について質問したはいいものの、佐々木としてはそれ以前の問題でもあるわけだった。
「そうだ。穴を構築している段階ならばともかく、開いた穴に落ちてしまってからの抵抗はあまり良い判断とは言えない。尤も、穴の先が著しく不利な立場にある場所だとか、生死に関わる危険な場所だと判っているのなら話は別だ。但し、その場合にはもっと安全性の高い抜け方がある」
 オフサルモは「安全性の高い抜け方がある」と言いながら、その方法を佐々木に明示しなかった。
 それは抜け方云々以前の問題であることをオフサルモも理解していることを示唆したのだろう。
 佐々木も佐々木でその方法について、オフサルモに質問を向けることもない。恐らく、その時が来て必要ならば、例え、それが九分九厘、無理だと判っていても「やらされるのだろう」と勝手に推測をして佐々木は心得顔をした。
「あの娘が外の存在に目を向けたのはその資質故からかも知れないな。彼女はとんでもない逸材かも知れない。それ故に厄介な存在なのだがな。祐太を制止せずに穴に落ちたのは正解だった、これである程度の種明かしの目処は立った」
 しかし、オフサルモが「敢えて穴に落ちてみた」といったに等しい旨を話したことで佐々木は声を荒げて抗議する。
「止めろよ! 穴ってのは洒落にならないものなんだろ!」
 オフサルモはしれっと言って退ける。
「備品倉庫で見た儀式の後がなかったことなど、様々なことを考慮した上で別の時間軸や次元に飛ばされることはないと踏んでいたのだ。それに、どうしてもあの娘が繋げることの出来る穴の性質を知っておきたかった」
 オフサルモの「踏んでいた」とは「確率が低いと判断出来た」に等しい言葉だ。
 正直、佐々木に取って確率云々の話で済ませられないわけだったが、それならばそれで「前持って言うなり何なりしてくれよ」とも思ったわけだった。佐々木は深い溜息を吐き出して見せて、オフサルモが「神」と呼ぶに値するほど、あらゆる点に置いて完全な存在ではないことをマジマジと実感した形だった。
「はぁ、……で、その種明かし、お聞かせ願いますかね?」
 佐々木の要求にオフサルモは淡々と答える。
 それは蒲原の作り出す穴についての説明から始まって、緒形の中の寄生種がいた世界の推察までに及ぶ。
「備品倉庫の中の時間が歪んでいるのは蒲原という娘に時間を超越して二つの空間を繋げることの出来る穴を作る力がないからだ。時間の流れを無視する穴を作れない以上、その穴が繋がっている間、二つの世界は見掛け上、時間軸を共有しなければならない。緒形の中に寄生する生物のいた世界というのはここよりも時間の流れが僅かに速い世界なのだろう。穴が繋がったままであったなら、寄生種はあの穴を通りこちらで過ごした時間とそう大差のない時間が経過した本来あるべき世界に帰ることが出来たわけだ」
 佐々木は「おや?」という具合の、納得出来ない表情をする。
「……穴が閉じられてしまっていた場合は?」
 直ぐにその「何か引っ掛かる点」が穴に関することだと思い至って、佐々木はオフサルモへと質問を向けた。
 当のオフサルモはさも当然と、動揺一つ見せない淡々とした口調で答える。
「その修正が働かない。即ち、空間を隔てた移動の祭に大幅な時間のずれが生じることになる。尤も、そもそも、再び同じ世界に穴を開くことが出来るかどうかも定かではない」
「はは、……ははは、おいおい、ヤバイじゃん! 穴、閉じちまったよ!」
 そんな冷静沈着なオフサルモとは対照的に、これでもかと言うほどの動揺を見せたのは「穴の閉じ方」を備品倉庫で得意顔して語った佐々木だった。対応に困った時に人が見せる類の、笑い声を響かせて、佐々木は身振り手振りを用いてその困惑を表現した。
 身振り手振りを交えてオフサルモと話をしようとすると、端からはレベルの高い独り言に見えてしまうわけで、佐々木もそれを判ってはいたのだけど、今回ばかりは制止が利かない格好だった。それだけ、佐々木の動揺は強かったのだ。
 しかし、オフサルモは冷酷にもこう答える。
「彼ないし彼女には酷な話だが、再度、穴を開かせるわけにはいかない。開かれた穴を通って、多くの数がこちらへとやって来ないとは言えない。そもそも、見ていて思った。向こうの世界に執着があるのかどうかも定かではない」
 敢えて、緒形と言わないオフサルモの言い回しに、佐々木は不穏な匂いを感じた。尤も、それを感じたからと言って、何が出来るということではない。まして、オフサルモの目的を考慮すれば、その判断は至極当然だとも言えるのだ。
 恐らく、彼とは緒形の中に寄生する寄生種のことであり、彼女とは緒形その人を指して言ったのだろう。
 即ち「穴を開けさせるわけに行かない」とは緒形の中の寄生種を向こうに返すつもりがないことを指す。そして、同時に、佐々木が推測するに寄生をされた側である緒形を必要ならば犠牲にすると言ったものだった。
 オフサルモを通してその目に捉えた緒形と、緒形の中の寄生種との関係は寄生と言えるレベルを逸していて、融合とさえ言える程のものだったことを佐々木は思い出した。そして、根本的なことを勘違いしてはならないと佐々木は思った。
 それはオフサルモの目的が緒形を助けることではないことだ。そう、あくまでオフサルモの目的とするところは緒形の中の寄生種を処分することであり、再び向こうの世界への穴が開くことがない様にすることなのだ。
「あー……、一つ聞きたいことがある、何で備品倉庫以外に時間の狂いが生じるようなことはなかったんだ?」
「どんな規模の穴が開いても、それがただの穴である限り、時間の流れに歪みが出るのは極々一部の範囲だ。例えば、代栂町全体の時間に狂いが生じる穴などは存在しない。もし、そんな異変が生じることがあれば、そこに開かれたものは穴ではない」
「もう一個。時間を超越して行き来の出来る穴を作ることが出来る奴とかもいるのか?」
「時間を超越して行き来の出来る穴、それは十中八九、生身のまま行き来の出来る穴ではない。直接、影響を及ぼすことが出来ない状態で時間を飛び越えるという話はある。行く先が過去ならば、何が起こったのかを見て知る。行く先が未来ならば、一つの可能性として起こり得る未来を視るという未来視の形だ。尤も、直接的な影響を及ぼせる形で行き来の出来る穴を作れないとは言わない。わたしはその力を持った人間や神を見たことはないが「いない」と断言は出来ない」
 佐々木は「そっか」と適当に相槌を打つかの如く呟いた。質問をしておきながら大した興味があるわけでもないのだ。所詮、オフサルモに腹を探られることがないよう、場を繋いだだけの質問だったのだからだ。佐々木はドカッと道端に腰を下ろすと、疲労の色の混じる息を吐き出し、空を見上げた。
「何を考えている?」
 オフサルモに聞かれて、佐々木は答える。
「いや、蒲原さんは一体どうするつもりなんだろうなって思ってさ」
 緒形について思索していた雑多なことをオフサルモに気付かれないかどうか、不安も感じたが、それよりも何よりも佐々木が思ったことは蒲原が何を目的としていて、一体どんな手を打ってくるかと言うことだった。そして、それと同時に、もし蒲原や杉代、弘瀬が自分の立場に置かれたなら、どう行動するかと言うことだった。
「まぁ、取り敢えず、今は自宅に帰ることを第一に考えますかね」
 今この瞬間だけは頭の痛いことから解放されたい。佐々木の口調はそんな意図が見え隠れした様にも感じられた。
「それが良い、雨が代栂へとやってくる前に帰宅することにしよう。……今日の祐太は良くやった」
 オフサルモから返った言葉も、ひとまず今日の佐々木の行動を「一定の評価出来る」と労う内容だった。




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