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Seen05 Because-


 ご丁寧にも校門前に陣取っていた弘瀬に捕まって、佐々木が備品倉庫へと連行されたのはホームルームが始まる三十分前どころか、その予定集合時刻からさらに三十分前のことだった。オフサルモを引き連れて、事前に下見を済ませておこうと思ったのが仇になった格好である。
 備品倉庫の扉を開いた段階で、備品倉庫の中には弘瀬を含めた見慣れた面子が顔を並べて「あーだこーだ」と論議を繰り返している状態だった。咄嗟に、佐々木はその場から逃げ出してしまおうかとも考えたわけだが、逃げ出したからと言って事態が好転することはない。まして、今その場から逃げ出したところで、三十分後には再び備品倉庫へと足を運ばなければならないわけである。
「おーっす、チビ助。感心だね、集合時間の三十分も前に来るなんて」
 佐々木の当惑の顔を見て、真っ先に挨拶を口にしたのは秋前だった。
 備品倉庫へと足を踏み入れた瞬間、佐々木を確かな違和感が襲った。オフサルモに取って代わられた右目がチリチリと微かに焼けるような痛みを神経へと放って、佐々木は否応なく理解した。意志に反して、勝手に焦点を合わせる右目に佐々木は苦笑いを隠そうともしない。しかし、それがオフサルモによって行われものかと言えば、そうではなかった。それはあくまで佐々木の違和感に呼応し、オフサルモに寄らない佐々木の感覚が行ったことだった。
「天文部で集まったのは、……見ての通り、秋前副部長の抵抗もあって、秋前と組原のみ。後は把民、幹門と異常発見時のメンバーが揃ったが、一番主要な蒲原は相変わらず連絡が付かずに……」
 だから、弘瀬がそう何事かを説明するよりも早く、一人、佐々木は合点がいったという顔で口を切る。
「あー……、まだ維持されてますわ。ここ、あの儀式の後から誰も何も弄ってないんですね」
 オフサルモからはどこを見ろとも、何を確認しろとも命令が下らなかったから、佐々木は好き勝手に備品倉庫の様子を確認する。オフサルモとしてはあまり言葉を挟まずに、まずは佐々木の好きに行動させる方が良いと踏んだのだろう。オフサルモが指示をしないことによって、良い意味で、オフサルモの意図しないものを佐々木が偶然に見る可能性もある。
 しかしながら、佐々木は秋前から怪訝な顔を向けられる。備品倉庫の一件でもそうだった様に、秋前から見た佐々木は「異変を感じ取れるような奴ではない」との認識があるわけだから、それもある意味では当然なのかも知れない。
「……何を判ったようなこと言ってるの?」
「はは、判ったようなことじゃなくて、異変を判っちまってるのが痛いところなんだけどね」
 優越感に浸っているわけではない。しかし、佐々木はどうしてか苦笑いが込み上げてきて仕方がない状態だった。
 そんな佐々木の態度を挑発とでも受け取ったらしい。秋前の表情が険しくなって場は一気に緊張感を伴った。しかしながら、一触即発かと思われた事態も、当の張本人である佐々木の言動によってあっさりと打ち砕かれることになる。
「あー……、これか。あの夜、弘瀬先輩達が騒いでた黒い球体って」
 佐々木が口にしたその一言で、備品倉庫は一気にざわついた。
 それは意識して声に出したものではなかったのだろう。その言葉は一触即発の一歩手前まで行き静まり返った備品倉庫の中だからこそ、他人の耳へと届いただろうほどの小さなものだったのだからだ。
 佐々木の視線は秋前と弘瀬との、ちょうど中間地点で静止した。その視線の先には誰も立ってはおらず、そして、その佐々木の焦点は壁を見ているわけでもなかった。
 ただ、一点を注視して押し黙り静止する。そんな佐々木の様子を秋前が気味悪がったこと以上に、それは「口から出任せを言っているわけじゃないのかも知れない」と秋前に思わせた挙動になった。
「……見えるのか?」
 そんなざわつきの中、実際に佐々木へと向けた第一声を発したのは組原だった。
 色々とそれを推測させる言葉を口にしてしまっている以上、返答を曖昧なものにすることも適わず、佐々木は頷く。
「当日、どれぐらいの大きさにまでなったのか、実際に見ちゃいないんで何とも言えないですけど、今は物凄いちっちゃなもんですね、豆粒よりもちっちゃいですよ。けど、酷く目に障りますね、これ。見たくもないのに目に飛び込んできて脳裏に焼き付いちゃう感じといえば、適当なのかな?」
「これは穴だ。サイズを大きく広げれば、この穴を見ることの出来る人間が行き来出来る類の穴だ」
 オフサルモから黒い球体に関する説明がなされて、佐々木は小難しい顔をして口にする。
「これが穴、ねぇ」
 魔法陣の中心でしゃがみ、納得いかない顔で何事かをブツブツ呟く佐々木の様子は誰の目にも異様には映った。まして、当の佐々木の話では黒い球体が存在しているだろう場所でしゃがみ込んでいるのである。
 しかし、佐々木に向けられる視線は何も訝る類のものだけではない。現状を打開してくれるかも知れないという期待の籠もった静観の視線もあった。尤も、備品倉庫に顔を揃える面々の佐々木を見る目はその双方が五分五分で混ざったものが大半だ。
「その円の中に描かれている記号だか文字だか判別付かない奴の意味も、……判るのか?」
「え? あー……、はは、いえ、見たこともないっすよ、こんな文字」
 怪訝よりかは期待の感情が強い組原に問われて、佐々木は曖昧に笑ってお茶を濁した。オフサルモにそれを問えば、何らかの説明が返ったかも知れない。しかし、その詳細を説明する羽目になるのを佐々木は嫌った形でもあった。
 そこに穴がまだ存在することを理解して、弘瀬らは再び論議を始める。
「しばらくは備品倉庫の代わりとなる部屋を用意して、そこに荷物を格納しよう」
「穴が長期に渡って消えない場合、どんな理由を設けて立入禁止措置を継続するか」
 論議の内容は現実的な問題に対処するためのものだった。秋前を始めとする天文部員にはここが部活動で使用する機材の格納場所に指定されているわけだからそれは切羽詰まった問題だと言ってしまってもいいのかも知れない。
 弘瀬や秋前のそんな議論の輪から離れて、佐々木は備品倉庫の壁に設けられた蝋燭立てなどをマジマジと注視する。それらは幹門、把民らと前回ここに来た時には取り立てて何も感じなかったものである。けれども、佐々木は今になってそれらに目を惹かれる形になっていた。
 しかしながら、オフサルモは周囲に設けられた装飾品だか何だか良く解らない品々を十把一絡げに切り捨てて言う。
「そこいらに設置された小物の類は力のない召喚主の補助に役立つ類のものの様だが、ある程度の力を持った召喚主にはあってもなくても変わらない類のものばかりだ。恐らく、それらの小物が緒形に寄生した存在の召喚に直接的な影響を与えていることはないはずだ」
「……と、言うことは?」
 結論を急ぐ佐々木に、オフサルモはその要点を告げる。
「この魔法陣の中に描かれた文字自体が、その蒲原という生徒の儀式によって力を発したのだろう。そして、この部屋の時間の流れを狂わせているものも、この文字に起因した何かだろう」
「あそこに突っ立ってる幹門曰く、儀式を行うに当たって結果を左右する重要なものだからって、俺は説明されてたわけだけどな。そうか、あってもなくても、大差ないものねぇ」
 澄ました顔をして弘瀬の行動を眺める幹門を、佐々木は八の字を寄せた表情で眺めた。尤も、オフサルモに幹門からされた説明を話す佐々木の態度は不機嫌というよりかは苦笑い混じりの呆れに近いものでもある。
「そう責めてやるな。彼らに取っては儀式の結果を左右するほどの必要性を感じていたものかも知れないのだからな」
 そうやって、さほど重要性のない会話を一つ間に挟んで緊張感を解した後、佐々木は改めてオフサルモが告げた要点に対して思考を巡らせた。再確認を繰り返しても、辿り着くことの出来る結論はただ一つであり、それは「読解不能の文字と蒲原とがこの事件の根幹である」という事実に他ならなかった。
 俄に緊張感を伴った佐々木の態度を受けて、オフサルモも本題に対する意見を続ける。
「……長い時間をただ生きてきたわけではない。この手の諸問題に対処するための方法をいくつも身につけてきたつもりだったが、こんな文字は初めて見る。複雑で難解、恐らく、一つの記号が多重の意味を為すのだろう」
 佐々木はその記号のいくつかを指でなぞって、それらが左右対称だったり、描くに当たって特殊な形をしていないことを確認する。尤も、佐々木が気付けないだけで、それらには簡単には見抜かれないような精巧な仕組みが多分に盛り込まれているのか知れない。
 しかしながら、佐々木にはそれらの記号群が現在の技術を用いて簡単にコピー出来ないものだとは思えなかった。もしも、蒲原が何か特殊な才能を持っていないとすれば、同じ方法を用いることで誰でもオフサルモのいう「穴」を開けることが出来ると佐々木は判断せざるを得なかった。
「同じ方円を描いて、同じ文字を羅列して、同じ儀式を行えば、この黒い穴は同じように生まれるものなんかね?」
「それは儀式の主に聞いてみなければ判明しないことだが、同じ世界の少しずれた場所と繋がる確率が高いだろう。その蒲原という生徒は凄い力を秘めているのかも知れない」
 佐々木の心配をよそに、オフサルモは平然と「そうだ」と答えた。
「……さすがは代栂中央のクレイジータロットカードリーダーだぜ」
 蒲原を評していったその蔑称はいつの間にか佐々木の真後ろにいた秋前らの耳まで届いた様だった。もちろん、凄い力を秘める可能性を引っくるめた上での、蔑称である。少しでも、蒲原のことを詳しく知る生徒ならば、蒲原が行うタロットの的中率が高いことを知っている。尤も、特殊な才能があることを大なり小なり認められた上で、そんな言われ方をしている辺り、どれだけ蒲原という人間が特異かを表す良い指標になるだろう。
 佐々木は秋前から鸚鵡返しにその単語の意味するところを尋られる。
「クレイジータロットカードリーダー?」
 秋前の耳にはその蒲原の蔑称が届いたことがないのだろう。怪訝な顔をした弘瀬にしても、そうらしい。
「あー……、クレイジービックマムの方が有名か?」
 蒲原の蔑称を同じぐらい有名な方へと言い直すも、弘瀬も秋前も首を捻って見せた。縁のない人間には蒲原の蔑称など全く縁がないわけだが、佐々木は二人がそれを知らないことに心底驚いたわけだった。
 それを「蒲原の蔑称だ」と言ってしまうことが躊躇われて、佐々木は半ば強引にその話題を切り替える。
「取り敢えず、この魔法陣を消してしまえば、黒い球体の維持が出来なくなって、二日か三日ぐらいで、備品倉庫の時間の狂いも改善されるみたいだわ」
「……何で、あんたにそんなことが判るのよ?」
 至極冷静な秋前の切り返しに、佐々木は思わず「ごもっとも」と返しそうになって口を噤んだ。まして、佐々木は魔術研究会の所属でもなければ、当初はその黒い球体を見ることさえ適わなかったのだ。しかし、それを口にしたなら、まず間違いなく喧嘩っ早い秋前から平手打ちの一発でも食う羽目になるのは目に見えている。
 ともあれ、当然それは秋前でなくとも疑問に思うことだった。さらに言うなら「されるみたい」と、佐々木が不確かな判断を下した点について「どうしてそう判断するのか?」の根拠を求めることに不自然を感じるものなどいないだろう。聞きようによっては誰かの受売りをそのまま話したかの様にも聞ける言い回しなのだ。
 説明を求める秋前を前にして、佐々木は一言も喋ろうとはしなかった。
 ここに来て加速度的に佐々木に対する苛々を募らせる秋前への挑発だと、そう受け取られても仕方がない対応だった。
「出任せ言ってたら承知しないよ、チビ助ッ! 面倒だからことに当たった振りして、放置してしまおうって腹じゃないでしょうね!」
 秋前はついこの前までなら佐々木に対して「タブー」にも近い単語を敢えて口にして、佐々木に喧嘩腰の荒々しい言葉をぶつけた。しかしながら、オフサルモを有する佐々木はいつの間にか、それを軽く受け流すだけの余裕を持っていて、売り言葉に買い言葉とは続かない。いや、オフサルモを有するからどうだと言う話ではないだろう、それは既に佐々木の意識の問題だった。
 現に、オフサルモは佐々木と秋前のやり取りに対して、何か反応をしたわけではないし、秋前から佐々木へと向いた罵倒の言葉に対して佐々木を宥めたわけでもないのだ。
「あー……、俺も口から出任せ言ってる方が気が楽だったんだけどねぇ」
 佐々木はカラカラと笑いながら、問題に気付いた最初の頃にそんなことを考えたことを思い出していた。
 一頻り、楽しそうに笑い終えた後、佐々木は自信に充ち満ちた顔でこう秋前へと提案する。
「実際にやって見れば判ることでしょ? 日にちが経ってここの異常が改善しないようなら、俺をここに呼びつけて「どうなってんだ?」って締め上げりゃいいじゃない、なぁ、秋前先輩?」
 そんな顔で提案をされたに、誰もそこに反論などぶつけようがなかった。なぜならば「それで取り敢えず、この問題は可決しますから」と断言しているに等しいのだ。
 秋前が佐々木に言葉を向けられないでいると、自然と他の面々も納得をした。ここで佐々木の提案に噛み付けるのは秋前である。噛み付くべきは秋前である。全ての疑問と不平不満を佐々木にぶつけることの出来るその秋前が無言を持ってそれを了解した以上、文句や反論などがで出るはずがなかった。
 肩透かしを食らった上に、気付けば佐々木に為す術なく言いくるめられたことで、秋前は不機嫌この上ない状態になる。それを宥め賺す役目は組原が負う決まりになっているので、組原は佐々木を恨めしそうに一瞥する。佐々木は胸の前で両手を合わせ、組原に「すいません」とその仕草で謝った。
 そして、誰の口からも反論が出ないことを確認すると、弘瀬がすぱっと決断する。
「判った、ここは今日中に、床の上の魔法陣も含めて全て撤去することにしよう」
 もちろん、弘瀬の決断に異を唱えるものはなく、後は備品倉庫の扱い方について微調整が残されるのみとなった。
 誰が何をどういう形で撤去するかだとか、そういう具体的な話へと移る前に、佐々木は弘瀬に備品倉庫の処置についての補足をする。尤も、それは補足というよりも、詳細な状況説明を加えた実質上の要求の形を取っている。
「ちなみに、時間の流れが正常になるまで、ここは他の世界と繋がり易い場所になるかも知れない。異常が起こりやすい場所になるかも知れない。だから、弘瀬先輩、ここの立入禁止措置の延長を頼みますよ」
 続ける言葉でその具体的な日数を口について言及し、その手続きも自分が一手に引き受けると佐々木は説明する。
「さっき言った様に二日か三日以内には正常に戻るはずだそうなんで、……そんぐらいの短期間ならどうにでもなりますよね? 魔術研究会と天文部の私物が置きっぱなしで云々、理由を考えてネゴシエートもやっておけって話なら、俺がチャチャッとやっておきますから、今この場で口約束での許可だけでも下さいよ」
 どこか「めんどくさい」と言う態度を残しながらではあるものの、それを誰に言われるでもなく率先して片付けてしまおうという佐々木に、弘瀬は唖然とした顔を隠さなかった。ここに来て、時折、佐々木が見せるどこか軽薄さの見え隠れする思案顔もそうだった。弘瀬に取っては見覚えのない佐々木の顔なのだ。
 一年の頃からの先輩後輩の付き合いであり、ネゴシエーターとして抜擢してからはこっち、間違いなく他の生徒よりも長く佐々木を見てきた弘瀬が覚えた確かな違和感だった。
「……佐々木、お前、人が変わったみたいだな?」
「はは、そうっすか? じゃあ、あれっすね。ちょっと大人の階段上っちゃったのかも知れないっすね」
 弘瀬に訝られて、佐々木は曖昧に笑った。理由を突き詰められても、適当にはぐらかしてしまえば何の問題も残られないと思ったからだろう。佐々木は発言に意味深な含みを残す格好だった。
 そして、今気付いたと言わないばかり、佐々木は弘瀬に緒形が拘わっていると思しき事件について尋ねる。
「そういや、件の外傷なしの意識不明状態で発見された面々ってのはどうなったんですか?」
「那浜が掻き集めてきた情報を簡潔にまとめて述べると「眠っている状態」にあるらしい。睡眠中に人間が無意識的に行っている動作、つまり呼吸活動や眼の対光反射など生命徴候はあるものの、外界からの刺激には反応しない状態だそうだ。尤も、緒形の入院先にいて意識不明状態にある夜勤看護士についての話だけしか集められなかったらしいから、それも全体像を把握した上でのものではないけどな。後の二人は櫨馬の市立病院辺りに搬入されて、精密検査を受けている最中だというのが専らの噂だ」
「まぁ、難しいこと言われても、俺にはちょっと判らないんですけど、とどのつまりはまだ目を覚ます気配がない状態だ、……と言うわけですか」
 佐々木は弘瀬の説明に合点がいったと頷いた。弘瀬に背を向けると、佐々木はオフサルモへとそれを踏まえた話をする。那浜が弘瀬の命を受けて「掻き集めた」ということは即ち、佐々木としては「現在それ以上の詳細な情報が流れていない」と判断して構わない状態にあるわけだった。
「外傷なし、意識不明状態にある夜勤看護士の話を聞いてどう思った? 緒形が入院してた病院の夜勤看護士は緒形の居た病室に倒れてたんだとさ。意識不明状態ってのは、……緒形が何かやったんだと思うか?」
「緒形という娘がやったかどうか、それは実際に会ってみないことには判断のしようがないな。しかし、それよりもまずは蒲原という娘だな。この異常を作り出したというその娘の方が気に掛かる」
 オフサルモは優先事項を緒形よりも蒲原と位置付けた。
 オフサルモの判断を受けて、佐々木は蒲原に接触する道筋を思索する。
「蒲原、蒲原……ね。正直、接触したくはないけどね、やらなきゃならないっていうなら行きますか。取り敢えず、授業を受け終えるまで待ってくれな。放課後になったら、蒲原の自宅の住所調べて……」
「佐々木、備品倉庫を綺麗に片付ける際の総指揮はお前が取れ。生徒会の一年を掻き集めるもいいし、活動停止処分にある天文部の面々に追加事項として掃除を手伝わせても構わない。事情は一番お前が判っている様だから、お前の満足が行く様にやってくれ」
 しかしながら、まず片付けるべきことをオフサルモへと説明する段階で、佐々木の思索は弘瀬によって遮られた。
 尤も、それは弘瀬からの全幅の信頼を得たに等しい言葉だった。けれども、緒形のこと、引いては蒲原のことを念頭に置く佐々木としてはまずい話の展開だと言えた。当然、佐々木は弘瀬に反論しようと口を切る。
「え! ちょっと、ひろ……」
「それは都合が良いな。魔法陣の消滅が何らかの悪影響を及ぼしそうになった場合、対処が出来る」
 その佐々木の言葉を遮ったのは他でもないオフサルモだった。
 オフサルモから肯定の意志が佐々木へと伝わった矢先のことだ、秋前が不平を鳴らす。
「弘瀬! ちょっと、何よッ、それは! 横暴にも程があるんじゃないの!」
 そうやって秋前が声を荒げて弘瀬に噛み付いたことで、慌てた調子で口を開きながら、その癖、途中でばつが悪そうに押し黙るという一人芝居を演じた佐々木の様子をまじまじと眺めたものは居なかった。
 弘瀬は秋前からの不平不満の声をすぱっと切り捨てる。
「放課後、呼び出しが下ると思っておけ。一人でもエスケープが出た場合、活動停止措置の期間が延びると思え」
 弘瀬から直々にお達しが下った以上、このまま噛み付いても「埒があかない」と秋前は冷静な判断を下せるらしい。苦虫を噛み潰した顔をして押し黙ると、くるりと踵を返して備品倉庫を後にした。秋前が怒りを込めて荒々しく扱ったために「ドゴォンッ」と一際けたたましく響き渡った扉の開鎖音が、弘瀬に対する精一杯の抵抗だったのだろう。
 そんな秋前の背を横目で追いながら、佐々木はオフサルモに確認する。
「あー……、でも備品倉庫の片付け何てやった日には蒲原とのデートの時間が遅くなるぜ?」
「それも仕方がないだろう。何か影響が発生した場合、後手に回るのは得策とは言えない」
「あんたがそれでいいなら、俺に異論はないけどさ」
 オフサルモが片付けの総指揮を執る確かな理由を説明したこともあって、佐々木は納得した様子だった。尤も、完全に納得したわけではないらしく、不満の残る態度ではある。しかしながら、オフサルモが蒲原とのデートについても「下手をすると夜間になる」旨を了解した以上、佐々木が口を挟む理由はなかった。


 玄関を入って直ぐの物置の中にはカートン単位で買われた煙草の買い置きがある。
 杉代はそこからすっと一つ煙草の箱を抜き取ると、それを懐に忍ばせてから靴べらを手に取った。
 多少、数が減っても杉代の父親がそれに気付くことはないだろう。几帳面な性格ではないということもあったが、それよりも何よりもヘビースモーカーであり、煙草の減り方を一々気にしていないと言うのが大きい。下手をすると、量が積まれて置いてある状態だったなら、一カートンが丸々なくなっても杉代の父親は気付かないかも知れない。
 代栂中央高校の最高学年になって、時折、不意に襲ってくるようになった苛々をどうにかしたくて吸い始めた煙草だったが、今となっては癖になってしまって吸っていると言った方が良いのだろう。
「あー……、晩飯はいらねぇわ。俺、ちょっと、今から出掛けてくるから」
 居間の方からヒョイッと顔を出した母親は「オーケー」とでも返事をしようと思ったのだろう。しかし、母親は杉代の顔付きをマジマジと注視すると、そのまま固まる。それを不審に思った杉代は「どうした?」と、首を傾げて尋ねるものの、そこに返ったものは母親から杉代自身に対する疑問だった。
「毅、あんた、何か良いことでもあったの? そんな楽しそうなあんたの顔見るの、久し振りよ」
「……そっか?」
 何の気なしに尋ね返した言葉に、杉代はハッとなった。
 杉代の感覚の中では普段と何ら変わることのない日常を過ごしていたはずだった。
 そう言われなければ、改めて、今、自分が置かれている状態について考え直すこともしなかっただろう。
 自宅の玄関の扉を閉めて、階段へと足を向けたまさにその時のこと。
「あぁ、そうか。何だ、そんな単純なことだったのか」
 不意に立ち止まって、杉代は清々しい顔をして呟いた。一度、小さく首を捻って見せながら、杉代は迷いが吹っ切れたかのような顔だ。けれども、その表情も一転、視線の先に見知った顔を発見すると、杉代はそれを呆れ顔へと変化させる。
「待たせたな……って、そうでもねぇか?」
 杉代と表札のある扉の脇の壁に背中を預ける様に佇む緒形は首を左右に振った。薄暗い蛍光灯の下で腕を組み、緒形は確かに人待ち顔をして佇んでいたのだが、杉代の問いには「待っていない」とその態度で答えた。
 四階建てアパートの最上層、十数件が一階層に存在する横幅のあるアパートの、ちょうど中央付近に杉代家は位置している。緒形が杉代を「待っていない」と答えたのは嘘以外の何物でもなかっただろう。
「約束の時刻にはまだちょいと早ぇし、約束の場所もここじゃねぇもんな」
 事実、杉代が言った様に、約束の時間まではまだかなりの時間があったし、指定の場所も杉代の自宅前などではなかった。杉代には緒形に自宅の場所を教えた覚えはなかったが、緒形がそこに居たことにギョッとはしたものの、大して驚いたというわけでもなかった。
「ご両親に何か言われたんですか? ……顔付きが変わりましたよ、杉代先輩」
 トントンと杉代へと歩み寄ってきて、緒形はマジマジとその杉代の顔を見る。杉代が何か言葉を返さなかったら、その手を伸ばして、実際にその形を確かめかねない好奇心の覗く目に、杉代はたじろいだ程だ。
「ああ、何か言われたわけじゃねぇよ。普段、俺が高校行ってる間はおふくろはパートに出てるからな、パートを終えて家に帰ってきて、俺が部屋で寝てても何も不審には思わねぇのよ」
 杉代はどうしても落とせない授業だけに出席した後、帰宅をして残りの時間を睡眠に当てた格好だった。昨夜、緒形と出掛けたのが響いたらしく、杉代が目を覚ましたのは夕闇が代栂の街を包む頃になってからだった。
 それらの要因を緒形なりに考慮して、顔付き云々の話に至ったのだと思い、杉代は自身の家庭環境のことを少し説明した。そして、それを踏まえて、緒形の推察が間違いであることを杉代は戯けた口調で告げる。
「顔付きが変わったってのは俺がまだまだ寝足りねぇからかな」
 そんな態度を見せる杉代だから、さすがの緒形もそれがただの冗談であることに気付いた。
 ……そのまま緒形がその理由を尋ねなければ、杉代はそれを曖昧に濁してしまったのだろうか?
 ともあれ、緒形は首を傾げて「では、どうしてですか?」と杉代に問い掛ける。
「気付いたんだ」
 杉代はそう切り出してしまうと、杉代自身がその理由だと考えたことをすらすら口にする。
「俺はこの退屈が嫌だった。俺はこの平穏が嫌だった。この何も変わることのない、ただただ流れていくだけの毎日が嫌だった。だから、俺を俺たらしめる根本的なものを変えてしまいたいと思っていたらしい。崩してしまいたいって思ってたらしい。ははは、今なら解るぜ、今なら言えるぜ、今なら言葉にすることが出来るぜ」
 嬉々とした態度をこれでもかと前面へ押し出す杉代に、緒形は思わず気圧されたぐらいだ。
「退屈をどうにか打開したいと思いながら、刹那的な楽しさを欲しいとは思わなかった。平穏をどうにか打開したいと思いながら、規則に抗いはしなかった。……俺は「意味」が欲しいんだ。お前の話を聞いてから、ずっと自分自身に詰問を続けて気が付いた。ずっとずっと、俺は特別になりたかったんだ」
 不敵な表情で緒形の肩へと握り拳を向けた杉代の言わんとすることは「お前のおかげだ」といった感謝の気持ちだったのだろう。一方的に感謝をされる事態に対して偉く不服な顔をして、緒形は杉代を注視した。そんな緒形の様子を構っている余裕などないのかも知れない、杉代は高揚した顔と大袈裟な身振り手振りを交えた嬉々とした態度で説明を続ける。
「高見から人を見下ろすだとかそう言うことじゃない! 自由気ままに秩序を引っ掻き回して優越感に浸るだとかそう言うことじゃない! 特別になりたかった、日常茶飯の一コマに完全に溶け込んで、ただ消えていくのは嫌だと思ったんだ」
 ずっと疑問点であり続けた事実に対して明確な答えを出せたことが嬉しくて堪らない、楽しくて堪らない。
 杉代はそう言わないばかりだった。
「ここから抜け出す扉を見付けたかった、日常から逸脱して、特別になるきっかけをずっとずっと探していた。……へへ、そんなもん、今の今まで見付けられなかったけどな。この日常の中で、何か特別な意味を為す。この制限の中で、何か明確な意味を持つ。そんな存在になりたかったんだ。特別に成り得るための意味が欲しい。端的に言い換えるなら、こうだ」
 杉代はそこで言葉を句切り、緒形の澄んだ瞳を見据えて明言する。
「特別になりたい」
 杉代はすぅっと息を飲んで意を決すると、口を挟むに挟めないでいる緒形に向けて告げる。
「いいね、なってやるよ、お前を守る戦闘種に。……この世界には敵対種がいるんだろ? お前が俺に与える「戦闘種」って意味は一時だけのものに過ぎないかも知れない。でも、もう俺は知っている。退屈な日常の中に、そこから抜け出す扉なんかないんだって」
 緒形に取っては長々と続いた杉代の独白がそこに辿り着くがためのものだと思っていなかったらしい。一瞬、何を言われたのかが判らない顔をしていた。マジマジと杉代の顔を見返してみて、それが揺るぎないものであることを理解すると、緒形は何を言うべきなのかを迷ったらしく、口を開けて何かを必死に紡ぎ出そうとする。
 ともあれ、そんな突然の事態は緒形を、殊更、混乱させたらしかった。
「俺はいつか特別になってみせるぜ。まだ、特別の、本当の意味も判んねぇけどな。それでも、立ち止まっててもしょうがねぇのよ、一歩、進んでみることにするぜ。……力をよこせ」
「もう一度、……もう一度、確認しておきますね。わたしが杉代先輩に与えてあげることが出来るものは、ただの、力の使い方に過ぎません。杉代先輩が欲しいと願う、その、特別とやらは杉代先輩自身の手で掴んで下さい」
 最近はとんと影を潜めていた見当違いなことをいう緒形の様子に、杉代は可笑しくて堪らないと言うように失笑する。
「はは、くくくくくく、……当然だぜ、それ。誰かに与えて貰うような特別じゃ意味がない」
 大真面目な緒形からすれば「何を笑われているのか?」が判らないわけだったが、杉代はそんな緒形の髪をクシャッと撫でる。それは即ち、杉代が緒形の戦闘種になることを了解した瞬間でもあった。
「さて、何するにしても、まずは腹ごしらえと行くかい? お前も腹ぺこだろ?」
 緒形は自分のお腹をさすると、杉代の「食事をしよう」という提案に頷き賛同した。杉代に言われるまで気付かなかった格好だったわけだが、そこに緒形は確かな空腹の感覚を覚えたのだ。
 足を進めようとして、緒形は唐突に立ち止まった。ハッと目を見開いたものの、緒形が立ち止まったことに杉代が気付いて振り返るまでに、その驚愕の色は掻き消えてしまっていた。
 その顔で「どうした?」と問う杉代に、緒形は「何でもない」と笑みを返して歩き始める。
 そんな緒形の様子を杉代は特に気に留めなかったのだろう。朝昼兼用の食事をする店を「どこにしようか?」と考え悩んでいたと言うこともあるだろうか。杉代が先導役として歩き出して、緒形はその閃きを再確認するように呟いた。
「……あぁ、そうか。長時間に渡って、わたしの食事をしていないのに強い食欲に襲われないのは人間の脳に寄生することで、人間の食事によってある程度のエネルギーを得ることが出来ているからだ。人間の脳に寄生することで、人間の食事を取ることで、わたし達は本来の姿の時とエネルギーの消費効率が異なるんだ」
 杉代の後を小走りに追う緒形は既に、いつも杉代に接した時の顔をしていた。
 その発見が「何を意味するのか?」を杉代は知る由もなかった。


「誰ッ?」
 近付く足音に若山のような繊細さはなかった。フェンスの焦げる焼けた匂いが鼻を突いてきて、侵入の「やり口」からしてもそうだった。だから、蒲原の言葉は若山の時よりもずっと警戒の色が前面に押し出されたものだ。
 コツコツとこれ見よがしに靴音を響かせ近付いてきて、それは突然、ピタッと静止する。名前を問う蒲原に返答もなく、ただただ背後のそれはじっと蒲原の背中を注視するだけだった。けど、そのまま背中を注視されるのはまずいと蒲原は感じた、どうしてか、第六感が告げていた。
 額に細かな汗をびっしりと浮かべた蒲原は「タンッ」と勢いよく床を蹴って身を翻し、その靴音に向き直る。その蒲原の目に飛び込んできた人物は緒形その人だった。緒形は蒲原の眼前に立ち塞るように位置取ると、有無を言わさず逃走するのを防止したのだろう。
「始めまして、蒲原さん。自宅の方にいらっしゃらなかったので、探しました」
 微かに赤味を残す夕闇に照らされる形になった緒形は丁寧にお辞儀をして挨拶をした。しかしながら、その挨拶は初対面の他人を見る目だと、蒲原がはっきり判るほどの態度を持って行われたものだった。
 蒲原には緒形との直接的な先輩後輩の上下関係・友達関係などはない。しかし、過去、いくどとなく展開した秋前との関係上、一応の面識はある。だから、そんな緒形の「始めまして」といった話しぶりに、蒲原は強い違和感を覚えた。若山がわざわざ足を運んで訴えた様に、その緒形は何かが違うと感じた。それを「これだ」とはっきり言えないながら、直感はそこに強い違和感を覚えている。
 はっきり言って、おかしな感覚だった。
 緒形の振りをした何かが俄に現実味を帯びて、蒲原は苦笑いを滲ませる。緒形が言った様に、この社員寮跡が探して来ることの出来る場所じゃないことも、その現実味を後押ししていた。
「あぁ、天文部の……。何か、わたしに用件がある? それとも、直接わたしに文句でも言いに来た?」
 対応それ自体は天文部に属する他の下級生にするものと変わらないながら、蒲原は無意識のうちに警戒感を露わに身構えていた。緒形が何かおかしな仕草や挙動を見せれば、すぐにでもそこから退避可能な体勢と言えば適当か。
「文句、ですか?」
 蒲原が何を言っているのか、理解出来ない。
 緒形の小さく首を傾げるそんな挙動も、色眼鏡を掛けた蒲原から見れば取って付けたかの様ような態とらしいものに映る。僅かな思案顔の後、緒形は合点がいったと言わないばかりにニコリと笑う。
「あぁ、……そうですね。わたしが病院に運ばれることになったのは蒲原さんが原因ですもんね。でも、今回のわたしの用件はそんなことじゃありません」
「それじゃあ、一体、わたしに何の用があると言うの? 詳細な説明を要求しても構わないかな?」
 大きく眉を吊り上げる蒲原は怪訝な表情を隠そうともしない。一応は緒形の話に調子を合わせて受け答えをしてはいるものの、その態度は会話をするというには到底そぐわないものだった。
「……何だと思いますか?」
 緒形は風に靡く髪を掻き上げて微笑すると「当ててみて下さい」と言わないばかりに問い返した。見ようによって、それは緒形自身も「はっきりとした理由が言えない」から故の言葉にも見えた。
「はは、……若山クン。人じゃない「何か」とは上手く表現したものね」
 実際に緒形を前にして、若山の表現が如何に的確なものだったのかを蒲原は実感した様だった。苦笑いが前面に押し出される類の苦しい表情で、蒲原は緒形へと向き直る。
「あなた、誰なの? ……と、言うよりも、何なの?」
 自分が人の形の中にある「人とは異なるもの」であるのを理解して貰ったことが微笑ましいのか、蒲原が見せる困惑の表情が楽しいのか。ともかく、緒形はニコリと屈託なく笑って見せた。濁りのない澄んだ瞳で蒲原を捉えると、緒形はゆっくりと自らの種族について説明を始める。
「わたしは遙か古い時から向こうの世界で敵対種を食い散らかし、食い散らかされて、長い長い時を重ねてきた種族の一つです。尤も、遙か古いと言いましたがこの時間軸に照らし合わせてそうだとは言えません」
 そう前置きすると、緒形は蒲原の質問に対して一つ一つ丁寧に答え始める。
「ちなみに「誰?」と問われても、……その、答えに困ります。なぜならば、わたしという単体を規定する名前がないからです。仮に、名前を持ったとしてもそれは一時的なもので、時と場合に応じて動的に変化しますし、そもそも人間の言葉で音に表すことは出来ないものです」
 緒形は「どう説明したらいいものなのか」を思慮しながら話をしているらしい。時折、その表情に強い困惑の色を垣間見せた。顎に手を置く思案顔だとか、目を伏せて何かを思いやる仕草だとか、そう言うものを合間に挟む緒形の様子は一見すると人間が見せる仕草そのものだった。
 しかし、蒲原はそれを見れば見るほど、人間らしさを真似るためのものの様に思えて仕方がなかったらしい。そんな具合に不愉快そうな態度を隠さない蒲原とは対照的に、緒形は心底満足そうだった。まるで、人でないものだと区別されたことが嬉しいかの様だ。
 不愉快の中に蒲原の怪訝な顔を見付けて「理解をし易いように他にも説明を加えなければならない」と気付くや否や、緒形は慌てた様子で言葉を続ける。ぺろりと舌を出してはにかむと、緒形は「失念していました」と、そう言いたかったのだろう。
「……ああ、まず根本的なことから説明しないと駄目ですよね」
 蒲原が自分を「人でないもの」と認識したから、緒形はそれを踏まえた説明を始める。
 即ち、ではどのような「人でないもの」であるかを、……である。
「わたし達は向こうの世界で群生をする生命体の一つなんです。向こうの世界に存在するわたし達はあなた達のような肉体を持つ生命体じゃありません。一つ一つの個体が群れを成し巨大な一つの固まりとなって、低空から高空の間を漂っています。……実体を持たない意識だけの存在と言えば、より適当だと思いますね。考え、思い、空気中を浮遊するかの様にあちらこちらへと自由自在に移動します」
 時折、緒形が見せる思案顔はその当時の記憶を人間の言葉を用いた説明へと置き換えていたからなのだろうか。ともあれ、緒形の言動に嘘偽りや妄言を語る様子を見て取ることは出来なかった。
「群の中の自分の位置をわたし達は瞬時に知ることが出来て、その群の各位置に、名前というか、番地というか、その位置を示すものが割り振られています。わたし達はそれで一応の個々というものを判別しますが、あまり個々の存在自体に意味はないですね。群は不定形の固まりで、統率者というものは存在しないですから」
 黙って聞いているとまだまだ続きそうな種族の話を半ば強引に遮って、蒲原は話題切り替える。
「……向こうの世界とは何?」
 嬉々として話をしていた緒形は口を挟まれたことに対して、嫌な顔一つ見せなかった。
 ただ、その突然の質問に対しては「まだ答えがまとまっていません」という困惑の顔を返する。
「何と聞かれても困ります。……そうですね、強いて、答えを作るなら「ここではない世界」ですかね」
 蒲原は首を左右に振ると、その話はこれでお開きだと告げる。
「その説明が嘘であろうと、限りなく本当に近い出鱈目であろうと、もういいわ。あなたに不利な情報を意図的に包み隠した情報だったとしても、何一つ混じりけのない本当でも、どうでもいいわ。……わたしはあなたを人間ではないと認識したのだから!」
 それだけ判れば、それ以上、続けても意味は為さないと言わないばかりだった。荒々しい口調で続きを遮って、蒲原が尋ねた内容は緒形の行動の意味を問うものになる。ここに何をしに来たのかに始まり、この世界でしようというのかを聞く、最も重要度の高いものである。
「それで、あなた達の目的は何?」
 緒形は「思いも寄らないことを問われた」と言わないばかり、キョトンとした表情をする。困惑や当惑の顔を返さなかったことから、それが予想範囲外の質問であったことを蒲原は敏感に察した。
 蒲原ははっきりと要求して貰いたかった。「向こうの世界へと帰りたい」ならその旨を、である。
「わたしの、……目的ですか。……何でしょうね」
 思案顔をしながら尤もらしく呟いた緒形の言葉には隠された何かなどないように、蒲原の目には映った。
 それが本心を隠すために取り繕われたものなら、誰も簡単に緒形の本心を見抜くことなど出来ないだろう。そうだ、それは人間よりも人間らしい顔だとさえ、言うことが出来ただろう。
 緒形はふいっと表情に好奇心を灯らせると、その質問を蒲原へと問い直す。
「蒲原さんはこの世界にわたしを呼び出して何をするつもりだったんですか?」
 緒形が蒲原の質問に答えていないのだから、同じ様に蒲原が緒形の質問に答えないというパターンがその場で展開されても、それは何らおかしなことではなかった。事実、蒲原の表情は険しく緒形を睨み見るかのような形相で、傍目には「先に質問に答えなさい」と詰め寄っているかの様にも見えるのだからだ。
 しかし、根負けをしたのか、先に口を開いたのは蒲原である。尤も、切羽詰まった渋面の蒲原と、好奇の色を強く灯す緒形とでは「どちらが先に根負けするか」は決まっていたようなものだった。
「……あなたはわたしが望んでこっちの世界へ呼び出そうとしていた存在とは異なるものだわ」
 蒲原は混乱を隠さない困惑の表情で、緒形に向けて言い放った。
 蒲原自身、頭の中でことの整理が付いていないのだろう。
「わたしが蒲原さんの望んで呼び出そうとしていた存在とは違うものだなんて、そんなことは百も承知です」
 緒形はカラカラと笑って見せて「判りきった当たり前のことを言わないで下さい」とでも言わないばかりだった。表記に直せば、語尾に音符マークでも付きそうなほどにご機嫌な顔を見せる緒形の様子は異様でもあった。
「一体、何がそんな面白かったのだろう?」
 そのやり取りを第三者が傍目に見ていたなら、恐らく、そんな感想を持つはずだ。
「じゃあ、質問を変えましょう。蒲原さんはこっちの世界に、神とか悪魔とか呼ばれる存在を呼び出して一体何をしたいと考えているんですか?」
 質問を変えましょうと言いながら、実質、緒形が求める答えは変わらない。蒲原が呼び出そうとした神や悪魔の代わりに、こっちの世界へとやってきたのが緒形の中にいる「寄生種」なのだからである。
 緒形に問われた質問に、蒲原はふいっと目を伏せる。
 しかし、緒形は容赦しない。「何なんですか?」と胸元に切り込んでいって、蒲原の心の奥底に転がる本心を引きずり出そうと濁りのない、好奇の混ざる澄んだ目で注視する。
 蒲原は蒲原なりに緒形の中の寄生種をこちらの世界へと引きずり込んだ責任を感じているらしい。答える義務があると思ったらしい。「そんなことは答えられない」と突っぱねることをせず、恐らく、誰も知らない儀式を行う本当の理由を蒲原は心の奥底から引っ張り上げてくる。
「この世界で何をしたら良いのかを教え諭すものは何もない。誰も彼も、何をするべきかは自分自身で探せって言うんだけど、……わたしは迷った。自由を与えられた人間なら、誰しも一度は思い悩むような些細なことかも知れない。でも、わたしはわたしに授けられた未来を占う力の意味を知りたいと思った。自分の代替品が無尽蔵にある世界で、わたしは一体何のためにこの力を授かったんだろう、そう思い悩んだ」
 口元に強い自嘲を灯した後、蒲原は続ける。
「……判ってる。秋前や生徒会の連中が言う様に、わたしはただ魔術の真似事やってるだけだって判ってるの。わたしには霊を見る力もないし、……超能力っていうの? そういう目に見える形での力はない。そして、こことは異なる世界の存在を呼び出すような力なんてない。わたしが出来るのはタロットを用いて未来を占うことだけ」
 それは自分自身へと言い聞かせるがための言葉の様にも聞こえた。
 一度も緒形に向けなかった目を、今になって緒形へと向けると、蒲原は神妙な顔付きをする。そこからが緒形が蒲原へと尋ねた問い「本題」だと、蒲原はその態度で物語ったのかも知れない。
「でも、これだけは外さない自信がある。……体調とか、そういうのも多分に影響するけどね。今までがそうだった様に、この未来を占うという力に関してだけはこれからもほぼ確実に引き当てていくだけの自信があるの。カードを手繰ってゆくと「これを引かなきゃならない」ってのが判るのよ。だからこそ、知りたいと思ったの。これは特殊な力、……どうしてこんな特殊な力を持って生まれたのか? これは何をするために授かったものなのか? それを尋ねたかった」
 蒲原はそれを「誰に」尋ねたかったとは明言しない。
 それは問いの答えを返してくれる相手ならば、誰でも良かったことを示唆していたのだろう。それこそ、神でも、悪魔でも、緒形の中の寄生種のような、この世界の外の存在でも、だ。
「蒲原さんによってこちらの世界へと呼び出されたわたしですが、残念ながら、その蒲原さんの迷いを解消させる答えを持ってはいません。けど、蒲原さんに他の力がないと、本当に断言することが出来ますか?」
 心得顔を返す緒形は「役に立たない」旨を明言した。それも、この場に相応しくはない胸を張るという態度で、である。しかし、同時に「これだけは言わなければならない」という風に、緒形は蒲原へと詰め寄った格好でもあった。
「ふふ、……他の力なんてわたしにはないわ。研究会を作って、散々繰り返してきた失敗の前例がそれを物語ってる」
 諦観の混ざった蒲原の言葉に、緒形は不愉快を通り越すことで生まれる静かな怒りを感じていた。蒲原を見据える険しい目元はその諦観を強く否定するから故のものだろう。
 トンッと床を蹴って蒲原と距離を開けると、緒形は眉間に皺を寄せる。
「動かないでください、蒲原さん。……証明になるかどうかは判らないけど、今、試しに見せて上げます」
 意図の不明瞭な緒形の言葉に、蒲原は緒形の瞳を睨み据えた。蒲原は強い警戒をまとい、緒形へと無言の圧力を掛けた格好だ。しかし、その目に晒されてなお、緒形が蒲原から瞳を逸らすことはなかった。じっと真正面から、蒲原の目を注視し微動だにしない。
 蒲原はゾクリと背筋を冷たいものが駆け抜けるのを感じた。言うなら第六感と言う奴だ。このまま緒形の瞳を注視していると何かまずいことが起きると、確かに蒲原はそう直感したのだった。
 しかし、蒲原が瞳を逸らすよりも早く、緒形がふいっとその注視の対象を切り替える。すっと左手を翳して見せて、緒形が新たな注視の対象にしたものは蒲原の右肩だった。
「ッ!?」
 次の瞬間、蒲原は顔色を変えていた。「動かないでください」と、緒形からそう言われたことなど、瞬時に頭から吹き飛んでしまったのだろう。バッと勢いよく身体を捻って自身の右肩を緒形の視線の先から外せば、その右肩を庇うように左手で隠して見せた。
「何をしたの!」
 怒声にも似た蒲原の混乱の声に、緒形は無邪気に笑って見せる。
「ふふ、何をしたと思いますか?」
「……ファイアスターター?」
 間髪入れずに蒲原は聞き返した。既に、ついさっきまで垣間見せていた混乱の色はなく、蒲原は好奇の目を緒形へと向けていた。緒形へ答えを求めるその姿勢は酷く印象的で、蒲原らしさを見事に表していたと言えるかも知れない。
「ちょっと違いますね。能力的にはそう呼ばれるものと似てはいますけど、直接、火を起こすようなことは出来ません。蒲原さんの周囲に存在する物質が持つ熱量を、蒲原さんの右肩へと移したんですよ。即座に火を発生させることが出来るなら、何かに一瞬で炎を伴わせることが可能ですけど、わたしの場合、火を発生させるためには物質の熱伝導率の高低に応じた熱量を移す時間が必要です」
 緒形の種明かしに蒲原は複雑な顔をした。頭でその原理は理解出来ているのだろう、緒形の説明に対して疑問を投げかけることはなかった。そして「どうしてそんなことが出来るのか?」「どうやって力を使っているのか?」を聞くこともなかった。
 思案顔をする蒲原に、緒形はその「ファイアスターター」との違いを明確に述べる。
「相手が静止していないと滅多に炎を発生させるほどの熱量なんて移せませんし、今、体験して貰ったように熱量を移すにはかなりの時間が掛かります」
「かなりの時間? はは、ほんの十数秒じゃない?」
 緒形の言い分に、蒲原は強い警戒を露わにしつつ笑った。尤も、その警戒は緒形に対する強い興味の中に混在する格好で存在しているに過ぎない。実質、その警戒には緒形に対する恐怖や畏怖の感情などなかった。蒲原がまとうのは緒形に対する混じり気のない興味である。
 楽しげに笑う蒲原の意図を見抜けない緒形は強い当惑を見せていた。蒲原の出方を待って緒形は押し黙ったが、すぐにその沈黙と言う手段は「何も為さない」と悟ったらしい。緒形は一つの間を挟み、その当惑の表情のまま蒲原へと告げる。
「わたしは緒形奈美の中に寄生しています。脳という器官に寄生しているのかどうかは当のわたしにも判りません。ただ、自我を持った確かな意識として緒形奈美の身体を動かしているのは紛れもない事実です。実際、ここまで自由に動かすことが出来る様になるまで苦労しました」
 口元に笑みの余韻を残したまま、目元を隠す様に手を翳し俯いた蒲原が何を思ったのかを緒形は理解出来ない。しかし、蒲原からの制止の言葉がないことで、自然と話は続いた。その話の先に続く内容を緒形は蒲原へと告げたいと確かな意志で示していたのだから、それが寸断されてしまうことは有り得なかった。
「多分、緒形奈美の意識は眠っています。寄生しているわたしの方が「意識」のレベルとして強いからかどうかは解りません。わたしは緒形奈美の記憶や知識を借りて話をしています。本来、わたしが持っていない感覚を共有することは出来ませんが、ある程度、その本来のわたしが持っていない人間の感情も理解出来る様になりました」
 緒形はそう前置きをすると、それとは逆に……と、いう話をする。
「わたしはこの世界での力の使い方を知らなかった。でも、わたしは向こうの世界でそうしていた様に、こちらの世界でも力を使える様になりました。蒲原さんたちが特殊な力だと思っているもの、それは向こうの世界から来たわたしに取って使えて当たり前の力だった。向こうの世界では思いのままに使っていた力です。それらを踏まえますと、つまり、この人間の身体の中にも、そういった力を使うための機関があるからだと思いませんか?」
 同意を求めた緒形の言葉に蒲原は頷きもせず、また首を横に振ることもしなかった。まして、明確な答えを返すこともしなかった。それらは「蒲原さんにも、きっと潜在能力があります」と結論づけて諭したものだったが、蒲原が緒形へ尋ねた最初の質問に対する答えの一部でもある。そう、緒方に向けて「誰?」とか「何?」とか尋ねた問いの説明だ。
 延々と続いたかの様にも感じた緒形の言葉を咀嚼して、蒲原の表情は笑みの余韻を残すものから一転、不面目に歪んだ。下唇を噛む蒲原の仕草はことの重大さを痛烈に痛感したが故のものだろうか。
 緒形が口にした話の内容。眼前で実際にやってみせた能力。さらに言うなら、それらの理解に苦しむ困惑の、……いや、納得してしまいたくないが故の、表情だったのかも知れない。若山が言った様に、緒形が「人でない何か」だと、理解したくないが故。そう、さらに言うなら、その原因を作ったものが自分なのだと理解したくないが故の……。
 蒲原は一頻り下唇を噛んだ当惑の顔を見せた後、ふっと唇に微笑を灯し、緒形へと尋ねる。それはまるで「考え悩んだって緒形が元に戻るわけではない」と開き直ったかの様だった。状況を楽しむとは言い過ぎなのかも知れないが、少なくとも、その問いをぶつけることに際して、蒲原の瞳には、再度、強い好奇心の色が見え隠れした。
「……人間じゃない存在であるあなたに問いたいことがあるわ、それも、一つの集合体として、目的や行動を共有し合っているだろう存在に問いたい。あなた達は種族としてどんな目的を持っているの?」
「種族としての目的、ですか」
 緒形はキョトンとした顔をして大きく目を見開いた。
「ふふ、ふふふ、こうして蒲原さんに問われる今の今まで、そんなこと、考えたこともなかったですね。やっぱり、わたし達とは思考や価値観が根幹から異なるのかも知れないですね。目的、……目的?」
 今まで「考えたこともない」といった様に、緒形は楽しそうに一頻り笑った後、それに答えるべく思案顔を見せた。それは印象的な過去の記憶の一つ一つを辿りながら、順次「目的に繋がるものかどうか?」を確認しているかの様だった。
「同族と融合し、分裂をして、わたしの意識を受け継いだ新しい意識体へと生まれ変わって、また同じことを繰り返す。深くそれらの行為の意味を考えたことなんてなかったけど、そうやって経験を積み上げていくことで進化出来るのだと、種族として思っているのかも知れません。こうして自由という柵に囚われてみて、自分という種族を鑑みると、わたし達はそうやって敵対種との終焉のない争いを続けることで、あなた達の考え方の中でいう食物連鎖という大きな理論の役割を担っていたのかも知れません」
 緒形が紡ぎ出した言葉は蒲原の問うた「目的」に対する答えではない。あくまで、それを「こうだ」と述べるための前段階のものであり、また、その目的を目的たらしめる理由や土台となるものだ。それらを踏まえて、緒形は自分達の存在についてこう評する。
「少なくとも、蒲原さん達の様に自分たちが選ばれた特別な種族だとは思っていないですね」
 蒲原さん達の様に……と、そう言いながら、恐らく、それは緒形の記憶の中から取りだしたデータだっただろう。しかし、そうやって、一般的に通用するほどに、その特別な種族「霊長の長」であるという認識を持っていることは否めない。
 緒形は眉間に皺を寄せ「うーん」と唸った後、蒲原の質問に対する答えをこう結論づける。
「……多分ですね、これと言える明確な目的なんて持っていないんですよ。将来的に種族としてどうこう以前の問題なんですよ。向こうの世界の空を、今のわたしが信じられないほどの長い長い時間に渡って漂っていたことにさえ、目的なんか無いかも知れません。例え、言えたとしても場当たり的で、近視眼的な、酷いものだと思いますよ。次は観測状態タイプ「ゼロ」の敵対種を殲滅させるだとか、次の交戦では戦闘種の被害を三分の一に抑えるだとか、そんな死活的なものですよ」
 夜空を漂う紫色の雲を指して、緒形は雲に似たものだと表現したかったのかも知れない。風に流されるままに漂い、融合し消滅し、また、発生する。現行の人間が知る限りに置いて、雲には意志などないが、その融合や消滅といった行為を一つの「意志」を持って行っているような、そんな雲のようなものかも知れないことを緒形は告げた。
「もう一つ。ここは狭い、……そう思わない?」
 蒲原は遠い目をして、そう問い掛けた。
 いや「もう一つ」とは言いながら、恐らく、その質問は緒形だけへと向けられたものではないだろう。緒形へ問いながら、同時にそれを再確認しようと自分自身にも向けた問いだっただろう。現に、蒲原は緒形からの返事を待たず、こう問い直す。それは「狭い」という答えが緒形から返るだろうことを確信しての言葉でもある。
「何で、こんなに狭いんだろ?」
 それは明らかな自問の形へと変容していた。いつもいつも蒲原自身、不思議に思っていたその「質問」の答えを自分なりに突き詰めようとしたのかも知れない。腕を組み、小首を傾げ、蒲原は自分自身が口にしたその問いの答えを自分に求めた。そして、自分なりの答えを緒形へ同意を求めるように口にする。
「それはこの世界の狭隘さを打開する術がないからだと思わない? ……ねぇ、この閉塞感を打開する術がないからだとは思わない?」
「えぇ、狭いですね」
 ニコリと笑って、さもそれが当たり前だと言わないばかりに答える緒形に、蒲原は微苦笑を隠さない。蒲原の求める返答が緒形の口から語られたのに、蒲原の表情は優れなかった。それはまるで、蒲原の複雑な心中を表しているかのようでもあり、ただ、固唾を呑んで緒形の口からその理由が語られることを待っているかのようにも見えた。
 そんな形で蒲原が押し黙ってしまうと、緒形は理由の説明を要求されている気がしたらしい。そして、要求に応えて理由を述べるに当たり、まず、先にしておかなければならないことがあるという具合に、緒形は前置きを口にする。
「これは緒形奈美の身体に寄生するわたしがその当人でさえ気付いていないだろう思考を推算し、客観的に再解釈をし、代弁するものです。だから、正しいとは限りません」
 前置きを話し終えると、緒形は身振り手振りを交えて得意げに語り始める。いつだったか、緒形が杉代へと話した「思考種」という存在だったものとしての、腕の見せ所と言わないばかり。
 緒形奈美という名前を持つ個の、その当人でも気付いていなかった範囲のこと。
 それも、それを客観的に再解釈するものは緒形奈美へと寄生し、その記憶を受け継ぐ「人類でない寄生種」だ。
 蒲原は今から語られるものがどんな見解になろうとも、最後まで口を挟むつもりが無いことを態度で表していた。それは封切りされるのを今か今かと待っていた映画の上映をこれから存分に楽しむのだという顔にも似ている。
「恐らく、その閉塞感は個々として感じているものではなく、種族として感じているものなんだと思いますよ。同じ種族として無意識下で伝達をし、共有する感覚というものがあるんですよ、きっと」
 代栂の夜景を指して見せて、引いては代栂全土を含めた櫨馬の勢力圏を指したのだろう。さらに言うなら、その範囲はこの国そのものへと及び、そして、全世界へと向いているのだろう。そうだ、垣根などはない。霊長類ヒト科に属する全てのものを種族と括り、緒形は言っていた。
「前人達が積み重ねてきて、そして、今なお継続し積み重ねられ続けている事柄ではこの先訪れる限界を超越出来ないんだと感じているんだと思いますよ。まして、高度な科学を得て、過去、幾度とあった滅亡の痕跡を発見しているからなお、それを肌で感じるんだと思います」
 共有しているという感覚の内容をそう推察されて、……いや、そう解釈されて、蒲原の緒形を見る目は険しくなった。
 馬鹿げた話だと笑うことも適わず、まして、肯定することも憚られた。「はい」とも「いいえ」とも答えを躊躇う中で、ただただ、蒲原は口を噤んでいた。下手をすると根拠もなしに「それは違う」とムキになって口に出してしまいそうになる衝動を堪えた格好でもある。
 恐らく、結論づけてしまいたくなかった。
 心のどこかで、緒形の口からそれを言われることを期待していながらである。
 例え、それが自分の後を次いだ世代の話であったとしても、蒲原はそれを肯定出来なかった。
「どんな種族であっても、生に対する執着を必ず持っています。それを踏まえて、どうにかして種の存続する道を残そうと模索します。自ら、その命を絶つということは自らの犠牲を持って、増殖をし続けた自らの属する種族の数を適正な値に戻そうとする潜在意識の表れの一つだとは思えませんか?」
 大きく腕を広げて見せて、それが自分を含めたありとあらゆる種族であることを緒形は主張した。そう、人でない存在だとて例外はない。まして、この世界の外の存在だとて例外はないと主張した。
「個を求める、力を求める、特別を求める、閉塞感を感じる。個人差によっての感じ方こそ違うけど、それらは前人達がやってきたことをそのまま継承してゆくだけでは種族としての絶滅が近いことを悟っているからだとは思いませんか?」
 全く唐突に同意を求められて、蒲原は当惑した。
 ふっと顔を付き合わせるかの様に、緒形の顔が眼前に来たからというのもあるだろう。そう、一挙手一投足を目で追っていたのに、その接近は蒲原の感覚の中で唐突だった。どこかで、緒形の話しに引き込まれて聞き入っていたのだろう。緒形の主張が完全に終結するまで、一つたりとも漏らすことなく聞き取ろうとしていながら、蒲原が心のどこかで自問自答を繰り返したのも、確かな事実だった。
 そんな当惑の表情を満足そうに一瞥した後、緒形は続ける言葉でこう蒲原へと問い直す。
「ここは狭い、爆発的に増殖をし続けた人類という種族の総数的にもそう。一般的に、他人が持ってはいない力を先天的に授かり、……どうしてこんな特殊な力を持って生まれたのか、……これは何をするために授かったものなのか、それを思い悩むのはその閉塞感を「打開しなければならない」と感じているからじゃないんですか?」
 それは同意を求めるものではなく、逆に蒲原へと長々と述べた見解の適否を問うたものだった。つらつらと述べた見解の全てが正しいのかどうかを問うたものではない。あくまで、それは蒲原の持つ閉塞感に対する思いに対する自身の推察が適当かどうかを問うたものに過ぎない。
 蒲原は一度瞑目すると、それを「そうだ」と肯定する。緒形の主張の途中で半ば反射的に行っていた自問自答として、過去に幾度となく導き出した答えでもあり、同時に、新たに再認識した発見でもあった。
 ずっと「出来ない」ことだと、押し殺してきたから気付かなかった。いや、気付かない振りをしてきただけなのかも知れない。だから、それはずっと目を向けなかっただけの、端から判っていた当たり前のことだった。
「あぁ、……そうね。この閉塞感を打開したいとは思っているわ。このどこから来ているのか、正体の掴めないぼやけた閉塞感を、突然ふっと襲ってくる息苦しい感覚を、どうにかしてしまいたいと思ってる。ありとあらゆる制限を取り払って貰いたいわ」
「ああ、何となく判るぜ、その感覚」
 突然、背後から向けられた理解の言葉に蒲原は大きく目を見開いた。余程、驚いたのだろう。蒲原は強い警戒を前面に押し出す格好で、半ば反射的に声の主へと向き直っていた。
 背後にいる人物の全容を捉え、その男に攻撃の意志がないことを理解してなお、蒲原がその警戒を解くのに多くの時間を要したぐらいだ。人間の認識とはおかしなもので、杉代の存在を目で確認して始めて、蒲原は鼻を突く煙草の匂いに気付いた形でもあった。
「あんたとこうして、面と向かって話しすんのは初めてだよな、なぁ、蒲原さんよ?」
 少しもあくびれた様子のないあっけらかんとした顔をして、杉代はぺこりと頭を下げた。挨拶のつもりなのだろう。
 コンクリートの上に胡座を掻く格好で座る杉代は蒲原からそう離れていない位置にいた。
 興味津々という顔付きで、蒲原を見る杉代の目は高校では見ることの出来ない類ものだった。もちろん、そんな楽しそうな顔をする杉代を蒲原がその目にするのは初めてのことだし、杉代にしてもそうやって蒲原という同級生に興味を持ったことも初めてのことだった。
「杉代、毅」
 歓迎とも警戒とも言えない、……どちらかというと興味の薄い冷めた目で蒲原は対応したのだったが、杉代はそんなことを気にした風もなく、一方的に話し始める。
「ただの変人だと思ってたけど、……へへ、あんたの奇行も色々と思い悩んだ故の行動だったんだな。今なら、あんたを意志を貫徹しようと足掻く、行動的な努力家だって理解出来るぜ。今の科学に頼ったって解明出来ない類のことじゃ、それこそ、別の世界の存在にでも尋ねるしかねぇものな」
 コンクリートの床にギュッと煙草を押し付けると、ふっと腰を上げて立ち上がる。長々と続いた蒲原と緒形の接触が一段落付いたことを杉代は理解していた。
「クレイジービックマム。あんたをこれ以上、的確に評した蔑称はねぇと思ったが、……もしかすると、あんたは本当に先へ先へと進む連中の道を切り開く「母」に成り得る存在なのかも知れないな」
 嘘偽りのない賛辞を送りながら、杉代は蒲原を見る目に偉人でも捉えるかのような尊敬の色を混ぜた。
「潜在能力を覚醒させてみましょうか、蒲原さん?」
「……」
 蒲原に取って、その緒形の誘いは予想出来ない範囲のものではなかったのだろう。そして、蒲原はその誘いに対して「はい」とも「いいえ」とも口にしようとせず、ただ、緒形をジッと注視するだけだった。
 緒形は緒形で「あれ、おかしいな」とでも言わないばかりの顔をして、言葉を続ける。
「それによって、蒲原さんがどんな力を有するようになるか、それはわたしには判らないことですが、……でも、その未来を占う以上の力を、九分九厘、蒲原さんは持っていると思いますよ。もちろん、それは蒲原さんの望むような狭隘さを打開するものに繋がるものではないかも知れません。だけど、もしかしたら、蒲原さんが望む存在をこちらの世界へと召喚する足掛かりとなるかも知れません」
「……あなたは知っている? 美味しい話には何かしら裏が隠されているって教訓」
 真意を問い質す蒲原の鋭い目にも、緒形は困惑の態を見せるだけだった。恰も、蒲原が何を言わんとしているのかを理解出来ない、そう言わないばかりだっだ。本当にそれが意味を理解出来ないから故の態度なのか、どうにかはぐらかそうとしているのかを判別出来ないから蒲原の表情は優れないものだった。
 そして、蒲原は「このままでは埒があかない」と思ったのだろう。言葉を用いて緒形に問い質す。
「何が目的なの? そんなことをして、あなたに何の利益があるの?」
 そこまで言って蒲原はハッと我に返った様に、この場にいる杉代へと視線を向けた。
「……杉代、クン?」
 既に、その緒形の提案に乗ったのか。それとも、これから乗るためにここに居るのか。
 しかし、そのどちらであっても蒲原の表情が険しくなるのは必然だった。
 蒲原からその答えを問い質す目を向けられて、杉代は一度、自嘲気味に笑った。そして、その非難の目に晒されることが嫌だと言わないばかり、夕焼けに赤く染まる夕闇と夜の間の空に顔を向ける。杉代は緒形が突き付けた要求については具体的な内容を話さず、杉代自身も「緒形の真意が判らないこと」を説明する。
「その、まさか、だな。俺は緒形の話に乗るつもりだぜ。緒形からは対価としての要求を突き付けられた、もちろん、緒形はその対価以上の利益を得るのかも知れないし、もっと大きな裏が隠されてるかも知れない」
 緒形の提案に乗っていないことを言い、そして「全てはこれから始まる」ことを杉代は述べた。
 蒲原は理解する。緒形と一緒になって杉代がこの社員寮跡へとやって来た理由をである。
「でも、俺は欲しいね。常識の枠から逸脱する力」
 杉代はくっと蒲原へと向き直ると「でも」と置いて口を切った。
 杉代に迷いはなく、逆に蒲原がその勢いに怯んだ格好だ。
「さっきも言った気がしますけど、わたしにはこれだと言える確かな目的なんてないんですよ。たくさんの分岐点があって、何を選択するべきなのかを当惑しているんです。わたしは望んでこっちの世界に来たわけじゃありませんからね。こんな世界があると考えたことさえなかった」
 蒲原と杉代とのやり取りの間、緒形はずっと長考していたのだろう。尤も、その結果として導き出された答えは蒲原を納得させられるものなどではなかった。そして、当人が言ったように、既に前述したものをそのまま繰り返したに過ぎない駄目を踏んだ内容だった。
「緒形、俺もお前の話を聞いて一つ聞きたいことが出来たんだけど、構わないだろ?」
 緒形が要求に対して頷くなり何なり反応を見せるよりも早く、杉代は質問を続けた。
「なぁ、向こうの世界ってぇのは一体どんな世界なんだよ?」
「……杉代先輩」
 杉代を見る緒形の瞳には強い静止の意図が見え隠れした。現に、杉代の名前を呼んだ緒形の言葉もそうだ。「先にやるべきことがあります」とか「質問なら後でいくらでも答えます」とかいう意味合いがそこには込められていた。
「良いだろう? 減るもんじゃなし。教えてくれよ?」
 そこにある緒形の強い意図を敏感に察しながら、杉代は敢えて緒形へと詰め寄った。
 何を言っても無駄だと思ったのか。その質問に答えることが何ら弊害を招くことではないと判断したのか。
 ともかく、緒形は人間味の溢れる溜息を一つ吐き出すと、杉代の質問に対する答えを口にする。
「この緒形奈美の目で見たことがあるわけじゃないし、人間の持つ感覚でそれを感じたことがあるわけじゃなから、上手く言葉にして表現することが出来ないけど、ここよりは混沌としている世界ですよ。少なくとも、敵対種がいて、争いがあって、こんな安定はない世界です」
「良いわ、緒形さん。……わたしに力を授けてみて頂戴」
 唐突に、二人のやり取りを眺めていた蒲原が口を開いたことで、杉代は押し黙った。向こうの世界に対するさらなる質問を続けようと思っていたのだろう。杉代は勢いよく口を開いて、今まさに言葉を向けようという体勢だった。
 しかしながら、場は既に会話を続ける雰囲気ではなくなってしまっていた。蒲原の要求を聞き、緒形は満面の笑みを見せていて、杉代も自重する態度なのである。尤も、両者ともに愁眉を開いたかのような、清々しい顔をしていた。
 恐らく、力に関する答えを蒲原が明言しない限りは先へと進まなかった。
 例え、その答えが「いいえ」であっても、だ。杉代がどう考えていたかは判らない。しかし、蒲原の答えが「いいえ」であったなら、緒形は杉代だけに力を授けただろう。杉代としては蒲原が「はい」と言わない限り、その力が授けられないとでも思っていたかも知れない。
 ……一つだけ、蒲原の心に凝りがあるとすれば、それは緒形が力を授ける理由だった。
 対価となる何かを求めた杉代はともかく、緒形が自分の元へと来た理由が蒲原にはどうしても判らなかった。
 力を欲するかどうかの問いに、どんな答えを出しても緒形は恐らく拘らなかった。「力を欲するだろう」という推測は持っていただろうが、それは蒲原が承諾することを断定する理由にはなれない。まして、緒形は蒲原について、その性格の細部をしっているわけではないのだ。
 緒形の行動は蒲原の目に統一性を持っているようには映らなかった。再三、述べてみせた様に、確固たる目的など無いのかも知れない。ただの、気まぐれかも知れない。ただ、二度手間を嫌っただけかも知れない。
 それでも、備品倉庫で黒い球体を作った蒲原に、何かを求めることをしない緒形の言動は不可解だった。
 微かに残っていた夕闇の余韻も掻き消えて、本来、黒く染まるべき夜空を裂く明かりはオレンジ色の街灯が幅を利かせる様になる。社員寮跡は俄に薄暗さを増し、街灯の明かりが照らす角度によって、それぞれの表情はめっきりと捉えにくい状況が生まれ出た。
「では、始めましょうか。……って、そんなあからさまに身構えないで下さい。肩の力を抜いて、リラックスをして、わたしの目を見て下さい。そして、例え、身体をどんな異変が襲っても受け容れて下さいね」
 緒形から注意が向いて、蒲原は困惑の表情を滲ませた。「解そう」と頭で思ったからと言って、すぐに「はい、そうですか」と出来ることではない。まして、蒲原の警戒は半ば無意識のうちに形作られたものでもあったのだ。尤も、もう一方の杉代の方もどこか強張った表情をしていて、すんなりと受け容れ体勢を整えることは出来なかった様だ。
 しかし、蒲原、杉代、ともにその緒形の注意が効いたらしい。……悪く言えば、隙が出来たのだろう。
 緒形の目を何の気なしに見返した次の瞬間、両者ともにふっと意識を失った格好だった。




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