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Seen04 mimic


「少し離れていて下さい、杉代先輩」
 緒形が南京錠に手を翳し、眉間に皺を寄せる。それが集中を高めるための行為なのかどうかは定かではなかったが、そんな緒形の仕草を半信半疑の表情で眺めていた杉代はその目を大きく見開くことになる。事実、世界の見方が変わるほど、驚いたといってしまっても過言ではなかったかも知れない。
 南京錠のちょうど鎖に当たる部分が真っ赤に発光し、尋常ではない熱を帯びているのが理解出来た。ドロッと金属が液体の様に動いたかと思えば、後は一瞬の出来事だった。
 ボトッと融解して南京錠から零れたドロドロの液体はリノタイルの床にポツポツと落ち、周囲に焦げた匂いを充満させた。ジュウウウゥゥ……と、高音に焼け焦げる音が耳を付き、それが余計に眼前で起きている出来事が実際のものなのだと杉代に再確認させる役目を果たした格好だった。
 カコンと、南京錠がリノタイルの床に落ちる音が響き渡って杉代はハッと現実世界に引き戻される形になる。焦げた匂いと、眼前の常軌を逸した出来事に意識を奪われてしまっていたようなものだ。事実、杉代の脳裏には強く南京錠が融解してゆく様が焼き付き、繰り返し繰り返し脳内で再生されていたのだからだ。
 杉代はそんな力を使って見せた緒形を「恐ろしい」と思った。当然、それは人間の持つ能力を逸脱した力で、また、それを応用すれば簡単に誰かの命を奪ってしまえるものだと思ったからだ。しかしながら、その恐怖に似た感情と同時に、杉代は緒形に惹かれる感覚が芽生えていることにも気付いていた。
 頭の中身を整理して、すっきりとした思考でその理由を考えたなら、それはあまりにも簡単なことだった。
 興味を持つその感覚と、恐怖を覚える感覚は何も相反する矛盾したものではないのだからだ。
「凄いな、……凄い、力だ」
「……そうですか? でも、わたしはわたしの身体の中にある器官を用いてこの力を使っているんですよ? 個人差、体格差、価値基準、身体能力などなど様々な差違はあれ、杉代先輩のものと大差ない人間の身体でこの力を使っています。多分、杉代先輩にもありますよ、こういった力。ただ、使い方が解っていないだけなんですよ」
 褒められた。そう思ったのだろうか、緒形は得意げにそう切り返して笑った。
 呆気にとられる杉代の表情など目に入っていないかのようにだ。
 キィと音を立てて屋上へと続く扉が開き、ステップを踏むかのような足取りで緒形は屋上へと躍り出る。
 対する杉代は緒形の後に続いて屋上へと足を踏み出すでもなく、開いた扉の前に佇んでいた。屋上への扉が開いたことが判っていないわけではない。トン、トン……と先を行った靴音を追って、杉代の目は緒形の背中を見ていたのだからだ。しかし、緒形を追ったその目はすぐに、何かを掴もうとするかの様に大きく開いた自分自身の掌へと落とされる。
「俺にも、……そんに力があるってか?」
 誰に問い直すでもないそんな呟きは杉代の心に一つの波紋を生じた。
 自分の中にあるかも知れない隠れた力を疑う思いが半分、そして、その力に対する憧れにも似た期待が半分。
「はは、はははは、……まるで実感なんか湧かないぜ」
 しかし、すぐに乾いた笑いを口から吐き出し杉代は自分自身のそんな思考を曖昧に濁してしまうのだった。今すぐにその明確な答えを得ることを拒んだわけである。ふっと掌から視線を戻すと、そこに緒形の姿が発見出来なくなっていて、杉代は慌てる。
「何をするか、判らない」
 そう思ったわけだった。
 昨夜、コンビニの前で遭遇した時よりも、緒形の持つその「危なっかしさ」は確実に減衰していた。けれども、杉代に取ってしてみれば、いつ再発してもおかしくはないものだった。まして、緒形がその危なっかしさを持っていた頃から、時間にして一日足らずしか経過していないのだからだ。
 緒形が梯子を蹴る「カンッカンッ」という金属音を捉えて、杉代の心に波紋を投げた一抹の不安はすぐに掻き消える。
 屋上への出入り口から外に出て、緒形の後を追って錆の目立つ梯子を登ってゆくと、杉代はぐるりと周囲の景色を一望出来る場所に立った。尤も、代栂で一番背丈のある集合住宅だとは言っても、見渡せる範囲などは限られている。それでも、集合住宅の屋上から見下ろす景色はそう悪いものではなかった。
 壮観な眺めとは違うものの、僅かに背が低いだけのアパート群をそこから見下ろすのも、悪くはなかったのだ。
「割りと、良い景色なんだな。あんまり期待はしてなかったけど、まぁ、悪くない」
「ずっと向こうに見える赤く明滅する明かりはここよりも高い位置にあるんじゃないですか?」
 緒形が指差した方向には櫨馬があった。
 無数に明滅する赤い光は確かにここよりかはずっと高い位置にある光である。
「お前、ここら辺で一番高い建物って言っただろ? あっちは代栂の隣の櫨馬って都市なんだ。まぁ、なんだ。櫨馬に行けばこれより高いビルなんて腐るほどあるぜ?」
 緒形の言う「赤く明滅する明かり」とは航空障害灯のことだ。櫨馬まで出て高層建造物を探すなら、60メートル以上に達する建造物は無数にある。櫨馬中心部まで足を運ばずとも、この集合住宅より高いビルは櫨馬の市内には遍在している。
 より高い場所を求める理由がどうしても気になって、杉代は緒形に問い掛ける。
「そんな高い場所に行ってどうしようっていうんだ?」
 この質問を杉代が緒形へとぶつけるのは実に二度目のことだった。
 杉代のいう「そんな」の指す建造物は異なるものの、その質問が持つ意味は一度目のものと大差ない。
 その一度目の質問は緒形をここへと案内する道の途中で、何の気なしに聞いたものだった。緒形の口から答えを聞くことは適わず、上手にはぐらかされてしまったのだが、その一度目のやりとりで、高層建造物の屋上に行く確固たる理由があることを緒形は仄めかしている。
「……確かめたいことがあるんです。高い位置に行けば行くほど、より高空まで、より遠い場所まで、声は届きます」
 そうして、仄めかされていたからこそ、興味は一度目の時よりも強いものになっているのだろう。緒形の答えた声のためという理由に納得せず、杉代はさらに一歩踏み込み、その声についての詳細を問い掛ける。
「こんなトコから、誰に、一体何を、伝えるって言うんだよ? どんな大声出したって、街を溢れる雑音に掻き消えちまうぜ。……拡声器でも持ってきた方がいいんじゃないのか?」
 この集合住宅の屋上なら、まだ拡声器で地上まで声を届けることが出来るだろう。でも、緒形のいう櫨馬の高層ビル街まで言ってしまえば、それも適わない。杉代の常識で話しをすれば、櫨馬中心部に位置する超高層ビルの屋上という場所は緒形の声を出すという目的に相反する場所だと言えた。それは超高層ビルの屋上に限らず、この集合住宅の屋上もそうだ。
 遠くに声を届けるのが目的だというのなら、もっと的確な方法がいくつも真っ先に頭を突いて出る。
「ここからわたしが四方八方に向け放つ「声」は雑音に消されることがないものです、杉代先輩」
 緒形は人工灯に小綺麗に彩られた「薄闇」と呼ぶのにさえ無理のある夜景に向けて、すっと顔を向けた。肩の力を抜き「すぅー」と息を飲むと、緒形は目を瞑って、深呼吸をしているかのよう。ゆっくりと息を吐いてゆく。
 その一挙手一投足を注視する杉代の前で、緒形は時間にして三分近くその格好のまま、目を瞑っていた。時折、吹き抜けてゆく風に髪を揺らしただけの緒形の様子に、杉代が感知出来た変化はなかった。
 唯一、異変を覚えたことがあると言えば、しっかりと地に足を着いているにも拘わらず、平衡感覚に狂いが生じて蹌踉めきそうになったことぐらいだった。
 パチリと目を見開くと、緒形はニコリと笑い、問い掛ける。
「聞こえましたか、杉代先輩?」
「……」
 杉代の無言の答えが「聞こえるはずがないだろう?」と聞き返すものであることを緒形も十二分に理解出来るらしい。
「ふふ、全て、記憶障害の、おかしな思考回路をした「緒形奈美」という人格の妄言かも知れませんよね」
 緒形はクルリと杉代に背を向け「聞こえないのは当然のことだ」と言った。同時に、敢えて「妄言かも知れない」と口にして、信じるも信じないも杉代の自由であることを緒形は暗に含めた形でもあった。
 妄言を、妄言かも知れないと思いながら話をするなら、それは確信犯であると言える。けれど、もし、緒形が妄言を話していたならば、少なくとも緒形自身はそれを本当のことだと認識しているだろう。
 緒形の話が妄言だと思ってしまえば、その話はそれで終わりだった。
 けれど、杉代には緒形が妄言を話しているなどと言う認識はない。杉代の脳裏には路上で遭遇した頃の、緒形の様子が鮮明に焼き付いている。その記憶を踏まえて、杉代が緒形の言葉を妄言だと述べることは出来なかった。
「ただの妄言かも知れない」
 一瞬、確かに杉代もその考えに囚われた。
 なぜならば、緒形が「声」と言い表したものは「念」であると杉代は判断した。では「その念を聞くことなど本当に出来るのだろうか?」というところにぶち当たるわけである。まして、それに答えを返すものなどいない様に思えたからだ。
 長い沈黙を挟んで、杉代は「信じる」という選択をしたことを緒形に告げた。
「……かも知れねぇな。でも、俺は一つ、盲目的にお前を信ずるに値する事実を見せられちまっている」
 信じるに至ったその理由を聞いて、緒形はキョトンとした顔をして聞き返す。
「さっきの、鍵を融解させた奴のことですか?」
 杉代は「答えるまでもないだろ?」と言わないばかり、ただただ、じっと緒形を見返していた。すると、緒形はマジマジと杉代の真顔を見返して「信じられない」と笑う。大きな認識の違いがそこにはあった。
「あれは信じるに値する力ではないですよ。さっきも言った様に誰でも潜在的に持っている類の力に過ぎませんから。この程度の力に魅せられてしまっていると、いかがわしい新興宗教団体の安い子供騙しに惹かれてしまうかも知れませんよ」
 信じるに値する力。
 それに該当しない、誰にでも備わっている力なんだと緒形は笑った。さも可笑しそうに、一頻り「クスクス」と、声を上げてである。しかし、杉代は「誰にでも備わっている」と緒形が述べたその力を欲している。今の杉代にはない力だからだ。そして、杉代が知る限り、そんな力を持つのは眼前にある緒形ただ一人である。
「なぁ、その力ってのはどうやったら使えるようになるんだ?」
 夜景へと身体を向ける半身の姿勢で緒形の顔を注視して、ボソリと口にした杉代の言葉は真剣そのものだった。呟く様に口に出した言葉ではあったが、それは杉代の意志を体現する様に、はっきりと通るものになっていた。
 杉代の口調が冗談をいったものではないから、緒形もその空気に飲まれる様に笑うのを止める。
「……」
 緒形はどこか拍子抜けした顔をして振り返った。
 そうやって「ジッ」と緒形に横顔を注視をされて、杉代はたじろいだ様に困惑した表情を垣間見せる。
「自分でもどうしてそんなことを言い出したのか判らない」
 そんな言葉を表情に示し出した杉代に、緒形は言葉を返さなかった。
 そんな静寂が「耐え難い」と言わないばかり、杉代はすっと息を飲んで緒形のその瞳を睨み返す。答えを聞くまでは「もう後に引くつもりはない」と、そこには確かな杉代の意図が見え隠れした。
「た、例えばの話だぜ? 俺はあそこにある鞄を浮かせることが出来るんだって信じて疑わないとか、何か特別な意識の集中の仕方があるとか、何をどうしたら、お前のような力が使えるようになるかってことだよ」
 声が上擦ったのは「自分でも馬鹿なことを言ってる」とでも思ったからだろうか。大きな身振り手振りを加え、杉代は詳細な説明をそこに加える。気恥ずかしさを誤魔化すためだけのものにも映る「必要性」の感じられない説明を、だ。
 ともあれ、そうやって杉代に力の具体的な使い方を聞かれて、緒形は思案顔を見せる。緒形はその結論として、具体的な地下の使い方以前に、杉代へと説明しなければならないことがあるのを認識する。
「わたしは先天的に力の使い方を知っていました。……と言うよりも、使えて当たり前の存在だったわけです、杉代先輩。それがこの身体でも威力の大小の差違はあれ「使える」と言うことは、杉代先輩達がただ単に力の使い方を知らないだけだと思いませんか。多分、元々、杉代先輩らも力自体は持っているんですよ。それをコントロールして、自発的に使えるようになるためには何かきっかけが必要なんだと思うんです」
「その「きっかけ」ってところを知りたいわけよ。どんなきっかけがあれば、良いのかってところをだ」
 杉代は一歩踏み込んで、緒形にその詳細な説明を求める。
「言葉にして、この感覚を伝えることには無理があると思います、杉代先輩。特に、わたしはこの力の使い方を先天的なものに頼っているんですから」
 そう話した緒形は困惑の色の強い表情だった。
 その説明が的確なものだったかどうか、自信がないらしい。そして、何度か言い直そうと口を開きはするものの、結局、緒形はそこに適当な修正を加えることが出来ない。
「どう話すのが最適なのか?」
 緒形は自分の中の感覚を言葉にまとめられないことを自認する羽目になる。過去の緒形の記憶から得た知識で、それを補足する言葉が見つからないことも大きな原因の一つだっただろう。ともあれ、緒形はここに来て「もどかしさ」という感覚を身を以て知ることになったわけだった。
「例えば、杉代先輩以外の他人が空へと放って、その手に掴み取ったコインの表と裏を、杉代先輩は一度も外すことなく全て言い当てることが出来るとします。杉代先輩は、ただ、そのコインの表裏を直感的に知ることが出来るんです。それについて「何をしたらコインの表裏を知ることが出来るんだ?」と聞かれても、その、困りますよね?」
 熱心に耳を傾けていた杉代は気付かなかったのだろうが、辿々しく「例え話」を口にした緒形の様子は今まで見せていたどの「緒形奈美」とも明らかに一線を画すものだった。
 杉代に同意を求めた緒形のその言動自体に著しい変化が見て取れたわけではない。
 ただ、杉代とその一連の受け答えを展開した緒形は「緒形奈美」が持つ過去の記憶に答えを求めることなく、対応をしたのだった。
 それらの兆候はこの集合住宅の屋上へ向かう途中から顕著になり始めていたのだったが、それを杉代が取り立てて気にしていなかったと言うことが大きいだろう。いや、杉代では気付けない類のことなのだと、そう言ってしまって良かった。
 杉代が緒形へと言葉を向け、それに対して緒形が何かしらの反応を返す間隔は著しく短縮されていた。そして、緒形は困惑の表情や、悩む仕草を見せる様になってきていた。それは紛れもなく「人」のする仕草そのものだ。
 そうだ、過去の記憶に答えを頼るのではなく、過去の記憶を土台として、その上に形成される確固たる「意識」として緒形は完成しつつあった。過去の「緒形奈美」から得た知識を元にして、訥々としたものではあったものの、杉代に「同意を求める」という意味を持った文字の羅列を組み立てるだけの言語能力を構築したわけだった。
 現に、言葉以外の点でいうのならば「緒形奈美」の身体の得手不得手を緒形は完全に把握していた。その上で、過去の緒形とは一線を画す点を、多数、構築し始めていたのも事実だった。仕草や癖といったものをそのまま緒形奈美から受け継ぐことなく、新しい緒形として全く異なる癖を身につけ始めていた。
「まぁな、それは「直感的に判る」としか言いようがないわな」
 杉代はそう頷きながらも、納得がいかない表情をした。頭では緒形の言いたいことが判っているのだけど、同時に、どうしてそれが説明出来ないのかを問い詰めたい気持ちが混在しているのだろう。杉代は期待が強かった分だけ、落胆も大きかったらしい。「クソッ」と誰に向けるでもなく吐き捨てると、気分を落ち着けようと夜景に視点を移した。
 そんな具合にプツリと会話が途切れると、櫨馬から代栂へと吹き抜けてくる風の音が心なしか強くなった気がした。
 緒形はふわりと風に靡いて浮き上がる髪を厭うように掻き上げると、杉代の横顔を注視する。
「杉代先輩は潜在的な力を使えるようになりたいですか?」
 唐突に切り出された緒形からの質問に、杉代は緒形へと顔だけを向けた。
 濁りのない目に晒され、杉代は本音を引きずり出される。杉代に取ってみれば、それは心を鷲掴みにされたかのような感覚でもあった。そして、それは雑多にある余計な思考に囚われていたなら、恐らく、簡単に口にすることの出来ない言葉だった。夾雑物の混ざる余地などにい本心である。
「……なってどうするかって話もあるが、俺は欲しいね、常識の枠から外れる力」
 そこに、緒形の口から「なぜ、力が欲しいのか?」という質問は返らなかった。
 緒形は再び瞑目する。そこに思案顔はない。ただ、眠るかのような安らかで綺麗な顔があるだけだった。瞑目から一転、ふっと目を見開いた緒形は雰囲気を一転させる。そして、緒形は杉代が目を向けていた夜景へと向き直って見せて、オレンジ色の光りを煌々と放つ街灯に手を翳した。
 代栂の夜景を彩る光りの大半はそのオレンジ色の光りを放つ街灯によるものだ。代栂町の至る所に遍在し、また、全て同型なのだろう、基本的にはどれを取っても同色のばらつきのない光量を放っている。
 それ故に代栂の夜景をオレンジ色がかった味気ないものにしているのは事実だったが、闇夜を照らす性能に優れているのは確かだ。現に、こうなる以前の代栂を知っている大人は今の代栂が昔よりもずっとずっと明るくなったという。
 緒形は手を翳した先にある街灯の、オレンジ色の発色の輝度を加速度的に上昇させる。程なくして「パンッ」と街灯が音を立てて破損し、立ち並ぶ街灯の中で、緒形が手を翳した箇所のものだけが明かりを灯さなくなった。
「わたしは戦闘種じゃありません、杉代先輩。だから、自衛をするにしろ何にしろ、相手を攻撃する能力に優れていません。防御の手段も持ち合わせていません。わたしは一つの複合体として存在する中で、感覚種から逐次送られてくる感覚に対して判断を下す役目を担った思考種のうちの一つでした」
 実際に杉代へとその力を示して見せて、緒形はそれを「自衛をするに十分でない」と言った。
 話の内容云々よりも、まず、杉代はそれが信じられない。
 緒形の力が自衛をするに十分でないというなら、緒形の言う敵対種とは「何なのだろう?」と思わずにはいられなかった。そうだ、緒形は一体何に対して「自衛」をしなければならないのか。杉代の中に生まれる疑問の総数は時間を経過する毎に増加した。
「感覚種? 思考種?」
 緒形が自分のことを指していった思考種という単語に、まず、杉代は疑問を投げかけた。何よりも「緒形とは何なのか?」を杉代が理解しようとしたために向いた疑問だ。
 まず間違いなく、そこが入り口だった。杉代はそう確信した。
 緒形が使う「力」のこともそう。そして、恐らく、緒形が記憶喪失に至った話しもそう。
 言葉の意味を問う杉代に、緒形はすっと腕を伸ばした。
 杉代はその腕の伸びる様子をじっと注視したが、それを払い除けるような真似はせず、黙ってなすがままになる。それは緒形に敵意や攻撃の意図がないことを理解出来たから、……というのもあっただろう。
 緒形はそのしなやかな指で髪を撫でるように杉代の目元へと触れ、もう一本の手で杉代の腕を取って指を絡める。
「感覚種とは人間でいう目や耳や手などといった外部からの刺激に対応する種です。それが敵対種かどうかなどといった判断も感覚種自体が下します。思考種とはそうやって送られてきたデータに対して攻撃をするなら攻撃をするで、それを戦闘種に仲介する役目を持ちます。どんな攻撃をするか、その場合はどこを狙った攻撃をするか、一点に攻撃を集中させる必要があるか、防御を優先するなら優先するでその時々に最適な防御方法を模索します。状況に応じた適切な判断を下すのが複合体で「考える」ことを役目に持つわたしの仕事でした」
 緒形はこの集合住宅へと歩く道すがら、杉代へと様々なことを尋ねた。人間に対すること、社会に対すること、感情や表現、言語にコミュニケーション、それは本当に様々なことに及んだ関連性の見えない問いだった。
 緒形はその中の一つ、人間の種類に対して杉代の答えた言葉を用いて、こう話し始める。
「杉代先輩は「ここには人間しかいない」と言いました。そして「人間には種類がない」と言いました。肌の色、瞳の色、各地域に適応した身体的な能力の相違、そう言った微少な違いこそあれ、同じ祖先を持ち、全てそこから派生していて根本的には違いがないはずだ、そう言いました」
 杉代が頷くのを確認し、緒形は理解を求める真摯な顔をして続ける。
「でも、人間にわたしの声を聞くことの出来るものがいますか? ここには杉代先輩では聞くことの出来ない声を聞く何かがいます。そうです、ここにはわたしの敵対種になり得る何かが存在します、杉代先輩」
「お前の声を聞けるから、イコール敵対種になり得る存在なのか? それともう一つ聞きたい。お前の世界にいるのと、こっちの世界にいる敵対種は別物なんだろ? その「こっちの世界の敵対種」っていうのも、無条件でお前を襲うような生物なのか?」
「すいません、杉代先輩、……それに対する確答を、わたしは明言出来るだけの情報を持っていません。そして、敵対種ではなく、あくまでも敵対種になり得る何かです。そして、……これは推測の域を出ないですが、わたしの声を聞くことの出来るものはわたしを殺すことが出来ると思います」
 緒形は申し訳なさそうに、決まり悪いという顔で笑った。敵対種を特定出来ず、まして満足な情報も明示出来ないことを緒形は気まずく思っているらしかった。
 しかし、杉代に取ってはその敵対種が不明瞭である方がほっと出来た。杉代が知る限り、この世界には緒形の言うような敵対種など存在しないのだからである。
 緒形はそんな杉代の心の内を知ってか知らずか、敵対種に対する説明をこう捕捉する。
「それは人間と同等か、それ以上の高度な知能を持つ生物で、恐らく、わたしのような力を持つはずです。もしかしたら、何らかのきっかけを得て能力に覚醒した「ただの人間」かも知れませんし、人間の社会で人間の振りを生活する人間の姿形をした別の種族かも知れません」
「……そんなものはいねぇよ」
 やはり、杉代の知る限りは緒形のいう「敵対種」となり得る生物など、この世界には存在しなかった。断言出来た。
 しかし、緒形は屈託無く笑うと、自信を持って杉代の言葉を否定する。
「ふふ、居ますよ。……いえ、わたしの推測が正しいのならば、他にも無数に存在すると思いますよ」
 敢えて、断言を推測へと言い直した緒形の様子に、杉代は心の中に沸々と不安が沸き起こるのを覚えていた。
 自信満々に切り出された言葉がプツリと途切れると、緒形は自身の両手をまじまじと注視する。
「こちらの世界へと強制的に引きずり込まれた時に、わたしは多くの力を削がれたと思いました。多くの制約を受けたと思いました。でも、今、考え直してみると、それはこの身体の持つ感覚とわたし本来の感覚との相違だったのかも知れないと思うこともたくさんあります。こっちに来て始めて、わたしは気付きました。向こうの世界で力を使う時に無数の仲間の力を借りて大きな力を使っていたことにです。こっちの世界にはわたし一人しかいない、だから、大きな力を使うことは出来ません」
 緒形は本来の力がついさっき見せた程度のものではないことを感情の起伏のない言葉で淡々と告げた。それは強大な力の必要性を訴えている様にも見えたし、強大な力を使えなくなったことを憂えている様にも見えた。
 真実か、妄言か。
 その答えを図ることの出来ない長い長い前置きの後、緒形は杉代の欲する力に対してこう述べる。
「もう一度言います、わたしは自衛をするに十分な力を備えていません。だから、杉代先輩には戦闘種の代わりになって貰いたいのです。敵対種に対抗する戦闘種の役目を担ってください。それが杉代先輩を覚醒させる条件です」
 神妙な顔付きをする杉代の沈黙が、逆に、その心の内の激しい葛藤を物語っていただろう。
 結局、即断は出来ず、杉代はその返事を保留した。


 代栂に生まれ、代栂で育ってきた今の今までで、一度も聞いたことのない鳥の鳴き声で佐々木は目を覚ました。「ギャアッ、ギャアッ」と吠えるかのようなその鳴き声は獰猛な獣の遠吠えにも似ていただろうか。佐々木にしてみれば、そんな鳴き声に思わず「ビクッ」と身体が震えた格好だった。言うなら、眠っていた野生が危険を警告したかの様にだ。
 そんなこんなで、過去の自分と比較をして、大きな変化を得た佐々木にとっての初めての朝は目覚めの良いものだとは言えなかった。
 佐々木は大きな欠伸を一つ噛み殺し、上半身を起こした。澄んだ空気と森の匂いは佐々木に心地よささえ覚えさせたが、代栂の街中にはない独特の肌寒さは佐々木に「布団の温もりにもう一度くるまること」を選択肢の一つとして大きく取り上げさせた。
 誘惑に負けて、いそいそと布団を掛け直そうとした矢先のこと、佐々木が起きるのを今か今かと待っていたかのようなタイミングで「すぅー」と開き戸が開いた。そして、女が入室してくる。
「おはようございます、佐々木様」
 目を開ければ、見覚えのない和室に見覚えのない麻の布団。そして、見覚えのない女の「おはよう」の挨拶。
 けれども、佐々木は驚くでもなく、半ば反射的に対応する。
「あー……、うん、おはようさん」
 眠気と気怠さを顕著に残した表情で、佐々木はぺこりと頭を下げた。
 佐々木が頭を下げたことに呼応するかのよう、女もニコリと笑って頭を下げる。膝を折って正座した時に、ちょうど膝が隠れるぐらいの高さがある小さな四つ足テーブルを床へと置くと、女は部屋を出る。
「簡素なものですが、今、朝食をお持ち致しますね」
「あ、はい、すいませんね、ご迷惑をお掛けします」
 まだ寝惚け眼の印象が抜けないトローンとした目で佐々木は切り返した。ボリボリと後頭部を掻きながら、大きな欠伸を一つ噛み殺すと、ようやく思考の回転数が上がってきた感じだ。まず最初に、布団を敷いた記憶がないことを思い出し、そこを起点に次々と昨日の出来事を思い出していった形だった。
 徐々に「どうして自分がこんな所に居るのか」などを思い起こしていって、佐々木は思わず頭を抱えた。元々、佐々木の寝起きはテンションの高い方ではないが、鬱が加速度を増して襲いかかってくるかの様に、佐々木は気持ちが沈んでいくのを肌で感じる羽目になった。
 寄生の一部始終を確認すると大きく啖呵を切って置きながら、始まってものの数分で「これは無理だ」と判断し、夢の世界へ急速潜行させて貰った経緯を思い出したからだ。しかも、たった今、朝の挨拶を交わした相手がそのギブアップを申告した相手だったことが佐々木にさらなる追い打ちを掛けた格好である。
 そうやって佐々木が沈んでいる間に、女は茶碗の乗ったお盆を手に、再度、部屋へとやってくる。
「玄米に味噌汁、後は山菜お浸しと、どれもおかわり自由です」
 味噌の良い香りが食欲をそそって、花の甘い香りに吸い寄せられる昆虫宜しく、佐々木は床に置かれる前のお盆を覗き込んだ。見た目的に山菜お浸しが佐々木の嫌なツボにカッチリはまる形で、佐々木は匂いに惹かれて飛びついた時とは対照的に顔を顰めた。
「玄米か、……食ったことないな。山菜お浸しも、その、ねぇ、……見たことないのがテンコモリって感じだしさ」
 朝食を用意されてしまった手前、今更「やっぱりコンビニとかで何か買って済まします」などとは言えないわけで、本日、既に二度目となる「頭を抱える仕草」を佐々木は見せた。山菜お浸しを前にして、箸を握った格好のまま、意を決するかどうするかを葛藤する佐々木は、ある意味、滑稽だった。
「食わず嫌いをしても仕方があるまい?」
「おわッ!」
 唐突に耳元で声が響いてきたことに、佐々木は慌てふためいた。
 その声のした方を向いても、そこには誰もいない。端から見ていたなら明らかに異常な行動だろうその佐々木の反応を、不思議な顔一つせず、女がニコニコと微笑みながら見ていたことで佐々木は一端の冷静さを取り戻した格好だ。
「何を驚く?」
 よくよく聞けば、その声は直接、鼓膜に振動を送っているかの様に距離感の掴めない声だった。強いて言うなら、極近距離か、耳の中で音を出されているかのような感覚に近いが、ごわごわ感と言うか、耳の中に異物感がない辺りが距離感の掴めない所以なのだろう。
「……って、おお、凄い凄い! あんたの声がしっかりと聞こえるぜ。……今、お目覚めですかい?」
「いや、起きたのは君とほぼ同時だ。ただ、取り立てた用件もないのに、話し掛けても仕方ないと思ってな」
「あー……、別に気にしなくて良いぜ。じゃんじゃん、喋ってくれちゃって構わないからさ。まー、時と場合というものはありますが、それはあんたの方がしっかりしてるだろ?」
「……」
 佐々木の明らかに何も考えていないだろう言葉に、右目への寄生種は呆れた。尤も、そうやって気楽に考えて貰える方が寄生種としても何かとやり易いのは確かだった。特に、佐々木としてはプライベートを完全に失う形になるわけだから、寄生を承諾していようとも何かと制約を口にしても何らおかしくはないのである。
 そう言う観点から見ると、佐々木は少し特殊な部類に分類されるのかも知れない。
「視界に異変はないか? 正常にものを形を捉えることが出来ているか?」
 佐々木は獣の質問に箸を止め、部屋の中のものへと視線を走らせる。
「あー……、見た感じおかしな所はないな。何が正常なのかは判断出来ないけど、視界におかしな点はないぜ」
 色や遠近感を始めとした目によって得られる通り一遍の感覚を確認した上での佐々木の返答にも、一つ目の大蛇は「慣れる」までの時間を持つのが望ましいと勧める。それは同時に、一つ目の大蛇が余裕のない中にあって佐々木が休養を取ることを許可したものである。
「何にせよ、まだ完全な状態にはなっていない。もう少し時間が掛かるだろう、完全に慣れるまでには三桁単位の時間が必要だが、さすがにそんな時間の余裕はない。しかし、もし、君に時間の余裕があるのなら今日一日ぐらいは休養を取った方が良いだろう」
「ま、そう言うわけにも行かないんだろ?」
 心得顔をして、獣に「切羽詰まってんだろ?」と聞き返す佐々木は休憩を取るつもりなどさらさら無い様だった。まして、佐々木には寄生によるこれといった具体的な違和感がないのだから、それも尚更だろう。
 カツカツと玄米を口に放って、湯気の立つ味噌汁でそれを流し込むと、佐々木は眉を吊り上げながらも「ものは試し」と意を決して山菜お浸しを口に掻っ込む。意外にも、口の中には緑菜の独特のものながらほんのりとした甘さが広がり、そう嫌な味でもないことに佐々木は苦笑いした。
 佐々木が完食したのを確認すると、女は昨日と同じ小さな白い布を膳の上へと敷いた。そして、その上へと茶碗を置くと、今日は薬缶に入った湯気の立つお茶を注いだ。昨日の冷茶とは異なる種類のものなのだろう、佐々木の鼻を突いた香りが既に昨日のものとは異なっていた。
 軽く頭を下げて、上げ膳据え膳の待遇に畏まると、佐々木は「待ってました」と言わないばかりお茶を口へと運んだ。
「さて、ではことに当たる前に呼び名を決めて貰おうか?」
 頓狂な声を出して、佐々木は誰の呼び名かを尋ねる。
「呼び名? あんたのか?」
「そうだ、わたしには固有の名前がない。神として崇められた頃の、種族として区別をした名など何の意味も持たぬ。わたしをわたしとして区別する名前が必要だ。そうだ、君という一つの個体「佐々木祐太」とは別のものとして区別されるべき名前、わたしという種を種族として区別する名ではない「わたし単体を区別する名前」だ。……君の好きな名前で良い」
「急に言われてもな、……その、悩むな。好きな名前で良いって辺りが尚更だ」
 腕を組み思案顔になりかけたところで、そうやって深く考え込むと逆に良い名前は浮かばないと、すぐに佐々木は首を左右に振った。とにかく、口を開いた勢いに任せて何かポッと思い付く名前を言ってしまおうと、佐々木は考える。
「あー……、サードアイとかどうだ? 広範囲万能特殊攻撃の名前でもあるんだぜ?」
「……捻りがないな、広範囲云々はともかくな」
 何でも良いと言った割りにはその名前はすぱっと却下された。尤も、あまりに短絡的と言うのは確かだろう。
 右目への寄生種の「右目に寄生している」という事実がもたらす先入観が、佐々木の頭に思い浮かぶ名前を「目」に関するものに制限していた。しかし、その中で十分名前になり得るものを佐々木は閃く。
「じゃー、オフサルモとかな。パッと聞いて、何を表してるか判らない辺り、良いと思わないか?」
「オフサルモ?」
 同意を求める佐々木に、右目への寄生種はついさっき見せたような拒否の意志を示さなかった。
「そう、オフサルモ、意味はまんま「目」だけどな。違いを表す名前としては良いだろ? 武器の名前みたいだろ?」
「ふむ、君が呼び難くないというのなら、それで良いだろう」
 名前に執着はないらしく、右目への寄生種は「オフサルモ」という名を良しとした。特に、良いとも悪いとも言わず、自分を示す名称に感慨もないらしい。
 極論すれば「協力者は誰でも良い」と言った様に、佐々木は本当にその名前に対しても「何でも良かったんだな」と思わずにはいられなかった。ともあれ、その呼び名が決まったことで、佐々木もオフサルモ同様に求めることがあった。オフサルモの寄生を許した段階で、それは既にむず痒くて仕方のないことでもあった。
「では、俺もことに当たる前にあんたにやって貰うことがある。俺を「君」って呼ぶのは止めて貰いたいね。佐々木って呼び捨てでも良いし、祐太で呼び捨てでも良い」
「ふむ、では、祐太と呼ばせて貰うことにしよう」
 オフサルモと会話をするに当たって、どこに視線を定めればよいのかを戸惑い、佐々木は違和感を覚える。仕方がないので、ニコニコと微笑む女に視線を定めて話していた格好だったが、独り言をいう様子を笑われている風に感じてしまって、佐々木は苦笑いで何度も首を捻った。
「……そう言えば、俺はどんくらい寝てたわけ? ここの時間がそっくりそのまま代栂での時間に当てはめられるとは思ってないわけだけど、結構な時間、寝てたんだろ?」
「今は佐々木様がここを訪れた日から見て、日を跨いだ早朝に当たりますね。それと、前にも説明致しましたがここは代栂町です。正確な時刻は佐々木様の携帯電話で確認した方が判りが良いと思います、どうにも人の持つ時間感覚とは離れたところで生活しているもので、時間の概念が曖昧なのです」
 佐々木の感覚ではそれはオフサルモへと問い掛けた言葉だったのだが、それに答えたのは女の方だった。
 佐々木は自分の身体の各箇所の感覚を確かめる様に動かしながら、完全に疲労が回復していることを認識していた。日常生活の中、自室での睡眠でここまで疲労を回復するためにはそれこそ半日近く眠り続けなければならない。だから、日を跨いだ早朝とは俄に信じられない内容だった。
「勝手ながら、佐々木様のご両親にはわたしの方から連絡を入れさせて頂きました。佐々木様が通学されている高校の方にも、連絡を入れ、一応、病欠の許可を貰っています」
 女はぺこりと頭を下げて見せて、床の上に佐々木の生徒手帳を置いた。
「あー……、その連絡で納得した? うちのおふくろと親父? 変に堅くてさ、夜間外出禁止とか、門限とかさ。どこのお嬢様だよ、いつの時代の話だよ、……って感じだよな?」
 佐々木は不安げな表情で女に、その連絡を入れた時の様子を尋ねる。
 今になって、佐々木は「外泊した」ということを理解したわけでもあった。
「それは佐々木様のことを大事に思っていらっしゃるから故でしょう。ええ、納得して頂きました」
 クスクスと上品そうに笑って見せる女の様子を呆れた顔で眺めつつ、佐々木は「これだけは言っておかなきゃならない」と決意したらしい。それはある意味、オフサルモに対する要求と似た内容のものだ。
「……今更なんだけどさ、佐々木様の、その「様」っての、止めて貰えない?」
「それではオフサルモ様と同様に、呼ばせて頂くことに致しますね」
 女は佐々木の要求に水を打ったような反応を見せた。別段、難しいことを要求したわけではないのだから、当然だと言えば当然なのである。しかし、直ぐさま、佐々木は呆れた顔で眉を吊り上げることになる。女が「何も判っていない」ことをまざまざと理解する羽目になったからである。
「体調には問題はありませんか、祐太様?」
「……名字とか名前の違いじゃなくてさ、邪魔なのはその「様」だよ。……あんたに「様」付けで呼ばれるなんて恐縮過ぎてさ。あんたをどこにでもいるような形だけの巫女さんみたいなものだと思っていた頃ならいざ知れず、今のあんたは……、何て言えば良いんだ、その……」
 女から「様」と呼ばれることを嫌う理由を佐々木が的確な言葉を見付けられずに言い淀んでいる間に、女は目を大きく見開いて「信じられません」と言った類の驚いた顔をする。
「恐縮、ですか」
 佐々木が女に対して感じるものは偏に歴然たる力量の差といえば適当だろう。
 女には佐々木に対する敵意や警戒心などはない。それにも拘わらず、ひしひしと肌を刺す圧力が女からは滲み出ていた。女の穏やかな物腰や人当たりの良い表情をカモフラージュとまでは言わないものの、佐々木はオフサルモを得たことでその裏側に隠されたものを見抜ける様になったらしかった。
 佐々木の畏怖の対象となっている理由がオフサルモの与えた「目」故だと女は判っていた。だから、同じようにオフサルモによってそれが取り除かれることを女は言う。
「オフサルモ様をその身に有している以上、すぐにわたしに対して感じる力の差など、霧消してしまうものですよ」
 そうやってカラカラと恐縮を恐縮たらしめる理由を笑い飛ばすと、女は佐々木にぺこりと頭を下げた。まるで、そう思わせてしまったことを「申しわけありません」と謝るかの様にである。
 再度、首を傾げて見せて体調の具合を問う女に、佐々木は納得の行かない顔をしながらも問題がないことを伝える。女に感じる「どうだ」と具体的な表現のし難い「途轍もなく恐ろしい気配」について、これ以上、思索しても詮無いことだと佐々木は思ったらしい。
「体調は何てことない、絶好調だ。もし、俺がどこかおかしく見えるってなら、寄生のあれが精神的に尾を引いてでもいるんだろうな」
 そんな中、唐突に佐々木の耳をこの場の雰囲気にそぐわない個性の際立つメロディーが襲った。携帯の聞き慣れた着信音を聞きながら、佐々木はありがた迷惑な顔をして尋ねる。
「ここ、携帯の電波、届くんだ?」
「届かない様にすることも出来ますが、それだと祐太様に取って都合が悪いと思いまして」
 一瞬、女の言葉に「そうか」と納得した表情をして携帯のある方へと目を向けるものの、佐々木はついさっき「止めてくれ」と意思表示したのをあっさり無視されたことに気付いて顔を上げ、声を荒げる。
「だからさ!」
 そんな佐々木の敏感な反応を見て、女は楽しそうに笑った。
「出なくても宜しいんですか?」
 佐々木は慌てた様子で、布団の脇に綺麗に折り畳まれて置かれた制服まで飛んでいくと、そのの胸ポケットから携帯を取り出す。鳴り響く着信音は例の生徒会からの着信専用に設定された物々しいメロディーだ。
 液晶に通知された電話番号は弘瀬のもので、佐々木はげんなりした表情を間に挟んでから通話のボタンを押す。
「ああ、はい、おはようございます、佐々木です。え、と、こんな早朝に、……何か急用ですか、弘瀬先輩?」
 電話に対応する際にはきちんとテンションを元に戻してしまえる辺りが佐々木のそつのなさを示唆していただろうか。
 ともあれ、そうやって応対した佐々木を弘瀬は開口一番、問責する。
「聞きたいことがある。どうして、備品倉庫の異変について報告しなかった? ……まぁ、それは直接会って話をすることにして、緒形が本格的に行方不明だ。病院から脱走した後の消息は依然不明のままで、まだ自宅にも帰っていない」
 尤も、電話越しに佐々木を問責しても事態が好転しないことを弘瀬も判っている様で、すぐにその話は緒形の現状を説明するものへと切り替わった。しかし、緒形に関しても依然消息不明といった様に話すべきこともないのだろう。
 すぐに、佐々木は弘瀬の伝えたい本題がそれらではないことを理解する。
「後、これは未確認情報だが緒形が運び込まれた合原病院に勤務していた夜勤看護士が外傷なしの意識不明状態で発見されていたらしい。それと関連して、合原病院近隣の路上に同様の症状で発見された奴が二人いるらしい」
 それで「本題は何ですか?」と言わないばかりに、佐々木は弘瀬の次の言葉を待っていた。いつもとは微妙に異なる佐々木の対応に、上手く話をするタイミングを掴めなかったのか。弘瀬が本題を話したのは長い間を一つ挟んだ後だった。
「……諸々含めて、何か、悪い予感がする。朝のホームルームが始まる三十分前までに、備品倉庫に集まって貰いたい」
「了解しました、弘瀬先輩」
 淡々とした口調は弘瀬が虫の知らせを強く感じているからなのだろう。しかし、当の佐々木は声に出さないながら「何だ、ただの呼び出しか」と気の抜けた顔をした。早朝のコールだったこともあって、佐々木がもっと緊急の用件か何かと身構えていたのは事実だ。
「本当なら、停学中の蒲原も呼びたい所だが、……一体何をしているものか、まるっきり連絡が付かない」
「はは、停学中の相手を高校に呼び出すんですか?」
 弘瀬の言葉を冗談かどうか判断出来なかったから、佐々木は取り敢えず曖昧に笑いながら切り返したわけだった。
 しかしながら、弘瀬は違いなく本気なのだろう。
「取り敢えず、今からそっち向かいますから、詳しい話はまた後で」
 弘瀬から「判った」という旨の相槌を聞くと、佐々木は携帯を切った。
「それではご案内致しますね、祐太様」
 やり取りの一部始終を聞いていたのだろう。女はすっと腰を上げて、ここへと来た時同様に道案内をする旨を告げた。
「……名前、なんて言うんだ、あんた? いつまでも「あんた」じゃまずいだろ?」
 さも、今思い出したと言わないばかりの顔をして、佐々木は女に名前を尋ねた。
 女が名乗らないから佐々木としても今の今まで気にしていなかったものの、これからはそうもいかないことを佐々木は感じていたわけである。まして、佐々木は女に対して一つ提案したいことがあったから尚更だった。
「そうですね、ふふ、オフサルモ様のように、いずれ祐太様に新しく名前を頂くことにしますかね。わたしの名前も、時の流れと共に色褪せ忘れ去られてしまった類のものですから」
 どこか意味深な女の発言に、佐々木は首を捻りながらも、オフサルモ同様「今、呼び名を決めてくれ」と言われなかったことに安堵の息を吐いた。ともあれ、女が取り敢えずの「呼び名」についても言及しないから、佐々木はそのまま「あんた」と言う呼び掛けで話を続ける。
「なぁ、あんたが協力してくれるなら、どんな事件もちょいちょいっと片付いちゃうような気がするんだけどな?」
 佐々木は恐る恐る顔色を窺いながらという格好で「協力しろ」と要求したに等しい言葉を女へと向けた。
「わたしにはここの管理という仕事がありますし、何よりオフサルモ様や祐太様に仕えるべくこの地に留まっているのではありません。どうあっても必要だとあれば、お手伝いぐらいは致しますが、それがここを離れるものとなれば、少々厄介な手順を踏まなければならないのです」
 女ははっきりと「それは出来ません」と、まず態度で語った。
 そして、その理由が女の口から語られたわけだが、それを「厄介な手順があるから」といった女は佐々木に向けた闘争心を持っているように見えた。同時に、その女の笑みは何かを期待するものにも佐々木の目には映ったわけでもあった。しかしながら「何を期待しているのか?」など佐々木に判るはずもない。佐々木は女の柔らかな物腰にどう対処して良いか判らず、ただ困惑するだけだった。
 女は微笑を灯した顔に期待を込めた目をして佐々木に告げる。
「わたしを打ち倒して頂ければ、いつでも祐太様の従順な召使いとしてご協力させて頂きますけれど。……何でしたら、今、その手順を踏んでみますか? オフサルモ様の使い方を覚えるに良いデモンストレーションになると思いますよ?」
「その勝負事は許可出来ない! 今、祐太が食い散らかされたなら、わたしは数ヶ月近くに渡って身動きが出来なくなる。万に一つもない勝ち目では許可は出来ない」
 間髪入れず、オフサルモからはそれを禁止するが佐々木へと向けられた。それは佐々木が思わず顔を顰めるほどの、耳障りな強い調子だった。
 女はオフサルモが佐々木へと向ける言葉を聞き取ることが出来るらしい。オフサルモの制止に対して「佐々木の力量を見極めるべき」との持論を述べる。
「寄生が完全なものになれば、祐太様の死は直接オフサルモ様の死に繋がってしまいます。しかし、今の寄生の段階ならば、わたしの存在は祐太様の潜在能力を試す良い試金石になると思いますけれど……」
 柔らかな物腰や佐々木に対する礼節などとは裏腹に、女の発言は佐々木の身の安全や生死を完全に度外視したものだ。この時ほど、佐々木がオフサルモの「協力者は誰でも良かった」との言葉を強く実感したことはなかった。
「何気に、恐いこと言ってくれるね、あんた」
 佐々木は引きつった表情を隠そうともせず、道先案内をして先を歩く女から数歩分、距離を置いた。
「ふふ、冗談ですよ、祐太様。わたしに新たな名前を授けて下さる名付け親を、みすみす失うような真似は致しません」
 クスクスと上品そうに女は笑って見せたが、それがまた佐々木には裏があるものに感じられたわけだった。




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