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Seen03 代栂町番地外


 緒形と若山が代栂高校の校内で遭遇する数時間前のこと。
 佐々木は学年主任やクラス担任に対する緒形の報告を昼休み中に行い、その影響で遅れて出席した五限目の体育の終わりと同時に授業をサボることを決めたのだった。身体でも動かせば、質問攻めに晒されて思考回路をフル回転させざるを得なかった精神的な疲労を少しでも忘却することが出来るだろうと思ったわけだ。
 尤も、その結果を言ってしまうと、マラソンを走っている最中に余計なことを延々と考える羽目になって、忘却どころか再咀嚼をする羽目になった格好だったが、……それは授業としてやった競技が悪かっただろう。
「備品倉庫の時間の狂いをどうにかして下さいな。後、行方不明になってる緒形を無事戻してやってくださいなっと」
 パンッパンッと拍手を打って、佐々木は深い溜息を一つ吐き出した。
 実際に起こってしまっていて、今なお、その異変を見て取ることの出来るオカルト現象を前に、佐々木は神頼みという駄目元の手段を試しているわけだった。人知の及ばぬことに関して、例えそれが人知の及ばぬ手段であっても、ともかく解決して貰えるのならばそれに越したことはないと佐々木は考えたわけである。
 尤も、その根底には魔術研究会の会長である蒲原と関わり合いになりたくないという思いも多分にある。
 六限目の授業をサボった佐々木の姿は代栂中央高校からそう距離のない雑木林の中に発見出来た。
 雑木林の中と言っても、佐々木のいる場所は拓けた小さな広場の様になっている箇所だ。そこには、所々が崩落した小さな社があって、元々、もっと大きな神社か何かが建っていただろうことを容易に想像させる。だから、その広場は境内だった場所だと認識しても良いのかも知れない。
 ただ、その境内に当たるだろう場所の所々に生い茂る雑草の度合いは半端なものではなかった。雑木林の一角に位置するとはいえ、雑木林内の他の箇所よりも生い茂っている気さえするのである。その広場の中に倒れた石塔なんかを複数個発見することが出来なければ、誰もその場所を境内だと認識しないだろう。尤も、今は完全な獣道ではあるが、昔はしっかりと石で舗装されていた道なのだろう存在の跡も、一応、確認することが可能だ。
 そもそも、ここを手入れをする人間がいるのかどうかさえ佐々木には疑問の残る場所だった。
 それでも、決して居心地が良いとは言えないが、佐々木は時折この場所に足を運ぶ常連だった。ここで何をするというわけではないのだが「他人が滅多に足を踏み入れない」という事実が、どうやら羽を伸ばすことに一役買っているらしい。
「はー……。弘瀬さんも「お前は口が達者だから、説得にはお前が最適だ」なんて、面倒な仕事を体よく俺に押し付けてくれるしな。……ここに来て貧乏くじ引きっぱなしだよな、ホント。大体、学年主任ら相手に「生徒会として全力を尽くし、何とかするよう努力します」なんて大見得切ったはいいけど、どうすりゃ解決するっていうんだよ」
 小さな社の外観は「廃れ切った」とさえ言っても過言ではない、どうにかその原型を保っているとさえ表現出来る。
 佐々木はその社の前で深々と腹の底から愚痴を口にすると、再び深い溜息を吐き出した。多少、大きな声を出しても、誰かに聞かれることがないと安心も手伝っているのは確かだろう。
 背丈の低いアパート群を横切る雑木林の中にあって、こことそのアパート群とは金網によって完全に仕切られている。子供が風の子と呼ばれ、太陽の下を縦横無尽に駆け回っていた頃ならば、この雑木林も格好の探検場所なのだろうが、佐々木がここに足を運び始めてからこっち、ここで他人と遭遇したことはない。
 佐々木は社から一番距離のある倒壊した石塔へと腰を下ろすと、コンビニで購入してきたペットボトルとスナック菓子の袋を開ける。そうして、いつものように手提げ鞄のサイドポケットから文庫本を取り出すと、佐々木は石塔の、ちょうど倒壊した部分に背中を預けて、文庫本を開いた。色々と試した結果、そうやって寝転がるには最適なのが、社から一番離れた場所に倒壊するその石塔だった。
「大体やってらんねぇよ、救急車を呼ぶことになった直接の原因に俺が関わっていないっつーのに、何で俺まで説教くらわなきゃなんねぇのよ。弘瀬さんらは要領よく説教切り抜けるし、天文部の連中は連中でゲリラ活動やっても大したお咎めはなしってか……」
 ブツブツと不平不満を口にしながら、佐々木はスナック菓子の袋へと手を伸ばし、それを口へと放る。
 スナック菓子の袋に手を伸ばす時も、ペットボトルをその手に取る時も、佐々木の視線は文庫本へと落とされたままだったが本の進みは芳しくない様子だった。
 そうやって本の中身に集中出来るまで、誰もいない場所でブツブツと独り言を口にするのは佐々木の癖の一つだった。そう、悪い癖の一つだ。……癖というよりかはストレス解消法といった方が適当か。
 時折、雑木林に沿って作られた道幅の狭い車道を通行する自動車のエンジン音などが一際やかましく聞こえたが、佐々木がそれを気にする様子はない。既に、良くも悪くも集中自体は出来ているのだ。ただ、本の内容へと完全にのめり込んでしまっていて、独り言を口にしていないか否かの相違なのである。
 スナック菓子の袋の傍らに丸めて固めたティッシュを置いて、本のページを捲る時にはそれに手を伸ばして汚れた指を綺麗にする一連の動作に狂いが生じることはない。
 いつしかブツブツと口にしていた独り言も、無意識のうちに口数が少なくなっていき、そして一時を境にしなくなる。そこが佐々木の、本の内容へとのめり込んだ瞬間だ。
 しかしながら、佐々木は急速に現実世界へと意識を引き戻されることになる。なぜなら、普段は滅多に風など吹き抜けることのない雑木林の中を一陣の風が吹き抜けていったからだ。風はパラパラと本のページを捲っていったわけである。
 風がページを捲っていったことに、佐々木は不機嫌そうに顔を顰めた。
 良いところで邪魔が入ると、それが不可抗力であっても無償に腹が立つものである。
「……何だよ、今日は風まで人様の気分転換を邪魔すんのかよ」
 体感では大して強い風だとは思わなかったわけだが「ズザザー……」と何かが引きずられていく音が響いて、佐々木は溜息を吐き出した。手を伸ばして確認すると、それは佐々木の予想通り、スナック菓子の袋が風に引きずられた音だった。
 佐々木としては踏んだり蹴ったりだった。
 佐々木はスナック菓子の袋を拾いに行くため上半身を起こす。そして、同じように風に飛ばされたものをもう一つ確認した。風に舞ったもう一つのもの、即ち、ティッシュは未だ宙を舞う状態にあって、佐々木はその行方を目で追う。
「おっと、……まずいな」
 ティッシュは境内の外れ辺りのかなり遠い茂みの中へとポトリと落ちた。
「今日は、厄日だな、ホント」
 佐々木は疲労を色濃く滲ませた表情で呟くと、ティッシュを拾い上げるために腰を上げた。
 そういう所は几帳面な性格で、佐々木はこの場に持ち込んだゴミを必ず持ち帰るように心掛けている。帰宅の際には境内で目に留まったゴミも、少量ながらコンビニのビニール袋へと放っては近隣にある児童公園のゴミ箱へと捨てていたために、今ではその石塔の周辺にはほとんどゴミというゴミはなくなっていた。佐々木の足を運ぶ頻度と、心掛け次第ではあるものの、いずれ境内からゴミというゴミはなくなるだろう。「今更ゴミ一つ増えたところで……」と横着して、ティッシュを丸めて新しい手拭きを作ってしまえば、それで良さそうなものの「今のうちに拾って置かなければ……」と思う辺り、佐々木の几帳面な性格の一端が覗いただろう。
 佐々木は首尾良く目的のティッシュの手拭きとスナック菓子の袋とを拾い上げると、再び石塔の倒壊した部分へと背中を預けて寝転がる。ポンッとそれをスナック菓子の袋の横へと放ると、ついでと言わないばかりにスナック菓子を手に取って、佐々木はそれを口へと放った。そうして、佐々木は「続きが気になる」「早いトコ、本の中の世界へ逃避したい」と言わないばかりに文庫本へと視線を落とすのだった。
 そんな佐々木へと声が向いたのは、ちょうどついさっきまで読んでいた行を発見した時のことだった。
「佐々木祐太様、いつもこの社へと足を運んで頂き誠に感謝しております」
 唐突に掛けられた言葉に佐々木は思わず「ビクッ」と身体を震わせた。誰かが近付いてくる気配に佐々木が注意を向けていなかったのは確かだったが、微塵の足音もなく真正面に立たれたことに驚きを隠さなかった。今、まさに噛み潰そうとしていたスナック菓子を口からポトリと零したくらいだ。
 佐々木は慌てて目を落としていた文庫本から顔を上げ、声の主を確認する。
 そこには東南アジアの国に見られる民族衣装のような服装をした女が深々と頭を下げる格好で佇んでいた。紅葉の色に見る赤色やオレンジ、黄色で彩られた上下一体型の服には、濃い黒色で絵とも文字とも取れない握り拳大の複雑な模様が無数に描かれている。
 艶のあるショートの黒髪に大人びた顔立ちをしていて、白く透き通るような肌の色が特徴的だった。髪によって両耳が完全に隠れているのだが、その隠れた耳に付けているのだろう耳飾りが左髪の合間だけから見えていたのも佐々木の印象には強く残った。
 黒と言うよりも、少し赤茶色がかった瞳の色に、吊り目がちの目元が相まって、取り分け佐々木はその女のことを「意志が強そうだ」と感じた。見た目から推測をすると年齢的には佐々木と同年代か、少し下が精々で、女に対する佐々木の口調もそれに沿うものになる。
「あ、いや、その……、なぁ? ただ時間潰しに来てるだけだからさ、足を運んでるとかそんな……」
 しどろもどろの反応を見せながら、そこに至ってようやく佐々木はどうして相手の女が「自分の名前を知っているのか?」を不思議に思っていた。また、佐々木はそこに何か言葉にして表現出来ない類の「不穏さ」を感じ取って、表情を強張らせていた。
 しかしながら、佐々木が何かしらの質問を向けるよりも早く、女は感謝の言葉を口にする。
「いえ、ただそれだけのことであっても、この社が完全に忘れ去れてはいないことを思わずにはいられません」
 それは穏やかな微笑を湛えた表情に、とても丁寧な口調を乗せた対応だった。そんな女の姿勢は、……どうにも敵意や警戒を向けるに向けられないもので、佐々木は半ば反射的に押し黙る。そんな佐々木の内心での当惑を知ってか知らずか、女は穏やかな表情をして言葉を続ける。
「もし、佐々木祐太様の都合が宜しいようならば、社に滞在をする客が是非とも佐々木祐太様にご相談願いたいことがあると言うので、時間を取って頂いても構いませんか? 少しここから距離がありますのでご足労を願うことにもなります」
「あぁ、それは構わないけど……」
 佐々木は咄嗟にそんな曖昧な了解の言葉を返していた。
 自ら口にしておきながら「けど……」の後に続くべき言葉は佐々木自身にも解らなかった。「何を言おうとしたんだろう?」と、佐々木自身、首を捻った格好だ。
 ともあれ、佐々木が女の申し出を了解すると、女は佐々木を先導して歩き始める。佐々木も黙って、その女の先導の後へと続いた。所々が瓦解した社の横を擦り抜け、雑草の茂る境内を進むと、すぐに女が進むのだろう獣道が目に付く。
 佐々木には境内の周辺を隈無く散策した経験がないため、獣道の存在自体に驚くことはなかった。しかし、佐々木は首を捻って「この獣道はどこに続いているんだろう?」と不思議には思ったのだった。この社の奥へ進んでゆくと、雑木林はプツリと途切れ、アパート群との仕切となる金網にぶち当たることを佐々木は確認していたからだ。
 しかし、女の後に付いて進んだ獣道はそこにあるべきはずの金網にぶつかることがなかった。佐々木の感覚の中では間違いなく、社の裏側の、アパート群が存在する方向へと真っ直ぐ進んできたはずなのだ。
 やがて開けた獣道は立派な石造りの道へと変わり、その両端には真っ赤な炎の灯った石塔が等間隔に存在する「どこか」へと出た。雑木林は獣道が終わった辺りからその密度を急激に増し、確かな森へとその姿を変えつつある気がした。
 いや、それは紛れもない森の姿をしていただろう。鬱蒼と生い茂り密生する木々にしてもそう、そこは山間の中に存在する広葉樹からなる大森林の一角だった。女の先導から離れ、その大森林の中を掻き分け入っていって、代栂町の見慣れた町並みが存在するなど有り得ない場所だとさえ思えた。……いや、実際そうなのかも知れない。
 そこに漂う空気というものもそうだった。
 代栂を漂う排気ガスの混じったものに取って代わって、ここには清澄な森林の匂いが充満しつつあった。
 木材で骨組みを作られた階段が所々に存在する道を歩きながら、石塔に灯る赤い炎に手を翳し、佐々木はその熱さに顔を顰めた。そして「俺は妙に現実感のある夢を見ている」といった類の楽観から引き剥がされて、ここが現実のものであることをまざまざと理解した。
 小綺麗な音を立てる小川を跨ぐ橋を渡りながら、佐々木は深い溜息を吐いた。「ここはどこかおかしい」と、今になって思わずにはいられなくなって来たわけである。取り分け、確実に三桁は段数があっただろう「下へ下へ」と下る階段を進む時にその思いは強くなり始め、佐々木の心を捉えて放さなくなる。
「代栂町はそんな起伏のある土地柄ではない」
 それら違和感とか異質さなどを肯定する理由は、ある意味、それだけで十分だった。
 道先案内人として先を歩く女の耳飾りが歩みと共に揺れて「チリンチリン」と規則的な音を立て、佐々木はその音によって言葉を封じられている気がしてならなかった。考え出すと止まらなかった。その音に気を取られてしまうと、女へと言葉を掛けるタイミングが見付けられないのだ。
 耳飾り自体の構造は女の髪に隠れてしまっているため解らない。ピアスと言うのが適当なのか、イヤリングと言うのが適当なのかは判らないのだ。しかし、その耳飾りには、縦に長い菱形の飾りが複数個付いているのは確かで、それらが歩みと共に揺れる度ぶつかって音を立てているようだった。その音と、揺れる髪の合間から見える銀色の外観から察するに、それは金属質の物質で出来ているのだろう。
「ここも昔はもっともっと澄んだ空気が流れていたのですが、代栂町の人口増加・発展と共に流入してくる空気によって、次第次第に汚れつつあります」
 その耳飾りにいつしか目を奪われていて、佐々木は女の言葉にハッとなる。ついさっき、疑問に思ったことを問い質すはずだったのに、気付けば、そのタイミングを失って、黙々と女の後に続いて道を佐々木は歩いてきていた。もう、どれだけ歩いたのか、正直、佐々木自身にも判らなかった。
 ちらりと後ろを振り返って見ると、段数にして三桁の段差を下ってきた階段が遠くにぽつんと見える格好だった。佐々木は頭が痛いと言わないばかり、頭を抱える仕草を取って苦悩を体現すると、すぅっと勢いよく息を飲んで意を決した。
 しかし、突然に女が立ち止まったことで、その勢いは挫かれる。
「ああ、ようやく、本堂の方が見えてきました。あちらに見える本堂が目的地になります」
 女は腕を掲げる様にして、本堂の存在を佐々木に示して見せた。
 佐々木の目にも本堂の存在はしっかりと見付けられた。
 そう敷地面積は広くなく、見た目はただの古い木造建築の様である。ただ、その本堂へと続く石造りの道には無数の鳥居が存在し、恰も、そこがただならぬ場所であることを示唆している様だった。
「帰り際、本堂の右手に見えます香堂の方に香を焚いておきます。宜しければ、ぜひ、香を全身に浴びて逸脱した時間の流れの影響を払い落としていってくださいね」
 先導役の女は佐々木が聞いてもいないことを説明しながら、佐々木をハッとさせる意味深な発言を口にした。時折、女が口にした雑談に関して言うなら、それは佐々木を退屈させないためへの配慮から来ているのだろう。しかし、最後の最後に付け足された発言は不用意に佐々木の不安を煽るものだった。女の意図が何であろうと、佐々木の身の回りで発生した出来事を「知っている」と言わないばかりの言葉に、佐々木の態度の色は警戒を強める。
 女は穏やかな表情を微塵も崩さず、そんな佐々木の警戒の態度に気付いた風はなかった。
 しかし、佐々木の中で疑惑の気持ちが強くなれば強くなるほど、女のにこやかな笑みは何か裏を持つかのような悪戯なものに佐々木の目には映ったわけだった。佐々木は再度、意を決する。
「なぁ、ここが一体どこなのか、聞いても構わないか?」
 再び、女がその本堂へと向かって歩き始めたことで「チリンチリン」と規則的な音の響く中、気持ちを奮い立たせ挫かれた勢いを必死に擡げながら、佐々木は女へと問い掛けた。
 それは「ここが代栂ではない」という強い確信から口にした言葉だ。
 振り返った女はキョトンとした顔をしていた。そして、返す言葉で佐々木の確信をばっさり否定する。
「ここは代栂……」
「嘘、言うなよ! 南櫨馬との境にある山の中でもない限り、代栂町にこんな場所が存在するわけがないんだぜ!」
 思わず、佐々木は声を荒げて女の言葉を遮っていた。女の言葉を最後まで聞く必要がないと判断したからだ。
 しかし、驚いた顔一つ見せることなく、女はクスクスと微笑みながら受け答えする。
「いえ、ここは代栂町ですよ、佐々木祐太様。尤も、ここは地図などには乗っていませんが、……そうですね、例えるなら、一般来訪客の立ち入りを全面的に禁止している地区とでも言えば、適当でしょうか」
「一般来訪客って、……ここに平然と入ってこれるような奴らもいるってことか?」
「おかしなことをおっしゃいますね、もちろんですよ。それに、佐々木祐太様も現在その場所へと足を踏み入れているではありませんか? ここは隠されている場所です、けれど、基本的に本堂とは隠されているものではないですか?」
 当然だという顔で、そう説明をする女の態度に、佐々木は当惑した。「隠されている」といった言葉の意味に戸惑う佐々木に、女は注意を口にしてから歩き始める。
「足下にお気を付けてください。近くの岩場から湧き水が流れ出していまして、その水の流れでこの先の道は所々ぬかるんでいる箇所があります。ふふ、その湧き水がとても美味しいものなのですが、一所に留めておけるものではないのです」
 女が注意を促した様に、ぬるっした感触の泥濘が道の途中には幾度となく現れた。
「代栂町に湧き水が出ている地域なんてあるのか?」
 今更そんな疑問に首を傾げながら、既に後に引くことは適わず、佐々木は黙って女の案内についていった。
 道の途中に分岐点が存在した覚えはない。しかし、このまま引き返しても、あの雑木林へと戻ることが出来ないことを佐々木は考えずにはいられなかった。いや、既に分岐点が云々ではなかった。ここに足を踏み入れた時点から、その思いは常にあったのだ。もう後戻りは出来ない。
 佐々木は唐突に目を見開いて、一時的に備品倉庫で狂った例のデジタル時計へと反射的に目を落とす。備品倉庫での一件が頭を付いて、時間に関することが気に掛かった様子だ。しかし、備品倉庫を出てからこっち、佐々木はデジタル腕時計の時刻表示を正常なものへと戻していなかった。即ち、デジタル腕時計は正確な現時刻を表示してはいない状態にあった。
 それでも、この森林地帯が備品倉庫同様に時間的な狂いのある場所でないかどうかを確認するには十分で、佐々木が危惧した不安はただの杞憂に終わる。腕時計の秒針の進みは佐々木がいつも感じていたものと何ら相違なかったのだ。
 雑木林の中にいた頃から数えて佐々木の中では時間にして三十分から四十分の時間が経過した感覚だった。ここが時間的な狂いのない空間だというなら、その佐々木の感覚も信用に足るものだろうか。森林の様子は夕焼けに赤く染まるでもなく、空はただただ透き通った青空を覗かせるばかりで、そこに時間的なものを探ることの出来る要素は何もなかった。
 一つ二つと、……佐々木にもう10数センチの身長があったなら頭をぶつけていただろう背丈の低い鳥居を潜って進むと、その先にようやく、屋敷の離れに作られた茶室のような建物を見付けることが出来た。そして、それが本堂なのだろう、茶室よりも大きな木造建築物もすぐに佐々木の目に飛び込んでくる。
 佐々木の直感が強い警告を発した。「ここはおかしい」と。「こんな場所が存在するわけがない」と、だ。物恐ろしさを感じる類の嫌な雰囲気こそ、この場所にはないものの、佐々木はこのまま進むことに強い抵抗を覚えた。
 女はその抵抗感をあっさりと見抜いたかのよう。唐突に立ち止まって見せて、佐々木の方を向くと、歓迎の気持ちをこう告げる。それは「やっぱり、俺は帰る」だとか、そういう類の言葉を踏み止まらせるに的確なものだった。
「本堂の方に到着致しましたら、湧き水で落とした冷茶をお出ししますので、もう少しの間、辛抱なさって下さい。過去、本堂を訪れて下さいましたみなさまは例外なく湧き水で落とした冷茶を「美味しい」と言って下さいましたので、恐らく、佐々木祐太様にも気に入って頂けると思います」
 屋敷のある敷地へと到着すると、そこには感錆びた雰囲気が漂っていた。手入れの行き届いた敷地内の庭には小さな池があり、どこぞの大会で賞を取った盆栽をそのまま比率的に大きくしたような数々の植木がそこに日本庭園独特の景観をもたらしていた。敷石で示された道は森林の中へと続いているらしく、佐々木はこの山中にはここ以外にもいくつか建物がある、そんな推測に襲われる。
「少し散策してみたいですか? もし、佐々木祐太様がそうしたいのなら、わたしの口から……」
「いや、そういうわけじゃないんだけどさ」
 じっと森林の奥の方へと続く敷石で示された道を眺めていたから、女は佐々木に問い掛けたのだろう。もちろん、佐々木の心の内にその気持ちがないわけではなかったが、相手を待たせてまで散策をする気持ちにはなれない。
「それでは履物をそちらの下駄箱に納めてから、正面の扉を開いて中へと進んで下さい」
 女に言われるがまま、履物を下駄箱へと納めると、佐々木は屋敷に設けられた十数段に満たない木造の階段を上った。
 木材の質の違いによる感触の相違など、佐々木には到底判断出来ないことである。これが木材の中でも取り分け良質のものだと言われても、佐々木にはそれを判断する術はない。だから、それを佐々木は言われるがままに良質のものなのだと認識しただろう。
 正面の扉を潜って奥へと進むと、佐々木はそこが神社などに見る特別な客間であることを理解する。尤も、佐々木にはそこに特別な何かを感じ取ることは出来なかった。見た目の形や大きさと言った相違ならばともかく、女によって本堂と呼ばれたこの場所が「何か特別なものだ」という認識は出来なかったのだ。言い換えれば、雑木林の中の社もこの本堂も、佐々木に取ってはただの木造建築物に過ぎなかった。
 だから、佐々木は拍子抜けしたわけだった。
 獣道を通り、雑木林を抜け、ここへ来た時には代栂に存在するはずのない光景に心底驚いた。それにも拘わらず、連れてこられた場所に存在していたものは何のことはない、ただの木造建築物なのである。
 言われた通りに佐々木は正面の開き戸から本堂へと足を踏み入れる。そこで真っ先に佐々木が感じたものは本堂の中の薄暗さというものだった。襖の障子から差し込む外の明かりはお世辞にも明るいとは言えない程度のもので、佐々木はくっと眼を細めて中の様子を確認しようとする。
 外観からは天井の低い二階建ての様にも見えたが、中は入るとそれが天井の高い平屋建てだと判った。それにも拘わらず、あまり広さを感じさせない本堂は完全に静まり返っていて、音が遮断されているかの様だった。
 そして、本堂の中心に何かが存在していることを佐々木が確認したのはまさにその寸感を覚えた矢先だった。
「うわぁぁッッ!」
 思わず佐々木は大声を挙げていた。そして、無意識のうちに自分自身が数歩飛び退いたことにも気付かないほどに動揺していた。本堂から飛び出すようなことこそなかったが、そこに何か一つ佐々木を驚愕させる事象が加わったなら、佐々木は間違いなく本堂を後にしただろう。
 それは蛇の様に細長い胴体を持ち、手や足を持たない生物だった。そして、体格から見て不自然に大きな頭と、ギョロリと佐々木を捉える目玉が一つ存在した。そいつは蛇の様に這うのだろうか。
 ともあれ、そんな生物を佐々木はその目に見たことなどなかった。
「そんなに驚くことはない。君を取って食おうと言うつもりなどないのだからな」
 巨大な目玉でギョロリと佐々木を捉えると、それは口を開いて人の言葉を話した。口にはびっしりと鋭く尖った牙が生えていて、人の理解出来る言葉でそう諭されなければ、佐々木は有無を言わさずそこから逃げ出していたことだろう。
 言うなれば、頭部が異様に大きな一つ目の大蛇とでも言えただろう。
「まぁ、まずは座って貰いたい」
 一つ目の大蛇に座布団へと腰を下ろす様に勧められたが、佐々木は気が進まなかった。
 そして、気が進まない旨を遠慮という態度で示すと、佐々木は腰を下ろすことをやんわりと拒否する。佐々木の表情には怯えの色が見え隠れして、それを敏感に察した一つ目の大蛇も「くく」と笑っただけで、執拗に勧めることもしない。
「君をここに招き入れたのは他ならぬ、このわたしだ」
 案内人の女を雑木林へ使いに出した張本人は自分だと、一つ目の大蛇は話した。もちろん、それはこれから語る本題へと移るに当たって、前置きしただけのものだっただろう。
 しかし、佐々木は早急に説明を求める。佐々木の顔に見え隠れをする怯臆がそうさせたのは明白だった。
「あんた、一体全体……何なんだよ?」
 一つ目の大蛇は瞑目すると、重々しく答える。
「古き契約に縛られるものだ。限られた一部の地方の話をすれば神と崇められたこともある」
 佐々木は一つ目の大蛇の「神と崇められたこともある」という発言を受け、神妙な顔付きをする。
 神と崇められたこともあるとは「今は神と呼ばれるものでない」と言ったに等しい言葉だ。どうして、神と呼ばれたものが神の座を失ったのかを佐々木は疑ったわけだった。
 ただ、仮初めにも神域に住まうものが無条件で人間を襲うようなものだとも思えず、取り敢えず、一通り一つ目の大蛇の話を聞こうと佐々木は決断した。尤も、佐々木はその身に確かな警戒感をまとう格好で、一つ目の大蛇を信頼したというわけではなかった。
「わたしはずっとこの場所で変化という時の流れをただ眺める存在だった。わたしが必要とされる変化が発生するまで、ずっとここに縛られる運命を持っていた。実質的に、わたしという存在が必要とされる時代は終わったようなものだとさえ思っていた」
 その口調が過去形のものだったからこそ、佐々木は敏感に理解する。
 一つ目の大蛇が「必要とされる」と言った何らかの変化が発生したことをである。
「……」
 佐々木は的確に状況を理解してしまう自らの読解力を呪いながら答える。
「それで、俺に、何か用なんだろ? ……回りくどい話はゴメンだ、率直に頼むぜ」
 要求の中では率直としたものの、それが「簡潔に述べられるようなことじゃない」ことを佐々木は思わずにはいられない。そう考えると、そのまま話しが終わるまで突っ立っているのは不毛だと悟って、佐々木は用意された座布団へと恐る恐るという具合に、一つ目の大蛇の様子を窺いながら腰を下ろした。
 微かな緊張感が漂う中、コンコンとノックの音が響いた。そして、スゥーと静かに開き戸が開けられる。そこには佐々木を道案内した女がいた。女はぺこりと一礼をすると本堂へと足を踏み入れる。
「お話の途中、失礼致します。佐々木様に冷茶をお持ちしました」
 女の手には盆があり、その盆の上には確かに茶碗が見て取れた。女は佐々木の前までやって来ると、折り畳まれた和紙のような正方形の小さな白い布を床の上へと敷き、その上に冷茶の入った茶碗を置いた。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
「あぁ、すいません」
 コトッと静かな音が鳴って床に置かれた冷茶からは日本茶独特の匂いが鼻を突いた。
 佐々木はその匂いに喉の渇きを覚えて、女に勧められるがままにその冷茶を口へと運んだ。ついさっきまでは確かな緊張の中にいて忘却出来ていたのだろう喉の渇きが癒えて、佐々木はホッと一息を吐いた。
「君が察する様に、この代栂の街はわたしを必要とする変化を迎えた。変化は君ら人間による人為的なものだった、しかし、だからこそ自然発生するものよりも危険が高い。そして、早急な処置を必要とする。段階を踏んでいる時間はなく、唐突な、……こういう手段を持って君に接触するに至った」
 佐々木の緊張が僅かながらではあったが解れたことを見越して、一つ目の大蛇は説明を切り出した。「君が察する様に……」と言われたことに対して、佐々木は多少驚いた顔を覗かせたが、すぐに「顔に出てしまったのだろう」と結論づけて気に掛けなかった。そんな些細なことを詮索出来る状態になかったと言っても良いが、殊更、その話の内容を佐々木が重く受け止めていなかったことも事実だった。
 一つ目の大蛇が何を指して言っているかは明白だった。そして、少なくともその異変に対処すべく一つ目の大蛇は行動を起こそうとしているわけである。その事実が判っただけでも、佐々木の心中にある不安を少なからず取り除いた格好だ。
 過去に神と呼ばれ崇められたこともある一つ目の大蛇が、自分の神頼みを受け容れてくれて、この事態を収拾してくれるかも知れない。そんな楽観までもが佐々木の頭の中では浮かでは消えた始末だ。
 しかしながら、佐々木が思う通りにことは進まなかった。
「わたしは何者かを介してのみ動くことの出来る種族だ。即ち、協力者を必要としている」
「その協力者とやらに俺を選んだってか? はは、……何で、俺が候補に挙がったんだ?」
 またも敏感に、一つ目の大蛇が言わんとすることを察してしまって、佐々木は苦笑いを見せた。そして「自分が選ばれるような存在じゃないこと」を佐々木は自嘲気味に笑ったかの様だった。
 代栂中央高校に入学して半年が経過した頃、弘瀬にネゴシエーターとしての才能があると言われた時もそうだった。
「それが何かを変えてくれるのかも知れない」
 佐々木はその変化に対して思った。しかし、何かが変わったのかどうか、佐々木には判別が付かなかった。いや、佐々木自身の中で何か変わったことなどないだろう。強いて、変わったことがあるのだとすれば、それは佐々木を取り巻く環境である。人間関係が複雑なったことだとか、弘瀬という虎の威を不本意ながら狩る羽目になったことで、取り分け部活動を取り仕切る人達からの対応が優遇される様になったことだとか、そう言った環境に過ぎない。
「これと言う確固たる理由はない。君が揺らぎを実際に身に受けた人物であり、そして、時折この場所へと足を運ぶ、わたしの目に留まる存在だったと言うだけだ」
「あー、目に留まったってのは非常に納得出来る答えだな」
 ここを本堂だと言われたからにはいつも本堂ではない社の方に足を運んでいたことを知られていても、何ら不思議はなかった。協力者を選択するに当たって、確固たる理由や基準がないというのだから、その「目に留まる」という受け答えは佐々木に取って納得出来るものだった。
「……それ、協力者は誰でも良いって言ってるようなものだぜ? 普通、誰でも良いなんてことは有り得ないんじゃないのか? 特殊な力があるだとかさ、何らかの判断基準があって然るべきだろ?」
 但し、その答えで納得するに当たって、大前提となる「どうして確固たる理由がないのか?」を疑問に思う佐々木によって、質問は続いた。
 一つ目の大蛇は余すことなくその理由を答える。
「極端な話をすれば、君の言う様に協力者などわたしに協力してくれる人間ならば誰でも良い。そして、特殊な力など持っていなくても構わない。その場合、必要となる力の全てをわたしに頼れば良いだけの話なのだからだ」
 まさかまさか、問い詰めようとした判断基準が「存在しない」と返されるとは当の佐々木も思っていなかった。
「それはつまり……、どういうことだ?」
「わたしは君に寄生する。今ある君の身体の一部分の代わりを担いながら、同時に、わたしはわたしに課せられた役目を果たすのだ。だから、役目を完遂するためには宿主となる君の協力が必要になる」
 理解に困った顔をする佐々木に、一つ目の大蛇は協力者を「君」と変えて、佐々木が実際に協力者となった場合にはこうなるという具体的な話をした。寄生という単語が出た時点で、佐々木に拒否反応が出ることも考えられた。だから、一つ目の大蛇は佐々木の表情をじっと見据えて、そこから読み取ることの出来る反応を一つ残らず得ようとしたわけだったが、佐々木には即座に拒否をする意志は見当たらなかった。
 それを踏まえて、一つ目の大蛇は具体的な話をさらに推し進める。
「わたしが君に寄生することで君が得ることの出来る利点も多々ある。役目を完遂させるに辺り必要となる力もその一部に当たる。ただ、その利点を得ることによって、同時に人間として生活をする上での、掛け替えのない物を失うことがあるかも知れない。無理強いは出来ないし、判断は全て君に委ねられる」
「……利点ってのは一体何なんだ? 具体的に挙げてみてくれよ」
 寄生がもたらす影響の、利点について佐々木は尋ねた。乗り気の顔をしてはいなかったが、佐々木は何かを思い悩む顔でもあった。何か考え悩むことが頭の中で綺麗にまとまらないから、取り敢えず、利点に興味のある顔をして凌いだ。佐々木の雑多な感情の交ざった表情はそんな風に見えなくもなかった。
「まず、人が被る病に冒されることのない肉体を保証しよう。視力や脚力、記憶力や聴力など、老いと共に低下するあらゆる能力の向上、そして、その維持も約束する。尤も、前者に関して言うならば、わたしの力を持ってしても感染・発症を防ぐことの出来ない病もあるかも知れない。……これを利点と括ることが出来るかどうかは解らないが、わたしが持つ能力の、君の意志による発動。そして、君がわたしの能力を用いて行う行為の容認だ。度が過ぎるようなら、君を押さえ付けることもあるだろうが、その「度を過ぎた」行為を君が行わないであろうことも、わたしは君の観測を持って推測している」
 佐々木は一つ目の大蛇が口にした最後の「それは買い被り過ぎだ」という言葉に苦笑いする。
「いやいや、それは簡単に判断出来ることじゃないだろ?」
 言うなれば、それは佐々木自身もそうなってみないとどうなるか判らない類のことなのである。
 力を得て変貌するかも知れないし、力を使い続ける中で徐々に変貌していくかも知れない。
 そう、佐々木には「自分が何かを得ることでどう変化をするのか?」を想像することなど出来なかった。
 しかし、佐々木の否定の言葉をサラリと聞き流して、一つ目の大蛇は続ける。
「君が望むのなら、寿命をいくらか引き延ばすことも出来るだろう。尤も、そう言った「人間としての種の限界」を逸することは、同時に失うものがあることも覚えておいて貰いたい。そして、利点として挙げたものもそうだ、必ずしも利点として影響するわけではないかも知れない」
 佐々木は押し黙って、一つ目の大蛇の言葉を心の中で反芻する。
 もちろん、不老不死を望むはずはない。少なくとも、今は回りと同じ時間を経て年を重ねて行くことを望んでいる。
「俺がこの話を断ったら、どうするつもりだ?」
 佐々木は「はい」か「いいえ」を選択するに差し当たって、どうあっても問わねばならない問題について、一つ目の大蛇へと問い掛けた。佐々木はそれを問うに当たって緊張した面持ちをしていたが、対する一つ目の大蛇は落ち着き払ったまま、あっけらかんと答える。その質問も想定の範囲内だったのだろう。
「この誘いに首を縦に振る他の人物を探すことになるだけだ。安心して貰いたい、……この誘いに関する君の記憶は全て消失する。この場所の存在も、わたしと言う存在と出会ったことも、全て、完全に忘却する。君は今までと何が変わることのない普通の生活へと戻るだけだ」
「……普通の生活、か」
 佐々木は惚けた目をしてボソリと呟いた。
 その「普通の生活」に対する安堵とも侮蔑とも受け止めることの出来る溜息を吐き、佐々木は遠い目をする。
「そっか、普通に戻るだけ……か」
 そして、繰り返す様に呟いた二度目の「普通」は自嘲を混ぜる戯けた様子で呟いた。
 佐々木はすぅと息を飲むと、懺悔か独白でも口にする様に話し始める。
 また、それは一つ目の大蛇を神の一種と見込んで、悩み相談でもするかのような口調でもあった。
「俺さ、やりたいこととか、なりたいものとか、何もないんだよね。内申点目当てで生徒会っつーの入ってさ、もしかしたら、何か変わるかも知んないって期待したけど、実際、何も変わらなかった」
 溜息と諦観が混ざった言葉を紡いで、佐々木はその現実を改めて噛み締めているかの様子だった。
「やりがいとか感じたことないわけよ。人から感謝とかされても「それに意味があるのか?」って思ったりしちゃうわけ。スポーツとかに打ち込んだって、上を見れば腐るほど上がいるんだぜって解って、やる気を喪失。何をするのが正しくて、何をするのが間違いなのかも判断出来ないわけよ。あー……、実際テメエのことしか考えてないのかも知れない。いつだって、気付けば打算的に動いてる気もする。未来に目を向けて見ても、朧気な輪郭を映すものさえない」
 既に開き直っていたのかも知れない。佐々木はそれをまるでひけらかすかの様に話した。胡座を掻いて、頬杖を付きながら、一つ目の大蛇をじっと注視して腹を割る佐々木はまるで、机を叩いて怒鳴り散らされるのを待っているかの様だ。その小生意気な鼻っ柱をへし折られるのを今か今かと待っているかの様に映った。
 そして、教え導かれるのを期待しているかの様だった。
「正直、その病気にならないとか言う特典は凄い魅力的なんだ。どんな食生活しても、どんな不摂生な生活しても、他の誰かがのたうち回って苦しむような病気に掛からないって考えたら、そりゃあ、凄いことだって思うわけだよ。だから、それだけでも引き受けて構わないって思う。役目がどうのこうのって、何やらされるかは知らないけど、それに見合う価値は十分あると思う、でも……」
 佐々木はそこで一旦言葉を句切ると、一度すっと瞑目した後、その一つ目の大蛇を見据えて切り出した。
「俺は流れ流されてここまで来たようなものだよ。いつも誰かの言葉に耳を傾けて「正しいだろう」と多人数が口にする選択肢を拾い、それに従ってここまでなぁなぁで来た。それを正す奴はいなかったし、俺の欲しいものも手に入らなかったけど、どうすれば良いのかさえ判らなかった。なぁ、……率直に聞きたいよ、そいつはやりがいとか感じられるものなんかな? 俺が知りたいのはそこだね」
「やりがいとは面白いことを問うな。やりがいや物事が持つ意味などと言うものは人の価値観の相違によって、どのようにでも変化し異なるものだろう?」
「そこは、……あれだよ、一般論としての話で構わないんだよ」
 佐々木の伴う必死さが明確な答えを求める姿勢を鮮明にしていた。その当人である佐々木は自分の姿勢にさえ気付いていなかったかも知れない。
「君のいう一般論など、あってないようなものだ」
「……」
 佐々木は言葉に詰まる。
 それは確かにその通りで、求める答えを得るためにはそんな質問では「駄目なんだ」とさえ、気付いていた。
 身振り手振りを交えて見せて、佐々木は適当な言葉を引っ張り出してこない思考に苛立ちを隠さなかった。
「君は迷っているな」
「この世界を生きてる奴に迷ってない奴なんざ、いないって俺は思うぜ? ……なぁ、あんたは神と崇められたこともあるんだろ? あんたは俺を導いてくるのか、俺のやるべきことをこうだと定めてくれるのか? それとも、俺が迷い立ち止まった時に、こうするのが最善だって教えてくれるのか?」
「君が何をするべきかを論じるつもりはない、そして、わたしにそれを論じるだけの確かな見識があるとも思わない。それに何より、わたしが君の行くべき道を論じることは君が今まで甘んじてきたものと何ら代わり映えのないこととなるのではないのか?」
 佐々木は苦渋を味わう顔をした。言われなかったら、そんな簡単なことにさえ気付けなかったのかも知れない。そう思えば思うほど、佐々木は自分に対する苛立ちを強めずにはいられなかった。
「行くべき道は君が決めるのだ、君の行くべき道は君にしか決められない。迷い留まるのも良いだろう、後ろを振り返ってその道の先にあるものを鑑みるも良いだろう、選択をするのに早い遅いはなく、そして、一度決めたから引き返すことが出来ないとは限らない」
 一つ目の大蛇は告げた。佐々木へと寄生をしたとして、進むべき道を諭すつもりがないことをだ。
「わたしが君に寄生して、君が迷うことに対して何らかの補助が出来るのだとすれば、それは唯一、目を加えることだ」
 何を言ったのかを咄嗟に理解出来ない佐々木に対して、一つ目の大蛇はそこに補足を加える。
「わたしはそこに際するものの見方を多角的にいくつか加えるだろう。わたしと言う目を通してみた世界はその色を変える。それは君がわたしの持つ能力を意のまま扱うことが出来ると言う特殊な才を持つに至ることも一つある、しかし、それよりも重要な意味は「見掛けの形の中に隠されたもの」を見抜くことが出来ない故に「見掛けの形の中に隠されたもの」に惑わされることのない君が、わたしと言う目を通することで多くの中身を見抜くことが可能になると言うことだ」
 間髪を入れずに佐々木は問い直す。一体それが何を劇的に変えてくれるのかをだ。
「それを見ることが出来るようになったなら、俺の中の何かが変わるのか?」
「変わらないだろう。あくまでも、君自身を変えることが出来るのは君の意識でしかない。但し、新たな価値観を得る、新たな視野を得る、その一端を担うことだけは間違いない。中に隠されたものとは何も視覚的な情報だけに限ったことではない。本来は目に見ることの出来ないもの、入ることも見ることも適わないと人の意識に位置づけられた空間」
 その一例が一つ目の大蛇の居るこの場所だと、佐々木は敏感に感じ取った。
 聡い佐々木の頭脳に対して、一つ目の大蛇はさらに告げる。
「わたしという目を得て、君は様々なことに気付くことだろう。人の振りをした人でないものを見て、何かがおかしいこと。温もりの滲む限りなく木質に近似した壁を見て、それが木目調に彩られただけのただの鉄製の壁であること。誰もが袋小路だと信じて疑わない行き詰まりのコンクリートの壁面に、この世界と接点を持った別の世界へと続く扉が存在すること。それらを感じることが出来るようになったとしても、君が変わることを厭うならば、君は変わらないだろう」
 ものの見方を得ても、変化を選択するか否かは「佐々木自身なのだ」と、一つ目の大蛇は言った。
「判った。良いぜ、寄生しろよ。そして、俺に与えてくれよ、そのものの見方って奴をさ」
 佐々木が寄生を決断したことで、いや、佐々木が寄生を要求したことで、一つ目の大蛇はぺこりと頭を下げた。尤も、蛇と表現をしている相手が頭を下げたというのもおかしな話ではあったが、一つ目の大蛇がそこに感謝の意を示したのだから、やはりそれは「頭を下げた」と言えるのだろう。
「右目だな。君の左目は殊更、中身を捉えることの出来ない、それ故に澄んだ瞳だ」
 佐々木に対する寄生の箇所を、一つ目の大蛇は右目に定めた。
 取り立てて、佐々木はその決定にも驚かなかった。「わたしという目」などなど、薄々、寄生の箇所を特定させる言葉を一つ目の大蛇が口にしたこともある。そして、一つ目の大蛇の姿形から連想される寄生の箇所が「目」だと容易に推測出来たこともある。
「中にある本質や隠された形を見抜けない分、より的確に、より詳細に、その外部に現れる姿形を捉えているのだろう。中にある形に惑わされることがないとはいえ、その外に現れ出る形に多大な影響を受けていることも事実だろう。しかし、それも一つの才能なのだ。見る才能と、見ることが出来ない才能。見ずに済むのなら見ないで済んだ方が適当なことも多々ある。見ることが出来ないとは自分と異なる立場や空間にある相手に、引き込まれることがないと言うことだからだ」
 佐々木の左目をそう評すると、一つ目の大蛇は小刻みに震え始めた。
 寄生を許可した佐々木に対して、一つ目の大蛇が何かの準備に取り掛かっていることは一目瞭然だったものの、それが寄生に直接関係することだとはさすがの佐々木も予想出来なかった。
 心の準備というと適当じゃないのかも知れないが、少なくとも佐々木は一つ目の大蛇が実際に寄生をする段階になるまで時間を有すると考えていたのだ。右目に寄生すると言った一つ目の大蛇はその大きさや姿形から見て、すぐに寄生云々に発展することはないと佐々木は思っていたわけだった。
「これだけは覚えておいた方が良いだろう。見える、見えないは一長一短、どちらが優れていると言うことは出来ないのだ。それぞれ長所と短所があり、また、それぞれ弱点を持つものだ。わたしという目を得たことで惑わされることがない様に、しっかりとその視点を定めるのだ」
 恐らく、今の時点では理解出来ないことを一つ目の大蛇は言っていた。そして、佐々木もそれを理解していた。
 教師や大人達が「今の勉強は後の人生のためになるものだ」と言うような言葉と、本当は何も変わらないものなのかも知れない。それを甘んじて聞いていたのは一つ目の大蛇がそれを「そう遠くはない未来のこと」だと、その態度で告げていたからだろうか。
「君は眠っていた方が良いな。君が意識を持っていたなら寄生はかなりの痛みを伴う」
「断るね! 何も知らないうちに俺の身体に変化があるなんて、ごめんだ!」
 ギョロリと一つ目で何かを女に合図すると、一つ目の大蛇はそれ以上、佐々木に言葉を向けなかった。眠ることを勧めた忠告に対し、佐々木が断固とした拒否の意志を示した以上、それは尊重されるべきとでも考えたらしい。
「……では失礼致します」
 佐々木は背後でそう話す女の声を確かに聞いた。「失礼致します」とはどんな風にでも解釈の出来る言葉だった。
 ふわりと撫でるかのよう、左右の両側頭部に女の両手が添えられて、佐々木はビクッと身体を震わせる。
「なッ、……何すんだよ!」
 しかし、そう声を荒げはしたものの、女から離れることは適わず、佐々木は自分の身体を襲った異変に気付いた。
「……佐々木様に対する寄生は継続的な激痛を伴います。佐々木様が意識を持った状態で、寄生の一部始終が完了するのを待つと仰有ったので、失礼ながら、身体の自由を一時奪わせて頂きました。寄生の第一段階が完全に完了するまでに、佐々木様に動かれてしまうと、最悪、佐々木様に危険が及ぶ可能性がありますので、ご了解下さい」
 身体の自由を奪うといった通り、既に佐々木の身体は指先一本に及ぶまで自分の意志では動かなくなっていた。唯一の例外は言葉を喋り、同時に呼吸をする機関である口だけであり、視線さえも動かすことはままならない。
「げ……激痛って! おいッ!」
「佐々木様が感ずる痛みを軽減はさせますが、完全に痛みを感じない様にすることは出来ません」
 臆病風に吹かれたわけではない、いきなりの話で心の準備が出来ていなかったと言えば聞こえが良いだろうか。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
 しかし、佐々木の一時停止を求める声は聞き入れられない。
 既に、佐々木が女の術中に落ちていたという経緯も影響していたのだろう。ヒュッと風を切る音が響いて、眼前にある獣が飛びかかってきた。その「一部始終を見る」などと言い出したことを佐々木が後悔したのはその次の瞬間だった。
 自らの瞳に牙が突き立てられる瞬間を佐々木は自身の視覚を通して見る羽目になったのだ。前方を直視する以外、ぴくりとも動かない左目では右目に食い付くその様子を見ることも叶わない。右の視界は完全に崩れてしまっていて、ただただ赤と黒とがぐっちゃぐっちゃに混ぜられた世界が広がっていた。
「うぎゃあああッ!!!」
 叫ばずにはいられなかった。


「……誰?」
 微かな足音を感じた。そういうわけではないだろう。
 しかし、だからといって、それが当てずっぽうだとも言えなかった。
 蒲原は背後に居るであろう人物に、ピリピリと肌を刺すような強い警戒を向ける。微かな疑いも持たず、背後に誰かが接近してきた感覚を蒲原は確信として持っている様だった。
 蒲原自身は薄暗い闇の中にいた。コンクリートの上に描いた魔法陣の中心に座る格好だ。
 そのすぐ脇にはこの薄闇を半径二メートル前後に渡って切り裂く程度の光量を持つランプが置かれている。灯るランプの炎は赤と青の間を絶え間なく行き来して、常にその色を変えているかの様にも見えるけれど、蒲原の顔を照らすその光りの色は常にオレンジ色の様にも見えた。
「ちぃっす、やっぱりここに居ましたか? 蒲原会長」
 まさに「この人には叶わない」という苦笑いの表情で、蒲原を会長と呼んだのは若山だった。
 背後に接近してきたのが後輩の若山であると判って、蒲原は警戒を緩和する。しかし、警戒そのものが完全に払拭されたわけではない。微弱なものではあるものの、その若山に向けた警戒がまだ残っているのも確かなのだ。
 若山はいつもそうしている様に、蒲原と一定の距離を置くことを余儀なくされる形だった。
「若山クン」
「んー? なんすか?」
 蒲原に名前を呼ばれ、若山は蒲原の背中へと目を落とす。
 どうしてか、蒲原は代栂中央高校の制服を着ていた。
 蒲原がいつここに赴いたのかは若山には判らないことだったが、原則として自宅謹慎である停学中に逆に目立つだろう格好をして出歩く辺りが蒲原らしかった。加えて、私服姿でないことが「魔術研究会の会長としてこの場に腰を下ろしているのだ」ということを証明している気がして、若山は微苦笑を漏らした。
「入り口のフェンスには頑丈な鍵を二つ用意して置いたはずだけど、……また、得意の解錠術で開けてきたの?」
 そう問いながら、蒲原は若山が鍵を解錠してきたことを確信している風で、その表情には呆れた調子を滲ませていた。
「まー、あれですよ、腕が鈍らない様に鍛錬も兼ねましてってことですよ。ちなみに言っておきますと、どんなに値が張ってもそこらのホームセンターで売ってるような鍵じゃあ駄目ですよ。俺、前持って用意さえ調えておけば、電子キー式のオートロックも開けられますもん」
 若山は前屈みに体勢を取ると、その得意の解錠術で解錠したのだろうチェーンロックの鍵を二つ床へと置いた。そして、わざわざ鍵を解錠して侵入してきた経緯について、こう説明をする。
「前持って連絡入れてからにしようとは思ったんですけど、会長、携帯の電源、切ってるでしょ?」
 制服のポケットから携帯を取り出し、発信履歴を操作して、若山は携帯へと当てたコールが不通だったことを蒲原へと示した。眉間に皺を寄せた思案顔を見せる蒲原に、若山は呆れた表情をして言う。
「良いんですか? 停学って確か、自宅謹慎だったはずじゃなかったですか?」
「自宅に電話が来たら、この携帯に繋がる様に……」
 蒲原はそこまで言ってからハッとなった様だ。
 明らかな矛盾がそこにはある。携帯の電源を切ってしまっていたら、自宅から携帯へと繋ぎ直す設定そのものが意味を為さないことになるわけだ。
 若山は目を細めて大きく伸びをすると、そこから見ることの出来る夜景へと目を向ける。
「しっかし、ここも取り壊されないですよね、会長がタロットで占った通りだ。こんだけの敷地があったら、どこかの企業が買い取ってマンションとか建設してもおかしくないのに。やっぱり、立地条件が微妙だからですかね」
 若山がそう話した様に、そこは蒲原が代栂中央高校に入学した時には既に廃墟として存在していた二階建ての社員寮跡だった。何という名前の会社が所有していたのかを、既に錆びて塗装の剥がれた看板から読み取ることは出来ない。
 広大な屋上は洗濯物を干すスペースとして活用されていたのだろう。昼間、ここを訪れると、所々ひび割れたコンクリートの上に錆びた竿などが今もそのまま残され転がっているのが目に入る。
 敷地内に点在する屋外灯には電気が来ている形跡はない。尤も、蛍光管が壊れているものが大半であり、正常に送電が為されたとしても、きちんと点灯するものは本来ある屋外灯の半分にも満たないだろう。従って、この社員寮跡を照らす明かりは全て、社員寮跡地に隣接する街灯の明かりである。
 尤も、社員寮跡の様子が屋外灯によって鮮明に照らし出されてしまうと、色々とゴミが目に付く様にはなるだろう。何年も放置されたまま、撤去されることのない自動販売機もそう、壁に立て掛けられたまま汚れた水が溝に溜まったタイヤもそうだ。原型が何だったのか判らないようなものまで、社員寮跡の敷地には転がっている。
 それでも、蒲原は好んでその社員寮跡の屋上スペースに、こうして良く足を運んでいるのだった。
「風水的にもここは人が住むに不向きな場所らしいけど、それと何か関係があるのかも知れないわね」
「お! 久し振りですね、会長がタロットしてるの。よくよく見れば、簡易じゃない本格的な魔法陣まで描いちゃって! ……それはあれでしたっけ、タロットの成功率を高めるための記号羅列でしったけ?」
 若山は魔法陣の上にタロットを手繰った後を見付けると、蒲原への距離を一気に詰めて、背後から覆い被さるかのような格好で前屈みになり話し掛けた。蒲原は多少、その若山が一気に距離を詰めたことに対して不愉快そうな表情を滲ませたものの、口に出してまでそれを嫌うことはなかった。
 それは若山という後輩に対して「自分のタロットに目がない」という意識を蒲原が持っているからだ。また、過去幾度となく、そうやって興奮気味に距離を詰められた経験があるから故でもある。
 同性異性に拘わらず、蒲原はコミュニケーションの距離を気にするタイプである。不用意に距離を詰められるのを嫌い、会話をするにしても一定距離を保たないと不機嫌になる徹底ぶりである。それも蒲原の性格から来ているのだろうが、蒲原にと良好な付き合いをしたいのならば、守らなければならないルールがそれだった。
「……ちょっと、気に掛かることがあってね。こんなに悪い予感がするのはホント初めてなのよ」
 蒲原が若山の方へと振り向かないから、そう言った蒲原の表情を若山が直視することはなかった。斜め後方、それも上から蒲原を見下ろす格好にある若山には満足に蒲原の横顔を捉えることもままならないのだ。ただ、どこがとは明言出来ないながら、その横顔に影が差している感じを若山が覚えずにはいられなかったのも確かだった。
「はは、寒いんすか? ……手、震えてますよ、会長?」
 タロットへと再び手を伸ばそうとする蒲原の手先の震えに気付き、若山としては咄嗟に「口に出してしまった」と後悔する言葉だった。言葉に曖昧さを持たせるため、から笑いを混ぜる形には出来たものの、蒲原が震えのわけを口にすることはなかった。
「先に用件を聞くわ、若山クン」
 蒲原からここに来た理由を尋ねられると、ついさっきまでの勢いはどこへやら、若山は話し難いとばかりに態度を上滑りさせる。そして、すぅっと一つ息を飲み「なるようになる」と意を決したのか、若山は辿々しく口を切る。
「あー……、緒形のことなんですけど、あれ、何かヤバイっすよ。……上手く、その、言葉にして表現出来ないんですけど、緒形の中身、あれ多分、緒形じゃない何かです。会長も実際に会ってみれば判ると思います、何か、雰囲気とか気配とか……まるっきり違うものなんですよ」
 若山の口調は所々訥々としたものだった。「どう説明すべきなのか」を話し始めた後も決め兼ねたらしい。
「……判ったわ、そのことについても少し占って見る」
 ともあれ、そこには緒形の異常を訴える必死さが滲んだ格好で、蒲原としても簡単に受け流せはしなかった。タロットで占うことを確約すると、佐々木は蒲原の脇に腰を下ろして神妙な顔をする。蒲原が手繰るタロットの状況、引いてはタロットを手繰るその一挙手一投足を注視しようと言うわけだろう。
 期待が半分に、不安が半分といった割合の顔で、蒲原の引き当てるタロットへと佐々木は目を落とす。
「頼みますから嫌なタイプのカード引かないでくださいよ。俺は会長のタロットの的中率に見惚れて、この研究会に入ったんですからね。……あんまりヤバイの引かれちゃうと、俺、この件には関わらない様に全力を傾注しちゃいますよ?」
「ふふ、それはわたしに言われてもね。それに、申し訳ないけど、嫌なカードを引かない自信もないわ」
 蒲原の笑みが自嘲気味のものだと瞬時に判断出来たのはやはり、蒲原がまとった雰囲気故だろう。
 内心、判っていながら、……そう、確かめるまでもないことながら、敢えて、そうやって確かるという手段を用いて僅かな否定の可能性に期待する。完膚無きまでに「嫌な予感の的中」を示されなければ、動きたくはないという蒲原の姿勢がそこには見え隠れした。




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