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Seen02 潜在過渡期


 代栂中央高校の屋上へと続く階段を上り、緒形は踊り場の隅へと向け鞄を放り投げた。
 二時限目の始業を告げるチャイムが鳴り響いてはいたが、その音が緒形の耳を捉えていないかの様に、緒形に迷いはなかった。ノブを握って力任せに扉を押してみれば、意外にも屋上へと続く扉は呆気なく開いた。
 ギィ……と滑りの悪い金属音を響かせて開いた屋上のドアから漏れた眩い光に緒形は手を翳し、その先へと進むことを僅かに躊躇する。空には三対七の割合で、青空と、まるで排気ガスに汚されていないかのような真っ白な雲がある。まだ、昼時の暑さを伴った太陽の面影はそこになく、初夏を鮮やかに彩る熱気も存在しない。
 二時限目の授業がついさっき始まったということもあって、当然ながら屋上は閑散と静まり返っていた。
 緒形はそこで「すぅ」と息を飲むと、閑散とした屋上に向けて言葉を投げかける。
「こんにちわ、杉代先輩」
 緒形の眼前に人影はない。もちろん、屋上には緒形が口にした杉代の姿を見付けることは適わない。けれど、緒形はそこに杉代が居ることを確信しているかの様だった。屋上へと入って直ぐの場所で足を止めると、緒形は杉代からの返事を待っていると言わないばかりに、その場で静止する。
 そんな緒形の様子は端から見れば、異常行動とも言えなくはなかった。
 しかし、緒形は再び杉代の名を呼び、屋上に杉代が居るという確信があることを態度で示す。
「杉代先輩、ここに居るのは判っています」
 今し方、緒形が出て来た屋上と階下とを繋ぐ階段がある突起の、その屋上の最も高い場所で名前を呼ばれた杉代はゆっくりと上半身を起こした。緒形に「居るのは判っています」と断言されなければ、起きて相手をするつもりはなかったのだろう。杉代は見当違いの方向を注視したまま微動だにしない緒形を不興顔で見下ろすと、棘を含んだ口調で応対する。
「よう、下級生。……どうした、お前もサボリか?」
 杉代はワイシャツを羽織っておらず、黒と茶のストライプシャツに制服のズボンという出で立ちだった。昨夜、緒形に対して三年生だと言った様に、杉代のタイの色は確かに緒形の一学年上を表す三年の色だった。
 声が向けられてようやく、緒形は杉代の正確な居場所を確認したらしい。
「こんにちわ」
 緒形は空を見上げる様に上を向き、そこに杉代の顔を確認すると、ぺこりとお辞儀をしてみせた。
 そんな緒形の反応は、ある意味、杉代の理解の範疇から遠く懸け離れたものだ。
「あー……、あぁ、こんにちわ? 何か、拍子抜けするな、おい」
 杉代が言葉の節々へと鏤めた「棘」に、緒形が気付いた様子はなかった。濁りなく澄んだ緒形の瞳は「皮肉」さえ通じないのではないかと、杉代に錯覚させる。言い意味でも悪い意味でも、今の緒形は言葉に混ぜる「意図」や「感情」というものを敏感に読み取ることが出来ないのだと杉代は認識せざるを得なかった。
 緒形がそれを理解出来ないと認識するや否や杉代はさらりと話題を変える。
「あっちこっちで、お前の噂がチラホラ囁かれてるぜ? 失踪したとか、脱走したとか、明らかに憶測の域を出ない噂まで飛び交ってる? せっかく俺がわざわざ送り届けてやったのに、お前、家に戻らなかったんだってな?」
 杉代が耳にした確からしい情報の一つに「自宅に戻らなかった」というものがあった。教師同士の会話が元ソースであり、杉代自身、恐らくそれに「間違いはない」と思いながらも、杉代はそれが事実か否かを緒形へと問う形を取った。そこには「どうして戻らなかったか」を詰問する態度も滲んだ。
 やはり、緒形は言葉の節々に滲む意図を理解することが出来ないのだろう。こともなげに答える。
「あの時点ではあの場所に戻っても何も解決はしないと思いました。ここに居るにあたって確かめておく必要があることもありましたし、何より、わたしの関係者に無用の心配を与えるだけだと思いました」
「何か色々と思い出すかも知れないじゃねぇか? それに、心配ってなぁ……、記憶喪失になりましたってのはそりゃあ家族に取っちゃ心配だろうけどよ、家に戻ってこない方がずっと不安なことなはずだぜ」
 甲を見せた手をヒラヒラと振って、杉代は態度でも緒形に帰宅することを促す。
「今からでも遅くはねぇよ、ほら、自宅に戻りな」
 杉代の勧めに首を振って拒否の意志を示した緒形は確かな不服の表情をしていた。
「もう少し、もう少しだけ、自問自答をする時間さえ貰えれば、もっと緒形奈美だった頃のわたしに近づけます」
「……だったら、始めっから運び込まれた病院の病室で眠る振りをするなりなんなり、大人しくしとけば良かったんだ」
 懇願にも似た口調で「もう少し時間が欲しい」という緒形に、杉代は淡々と言い放った。
「今のわたしもそう思います」
 ぎこちなく笑った緒形は「ごもっとも」とでも思ったのだろうか。ともあれ、続ける言葉で緒形はこう話す。
「もう少し上手に過去の緒形奈美の振りを出来れば、簡単に見抜かれないと思うんですよ」
 それは「もう少し時間が欲しい」と言ったその理由を述べたものだった。しかし、誰もがパッとそれを聞いて、意味を理解出来る内容ではなかった。杉代だって「自分は緒形奈美ではない」と言ったに等しいその真意に首を捻ったぐらいだ。
「見抜かれない?」
 杉代は鸚鵡返しに意味の不明確なその言葉を緒形へと問い直した。
 緒形から何かしらの言葉が帰るよりも早く、杉代は言葉を続ける。
「誰を騙し通すつもりかは知らねえけど、素直に記憶喪失になりましたって白状した方が良いと思うぜ? 誰もそうなったお前を「何で記憶喪失になったんだ?」なんて責める奴はいねぇよ」
 それは記憶喪失になったことを公にしたくないと思ったから故の言葉だった。緒形が言った時間を欲する理由を杉代なりに解釈した結果として導かれたことは記憶喪失絡みのことだけだったのだ。
 そう諭されて、緒形は困惑の顔を覗かせる。それが本当に「困惑」と形容して正しいものかどうかは定かではなかったが、少なくとも杉代はそれを困惑に類するものだと捉えた。
 時間が欲しいことについて議論をする以前の問題として、緒形は杉代の認識が間違っていることを指摘する。
「杉代先輩が話したわたしの症状を記憶喪失といってしまうと、ちょっと適当じゃないみたいです。記憶喪失の単語が持つ意味を理解した今、それはちょっと違うものだと断言出来ます」
 そこで言葉を区切り、緒形は真顔で杉代へと問い掛ける。
「杉代先輩は倒れる以前のわたしと今のわたしとを比較して、今のわたしを緒形奈美だと思いますか?」
 傍目に見れば、それは「馬鹿にしているのか?」とさえ思える内容だった。しかし、緒形の表情は真摯にそれを確認するものであり、その答えが「肯定なのか、否定なのか」の確答を待つ確かな態度がある。
 杉代は、返答……というか、何を答えるべきなのかを迷ったのだろう、困惑の表情で緒形にその意図を聞き返す。
「……はぁ? 俺は倒れる以前のお前なんて知らないから、比較のしようなんてないけど、……はは、多分、違うぜ」
 そう苦笑いを見せてから杉代はハッと何かを思い起こした様だった。
「もしかしたら」
 そんな閃きに、杉代は一瞬、それを言葉にすることに対しての躊躇いを見せた。
 しかし、意を決して杉代はそれを緒形に対して問い掛ける。
「お前、……あれか? 多重人格って奴か?」
 緒形はふっと目を逸らすと、それが多重人格と呼べるものかどうかの確証を得ようとしているかの様だ。思案顔で押し黙る緒形の様子はこのままでは「埒が明かない」とさえ、杉代に思わせるものだった。しかしながら、杉代が危惧したほど、その考査は多くの時間を要さなかった。
「昔のわたしの記憶を取り出すことが出来ます。何をすることが楽しくて、何を思って、どんなことに重点を置いていたのか、それを見ることが出来ます。でも、わたしはそれをわたし本人のものだと思うことは出来ません。ただ、そんなことがあったんだと、客観的に眺めるだけです」
 緒形は説明すべきことを箇条書きに並べたメモでも読み上げるかの様に話した。指を折り、一つ一つ丁寧に、述べたいことを確かめる様にである。
 このまま話をしていても「埒があかない」と杉代は再認識した。
 トンッと出入り口の上にあるスペースから屋上へと飛び降り、緒形と同じ目線の高さに立つと、杉代は緒形へと真顔を向ける。力尽くでも自宅に帰宅させようと思ったわけだった。
 しかしながら、その決意は緒形をマジマジと注視した時点で霧散した。上から見下ろす形で緒形を見ていた時には気が付かなかったが、緒形の顔色はお世辞にも良いとは言えない状態だった。
「おいおい、お前、ふらふらじゃねぇの? 大丈夫か?」
 杉代の言う様に、緒形の足取りは危なっかしくて見ていられないほどのものだった。時折、歩いていて蹌踉めくことがあるというよりかは僅かながら常に左右に揺れている感じと言えば適当だろう。
「それに、良く良く見れば、随分とまぁ薄汚れたな」
 杉代に指摘をされて緒形は自分の格好をマジマジと見返した。しかしながら、何を指して杉代がそういっているのか解らないらしい。緒形は不思議そうな表情をして杉代を見返す。
 杉代が指していった「薄汚れた」とは何も身形に限ったことではなかった。
 緒形の頬には油汚れのような黒い線があり、その掌にしてもそう、土でも弄ったかの様に汚れているのだ。
 だから、杉代はそんな緒形の見当外れの反応に溜息を漏らさざるを得なかった。
「一度関わっちまったからには最後まで面倒見るべきだってか、……クソ! ほら、付いてこい。今、授業中だから、誰にも見つからずに運動部用のシャワー室とか使えるだろ」
 杉代は緒形の手を引き、離れにある運動部用のシャワー室へと急いだ。
 弓道部などの部室がある体育館裏へと校内を通って抜けることの出来る最短ルートを杉代は選択したわけだったが、それでもいくつか授業の真っ最中の教室前を通らなければならない。それが杉代ただ一人だったなら、あくびれた顔もせず堂々と教室前を通り過ぎるわけだが、緒形という同行者がいてはそうもいかない。
 身を屈め、足音を消し、もしかしたら校内を歩き回っているかも知れない見回りの教師の足音に細心の注意を払う格好だ。そうやって、耳を澄ませることでコツコツと黒板を打つチョークの音が耳について、杉代は神経を磨り減らす思いだった。いつも歩いているはずの廊下は、そのいつもの距離よりずっと長く続いているかの様に感じられて、杉代は自分が緊張していることを自覚せざるを得なかった。
 それは手を引く相手が緒形だという所為も多分にあったのだろう。失踪したとか、脱走したとか、噂されている緒形と一緒にいる所を見られたなら、どんな誤解を生むか判ったものではない。
 ともあれ、杉代は首尾良く校内を抜けて、体育館裏へと続く扉の前まで足を進める。途中、保健室の真向かいにある、保健室で使われるシーツの代わりなどが収納された物置部屋からバスタオルと手拭いを拝借していて、……抜かりもない。他にもハンドソープなど箱買いされたものが置かれているわけだったが、さすがにボディーソープは見当たらなかった。
 シャワー室へと到着すると、杉代は一応キョロキョロと辺りを見渡してみて、周囲に人がいないことを確認する。
 本来、シャワー室は水泳部用の施設である。尤も、特に利用者を制限していないため、運動部全般が使用する場所だとも言うことが出来る。そして、運動部に関係のない生徒が利用しても、特にお咎めはないわけなのだが、こと、それが授業中となると話は別となる。体育の授業で長距離マラソンなどを走った後に、一部の生徒が利用することもあるとはいえ、基本的には教師に見つかると叱責ものだ。
 キョトンとする緒形の背中を押して、誰もいない女子生徒用の脱衣場へと足を踏み入れると、杉代はばつが悪そうに顔を顰めた。見掛けは男子生徒用の脱衣場と寸分違わぬ作りの様にも見えるわけだが、独特の雰囲気があるというか、漂う匂いが違うというか、杉代はその感覚を意識せずにはいられなかった。
「緒形、お前は今からその汚れを洗い流してこい。……シャワーの使い方は判るな? 制服は脱げるな?」
「多分、大丈夫です」
 緒形は「多分」と曖昧に頷いた。そして、リボン型のタイをシュルッと音を立てて抜き取ると、杉代の目など気にした様子もなく、制服の上着を脱衣籠へと脱ぎ捨てる。そのまま緒形がスカートのボタンへと手を掛けたところで、杉代はバスタオルと手拭いを緒形へと向けて放った。
 これ以上は見ていられない。まさに、そう言わないばかりにだ。
 緒形が正気ならばともかく「今の緒形を意識しても仕方がない」という思いも、同時にそこには漂った。
「そんじゃあな、……俺は外で待たせて貰うぜ。あんまり時間かけんなよ」
 それだけを言い残すと、杉代はさっさと脱衣場の外へと足を向けた。
 気恥ずかしそうにそそくさと脱衣場を出て行こうとする杉代を、緒形は制服の裾を掴むことで止める。
「杉代先輩」
「……どうした?」
「……」
 外に出て行くことを制止した理由を緒形に尋ねるものの、緒形は黙ったまま、じっと杉代を俯き加減の上目遣いで見るだけだった。杉代としてはすぐに何か不安を緒形が感じていることを理解した格好だ。
「すぐそこに居るから、何かあったら呼べばいい。何か話があるなら後で聞くから、さっさと汚れを落としてしまいな」
 制服の裾を掴む緒形の手を振り払うと、再度、杉代は緒形の背中を押してシャワー室へと押し込んだ。
 比較的どんな時間帯でも人気のある場所だということもあり、杉代はシャワー室前の壁に寄り掛かって見張りをする羽目になる。「すぐそこに居る」と緒形を安心させるために言った手前もある。
 尤も、この時間にひっそりとシャワー室に足を運ぶ女子生徒が居たとして、杉代がその生徒のシャワー室の利用を妨げられるかと言えば、そう言うわけにはいかない。「清掃中だ」とか、適当なことを話して追い払うことも可能だが、それを不審に思われると厄介なことに繋がるわけだ。精々が緒形に対して、注意を喚起することぐらいが関の山である。
 そんなこんなで、杉代の内心としては誰かにばれないかとヒヤヒヤものだった。
 ザアァァァァ……とシャワーを使う水の音が聞こえてきて、杉代は舌打ちをする。
「チッ! 女子更衣室の、女子用シャワー室前にたむろってるの発見されたら、俺は間違いなく変態扱いだぜ」


 杉代が次に緒形を連れてきたのは第二来賓室と名前の付けられた部屋だった。
 様々なストラップがついたキーホルダーから杉代は手早く第二来賓室の鍵を探し出す。第二来賓室の鍵を解錠すると、杉代は物音に気を遣いながら、一般の生徒が使用する教室のものとは異なる扉を開いた。
 一般の生徒用の教室の扉は普通二枚戸で、どちらも開くタイプのものだが、第二来賓室の扉は一枚戸になっている。さらに硝子窓が存在しないため、部屋の中の様子を窺うことは出来ない。扉の質感は一般の教室のものと何ら変わらないが塗装が茶褐色で、簡素ながら装飾も作り込まれているのだ。
「感謝しろよ? いいか、ここは俺の取って置きの仮眠場所だ。……取って置きっつっても、この季節だと雨の日とかしか使わないけどな。まず、見ての通り横幅の広い仮眠に最適のソファーがある」
 第二来賓室の中は一見すると物置であるかの様に雑多のものが置かれていたが、杉代の言う様に人一人が横になって十分眠りにつける大きさのソファーがあった。ソファーの上にだけは綺麗にものが置かれておらず、この第二来賓室を杉代が使用した際に適当に片付けたのだろうことは容易に推測出来た。
「後、仮眠取ってて寒いようだったら、この棚の一番上の、ファッションショップ「hi-fi」のビニール袋の中に、……こいつは俺の私物なんだが、くるまって眠れるクイーンサイズのタオルケットがある。好きに使いな」
 取って置きの仮眠室とは本当の様で、杉代の指す場所指す場所には眠るために必要なものが各種取り揃えられていた。
 杉代は一昔前に流行った安眠枕を大机の引き出しから取り出すと、それを緒形へと向けて放る。ポンポンと手の甲でソファーを叩いて「寝な」と、杉代は緒形に仮眠を取ることを勧める。
「来賓用の部屋らしいんたけど、見ての通り、半分物置化してるせいか、まず人が来ないんだ、ここ。放課後、見回りする教師も施錠さえきちんとしておけば、九分九厘、中まで確認することはないな。こいつは経験談だ、安心して良い。そもそも、一階に第一来賓室ってのがあってよ、そっちがメインで使われてて、ここが校舎三階で位置的に不便極まりないだろ? 第二来賓室があるなんて教師の中でも知らない奴がいるくらいの場所だ」
 言葉にして、この部屋の安全性を解くと、その証明はこの第二来賓室自体がやってくれると言わないばかり、杉代はその物置振りを指差した。確かに、この場所のどこに来賓を迎え入れるのだろうと呆れるぐらいに、第二来賓室はもので埋もれてしまっていた。
「……眠る? 眠れば、この鈍化した身体の反応を修繕することが出来ますか?」
 来賓室に対する杉代の説明など半分以上「聞いていなかった」とさえ思わせるトロンとした目を緒形はしていた。恐らく、眠っていないか、眠ったとしても浅い眠りに僅かな時間だったのだろう。緒形はビクッビクッと身体を震わせながら、抗い難い睡眠欲求に必死に耐えている様だった。
 そんな緒形の様子には、思わず杉代も笑いを噛み殺せなかった。
「記憶喪失ってのはそんなことまで忘れるのかよ……」
 そう呆れながらも、杉代は緒形を安心させるための穏やかな口調でこう教え諭す。
「おい、良いか? 人間ってのは眠らなかったらそうなるんだよ、人間には絶対に睡眠が必要なんだ」
「……瞼が重いです。頭がもやもやして何も考えられない」
「さっき、シャワー浴びたからだろうな、疲労がピークに来たんだろ」
 杉代は全く意識せずに緒形の髪を撫でた。
 一瞬、ピクンッと身体を強張らせながら、緒形はそのまま何をするでもない。直ぐにでも寝息を立ててしまいそうな緒形の様子を、杉代は呆れ果てた顔をして見ていた。「緒形が眠りについたら、この場を離れて……」と雑多なことを杉代は考えていたわけだが、緒形はそのまま睡魔に身を任せることを良しとしない。
「一晩中、屋上で呼び掛けてみました。その結果として判ったことがあります、ここには敵対種がいるかも知れない。わたしの声を聞く連中がここには確かにいます、でも、わたしの呼び掛けに答えず、それらはただ様子を窺っているだけなんです。……わたしの呼び掛けが仲間に向けたものだと判っているはずなら、答えを返すはずなんです」
 ボソボソと緒形が呟く言葉を杉代は確かにその耳で聞いてはいたが、さっきよりも一段とトロンとした目をする緒形に何かしらの反論を返すつもりにもなれなかった。
 そして、ただの戯言だと、そう聞き流してしまっても不都合はないのかも知れない。
 事実、その話の内容は杉代の理解の範疇を逸脱したものだ。
「あー……、何だ、その、ここにはお前の恐れているような何かは来ねぇよ」
 明らかに、緒形を安心させて寝かし付けることが目的の、無責任に話した杉代の言葉にも緒形は反論しなかった。
 それを信じたわけではないだろう。もちろん、完全に疑って掛かったわけでもないだろう。しかしながら、杉代が「敵対種」の存在を信じていないことだけは確実に伝わったらしい。押し黙る緒形は濁りのない澄んだ目で杉代を見る。尤も、その目がトロンとした眠気に惑わされているものだったことは否定しない。
「その感覚に身を任せて目を閉じろ、余計なこと何も考えずにじっとしてたら、そのまま眠りにつけるはずだ」
 杉代は大きく息を吐くと、緒形をそう諭して、もう一度、その髪を撫でた。
「取り敢えず、……そうだな。今のお前の様子だと最低でも六時間は爆睡するだろうから、多めに見積もって午後七時にここに迎えに来る。睡眠時間にして八時間、取り敢えず、十分だろ?」
 ソファーに寄りかかったまま、微動だにしなくなった緒形がその話の内容を理解していても、していなくとも、構わなかった。たった今、杉代が予想した睡眠予定時間を間に挟み、第二来賓室へと足を運んでみて、それでもまだ緒形が眠っているようなら、起床するまで待てばいいことなのだ。
 緒形から何ら反応のない状況を「緒形が言葉を返すだけの意識状態にない」と判断して、杉代は腰を上げる。
 そんな杉代の制服の端をグッと握り掴んだのは他でもない緒形その人だった。眠気を必死に払い除けて上半身を起こしたのだろう、緒形の表情は冴えない。
「杉代先輩にお願いがあります。わたしが眠りから覚めたら、わたしをこの近隣で一番高い建造物に案内してください」
「あぁ、判った判った、案内でも何でもしてやるから、とにかく、今は眠んな」
 そう言わないと、緒形が握り掴んだ制服の端を離さない気がして、杉代はその緒形の要求を聞き入れる。下手をすると、制服を離さないとかいう以前の問題として、眠ろうとしないかも知れない。
「そう、します」
 杉代の返事を聞くと、緒形はパタンとソファーに横になって、そのまま寝息を立てた。取り敢えずの不安は全て取り除かれたのか、それはとても安らかな寝顔だった。
 杉代は「手の掛かる子供でも寝かし付け終えた」と言わないばかりの、一仕事を終えた顔をしていた。そうして、一つ疲労の色の強い溜息を吐くと、マジマジと緒形の寝顔を注視する。
「しっかし、柄にもないことやってんなぁ、俺。……ホント、感謝しろよ、お前?」
 返事をしない緒形に、そう言葉を向けると杉代はそれ自体が「柄にもないことだ」と思ったのだろう、気恥ずかしそうに頭を掻いた。ここにいてもやることはないが屋上に行って寝直す気分にもなれないらしく、杉代はボソリと呟く。
「しゃーないか、たまには真面目に授業へ顔でも出してくるかね」
 ポリポリと頭を掻きながら、杉代は物音を立てない様に細心の注意を払いながら、第二来賓室を出て行った。


 正午から十分が経過して始まった昼休み。その昼休みの始まりを告げるチャイムの音が鳴った時には、既に代栂中央高校一階にある購買横の掲示板には秋前と組原の姿があった。
 掲示板にはデカデカと生徒会から発信される情報の告知が張られている。
 大方、予想は出来ていたことだとは言え、その内容を改めて確認した秋前はくいっとその眉を吊り上げる。
「結局、二週間の活動停止措置! ふざけてくれちゃって! あの弘瀬宏一(ひろせこういち)っていうのは本当、融通が利かないというか、……ねぇ?」
 秋前はその処置に納得が行かないらしい。左手を腰に置き、つい今し方、購買で購入したフレッシュベーコンサラダパンを噛み千切ると、それに怒りをぶつけるかのごとく荒々しく噛み潰した。
 秋前が同意を求めたことに対し、組原は自身の見解を冷静に切り返す。それがどんなことであっても、秋前に「はいはい」と追随しない辺りも、組原が秋前のブレーキ役と言われる所以だろう。
「天文部の活動停止とならなかっただけ融通が利いてる方なんじゃないのか?」
 しかしながら、それに対して秋前が何かしらの反応を見せることはない。まるで、都合の悪いことは聞こえない振りをするかの様である。尤も、その一連のやり取りも、組原に取っては既に日常茶飯の一コマだった。
 秋前は掲示板に張られた生徒会からの告知を声に出して読み上げる。
「秋前加奈見(あきさきかなみ)副部長以下七名、部活動規定に対する規約違反のため、二週間の部活動停止。プラス、わたしには反省文の提出……ね」
 それはまるで、そうやって声に出して読み上げることで、弘瀬に対する憎しみを蓄積させているかの様だった。特に「覚えていなさい」と言わないばかりの、底意地の悪い邪悪な笑みがその憎しみを顕著に物語っているかの様でもある。
 掲示板を立ち止まってまで見る生徒が少ない中で、感情を剥き出しにする秋前は非情に目につく存在だ。直接、告知に関わり合いのある人間以外、立ち止まってその内容を確認する姿はほとんど見られない。人通りは多いものの、その九割は昼食の購入に購買へと足を運ぶ途中、横目にその内容を何の気なしに確認するぐらいであるのだ。
「それよりも、昨夜の一件でぶっ倒れた二年の緒形の様子はどうなんだ?」
 組原はずずーっと手にしたパックの野菜ジュースを飲み干すと、それをクシャッと握り潰した。そして、備品倉庫で倒れ、この活動停止の要因の一つになった緒形を敢えて話題へと挙げた。尤も、それは何か大きな問題が発生していたなら、真っ先に秋前から話題に上がるはずのことである。だから「大事にはなっていないだろう」という推測が組原の中にある。秋前が緒形について言及しないことはイコール、そう考えて問題ないはずだと組原は考えているわけだった。
 しかしながら、秋前がその話題を口にしない理由。それは組原が予想していた内容とは異なるものだった。
「あー……、昨夜の段階では医者から「特に異常は見られない」って説明されたらしいよ。大事を取って今日一日は、一応、様子を見て休むことにしたらしいけどね」
 秋前は「まだ、きちんとした確認が取れていない」旨を「らしい」という表現を多用して組原へと説明した。その口調はいかにも切り出し難いという感じの、何とも歯切れの悪いものだった。実際に会って確認してみないことにははっきりしたことが言えないという秋前の白黒をハッキリつける性格故の言葉でもある。
「そっか、問題ないらしいのか。……なら、ひとまず、良かった形ではあるのかな」
 正確な確認が取れていないこともあって、組原も「良かった」と言ってしまうことは憚られ、そんな気持ちの悪い受け答えに終始した。その時点で、話題を変える方向を間違ったのだと組原は後悔した。
「まー……、一連の騒動の責任は蒲原にあると思うけどね、あの場合!」
 秋前の怒りを逸らすために、せっかく話題を緒形のものへと変えたのだったが逆に今回はそれが失敗に繋がった。緒形についてあれこれと推測さえも立てられない状態だから、秋前の話は自然と蒲原へと流れたのだ。
「蒲原さんも今回ばかりは生徒会にこってりと絞られたみたいだぜ。まぁ、深夜に救急車を呼ぶ羽目になった原因を作ったわけだから、当たり前と言えば当たり前なんだろうけどな」
 再度、弘瀬の話題を蒸し返す気にもなれず、まして一般の話題で秋前の気を引けるとも思えず、組原は蒲原の話題に落ち着くことを選択した。
 今まで、余程の事件を起こさない限りは生徒会との太いパイプで、どうにか重い処分を回避してきた蒲原だったが、今回ばかりは運がなかった。夜間の高校に救急車を呼ぶ根幹となった原因を作り、且つ、天文部同様に部活動規定に対する規約違反が付いた。夜間の高校に残っていた教師の中に、規律に煩いタイプの面々が居て、さらに天文部副部長たる秋前よりも軽い処分には済ませられない。そんな様々な要因が重なった故の停学謹慎処分なのである。
 ちなみに、生徒会との太いパイプとは佐々木、把民と、魔術研究会に籍を置く幹門とのラインである。
「蒲原相手に説教したの、生徒会? あー……、現在「三流コメディの上映中です」みたいな問答が続いただろうね」
 今にも「クククク……」と意地の悪い笑い声でも聞こえてきそうな表情で、秋前は生徒会がしただろう苦労をあれこれと想像しているようだった。尤も、秋前は生徒会に対しても良い印象など持っていないわけで、そこには「好い面の皮だ!」と言った嘲りの黒い感情も多々含まれいてる。
「それで、あの変人娘にはどんな処置がなされたのよ? もち、わたしより重い処分なんでしょ?」
 秋前が組原へと尋ねた蒲原への処置はまだ掲示板には乗っていない内容だった。
 しかしながら、組原はこともなげに答える。尤も、噂として流れてきて組原の耳へと入った情報なので、信憑性という点で多少劣るものではある。しかし、組原がそれを「確からしい」と判断していることも確かだった。
「自宅謹慎三日間なり、……つまり停学三日ってわけだ。蒲原さんには今日の午前中に言い渡されたらしいから、明日から三日間の自宅謹慎になるわけだな。停学処分を下したのは教師陣で、生徒会は何とか停学を避ける方向で動いたらしいけど、……さすがに今回はねぇ。まぁ、もう周知の事実みたいなものだよ」
「また、……奇人変人列伝に新たな一歩を刻んだわけか。尤も、あの泰然自若が板に付く総合魔術研究会の会長がそんなことで懲りるとは夢にも思ってないわけだけどね。少し、懲りてくれないものかねぇ」
 停学と聞いて、ひとまず処分の内容には納得したのか、秋前は満足げに「うんうん」と頷いた。言葉の最後には秋前の口から溜息混じりに蒲原の「反省」の必要性が漏れ出たわけが、秋前自身、それが自分自身にそっくりそのまま返ってきているとは夢にも思っていないのだろう。
 恐らく、その場で最も溜息が似合ったのは組原だった。
 そんな組原の心中を察することなどあるはずもなく、秋前は購買前の人通りの中に見知った顔を見付けて声を張り上げる。その声は雑踏の喧噪に押し殺されない様にしたためだが、注目を浴びたのは相手ではなく、秋前の方だった。
「お! チビ助の佐々木クンだ、これはこれは都合の良い時に生徒会の下っ端が来てくれたよ」
 秋前の存在に気付いた佐々木は「一番会いたくない相手に会ってしまった」とその表情で物語ってくれる。しかし、その表情も「秋前に何を言われたのか」を理解すると一瞬にして怒りの形相へと変化した。秋前の「チビ」発言に反応し、佐々木は声を荒げる。
「誰がチビだよ! 誰が生徒会の下っ端だよ!」
 しかしながら、昨夜の激怒の度合いと比較すると、その佐々木の反応は秋前に取って物足りないものだった。
 もちろん、それは昼食を買い求める生徒の列が近くにいるから自重をしたとも判断出来る。まして、佐々木に取って秋前は先輩であり、衆人環視の元、罵倒し掴み掛かったとなれば問題になるのは必至である。そうでなくとも、佐々木は生徒会に所属し、模範として下級生に先輩に対する礼儀というものを示さなければならない身上にあるのだ。
 佐々木の個人的な見解をここで述べれば、模範なんか「クソ食らえだ」という結論に達するわけだが、その結論に怒りに任せて従ってしまうと、弘瀬や那浜という恐い恐い仕置き人の影がチラホラと見え隠れする様になるわけである。
 ともあれ、佐々木は怒りの形相を深呼吸をすることで黙らせる。そして、秋前と組原からふっと目を逸らすと、可能な限りその二人の方向を見ない様に不自然な体勢を取って、そのまま何事もなかったかの様に歩き去ろうとする。
 もちろん、秋前が佐々木のそんな身勝手な行為を許すはずはない。購買へと昼食を買いに訪れる生徒の流れを苦にする様子もなく、秋前はすすっと間隙を縫ってそんな佐々木の背後へと忍び寄る。
 佐々木も佐々木でその不穏な気配を敏感に感じ取ったのだろう。即座に早歩きから全力疾走の体勢へと移った。
 しかし、その佐々木の反応は逃げ切るには一歩及ばず、秋前から首にホールドを食らう格好で佐々木は捕まった。
「佐々木クンよー、仮にも顔見知りの先輩に呼び止められたんだから無視決め込んで、そのままスルーってのはちょっと横暴なんじゃないかね?」
「無視はしてないだろ! 一応の反応はしたはずだぜ!」
 首に決まったホールドを必死に振り解こうとするものの、腹部に肘撃ちを放つわけにも行かず、ましてホールドを決める腕を乱暴に扱うことも適わず、佐々木はズルズルと掲示板前まで引きずられる形で連れてこられた。
 佐々木に取ってしてみれば、秋前に発見された時点で既に命運は決まっていたようなものだった。
「蒲原はどうだったのよ? 停学処分も苦にした顔なんか見せなかったでしょう?」
 顎に手を置かれ力任せに「グキッ」と掲示板へと向き直らせられて、佐々木は渋々、その告知に目を向ける。
「あー……、ああ、何だ、蒲原さんの話か」
 歯切れの悪い口調で頷いた後、佐々木は蒲原についての話だと知って僅かながら表情に覇気を取り戻した。
 緒形にはその佐々木の態度が安堵の息を吐いた様にも見えたわけだった。自分の腕の中で抵抗を止めた佐々木に対して、緒形は怪訝な目を落とす。ともあれ、佐々木が蒲原についての質問に答え始めたことで、取り敢えず、緒形はその佐々木の態度に対する追求の言葉を噤んだ。
「蒲原さんの方は蒲原さんの対処した連中の方で一苦労だったみたいだけどな、そっちが聞きたいってんなら詳細は広瀬さんにでも聞いてくれ。俺は、ほら、……あんたら天文部の方の問題に駆り出されることになってたから蒲原さんの方にはほとんど関わってねぇんだよ」
「天文部の……とは、緒形が倒れたことに関することか?」
 その一部始終を傍観する格好で、脇から眺めていた組原が食い付いてきて、佐々木は完全に観念した様だった。
「あー……、ああ、そっか、天文部の連中でもあんたらは知らないのか。そうだよな、よくよく考えてみりゃ、あんたは天文部の副部長だもんな。……となると、直接、連絡がいったのはあんたらの部長さんになんだな」
 一人、合点がいったという顔をする佐々木に、組原も怪訝な目を向ける。
「……何の話だ?」
 一瞬、佐々木は「まずった」と、そう言わないばかりに目を伏せる。それは「墓穴を掘っちまった!」と語る後悔の表情だ。尤も、その態度が改めて逆効果だとすぐに気付いて、何食わぬ顔で組原へと向き直ったはいいが、既に後の祭りだったことを佐々木は知る羽目になる。
 組原からは疑惑の目を向けられ、秋前からは説明を要求する横柄で有無を言わせぬ詰問の態度がある。
「いや、何でもねぇ、何でもねぇ。込み入ったこっちの話だよ」
 愛想笑いでは言い逃れが出来ないと悟った佐々木は再び目を伏せることを余儀なくされた。「何も見なかった」と、その組原と秋前の態度や視線の一切合切を無視し切れるのなら、佐々木にも勝機があったのかも知れない。
 組原は溜息混じりに、秋前は心底「面白いことになった」という顔で、それぞれ顔を見合わせると直ぐさま行動に転じた。まさにツウカアの仲とはこういうものを言うのだろう、それはピッタリと息のあったコンビネーションだった。
 秋前はググッと力を込め、さらに密着をし、佐々木のホールドポイントをさらに増やすと、佐々木の両腕の自由を完全に奪い取る。佐々木が不穏な動きを感じ取って何かしらの対処をするよりも早く、である。手慣れたものだった。
「はい、オーケーよ。組原、ちゃちゃっと上から下まで洗っちゃって!」
「お、おい! この馬鹿、離しやがれッ! これから緒形のクラス担任と、二年三年の学年主任らを相手に事情説明しなきゃならないんだよ、俺は! 時間ねぇんだよ、勘弁してくれよぅ!」
 秋前が組原にゴーサインを出す時になって、ようやく、佐々木はうんともすんとも身体の自由が利かないことを理解した。尤もらしい理由を並べ立てて、拘束の解除と解放を要求するけれど、当然、それが聞き入れられることは有り得ない。
「まぁ、何だ。煙草とか、思い人の靴箱にでも放るつもりで気持ちを書き綴った陳腐なラブレターとか、明らかにまずいものが内ポケット辺りから出てきた場合も華麗にスルーで決めてやるから、大人しくしてな」
 組原は佐々木のポケットというポケットを上から下まで調べて、中に入っていたものを全て取り出していった。それどころか、ズボンのポケットから取り出した財布の中身まで、組原はご丁寧に調べた。胸ポケットに差されたボールペンに、上着の内ポケットの中にあったメモ帳。ポケットの中身にあったものは全て組原の手によって取り出されたわけだった。
 その一つ、メモ帳をパラパラと捲られて、佐々木は顔色を変える。
「ちょっと、誰か! おい、誰でも良いッ! 見てないで助けてくれ、何なら礼も弾むぜ!」
「はいはーい、軽くじゃれ合ってるだけだから、戯言には耳を貸さないでね。そこのカップルのお二人さん、立ち見は駄目だよ、流れて、流れて」
 佐々木は必死の形相で助けを訴えるものの、背後から羽交い締めにする格好の秋前が周囲の人集りに愛想を振りまきながらそれを否定するから「もしかしたら」とは思いながらも真に受けるものはほとんどいない。時折、掌をヒラヒラと振る仕草で「向こうへ行け」と威嚇しながら人払いをする笑顔の秋前に、悲しいかな、誰も「止めろ」と突っ掛かってくるものはなかった。
 そんな中、メモ帳からひらりと二つ折りにされた用紙が落ちて、佐々木の表情は苦渋に満ちたものへと変わる。組原が床に落ちたその用紙を拾い上げようと手を伸ばして、佐々木はもう我慢出来ないという風に暴れる。
「馬鹿ッ! おい、見るなッ!」
「まぁまぁ減るもんじゃなし、多少の遅刻もあんたが頭下げれば済むことじゃない?」
 秋前に耳元で口調だけ優しく甘く囁かれて、佐々木の苦笑いは度合いの酷いものになった。ガッシリと佐々木の首に決まったホールドは少しも力が緩むことはない。さすがの佐々木も「もう手段にこだわってはいられないな」という諦めと決意の交錯した顔をする。
「誰か! このナイチチ横暴横柄暴力娘を何とかしてくれよ! 三年の天文部の副部長、秋前加奈見ってナイチチだ!」
 秋前の個人情報と、それに伴ったあることないことを人でごった返す購買前の廊下で声を大にして叫びだした佐々木に、さすがの秋前も冷静さを失う。しかしながら、挑発をして隙を窺おうという佐々木の、ある意味、捨て身の行動は完全な逆効果に繋がった。キリリキリリと一段と締め上がるホールドに、佐々木は苦悶の表情を見せる。
「チービッ、誰がナイチチだって?」
 自力で脱出する術がほぼ全て断たれてしまった今、佐々木はギブアップを告げ何もかも白状をするか、蒲原との間に入る緩衝材たる組原に救いの手を求めるしかない。ある意味、組原の役割は蒲原に限らず秋前が他者との間で度を超して何かをやらかしそうになった際に、その間に割って入って秋前を宥め賺すことである。
 何より、組原に助けを求めることで、秋前ら天文部に対して自分の口から宣告したくないことを宣告せずに済むかも知れない可能性がある。その可能性が捨てきれない以上、佐々木は組原へと助けを求める選択肢を掴み取る。
「お、おい、組原先輩さんよ! あんた、熱暴走副部長のブレーキ役なんだろ、何とかしてくれよ! そろそろ洒落になってないぜ!」
「悪いな、そいつはちょっと出来ない相談だ。俺もお前の言動に不審な点を感じる」
 組原はそう佐々木に向けて言いながら、二つ折りにされたメモ用紙を拾い上げた。それを秋前へと手渡すと、組原は再びメモ帳へと視線を落とす。秋前も秋前で、佐々木の首を締め上げる格好のまま、器用にそれを受け取り、開くのだから佐々木の劣勢は極まっていたのだろう。
 しかし、組原の視線がメモへと落ちた矢先のこと。唐突に佐々木は秋前のホールドから解放された。
 取り敢えず、佐々木は組原の手の中にあるメモ帳を奪い返そうとしたのだろう。組原へと利き手を伸ばしたわけだった。しかし、組原にトンッと一歩後退されて体勢を崩されると、そのまま佐々木は伸ばした腕を絡め取られる。そうして、佐々木はあれよあれよと言う間に、組原にホールドを掛けられた格好だった。
「……佐々木、言えよ、何隠してる?」
「クソッ、離せッ、あんたら揃いも揃ってどこの関節技同好会に所属してんだよッ! それとも掛け持ちで護身道部とか何かやってんのかッ! うぐぐぐ……、天文部は足掛けだろッ、あんたら」
「佐々木、……ここに書いてあることってのはホントなの?」
 組原に羽交い締めにされる格好で足止めを食らい喚き散らす佐々木を黙らせ、尚かつ、その視線を秋前へと釘付けにさせたその口調は廊下を漂う空気の温度が「下がったかな?」と、体感で錯覚させるほどの迫力を伴っていた。
 もう観念したのだろう。佐々木はばつの悪い顔をすると、抵抗を止めて大人しくなる。
「俺としてはあんたらがまだその情報を得ていなかったことの方が驚きだよ。朝方、廊下でうちの教師陣がそのことについてバタバタやったらしいから、知ってる奴らは登校してきた段階である程度のことは知ってたと思うぜ」
 組原が佐々木のホールドを解除しても、佐々木は深い息を吐き出し覚悟を決めた様子で、逃げに転じることもない。そして、脇を擦り抜けて行って、秋前からメモを受け取る組原に噛み付くことも佐々木はしない。「緒形が病院脱走」だとか「行方不明であることを穏便に説明」だとか、そういうことが走り書きされたメモを見られてしまった以上、そして、逃亡が許されない以上、なるようにしかならないことは佐々木は悟っている様だった。もちろん、開き直ったとも言える。
「どういうことなのか、今ここで、詳しく説明しなさいよ?」
「それが人にものを頼む態度ですかねぇ、秋前先輩?」
 秋前の言動にはほとほと呆れ果てた。
 まさに佐々木はそんな態度を前面に押し出すお手上げのポーズで首を左右に振って見せた。それは冷静さを欠く秋前を冗談めかして窘めた佐々木の、ある意味、決死の行為である。そして、もちろん、それは佐々木の本音ではない。
 しかしながら、残念なことに、その言葉に込められたメッセージを当の秋前が理解することはなかった。
「……なんてな。だから、俺は今から事情説明しに行かなきゃならなくて、時間も」
 戯ける佐々木の様子なんて目に入っていないかのよう。秋前は佐々木の胸倉を掴むと、鬼の形相に無言の圧力を伴わせて要求する。ついさっきの「ナイチチ」云々で挑発した時などとは比較にならない本気の目を秋前はしていた。
 佐々木は慌てて弁明をする羽目になる。内心では凄まじい恐怖を覚えたことは言うまでもないだろう。
「生徒会からの通達は天文部の部長さんのところに行ってると思う、……多分! 俺は天文部の部長さんのことなんざ知らないけど、そいつがまだあんた達に知らせていないって言うのには何か理由があるんじゃないのか! ……俺の口からペラペラ喋るようなことじゃねぇし、軽口叩くみたいにいっちまったら不謹慎かも知れねぇなって思ったから、さっきだって押し黙ったんだぜ?」
「秋前、ここでこれ以上、佐々木を足止めするのは佐々木の言った様に洒落じゃすまないかも知れない。あいつには緒形の担任達に対する事情説明を、俺達に代わってやって貰わなきゃならないんだ」
 その佐々木の弁明が理に適ったものかどうかはともかく、まだ納得の行かない顔をする秋前を宥めたのは組原だった。佐々木に取ってしてみれば、ようやく、ブレーキ役たるその役目を組原が果たしたわけでもあった。
 秋前が胸倉を掴んだ手を離し、佐々木はそのやり取りで乱れた身なりを整える。
 秋前は素直に「ごめんなさい」とは言えない性格なのだろう。佐々木の肩を「ポンッ」と叩くと、目を伏せ僅かに俯く格好で謝罪の意をそこに込めた。
「佐々木、最後に一つだけ。お前に託された生徒会の総意はこの件をどうするつもりなんだ?」
 組原の質問に、佐々木は声を潜める様にして答える。秋前と組原がまだ緒形のことを知らなかったことを踏まえた上で、その行方不明の事態に広めない様にするための措置である。
「取り敢えずは大事にしない方向で行くことにはなってますよ。緒形のことに関して言えば、警察に捜索届けとか出さずに、二三日はこのままやり過ごす方向で。生徒会の方でも朝方から捜索隊が代栂の元町の方まで行ってますし、……それで見つかれば万々歳ってね」
「判った。その、今回は、……悪かったな。宜しく頼む」
 組原は秋前のことを丸々含めて謝ったのだろう。「宜しく頼む」とはもちろん、緒形の説明をしっかりとやってくれという意味である。今の今まで「散々に邪魔をしてくれやがって、それかよ」と、佐々木はさすがに苦笑いを隠さない。
「はいはい。俺の緊張を解すのには良いパフォーマンスだったですよ、ホントにね!」
 最後の最後に込められるだけの嫌味を込めて言うと、佐々木はヒラヒラと手を振り職員室のある方へと足を向けた。


 夕暮れの時間になって第二来賓室が真っ赤に染まり、緒形はその初めての感覚に目を覚ました。
 夕焼けの真っ赤な色に染まる室内は緒形の寝起きの目には眩しいらしい。緒形は何度も目を擦りながら、ちょうどソファーの真向かいに当たる西日の差し込む硝子窓から目を伏せる。徐々に目が慣れて、緒形が真っ先にやったことは時計の時刻を確認することだった。
 杉代と約束した時刻まではまだ時間がある。尤も、時間があるとは言ってもそれは二十分程度のもので、校内をあちこち歩き回るにしても何をするにしても中途半端な時間ではあった。緒形もそれが判っているから、しばらくは上半身を起こしてソファーに座る状態のまま、キョロリキョロリと室内の様子に目を走らせていたのだろう。しかし、物珍しさがあるわけでもなく、そこにいてもすることは何もないと判断したらしい。
 緒形は足の使い方を確認するかのような慎重な面持ちで立ち上がると、確かな足取りで廊下へと足を向ける。
 廊下には心なしか、ひんやりとした空気が漂っていた。緒形が肌寒さを覚えるほどのものではなかったが、それは人気がなく閑散としていたことと、緒形の状態が寝起きだったという状況が影響したのだろう。
 時折、階下から人の声が響いて来るものの、取り敢えず、第二来賓室のある三階に人影が見当たらなかったことが緒形の背中を押した形だ。緒形は目的地と自分の居る場所との位置関係を腕を組んで過去の記憶に求める。
 緒形が目的地と決めた場所は天文部の備品倉庫だった。
 記憶を辿るとプツリと途切れ、また、そこから完全に自分の感覚へと切り替わる場所。
 過去の緒形奈美が積み重ねた記憶の中から、その位置関係を把握出来る要素を拾い集めてゆくと、すぐに進むべき進路は決定した。怖じ気づく要素は何もない、緒形は泰然自若とした足取りで備品倉庫へと足を向けた。それは杉代から「勝手に歩き回るな」と注意を受けてはいなかったことも大きかった。注意を受けていなかったからこそ、緒形は僅かな時間の余裕を使って、備品倉庫へ行ってみようと考えたわけだ。
 予め、眠りに落ちる前に杉代が注意を促していたのなら、緒形は間違っても勝手な行動になど出なかっただろう。
 そして、運悪く、緒形は緒形の顔を知る男子生徒と備品倉庫へと向かう途中で擦れ違う。
 男子生徒の名前は若山芳典(わかやまよしのり)と言った。
 緒形奈美のクラスメイトであり、さらに言えば、魔術研究会に所属する蒲原の関係者である。もちろん、既に緒形失踪の噂を耳にしていて、廊下で緒形と擦れ違った際には目を大きく見開き、これでもかというほどに驚いた表情を見せた。
 しかしながら、そんな若山の表情も緒形の目に留まることはなかった。
 廊下の中央に立ち塞がるかのような形で制止し、ジロジロと注目を向けた若山を風景の一部か何かと捉えたわけではない。しかしながら、今の緒形の目には「もしかしたら……」と注目を向ける人間も、全く微動だにすることのない無機質の扉や廊下の天井にある蛍光灯も、何ら自分に影響を及ぼさないものという認識だった。
 緒形が若山の存在を強く不審がったのは、若山が等間隔の距離を置き緒形の後を尾行するようになってからだった。さらに言えば、若山の存在を過去の記憶と照らし合わせたのはさらに時間が経ってからのことでもあった。
 天文部の備品倉庫へと続く廊下の途中、ちょうど階段を上り終えた所で、不意に緒形は靴音を消す。
 一方の若山は階段を上る緒形の背中を追いながら、慎重に距離を保つことを心掛けていた。緒形が階段途中の踊り場へと差し掛かったなら、ちょうど自分が階段へと差し掛かる位置に来る様にだ。発見されてしまっては元も子もないわけで、先を進む靴音を頼りに、行く方向を探りながらである。そして、それは緒形の靴音を追って廊下のT字路に差し掛かり、靴音が進んだだろうその先の様子を若山が窺った時のことだった。
 若山の背後から、声が向けられる。
「……何か用かな?」
「ッ!」
 若山は予想外の事態に思わず飛び退いたぐらいだった。
 微塵も後ろを気にする素振りを見せない緒形の様子に、若山は完全に油断していた形でもあった。
「わたしに好意を持っくれていて、こんなストーカー紛いのことしているって言うんなら、ちょっと趣味が悪いんじゃないかな。……嫌いになっちゃうかもよ?」
 そう話して見せながら、緒形に若山を警戒する態度はなかった。感情の起伏のない淡々とした口調もそう、それを告げる態度には相応しくなかった。少なくとも、若山がクラスメートとして見てきた緒形の姿の中には存在しなかった。
 若山は「はは……」と苦笑いに限りなく近似した笑い声を漏らす。それは「何を見当違いな科白を口にしてるんだよ?」とでも言いたげなものだった。若山はトントンと靴の踵でリノタイルの床を叩くと、真顔で緒形に向き直る。
「言いたいことは色々あったし、何より、失踪中とか脱走したとか噂が流れてたから、聞きたいこともあったんだわ。まー、ほとんど話したこともないけど、一応はクラスメイトなわけだし、俺らの活動が迷惑掛けたのは事実だから、一言「迷惑掛けて、すまなかった」って、最初に謝ろうと思ったんだけど……」
 一度そこで言葉を区切ると、若山は「すぅ」と小さく息を飲み、次の言葉を口にするための勢いを溜めた格好だ。
「誰だ、お前?」
 そう強い口調で問い質した若山には一寸の迷いもなかった。見据えるその瞳もそうだ。
 若山は眼前にいる女が緒形奈美と寸分違わぬ見かけを持った別の誰かだと確信しているようだった。
「……わたしは緒形奈美じゃないかな? 若山君」
 若山を不思議そうな目で注視した後、そこに迷いがないことを理解すると緒形は僅かに顔を強張らせる。その若山の迫力に押されて……と言うわけではないらしく、緒形が若山を見る目にも俄に険しさが灯った。
 パッと聞いただけでは「何か、達の悪い冗談でしょう?」とでも笑い飛ばしてそれまでかとも思われるようなやり取りながら、双方、既に冗談を言い合っている雰囲気を伴ってはいない。
「いや、どうだろうな。多分、……違うよな」
 そう言いながら、若山は相違点について自問自答を繰り返した。
 傍目にはクラスメートだった頃の緒形と寸分違わない。
 制服のタイの結び方もそう。クラス対抗綱引きの時に何の気なしに緒形を見て気付いた心なし内股の癖もそう。赤い夕焼けに照らされて真っ白に見える横顔もそう。何が違うと、若山は具体例を挙げることが出来ない。
 だから、若山が緒形を「緒形でない」と述べる理由は酷く曖昧なものに終始する。
「お前は、……どう言うのが適当なのか解らないけど、少なくとも、お前は俺の知ってる緒形奈美じゃないよ。緒形奈美だった痕跡もないよ、お前。……雰囲気が変わったとかそう言う話じゃないんだ」
 所々、言葉を句切ってみせて、何度も何度も上手く説明出来ないことが歯痒いことを仕草に出して体現した。頭を掻きむしる様にした仕草もそう、大袈裟な身振り手振りを交え、その勢いに任せて時々のフィーリングにあった言葉を口にしようとする様もそうだ。若山の言動にはその「どう言うのが適当なのか」を模索する必死さが滲み出た。
 緒形はその一挙手一投足に注目していて、その相違点を感じる理由を貪欲に読み取ろうとしていた。引いてはそれが「緒形奈美」の振りをする物真似を完全なものへと近づけることに繋がるのだと、理解していた。だからこそ、緒形は若山に危害を加えようとか、その邪魔をしようとか、考えなかったのかも知れなかった。
 しかしながら、結局、若山がその具体例を示すことは出来なかった。
「言葉にして表現しづらいけど、全く別の、誰か違う人間の様だぜ、お前」
 的確にことを言い当てられたかのような緒形の沈黙が酷く印象的だった。そして、同時にその対処に困る緒形の強張った表情も酷く印象的だった。若山を見る目は冷たく、まるで「敵」でも見るかのような棘が鏤められている。
 その真相を確かめようと緒形を睨み据える若山に対して、不意に緒形は挙動を見せた。しかしながら、その緒形の、若山へと接近を試みた挙動は邪魔者の介入によって中断される。
「若山。お前、こんな所で何してるんだ?」
 若山は思いも寄らない方向からの声に「ビクンッ」と身体を震わせた。緒形の突然の挙動に目を奪われた形だったからこそ、それは尚更だった。声に呼ばれるまま、階段の踊り場へと目を落とすと、そこには若山や緒形に古典を教える国語教師、里藤がいた。
「里藤先生! いや、緒形が……」
 そう言って振り返った先に、緒形はいなかった。
 若山が里藤と呼ばれた小柄な教員に名前を呼ばれて目を離したその一瞬の間に、緒形は若山の視界から消えたのだった。若山は真昼に幽霊でも見たかのような顔だった。廊下に隠れることの出来る場所はなく、また緒形が若山に気付かれないよう、靴音を消し若山の脇を擦り抜け階段を上っていったのだとしても、里藤にはその姿を見られたはずなのだ。
「……緒形? 緒形がどうかしたのか? 校内に緒形が居たのか?」
 若山の口から緒形の名前が挙がったことに、里藤は顔色を変えた。
「あ、……いえ、何かの見間違いだったみたいっす。後ろ姿を見掛けたような気がしたんですけど、ほら、ここ全く人気ないですし」
 そう里藤へと切り返しながら、若山は同時にその心中で「緒形は幻覚なんかじゃないはずだ」と言っていた。だから、口に出して里藤へと向けていた言葉は、半分、自問をしているに近いものでもあった。
「そうか、……警察による探索だとか大事になる前に見つかるといいな」
 ぬか喜びだったことを気にした様子もなく、里藤はスパッと気分を切り替えた様子だった。端から心の奥底では「緒形が校内にいるはずがない」と思っていたのかも知れない。緒形に似た容姿をした赤の他人を、緒形と見間違えただけだろうと思っていたのかも知れない。
「ホントっすよね、何事もなければ良いっすよね」
 歯切れ良く里藤に同意をしながら、若山の内心にある混乱は半端なものではなかった。動悸が激しくなっていくのも、若山自身判っていたし、それが混乱から来るものであることも判っていた。
 何度も何度も、若山は頭の中で緒形の背を追ったルートを確認し、実際に緒形と会話をしたその内容を反芻した。
 間違いなく「緒形と会話をしたのだ」と若山の思考は結論づける。
「そうだ、間違いはない」
 しかし、その結論に行き着けば行き着くほど、若山の思考の混乱はその度合いを酷いものにした。
「まぁ、若山も校内をうろついてないで早く帰れよ。後、私物が置きっぱなしになってるのかも知れないが、備品倉庫にはしばらく立入禁止だからな。くれぐれも取りに入るなよ?」
「嫌だな、判ってますよ、里藤先生。少なくとも会長の停学処分開けまでは大人しくしてますって」
 普段の状態で里藤と会話をしていたなら、きっと「こう返しただろう」と推測される言葉を若山は平静を装いながら、口にしていた。カラカラと笑い声を立てた、そのわざとらしい空笑いが「ばれやしないか」と内心、不安を覚えてはいたが里藤がそんな些細な異変に気付くはずもなく、事態は何事もなく収束した。
 里藤が離れてゆくその背を目で追うこともなく、まして、帰宅する様子もなく、若山はジッと緒形が存在していた廊下の先へと目を向けていた。その若山の視線の先には天文部の備品倉庫があったが、若山はその備品倉庫へと足を向けることをしない。
 今になって、若山は緒形に対してもの恐ろしさを感じていた。備品倉庫へと足を向け、立入禁止のテープを払い除けて中へと入り、そこに緒形の姿を見付けたら、何かまずいことが起きる気さえした。




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