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Seen01 オーバーロード


 ドタンッと音を響かせて、緒形は暗い病室のベットの上から転がり落ちた。
 カーテンの合間から人工的な屋外灯の光が入るだけの病室は薄暗く、緒形はその闇の中で藻掻く様に呻き声を上げる。
「うぅッ!」
 まるで馴染まない身体の感覚を、今この場で必死で馴染ませようとしている様に、緒形はただただ手足を伸縮させていただけだった。そこに再びベットへと戻ろうとする動きだとか、起き上がろうとする動きだとかを見て取ることは出来ない。結果、膝を立て、肘を付き、緒形は床を這うかのような動きになる。
 代栂中央高校で倒れた緒形が運び込まれた病院は代栂町にある小さな市立病院だった。
 夜勤の看護士、非常勤の医者、双方合わせてもなお指折り数えられるほどしか人数のいない小さな病院である。病室の数にしても十に満たない程度のものだ。代栂町が発行する医療ロードマップで緊急病院に指定されているものの、そこで大掛かりな手術などが執刀出来るような病院だとは言えなかった。
 尤も、緒形に外傷はなく、健やかな寝息を立てる様子からも、これといった異常を見受けられなかったのだ。倒れた時間帯が夜間でなく、高校の保健室が開いていたなら緒形はそこのベットで寝かされることになっただろう。
 緒形は床を藻掻く様に這う間に、机を支える足を蹴り飛ばす格好になる。
 そうして生まれた振動が机の上の花瓶を倒し、再度、室内には物音が響き渡った。それは「ガシャン!」となる陶器の割れる音ではあったものの、夜勤で残っていた看護士にはそれが硝子窓を割る音にでも聞こえたらしい。
 バタバタと足音を響かせ、けたたましく扉を開くと、看護士は緒形の居る病室へと慌ただしく入室した。硝子窓を割って、誰かが侵入してきたでもなく、また、緒形が脱走を試みたでもないことに、看護士はホッと安堵の息を吐いたのだが、それも束の間のこと。看護士は床に横たわり、ジタバタとする緒形の様子に声を荒げる。
「緒形さん! まだ眠っていなきゃ駄目よ!」
 それを言葉だと認識出来なかった緒形はキョトンとした顔をして、その甲高い音の主を注視する。それが自分に向けらたものなのだと理解することは出来たのだろう。そして、数秒の僅かな間を置き、緒形はその音の持つ意味を理解する。
「ここは一体どこなのか?」
 それを思索すると、同じように数秒単位の僅かな間を置き、緒形はそこが「病院」と呼ばれる類の施設であることを理解する。言えば、間に通訳を挟んで異文化の相手と会話をするかのような感覚だった。
 音を言葉と認識するプロセスや、緒形自身が行う思索について、それが持つ意味、それに対する答えというものは数秒単位の僅かな時間を置いて「返る」形だった。
「緒形さん、大丈夫? ここがどこか判る?」
 そんな緒形の様子をまざまざと見せ付けられて、看護士もさすがに何かおかしいと思ったのだろう。看護士にしてみれば、緒形が言葉に対する反応を見せないことが特に気に掛かったことだった。
 その看護士に対して「近付くな!」と威嚇をしようとすると、無意識のうちに伸びた腕が「自分自身の機関なのだ」と理解するのにも緒形は時間を要した。
「近付くな!」
 先程、考えていた威嚇の言葉が遅れて緒形の口から放たれた。
 それを発した当の本人である緒形自身も、その声に驚いた様子を見せた。一瞬、その聞き慣れない声が自分のものだと判らなかったのだ。しかし、自分に近付くことを看護士が躊躇ってみせるから、それが看護士によって発せられたものでないことを緒形は直ぐに理解出来た。一度、ビクッと身体を震わせると、マジマジと眼前の看護士を注視して、緒形は怪訝の度合いを強くする。
「大丈夫だからね。落ち着いて、緒形さん」
 二本の足でしっかりと直立し、また膝を折って屈む体勢を取る看護士を見て、緒形は「この身体ではこうするんだ」と理解した。しかしながら、立ち上がろうとしてみても重力に引かれる身体は重く、結果、緒形は蹌踉めき何度も冷たいリノタイルの床の上へと転がった。鈍い痛みを伴う転倒を嫌って空気中へと浮かび上がろうと藻掻くものの、緒形の身体はその「浮遊」という行為を可能にする作りを持ってはいない。
 緒形は看護士へと手を伸ばす。
 ジタバタ床を這うことを止めた緒形を「精神的に落ち着いたのだ」と解釈した看護士は緒形のその手を優しく掴んだ。相手を落ち着かせるため、引いては不安を覚えさせないため、穏やかな口調と表情で教え諭すように看護士は告げる。
「よし、もう大丈夫だからね。代栂中央高校で倒れて、目が覚めたら真っ暗な部屋だったから驚いた? えーと、身体に力が入らないのかな? 今、起こしてベットに寝かせてあげるから、緒形さんもちょっと協力してね」
 抱きかかえた緒形が頼る様に看護士の首へと腕を回したのも、精神的に落ち着いたと判断する材料になったのだろう。為すがまま、大した抵抗も見せずに緒形は抱き上げられる。
 しかし、事態はそこで暗転した。
「あ、……あ、何? え? ……何をしてるの? や、やめッ」
 異変の始まりは看護士の、そんな当惑の声だった。
 室内には緒形と看護士しかおらず、その「何をしているの?」とは緒形以外に向けられるはずのない言葉である。しかし、当の緒形は看護士の首に腕を回した格好のまま、微動だにしていないのだ。
「出口がないッ! ここは、ここは一体どこなの……?」
 抱き上げた緒形をベットへと放り投げると、看護士は頭を掻きむしって怯えた声を上げる。その目は焦点を結んではおらず、ここにはない何かへと向けられていた。壁際まで蹌踉めく様に後退し「ドンッ」と音を立てたことにも気付いた風はなく、看護士は後退ろう後退ろうと足を動かす。背中に壁の感触を感じているだろうに、そこに壁があることなど認識出来ていないかの様だ。ともあれ、看護士の言動は明らかに何らかの異常が発生していることを示唆していた。
「こっちに来ないでッ! あ、あなた、一体、なん……ッ! い、嫌だッ!」
 ベットへと放り投げられた緒形にしても、その目は焦点は結んでおらず、また、意識を失っているかの様にピクリとも動かなかった。怯えた様に悲痛な声を上げ始めた看護士の様子を一瞥するでもなく、緒形の瞳はただただ天井へと向けられていた。
 当の看護士の異常な行動に対して、緒形が何の反応をも見せることはない。
 それが病室に漂う異様さを際立たせただろう。
「お……、おが……」
 ふっと、看護士の瞳から理知の光が消え失せる。
 するとベットに横たわる緒形が、それに合わせるかの様に身を捩らせた。ベットに両手をついて、まるで「力加減が判らない」と言わないばかり、ぷるぷると腕を震わせながらムクリと上半身を起こすその様子は床を張っていたさっきのものよりか、いくらかマシな動きと言えるのだろうか。
 ともあれ、身を起こした緒形は「ドタッ」と鈍い音を響かせて看護士が床に突っ伏し動かなくなる様をその目で確認した。直後、どこか満足そうな表情を滲ませたのだが、それも束の間のこと。その緒形の表情はすぐに苦渋に満ちたものへと変化していた。
「あくッ、あううぅッ、なぜ? なぜ、何も満たされないの!」
 喉を掻きむしるかの如く首筋に爪を立て、緒形は低い呻き声を漏らした。額に灯る大粒の汗は体調の異常から来るものだろうか。力任せに拳を握り締めて、ベット脇の壁を叩いて「ドカッ」と鈍い音を響かせると、緒形は不気味に笑う。
「この感覚は何? なぜ、理解出来ない? 一致しないものだから?」
 すぐに壁を叩いたことによる手の痛みが襲ってきて、緒形は顔を顰める。
 緒形は看護婦がそうしていたように、見様見真似でベットから両足で立ち上がって見るものの、すぐにベットに腰を掛ける形で座ることになる。ガクガクと震える緒形の両足は重力に引かれることによって体感する「体重」に、まだなれていないかの様だった。それでも、試行錯誤を繰り返して、どうにかベットの方向へと倒れ込むことを回避出来る様になると、緒形はふらふらと病室の出口に向かって進んだ。
 ノブを捻って押すだけで開閉する扉を、全身で体重を掛ける様にして開くと、緒形はどうにか病院の廊下へと出ることに成功する。何度も蹌踉ける形になって、緒形は手摺りが設けられた壁へともたれ掛かる形で移動する羽目になる。しかしながら、その移動自体には何の差し支えがないことを理解すると、緒形の移動速度は一気に向上した。
 平衡感覚が正常に働いていないのか、それとも両足の力の加減が解らず自重に耐えられないのか。当の緒形がそのどちらなのかを理解出来てはいなかったが、そんなことは今の緒形に関係はなかった。
 何度も病院の壁に身体を預けながら、どうにか緒形は廊下の突き当たりまでやってくる。廊下の突き当たりには大鏡があり、その大鏡に全身を映し出されて緒形は激しい敵意をその鏡像へと向ける。鏡に映し出された自分自身がついさっきの看護婦の類だと緒形は思ったらしい。
 手を振り翳して「バンッ」と鏡を叩いてようやく、緒形はそれが自分自身を映しただけの物体だと気付いた様だった。敵意は掻き消えたものの、そこには一段と険しい表情が灯った。ついさっきまでの、徒歩の困難に差し当たって見せていた苦渋の表情など、その一瞬、垣間見せた「険しさ」から比べれば、大したものではなかっただろう。
「これがわたし、これが緒形奈美」
 鏡に映る自分をマジマジと注視すると、緒形はふいっと顔を背ける。緒形が顔を背けて見せた横顔には「その容姿が気に食わない」とか、そう言った類の不機嫌の色はない。そこにあったものは「不機嫌さ」というよりかは興味がない故の、無関心から来る冷たさだった。
 消毒液の匂いに目眩にも似た痛みを覚えながら、とにかく、今はこの場所から去ることが先決だと緒形は考えた。
 しばらくの間、ズル……、ズル……と足を引きずる音が市立病院の廊下には響き渡った。


 立ち読みしていたファッション誌から時計へと視線を移し、男は大きな欠伸を噛み殺した。
 コンビニの店内は人も疎らで、学生アルバイトだろう店員にしても「暇だ」という表情でレジの中に立っている。「二十四時間営業で本当に元が取れているのだろうか?」と思えるほど、夜間の人の入りがないコンビニの一つがそこだった。
 代栂町でも、取り分け、三階層から四階層の背丈が低く横幅が異様に広いタイプのアパートが密集する地域に位置していて、さらに言うなら人口密度が高いだろう場所だ。地理的に不利な場所だとは思えないのだが、やはり、平日深夜に出歩くタイプの客層がいないことが問題なのだろう。
 この地域に生活する人間のほとんどが隣接都市である櫨馬に仕事場を持つサラリーマンであったりOLである。通勤時間の関係からか、一際、平日の夜の更けていく速度が早いような錯覚を起こさせる場所でもある。朝の訪れが異様に早いともよく言われる代栂町だったが、ここは軒並み午前四時前後から朝の活動が始まる場所だった。櫨馬のベットタウンと言われる代栂町で最もベットタウンとしての傾向が顕著な場所だといっても過言ではないかも知れない。
 男の格好は膝下までのハーフパンツ姿に、上はティーシャツにパーカーを羽織っただけのラフなものだった。手にはコンビニ弁当の入ったビニール袋を持っていて、夜食か晩飯を買いに出てきただろうことは一目瞭然だ。雑誌を棚へと戻すと、男は出口へと足を向ける。
「ありがとーございました、またお越し下さいませー」
 コンビニ店員の間延びした声に送られて、コンビニを後にすると、男はコンビニを出てすぐの位置で足を止める。そして、ポケットから煙草の箱を取り出した。トントンと箱を叩いて手慣れた様子で煙草を一本取り出すと、そいつを口に銜えてジッポで火を付ける。煙草に火を付け終わったジッポを「カチンッ、カチンッ」と開閉して弄ぶ男の様子は手持ち無沙汰の様にも見えた。
「雑誌、買ってくりゃあ良かったかな」
 男はボソリと呟くと、コンビニ駐車場脇の壁にもたれ掛かる様に体勢を取った。星の見えない夜空を見上げて、男はそのままズルズルと腰を下ろす格好になる。煙草の煙を吐き出して、何をするでもなく夜空を見上げるその様子は自宅に帰ることを嫌っている様にも映る。
 腰を下ろした際に、男はハーフパンツのポケットに異物感を感じた。それがすぐにポケットへと放った「携帯」であることには気付いた様子だったが、それを取り出す男の挙動には「一服の間、することがないから」と言った退屈感が漂った。そうやって液晶画面を確認したものの、メールなどの着信はなかったらしい。男は携帯の液晶画面を用いてワイルド感を演出した髪型の様子を確認し、所々、セットをし直していたがそれにもすぐ飽きたらしい。
 再度、視線を夜空へと向け直す。
「何か面白いことでも起きねぇかな」
 一服を終え、男が家路に着こうと腰を上げた時のこと、それは起こった。
 男は自分の視界の隅に制服姿の女を見付ける。
 女は塀に手を付いて、ヨロヨロとした足取りだった。前方から歩いてくるその女の様子がおかしいのは誰の目にも一目瞭然だっただろう。次第次第に全容を確認出来る様になった女の表情が苦虫を噛み潰したようなものだというのもそうだったが、そもそも靴を履いてはおらず、足取りが不確かだというのが大きかった。
 男には「厄介事っぽいし、関わり合いにならない方が良いだろう」と判断する以前に、女の格好に顔を顰める理由があった。それはその女が男と同じ代栂中央高校の制服を着ていることだった。
 男は思案顔をして腕を組み、数秒に渡って「どうするべきか?」を熟考した後、その女に拘わる選択肢へと進んだ。男の性格としてある「面倒見の良さ」がその背中を押した形でもある。同じ高校の生徒だという意識も、その選択をする上での大きな要素の一つだった。
 尤も、男にはその女の顔に見覚えはなかった。だから、当然、男は女の名前が緒形奈美だとは判らない。
 トントンと駆け足で近付いていって、男は話し掛ける。
「おい、お前、……何かあったのか?」
 緒形の反応は男から見て極端に鈍かった。声を掛けてから、緒形が実際に顔を向けるまでにかなりの時間を有したほどだ。そして、それは男に「声が聞こえなかったのか?」と錯覚させたほどだった。
 男が緒形の肩へと手を伸ばし、緒形を立ち止まらせようとした矢先のこと。
 何の前触れもなく、全く唐突に、クルリと緒形は男へと向き直る。
 男の方が緒形よりも頭一つ身長が高いため、緒形は自然と男を下から見上げる形になる。
「ここが焼ける様に苦しいの、これは一体何……?」
 上から見下ろす格好の男からは緒形が「ここ」と言って示した場所は判りづらかった。ちょうど、緒形は自分の喉元を鷲掴みにする様にしていて、それが尚更、男には理解し難かったわけだ。
 男の慌てふためく様子を前に、緒形は舌をググッと突き出して見せると、必死の表情をして訴えを続ける。男が理解をしてくれないから、緒形の箇所を示す行動はより具体的に器官を特定しやすいものになったわけだ。
「これがザラザラして、気持ち悪い。これは……渇き? これが渇きなの?」
 緒形の嗄れた声は体調の悪さを顕著に表しているような気がして、男は当惑した。
 言葉を話したことで、尚更、女はその喉の渇きをまざまざと実感したのだろう。苦しそうに呻き声を漏らす。
「……うぅッ! ねぇ、この「渇き」っていう感覚はどうやったら取り除けるの!」
 再度、喉元に手を伸ばす緒形を見て、男はギョッと目を見開いた。
 緒形の喉元には爪を立てた後だろう、血の滲む様子がいくつも見て取れたのだ。
「あー……、喉、乾いてるのか? 水、欲しいのか?」
 男はそう緒形に問い掛けながら、反射的に緒形の手を取り、喉に爪を立てるのを止めさせようとする。
 緒形はそれを厭う様子も見せず、ただ黙ってなすがままになっていた。緒形は男に両腕の自由を奪われた格好だったが、男のその一言に目を見開いたまま、目から鱗が落ちたという様子だ。
「水? あぁ、……水か。そうか、水を飲めば、この渇きは癒されるのか」
 渇きを癒す確からしい方法を明示されて、男が呆気にとられるほど、緒形は一瞬の内に冷静さを取り戻した。
 どこか惚けたような顔をする緒形は「水によって渇きを癒した」確かな記憶にでも思い当たったのだろう。その感覚を思い起こしているかの様に、緒形は合点のいった顔をして何度も何度も頷いた。
 それは誰でも一度は必ず感じたことがあるだろう。そして、それ故に誰もが持っているだろう記憶だ。なぜ、渇きを感じていながらそこに辿り着けないのか、それを怪訝にさえ思えることだ。
「ちょ、ちょっと待ってろよ! 今、自販機で何か買ってやるから!」
 男が足を向けたのはコンビニではなく、煙草を売る自販機と並んで存在していた飲料水を売る自販機だった。その方が手っ取り早いと思ったのと、自分の姿を緒形の視界の中に置くことで緒形を安心させるためだった。
 男の目に映った緒形は明らかにおかしかった。緒形が冷静さを取り戻し、それによって当惑が薄れてきた辺りから、男はそれをまざまざと感じた。水が喉を潤すものだと判らない辺りが、それを顕著に示す良い例だろう。
 男は自販機でミネラルウォーターを買うと、その封を切って緒形へと手渡してやる。
 既に、水が喉を潤すものであると思い出していたのか、緒形は取り立てて慌てる様子なく、男の行動を目で追っただけだった。
 余程、喉が渇いていたのだろう。
 男からミネラルウォーターのペットボトルを受け取ると、緒形はそれを喉を鳴らして全て一気に飲み干した。
 空になったペットボトルをコトンとアスファルトで舗装された道の上に置くと、緒形はそのまま道の上に腰を下ろす。そして、どこかキョトンとした感じの顔をして、じっと男を注視して無言になった。
「……何だよ? 俺の顔に何か付いてるか?」
 そういって怪訝な表情を返して見せてから、男は様々なことに気付いた様だった。言ってしまえば「どうして、親切にするのだろう?」と、緒形が男を不思議に思ったとしても何らおかしなことではない。
 酷い話ではあるものの、男の様子はお世辞にも誰彼構わず他人に親切を働く類の人種のものには見えないわけである。人相然り、言動然りだ。
 一つ大きな息を吐くと、男は緒形の顔を上から覗き込む様にして尋ねる。
「お前、代栂中央高校の二年だろ?」
「……?」
 首を傾げて見せる緒形の疑問の顔を、男は「どうして判ったの?」と聞かれている風に感じたらしい。
 緒形が何かしら言葉を返すよりも早く、男は緒形の胸元のタイを指して問う。
「タイだよ、そのタイの色は二年の色だろ? お前、名前なんて言うんだ?」
「わたし、……わたしは緒形奈美?」
 真剣な顔付きをして、自分の名前を疑問系で問い直した緒形の様子は誰の目にも尋常に映るものではなかった。
 例外なく、男も緒形のその言動に顔を顰める。
「……大丈夫か、お前? 記憶喪失……って奴か? 頭とか、強く打ったか?」
「判らない。……ただ、求めると、時間を置いて、記憶は少しずつ、返ってきます」
 辿々しく答える緒形の調子に、男は深い溜息を吐き出した。「レベルの高い厄介事に巻き込まれた」と、そう思ったのだろう。男がまとう雰囲気の中には後悔が色濃く滲み出ていた。男はポンと緒形の肩に手を置き目線の高さを合わせると、身振り手振りを交えて「これからやるべきこと」の説明を始める。
「いいか? ここをずっと真っ直ぐ行くと、片道二車線の車道に突き当たる。横断するためには歩道橋を使わなきゃならない道な。そこに突き当たって右に曲がり、道に沿って歩くと二百メートルも行かないうちに交番があるから、そこで「記憶喪失になったんですがどうしたらいいですか?」って警察官に尋ねてこい。後はトントン拍子で解決に向かうからよ」
 取り敢えず、男としてはそれに対応する緒形の出方を窺ってみようという格好だった。
「右はこの手の方向……」
 右という単語の意味を確認する様に手を挙げる緒形の様子に、男は深い溜息を吐いた。
「これは駄目だ、放って置けない」
 真剣な思案顔で様々なことを確認し反芻する緒形に、杉代はまざまざとそれを感じずにはいられなかった。
「ちッ、冗談言ってるわけじゃなさそうだな。良いか? 俺は三年の杉代輔(すぎしろたけし)だ」
「杉代先輩、ですか。有難うございました、その、……え、と、助かりました」
 杉代が話しかけるまで、じっと顔を注視していた緒形は名前を尋ねたかったのかも知れない。杉代の名前を聞くと、緒形はクッと顔を上げて感謝の言葉を口にした。表情自体は「無表情に近い」と言ってしまえるほどに硬かったものの、ぺこりと頭を下げられて、杉代も悪い気はしなかった様だった。
 尤も、同時に、当の杉代は相手が記憶喪失だというなら、そのまま話をしていても埒があかないと思ったらしい。緒形に対して身分を確認するに手っ取り早い生徒手帳の在処を尋ねる。
「……緒形、お前、生徒手帳は持ってるか?」
「……生徒手帳」
 緒形は鸚鵡返しに呟いて、思案顔のまま静止する。
 杉代には殊更、その遅鈍な緒形の反応が目についた。下手をすると、ピクリと制止したまま動かなくなるのだ。けれど、意思の疎通が出来ていないわけではない。ただ、発した言葉を理解するのに緒形は多くの時間を要しているのだ。
 杉代は「参った」という表情を隠そうともしない。
「自分の顔写真が張られた緑色のこんくらいのサイズの手帳だ」
 杉代は両手で長方形を作って、そのサイズを具体的に示して見せた。さすがに緒形の制服へ手を伸ばして、胸ポケットや内ポケットを探るわけにはいかず、杉代は自分の胸元をポンポンと叩いて見せて「チェックしてみろ」という旨の仕草を見せる。尤も、鈍い緒形の反応に、杉代は「ちゃっちゃと自分が持ち物のチェックした方が得策かも知れねぇな」と本気で考えたのも本当だった。
「お前ら女子がどこに生徒手帳をしまっているかは知らないけど、大体の奴は内ポケットとかに忍ばせてるらしいぜ」
 そう杉代が指摘してやると、緒形はすぐに制服の内ポケットから生徒手帳を見付けた。
「悪いな、ちょっと借りるぜ?」
 有無を言わさず、緒形の手から生徒手帳をヒョイッと奪い取り、杉代はそこに印刷された住所をチェックする。緒形は生徒手帳を杉代に取り上げられる格好になるものの、キョトンとした顔をして杉代を眺めていただけだった。
「あー……、代栂町東矢代(ひがしやしろ)ってぇと、ここからだと結構な距離を歩くことになるな」
 杉代はポリポリと後頭部を掻くと、その東矢代までの道順を思索しているのだろう。時折、遠目に目印となる建物を確認すると、杉代は「大体の位置は把握出来た」と頷きながら歩き始める。
「おい、緒形、付いてきな。お前を自宅まで送り届けてやる」
 言われるがまま、とてとてと後ろを付いてくる緒形に、杉代は心底「これは駄目だ、放って置けない」と再認識した。
「良いか、緒形? 自宅に帰って親に何聞かれても、俺に自宅まで送り届けて貰ったって話はするなよ。つーか、俺の名前も出すな。生徒手帳の住所を見せて、名前を名乗らなかった親切な人に送り届けて貰ったって言え」
 斜め後ろを歩く緒形にそう念を押すと、緒形は抑揚のない口調でその理由を尋ねる。
「……それはどうしてですか?」
「どうもこうもねぇよ、良いか、判ったな?」
 杉代は突き放す様に言った。どうしてもそれだけは守って貰わないと困るからだ。
 杉代としてはただの気まぐれな正義感を出したことで、変に感謝されることになるのも嫌だったし、他人から自分を見る目を変えられるのも嫌だったのだ。ただの考え過ぎかも知れなかったわけが、杉代としては念を押すに越したことはないとも思ったわけだった。
「あぁ、……後、足が痛いとか、歩くスピードが速いとか、何かあったら遠慮なく言えよ。……休憩するから」
 妙に身長のある子供に話しかける感覚で、杉代は「今、思い出した」と言わないばかりに告げた。


 ギィと金属の軋む音を響かせて、備品倉庫の扉は開いた。
 時刻は早朝。まだ、午前六時を少し回った頃で、朝練に赴く部活動の生徒の姿さえも校内には見付けられない。
 立入禁止と書かれた黄色いテープで出入り口は封鎖されているが、それを取り払って佐々木は備品倉庫の中へと入る。
 外部の光を完全に遮断している暗幕が撤去されていないため、備品倉庫内を歩くには蛍光灯の明かりが必要だ。天文部の緒形が病院に運ばれることがなかったなら、魔術研究会の面々もここで活動したという痕跡を昨夜の内に撤去したのだろうが、小物や蝋燭を始め、ありとあらゆる儀式の後がそこには残されたままになっていた。
 佐々木は取り払った黄色のテープをくしゃっと丸めて一つにすると、それを備品倉庫入り口脇にあるゴミ箱へと放り投げる。そうして、クッと首を擡げる様にして備品倉庫に残る儀式の後を指し示した。
「それで、備品倉庫の何がおかしな感じだって言うよ、幹門(みきかど)?」
 佐々木の後に続いて備品倉庫へと入ってきた二人の男の内の片方が、その佐々木の問いに答える。
「朝方さ、まぁ、……朝方と言うよりも深夜の話なんだけどさ。緒形騒動の影響で持ち帰れなかった儀式の道具の中で、重要なものだけでも回収しようと忍び込んだわけよ。そしたら、なんつーの「一人でここに居ると何かやばそう」って感じの形容しがたい雰囲気が漂ってたってわけ。入り口の扉をさ、パタンと閉めちまうと、何か、こー、開かなくなりそうって言うか、……そんな感じがしたわけよ」
 幹門と呼ばれた男は佐々木に向けて「一人でここに来た時には確かに感じたんだ」と言わないばかり、困ったような表情をして返した。佐々木が備品倉庫へと足を踏み入れた段階で、佐々木も自分と同じ様に「違和感を覚えるだろう」と幹門は考えていたらしい。
 そんな幹門の言葉に、佐々木は呆れた様子を隠さなかった。
 それは佐々木に取って、備品倉庫に足を踏み入れて云々、違和感云々以前の話である。
「……幹門クンよ、昨夜の騒動起こした張本人グループの一人なんだぜ、お前。もうちょっと、こう、反省の気持ちはないものか? せめて、頭を下げて、その重要な道具を取ってきてくれと頼むとかよ。こっちはあの問題児、蒲原さんを含めて、かなりお前らを大目に見てきてんだよ。何だよ、忍び込んだって……」
 敢えて「クン」と他人行儀に呼び掛けて、佐々木は幹門と呼んだ友人を非難した格好だ。
 しかしながら、そんな佐々木の呆れた目つきも何のその、幹門と呼ばれた男はあくびれた様子なく切り返す。
「馬っ鹿、値段張るものいっぱいあるんだぜ、普通じゃ売ってないものばかりだからな。それに、頭を下げてどうのは既にブツが回収されてしまってる場合の最後の手段だよ。うちの部活動の訓辞なんだ、安易に頭下げるなってさ。うちの蒲原会長だって本当に必要にならない限りは頭なんて下げねぇだろ?」
「どんな訓辞だよ、ったく」
 佐々木は吐き捨てる様に言った。
 過去、幾度となく蒲原に、説教、説得をする機会に立ち会って来た佐々木には幹門のその言葉は相当に苛々するものだったらしい。ともあれ、そんな佐々木と幹門の一連のやり取りから、幹門は蒲原の統率する魔術研究会の関係者の一人であることが理解頂けるだろう。
 幹門はポンポンと佐々木の肩を叩いて「そう怒るなよ」と宥め賺した。必要なら、続ける言葉で「今度、元町商店街の屋台ラーメンでも奢るから」とでも言っただろう。
「……にしても、幹門、どうやってキープアウトのテープ破かず備品倉庫の中に入ったんだよ、お前」
 口を挟むタイミングを見計らっていたのか、それとも、二人のやり取りは自分が口を挟むまでもないことだと思っていたのか。ともあれ、ここに来て、佐々木の後について備品倉庫へと足を踏み入れたもう一人の男が口を開いた。
「はは、それは企業秘密って奴だ、把民」
 把民と呼ばれた男の方も、そんな幹門の切り返しに呆れた様子を隠さなかった。尤も、その「呆れ」は幹門一人に向いていたものではなく、言えば魔術研究会そのものへと向けられていたと言っても良い。
「お前ら魔術研究会の構成メンバーはホント変人揃いだよな、つっか、普通じゃない特技を持ちすぎよ。もう一人の二年の……、ほら、あいつ、若山って言ったっけ? あれも針金とか見たこと無いような変な工具とかで簡単な鍵、開けやがるしな。一体どこの世界の盗賊だよって話だぜ、ホント」
「おいおい、こんな気前の良いマイフレンドを捕まえて変人たぁ酷いな」
 幹門は戯けた調子に非難の言葉を乗せはしたものの、自身、自分が変人であることは理解しているのだろう。それが強い口調になるようなことはない。寧ろ、カラカラと笑って、それを笑い飛ばすような雰囲気が強い。
「はいはい、言ってな」
「酷い、酷すぎる扱い!」
 把民にあしらわれて、幹門は直ぐさま噛み付いた。
 一通り、そんなじゃれ合いにも似たやり取りが一段落付くと、備品倉庫には静けさが訪れる。「ははは」と響いていたはずの笑い声もいつの間にか、掻き消えてしまっていて、三人、備品倉庫に佇む格好で押し黙る。
 そんな静けさを打ち破ったのは違和感を口にした張本人、幹門である。
「……朝方さー、ここの様子を見て、何か変だと思ったんだよ。具体的にその違和感を言えって言われても困るんだけどよ。……なんつーか、身体の反応がおかしいって言うか、備品倉庫に足を踏み入れると身体が重くなるって言うか、そんな感じがしたんだわ、俺」
 佐々木、そして把民の方へと向き直って、苦笑いの表情を見せた幹門はその感覚について同意を求めた。
「そして、今、現在もなんだよな」
 不安な胸の内を吐露したのだろう、ここに来て、幹門には答えを求める必死さが滲んだ。
 佐々木はその幹門の感覚に賛同出来ない様で、不服と言うか、怪訝と言うか、ともかく、そんな合点の行かない顔をしていた。佐々木が感じる範囲で言うなら、別段、この備品倉庫におかしなところなどないのかも知れない。
「……なぁ、お前はどう思う、把民?」
 話し掛けにくい雰囲気を佐々木がまとっていたことで、幹門の賛同を求める言葉の矛先は自然と把民へと向けられた。
「なんつーの、確かに、そこはかとない嫌な雰囲気が漂ってるよな? 写真部に、霊感はないけど心霊写真をよく撮影しちまうって名物部員が居ただろ? そいつ連れて来て、ここで撮影させたらびっしり見えちゃ行けないものが映るんじゃねぇの?」
 そんな把民の「どことなく嫌な雰囲気」といった言葉に、佐々木は心中、複雑そうな表情をした。
 自分だけがそれを感じられないのかも知れないと、そう思ったのかも知れない。そして、同時に、佐々木は昨夜の「黒い球体」についてのことを思い起こしていた。そうだ、あの時も、佐々木は見えない側にいたのだ。とどのつまり、感じることが出来ない側にだ。
 十中八九は冗談だろう把民の言葉に、佐々木は便乗して言う。
「生徒会権限行使して、連れてきてみるか?」
 違和感など感じもしない佐々木にしてみれば、その把民の意見はまさに自分自身の感覚の利鈍を判断するら最適な意見だったのかも知れなかった。どんな反応があるかを窺う佐々木ではあったものの、確かに言葉の裏にはそんな意図が見え隠れする格好でもあった。
「でも、俺に言わせて貰えばあれだな。ここは霊がいるような場所の感じじゃねぇのよな」
 幹門が物知り顔でそこに口を挟むと、間髪入れずにそこには把民からのツッコミの言葉が加わる。
「お前には霊感なんてないだろー?」
「甘いね、部活動が活動なだけに、こう見えても心霊スポットと名の付く場所には結構足を運んでるんだぜ? 何となく、感覚で解るよ」
 理由にもならない理由を多いに胸を張った得意顔で口にした幹門は、再度、把民によって軽くあしらわれる。
「はいはい、言ってな」
「だから扱いが酷いってよ!」
 再度、その言葉に幹門が噛み付いて、また備品倉庫内にはじゃれ合いの雰囲気が漂った。その雰囲気は違和感云々から無意識的に目を逸らしているかの様にも感じられるものだ。
 そして、その雰囲気の中で、一人、佐々木だけがその雰囲気に「溶け込めない」という風に、押し黙っていた。険しさを混ぜた表情で備品倉庫室内へと視線を走らせて、まるで備品倉庫の中にある件の「違和感」をその目で確認しようと言わないばかり。尤も、敢えてその行為の理由を挙げるなら、それは手持ち無沙汰からだろう。
 備品倉庫の現状を把握するに当たって、ご丁寧にも備品倉庫の側壁に燭台が設けられていたりと、魔術研究会の備品がコンクリート剥き出しの床の上に置かれているものだけでなかったという理由もあるだろうか。
 そして、佐々木の視線はある一点まで来たところで静止する。表情は強張っていて、口調にもどこか緊張の色が見え隠れする格好で、その視線の先にあるものが佐々木の平静を打ち砕くものだったことを示唆していた。
「なぁ、気のせい、……じゃねぇよな?」
 佐々木は半ば自分の目を疑いながら、しかし、その異常を自分の中で完全に否定出来なかった。その目で把握した備品倉庫の現状から、それを否定出来る材料は何一つとしてなかったのだ。そして、それはその目で見たことが本当に正しいのかどうかを判断する適正な材料がない類のものでもあった。
「おいおい、……時計の秒針、おかしなスピードで動いてねえか?」
 困惑を隠そうともしない佐々木の言葉に、把民、幹門の二人もそれを冗談だとは受け取らなかった。
 佐々木は佐々木で、そうやってその異変を言葉にしてしまえば、急速に備品倉庫中に違和感を覚える始末だった。無意識のうちに一歩二歩と後退ってしまうと、この場で最も冷静さを欠いたのは他でもない当の佐々木だっただろう。明らかに、他の二人よりも佐々木の動揺は大きかった。
 把民が自分の腕時計と壁の時計とを見比べる様にすると、備品倉庫の「時間の狂い方」が少し判った気になる。
「あー、俺の腕時計も……だな。はは、こいつさ、セイコーの今春限定モデルで、恐ろしく精巧な奴なんだぜ? 時刻表示が狂うってんならともかく、確かにこりゃあ針の進み方がおかしいな?」
 秒針の進む速度はどちらも同様に狂っていた。具体的にその秒針の進み方を言えば、それは通常速度の一コンマ数倍に過ぎないだろう。しかしながら、把民の持つ腕時計、そして、備品倉庫の壁掛け時計の双方とも、その速度の狂いは同じなのだった。双方、全く同じ速度で、全く同じ音の立て方で、秒針が進んでいた。
 即ち、時計の針の進み方が狂ったのではなく、備品倉庫を流れる時間そのものが狂ったのだと推測出来た。
 幹門は把民の腕時計を覗き込んで秒針の速度が狂っているのを確認する。
「セイコー、好きなのかよ? バイト代に色付けて貰ったから、ちょっと奮発して「ブランドものを買っちゃうぜ!」って、豪語してなかったっけか?」
 そうやって時間の狂いを認識した幹門が把民に向けた疑問はそれとは全く関係のないことだった。
 把民もその幹門の質問に、何ら疑問を感じていないかの様に平然とした態度で答える。
「時計っつーのはさ、やっぱり時刻を正しく表示してナンボだろ? そして、狂わねぇ、これが一番だと思うわけよ」
 尤もらしい理由を並べ立てた把民の脇腹を小突く様にして、幹門は暴露する。時計という商品としてセイコーのものが一番魅力的だったとかいう以前の、そこに至った経緯をである。
「まー、そのバイト代も、本当の目的は彼女といちゃつく小旅行のためのものだったわけだけどー、敢えなく衝動買いに使わなきゃならなくなったわけだ。短い春だったよな、これこそまさに女心と秋の空って奴か」
「おい、幹門、うるっせぇぞ! その話はするんじゃねぇ!」
 まだ把民の負った傷は癒えていないらしい。把民は過敏に、幹門のからかいの言葉に反応した。例によって、じゃれ合う雰囲気をそこに残しながらではあったが「そのことには触れるんじゃねぇ」と言った把民のメッセージがそこには強く主張されていた。
 一人、佐々木だけが神妙な顔をしていて、この場に際して、そんな具合に笑い飛ばせる把民と幹門の様子をさも「信じられない」という様子だった。尤も、それが努めて冷静さを保つため、敢えて、気を利かせて雑談を交わし始めたものだと言うのなら素晴らしいことだろう。叫んだり、慌てふためいたり、喚き散らしても、問題は解決しないのだからだ。
 しかし、それがこの事態をそのまま見なかった方向で片付けようとする「臭いものに蓋をする」ための行動だと、洒落にならないわけである。プツリと笑い声が途絶えてしまうと、それぞれ三者三様の表情をして押し黙り、備品倉庫には再び重たい沈黙が漂った。
 佐々木はその静けさの中、自分のデジタル式の腕時計に目を落とし、そこにある異常を再確認した。疲労が色濃く混じった溜息を吐き、佐々木は二人に尋ねる。佐々木の溜息は異常をはっきりと確認したことによる精神的な疲労から来たものだっただろうか。
「俺のデジタル表示の腕時計も、時間の進み方がおかしいけど、……どうする? ま、こいつはとんでもない安物だけどよ、少なくとも今まで遅れることはあっても早く進んだことは一度もねぇよ」
 佐々木は自分のデジタル式の腕時計を取り外すと、そいつを把民に向かって放り投げる。
 把民は佐々木の腕時計を受け取って、デジタル式の時計にまで及んだ異常を確認すると苦笑いを隠さなかった。
「どうするとは、何がよ?」
 把民は佐々木が一体何を聞きたかったのかを理解出来なかったらしく、返す言葉でその意図を問い直した。
 佐々木も佐々木で「言葉が足りなかった」と思った様で、間髪入れず、そこに詳細な説明を加える。
「磁場とかなんか、そういう現象の詳細は知らねぇけど、どいつもこいつも同じ狂い方するってのは明らかに有り得ないことだろ? そうすると時間の進み方が狂ったとしか言えないわけだから、今回の天文部と総合魔術研究会の騒動で、弊害として備品倉庫の時間の進み方がおかしくなったっぽいですよって報告書に書いて上に挙げるかって話?」
「まぁ、そんな与太話、まず間違いなく信じちゃ貰えないだろうな」
「……だよなぁ。十中八九、気が狂ったか、頭がおかしくなったって思われるのが関の山だよな」
 把民、佐々木はまるでタイミングを合わせたかのよう。双方、苦笑いの表情で顔を見合わせると、途方に暮れたと言わないばかりに息を合わせたタイミングで深い溜息を吐き出した。
「正直な話をすると、相手になんざしたくはないわけだが、……取り敢えず、謹慎開けたら元凶を引っ張ってくるから、一応、見解を聞いてみることになると思うな。話を判ってくれそうな先輩方には俺から頃合いを見て話をする」
 不機嫌を隠そうともしない佐々木の様子はそれが程度の酷い頭痛の種であることを示唆していただろう。
 蒲原を相手にすることもそう、話の判ってくれそうな先輩方に話を通すこともそうだ。
 どちらも、佐々木にとっての、程度の酷い頭痛の種に違いない。
「元凶ってのは、……もしかして、うちの会長のことか?」
「当たり前だろうがッ! つーか、元凶はお前を含めた魔術研究会そのものな。……ったく、毎回毎回、余計で頭の痛い仕事を増やしやがってからに!」
 何食わぬ顔をして質問した幹門相手に、佐々木は怒りを「押し殺しきれない」といった憤怒の顔で声を荒げた。それを宥めるのは佐々木同様、生徒会に所属する把民の役目の様で、佐々木の怒りは間に入った把民によって静められる。
 落ち着きを取り戻した佐々木は惚けた顔をする。まるで「全部、見なかったことにしようか?」とでも、その表情で語りたいかの様にだ。佐々木が話を先へと進める気力を喪失して、半強制的に進行役は把民へとスイッチされる。
「どんな弊害があるか判らないから、備品倉庫はこのまましばらく立入禁止措置の継続した方が良さそうだな」
「何にせよ、教師連中相手にこの一連の事情説明をする羽目になる奴は一苦労だぜ」
 把民の提案を受けて、佐々木は「今まで最大の厄介事だ」と言わないばかりにボソリと吐き捨てた。何から何まで、既に佐々木の持つ常識の範囲外の出来事なのだから、それも仕方ないことかも知れない。
「何言ってんだよ! そりゃあ間違いなく……っと、ここから先はちょっと俺の口からは言えないな」
 幹門は途中まで勢いよく話していながら、ハッとなって語尾を濁した。そこには「まずい、まずい」と言った具合の、自分自身を窘める態度が見え隠れした。しかしながら、佐々木はそんな幹門を前にして、自嘲気味に「そんなことは判っている」とでも言わないばかりに微苦笑する。
「言えよ、俺の役目だって言うんだろ?」
 そう言った佐々木の背中にはもの悲しさが漂っていた。心のどこかでそれが判っていたから、常識の範囲外に位置する厄介事の事情説明はここに来て佐々木の頭痛の種になっているのである。
 把民はポンッと苦々しい顔をする佐々木の背中を叩いて、気休めの言葉を向ける。
「生徒会にはお前以上のタフネゴシエーターなんて居ないぜ。どんな難解な注文もお前にさえ任せておけば、適度なところで折り合い付けて来る。頼りにしてるぜ、タフネゴシエーター、佐々木」
 気休めを言った当の把民も、期待を掛けられたからといって佐々木が進んで面倒な役目に赴かないことぐらいは百も承知だ。それが判っていながら佐々木に対して「その役目に適材適所なのはお前だ」と言ってしまえる辺りが、佐々木と把民との付き合いの長さを窺わせただろう。
 労いもそう、気休めもそう。「ないよりはマシだろ?」と言うわけだ。
「何でこんな貧乏くじ引き続ける羽目になったのかね。重要な役目だって割りには大した見返りもないしな、クソッ!」
 佐々木は頭を抱え込む姿勢で深い溜息を吐き出すと、その姿勢を維持したまま「胸糞悪い」と自身が置かれる現状に対して不満をぶちまけた。佐々木が最後に吐き出した大きな声は静まり返った備品倉庫、さらに言うなら、廊下まで漏れただろうが把民と幹門は失笑するだけで、取り立てて、誰か第三者が備品倉庫に様子を見に来ることを心配しなかった。
 尤も、幹門にしてみれば生徒会所属の生徒が二人も居るわけだから、何の不安もなかっただろう。
 そうだ、生徒会所属でもう一人、頭が固いことで有名な二年生副会長の那浜や、元祖の弘瀬にでも、見られない限りはどうとでも言い逃れが出来るのだからだ。
 時間の流れの狂いがもたらす種類のものとは一線を画す独特な異様さに包まれる備品倉庫の中、そこに生まれた静寂を切り裂いたのは佐々木の胸元から響き渡った携帯の着信音だった。厳かで重々しい重低音から一転、一気に高音を混ぜて突き抜ける癖の強いメロディーは佐々木が生徒会の先輩方から着信があった際に鳴る設定にした着信音だった。
「……!」
 佐々木は胸ポケットから携帯を取り出すと、慌てて通話のボタンを押した。把民と幹門の小声での会話がまかり間違っても電話相手に伝わらない様に距離を取り、佐々木は「早朝の電話に驚いた」にしても、多少「大袈裟だろう?」と受け取れるほどの大きな声で話し始める。
「ああ、はい、おはようございます、佐々木です。こんな早朝から、何か、問題でも発生したんですか、弘瀬先輩?」
 相手の声を聞くと、佐々木はそうやって真っ先に、電話の相手が弘瀬であることを宣言した。そして、同時に「話しをするなら声のトーンを下げろ」と把民らに向けて暗に言った格好でもあった。
「えっと、今、……今ですか? あー……、今は最近ちょっと太り気味なんで早朝マラソンの真っ最中ですよ」
 息切れもしていなければ、微かにさえも息が乱れていない状態に佐々木はある。……にも拘わらず、いけしゃあしゃあとそんな嘘を口にする辺りが佐々木の強かさを強調しただろう。咄嗟に「学校にいます」と話して、弘瀬に「こんな早朝から何をしているんだ?」と疑われるような道筋を作らせない辺りに対しても、それを窺い知ることが出来る。備品倉庫に発生している異変を広瀬に知られた日には「さらなる面倒事になりかねない」と佐々木は判断したわけでもあった。
 相手に付け込まれるだろう点は可能な限り全て、相手に知られることなく済まそうとする。それはある意味、佐々木が持つ性格の特徴の一つだと述べてしまって良かった。
 墓穴を掘らないように、弘瀬と抜け目のないやり取りを展開する佐々木の背中を眺めながら、幹門が一言「ボソッ」と、言い放つ。
「くく、嘘つきやがれ!」
 背後で声を上げて笑い始める幹門を、佐々木は「ギロリッ」と一瞥して黙らせると弘瀬の話に何食わぬ顔で相槌を打った。そもそもがこうして備品倉庫に忍び込むことに繋がった理由はこの幹門に起因しているのだ。
 尤も、では「忍び込まないで済むなら忍び込まない方が良かった」とは言えない。
 幹門が私物奪回のために備品倉庫に忍び込まなかったなら、こうして時間の流れの以上に気付くことだってなかったのだ。さすがに「気付かなければ、その方が良かった」と、事なかれ主義の顔をして言えるほど、佐々木や把民の危険意識は欠如していなかった。
「えーと、……緒形が病院から脱走した? あー……、ええ、はい、判りました」
 佐々木の承諾の返事は棒読みに限りなく近似したものだった。
「全く持って、次から次へと厄介事が起こる日だな。……本気で厄日か何かか?」
 弘瀬との通話を終えると、佐々木は真っ先に状況の悪化に対する愚痴を漏らした。顔色の悪さだけを見れば、備品倉庫内の異常に気付いた時よりかはいくらかマシだろうか。しかしながら、精神的な疲労で比較をすると、佐々木の置かれる状況に比例して悪化していただろう。
「あー……、聞いての通り、緒形が昨夜の段階で病院から脱走したみたいだと。自宅にも帰ってないそうだと。二年副会長の那浜が鞄とか持って今朝方に様子を見に行った時には居なかったらしい」
「佐々木の携帯に連絡来たってことは数分遅れで俺のトコにも何らかの通達が来るな」
 把民は携帯を取り出すと、電源を入れ、ほぼ間違いなく掛かってくるだろう連絡に備える。カタカタと何か設定を弄っているらしく、把民はしばらく携帯の液晶画面を注視していた。設定を弄っていた操作を終え、パタンと携帯を閉じると、把民は真っ先に弘瀬が「何を言っていたのか?」を佐々木へ問う。
「……それで、弘瀬さんはどうしろって言ってた?」
 佐々木は両腕を広げて「お手上げ」のポーズを取ると、どうもこうもないと仕草で答える。
 少し考えれば、佐々木と把民に弘瀬が伝える話の内容が違うことぐらいは予測出来ることだ。
 それを踏まえて、佐々木は把民に自分の推測を述べる。
「お前だと、那浜とかと一年引き連れて探す方に駆り出されるんじゃないの? 貧乏くじを引く羽目になったのは俺だしな。昼までに緒形を見付けられなかった時のことを考えて「緒形脱走を含めた適当な言い訳を用意しておいてくれ」だと」
 把民は那浜の名前を聞いてばつの悪そうな顔をする。
「那浜は苦手なんだよなー。あの、一風変わったオーラが馴染めないというか何というか、ね」
 佐々木と把民の生徒会に関する話には事情が判らず口の挟めない把民は黙って二人のやり取りを眺めていた格好だった。しかし、そのやり取りが一段落ついたことを察すると良い頃合いだと判断したらしい。
「取り敢えず、今日は解散だな」
 佐々木は立入禁止の文字の入った黄色いテープを取り出し、それを適当な大きさに千切りながら答える。同時に、佐々木はポケットから立入禁止のテープを取り出すと、それを幹門へと向けて放る。備品倉庫に来ると知って、いくつも常備して来たのだろう。
「キープアウトのテープで入念に入り口の封鎖してからな。取り敢えずは蒲原が謹慎開けになるまで……っつーか、その前に蒲原の所に話を聞きに行く羽目になるかな? 何にせよ、あれだ。……何か、今のうちに運び出しておきたい私物があったら、運んでおきな」
 本格的な対策はこれから立てるのだろう。まだまだ、整理がついてない事柄も多々あるのだろう。
 佐々木が口にしたのは全て応急処置に過ぎないことだった。




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