hard-s'natchの持つ最新版の網膜視認アルゴリズムと俺が見たバージョンのものに、俺はこれと言った相違点を見付けられなかった。室山は終始何かに取り憑かれたかの様に惚けた表情をして映像に見入っていたが、三度目となる俺はそんな室山を観察する余裕があったぐらいだからその映像の内容について細微な部分に目を向けていた。
正確に言うのなら相違点を見付けられなかったではなく、ただ見分けられないだけなのかも知れないがそこに大幅な違和感を感じないと言うことは大本は相似したものなのだと考えることも出来る。
たっぷり時間を置いて、メッセンジャーが繋がったままのhard-s'natchが俺と室山に向けこう問い掛ける。
「気分はどうだい、マサナオ? キョウスケ?」
俺は網膜視認アルゴリズムを見た当初の俺の身体の異常を危惧して室山へと視線を向けたが、殊の外その室山は不調を訴えるようなこともない。
「マサナオが古いバージョンでのインストール時に感じた様な急激な異常はほぼ改善されているはずだが、希に身体が拒否反応を示して慣れるまでに時間の掛かるタイプもいる。何か異変を感じたら無理をせず休息を取った方が良い」
身体に何の異変もないとあって室山は半信半疑の様子で、頻りに身体の節々を動かしてその調子を確認したり、あちらこちらに視線を走らせて、変化がないかを確かめている様だった。
たっぷりと一つ間を置き最新バージョンのインストールに関しては特に問題がないと判断したのだろう、hard-s'natchはその話を手早く切り上げ、話題を切り換えて発言した。……話題を切り換えたと言うよりかは、報告して置かなければならないから今の内に報告しておこうと言う意味合いが強いかも知れない。
「……マサナオ、結局あの可視報告掲示板から糸居繁利の痕跡を追うことは出来なかった」
「hard-s'natchさん、……あんたは自分の意志で不可視の世界に踏み込んだと言っていたけど、だったらどうして今……糸居繁利の痕跡を追わなきゃならない立場になってしまっているんだ? 糸居繁利は、……不可視の世界に人を踏み込ませるだけ踏み込ませて姿をくらませたとでも言うのか?」
ふと引っ掛かっていたことの一つであるその「問い」をhard-s'natchへと切り出した。その答えは即座に返った。
「そうじゃない。僕は取り残されてしまったんだ」
結論だけをドンッと前倒しに発言した後で、一つ長い間を置きhard-s'natchは自身が置かれた状況と言うものを説明した。そんなところまで「踏み込むつもりはなかった」と言っても、それは既に後の祭りだった。
「……僕は元々精神を少し患っていた。僕の家族に取って「あるはずのないものに焦点を合わせ、見えないものを見る」その僕の姿は病気の悪化と捉えるに十分すぎる事柄だったのさ。検査を兼ねて病院に隔離される形で入院し、その間に彼らは僕の手の届かない場所へと流れて行ってしまった」
文章上の、ただ淡々と流れる羅列の上でのやり取りながら、そこに俺は哀愁だとか言ったものを感じてしまった。もちろんhard-s'natchが自身がそれをどう考えているのかは解らないことだったが、どこか「触れてはならないこと」との感じは否めずに、俺はむざむざhard-s'natchの古傷を抉る真似をしたことを後悔しながら続けざまの発言を控えたのだった。
「糸居繁利を始めとした、彼らテスター達は今も活動をしているのだと僕は考えている。……短期間の内に新規の可視報告掲示板を作成し、古いものを削除しながら今も彼らはネットの海を点々としている。それを見付けることが僕の役目でもあり、同じ様に取り残された人達に一筋の光明を与えることになるのだと信じている」
その言葉はhard-s'natchが自身望んでこちらの「不可視」の世界にやってきたことを強く示唆したものだ。そこを再認識しながら、俺は同時にそこに引っ掛かるものを感じている。
今もまだ最新版の網膜視認アルゴリズムをリリースし、ひっそりとテスター達と完成に向けた取り組みをしていると言うのなら、アルゴリズムのインストール者は相当数に登っていると推測される。保持する人の総数が増加すればするほど情報と言うものは加速度的に拡散速度を早める傾向がある。ましてそれが画期的・革新的なものであり、人を惹き付ける魅力があるものならば尚更のことで、その保持者の総数が確実に増加しているにも拘わらず情報の拡散がないことを疑問と捉えないわけにはいかない。
無論そこに糸居繁利ら……それを提供する側の「短期間の内にネットの海を点々とする」などと言った具合の対策があるにせよ、「網膜視認アルゴリズム」に対する情報と言うものは客観的に少なすぎると言って過言ではない。
そもそもがこれだけ情報源がないものに、どんな手段を用いたらあれだけ(可視報告掲示板で見た数)のテスターが集まるのかが非常に疑問に思えていた。そこが最も重要な疑問点である。
「hard-s'natchさん、あんたはどこで網膜視認アルゴリズムを見たんだ? 少なくとも可視報告掲示板の初期メンバーじゃないんでしょう?」
それはhard-s'natchが可視報告掲示板について「あれはまだ僕らが発見していないものだった」と言った言葉からの推察であり、また確信でもある。
「僕は初期の頃の正規版がリリースされ始めた頃、網膜視認アルゴリズムに触れた一つのホームページをきっかけとしてこちらの世界に踏み込んだ人間だ。もうそれらアルゴリズムを推奨するホームページは存在しないけどね」
「では、hard-s'natchさん。糸居繁利は一体どんな手段を用いてテスターの数を増加させていたと思いますか? 俺と同じ様に迷い人となった人間の総数がどれ程のものに上るのかは解らないが、hard-s'natchさんが受けた様な情報提供もない現状でこちらの世界にただの偶然で来る可能性は限りなく低いはずだ」
寧ろただの偶然で訪れる可能性など皆無に等しいと言っても過言ではないかも知れない。どこかからリンクを張られているとか言うのならそれも別の話と捉えられるが、嘉渡さんがやった様な疑似乱数と思しき文字の羅列からなるURLを打ち込んで辿り着くなど本来有り得ない話だ。……何かの細工があるとしか考えられないのだ。
「僕はマサナオ以外の複数の迷い人にも網膜視認アルゴリズムを手渡して来た。……彼らは皆一様に、ふと気付いた時には目の前に「インストールを許可するかどうか」の問いがあったと話していた。糸居繁利は可視報告掲示板へと流れ着く様に何らかのアプローチを取っていたと考えるのが自然だと思う」
頭を過ぎった単語には「暗示」だとか、そう言った類のものが存在していた。
俺と嘉渡さんとの例で言うなら、もしもそれが何らかの暗示だったとして糸居繁利が直接的に嘉渡さんに暗示を掛けたとは考えにくく、そうなると糸居繁利は何らかの媒体・手段を用いたと考えるのが普通である。俺ではその具体的な内容にまで考え及ぶ知識がなかったのだが、hard-s'natchはその一段深い内容についてまで推測をして見せたのだった。
「……これは僕の推測だけど、恐らく可視報告掲示板へと不特定の人間を辿り着かせる為に糸居繁利は情報として氾濫する視覚的映像にURLを混入して発信しているのだと思う。もしくは発信塔に何らかの細工をして発信者さえもそれと気付かない方法を用いて秘密裏に発信させているのかも知れない」
「サブリミナル効果みたいなものを使用しているってわけか?」
俺とhard-s'natchとのやり取りをじっと静観していた室山が唐突に口を挟んで、俺はそいつをそっくりそのままhard-s'natchへの発言として使用する。hard-s'natchが返した答えはまさにその室山が口を挟んだそれに相応するものだった。
「網膜視認アルゴリズムと言う具体的な例になるものがある。視覚から直接的な影響を及ぼす研究をしていたのだから、原理的にはサブリミナル効果とそう大差のないもので、より効率化した様な方法を用いたのだと僕は考えている」
hard-s'natchとの会話は早々に切り上げた。そうは言っても結局、雑談を交えて結構な時間に渡って会話をした格好ではあるのだが、結局「これからセントラルビル集団幻覚事件の現場に天使に会いに行く」とは伝えなかった。
糸居繁利を追うhard-s'natchに、その目的そのものが異なる俺の都合で余計な心配を与える理由もない。無事に帰って来られた時にはその説明をすることは確かだが、その出発を口にする気にはならなかった。
室山と顔を見合わせて、俺は家を出る。
「おいッ、東櫨馬まで歩いて行くつもりなのか?」
住吉駅へと続く路地を大幅に通り過ぎた頃、室山が前を歩く俺に向かってそう声を荒げた。
「セントラルビルまで直行して、屋上まで問題なく辿り着ける算段があるのか?」
首だけを室山に向ける格好で俺がそう問い返すと、室山は大きく腕を振り翳す挙動を見せてこう言った。
「スパナか何かでガラスぶち破って、管理室から鍵を奪ってだな……」
「ガラスをぶち破った時点で警報装置が作動し警察さんが駆け付けてきて御用ってところだろ、その計画だとさ」
恐らくもう少しまともな策を練っているだろうと踏んでいた俺は室山の声の下にその計画の成功をスパッと切り捨て、その場で一つ溜息を吐き出していた。やはり「セントラルビルへの侵入」に際して、最初から室山を当てにしようと考えなかった俺の判断は正しかったと言えるだろう。
「何だ? 強攻策で行かないとなると……ルパン三世みたいな知り合いでも居るっつーのかよ?」
「上手く協力を取り付けられれば、……下手をするとそれ以上かもな」
室山とてどんな言葉を俺が切り返すかある程度の予測はしていただろう。「そんな奴がいるわけがないだろう?」とか「その道のプロに知り合いのいる大学生なんかいるか?」とか、その内容はどんな広範囲な予測をしていたとしても否定的な言葉だっただろう。だから、俺の「それ以上かも知れない」と言う言葉に室山は驚愕の表情を隠さなかった。俺に言葉を返すことをしなかったのだがもし何か返っていたなら、それは「冗談だろ?」と言った具合のものになっていたはずだ。
櫨馬方向から見て右手に森林が点々と広がる地域に入って、俺は周囲に走らせる目を光らせる。見逃してしまえば、恐らくその見逃したことさえ気付かないだろうからそれまでなのだ。自然と視線も険しくなると言うものだ。
街灯の感覚も広くなって、ここがそれほど交通量の多い道ではないことが一目で見て取れる。櫨馬へと続く幹線道から大きな通りで二本外れた完全な脇道で、それも片側に森林が広がっているとくればそれも仕方がないことだろう。
人が通れそうなものならどんなものでも見落とさない。そんな心意気で歩き始めて数十分、うやく目的の道へと辿り着いた。けれども伏斗神社へと続く石段のある実際の場所までは車道から少し歩かなければならない造りになっていて、その道と言うのも現在草が生い茂った獣道の様になってしまっていて、その心意気がなければ見落としただろうものだった。
神社へと続く参拝道がこの有様なのだから「さぞ境内の方は荒れ放題なんだろうな」と思っていた俺だったが、殊の外その境内の状態は酷いものではなかった。そもそもがそれを「境内だ」と言うことが出来るかどうかは別の話としても、社をを中心に草花がそれを避けているかの様に俺には見えた。
社は俺の胸元までの高さがあるかないかのとても小さなものであり、周辺には崩れたものを合わせて四つの石塔が存在している。
「こんな奥まった所にあるとはやられたよ、じいさん」
じいさんはその社の手前に位置する場所に、客など来ないだろうに例の占いの店を出していて、すっきりと澄み渡った夜空に浮かぶ蒼白い満月を眺めている様だった。じいさんは俺の言葉にも驚いた様子など見せることもなく、満月を仰ぎ見ていた視点を俺達へと落とした。
「ようこそ、伏斗神社へ……とは言えもう手入れされることもなくなった社だけが取り残された格好だがの」
「……おい正順、こんな小汚いじいさんに会う為にこんな所にまで来たのか?」
声の下から俺の耳元で囁く様にそう口を開いた室山を……恐らくその小声でのやり取りそのものも聞こえてしまっているのだろう、じいさんは目を細めた意味深な表情で眺めつつ「コホン」とこれ見よがしの咳をして牽制する。
そいつを目の当たりにして、素知らぬ顔をして口笛を吹いてみせる室山の態度はなかなかに面白いものではあったが、じいさんと室山のその後に続く展開を傍観している余裕があるわけでもない。
「東櫨馬のセントラルビル屋上に天使がいるらしいんだ、じいさん」
「……その天使について占って欲しいと言うわけか、お若いの?」
少しの間を置き、じいさんはそう問い返して来た。俺がここに質問をしに来たことを理解している割に、そんな的外れのことを話したじいさんの態度に俺は違和感を覚えずにはいられない。そこに何か真意があると踏み、じいさんを黙り込んだままの格好で注視する俺に、室山は「信じられない」と言う表情をして声を張り上げた。
「おいおい正威ッ、……このじいさんの占いがどんくらいの高確率で的中して信用出来るのかは知らねぇけどよ、こんな時に占いなんぞに頼ってどうすんだよッ、お前はお前の目ん玉かっぽじって……」
「占って貰いたいわけじゃない、……じいさんが知っていることをいくつか話して貰いたいんだ」
室山の言葉が言下の内に続けた科白で、その場には期せずして一瞬の静寂が生まれる。
俺とじいさんの表情を交互に見比べていた室山が、俺と同じ表情をしてじいさんへと向き直り、その返答を待つ態度を見せると長い間を置きじいさんが口を開いた。
「……そう言う理由なら供え物をくれてもバチは当たらないと思うぞ、お若いの」
何を言うかと身構えてみれば、じいさんはまるで「先の占いの代金も頂いていない」と言った具合の不満げな表情を見せて露骨に「供え物」を要求したのだった。肩透かしでも食らったかの様に、俺は緊張感を切り崩された格好だ。
「はは、神様自ら供え物の要求するとは食い意地の張ったじいさんだぜ。……とは言え、もう店屋が開いてる時間じゃない。コンビニにしてもここからは結構な距離がある。次にここに来る時には何か買ってくるさ、……それで良いだろう?」
「ほっほっほ、そこのお若いのの胸ポケットにあるもので結構だ」
そこまでする必要はないと言わないばかりに、高々と笑い声を響かせたじいさんは室山を指してそう話す。
「俺? 俺の胸ポケットにあるものだぁー?」
突然に話の矛先が自分へと向き室山はかなり驚いた様子だった。話なんざ右の耳から左の耳へと流れているだろうと思っていた俺の予測とは裏腹に、それでも室山も話そのものはきちんと聞いていたらしい。
「つっても煙草が入ってるぐらいのものだったはずだぜ?」
シャツの上に羽織る格好で身に付けているジャケットの内ポケットをまさぐる室山。その手に握られ、内ポケットから姿を表したものは室山が前持って話した様に煙草であった。
ただじいさんの望みの品はその煙草で正解の様だった。
じいさんは煙草を前にして、好物でも前にしているかの如くその目の色を変えたのだった。
「そうだ、煙草だよ。煙草は実に良いものだ、人間が作り出した最高の嗜好品と言えるだろうて」
室山が「煙草はやれない」と渋るのは火を見るよりも明らかだと俺の試行が判断していた。もちろん、室山のスモーカーランクなど俺には知る由もないことだったが、どうしてか渋るその光景は予測出来ていたのだ。
何か言い出す前に「供え物」として煙草を献上してしまおうと、俺は手早く室山の手の中にある煙草を掠め取る為の段取りを整える。その不穏な動きを感じ取ってか、そう言ったことには勘鋭く室山はその腕を引いたのだったが時は既に遅く俺は室山から煙草を箱こど奪い取ったのだった。
「あッ、おいッ、正順! それ一箱しかねぇんだぞ、今夜俺に煙草なしで過ごせとでも言うつもりか?」
「いいから我慢してくれよッ、後できちんと煙草代返せば問題ないだろ?」
「馬鹿野郎ッ、深夜になると自販機で煙草買えねぇって知らないのか!」
胸倉・襟首・所構わず掴み掛かって来て、奪い取られた煙草を取り返そうとする室山の攻撃から逃れる様に俺は後退る。けれどもその室山を上手い具合に誘導しようと言うのが俺の考えでもあったのだ。
銘柄はセブンスター、煙草の種類に詳しくはないが恐らく不足はないと判断した。
「ほらよ、じいさん!」
俺が未開封のセブンスターを放るとそれはヒュッと風を切り絶妙のコントロールで、じいさんのその手の中に綺麗に治まった。クルリクルリと高速回転していたのだが、受け手側のじいさんも非常に手慣れた「受け」を見せ、それが地面に落ちる様なこともなかったからか、室山も煙草を追うのを諦めた様だった。
「ちょ……ちょ、あーあ……、あれは俺のセブンスターウルトラライトだったはずなのによー」
顔一杯に怨色を灯してじいさんを見る室山を見ていると、自然と不思議な感覚に襲われる。
室山に見えないはずのものを見ていると言う実感がないからかも知れないが、こんな具合にくたびれた神様とコミュニケーションを取られるのなら必ずしも網膜視認アルゴリズムと言うものが問題だけを孕んでいるわけではないことを考えた。室山にこのじいさんを神様だと思う気持ちがないにせよ、現代と言う時代は昔の様な神様との付き合い方が出来ない時代であることだけは確かなのだから……だ。
「ほっほっほ、済まないなお若いの。私らは本来お若いのらが使う様なお金なんてものを貰っても使い道がないのだよ」
手慣れた動作で箱を開け、じいさんはその手に煙草を一本握り取る。
続け様に煙草を持たない手の方で、パンッと指を鳴らすとじいさんのその掌には小さな赤い火の玉が浮かぶ。そうやってじいさんは手際よく煙草に火を灯したのだった。
室山はその目を丸くしてじいさんが何気なくやって見せた「掌に小さな火の玉を浮かべる」と言う動作に心底驚いた様子だったが、当のじいさんはそんな室山の視線を特に気にする様子も見せずにいた。そして一度煙を吐き出して見せると……余程心地よいのだろう、表情に満面の笑みを灯して天を仰いだ。
「さてさて、天使、天使……か」
そう呟いたじいさんの表情は「どう話しをすれば良いのか困惑している」と、俺はそんな印象を受けていた。
「……お若いのが言う様に天使なる存在がそのセントラルビルに居るのだとしても、恐らく私はその天使に合うことは適わないだろう。なぜなら私は網膜視認アルゴリズムなるものをインストールしていないからな。……長らく道を司ってきたが天使などには合ったことがない、私とは別の面に住む存在なのだろう」
一瞬じいさんが何を話しているのか、俺はその理解に苦しんだ。驚愕した……と言えばそれまでだが、ここで「天使」についてある一定の情報を得ることが出来るだろうと踏んでいたから俺のショックは相当なものになったのは確かだ。
「前にも話しただろうが、お若いのが見ることの出来るものは既に私の範囲を飛び越えてしまっているのだ。薄紫の花にしてもそうだ、そこいら一面に咲き誇っている様など私には僅かにも見ることが出来ない。地下街でのこととて私とお若いのが共有している世界の部分を使い、お若いのにどこへ続くのかも解らぬ「道」を妄りに使うなと警告したまでのこと」
「ちょ……ちょっと待ってくれよ」
じいさんへと問い掛けた「天使」のその内容から大幅に話が逸脱し始め、俺は慌ててそいつを一端制止しようと口を開いたのだがそこに覇気は伴わなかった。それ程に驚愕は度合いの強いものだったのだ。
「こちらの道はどこにだって存在する。高空にだって存在していれば、深海にだって存在している。規則を知ってその規則の下に使用するなら話は別だがの、……それを理解せずに迂闊に使うならばそれこそどうなるか予測など出来ない」
「……ちょっと気になったんだけどよ、何で俺達には天使が見えるのにじいさんには天使を見ることが出来ねぇんだ」
「世界と言うのは高さがあり、長さがあり、そして奥行きを持った広大な座標軸の様なものだと思えばいい。お若いのら人間が生活している世界とはその座標の中に存在する一つの面でしかない。それら他にも面は無数に存在し、そして複雑に入り混じり交差して無数の接点を持っている」
室山の問いにじいさんは即答する格好で説明を口にした。室山は小難しい顔をして、時折首を傾げる様な挙動を取りながらだったがそいつを熱心に聞いていた。余程、煙草に火を付けて見せた動作の件が利いているらしい。
「面に接点があれば、またはその面と面が大部分で重なっているのなら「見て感じて触る」など容易いことなのだ、私とお若いのらの世界の大半がそうである様にだ。しかしながら面で交わらない世界を「見て感じて触る」為には無数の法則を知り、それに従わなければならない。……私とお若いのらは同じ世界にいる様で、その実際は大部分が重なった二つのそれぞれ個別の面に存在している」
じいさんは途中途中で熱心に話を聞く室山を気遣う様に言葉を句切りながら話をしていた。まだ室山は網膜視認アルゴリズムの概要は疎か、こちらの幻覚に関する詳細を知らないから、じいさんの説明は細かなものになっている様に感じた。
室山も「この代栂と櫨馬の規則に従い流れるもの」だからなのだろう。
代栂と櫨馬の道を司るじいさんは持てる知識の限りを尽くし、自身に課せられた仕事を果たすのだろう。
人の世界の道から外れ迷い人となった俺達に、この世界に存在する無数の道とそこに至る経緯を説明をする。
「網膜視認アルゴリズムなるものがどこまで優れたものなのかは私には解らない。面の接点を一つ一つ辿って行って、お若いのらが本来属している面とは微かにさえも接点を持たない面を感じることが出来るものなのかも知れないが、果たしてそれが素晴らしいことなのかと問えばその答えは千差万別のものになるのだろう」
……じいさんが千差万別だと言った様にhard-s'natchなんかはきっとそれを素晴らしいことだと思うのだろう。そんなことを考えながら俺はじいさんの説明を聞いていた。
「ともあれお若いのらが「広大な範囲」に投げ出されたことに変わりはないのだよ。そうして、それを持ってどうするのかを既に私は助言出来る場所にはいない。まして、その天使についてお若いのらが一体何をやろうとしていようとも私には何も言うべき言葉などないのだ」
「じゃあ「マンホール」ってのは何なんだ? ここに来ても未だにマンホールに縁はない。hard-s'natchの……、いやじいさんと同じ忠告をした知り合いの話だと、どうやらそのマンホールは「赤い色」のものらしい」
じいさんの室山に対する説明が一段落付いた頃合いを見計らって俺は口を開いた。未だにマンホールには縁がないながら、ここまで警告するからには実質的に身近にある危険なのだろうから聞いて置かないわけにもいかない。
「赤は警告を意味するもの。どうして人間に取って「赤」と言う色に警告だとか危険だとか言った先入観があるのか、それは私には解らないことだが「色」について私が言及しなかったのは人によってその「危険」を感じる色彩に個人差があるからだ。だが、……そうか、ならばお若いのに取ってもそれは「赤いマンホール」と言うのが正しいのだろう」
それは本能的な警告の色を「赤」以外の色と捉えていれば、マンホールの色は全く別の……その警告色に見えると言っているに等しい言葉だ。そうしてじいさんの科白の中の「先入観」と言う言葉に俺は引っ掛かるものがあった。
「そういやぁ、警告色って言うと信号も赤だねぇ、理由は知らないけどさ」
……室山が言った様に人によって「赤」で思いつくものは違うだろうが、突き詰めていけば人間が道具を使い始めた頃の「炎」にでも起因するのだろうか。けれども俺に取っても「警告色は何?」と問われれば「赤」と答えるだろう。
「マンホールは「穴」を意味している。扉ではない穴だ、……くれぐれも留意する必要がある。一度落ちれば再び這い上がっては来れないだろう。道を司る私が管理出来ぬ歪みの様なものであり、扉と違って一方通行で不規則に辿り着く行き先を変える。どこに通じているかは誰にも解らない。……もしかすると時間さえも飛び越えてしまう様なものかも知れぬ」
じいさんは「付いてこい」と言った具合のジェスチャーを見せると社の小さな門に手を翳し、地下街などで見慣れた感のある中と屯のちょうど中間にある文字の様な記号を表示させた。まるで主人を迎え入れると言うかの如く独りでに門を開く社の様子に室山は心底驚いた様子を見せていた。
ここに来てようやく「神様」と言う呼び名に見合うものを見せられた気がした。
じいさんの後を追って、頭を屈めてようやく通れるかどうかと言うぐらいのその小さな「扉」を潜ると、恰も寺の本堂に見る木造張りの部屋に出た。
「見た目にはちっちゃい社だけど、中は案外広いんだな」
それが室山の本心の言葉なのか俺は耳を疑わざるを得なかった。外観から逆算して解らないはずがない。もしも外観通りだったなら、頭を屈め背を丸め、それでも大の男が二人も中に入る様なスペースなどあるはずがないことは一目瞭然だ。
そんな室山の発言に呆れながらも俺は中の様子を注意深く眺め見ていた。奥の暗がりに戦国時代の鎧の様なものが飾られてあったり、天井には龍を描いたものだろう天井画などが目に付いたから……と言うのもある。しかし、地下街での一件同様それらには「人の影」と言うか、この場所も人間が訪れることを想定して造られている気がしたのだ。
そしてその部屋の中には五つの扉が存在していた。 神社で良く見る様な質素な日本風の木造張りの床の上に、西洋風の取っ手がついた扉が五つとあるのだから、そこに違和感を感じ取るなと言う方が無理があるだろう。
「お若いのはそこにある空間の歪みが扉に見えるのだろう。……私はそれを到底「扉」などと呼ばれるものに「見る」ことは出来ない。……もう一つ忠告しておくとしよう、例えセントラルビルに置いて例の「天使」と言う存在と対峙しようとも、それが必ずしも本物の天使であるとは思わないことだ」
ふっと理解に苦しむことを口にして、じいさんはそこに説明を付け加える形で「天使」のその正体を警告したのだった。敢えてここでそう言ったからには、じいさんは恐らくそれが本物の「天使」だとは思っていない。そんな印象を受けた。
「人間は先入観に大きく左右される。まして今からお若いのらが見ようとするものは本来見えないものだ。「天使」と言う先入観を持ってそこに望む以上、本来それが全く別の異なるものであったとしてもお若いのらはそれを天使としてしか見ることが出来ないだろう」
警告色の時にじいさんが口にした先入観。その引っ掛かるものはそこに辿り着くものだったのだろう。
人によって見える警告色が違うというのなら、姿形も人の先入観によって変わるんじゃないか?
今具体的に言葉にしようと思うと形に出来るその疑問は、けれども俺の推測が当たると言う厄介な形で解決した。
「制限を超え歩き出すお若いのらに私に出来る忠告は全て語ったつもりだ。……さぁ行きなさい、自身の望みを叶える為に。……複雑怪奇であるものほど、それを一つ一つ繙いしまえば単純で明快なものの集合体だと言うこともある。目的地へと続く扉には印を付けて置いた。扉を開き通路へと出て、ずっとずっと右手に進んで行けば苦もなく辿り着けるはずだ」
そう話してじいさんが指差した扉は社の入り口から、すぐ右手に存在する部屋の片隅にオブジェの様に佇んでいた。部屋と部屋を繋ぐと言う様な格好で存在しているのではなく、立て掛けられる様な形でそこに佇んでいるのだ。
ノブを回して扉を開くと、それが普通の扉だと言うならその後ろにある部屋の片隅スペースがそのまま現れるだろう扉だから、室山は半信半疑だと言う表情をしていた。
俺もこの目に色々と見せつけられていなかった疑い信じなかったことだろう。
意を決して扉を開くと眼前には真っ白い壁が現れた。「壁」と言うのは適切ではないかも知れない。
そこはまるで壁自体が発行しているかの様な白くて細長い空間だ。俺達はその細長い空間の側面に出た格好で、左右を確認してもその細長い空間自体の端を確認することは出来そうにない。右を見ても左を見てもその終わりを見ることなど適わないぐらいこの空間は果てしなく続いているのだろう。
圧迫感を感じる天井の高さは俺の身長が後十cmを高ければ、頭を低くして歩かなければならない高さしかなく、その通路の幅も人が二人擦れ違う為にはお互いが意識的に双方のことを考慮しないと擦れ違えないぐらいの幅しかない。
しかし適度な明るさだけはある。圧迫感を感じながらもそこは非常に奇妙さを印象づける空間だとも言えた。
じいさんに言われた通りに進み出すが、二人並んで歩くだけのスペースがあるとは言えない為に、俺の後ろに室山が付く格好だった。カツーン、カツーン……と異様に強調された足音の鳴り響くこの空間は、その変わりと言わないばかりに気配だとかそう言ったものが希薄になっている感じがした。
網膜視認アルゴリズムがこの空間の「本来の姿」を完全には再現出来ていないからかも知れなかったが、背後にあるべき室山の気配を感じられないと言うのは俺の酷く不安を掻き立てた。もしもここに一人取り残されたもう元の場所に戻ることなど出来ないのではないか……、そんな気持ちさえ沸き起こらせる程だ。
「……一つだけ聞いても良いか、室山さんよ?」
そんな状態に耐えきれずに口を開き俺は室山へと振り返った。そんな具合に唐突に切り出したにも関わらず室山は嫌な顔一つ見せる様なことはなく、少し驚いた風を見せた「何だ、正順?」と軽い調子の言葉が返るだけだ。
もちろん、この後に続く質問の内容によってその表情は面白いまでに変化するだろうが「会話をする」と言う点に置いては嫌がる様子を見せない辺りが室山の好印象の一つであることは確かだ。
「考えてもさっぱり解らないことなんだ、……どうして室山さんは天使に会う理由があるんだ?」
「あー……、手っ取り早く仕事に復帰する為かね。自殺者が本当に幻だったら俺は病院行き確定コースだが、そうじゃないなら俺がお暇を頂く理由はねぇのよ」
室山の「軽い調子」がその答えの前にあった所為なのだろうか。一度考え込むかの様な仕草を取った室山の挙動も、俺は「明確な答えを返す為の熟考」とは思えず「たった今、それに対する答えを考えた」と言う印象を覚えるのだった。
真顔の室山を前にすると、専らそれが「天使に会う」尤もらしい理由に聞こえてしまうのだから不思議なものである。
ともあれ俺が言葉に返す困っている様を室山は「何言ってんだ、こいつ?」とでも解釈したのか、……大きな身振りを見せながら「自分自身理由なんて理解していない」と言う様に、自嘲気味にも見える笑みを灯して言葉を続けた。
「はは、なーんて理屈っぽく言ってみたが本当のところはどうしてだろうかねぇ。……案外ただただこの終わりの見えた現実世界から逃れたかったからかも知れないねぇ。……ま、ぶっちゃけた話あれだ。勢いだ、勢い」
最後の最後はカラカラと笑いながら話した室山の調子を俺は呆気に取られた表情で眺めていた。
「……馬鹿だろ、お前」
ようやく喉の奥から引っ張り上げてきた言葉は覇気のない、呟く様な微少な言葉だった。けれども静寂が支配するこの白一色の空間では室山の耳へと届くに十分だった。
「真顔で言うんじゃねぇよ、このタコ。俺ももしかすると本当に自分が馬鹿かも知れねぇって思っちまうじゃねぇか」
苦笑いを見せながら話した室山の調子は例の軽いものに戻ってしまっていた。この世界を可視出来ることをマイナスだと捉えている様子は全くと言っていいほど感じられない。恐らくはhard-s'natch同様に、室山も俺とその目的を異ねるのだろうことを理解していた。今はそれを深く考えないけれども……だ。
白一色のこの通路は感覚的な距離感なんてものを曖昧にしてしまっていたが、それでも結構な距離を歩いたことだけは確かだった。ようやくじいさんが言った様な「印」の付けられた扉を左側面に見付けて、俺は一つ安堵の息を吐き出した。
ノブを捻ると押しても引いても扉は開く様だった。
じいさんが言った様に、扉というものが見た目の「形」だけのものだと言うのだからそれもなんら不思議はない。
音もなく開ききった扉を潜るとそこには薄暗い闇が広がっていた。ここが本当にセントラルビルの内部なのかどうかを判断する材料は何もなかったが、それはじいさんを信じるしかないのだろう。
どちらに行くべきなのか、その判断に倦んでいると室山が先頭に立って歩き始めた。見覚えのある場所なのだろうと黙って屋上までの道案内を室山に一任すると、すんなりと昇り階段まで案内される。
金属質の堅固な扉を前にしても動じる様子もなく、それどころか室山はその扉をいとも感嘆に開けてみせるものだから俺は思わず驚いていた。「施錠がされていないのか?」との考えに行き着くまでにかなりの時間を要した程だ。
「……屋上に出る扉だってのに、施錠されていないのか?」
「この一つ下の階にデカイ扉があってな、そこを頑丈に施錠してその上は鍵を掛けない決まりになってるんだ」
こちらへと向き直ることもなく、そう話しながら前を歩く室山の後ろを付いていくと、ここが「人間」の側の世界であることを実感出来た。何と言えば的確なのかは解らない、けれどもその「世界」の相違みたいなものは薄々ながら感じられる様になって来ているらしかった。
微かな音響の相違だとか、視覚的な違和感だとか、そう言った微細なものの違いを感じられる様になったのだろう。
……と、唐突に室山が立ち止まり、俺の方へと向き直ったのだった。
「俺が聞いた話だと一年ぐらい前に屋上で伝送系設備の調整作業が行われて時に、運悪く閉め出されて取り残された作業員がいたらしくってな、何でも寒空の下で一夜を過ごさなきゃならなかったっつー話で、それ依頼……屋上から一階層下までは無施錠にする決まりになったんだと。……ここの設備ってのがまた良く故障してな、確実に月一ペースで調整作業が行われるのもその原因の一つらしい」
室山が歩く足を止め、完全に俺の側へと向き直って喋る理由を理解しないわけには行かなかった。
一つの鉄製扉を前にして、目標地点はこの扉の向こうにある。
「さて、こいつを開けば屋上に出るぜ。……覚悟は良いか?」
室山もここに来て無駄話をする理由がないことは理解している。
簡潔にそれだけを述べると俺が頷くのを確認したその後で、室山は重々しい扉を開いた。
ゴオオオォォ……と吹き抜ける風の音が響き渡り、外はかなりの強風が吹いている様だった。
ここが高度に位置していることもその原因の一つだろうが、単に風の強い夜だと言うこともあるのだろう。夜空を流れる白い雲がかなりの速度で流れているのが目についていた。
屋上へと一歩を踏み出した所で白い靄が掛かるかの様にグニャリと視界が歪んだ。反射的に踏み出したその足は一歩で止まり、俺はその場に制止する格好になった。隣の室山も同じ様に足を止めたことから同じ状態にある様だった。
次の瞬間にはすぐに視界は正常なものへと戻ったのだが、俺は瞳に飛び込んできた光景に確かな身震いを覚えていた。
視界の上下左右、端に当たる箇所は未だにぼやけ気味の視界だったが、それも俺の瞳孔がピントを合わせる例の動作を完全に終わらせた頃には完全に明瞭なものへと変わる。
……視界が歪む前の光景、その最初に目に飛び込んできた瞬間の光景の中には確かに存在していなかったもの。
それがそこには無数に存在していた。
「赤いマンホールが密集してやがる……。見えるか室山さんよ?」
「あぁ、ぼやけ気味だが見えますぜ、正順さんよ」
薄く発行している様にも見える赤いマンホール群は俺と室山が屋上へと躍り出るのを邪魔するかの様に直線上に存在しているだけでなく、側面の壁にも、円形をした貯水塔の側面にも存在していた。
「マンホールってぇのは、地下へと続く穴だからマンホールって言うんじゃなかった?」
「さぁな。俺に聞くなよ、……そんなこと」
じいさんの説明だとマンホールはただただその形を模しているものに過ぎないと言う話だから、側面にあろうが空中に浮かんで存在していようが不思議はないのだが、その光景は正直とても違和感を覚える光景だった。
視線の先を少し変更するだけで、瞳孔が「可視出来る範囲」を修正しているのだろう。俺はチリチリ……と目の奥に微かな痛みを覚えて、室山に対して俺の初期の症状が発生することを危惧し今の状態を問い掛けた。
「……体調に異変はないか?」
少しでも状態が悪化する様なら、ここから即座に離脱することも考える。アルゴリズムに関して室山よりも馴染みがあるはずの俺の側でもこの無数の赤いマンホールと言う光景は瞳にかなりの負荷となっていることを否定は出来ない。
「お陰様で絶好調だな、正順が言った様な頭が割れる程に酷い痛みはねぇよ」
しかしながら室山の答えは俺の予想を大幅に裏切るものだった。……俺はお陰でしようもない対抗心なんてものを掻き立てられて、多少の負荷には無視を決め込むことを決断したのだった。
「すんなりアルゴリズムに馴染みやがって……、俺はそれに馴染むのにかなりの苦痛を伴ったって言うのにな」
「はっはっはー、出来が違うんだよ、人としての出来って奴が!」
自嘲気味に呟いた言葉に室山は追い打ちを掛けるかの様な言葉を続ける。
冗談だとは解っていてもさすがにカチンと来るのはしようがない。
「……鈍器の様なもので殴られたいか? もし殴られたいなら月のない夜には気を付けることだ」
「いつでも来なー、返り討ちにしてやるぜー」
この場に至って続けたそんな馬鹿げたやり取りも、突然に収束を迎えることとなる。
月の光に影が差し、俺は慌てて周囲に視線を走らせた。
仄かに赤く発行するマンホール群が否応なく目についた格好だったが本来の目的はこれではない。
それは直ぐに俺の目に飛び込んできた。ひたすら高さを求めるかの様に、屋上で最も高い場所にそれはいたのだ。
地上から見上げたものよりも遙かに蒼白さを増した気がする……そんな満月を背後に頂き、二対の羽を持った天使がこちらを窺い見ていた。貯水塔の梯子の最上段に腰を掛ける格好で、強風に靡く銀色の長髪を厭う様子を見せることもなく、そいつは俺と室山の一挙手一投足を注視しているかの様だ。
肌色と言うには余りにも透き通った肌を持っていて、中世ヨーロッパで見る様な厚みのない生地で織られたローブを羽織っている。しかしそれも見た目にそぐわぬ重量でもあるのだろうか、強風に靡くその様子は絹や木綿が見せる様な滑らかさを持ってはいない。
その表情には微笑だとか警戒だとか言った人間の持つ特徴的な感情へと簡易に分類出来ないものが形としてあって、その物腰には見合わない威圧感の様なものをどことなくではあったが感じさせるのだった。……俺と室山が「一体この場所に何をしに来たものなのか?」、それを推測しようとしているのかも知れない。
「お待ちかね……ってわけですか」
呟く様に口にしたそんな淡々とした言葉とは裏腹に、俺の内面には緊張感が張り詰めている。ここに来て平衡感覚でも狂い始めたのものだろうか、いつも当然の様にやっている「身構える」と言うことが出来ずにいる。
そんな俺の緊張感を、それが良いか悪いかは別として、平静側へと引き戻したのは室山が俺へと向き直って口にした言葉だった。
「……何を、言ってんだ? 正順?」
室山は俺の視線の先を追ったその後に、怪訝な表情をして俺を見ていた。そんな室山の挙動がおかしいことは誰の目にも一目瞭然だったことだろう。だからそこに対する俺の表情も室山に負けず劣らずの怪訝なものになる。
「何をって、天使が眼前に居るんだぜ? 梯子の最上段に腰掛けてこっち見てるだろ?」
「……はは、あはは、どう言うことだろーねぇ……、俺には見えねぇなぁ」
再度俺の視線を追う室山のそれが、そこにある「天使」を捉えていないことを俺は理解しないわけには行かなかった。
付き合わせた顔を互い同時に天使がある場所へと向ける。
俺の目には確かに「天使」と呼ぶに相応しい外観を持った「もの」がそこに見えている。間違いはない。
「……正規版ではβの機能の一部が削除されているのか? それとも……網膜視認アルゴリズムに下位互換がない?」
背後に人の気配にも似た、……何か上手く言葉に出来ないながら頭を刺す嫌な感覚が生まれて、俺は首を曲げるだけの挙動を取ってその背後の様子を窺い見た。
先程までは確かに廊下には存在していなかった赤いマンホールが無数に増殖していた。床を始めとし、壁にも天井にも存在しているそれら赤いマンホールに、じいさんが言った様などこかに続く「穴」だと言う認識は持てそうにはない。
俺が後ろを振り返って固まった様子につられ、同じ様に「何があるのか?」と背後の様子を窺い見た室山は「これでもか」と言う程の引きつった苦笑いを見せながら俺に向かってこう問い掛けた。
「正順さんよ、赤い方は良いとしても……銀色の扉の方はどうなんだ? 触っても問題はないのかよ?」
「……銀色の扉の方? 銀色の扉がここに存在しているのか?」
俺の言葉を受け室山は僅かに驚いた風な表情をして見せたが、すぐにそれは苦笑いへと切り替えられた。
恐らくその「銀色のドア」に関しては、天使に際した俺と室山の状況をそっくりそのまま入れ替えた状態だと簡単に理解することが出来たからだろう。
「あー……了解、正順には見えないわけな。どうする? 予想外の事態ってのが立て続けに起こっちまったぜ?」
俺は答えられない。……混乱している?
そうだ、事態を完全に処理出来ていない。眼前にあることを直視出来ていない。……こんなはずじゃなかった。
期待通りにことは運ばない、それは覚悟していた。だけれども、この結果は酷すぎる。
「網膜視認アルゴリズムって奴はどうやら、簡単に上書き出来る様な代物じゃなかった様だねぇ。……糸居繁利大先生は正常に上書き出来てるって思ってんだろーかね?」
苦虫を噛み潰した顔、そう言えば今の俺の表情を的確に言い表すだろう。
絞り出す様な声で口を開けば、それが荒々しい批判の科白へと変わってしまうのに時間など掛からなかった。
「……なーにが、なにが「脳に対するアルゴリズムのインストール失敗率をゼロコンマまで抑えられている」だよ! それ以前に下位バージョン上書きに成功していないんじゃ話にならないぜ、糸居繁利大先生!!」
「俺もβバージョンって奴を上書きインストールすれば、天使を見れる様になると思うか、正順さんよ?」
室山の問いに答える為の思考演算をする。同時に眼前に天使を置いて、満足にそれを見る事ことも適わない室山とこの現状でどうすることが最善なのかを思考演算する。
「……それじゃあ「銀色の扉」の原理が説明出来ないだろ? 恐らく正規・βの違い云々以前にインストールの順番だとかそう言ったものに影響されているんたど思う、もしかしたら個人差って奴も解決なんか出来てないのかも知れない」
「上書きしちゃ見れないなんてものもあるかも知れないねぇ、……出直すか、正順さんよ?」
「はは……天才なら天才らしく、やっつけ仕事なんざするんじゃねぇよ」
どうする? どうすればいい?
「……!」
必死に最善策を模索する中、音もなく梯子の最上段から屋上へと降り立っていた天使の様子に思わず俺は息を飲む。「……音もなく?」それは本当か? ただただ俺が音を聞くことが出来ないだけなんじゃないか?
その疑問はここに来て天使に起因する全ての音を聞けていないことに対するアルゴリズムへの不審だと言えた。明らかにおかしいのだ、風を切る音も着地の際の音もないのだからだ。
「逃げた方が良いかも知れない」
俺は苦り切った顔をして呟いた。話をするも何も現状がこれではそれ以前の問題だと考えざるを得なかった。
ゆっくりと……一歩二歩と後退って俺は室山へと顔を向ける。
「三十六計逃げるが勝ちってか。あー……なんつーか、ことは都合良く運ばないみたいだけどな」
後方を振り返って満面の苦笑いを灯す室山の様子に、俺も天使の挙動に細心の注意を払いながらそちらへ向き直った。
逃げ道などない。通路をぎっしり埋め尽くす程の、膨大な量の赤いマンホール群が目についた。明らかに先程のそれより増殖しただろう量に、思わず俺は顔を顰めた。
逃げ道はなくなったと断言しても過言などではないだろう。
その通路を無事に戻ることはほぼ不可能だと言えるほど赤いマンホールの増殖率は半端ではないのだ。
けれどもそれで決心は付いた格好だった。
逃げ道を断たれば「窮鼠猫を噛む」その言葉通り、否応なく噛まないわけには行かないのだからだ。
「……あんたと争う意志はない、少し……話しがしたいだけだ!」
天使を睨み見る目に鋭さを灯し俺は口を切った。赤いマンホールに関してこの天使が関与していないのなら、いきなり襲い掛かってくる様な仕草がないのだから意思の疎通を図らないことには埒が明かない。
天使は小さく口を開くと微かに険しい表情をして、俺達へと語りかける様な仕草を取って見せた。
聴覚を研ぎ澄ましてその言葉に耳を傾けたのだがその言葉を俺が聞くことはなかった。風の音に掻き消されたとか言う具合の外因からではなく、それは俺には聞くことの出来ない音の様だった。推測だった不審が確信へと変わる。
だから険しい表情を取るのは天使だけではなく俺も同様だった。少しでも手掛かりを手に入れられるならとここまで来たが、どうやら何の収穫もなくこの「赤いマンホール」と言う穴に落ちることになりそうだ。
こんな状況下では苦笑いか自嘲の笑みか、そのどちらかしか表情には灯らないのも仕方がないだろう。俺は半ば訴えかける様に口を開き続ける天使から視線を外すと、小さく溜息を吐き出し俯く様に下を向いた。
そんな折りのことだった。
「ぐッ!! あ……頭が割れるッ、耳の奥の方で機械音に似たけたたましい音が鳴り響いていやがるぜ」
「ッ!」
室山の異変に俺が気付いたのはそんな具合に室山が呻き声を口にしてからだった。表情は蒼白で額には脂汗が浮かんでいる。ちょっとはそっとでは強がりを口にしそうな室山がそんな状態なのだから、相当に厳しい状況なのだろう。
「あれかッ? 超音波って奴なのかッ? あー……、正順さんよ? 俺は何か? 攻撃でもされてるのか?」
「いや……、俺達に何かを話し掛けている様に俺には見える、けど……俺には、その声を聞くことが出来ないみたいだ」
上手く説明出来ない。言葉に詰まりながら曖昧な返答しか出来ない自分にもどかしさを感じながら、けれども確かに俺のその目に映る天使が室山を攻撃している風には見えないのだ。
「はは……、なら攻撃されてるのかも知れねぇな、……天使ってのは凶暴らしいからねぇ!」
けれども室山は口を荒げて、俺の言葉を否定し自身の推測を肯定する。どんな根拠を持っているのかまでは解らなかったが、室山の自信たっぷりのその科白に思わず俺も頷いてしまいそうになって踏み止まる。
「……天使っつーのは凶暴なものなのか?」
「へへ……萩原一至さんもそう言ってんだろ?」
口許にニヤリと笑みを灯し室山は呟く様に口にした。……そしてそれは肯定でも否定でもなかった。
「萩原一至? 誰だ?」
この切羽詰まった感の漂う現況で、まさかまさか室山がただただ減らず口を叩いたのだとはさすがの俺も解らなかったのだ。困惑気味に問い返す俺の言葉に荒々しく室山がこう問い直す。
「俺は指差されたのかッ、正順ッ? お前には見えるその天使に指差されると死んじまうって話だぜッ!」
「……そいつが誰だかは知らないが萩原一至って奴がそう言ったのか? おい!」
双方問い直すやり取りの応酬で、状況は一層の混乱の体を取っていたがそれも一気に収束する。
室山の置かれる状態が一転した。……苦悶に歪む表情に変化はないが、天使を見る目に怪訝なものが混ざる。
「ぐッ、何か、何か……喋ってやがるのか? け……警告する……?」
首を捻りながら室山は天使のいる方向を見る。相変わらずその目に姿を捉えることはままならない様だったが、室山は声の向く方向へと向き直っている様で、それは天使の声を聞いていることを意味している。
「あー……、警告する、ワタシはa31278q4q面側の住人があなた方の世界に迷い込まない様にここに配置されたゾウドウカンセイであり、あなた方の世界に存在する物体によって構成されていない」
「a31278q4q? ゾウドウカンセイ?」
聞き慣れない単語に思わず俺は口を切る。
「俺に聞くな! つーか今は話し掛けんじゃねぇ、気が散るぜ! ……あいつの言葉を聞き取るので精一杯なんだ!」
室山は必死の形相をして、荒々しくその自身へと向く疑問の言葉を止める様に口にした。
「a31278q4q面側の物体であるワタシと、あなた方との相互認識は、あなた方と言う認識作用地点を中心に半径十メートル圏内で高度の空間湾曲を発生させ非常に危険である。直ちにこの場所から退避することを警告する」
「……空間湾曲?」
周囲を見渡すと明らかに増殖のスピードを増している赤いマンホールが目に付いた。俺が「姿」を認識するのに加えて、室山が天使の「声」を認識する様になったから……と考えばその増殖スピードの増加にも合点が行った。
この屋上を埋め尽くさんばかりの勢いで増え続けるそれら赤いマンホール。
触れればどこかここではない場所へと飛ばされるのだろうか。……それが人の「世界」であるのかどうかも解らない。
この場で唐突に「覚悟を決めろ」と言うのは厳しい話だった。ただ足が小刻みに震え始めて、力が入らなくなって来ていることも実感出来ていた。あらゆる点で限界が訪れていることは否定出来そうにない。
「例えこの場所を離れていようとも、あなた方がワタシを認識すると言う高度な作用は高確率で空間湾曲の動因となる。従って引き続き警告する、例えこの場を離れようともワタシと言う存在について思考することは危険性を伴い……」
室山は取り憑かれた様に、天使の「言葉」を口走っていた。まるで御神託を受ける宣教師の様に、他のあらゆることが目に入っていないかの様にも俺の目には見えていた。
ただそうやって神託を口にし続ける限りこの赤いマンホールの増殖は止まらないのだろう。もう足の踏み場もなくなろうと言う状態で、ふらふらと蹌踉めき一歩を踏み出せばそれで終わりだと言う所まで来ている。限界だった。
「警告の赤……か」
ボソリと呟いて見て、改めて眼前にある光景を見るとこの場は顕然な危機的状況だと思えた。
「なぁ室山さんよ? やっぱり落ちるのを待つよりかは一歩を踏み出す方が建設的だと思うかい?」
それは同じ様に呟く様な言葉であり、室山の答えを期待したものじゃない。まして取り憑かれた様に神託を口にし続ける室山の状態が眼前にあるのだからだ。
「……それだけじゃあなー、建設的とまでは行かないんじゃねぇのか?」
けれどもそんな俺の推測を裏切って室山は答えを返した。さらに続けて提案する。
「こっちの話を聞こうとしない天使に吐いておく捨て科白があるだろうさ?」
向き直った天使は未だ口を開いて訴えかけるようにしていた。……恐らくは俺達へと警告をし続けているのだろう。
クイッと顎を杓って「言ってやりな」と俺に催促する室山に感化されたわけじゃない。
口にしても恐らくは天使には届かない。……けれどもその姿勢には確かに意味があるのだろう。
「……また会いに来るからなッ、その時までには俺の声が聞こえる様にしておけッ、天使さんよ!!」
「何度でもだぜ、何度でも……まともな会話が出来るまでここに来て、あんたから情報を仕入れてやる!」
室山には天使の姿が見えていない、にも関わらずその鼻先に指を突き付けんばかりの勢いを持って室山も俺の後に言葉を続けた。気を吐いて大声を張り上げると自然と足の震えだとか言うものも掻き消えてしまった。
「人の行き交う範囲内から、外の世界に踏み出すっつーのが正順とランデブーっつーのも悪くはないかもな」
「……出来れば御免蒙りたいがそう言うわけにもいなかいだろうしな」
俺は溜息一つ苦笑いを見せながらそう口を開くと、一度室山と顔を見合わせその一歩を踏み出した。
無数に重なり合って場所によっては原型さえも留めていない赤いマンホール群へと踏み出す俺を、天使は相も変わらず険しい表情で見ていた。