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Seen04 くたびれた神様


 買い置きのカップラーメンに熱く湧かした湯を注ぎ、俺はhard-s'natchに示されたURLを眺めながらそいつを啜る。
 そのURLはタイトルに可視報告掲示板とあったが、それは恐らく俺が見たよりもずっと新しいものだった。
「119:「新しい掲示板に移行」>ここ封鎖しちゃうんですか? ……そーですよね、そいつらに嗅ぎ付けられるかも知れない痕跡をわざわざ残す理由なんてないですもんね。7月17日、発言者:Weltz」
 こちらの可視報告掲示板は非常に活況があり、またテスターと言えばいいのだろう……網膜視認アルゴリズムをインストールしている人物の総数もかなりに登ることが見て取れた。
「118:「新しい掲示板に移行」>前にここで話していたプロジェクトを潰そうとしている連中って、現在進行中の話だったのか? 「Dictator」>可哀想に。彼はきっとやっちゃいけませんって言われたことはどうしてもやりたくて我慢出来ないタイプの人だったんだろうね、くわばらくわばら……。7月17日、発言者:アオペン嫌い」
「116:まだ見ることを可能にしようとしている段階だって言うのに馬鹿な奴だな。完全に連絡を絶って五日、どんな形になるにせよ恐らく助からないだろ。7月16日、発言者:匿名希望」
 Dictatorなる人物が何か問題のあることをやらかしたらしいことがそこでは発言されていて、ここでのDictatorの発言が何なのかを確認しようとするのだがそれを発見することは出来なかった。次のページへと続くリンクも死んでいて、結局Dictatorのその発言を発見出来なかった。
 ……理屈は解らないながら、どうやらこのページだけが取り残された格好の様だ。推測をすれば取り残された原因もいくつか考えつくのだがそれを今述べてもどうしようもない。とどのつまり、前のページを見ることが出来ないのだから。
「117:この掲示板で報告のあったもののほとんどを確認することが出来た、全てのβテスターに感謝する。近日中に今までの修正点を付加した正規版をダウンロード可能にし、新しい掲示板に移行することにしよう。7月17日、発言者:糸居」
 ここでの糸居繁利の発言はそんな内容だった。俺が最初に見た可視報告掲示板のものと寸分違わぬものである。
 Dictatorの話題の途中に入っていながら、何一つそれに触れていない辺りがこの糸居繁利と言う人物の性格の一端を表している気がして、俺は思わず苦笑いを零した。
「115:あれほど銀色のドアに触ろうとするなと糸居サンが言ったのに、本当にDictatorは触ったのか。7月17日、発言者:九龍」
 銀色のドアとあるものを俺はまだこの目に見たことはない。しかしながら例え見える様になってもそれに触ろうと考えることはないだろう。ここを読み進めれば恐らく誰だったそう考えるはずだ。
「114:ここに集う人達が決してDictatorの二の轍を踏まないことを祈って……。そして彼の犠牲が無駄にならないことを祈って。7月16日、発言者:ユメノ」
「113:赤いマンホールが密集してる地点を見付けた。その時は近付かない様に注意したが街中では滅多に見掛けないはずのもの……、俺の見間違いだろうか。意見を求む。7月16日、発言者:テスター(27歳ヒラ社員)」
「112:仮に本当に触ったのだとしてDictatorは一体どこに行ったのだろう? ドアに見えると言うぐらいだから、やはりどこか別の場所へ繋がっていると考えるのが自然けど。戻ってこれたら彼は英雄だな。7月16日、発言者:月見里」
「111:Dictatorさんの無事を祈る。もしも間違って触ってしまったらと考えると決して人ごとではない。7月16日、発言者:Ell-forrtoria」
「110:前にここでDictator氏や九龍氏が確認したと言う銀色のドア、こちらでも確認出来ました。後、銀色のドアに関してですが常に同じ場所に存在しているわけではないみたいですね。昼前に確認出来た場所に、午後九時過ぎに行ってみたら消えてしまっていました。7月16日、発言者:テスター(未成年T)」
 ここから得られた情報はそれだけである。
 有用そうな情報と言えば、その「銀色のドア」云々に関することぐらいだったが、可視出来たものに覚悟なく「触ろうとするな」と言うhard-s'natchの強い忠告メッセージをそこから読み取れた気がした。
 恐らくこのURLを提示した目的なんてものはそれと大差はないものだと俺は認識していた。
 一通り目を通して、そこから得られる網膜視認アルゴリズムに関する情報が何もないことを理解すると俺は閉鎖回廊BBSに「君唄」などが書き込んだURLから何かしらの情報を集めようと閉鎖回廊BBSと移動する。
 俺の書き込み後、そこには君唄によって新しい発言が書き込まれていて、俺はそれに目を惹き付けられた。
「3月23日、発言者:君唄。集団幻覚事件についての続報、被害者の一人の名前が判明したのでここに記して行く。名前は室山京輔、セントラルビルの警備に当たっていた警備会社の契約社員で集団幻覚事件当日に警備員として出勤後、事件の被害者になり現在通院を兼ねた長期の休暇を言い渡されているらしい」
「……室山京輔」
 ふっと頭を刺す疑問がある。それは集団幻覚事件の被害者が「一体どこで網膜視認アルゴリズムを見たのだろうか?」と言う内容のものだ。集団で同じ幻覚を見たと言うからにはhard-s'natchが言った様に個人個人が全く別々な場所でそれを見たとは考えにくい。
 警察官の滝野が言った言葉を思い出して、その疑問はさらなる混迷を深めた。
 記憶が正しければ、集団幻覚事件の被害者は点検作業員と警備員だったはずで、そこに接点があるとは思えない。
 ……彼らは一体どこで網膜視認アルゴリズムを見たのか? 今なおそれが更新されていて、また大多数の人間が一堂に会して見られる様な場所で映像が再生されたなら、そこに糸居繁利の痕跡を見付けることが出来るのではないか?
 そんな期待が高まってしまえば、俺がノートパソコンの電源を落として実際に行動を開始するまでにそう多くの時間は掛からなかった。
 ……俺の場合は集団幻覚事件とは直接関係のないながら、それでも同じ幻覚と言う症状を訴えたことで病院に通院することになったのだ。それもこの症状については警察から病院を指定されたと言う事実があるのだから、俺と「室山京輔」が通院する病院が同じである可能性は非常に高いと思えた。
 電車に飛び乗るだけで、簡単に病院まで行くことの出来る交通の便の良さも相まって、俺は病院の待合室で室山京輔と接触する機会を窺うことを決めた。
 俺の通院周期が一週間に一度であることを考慮し、室山京輔の通院周期がそれよりも長いと判断しても、毎日の様に通い詰めていれば必ず接触出来るだろうと言う時間浪費型の目算だが確実性は高い。出来れば医師には知られたくはないと言う思い(どこか信用出来ない)もあって、俺はこの多大な時間を浪費するこの計画を実行に移すのだった。
 そうは言ってもただただ病院の待合室で室山京輔が訪れるのを待ち続けていると言うわけにも行かない。そんなこんなで代栂町・櫨馬地方版のタウンページで、室山とある全ての電話番号を徹底的に調べることにしたわけなのだが、病院の待合室に朝方から居座りつつ、それも常時タウンページに視線を落としながらと言う不審な挙動に、計画初日だと言うにも拘わらず白衣の上からでも解るぐらいにガタイの良い大男風の先生が現れて、俺の前へと立ったのだった。
「君、ちょっと良いか」
「あぁ、はい。何ですか?」
 俺は思わず顔を顰めた。タウンページに視点を落としていた所為か、今まで気付かなかったが遠巻きに俺とこの白衣の先生との様子を注視している方々がいることと、こうして眼前に立たれてかなりの威圧感を感じたことがその原因だ。
「あー……確か城野君だったよな? 今日は君の通院日ではなかったと思うんだが……一体何をやっているのかね?」
 そんな計画頓挫の危機の中、野次馬陣の中から俺の診察をしてくれた医者が複雑な面持ちをして現れて俺はそこに光明を見付けざるを得なかった。信用出来ないなどと散々宣って置きながらではあるが、こう言う事態に直面している段階でそんなことは言っていられなかった。
「笠史(かさふみ)先生。あなたの受け持ちの患者だったんですか?」
「あぁ、そうなんだ。ちょっとわけありの子でね、……僕の受け持ちに間違いない」
 飄々とした印象を受ける白髪の混じった印象的な顔立ちに、白衣の上からでもはっきりと解る猫背の中背痩躯の身体付きと、そんな笠史先生(今始めて名前を知った)には胡散臭ささえ感じていた俺だったのだが、そうやってガタイの良い大男とやり取りをする様には頼もしささえ覚えていた。
「そうですか。いや、余りにも挙動が不審だったらしくて、訝った看護婦が私の所に来ましてね……」
 こちらをジロリと一瞥した後、大男は謝るでもなくそんな具合に失礼極まりない言葉をついて去っていった。去り際に二言三言、笠史先生と何か会話をしていた様だったがその内容までは聞き取れなかった。
「さて事情を説明して貰うが構わないか?」
 一つ息を飲み、俺は覚悟を決めて口を切る。率直に、前置きをすることもない。
「……室山京輔に会いたいと思いまして、……遭遇出来る可能性があるのはここだけなんで……」
 一つの間を置きながら、……驚いてはいたのだろう、けれどもそんな表情の変化を僅かにさえも見せることはなく笠史先生はこう切り返す。
「室山京輔……か。集団幻覚事件についてどう調べたのかは解らないが名前まで引っ張ってくるとは大したもんだ。……まぁいいだろう、何かわけありの様だしたな。ちょうど今日が通院日だ。後もう少しもすれば来るだろうから、診察が終わったら会ってみると良い」
 頭を掻きながら簡潔にそれだけを述べると笠史先生は診察室へと消えた。その去り際に近くの看護婦と話をし、俺の方を指差して何か言っていて、恐らくこんなことがない様に話を付けてくれたのだろうと俺は都合良く解釈した。
 タウンページを読み耽る必要がなくなり、病院に設置された公衆電話にそれを戻してしまうと俺は完全な手持ち無沙汰となる。意味もなくタウンページに目を落とす理由はなく、暇を持て余していると十数分も過ぎた頃だろうか。笠史先生が入っていった「八」と数字の降られた診察室に若い男が入っていくのが目に留まった。
 診察は時間にして数分。恐らく「こんなんが本当に診察なのか?」と言った具合の、俺とほぼ同じ診察後の顔をして出て来た男に俺は声を掛ける。顔を知らなかったのだが間違いはないと確信していた。
「なぁあんた室山京輔だろ?」
 水を弾くナイロン製のズボンにラフなシャツを合わせた格好のそいつは俺をジロリジロリと眺めた後、「んー……あぁ、そうだけど、どっかで会ったっけか?」と怪訝そうな表情をした。髪型は不精で伸ばした印象を受けるボサボサのもので、「茶髪を黒く染め直した黒」と言えば良いのだろうか、……生来の黒髪ではないそんな髪色をしていた。
「セントラルビル集団幻覚事件の被害者の一人で間違いはないよな?」
「あー……何か、マスコミ関係さんか? 悪いんだけど無用の混乱を広げない為にってことで何も話せることはないんだ。俺も仕事の先輩に散々いびられた口だから情報リークするなら下っ端の兄ちゃん辺りに特ダネくれてやろうとは思うんだが、今は何も話すことはないよ、帰ってくれ」
 その「集団幻覚事件」と言う言葉を口にした途端に室山はヒラヒラと手を振り「向こうに行きな」と言った具合のジェスチャーを交えてそう言うのだった。
 マスコミが嗅ぎ付けたと言う様な話を聞いた覚えはないが、閉鎖回廊BBSで君唄が情報屋と接触して云々言っていたので、室山にはマスコミと同質の連中から同じ様に接触を求められたことがあるのかも知れない。それで何が変わるではないのだけど、俺の心の中にどうしてか僅かな焦りが生まれていた。
「……俺もセントラルビル集団幻覚事件とは別口ながら、幻覚事件の被害者なんだ、室山さん。……城野正順と言う」
「ッ!?」
 さすがにその言葉には驚いた風だったが、それもすぐに「本当かよ?」と言った具合の訝るものへと切り替わる。
 けれども例え訝られようが今の俺に取ってそんなことは二の次のことだった。
「率直にあんたに一つ聞きたいことがある。網膜視認アルゴリズムって知ってるか?」
「網膜視認アルゴリズム? 何だそれ?」
 惚けている風ではない。もう一つ驚いた風な顔を見せると踏んでいた俺は肩透かしでも食らったかの様だった。
「荒唐無稽な図面、文字とも記号ともつかない複数個の図形から成り立ってた一分ちょいちょいの映像のことだ。見覚えがあるか?」
 ただその言葉を知らないのかも知れないと思って、そう言葉のあらん限りを尽くして網膜視認アルゴリズムが再生した映像の説明してみても、室山の表情が改善される様子は微塵もなかった。寧ろ、訝るそれは悪化したと言って良い。
「あー……、失礼だとは思うんだけど、本物のー……精神患ってる部類の方か何かかい? 悪いな、ちょっくら忙しいんで構ってやってる時間はないんだ」
 そうあしらう様な対応を取って室山は歩き出す。「ちょっと待ってくれ!」と声を荒げる俺の様子を無視して歩く様に、こうなったら力尽くで……とも思ったのだが、それで事態が好転するとは思えず俺は自制心から踏み止まる。
 病院を出て歩き始めるその後を追って俺も外に出るのだが、室山は足早に逃げる様なことはない。そこに室山にはまだ俺の話を聞く可能性が残されていると解釈し、俺は必死に幻覚関連のことについて訴えるが室山が完全に足を止めて俺の話を聞くまでには至らなかった。
 そんな折り、人混みの中で見覚えのある人影と擦れ違って、俺はその目を疑いながら背後へと向き直るのだった。
 集団幻覚事件の被害者たる室山とほぼ同格の重要性を持つ人物であり、会おうと思って会える様な相手ではなかったから俺は激しい葛藤に襲われる。このまま俺をあしらう様に扱う室山を相手に会話を続けるか、それともその人影を追って行くべきか。……決断は迫られる。
 そのこぢんまりとした背中は人混みを擦り抜ける様に地下街へと消えようとしていた。
 基本的にはフードストリートからなるバスターミナルの地下街、……正午を回って相応の時間が過ぎた今ならば、激しく混み合っていることは考えられず、その後ろ姿を見失う様なことはないだろうと推察出来た。
 何よりもその後ろ姿を薄紫の花とほぼ同格のものだと俺が認識しているのだから見間違うはずはない。
「じいさん……」
 そう言葉に出した瞬間に身体は正直な反応をしていた。地下街への階段を下って行くその背中を追って駆け出していたのだ。その背後で室山が俺の方へと振り返る気配を感じたが「じいさんを追う」と決断を下した俺にそちらを構っている余裕はなかった。
「避けてくれ。すいません、急いでいるんで!」
 一際混み合う地下街への入り口付近でそう声を張り上げて、俺は先を急いだ。
 案の定、地下街それ自体はそう混み合ってはいない。ここいら一体は駅前にあるデパートと直接地下で繋がっているにも拘わらず、混雑が激しくないと言うのは救いだったとも言えるだろう。
 俺はすぐにその後ろ姿を見つけ出した。
 ……その瞬間のことだ。まるで始めて薄紫の花を見た時の様な顕著な異変。
 俺の瞳孔が変化を始め、何かにピントを合わせようと試行する。
 明らかに無意識で瞳に入る光量を調節する様な自然な変化ではない。……ものを捉える焦点が狂って俺の視界がぼやける中で、けれども俺はじいさんの後ろ姿だけはしっかりと捉えていた。
 まるでカメラのレンズが中心にある物体にだけピントを合わせる様な働きと言えば最適な表現かも知れない。それから徐々に徐々に視界は正常に周囲の光景を修正するかの様に明瞭になっていくのだからだ。
 最初の頃との明らかな相違は目の奥の痛痒さだとか後頭部に突き抜ける様な頭痛がないことだろう。
 ハッと我に返り、その後ろ姿を慌てて追おうと足を出して唐突にドンと肩がぶつかった。
 俺は「すいません」とだけ言って先を急ごうとするのだが、ピントがじいさんに合っている間はどうやら他のじいさん以外のものが見えにくくなっているらしかった。直前までそこに人がいた様には感じられなかったのだ。確かに気配の様なものを感じることは出来るのだが、そんな不確かな感覚を頼りに人の流れの中を擦り抜けて行くには無理があり俺は仕方がなしにその足を止めることを余儀なくされた。
 何とか視界が問題のないレベルまで落ち着くのを待って俺は地下街を疾走する。
 じいさんはゆっくりとした歩調でちょうど二つ先の路地を左手に曲がるところだ。この分で行けば十二分に角を曲がって後少しの距離で追いつけると俺の中では計算出来ていた。
 キュッとタイルを蹴ってじいさんの曲がった角を僅かに遅れて通過し、俺は手応え良く直線に向く。じいさんは今まさに突き当たりの扉を開け、地下街を出て行こうと言う所だ。距離にして五メートルあるかないかの距離であった。
 閉まろうとする扉をガシッと手で押さえ、俺はその扉を潜って外に出た。


 タンッと地を蹴って城野が遠ざかっていく足音が妙に室山の耳には残っていた。
 それだけ室山が幻覚について言及しようとした「城野」と言う男を意識していると言うことなのだろう。……大体が振り解こうと思えば振り解けたのだ。それをしなかったからにはその話を聞く用意が室山の中に合ったことは否めない。
 城野を追うべきだと室山の中に複数個ある思考ルーチンの一つが告げていた。実際、室山にはあれ以来幻覚だとかそう言った類のものが見える様なことはなく、こうして通院しているのだって正直馬鹿らしいとさえ考えているのだった。
 このまま夢幻だったと忘れてしまえばそれで全て、長期休暇を半強制的の形で取らされた仕事にもいずれは復帰する?
「くそッ、何だって言うんだよ、うっせぇな!」
 室山は頭を刺す「もしかしたら……」と言う思いにそう悪態をついて、来た道を戻る様に城野の後を追って地下街へと足を踏み入れた。まだ城野の後ろ姿を捉えることが出来る位置にいたのは好都合だと言えた。
 地下街へと降りると城野の向かった方向がどちらであるのか解らず、室山はのみ取り眼で周囲に険しい視線を向ける。
 せめてバタバタとけたたましい足音でも立てていれば瞬時に発見出来ただろうに、地下街を包み込む足音のお陰で聴覚を当てにすることは出来ない。……とそんな人の流れの中で立ち止まっている見覚えのある背中を発見して、室山は「ビンゴ!」と一つ呟いて走り出す。
 それに合わせる様に城野も走り出したのだがその速度は追いつけない様なものじゃない。けれども全力疾走で追いつこうと室山が考えなかったのは、城野が何かを追っている様な雰囲気を持っていたことを察したからだった。
 トンッとタイルを蹴って城野が前方の角を曲がった。
 それを見て城野が曲がった路地へと疾走しながら室山はすぅと大きく息を飲む。それはちょうど角を曲がったところで城野に追いつき何を追っているのかを問おうと考えたからだったのだが、その角へと差し掛かった所で室山はその足を止め呆然と立ち尽くすことになった。
 そこが行き止まりだったからだ。それも地下街の行き止まりだ。立入禁止の通路もなければ、地上に出る為の道も、地下街の他の通路へと抜ける様な横道も存在しない。そこからどこか別の場所へと行く道などないのである。それでもこの行き止まりから、どうにかして進むべき道を探そうというのなら天井にある通気口が精々だろう。
「おいおい、城野正順君? ……はは、あれか? 引田天功の親戚かなにかってかい?」
 引きつった笑いを表情に灯して室山は小さく首を捻る。頬を抓ってみたがそこには痛みがあり、ましてハァハァと息を切らしているこの現状を夢だとかそう言ったものだと捉えることは出来なかった。
「まさか……、また幻覚か? ……そんなわけはないだろ? なぁおい?」
 自問自答に明確な答えは返らない。一歩二歩と後退ってその行き止まりの通路の全容を見渡すのだが室山はそこに何かを見付けることは出来なかった。強いて言うのならその行き止まりに設置されたベンチに腰を降ろして天井に視線を向けている白髪のじいさんを見付けたぐらいだ。
「なぁじいさん? 今あんたの前をこんくらいの身長の男が横切っていかなかったかい?」
「あぁ? あぁあぁ……横切っていったなぁ。ほれ、そこにある扉を開いて奥の方に行ったわ」
 白髪のじいさんが指差した場所へと向き直る室山の表情は半信半疑と言う感じであった。そう、室山には「扉なんてなかったぜ?」と言う確固たる確信があるのだからそれも当然だと言えた。
 そうしてやはり白髪のじいさんが指差した場所には扉などと言うものは存在しなかった。
 一歩二歩とその壁へと歩み寄って、入念に確認をする室山の結論は「ここに扉などない」と言うものだ。
 一層訝る表情を激しいものにして、室山は目元を抑えて唸る様に口にした。
「ありえねぇ」


「じいさん!!」
 俺が呼び止めるとじいさんはピタリと足を止め、その場に制止した。
 バタァァンッと俺の後方で一つ扉の閉まるけたたましい音が鳴り響いたと思うと、俺の視界は再度ピントをじいさんに合わせる様に修正を始めて朧気なものへと変化する。
「占いは役に立ったかい、お若いの?」
 じいさんは俺の方へと振り返ることなく質問を口にして見せた。
 俺は「占い?」と怪訝な表情を取った後、一つ思考を巡らせてようやく何を言っているのかを理解する。
「……あぁ、今言われるまで忘れていたよ。……と言うことは役に立っていなかったって言うべきなのかい?」
「ほっほっほ、それはそれは手厳しい。だがそれはそれで正しいのかも知れん。……だがいずれはそれが脅威になる、覚えておきなさいお若いの。お若いのの身の為だ」
 こちらへと向き直るじいさんはそんな具合に微笑みながら、言葉の中途で表情を切り換え俺に忠告と言う形を取って告げるのだった。
 じいさんの顔に俺の視線のピントが合うと瞭然と視界が開けた。
 ぼやけた周囲の光景がその細微な箇所までも確認できるようになって、俺はこの場所に計り知れない違和感を覚える。周囲に俺とじいさん以外の人影が見当たらないこともその一因だが、ここがつい先程までの地下街ではないことが一目瞭然であることが大木対だろうか。
 コンクリートには無数の罅が走っていて、地下街というよりかは少しばかり幅と高さのある古臭い地下通路と言う印象を強く受ける。その印象に拍車を掛けるものは天井から吊される裸電球だろうか。
 コンクリートの柱の一本一本には時代を感じさせる特徴的な色遣いの広告があり、その年代層なんかはともかくとしてもここが人の行き交うことを想定して造られた場所であることだけは確かな様だった。地下通路は長く長く続いてはいるのだが、ずっと先には扉が存在していてその終わりも見えている。
 それでもこの通路の終わりにある扉が「まとも」な場所に続いてるとはどうしても思えなかった、
「ここは一体どこなんだ、じいさん?」
「ほっほっほ……、明晰な頭脳をしている」
 そうやって笑って見せるじいさんには俺の思考の上っ面の部分を読み取られた気がした。即ち「まとも」な場所には続いていなさそうだとか、そう言った表面的なものをだ。
 もしかするとそいつは俺の表情に不安と言う形を取って現れ出ていたのかも知れなかったが、その双方どちらにせよ、じいさんが俺のその問いに答えなかったことに変わりはなかった。
「じいさん、あんた何者だ? まぁ何者であったにしてもちょうど良かったよ、あんたには聞きたいことがあるんだ」
「聞きたいこと……かね。ならば私は私の知り得る知識の限りを尽くしてその問いに答えねばなるまい。なぜならお若いのがこの代栂と櫨馬の地方で生活を営むものであるからだ」
 じいさんは意味の通らないことを宣い一度二度と頷いた後、俺を見据える様に注視した。そこに突如して出現した威圧感さえ感じる雰囲気に俺は押される様に後退る。ただ、恐怖だとかそう言ったものを感じたわけではない。
「郷に入りては郷に従い、この代栂と櫨馬の規則に従い流れるものであるからだ。……ついて来なさいお若いの。お若いのの問いに答える前にお若いのが現在置かれる現状が如何なるものなのかを指し示して見せよう」
 唐突にクルリと俺に背を向き歩き出したじいさんに、途中途中で柱に埋め込まれる形で存在する古びた広告に目を向け足を止めながら俺はただただその後をついていくのだった。
 もちろんいつでも追いつける距離は保っていたし、じいさんだって「ついてこい」と言ったのだから俺をここに置き去りにする様なことはないだろう。しかしながら通路の途中で突然にその方向を変えたじいさんに、俺は慌てた。てっきりこの通路の突き当たりにある扉を開いてここから別の場所に行くのだろうと思っていた俺は拍子抜けした格好でもある。
 同じ地点を曲がるとちょうど扉が閉まり掛けていて、キィーッと閉まりが悪いのだろう扉は甲高い音を立てていた。
 俺は慌ててそれを制止する。……ちょうどその時のことだった。
 鼻につく独特の匂いがある。小雨が降りしきる中で、さらに周囲に木々が生い茂る様な場所で嗅ぐ事の出来る緑の草の匂いだと言えば的確なのだろうか。ともかくこんな場所では嗅ぐことが出来る様な匂いでないことだけは確かだ。
 僅かな隙間ではあったが開いたままの扉から、この扉の先がどうなっているのかを窺い知ることが出来た。足下には膝下ぐらいまで茂る草が生い茂っている。視点を高い位置へと切り換えるとそこに生い茂るものは草から背丈のある大木へと変化した。
 覚悟を決めてその扉を開くと充満する雨の匂いを感じることが出来た。サアアアアァァァァ……と生い茂る背丈の高い広葉樹の葉を打ち付ける音が鳴り渡っていて、俺の目には視界を遮るとは言わないまでの白い靄の様なものが薄く掛かっている光景が飛び込んできた。
 目を丸く見開いて言葉を失う俺は茫然自失の体で、その光景をただただ眺めるしかなかった。混乱だとか当惑だとかそう言ったものは飛び越えてしまっていた感覚があった。ただただ驚くしかないのだ。
「この世界には無数の神様がいる。そう遠くはない昔、……とは言ってもお若いのら人間に取っては気の遠くなるほどの長い長い時間かも知れないが、私らは確かにお若いのら「人間」に必要とされて神様と呼ばれていたんだよ」
 じいさんの声は俺の斜め後ろの高い位置から聞こえてきて、俺は慌ててそちらへと振り返る。
 俺が地下通路から出て来た「扉」のあった場所にはコンクリートの壁の残骸があって、じいさんはその壁に腰を掛ける格好で俺を見下ろす様にしている。「コンクリートの壁」とは言っても残骸と言う表現の方が「壁」よりも意味合い的には強い。幅にして三メートル程度、高さにして俺の身長の二倍には届かないだろうぐらいの高さしかないのだからだ。
 トンッと地を蹴って、降りしきる小雨によってやや泥濘気味のその感触を確かに感じて、俺はこの残骸の後ろ側にあるものを確認しようとした。しかしながらそこにはただただ広大な大森林が広がっているに過ぎなかった。
 そこに風景の描かれた壁か何かがあるかも知れないと手を伸ばしてみても、その手はただただ空を切るだけだ。地下通路へと続く扉はあれど、そこに通じる道がない、……そう言えば正しい表現になるのかどうかも解らなかった。
 小雨にしっとりと濡れながら俺は壁に座って遠くを眺めるじいさんに視線を向ける。
「ふむ……神様などと大層な名称で呼ばれたところで三大宗教なんかに描かれる様な全知全能なものではないのだがな。それでもだ、私で言うのなら……人間の行き交う道を司り、お若いのら人間が別の世界へと迷うことがないように括られていた、……いや今もなおそれは有効で私はこの地方で人の行き交う道を司り続けている」
 別の世界と言うじいさんの科白はこの光景を目の当たりにしている所為か酷く重たく感じられた。小雨に打たれることが心地よいとでも言わないばかりにじいさんは一度目を細めて見せる。……それが遠い目をしているのだと理解したのはじいさんの次の言葉が口から発せられた後だった。
「頼られることがなくなりくたびれた無数の神様達が日がな一日天を眺め暇を持て余す。こんな時代が来るなどとは誰も思ってはいなかった」
 正直な所を言えば「神様だ」何て馬鹿らしいと言う気持ちはあった。けれどもやはりこうやって、いざ眼前に別の場所へと連れてこられてしまっている現実がそれに確かな説得力をもたらしているのは確かだ。
 大木へと歩み寄ってその幹に触れればその植物の触感があり、コンクリートの残骸に手を伸ばせば無機質の触感がある。小雨が葉を打ち付ける音を聞き、生い茂る草を踏む足音を聞き、これを幻と捉えるには無理がある。
「まだ名前を名乗ってはいなかったかな。名前などとご大層に言ってみようとも所詮はお若いのら人間にこう呼ばれているに過ぎないが、いつまでも「じいさん」と呼ばれるのも癪だからなぁ。ほっほっほ……道祖神(さいのかみ)と、そう呼ばれている」
「じいさんが何者なのかは解ったよ、いきなり畏まるだとか言った対応の変化はないけどな、……そうか神様なのか」
 神様を前にしているなんて実感はない。
 威厳だとかそう言ったものを俺が感じているわけではないのだからそれも当然だと言えるのだろうか。
「じいさんはどうして俺をここに案内したんだ?」
「くたびれたとは言え仮初めにも神様だからの。この代栂と言う街を行き来する人間のことはある程度解るのだ、そして迷わぬ様に行き先を示してやるのが古くから与えられた私の仕事である以上、お若いのらをこのままむざむざわけも解らず際限のない世界へと迷い込ませるわけにも行かないのだ、例え進んで私らの世界へと足を踏み込むのであってもだ」
 自ら進んで……とは、じいさんには俺の様子がそう見えるらしかった。網膜視認アルゴリズムを自ら進んで望んだわけではないことを説明すればその誤解を解くことは出来ただろうが、どうしてかそれをしようと俺が考えることはなかった。
「ここはまだ本来の人間の活動範囲にある場所だ。けれどもお若いのが望むのなら、その本来の活動範囲外にも行くことが出来る、……だがそれは羅針盤も持たずに大海原へ旅立つ様なもの」
 打ち付ける小雨を身体に浴びる様に大きく両手を広げて見せて、じいさんはこの場所についてそう説明をして見せた。
「お若いのら人間には元来こちらの世界の道を歩く為の座標は備わっていない。例えこちらの道を扱える様になったとしても案内人がないのなら安易に扱おうなどとは思わないこと、そう忠告をしに来たのだと考えて貰えば結構だ」
 じいさんはそこまで話すとスッと目を閉じて、けれども哀愁を漂わせる雰囲気をまといながらこうも続けるのだった。
「そうは言っても、ヒトはヒトとしての宿命から逃れるだけの力……科学と言う名の新たなる神を得て、前の世代から受け渡された襷(たすき)を次の世代に手渡すだけが存在理由ではなくなったのだから、無数の神々を擲って手にした科学の元に為すべきだと思うことを為せばいい。それも一つの正しさではあるのかも知れぬ」
 好奇心を追求し身を滅ぼすものが人間だと読んだことがある。じいさんはまさにそれを実感しているのかも知れない。
 利便性を追求し地球を滅ぼし兼ねない高度な文明を気付きながら、さらなる利便性と進化を探求し続けるのだから、じいさんがそこに思い至ったとしても何ら不思議はない。ましてこの地球と言う星に人間以外の、このじいさんの様な存在がいると言うのならそれは尚更だ。
「不特定大多数に取って特別な「本物」をその手に持って迷い人となるのが幸福か、不特定大多数と同様に人間の持つ「制限」の中を迷い歩いて朽ち果てるが幸福か、私にはその判断は出来兼ねるが、こちらの、……本来の活動範囲外の領域に踏み込んで、お若いのらは一体何を望んでいるのだ?」
「俺は自ら望んでこっちにやって来たわけじゃない。向こうの世界に戻る道を探している、願わくば不特定大多数が見ることの出来ないこちらの世界を見たくはないとも思っている」
 俺はそう切り返してから、この質問がもしも網膜視認アルゴリズムを作り出した糸居繁利本人に向けられたのなら、糸居繁利は一体どう答えたのかを酷く疑問に思っていた。
 ただの探求心。それともそれが良いか悪いかを問わずにただただ技術の進歩を望んだものなのか。
 それは俺が考えても答えなど出るはずのない問いでありながら、どうしてこの世界を見ようと考えたのかを俺は疑問に思わずにはいられなかった。
「なぁ、じいさん……」
「お若いのを追っていた人物がいたのだが、それでもこの場所で私に質問を続けるかの?」
 俺がくっと息を飲んで質問の為の言葉を紡ごうとした時のことだ。じいさんはそれを遮る様に口を開いたのだ。
「……俺を追っていた人物?」
 心当たりがある人物と言えば室山ぐらいのものだったが、ついさっきまでの態度を考慮するにその室山が俺を追ってきたとは少々考えにくいことである。ましてじいさんと面と向かって話す次の機会がいつになるのかも解らない状況下で相手が誰なのかが不確かな、「俺を追ってきた人物」を優先するのは無理だと言えた。
「私は代栂町から南櫨馬に抜ける県道沿いにある伏斗(ふしと)神社に括られている。お若いのが私に会いたいと願うのなら、そこを訪れればいつでも会えるだろうて、私も「くたびれた神様」のその一つであるのだからな」
 まるでそんな俺の思考を読み取ったかの様にじいさんがそう口を開いて、俺は思わず驚きに目を剥いてじいさんへと向き直っていた。ただじいさんは自身の科白に自嘲気味に、俺のそんな驚きとは無縁のところで笑っている様に俺の目には映っていて、その科白が俺の考えを汲んだ故のものなのかどうかは解らず仕舞いだった。
「行ってやりなさい、今宵は良い月が出る。それはとても明瞭で、疑問だとか不安だとか、そして不和だとか言ったものを拭い去ってしまうかも知れない。私の占いではそう出ている」
 突然に何の脈絡も無さそうなことを口走り始めたじいさんだったが、その「今宵の月」の最後は綺麗に締め括られて、一瞬「何を言っているのか?」と訝った俺はその直後に「やられた」と苦笑いを零すのだった。
「……じいさんの占いは俺に取ってはまだ的中したことがないんだぜ?」
「ほっほっほ、それはそれは手厳しい」
 俺がにやつきながら切り返したその言葉に、じいさんが声高々に笑い声を響かせて、そこには細いものながら……不思議な信頼関係が生まれた気がした。


 じいさんに案内されて、俺は地下街は地下街でも人目のない関係者以外立入禁止区域内の狭い通路に出た。
 確かに扉を開いてそこに出たはずだったのだが、バタンと音を立てて扉が閉まってしまえば、その扉があったはずの場所へと目を向けてみても既にそこに扉を確認することは出来なかった。うっすらと「中」と「屯」の中間の文字の様な記号が俺の目には見えていたのだが、それも徐々にぼやけて消えてしまう。
 地下街表通りへと出るとつい先程の場所からそうは離れていない位置であって、俺はそこに挙動不審とさえ思えるほど入念に壁を調べる室山を発見したのだった。
「室山さん」
 そう呼び掛けると室山は一瞬……真昼に幽霊でも見た様に顔をして見せて、俺の方へと駆け寄ってきた。
 風貌が変わっていたと言うのは確かにある。じいさんの後を追って辿り着いた小雨の降りしきる大森林で、確かに俺は全身しっとりと水に濡れた状態になっているのだ。
 室山にしてみれば(こちらでどれだけの時間が経過しているのか俺にははっきりと解らないが)一瞬にして、水にしっとりと濡れた俺が……それも恐らく思わぬ方向から現れたのだ、驚かないはずがない。
「……城野正順さんよ、あんた天使が見えるだろ? あんたの側にも降ってくるのか?」
 ふっと真顔を見せて一体何を言うかと思えば、どうやら室山は俺をわざわざからかいにでも来たらしかった。
 天使などいるはずもない、いや……神様だって居るんだからどっかに白鳥みたいな羽を生やした人間に似た生物だっているかも知れない。しかしながら網膜視認アルゴリズムをインストールしてなおそんな生物を見たことはなく、またそれを「見たか?」と迫る人物が室山と言うこともあって、俺はそいつを「わざわざ引き返して来て人を馬鹿にしにきてくれたのだ」と判断した。
 見たかどうかを問う人物がもしもhard-s'natchだったなら、俺はその問いに真面目に答えたのだろうか?
「……天使だぁ?」
 俺は訝る表情を全く隠そうとせず、室山へと向き直る。「呆れてものが言えない」と、まさにそれを体現するかの様に両手を広げお手上げのポーズを取って見せて、一度二度と首を横に振りながらの俺の対応に、室山は「カチンッ」と来た様でその表情は見る見る内に変化した。顕著に口調を荒げて見せる室山はどうやらかなり頭に来た様だ。
「何だよ、端から疑って掛かるその顔はよッ、幻覚幻想だってかッ? お前だって網膜視認何とか似た様なこと口走ってたじゃないかよッ?」
 荒い言葉に返すは、売り言葉に対応する「買い言葉」の様なものだった。
「網膜視認アルゴリズムは実際に存在するんだよ。何ならお前にもインストールして見せてやろうかッ!」
「ああッ、だからよッ、そもそもがお前の言ってるその網膜視認アルゴリズムってぇのは一体全体何なんだよッ?」
 鼻先を突き付ける様にお互い向き合って、地下街を通り過ぎる方々がこちらへと頻りに振り返るのも気にも止めずに、喧嘩腰の言葉の応酬は留まる所を見せなかった。
「普通の人間には見えないものを見る為のイカレタプログラムだよッ、……だから、そいつをインストールしちまった俺はお前には見えないものが見えるのさ。ついさっきだってな、普通だったら存在しないはずの扉を潜ってどこだか解らない場所まで行ってきたぜ!」
 唐突に表情を真顔のそれに切り換えて押し黙る室山に対して、俺は続けざま吐き捨てるかの様にこう言った。周囲に立ち止まって、俺と室山を囲む様に様子を窺うたくさんの野次馬の方々がそれらを聞いていると言うにも拘わらず……だ。
「頭のイカレタ野郎の戯れ言だと思うか? 思うだろ? 思ってんだろッ? だったら笑いたいだけ笑えばいいだろ、但し……一頻り笑い終わったら俺の前から消えてくれッ!」
 荒い息を吐きながら、そう吐き捨てた俺の態度と対していると言うには室山のそれは酷く落ち着いていた。
 何か「意味」を噛み締めている、そんな風にも見受けられなくはない。
「俺は大真面目だよ、あんたが見ることの出来ないものから逃れる為にあらゆる情報を掻き集めようとしてるのさ」
「……だったら尚更だ、もしも天使が実在するならそれだってお前は見ることが出来るんじゃないのか?」
 このまま完全に口喧嘩の様相を呈したやり取りを続けていたら、警備員の方々か、最悪警察の方々がやってくるかも知れないと言う時になって、室山は冷静さを取り戻してそう呟く様に俺へと問うた。
「馬鹿言うな、幻覚が見える様になってからこっち俺はまだ一度も……、まだ一度も?」
 ハッと我に返って思い起こす。俺が持つアルゴリズムのバージョンが古いものであることと、その後継バージョンが存在する事を……だ。
「……正規版。そうか、まだ正規版が残ってるからか? まだ俺には見られるものが限られているからか?」
 天使と言う存在の有無、それが現行のバージョンでは見ることの出来ないものであること、またそれを見ることそれ自体に何の意味があるのか、そんな疑問は天使が本当に存在すると言うのなら全て二の次の疑問でしかなかった。
「……セントラルビルの屋上で、その天使を見たんだなッ?」
「いや俺が実際に見たわけじゃねぇよ、セントラルビルの屋上に天使が見えるっつー男がやって来て……」
 喧嘩腰から一転、唐突に真剣さを伴い勢いづいた俺の様子に室山は若干呆気に取られた様だった。ただそれでも勢い余った格好で俺は右手で室山の襟首を掴み上げる様にしてしまっている。
「集団幻覚事件ってのは結局何だったんだ?」
「だから今それを説明しようとしてるんじゃねぇか!」
 結論だけを急かし求めようとする俺に室山は少し強い調子でそう話す。
 ただそれも、熱を帯びてしまっている俺を牽制するにはちょうど良いとさえ言えただろうか。
「あぁ……そうか、うん。そうだな」
 僅かばかりの冷静さを取り戻して、俺は室山から集団幻覚事件に関する一通りの説明を受けることになった。それを全て聞き終えた後で、俺はある程度の概要を理解し、そして自分なりの推察をした。
 恐らくは室山らその場で幻覚を見た側が網膜視認アルゴリズムを見たのではないこと。そして消えた自殺者とは、俺がついさっき神様の後を追った様に、ここではないどこか別の場所に行ったのだろうこと。
 そうして恐らく天使とは「記号の記された扉」や「薄紫の花」の様な、この不可視の側の世界に存在しているだけの「物」ではなく、神様と同じ様な……この「不可視の世界」の側で何かを司る「意味」を持っているものだと推測したのだ。
「サンキュー、とても参考になった、……いやいや本当にありがとう」
 心ここにあらずの対応に取り繕った感謝の笑顔を乗せて、そそくさとその場を去ろうとした矢先のこと。今度は逆に俺の右手首が室山によってガシリと掴まれる。
「ちょっと待ってくんないかな、城野正順さんよ。自分一人だけ合点が行った様だが、それで「はい、さよなら」ってのはちょっと勝手が過ぎるんじゃねぇ?」
 隠されたお怒りの表情さえ簡単に読み取ることの出来る満面の笑みを見せ、室山は「俺にも事情説明をしやがれ」と言っていた。少しの躊躇を挟んで、網膜視認アルゴリズムと現時点で無関係だと思われる室山に、今その話をしてもどうしようもないことを俺は考えていた。
 だから端的に、けれども強面にではなく、……それが意味を成さないことを室山へと告げた。
「室山さんよ、今のあんたには踏み込めない世界の話なんだよ」
「網膜視認アルゴリズムとやらをインストールすれば、そっちの世界に踏み込めるのかよ?」
 室山の様子は「試しに尋ねている」だとかそう言った感覚を俺に抱かせない程の真剣味を伴っていた。だからこそ、俺は室山に対して喧嘩腰の態度を改め、その踏み込もうと言う思いを再考する様に忠告する。
「……踏み込んでどうするさ? 俺はあんたが羨ましいよ。そっちの世界で、俺が見たくないものを見ないで済んでいるんだから。……そう言うことさ、一時の気の迷いで馬鹿な判断は下さない方が良い」
 すっとその場を去ろうとすると、室山が俺を呼び止めてこう問い掛ける。
「城野正順さんよ、……天使を見に行くのか?」
「俺には会う理由がある」
 こちらに踏み込んでいるが故に、ここから逃れるには行動しなければならない。hard-s'natchが糸居繁利の居場所を突き止める日が来ることを願ってはいるが、それがいつになるのかも解らないのではただ待ち続けるなんてことは出来ない。
 まして糸居繁利本人に「それは出来ない」と言われる様なことがあれば、いつになるかも解らないその地点からスタートしなければならないことになる。
 糸居繁利に頼らずこいつを何とか出来るのなら、そうしたいと言うのも本音であるのだ。
「そうか。……だが俺にも会う理由があるんだ、城野正順さんよ。つーわけで、網膜視認アルゴリズムとやらを俺にもインストールしちゃあくれないかね?」
 ジリッと一歩前に出て、俺に顔を突き合わせる様にして室山がそう口を切った。
 酷く真剣な目つきが妙に印象に残った格好だった。


 カチャンッと施錠を外し、俺は室山を自宅へと招き入れた。
 結局あれから論点のずれた様なやり取りが十数分に渡って続き、やはり周囲がそこから感じ取った雰囲気は並々ならぬものだったらしく、野次馬に警備員へと通報される形で喧嘩腰の対話は唐突な幕切れをして、済し崩し的に俺が折れる形で今に至るわけである。
 俺の部屋の乱雑振りは中の上ぐらいと比較的酷い部類に分類されたが今はそんなことを言ってもいられない。じいさんの言葉を真に受けるわけではないが、神様たるじいさんが今日と言う日を「疑問だとか不安だとか、そう言ったものを拭い去る」と言ったのだから自然と期待もするというものだ。だからこそ、今日中に天使に接触することを俺は考えていた。
 室山は俺の部屋の様子を一通り見渡して、「ま……予想していたよりかはマシな部類だな」と呟きながら、両手を広げるジェスチャーを見せて「俺はどうすれば良いんだ?」と聞いてきた。
「座布団はその辺りに埋もれてるはずだから適当に引っ張り出して座ってくれ」
 俺が指差した場所には洗濯と乾燥を終えていながら、箪笥にしまい込むのが億劫になった衣服の類が山の様に積まれている。俺の記憶が正しければ、その衣服の下には古い雑誌が積んであったはずだが座布団を引っ張り出すのにそう労力は掛からないはずだ。
「……簡単に言ってくれるねぇ、正順さんよ」
 そんな具合にぼやきながらも衣服の山の撤去に果敢にも挑戦する室山を尻目に、俺は網膜視認アルゴリズムのインストール準備の為にパソコンを立ち上げる。
 殊の外、起動はスムーズでノートパソコンの調子それ自体はいつもと変わらない。俺の気分の高揚とは無縁の、無機質さ故なのだろう。ここで何か障害が発生したなら、俺は天使との接触を迷ったかも知れない。
 未だそんなことに考え至る葛藤が心の中には漂っていた。
 ……と、起動直後にポコンと音が鳴り「hard-s'natchの発言」と来て、俺はかなり驚いた。どうやら起動時にメッセンジャーが自動的に立ち上がる設定になっていた様で、起動時にインターネット接続が出来る環境下だと自動的にインターネット接続を試みる様にした設定と合わさって、一気にメッセンジャーの接続まで行ったらしかった。
「hard-s'natch?」
 座布団を手際よく引っ張り出してきた室山がその液晶画面を覗き込む様にして、怪訝な表情を取っていた。
「俺に正規版の網膜視認アルゴリズムをくれた人物だよ、糸居繁利関係のことに関しては俺よりも遙かに詳しいはずだ」
 そう説明しながら、俺はキーボードをタイプしてhard-s'natchと会話を交わす。
「糸居繁利のことをhard-s'natchサンに聞こうと思っていたんだが一つだけ解ったことがある。糸居繁利ってのは本物の天才だったんだな?」
 当初はこのアルゴリズムが神様と言う存在を見ることの出来るプログラムだなどとは思いもしなかったが、改めて顧みると確かに技術的には画期的な革新となるものを糸居繁利と言う天才は作り出したのだと思えた。
 それが正しいかどうかの議論は別の次元の話だとしても、天才であることには何の疑問もない。
「……聞き囓っただけの話に過ぎないものだが糸居繁利の話をしようか。マサナオにはまだ話をしていなかったと思う」
 朝方言っていた解析とやらは終わったのだろう。ただその話から入らない所を見るとその結果は著しいものではないらしいことが簡単に窺えた。
「この世界を統括する法則では確認することの出来ない質量を持たざる何かを檻の中に閉じ込めたりする、糸居繁利はそう言った類の多くの画期的なシステムを開発しようとしていたらしい。もしかしたら先天的にそう言った異なる法則があることを感じる様な第六感を持っていたからなのかも知れない。……取り分け彼は「見えないもの」を認識する為のアルゴリズムに力を入れて取り組んでいた」
 そうして網膜視認アルゴリズムを開発した。……最終的にそこに辿り着くのは明白だ。
「例えばそれが……本当に存在するものなのかどうかはともかくとして、どうして幽霊と言うものを「見ることが出来る人間」と「見ることが出来ない人間」がいるのか。それが霊感と言うものによって左右されるのならば、どう言った脳の構造的な問題でそれが振り分けられているのか。またそれは後天的なものとして、「見ることが出来ない人間」……即ち「霊感を持たざるもの」に霊感を持たせることが出来るのか。糸居繁利はそう言ったことに力を入れた研究者の一人だった」
 hard-s'natchは最初に「聞き囓った」と前置きしたが、例えこれが正しい理由ではないにせよ、……恐らくその理由なんてものは今言われたものと大差ない気がした。結局行き着く先は好奇心……、そんな気がする。
「やはりきっかけ何てそんなものなんだよなぁ。見ようと思って「くたびれた神様」の居る世界を見たわけじゃない」
「くたびれた……神様?」
 俺はじいさんのことを思い起こしながら、その表情には苦笑いを零していた。ただその話もここで早急にしなければならないものでもないのは明白で、俺はhard-s'natchに対してこう発言を返す。
「何でもない。それよりも今から網膜視認アルゴリズムをインストールしようと言う馬鹿もう一人に変わるから、hard-s'natchさんから簡単に説明してやって欲しい」
 そう言ってしまってからhard-s'natchが網膜視認アルゴリズムの新規インストール者を望んではいないことを危惧したが、その答えは「……解った」と言う明快なものだった。「リスクを背負うだけ」と強い調子で新規インストールに対して話して見せたにも関わらず、それに対して俺に理由を尋ねることさえもしないのはこちらにそれ相応の理由があると考えているからなのだろうか?
 ともあれ、既にそれをhard-s'natchに問うタイミングにはなく、俺は次の段階へと進む為に室山へと向き直る。
「室山さんよ、ハンドルネームの希望があれば聞くが何が良い?」
「ハンドルネーム?」
 それに対して鸚鵡返しをして見せた室山はどうやらIT系統のことには詳しくないらしい。
 そう思ってから改めて室山を上から下まで眺め見ると、確かに理数系の雰囲気は感じなかった。
「パソコンぐらいは扱ったこと、あるんだろう?」
「あー……キーボードで文字打つのはやらされたねぇ、高校ん時。ただ俺は勉強するのが嫌で高校出てすぐに就職した口だからな、……で、今の仕事が警備員だ。つまり高校出た依頼だよ、パソコンなんてものはさ」
 あっけらかんと言って退ける室山に対して「どうしたものか?」と考えながら、俺の行き着いた結論は「だったら、俺が適当に決めても問題はないな」と言うものだった。
 いくらでも変更が利くものであり、また整合性が取れるのならいくつ使い分けても問題がない様なものだ。
「それじゃあ、俺が適当に決めて問題ないな」
「ちょい待ち、あれだろ? あだ名みたいなもんだろ? だったらキョウスケで頼むぜ」
 そう切り出した俺に対して、やや慌てる調子で室山はそれを制止した。俺としては出鼻を挫かれた格好でもある。
「キョウスケ? 捻りもなく本名そのままって言うなら特に口挟むまでもないだろうに?」
「城野正順……って、後呼びづらいんで正順って呼び捨てさせて貰うわな? ……正順の面当てで物笑いっぽい名前にされちゃ堪ったものじゃないかんな」
 ここに来て一つ実感したこととして、室山とは至極サッパリとした物言いと割り切りが出来るタイプの様だった。俺だったなら、こうも簡単に「京輔」と呼び捨てるなどとは言えないだろうし、また思わないだろう。事実、暫く俺の側では「室山」もしくは「室山さん」で続くだろうことは明白だ。
 その後に続いた悪態に気を掛ける間もなく、俺はそんなことを考えていた。
「……」
 hard-s'natchに話し手が変わることを告げノートパソコンの前の席を室山に譲ると、俺は着替える為に風呂場に足を向ける。カタ……カタ……とキーボードをタイプする速度は遅いが会話に支障を来す様なものでもない様だった。
 小雨の降りしきる大森林でしっとりと水分を吸って、未だ湿っぽい衣服を脱ぎ捨て軽くタオルで身体を拭い、俺は着替えを手早く済ませる。
「始めまして、キョウスケ?」
「始めまして、hard-s'natch」
 そんな滑り出しで対話は始まっていて、俺は遠目から室山の表情なんてものを見ながら片すべきことを片していたのだが、その表情が見る見るうちに真剣さを帯びて行くのが見ていて殊更面白かった。
 箪笥の一番下の引き出しを取り外し、そのさらに奥に手を入れて箪笥貯金を引っ張り出してくる。財布には一万ちょっと入っていて、また多額の金銭が必要になる算段はなかったが念には念を入れて置こうと言うわけなのだ。
 夏場は滅多に使うことがないだろうとしまい込んだジャケットを用意する。ただただ天使に会いに行くだけ……そうは言っても「何が起こるか解らない」と言う思いは俺の中で以前として強いものなのだ。
 思いつく限りの装備を整え終えると俺は真剣に液晶画面に見入る室山のやり取りの様子を、その背後から覗き込んだ。
「見ることが出来るとは、確かに一歩前進はしているのだが、そこに焦点を合わせられなければ意味がない。……言葉が悪いかな? それを一つの意味あるものだと脳が認識出来なければ意味がない」
 網膜視認アルゴリズムの認識に関する説明がなされているらしかった。hard-s'natchがどんな上手い説明をするのかが少し気になって、俺は背後から黙ってその説明内容を目で追っていた。
「君が自宅の脱衣場にいるとしよう。そこには脱衣籠があり、壁のタオル掛けには手拭いと風呂場で使用するタオルが掛けられている。君はその脱衣場にある全てのものを見て、何か「もの」が存在しているのだと認識することが出来る。しかしもしも君がタオルを風呂場で体を洗うのに使用するもの、…いやそもそもがそれをタオルと言う一つのものだと認識出来ないとしよう。するとどうだろう?」
 室山は険しい顔をして、その言わんとするところを考えている様だったがそれも仕方がないだろう。言葉で説明されて「はい、そうですか」と簡単に合致するイメージを作り出せるのは極々僅かの限られた人間であるはずだ。
「君はタオル掛けに並んだタオルとタオル掛けを一つの何かと認識し、それぞれをタオル掛けとタオルと言う別個のものだと認識出来ないはずだ。君が現在置かれている状況はその例えと何ら変わることがない状況で、そしてそれは君に限った話ではないと言うことだ。君と「現実」と言う世界を共有しているほとんどの人間に当てはめて言うことさえ出来る」
 小難し顔をして集中力が途切れたのだろう、ようやく背後の俺に気付いた室山は「難しくてー、何言ってるのかサッパリ解りません、城野先生!」と戯ける様に言うのだった。
「簡単に言えば今眼前にあるものさえも室山さんは見て触ることが出来ていないってことさ、ま……百聞は一見にしかず。……本当に覚悟は出来てるんだな? 踏み込んだら後には引き返せないぜ?」
「はッ、そんなもんでも見えねぇよりは見える方がなんぼかマシなんだよ」
 未だ室山がアルゴリズムをインストールするのを納得したわけではない俺が、キッと凄んで見せても引く様子を室山が見せる様なことはない。何が室山をここまで掻き立てるのかは知らなかったがもう俺の側でも後には引けなかった。




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