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Seen03 閉鎖回廊/管理人


 斎条さんが運転する車に揺られ、見慣れた代栂町町民会館まで辿り着いた時は空が夕焼けに染まり始めた時間帯だった。それは斎条さんが同席出来る時間と言うものが、思いの外、後ろにずれ込んだことが影響したからなのだが斎条さんはその時間を今日中に確保する為に色々とやってくれたらしかった。
 町民会館の入り口前で俺を降ろして駐車場まで車を置きに行った斎条さんを玄関前で待っていると、講習前にはいつも顔を合わせている掃除のおばちゃんに出会した。本日が講習の日ではないことを知っているわけで僅かに不思議そうな表情をしていたおばちゃんだったがその場に斎条さんが姿を見たことで、打合せか何かがあるのだろうと判断したらしい。
 俺と斎条さんに小さく会釈をすると掃除のおばちゃんはまだ仕事が売るのだろうササッと町民会館の奥の方へと入っていってしまった。
「こっちだよ、城野君」
 そう先導する斎条さんの後を追って、普段は立ち寄ることのない町民会館の外れへと向かっていくと、ふと町民会館内部に人の気配を感じた。それも少数ではなく、かなりの人数がいる様に俺には感じられた。
 そんな俺の様子を察したのだろう斎条さんは俺が口にしていない疑問に対してこう説明をしてくれた。
「城野君はパソコン講習の時以外には町民会館に来ることがないだろうから解らないと思うけど、今日は奥の多目的ホールを代栂町内のハンドボールクラブに貸しているんだよ」
 直ぐ隣の廊下を通る際には頻りにボールが床を打つ音の響いた多目的ホールを越え、斎条さんが俺を案内した場所は町民会館の最も奥の部分に位置する部屋だった。
 隣には大容量UPSの設置の関係かどうかは解らないが、黄色と黒の「高圧電流注意」と注意を喚起する色で構成された看板が掛けられた部屋がある。
 斎条さんが差し込み型キーを「立入禁止」と書かれた重々しい金属質の扉の鍵穴に差し込み扉を開くと、パチン……パチンと音がして室内には自動で電気が灯る。室内は俺が思っていたよりもずっと狭いもので、机が二つ並んだだけで外に取り立てて目につく様なものもないこじんまりと片付いた簡素な部屋だった。
 その部屋の中にあるもので真っ先に俺の目が行った箇所がブレードサーバーであるぐらいだから、どれほど殺風景な部屋かは解って貰えるだろう。ともあれ後から追加が可能なとても小さな筐体のブレードサーバーと言う設備が、それがこの町民会館に最近構築されたものであることを示唆していた。
 ここを高校だとか中学だとかの教室に見立てると、掃除用具を格納するロッカーをそこに納めるだろうスペースにサーバーがスポッとはまっていてまるで違和感がないのだから、これで独特の機械音さえなければ何も知らない第三者はここを事務室か何かと見紛うことだろう。
「ブレードサーバーのディスプレイ出力を変換コネクタを通して僕のノートの外部入力に繋いで、ログファイルの出力先をLAN上にある僕の……」
 手早くブレードサーバーのポートにケーブルを差し込んで行く斎条さんの手付きは手慣れたものだ。ボソリボソリとどんな手段でログファイルを出力するのかを、自身……確認しているのだろう、呟きながらそれはあっと言う間であった。
 ノートの液晶画面に目を走らせながら、斎条さんは俺へと振り返ることもなくこう説明をした。
「えーと、アクセスログは一日単位でしか出力出来ないみたいだから、この前の講習の日……丸一日分を出力することになるな。少々もの探しと言うには手間取るだろうけど我慢してくれ、城野君」
 カリカリと僅かにノートのハードディスクに書き込み音がしたかしないか、それだけでログファイルの書き出しは終了したらしい。正直な話をすれば、もっと時間が掛かるものだと思っていた俺に取ってそれは意外な内容だった。
 斎条さんは液晶ディスプレイの表示をサーバーのものからノートのものへと切り換えて、エディタを用いてその過去ログファイルを開いて見せた。
 覗き込む様にして見たその過去ログファイルにはずらりとIPアドレスやらアクセス先のURLなんかが並ぶ。
「IPアドレスは変動式のもので、アクセスする際に常時割り当てが変更されているから当てにはならない。時間帯を区切って総当たりで探すしかないだろう」
「嘉渡さんがアクセスした大体の時間は覚えていますから、そんなに労力は要らないと思いますよ、斎条さん」
 町民会館のネットワークの仕組みがDHCP(Dynamic Host Configuration Protocol)サーバーを用いてIPアドレスを割り当てていることは知っていたが、例え嘉渡さんがどれなのかを特定出来なくとも恐らくアクセス先で判別出来ると俺は推測していた。
 その時間の範囲を口頭で斎条さんに伝えると、斎条さんはショートカットキーを用いて検索ウィンドウを表示し、俺が言った時間帯のアクセスログへと画面を切り換える。そこに表示されたURLの総数は俺が想像していたよりもずっと少ないもので、虱潰しに探していってもさしたる労力にもならない様な量だった。
 その上、さらにその時間帯のアクセスログの大半は検索エンジンのものであり、そこら辺パソコン初心者であったことが幸いした格好だ。
「……」
 じっとそのURLの羅列を真剣な眼差しで注視する俺の様子に、斎条さんも黙り込んだまま俺の視線の先を追っていた。
 そしてサーバーが記録したアクセスログに残されたアクセス先のURLの中には明らかに違和感を放っているものがいくつか存在していた。
 それを具体的に言うと、所々にスラッシュの区切りが入っていながら最後には拡張子さえ記述されていない文字と記号と数字の羅列など……となるのだが、大半が俺の教えた通りに検索エンジンからあちらこちらのホームページに飛んでいるので、それら違和感を覚えるものを書き出していくと言う単純な方法はかなりの成果を発揮出来そうだった。
「こいつも書き記して置いた方が良いよ、城野君。ここにアクセスしたことで直接的に外のサーバーから何かを読み込んだ形跡がある」
 斎条さんが時折そんなアドバイスをくれて、俺は数個のURLをそのアクセスログの中から書き出した。時間にして三十分と少し掛かったのだろうか。ともあれ、ここで出来る必要不可欠なことは全てやったと言っても過言ではないだろう。
「良かったら一緒に夕御飯でもどうだい、城野君?」
 斎条さんがそんな具合に俺を誘ったのは帰り際、斎条さんの車に揺られて代栂町の幹線通りまで出た時のことだった。
「え、……っと」
「もちろん、僕の驕りで結構だ。学生さんからどうのこうのと言うのは現実的じゃない」
 咄嗟にそう渋る様に返答に困った俺の様子に、斎条さんは金銭的な問題から俺が返答に困ったと判断したらしい。
 実際のことを言えば、金銭的な問題からその誘いに難色を示したのではなかったのだが……無理を言って斎条さんに頼んだわけで、ここに来てせっかくの誘いを断る理由はなかった。
「すいません、それじゃあお世話になります」
「定食屋で旨い店があるんだ」
 そう言った斎条さんは車線変更のウインカーをあげるとパパッと行き先を変更し、その定食屋へと道を変えた。
 斎条さんに夕飯をご馳走になって自宅へと戻った時刻は夜の八時を回った頃だった。
 上着を椅子の背へと放り、俺は座卓の上に開いたままのノートパソコンの電源を入れる。常時電気の通ったままのルータからダラリと垂れたLANの線をノート背面のポートへと差し込み、情報の海へと飛び込む準備は調った。
 大学入学と同時に購入した型落ちのノートパソコンながら、余程のことをやらせようと考えない限りは現役でまだまだ行ける性能は持っている。何かと物入りの一人暮らしが続く以上、まだまだ頑張って貰わなければならないだろう。
 そうこうしている内にOSが立ち上がり、スタートアップに登録されているメール確認ソフトウェアがインターネットへの接続を認識して自動的にメールの有無を確認する。どうやら俺宛のメールは一通もない様だった。
 何度もコーヒーなんかこぼして薄汚れた座布団を床へ敷き、その上に腰を据えると俺は町民会館でURLをメモした紙を取り出しノートパソコンへと向かい合った。
 インターネットエクスプローラーを利用してウェブを表示するカスタマイズソフトウェアを立ち上げて、俺は一つ一つ紙に書かれたURLを上から順に打ち込んでいく。上からと言うのはアクセスした時間が早い順にと言うこととイコールだ。
 外れを閉じては次を打ち込んでいく単純作業の中、俺が最も違和感を覚えるURLと辿り着いた。
 具体的に何に違和感を感じるのかと問われれば、そのURLが営為的ではないことを答えるだろう。まるでコンピュータの疑似乱数を用いて、それをそのままURLに宛てたかの様なもの。それもわざわざ深い深い階層を用意して、ダミーを誂える為の様々な手段が講じられているかの様なものである。
 そいつを打ち込み終わって「Enter」キーを押すと、瞬時に画面が切り替わる。俺に了解を取ることもなく、打ち込んだアドレス先からどこか別のページに飛んだのだった。
 辿り着いた先は可視報告掲示板と言うCGIだった。
 目的の場所と思しきそのCGIに辿り着いた瞬間のことだ、前画面にポップアップウィンドウが展開する。「はい」か「いいえ」かの選択を要求する見慣れた灰色の、一見何の変哲も見受けられないウィンドウである。
「……網膜視認アルゴリズム?」
 そこにはご丁寧に注意を促す文章が並んでいた。その手の広告との大きな相違点は見受けられない。
 俺はそれが目的のものであるのかどうかを確認する為に、いつもなら迷わずに「いいえ」を選択するだろう勿体ぶった長ったらしい文章に、必死になって目を通したのだった。そうしてそれが俺の探しものである可能性を見付けた。
 書き出しを「網膜視認アルゴリズムβバージョンのダウンロード」と始めるその文章の内容は、ショックウェーブなどと同様に「ブラウザ上で表示するのに必要だからダウンロードをして下さい」と促す形を取っている。
「現在ダウンロードを行おうとしているファイルは、ファイルによっては問題を起こす可能性があります。以下のファイル情報を確認し、疑わしい点がある場合や発信元が完全に信用出来ない場合はダウンロードをキャンセルしてください」
 目を通し口にしてその一文を音読してみれば、不意に苦笑いが零れていた。嘉渡さんはこの内容に対して「はい」を押したものなのか……と。
「講習の最初の頃に、ここは重要だって強調して話したつもりだったんだけどな」
 ここに来て思い起こった気持ちと言うものは怒りとだかそう言ったものではなかった。
 俺自身が先生としてものを教える立場になった故に思い悩んだ、「教える」と言う行為に対する難しさの再認識だ。
 一つ深呼吸をする要領で息を飲み、俺は気持ちを落ち着かせるとその続きへと目を落とす。
「網膜視認アルゴリズムβ1_03は「05/04」に署名されて次から配布されています。インストールを実行しますか?」
 それを五月四日と読むか、四月五日と読むか。それはそう大きな相違ではない。なぜならばそのどちらであったにしろ、既にこのプログラムが最低でも一年近くは前の代物であることを示していたからだ。
「アイ、エー、エル」
 配布元は英字を三つ続けた組織だった。その三つがそれぞれ大文字なので、恐らくは企業名か何かの頭文字を取って短縮したものだと推測出来た。
「発信者の認証は、……中央工科大学により確認されました。警告、IALはこの内容が完全に安全であることを主張しています。IALを信頼している場合にのみ、この内容をインストールしたり表示してください」
 ……とした箇所にある漢字を俺は読むことが出来なかった。文系に強くない俺は元々漢字だとか文章だとか言ったものに弱いと言うこともあるのだが、それを差し引いてもそいつは見覚えのないものだった。
「愽月……?」
 文面をそのまま新規に開いたテキストファイルへコピーして、俺は覚悟を決めた為に一つ間を置いた。
 これが嘉渡さんがダウンロードしてきたプログラムであるのなら、今以上に幻覚の見えるこの現状が悪化する可能性がある。また再び頭痛だとか目の奥の痛痒さだとか言ったものがぶり返さないと言う確証もないわけなのだ。
 けれどもそいつを確認することはこの現状を打破すると言う目的に置いて高い必要性を持っている。
 どうしても、やらないわけには行かなかった。
 俺は「はい」のボタンをクリックをし、そのプログラムのダウンロードを始める。
 思いの外、気持ちが高ぶる様なこともなく緊張を感じることもなかったのが我ながら不思議だった。
 これが例のプログラムだったとしても、それによる苦痛を耐え抜いた経験がある。そいつが大きいのかも知れない。
 平静だと言えば嘘になるが、しかしここに来て「強い不安を感じているのか?」と問われれば、その答えも「いいえ」となるのだろう……。
 ダウンロードそれ自体は数十秒とは掛からなかった。それは例え回線がナローバンド時代のものであっても、落とし切るのにそう時間は掛からないだろう容量のプログラムだと言うことを意味する。そしてそこにイコールが成り立つわけではないながら、こいつがナローバンド時代の代物であっても何ら不思議ではないことを意味していた。
「現在、網膜視認アルゴリズムのインストールを行っています。モニター周波数の最適化を行っています……。必須Vram容量確認、……必須CPU周波数確認、ではプログラムを実行します」
 その内容を見定めようと俺はモニターを見る目に神経を集中する。そこには妙に落ち着き払った俺がいた。
「それでは決してモニターから目を離さない様に注意をしてください」
 一瞬画面が真っ黒に変わり、それは描写された。
 これを見るのは二度目となる。けれどもそこに描かれた数々の奇妙で意味不明な図形とも文字とも記号とも取れるものを理解することは出来なかった。いや元々理解出来る内容のものなどではなかったのだとも思える。
 一度目よりかはそれに対して客観的な視点を取ることが出来たのは確かだが、だからと言ってそこから解ったことは極々僅かに過ぎない。
 描写された様々なものがそれ一つからなっているのではなく複雑に入り交じった図形ないし文字、または記号とも取れない、それらの羅列が複数個から複合された画面であること。さらにそれらは0コンマで次々と画面を切り替えていて、ある特定のパターンで繰り返し繰り返し複数個を組み合わせた画像を表示させていることだ。
 一分近く続いた描写が終わっても、講習中にこいつを見た時の様な違和感は何一つ感じられなかった。
 それでも敢えて、違和感をあげるとすればやはり「目の奥に重たい感じ」がないことになるのだろうか。
「お疲れ様でした。それではメモリ上に展開されたプログラムの解放を行います」
 見覚えのあるメッセージが表示され、一連の網膜視認アルゴリズムとやらのインストールが終了した後に表示されたものは先程ちらりと表示された掲示板形式のCGIであった。俺はそいつに目を落とす。
「この掲示板で報告のあったもののほとんどを確認することが出来た、全てのβテスターに感謝する。近日中にとりあえずの正規版をダウンロード可能にし、新しい掲示板に移行することにしよう。4月27日、発言者:糸居」
 掲示板に残された最新の書き込み内容は「糸居」と言う人物によるものだった。
 ハンドルネームだと思われるその糸居と言う名前がこの掲示板に置ける管理人の様な役割を果たしていることは掲示板の内容を読み進める内に理解出来たことの一つだ。
 それともう一つ。この掲示板にはアドレスの頭文字を抜く、リンクを張らない為に良く用いられる方法でアドレスが記述されていた。始めはそれを追って行くことに微かな躊躇いを覚えたのだが、ここで立ち止まったから事態が改善に向かう理由はないのだ。
「この掲示板では痕跡を残さない為に過去ログを随時削除する様に設定したらしいから、アルゴリズムの新規参加者の為の説明ページを暫定的に設置した。なにか補足がある場合はここではなく暫定ページ内の掲示板によろ。4月25日、発言者:bursh」
 アドレスの頭文字を抜くその直接リンクを張らない方法で表示されたURLの一つをブラウザに入力してみるが「そのページは存在しません」と返って、俺はそれらURLの大半がこんな具合に残ってはいない予感を感じた。何せ日付が最低でも一年前、酷ければそれ以上前のものなのだからそれは尚更だろう。
 そんな中で、一つのアドレスが「ホームページを移転しました」と簡素な「お知らせだけ」のページを表示した。直ぐさまその移転先のアドレスをクリックして、俺は始めてその可視報告掲示板からリンクを張られた生きたページを発見したのだった。
 そこは閉鎖回廊(へいさかいろう)と名付けられたホームページだった。
 閉鎖回廊にはカウンターがあるわけでもなく、自己紹介をするページがあるわけでもない。どこか別の場所へとリンクが張られている様子も見受けられないそのページは、一体どこのものなのだろう……行き止まりなく延々と続く厳かな雰囲気を湛えた廊下を背景として用いていた。
 その途中途中に存在するいくつかの扉の上にマウスのカーソルを合わせると項目が浮かび上がる簡素なレイアウトを取っていて、もしかすると管理するべき管理人などいないのかも知れないとさえ思わせるそのページで、俺は「迷い人の為のアルゴリズム解説」と言う項目を見付ける。
 躊躇いなくクリックしたそのコンテンツには次の様な説明が続いている。


 迷い人の為のアルゴリズム解説。
 網膜視認アルゴリズムについての説明。
 人間が生活している世界というものは人間が可視することの出来る側面と、複数個の不可視の側面から成り立っている。その不可視の側面を可視し、認識する為に開発されたものが網膜視認アルゴリズムである。
 また不可視とはこの場合、ただ単純に「目に見ることが出来ない」と言う意味ではない。人間が可視し、認識出来る側面には存在しないと言う意味を持つことを記述しておく。
 では認識出来ないとはどういうことなのか?
 例えば今、君は微かな光もない闇の中にいるのだとしよう。その暗闇の中を君は動き回り、何か物体に足をぶつけたとする。君はそれを目に見て視認することは出来ないが、しかしそこに何かが存在するのだと触覚と言う別の感覚を用いて認識することが出来るのだ。
 認識出来ないとは即ち、触覚・視覚・嗅覚・聴覚などなど人間という種族が先天的に持って生まれるありとあらゆる感覚を用いても認識出来ないことを意味する。
 人間の目と言う構造はあまりにも不完全であり、また不完全であるが故に認識に置ける適度な曖昧さを持つ非常に優れたバランスを持っている。人間の目が視認出来るものは大多数の方々が思っている様に多くはない。曖昧さを補って錯覚に似た視界を作る役割を担っているのが脳である。
 このアルゴリズムは本来は見ることの出来ない側面を視認し、認識する為のものである。初段階に置けるリリースの内は本来見ることの出来ないもの、それを完全な形として認識することは難しいと思っている。そこで脳の働きの「曖昧」な認識と言うものを借りることになる。
 当アルゴリズムは随時改良を加え、認識出来る範囲を次第次第に拡大していくことを目的とするものである。また認識出来るもの、その形を完全な形として認識することを目的とするものである。
 残念ながら当アルゴリズムを利用した上で被った如何なる弊害も私は賠償することは出来ない。しかしながら、この人体実験は革新的に人類の未来を切り開くものであると私は自負している。被験者は礎にしかならないかも知れない。
 これを確認した上で被験者となることを了解する方々はアルゴリズムをダウンロードし、実行して欲しい。
 これは非常に画期的なものだ。網膜と言う脳へ対しては不完全な情報伝達手段を用いながら、脳に対するアルゴリズムのインストール失敗率をゼロコンマまで抑えられている。
 網膜視認アルゴリズム開発者、糸居繁利(いといしげとし)の説明から抜粋。


「糸居繁利……?」
 声にして呟いてみるが俺に取っては聞き覚えのない人名である。
 もしもこれがハンドルネームと言うわけではないのなら、そしてもしもこの「糸居繁利」なる人物が述べた様なアルゴリズムを開発出来る有名な技術者であると言うのなら、聞く人が聞けばこの名前にピンと来るのだろうか?
 そう思って検索エンジンを用いて調べてみたのだが、俺が目的とするページは何一つして見つからなかった。
 検索エンジンを用いて調べる対象を「網膜視認アルゴリズム」としてもその結果は変わらず、俺は一つ小さな溜息を吐き出し閉鎖回廊のトップページへと戻るのだった。
 主要コンテンツはその「迷い人の為のアルゴリズム解説」ぐらいのものだと言って差し支えはないだろう。外にあるものと言えば「BBS」と「Mail」の二つぐらいで、傍目に見ると放置されているとも取れなくはない。
 更新履歴さえ記述されていない状態では、このページが今もなお活動しているのかどうかを見分ける方法はBBSでの管理人の対応ぐらいしかない。俺は迷わずBBSへと画面を切り換える。
 BBSは活況とまでは行かないながら、かなりのログがあって俺は一つ安堵の息を吐く。
 ここで完全な手詰まりとなったらそれこそ途方に暮れるだけになってしまう。
「3月19日、発言者:hard-s'natch@管理人。荻嶋惇は警察内部に脈を持っていて、かつ利害関係を含める情報屋。それが報酬によらない情報であるなら信用して掛からない方が身の為だ」
 最も最新の書き込みだけを読んでみても何について話を交わしているのかは理解出来なかった。どうやらレスを返す形の掲示板ではないらしく、また最新の書き込みが上へ上へと追記される形のものらしい。
 俺はその一つ下、一つ下へとここで発言されたその内容を読み進めた。書き込まれた日付が最近のものであることに俺の真剣度も自然と高まっていた。
「3月19日、発言者:君唄。裏口の探偵業もこなしている情報屋、荻嶋惇に偶然ネット上に置いて接触出来たのでその内容をここにも記述していく。例のセントラルビル集団幻覚事件に関して、あらゆる調査組織の上層部が箝口令を敷いたと彼は話した。この事件を公にはしたくない連中がいるのかも知れない。少なくともこの事件に関して櫨馬警察上層部は静観を決め込んでいるらしい」
「セントラルビル集団幻覚事件……? もしかして……警察署で話されていたのはこいつのことか?」
 読み仮名の解らぬ「君唄」とある人物が何者なのかはともかく、その君唄がこの掲示板で発言している内容に俺は目を留めていた。そうボソリと呟いてから俺はすっと俯く様に「セントラルビル」について思考を巡らせる。
 君唄のその発言の中に「櫨馬警察」と出たことからも、このセントラルビルが櫨馬にあるものだと判断したからだ。
「……セントラルビル。東櫨馬に新しく出来た超高層ビルの一つだったな、確か……」
 この掲示板はその大半がhard-s'natchと君唄の二人による対話の場だった。
 網膜視認アルゴリズムに対する推測的な会話をしていたり、単なる雑談を交えたりしていて俺の目を引くものはそう多くはなかった。二月半ばまでの掲示板での発言を読んだのだが、得られた収穫は少なかった。
 やはり直接、このhard-s'natchと言う人物と接触する必要性があることを俺は認可する。
「2月29月、発言者:hard-s'natch@管理人。最初の頃はそんな手の込んだことが出来る技術はなかった。糸居繁利本人の他にネットの海を渡り彷徨う為に技術者が協力しているのかも知れない」
「2月27日、発言者:君唄。網膜視認アルゴリズムはサーバー上に置いてはソースの形で置かれている可能性が高い。ダウンロード要求が来た場合にサーバー上に置かれた別のプログラムがそれをコンパイルし、そのコンパイルしたものを送信している可能性がある」
 名前の欄に「マサナオ」と、メールアドレスの欄に俺の持つプロバイダメールのアドレスを打ち込む。
「網膜視認アルゴリズムを見てしまった。どう対処して良いのか解らないし、いくつかhard-s'natchさんに聞きたいこともある。メールアドレスを記述していくので連絡を欲しい」
 そうBBSに記述すると自動的に「3月22日、発言者:マサナオ」と文章の前に付加されて、それを確認すると俺は閉鎖回廊のホームページを閉じた。
 ここでこれ以上の情報収集はhard-s'natchと言う管理人に直接問うた方が効率的だと思ったからだ。そうして俺には可視報告掲示板に置いてまだ確認していないアドレスがいくつか存在するのだ。
 ここ以外の可視報告掲示板からのリンク先は九割方が死亡していた。また残っていたリンク先もおおよそ「原型」と呼べる様な代物ではなかったのだ。可視報告掲示板の内容とは無関係なホームページであったり、削除し忘れと思しき僅かな痕跡が残るだけだった。
 こうなって来るとこの「閉鎖回廊」なるホームページが残っていただけ運が良かったのだとさえ思えてしまう。
 最初の情報から出来る範囲では、とりあえずの行き止まりまでは突っ走った格好だ。
 こうなると唯一の手掛かりたる閉鎖回廊の反応待ちとなるのだけど、閉鎖回廊の「BBS」を再度覗いてみても当然の如くこの短時間ではレスはない。最低でも明日明後日までは待たなければならないことを踏まえて、俺は検索エンジンを開いて「愽月中央工科大学」を始めとする可視報告掲示板などから得られた情報を独自に調べることにした。
 カタカタカタカタ……とキーボードを叩く音と、カチカチ……カチカチとマウスを打つ無機質な音だけが俺の室内に響き渡る時間が続いた。成果は皆無だった。
 時間を掛けても掛けても俺が欲しい情報を検索エンジンが引っ張って来てくれることはない。正直な話、俺が独自での検索作業に匙を投げるのも時間の問題だと言えただろう。
 液晶画面の注視のし過ぎで目が霞み、身体が休憩を要求していた。俺は数時間に及ぶ作業を中断し、大きく溜息を吐き出しながらノートのキーボードの上へと顔を横たえた。持続力のない俺にしちゃあ良くやった方だと思った。
「メールを着信しました」
 そんな機械的な声に思わずハッとなって顔を上げる。……いつの間にか眠っていたらしい。
 液晶画面は省電力モードに移行し真っ黒くなっていて、そこに映った俺の顔の右頬にはキーボードの跡が残っていた。
 省電力モードを解除し時刻を確認すると、五時間近くこうしてノートパソコンのキーボードを枕にして眠っていたことが判明し、俺は思わず表情に苦笑いを灯す。
 送信されたメールを確認しようとメールソフトを立ち上げる。カリカリと少々動作が鈍い気もしないではないが殊の外、それも問題を感じる程のものじゃない。こういう状況を目の当たりにすると最近のパソコン(そうは言ってもこいつは型落ちのものだが)は本当に長時間起動にも耐えうる様になったと実感する。
 メールの送信主はhard-s'natchだった。内容はこう続く。
「始めまして。掲示板への書き込みを確認しメールを送ったhard-s'natchと言う者です。掲示板やメールで会話をやり取りしようと言うのは効率的ではないと考えるので、対話の場を持つべく「チャットルーム」ないし「メッセンジャー」を使用するべきだと考える。どちらもツールのインストールが必要であるから君に判断を委ねたい。返答を」
 至極簡潔に書かれたその内容にもさして驚くでもなく、俺はそのhard-s'natchの問いにメッセンジャーを選択した。
 寝直さないと回復しないだろう気怠さに襲われながら「これだけはやって置かねばならない」と、hard-s'natchへメールを返信し、俺は倒れる様にベットへと横になるのだった。
 パソコンの電源も落とさないまま、俺は深い眠りに落ちていった。どうせ時間が経てばスリープモードに移行する設定になっていると言う考えが混濁を始めつつあった頭に残っていたことが決め手になったのだ。
 そのまま昼近くまで眠るつもりだったのだがどうにもノンレム睡眠周期で目が覚めて、結局三時間近くの睡眠で起床することになった。朝日が差し込み体内時計がリセットされたことも二度寝の要領で長く眠れない理由の一つかも知れない。
 長時間起動後のスリープモードでさすがに悲鳴を上げるノートパソコンを再起動し、俺はメッセンジャーを導入することを決める。今まで使用する機会に恵まれなかったホットメールアドレスを取り、プロバイダのメール確認をする。
 ちょうど一時間程前にhard-s'natchからメールが届いていて、そこにはhard-s'natchのホットメールアドレスが記述されていた。そいつをメッセンジャーに登録するとhard-s'natchとのリアルタイムの会話が始まることになった。
 まさかオンラインでいるなどとは思っていなかったわけで不意を突かれた感じはあったが引き下がる理由はない。
「はじめまして、マサナオ」
「はじめまして、hard-s'natchさん」
 俺は微かな緊張を感じながら対応をする。
 今の今までインターネットに関しては受け身で居続けた俺に取ってはそんなやり取りをするのはとてもおかしな気分だった。そうして情報を受け取る側であり、物言わぬ情報の閲覧者でしかなかった俺に取ってそれは初めてのことでもある。
「ここでも君のことはマサナオと呼べば良いのか?」
「それで構わない」
 俺の返答を受けてhard-s'natchは俺のことを「マサナオ」と呼ぶことに決定した様だった。
 元よりハンドルネームそのものは性別、年齢、職業などと言ったありとあらゆる情報を覆い隠してしまえる効果があるのだからそれに「敬称」をつけると言うのはおかしな話ではあるのだ。ましてそれが何処の誰かも解らぬ見知らぬ相手だというのなら尚更だ。最低限のマナーとしての礼儀はともかく、必要以上に畏まる必要性はない。
「恐らくマサナオが網膜視認アルゴリズムを見たと言うのなら、僕に問いたいことは無数にあるのだろうがその前に僕の質問に答えて貰いたい」
 hard-s'natchはその自身の希望に対する俺の受け答えを聞く時間を待たずに、こう文を続けた。
「マサナオは一体どこで網膜視認アルゴリズムを見たんだ?」
 間を置くまでもなく俺は即答をする。その問いは網膜視認アルゴリズムに関するホームページを運営するhard-s'natchが俺へと質問するに不自然さを感じる様なものではないのだから。
「可視報告掲示板と題された掲示板に偶然に辿り着いた時、閲覧に必要だと促される形でダウンロードをした」
「……マサナオが閉鎖回廊を訪れた痕跡たるメールアドレス/IPアドレスから、マサナオのある程度の素性を調べさせて貰った。……個人情報などと呼べるご大層なものが解るわけじゃないが、マサナオが櫨馬市近隣のベットタウン、代栂町在住であることなどの簡単な事情は理解した」
 ある程度は俺と対した時にやり取りする内容を頭の中でシミュレートしていたのだろうが、それでもhard-s'natchのタイプの速度は俺のものを軽く一回り上回っていた。もちろんこういった通信ソフトを用いたやり取りに慣れていないわけではないのだが、hard-s'natchのそれは次から次へと進まれると正直辛いと俺が感じる程のものであった。
「マサナオは櫨馬市セントラルビルに置いて集団幻覚事件が発生したことを知っているか?」
「地元ニュースなどでは一切報道されていないが一応は知っている。ただそれがセントラルビルで発生したことを知ったのは閉鎖回廊BBSで「君唄」と言う人物が書き残したものを読んだからで、その詳細を俺は知らない」
 間髪入れずに何か続くかと思いきや、その発言に対するhard-s'natchの対応があったのは十数秒近くのラグがあってからだった。……だからこそ逆に何か勘繰るものもある。
「……僕らはマサナオがその集団幻覚事件の被害者であることを微かに期待していたんだが、ことはそう都合良くは運んではくれないらしい(苦笑)。ともあれ櫨馬近隣の、代栂町で生活をするマサナオと言う知り合いを得たことは僕らに取って大きなプラスになる」
「……どう言うことだ? 何が言いたい?」
 僅かに話の雲行きが妖しい方向に逸れ、俺は思わずそう問い返した。けれどもそこに「答え」だけをバンッと突き付ける様な言葉は返ってこない。あるのは段階を踏んで説明して行こうとする前置きの言葉である。
「網膜視認アルゴリズムは一定の画像パターンからなる視覚情報認識によって、原理までは解らないながら人間にインストールすることが出来るのだと僕らは推察している。だから集団幻覚事件では少なくともその場にいた全員が何らかの方法で網膜視認アルゴリズムを「見て」いなければならない」
 俺が文面に目を走らせているその間に、……これらの言葉は全て端から用意されていたものと言わないばかりに、その次が続け様にタイプされて行く。
「彼らがそれをどこで「見た」のかを僕らは特定したい。その場にいた全員が「異なる場所・異なる方法」によって偶然アルゴリズムを見た可能性はゼロコンマ以下の確立だ、有り得ないことなんだ。……僕らは彼ら集団幻覚事件の被害者がどう言った人物なのかを知らない。そしてその情報も公開されていない。現時点では本人が名乗り出てくれでもしない限りは知り得ることはないだろう」
 その後に続くだろうhard-s'natchの言葉を俺は確信していた。協力して貰いたいと続くのだろう。「遠回し」と言うその手段の中に、hard-s'natchが持つ意図なんてものが見えてしまったから……俺は早い段階で切り返す。
「網膜視認アルゴリズムなるものが誰の手によって創られたものだろうが、……そいつがあちらこちらに出回って被害が発生していることを知っていながら警察組織がそれを看過していようが、今の俺に取っては二の次のことなんだ。俺はまず何よりもこの幻覚から逃れたいんだ、hard-s'natchさん。事件の解決だとかそう言ったものを第一に考えているわけじゃないんだよ!!」
 根本的な目的の相違があった。どうして俺がこの事件の解決を望んでいるなどとhard-s'natchが考えたのかは解らなかったが、ここに来て一つ俺の脳裏に不安が過ぎる。
「それでは根本的な解決にはならないんだ。このアルゴリズムが浸透する様なことになれば、現実は根底から揺らぎ兼ねない。もしかするとマサナオの見ている世界の方が不特定大多数の現実として認識される様なことにもなり兼ねないんだ」
 もちろん被害の拡大を防げるならそれは望ましいことだ。わけも解らず網膜視認アルゴリズムを見て、この幻覚の世界にやって来た無数の方々を救うことも望ましい。しかし、その前には大前提がつかねばならぬ。
 俺がこの幻覚から逃れる術を既に見つけ出しているかどうかと言うことだ。これさえはっきりしていて、逃れる術をhard-s'natchなる人物が持っていると言うのなら、喜んでhard-s'natchの言う事件の解決にも協力したって構わない。
 しかしそうでないのなら、事件の解決なんてものは最優先事項に成り得ない些細な問題でしかない。
「今、一つだけ……これだけははっきりとして置いて貰いたいことがある、hard-s'natchさん」
「何だい?」
「この網膜視認アルゴリズムとか言うものを、取り除く方法をあんたは持っているのか?」
 答えが返るまでに、そこにはたっぷりと一つの間が空いた。それはまるで言葉を慎重に選んでいると言わないばかりの間である。だからhard-s'natchが返す大凡の答えなんてものは察することが出来てしまった。
「……マサナオに取っては厳しい事実になるのだろうか。その方法は恐らく存在しない。網膜視認アルゴリズムはコンピュータで言うところのアンインストールをする様な仕組みを想定して作られてはいないし、仮にそれを想定して創っていようともそれは実現などしなかっただろう」
 その言葉は俺の不安が的中した格好だった。いや……それよりも格段に重いものかも知れない。
 もしもその答えが「知らない」とか「解らない」と言う内容のものだったなら、まだまだいくらでも望みは繋げたのだが確信にも似た推測の言葉で「存在しない」と返ったのだから……、それは確実に重いものだろう。
「……hard-s'natchさん。この幻覚をどうにかしようとは考えていないのか?」
「どうにかなる道が僕の活動の中から見つかったのなら、どうにかしようと言う気にはなるだろう。だが、今それを一義的な問題として扱うつもりはない」
 その言葉をhard-s'natchが「始めから網膜視認アルゴリズムを取り除こうとは考えていない」からのものと取るか、「取り除く為の方法を模索し続けて、その結論」としてのものと取るかは大きな違いであった。
 それをhard-s'natch本人に問うても問題はなかっただろうが、確信にも似る推測の言葉で「存在しない」と話したからには後者の可能性が非常に高く、俺は自身の望みを絶たれることを恐れてその質問を尋ねることをしなかった。
 代わりとしてほぼ反射的に切り返した発言は、恐らくこのhard-s'natchとの会話がどんな内容に及ぼうとも発言をするつもりにはならなかっただろう言葉になった。
「……どうやら俺とhard-s'natchさんは根本的な目的を異ねるらしい」
 ただ、熟慮なく咄嗟に出たものなのだからそれは俺の率直な意見だとも言えるのだった。
 僅かな間を置きそこに返ったhard-s'natchの対応には俺が知り得ない事実を一つ鏤めた内容だ。
「そうだね。僕は自ら進んでこちらの、……可視の世界へと踏み入った人間だから。……こちらに来た理由が端から異なるのだから、確かに僕とマサナオとは目先の目的が一致することはないのかも知れない」
 目先の目的と言った辺りに俺は次のhard-s'natchの科白が読めてしまう。
「だが! マサナオは既にこちらの世界に踏み入ってしまった。……マサナオには酷な話だが、これ以上マサナオの様に何も解らずこちらの世界に迷い込む人間がいなくなることを僕らは望んでいる。まして網膜視認アルゴリズムのバージョンアップの恩恵を受けられない今、こちらに踏み込むことはリスクを背負う以外のなにものでもない」
「俺自身が救われる手立てがない状況で、人様の為に動こうなんて考えるほど俺は出来た人間じゃないんだ、hard-s'natchさん。俺はこの幻覚から逃れる術をどうにかして見付け出してみせる」
「そうか……、そうだろうな。「ない」と他人に言われ、それを安易に受け入れるなど馬鹿げているだろうな。自分が望まずに迷い込んだ世界で、元の世界に戻ろうと足掻きもしないなんてことは愚かなこと……か」
 恐らくはhard-s'natch自身に向けれたその発言に俺は「はい」とも「いいえ」とも発言することはない。俺にその二択を迫ったわけではないだろうし、そもそもが俺に向けられた質問などではないのだからだ。
 相手の表情が見えないモニター越しでの会話だったが、hard-s'natchは神妙な心得顔をして頷いた様な気がした。
「ではマサナオの質問に答えよう。僕に聞きたかった内容は上記の様なものではないだろう?」
 まるでパッと思考を切り換えることが出来るかの様に、hard-s'natchはその話の内容を切り換えてみせる。
 俺の協力が得られないと解った以上、効果のない説得に時間を掛ける必要はないと判断したのかも知れない。
「例えマサナオが僕らの考えに同調してくれない人物であろうとも、偏に僕はここで網膜視認アルゴリズムによって迷い人になった人物に知識を与える義務がある」
 義務と一つ重い言葉を使ったhard-s'natchに、網膜視認アルゴリズムに関してどんな経緯があるのかは解らない。けれども深くその内容に踏み込む理由はなく、俺は俺の質問を最優先する。
「薄紫の花やら様々なものを見た。今も継続して薄紫の花は見えている……、こいつは幻覚じゃないのか? 俺にだけ見ることが出来て、その場にいた俺の友人はそれを微かにさえもみることは出来なかった。アルゴリズムについては説明を読んだ……、その上で敢えて問う」
 微かな望み。絶たれるとは解っていながら敢えて問う。諦めが悪いことは重々承知しているのだ。
「俺が見た世界は何一つとして幻覚じゃないんだな?」
「マサナオは確かにそれを見たのだろう? では、マサナオの友人がそれを見ることが出来なかったからと言って、マサナオが見たものは現実ではないと言うのか?」
 願わくば現実であって貰いたくないはないと言う思いはある。しかし現実であったことを否定出来る材料は何もない。
「人間という生物は非常に不器用な生物だ。脳と言う機関で認識出来ないものは、例え眼前に存在していようとも現実として捉えることが出来ない。逆を言えば人間とは実際には存在しないものであっても脳が誤認識してしまうなら、それを現実にあるものとして認識してしまう生物だとも言える」
 解りやすい例を用いればと前置きしてhard-s'natchは網膜視認アルゴリズムについてこうお浚いをした。
「簡素化して考えるのなら超音波と似た様なものだ。日常生活中にだって人間の可聴域を超える音は無数に発生している、人間にはそれを聞く為の能力が備わっていないだけだ。それと同じことだ、そこに存在しているのに「見て触る」ことが出来ないものを「見て触る」ことが出来る様にしようと考えた。それが網膜視認アルゴリズム」
「触る? 幻覚に触ることが出来る様になるのか?」
 そこまで返してしまってから「占い師のじいさん」のことに思い至ったのだが、話の中心は既に次の段階へと移行していて、それを付け足すタイミングはなかった。
「触ることが出来ない? ……それは恐らくマサナオにインストールされた認識アルゴリズムに大きなバグがあるからだと思う。漢字の「中」に似た記号が割り振られた白銀色の扉を、マサナオは街中で見掛けたことがあるか?」
 簡潔に「ない」とだけ切り返すと、hard-s'natchは俺に対してはこう要求をして来た。
「マサナオが網膜視認アルゴリズムをダウンロードしたCGIのURLが解っているのなら教えて欲しい」
 URLを提示してやると「少し待ってくれ」と言われ、俺が可視報告掲示板からダウンロードした網膜視認アルゴリズムについて調べているらしい。
 俺が持つアルゴリズムのバージョンが初期のものであるのか、それとも後期のものであるのか、俺は何一つ解らない。ただ「触ることが出来る」とのhard-s'natchの言葉からそれが後期のものでないことだけは推測出来た。
「マサナオにインストールされたアルゴリズムのバージョンはかなり昔に作られた初期のものの、さらに正式なバージョンでさえないものだ。俗に言うβ版で、マサナオが持つバージョンでは「見る」ことが出来るものさえ限定されている」
「……この俺の状況下で限定されている?」
 俺はインターネットを通して顔も解らぬ相手とやり取りをしているにも関わらず、そうモニターに向かって呟いていた。率直にhard-s'natchを始めとする後期のアルゴリズムをインストールした方々がどんな世界を見ているのかには興味が湧いた。ただ同時にそれを打ち消せるぐらいの身震いも感じずにはいられなかった。
「hard-s'natchさん、あんた達は……一体何を見ているんだ? 何が見えているんだ?」
「迷い人の為のアルゴリズム解説には目を通したんだろう? これは認識出来ない世界を見ようとする至極画期的な発明であり、そして酷く無謀で無計画な実験なんだよ、マサナオ。時間があれば目を通してみて欲しい、次々とリリースされたバージョンアップで何が見られる様になったのか……を」
 二つのURLを提示して見せてからhard-s'natchはこう発言を続ける。
「……そして、僕が知る限りではもう一年近くバージョンアップはされていないがこいつが最新バージョンのアルゴリズムだ。……語弊がある言い方なので訂正させて貰おうか、僕が持っている最新バージョンのアルゴリズムだ」
 ファイルの送信と言う項目が出て、そいつのダウンロードを許可するか許可しないかの選択が出る。
 直ぐさま「はい」と許可を選択しなかったのは現在俺にインストールされている以降の網膜視認アルゴリズムで見える世界が拡大することを恐れたからと言うことがある。これ以上の荒唐無稽な世界に飛び込むことを安易に選択は出来ない。
「これよりも新しいものが存在するかも知れないし存在しないかも知れない。……それは僕には解らない。バージョンアップをするもしないもそれはマサナオの選択だ、僕に強制権はない。だが忠告の意味を込めてダウンロードをして置くことだけは勧めておく」
 そのhard-s'natchの言葉に思わずハッとなった。
 可視報告掲示板の時の様に「はい」を押してしまえば、それがすぐに展開されて俺へとインストールされるのだと考えていたからだ。しかしながらそれは俺の思い違いの様だった。
「マサナオの置かれる曖昧模糊の状況を少なくともそれらが完全に視認出来る状態へと改善してくれる。それがマサナオに取って正しいことかどうかは僕には解らないが、だからこそ忠告としてダウンロードすることを勧める。……自己展開型の形式で圧縮されている。必要なら展開してマサナオ自身にインストールして欲しい」
 俺がダウンロードの許可をして圧縮ファイルを受け取っている間に、hard-s'natchがダウンロード中のバージョンについてこう警告をする。
「僕が持っている最新バージョンのアルゴリズムも完璧ではない。……人によって見え方は違うらしいが赤いマンホール……、それもまるで目に痛みを感じる様な真っ赤なマンホール、またはそれに類似したものが見えた時、それに触ろうとしてはならない。絶対に……だ」
「マンホール」
 ふっと口を突いて出た言葉。こんな所で例の「占い」と同じ警告をされるとは思ってもいなかった。
 ここで言われなければ思い出しなどしなかっただろうか。
「解明されていない荒唐無稽な世界へと繋がっているらしい。……迷い込んで運良く帰ってこられた者もいるが、そこは混沌とした世界であり言葉では言い表せない珍妙な世界だったと述べていた。本当にその世界に行ったのかどうかは解らないことだが、試してみようとは思わない方が賢明だ」
 当初は十数秒で転送が終わるだろうと思っていた網膜視認アルゴリズムの転送だったが、思いの外時間を要し転送が終了した時は一分近く時間が経過してからだった。
 その終了が頃合いだったと言わないばかりにhard-s'natchがこう発言をする。
「今日はこれぐらいにしようか、……これから僕はマサナオが閉鎖回廊に流れ着いた可視報告掲示板の解析をしようと思う。あの可視報告掲示板はまだ僕らが発見していないものだった、ものが古いものであるから痕跡を辿るには多少無理があるかも知れないがやらないわけにはいかない」
 聞きたいことはまだいくつかあったのだが、その解析に割り入ってまで早急に答えを求める様な内容ではなかったので俺は制止の言葉を発言はしない。「糸居繁利」や「愽月中央工科大学」、そして「IAL」などについてと謎はいくつか残った格好だが、次の機会を設けられるのなら今でなくて構わないのだ。
「……僕らは広大な、ある意味合いでは際限のない、このネットの情報の海で糸居繁利の痕跡を検索し続けている。何か情報が手に入ったら忘れずにマサナオにも伝えることにするよ」
 俺が何かしら反応を返すよりも早くhard-s'natchはプログラムを終了した。モニターには「hard-s'natchはオフラインの為、返信出来ません」と表示され、終始相手のペースでやられたことを感じながら俺は時刻表示に目を落とした。
 時間の進みは俺の感覚上のものよりも格段に早く進んでいて、プツリと集中力を切らした俺はhard-s'natchに提示されたふたつのURLのページを開くと空腹から席を離れるのだった。




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