ただただ疾走していた。
流れる景色の中にこの薄紫の花が見えなくなるまで走っていようと無意識の内に考えていたからなのかも知れなかったが、ともあれこの足はただただ目的地なく走っていたのだった。
普段だったら近付く理由もない古くからの一軒家が建ち並ぶ代栂町住宅街地区へと足を踏み入れて、俺は息切れを感じてその走る速度を緩めていった。視界の中に薄紫の花を捉えることがなくなったのもその理由の一つかも知れない。
そこは塀に囲われた一軒家が軒を並べ、車二台が行き違うことなど出来ないほどの隘路からなる古い町並みだった。
不規則に並ぶ電信柱には街灯が設置されているのだが、各電信柱間の距離が異なる為に場所によって光量がまちまちでこの古い町並み自体に仄暗さを印象づけている。
それらはまるで余所者に圧迫感を与える造りをしている風にも感じられ、まさに迷い込んだとする表現が的確だと言えるのだろう。とかくその独特とも取れる雰囲気は俺にそんな印象を強く植え付けたのだった。
時折この古びた住宅街を吹き抜けて行く風に俺は生暖かいとも肌寒いとも感じることはなかった。この古びた景色のどこかに俺は確かな非現実感を味わっていて、まるでそれが俺の感覚にも影響を与えているかの様だった。
……古びた景色?
景色の中にあるだろう違和感を何一つ見落とすまいとする蚤取り眼を持って周囲を満遍なく見渡しても、そこには違和感を与えるだろうものの存在は確認出来なかった。ではこの非現実感はどこから来ると言うのだろう?
五感の中の何か一つの、その一つのさらに何か少しだけが切り取られてしまった。
この非現実感の原因を突き詰めれば、恐らくそれはそんな微少な変化なのだろうと思えた。
けれどもそれは「簡単」には気付くことの出来ぬ微かな変化。そうでなければ「気付けない」わけがないのだ。
吹き抜けて行く風の音を聞くことが出来た。耳を澄ませば街灯の発する微かな音を聞き取ることも出来た。
切り取られたものが聴覚の中の、複数個の特定の音だと理解出来たのは俺がふらつく様に一歩二歩と蹌踉めいた時のことだった。俺は俺の靴音を聞き取ることが出来なかったのだ。
「どうされた、お若いの?」
唐突な方向からの、それも予想だにもしていなかった人の声に、俺は慌ててその方向へと向き直る。
そこには鍔のない帽子を目深に被った初老の男が背もたれのない椅子に座っていた。……不自然さは否めない。
初老の男の肩幅よりも少し長いだろうか、そんな小さな木製テーブルを構えていてその端に置かれた木片には達筆な墨字で「占い」と書かれている。
ちょうど俺の斜め後ろに位置する電信柱の脇にあり、街灯の真下に当たる場所だ。……気付かなかったわけがないのだから、ここに来て感じる非現実感は相当なものだった。
初老の男の顔には影が差す格好であり、その表情までを窺うことは出来なかったのだが薄紫の花の時の様にピントを合わせようとすると見えなくなる様なことはなく、それはパッと見には確かにそこに存在しているかの様に見えていた。
「……」
初老の男の問いに黙り込んだ格好のまま、俺は「一体いつの間にその場所に現れたんだ?」と怪訝な顔をして初老の男をマジマジと注視していた。俺がこの場所に来て目に焼き付けた最初の風景の中に、この初老の男がその場所にそうやって始めから存在していたのかどうかを記憶に問い掛けていたのだ。
けれどもそこには明確な確答は返らない。微かな困惑が生まれた。
「どうされた?」
俺の中に燻り続けた「このじいさんも幻なんじゃないのか?」と言った具合の自問は、けれども明瞭な老人の声に完全に否定される格好になったのだった。
もしも幻覚がそれに対応した確かな幻聴を伴うと言うのなら、それは「現実」と何一つ変わらないものでしかない。
せめて幻聴が幻覚に対して何の脈絡もない様な、荒唐無稽なものであるのならともかくだ。
まだ……チリチリと鈍い痛みが頭痛として存在していた。
それは我慢が出来ないと言うほどのものではないながら、目の奥の痛痒さも微弱ながらまだ存在しているのだ。
いや……薄紫の花が見えなくなったからこそ、それは再発してきたかの様にも思えて仕方がなかった。
会話をすることで少しでも気紛れになるかも知れないと、そんな思いも背中を押して俺は口を開いて俺の置かれる状況について口を切っていた。奇異の目で見られるかも知れないと言う多少の危惧はあったのだが再びこの初老の男と顔を合わせるつもりなどはサラサラないわけで、この場限りの縁と割り切ってしまえば気重になる理由はなかった。
「目の奥が痛痒くて痛痒くてしょうがない、昨晩からこいつに悩まされる様になって……気付いたら存在しないものが見える様になってた」
「そうか、その感覚は初めてのものなのかね? なに……その内病み付きにもなるだろうさ。人間と言うのはトンと不思議な生物だからな」
意図の見えないそんな初老の男の言葉を相手が占い師と言う「ある種……不思議さを秘めていなければならない職業の相手だから」と切り捨てて、俺はそんな言葉の数々をさして気にもせずに影になって見えないその初老の男の表情を直視しようとする。
そこにピントを合わせた瞬間のことだった。それまでで最大の、身体の異常を発症することになった。
「うがああぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァッッッ!!!!」
ズキズキと後頭部を刺し貫くかの様な突然の激痛に思わず声をあげた。そいつが薄まった後には鈍器で殴られたかの様な後頭部全体への鈍痛が残り、チリチリと目の奥の痛みが度合いを増して再発をする。
「大丈夫かい、お若いの?」
俺の唐突な異変にも微かにさえ驚いた様子を見せない初老の男の声は平静そのものだった。興味がないと言う風ではなく、まるで予想出来る範囲のことだったでも言わないばかりだ。
僅かな身動ぎ一つすることはなく、椅子に座した格好のまま俺の様子を諦観していた。いや……その瞳は俺の姿を捉えてさえもいないかも知れない。
「目の奥が、目の奥が焼ける様に痛い、……頼む! 救急車、救急車を呼んでくれ!!」
「なに直に気にもならなくなる、それにそれは病院に担ぎ込まれたからといって治る様なものでもない」
あっと言う間に周囲の風景が色褪せてしまって、俺の頭痛は顕著に激しさを増す。
白と黒の激しいコントラストに褪せた世界の中で初老の男とその周辺に存在するものだけがその色を保っていた。
「ふむ……そうだな、しかしながら放っておくと言うのは私の信条に反するし、何より私の良心が痛む。……気休めの意味も込めて占って進ぜよう」
まるで俺の訴えなど聞こえてはいないかの様な物言いだった。
そんな対応に、堪らず俺は叫び声にも似た激しい口調で要求する。
「そんなものはどうでもいいッッ、救急車だッ、救急車ッッ!!」
「聞いて置きなさいお若いの、その方がお若いのの為になる」
わがままを宣う子供でも言い聞かせるかの様な口調だったが、その静かな物腰には迫力が鏤められている。
俺は俺で平衡感覚を失ってしまっていて、掴みかかることもままならない状態に置かれていた。白と黒のコントラストが薄れて正常な色を周囲の光景が取り戻し始めると、事態は俺の体調とは別の方向に暗転を始めた。
ジワァと檸檬汁で描かれた見えない文字が火に炙られて浮かび上がる様に、視界の端に薄紫の花がぼんやりと見え始めたのだ。それは次第次第にはっきりとした輪郭を伴って、櫨馬学院大学で見た時の様な明瞭さを持ち始めていた。
風に揺れる様は綺麗で、そして激しい頭痛を伴い甚だ忌々しい。
「くそったれッ、ここにもッ、ここにも生えていやがるのかよッッ」
狂った様にそれら忌々しき花々を右腕で薙ぎ払おうと腕を振り回す。しかしながら薙いでも薙いでも腕にその薙ぐ感触を感じることは出来ないし、一向にその花々を薙ぎ倒せることもなかった。
荒い息を吐きながら半ば「無駄」だと解りつつ行動をせずにはいられない俺の様子を、占い師はただただ静観していた。まるで諦める時を気長に待つと言わないばかりで、その様子に俺は苛立ちを隠さず向き直る。
「じいさんッ、大体あんたは何なんだッ? さも俺が置かれる状況を解った振りをして……「占いを聞く」のが俺の為になる? なめんなよッッ」
掴みかからんばかりの勢いを持つ俺の様子を前にしてなお、初老の男は微かにさえも調子を崩すことをせず冷静な対応を見せる。
「初期の頃のアルゴリズムは頭に馴染むまでに結構な時間を有したらしいが、お若いのほど苦しむのはそう多くない」
占い師は自身の側頭部を指さしコツコツと叩いて見せながら、俺へと向けてさも「それは大したことじゃない」と言う言葉を向けて見せるのだった。カッと頭に血が上り、俺は拳を握り締める。
けれども次の初老の男の言葉は興奮状態に置かれた俺の頭を瞬時に冷やしてしまえる内容のものだった。
「お若いのが前例通りかどうかは知らないが、その……何だ、背丈の大きな紫色の花が見えるらしいの?」
「ッ!?」
俺の表情は驚愕のそれに変わっていただろう。
それは何よりも俺が置かれている「状況」を理解していることに驚いたからだったが、初老の男はそれを自身では確認できないことをこんな具合に微笑を含めて話すのだった。
「はは、私にはそれを見ることは出来ないのだが君らがそこいら一体に生えていると言うのだから……それは生えているのだろう」
呆然と立ち竦んだ俺の様子など気にした風もなく初老の男は言葉を続ける。平衡感覚を取り戻し、頭痛も引け始めて、俺は完全に冷静さを取り戻した格好だったから尚更、その言葉の意味を理解しようと俺の思考は空回った。
「……私に言わせて貰えばこの世界は歪みだらけだ。お若いのら人間があっちこっちに色々な建造物を造ってからこっち、本当にここは歩きにくい世界になった。良く歪みに落ちることがないと関心もする」
算木のものとはまた異なる占法なのだろう。
一本が六角柱の非常に細長い棒、……二十〜三十ぐらいはあるのだろうか、初老の男はそいつを掌の上で「じゃらッじゃらッ」と音を立てて器用に扱いながら、テーブルの上へと扇形を描く様に打ち据えて見せた。
「……マンホールに気を付けなさい。一度落ちたら恐らく再び戻ってはこられない」
僅かな間を置いて初老の男はそう口を開いた。
ジッと扇形に打ち据えた六角柱の棒の様子に目を落としたまま、俺の顔を見上げることはなくそう告げただけで続く言葉は何もない。初老の男が扇の形を注視しているので、思わず吊られる様に俺もそこに視線を落とす。
打ち据えた棒の形は「さすがはプロだ」と思えるほどに綺麗な扇形を取っていたが、所々に大きく棒の存在しない空白の場所がある。恐らくはその扇の形にも吉凶の何かがあるのだろうがそれは俺には解らないことでしかない。
何か特筆することがあるのなら続く言葉で何か言われるだろうと、それを待ってはみたがただただ虚しく時間は過ぎていくだけで初老の男が何かしろ俺に反応を見せることもなかった。
だから堪らず俺は口を切っていた。聞きたいことは占いの結果などではなく、この俺の置かれる状況についてこの初老の男が知っていることなのだから。
「マンホールだって? ……何の脈絡があるんだよ? それよりもあんた、俺の置かれる状況が何なのか解るのか? 解るんだろ? ……なぁ、おいッ、黙ってないで何か言ってくれよ、じいさんッ!」
勢い余ってドンッと机を叩く格好になって一つ大きな音が鳴り響いた。「占い」と書かれた木片がアスファルトへと落下して、コーンッと音を響かせる。その直後のことだった。
「ッ?」
突然、思い掛けない方向からの目映い光に照らされて俺は顔を顰めた。反射的に強張った身体の反応で数歩だろう、後退って俺はその目映い光のする方向へと向き直る。
「君ッ、そんな所で大声をあげて何をやっているんだッ!」
懐中電灯の明かりで顔を照らされる格好になっていたのではっきりと確認は出来なかったのだが、そこにあったものは見覚えのある嫌な感じのシルエットだった。
目映さに顔を顰めているとそいつはあっと言う間に近付いてきて俺の二の腕をガシリと掴み上げる。ようやく服装とかそう言ったものを確認出来る様になって、俺は相手が警察官だとはっきりと理解した。……最悪のケースだと言えた。
「……ちょっと署まで来て貰おうか?」
「ちょっと待ってくださいよ。俺はそこの占い師のじいさんと話をしていただけで……」
「どこに占い師のじいさんが居るって言うんだ?」
警察官が不審そうな表情を俺に向け懐中電灯で辺りを照らしながら問いかける。俺は慌てて初老の男が居たはずの場所を指差しながら向き直るのだったが、そこに俺の目的の人物を確認することは出来なかった。
「……どこって、そこに帽子を目深に被ったじいさんが……。……おい? どこに行ったんだよ?」
今の今まで眼前にいたはずの初老の老人は忽然とその姿を消してしまっていた。頭の中で状況整理を始める俺の混乱は当惑などと言う生易しいレベルのものではなくなっていただろう。
警官に対してこれ以上はないと言うほどの苦笑いを見せて、俺は大きな身振り手振りを交えながら頭の中で整理中の状況を、それまでの経緯を口にして説明しようと試みる。
「いや、ホントについさっきまでそこに占い師のじいさんが居て……」
「解った解った、話は署で聞くから。取り敢えずそこの表通りに停車しているパトカーに乗って貰うよ?」
有無を言わせぬ調子を持った警官の言葉に俺はくっと唇を噛んで頷いた。
初老の男が「薄紫の花」同様に幻であるのなら、何を言っても弁明にはなりはしないのだ。
「……解りました」
「櫨馬学院大学情報学部所属の二回生、城野正順君……か。薬物、アルコール反応はなし……ね」
一通り俺の主張を聞いた警官は俺が警察署に来て最初にやらされた薬物・アルコールの簡易検査の結果と、俺の学生証を交互に眺めながら溜息でも吐き出す様に呟いた。
交番は先程の地点から十五分ほど車で走った場所にある、電車で櫨馬学院大学へ通学する際にはその車内の窓際の席からはいつも見ることの出来た線路沿いの交番だった。
「あー……それじゃあ君は、一面に咲き乱れる……その薄紫色の花から逃げようとして代栂町の住宅街に入った。そして閑散とした住宅街で占いの店を構えた老人に出会って、その老人と会話を交わした。けれどもその老人は君と本官が会うまでの僅かな時間の間に忽然と消えてしまっていた……と言うわけだね?」
恐らく荒唐無稽な幻の話など信用していないだろうと半ば諦め始めた俺に対して、滝野(たきの)と名乗ったその警官は話の総括を口にしながら「間違いないね?」と言う具合に俺へと確認を取るのだった。
「……はい」
諦めを色濃く灯した顔付きながらはっきりと頷いた俺の様子に、滝野は奥の方に居てそのやり取りを注視していた別の警官と視線を交わした。心なしかその奥の方に居る警官は険しい表情をしていた。そうして俺へと向き直った滝野にしても、ぐっと真剣な顔付きをしていて、俺は思わず身構える様に身体を強張らせたのだった。
何を話されるのかと身構えた俺に対して、滝野が口にした話の内容はこんなものだった。
「最近は代栂町でも麻薬所持で逮捕者が出る様になったからね。職務質問をするにしても挙動不審な点が見られた場合、警察署まで来て貰うことにしているんだ。あれだよ、近隣に都市がある弊害って奴だよ。櫨馬の港は指定貿易港と言う奴で、下手に取り締まりが強化出来ない状態だから、あの手この手で櫨馬には薬物が流入してくる」
話を切り出し始めた時の険しい表情はその話の途中で霧消してしまって、まるで話の終わり掛けの頃は世間話でもするかの様な態度に一転した。この話に一体何の関連性があると言うのだろう?
「はぁ?」
拍子抜けした感の残る俺はただただ曖昧に頷くだけだったが、後に続いた続けざまの滝野の言葉に俺は瞬時に真剣味を取り戻したのだった。やもすると最初の言葉は前置きとして緊張を解す為のものだったとも思える。
「警察署まで来て貰った経緯はそんな所なんだけど君にはアルコール反応も薬物反応もなかった。そしてこうやって会話をしてみて、本官らは君が精神を患っている部類の方々でもないと判断した。そうなると本官らは「幻覚・幻聴」を口にする相手に対して最近問題となっているもう一つの可能性を疑わなきゃならない」
訝しげな表情を取って見せる俺に対して躊躇なく滝野はこう問い掛ける。
「聞いておきたいことがあるんだ。君はその幻覚を見る直前に櫨馬市に行ったりしていたかい?」
一瞬、俺はその質問の内容に耳を疑った。けれどもその問いに何かしらの意図があるのだとしても、そこから質問の意図なんてものを窺うことなど出来るはずもなく、俺はそれに対して明瞭な答えを返す。
「……えぇ、直前まで友達に連れられて野外ライブの会場に居ましたから」
「そのライブ会場になった場所とはビルとかデパートの屋上だったかい?」
間髪を入れずに切り返した滝野の様子に、俺はどこか緊張めいたものを感じ取らずにはいられなかった。
「いえ、南櫨馬、キリノスポーツビル前の緑水の広場でしたけど、それが……何か関係あるんですか?」
「……」
僅かな沈黙の後、滝野はもう一人の警察官とアイコンタクトを交わした後で意を決した様に一つ大きな息を吐き出すとそれまで以上の真剣な顔付きでこう前置きをする。
「良く聞いて欲しい城野君。今から話す内容は未確認事項が含まれていて、不用意な混乱を広げない為にも出来る限り他言無用にして欲しい」
俺の返事を待つ静寂がそこに生まれる。
それを守るにせよ、守らぬにせよ、了承の言葉を口にしなければ先へとは進まない様だった。
「解りました」
滝野は一つポンッと俺の肩を叩いて恐らくは「ありがとう」と言った意味合いがあったのだろう、そんな挙動を見せると僅かながらスッと肩の力を抜いてその未確認事項の含まれると言う話をし始めた。
「実は数日前に君と同じ様な証言をした人達がいる。ビルの屋上で水道管の点検作業をしていた作業員と警備員なんだけど、彼らはそのビルの屋上でいもしない自殺者を目撃したらしい。彼らはその存在しない自殺者を目撃しただけでなくその自殺者と会話を交わしたとも証言しているんだ」
それはまるで俺の幻覚の中に登場した人物で言う「占いをした初老の男」と大きな相違がない気がした。彼らがその幻覚の中の自殺者とどんな会話を交わしたのか詳しいことは解らないが、その内容を知りたいと俺は考えていた。
少なくとも一定レベル以上の現実味を帯びていなければ、……自殺者の言葉がその幻覚にある程度内容が符合していなければ、そこに強い違和感を感じ取ったはずなのだ。
それは俺の幻覚と彼らの幻覚が同質のものなのかどうかを大雑把ながら見定める尺度となる。
彼らに会って「一面に咲き誇る薄紫の花を見たのか」どうかを俺は問いたい。彼らも俺と同様に薄紫の花々を見ていたと言うのなら、その原因と思われるものについて言及したい。
「あのプログラム……」
気付けばボソリと呟く様に口から漏れ出た俺の言葉は説明を続ける滝野の耳には届かなかった様だった。
「それも全員が揃って同じ証言をしている。けど十数人体勢による入念な自殺者の探索にもかかわらず彼らの言う自殺者は発見出来なかった。後日、検察や薬物の専門家からなる調査チームが派遣され、その結果……幻覚を伴うガスが噴出した可能性と言う報告書が櫨馬市・代栂町内の警察署に配付された」
「……ガス、だって?」
出鼻を挫かれた格好になった。予想だにしない言葉だった。
言葉にして紡ぎ出すことこそしなかったが、俺は頭の中で瞬時に「有り得ない」とそれを否定した。
「あぁ、つまり君もその幻覚ガスを吸った可能性が非常に高いと言うことなんだ。今日中に……とは言わない、けれども近日中出来るだけ早急にこちらの指定する病院で検査を受けて貰いたい、いや……受けた方が良い」
検査を促す滝野の言葉は聞き流す格好になっただろうか。
黙り込んだままの俺の様子を滝野は「ショックを受けているのだろう」とでも判断したのか、特別それを気に掛けた様な素振りは見せずに説明を続けた。
「現在どんな範囲にそのガスが分布しているのかも解らないし、発生源も不明。はっきり言って現状は手の施しようがない状態なんだ。対処方法にしても幻覚を見た患者には病院に行く様に指示をする……とだけ」
「そうですか」
ただ相槌を打つ為だけの、中身の伴わぬ返事をすると不意に滝野が俺の名前を呼ぶ。
「城野君。何か幻覚のことに関して困ったことがあれば本官らも力になるから遠慮をせずに言って欲しい。正直、ガス云々などこの代栂町には影響のないことと軽視していたが昨夜の君の状況を間の辺りにしている以上、そうも言っていられなくなったのは明確なことだ」
それは安易に真意を読み取ってしまうことの出来る言葉だ。警察の側でも「出来る限りのことはやる」と言った具合の励ましの言葉に他ならない。
それはただの気休めでしかないながら、そこに滝野の気遣いを窺い知ることが出来るのだから、それで十分だと言えるだろう。幻覚か、それとも現実なのかすら解らぬ事象を前に、滝野にそれ以上の何かを求めることは難しい。
まして滝野を始めとする彼ら警察官には「薄紫の花」でさえ見ることは出来ないのだからだ。
「……その、ありがとうございます」
そんなやり取りの後、世間話じみた話をいくつか交わして俺は帰宅の途についた。パトカーで送ってくれる……みたいな話も途中で上がったのだがそれは丁重にお断りさせて貰った。
自宅への帰り道、何事もなかったかの様に風に揺られる「薄紫の花」を尻目に俺は帰路を急いだ。
警察署を離れて数分も歩くと緊張感がぷつりと切れ顕著な疲労を感じる様になったのだが、自宅に到着してからはこっち、冷蔵庫の中の在り合わせで作った夕食を完食し、汚れ物を積み上げた洗濯機に洗剤を目分量で投入しながらテレビを付けたのだった。
ゴウンゴウンと年代物でけたたましい音を立てる洗濯機と、深夜の音楽番組にチャンネルを合わせたテレビから垂れ流される流行歌に眠気の到来を妨げて貰って、俺は突き付けられた「非現実」に対する解決策を考え耽る。
一度目を閉じ、部屋を包み込む振動を伴った洗濯機の重い低音に身を委ねる。目を閉じた暗闇の中で幻覚と思しき光景を思い起こそうとすれば、それは鮮明に眼前に浮かび上がる。
そもそもが「幻覚」とは何なのか?
それは対象のない知覚である。単純な例をあげて述べるならそれは実際には存在しないものが見えることだ。
可視出来るもの、それに触れることが出来なければそれを「幻覚」と呼ぶ。では机を叩いた確かな感触をこの手に残して掻き消えた初老の老人は幻覚ではなかったのだろうか?
解らない。何も……解らないのだ。
洗濯機が洗い終わりを知らせるアラームが鳴るまでの時間だけ……と割り切ってベットに横になると気怠さが全身を覆った。殊の外、限界と言うものが来ていたらしく疲労は想像以上に重くのし掛かって来た。
コッチ、コッチ、コッチ……といつもと変わらぬはずの時計の針の音が妙に気になり始めると、意識が遠退いた覚えはなかったのだが……いつのまにか眠りの中に落ちてしまったらしかった。
その深い眠りの中で俺は夢を見ていた。酷く鮮明な「幻覚」をこの目に捉えて当惑する悪夢だ。
深夜の時間帯、櫨馬学院大学前の上り坂で友人の間部と一緒に単位認定の有無を確認に向かう最中のこと。身体に激しい異変を感じ「薄紫の花」と言う幻覚を見て混乱し、俺は代栂町の古い住宅街へと全力疾走する。その場所で占いの小さな店を出す初老の男と出会って警察官が現れる。
酷い非現実感が再度、この光景を覆い尽くした。警察官は仁王立ちした格好のまま一言をも発することはなく、俺は初老の男に向き直る。どうしてか、その表情を、その目がどこを見ているのかを確認しなければならない気がした。
腕を伸ばす……、そこまで行って俺は勢いよく飛び起きた。
眠っていたのはほんの僅かな時間、そんな感覚とは裏腹に時刻は朝を過ぎ、昼へと変わろうかと言う頃だった。
洗濯機は電源が入ったままの状態で沈黙していて、俺の全身を覆っていた倦怠感なんてものも掻き消えてしまっている。長く眠った感覚がないのはこの妙に明瞭な意識だけの様だった。
全身はぐっしょりと寝汗で濡れてしまっていて酷く気持ちが悪い。ベットも荒れ放題の状態になっていて、余程暑さに魘されたのだろう、タオルケットは床へと投げ出されてしまっている。
幻覚騒動は全て夢……と言う淡い期待は財布の中身を確認した瞬間に掻き消えてしまった。
昨夜、警察官から手渡された病院の住所が走り書きされたメモが入っていたからだ。
これがなければ、例え昨夜の出来事が現実であったとしても、悪い夢だと片付けられたかも知れない。
ともあれ酷く鮮明で実体験に基づいたこの「幻覚」を見て当惑すると言う夢の内容は、昨日の出来事が俺の中で半端なものではないインパクトを残したものであったことを示唆していただろう。
「……あー、間部にも侘びの電話を入れなきゃならないかな」
カーテンを勢いよく開けながらボソリと呟く様に口にした言葉。
恐らく昨夜の一件に関してはわけも解らず心配しているだろうから間部には一言だけでも何か言っておかなければならないとは思うのだが、如何せんこの状態をどう説明して良いのか解らないし、手元に携帯がないと言う状況が手伝って俺はそいつを後回しにした。……気が進まないと言うのが正直なところである。
寝汗でびっしょりと濡れた肌着を脱ぎ捨て、俺はそいつを洗濯籠に放ると風呂場へと足を向ける。途中、洗濯機の中を覗き込んでみたが再度洗い直した方が無難な状態であって、俺は排水ボタンを押して放置を決め込むことにした。
……気の進まないことはどちらかと言えば後回し後回しにする性格である。
しかしながらこと幻覚関係に関しては俺の中に逼迫した危機感と言うのがあるのは事実だ。
どんなに著しく体調が回復していようとも、目の奥の痛痒さが掻き消えようとも、病院には行かなければならないことを俺は痛感しているのだ。改めて……と付け加えても良い。警察が云々の話ではない。
カーテンを開け放った時には見えないことにした。しかしながらいい加減、こいつを直視しなければならない。
開閉式の風呂場の窓を開けば見えるのだ。風に揃って頭を揺らす薄紫の花々が……である。
相変わらず視界の端にだけしかそいつを捉えることは出来ない状態ながら、そいつは視点を切り替えても見えなくなることがない。それどころか僅かにぼやける様なこともなくなって、明瞭なものへとなっていたのだ。
シャワーの蛇口を捻って俺は目を瞑り、薄紫の花々から目を背ける。
南櫨馬の幹線通りから僅かに外れる場所に位置する大野病院へと到着したのは正午前の時間帯だった。
わざわざ診察する病院を指定されたわけで、どんなに最新設備の調った病院なのかと思っていたのだが、この大野病院は殊の外何の変哲もない中規模の病院であった。警官から手渡されたメモを取り出して走り書きされた住所を再度確認してみてもここで間違いはない様だ。
昨夜の説明だけだとさも大掛かりな検査をしなきゃならない様な感じを受けたわけで、正直病院へと向かう足取りも実際重たいものであったのだが、ここ大野病院での俺の扱いは手続きにしても一般患者と何ら変わることもなく拍子抜けした感じがする。
十分も待たされただろうか、天井に設置されたスピーカーから俺の名前が呼ばれ、俺は診察室へと足を向ける。通された診察室も別段特筆するべきこともなく、また俺の診察に当たった医師にしてもどこにでもいる様な中年の医者だった。
検査にしても特別なことは何一つなく、採血をされただけで検査結果が出る日にちの話になり、俺は思わず「検査ってのは採血するだけで終わりなのか?」と荒々しく口を切っていた。
これが検査と呼べるものだとは到底思えなかったからだ。
「えーと、城野君の場合は「昨夜の段階で幻覚を伴うガスの影響を受けていた」と説明されているから、まだ君の血液中にその成分があるかどうかを確かめるのが今日の検査の目的なんだ」
「でも……、昨日は、その、激しい頭痛とかにも悩まされて、目の奥の方に激しい痛みを感じたりとかもして……」
「一時的な中毒症状か何かだと思うよ、それは今日になってからもまだ発症しているものなのかい?」
俺の訴えをサラリと聞き流し、医師は俺へとそう聞き返した。そんな医師の言葉の節々に違和感を感じながら、俺は「……いえ、それはないですけど」と言葉を濁す格好でこのやり取りに終止符を打つことにした。
恐らくは検査だの何だのと大層な単語を並べて話しながら医師それ自体が何をやれば良いのかを理解していないのだと感じた。いや……原因が不明の段階で、ましてそれに対して何の情報も受けていないのなら、出来る検査などこの血液検査が精々なのかも知れない。
言ってしまえば、この検査も「ただの気休め」に過ぎないものなのだ。検査と銘打って「幻覚ガス」の被害者に僅かばかりの、根拠のない安心を与える為の気休め。そうだ、無用な混乱を波及させない為の気休めだ。
原因不明の事件に際して、それが表面化しない様に配慮しているその裏を垣間見ている、この推測は強ち間違いではないだろう。取り敢えず今、臭いものに蓋をしているわけだ。
「検出されたガスの種類が何だったのか詳細な説明は受けていないけど、毒性の強いものじゃなかったらしいからそんなに心配はしなくても構わないはずだ。現に城野君以外の、このガスによる患者は痛みを訴えてはいない」
その推測を証明するかの様に医師は「詳細な説明は受けていない」と話した。
薄紫の花は掻き消えることなく、いや寧ろ……より明瞭な状態で見える様になった。
ここまで明確な症状があるにも拘わらず、手立てを講じないのはそれが出来ないからだと直感した。
そもそもが本当に幻覚を伴うガスなんてものが吹き出しているのかどうか、それさえも疑わしいとさえ感じる。
「まだ……幻覚見えてますよ? 俺の場合」
嘘ではない。この診察室を出て、表通りに出れば何の問題もなく厳格たるそれを可視出来るはずだ。
「……一時的な、禁断症状だと思う」
余計なことは何一つ患者に話すな……と、上からお達しが来ているのかも知れない。
そう紙切れに書かれた文面でも棒読みする様に医師は話して、「血液検査の結果、君に今も幻覚を見せている物質を特定出来るはずだ」と締め括った。
「そうですか。ちなみに一つ聞きたいことがあるんです」
「何だい?」
脈絡のない唐突な俺の言葉にも、医師のその表面上には動揺と言ったものは感じられなかった。
幻覚ガスに関係することなら、どんな内容であっても逃げ切れるだけの準備は整えてあるのかも知れない。
「そのガスによる中毒症って言うのは代栂、櫨馬でしか確認されていないものなんですか?」
「……まだ、ガスの種類さえも特定されていない、段階だ。似た様な、報告ならどこにでもあるだろうが……」
言葉を選ぶ様に答える歯切れの悪い医師の様子を、俺はどうしてか口許に苦笑いを零しながら眺めていた。
診察に要した時間は僅かに十数分。痛みに関する訴えによって頭痛に即効性のある鎮痛剤を貰ったに過ぎない今回の診察は納得の行く内容には程遠いと言える。
率直な感想を述べるなら「当てには出来ない」と思ったと言うのが正直なところだ。もしも本当にこの幻覚がガスの影響だと言うのなら、まして櫨馬に赴いた故のものだと言うのなら、間部についての説明も出来ないことになる。
ましてそうだと言うならこの幻覚の影響……、それがこんな小規模に留まっているはずがない。
横目に周囲を見渡せば、相も変わらず逃げる様に視界の端へと遠ざかる薄紫の花がある。
櫨馬に赴いて……と言う点に関して言うのなら身体に起きた異変と言うことで思い当たる節がいくつかあるわけで「違う」と端から決めつけて掛かる様な真似事をする気はないが、あくまでもそれは主ではなく副の……きっかけに過ぎないものであるはずだと思うのだ。
俺の推察が正しいのなら、あの幻覚の起因になったものはパソコン講習で嘉渡さんが呼び出したあの映像……。
あれにどんな細工が仕組まれていたのかは解らないが、確かにあれは俺や嘉渡さんを惹き付けて放さない何か、敢えて言葉にするのなら「暗示」の様なものが存在していた。
頭の中身を一時漂白して空っぽにする様な、あの映像だけを注視する様に仕向けた仕掛けの様なもの。
「嘉渡さんに……、あれを呼び出す為に入力したURLを聞きに行く、か!」
パンッと首の後ろを叩く独特の気合いの入れ方をして、俺は顔を振り上げた。
電車へと飛び乗って住吉駅を一つ通り過ぎると、代栂町がベットタウンとして本格的に人口を増加させた時代に建造された高層マンションがあちらこちらに並立する代栂本町駅へと到着する。高層マンションとは言ってもその階層は最大でも七階層規模のものであり、それも代栂本町駅周辺にその大半が密集しているのであまり近代的な印象を受けることもない。
それよりもこの地区で目を惹くものは三〜四階層のアパートが広範囲の中にありながら所狭しと密集した光景である。その数は数百に及び、俺の住むアパートがある住吉駅付近まで連なっている様が上空からだとはっきり見えるらしい。
そんな代栂本町の十数件の商店から成る桜商店街を越え十数分も歩くと俺の目的地が見えてくる。住所を見る限り、アパート密集区からはちょうど駅を挟んで反対方向の中流家庭の一軒家が建ち並ぶ地区に嘉渡さんの家はあるのだ。
すんなりと嘉渡と表札の書かれた一軒家を見付けると、俺は躊躇うこともなくインターホンを押した。「はい、どちら様?」と、そんな女性の声が返って来る。
俺が何かしら言葉を返すよりも玄関の引き戸が開き、嘉渡さんの娘さんだろう俺よりもずっと年上の痩せた姿を表した。俺は口調に気を配った丁寧な物腰を取って予め頭の中で整理をしておいた言葉を口にする。
「あ……と、あのいつもお世話になっております。嘉渡源太(げんた)さんがいつも参加なさっている代栂町主催のパソコン教室でインストラクターをやっている城野正順(まさなお)と申します。嘉渡さんはご在宅でしょうか?」
俺が話し始めた頃は新聞の勧誘員か何かだと思ったのだろう訝しそうな表情をしていた女性だったが、そこまで説明し終えると合点が言った様でその物腰を柔らかいものへと切り換えていた。
「えぇ、ちょっと待ってね。お父さーん。お父さーん、お客さんよー!」
廊下へと向かって嘉渡さんを呼ぶが返事はない。……と、聞き覚えのある俺の声に反応したのだろう嘉渡さんはヒョイッと庭の方から顔を出し、人の気配を感じ取った俺が庭先へと視線をやって目があった。
「おお、城野先生。今、盆栽の手入れをしているところなんだ。良かったら庭の方に回ってくれ」
「あらお父さん、また庭の方に居らっしゃったの?」
まるで「仕方がないわねー」とでも言わんばかりの呆れた調子でそう口にした女性の言葉に、嘉渡さんは返事をすることもなく庭の方に戻ってしまったらしかった。当の俺は玄関先でどうして良いのかが解らずに固まっていたのだが、嘉渡さんの代わりに「どうぞ遠慮せずに上がって下さい」と言うジェスチャーを見せて、女性は俺を庭先へと案内した。
嘉渡さん宅の玄関は直接庭へ出ることが出来る様になっていた。俺の背だと屈んで潜らないとならない扉ではあるが、それは一つ挟んで直ぐに庭に出られる作りは土を弄るのが趣味の人には好ましい作りだろう。
庭は結構な広さがあり、三段に別れた木製の台の上にはズラリと嘉渡さんの趣味の盆栽が並んでいた。
嘉渡さんはその盆栽の手入れをしながら、俺に対してこう口を切る。
「それで今日はどう言ったご要件だい、城野先生?」
庭に並ぶ盆栽の手入れは一段落がついたらしく、嘉渡さんはその手を止めると縁側へと腰を降ろして、居場所が定まらず庭の端っこの方に立ったままの俺を見る。そんな俺に対して嘉渡さんは小さく手招きをし、その手招きをした手で縁側を軽く叩いて「そんなところに突っ立ったままじゃなく、こっちに来て座んな」と言う。
「あの……前回の講習の時、嘉渡さん、URLを指定してページに行ってましたよね? あの時のURLがどうしても知りたいんで教えて貰えないかと思って……」
言われるがままに縁側へと腰を下ろすと、俺は前置きなく率直に問うべきことを問い掛けた。その問いをぶつけられた嘉渡さんは小難しい顔をして固まってしまって、俺はくっと奥歯に力を込めて心の準備を整える。
しかしながらポンッと小さく膝を打って見せた嘉渡さんが口にする言葉はそんな俺の身構えを嘲笑うかの様な内容だ。
「あぁ……。確かURLと言うのはあれでしたな、インターネット上での住所。講習を機会にせっかくだから本格的にパソコンを使ってみようかと思って復習をしているんだが物覚えが悪くなってしまっていて、ほとほと苦労するよ」
カラカラと笑いながらそう話す嘉渡さんだったが、ことこのURLの話に関して俺の態度がおかしいことを感じ取ったらしく、すぐにその表情を切り換えて再び考え込む様に小難しい顔を取って見せた。
「さてURL……URL。うーん……確かに何か文字が頭の中に浮かび上がってきて打った覚えがあるんだが、さて……それが何だったかと言われると、うーむ」
「思い出せませんか?」
そんな急かすかの様な、思い出すことを強要するかの様な言葉を口にするつもりではなかった。結果としてそんな言葉を口にしてしまっていたと言うところが真実だったが、それを口にしたことに代わりがないのも事実だった。
俺は意図せず焦燥感を感じている自分をそこでようやく理解した。……少し頭を冷やさなければならない。
「文字一つ思い浮かばなんだ。何かきっかけがあれば話は別なのかも知れないがー……」
そう話して見せる嘉渡さんに俺は「URLを思い出す」と言う可能性をササッと諦めた。思い出さないと言うのではなく、そこに思い出せない何かがある気がしたからだ。それよりももう一つ、どちらかと言えばこちらが重要なのだ。
何せ俺の他に講習の時、あの映像を見た唯一の人物なのだから。
「そう……ですか。あぁ……と、それともう一つだけ聞きたいことがあるんです。……前回の講習から何か身体に異変が起こったとか言うことはないですよね?」
ゴクリと緊張から一つ唾を飲み込んだ。喋っている最中に口が渇くほどの緊張がそこにはあったのだ。
「いや、いつもの眼精疲労があるくらいだな。今回は特に目の奥の重たい感じが酷かったがこれと言って特に変わったことでもない」
「ありがとうございます。変なこと聞いてしまってすいませんでした」
そう切り返した俺は一体どんな顔をしていたのだろうか?
目の奥に感じる重たい感じ……その症状を深く訪ねる雰囲気にはなかったから控えたが、薄紫の……と言う単語は喉元まで出掛かっていた。いや……、未だ進むか進まぬかを迷っている段階にある。
幻覚の中の初老の老人が「初期の頃のアルゴリズムは頭に馴染むまでに結構な時間を有したらしいが、お若いのほど苦しむのはそう多くない」と言っていたことを思い出し、俺はくっと口を噤んだ。
あんな幻聴をどうして真に受けているのかと、そんな行動を取った俺を批判する心の声も確かに残る。
ではあれをただの幻覚の中のことと片付けられないのはなぜだろう?
今思えば初老の男も荒唐無稽とさえ思えることを口にしていた。けれども簡単にバッサリ切って捨ててしまうことが出来ないのはなぜだろう?
酷い非現実感の中で出会いながら、あの初老の男そのものに関しては非現実感を感じていないからだ。机をぶっ叩いた感触も残っている。あれは現実だったと「馬鹿馬鹿しいと切って捨てる」理性ではない五感が訴えているからだ。
「ははは、城野先生が気に病むことは何もない。どうだい、せっかく来たんだ。上がってお茶でも飲んでいかないか?」
嘉渡さんの言葉にハッと我に返る。そうしてその嘉渡さんの誘いに対する対応をした。
咄嗟のものだったがそれは非常に申し分のない受け答えになっただろう。点数にするなら満点にさえ近い。
「せっかくのお誘いなのに申し訳ないんですけどあまり時間は取れないんですよ。この後、斎条さんのところにも寄っていこうと思ってまして」
それは嘘じゃない。けれども早急に……と言うわけではないことも事実である。時間がないわけではない。
年の功を持つ嘉渡さんにはそんなことは態度と言ったものからあっさりと見抜かれてしまっている様だった。
「少しぐらいなら構わないだろ?」
「そうですね、それではお言葉に甘えまして」
僅かながら強い調子を帯びる嘉渡さんの誘いを断る理由はない。講習時では他にもたくさんの方々がいたこともあって、ゆっくり話す機会は持てなかったが、少ない会話の中でも楽しくやれていた部類だ。
「恵美子さん、すまないがお茶を入れてくれ」
嘉渡さんが家の中に居るのだろう娘さんにそう呼び掛けると、奥の方から「はい、解りましたよ」と言う返事がする。
すっと俺へと向き直った嘉渡さんから口を切る。それは何てこともないただの世間話で、コミュニケーションと言えば良いのだろうか、俺も気軽に受け答えが出来る内容だった。
「……いやいやしかし、あの試作品のノートパソコンってのは見易くて良いもんですな。あれなら買って実際に使ってみようかと言う気になる」
「それでも嘉渡さんは……、それ老眼鏡ですよね? 老眼鏡を新調した方が良いと思いますよ」
ゆっくり話す機会がなかったから、気に掛かっていながら今まで話す機会のなかったことを思い切って口にする。
「最初の内はそうでもないですが、時間が経つに連れて液晶画面に鼻を突き合わせる様にして画面を見てますから」
「あぁ、時間が経つに連れて画面がぼやける様になるんだよ。これは度を少し強くした方が良いってことなのかい?」
嘉渡さんにも自覚はあるらしかった。けれどもその嘉渡さんの問いにはっきりと答えられる知識を俺は持っていない。
何せ専門外のことだ。
「それは俺にはちょっと解らないことなんで、眼鏡屋さんに直接話してみた方が良いことだと思います」
そんなやり取りの途中で廊下の奥の方の扉が開いて、俺と嘉渡さんの元にほうじ茶が運ばれて来る。
「はい、お義父さん。お茶を持ってきましたよ」
去り際に「それではゆっくりして行って下さい、城野さん」と嘉渡さんの娘さんに一声掛けられて、俺も小さく会釈をすると、どちらからともなくまた世間話は始まったのだった。
それから時間にして三十分も経っただろうか、嘉渡さんとの世間話を済ませて俺は斎条さんのいる代栂町役場を目指して嘉渡さん宅を出た。
代栂町役場は代栂本町駅から徒歩ですぐの場所にある為、来た道を戻る格好になる。町役場自体はそう大きな建物ではなく、高層マンション群に埋もれる形で立地していることもあって慣れてしまうまでは割と解りづらい。
二階建ての、どこにでもある少し大きめな郵便局と見紛う代栂町役場の自動ドアを潜ると、俺はこの街に住む様になってから指折り数える程とか来たことのない役場内をキョロキョロと見渡して目的のものを探すのだった。
それも直ぐに見つかった。
「斎条謙行(さいじょうけんや)さんはいらっしゃいますか?」
総合案内と書かれた一角の受付の女性にそう尋ねるとすぐに「えぇ、お呼びしましょうか?」と答えが返る。
俺も「お願いします」と簡潔に答えてしまうと、後は斎条さんが多忙ではないことを祈るだけだった。
デパートなどで良くある迷子のお知らせの様にマイクから呼び出すのかと思っていたのだが、受付の女性は手元の受話器を取って斎条さんがいる部署に連絡を入れている様だった。
そう時間も経たない内に斎条さんが奥の方の「関係者以外立入禁止」とある扉から顔を見せて、俺は小さく会釈をするのだった。
「珍しいね、城野君が僕に会いに町役場に顔を出すなんて」
「すいません、仕事中に。忙しいですか?」
申し訳なさそうに話す俺の様子とは対照的に、斎条さんはカラカラと笑いながらこう言った。
「そうでもないよ、本当に忙しい期間は済んでいるからね。ところで……保険料の免除手続きとかはきちんとやっているかい、城野君? 保険料と言えば年金だけと取られることも多いが、実際はそれだけじゃないからね」
「えーと……ですね」
話がおかしな方向に流れ始めたのでパパッと元に戻そうとしたが時は既に遅し。そうして当然の如く、俺も怠惰な大学生振りを発揮し、保険料云々になど目を向けたことなどなかった。
二年の頭に親展と書かれていた(かどうかは曖昧なところだが、ともかく)封書が届いて「保険料を納めて下さい」と言った趣旨が記述されていたのは記憶している。後回し後回しにしている内にどこに行ったのだろうかと言う感じだが、大方目を背けてしまいたいと考えて机の引き出しの奥に放り込んだままになっているだろう。
「どうせ滅多に役場になんか来ないんだろう? ちょっと近くまで来る用事があったから僕に挨拶に来たそのついでで良いからやっていくと良い。とは言っても判子なんかを持ち歩いているわけじゃないだろうから無理……かな」
まだまだ続きそうな斎条さんの話を半ば強引に遮る形を取って、俺は事情の説明を始めた。もちろん幻覚云々は伏せた状態での事情説明だったが、だからこそ斎条さんに納得をして貰う為に俺の様子は必死なものになっただろう。
ただどうしても「幻覚」に踏み入らなければならないなら、俺は斎条さんに対して踏み入ってことを話す覚悟は持っていた。俺の要求は簡単に許可を下してくれる様なことではないのだ。
大本が省かれた事情を説明を聞いて、斎条さんが口にした第一声はこんなものだった。
「前回の講習時のアクセスログを見せて欲しいって?」
訝る様な表情はない。ただ何かしら真意が隠されていることは俺の態度から読み取られた様だった。
すっと考え込む仕草を取って、斎条さんは時間にして十数秒の沈黙を見せる。
「まず……サーバーは町民会館にあるんだ。……うん、君がそこまで言うんだ、何かあるんだろう」
正直なことを言うなら、それは俺に取って思いも寄らない言葉だった。
「よし、ファイルに書き出してあげよう。僕も同席することになるが構わないかな?」
「もちろんですよ! 俺が知りたいのは前回の講習の時、嘉渡さんが一体どこにアクセスしたのか。ただそのURLが知りたいだけですから」
「……嘉渡さんの、URL? 城野君が前回の講習の終わりに気にしていた奴か、何かあったのかい?」
余程、俺は深刻そうな顔つきでもしていたのだろうか。不意に俺を見る斎条さんの表情には真剣味が灯っていた。