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 代栂町(よつがちょう)町民会館の大会議室には50人にも上る老人が集まっていた。そう言うのも代栂町がこの春、60歳以上の代栂町在住の高齢者を対象に無料のパソコン講習なんてものを企画したからだ。
 一つの小さな町が企画した小さな催しの割に大手パソコンメーカーからの協賛も得られ、大会議室には50台からのノートパソコンが並んだのだった。
 何でも高齢の方にも扱い易いようにとフォントサイズなどを予め調整した今春市場に投入予定の試作品だとか言う話だが、それでも一台軽く二十万越えの現物が50台も並んでいると眺めとしては実際壮観でさえある。
 提供メーカーからの要望であるノートパソコンについてのアンケートが少々面倒だと言えば面倒なのだが、それも仕事の一環と割り切ってしまえば苦にもならない。
 毎回講習の終わりに配付するアンケート用紙には「ノートパソコンについての操作のしやすさ」「液晶ディスプレイの見易さ」などの項目があり、この講習から何か改善出来る改良点を見つけ出せれば……と言う腹積もりがメーカー側にはあるのだろう。
「はい、それじゃあ先週までにやった内容のおさらいはこれで終了しますよ? 今週は新たに……栞で言うところの「インターネットに接続してみましょう」と言う章に入りますからね」
 俺は今現在、そこのインストラクターのバイトをやっている。
 期間は二ヶ月、出勤するのは週一回、時間にしても一回の講習が三時間と全く苦にはならないバイト。
 その癖、給料は高く時給に換算すると物凄く割の良い美味しいバイトの一つだ。
 当初は高齢者の物覚えの悪さなんてものに苛々を隠せなかったりもしたのだが、それは試行錯誤の末……肩の力を抜くことで解決し、今では同じ質問を何度も何度も繰り返されることにも完全に慣れてしまっている俺がいる。少し前までの俺ならば考えられなかったことだが慣れと言うのは恐ろしいものだ。
 俺は額にジワッと浮かび上がってきた小粒の汗をワイシャツの袖で拭いながら、室内を巡回する為に歩き始める。
 それは教壇に直立不同でいるよりかは実際に液晶画面を指差しながら教える方が楽だと言う実体験に基づいての行動である。これから話す内容について「多くの質問を受けることになるだろう」と言うのは推測ではなく確信なのである。
 まぁ額の汗に関して言うと、未だに「俺がものを教える」と言うことに対して残る緊張の影響も多分にあるのだが、ノートパソコン50台分の排熱により、室内気温が上昇していることが大きいだろうか。
 他のインストラクターが出て予め用意していたLANケーブルを接続して行く中、俺は頃合いを見ながら口を開いた。
「はい、それじゃあ……デスクトップ上にあるインターネットエクスプローラーのショートカットをダブルクリックして下さい。えー、デスクトップの配置を変更していない初期状態の方は左端の上から三つ目の青いローマ字小文字のeに似たショートカットですよ」
 俺は右手に持った栞に視線を落としこの項目に対して注意事項がないかを確認する。しかしながら俺がそこに記述された注意事項を説明するよりも早く、ちらほらと挙手があって俺の名前が呼ばれるのだった。
「城野(きの)先生、ちょっとお聞きしたいんだが……これで正しいんですかい?」
 インターネットエクスプローラーと言う単語の説明自体は前々回辺りの講習で既にやってはいるのだが、これに正しい反応を返す人は多くない。……まぁ言ってしまえばそれにも慣れてしまっているのだけど。
 他のインストラクターと視線を交差させ意思の疎通を図りながら、俺が応対する範囲を大雑把に指定する。顎をしゃくって「大体そこら辺一体を俺が面倒見る」みたいなことを相手に伝えるのだ。
 最初は全然意図通りに受け取って貰えなかったのだが、回を重ねるごとに大筋で通じる様になっていた。
「はい、佐藤さん」
 俺はひょいっと上から液晶画面を覗き込みながら、カーソルの位置を確認する。高齢者用と言うこともあって、文字を始めアイコンなども比較的大きく表示されているので、教える側としてもこう言う時には便利だと感じる。
 それと同時に液晶の革新と言うのも実感せずにはいられない。本当に最近の液晶は視野角が広くなった。覗き込む様にして画面を見てもきちんと文字を読み取れるのだから、出始めの頃のものとの違いを感じずにはいられない。
「そうです、それをダブルクリックするとインターネットエクスプローラーが開きますよ」
 カチッ……カチッとダブルクリックに不慣れな佐藤さんが一度でダブルクリックを成功させられたことは(俺が知る限り)一度もない。マウス相手に徐々に真剣味を帯びる佐藤さんの様子に「頑張って下さい」と一声掛けて、俺は一度壇上に戻る為にその場を後にしようとする。そこを呼び止められた。
「城野先生。この検索サイトを利用せずともここを書き換えてやれば、目的のページに行けるんだろ?」
 俺に取ってはその声も聞き慣れたものだった。最初の講習の時から毎回二〜三度は呼ばれているだろうか。
「えーと……ちょっと待って下さい、嘉渡(かわたり)さん」
 嘉渡さんは佐藤さんよりも後部の座席に座っていて、俺の居る場所からでは嘉渡さんが操作するノートの液晶を見ることは出来ない。
 質問の意図が明瞭なので「恐らく聞きたいことはこれだろう」と推測することは出来たが、無用のトラブルを避ける為にも実際に応対するのが最善である。講習の前半で学んだ俺なりの教訓でもある。
 とかく考えられないことを普通にやってのけるので、如何なる場合でも油断は出来ないのだ。
 俺は一度会議室の最後方まで行き、グルリと回って嘉渡さんの後ろ手へと付いた。液晶画面上、嘉渡さんが指差す場所にはURLの羅列がある。
「ええ。予め行きたいサイトのURLが解っているのなら、ここの「http//www……」のところを書き換えてやればそのサイトに行けますよ」
 そう説明をしてやると嘉渡さんはデリートキーを押して検索サイトのURLを消すと、おっかなびっくりの手付きながら一つ一つ文字を重ねていった。嘉渡さんはこの講習に来ている高齢者の中でも物覚えが良い方で、特に前回・前々回の内容をきちんと覚えて来てくれるので、とても教える側としては教えがいのある人である。
 そんな人だから一体どんなページに行くのだろうと少々気になったので、ページに移動し終えるまで様子を見ていようと思ったのだが、そう簡単に時間を取らせてはくれない。すぐに「城野先生」と呼び声が掛かって俺はその場を離れなければならなくなった。
 後で巡回がてら見に来ようと心に留め、溜息一つ俺はその場を離れて呼ばれた方へと足を向けた。
「嘉渡さんは凄いねぇ。URLを覚えてくるなんて。パソコン経験お有りなんですか?」
「いや、そうじゃないんだが。どうしてか、ふっとこのhttpの後に続く……ローマ字ってぇのかい? この文字を思い出してなぁ」
 そんな嘉渡さんと周囲の高齢者との会話を背中越しに聞きながら、俺は周囲のインストラクターの状況を確認する。
 あちらこちらで「そこをクリックしてですね……」とか「ダブルクリックですよ。最初の講習の時にやった奴です」とか言っている辺り、まだまだ時間を取らなければならない様だ。
 そんな様子を見ている限りでは嘉渡さんは非常に優秀だと言えるのだろう。そうして、優秀故に引き起こしそうな問題を心のどこかで危惧していた通り、嘉渡さんが起こしてくれた。
「城野先生。……インストール作業を開始しますってぇのが出て来たんだが、どうしたら良いんだい?」
 大半は「検索サイト」に行くまでの行程をやっている中で、一部の「先に進める」人達がやりかねないことだった。
 まさかアダルト系のサイトに接続したわけではないと思うので、それは恐らくショックウェーブやフラッシュなんかのプラグインだと思われた。
 ここ代栂町町民会館にはファイアウォールが設置されていて、一部危険だと思われるサイトへのアクセス制限を行っていることも前提としてあったので、俺は嘉渡さんの処理よりも先に同じことをやらかさない様に周囲に注意をしておくことを選択する。
「あー……はい、今行きますからちょっと待ってて下さいね」
 そう嘉渡さんへと前置きをして、俺は一つ大きく声を張る。
「良いですか、前のお浚いになりますが何かメッセージが出て来ても無闇やたらに「はい」のボタンをクリックしないで下さいね。何か問題を引き起こすものをダウンロードしようとしていたりする可能性もありますからね」
 そう注意を促すと他のインストラクターが反復して声をあげ、パソコンの操作に集中して話を聞く余裕のない方々に話して回る。こればっかりは同じ間違いがない様にして貰わないとならないことであり、また今後自宅ないしこの講習以外の場所で、パソコンを操作する時に気を付けなければならないことでもあるので、しっかりとやって置かなければならない。
 そうして説明の方に一段落を付け俺が嘉渡さんのノートパソコンの液晶画面を覗き込んだ時には、既に「インストールを完了しました」のポップアップメッセージが出ている状態だった。続いて液晶画面には「モニター周波数の最適化を行っています……」とメッセージが表示され、どうやら何かのexeファイルが実行されているらしかった。
 俺は俺がその手のプログラムに関して持っている知識を総動員して、インストールされたものが何なのかを推測したが満足な答えは返って来なかった。
「嘉渡さん、一体何をインストールをしたんですか?」
 明確な答えが返ってくるはずがないとは理解しながら、問い掛けずにはいられない。
 エスケープキーを押してみても「……必要Vram容量確認。……必須CPU周波数確認。……最適表示速度の測定完了」と実行を続けるプログラムは一向に停止する気配を見せないでいる。
 そして強制停止コマンドで終了させようかと思った瞬間のことだった。「ではプログラムを実行します。それでは、決してモニターから目を離さない様に注意をしてください」と表示が出て、全画面表示へと切り替わったプログラムが不可解な映像の再生を始めた。
 まるでそれに惹き付けられる様に俺も嘉渡さんもその映像を注視していた。「停止させなければならない」と言う思考も見ている間はどこか遠くへ行ってしまっていて、一分近く続いたのだろうか、……その映像に完全に魅入っていた。
 一言で言ってしまえば複雑に入り交じった図形の様なものと、文字とも記号とも付かない羅列が複合された画面だと言えた。しかしながらそこに何一つ理解出来るものはなかった。無数の図形が表示されてはいたが何一つ見覚えのある様な図形はなかったのだ。
「お疲れ様でした。それではメモリ上に展開されたプログラムの解放を行います」
 ハッと気付くとモニター上にそんなメッセージが表示されていて、その解放とやらが終了するのにさしたる時間は掛からなかった。大雑把にプログラムファイルやテンポラリの中身を確認してみたがそこに不審なものを発見することは出来ず、俺は時間の都合上もあって、気懸かりではあったのだが講習を先に進まらせることを余儀なくされた。
 後味の悪さを引きずりながら、俺は一時それを思考の外へと追いやり、声を張り上げて講習の続きを口にした。


 講習が終わり軒並み人が捌けていくのを横目で眺めながら俺は椅子にもたれ掛かる様に座り込んだ。
 そこにはいつもよりもかなり度合いの強い疲労を感じている俺がいる。
「……はぁ」
「お疲れ様。……疲れたかい城野君?」
 目元を押さえる様に俯くそんな俺に、斎条(さいじょう)さんが労いの言葉を向けて来た。
 斎条さんはインストラクターを統括するチーフ的な役割を担っている人だ。元々は代栂町町役場に務める地方公務員で、たまたまインストラクターの資格を持っていたからと言う理由でチーフとして抜擢されたらしい。
 年齢は三十前半、初めて会った時に俺が第一印象として人当たりの良さそうな人だなと感じたままの穏和な性格の人であり、知識という点でも大学で不真面目ながらの勉強をしている状態の俺よりも多量のものを持っている尊敬出来る人だ。
「なんか……、嘉渡さんがどこかからか落としてきたプログラムで実行された映像を見てから目の奥が重たい感じなんですよ。……気のせいだとは思うんですけどね」
 見た直後にはそれと感じた風はなかったのだが時間が経つにつれ、目の奥の方に重たい感じがする様になったのだ。講習中はそう気に掛かるほどのものじゃなかったので「悪化している」と考えて良いのだろう。
「結局何だったんだい? 嘉渡さんがダウンロードしてきたものって?」
「よく解らないんですよね。アドレスを嘉渡さんが打ち込んでサイトの表示をしたはずなのにブラウザの履歴には残っていないし、嘉渡さん本人もURLを覚えていないとか。(トロイの)木馬とかじゃなければ良いんですけど……」
 西条さんの問いに、再度あれが何だったのかを頭の中で整理しながら考えてはみたがやはり答えは出ない。
「ここの大会議室はファイアウォールに守られているし、各ノートパソコンにはセキュリティソフトも入っている。何かあればすぐに検知されただろう、あまり深く考え込む必要はないと思うよ。まぁともかく今日一日お疲れ様。早めに帰ってゆっくりと休むと良い」
 斎条さんにパンパンと軽く背中を叩かれて俺は大きく息を飲み込んだ。確かに深く考えても仕方のないこと、そう考え心配を切り捨てると唐突に空腹感なんてものが襲ってくるのだから現金なものだ。体調の悪化は徐々に徐々にではあったが確かに進んできていて、早く休みたいと言うのも本音ではあった。
「そうします。それじゃあ俺、先に帰宅させて貰いますんで」
 中身のほとんど入っていないバッグを手に取り、俺は一足早く町民会館を後にした。インストラクターの方々に挨拶を済ませて町民会館を出ると、眼前に広がるなだらかな坂を下り平坦な土地の続く代栂町の住宅地へと向かう。
 最初の頃は自転車でこの町民会館まで通って来ていたのだが、実際……俺のアパートからここまでの距離にしたってそう離れているとは言えないということもあって、いつの間にか自転車では通わなくなっていた。
 帰宅の途中、最寄りのコンビニに寄り夕食の検討をする。そうは言っても事あるごとにお世話になっているコンビニ弁当では、それを食べたいと心底思っているから購入するのではなくなってしまっている。
 棚に陳列されたものは全て食べ飽きた感が否めないものばかりで、この空腹から来る食欲と言う欲求がなければ進んで食べようなどとは思わないのだろう。結局おかずの数品入った手頃な価格帯の弁当を購入し俺は帰宅の途につくのだった。
 そのコンビニから俺が賃貸している部屋まではそう遠くない。複数個の部屋を持った二階建てのアパートと言えば説明としては的確なのだろう。
 二年前に大学入学を期にお世話になり始めたアパートで、風呂が狭い以外はさして不平不満もない良質な物件だ。
 ……と言うのも、なにせ入居の決め手となったものが「家賃の安さに見合わぬ高いコストパフォーマンス」で、ここに多くの要求を突き付けようと思わないと言うのが本音なのだ。
 入学当時、もう少し金銭的な余裕があったのなら、俺の通う大学がある櫨馬(はぜま)市の市内でアパートを探したのだがそこの家賃は貧乏学生には厳しいお値段ばかりだった。大学から少し距離が離れてでも櫨馬市内で家賃が同価格帯のアパートを探せばいいだろうともお思いになるだろうが、それは大学の立地条件的に得策ではないのである。
 俺の通う大学は櫨馬市と代栂町のちょうど境にあたる高台に立地している。櫨馬市の市街地は代栂町寄りに位置していて、代栂町寄りの土地の方がどちらかと言えば高値であり、家賃もそれと比較して上昇していく傾向にあるのだ。
 ところが代栂町に入ってしまうとその家賃のレートはガクンと下がる傾向になっていて、家賃が同価格帯のアパートを櫨馬市内で探すとなると逆に大学からドンドンと遠ざかってしまう構図になっている。
 もちろん大学の周辺には大学に入学する生徒を優遇する寮施設なんかが点在しているのだが、俺にはどうにも寮生活と言うのが性に合いそうもないと言う理由からそちらは見送った。
 結果、大学通学には何の支障がなくとも、気軽に櫨馬市街へ遊びに出ようとなると交通費が掛かる状況に置かれることとなっているわけだ。
 歩き慣れた夜の閑散とした道を歩き、俺はポケットからアパートの鍵を取り出す。郵便受けには何も入ってはおらず、俺は集合住宅風のアパート一階の「城野」と名札の入った扉の鍵穴に鍵を差し込んだ。
「うーあー……」
 疲れから来る意味を持たない言葉を口走りながら、俺は玄関の扉を開くとコンビニで購入した夕食をテーブルの上へと乱暴に放った。意図してそんな行動を取ったわけじゃない。ただただ早く横になりたい衝動に駆られたのだ。
 掃除も満足に行き届いていない乱雑な部屋の様子になど目を向ける余裕もなかった。空腹と言う欲求もいつのまにか気にならなくなってしまっていて、ただただ休息を求める思考が前面へと押し出されていた。
 外出着を着たままベットの上に倒れ込み、そのままゆっくり目を閉じる。意識が薄れる間際に思ったことは「もう年なのかな?」と言った具合のものだった。
 そのまま一日が終わりを告げると思っていたがことはそう簡単に運ばない。夜中になってそれは一際激しさを増したのだ。目の奥にツーンと感じる重さと言うものは重度の痛痒さを伴っていて、俺はぐっしょりと寝汗をかいた状態で深夜に目を覚ました。着衣を来たまま眠りについたとは言え、その発汗量は暑さによる所為だけだとは到底思える量ではない。
 ……視界自体はとてもはっきりとした良好な状態だった。少なくとも緑内障とか白内障などに見られる様な視界が狭まったりする様な症状は見受けられず、ふっと油断をすると頭部を掻きむしりそうになるこの痛痒さが「目」と言う一つの器官から来ているものではないことを想像させた。
「薬だ……薬を飲まないと……」
 荒い息を吐きながらベットから這う様に床へと転げ落ちると、そのタイル張りの床の心地よさに僅かな冷静さを取り戻す。書籍だとか脱ぎ捨てたままの服だとかが乱雑に散らかる部屋の中を、薬箱を手探りで探しながら蠢いていると数分と立たずに目的のものは発見出来た。
 一週間ほど前に風邪気味だった時に薬局で買った風邪薬を薬箱に入れて、一日三度の服用の為にベットの側に放置していたことが功を奏したのだ。目的の薬箱は見つかったがそこで問題が生じた。「どんな薬を服用すればいいのか?」その判断が出来なかったことだ。
 少しでも状態が改善することを祈って、今はただただ眠りに就きたいと言う気持ちが強かったので求めるものは睡眠薬でも良かったのだが、薬箱の中にその手の薬剤は存在しなかった。
 元々、睡眠薬にお世話にならなければならない様な身体構造をしていないのだ。購入した記憶のないものが都合良く存在するなど一人暮らしの生活ではあり得るはずもなく、仕方がなしに俺は風邪薬を口にした。
 それは「風邪薬にも頭痛を軽減する効果があるし、また睡眠薬ほどの効果がないにせよ催眠効果はあるはずだ」との根拠に乏しい理論武装から来た行動だった。
 床に転がるペットボトルは冷えてもいないお茶ではあったが薬を飲み込んでしまえれば何でも良かった。薬を飲み終えると俺はよろよろと立ち上がり重力に任せてベットへと倒れ込む。目の奥の痛痒さはそれからどれだけの時間続いたのかも解らないが睡眠薬に含まれる催眠成分が利いたのだろう、俺は浅い眠りに着くことが出来た様だった。
 倦怠感と痛痒さが一進一退で変化していく様を、理科実験室で行った実験の様に事細かに理解出来る心地悪い状態の中、ふっと唐突に状況が改善した。


 モゾモゾとベットの上に横になった状態のまま、俺は時刻を確認する為に時計へと手を伸ばす。……そうして時計の時刻を確認し俺は暫し絶句した。
 それはデジタル時計の指し示す時刻が夕方の五時を回るか回らないかと言う頃だったからだ。ムクリと起き上がって見た窓の外の世界は夕暮れに染まる真っ赤な世界で、どうやら時計が狂って正確な時刻を表示していないわけではない様だ。
「……本当に十二時間以上眠っていたのか?」
 現実は現実として受け止めなければならないながら、俺は「時計にしても風景にしてもグルになって俺を騙そうとしている」と直感的に思ったほど「眠った」と言う実感がない状態だった。眠り過ぎた時に感じる倦怠感さえもなく、身体の節々に痛みを感じる様なこともない。強いて言えば、首を回すとコキコキと音が鳴るぐらいだ。
 ハッとなって昨夜から悩まされ続けた目の奥の痛痒さの状態を確認するが、それも気にならないぐらいにまで減衰していた。意識していないと目を擦るのが精々だろうか、ほとんど日常生活に影響がないぐらいにまでは治まっている。
 ベットから起き上がろうとシーツに手を付くと、そこに何とも表現し難い生暖かさがある。それは本当に俺によるものなのか疑うほどにぐっしょりと寝汗に濡れたシーツだった。
 くるむ様に持ち上げると重さを感じることさえ出来るシーツを俺はそのまま洗濯機へと放り込んだ。寝汗だとかそう言ったものをさほど気にしない様な不精な俺でさえ、そのまま放置しようと思わないほどの酷い状態だったのだ。
 また、状態が劇的に改善されたと意識すると欲求と言うものは現金なもので空腹と喉の渇きが同時に襲って来る。俺は冷蔵庫にいれることもしなかったコンビニ弁当に口を付け、半分近くが残っていた一リットルペットボトルの中身を一気に飲み干した。
 食後に一息吐くと今日付けのは約束があることを唐突に思い出す。
 それはちょうど後一〜二時間長く眠っていたなら守れなかっただろう約束だ。間に合う様に起床したのも何かの縁かと思えば縁なのだろう。取り敢えずと言う格好で、俺は身体の寝汗を流す意味合いも込めてシャワーを浴びる為に風呂場へと足を向けた。
 シャワーを浴びるととてもサッパリとした。徹夜明けの朝風呂に入るあの心地よさを味わったと言えば的確だろうか。
 ともあれ身なりを整え終えても十二分に約束の時間には間に合う時刻だった。
 断りを入れても何ら問題のない様な約束なので、大事を取って「今日一日は自宅に引きこもろうか」と真剣に悩みながら、けれども最終的に俺が下した結論は「ただでさえ半日潰しているのだから丸々一日このまま棒に振るのは勿体ないだろう」と言う内容のものだ。思ったよりも状態の良い身体の調子もその気持ちに拍車を掛けたのだろう。
 ラフな外出着に着替えてパーカーを羽織り、最寄りのJR駅である住吉(すみよし)駅目指して家を出る。
 JRに飛び乗って三駅。時間にして三十分も掛かるか掛からないかほどの時間で、目的の南櫨馬(みなみはぜま)駅へと到着する。そうして俺の仲間内で待ち合わせ場所として使われる広乃堂(こうのどう)書店は南櫨馬の駅を出て、すぐ右手に窺うことが出来るのだ。
 この書店が南櫨馬にある書店の中では最大規模の書籍数を取り扱うと言うと、待ち合わせ場所としては向いていないとお思いになるなるだろうが実際はそうでもない。確かに書籍の取り扱い数が膨大だとは言え、その大半は雑誌や漫画しか読むことのない俺やその仲間内に取って興味を持つことのない書籍である。
 例によって俺の友人の一人、間部尋一(まなべじんいち)はグラビアアイドルの見開きが載る様な雑誌のコーナーで発見出来た。そして俺が声を掛けるまでもなく、間部は俺の存在に気付いて声をあげる。
「よう、遅かったな。……とは言っても、まだ待ち合わせの時間にはなっていないんだけどな」
 書店を待ち合わせ場所に指定することになった経緯として、約束の時間に遅刻してくる連中が余りにも多かったことがある。最初の頃はそれこそ、駅前だとか待ち合わせ場所としては定番を使っていたのだが待たされる側が暇を持て余すのをどうにか出来ないかと考えた末、だったら書店を待ち合わせ場所にすれば良いと結論付けられたのだ。
 間部が口にした様に俺は滅多に遅刻をする様なことはない。けれどもそれは几帳面だとかそう言うことに由来するのではなく、仲間内との付き合い始めに約束の時間から一時間近く待たされた経緯があるからだ。
「何だか昨日の深夜辺りから目の奥の方が痛痒くなり始めてな、……目を瞑っている間も痛痒くて痛痒くて、本当に眠りについたのかどうかも解らない様な状態だったんだよ」
「高齢者向けの試作品だったっけか? 慣れないパソコン使った所為じゃないのか?」
 雑誌を元の場所へと戻すと間部はカラカラと冗談めかして笑いながらそう言った。
「人によってそんな影響が出る様な商品、誰が使うんだよ?」
「だから高齢者向けってことで、高齢者の方々には影響ナシ……なんだろ?」
「講習ももう半ばに差し掛かろうって言う時だぜ、もしそうだって言うんなら異変は最初から起きていただろ?」
 どんな技術を使えばそんなわけの解らない問題が発生するんだよ……とか、真面目に取り合うのもあれなので軽くあしらう様に間部の推察を潰していく。間部にしてもそんなことを本気で考えているわけもなく、サラリと意見を翻して見せるのだった。
「そんじゃあれだな。本格的に目の使いすぎとか何かだろうさ。二〜三日パソコンの画面を見ないで、テレビも付けず本も読まず、ボーっと暇を持て余すのも悪くはないもんだ」
 俺の肩をパンパンと叩いて「休息の勧め」を説きながら間部は俺の首へと肩を回した。ポケットから携帯を取り出し時間を確認する辺り、この後時間制限の何かがあるのだろうと推察出来る。
「一時期に比べるとだいぶマシになったけどな、……続く様なら眼科に行くことにするよ」
「それが良い。……とは言ってもパッと見、目が充血してるでもない感じだけどな」
 そんな具合に会話を締め括ると間部は駅前通を櫨馬の中心部に続く方角を指差し首を傾げる。要は「歩こうか?」と言っているわけなのだが、実を言うと今日どこに行くのかを俺は間部から聞いていない。「俺のオススメの、良いものが見れるから南櫨馬駅まで午後六時までに出て来いよ」と誘われただけなのだ。
「それで、良いものが見れるって話の「良いもの」ってのは何なんだ?」
「それは到着してからのお楽しみだな」
 直球で探りを入れるも明確な答えは返ってこない。
 はぐらかすでもなく「お楽しみ」とは、さすがに気にならないわけがない。
「ここまで出て来てるんだぞ?」
 広乃堂を待ち合わせ場所に指定したと言うことは目的地は必然的にここからそう遠くはない場所と言うことになる。場所を櫨馬の中心部や蕗見沢(ふきみさわ)に移すなら、その場所場所の待ち合わせ場所をきちんと定めているのだ。
 講義をさぼれて(数にもよるが)単位を落とせる大学生の、暇の潰し方と効率の良い遊び方をなめて貰っては困る。
「へへへー、せっかちだねお客さん」
「誰がお客さんだよ、誰が……」
 呆れる俺の調子など目に入っていないかの様だ。間部は自身でテンションを持ち上げると、こう言葉を続けた。
「ではお楽しみと行きましょうか。本日午後七時からキリノスポーツビル前の緑水の広場で野外ミニライブがあるんだよ、ロハのミニライブだが内容は期待出来ると思うぜ」
「野外ミニライブ?」
 予想だにしていなかった間部の言葉に、俺は一瞬怪訝な表情を取って見せたがすぐに思い当たる節にぶつかる。
「あぁ……あれか、何て言ったっけか、最近お前のお気に入りの……あれだろ、例の新人アイドルだか何だか」
 ニヤリと笑みを浮かべて間部は俺に言葉を向けた。
「これがまた良いんだって。歌も曲も顔も胸も良い、ああ……素晴らしいね。お前にもあの素晴らしさを伝授してやろうと思ってだね……」
「はいはい、言ってな」
 おざなりな返事をしても間部は心得顔で俺の肩をポンポンと叩くだけだ。まるで「言いたいことは解ってる」と言わないばかり。
 ……確かに間部の音楽的嗜好と言うものは俺のそれと通じるものがあり、端から否定的な意見に出られないのは確かだった。間部の「音楽に関してこれは良い」と言うものはヒットが多く、……となれば結論はそのミニライブの終わりにしか出せないことになる。それでも、これが「良いもの」……か。
 緑水の広場付近まで来ると明らかに通りのものとは違った雰囲気が漂っていた。遠目にも野外ステージの前には結構な人集りが出来ていて、電飾の明かりが広場の外まで漏れ出して来ているのだから、相当な大掛かりの設備だろう。
 正直ミニと言うからにはもっとこぢんまりとしたものを想像していたのだが、俺のその予想に反してライブ会場はかなり本格的なものだった。
 ライブが始まるとステージの両脇に設置されたスピーカーから迫力のある重低音が大音量で垂れ流され、その音は活気のある駅前通まで響き渡ったことだろう。途中、何事かとこちらを覗きに来るサラリーマン姿の集団がいたりして、ライブとしては大筋が成功の様子を呈していた。
 ボーカルに関して一言で表現をするのなら「幻想的な歌い方をする」とでも言えば良いだろうか。
 所々巻き舌気味の調子が混じる、それでいて高音を透った声で歌い切る。どんな音域でも伸びと張りのある声を響かせていて、俺としては実力派と言う印象を受けた。選曲もそんな持ち味を殺さない彼女に合った作りで、間部が「オススメ」と言うのも理解が出来た。
 締め括りに「これから頑張りますので宜しくお願いします。応援して下さい」みたいなことを話して、ミニライブは終了した。トークを交えて実質四十分近くのミニライブが終わった後に余韻を味合わせてくれる辺り「楽しめた」と言って過言はないだろう。
 ライブ終了後、間部によってファーストフード店で散々その新人アイドルの魅力について語られること三十分余り、ようやく会話に一区切りが付き勘定を済ませて店の外へと出ると、既に櫨馬の都市は夜の闇に包み込まれてしまっていた。
 イルミネーションで華やかに着飾る櫨馬の都市はさすがに夜の煌びやかさと言う点で代栂町の住宅街などとは異なる美しさと言うものがある。
「それで総括として……どうでしたかな、城野君の意見の聞きたいねぇ?」
「目の付け所は悪くないよ。俺が好きになるかどうかはともかく、これから人気は出るんじゃないの」
 そんな中を馬鹿話をして歩くと言うのも、もう何度目になるのかも解らないことだ。昨晩身体を襲った異常のことなど完全にどこかに行ってしまっていた。それだけでもここに来た甲斐はあったのだろう。
「ひはははは、馬鹿だろお前。メガトン級の馬鹿野郎だろ。またまたー……と、おっと、悪い」
 間部が携帯で愛用している携帯の着信音が響き渡って、間部は俺に一つ断りを入れて携帯を取り出し手に取る。
 ハイテンションからふっと冷静さを取り戻し、俺は周囲の風景へと視線を走らせた。楽しさで熱を帯びた頭に、夜の闇で心なしか冷たさを増した風が心地よく感じられる。
 そんな折り、不意に視界のピントがずれた。
 道路を流れる自動車のテールランプがぼやけて、ビルに設置されたスカイサインの文字も朧気なものへと変わる。
 何かに焦点を合わせようとしている風にそのピント修正は収縮と拡張を続け、何が起こっているのか理解出来ないそれら器官の主である俺だけが取り残される格好だった。
「んー……ああ、そっか、サンキュ!」
 間部の声がどこか遠くから響き渡ってくるかの様だった。
「城野、とうとう出たぜ。例の課目、単位認定者のリストが張り出されたらしいぜ」
 それでも話自体が聞こえていなかったわけではなかった。まるで俺には向いていない様な感じを受けてはいたが、それが確かに俺に向けられたものだと認識すると、ふっと事態は改善した。視界も聴覚も全て、正常な状態へと切り替わる。
 だから呼び掛けに対する反応それ自体は、殊の外スムーズなものだった。
「ん? ああ……。どうせ、落ちてるって言うんだろ。大体が講義の方には半分も出席してないんだ……俺は端っから諦めてるよ」
「バーカ、補講で救ってくれるかも知れねぇぞ。一年の終わりの時みたいに単位を落としたのは最初っから解っててもよ、救済措置にも縋り付かねぇって態度はどうかと思うぜ?」
 間部のテンションは会話が途切れる以前の調子を伴っていて、自然と俺の側も引き込まれてしまっていった。だから、そんな異変の前兆とも取れる違和感などただの気の所為だろうと流して終わったのだ。
「……潔いって言って貰いたいな、なにせ再試験にも確実に落ちる自身がある」
「ちったぁ勉強しろよ。まぁいいや、見に行こうぜ」
 調子をいつも通りのラインへ擡げ、そう断言して見せる俺の様子にはさすがの間部も呆れた表情だったがすぐさまその表情を切り換え、大学へ行こうと俺を促した。
「今からか? 教授の研究室がある研究棟はともかく本校舎は施錠されているんじゃないのか?」
 腕時計に視線を落として時刻を確認するとそろそろ午後八時を回ろうかという頃だ。大学までの移動を電車と考えトントン調子でことが運んだとしても、到着は午後九時を前後するぐらいにはなる。
「……さすがにもう良い時間だぜ?」
「はは……何を言っているのかね?」
 お手上げのポーズを取って「信じられない」と言いたいのだろう、間部は首を横に二度三度と振ってみせる。怪訝な顔をする俺に間部が「眠らない大学」の理由を説明すると、すぐに俺も合点が行った。
「夜はまだまだこれからだよ。なにせ卒業研究の連中には昼も夜も関係ねぇからな。まだまだ大学校内には明るい光が煌々と灯っているはずだぜ」
「あぁ。目元に真っ黒い熊(クマ)を飼いながら先輩方が頑張っていらっしゃるのか、……そんな理由があるんじゃ閉めるに閉められないわけだ」


 南櫨馬駅から代栂町側へと二駅電車に揺られて櫨馬学院大学前駅へと行くことになり、俺は代栂町側から櫨馬市へと向かう電車の最終時刻を確認する。もちろん、この後に再度櫨馬市へと出る用事があるわけじゃない。
 ただこの間部と言う友人がブルジョアジーな野郎で、南櫨馬の中流アパートに部屋を借りて一人暮らしをしている様な男なのだ。終電がなくなり自宅に帰れなくなったからと言ってへこむ様な奴でもないが、一応友人として終電の時間ぐらいは忠告して置いてやろうと言う俺の優しさなのである。
 ちなみに帰宅出来なくなった時は徒歩で強行帰宅を試みるのは得策ではない。大学校内研究棟のベンチで眠るか、櫨馬学院大学前駅に隣接する漫画喫茶で始発を待つのが上分別だ。俺にせよ間部にせよ、代栂町の俺の部屋まではともかく、南櫨馬までは結構な距離があるのを実体験している。
「そういやお前、携帯どうした?」
 まだチラホラと乗客の姿が窺える電車内で間部が俺に問い掛けた。俺は携帯を解約したことを仲間内に伝えていないことを思い出す。
「あぁ解約したんだ。代栂町のちょっと入り組んだ路地とかに入ると途端に電波状況が悪くなるんで、この際メーカーも思い切って変えてみようって思ってな。契約終わって新しい番号が解ったら携帯に送るから、回して置いてくれ」
「了解した」
 自然と電車内では会話が弾まないが、その会話をし難い雰囲気に従う様に電車内での会話はそれだけだった。
「次は櫨馬学院大学前、櫨馬学院大学前」
 録音ものなのか、リアルタイムのものなのか、今一どちらとも取れない中年男性の声がして、電車は俺の乗った住吉駅から一つ隣の「櫨馬学院大学前」駅へと到着する。
 電車で二駅、代栂町寄りへと来ただけで風景は南櫨馬の都会的なものから素朴なものへと一転する。
 それでも俺がこの櫨馬学院大学へと通い始めた頃よりはここも発展はしているのだ。駅の北口を出たところに早朝五時まで営業を行うファミレスが営業を始めたし、駅に隣接してできた漫画喫茶も二十四時間営業をしている。
 大体に通い始めの頃はこの辺りにはコンビニ一店舗しかなかったのだから、それと比較すれば随分とまともになったのだと言えるのだろう。深夜の人通りにしても心なしか増えた気がしないでもない。
 駅を出ると道路を一本挟んで、眼前には高台へと続く坂がある。まさに駅の名前の「櫨馬学院大学前」の文字通り、この坂を登った所に櫨馬学院大学は立地しているのだ。
 簡単に高台とは言ってくれるのだが実際は所々かなり斜度のある坂があったりと、運動不足がちな大学生には通学の度に結構な運動量を提供してくれる親切設計の通学路を持っている。昼休みに坂の下にあるコンビニまで行き、昼食を購入して帰ってくるのも一苦労であるので、比較的学食利用者も多いのが特徴だ。
 そもそも大学への出入り口は一つではなく、大学の裏手には石造りの上り階段の道があり、また大学西側には下宿街(うちの学生はそう呼んでいる)へと直接続く長く緩やかな上り階段の道もあったりと、坂道よりも階段の方が登りやすいと言う方々の為の配慮(?)も忘れていないのも特徴の一つである。
 ただ大学正門前に出る為にはこの上り坂からじゃないと少々行きにくいと言う問題がある為、全学生に向けた情報を発信する本校舎の掲示板に用がある時には大体この正門への道が選択される。
 白と言うよりは黄色に近い外灯の光に照らし出される大学正門への道には人影は見当たらなかった。広範囲に点々と植えられた樹木には新緑が芽吹き始めていて、本格的に春の終わりが近付いているのだろうことを認識させる。
「大体、チャリ(自転車)通の為の駐輪場が駅のものと共用ってのがなめてるんだよな。マイカー通学って言ったって駐車場も早い者勝ちの登録制、しかも先輩様が優先と来れば空き待ちなんて馬鹿馬鹿しくてやってらんないぜ」
 間部が坂を上りながら……もう何度目になるだろう愚痴を口走っていた。この後に続く言葉も分かっている。「大体、先輩様がこいつに駐車場の権利を譲りたいんだけどって掛け合うだけで、順番待ちに割り込めるなんて不条理な話が罷り通って堪るか」みたいなことを顔を真っ赤にして話すのだ。
 実際に順番待ちをキャンセルされた間部の言葉は重みが違う……と考えると笑い話になる辺りが間部の良い所である。
 そうして俺が相槌を打とうと口を開いた時、異変は急激に現れる。
 不意に激しい頭痛に襲われたのだ。続けざま、酷く耳に付く低音が遠くとも近くとも判断出来ない曖昧な距離から聞こえてきて、俺は思わず顔を顰める。
 バランス感覚が狂っていくのが理解出来た。ふらふらと蹌踉めいた辺りまではきちんと自身の動きを追うことが出来ていたのだが、ふっと気付くと俺は片足と両手をついてそのまま倒れていきそうな身体を支える様に体勢を取っていた。
 耳を付く低音は次第次第に甲高い女性の声の様な高音に変化を始め、可聴域限界までの耳を劈くほどの激しい音へ変化を遂げると、突然また……低く低く変化を始める。
 顔を上げると間部が心配そうな表情をして俺を見ていて、かなりの激しい調子で俺へと何か言葉を向けている様だったが、何を言っているのかを聞き取ることは出来なかった。まるで外部の音が遮断されてしまっているかの様に低音と高音の波だけが聞こえていたのだ。
 高音から低音への変化の時間が一瞬の内に短く短くなり始めると、それはあっと言う間にぷつんと途切れて消えてしまった。そうして周囲の音を聴覚が正確に捉え始める。聴覚に神経を集中させてさえ、それら異音を聞き取ることが出来なくなって俺は一つ安堵の息を吐き出した。
「大丈夫……大丈夫だ、……もう心配ないと思う」
「城野、お前……休んだ方が良いみたいだぜ」
「そうした方が良いみたいだな、……ホント」
 差し出された間部の手を取って俺は立ち上がる。自分では解らないながら、俺の顔色その他に……パッと見で不自然な点は見当たらないのだろう。俺の表情を確認する様に覗き込んだ間部の表情から、俺を心配する表情はすぐに掻き消えた。
「ちゃんと栄養あるもの食ってんの、お前?」
 どう答えて良いものか迷っていると間部が諭す口調でこう続ける。
「俺の先輩の一人に、就職決まったのに健康診断で引っ掛かって取消になった人がいるんだけどよ。その原因って偏食と毎日の様に食ってたコンビニ弁当が原因らしいぜ。お前もそろそろ気を付けた方が良いんじゃねぇのか?」
 確かにコンビニ弁当の摂取量はここ一年の間に半端じゃない量に膨れ上がっていることだろう。しかし俺にはその間部の言葉に反論出来る材料を持っている。だから得意気な顔をして言ってやる。
「はは……何言ってくれちゃっているのかね。こう見えても一年の終わりにやった「一人暮らしの為の簡単クッキング」では教える側に回ったのが俺だぜ? 仲間内連中じゃどいつもこいつも満足に自炊なんかしていない中でだぜ?」
「それ……いつの話だよ。大体最近お前が自炊してる何て話、聞いたことがないぜ」
 いつもの調子を取り戻し始めた俺の様子に、間部は「もう大丈夫そうだ」と完全に胸を撫で下ろした様だった。
 そんな間部の様子に対して俺の側も、この身体の状態自体には何の違和感も残っていないから、……このまますんなりことが運んでくれるだろうと楽観していた。明らかな異常が発生したことはともかく、今は平静を装いこの間部にまで余計な心配を掛けたくはなかったのだ。
 唐突に視界がぶれた。まるで映りの悪い古いテレビの画面を通して映像の世界を見ている様だった。
 視界がノイズの様にちらつきを始め、顕著なゴーストが映り始めた様に輪郭が取れなくなる。ようやく沈静化を見せ始めていた昨晩からの痛痒さ、……目の奥の奥から来る様な激しい調子の再燃に俺は思わず顔を顰める。
 黄色の外灯が白と黒だけのコントラストに変化してしまっていた。そうして次の瞬間、ちらつきが掻き消え色彩が視界に戻ってきたかと思えば、俺はそこに激しい違和感を覚えることになった。
「……? 何だ?」
 光源が一定の、光量に変化などない状況下で俺の瞳孔が変化を始めたのが理解出来ていた。元来、暗順応ないし明順応は無意識下に調節される人の瞳の機能の一つだが、それはそう言った無意識の命令に従った動きではない気がした。
 ものを捉える焦点が狂ってしまって俺の視界が完全にぼやけてしまうと、それは確信へと変化した。
「おい……おいおいおい、何だよッ?」
「どした? はは……不法投棄されたモザイクなしのエロ本でも発見したか?」
 慌てる俺の視線の先がここにはない「何か」に向いていることを当事者ではない間部でさえ理解出来ている様だった。
 全く唐突にピントを合わせる機能が正常な動作をして、俺の視界は正常なものへと切り替わる。間部も、外灯も、異変の直前まで見えていたもの全てが正常にその輪郭を捉えられる「元の状態」に戻ったのだ。
 出来るだけ早急にやるべきことを片付けて自宅に戻ることが取り敢えずの最善だと考えた。この身体を襲う異変に対して苦悩するのは今じゃなくても構わない。だからさっさと大学の掲示板へと赴き、単位認定者のリストだか何だかを確認してしまおうと考えていた。正直、単位の認定だとかそんなことは大した問題じゃなくなってしまっている。
 間部へと向き直る。装った平然で、俺が思い描く「いつも通り」の俺の顔をしてだ。
 けれどもそんな表情も間部へと向き直るまでの僅かな時間の間にあっさりと崩れ落ちてしまった。俺は口を開いた格好のまま呆然とした表情で語り出すべき言葉も忘れ、無言でいることを余儀なくされた。
 小さく首を傾げた格好のまま「……」と沈黙を守る俺の様子に、間部は何もしゃべり出すことなく後方へと振り返った。そこに俺がそうなる原因となるものがあるのだと考えたのだろう。
 全く持ってその通りだった。
「……花が見える、薄紫色の花だ。背丈は俺の胸元ぐらいまであって向日葵みたいに花の大きさが掌ぐらいまである」
「どこに、……ある? 茂みの奥か?」
 茂みの奥を入念に確認する間部にはそれが見えてはいない様だ。そもそもがそれを確認するのに茂みの奥まで入っていく必要などないのだった。
 もしもそれが、俺が「見えている」通りに存在しているのなら……だ。
「その……、ここいら一帯、一面花畑みたいに存在してる。でも……見えねぇ」
「はぁ? おいおい大丈夫かよ? 後頭部でも打ったのか?」
 茂みの中から俺を見る間部の表情に怪訝が混ざった。「冗談きついぜ?」と、そんな調子の表情も垣間見ることが出来てはいたが俺の真顔と対峙する時間が経過するにつれ、やがてそちらを窺うことは出来なくなった。
「視線を、いやピントを合わせようとすると見えなくなるんだ。前を向いて、……じっと前だけを向いて、そうすると視界の外れに見えてくるんだよ」
 身振り手振りを交えながら口走ってはいたが、俺は間部に俺が置かれるこの状態を何とか伝えようとしていたわけではない。……混乱していた。
 あり得るはずのないものが見えている。しかもそれはそれを真正面に捉えようとすると「見る」ことが出来なくなるのだから、その状態は簡単に頭で納得出来る様なものではなかった。
 視界の端に捉えた間部が俺を呆れた様な表情で見ていて、今まさに口を開いて何か言葉を俺へと向けようとしていた。俺はそいつを慌てて制止する。何が自身に起こっているのか理解出来ていないから、これ以上何か質問ないし言葉を向けられて、より度合いの酷い混乱状態に陥ることだけは避けたかった。
「待てッ、何も言うな。明らかにおかしい。明らかにおかしいんだ、俺の方が!」
 間部に対してそんな具合の現実的な制止の言葉を反射的に口走ったことが事態を良い方向へと進展させた。無意識の内に自身が置かれる現状を認識し、俺は僅かながらの冷静さを取り戻す。
「サボりが多くて単位のヤバイ課目が毎年二〜三個あるっつったって、もうここに二年通って三年目に入ろうかって言うんだ、……解ってる!」
 吐き捨てる様に状況認識の為に用いられる言葉が口を吐いて漏れ出ていた。俺は主観的に喋っていながら内面では酷くそれを客観的に注視していたのだ。
「ここには俺がさっき言った様な花なんて咲いちゃいない、咲いたりなんかしないんだ、解ってる!!」
 そんな言葉を口走る俺の真顔をマジマジと注視しながら間部はどんな言葉を俺へと向けるべきかを熟慮している風に見えた。なにせ「何も言うな」と俺に先手を打たれていて、先手を打った側の俺自身が「おかしいのは自分」なのだと認識しているのだから、問うべき質問の答えは示されているのも同然である。
 美しくも不気味に闇夜の下で満開に咲き誇る薄紫色の花。俺だけが見ることが出来て、間部には見ることの出来ぬ花。
 時折吹き抜ける暖かさを帯びた春の終わりを告げる風にそよいで頭を揺らし、その花々は自然現象に逆らわないことで自身が幻覚ではないことを主張しているかの様だ。
「すまない……間部、大学の、単位認定者リストの確認はお前一人で行ってくれ」
 中身のない笑顔を作って、そう口にするのがやっとだった。タンッと地を蹴って駆け出し俺は来た道を全力で疾走する。流れる景色の中で薄紫色の花々は、まるで言いようのない恐怖に駆られる俺を嘲笑うかの様に揺れていた。
「オイッ、城野ッッ!」
 間部の呼び声に振り返ることもなく、俺は半ば真っ白になった頭でただただ目指す場所もなく疾走していた。




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