カンカンカンカンッ……。錆びた鉄製の階段を勢いよく登って行く音が響き渡った。
「ハアハアハア……」
息を切らして脇目も振らず、彼は屋上にある何かを目指して階段を駆け上っている様だった。
豁然と視界が開けたその眼界に映る光景は高層ビルの屋上などと言った建造物がちらほらと眼下に広がる壮観なものだったのだが、彼はそんな光景にさえも目を奪われた節を見せることはなかった。
コオオォォォォと一際耳に付く音を立てて、この場所を間歇的に吹き抜ける強風は独特の冷たさを持っている。
地上二十五階建ての高層ビルの屋上を吹き抜ける風だから……と言ってしまえばそれまでだが、実質、今年の乾燥が例年以上に酷いことがその原因の一つだ。だから強い陽光が照っているとはいっても気温自体を高いと感じることもない。
テレビの天気予報士は「湿度が例年よりもグンと低く、夏場に掛けてのジメジメとした感じがないから体感的な「暑さ」と言ったものは感じないでしょう」と言っていたが、まさにその通りなのだろう。
その男は「青年」と形容出来るぐらいの若さを持った年齢だった。
格好もその例年にない「暑さ」に見合うラフなもので、ジーンズにTシャツ姿、その上にパーカーを羽織っただけの簡易なものである。手提げ鞄を持つでもなく、ジーンズのベルトにチェーンのアクセサリで結び付けた財布を尻ポケットへと忍ばせるだけの、まるで買い物の為にちょっくら商店街に繰り出して来たかの様な出で立ちをしていたのだった。
何がその例年にない「暑さ」に見合う格好なのかと問えば、そこには「パーカー」と言う明確な答えが返る。時期的なことを言うのなら、そのパーカーは既に「例年通り」であるのなら不必要になっていなければならないものなのである。
「おい、兄ちゃん。何やってんだい?」
ビルの屋上では薄緑色の作業服姿に袖を通した男達が配管の点検作業をしていた。
明らかにこの場に居合わせることが不自然な格好をした男の突然の登場に、作業服姿の男達は点検作業のその手を止めて、男に向けたそんな質問を口にした。作業服姿の男達は軒並み男に向けて怪訝な顔付きをしていて、男が僅かにでも不穏な発言をしようと言うのなら飛び掛かって押さえ付けかねない迫力を帯びている。
けれども男は中年の作業員の呼び掛けに答えることさえしなかった。
作業服姿の男達など気にも止めた風はなく、脇目も振らず疾走する。
「おいッ、兄ちゃんッ!」
まるで反応を返さない男の様子に呼び止める声にも自然と荒々しさが伴った。そうして同時に、その場の一同には俄に緊張の色が混じり始めた。男の疾走するその先にあるものが貯水塔であったからだ。
貯水塔はビルの屋上の隅に立地していて、その上はこの屋上の最も高い場所に位置するのと同時に、そこからならば簡単に落下防止用の高さ二メートルのフェンスを飛び越えられる最も危険な場所でもあるからだ。特に飛び降り自殺を危惧するならば、最も近付かせたくはない場所であった。
ガコン、ガアアァァァ……とエレベータの到着音とその扉の開閉音が屋上には響き渡ったのだが、反射的にその音のした方へと振り返ったのは極々僅かだった。その大半はエレベータになど気を取られた風もなく男の動向を注視していた。
……仮に男がこのまま貯水塔に登ろうとするようならば力尽くでも制止する。険しい表情をする作業服姿の男達にはその決意があっただろう。
「おいッ、君ッ、馬鹿なことは止めるんだッ」
エレベータから出て来たのは上下濃紺の警備服に袖を通した警備員だった。開口一番に、荒々しい制止の言葉で口を切り、男へと駆け寄ろうとする。額にびっしりと汗を浮かべていたのは、長袖のピッとした警備服を着こなしていたからだけではないだろう。
警備員の制止の言葉に男はまるで「自殺する気などない」と言うことを証明する様にゆっくりと振り返って見せる。
警備員はどうしてか、その場に仁王立ちする状態で足を止め、いつの間にか男の動向を注視する格好になっていた。まるでそこに目に見えない一線があるかの様に踏み込むことを忘れていたのだ。
「この貯水塔の上には天使がいるんだ」
男は真顔でそう口を開いた。端から「信じられないだろう?」と言う具合に険しい視線を向けながらの言葉ではあったが、それも当然だと言えば当然だと言えただろう。それは安易に信じることが難しい内容の言葉だ。
しかしながら、この屋上に顔を揃える一同は蔑ろの対応を取ることは許されない。
誰もがどんな対応が最善なのかを見定めようとしている中で、男は続けざまに天使について詳細な説明を始めたる。
「そいつは真っ白くてデカイ羽を生やしていて、いつもこの貯水塔にチョコンと腰を掛けているんだ。金とも銀とも取れない長い髪を風に靡かせて、値踏みでもする様な目をして地上にいる俺のことを見下ろしていたんだ」
安易に妄言として処理してしまうことも難しかった。精神を病んでいるのかも知れないし、幻覚とかそう言ったものとして、彼には本当に見えているのかも知れないからだ。
傍目に見た彼の表情や瞳と言ったものもそうだった。重度の精神病疾患者などが見せる様な、ねっとりして執拗な、まるでピントの合わせ方を間違った様な独特な視点など存在してはいなかったのだ。
「その天使がどうしたって言うんだ?」
その言葉を口にしたのはエレベータでこの場に姿を現した二人の警備員の片割れだった。
両手を広げて「危害を加える意志はない」、「邪魔をする意志がない」ことを示しながら、一歩ゆっくりと前に出る。
男は一度ビクリと身体を震わせて驚いた様な表情を見せたが、問いに対しての答えを口にするだけだった。
「は……始めは本当にただ俺を見下ろしてだけだったんだ。ところがよ、そいつは時折……俺の側に降ってくる様になったんだ。俺が……俺だけが、テメェの姿を見ることが出来るんだって気付いたのかも知れねぇ」
小さく身振り手振りを交えて訴えかける様な必死な調子が印象的だった。
少なくともその警備員には、彼がこの場所に自殺を試みる為に現れたのではないと直感させるだけの要因だった。
警備員は男へと真摯な目つきを向けながら、説得の余地があることを自身に言い聞かせていた。会話を重ねて男を安心させながら徐々に徐々に距離を詰め、最終的には力尽くで取り押さえる結果でも構わない。
「俺の側に降って来る様になって、そいつは俺のダチとか顔見知りとかを指差す様になった。そして俺に何かを訴えかける様な目を向ける様になったんだ。それでどうなったと思う?」
男の問い掛けに警備員は首を横に振りながら、僅かな静寂を挟んで「どうなったんだ?」と言葉を向けた。
不意に男は沈痛な面持ちを見せ目線を伏せると、吐き捨てる様な口調で荒々しく口にした。
「死んじまったんだよッ、天使に指差された連中はみんな!!」
そうして一見、大袈裟とも取れる大振りの挙動を取って訴えかける様に警備員へと問い掛ける。恐らく答えなど返らないと解りながら、……問い掛ける。
「何だッ? なぁ、あの天使は一体俺に何を訴えたかったんだと思う?」
言葉を返せずに押し黙る警備員の様子に、男は何か独り合点でもしている様に頷き、ボソリと呟く様に口にした。
「……俺はその答えを聞かなきゃならねぇ」
「……解った、解ったよ。だから取り敢えずそこから降りて、もっとその話の詳細を聞かせて欲しい。お前の話を聞いてくれる先生だって紹介してやる」
その言葉に男の独り合点の表情は殊更強いものへと変化した。諦めた様な微笑を見せながら男はこう問い掛ける。
「あんたァいい人だ。名前……何て言うんだ?」
「室山京輔(むろやまきょうすけ)、……だ」
嫌な予感が室山の頭を刺していた。まるで眼前にある男は既に決意を固めてしまっている様に室山の目には見えていた。天使の話をしただけで、未だ男がここで何をやろうとしているのかは解っていないのにだ。
「あの天使から事情を聞き出してきたら考えるぜ、室山さん。……確かに俺は正常じゃないのかも知れないからな」
所々が錆びて鍍金(メッキ)の剥がれた貯水塔脇の鉄製の梯子に手を掛け、手が汚れることなどまるで厭う様子も見せず、男は貯水塔へと登り始める。一心不乱、まさにそんな言葉が似合う具合に男はその目の色を変えて、ただただ天を目指している様にも見えていた。
半径三メートルに高さが五メートル近くの円柱形の貯水塔に男が登ってしまうまでそう然したる時間は掛からない。
「おいッ、好きなだけ確認してみろよ、……貯水塔の上に天使なんていないだろッ? もしもそこに天使がいるって言うんなら、俺も貯水塔の上まで登っていくから、俺にも確認させてくれよッ」
貯水塔の上へと登り立った男へと室山が声を荒げる。
男は何かを悟った様な顔をして、口許に小さな微笑を灯しながら室山へと向き直るとこう口を開いて見せた。
「いつもあの天使はこの場所からまるで空気に融解する様に消えてなくなるんだ。まるで始めからそこに存在などしていなかったかの様にさ。……ここには何かがあるんだ。今の俺にはまだ見えねぇがその内きっと記号か何かで表される様になるのさ。それまで待ってはいられないから、……俺は行くぜ」
言葉を話しながら一歩二歩と後ろを振り返ることもなく後退し、貯水塔のちょうど中程辺りまで行くと、室山らの我慢の限界だった。「チッ」と舌打ち一つ、作業服姿の男が走り始めた頃には男は後一歩……後退するだけのスペースもないと言う端まで行っていた。
「室山さん。ここには天使から抜け落ちた無数の羽が散らかっている。……あんたが見える様になるかは解らないが、もしも見える様になったらここに来ればいいさ」
男の目は室山を捉えていた。そうして男は足場のない世界へ向けて身を放つ。
「おいッ、待てッッ」
慌てて室山も男に駆け寄ろうとするが間に合うわけもない。
ビルの端まで行くのにさえ二メートル近くあるフェンスをよじ上りそれを越えなければならない。
「田北(たきた)ッ、今すぐ下に行って野次馬とかの人払いをしてくれッ!!」
室山の言葉にもう一人の警備員、室山の後輩でもある田北は返事するのも忘れて走り出していた。途中で警備員の休憩室により、休憩中の警備員を引き連れて上手く人払いをやってくれるだろう。
「おいッ、若いのッ、お前いつも仕事の合間に携帯でメールのやりとりだか何だかしてんだろ? さっさとそいつで警察と救急車を呼ぶんだよッ!!」
後方では野太い声の作業員と若い見習いの作業員とのやり取りが現在進行形で行われていた。
「えー、えー……と、け……警察ってどうやって呼ぶんすか? 番号ゼロゼロイチでいいんすか?」
「馬鹿野郎ッッ!!!」
その双方どちらにもかなりの動揺を見て取ることなど容易いことだった。
そうやって背後で殊更に慌てて貰っていたからかも知れない、室山は一人妙な冷静さの中に取り残された格好で、貯水塔の上へと登り、身を乗り出す格好で地面に激突し……やもすると原型を留めていない男の残骸を確認しようとした。
「……?」
二十五階の高さから下を見てもその様子をはっきりと確認出来るわけはないのだが、室山は確かにそこに違和感を感じた。人一人の大きさは米粒程だとは言え、さすがに人の流れが分断されている状況を認識出来ないわけがない。
このビルの足下に当たる道路は歩道にしろ車道にしろ、深夜から早朝に掛けての時間帯以外はいつでも比較的交通量の多い通りである。
未だ落下中……。そんなはずはない。現に覗き込んで様子を窺っている室山の目には男は映っていないのだ。
ではどうして真下の歩道を流れる人の群れに、それ相応の変化がないのか。
空から人が降ってきたとなれば、いくら物騒なご時世だとはいえ騒然となって然るべきである。
「……消えちまった?」
ゴオオォォォォォと吹き抜ける強風が確信の伴わぬ疑問の言葉を掻き消していた。
慌てて屋上の周辺へと視線を走らせてみてもそこに男の姿は確認することなど出来ない。間違いはない……彼はここから飛び降りた。室山の眼前で確かに飛び降りたのだ。
未だざわつく屋上の作業員達の合間を縫って室山は階下へと急いだ。頭の中は動揺やら疑問やら驚愕やらで半ば真っ白になってはいたが、だからこそ「確認しなければならない」と言う率直な意識が働いたのだろう。
一階のロビーを抜けて心音が次第次第に高鳴って行く中、玄関を潜って表に出ると、いつもと何ら変わることのない人の流れがそこには存在していた。男が落下したと思われる箇所に目を向けても、そこで騒動が起きている節はない。
「室山さん……、確かに飛び降りたんですよね?」
呆然と立ち竦む田北の横へと並ぶと前置きもなく田北が口を開き、室山は答えを返せず立ち竦んでいるだけだった。
「警察が来たら……、何て説明すれば良いんですかね?」
田北は蒼白の表情をして室山を覗き込む様に問い掛ける。
……室山にしても答えを返せるだけの冷静さを保っていないから、そこには自然と静寂が生まれた。