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Seen09 憑依先候補者:戸辺稔


 高橋宗治をベンチに横たえたまま後ろ髪を惹かれる思いでリタラ西宿里川まで戻り、そこで莉央と別れてバスに飛び乗り室商会本店へと戻って来た頃にはもう夜も更けたいい頃合いとなっていた。
 結局、後半刻も立たない内に日付が変わろうかという時間になった形だが、駐車場を軽く見渡してみた限りそこに継鷹の軽トラはなかった。
 夜が遅い帰宅が続くとさすがに継鷹から小言を貰う形になるため、そこで鷹尚は大きく安堵の息を吐いた格好でもあった。尤も、小言で済んでいる内はまだ良くて、そこに学業成績の悪化なんてものまで絡んでくると夜間の活動禁止なんてところにまで飛び火する可能性だってある。
 ともあれ、鷹尚はトラキチ共々以室商会本店・裏口へと回り、さっさと自室に戻ることにした。特に理由もなく屯しながら反省会……みたいな流れになって、軽トラに乗って戻って来た継鷹に目撃されるなんてことになったら堪ったものでは無いからだ。
 そうして、以室商会本店・裏口を潜ると、ひょいっと顔を出すものがある。
 シロコである。
「お帰り」
 シロコはライトグリーン色のコットンパジャマにナイトキャップという出で立ちではあったが、まだ自室に引き籠もって眠りにつくような時間でもなかった。
 鷹尚の帰宅時間として遅いは遅いものの、では継鷹の遅い時のそれと比較して「どうか?」というとまだまだ序の口といったところなのだ。尤も、シロコの出で立ちからも解るように、何事もなければこのまま「就寝します」と言ったところだろう。
「あぁ、ただいま」
 高橋宗治の件でやや気落ちしている内面を悟られないよう表情を取り繕いながら、鷹尚はシロコへと帰宅の挨拶を返した。そうして、駐車場に軽トラがないのでほぼそうだろうと半ば確信しつつも「念には念を……」という意味合いも込めて継鷹の所在についても確認を向ける。
「じいちゃんは、まだ戻ってないんだね」
「今日は戻れないかもって夕方に連絡があったよ。お店の方で何か緊急の案件でも起きていれば帰って来たんだろうけど、常連さんが顔を見せたぐらいで特になーんもない一日だったからね」
「何か、バタバタしてんのか?」
 シロコが「今日は戻れない」と連絡を受けたことに言及した辺りで、トラキチはそこを気にした素振りを見せる。もし、緊急度の高い厄介事が発生したりすると、シロコ・トラキチ共々そっちに駆り出されることを危惧したものだろう。
 尤も、もしそんな気配の片鱗でもあったのならば、それを語るシロコの口調はこんな軽いものではなかった筈だ。
 現に、そんなトラキチの問いに答えるシロコからは、継鷹の悪い癖が出たと言わんばかりの呆れが混ざる。
「今日一日掛けて終わらせる手筈だった案件が終わらなかったから明日早朝から引き続き対応するとか何とか言ってたけど、出張先が伯摩(はくま)地区の祭儀の件だし仲の良い区長さん辺りから寄合に顔を出すよう招待されたから息抜きも兼ねつつってところじゃない? 電話口では取り繕ってたけどかなり緩んだ感じだったし、多分寄合でお酒とか飲んでると思うよ」
「あー、時期的にもそれっぽいな」
「ねー」
 トラキチ共々呆れた表情を見せて頷き合うシロコだったが、一転、何かを思い出したと言わんばかりにハッとした顔つきになる。そうして、視線を向ける先は鷹尚である。
「そうだ。そういえば、鷹尚宛に何か届いてたよ。それも、家のポストの方じゃなくて以室商会名義の局留めの方に」
「局留めの方……?」
 自分宛の何かに思い当たる節がないのだろう。鷹尚はその状況をこれでもかと訝る。
 これまでの記述の中で散々触れてきたように、以室商会はそう大きな会社ではない。事業規模という観点で見れば、あくまでも個人経営の弱小勢力に過ぎない。それでも、様々な理由から以室商会という一企業として公開している配送物の受取口は局留めになっている。
 当然、個人宛に郵便物が届くポストは別にあるため、個人宛の郵便物が局留めに届くことは基本的にはない。
 シロコはふいっと以室商会本店の売場スペースへと足を向ける。そうして、店のカウンターに突っ伏すと、ゴソゴソとカウンター下の小物入れBOXを漁る。
「ん、これだね」
「俺宛て? 自宅じゃなくて以室商会宛てで?」
 以室商会の住所を記載した上で、宛名が「佐治鷹尚」とは普通ではなかった。「以室商会御中」か、宛名が「佐治継鷹様」ならばまだしも、大凡今の今まで「そんな配達物はなかったんじゃないか?」というレベルの代物である。
 鷹尚は怪訝な表情を微塵も隠すことなく、シロコが差し出すその封筒を受け取る。
 封筒の宛名は、確かに「佐治鷹尚様」となっていて、……にも関わらず郵便番号・住所ともに以室商会のものが記載されていた。ぱっと見では不審な点はなく、切手なんかもきちんと貼られていて押印をあり、郵便としてきちんと正規のルートを介して処理され配送されてきたものだと認識できる。さらに言えば、ペラリと捲った裏面には差出人の住所と名前なんてものも記載されていた。
 差出人は、戸辺稔とあった。
 まず、その差出人名にピンと来る。
 そうだ。憑依先候補者リストに記載のあった名前だ。
 続いて、その手で封筒のあちらこちらを触って確かめてみる。
 カフェ・ビブリオフィリアみたいなことがあるかもしれないと思ったからだが、今回の封筒も不自然に厚みが増していたりすることもない。
 尤も、そんな慎重な姿勢をシロコからは訝られもする。
「強張った顔して、どしたの? ふふふ、お前の秘密を知っているぞってな具合の怪文書でも届いちゃった?」
 端から聞いていると「突拍子もないところをを突いて来たな」としか思えないシロコの推察だったが、強ち間違いでも無い可能性すらある事態に鷹尚はこれでもかと辟易した顔を覗かせた。
 鷹尚がそんな反応を返すから、訝るシロコの目付きはさらにその甚だしさを増す。
「何その顔、どういう反応なの?」
「あー……、多分、その可能性を捨てきれないから「さぁ、困ったぞ」っていう感じの顔かな……」
 歯切れの悪い鷹尚のそんな返しを疑問の思ったのだろう。トラキチは鷹尚が手に持つ封筒を背後から覗き込む。
 魔女という協力者の出現から始まった予想外の事態の拡大は、どうやらまだまだ止まらないのかも知れない。ここに来て「憑依先候補者リスト」から封筒が届くという事態にさしものトラキチも当惑の表情を隠さない。
「おいおい、こいつはまた随分と思い掛けないことが起こるもんだな。退屈させてくれないな」
「全くだ」
 ともあれ、ここで手紙を見なかったことにするなんて選択肢はない。例え、憑依先候補者リストに記載のある名前の中では、当確とは言えない人物からの手紙であったとしても……だ。
 鷹尚はすうと息を吸うと、意を決して封を切り中身を取り出す。中身は触っただけでも、いかにも安物と分かる質感のぺら紙一枚のA4コピー用紙だった。三つ折りにされたA4コピー用紙を無造作に開くと、そこには手書きで言付けが記されていた。
 小難しい前置きも、手紙の書き出しとして良く見る定型文もない。用件だけが率直に書き綴られた文面である。
「以室商会・佐治鷹尚が引き受けた冥吏からの依頼について面直で話がしたい。面直での対話時、以室商会側の立会人数は不問。以室商会の都合に合わせるが、可及的速やかな面会を実現を希望する。連絡を待つ。連絡先については下記メールアドレスまで」
 さらさらと内容を読み上げる鷹尚に、トラキチはこれまた何とも言えない表情を見せた。
「いきなり憑依先候補者リストの当たりっぽいの以外から、核心を突く内容で連絡が来たな。マジで退屈させてくれねぇな、面白くなってきたぜ」
 しかも、紘匡とのリストの読み合わせを終えて、まさに「戸辺稔」に対する優先度を下げようといった決断をした直後である。ただの偶然でこのタイミングになったのだとしても「勘繰るな」というのは無理がある。
「どうするつもりだ、鷹尚? あの谷許って奴に相談するか?」
 鷹尚はこの想定外の事態を紘匡へと相談することに対し、すんなりと「そうしよう」と決断できない思いがあるようだった。返す言葉で、心情をこう吐露する。
「まずは、俺達だけで戸辺稔と会ってみないか?」
「それが鷹尚の決断だっていうなら俺は反対しないぜー。でも、その心ぐらいは聞いておこうか。どうして、そうするべきだと思った?」
 その決断に至る理由を尋ねられて、鷹尚は恐る恐るという具合に口を切る。
「谷許さんは友好的で協力的だけど、それでも倒す方の専門家だから……かな。もし戸辺稔が谷許さんの追う憑鬼だった場合、俺達がどれだけ「まず対話がしたい」と言っても難しいと思うんだ。例えば、こっちに来てはみたけれど、やっぱり思ってたのとは違って鬼郷に戻りたいみたいなことを憑鬼が言い出したとしても、谷許さんは多分聞く耳を持ってはくれないと思う。俺達に見せる顔と憑鬼に見せる顔が全然違っていて、もうその手のやりとりなんて一切抜きにして有無を言わさず抹消して「はい、終わり」という可能性だってある」
 ところどころ弱々しくなる鷹尚の言葉を聞き、トラキチはその言わんとするところを察したらしい。
「戸辺稔が以室商会に依頼された対象となる憑鬼でなくても、対話をしてみたいって言いたいわけだな?」
「こんな手紙を送ってきて、コンタクトを取ろうっていう相手なんだ。高橋宗治に憑いてた憑鬼とは違って対話できそうな感じがする。高橋宗治の件が余りにもあれだったから、……そう思いたいだけかもしれないけどさ」
 願望交じりの鷹尚に対して、トラキチの反応は冷たい。
「これだけじゃあ何とも言えねぇな。そう思わせといて罠に嵌める算段かもしれない。高橋宗治を踏まえて正攻法では対応できないと学んだからこその、搦め手の可能性だって十分あるとは思わないか?」
「……」
 その指摘はないとも言えない。だからこそ、鷹尚は一端そこで押し黙るしか無かった。
 ここで安易で中身のない感情的な反論なんかして、下手に拗れるようなことはしたくなかったからだ。
 何も反応しないで居ると、捲し立てるかの如くそこに「罠であった場合の危険性」なんかを立て続けに説かれそうな雰囲気が漂い、鷹尚はトラキチの眼前に右手の平をバッと突き出す仕草を持って追撃を牽制する。そうして、一つ大きな深呼吸を挟んで頭の中の「言いたいこと」を一度整理する時間を設けた後、鷹尚はトラキチ相手にゆっくりと口を開いた。
「憑鬼を抹消するってやり方はさ、根本的な解決に繋がってないだろ?」
 そう口を切ってしまってから「では、その根本的な解決に繋げられるだけの状況を整えられているか?」といった自問自答が襲っても来る。当然、それができるだけの状態にないことなど鷹尚自身も頭では分かっている。
 それでも、例え戸辺稔で高橋宗治の二の舞を演じることになろうとも、まずは対話を試み連れ戻すというスタンスは失ってはならないと思ったのだ。まして、それは依頼主である鳴橋の希望でもあるからだ。
「もちろん、俺だってすぐに理由が判明して、対策が打てて、根本的な解決ができるなんて、そんな単純な話じゃないと思ってはいるんだ。でも、理由をさ、拾上げて積み重ねていかないと根本的解決にはいつまで経っても辿り着けないと思うんだよ。鳴橋さんは、多分、例え連れ戻すことが叶わなかったとて以室商会にそういうことを望もうとしてる……と、俺はそう感じた。せっかく、こっちにやってきた憑鬼を有無を言わさず消して終わらせるやり方を是正しようとして以室商会に話を持ってきて貰ったんだ。出来ることなら、根本的な解決に一歩でも近づきたい。そう思わないか?」
 これなら確固たる正当性があってすぐさま同意を貰えそうだと目論み口にした理論を持ってしても、トラキチは瞑目して腕組みをしたまま首を縦に振らなかった。もちろん、それは鷹尚に取ってトラキチを説き伏すためだけの建前ではなく、紛れもない本音ではある。
 しかしながら、そう強固に主張してしまったことで、逆に、出来得る限り、……何なら多少無理を押してでも「対話」を試みるというスタンスだとトラキチに誤解させてしまい兼ねなかったかも知れない。そう思い直した鷹尚は慌てて、あくまでそれが理想で現実的には柔軟にことに当たるんだとしどろもどろになりながらも言い直す。
「いや、その、まずはそのスタンスで行ってみて、もうどうしようもないってなったら莉央の概念毒フレグランス溶液もあるわけだし……。例え、冥吏から対処を要望された憑鬼でなくとも、剥がして焼いてしまうことだってできるわけだしさ。その……」
 そんなしどろもどろの鷹尚の言葉が現下の内に、トラキチはそのスタンスを呑む条件を明言する。目を見開いてしっかと鷹尚を捉える様からは「これだけは譲れない」といった強い意志が見え隠れもした。
「よし分かった。でも、これだけは腹を括っておこうぜ、鷹尚。戸辺稔に憑鬼が憑いてて、もしその憑鬼が話の通じない奴だった場合、すぐに剥がして焼いてしまおう。剥がしてから、やっぱり「対話を試みようぜ!」とか「何とか細環封柱に捉えよう」とかいうのはなしだ。それを呑むっていうんなら単独で対話してみようって話、十分ありだと思うぜ」
「ああ、そうだな、それはなしだな。オーケー、そのスタンスを呑むよ」
 そこに至って、それまで鷹尚・トラキチコンビのやりとりを一切口を挟むことなくただただ横で成り行きを伺っていたシロコがふいに口を開く。
「また面倒くさそうなことに首突っ込んでるみたいだけど、……冥吏だの憑鬼だの気になる単語が飛び交った辺りは聞かなかったことにすればいい?」
「そうして貰えると有難い、かな。もちろん、いつも通り袖の下は納めさせていただきますので……」
 鷹尚から袖の下について言及されたシロコは、小躍りしながらこれでもかって程ににんまりと微笑む。
「やったー。ちょうど正豊堂(せいほうどう)の期間限定・柚きなこ餅が食べたかったんだよね」
 正豊堂とは彩座四上の四上宿内に立地する老舗の和菓子店で、観光ガイドブックなんかには必ず記載されている有名店だ。正直なところ、価格帯は若干観光客向けで割高感があるのも事実だが、それでもそんなところで収まってくれたことを鷹尚は内心ホッと安堵の息を吐いた格好でもあった。
 ぶっちゃけ、冥吏だの憑鬼だのぐらいに関わり色々相談に乗っているところは継鷹も許可しているし周知の事実でもあるのだ。こと、今回シロコに聞かれたところで言うと「鳴橋」という名前が出てきたところが非常に好ましくない。それこそ報告の義務を言い付けられてはいないものの「今回、鳴橋さんが依頼したいって話を持って来たよ」ぐらいは一言継鷹に断って置いて然るべき内容なのだ。
 鳴橋の継鷹評は「ビジネスパートナーとしては悪い相手じゃねぇし義理堅く金払いも良い。反面、一歩踏み込んだ付き合をするには色々注意しなきゃならない曲者」といった具合だ。
 当然シロコもその辺りのことは把握しているので、足下を見られて袖の下のランクを引き上げられてもおかしくなかったのだ。それが「正豊堂」辺りで済んだのだから僥倖というべきだったのだ。且つ、近々四上宿にある旧・中坂邸を訪れなければならないとも鷹尚は思っていたので、そういう意味でも「正豊堂で袖の下を用意する(対シロコ)」というミッションはちょうど良かった形だった。
 尤も、一頻り喜んで見せた後でシロコは鷹尚に向けて釘を刺すことも忘れない。
「ま、聞かなかったことにしてあげるけど、危ないことになりそうだったり自分達だけじゃ手に負えなくなりそうだったりしたら、ちゃんと継鷹に相談するんだよ。お調子者で単細胞で意地汚いトラキチじゃ、ちょっと不安だなって思うことがあったらあたしに話してくれていいよ良いよ」
 恐らく、曲者評の鳴橋の名前が出てきたからシロコは、そうやって釘の中にトラキチに対するディスなんてものを混ぜたのだろう。トラキチだと「簡単に足下を掬われちゃうようなこともあるかもよ」と言いたいわけだ。
 もちろん、突然のディスを向けられたトラキチはといえば、シロコ相手に食って掛からんばかりに激高する。
「ああん!?」
「事実じゃん」
 それも、ある種いつものことでもあるためシロコも平然と切り返すのだが、その忠告は素直に頭に留めておくべき内容だったろう。自分達の手に余る事態が発生したらシロコや継鷹なんかを頼っても良いというメッセージがあるだけでも心のゆとりというものは違う。
「うん、ありがとう、シロコ」
 トラキチ・シロコと分かれて自室に戻った後、鷹尚はすぐに戸部と連絡を取った。高橋宗治の件で肉体的・精神的に疲労を感じてはいたが、ここで踏み止まって置かないと億劫になってしまってジリジリと間が開きそうだったからだ。
 時間が時間だったこともあって戸部からの返信は夜が明けてからになると鷹尚は思っていたのだが、返信は迅速だった。それこそ、布団へと横になってうとうととし始めるぐらいの間すら与えてくれなかった形だ。
 返信は、以室商会サイドからアクションがあった場合、すぐさま条件なんかを提示できるよう前もって準備していたのかも知れないとさえ思わせられる緻密さだった。会う場所や指定時間にいくつか選択肢を用意する形ではあったが、どれも基本的には近日中(しかも可能なら即日)に顔を合わせたいとする内容だった。
 もちろん、最終的な決定権を鷹尚サイドに委ねる形ではあったが、万が一、数日以内での顔合わせが適わないようならば可能な限り早い日時での代替案の提示を求める形でもある。
 そこから俄に垣間見えるものは「焦り」といった類いのものだったが、正直なところそれを鷹尚サイドが特別勘案する理由もないといえばない。
 敢えて「日を開け戸辺の出方を窺う」という選択肢も候補に挙がりはしたのだが、結局鷹尚が良しとして許諾した会合の日時は戸辺とメールのやり取りをした即日になった。身も蓋もない言い方だが、鷹尚サイドにも無駄に日時を延ばす合理的な理由などなかったからだ。戸辺が急ぐ理由は分からないながら、悠長に事を構えていられないのは鷹尚サイドにも言える話である。
 当然、顔合わせの約束を取り付けた日は何の変哲も無いただの平日である。そうすると、必然的に戸辺との顔合わせの時間は夕方から宵の口に掛けて……という形となり、後はトントン拍子で話が進んだ格好だ。


 戸辺と会合の約束をした時刻の2時間程前。
 鷹尚はトラキチを伴い長期入院患者の受け入れを積極的に行っている私立病院「新実(にいじつ)クリニック」に居た。憑依先候補者リストに名前の記載がある「新木幹彦」が彩座水科の外れにあるこのクリニックの3階315号室の個室に入院していると分かったからだ。
 新実クリニックは、住宅地からも歓楽街からも距離のある郊外に立地していて、比較的急変の恐れがないながら完治・寛解までに時間の掛かる病気の患者が転院してくる病院らしい。ホームページに記載された情報から分かる範囲で特徴を記すならば、4階建てで病床数は350程。敷地内に完全バリアフリーの屋上庭園や中庭を持ち、突然の長期入院となった際でも入院生活に必要なものが何でも揃うコンビニエンスストアが病院内に入居している等、環境の良さ・利便性の高さが謳われている。
 鷹尚はそんな新実クリニックへと押し掛けて行き、駄目元で友人を騙って「お見舞い」というお題目の下「面会希望であること」を受付の看護師に伝えた格好だったのだが、……どうやら顔ぐらいは拝ませてくれるらしかった。コンプライアンスやら個人情報やらと煩い昨今ではあるが、生徒手帳を提示して「通っている高校は違うんですけど、友達で……」と打った一芝居が効いたのかも知れない。
 受付の看護師曰く「主治医の先生の判断が必要ですね」とのことだったが、そこに続ける言葉で「手術は成功していて後は目覚めるのを待つだけの状態。友達に声を掛けて貰うことは良い刺激になる筈だから恐らく許可が出ると思いますよ」と言われたわけだった。
 そこからかれこれ15分ほど、鷹尚・トラキチの二人は院内の面会者控室にてベンチへ腰掛けて居る格好だった。
 すると、同じように待機していた三人組が看護師に呼ばれ面会者控室を出ていって、面会者控室にはとうとう鷹尚・トラキチの二人だけが残る形となった。尤も、鷹尚・トラキチコンビが面会者控室に入室した時に室内に居たのもこの三人組だけなので、この後すぐに二人が呼ばれる保証なんてものは何もないし、何ならここからさらに数十分に渡って待ちされる可能性すら考えられた。
 ともあれ、室内に自分達以外の待機者が居なくなったことでトラキチが徐ろに口を開いて愚痴を付く。
「随分とまぁ、待たされるものだな。まぁ、柚子(ゆずこ)婆ちゃんの時も病院に行く度に待たされたからなぁ。病院なんてどこもこんなもんなんかね」
 柚子婆ちゃんとは、鷹尚に取って祖母に当たる継鷹の妻だった人だ。トラキチが「病院に行く度に……」と言ったように、長く入院していたらしいのだが、鷹尚に取っては余り記憶に残っていない人物だった。何せ、鷹尚が小学校に上がるよりも前に亡くなっていて、当時はそもそも両親が冠婚葬祭と言った親戚が集まるイベント事の時でもなければ以室商会に寄り付かなかったからだ。それでも、会えば「大きくなったなぁ!」と頭を撫でられたし、年始にはお年玉が郵送で送られてきたりしたので親戚の中では親しみがない……と言うわけではなかった。
 ともあれ、ここで柚子婆ちゃんに対して思考を向けても、鷹尚に語れることなど何もない。トラキチも「病院で長く待たされる」という事態に際して、過去でもそうだった一例として名前を出しただけで柚子婆ちゃんの話がしたいわけではないのだ。
「前もって約束を取り付けておけばまた話は違ったかも知れないけど、今回はほぼ飛び込みだからな。待てば御見舞させて貰えるってだけでも、ここは大分緩い寄りだと思うよ。まぁ、例え「やっぱり面会は許可されませんでした」となっても、足を運んだ甲斐はあったさ。新木幹彦が新実クリニックに居るで間違いないと分かっただけでも、十分」
 継鷹から処方箋を貰っているとは言え、定期的に身体検査のために通院する鷹尚から最近の病院事情を聞き、トラキチは「そんなもんか」と思ったようだ。ある意味、こうして「待たされる」ことが平常運転であることを理解すると、退屈からか深い溜息を一つ吐き出して見せた。
 尤も、この余白の時間も面会者控室に待機するのが鷹尚・トラキチコンビだけになったことで有意に活かすことができるようにもなった格好だ。赤の他人に過ぎないとは言え、周囲に誰かが居るような場を避けた形でトラキチと共有しておきたい情報があったからだ。
「さて、待たされている間にトラキチに話しておきたいことがある。憑依先候補者リストに名前があった人達で、いざ調べてみると簡単に情報を拾えた人達が居たんだ。共有しておくよ」
 到底、面白い話とは言えない話題だったが、それでもただただ待機するだけというよりかは余程マシだと思ったのだろう。トラキチは食い気味にその話題に飛びついてくる。
「おお、そいつは朗報だな!」
 簡単に情報を拾えたことをトラキチは「朗報」と言ったものの、鷹尚的に正直その表現は微妙なラインだった。なぜかと言えば、高橋宗治のように憑依先候補者として「これは当たりかも知れない」という方向には繋がりそうになかったからだ。
「候補者から脱落するのが当確したという線でも「朗報」と言えるなら……な」
 声のトーンを落とす鷹尚に対し、それでもトラキチは分析が進んだことをポジティブに捉える。
「いいじゃないか。当たりか外れか分からない候補者を外れと分類できたんだろ? 十分前進してる」
 トラキチの言い分も尤ではあったが、できることなら「これは当たりかも知れない」という方向に行って欲しかったというのが正直なところだろう。
 ともあれ、鷹尚はさらに声のトーンを下げ、内緒話でもするかのようにトラキチと確認結果の共有を始める。
「まず「これは外れ」という形で確認できたのが2人居て、それぞれ岬裕次郎さんと糸井真知子さん。岬裕次郎さんは2周間前に、糸井真知子さんは先週末に鬼籍に入ったらしい」
「あらら。この二人は鬼郷に迷い込むべく迷い込んだ人達だったわけだ」
「地方新聞電子版のお悔やみ欄に名前と年齢が記載されていて、タウンページから電話番号も引っ張ってこれた。詳しい話までは聞けなかったけど「昔近所に住んでいてお世話になったんです」で切り出して聞いた話だと、岬裕次郎さんは癌の闘病生活が続いていて最後は心不全。糸井真知子さんは自宅で脳溢血で倒れていたところを家族に発見され病院に緊急搬送されたものの回復せず、そのままお亡くなりになったらしい」
 鬼籍に入ったという情報の出所に加え、鷹尚は関係者とも話をし2人の死亡が「確からしい」というところまで押さえており、そこに異論を挟む余地はない。
 では、憑依先候補者リストに名前のある本日の「訪問先」はどうなのか……というところになって、鷹尚は何とも歯切れの悪い感じに終始する。
「今日訪問している新実クリニックの新木幹彦は、この前の候補者リストの読み合わせで名前は挙がっていなかった。けど、経緯を聞いて「もしかしたら……」と思ったんだ。でも……」
 そこで一度言い淀んだ後、鷹尚はこう結論付ける。
「やっぱりリストの読み合わせで名前が漏れた通り、外れかも知れない」
「その心は?」
 どうしてその結論に至ったかをトラキチに問われ、鷹尚は「もしかしたら」と思った大元の部分から説明を始める。
「まず新木幹彦って人物は、生まれつき脳に腫瘍があったらしく度々入院を繰り返している人物らしい。だから、鬼郷に迷い込み易い下地があったんじゃないかって思ったんだよ。しかも、その腫瘍がここ最近大きくなりつつあるとかで2周間前に切除手術を行ったらしいんだけど、何でもそこから意識を回復させることなくずっと眠りについたままらしい」
 鬼郷に足を踏み入れる余地はあった。
 それを力説しながら、鷹尚は返す言葉で新木が置かれる今の状態が憑鬼に取って好ましくないものであると続ける。
「でもさ、仮に新木幹彦が鬼郷で憑鬼と意気投合したりして、現で憑依することを許諾したとする。でも、肝心要の憑依先の体の方が何か行動を起こせるような状態じゃなかったら、それを頼りに禁を犯して現にやって来る意味があるか? 未だなお新木は意識を回復させてない。こっちに来たところで下手すると眠った状態のまま何もできない可能性があるんだ」
 鷹尚の見解に、トラキチも同意を返す。
「まぁ、それはそうだな。何しにこっちに来たいのかは知らないけど、こっちに来てもただただ眠ったまま過ごさなきゃならんっていうなら来る意味がねぇもんな」
「これで実は新木幹彦が夜な夜な動き回ってますとかいうなら話は別だけど、そんな噂も全くない。院内には監視カメラもあるし、一度や二度ならまだしも日常的に抜け出すなんて無理筋な話だよ」
 鷹尚がちらりと面会者控室の天井に目を向ける。そこにも当然のように監視カメラがある。
 特別設置されている監視カメラの数量が多いというようなことはないし、そのいくつかはダミーかも知れないが、病院側に察知されることなく抜け出すなんて真似ができるとは到底思えない。まして、鬼郷なんて場所からやって来た憑鬼が監視カメラなんてものを意識できるとは思えない。そして、それは仮に新木の力添えがあったとて……だ。
 そうやってマジマジと監視カメラを眺めていた矢先のこと。
 不意にガチャリと面会者控室の扉が開く。入室して来たのは、鷹尚が受付でやりとりした人とは異なる女性看護師だ。
 面会者控室に待機するグループが積み増しされるのかと思いきや、その女性看護師は鷹尚・トラキチコンビを目に留め、こう呼び掛ける。
「佐治鷹尚さん、先生から面会OKの許可が降りました。新木さんは315号室の右奥のベットに居るので、ぜひ話しかけてあげてください」
 女性看護師に案内されて通された院内には、あちらこちらに入院患者と思しき人の姿が見て取れた。
 この手の施設が有する独特の薬品臭さが漂っている以外は、暖かな色合いを随所に配色するモダンな作りで天井も高く、あちらこちらに四人掛けのソファーやガラステーブルなどが設置されていたりと大凡病院らしくない内装が際立った。広間のような場所には大型テレビモニターが設置されていて、入院患者だろうばらばらの年齢層から成る集団がそこで退屈そうにしている光景も目に付く。
 全く古臭さを感じさせない院内を道先案内されるままに進んで行くと、女性看護師がゆっくりと歩く速度を緩める。
「新木さんの病室はこちらになりますね、向かって右奥のベットになります。面会は長くても30分以内としていただき、退出時は私でなくても構いませんので、ナースステーションに一声掛けていただけると助かります」
「ありがとうございます」
 鷹尚がそう返すが早いか、女性看護師は一礼するとささっとその場を後にしてしまう。余りにも足早にその場から去って行くものだから、やもすると新木の病室に対して何か忌避するものがあるのかとも邪推をしたりもする。しかしながら、ナースステーションのある方角へと足を向けた矢先から、入院患者や他の看護師に呼び止められたりしているところを見る限り、ただただ忙しいのだろう。
 女性看護師を目で追うのを止め、鷹尚は改めて315号室の扉へと向き直る。
 新木が入院する315号室は、どうやら二人部屋らしい。入り口に掲げられたネームプレートには二人分の名前が書かれており、新木の他に「沢渡健太(さわたりけんた)」という人物の名前が記されていた。
 鷹尚は、まず二度コンコンとノックをする。
 室内からは何の反応も返らない。軽く耳を澄ましてみても、315号室内から某かの音が漏れ出ているとかいったようなこともなかった。
 鷹尚はいつでも再度ノックをできる体勢を取ったところでトラキチへと顔を向ける。
「中に動く人間の気配はないぜ」
 その意図を察したトラキチからは、すぐさまドア越しに拾い取ることのできる室内についての情報が返った。
 そうすると、憑依先候補者「新木幹彦」と以室商会関係者だけが315号室内に居合わせる形となる。期せずして、誰かの視線や聞き耳を何ら気にすることなく面会することとなり、俄に鷹尚の表情が強張る。
 もし新木が「当たり」で、新井当人の意識の有無に関わらず憑鬼が体のコントロールを得ることができた場合、最悪「高橋宗治」と初めて顔合わせをした時のような事態になることも想定されたからだ。
 それでも、ここまで来ている以上、最悪パターンに陥ることを怖がって「体勢を立て直そう」だとか言っている段階ではないのは言うまでもない。
 鷹尚はすぅっと息を呑むと、315号室の引戸を開き、ゆっくりと進入する。
 まず目についた点として、トラキチが探った通り向かって左奥のベットは誰も居ない状態だった。
 尤も、ベット脇の棚や収納スペースには歯ブラシが一本立て掛けられたプラスチック製のコップだったり小物入れだったりと言った「入院生活を強いられている」感を醸すものが随所に置かれたままになっている形だ。
 件の「沢渡健太」は、たまたま席を外してくれているようだった。
 一方、向かって右奥のベットの方は、向こう側を見通すことのできない白色のカーテンで完全に仕切られていた。
 鷹尚はトラキチに一度目配せした後、カーテンとカーテンの継目からするっとその仕切りの中へと進入する。もし、何らかしらの抵抗や仕掛けがあるとしたら「そこだろう」と踏んでいたのだが、鷹尚は自身が拍子抜けするほどあっさりと憑依先候補者「新木幹彦」へと辿り着く。
「トラキチ、OKだ」
 先行した鷹尚がそう告げると、すぐにトラキチも後を追って仕切りの中へと進入してくる。
 ベットに横たわる新木は、頭部に包帯を巻き点滴を打たれている以外は取り立ててどうこうという点はなかった。頬が若干痩せこけて見えるのだって、手術からこっち目を覚ましておらず食事を取れていないからだろう。それに「頬が若干痩せこけている」と言ったところで、まだ術後二週間ということもあってか「ガリガリになってしまっている」という印象でもない。もちろん、このまま眠り続ければ筋肉も落ちていくだろうし、見るも無惨な痛々しい感じに変化していくことは間違いないのだろうが……。
 ただただ規則正しく寝息を立てているだけの様にさえ見える新木を前にして、鷹尚はどう声を掛けたら良いのか迷っているようだった。
 それでも何かことを起こすに当たって、相部屋の沢渡がいない状況は絶好の好機なのだ。ここで躊躇しているわけにはいかない。
 すぅと一つ息を飲むと、鷹尚は意を決して新木へと向かって語り掛ける。
「新木さん、始めまして。以室商会の佐治鷹尚と言います。突然の訪問、失礼いたします」
 当然といえば当然なのだが、新木から何かしらの反応が返ることはなかった。規則正しく上下する胸の呼吸が乱れるだとかいったような変化もなく、鷹尚の言葉が今の新木に届いている節は微塵も感じられない。
 何かしらの反応が返るわけでもないから、鷹尚はすぐに言葉に詰まる形になる。友達を騙って315号室までやって来たはいいものの、新木という人物に対して取り立てて情報を持ち得ているわけではないのだ。持ち得る情報なんて、それこそ先程トラキチに対して語った入院関連の事柄だけだと言っても過言ではない。新木に刺激を与えることのできる話題で、一方的に雑談を投げかけることすらままならないのだ。
 だからと言って、誰に何を聞かれるかも分からない場所で高橋相手にそうしたようなド直球の「鬼郷云々」の言葉を語りかけるのも気が引けて、結局鷹尚はそこから新木相手に働き掛けられず仕舞いとなる。
 そんな鷹尚を尻目に「埒が明かない」と言わんばかり、トラキチが殊更物騒な提案をぶち込んでくる。
「どうする? 概念毒フレグランス溶液でも嗅がせてみるか?」
 この後、戸辺との面会があるわけで、鷹尚は念には念を押す形で腰に巻いたポシェットにそれを忍ばせてあった。
 トラキチの提案を前にポシェットを軽く摩る鷹尚だったが、実際に概念毒フレグランス溶液の入った500mLペットボトルを取り出すことはなかった。
「いや、止めておこう。「意識のない相手に使っても問題ないのか?」とか言った当たりのことも確認できていないし、もし他を当たった結果として「もう新木さんしか残っていない。これは間違いない!」なんてことになったとしても身柄の確保はできているようなものだろ? 新木さんが「目を覚ました!」とかなればまた話は別だけど、その時はその時で別途手を打とう」
「オーケー。そんじゃ、顔も拝めたことだしお暇するかい?」
 そんな鷹尚の見解を前にしてトラキチはやや不満があると言わんばかりの表情だったが、そこに異論を挟むことはなかった。言ってしまえば、絶好のチャンスを前にして「生温いやり方」とでも言いたかったのだろうが、新木が当たりである可能性が限りなくゼロに近いからこそ物騒なその提案を強行しなかったとも思えた。
 物騒な提案を聞こえるように口にしてなお一向に目を覚ます気配を見せない新木を一瞥すると、トラキチはふいっとカーテンの切れ目を縫う形で一足早く出口へと向かった。
 一方の鷹尚はと言えば「聞こえていない」ことを承知の上で、以室商会としての立ち居振る舞いを取る。
「それでは、本日のところはこれで失礼させていただきます、新木さん。またお見舞いに窺わせていただくこともあるかと思いますが、その時はまたよろしくお願いいたしますね」


 新実クリニックを後にした鷹尚・トラキチコンビは、その足で戸辺との顔合わせとして指定された場所へと移動を開始する。本当ならば四上宿の旧・中坂邸まで行って白黒篝に言付けておきたいことがあったのだが、そんな時間的猶予はなかった形だ。
 戸部から指定された会合の場所は、彩座水科の近隣に位置する「一条境(いちじょうさかい)」だった。
 一条境とは、私電で彩座水科へ向かう途中にある駅の一つであり、比較的活気のある商店街や飲み屋街を持つ区画である。基本的には、田本寺町なんかと同じ彩座水科の教育機関に通う学生の多いエリアなのだが、周辺地域と比較するとここを基盤として活動する学生の年齢層が若干高めという特徴が挙げられるだろう。
 田本寺町がこじんまりとしてレトロ感のある古い町並みで、……語弊を恐れずに述べるなら、下宿する高校生だとかいった類の「お金にあまり余裕がない人達の街」であるならば、一条境は社会人や割とお金の自由が効く大学生がより多いエリアという括りになる。
 これは、私電の沿線沿いという良好なアクセス性を背景として、一条境が隣接する櫨馬市のベットタウン的な立ち位置も兼ねているところが大きい。
 そんな一条境は、駅に降り立った瞬間から周囲を流れる空気が異なっていた。いや、あくまでそれは個々人の体感的なものに過ぎないのだが、田本寺町の通勤・通学の時間帯以外は閑散としているロータリーなんかと違って至るところに喧騒があるのだ。それに、そもそも駅のサイズ感からして異なる。
 田本寺町の駅がレトロ感の漂う古い町並みに溶け込む平屋建てのちょっとした休憩スペースと隣接したコンビニ、そして数機の改札からなるこぢんまりとしたものならば、一条境は全うに今の時代の地方都市の風景に溶け込む三階建ての近代的な駅だと言える。
 一階層には喫茶店や飲食店などが入居しており、二階層には広大な多目的広場を有する駅機能。そして、三階層には地元企業のオフィスや時間貸のレンタル会議室といったものが入居していてさながら複合商業施設の様相を呈している。……というか、複合商業施設の中に駅が入居しているという言い方の方が適当だろう。
 駅前には家電量販店やデパートなんかが隣接していて、私鉄沿線にある彩座市の地域の中では「一条境」付近はかなり発展しているといっていいだろう。もちろん、都市間を結ぶ高速バスが乗り入れたり、複数の私鉄に乗り換えできるようなハブステーションと比較すれば雲泥の差があるのだが、こと彩座在住者であれば「何をするにしてもわざわざ遠出したくない」とか言い出すと一条境や彩座水科なんかが妥協先として候補に挙がることの多い地域となる。
 そんな一条境の駅を出て、鷹尚・トラキチコンビは空中遊歩道と名付けられた陸橋を郊外方向へと向かって歩く。空中遊歩道は跨線橋を兼ねつつ2km離れた彩座市歴史博物館とを繋ぐもので、この2km区間内に設置されたベンチの一つが今回の目的地となる。
 メール文面に「空中遊歩道の第8番ベンチで待つ」と記載してきた通り、そこには隣に缶コーヒーを置きあちらこちら表紙に汚れが散見される文庫本に目を落とす青年が腰掛けていた。
 薄らと周囲が暗くなり始める時間帯だったが、空中遊歩道はといえばそんな薄暗さとは無縁の場所でもあった。等間隔で設置された街灯が煌々と遊歩道えを照らしていて、且つ一条境付近は欄干下部にフットライトなんてものまで備え付けられているためだ。
 もちろん、完全に周囲が夜の帳に包まれ、且つ一条境の駅から離れ博物館方面へと一定距離以上進んでいくとフットライトの設置エリアを抜けるしその限りではないのだが……。
 鷹尚とトラキチが空中遊歩道・第8番ベンチへと近づいていくと、戸部と思しき青年はその気配を敏感に察したようだ。文庫本からすっと目を上げ鷹尚達へと目を向ける。すると、戸部と思しき青年は、鷹尚とトラキチの二人を自身が手紙を宛てた相手であると確信したらしい。
 鷹尚・トラキチに取って「戸部稔」は全く面識のない相手だったのだが、戸部と思しき青年の方は今眼前にある二人が該当の人物であると判別できるぐらいには顔を知っているようだった。
 トラキチを「同席させます」とすら伝えていないのにパタンと文庫本を閉じてしまえば、鷹尚・トラキチの反応を待たずにこう切り出す。
「来たかい」
 そうして、戸部と思しき青年はくっと広角を上げて半ば無理やり気味に笑みを作ると、出方を伺う鷹尚の様子など気にした風もなくベンチに腰掛けたまま自己紹介を始める。
「始めまして、戸辺稔(とべみのる)だ、宜しく、以室商会・佐治鷹尚君。……と、そちらさんはあれか、佐治トラキチって名前の化猫君か」
「おう、佐治トラキチだ。改めて「化猫」なんて言われるのも不思議な感じなんだがね。化けるもなにも、もうこの姿でいる方が長いぐらいだからな」
「へぇ、そいつは凄いね。つーか、当たり前かも知んないけど、全く見分けが付かないもんだね。どこからどう見ても只の人間だ。上手く化けるもんだ」
「以室商会では、中途半端にしか化けられねぇ奴は外に出させて貰えねぇからな。それはそれはガキの頃から必死に特訓するわけよ」
「なるほど。以室商会現当主・佐治継鷹の御墨付きがないと「以室商会の者です」って名乗れないわけかい。まぁ、そうだよなー、冥吏なんてものに関わってんだから半端者に好き勝手やらせるわけはねぇよな」
 出方を伺う鷹尚を余所に、戸部とトラキチはすらすらと軽い雑談めいたコミュニケーションを取る。
 尤も、その最中にいきなり「冥吏」なんて単語をぶち込まれたりするものだから、それまでの軽い調子から一転、トラキチの表情が目に見えて強張ったりもした。「化猫」という辺りで既に若干トラキチの目付きが鋭くなったのだが、こと「冥吏」にまで言及されては「訝しむな」という方が無理がある。
 それでも、戸部の調子は何ら変わらない。口が滑ったという風もない。ならば、その「化猫」にせよ「冥吏」にせよ、それらの単語はそこに意図して交ぜられたものなのだろう。
「まぁまぁ、そう怖い顔しなさんなって」
 さも「敵意はない」という具合に柔和な態度を見せると、その場で足を組み直し仕切り直しと言わんばかりに「冥吏」なんて単語を口にすることができた理由を説明して見せる。
「俺はさ、生まれつき肉体と魂魄の結びつきがちょっと緩いみたいで、ガキの頃から何度も鬼郷に足を踏み入れているんだ。とは言っても、体は健康体なわけだから、すぐに現の世界に帰ってくるんだけどな。だから、まぁ、自然と冥吏とも顔見知りになったわけよ。向こうも最初は「なんだこいつ?」って感じだったんだけど、生まれつきこうなんだからそりゃあ仕方ないってなっちまったわけだ」
 それは戸部が冥吏を知り得る理由として、至極尤もらしい内容だった。もちろん、本当のことを話しているかどうかは分からないのだが、その尤もらしい言葉はまだまだ続く。
「ちなみに、俺も君達みたいに冥吏から頼まれ事を受けていたりするんだぜー。現の世界に溜まる塵を払う奴……っていえば通りが良いのかい? まぁ、とは言っても三ヶ月に一度決まった場所に足を運んでパパッと火を放つってだけだどな。パッと見、やってることは下手すると放火魔と変わらないよな? その内、通報されたりしてな? はは」
 以室商会について知ってる理由についてもそうだった。「俺も」なんて軽い調子で話しながら「冥吏から頼まれ事を受けている」なんて衝撃の事実を語ってくれるのだ。
 こうして話を聞いている限り、こちらとあちらがそれなりの頻度で交わることがあるような場所に置いては、冥吏が何某かの頼み事を現サイドの人間にお願いするのはそう珍しいことではないのかも知れないとさえ思えた。
 もちろん、誰彼構わず頼み事をしているなんてことはないのだろうし、さすがに適正や解決力のない相手に厄介事を持ち込んだりはしていないのだろうが。
「で、まぁ、一通り塵を焼き払ったら後片付け。最初はバケツに水を汲んで置いてぶちまけてたんだが、最近、ポータブル高圧洗浄機を購入してさ、これがまた今までの重労働は何だったんだろ……ってぐらい便利な代物なんだわ。容量最大15Lで、お値段、9000円」
 黙って戸辺の話を聞いていると、このままだらだらと脱線を交え半ばどうでもいい感じの話が続くかも知れないと思ったのだろう。鷹尚はやや強引に話を遮るように一歩踏み込む。
「……対価として、戸辺さんは冥吏から何を貰っているんですか?」
 話を遮るように割って入った鷹尚の言動を前にしてなお、戸部は何ら嫌な顔の一つすら見せることはなかった。まるで、そうして半ば強引に話題を切り替えられるのを「待っていた」とでも言わんばかりだ。やもすると、軽い調子でぺらぺらと駄弁って置きながら「本題へと移行するタイミング」なんてところを伺っていたのかも知れない。
 その証左であるかの如く、戸部は切り替えられた話題の先での鷹尚の疑問にもさらりと答えて見せる。
「生まれ付きのこの体質を少しでも改善させることのできる飲薬、……と「こいつはやばいぜ!」って時に魂魄をあちらから肉体へと強制的に押し戻すことのできる緊急回避用の錠剤を貰ってる」
 そういうが早いか、戸部はベンチの横の席に無造作に置かれたトートバックから名刺入れサイズの小型金属製スキットルを取り出し、鷹尚に向かって見せ付けるように差し出して見せた。
 その中身が件の体質改善を促す「飲薬」とやらなのだろう。
「そんなこんなで冥吏に扱き使われたりしているわけなんだが、俺がやりとりをしているその冥吏から面白い噂話を聞かされたわけよ。鬼郷から脱走した憑鬼の憑依先の一つとして、まさに俺の名前が挙げられているって。しかも「俺が現の世界での憑依先として体を貸していないかを調べてる奴がいるんだぜ、笑えるよな、はははー」って感じで話が続くわけよ」
 一先ず、鷹尚もトラキチもそこに口を挟むことをせず、ただ黙って戸部の身振り手振りを交えた話を聞いていた。
「冥吏は楽しそうに、時に勿体振りながらたっぷり語ってくれたぜー。「そいつは以室商会の佐治鷹尚、ドン(机を叩く音)、何を隠そうそいつらは……!」って感じにな。そりゃあ、そんな話になってるのなら「会ってみよう」かって感じになるわけじゃん? 以室商会とやらが話の通じない、それこそ無茶するタイプの武闘派とかだったなら、いきなり変な疑いを掛けられて鉄パイプで襲撃されることだってあるかも知れない。だったら、最初から誤解を解くべく話し合いの場を持った方が良い。そう思うだろ?」
 戸部の言い分は、非の打ち所がないほどに完璧だった。
 冥吏を知る理由から始まって、以室商会を知り得るに至った経緯についてもそう。こうして一条境で会おうとした理由にしても、最初から「俺は憑鬼の憑依先ではない」と疑いを晴らしておけば意図せず望みもしない厄介事に巻き込まれることもないからだ……と来たものだ。
 一連の戸部の話を受けて、鷹尚はトラキチと顔を見合わせる。
 鷹尚の思いに反しトラキチなりに「何か思うところがあるかも知れない」なんて思ったからだが、そこに認識の差異なんてものはなかった。これは「(適当な表現かはともかく)外れだな」とありありと感じている様が、お互いの表情には滲んでいた形だ。
 ともあれ「外れ」だと思ったなら思ったで、話を詰めなくてはならない。
「そこまで事情を知っているっていうなら話が早くて助かるぜ」
 トラキチはそう言うが早いか、鷹尚の方を小突く形で本題を切り出すようせっつく。そうしないことで、戸部の主導で本題とは関係ない話題へと再び逸れていくことを嫌ったのだろう。
「率直に聞きます。憑鬼に体を貸していたりしませんよね?」
 戸部に対して形式的に言葉による確認を向ける鷹尚に、当の戸部はキョトンとした顔付きを返した。
「あれ、それを俺に聞いちゃう感じ? 俺の適当な答えを信用しちゃっていいのかい? 俺自身それと気付かぬ内に、実は憑鬼に憑依されちゃってましたなんて話があるかも知れないぜ? 何かさー、こうゴテゴテとしたアンテナとか満載のヘッドギアみたいな奴を装着させて「Let’s 憑依チェック!」とかいう感じの奴をしなくていいわけ?」
 どこからその怪しげな憑依チェックの光景が出てきたかはわからないが、戸部の言うことも「ある種、ご尤もな意見かも知れない」と鷹尚は思った。例え、眼前で極々一般的な対話を通して確認できる仕草や振る舞いの中に何一つ疑義を見出だせないのだとしても、確かに「敢えてそう仕向けているだけである」という可能性がないとは言えない。
 対応が「手緩い」と思われてしまったとしても、当然だろう。
 そうして「そこまで言うのなら……」と、トラキチは憑依チェックに取り掛かる振りをする。
「そういうのがお望みなら、憑鬼を炙り出す頭にがつんと来る感じの薬品をじっくりたっぷり嗅いで貰うでもいいぜ。なぁ、鷹尚?」
 トラキチが胸元から取り出すは、概念毒フレグランス溶液の余りが僅かに入った500mlペットボトルだ。新木に対しては万が一という可能性を恐れて使用しなかったものの、莉央の言葉を信じるならそれは普通の人間には何の影響も及ぼさないはずだ。”頭にがつんと来る匂い”云々言ったのは、トラキチ自身の苦い経験を踏まえてのものだっただろうが、あくまでただのハッタリに過ぎない。
 それでも、迫真(といいつつ、トラキチは影響を受ける側として、その威力の程を身を以て理解しているのだが)のハッタリは、軽口を叩いて見せた戸部を怯ませるに十分足るものだった。
 トラキチからずずっと後退るような仕草を取ると、戸部はその憑依チェックに対して断固拒否の姿勢を取る。
「はっはー、断る!」
 一方で、トラキチは「威勢のいい言葉で煽っておいて、ここで引くのかい?」とでも言わんばかり。にんまりと笑いながら「何なら2本行っとく?」と両手に500mlペットボトルをがっしと握り戸部へと躙り寄る。勢いままに概念毒フレグランス溶液が入ったペットボトルの栓を今まさに開封しようとするのだから、当の戸部はさぞかし肝を冷やしただろう。
「いや、ちょっと待って! 冗談だって! 半分冗談の話は置いといて、どんな美味しい条件で憑鬼からそんな話を持ち掛けられたとしても俺は乗らねぇよ。リスクを知っちまってる」
 そこで求めていた答えが戸部の口を吐いて出た。
 茶番じみたそんなやり取りを経て、鷹尚は溜息混じりに頷いた。
「分かりました。わざわざ、身の潔白を証明していただきありがとうございます。戸部さんのことを諸々調べ上げて、憑依先候補者として当たりかどうかを判別する労力を割かなくて済みました。助かりました。感謝します」
 言葉では感謝を述べて見せてはいたものの、そこには「徒労だった」といわんばかりの、鷹尚の態度が滲み出てもいた。覚悟と緊張感を持ってこの場に挑んだからこその落胆だったと言えば聞こえはいいが、それを目の当たりにした当の戸部はと言えば何とも複雑な思いだったろう。
 尤も、今なお概念毒フレグランス溶液の入ったペットボトルを鼻先に近づけようとするトラキチと格闘してる真っ最中だったから、戸部に鷹尚の様子を察する余裕なんてものはなかったかも知れない。
 鷹尚はそんなトラキチの横腹を軽く突き「ここらが潮時」であることを自覚させる。そうしてどこまで本気か解らない不満げなトラキチを後目に、鷹尚は戸部に対しこの対話を終わらせに掛かった。
「それじゃあ、まぁ、戸辺さんに対する疑いも晴れて潔白が証明されたということで、俺達はこの辺で……」
 その言葉が現下の内に、戸部からは「待った」が掛かる。
「待った待った。全く、早とちりが過ぎないかい、以室商会さんよ? 俺の話はまだ終わっていないぜ? まだ本題がある。俺が今日以室商会と会って語りたかったことにはまだ触れてすらいねぇ」
「……はぁ?」
 思わずそう聞き返した鷹尚を尻目に、戸部はくっと缶を傾けて残りのコーヒーを飲み干す。すると、そこからが本題と言わんばかりに自身が纏う雰囲気をすっと切り替える。
「俺は憑依されていないが、憑依されてる奴に心当たりがある。……というか、憑依されている。間違いない。そんでもって、俺はそいつの素性について名前は愚か電話番号も、何なら住所だって知ってる」
 想像だにしていなかった方向へと話が急展開し、再び鷹尚はトラキチと顔を見合わせた。
 トラキチに取っても、これは斜め上の展開だったらしい。
「……その話、詳しく聞かせて貰えますか?」
「もちろん。ただ、話をするのは構わないが、情報提供の見返りとして一つ俺の頼みを聞いて欲しい」
 見返り。
 戸部のその言葉に、鷹尚はこれでもかって程に身構える。
「それは内容によりますけど、……俺達に何かして欲しいんですか? 何か鬼郷に関わる薬や道具で入用が……とかなら、まだ価格も含めて相談に乗れますけど、正直なところ俺達にできることなんて……」
 対価について予防線を張る鷹尚に、さも「見当違いも甚だしい」と言わんばかりに戸辺は食い気味に被せて来る。
「その心当たりが以室商会の手に渡ったリストに名前が挙がっているかどうかは俺には分からないし、もしかしたらそいつに憑依しているのは以室商会に対処を依頼された憑鬼ではないかも知れない。それでも、俺の話を聞いたからにはそいつの対処を以室商会でやって欲しい」
 戸部の口からは、これまた全く想像だにしていなかった思いも寄らない言葉が出てくる。
 鷹尚は……と言えば、当惑を隠せないでいた。
 そうして、鷹尚が反応を返せないでいると、戸部は多かれ少なかれ冥吏絡みの事情を知る人間らしくその頼みの意味するところについてこう念押しもする。
「リストに名前のある人物なら万々歳だろう。でも、もしそうでないなら以室商会は別口の案件に首を突っ込むことになるかも知れない」
 そこで一端言葉を句切り、戸辺はそれまでの軽薄な感じがまるで嘘だったかのような真剣な表情で鷹尚に迫る。
「どうする?」
 当の鷹尚はといえば、相変わらず眉間に皺を寄せる酷い顔をしていたが、ここで「はい」とか「いいえ」とかいう決断を下す前に確認しておかなければならないことがあった。まずはそこに言及する。
「なぜ、以室商会を指名したいんですか?」
 その鷹尚の疑問は至極当然のものだったろう。
 高橋宗治の件では良いところなしだったし、ましてそれ以前に憑鬼絡みの事件で上手いこと立ち回ったなんて事例があるわけでもないのだ。何なら、憑鬼絡みの件に置いてはただのド新人もいいところである。
 もし、ここで仮に戸部の口から継鷹の名前が出てくるようなことがあるなら、変な期待を抱かせないようにしなくてはならないのだ。「当案件に置いて継鷹の全面介入はない」と、釘を刺しておかなければならない。
 しかしながら、戸辺はそこでニィと口元に笑みを作ると、改めて鷹尚をマジマジと注視しながらその理由についてこう述べる。
「俺と付き合いのある冥吏から面白い話を聞いたんだ。以室商会って奴は、何でも鬼郷から抜け出した憑鬼の対処をするにあたって「説得して連れ戻す」ことを重視しているらしいって話だ。そんでもって、軽くこうして実際に話をしてみた限り、お前らは確かにそんな感じの連中なんだろうなって思った」
 そこで一旦言葉を句切りつつ、戸辺は「言いたいことを言い終えていない」とばかり。大きな身振り手振りを交えながら鷹尚・トラキチを交互に見つつ、その第一印象に到った理由を根拠もへったくれもない「直感」だと述べる。
「実際に会って話してみるってのは、大事なことなんだよ。やっぱり「あれ、何だかこいつ、話していておかしな感じがするな」って奴は、大体その後問題起こしたりすることが多いし、案外この手の直感って奴は馬鹿にできないものだと俺は思ってる」
 戸辺はさらに続ける。そこに鷹尚やトラキチが口を挟む余地を与えずに、矢継ぎ早に……だ。
「きっと以室商会が首を縦に振ってくれて、今からそりゃあもう詳しい話をすることになると思ってるんだけど、……その心当たりって奴は俺の知人でね。すげー色々と拗らせちゃってる残念な奴なんだ。で、きっとその拗らせちゃった俺の知人が「OK」っつって憑依させた可能性が高いんだよね。それなのに憑鬼を問答無用で塵に帰されるってのはさ、気持ち悪いじゃん? 快刀乱麻を断つ……じゃないけど、どうせなら色々背景にあるものも考慮して貰いたいって俺は思うし、そうすることですげー色々拗らせちゃった俺の知人が少しでも救われる方向に話が転んだら良いと思ってる。それが以室商会を指定したい理由だ」
 やや演技掛かった迫真の語りを終え再び糞真面目な顔を覗かせると、戸辺は鷹尚へと改めて尋ねる。
 ついさっきのものと全く同じ言葉。
「どうする?」
 ただ、ついさっきのもとは打って変わって、そこに漂うものは「断ってくれるなよ」という戸辺からの圧力でもあり、縋り付くかのような懇願の視線でもあった。
 正直なところ、鷹尚はこの話を受けて良いものかを心底悩む格好だった。
 戸部の言うように、リストに名前があれば万々歳。しかしながら、もしそうでなかった時に、鷹尚自身が痛感している「力不足」である点が重くのし掛かって来た形だ。「高橋宗治を踏まえて改善を!」なんて奮い立とうとしてみたところで、すぐさまどうこうできる手立てがあるわけでもない。
 それでも、自分達が掲げたスタンスを良しとして「頼りたい」と戸部に言わしめている以上、無碍にはできないという思いが勝る。
「分かりました。その条件を呑みます。戸辺さんの心当たりが以室商会の手にあるリストから名前が漏れていたとしても、まずは俺達が対処に当たります」
 再び「やってくれるか!」と期待の籠もった目をして口元に笑みを灯す戸辺に対し、鷹尚はすぐさま予防線を張る。
「但し! その憑鬼が説得できない相手だった場合、無理矢理剥がして処理する流れになります。こういってしまうと元も子もないですが、俺達はまだ駆出しみたいなもので憑鬼の対処に当たって多様な手段が取れません。……できることが、限られています。だから、必ずしもご期待に添えるとは限りません」
 後半になるに連れ、申し訳なさそうにドンドンと弱々しくなっていった鷹尚の言葉を聞き、戸辺は瞑目しながら頷いた。そうして、さも自分自身に言い聞かせるかの如く、それも「仕方がないこと」だと理解を示す。
「あー、うん。それは仕様がねぇんだろうな。説得して連れ戻すってことを重視するとはいえ、話が通じねぇ相手ならそうするしかない。当然だよな。ああ、オーケーオーケー。それでいいぜ。有無も言わさず、潰して終わりってわけじゃないだけでも立派だぜ」
 当然、それは戸部が望んだ100点満点の回答ではなかった筈だが、それでもそこには安堵や期待の感情といたものが色濃く窺えた。
 トラキチからは脇腹を突く仕草を持って「安請け合いしてしまって本当に良かったのか?」といった類いの突き上げが一発二発と打ち込まれはしたが、鷹尚は思いの外さっぱりとした晴れやかな顔付きだった。ここで「受けられません」と突っぱねて、何もしない形で後悔する寄りかは行動を起こした結果として後悔する方がいくらかマシな気がしたからだ。
 もちろん、蓋を開けてみたら戸部の案件はリストに名前の無い人物で、何の脈絡も関係も無い別口へと首を突っ込むといった類いの最悪パターンの可能性もあり得るのだが、それはそれとして割り切るしか無い。
 ともあれ、戸部に取ってこの場でやりとりして置かなければならなかった交渉事の、最大の関所は越えたようだ。ベンチの横の席からトートバックを手に取ると、鷹尚・トラキチコンビにこう提案する。
「じゃあ、まぁ、こんな屋根もないようなところでこのまま長話するっつーのもあれだし、どこか座れる場所に行こうぜ? そんで、そろそろ日も完全に落ちる時間だし、ついでにどこかで腹拵えと行こう」
 時間的には一条境の駅を出てからまだ30分程度の時間しか経っていなかったのだが、確かに周囲の景色はその合間に薄暗がりに侵食されるその度合いを大きく強めていた。ちょうど、この第8番ベンチが街灯の直下に位置していて周囲の薄暗がりが余り気にならない場所だったというのもあるだろうし、何より何だかんだいって初対面となる戸部との対話でそれと気付かぬ形で緊張していたというのもあるのだろう。
 鷹尚が腰に巻いたポシェットからスマホを取り出し現在時刻を確認しようとする最中、戸部は腹拵えに対する希望を二人へと問いかける。
「何か食べたいものはあるかい?」
 尤も、そうやって確認を向けておきながら、戸部は鷹尚・トラキチコンビが何かしらの反応を返すよりも早く「どんな要望にも応えられる」と続ける。
「一条境の界隈は、彩座産業大に通う俺の庭みたいなもんだ。かれこれ一条境の界隈に三年近くお世話になってるからなー、まぁ何を要望されてもリーズナブルな大衆価格でそこそこ上手いもんを食べさせてくれる店を紹介できるぜ。軍資金の心配も要らないぜー、奢るよ。無理を聞いて貰うんだ、何も遠慮は要らない」
「……」
 そこに至って「そうは言われても……」という言葉を顔に出して押し黙る鷹尚を前に、戸辺は大きく胸を張って「任せろ」と胸を張る。
「俺はバイトする時間になーんも困らん大学生だぜ? それに、タイミングが良いことに今はバイト代が入ったばかりで懐もそれなりに暖かい。何でも好きに食べたいものを挙げて貰っていい」
 これ見よがしに「何でもいい」と太っ腹な面を強調する戸部だったが、なおさら鷹尚はその言葉に萎縮する形でもある。ここで「高級焼肉がいい」だとか「回ってない寿司がいい」だとか言えるほど、図太く、そして図々しくはできていないのだ。
 すると、未だ尚「そうは言われても……」という胸の内を顔に出して押し黙ったままの鷹尚に代わり、その真横で欲望に負けたトラキチがぽつりと呟くのだった。
「肉だな、肉が食いたい」
 思わず、鷹尚は隣に立つトラキチへと驚きの目を向けていた。
 しかしながら、一度だだ漏れになったトラキチの欲望は留まるところを知らない。
「それも腹一杯になるぐらいの肉がいい。牛でも、豚でも、鶏でも良い。とにかく肉の気分だ、肉を腹一杯に食べてこそ気力が充実するってもんだ」
「トラキチ、お前……」
 遠慮なしに欲望を垂れ流すトラキチを横に置き、鷹尚を呆れと言わんばかりに溜息を吐いて天を仰いだ。
 まだこれから「憑鬼絡みの情報を提供して貰う」なんてフェーズが残っているのだ。
 戸部の立ち位置も憑依先候補者から、情報提供者、何なら依頼主へと変わるのである。
 そこを鑑みると「何でも」なんて形で希望の確認を向けられたわけだが、喫茶店辺りで軽いものをつまみつつ対話するというのが定石だったろう。それこそ「憑鬼」なんてものの話をするのに、ファミリーレストランみたいなところでガツガツ食事しながら情報提供して貰うというのは余りにも危機意識が低いと言わざるを得ない。
 もちろん「食事しながら……」という点だけを見ればそれはあり得ない話ではないし、現に鳴橋にだって一席設けられているのだ。しかしながら、鳴橋のそれはあくまで外部に情報が漏れる恐れの無いプライベートな場所を用意した上でのことだ。
 戸部がそこまで気を回し、鳴橋のそれと同レベル……とまでは行かなくとも外部に会話が漏れ出ないよう留意された場所を、果たしてチョイスしてくれるだろうか? 
 いや、最初からそういう希望を出しておいて「ガツガツ食事しながら情報提供して貰える場所」を戸部に用意して貰えば良いか?
 色々と思考を巡らせ葛藤する鷹尚を尻目に、戸辺はカラカラと笑った。
「ははー、おぉ、若いね。いいねいいね、俺とは違って気力充実・肉欲旺盛やね。若者はそうこなくっちゃね」
 それまでやれ情報漏洩が云々……といった当たりを気にしていた鷹尚だったが、戸部が発した「若者」言葉に違和感を覚えたことで一気にその思考は霧散する。
 仮に戸部が彩座産業大の院生だったとて、まだまだ20代前半である。鷹尚的にも、まだその範囲はギリ「おじさん」に足を踏む混んでいない認識のため「若者……?」という言い回しは相当気になったみたいだ。
「若者って……、戸辺さんだってまだ大学生ですよね? 俄然「若者」真っ盛りじゃないですか」
 対する戸部はくしゃっと顔に皺を寄せて老け込んだ表情を作ると、態とらしくグルグルと肩を回して見せて「いいや、もう若くない」と主張する。
「いやー、もうバイトの夜勤とかが体に来る歳よ? 寝ないでフル回転とかできた昔を懐かしむぐらいには、こう年取った”感”っつーのを嫌という程に最近は実感させられているね! ゴリゴリ体力持って行かれると、次の日の寝起きに支障を来すぐらいには……もういい歳だね。まだまだ無理が利く……なんてつもりでいると、痛い目に遭うぜー」
 高校と大学、青年と未成年といった類いの大きな差はあれど同じ「学生」という括りである。
 そんな戸部の「無理がたたると体に来る」言葉を、鷹尚は訝る。
「そんなんでも大学生活っていうのは、大丈夫なものなんですか? その、やっぱり夜間の活動が次の日に響いたりして学業に支障を来したりなんてこともあるんですか?」
「あー、まー、全く問題ないなんて口が裂けても言えないが、実験漬けのバリバリの理工系とかでもなければ案外何とかなるもんさ。味噌は、いくら良いことがあっても平日夜に気の合う仲間といきなり酒盛りとか始めないことかな。後、万が一のやらかしを避ける意味でも、朝一から講義入れたりしないよう調整するのも大事だぜー。必修科目が朝一から入っていたりするとげんなりするぜ? 厳しい教授だったりすると、講義中の居眠りをカウントされたりしていて「テストの点数良くてもお前には単位やらねーから」とか言い出しやがるしさー」
「バリバリの理工系を選ばず、朝一講義を入れなければ、多少は深夜帯まで出歩いても大丈夫。……覚えておきます」
 それは戸部に取って少々気になる鷹尚の意外な反応だったらしい。
「興味あるかい? 大学生活」
「まぁ、それなりには。地元で進学するなら学力的にも無理せず狙える彩座産業大かなってぼんやり思ったりもしてますし。それに大学へ進学しても以室商会での活動は続けていきたいなんて、こっちもぼんやり思ってるんですよ。そうなると、必然的に夜間の活動もある筈ですから……」
「へぇ、でもそっか、そうすると鷹尚君は下手すると後輩になるわけかー。まぁ、彩座産業大のことで何か聞きたいことがあったら遠慮なく聞いてくれ。俺の知人の件に首突っ込んで貰うんだ、代弁し放題で出席しなくても単位が取れちゃう教授の講義から学食の裏メニューとかいったお得情報でも、いくらでも提供させて貰うぜー」
 彩座産業大情報なんてところに戸部が言及したところで、鷹尚は初めて自分が唐突に関係のない話題を口にしたことに気付いたのだろう。「すいません」なんて言葉を皮切りにして、押し黙ってしまった。
 そんな鷹尚の様子を察してか、戸部はふいっと話題を腹拵えの件へと戻す。
「さて、肉、肉ね。トラキチ君のご要望の感じだと高くて旨い肉をちょこっとよりも、そこそこ旨い肉をガッツリの方が良いだろう? リーズナブルな価格帯の食べ放題の店でも、そこそこ旨い肉を取り揃えているところを知っているぜー」
「高くて旨い肉ガッツリならそれに越したことはねぇよ」
 トラキチからはこれまた図々しい希望が口をついて出る。当然、そこには「舐めんな!」といった類いの牽制が出る来るかと思ったのだが、戸部はからからと笑いながら発破を掛けるということをした。
「はは、正直でよろしい。けど、そういうのは成功報酬って相場が決まってるんだぜ。高くて旨い肉を腹一杯食べたかったら気張ってくれよ」




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