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Seen08 佐治鷹尚の進め方 case.高橋宗治


 莉央と分かれた後、鷹尚とトラキチは駒居工業株式会社の正門前へと急いだ。
 莉央と分かれた時点で、駒井工業株式会社の終業時刻である17:30を既に15分程超過していたためだ。元々の予定では、17:30前には正門前に到着しスタンバる手筈だったのだが、概念毒フレグランス溶液の下りで無駄に時間を使ったことが諸に響いた形だ。
 それでもどうにか18:00を回る前には駒居工業株式会社の正門前へと到着し、鷹尚は先回同様道路を挟んだ向かい側に位置する相馬化成の敷地をぐるりと囲うモルタル塀へと背中を預けた。
 尤も、先回と比較してまだ時間が早いということもあってか、相馬化成の建物はまだ煌々と明かりを灯す格好だった。空の夕焼け具合もようやく赤みが色濃く増してきたという程度で薄暗さは微塵も感じられない。即ち、そこにはまだ「薄暗がり」なんてものは存在していなかい状態だった。
 もし、周囲が本格的に暗くなり始める前に高橋が正門前に姿を表すようなら、すぐに鷹尚とトラキチの存在に気が付くことだろう。もちろん、発見されることをできる限り避けようなんてつもりはさらさらない。
 高橋の不意を突いてどうこうするというつもりならばまだしも、現時点ではあくまで対話をするべく鷹尚はこの場に足を運んでいるのだからだ。
 ともあれ、17:30から18:00までの30分の間に高橋が退勤していないことを祈りながら、鷹尚はモルタル塀に背中を預けたまま、ただただ黙ってその場に佇んでいた。
 今回の接触を試みるに当たって、先回のように会社へ電話を入れて高橋の情報を探るなんてことはしていない。何せ、一度一悶着というところまで行ってしまっているのだ。警戒した高橋が自分宛の電話や在社確認の問い合わせに対して何かしらの対策を立てていたりした場合、不用意に相手を刺激することになると思ったからだ。
 正しい情報を開示しないよう、またその手の問い合わせがあったことを自身に伝えるよう手立てを打っているとそれこそ面倒くさい話になり兼ねない。
 そんな経緯もあって、何なら「この薄暗がりに軽く1時間近くは身を潜めることになるかも知れない」なんて鷹尚は思っていたりもしたたのだが、その心配はすぐに杞憂で終わった。
 不意にトラキチが鷹尚の耳元へと顔を寄せ、こう告げる。
「今回も当たりだぜ。憑いてるな。高橋宗治のお出ましだ」
 先回の時のように、トラキチが指す相手が高橋本人かどうか判断できないなんてことはなかった。
 鷹尚はズボンのポケットからスマホを取出すと、起動済みのチャットアプリをアクティブ化し予め用意していたメッセージをで莉央宛てに送信する。もちろん、視線をスマホの画面へと釘付けにするようなことはしない。あくまで、その視線は高橋を主に捉えたままだった。
 そうやって鷹尚が遠目に眺め見た高橋は、驚くほど挙動不審な点を見せなかった。正門を通過するにあたって周囲を気にするような素振りを見せることもなければ、足早に駒井工業株式会社を後にするようなこともない。数日前に「以室商会」なんて名乗る奴らがやって来て、一悶着起こし掛けた余韻などどこにも見受けられなかった。
 恐らく、道路を挟んだ向かい側のモルタル塀沿いに鷹尚とトラキチの姿を発見しなければ、そのまま何食わぬただの一般人の顔をして帰路についたことだろう。いいや、鷹尚とトラキチを横目に捉えてなお、素知らぬ顔で駒井工業株式会社の正門を離れるなんてことをしたかも知れない。
 鷹尚はすぅとゆっくり息を吸うと、高橋の一挙手一投足を見逃すまいと視線を凝らし、何ならそこから突然ダッシュで離脱すると言うようなこともやられても対応できるように姿勢を改める。
 ちょうどその時だ。
 高橋が駒井工業株式会社の正門を出た少し先の場所で足を止める。何か第六感のようなものが働いたのか。それとも、正門付近を遠目に窺う怪しい視線に気付いたものか。ともあれ、高橋はその場でぐるっと辺りを見渡すなんてことをする。
 当然、向かいの相馬化成のモルタル塀沿いに佇む人影なんてものを、都合よく見落としてくれるわけもない。鷹尚達が佇む付近でぴたりと視線を定めてしまえば、高橋の顔付きは見る見るうちに険しさを増していった。
 そうなってしまえば、モルタル塀に背中を預けたままそこでじっとしている理由など鷹尚サイドにはなかった。いいや、先回の対応を踏まえて言うならば、決して「危害を加えに来たわけではない」ことを示すためにも、寧ろ自身の存在をアピールした方が良いという判断もある。
 鷹尚は高橋に対してこれみよがしに挙手をして見せて「待っていました」というアピールをまず取った。そうして、片側一車線・対面通行の道路をトラキチを伴い横断すると、駒居工業株式会社の正門前へと歩みを進める。
 特別急ぐような姿勢を見せるでもなく距離を詰める鷹尚とトラキチに向けて、高橋は辛うじて敵意といった類いの攻撃性を感じさせない口調と声のトーンでこう口を切った。
「また、お前達か」
 ちらほらとではありながら周囲に帰宅の途につく駒井工業株式会社の社員等がいるからだろう。高橋が覗かせる表情というものにも、これみよがしに鷹尚達を拒絶するような色はない。この場で、何らかの「いざこざが発生しています」といったような雰囲気さえも、誰かに察知されるのは好ましくないと思っているようだ。
 もちろん、だからこそ、駒井工業株式会社から帰路につく人の流れが完全に途絶えてしまうような事態になれば、高橋のスタンスはその限りではないのだろうけれど……。即ち、鷹尚としてはそんな状況が生まれる前に、高橋に対してアクションを起こす必要があった。
 鷹尚は頭を振って見せて「敵意はありません」というジェスチャーを見せた後、高橋に対してブラフを仕掛ける。
「おっと、今回はきちんと高橋さんの求める「合言葉」を持ってきましたよ」
 自身を鋭い目付きで睨み見る高橋相手に涼しい顔でそう言い切ると、鷹尚は両手を広げるジェスチャーを取る。「合言葉を今すぐこの場で口にしましょうか? どうしましょうか?」と、態度で持って暗に迫る攻めの姿勢を取った形だ。
 対して、すぐさま件の合言葉を求める声が飛ぶかと思いきや、意外にも高橋は腕を組んで小難しい顔を合間に挟んだ。そうすると、その場に直立不動で押し黙ってしまった。
 正直なところ、そんな高橋の反応は鷹尚に取って良い意味で想定外だった。
 そこに至って「悩む」というアクションを引き出すことができると言うことは、即ち、その「合言葉」とやらを以室商会が口にする可能性を持ち得る存在だと高橋が認識していることを意味する。
 鷹尚に取って、それは高橋に対して働きかけることのできる駆け引きの幅が大きく広がった瞬間だった。
 悩むというアクションから何かしらの結論を高橋が導き出すよりも早く、鷹尚はこれみよがしにぐるりと周囲を見渡して見せると人目を気にする素振りを覗かせる。
「高橋さん。すいませんが、まずは場所を変えませんか?」
 鷹尚の「周囲を気にする素振り」に引き摺られるように、高橋はすぐ横を通り抜けていく人の流れを意識するようになる。中には「顔見知り」というぐらいには、駒井工業株式会社の社内でお互い顔を合わせているような人も混ざっていたのだろう。
「あぁ、いいだろう」
 場所を変えるという提案は、すぐさま高橋に承諾された。
 その反応は、鷹尚の「読み通り」である。
 何食わぬ顔でただの一社会人の振りをして日常生活を維持するためには、誰に話を聞かれるかも解らないこんな状況下で憑鬼がどうのこうのといった話をするわけには行かない筈なのだ。
 鷹尚はスマホを取り出すとこれみよがしに地図アプリを起動させ、画面をスイープしつつ適当そうな場所を探す振りをする。当然、適当な場所として提案するものは、莉央が下準備をしてくれている件の三角公園である。
「この辺りで、屯していても怪しまれず、それなりに人目を避けれることのできそうな場所……。そうですね、この先にある三角公園なんてどうです?」
 三角公園を口に出して指定する際、僅かに鷹尚の声が上擦ったのだが、高橋はそれを気にした風もない。
「いいだろう、お前達に任せる」
 高橋がその提案を怪しむこともなく受け入れたことに、鷹尚は内心ガッツポーズを取っていた。喜びが顔に出ないよう、ぐっと歯を噛み締めて堪えたぐらいだ。
 鷹尚は再び両手を広げるジェスチャーを取ると、高橋へと三角公園への移動を促す。
「では、三角公園まで行きましょうか?」
 鷹尚が先導する形で歩き出すと、作業着姿の高橋は上着のポケットに両手を突っ込むスタイルでその後を追って歩き始める。配列としては、鷹尚と高橋とで約2mから3m強の距離を置き、その間にトラキチが陣取るという形だ。
 駒井工業株式会社や相馬化成といった企業が立ち並ぶ区画を離れ、再び周囲の景色が古めいた閑静な住宅地然としたものに切り替わってくると、辺りは一気に薄暗さを増していった。それは時間的に、夜の帳が降りる頃合いであったこともあるし、設置される街頭の感覚が一気に間合いを広めたことも関係していただろう。
 場を支配するものは、お互いがお互いの様子を探り合うことで生まれた静寂だった。
 ただただ黙って足を進めていると、どうしたって高橋に注意が向くのも仕方のないことだろう。それは何も相手を疑って掛かる警戒ではない。「きちんと後ろを付いて来ているのか?」だとか「不意に距離を取ったりしてはいないか?」だとか、そういうことを「気にするな」というのには無理がある。
 そうすると、鷹尚は無言のまま背後の気配に探りを入れることに我慢できなくなったのか、これみよがしに一つ咳払いをして見せた後、高橋に向けてこう口を切る。
「正直、驚きました。憑鬼に憑依された状態でも、いつも通り会社に通って仕事しているんですね?」
 何も反応が返らないなら、それはそれで構わない。
 鷹尚としてはそんな風に割り切った上で切り出した話題だったのだが、高橋は特に気にした風もなく雑談に乗ってきた。寧ろ、その話しっぷりには元来「気さく」なのだろう雰囲気さえも滲んだ。もちろん、ことその一瞬に限って言えば、愛想良くとはいかず、ぶっきらぼうに突き放す風ではありながら……ではあったのだが。
「一時的にこの体を間借りさせて貰っているわけだからな。高橋宗治としての日常生活を壊すような真似はできない。そもそも、日常生活に置いては高橋宗治の人格が全面的に体をコントロールしていて、憑鬼としての人格は影に潜んでいる。お前達みたいなものが介入してこない限りは、憑鬼として表立って行動することなどない」
 その高橋の当て付ける口振り。
 既に、人格としては高橋宗治その人ではなく、憑鬼に切り替わっていたのだろう。いいや、眼前に以室商会という勢力がいて、高橋宗治の日常生活に介入してきているのだから、表立って憑鬼が矢面に立つというのも当然の事態なのだろう。
 ともあれ、鷹尚は何の気なしに思いつくまま会話の中で疑問に思ったことを高橋(憑鬼)へとぶつける。
「……どうやって、高橋宗治さんと憑鬼との人格を切り替えているんですか?」
「頭の中に物理的なスイッチがあるようなイメージだな。それをオンオフするような感覚といえば、いいだろうか。緊急時には無理矢理スイッチを切り替えることもあるが、そうでもない限りは断りなくスイッチの切り替えをしないと宿主である高橋宗治とは取決めしている」
 その言い分が本当なのだとすれば、高橋(憑鬼)が高橋宗治の肉体に無理やり憑依したわけではことが分かる。いいや、高橋の日常生活を壊すことがないよう配慮が為されているのだから、ある一定レベルの合意のもとで高橋(憑鬼)がその肉体に憑依していることは間違いないだろう。
 高橋(憑鬼)との対話を踏まえて憑鬼に対しての考察を深めつつ、だからといって鷹尚はここであれこれ思案に耽けるというわけにも行かない。鷹尚サイドから振った話題にせっかく応えてくれたのだから、ここでそれを途切れさせるなんて真似は以ての外だ。
 鷹尚はそこでくっと一つ息を呑むと、一歩踏み込んだ話題に敢えて触れる。
「高橋さんはこっちの世界であなたに肉体を貸し出すことを快諾したんですか?」
 もし拒否反応が返るのならばすぐに話題を逸らすことを鷹尚は念頭に置いていた。そこに至って意図せず俄に声が上擦ったのだって、緊張からだ。
 しかしながら、高橋(憑鬼)からは想定したものよりもずっと緩い反応が返るのだった。
「はは、不思議に思うかい、以室商会?」
「……えぇ」
 笑う高橋(憑鬼)に、鷹尚は内心呆気にとられながらも素直に頷き返した。
 もし鬼郷やら憑鬼やらといった界隈のことを何も知らず、且つ鷹尚が高橋の立場だったのなら、得体の知れない相手に肉体を貸し出すなんて真似はしないだろうと心底思ったからだ。
 そんな鷹尚の率直な反応を前にして、高橋(憑鬼)は「そうだろうな」と苦笑して見せると、それが偶然の産物があったことを述べる。
「結論から先に言うと、高橋宗治は快諾してくれたよ。まぁ、それもこれもひょんなことから意気投合したからさ。ふと気付けば、現の世界に戻る日を待つ高橋宗治と、あれよあれよという間に鬼郷で連れだって飯を食いに行くような仲になっていたんだな」
 苦笑しながらしみじみと語る高橋(憑鬼)は、鬼郷でのあれやこれやを思い出してでもいたのだろうか。
 そうして、そこで一旦言葉を句切って見せると、高橋(憑鬼)は鷹尚にこう問いかける。
「何がきっかけだったと思う?」
 不意に高橋(憑鬼)からそんな難問を向けられたものの、対する鷹尚は目検に皺を寄せる形で回答に窮した。そこに何のヒントも続かないのだから、高橋(憑鬼)としても鷹尚の口から正答が返ることを期待したわけではなかった筈だ。
 しかしながら、では「当てずっぽうでも、見当外れでもいい」と言われたところで、当の鷹尚が持つ引出しにはこの場を和ませたり笑いを取ったりできる適当な答えなどなかった。だからこそ答えに窮したとも言えたのだが、そこでやむなく鷹尚は自身の回りにいる鬼郷の住人を例に取って話し始める。
「自分が付き合いを持つ冥吏を例に取ると、お酒をこよなく嗜むのと牛肉をこよなく愛するのが居ますけど、……候補が多岐に渡りすぎて皆目検討も付きませんね」
「俺達の場合は、葉巻だった。どうしてここに迷い込んで来たのかだとか、色々と話をしている内に話題が大きく大きく逸れていってな。「シガーに嵌っている」と言うんで鬼郷の紛い物をいくつか分けてやったら、あっさり「これは本物じゃない」と見抜かれてね。銘柄を聞かれて答えたが「味や香りだけそれとなく似せてはいるけど中身がない」と看破されて、あの時はほとほと溜飲が下がったもんだ」
 謎掛けに対して「分からない」と鷹尚が答えても、高橋(憑鬼)が興醒めするように素振りは微塵もなかった。さも「そうだろうな」と訳知り顔で頷いて見せた後は「誰かに語りたかったんだ」と言わんばかりの饒舌さで鬼郷での出会いについて、そして鬼郷での交流について語ってみせるのだった。
「そこから鬼郷の偽物をいくらかわけてやっている内に、……まぁ、友人と言える関係になったんだろうな。尤も、ここからここまでという憑依期間の約束がなければ、さすがに高橋宗治も首を縦に振らなかったのかも知れないが、ね」
 すらすらと語る高橋(憑鬼)からは、次から次へとこの現の世界への失踪に関する様々なヒントが口を突いて出て来た。高橋(憑鬼)に取って、それは何の気なしに口にしたに過ぎないものだっただろうが、鷹尚に取っては非常に興味深く、またこの事件の真相に迫るピースの一つ一つである。
 その雑談から、高橋(憑鬼)という下級冥吏についての多種多様な情報をまだまだ引き出さんがため、鷹尚はこの雑談をさらに広げようと話題を振る。
「こっちの世界へとやって来て、もう本物は味わったんですか?」
 そう問いかけたところで、高橋(憑鬼)は一気にテンションを上げる。やや興奮気味の口調は、自身の好きなものを語るからこそ……だろう。
「ああ、キューバ産の高橋宗治オススメの品を楽しませて貰ったよ!」
「どうでした?」
「やっぱり、現の本物は違うな! 甘さがあってコクがあって、五臓六腑に染み入ってきて、……こう、脳が痺れるといえばいいのかな。後々まで尾を引くあの感触は、確かに鬼郷の紛い物とは一線を画するものだね。最高だ、素晴らしい!」
 現の「日本酒」に対して雄弁に語って見せた白黒篝と全く同じ反応を見せられて、鷹尚は思わず吹き出しそうになってしまう。
「はは、自分が付き合いを持つ冥吏も、ものは違えど似たような感想を述べてましたよ」
「だろうな。本物を味わえただけでも、こちらにやって来た甲斐があったというものさ」
 三角公園へと移動する合間、鷹尚はそんな具合に高橋(憑鬼)と簡素な雑談でそれなりに盛り上がった。
 そのやり取りの中で分かったことは、高橋(憑鬼)が「現の本物を楽しんでみたい」といった類の刹那的な欲求から、こちらの世界へと足を踏み入れた可能性も十分有り得そうだということだった。「合言葉」なんてものを求められたから、何か裏があるかも知れないと構えてはみたが、そうして雑談を交わした高橋(憑鬼)は、……何なら本質的に白黒篝と何ら変わらない存在のようにさえ思える。
 正直なことを言えば、まだまだそうやって雑談を交わし続け、この憑鬼の懐を探りたいというのが鷹尚の本音でもあった。可能ならば「三角公園へまでの道を大きく迂回して……」なんてことまで考えもしたのだが、高橋の行動範囲であると思しきこの西宿里川でそんな手が通用するとは思えない。
 白黒篝を相手にしているかのように「もっと雑談をしたい」なんて宣ったのなら、高橋(憑鬼)は訝ったのだろうか。
 そうこうしている内に、三角公園が近付いてくる。
 前以て下見をしたわけでもなかったため、鷹尚が件の三角公園を目の当たりにするのこれが初めてのことだ。
 三角公園敷地内へと足を踏み入れようかという段階になって解ったことは、この公園がそう大きな敷地面積を持つわけでなく、また大の大人が身を隠せるような遮蔽物を持たない場所だということだった。ざっと視線を走らせて確認した限りではブランコやジャングルジム、鉄棒といったような遊具が目に付くものの、身を隠せるタイプのものは一つも見当たらないのだ。
 敷地面積は、具体的な数字でいうと400平方メートルぐらいだろうか。テニスコート2つ分ぐらいと言えばイメージが付き易いだろうが、実際には道路と面した箇所には草垣やフェンスなどがあるため子供達が遊び場として利用できる土地はもっと限られている。
 三角公園へと到着すると、鷹尚は足を止めることなくその敷地内へと進み入った。
 遠目に見た限りでは三角公園に人気はなかったのだが、実際に中心部まで進み入って辺りを確認してみてもそこに莉央の姿は発見できない。
 どこかに上手いこと気配を消して潜んでいるのだろうが、手入れの為された草垣の脇にでも屈んで身を隠しているのだろうか?
 ともあれ、三角公園の中心部にある水飲み場付近まで進み入ったところで、鷹尚は足を止めてくるりと高橋へと向き直った。
 一方の高橋は鷹尚・トラキチの一挙手一投足から視線を外さない程度の警戒感を持ちつつも、以室商会の「敵意はありません」というスタンスを信じてくれているようだった。さっくりと人の気配が周囲からなくなったにも関わらず、敵意といったような攻撃的な面をまとうことはしなかった。
 そうして、口に出す形で要求しないものの、その目でじっと鷹尚を睨み据える。
 駒井工業株式会社の正門前でやりとりすることを嫌って、こうして三角公園までやってきたのだ。ここで「何を求められてるか?」は嫌でも解る。しかしながら、鷹尚はそれでもそこで本題へと移る前に一つ間を挟みたいと試みる。
「それじゃあ、合言葉を……と行く前に、一つ教えて下さい」
 その要求に対して、高橋から何かしらの反応が返るよりも早く鷹尚は言葉を続けた。きっと、快い言葉を聞くことはできないと思ったからだ。だから、その言葉は早口で、やや事務的で、やや高圧的に問い質すかのような居心地の悪いものとなる。
「鬼郷の住人であるあなたに取ってこっちの世界は決して適合することのできない場所だ。しかも、規則を破って不当にこっちの世界を訪れている以上、大手を振って鬼郷へと戻ることもままならない。ずばり、……聞きます。なぜ、こちらの世界にやってきたんですか?」
 もし、この質問に対する高橋の答えが、先程の雑談の中で出た「本物を味わうこと」だというのなら、如何様にでも説得できるかも知れないと思った。
 しかしながら、鷹尚からその質問を向けられた高橋は一瞬ぽかんとした顔を挟んで見せた後、心底「呆れ果てた」といわんばかりに苦笑する。どうやらその問いこそが、鷹尚が口にするのを勿体振った件の合言葉を「知らないこと」の証左となったらしい。
 そこを境に、高橋の態度は一気に硬化する。
「くく、それを、合言葉を知っている筈のお前達が俺に問うのか? こんな展開が待っているんじゃないかとうすうす勘付いてはいたが、……悪い冗談にも程があるな。もし、本当にお前達が合言葉を口にすることのできるものだったとして、それでもなお俺にそれを問うのであれば尚更だ。俺はお前達を叩き潰し排除しなければならない」
 鷹尚の表情は見る見る内に苦虫を噛み潰したような、酷いものへと切り替わる。これから交渉に移るという初っぱなの段階からあっさり地雷を踏み抜いたことに気付くも、時既に遅し。もう既に、立て直しが効く段階ではないみたいだった。
 鷹尚を見遣る高橋の目には、不信感が色濃くこれでもかと渦巻いていた。ついさっきまでの、雑談を楽しんだ時の柔らかさはどこにもない。いいや、ついさっきのそれなりに打ち解けた時間があったからこその、強い不信感なのだろう。
 もう何を繕って見せたところで、駄目かも知れない。
 鷹尚自身、内心ではそれを覚悟した状況だったかも知れない。尤も、だからと言って取り繕わないわけにも行かない。
 だから、万に一つの可能性に縋って鷹尚は声を張り上げる。
「待ってください。悪いようにはしない! だから、確認させてください」
「もういい、合言葉を言え」
 突き放すように合言葉を求められてなお、まだ鷹尚は追い縋る。
「高橋さん、俺達「以室商会」はあなたの手助けができる!」
「合言葉を言え!」
 咆哮するかのように荒々しい口調で拒絶され、鷹尚は観念したようだった。ぐっと下唇を噛んで無念を滲ませ、まじまじと高橋を注視する。腹を括ってすぅと息を呑めば、……もう声を張り上げるしかない。
「合言葉は! ……説得失敗」
 声を張り上げた時の勢いは、語尾に向かって大きく失墜し、そして声のトーンも喉の奥からどうにか絞り出したかのような酷いものだった。「合言葉」を吐き出す鷹尚の顔も、追い詰められた窮鼠が見せるかのような酷いものとなる。
 当然、それは高橋が何者かと示し合わせた単語ではない。
 高橋もそこに至って合言葉の正答が鷹尚の口を吐いて出てくるなんて微塵も思っていなかった筈だ。それを証明するかのように、高橋(憑鬼)は合言葉の正否を問い直すこともせず、臨戦態勢へと移ったのだった。
 一方で、高橋(憑鬼)が臨戦態勢へと移ったことで、鷹尚・トラキチの両者もワンテンポ遅れる形ながら躊躇することなく身構える。
 トラキチに至っては図太くも不敵さを身にまとって見せ、隙の一つでも見せようものなら「即座に喉笛に噛み付いてやるぜ」とでも言わんばかりの態度だった。
 尤も、このトラキチがまとってみせた獰猛さは、ただの「ポーズ」であり「ブラフ」だった。
 一つは高橋(憑鬼)が勢いままに鷹尚へと飛びかかることがないように。そして、もう一つは自身にこれでもかと注意を引き付けることで、三角公園へとまんまと誘き出した後の「罠」を成功させるためだ。
 あまりにもトラキチのまとった「臨戦態勢」が迫真だったからか、高橋(憑鬼)はそれが「ポーズ」であることに全く気付かなかったらしい。あくまで注意を引き付けるためのものであることを看破できなかった。
 これ見よがしに剥き出しの敵意を向けられて、同じように表情を歪め感情を昂らせた高橋(憑鬼)が、その背後へと迫る気配に気付いたのはどのタイミングだっただろう。
 やもすると、実際に行動が起こされるまで背後の気配に全く気付いていなかったかも知れない。
 次の瞬間、どこからかふらりと現れて見せて高橋(憑鬼)の背後へと音もなく忍び寄った莉央が、概念毒フレグランス溶液をぶちまける。
 今まさに概念毒フレグランス溶液を頭から浴びるという間際になって、高橋(憑鬼)はどうにか莉央の存在に気付いた様子だった。もちろん、気付いたところで既に打てる手なんてものはなかった。
 そうして、まさに概念毒フレグランス溶液を頭から浴びた後も高橋(憑鬼)は、咄嗟に何が起きたかを全く理解できていない様子だった。
 ただ、それも一瞬のこと。
 その次の瞬間には、高橋(憑鬼)は顔色を変えて叫んでいた。
「概念毒だと!?」
 高橋(憑鬼)は見る見る内に追い込まれていった。額にびっしりと大粒の汗を浮かべ、無造作に頭を掻き毟るようになる。すると、二歩三歩とふらふふら蹌踉めきその場に片膝を突いてしまえば、後は立ち上がることもままならなくなっていた。
 あくまで概念毒のフレグランスを付加しただけの溶液であるにも関わらず、その効果は絶大らしい。尤も、匂いに対する拒否反応だけで、トラキチを体調悪化から嘔吐するレベルにまでが追い込んだのだ。
 それ以上の影響を見込める「憑鬼」という対象への効力というものは、戦闘意欲を削ぐなどといった範疇には収まらないのだろう。
「オオオアアアアアアァァァァ!!!!」
 児童公園に響き渡るは、咆哮とも見紛う程の呻き声。
 怨嗟すらも混じるその呻きが一頻りけたたましく響き渡った後、ぷつっと途切れる。
 概念毒フレグランスによる過負荷に耐えられず、高橋と憑鬼とリンクが切れたようだ。すると、もう意識は保っていないのだろう高橋がふいにぐらりと蹌踉いて見せて、そのままその場で前のめりに倒れ込む。
 寸でのところで莉央がその間に割って支えたことで、高橋はどうにかその場で突っ伏して不用意に怪我を負うのを回避した形だ。
 尤も、意識を失った大の大人を莉央一人で支えるには無理がある。前もってそうなることが分かっていたならば、その間に割って入るべきは鷹尚かトラキチであって然るべきだ。
 そうして、手を貸すべく鷹尚が慌てて行動しようとした矢先のことだ。
 当の莉央からは、鷹尚に向けた強い警告が向く。
「あたしよりも! 鷹尚クン、後ろ!」
 莉央のその目は鷹尚を捉えてはいなかった。
 鷹尚が莉央の視線を追って捉えるもの。それは、大きく伸びた高橋の影の先にあって、それまでここには存在してなかった憑鬼そのものである。
 まず、その巨躯をまざまざとその目で捉えた鷹尚が思ったことは「これが憑鬼の姿なのか?」という戸惑いにも似たものだった。
 鷹尚の脳裏を真っ先に過ぎったものは「メンデスのバフォメット」だった。フランスの詩人・エリファス・レヴィによって描かれた、両性具有で黒山羊の頭を持つ異形であり、キリスト教の異端審問によって最も有名になった悪魔の一つだろう。即ち、それは「鬼」という言葉から連想されるものとは、似ても似つかぬ西洋の悪魔に似た異形の姿をしていた。
 二本の立派な角を備えた山羊の頭に、猿(というには巨大だが)の体躯を持つ。体長は軽く2mは超えているだろうか。それでも、二本の腕に二本の足といったパーツの構成は人間と変わりないものの、各部の長さや太さといったものは比較にならないサイズ感をしていた。恐らく腕力・脚力・膂力といった辺りは、それに特化した一流のスポーツ選手でも敵わないだろうことが優に見て取れる。
 全身、毛むくじゃらでゴワゴワとした毛に包まれていて、こういっては身も蓋もないが「意思疎通が図れるのか?」すら疑わしかった。人間のそれではなく、強く「獣」を意識させる横長の瞳孔がギョロリと動いて鷹尚を捉えれば、憑鬼の攻撃目標が何であるかを意識しないわけにも行かない。
 今まさに振り返った鷹尚とトラキチ目掛け、憑鬼は攻撃を繰り出さんと丸太のように太く筋張った利き腕を力一杯に高く高く振り上げんとするところだった。
 その体勢から、捻りなく力任せに腕を振り下すのか。はたまた、さらに遠心力をつけて薙ぎ払うのか。どんな攻撃を繰り出してくるか判断できないから、トラキチも鷹尚も迂闊には動けない。尤も、繰り出される攻撃がそのどちらであっても、それを食らうことは、少なくとも鷹尚に取って大なり小なり怪我を負うことを意味する。
 アドレナリンが分泌され、憑鬼の攻撃を回避すべく鷹尚の感覚が研ぎ澄まされていく最中のこと。
「危ない!」
 そんな警告の声が不意に響き渡った。そして、その警告によって鷹尚は、寧ろ初動を遅らせてしまう格好となる。せっかく研ぎ澄ましていた感覚に、冷水を浴びせかけられたようなものだ。
 しかしながら、憑鬼が勢いままに振り下ろすその一撃が鷹尚を捉えることはなかった。
 翼を広げた小型で白色の鳥のように飛翔する物体が鷹尚と憑鬼の間に割って入り、その一撃を受け止めて見せたのだ。いや「受け止めた」とする表現は誤解を招くのだろう。実際には、間に割って入って憑鬼の一撃をその身で受けた瞬間に無数の白色の帯となって四散したのだ。
 そして、鳥のような物体は四散と同時にその場へ何らかの力場を作り出したらしい。振り下ろした憑鬼の剛腕は、鳥のような物体が四散したその場で、ぴたりと硬直するかの如く制止していた。
 憑鬼がどんなに唸り声をあげ、その力場を力任せにぶち破らんとしてもびくともしない。
 四散した鳥のような物体は薄く細長い絹のような帯が風に靡くかの如く、そうしてまるで重力に惹かれるようにある一点に収束する。その先を目で追うと、収束点には見覚えのない青年の姿があった。
 ばつが悪そうな顔付で頬を掻けば、青年のその表情には苦笑いが灯る。
 土気色のチノパンに、襟首や袖口の裏地に鮮やかな刺繍を施した白地のワイシャツといったカジュアルな装いだが、どちらもピリッとノリを効かせた皺のない様に学生らしさはない。パッと見では二十歳前後の年齢であるように見えたが、しっかりとネクタイを締めスーツ姿であったならばまた違う印象を覚えたかもしれない。
 やや面長の顔で意志の強そうな瞳が取分け印象的だが、清潔感を醸す短く切り揃えられた黒髪も含めて雰囲気に取っ付き難さはない。それは右耳に付けるピアスが全体的な「堅さ」を上手い具合に緩和していることもあっただろうか。
 鷹尚は咄嗟に莉央の方へと顔を向ける。
 以室商会に取っては見覚えのない顔でも、協力者である「戸永古書店の魔女」ないし莉央に取っては顔見知りの人物かも知れなかいと思ったからだ。
 第一声にしてもそうだ。
 その青年は、鷹尚の危機を察して手を出した格好だ。
 しかしながら、鷹尚の意図を察した莉央は、すぐに首を左右に振る。顔見知りではないらしい。
 ともあれ、鷹尚と莉央がそんなやりとりをしている合間に、青年は自身の手元へと収束してきたその白色の帯を空中で大きく旋回させて束ねる。すると、それは再び鳥のような形状を取り、まるで生きているかの如く振る舞ってみせる。
 鷹尚、トラキチ、そして莉央の視線を一心に浴び、その青年は心底「困った」と言わんばかりに頬を掻いた。
「あー、その、……うん。初めまして。「誰だ、お前?」とか、聞きたいことは色々あると思うけど、まずは周囲に被害が及ばないようそいつの対策をしてしまおう。成り行きで助け舟を出してしまった手前、不本意ながら僕も助太刀するよ」
 青年が先手を打つ形を取り、鷹尚の言いたいことは未然に潰し込まれた。そして、確かにそれの様々な疑問を解決するよりも、まずは具現化したこの憑鬼の対応が急務であるという事実も揺るぎようがない。
 しかしながら「まず憑鬼の対処をすべき」といった青年に対し、莉央からは「既に手は打ってある」旨の主張がすぐさま向いた。
「対策って言ったって、あたし達は憑鬼をこのまま捕獲するつもりなんだけど?」
 不備はなく準備は全て整えてあると言わんばかりの反応を見せる莉央に、青年はややきつい口調で「これで本当にいいのか?」と確認を向ける。
「人払いはしないのかい? 憑鬼がこの状況を不利と判断し、この場からの離脱を選択したらどうする?」
 その口調は咎める風ではなくて、寧ろ経験値不足の鷹尚達に教え聞かすような振る舞いのようにさえ聞こえた。
 人払い。そして、憑鬼の三角公園からの離脱防止処置。
 その2つについて問われた莉央は、すぐに返答に窮する。
「え……と」
 もちろん、状況が状況だったからかも知れない。ある程度の時間を掛けることが許されるのであれば、莉央の口からは何らかの答えが示しだされたのかも知れない。しかしながら、すぐさま問いに対する答えを返せなかったのは、半ば場当たり的な側面がありそこまで深く思い至っていなかったらなかったというのが正直なところだったろう。
 そして、これは何も莉央に限った話ではなかった。鷹尚・トラキチにしてもそうだ。その必要性を認識できていなかったといって差し支えなかったかも知れない。
 何なら、高橋から剥がした後の憑鬼が、概念毒フレグランスの影響もさして見られない状態で顕現し、ここまで攻撃的な面を見せるとは予想していなかったとさえ言えただろう。
 返答に困る莉央を眼前に起きつつ、青年の視線は同時に憑鬼の一挙手一投足を見落とすまいとその挙動を捉えていた。
 万が一、憑鬼に力場を破る程の力や能力があった場合、この青年はすぐさま次の手を打ったこのかも知れない。。
 それでも、口籠もる莉央を余所に鷹尚はその青年に向けてこう訴え出る。
「別に無為無策ってわけじゃないんだ。憑鬼を捕縛する為の道具だって用意はしてある!」
 鷹尚は莉央が制作した細環封柱を取り出して見せて、青年にここで憑鬼を捕縛するつもりであることを告げる。
「場は整えてあるんだ。だから、後はこの憑鬼を細環封柱に封じ込めるだけなんだ」
 鷹尚の主張を聞いた青年は、見るからに驚いたという表情で目を丸くする。
「鬼郷の憑鬼を幽閉できるように細環封柱を用意したのか? しかも、それ、自作品かな? ……手間も掛かるだろうに大したものだ」
 青年の口から出た言葉は、まずは感嘆の声。次に、その表情をコロコロと切り替えて見せれば、そこに心得顔を覗かせて見せて一人合点がいったとばかりに頷いてみせる。
「でもまぁ、なるほどね。君達の目的は憑鬼を捕まえることなのか。だから、剥がした後すぐに対処しようとしなかったのか」
 そう呟いて見せた青年が、憑鬼の捕縛という行為に対してどんな感情を抱いたのかはパッと見分からなかった。心得顔の後に覗いた表情にしてもそう。雑多な感情がいくつも混ざったものだろう。何とも複雑そうな顔付きをしていた。
 しかしながら、憑鬼を捕縛することに対する青年の心証が仮に良くないのだとしても、ここに来てそれを諦めるというわけにはいかない。鷹尚は青年に向けて憑鬼の捕縛を前提とした姿勢を改めて示してみせる。
「できれば、高橋さんに憑依した状態のままで憑鬼を説得したかったんだ。……説得が無理だとしても、何とか生かしたまま捕まえたいんだ!」
 しかしながら、その鷹尚の主張を聞いた青年の表情は何ともばつが悪そうな色合いだった。いくらか混ざる申し訳無さそうな顔色は、その後に続ける言葉が鷹尚の希望をばっさりと切って捨てるものだったからだろうか。
 青年はすぅっと目元を細めると、やや事務的に、そして取り付く島のない冷淡な物言いで鷹尚へとこう切り返す。
「率直に言わせて貰うよ。この細環封柱に彼を収める為には、彼の力を大きく削ぎ落とさないとならない。それも、肉体にダメージを負わせて弱らせるようなやり方だけでは駄目で、彼に何度も大きな力を使わせて細環封柱の内部から封を破壊できないように力を削ぐやり方が必要だ」
 青年は続けざまにぐるりと辺りを見渡して見せると、三角公園の周囲が閑静な住宅街であることを踏まえそれが現実的に可能ではないということを鷹尚に教え諭そうとしたようだ。
 その後を追って三角公園とその周囲の景色に視線を向けた鷹尚は、すぐに苦々しい顔つきに変わってしまった。
「大きな力を使わせる? こんな場所で……?」
 ここは、西宿里川の住宅地街を内包した工業地帯内にあるただの児童公園に過ぎない。こんな場所で憑鬼に大きな力を使わせるということが、どういうことを理解できないほど鷹尚も無知ではない。それは恐らく、周囲へ大きな影響を及ぼし兼ねない程のものであり、大きなリスクを伴う行為で間違いない。
 まして、細環封柱に憑鬼を捕縛するにあたって、どれだけ大きな力を行使させればいいかも分かっていないのだ。剥がした憑鬼が持つ力の全体像すら分かならないのだから、その目処付けすら困難であるといっていい。
 果たして「それが可能なのか?」を思考する鷹尚は、まさに頭が真っ白になったと言わないばかりの形相だった。
 言葉を失う鷹尚の様子を前にして、青年は申し訳無さそうに苦笑する。
「憑鬼の捕縛にあたって、まさか、そんなことが必要になってくるなんて思ってもみなかったっていうのが正直なところかな?」
 それは非常に的を射た指摘だった。何なら憑鬼を剥がした後のことなんて、名前を呼べば葫蘆が対象を吸い込んでくれるかのようにあっさりとことが進んでいくとさえ楽観的に考えていたくらいだ。
 もちろん、その可能性について言及できなかった莉央に対してどうこういうつもりなど、鷹尚には毛頭ない。
 やはり、今の今まで莉央が聞き齧ったり関わってきたりした憑鬼とは、鬼郷のそれはレベルが違うのだろう。何より、捕縛のための手段としては「細環封柱」しか取り得る手はなかったのだ。大金を積んだり時間を掛けたり駄々を捏ねたりしたところで、件の葫蘆が手に入る宛てを得られたわけでもない。
 もしも細環封柱で鬼郷の憑鬼を捕縛しようとする場合「何度か大きな力を使わせて弱らせなければならない」という課題を明確化できたことが今回得られた教訓である。
 では、どうするか?
 それを突き付けられた鷹尚は、酷い顔で押し黙ってしまっていた。
 一方の青年はと言えば、そんな鷹尚の様子を目を細めて愉快そうに眺めるだけで、自身に向けられた主張に対する異論を挟んで見たり、決断を急かしたりするわけでもなかった。当然、その青年の胸中を推し量る術はなく、何を思っているかを傍目に捉えることはできない。けれど、少なくとも鷹尚の迷いを悪く思っている節がないことだけは確かなのだろう。
 尤も、ではそこに「延々と迷い葛藤するだけの時間的な余裕があるか?」と言えば、ことはそう都合良く運んではくれなかった。
 青年の生じさせた力場が押し破られる気配は微塵もなかったものの、憑鬼が力場に対する試みを変える動きを見せたのだ。何度か試みた結果として、そのまま力押しをしていても「この力場を破ることはできない」ということを嫌というほど学習したのだろう。何せ、力任せに攻撃を加え続けて一度力場に僅かな綻びを加えるところまでいったにも関わらず、ものの数秒も立たない内にあっさりと目の前で修復されてしまったりしたのだからだ。
 自身の置かれた状況を分析する能力が正常であれば、そのまま力押しで自体を打破することが無理筋なことぐらいは解って然るべきだ。
 すると、憑鬼は不意にその場から一歩二歩と後退するような素振りを見せる。
 その挙動は、助走を加え、何なら力も溜めて、渾身の一撃でも振り下ろそうという腹積もりのように見えた。
 青年も、そして莉央も、そんな憑鬼の挙動に対して抜け目なく、次の攻撃に備えた態勢を取る。しかしながら、実際に憑鬼が取った行動は、力を溜める素振りをブラフに使って「この場からの離脱を試みる」という、青年がついさっき言及し危惧したものだった。
 尤も、そんな憑鬼の行動なんてものは、力場を用いてその攻撃を封じて見せた青年に取って、あくまで「想定の範囲内」に収まるものだったようだ。慌てる様子一つ見せることなく、すぐさま自身の手元で収束し鳥の形状を取った白色の帯を再び天高く飛翔させる。すると、鳥の形状を取った白色の帯は、児童公園の中央上空へと高速で進み、その場で音も無く四散した。
 先程よりもより幅の細い無数の白色の帯へと分割したそれは、なだらかな放物線を描きながら児童公園全体を覆うように落下する。すると、白色の帯は地面の落下に合わせて、帯と帯との間に生じる隙間に向こう側が透けて見える程度の薄い膜のようなものを張り巡らせる。
 それが憑鬼を児童公園外へと脱出させない為の措置であることは言うまでもない。
 薄い膜にしろ白い帯にしろ、見る見る内に透過して行ってあっという間に初めからそこには何もなかったかのように雲散霧消したのだが、児童公園の内外を仕切る障壁としては存続してるようだった。
 まさに、憑鬼が児童公園外へと進み出ようとした矢先のこと。
 その境に仕切りを作って、憑鬼の前進を押し止めたのだ。
 青年の認識がどうだったかはともかくとして、鷹尚達の認識で言うならばそれはまさに間一髪だった。
 後もう一テンポ遅ければ、児童公園外へと進み出ようとする憑鬼に対して障壁の展開は間に合わなかった。少なくとも、鷹尚はそう認識していて、肝を冷やした格好でもあった。
 その一方で、青年の表情に肝を冷やしや様子はなく、また憑鬼を押し留めたことに対するその口取りも軽い。
「……こんな風に、剥がした瞬間、離脱を試みるようなタイプも憑鬼には多いよ。用心しておくことだ。取り敢えず、離脱防止の手筈は整えたけど、まぁ、これはただの応急処置に過ぎない。一時、足止めをするぐらいならこれでも十分な筈だけど、あの憑鬼が本気でここから離脱しようと足掻くなら長くは持たない」
 飄々とした様子でそう語って見せる青年を尻目に、憑鬼は三角公園から離脱するという行動を封じられて半ばパニックに近い状態に陥っている様子だった。形振り構わず三角公園外への脱出を試みて障壁へと打撃を加えるようになる。
 慌てふためいているのか、それとも興奮して我を失っているのか。はたまた、混乱の極みに達しているのか。傍目にはそのどれであってもおかしくない。そして、ただ一つ言えることは、恐らく既に意思疎通が可能な状態にはないだろうということだ。
 やもすると、高橋から引き剥がしてしまったことで、そもそも意思疎通が不可能な状態に追いやってしまった可能性もあるが、それを言ってももう詮無いことだった。
 青年が三角公園に張り巡らせた結界は、本人の弁によれば「長くは持たない」な代物でしかない。
 鷹尚は、ここに来て再び決断を迫られる。それも、さっきのものより状況は甚だしく悪い。
 それでも……と、鷹尚は青年に強く訴え出ようと試みる。青年の協力があれば、憑鬼を弱らせ細環封柱に封じる手立てがまだ残っていると考えたからだ。
 尤も、そこに対する青年の表情は険しく、また鷹尚の訴えはそれが実際の言葉として口を突いて出ることはなかった。青年が先手を打って、鷹尚の訴えを未然に退けたからだ。
「申し訳ないが、多分、憑鬼を捕縛している時間はないと思う。さっきも言ったように僕が張った結界は一時凌ぎに過ぎない。相手が相手なら、簡単に破壊されてしまっても何もおかしくはない」
 まだ青年の物腰は柔らかいながら、それが憑鬼捕縛に対する実質的な拒否の姿勢であったことが理解できない程、鷹尚も間抜けではなかった。
 臨機応変さに欠けただとか、事前準備が決定的に不足していたとか、駄目だった時のバックアップの立案ができていないことが問題だったとか言い出したら切りがないものの、やはりここで憑鬼捕縛を結構できない事態を招いた最大の要因は、偏に「経験値不足」だったろう。
 尤も、当初の目的が果たせそうにないというそんな悪手の状況に差し掛かりながら、莉央にしろ、そしてトラキチにしろそこに焦りの色はなかった。焦りの代わりに二人が表情に灯すもの。それを敢えて言葉にするのならば「諦観」といえば適当だっろうか。
 そうして、憑鬼捕縛に対して明確なNGを突きつけられておきながら、未だ「ではここからどうするか?」に思考を切り替えることのできない鷹尚の代わりと言わんばかりに、それまで青年とのやりとりを注視していたトラキチがすっと前へと進み出た。
 憑鬼の捕縛が現実的ではないことを理解したトラキチが、青年へと向けるものは確認である。それは「憑鬼に対して取り得る手段が、既に一つしか残されていないこと」を敢えて明確化する工程でもあった。
「あの、憑鬼とやらはそんなにやばい奴なのか? 今のところ、あれがお前の張り巡らせた離脱防止の仕切りを破壊できそうな気配なんてものは全くないぜ?」
 トラキチから向いた疑問に、青年は苦笑しながらこう答える。
「憑鬼のレベルで言うと、うーん……、どうだろう? どちらかというと、憑鬼の捕縛が困難な理由は、僕が張った結界の出来がちゃちいからっていう方が大きいかな。そもそも、憑鬼が暴れなくともそんなに長くは維持できない代物なんだ、あれ。咄嗟に広範囲へ仕切りを作るという形を取って展開したはいいものの、実を言うとあの形態は本来の役割とは異なるもので次も同じように仕上がってくれるかは半々ってところだ」
 そこで一端言葉を区切ると、青年は憑鬼に対する自身の立ち位置についてこう説明する。
「僕は「倒す」方の鎮め方が専門だから、結界とかは正直門外漢なんだよ。そりゃあ、見ての通り一応一通りそれらしいことは出来るけれど、そっちの専門家には遠く及ばない。……というか、足元にも及ばないだろうね。張り合おうなんて躍起になってみたところで、鼻で笑われるんじゃないかな?」
 青年の弁を信じるなら、もしこの場に結界関連の専門家が居たならば、まだ別の結果を期待できたとも受け捉えられるものの、今それを言っても詮無いことだった。何より、もしこの場にこの青年が居なかったなら、鷹尚達はこの三角公園から為す術なく憑鬼を取り逃していたことだろう。
 ともあれ「ここで倒す以外の進め方は難しい」と青年から暗に述べれば、憑鬼捕縛に拘る鷹尚はさらに窮する形へと追い込まれる。
 それでもまだ決断できずに押し黙り続けるからか、青年は再びやや事務的で冷淡な口調を取ってこう鷹尚に決断を迫る形を取る。やもすると、そろそろ三角公園に張り巡らせた仕切りの維持限界が近付いていて、青年としても痺れを切らすようなところまで来ていたのかも知れない。
「酷なことを言うようだけど、彼の為にもここですぐに始末してしまう方が良い。彼が見境なく人を襲い、無関係の人達に被害が生じる事態だけは避けなければいけない。それは輪廻転生を正しく回すことを至上命題とする冥吏に取って、最も忌むべき事態だからね」
 はっきりと決断を迫られた鷹尚は、困惑を隠さなかった。すると、その目は縋る様にトラキチへと力なく向けられる。
 対するトラキチはといえば、憑鬼の様子をまじまじと窺った後、ただ黙って首を左右に振るだけだった。説得の余地などなく「ここで始末すべき」という青年の判断をトラキチも肯定した格好である。
 鷹尚が憑鬼の抹殺ではなく捕縛に拘るのは、鳴橋に「要望されたから」というだけではない。もちろん、鳴橋の意見に感化されたからというのも多分にある。でも、それだけではなかった。
 鬼郷から失踪した憑鬼を問答無用で抹殺してしまったら「なぜ?」を解明できないからだ。そこを解明できなければ、同様の事件が今後も散発する可能性が残る。根本的な解決を目指すというのであれば「なぜ、そうしたのか?」の解明は必達条件だ。
 そして、鷹尚自身もその「なぜ?」を知りたいと強く願っていた。
 しかしながら、高橋宗治の憑鬼に対して、それはどうにも叶わないらしい。
 もし、ここで頭を左右に振って駄々を捏ねたならば、きっとこの青年が有無を言わさず憑鬼を処分してしまうのだろう。それはきっとこの青年に取って容易いことであり、そして「倒す」ことを専門とするのならば躊躇う理由すらないのだろう。
 この憑鬼は、以室商会が対処を請け負った相手だ。だから、例え鷹尚が望む結末ではなかったとしても、そんな形で結末を迎えてしまうことは好ましくない。何よりも、そんな終わらせ方をしてはいけない。無責任極まりないし、肉体を貸し出した高橋宗治に対しても礼を失する。
 苦虫を噛み潰したような顔で、けれど鷹尚は腹を括らざるを得なかった。腹の底からどうにか絞り出してきたような酷く枯れた声で、鷹尚は青年の意図を汲み取る。
「解りました」
 尤も、そう腹を括って見せたはいいものの、いざ眼前の憑鬼を倒すという事態に至って鷹尚は物怖じする。なにせその目に飛び込んできたものは、縦にも横にも自身の倍はあろうかという巨躯で異形の怪物なのだ。
 改めて、憑鬼をマジマジと直視して、鷹尚は相手がまとう圧倒的な威圧感を前に怯む。しかも、憑鬼が鷹尚をその目に捉えては居ない状況でさえ、その威圧感なのだ。
 今、鷹尚の目が捉える憑鬼の姿は、躍起になって三角公園から離脱しようと狂ったように結界の破壊を試みるものに過ぎない。
「でも、どうやってこんなのを、倒すって言うんだ……?」
「倒すのは、容易い。寧ろ、彼が息絶えないよう手加減することの方が難しいかも知れない」
 口を吐いて出た弱々しい言葉は、しかしすぐに青年の力強い言葉によって否定された。そうして、その方策が再び青年の手によって具体的に提示されるよりも早く、鷹尚は気付くのだった。
 恐る恐る上着のポケットへと手を伸ばすと、そこにしっかと存在を確認するものはジッポライターである。
 それでも、まだ鷹尚はどこか半信半疑だった。いくら鬼郷の世界の住人が現の世界の炎を弱点にするとは言え、自分の体格を大きく凌駕するような巨躯で異形の怪物を、本当にジッポライター程度の道具で起こせる「火」によって倒すことが可能なのか。
 実のところ、青年も莉央も、鷹尚がもっと巨大で火勢の強い炎を起こすことが可能な道具を持ち合わせていると勘違いしていたりはしないだろうか?
 奇しくも、青年はそんな鷹尚の不安を敏感に感じ取ったのだろう。
「冥吏もだけど、影の世界の住人は現の世界の「炎」にとても弱い。いや、とてもとても弱い。それこそ「弱い」なんて単純な言葉で表現してしまって良いレベルではないかな。現の世界の炎こそが何より最大の弱点だ。憑依していた高橋宗治から剥がされてしまった今、憑鬼はその傍らでライターの火を灯されるだけで木屑が炭と化すように消滅するだろう」
 青年は、はっきりとこの巨躯で異形の怪物を「ライターの火」でどうにかできると口にした。
 すると青年は、そっと鷹尚の背を押して、自身はするりとその場から離れた。この憑鬼に引導を渡すのは「自分ではない」と言わんばかりにだ。もちろん、それは鷹尚が「自身の手で決着を付ける」ことを決断したからだったろう。
 そうして、二の足を踏む間も与えず、莉央が鷹尚へと言葉を向ける。
「あたしが憑鬼を引き付けるから、鷹尚クンがトドメを」
 そういうが早いか、莉央は鷹尚の返事を待たずに行動を起こしていた。寧ろ、返事を待たないことで、鷹尚にああだこうだと考えるだけの時間を与えなかった嫌いさえあった。
 莉央が唇に手の甲を充てボソボソと呟き出すと、狂ったように結界を攻撃していた憑鬼は一転、半ば怯えるかのように慌てふためき出した。そうして、辺りをキョロキョロと見渡して自身を怯えさせるに至る何かをした当の人物が誰であるかを理解したようだ。横長の瞳孔がギョロリと動き、すぐさまその狙いを莉央へと定めた。既に鷹尚やトラキチ、青年のことなど眼中にない様子で、狂ったように莉央を憎しみの籠った目付きで睨み付ける。
「オオオアアアアアアァァァァ!!!!」
 咆哮一閃。
 憑鬼は莉央に向けて、その巨躯を駆り一気に距離を縮めようとする。
 それに対峙する莉央は……といえば、動じる様子一つ見せることなく唇に手の甲を充てる体勢で再びボソボソと何かを呟く。
 そこを境に憑鬼の毛が逆立って、怒りの様相から一転、何かに怯えるかのように一瞬縮こまるのが印象的だった。恐らく、憑鬼の感情を的確に刺激する術を、莉央は心得ているのだろう。
 尤も、そうやって怯えた様子で莉央への接近を躊躇ったのも一瞬のこと。憑鬼はすぐに窮鼠とでも言わんばかりに敵愾心と焦燥を剥き出しにして、莉央へと飛び掛かった。
 もう既に、莉央のことしか眼中にない憑鬼など然したる脅威ではなかったかも知れない。鷹尚は誘い出されて猛進してくる憑鬼へと向けて、ジッポライターに火を灯し高々とそれを掲げ持つ。
 すると、次の瞬間、薄紙に火を灯したかの如く、憑鬼はあっという間に全身炎に包まれてしまっていた。猛々しく炎が巻き起こったのも、時間にすればものの数秒だったろう。後には、塵一つ残すことはなかった。
 そうだ。あれだけの巨躯を伴って、何なら圧倒的な威圧感すら感じさせた憑鬼という異形の痕跡はそこに何一つ残ってはいなかった。
 生れて始めて、自身の体格を大きく凌駕する異形の怪物をその手で退けた鷹尚だったが、そこに達成感や充足感のようなものを感じている様子はない。代わりに鷹尚を襲ったものは安堵と、そこに混じる確かな虚無感だ。余りにも呆気なく憑鬼を抹消してしまえたことで、猶更自分の不甲斐無さが浮き彫りになった形だったかも知れない。
 こんな結末を望んでいたわけではなかったからだ。
 例え、どんな理由で現の世界に逃げてきたのだとしても、鷹尚は鳴橋に要望されたように憑鬼を鬼郷に送り返したいと思っていたのだから。
 全ては、憑鬼が持つ特性を事前に把握していなかった自分の勉強不足と、それに加えて捕縛の為の準備を徹底的に怠ったことに帰結するといっていいのだろう。
 なぜ、現の世界に逃れた鬼郷の住人が悉く抹消されるという末路を辿ったのか。
 実際問題として、鷹尚自身、やはり「どこか変だ」とは思っていたのだ。
 それは捕まえたり、説得し連れ戻すよりも、憑依者から剥がして抹消してしまうのが一番手っ取り早くて楽だからなのだろう。白黒篝の言葉を信じるならば、憑鬼の管理監督を為す立場のものは管理責任を追及されるぐらいならば事件の発生を隠蔽したいと考えていた節がある。そうであるならば、最も楽で手間の掛からない方法で処理されるのは、至極当然だとも思える。
 ともあれ、憑鬼捕縛に対して望まぬ結末を迎えたことで鷹尚は力なく項垂れた。
 現実を突き付けられて打ちのめされたといわんばかりに脱力する鷹尚に向けて、青年からは労いの言葉が向く。
「お疲れさん、佐治鷹尚君」
「……」
 それに対して「ありがとうございます」と返すのもおかしな気がしてただ黙って青年の方へと向き直った鷹尚だったが、不意に強い違和感を覚える。そうして、その違和感が何なのかを理解してしまえば、青年を見遣るその視線に混乱と警戒感の色を混ぜ合わせざるを得なかった。
 青年が「鷹尚」と下の名前を口にできた理由はまだ分かる。先程、莉央が「鷹尚クン」と呼んで発破を掛けている。しかしながら、青年が鷹尚の名字である「佐治」を知っているのはおかしい。
 鷹尚はまだ名乗ってすらいないし、この場に青年が姿を現してからこっち「佐治」という名字を知ることのできる機会なんてなかった筈だ。
 それでも、俄に警戒感の灯った瞳でまじまじと注視されても、青年が怯む様子は微塵もなかった。さも「ここが頃合い」とでも言わんばかりに、ズボンのポケットから金属製の名刺入れを取り出す。
「あ、申し遅れました。僕はこういう者です」
 体格の割に物腰の低い青年は口元に人当たりの良い笑みを灯して見せると、ずいっと名刺を差し出して見せる。
 半ば強引に受け取らせられた名刺には、谷許紘匡(やもとひろくに)との名前が記載されていた。肩書には「株式会社ポイントレゾリューションズ 営業兼エンジニア」とある。名刺の端には「何でも買います、売ります、貸します。相談・見積無料、お気軽に連絡下さい!」と書かれた、恐らく会社を表す謳い文句みたいなものも載せられていた。
 一通り、電話番号やらメールアドレスといったものまでもが記載された名刺を受け取ると、鷹尚はどう反応して良いものか判断に困ったらしい。
 当惑する鷹尚を前にして、紘匡は企業の営業職の肩書きを持つものらしく物腰柔らかくにかっと笑って見せる。すると、鷹尚に対し以室商会と同じ立場にあるものだと説明する。
「君達以室商会が依頼を受ける以前に発生した憑鬼失踪事件の処理を担当しているものです、と言えば通りがいいのかな?」
 その言葉からは、数多の憑鬼を相手にしてきた自信のようなものさえ滲んだ。
 あれだけ攻撃的な挙動を見せていた憑鬼が、一転して離脱に転じて見せてなお慌てる様子一つ見せずに冷静に対処して見せたのは、一言でいえば「手慣れている」からなのだろう。
 なぜ「この場に居合わせているのか?」といった類いの疑問こそあれど、その説明一つで鷹尚が紘匡に対して向ける疑義の視線は大きく勢いを失った。冥吏の関係者で、さらに憑鬼に関わっているものだと言うのならば、以室商会のことを知っていても何もおかしくない。
 莉央が属する戸永古書店の魔女の親玉「エルフィール」だってこう言った。「彩座界隈で冥吏と取引をしているものであれば、大なり小なり必ず今回の以室商会の件を小耳に挟んでいる筈だ」と。
 同時に、鷹尚は鳴橋の言葉を思い出す。
 今回同様に現の世界へと失踪した憑鬼は、悉く「抹消」されたと鳴橋は言っていた。そして、紘匡自身も「倒す方の鎮め方が専門」と宣っている。即ち、人当たりの良い見た目とは裏腹にこの「谷許紘匡」という青年はかなりの武闘派なのかも知れない。
 ともあれ、内実が武闘派であろうとなかろうと、今それは関係ない。紘匡が持つ技や能力によって、危ないところを助けて貰ったことは事実なのだ。
「谷許さん、ですか? 助けていただいて、ありがとうございました」
 鷹尚から感謝の言葉を向けられて、紘匡はむず痒そうに頬を掻く。
「本当は君達が憑鬼の対処をし終えたところで、頃合いを見計らってソロソロと出て来るつもりだったんだけどね」
 その口振りは「手助けするつもりでここに来たわけではない」ことを示唆していたが、そこで成行きながらも助け舟を出す辺りがこの谷許紘匡の人間性を物語っていたのかも知れない。
 ともあれ、手助けするつもりでここに来たわけではなく、また通りすがりでたまたま居合わせたというわけでもないのならば、紘匡には「以室商会」ないし「戸永古書店の魔女」に何らかの用事があることを意味する。
 鷹尚はすうと息を呑むと、それを単刀直入に紘匡は紘匡へとぶつける。
「助けて貰っておいてこんな言葉を向けるのもどうかと思いますが、……俺達に何の用ですか?」
 鷹尚の口調はやや強張っていた。
 そこには紘匡が「憑鬼を抹消する」やり方で、事件を解決している相手だからという認識が色濃く滲み出る。
 言ってしまえば、それは先程のものよりもずっと強い「警戒」だった。
 一方で、紘匡はそんなカチカチに緊張しているのが手に取るように解る鷹尚の姿勢を前にしてカラカラと笑った。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。僕に以室商会の邪魔する意思はないし、以室商会から冥吏の依頼を掠め取ろうなんてつもりもないよ。そもそも、以室商会に喧嘩を吹っ掛けようなんて命知らずな真似をするものがこの櫨馬界隈にどれだけ居るのかって話だ。君達から彩座以北・霞咲以西辺りに踏み込こんでいけばこれ幸いと言わないばかりに大手を振って反発してくる勢力も要るだろうけれど、少なくともこの彩座界隈で起こる事件に置いて以室商会相手に立ち回ってやろうなんて連中は数えるほども居ないだろう。まして、それが以室商会の請け負っている事象に対してならば、……尚更だ」
 どこか戯けたような素振りを交えながらではあったものの、紘匡のその言葉からはヒシヒシと鷹尚の警戒感を解きほぐさんとする意思が見え隠れした。もちろん、その背景にあるものは、現当主・佐治継鷹の治める「以室商会の威光」に対する恐れだ。
 ともあれ、紘匡が語って見せた内容は、鷹尚に取って非常に興味を引かれるものだった。戸永古書店の魔女に対する出禁処置でもそうだったように、鷹尚は外から見た時の「以室商会の威光」とかいった類のものは全く知らないからだ。
 しかしながら、鷹尚がそこについて何かしらの反応する間を与えることなく、紘匡はこの場に姿を現した理由について説明を続ける。
「僕は以室商会と情報共有がしたくて君達の前に姿を表したんだ、鷹尚君」
 もちろん、いきなり情報共有なんて言われたところで、鷹尚にピンとくることはない。紘匡もそれは承知の上らしく「何の」情報共有がしたいのかを、続ける言葉で深掘りしていく。
「同様の事件の処理を担当していると言ったよね? 実は、今まさにその同様の案件の対処をしている最中なんだけど、……何を隠そう、この高橋宗治も僕が追う憑依先候補の一人だったんだよ。状況を鑑みるに、君達以室商会の追う憑鬼が憑依していたと見て間違いなさそうだけど」
 異なる憑鬼の憑依先候補者として、鷹尚と紘匡は同じ高橋宗治という人間を追っていた。
 それが意味するところをすぐに理解できなかった鷹尚は、小難しい顔付きをして頭頂部に疑問符を浮かべた。そんな具合に腕組をして思案顔を覗かせる鷹尚に対して、紘匡は苦笑しながらこんな提案を口にする。
「憑依先候補者リストの情報の共有ができれば……と思うんだ」
 憑依先候補者リストの情報という言葉が紘匡に口を吐いて出たことで、鷹尚の態度は再び警戒混じりの険しいものになった。あれは「取扱注意」の代物であり、その提案は条件反射的に警戒感を誘発するほど受け入れ難い内容だったからだ。
 そんな鷹尚の反応を前にして、紘匡は「これはまずいぞ」とでも思ったのだろう。すぐに訂正を口にする。
「あぁ、いや、いきなり以室商会が持つ憑依先候補者リストの情報を提供して欲しいなんてことを求めるつもりはないからそこは安心してくれていいよ。僕が追っている憑依先候補者の名前が、以室商会の持つリストの中に乗っているかどうか確認させて欲しいんだ。僕が数名の名前を読み上げていくから、それらが以室商会の持つリストに記載のある名前かどうかを答えてくれるだけ良い」
 鷹尚はその要求がどれだけの「困難度合いを要するのか?」をすぐに勘案できなかったようだ。まして、そうすることで得られるメリデメもイマイチピンと来ていない様子だった。
 すると、紘匡はズボンのポケットからヨレヨレになった小型の手帳を取り出すと、とあるページを開いてそれを鷹尚達に提示して見せる。
「僕は自分でリサーチをした結果を元に憑依先候補者を洗い出しているんだけれど、恥ずかしながらこれもさっき展開して見せた結界みたいに僕の専門ではなくてね。正直、あまり精度の良いものではないんだ。そもそも、鬼郷の憑鬼に取り憑かれた人間が取り得る可能性が高い「ある種の特徴的な行動」を定点観測に置いて見せた人物をリストアップしたもので、ここからさらに絞り込んでいく取っ掛かりのリサーチ結果だからね。精度なんて推して知るべしって感じだよ」
 リサーチ結果が書かれたページには軽く20人以上もの人の名前が並んでいて、既に二重に横線が引かれて対象から外されたものも散見された。その羅列をさらっと眺め見ていくと、そこには確かに「高橋宗治」の名前もあった。
 鷹尚達の視線が手帳に向いていることを承知の上で、紘匡は手帳のページをぺろりと捲ってみせる。すると、そこにはさらに名前の羅列が続く有様でもあった。
 改めてその手帳に目を向ける紘匡は、心底げんなりした表情で苦笑する。
「逆に、君達「以室商会」が冥吏から提供されたリストの精度を僕は非常に高いと踏んでいる。それを踏まえて、そのリストの中に僕が目星を付けている人物が乗っていれば、高い確度で当たりが出ると思ってる。そして、恐らくその「当たり」は、君達「以室商会」に依頼された憑鬼だろう」
 以室商会が鳴橋から提供されたリストに記載された人数と比較すれば、その「確度」が比較にならないレベルであるのは確かだろう。まして、紘匡が語ったリサーチ方法という観点で見てもそうだ。
 鳴橋のリストは鬼郷と現の世界を実際に行き来して、さらに憑鬼と接触した可能性の高い人物をピックアップしているのだ。
 そうして、紘匡は情報を共有することに対するメリデメ(実際には「お互いメリットしかない」と言った形だが)へと言及する。
「情報共有をすることで、以室商会は憑依先候補者リストの中で当たりの可能性が高い人物に目処を付けることができるし、僕は以室商会が追うべき憑鬼の憑依先と思しき相手を省くことができて余計な労力を費やさなくて済む。せっかく苦労して探り当てた憑依先候補者が、実は以室商会の負う対象だったという骨折り損の草臥儲も未然に防げるしね。win−winのやりとりだと思ったわけさ」
 紘匡のその提案を全て真に受けるならば、それは鷹尚に取って断る理由のないものだった。もちろん、紘匡が信用に足る人物であるという大前提が崩れなければ……という但し書きが付きはするが。
 まだ切羽詰まる状況には陥っていないとはいえ、時間が限られる中で当たりの確度が高い人物を絞ることができるというのは非常に魅力的だった。捕縛を優先するか、はたまた抹消を優先するかのスタンスの差はあれど、時間が限られているのは紘匡も同様なのだから、協力できるところは協力していこうというのも至極真っ当な理由である。
 それなのにも関わらず、鷹尚がその提案に2つ返事をしなかったのは、やはり紘匡を信用してしまって良いか躊躇ったからだろう。
 首を縦に振らない鷹尚を前にして、紘匡は至って大人の対応を見せる。
「もしも僕が本当に冥吏から憑鬼の対処を依頼された人物なのかどうかを疑うのなら、君達に依頼をした冥吏を通して確認して貰ってもいい。僕の素性は名刺を渡した通り。どうだろう?」
 紘匡の提案を前にして、鷹尚は莉央とトラキチの顔を交互に見遣る。莉央やトラキチに判断を仰いだつもりはなかったのだろうが、結果的にその行為は鷹尚のみの意向でその可否を決定してよいかを問う形となった。
 一方で、可否を問われた側の莉央は当惑した顔だった。ただの協力者に過ぎない自分は、意見する立場にないという思いだったかも知れない。もちろん、そもそも候補者リスト云々の話に関わっていないのだから、その意思表示は当然の態度だったろう。
 では、トラキチは……といえば、非常に軽い受け答えでその提案を受けても良いと意思表示する。
「鷹尚の好きにすればいいと思うが、話を聞いていた限りでは俺は悪くない提案だと思うぜ。こちらのリストを開示しろなんて話じゃねぇんだ」
 トラキチからのお墨付きを貰って、鷹尚はすぅと一つ深く息を呑む。お墨付きなんていったところで、この提案を受けた結果として何か問題が生じた場合、トラキチを責めるなんて真似はできないのだ。あくまで「鷹尚の好きにすればいい」といったトラキチの言葉通り、ここから先はあくまで鷹尚自身の責任を持って「選択」しなければならない。
 鷹尚は改めて紘匡を頭の上から爪先まで、マジマジと眺め見る。
 対する紘匡はそれを厭う様子一つ見せずに受け入れたばかりか、見られていることをしっかりと意識してどこかの漫画にでも出てくるようならしくもない格好付けたポーズまで疲労して見せた。自身を信用できるかどうかを、その値踏みを通して判断するというのなら、ジロジロ眺め見られることも甘んじて受け入れるし、何なら見られるからには高い評価を貰えるようそれらしく振る舞って見せようという意思がそこには見え隠れした。
 ともあれ、鷹尚は「谷許紘匡」という人物の外見とそんな振る舞いを通して、ここ三角公園での立ち居振る舞いを振り返る。
 憑鬼が繰り出す攻撃をあっさりと捌いて見せた手腕。
 応急処置という形で結界を張り、憑鬼を児童公園外に逃さないよう場を整えて見せたこと。
 そして、不安を隠しきれず躊躇う鷹尚に憑鬼をどうやって抹消するか助言した点などを鑑みるに、紘匡が出鱈目を喋っている可能性は限りなく低いと思われた。
 ただ、気に掛かることが全くないかと言えば、そんなことはない。それは紘匡に疑わしい点があるということではなくて、どちらかと言えば紘匡が関わり合いを持つ背後の冥吏だったり……だ。
 鳴橋が生きたまま連れ戻したいと考えている鬼郷から逃げた憑鬼が、仮に紘匡の背後にいる冥吏のメンツに関わりのある存在だったら……だとか、考え始めると思うところは無数にある。
 尤も、現時点で鷹尚にその手の不穏な匂いを察する洞察力だとかいったものがあるわけもない。だから、そこから先の選択は、あくまで鷹尚の判断は直観に任せたものとなる。
「解りました。その提案、乗りましょう」
 表面的な提案だけで判断するのなら、トラキチが言うように「以室商会サイドの憑依先候補者リストに誰が名を連ねているかを開示しなくて良い」というのだから、鷹尚に取って断る理由などない。
 十中八九、間違いないが紘匡についての確認は後追いで良いだろう。鷹尚はそう考えたのだった。
 そこから三角公園で立ち話的に行われた情報共有は、実にあっさりと終わった。
 紘匡との情報共有に置いて、憑依先候補者リストに名前のある人物の照会はすぐに終わった。三角公園に横たわったまま意識が回復しない高橋宗治を園内にあるベンチに座らせたりと、後片付け的な対応をしながらではあったがリサーチ結果を次々へと読み上げていく紘匡とは異なり、たかだか9人程度の名前を聞き間違えるわけもない。
 結果として、紘匡が読み上げたリサーチ結果と鳴橋から提供された憑依先候補者リストとで重複していた名前は、それぞれ新木幹彦、田上謙太、明石寛人の3名が挙がった。
 そう、既に高橋宗治が当たりだったにも関わらず……である。
 もし、この重複者3名全てに憑鬼が憑依しているのならば、以室商会が追う残り2人に、紘匡の追う憑鬼が紛れているということになる。もちろん、さらに言うならば、重複していたからと言ってこの3人全てが当たりとも限らない。
 そして、その結果は紘匡に取っても半ば想定外のものだったようだ。紘匡はポリポリと後頭部を掻くと「これは面倒なことになったぞ」といった雰囲気を微塵も隠さない。
 そこに至って、鷹尚にもふと気に掛かることが生じる。
 仮に、重複した3人が全て「当たり」だった場合の話だ。いや、高橋宗治だって重複していたのだから、それに該当するのは四人だという認識の方が正しい。
 鷹尚はどう切り出したらいいものかを迷いながら、紘匡にその懸念をぶつける。
「正直な話、以室商会に依頼された以外にも、彩座界隈に鬼郷から失踪した憑鬼がいる可能性を今初めて知りました。なので、聞いておきたいんですけど、谷許さんは自分の追う憑鬼かどうかってどうやって判断しているんですか?」
「こういってしまうと誤解を招きそうだけど、それを気にしたことはないよ。……というよりも、こうやって同じエリアに逃れたと思しき憑鬼を、複数の追跡者が対処に当たるというのがそもそも前例にない。いや、そう言い切ってしまえるかというと過去に前例がないかどうかを確かめたことはないけれど、僕が知り得る限りでは把握していない事態だ」
 紘匡の弁を聞き鷹尚が思い起こすことは、鳴橋が半ば強引に憑鬼追跡の依頼を「以室商会に請け負わせる」で押し込んだだろうという事実である。
 恐らく、鳴橋の介入がなかったならば、既に彩座界隈で憑鬼追跡の依頼を受諾していたこの紘匡へと話が行ったのかも知れない……と鷹尚は申し訳なく思った。
 例え、憑鬼に対する紘匡のスタンスが「倒して鎮める」ことを専門としているのだとしても……だ。
 ともあれ、今重要なことはそれではない。
 鳴橋が依頼を押し込んだだろうことで、今まさに生じている問題を整理し明確化する必要がある。
「もしそうだとするならば、リストに記載のある人物に憑依した憑鬼が本当に自分達が対処すべき対象であるかどうかを確認する方法が必要だと言うことですよね、……これ?」
 そこまで口を切ったところで、鷹尚は高橋から剥がれた憑鬼が灰燼と化した辺りへと目を向ける。高橋に憑依していた憑鬼が、以室商会に依頼された対象だったかどうか、今更ながら確信が持てないからだ。
 もしも、高橋に憑依していた憑鬼が以室商会が対象とすべきものでなかったのだとしたら?
 鷹尚は紘匡に向けて、やや震える声でこう問いかける。
「高橋さんに憑依していた憑鬼は、俺達に「合言葉」を問いました? 何か心当たりみたいなものがありますか?」
「合言葉? いや、思い当たる節はないな」
 その紘匡からの返答に、内心ほっと胸を撫で下ろしている鷹尚がいた。
 もちろん、その回答は高橋宗治に憑依していた憑鬼が以室商会の請け負った依頼の対象であったことの証明にはならない。それでも、紘匡の追う対象だったと確定しなかっただけで鷹尚の心はいくらか落ち着きを取り戻した形だった。
 そうして、それを踏まえて鷹尚はさらに紘匡が追う憑鬼について問う。
「それと、不都合がなければ教えて下さい。谷許さんが追う憑鬼っていうのは、後残り何体居るんですか?」
「僕が追う憑鬼かい? 僕が追っている憑鬼は、後2体程居るね」
 紘匡の追う対象となる憑鬼の残数を確認ことで、鷹尚は重複した3人で全てが片付かない可能性についても理解する。
 情報共有が無意味だったなどというつもりは毛頭無いが、紘匡との交流は結果として鷹尚達が置かれた状況に対する認識をややこしく複雑なものにした。
 もちろん、それは紘匡に取っても同じ話だったのだろう。
 紘匡は情報を共有した結果として「こうだ」とはっきりした形で方向性を示せない旨を、包み隠さことなく素直に口にする。
「取り敢えず、情報共有をした結果として、3人もの重複があったことに対してどう対応するかは僕の方でもすぐに結論を出せない。今後の対応については、色々と考えてみた上で鷹尚君に連絡させて貰うことにするよ。情報共有の結果が全て当たりなら、以室商会の追う候補者リストの中には僕の追う憑鬼が紛れていることになるからね」
 紘匡の追う憑鬼が、鳴橋から提供された候補者リストに含まれている可能性がある。しかも、仮に紘匡の追う2体が重複に含まれていて、高橋宗治すら鷹尚に依頼された対象の憑鬼でないならば、まだまだ先の長い話になりかねない。
 そんなことに考えを巡らせていたら、不意に紘匡からは連絡手段についての確認が向く。
「連絡先は、以室商会本店宛てで鷹尚君を呼び出して貰う感じで良かったかな?」
 鳴橋からの依頼を受けてほぼ独断(裁量権は与えられているが)で行動している鷹尚の事情を知らない紘匡に取って、連絡先は「以室商会本店宛てだろう」という認識も当然だったろう。
 しかしながら、当然、鷹尚に取ってそれは避けなければならない事柄である。ほぼシロコが店番をしているとはいえ、時間帯によっては継鷹が出ることもあるわけだ。
 鷹尚は慌てた様子で、紘匡のその認識を訂正する。
「それはちょっと! その、……困るので、俺の携帯番号に直接連絡を貰ってもいいですか? チャットアプリにメッセージを残して貰う形でもいいですけど……」
 結局、鷹尚は自身の携帯番号とチャットアプリの固有ユーザーIDを紘匡へと教える形でこの件に片を付けた形だ。
 ともあれ、情報共有に連絡先の交換を経て、紘匡サイドが今夜の内にやっておかねばならない案件は片付いた様子だった。右腕に付けたメカニカルデザインの腕時計に目を落とした後、やや申し訳無さそうな態度をそこに滲ませつつ早々にこの場を後にする旨を口にする。
「それでは、今夜は失礼させて貰うよ。以室商会の人間相手に僕がこんなことを言うのはおかしいけれど、気をつけて帰るんだよ」
 そういうが早いか、紘匡は鷹尚達へと背を向けると三角公園に出入口へと足を向けた。
 本音を言えば、憑鬼について精通する紘匡にもっと教えを請いたいことはあったのだが、だからといって引き止めるというわけにも行かない。情報共有結果として重複が3人に上ったことで「今後の対応について検討する」と述べたように、それが想定外の事態だというのなら紘匡にも色々とやらなければならないことができた筈なのだ。
 重複の3人全てが当たりだった場合、少なくとも誰に憑依した憑鬼が自身の追跡対象なのかを見分ける術は、紘匡に取ってもなくてはならない筈だ。
 紘匡の背中に向けて鷹尚は声を張る。
「今夜は、ありがとうございました」
 対する紘匡は右手を上げ左右に軽く降って見せる仕草で答えて見せた後、西宿里川住宅地街の薄暗がりへ溶けるように消えた。
 紘匡が三角公園を去ると、鷹尚同様その背を目で追っていたトラキチは視線を高橋へと向ける。そうして、ぽつりと呟く言葉は、ベンチに横たえた後、一向に身動ぎ一つ見せない高橋の身を案じるものだった。
「高橋宗治、目を覚ます様子が全くねぇな。大丈夫なのか、これ?」
 一応、胸元が上下し呼吸をしている様子は確認できるので息絶えているだとかいったヤバい状態にはなさそうなのだが、確かに身動ぎ一つしないというのには不安を覚える。
 ただ、莉央からは憑鬼を剥がされた人間に取ってそれが通常の状態であるという認識が返る。
「憑鬼を無理やり剥がす形になったから、しばらくは、このまま目を覚まさないと思うよ。肉体的にはもちろん他の面でもかなり消耗した筈で、眠っているというよりも気絶している状態に近いからね」
「しばらくってのは、どれぐらいの時間を指したものなんだ?」
 身動ぎ一つしないのが正常なことはわかった。では「高橋はいつまでこの状態なのか?」を問うトラキチにも、莉央は具体的に答える。
「個人差はあるけど、早くても日が変わるくらいまではこのままかな? 長ければこのままの状態で朝を迎える感じで、高橋さんに取っては普段の時よりもちょっと早く起床するような感じになるかも」
 しばらくといった尺度に対する莉央の返答を聞き、トラキチはこれでもかと言う程にげんなりした表情を覗かせた。もし「長ければ」の方に当たった場合、このまま朝まで三角公園に屯していなければならないかも知れないのだから、その反応も尤もだったろう。
 すると、トラキチは何とかそんな事態を回避できないかの模索を始める。
「マジかよ。……とはいえ、このまま放置して行くわけにもいかないし、事情が事情なだけにお巡りさんに身柄を預けるわけにも行かないしな。なんか強引に覚醒させる方法とかはないのか?」
「気付薬でもあれば話は別だけど、生憎その持ち合わせはないかな」
 莉央から「道具がなくてお手上げです」というのを言葉とジェスチャーで示されてしまえば、腕組をして思案顔を取るトラキチの眉間には皺が寄った。
 しばらくその格好のまま唸っていたトラキチだったが、唐突に「妙案を閃いた」といわんばかりに声を張り上げた。
「そうだ! 駒井工業の正門前に横たえていこうぜ。正門前で目覚めれば、万が一、寝坊するようなことがあっても遅刻とかはしねぇだろ!」
 もちろん、その提案を「素晴らしい妙案だ!」などと喝采するものは、さすがにその場には居ない。莉央に至っては「呆れてものが言えない」という体を隠そうともせず、トラキチに率直な感想をぶつけたぐらいだ。
「それ、多分、社会人的には色んな意味でかなり大きなダメージを受ける感じの対応だと思うよ……」
 そこで一旦言葉を句切ると、莉央はトラキチが提示した妙案に対する問題点について次々と捲し立てる。
「というかさ、会社から帰宅した筈の人が閉門後に戻ってきて、勤め先の会社の正門前で朝まで横になっていたって、端から見たら完全にヤバい人でしょ……? 目覚めた後、高橋さんがどんな受け答えするか解んないけど、混乱状態に陥ってまともな受け答えなんかできないかと思うよ。それに、もし憑鬼を無理矢理剥がした影響で「何も覚えていない」なんてパターンだったら、夢遊病とかを疑われて「良い頭の病院を知っているんだ、しっかり検査して貰った方が良い」とか言わちゃったり? もっと酷いと「精神的に参ってるんだろ? しばらく休んだほうが良いな」とか言われちゃい兼ねないよ!」
 駒井工業株式会社の正門前に高橋を横たえたまま放置する妙案の問題点を長々と莉央に指摘される中、それを一通り聞き終えたトラキチが気に掛けたことはそれらの何れに関係するものでもなかった。
 トラキチが驚いたという顔で莉央に尋ね返したのは、その指摘の中で僅かに触れられた「憑依されていた時の記憶」についてのことだ。
「高橋宗治が今夜のことを覚えてない。その可能性もあるのか?」
「その可能性は十分あるよ。憑依されていた期間や深度がどれくらいだったかってことも関わってくるし、記憶に留まる出来事の範囲ってそもそも個人差が大きいでしょう? まぁ、あたしの経験から言わせて貰うと完全にその時のことが抜け落ちるなんてことは希だし、例え思い出せなくなっていてもそれは一時なことで後からふとしたことが切っ掛けになって思い出すなんてことも多いよ」
「……」
 横たわる高橋に視線を向けたまま押し黙るトラキチに、莉央は何を思ったのだろう。
 ともあれ、しおらしく押し黙るトラキチをマジマジと眺め見た後、莉央は問題点だらけの妙案に対する代替案を提示して見せる。
「とは言っても、トラキチクンのいうように朝までここで様子を窺っているっていうわけにも行かないだろうから、ここにこのまま横たえたままでも問題ないようにしてあげよう」
「そんなことができるなら、最初からそう言え!」
 たっぷりと「無駄なやり取りをした」と言わんばかりのげんなり顔のトラキチを相手に、莉央はカラカラと笑った。
「で、何をするっていうんだ?」
「戸永古書店の魔女として高橋さんに特別な祝福をしてあげる。ここにこうして寄り掛かっていても誰の目にも留まり難くなるし、仮に朝までここで眠ることになっても風邪とかを引くことがないように、ね」
 そう言うが早いか、莉央は自身のスクールバックを拾い上げると、その中から肌荒れ防止を謳うパウダークリームのものによく似た容器を取り出す。……というよりも、容器自体の外観は中身を使い切った市販のパウダークリームのもので間違いない。
 いや、それは外観だけの話ではない。カパッと蓋を外して露出した中身を見ても、パッと見は市販のパウダークリームと何ら相違ないように見えた。どこにでも売ってる普通のパウダークリームだと言われれば、信じて疑わないレベルだと言って良い。
 もちろん、それを高橋の両手首に塗り、その上から青い布を巻くからには、ただのパウダークリームではなく魔女が用いる魔道具なのだろうけれど。
「人通りが多いところとかだと、この処置に追加で寝かせる場所に魔法円を描いたりすることもあるんだけど、今回はまぁ、これでオーケーかな」
 先程の「気付薬があれば〜」という下りでそのものズバリが出てくることがなかったのに、今回の「特別な祝福」に際してでは必要となる道具がするりと出て来たことで、トラキチは不意に莉央を訝る様子を覗かせる。
 尤も、トラキチが実際に何らかの反応を見せるよりも早く、莉央は「特別な祝福」の道具を都合良く持ち合わせていた理由についての言及もする。
「戸永古書店の魔女の活動の一つとして、田本寺町商店街を週末に交代制で巡回したりしてるんだよね。まぁ、さすがにいつ何時も毎週毎週ってわけじゃないけど、3連休の時とか、春先の宴会シーズン?とかの時は必ずやってるかな。で、バスターミナル裏の飲み屋街の植込みとか、多目的広場とかで酔い潰れて眠っちゃったサラリーマンとかOLさんとかにこの特別な祝福を掛けて回るんだ」
 戸永古書店の魔女の活動の一つとしてその特別な祝福を施す機会が無数にある。
 莉央はまずその事実に触れた後、不意にどこかやさぐれた様な雰囲気を一瞬まとい、言及の中で同時に不満を吐露するという形を取って道具を持ち歩かざるを得ない事情があるという。
「……なんだけど、当番の魔女で「ぽんぽんペインなんで今日はまじ無理、ぴえん、メンゴ」とかチャットアプリで一方的にメッセージを送ってくるだけで顔を出さない舐め腐ったのが居たりで「急にシフトを代わって!」みたいな話があるから、いつも持ち歩くようにしてるんだよね」
 その事情説明を言い終えた時には、既に莉央がまとう雰囲気から件のやさぐれた感は雲散霧消していたが、そこには確かに積もり積もった憤懣みたいな暗い感情が見え隠れもした。
 ともあれ、そこまで言い終えると莉央は「どうだ」と言わんばかりのドヤ顔でトラキチへとこう問いかける。
「どう、良い魔女でしょう、あたし達?」
 不意に表面化した莉央ダークサイドに気圧された感を残しつつ、それでもトラキチは「それだけでは”良い”魔女には程遠い」と吐き捨てる。
「はッ! お前達の親玉が言って見せたように、テリトリーである田本寺町商店街で厄介事を発生させたくないだけの話だろ? ただテリトリーである田本寺町商店街での戸永古書店の地盤固めのための打算塗れの行為にしか見えねぇよ」
「まー、それはそうかもねー。でも、それで確かに救われる人がいるなら良いことじゃない?」
 そこまでのトラキチと莉央とのやりとりを、どこか心ここにあらずの体でまるで傍観者のように眺めていた鷹尚だったが、不意にポンッと肩を叩かれたことで一気に意識が現実に引き戻される。
 鷹尚の肩に手を置いたのは、莉央だった。
「まぁ、その、なんだ。幸先悪い感じで終わっちゃったけど、元気出していこうよ。鷹尚クン」
 言うまでもないことかも知れないが、パッと見で解るほど、莉央の目に映った鷹尚は高橋宗治の結末を引き摺る格好だったようだ。
 ともあれ、莉央からそんな励ましの言葉も貰った鷹尚は、ただただ力なく笑ったのだった。
 まず一体目「高橋宗治」は、そんな風に不甲斐なくも望まぬ結末を迎え、無数の課題を抱えたままの終幕となった。尤も、まず一体目などと言っておきながら、今となっては「高橋宗治」が本当に冥吏から以室商会へと依頼が為された対象の憑鬼であったかどうかすら不明のままであるのだが。




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