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Seen07 駒井工業株式会社の憑鬼と戸永古書店の魔女(下)


 以室商会本店の表門まで到着すると、鷹尚は一旦ここで待つよう莉央にジェスチャーで要求した。そうして、トラキチに目配せをして頷き合って見せて、まずは二人が先行して以室商会へと入店する腹積もりらしい。
 鷹尚はすぅと息を吸い込み何食わぬ顔を整えると、表門の引戸を開けて店の玄関へと続く短いアプローチを進む。表門同様に引戸となっている店の玄関を開いて以室商会の店舗スペースへと入店すると、中からは間髪入れずにシロコの声が響いた。
「いらっしゃーい、……って鷹尚とトラキチじゃん。なに、どうしたの? お店の玄関から入ってくるなんて珍しいじゃん」
 最初はお客さん向けの愛想の良い猫被り全開モードだったのだが、入店してきた相手が鷹尚・トラキチコンビであると知った後はすぐさまトーンを若干低めの平常モードへと切り替えた。そうはいっても、いつものように店番をしていたシロコが鷹尚・トラキチコンビの入店に対して、特に訝るような様子を見せるというわけでもなかった。
 以室商会本店のお客さん用出入口を利用するのは確かに珍しいことではあるものの、全くないかというとそんなこともないのだ。配達業務に携わっていると、伝票ミスなどで注文品の欠品があったりした場合、急遽店頭で補充したりすることも多々ある。
 ともあれ、そこで鷹尚の口を突いて出た言葉は、まずはいつも決まってやりとりする帰宅の挨拶だった。
「ただいま、シロコ」
「おかえり」
 柔らかく歓迎するでもなく突き放すでもない。何とも言えない距離感のいつもの反応がシロコからは返った。それでも切れ長の目元の端を仄かに緩めて見せるから、来客もない退屈な店番の最中に「都合の良い雑談相手が返って来たぞ」ぐらいの歓迎の気持ちはあるのだろう。
 以室商会に飼われるもう一体の猫又であるシロコの特徴はトラキチよりも間違いなく人懐こくなくやや神経質寄りなのだが、所謂猫っぽい面が非常に薄いところが挙げられるだろう。その「猫っぽくない面」も多岐に渡るが、まず何よりも一つのことに延々と興味を集中させ黙々と集中して作業したり貪欲に知識を吸収するタイプであることが挙げられる。端的に言うと、基本的に何事に対しても飽きっぽくないのだ。それが興味を惹かれるものが相手だったならば尚更だ。
 後は、甘いものにとんと目がない。特に、餡ものや餅菓子は、シロコ相手だと好感度上げのための特効持ちアイテムと言える。
 例えば、とても都合の悪いことをシロコに黙っていて貰いたい時とか袖の下を通したい時には、テレビ番組なんかで「今、話題!」というような和風スイーツを御馳走したりすると効果は抜群だ。
 シロコという名前の通り元々はちょっとくすんだ白毛の猫なのだが、人に化けている時は一転して濡れ羽色の奇麗な黒髪が印象的な女の子である。尤も、酷く怒ったり心底吃驚したりパニックになるレベルで動揺したりすると、あっという間に白髪に戻ったりもするから今の姿は人として生活する上で浮かないよう丁寧に丁寧に猫を被った状態だとも言える。
 ともあれ、来店したのが鷹尚・トラキチコンビと分かったことで、シロコはぐてんとカウンターテーブルに溶けるように突っ伏す。そうして、大きく口を開けると欠伸を一つ噛み殺して見せた。
 そんなシロコを横目において、鷹尚はそうとは悟られないように店内の様子をぐるりと見渡した。
 カウンターテーブルに突っ伏すシロコは完全に溶けきっていて無警戒であり、店内にお客さんが居ないのは確認するまでもない。尤も、開店直後のそういう時間帯をわざわざ選んだのだから、そうでなくては逆に鷹尚は莉央を迎え入れるにあたって困ったことになったかも知れない。
 従って、鷹尚が店内の様子を窺ったのには、お役さんの有無以外の明確な理由がある。
 継鷹が以室商会本店に在宅しているかどうかをそれとなく確認したのだ。
 朝方、初火浦にある私鉄の駅へ莉央を迎えに行く段階では、まだ継鷹の部屋には明かりが灯っていた。土日祝日を何かと外回りの要件に宛がうのが継鷹の癖みたいなものなのだが、もちろんそれもいつもいつもそうだとは限らない。
 過去のいざこざによって出禁を言い渡された戸永古書店の魔女の一人である莉央(莉央本人が直接言い渡されたわけではないが)を、それと知っていながら以室商会本店に招いた今日という日がたまたまその例外となる可能性がないわけではない。
 ともあれ、継鷹の姿・気配を感じ取れなかったことで、鷹尚は一つ安堵の息を吐く。すると、何でもない風を装ってシロコにこう尋ねる。
「じいちゃんは、居る?」
「ちょっと前に出掛けたよ。「今日は蘆品湖(あしなこ)まで行かなきゃならん。帰りは遅くなるから自分の分の夕食の用意は要らない」って話だったから、何か用事があるなら携帯に電話した方が良いかも」
 思いもよらず、シロコから継鷹の本日の詳細な行動予定を聞くことができて鷹尚は心の中でガッツポーズをした。そうであるならば、気兼ねすることなく莉央を店内へと招き入れることができる。
 鷹尚は内心が外面に現れ出ないよう細心の注意を払って何食わぬ顔をすると「継鷹が不在で残念だ」と嘯く。
「そっか。ああ、うん。じゃあ、そうするよ」
 もちろん、顔色や声色といったところに内心が滲まないよう鷹尚なりに細心の注意を払っていたのだが、その一部始終を客観的に眺めることのできたトラキチに言わせれば、その受け答えは十分「態とらしい」と感じるものだったようだ。
 そんな鷹尚の怪しさ抜群の受け答えに「いつシロコが眉を顰めたものか?」とトラキチは気が気でない風だった。しかしながら、結論からいうとシロコがそんな鷹尚の「ぎこちなさ」「態とらしさ」といったところを口に出して指摘することはなかった。
 そして、トラキチが分かるところをシロコが分からない筈はないため、それは敢えて指摘しなかっただけだろう。またぞろ、何かトラキチと二人で良く分からない「遊びでもしているんだろう」とでも思ってくれたのかもしれない。そういう意味では、普段から退屈凌ぎに〇○ごっこといった馬鹿なことをしていたのがここに来て良い影響を及ぼしたと言えたかも知れない。
 ちなみに「○○」には光の剣を振り回すSF映画のタイトル名が入ったり、銃と接近格闘技を合わせた技を駆使してディストピアを破壊する映画のタイトル名が入ったりする。
 ともあれ、下手に芝居掛かった鷹尚の演技はまだまだ続く。
「ま、それはそれとして、今日はちょっと友達がうちで取り扱う商品で欲しいものがあるって話でさ」
「ふーん、珍しいね、鷹尚が友達を店に連れてくるなんて」
 シロコが言ったように、鷹尚が友達を以室商会本店に連れてくることは非常に希な出来事だった。扱っているものが扱っているものなので、意図的に近付けないようにしていたと言っても過言ではないかも知れない。まして「以室商会で取り扱っている商品の購入を考えている」なんて友達を連れて来たのは、前代未聞の出来事だとさえ言えた。
 そういう意味では驚いて然るべき鷹尚の発言だったのだが、シロコの反応はこれでもかという程に薄い。
 尤も、自身の芝居掛かった言動を違和感のない自然なものへと微塵も修正できないぐらいにはテンパっている今の鷹尚に、シロコの反応云々を気にする余裕などはなかった。
 ともあれ、以室商会本店内に継鷹がいないことを理解した鷹尚は次のフェーズへの移行を進める。その場でくるりと表門の方へと向きを変えると、以室商会本店前に待たせている莉央を迎えに行く形だ。
 表門の軒先で待機する莉央を見付けると、鷹尚はすかさず親指と人差し指で「○」を作って見せた。状況がオールグリーンであることをジェスチャーで指し示した形だが、莉央は一向にそこから進みだそうとはしなかった。そればかりか、掌を上下に振るジェスチャーで「こっちに来て」と要求する。
 そんな様子に怪訝な顔つきを滲ませる鷹尚だったが、莉央が以室商会の表門へと手を翳し、その表情をやや険しくして見せた辺りから何となくその状況を察するようにもなった。
 そして、鷹尚が察した通りに莉央は要求する。
「また歓迎して貰っても良い? そうしないと、多分、あたし一人じゃここに設置された出禁の法を突破できない」
 目を凝らして表門に触れるか触れないかの位置にある莉央の掌の先を見ると、ゆらゆらと景色が歪む様が見て取れた。どうやら、以室商会が戸永古書店の魔女に科した出禁措置は、幾つかの段階を備えたものらしい。
 やもすると、この表門を突破して先に進んだとて、居住区スペース内へと進む際などに再び関所のような段階があるのかも知れない。
 ともあれ、鷹尚はトラキチと顔を見合わせると、ついさっき莉央に対して行ったものと同様の、歓迎の言葉を向ける。
「いらっしゃい、ようこそ以室商会へ。歓迎するよ」


「お邪魔しまーす」
 誰に向けるでもなく小声でそう口を開くと、莉央は恐る恐るという風に以室商会の敷居を跨いだ。尤も、その恐る恐るといった「様子を窺う体」は、次の瞬間にはいとも簡単に崩れていた。以室商会本店の店頭に並ぶ品々に莉央が目をきらきらと輝かせた瞬間、一気にそのテンションをぶち上げたからだ。
「おぉー……」
 小さく感嘆の声を響かせた後、莉央はまるで押し黙るかのように一旦言葉を失う。すると、鷹尚の方へとバッと勢いよく向き直ると両の手を握り取る。興奮からか極度の好奇心からか、莉央はそのままの勢いでぶんぶんと手を振り上げたり振り下ろしたりし始めたのだが、対する鷹尚は困惑気味にただただそれを黙って受け入れる。
「さすが、さすがだよ! 凄い品揃え! しかも、豊富な物量! さらに良心的な金額! ありがとう、以室商会!」
 何に対して「ありがとう」なのかさっぱり解らないものの、そう賛辞を向けられては悪い気がしないのも事実。鷹尚は莉央の手がパッと離れた瞬間、照れ隠しと言わんばかりにぽりぽりと頬を掻く。
 尤も、莉央は既に鷹尚のそんな表情の相違に気付ける状態ではなかった。きょろきょろと忙しくなく店内を見渡しながら、我慢できないと言わんばかりに近くの棚へと足を向ける。
「さすがだよね。冥吏と直にやりとりしてるだけはあるよ! あたし達も冥吏と直接交渉したりするけど、量の確保なんて夢のまた夢だよ。もう、これ吹っ掛けてきてるなって分かるプライスを平気でしれっと要求してきたりするもんね。「この量で、この価格!?」みたいな」
 さぞかし、莉央に取って以室商会の品揃えは魅力的なのだろう。その妙なハイテンション状態が落ち着くまでには、優に10分知覚の時間を有した。
 ともあれ、莉央はハッと我に返ると、なんともバツが悪そうな顔をする。鷹尚とトラキチがそんな具合にはしゃぐ莉央を、遠目に冷静な視点で眺めていたからこそ、バツの悪さは尚更だったろう。
 すると莉央はそこでゴホンと一つ大きな咳払いをして見せて、大きく両手を広げるジェスチャーを取ると鷹尚にこう確認を向ける。
「一応確認して置くけど、店頭にあるものは特に制限無く売って貰えるっていう認識でいいのかな?」
 鷹尚に取ってその質問は、余りにも突飛な内容だった。それでも、その質問には「文面以上の意味はないだろう」と判断したらしい。記憶の中から以室商会の商習慣を洗ってみた結果として、その手の制限がないことを伝える。
「スーパーマーケットの特売品じゃあるまいし、一家族様一つまでとかいうのは特にないよ」
 鷹尚の回答を聞いた莉央はやや不服という顔をした。即ち、それはこの場で求めていた回答ではなかったのだろう。すると、ついさっきの購入制限に対する確認を、さらに一歩踏み込みながらこう聞き直す。
「以室商会って、一見さんにはある決まったレベルまでの商品しか売ってくれないみたいな話も聞くけど?」
 これまた、鷹尚に取って莉央の言葉に思い当たる節はなかった。
 鷹尚は店番としてすっと多くの経験値を持つシロコへと目を向けてみるものの、そこに返る反応も芳しくない。
 一通り、そのやり取りを横で聞いていたシロコは、多少の補足を加えながら鷹尚と同じ見解を示す。
「このお客さんにこれを売るのは駄目だとか、そういうのは言われたことないよ。取扱いに難のあるものについては、注意点をしっかり説明するよう言われたりはするけど、……それぐらい?」
 購入制限について「思い当たる節はない」と返したシロコだったが、そこまで口走ったところでふと何か思い至ることがあったのかも知れない。一度ピタリと固まって見せて、そこに思案顔を挟む。
 そんなシロコが思い至ったのは、そもそも店頭では取り扱っていない以室商会の商品だ。
「あぁ、でも、店頭に並んでいないものはその限りじゃないかも。完全受注生産……とかいう奴? 注文を受けてから継鷹が対応を始めるような特注品とかに対しては「その注文は受けられない」とかいう回答をすることもあるみたい」
 受注生産において継鷹の裁量によって「売る」「売らない」が決まるのだとすれば、捉えようによってはそれは確かに「購入制限」だと言えなくもないだろう。
 ただ、今回の案件に置いてはその購入制限が該当する可能性はほぼ「ない」とも言えた。莉央の認識が正しければ、今回憑鬼の対処に必要となるアイテムとして提案する品物は、以室商会以外のルートであっても比較的容易に入手可能という話だったからだ。以室商会として、市場で容易に入手可能なものに「購入制限」を設ける理由などない筈である。
 尤も、それはあくまで未確定の前情報として鷹尚・トラキチコンビが莉央から聞いた話でしかないのも事実。
 莉央の口振りから察するに「店頭にはないもので必要なものがある」ということはないのだろう。しかしながら、店頭にはないものだけど「これがあればより良い提案をできる」というようなものがある可能性はある。
 トラキチがその可能性を加味して尋ねる。
「店頭にないもので、何か必要になるものがあるのか?」
「んー、多分店頭にあるもので必要なものは全て揃うと思う。でも、それはこれから始める診断結果次第のところもあるかな」
 診断結果という単語を口にし含みを持たせた莉央は、まるでそこからが本題であると言わんばかりにすっと襟を正した。相変わらずチラチラと店頭にある商品で気になるものに視線を持っていかれることはあったものの、概ね莉央の意識は鷹尚とトラキチ相手に向けられたと言って良かっただろう。
 問題は、俄かに空気が変わったことを敏感に察し取ったシロコがピンッと聞き耳を立てたことだろうか。
 尤も、ここで莉央との会話を不自然に切り上げるのは得策ではない。さらに言えば、ここから莉央との会話を小声に切り替えるというのも全くもって得策ではない。寧ろ、下手に隠し事をしようなどとは思わない方が上分別だ。
 何よりも、シロコに不信感を抱かれてしまっては元も子もないのだ。鷹尚・トラキチの言動を訝しく思えば、シロコは必ず継鷹にそれとなく話すだろう。だから、これから莉央とやりとりする内容を寧ろ大っぴらなものにしてしまって、継鷹から与えらた裁量権の元に行われる「何でもないこと」と誤認させた方が良い。代わりに、ここでの話が継鷹の耳に入らないよう、シロコに対して袖の下を通せばいいのだ。
 話題のスイーツを献上する旨シロコへ上申すれば、余程やばい案件でない限りは口を封じることができる筈だ。もちろん、そもそも袖の下を通すということに対してシロコは訝るだろうが、まだどうとでもなる話だ。シロコが相手ならば「冥吏から今までにない依頼を打診されて、継鷹に内緒のまま試しにやってみてる」なんて辺りのことはゲロってしまったって構わない。
 トラキチはチラチラとシロコの存在を気にするそぶりを見せたのだが、当の鷹尚が莉央に対して「ここでの会話は控えよう」だとか、何かしらのアクションを起こさなかったことで大方方針を察したようだった。
 以室商会本店の店舗スペース内では、鷹尚・トラキチが聞き手の姿勢を取り、シロコが聞き耳を立てる中で莉央の考察が語られることとなった。
「憑鬼を掴まえる上で必要になると思うものだけど、あたしの見立てだとこの二つ。一つ目は憑依した憑鬼を引き剥がすためのもので、二つ目は引き剥がした憑鬼を掴まえるためのもの」
 莉央が見立てる「必要なもの」は、まさに前回の反省を踏まえて揃えておくべきと鷹尚が身を持って実感したものだった。仮にそこに異論を申し立てるとするならば、高橋から憑鬼を剥がすことなく捉えることが可能となるように相手を大幅に弱体化させたり無力化させたりするものが用意できないかを確認するぐらいだろう。
「やっぱり憑鬼ってのは、引き剥がしてから捕まえるのが定石なのか……」
 ここに来て鷹尚がぼそっと口に出した言葉に、莉央は呆れを隠さない。
「ていうかさ、鷹尚クンも良くこの手のアイテムがない状態で逃げた憑鬼をどうにかできると思ったよね?」
「憑依された人間を憑依された状態のまま捕まえて、そのまま冥吏に引き渡せばミッションコンプリートだと思ったんだよ……」
 特に憑鬼の引き渡し方を冥吏から指示されなかったことで、鷹尚はそれが最も合理的な方法だと考えたというわけだ。いいや、もしそれが可能ならば、今こうして莉央が見立てる「必要なもの」を用意せずとも「憑鬼を捕まえられるんじゃないか?」という思いもまだ若干残っているのも事実だった。
 尤も、当の莉央もそれが最も手軽な手段の一つであることを認める。
「まぁ、そうできるだけの力があるなら、一番手っ取り早い方法ではあるかもね。でも、憑鬼って、一応鬼の一種だから実際凄く強いんだよ。人間に憑依した状態でもほとんど発揮できる能力は落ちないし、そこらのぽっと出の悪魔祓いとかだと手に負えないと思うよ。何なら、衰退した位の低い神様だって、手に負えないかも知れない」
 そして同時に、莉央はそれが難易度の非常に高い方法であることも口にした。そのニュアンスから察するに、それは一番合理的ながら、解決手段としてはとてもではないが初心者がおいそれと実行可能なものではないらしい。そうとは口にしなかったものの「今の鷹尚・トラキチコンビでは無理だ」とはっきり言ったに等しい。
 そうだとするならば、初心者は初心者らしく低難易度の手段を用いて解決を試みるまで……だろう。
「じゃあ、その2つのものを用意するとして、必要になってくるものは何なんだ?」
 莉央に対してそう確認を向けつつも、ここで鷹尚の心の中には一抹の不安が生じる。そして、必要なものが2つとほぼ決まった辺りで、その不安は一気に巨大なものとなっていた。
 実際問題、鷹尚自身も店番をすることがあるから嫌というほど分かっているのだが、以室商会が取り扱うものは大概かなり高価なプライスタグを付けていたりするのだ。
 言ってしまえば「塵を払うこと」に対して白黒篝から対価として受け取っている薬草だって、その気になれば以室商会の店頭で購入可能だったりする。しかしながら、鷹尚がそうすることはないだろう。理由は言わずもがなで、金銭的な負荷が非常に大きいからだ。
 もちろん、どうしても本当にそれが必要だと訴えそこに正当な理由があれば、継鷹は鷹尚からお金を取ったりはしないかも知れない(もしくは出世払いとかにして貰えるかも知れない)。何せ、自分の孫のためである。
 話が逸れたが、鷹尚がここに至って感じた不安とは「金銭的な負担が非常に大きいのではないか?」というものだ。
 莉央はそんな鷹尚の心中を察した様子もなく「憑依した憑鬼を引き剥がすためのもの」に対して得意気な顔付でさらさらと説明を始める。
「まず「憑依した憑鬼を引き剥がすためのもの」だけど、あたしが用意することのできるものは、所謂「憑依剥離剤」と呼ばれるもの。しかも、これには飲み薬タイプと吹き掛けるタイプがあるんだけど、あたしならどっちも調合できるよ。効果が高いのは飲み薬の方だけど、正直なところどっちにも一長一短があるから、どんな作戦で憑鬼を攻めるのかでどっちが最適なのかは変わってくると思う」
 これしかないと言われればそれに合わせた方策を模索するのみだったのだが、ここに来て次回の方針なんてものを問われたことで鷹尚はピタリと固まった。もちろん、莉央の言うように飲み薬の方が効果が高いからといって、では飲み薬にしようなんて安易には行けない。
 そんな鷹尚を尻目に、トラキチはすぐさま飲み薬を選択した場合に生じる問題について言及する。
「飲み薬っていうと、錠剤か? それとも液体か? どちらにせよ飲み薬タイプだと、そもそもどうやって高橋に飲ませるのかって問題があるな」
 トラキチの言うことは尤もだ。何せ、高橋は以室商会を名乗る不審者(?)に一度襲撃されているのだ。いつもよりもあらゆる点に警戒をしていると考えて差し支えないだろう。食事に混入させるなりするにしても、ハードルは非常に高いと言わざるを得ない。
「……力業で行くしかないか?」
 結局、トラキチが導き出した問題点に対する答えはどこまでも短絡的な手段だったが、いくら人の腕力を大きく上回る猫又の身体能力を以てしてもそんな容易くことが進むとは思えない。現に、高橋は前回の襲撃時に、道路脇に設置された標識を引っこ抜きぶん回すなんて真似をして見せてくれているのだ。
 トラキチが導き出した力業という結論に対しては、莉央も懐疑的な姿勢を示す。
「憑鬼を相手に力尽くっていうのは、その、至難の業だと思う。……悪いことは言わないから、止めておいた方がいいよ。相手は「鬼」の一種だよ? 本気で暴れられたら手が付けられない」
 莉央がいうように、高橋が暴れ出した場合、どうにか対抗できそうなのはトラキチだけだ。鷹尚や莉央が憑鬼を宿す高橋を力で抑え込むなんて真似は、逆立ちしたって無理だろう。
 それでも、トラキチはまだ力業と手段を諦めていないようだった。飲み薬が相手に与える効果について莉央に確認を向ける。 
「ちなみに、その飲み薬を取り込むと相手はどんな状態になるんだ?」
 それは、前回、憑鬼が憑依先である高橋の体を上手くコントロールできていなかったことが念頭にあるのだろう。もし、薬を取り込むことによって、よりコントロールを逸するだとかいうようなことがあるならば、剥がさず捕縛するという案も無きにしもあらず……というわけだ。
 しかしながら、そんな淡い期待はさっくりと莉央によって否定される。
「人間に及ぶ影響でいうと肉体と精神との繋がりが希薄になるかな。効果には個人差あるけど、体が思い通りに動かせなくなったりとか、思考が鈍くなって重い倦怠感に苛まされたりとか。最悪の場合でいうと昏倒ぐらいまではいくかな。で、憑鬼でいうと効果は明白で単純、憑依先に留まれなくなる。ただ、人間に対して現れるような効果が憑鬼に現れることはないよ」
「なるほど、効果はあくまで剥がすだけってことか」
 憑依剥離剤に対する莉央の見解を聞き、トラキチはあっさりと「剥がさない」案を諦めたようだった。元々「憑依剥離剤の追加効果でピヨってくれれば儲けもの」ぐらい感覚だったのだろう。
「で、どうあっても剥がさないとならないんだとして、どれぐらいその憑依剥離剤とやらを高橋に飲ませれば良い?」
「相手に飲ませる必要量は、大匙1杯分くらいで十分。何かに混入させて薄まったり、混入先の食物ないし飲料を全て摂取されない可能性を考えても、小瓶一つ分ぐらいを用意すれば追加で必要になるようなことはないと思う。」
 憑鬼を剥がすにあたってどれだけの量を相手に摂取させなければならないか。その必要量の説明を受けた鷹尚の率直な感想は「それぐらいならば何とかなるんじゃないか?」という思いだった。その一方で、剥がす場所をコントロールできない可能性がすぐに問題点として思い当たりもする。
 飲食物に混入するのだとして、高橋はそれをすぐに口に入れてくれるだろうか?
 また、口にしたとして効果はすぐに現れてくれるだろうか?
 効果が現れるまでにラグがあり、町中の人混みの中で憑鬼が剥がれるなんて事態が生じた日には「ああ、失敗してしまったねぇ」なんて笑い話では済まされない。まして、町中の人混みで剥がれた憑鬼が人を襲い何らかの被害が発生したりすれば大事である。
 そんな具合にああだこうだと思いを巡らせる鷹尚の芳しくない反応を、莉央は敏感に感じ取ったのだろう。続ける言葉で「憑依剥離剤」のもう1パターンについての説明を始める。
「手軽に使えるのは吹き掛ける方だけど、こっちは霧吹きとかで少量吹き掛けるぐらいだと多分駄目で、最低でも500mLペットボトルの1/3ぐらいは浴びせ掛ける必要がある。もちろん、こっちも効果は個人差があるけど、憑鬼の側で一度拒否反応が出るまで行けば必ず剥がせる」
 量は必要だが、そちらの方が手軽で作戦を選ばない気がした。何より、多少の効力発揮までにラグがあるとしても「場所」を選ぶことができる点は非常に大きいと思える。
 そこに至ってようやく、鷹尚は莉央が「どんな作戦で憑鬼を攻めるのか?」を問うた意味を理解した。ともあれ、まだどう攻めるかなんてところに言及できる状態ではない。
「そのどっちになっても以室商会で材料は全て揃えられる?」
 莉央に対して材料面での可否を確認することで「やっぱり、飲み薬じゃないと調合できない」なんて都合の良い展開を期待したりもしたのだが、それは望み薄だろう。……というよりも、望み薄であって貰わなくては困るといった方が良い。その展開は取り得る選択肢の場が狭まるのだから、鷹尚に取っても好ましくないのだからだ。
 鷹尚のそんな思いとは裏腹に、莉央はすぐさまその確認に答えるべく打てば響く反応を返す。
「えーと、ちょっと待ってね」
 そういうが早いか、莉央は店内で売られている品々の中から必要なものを一つ一つ見繕っているようだった。真剣な眼差しで店内を見渡しながら、どこからか取り出したメモ帳に必要物を書き出してもいた。
 店頭の商品群に目を向ける莉央は、シロコにものの有無の確認を向けることもしなかった。どうやら店番をすることのある鷹尚でさえ完全には把握できていない店頭の商品群の中から、目的とするものを手際よく見付け出しているらしい。それは即ち、必要となるアイテムがどんな形状をしているのかぐらいはきっちりと把握しているということだ。
 そうして、ものの10分と経たない内に莉央は目星をつけたらしい。鷹尚に対して胸を張って答える。
「うん、行けるよ」
 憑依剥離剤を「どちらのベースで考えるか?」についてを、一先ず棚上げできることに鷹尚はホッと安堵の息をつく。何なら高橋以後を含めてその両方を用意するという選択肢だってあるだろう。
「オーケー。そうなると、じゃあどっちを選ぶかは一先ず置いておくとして、後は「引き剥がした憑鬼を掴まえるためのもの、か」
 そう鷹尚が話を一つ進めたところで、莉央は再び胸を張って得意気な表情を見せる。
「実はそっちももう目星はつけて合るんだよね。大丈夫、必要なものは全部ここで揃えられるよ」
 大した手際だった。いくら、それが「情報として必要となる筈」だと、それとなく分かっていたとて「判断力がいい」「要領がいい」と言わざるを得ない。パッと見ではギャルライクな見た目に騙されそうになるが「戸永古書店の魔女」はただ年齢層が近く仲良くなれそうだというだけではなく、かなりの有能処を協力者として鷹尚に帯同させてくれたらしい。
 引き剥がした憑鬼を掴まえるためのもの。
 それについて莉央は鷹尚・トラキチコンビにこんな提案をする。
「捕縛アイテムは、細環封柱(さいかんほうちゅう)がいいと思ってるんだよね。……というか、あたしが提案できるのはそれぐらいしかないといった方がいいかな」
 もちろん「細環封柱」なんて言われたところで、鷹尚にしろトラキチにしろ頭には疑問符が付く格好だ。「柱って名がつくぐらいだから長方形の箱型をしてるんだろうな」くらいに貧相なイメージしか出てこない。
 鷹尚・トラキチコンビからそんな反応が返るだろうことも莉央は想定済みだったらしい。物知り顔を覗かせると、細環封柱についての具体的な説明を続ける。
「原理的には、葫蘆(フールー)、え……と、西遊記とかに出てくる相手を吸い込むことのできるおっきな瓢箪って言って解るかな? あれと同じような効果を発揮するもので、霊樹から取れる……ナントカ材って言う木材を加工した板で八面を張り合わせて、それを祭儀済みの紐で結び合わせて作る八角柱のアイテムなんだ。大きさは平均サイズだと500mLペットボトルぐらいが相場かな。なので、基本、見た目は500mLペットボトルサイズなんだけど、内面に空間を歪ませるための呪術的な加工を施すことで見た目の容量以上のものをその中に収めることができる。難点は、前もって準備した範囲にあるものしか格納できないことと、あたしの腕では精々2日程度しか格納したものを中に留めておくことができない「なんちゃって品」しか作れないこと……かな」
 説明だけを聞くと、莉央が提案する細環封柱とやらは色々と制約が多いように思える。
 まして、引き合いに出された例えが西遊記に出てくる葫蘆だったから猶更だ。あちらは対象となる相手に瓢箪の先を向け、名前を呼べば容易く吸い込めてしまうような代物なのだ。もちろん、あちらはあくまで物語に登場するアイテムであり、大きく効果が誇張されていたり、そもそも実際にはこの世に存在しないかも知れないわけなので比較対象とすること自体が間違っているかも知れない。
 ともあれ、鷹尚がやや気乗りしないという雰囲気を醸し出していることを莉央は敏感に察したようだった。すると、憑鬼を捉えるに当たり、それが最善ではないことを莉央は素直に認める。
「本当は同じモドキでも葫蘆が作れればいいんだけど、……あたしには無理。材料さえ何とかなるなら、あたしの先輩に当たる戸永古書店の魔女の中に作っちゃいそうな人もいるにはいるけど、それでも数日とか1週間とかいう単位で作れる代物じゃないと聞くよ。元々、魔女が扱う範囲のアイテムじゃなくて仙人とか言われるようなのが扱う範囲のアイテムだしね。まぁ、それを言ったら細環封柱もそうなんだけど……。後は、既に完成され世に出回ってる葫蘆をどっかから買ってくるっていう手もあるけど、出回っている数が少な過ぎて基本的には入手困難だし、値段もぶっ飛んでるから現実的じゃないと思う」
 莉央はそういうが、手早く憑鬼を剥がすことができても捕縛できなければ意味がない。
 捕縛における最善策が葫蘆の入手であり、そこに至る問題が金銭的な高低だというのならば一先ずその価格は尋ねておかなければならないだろう。
「実在はするのか、葫蘆。……ちなみに、葫蘆ってどれくらいの値段するんだ?」
「相場とか詳しいことは分からないけど、昔あたしが耳にした限りではどんな粗悪品であっても最低300万円ぐらいがスタートラインだとかなんとか。しかも、例え粗悪品であっても滅多に世の中には出回らないとか」
 莉央の言い分が本当ならば、それは確かに一介の高校生においそれと手が出せるような代物ではないようだった。そもそも金銭面云々以前に、希少品で滅多に世に出回らないのであればどうしようもない。「作る」という手も困難であるのならば、莉央が提案するように細環封柱といったような代替品を用いる案は、上分別だと言えただろう。
「ん、解った。葫蘆って選択肢はそもそもありえないんだな。となると、後は細環封柱に、どちらのタイプの憑依剥離剤を選択するか、か。……ちなみに聞くけど、莉央の見積りだとどれくらいの金額になりそうなんだ?」
 その問いに対して、莉央は走り書きしていたメモ帳を差し出してみせる。
 そこには、必要となるアイテムの内訳と、店頭に掲げられている金額とがまるっと丁寧に記載されていた。
 莉央の試算によると「憑依剥離剤(飲み薬)+細環封柱」も「憑依剥離剤(塗布薬)+細環封柱」も見積額にそう大きな差異はなかった。個数の後にはてなマークが付け加えられていたり、連続して書き綴られたアイテム名の間に「or」の記載があって、その片方に金額がなかったりするからあくまで概算なのだろうが、どちらの場合であっても以室商会本店で調合に必要アイテムを揃えるとなると10万円強になるらしい。
 鷹尚はほぼ無意識の内に、大きな溜息を吐き出していた。
 いくらアルバイトをしているといえ、金銭的な面でいえば世間一般の高校生と何ら変わらない鷹尚が自身の財布からポンッと支払えってしまえるような額ではない。こんな出費があると解っていれば月々のバイト代から積立てたりもしただろうが、残念なことに月々のバイト代なんてものは細かな用途の積み重ねでその大半は手元に残らないのが常だった。さらに運が悪いことに、多くが手元に残らないながらもコツコツと貯めていた貯金も、先々月にデカイ買い物をして取り崩したばかりだったのだ。
 仕方がなかったのだ。
 鷹尚の間借りする以室商会本店二階客間の古い薄型テレビがご臨終になってしまったからだ。
 継鷹の仕事のことを考えると一階リビングにあるテレビを夜遅くまで利用することは憚られるし、据置きコンシューマーゲームも嗜む鷹尚に取って「テレビを新規購入しない」という選択肢は無かった。しかも、白飛びや黒潰れに対処した描画エンジンを積み、最新のフレーム補完技術を積み込んだゲーム機対応機種をチョイスしたのに加え、音作りに拘ったサウンドバーとヘッドセットまで一緒に購入したことで、一時は完全に貯金が底を突く格好だった。いや、貯金が底を突くか突かないかのギリギリを攻めて、性能を追求したと言い換えても良い。
 即ち、身も蓋もない話だが「お金がない」のだ。
 尤も、では「八方塞がりか?」というと、どうにかする手段がないわけでもなかった。
 ここは祖父である継鷹が経営する店で、鷹尚はそこでアルバイトとして家業を手伝っている身である。バイト代から天引きされる形にはなるが「ツケ」という手段も取れる。
 当然、継鷹には何を購入しツケという形を取ったのかがばれる形にはなる。それでも、シロコに袖の下を通しておけば、月末になって実際にバイト代が支払われる時期になるまで継鷹の目に触れさせないということも可能だろう。毎日売上の確認するものの、余程のことがなければ誰が何を購入したかまでチェックすることはない。
 要はシロコに「今日、鷹尚がツケ払いでこんなものを買ったんだよ」というコミュニケーションを継鷹と取らせなければいい。なに、ここでの莉央との会話を継鷹の耳に入れないミッションと合わせて、シロコに通す袖の下のレベルを一段引き上げればどうとでもなる話だ。
 そう自分自身に何度も何度も強く言い聞かせる鷹尚の背後に、少しだけ今の自分よりも冷静で疑心暗鬼の気(け)を持つもう一人の想像上の鷹尚がすり寄ってきて、こう耳元で囁くのだった。
「本当か? 本当に、どうとでもなる話か?」
 古典的な描写では、大体楽観的思考で背を押す天使と、悲観的思考で行動を躊躇わせる悪魔が出てきたりするのが常であるが、今回の鷹尚の脳内会議においてはその「天使」に該当するものは現れなかった。いいや、内心ではそれがなかなか無理筋の話であることを嫌というほど理解していたからこそ、天使が割って入る余地など無かったとも言えるだろう。
 さすがに「ツケ購入」を継鷹の耳に入れないというのは、成功率が低い。パーセンテージで言うならば、その確率はゼロコンマ以下かも知れない。
 鷹尚が即金で店頭にあるものを購入するというのであれば、シロコに「何を買ったのか」を黙っていて貰うというのも何ら無理筋な話ではない。それこそ「購入者が誰だったのか?」が気にされるようなアイテムでもない限りは、それを支払った相手が身内だろうがそうでなかろうが関係はないわけだ。カウンターのレジスターに売上げがきちんと収納されていれば何の問題もない。
 しかしながら、ツケ払いとなるとそうは行かなくなる。
 以室商会は電子化が叫ばれて久しい昨今に置いて、未だクレジットカードや電子マネーの支払いにも対応していない。こと決済手段という観点で言えば、時代に取り残された化石に等しい店舗なのだ。その一方で取り扱っている品物の値段に関して言えば、現金ニコニコ一括払いが厳しいケースも多分に見受けられるため「担保を預かった上での分割払い」というものも受け入れている。そんな背景もあって、レジスターに収納されない売上げについては、非常に細かく、また厳粛な管理が徹底されているのだ。
 そんな具合に支払いのことで色々と頭を巡らせ固まり唸る鷹尚だったが、ポンッと莉央に肩を叩かれたことでその思索は一旦休止と相成る。
「もしかして、お金のことで困ってたり?」
「あぁ、いや、その……」
 咄嗟に鷹尚の口を吐いて出た言葉は、何とも歯切れの悪いものに終始した。ここで首を縦に降ることは、男の……、いや引いては以室商会の沽券に関わることのようにも思われたのだ。
 しかしながら、その反応は「痛いところを突かれた」ことを如実に表すもので、また莉央がそれを都合良く見落としてくれるわけもないし見過ごす理由もなかった。
 ともあれ、そんな鷹尚の胸の内を敏感に察したのだろう。莉央はニパッと満面の笑顔を作って見せると、その胸元から「戸永古書店」の印字が端に入った白封筒を取り出して見せる。
「実はね、店長から経費という形で軍資金を預かっていたりするんだよね。んー、多分、こんなこともあるんじゃないかなーって見越されてたんだと思うね。呪術的な媒介となるこの手のものを仕入れようとすると、少量であっても大抵かなりの値段になっちゅうのが常だからね」
 莉央が胸元から取り出した白封筒からは、福沢諭吉が15人も出てきた。
 こういってしまうとあれだが、一介の高校生に恩を着せるには十分過ぎる額だと言えた。
 鷹尚も「これは非常に助かるサプライズだ!」と内心小躍りしたのだが、莉央がこれでもかと言う程ににこやかな笑顔で白封筒を差し出していたから、それに手を伸ばす既(すんで)のところで踏み留まる。
 莉央自身にそんなつもりは毛頭なかったかも知れないが、鷹尚にはその笑みが「しめしめ、深みに嵌って行ってくれているぞ☆」と暗に語っているかのようにすら見えたのだ。
 鷹尚は伸ばしかけた手をソロソロと引っ込めると、そこで一旦腕組をし熟考する。
 言うならば、莉央はあくまでただの協力者に過ぎない。
 当然、莉央の側にも以室商会に協力するに足る理由や下心があるとはいえ、その申し出は余りにも不穏当だ。「ありがとう」と安易に受け入れてしまうには、その裏にあるものを勘案し天秤に掛けないわけにはいかない。
 後々何かあった時にこの「貸し」を盾に取られてしまうと、首を縦に振らなければならないプレッシャーに常時曝されることにも繋がり兼ねないわけである。莉央の働き次第ではあるものの、鷹尚がもし今後とも「良好な関係を築いていきたい」と思うようでなれば、その圧は尚更抗い難いものとなるだろう。
「……」
 鷹尚は瞑目し押し黙る。その申し出をどう扱うべきかについて、これでもかと葛藤しているようだった。
 いいや「どうしたいか?」という観点で見れば、言うまでもなく喉から手が出るほどには受け取ってしまいたいだろう。なぜならば、もしこの申し出を断るとなると、鷹尚はアイテム購入資金を何とかするために金策に奔走しなければならなくなる。
 もちろん、最終的には依頼主である冥吏が必要経費として受けてくれるだろうから、白黒篝あたり事情を説明すれば用立ててはくれるだろう。一時の立替さえもできない金銭状況にある身の上を説明するといった恥を晒すことにはなるが、そこは紛れもない事実なのだから仕方がない。
 ただ、そうした場合の問題点として、この場を見積だけに留めた上で「冥吏に用立てて貰う」というアクションを一つ間に挟むために、大幅なタイムロスが生じる点が上げられる。
 そんな状況整理に頭をフル回転させていると、妙案はすぐに鷹尚の頭上に舞い降りてきた。
 莉央の申し出については今この場で受けるとして、必要経費を冥吏に用立てて貰った後それを返却するというストーリーである。それならば、タイムロスを生じさせることなくスムーズにお金と物のやり取りができる。ツケ云々という危ない橋を渡って継鷹に鷹尚の行動が露見することもないし、莉央に対して非常に大きな借りを作ると言うこともない。
「その軍資金、有り難く使わせて貰うことにする。でも、あくまで一時的に借り受けるだけだ。後できちんと返却させて貰うよ」
 莉央は「そう来たかぁ」と言わんばかりの態度だった。見るからに「そのパターンは回避したい」という拒否の雰囲気を匂わせていた。
 尤も、そこに強い拒絶を匂わせる強張った表情といったものまではない。莉央はあくまで右人差し指で頬を掻きつつ、パッと見「困ったな」といった範囲に留まる緩いリアクションを取る感じだった。
 しかしながら、実際に莉央の口を突いて出た言葉は、取り付く島もない程に拒否一色に染まる。
「うーん、それは嫌かな。あたし的にそれは凄く嬉しくない」
 やんわりと拒否の意思を示してみせると莉央は不意ににこりと微笑み、握手を求めるように鷹尚へと右手を差し出して見せる。
「こうしない? 軍資金は返却しなくていいからさ、今度あたしが今回の件に関係の無いものを以室商会で購入するのを手伝ってよ」
 戸永古書店が用意した軍資金を受け取ることに対して莉央の要求した対価を聞き、鷹尚はすぐさま力ない反論をする。反論を口にする鷹尚の表情は、戸惑い一色に染まっていた。
「そんなの、……俺達が居ようが居まいが店に来て好きなように買っていけばいいじゃないか?」
 到底、その要求では「対価」に見合わないと主張した格好だが、莉央は何とも複雑そうな表情を返して見せるだけだった。例え対価として見合わなかろうが「それで手打ちにしてしまえばいいのに……」とでも思ったのかも知れない。
 莉央はすぅっと鷹尚の頬に顔を寄せると、耳元でこう呟く。
「簡易なものであってもまた歓迎して貰うっていうあの手順を踏まないと、多分あたしはここに来ることができないよ。今回のたった一度で「例外」として今後も扱って貰えるほど、以室商会が敷く仕組みは緩くない」
 そうだとするならば、莉央のその要求は軍資金の対価足り得るのだろうか?
 鷹尚はまだ、差し出された莉央のその手を握り返すことに二の足を踏んでいた。
 そうやって未だ煮え切らない鷹尚の様子を眼前に置き、莉央は大きく両腕を広げてみせる仕草を合間に挟むと、それが如何に戸永古書店の魔女に取って魅力的で素晴らしいことかを強く訴える。
「こうしてざっと以室商会の取り扱ってる商品の一部を見ただけでも、あたし達があっちこっち駆けずり回っても手に入れられないようなものがここにはたくさんあるんだもん。以室商会で個人的な買い物ができるなら、あたしは物凄く嬉しいよ、鷹尚クン」
 以室商会本店のこの品揃えがこれまで普通のことだった鷹尚には、莉央の気持ちは到底理解できないのかも知れない。その主張にやや誇張があるのだとしても、他所では入手困難なものを扱っているというのは事実だろう。
 それは、以室商会品店を贔屓にしてくれている多くのお得意様が証明してくれてもいる。
「本当は鷹尚クンが言うように、何の制限も無く買い物に来ることができるようになることが望ましいけれど、それはまだ難しい話でしょ? だから、鷹尚クンには今回の件を期にあたし達が彩座で活動するとても良い「魔女」であることをまず知って貰って、あたし達の存在を「一見さん」として扱って貰えるようにすることが第一歩なんだと思うよ。それだけでも、あたし達は「欲しい欲しい」と喉から手が出るほど思っていながら手に入れる手段を持たなかった薬品や薬草なんかを以室商会で気軽に買えるようになるんだから。それはあたし達に取ってとても助かることだもん」
 詰まる所、戸永古書店の用意した軍資金も、いうなれば関係正常化に向けた「先行投資」というわけだ。過去に出禁へと至ることを仕出かしたことを勘案するならば、エルフィールに取ってこれは安い出費なのかも知れない。
 未だ腕組をして小難しい顔で唸る鷹尚に対し、一転、莉央は「無理強いはしない」とそれまでの態度を翻す。
「まぁ、無理にとは言わないよ。あたしは鷹尚クンの手助けをするように言われているだけだしね。そこは、鷹尚クンの判断に従うよ。差し出したあたしのこの手を振り払って「お前なんかまだ友達じゃねぇ。信用できない」って突き放すのも選択肢の一つだし、さっき言ったみたいな「後で返却する」っていう案も当然ありだと思うよ」
 そうして、そんなことを言いながら、莉央は鷹尚に向けてその白く細いしなやかな手を見せ付けるかの如く差し出してみせるのだ。莉央はしっかと鷹尚を真正面から見つめる格好で、さも振り払えるのならば振り払ってご覧なさいとでも言わんばかりだ。
 すると、莉央は駄目押しと言わんばかりに、こう続ける。
「あたし個人としては、もちろん鷹尚クン・トラキチクンと友達になりたいと思っているけどね」
 鷹尚は差し出されたその手を、改めてマジマジと注視した。
 莉央の要求は、余りにも容易い。何なら、本の些末なことだといっても差し支えないぐらいだ。もちろん、そこから「千丈の堤も蟻の一穴より崩れる」なんてところを目論んでいるのは確かなのだろうが……。
 ともあれ、腕組をしてたっぷりと逡巡した後、鷹尚はとうとう参ったと言わんばかりに差し出された莉央の手を握り返した。
「解った、その話に乗るよ。以室商会で莉央が個人的な買い物ができるように手伝う。それが、今、莉央の一番欲しい対価なんだろう?」
 鷹尚が要求を呑んだことに対して、莉央は再び二パッと満面の笑みを見せる。
 こうして一先ず金銭面に対する懸念は払拭されたわけだが、そうなったらそうなったで先送りした決断を迫られる場面が再びやってくるわけだった。
「そうすると、どういう作戦で憑鬼を攻めるかさえ決まれば、以室商会で購入するべきものも自ずと決まるね」
 莉央にその意図があったかどうかはともかく、せっつくようにそう言われた(と認識した)ことでここに来て鷹尚は腹を括った。まだ、どちらにするかの葛藤が残っていた節はあったものの、言葉にしてしまうことでそれも霧消するかのように掻き消える。
「それなんだけど、塗布する方の憑依剥離剤プラス細環封柱で行こうと思う」
「その心は?」
 すかさずトラキチからは「なぜ、その決断をしたか?」を問われた。
 鷹尚はすうっと息を呑むと、そこに到った自身の思いをはっきりと口にする。
「最初にトラキチが言った問題点を潰せそうにないからだな。飲み薬だと、どうやって高橋さんに飲ませるのかってところが、……どうしようもない。もちろん、上手いこと憑鬼を説得して、あくまで憑鬼の意思で飲み薬の憑依剥離剤を服用して貰うなんて流れが取れれば最高だけど、前回を踏まえてそんな風にことが運んでくれるとは到底思えないからな」
 急な形で決断を迫られはしたけれど、決して適当に「憑依剥離剤(飲み薬)+細環封柱」を選んだわけではない。
 鷹尚のその主張を聞くトラキチの表情を見る限りでは、何か思うところがある様子がヒシヒシと見て取れた。しかしながら、鷹尚に対してトラキチが何かしらの反論や意見を向けることはなかった。
 やや不服という表情を残しつつも、トラキチは鷹尚の見解を踏まえ莉央に働きかける。
「だ、そうだ。対高橋用装備の準備を進めてくれ」
「オーケー。腕に縒りを掛けるよ」


 憑鬼をどのように攻めるかの作戦を立て以室商会本店で購入したアイテムを莉央に預けてから、二日後の放課後。
 鷹尚はトラキチを伴って再び、西宿里川へと向かう市営バスの車中に居た。
 予定到着事項は先回よりも大分早く、17時台前半には駒井工業株式会社の正門前に到着できる予定だ。ホームページで調べた限り、始業9:00の終業18:00が基本の労働時間であるため、高橋が有給を取っていたり早引けしたりしていない限りは待ち伏せができる塩梅だ。
 市営バスに揺られて舟を漕ぐトラキチの横で、鷹尚は莉央とチャットアプリでメッセージのやり取りをする。
 ぽこんと何度目かの音が鳴って、莉央からのメッセージが送信されてくる。やり取りの内容は「依頼されたものが予定通り完成したよ!」といったところから、既にそのアイテムの使用対象者となる高橋の動向についてに変移していた。
「ちょっと調べてみたけど、高橋さん、鷹尚クンに待ち伏せされた後も会社には普通に通勤してるってね」
 莉央のフリック入力速度は鷹尚のそれを大きく上回るらしく、何かしらの反応を返すよりも早く次のメッセージがぽこんぽこんと音を立てて送信されてくる。
「憑鬼に憑依されているとはいえ、日常生活を破綻させるつもりはないんだろうね」
「でもさ、以室商会と一悶着起こし掛けた後でも平然としてるってのは凄いよね」
 鷹尚は「どうやってそれを調べたのか」辺りのことから莉央にそれを尋ねようとしたのだが、結局チャットアプリにその疑問を打ち込むことはなかった。後もう少しで、最寄り駅である「西宿里川5丁目通り」に到着するためだ。わざわざ、チャットアプリに打ち込んでやり取りせずとも顔を合わせて直接質問すれば良い。
 そんなことを考えながらスマホの画面を眺めていると、鷹尚から何も反応が返らない辺りに莉央は到着が近い雰囲気を感じ取ったのかも知れない。直球で、鷹尚達の現在位置を確認してくる。
「鷹尚クン、今どの辺り?」
 そして、相変わらず莉央のフリック入力速度は速い。
 鷹尚が「もう少しで到着する」と入力してメッセージを送信するよりも早く、次のアクションが来る。
「こっちはもう到着してるから、どこか近場のお店で時間潰してるね」
「お店が決まったら、店名と場所を送るね」
「体育の授業で走らされて小腹が空いてるんでフードコートに入店してる榊屋カフェが狙い目かな」
「生意気にもうちの店より良いブレンドがあるんだよねー、ここ」
 見た目の印象とは裏腹に、莉央から次々と届くメッセージには顔文字だとか絵文字だとかが織り交ぜられることはなかった。ここ数日の間で、何度もメッセージをやりとりしているのだが大きく文面が崩れるということもない。もちろん、鷹尚のことを重要な「以室商会」の関係者だと受け捉えていて態度を取り繕っている可能性も多分に考えられるが、そうであっても簡単にボロを出さないだけの素養はあるということだろう。
 尤も、鷹尚がチャットアプリのメッセージから抱いた違和感は、その手の態度や素養がどうのこうのではなくて全く別の事柄だった。それは直近のメッセージでやり取りの中で判明した、莉央が既に西宿里川に到着しているということに対する不信感のようなもの……といえば適当だろうか。
 距離的なことだけを言っても、莉央の通う学校は鷹尚の通う高校よりも西宿里川から見て遠い立地にある。さらに言えば、交通の便という観点で見ても、そこまで大きな差異はないながら鷹尚に軍配が上がる。そして、莉央が中等部の在籍であるとはいえ、授業を終えて放課となる時間にもそう大きな差異はないのだ。にも拘わらず、莉央が先に西宿里川に到着しているという事実は、鷹尚を困惑させるのに十分な内容だった。
 ともあれ、市営バスのほぼ中央部に位置する二人掛け座席に、トラキチと並んで座る鷹尚は莉央の質問に答えるべく窓の外の景色に目をやった。もちろん、西宿里川の地理に詳しいわけではないから正確に「後どれくらい掛かるか」を算出できるわけではないが、それでも地点地点でのランドマークとなる印象的な建造物などを元にして先回の経験からある程度を予測することはできる。
「四上・宿里川通りの込み具合にもよるけど、後15分ぐらいは掛かりそう」
 そう鷹尚がチャットアプリにメッセージを打ち込んだところで、車内スピーカーから「次は”西宿里川9丁目前”に停車します。彩座で最大規模、160店もの専門店が出店するショッピングモール”リタラ西宿里川”にお越しの方はこちらで降りられると便利です」という録音メッセージが流れる。すると、気の早い乗客なんかは、ささっと降車支度を始めた。当然、車内スピーカーからは「バスが完全に停車してから車内の移動を行って頂くようお願いいたします」と注意を喚起する録音メッセージが続くのだが、それに従う人は極々少数だ。
 取り立てて、急いで降車しなければならないわけではないが、そろそろ準備ぐらいは始めるべきだろう。
「トラキチ、そろそろ着くぞ」
「……うん?」
 自身に寄り掛かる形で夢の世界へと旅立っていたトラキチの肩を揺すって覚醒を促すと、鷹尚はそろそろと下車の準備を始める。尤も「準備」とはいっても、料金の支払いはスマホの電子決済で処理可能であるため足元に置いた肩下げ鞄を持ち直す程度のことではあるのだが……。
 西宿里川の大通りにあるバスストップ「西宿里川9丁目前」で、下車すると鷹尚はまず莉央から送信されてきたメッセージを確認する。
 直前のメッセージでは「榊屋カフェ」の名前を挙げていたのだが、バスストップ「西宿里川9丁目前」の周辺に該当店舗がないことから、莉央は待ち合わせ場所をショッピングモール「リタラ西宿里川」のフードコートに指定していた。
 そうすると、まず持って目指すべき場所はリタラ西宿里川となる。
 市営バスの車内スピーカーでは「リタラ西宿里川」の最寄りのバスストップが「西宿里川9丁目前」であり、さも店舗の真ん前で降車させてくれるのかと思いきや、その実体は異なる。
 四上宿サイドからのバスで降車すると、まずもって片側二車線の主要幹線道路を挟んで反対側に位置しているし、徒歩5分は優に掛かるだろう距離がある一丁分をまるっと戻らないとならない。
 鷹尚がスマホから目を上げると、その横ではトラキチが大きく伸びをしていた。すると、チャットアプリでの一連のやりとりを把握していないこともあってか、トラキチは莉央の姿を探すべくきょろきょろと周囲を見渡した。
「莉央はまだ来てないのか?」
「いや、俺達よりも先に到着はしてる。けど、小腹が空いたからリタラ西宿里川のフードコートでハンバーガーでも食べてるって連絡が来た」
「お、いいな。俺もちょうど小腹が空いていたところだったんだ!」
 ぺろりと舌を出して小腹が空いたアピールをするトラキチを尻目に、鷹尚は改めてリタラ西宿里川へと足を向けた。
 リタラ西宿里川は遠目に見ても巨大なショッピングモールだと解るのだが、近付くにつれ彩座で最大規模を謳う大きさというものに吃驚させられる。偏に「ショッピングモール」という言葉で括ってしまうと規模が曖昧になってしまうものだがが、リタラ西宿里川はそれ一つでもショッピングモールとして成立するだろう大きさの西館・東館・南館・シネマ館の三つの建物から構成されており、彩座は愚か櫨馬という地域で見ても最大規模のものといえただろう。
 その「館」一つ取っても、端から端まで移動するだけで軽く20〜30分は掛かるんじゃないかと思えるほどだ。
 取りあえず、立派なアーチをあしらった「工業団地東口方面」入口から進入し、構内見取図でフードコートを探したのだが西館・南館のどちらにも存在しているといった具合だ。ハンバーガー店の名前を莉央がチャットアプリに残してくれていたからどちらのフードコートかはすぐに特定できたが、その道中、延々と続く似通った専門店街を歩いていると「本当にこの方角で合っているのか」と不安になってくる規模なのだから堪ったものじゃない。
 リタラ西宿里川の東館のフードコートスペースまで行くと、莉央はすぐにこちらに気付いて手を挙げる。
「お疲れ、鷹尚クン・トラキチクン」
 莉央が腰を下ろしていたリタラ西宿里川のフードコートスペースは、所謂、一つ一つがしっかりと仕切られた店舗が軒を構える「レストラン街タイプ」ではなく、無数の座席が一つ所に並べられたスペースがあって、そこに屋台形式で食事を提供する店舗が並ぶタイプだった。
 尤も、食事を提供する店舗をざっと数えてみるだけでも軽く10以上はあり、ファストフードと呼ばれる類のもの一通り何でもここに揃えられているのではないかと言った具合の充実度がある。
 それでも、まだ夕食の時間には早いことも会ってか、フードコートスペースは疎らに人がポツポツと見受けられだけだった。
 そして、莉央はそんなフードコートスペースの中にある、4人掛けよう丸テーブル席を一つ専有している格好だった。ここでどれだけの時間を潰していたかは解らないながら、トレイの上のハンバーガーは包み紙だけになっていて、紙コップのコーヒーにしろ既に湯気を立ち上らせるだけの暖かさを伴ってはいない。
 莉央はベンチへと凭れ掛かると、彩座・宿里川方面に対する率直な感想を述べる。
「豊教(とよきょう)のある彩座水科も、如何にも「田舎です」ってところだけど宿里川も負けず劣らずだね。いや、水科の方が櫨馬まで電車一本でアクセスできるだけまだマシかも」
 西宿里川という地域に対する莉央の認識は、誤解を恐れずに言うならば「彩座水科を上回る地方都市の片田舎」というものだった。
 鷹尚的には「ここで田舎扱いなら以室商会本店のある初火浦はどうする?」という思いが真っ先にくる。
「これだけでかいショッピングモールがあっても、田舎扱いか……」
 しかしながら、対する莉央の認識は「だからこそ田舎じゃない?」と問い返す言葉が続く。
「土地が安い郊外だからこそ大きなショッピングモールを誘致できたっていう話しょ? 中に入っている専門店のブランドもファッション系で目を惹くのなんてほとんどないし、あたしなら絶対櫨馬に出れる方が良いね」
 そんな風に、西宿里川よりかは彩座水科の方がマシと宣う莉央を前にして、鷹尚は改めてその格好をマジマジと上から下まで眺める。
 西宿里川を田舎と揶揄する時に「豊教」こと私立・豊教学院(しつりとよきょうがくいん)の名前を出した莉央だが、本日はまさにその制服に袖を通した格好だ。尤も、到底ノーマルではないと傍目に解る程度にはカスタマイズが為された着こなしだったが、辛うじて校章やら何やらは識別できる感じだったので、鷹尚はどうにかそれを「豊教」の制服であると識別できた形だ。
 紺色のブレザーと、チェック模様のグレーのスカートを基調にして、目を引きつつ落ち着いた印象を与える明るめの濃緑色を鏤めた豊教の制服。それは、ここ西宿里川ではほとんど見掛けることがないということもあって、かなり目を引く。もちろん、西宿里川近隣地域では見掛けないだけで、彩座水科辺りで下校時間にでもなれば「石を投げれば豊教生に当たる」ぐらいには溢れ返るわけであるのだが。
 鷹尚は「莉央は豊教学院の生徒だったのか」と辺に納得する反面、安易に「櫨馬に出れる方が良い」といったことに対して首を捻る。
「そうは言っても、彩座水科から櫨馬だろ? 繁華街辺りまで出るとなると軽く30〜40分は掛かるんじゃないか?」
「やだなー、鷹尚クン。そのぐらいなら放課後遊びに行く子は余裕で行くよ。繁華街のお店は平日でも夜遅くまでやってるし、やっぱりここらの地方都市では一番何でも揃ってるからね。こんなショッピングモールじゃ買えないようなストリートブランドものとか一杯あるよ?」
「……」
 正直な感想を述べるなら、鷹尚の感覚に置いて放課後に櫨馬の繁華街までわざわざ遊びに出向くなんていうのはちょっと有り得ないレベルの話だった。帰宅時に友達と連れ立って「ちょっとそこらの商店街で買い食いでもしていこうぜ」レベルの話ではない筈だ。
 彩座と呼ばれる範囲がいくら統廃合で縦にも横にも広いとはいえ、仮にも同じ名前の街で生活していて「ここまで距離感の差があるものなのか?」と鷹尚は強く感じたようだ。
 ちなみに、莉央の通う私立・豊教学院は彩座市南部の彩座水科にある。彩座中西部にある四上までは、彩座水科から櫨馬へアクセスするのと同じぐらいの時間が掛かる場所だ。しかも、前述した通り西宿里川へは四上からさらに市営バスへの乗継が必要だ。
 改めて、自分達よりも早く莉央が西宿里川に居るという不自然な事実に、鷹尚は疑義を強める。
「つーか、移動時間を含めて考えると、この時間に西宿里川に居るって普通に考えてあり得なくないか? ……ちゃんと学校行ってる?」
 莉央の笑みが引き攣った気がしたのだが、……気のせいではないだろう。「痛いところを突かれたな」と、内心では思っていたかも知れない。
 莉央はそんな内心を覆い隠すかのように笑みを作ると、小さく頬を掻きながら何とも曖昧な受け答えを見せる。
「もちろん、行ってるよー。うん。まぁ、鷹尚クン達から見ればちゃんとではないかも知れないってところは否定できない部分もあるにはありますけど……。それでも大多数の豊教生よりかは、ちゃんとしてるっていうか何ていうか……」
 口篭もる莉央の様子から察するに、今回はサボタージュでもしたのだろう。というよりも、サボタージュしていないと辻褄が合わない時間配分なのだから、寧ろそうでないとおかしい。
「まぁ、今日のところは正当な理由があってのことだから仕方がないよ。ほら、憑鬼を追い込むっていう正当な理由が、……ね?」
 莉央に取ってその話題は、それ以上ああだこうだと追及されたくない点であることなど言うまでもないだろう。すると、莉央は何とも居心地悪そうに目を伏せた後、起死回生の一手を打つと言わんばかりに豊教の実情について食い気味に語り出す。
「ほら、豊教って駄目な方の中高大一貫校だから、どれだけ休んでも進級には影響ないとかはっきりしちゃってるんだよね。付属大学へと進むのにはさすがにきっちり面接とかその学部を希望した志望動機とか学力試験とかがあるけど、中等部から高等部に進むのはほぼ全自動だし内申点とかもあってないようなものだし「じゃあ休まなきゃ損じゃん?」みたいな、ね」
 もちろん、豊教学院にも学業に対して意識を高く持つ生徒も多分に居ることだろう。
 しかしながら、偏差値といった部分も含めた全体的なレベルでいうと、豊教学院に通う学生の意識というものは、今こうして莉央が述べたものとそう大差ないと言える。
 それは莉央が口にした「駄目な方の中高大一貫校」という単語に集約されていて、加えて地域的な共通認識としても浸透しているとさえ言えた。生徒の自主性に委ねる自由な校風が大前提にあるとは言え、どう考えても授業時間中だというのにも関わらず、彩座水科の商店街などでこれみよがしに屯する豊教生が数多く見られることが度々界隈で話題になるぐらいだ。厄介なのは、豊教学院の教育方針として課外学習を数多く採り入れている点で、一瞥しただけではサボタージュなのか授業の一環として校外にいるのかが解らない場合が多々あるという点だろうか。
 それでも「駄目な方の中高大一貫校」という烙印を押されながら、付属大学を含めた進学率という点では言うほど悪くない。高等部に進んだ豊教生の大凡7割方は毎年上級教育課程に進学するという数字が出ているぐらいだ。もちろん、この中には専門学校といったようなところも含まれるのだが、豊教学院以下の進学率の高等学校など櫨馬地方には無数にあるのが実情だ。加えて言えば、散々「駄目な方の中高大一貫校」と言われながら、それでも成績優秀者のさらに上澄みに置いては、付属大学ではなく他所の名の知れた大学などに進学したりもする。
 諸々「大学進学の場合には……」なんて話題が出たことで、鷹尚はふと莉央が何回生なのかが気になった。
 恐らく、上履きの色やスカーフの色とかいったもので学年が見分けられるようになっている筈なのだが、さすがに豊教生の学年の見分け方なんてものを今まで私立・豊教学院と何の関係も持っていなかった鷹尚が知る筈もない。なので、鷹尚は莉央へとその疑問を率直にぶつけることにした。
「念のために聞いておくけど、莉央って高校何年生なの?」
 莉央は「今更?」と言わんばかりに一度目を丸くして見せた後、如何にも「宜しくないことを閃きました」といわんばかりにとっても意地の悪い笑みを滲ませる。
「鷹尚クンには、あたしが何年生に見えるかな?」
 にんまりと微笑む莉央を前にして、鷹尚は内心「しまった」と思った。
 尤も、ここで上下どちらに年齢を間違ったところで、振れ幅が高校生に収まるのは救いだったろう。良くも悪くもいい年齢に差し掛かっていて、バリバリ若作りしてます感が漂う取り扱いの難しい適齢期(?)の女性が相手ではない。地雷を踏み抜いたとて、後々まで長く尾を引く禍根を残すような惨劇は生じない筈だ。
 それでも敢えて安全牌を狙うのなら、ここは直感よりも上を指しておくのが上分別だったろうか。
 鷹尚自身も含めて、莉央ぐらいの年齢層ならば大人っぽく見られて気を悪くする年頃ではない筈だからだ。
「大穴狙って、高校3年。……どう?」
 正直なところ、服装や雰囲気が大人っぽいから印象もそれに引き摺られるだけで、顔立ちだけから判断するならどこからどう見てもそうは見えないのだが、鷹尚は当てに行くよりも安全牌を選んだ格好だ。
 一方で、恐る恐るという具合に腫物を触るかの如く莉央の年齢を予測する鷹尚を、トラキチはただただ怪訝な表情で眺めていた。莉央の年齢というところに興味がないのもさることながら「大人に見られたい」とか「見掛けよりも若く見られたい」といった微妙な機微など何ともおかしな見栄にしか感じられないのだろう。
 そんな具合に一歩引いた感じのトラキチとは対象的に、莉央はパッと見でそれと分かるほどに上機嫌になった。得意気に胸を張って、莉央は鷹尚にこう聞き返す。
「あれ、鷹尚クンには実年齢より3つもお姉さんしているように見えちゃった?」
 上機嫌の莉央を前にして、何もかも狙い通りにことが進んだことに鷹尚が安堵の息を吐いたのも束の間のこと。不意に、そこで一つの重要な事実が判明してしまう。
「3つ? ちょっと待った。今、3つっていったか?」
「そうだよ? そういえば、自己紹介の時にそこら辺のことは一切触れてなかったもんね」
 カフェ・ビブリオフィリアでの顔合わせの時に何を話したのかを、莉央は振り返っていたのかも知れない。思案顔を合間に挟みつつそう切り出した後、改めて色々と補足を付け加えた自己紹介を始める。自身の制服の襟首を摘み上げると、そこにピンで止められた校章バッジを強調するようにして……だ。
「今更だけど、改めて自己紹介するね。豊教学院中等部3のD、香坂莉央だよ、鷹尚クン。一番楽な見分け方は、襟首にピンで止めてるこの校章バッジに目を向けることかな。端にちっちゃく中とか高の文字が入ってるからね。ただ、中等部からの生粋の豊教生で「編入組じゃない!」ってことを誇示するために、校章バッジを2つつけてる娘もいるからそこは注意かな」
 鷹尚は大きく口をあんぐりと開けると、全く驚きを隠そうとしなかった。
 確かに中高大を取り揃える豊教学院だから何らおかしな話ではないのだが、余りにも自分の知っている「中学3年」という印象から掛け離れていたことが大きかったのだろう。鷹尚の「その時期は?」といえば、自身の体調不良の絡みもあって積極的に周囲に交わる余裕なんてなかったのだから、情報として把握できていないだけかも知れない。それこそ、同年代の中でも大人びていたタイプは、今の莉央みたいな立ち居振る舞いをしていたのかも知れない。当然、大多数の同級生の学外での姿なんてものを鷹尚は知らないわけだから、その可能性は十分に考えられる。
 思うこともあり、色々と言いたいこともあったのだが、結局鷹尚はそれらの大半を飲み込んでしまった。
 わざわざ、口に出さなくても良いことを口にして莉央から不興を買う理由はないからだ。ただ、そうは言っても、例え不興を買うのだとしてもここで人生の先を歩くものとして言って置かなければならないことがあるのも事実だった。
 思い起こせば「控えなさい」と口を酸っぱくして言われながら、あれやこれやと以室商会の手伝いに精を出し、高校受験の後半戦で大いに苦労した経緯が鷹尚にあったからというのも多分にあっただろうか。
「俺が言うことじゃないかも知れないけど、中等部3年ってことは、来年高等部へ進級するんだろ? 協力者として色々手伝って貰えるのは有難いけど、学業には支障を来さない様にしろよ」
 そこまで真顔で口を切った後で、鷹尚は自分が継鷹と全く同じ科白を口走ったことに苦笑してしまう。
 状況的にいえば余りにも不自然な形で飛び出た鷹尚の苦笑だったのだが、当の莉央がそれを気にする素振りはなかった。精々、客観的に見れば高校受験を控える立場にある莉央が、こうして「戸永古書店の魔女」の一人として進んで活動していることに鷹尚が「呆れた」から漏れ出たアクションぐらいの認識だったのだろう。
 それを証明するかのように、莉央は自身が置かれる「高校受験を控える立場」について得意満面の顔でこう弁解する。軽くトンと胸を叩いて見せる辺り「何も問題はない」と自信を持って言えるようだ。
「大丈夫。悪い方の中高大一貫校だっていったじゃない? 外部のもっといいところに進学しようって子なら話は別だけど、豊教の高等部へ進むのなら形式的なテストがあるだけだし、さっきも言ったみたいにほぼ全自動だよ。……というか「一度も出席してませーん」とかでもない限り、行けちゃうんじゃないかな? 追試と補修で何とかなったって話もよく聞くし……」
 そんな具合に豊教の内情について話す莉央を前にして、鷹尚は何とも言えない表情だった。莉央自身、最後の方は真偽が定かではない風だったものの、それでも豊教の内情は鷹尚に取って十二分に衝撃を受けるに足るものでもある。
 そもそも、一体全体何が「大丈夫」だというのだろうか。
 勉強せずとも自動的に高等部へ進級できると説明したことに対して「なら、問題ないな」とでも返せばいいというのだろうか。とはいえ、自身が何度も耳にタコができる程に言い聞かされている「学生の本分は〜」という言葉で莉央を諫めようというのも、何か違う気がするのも確かだった。
 少なくとも、豊教に置ける莉央の生活態度や勉学に対する意欲どうこうについて、鷹尚がどうこう言える立場にはない。人生の先輩であることを盾に取ったって、年齢的には精々3つ程度しか離れていないのだ。まして、知り合って間もなく、その表面的な部分しか知ることができていない。
 同時に、例えそうであっても、一言「苦言を呈して置くべきではないのか?」と思うからこそ、その鷹尚の表情だったろう。
 一方で、莉央に取ってその鷹尚の反応は予想外だったようだ。当然、その説明で「ならいいか」みたいな反応が返って然るべきと考えていたようだ。
 そんな具合に、豊教に置いて「高校受験」という関所が何の意味も持たないことを説明したにも関わらず、未だ鷹尚の表情が優れないからだろう。莉央は豊教での自身の立ち居振る舞いに置いても「新級に対して小さな懸念の一つすらもない」と胸を張って見せる。
「しかも、内申点についても諸先生方から悪い印象が残らないよう一応露骨に手は打ってあるからね。ほら、そこは、こう見えても「魔女」ですから」
 続けざまに、得意気な顔で「手は打ってある」なんて言葉を口にする莉央に対して、鷹尚が向ける目付きは一気に険しいものになった。
 それまでの「豊教では何の問題もない」といった趣旨の説明から、一気に何らかの不正な手段を持って「問題がないようにしている」と状況が翻ったように、鷹尚には聞こえたのだろう。
 尤も、その手を打ったという内容について鷹尚がああだこうだと問い詰める間も与えず、莉央は自身の豊教における立ち位置についてこう付け加える。「何やら雲行きが怪しいな」と思った上でのものだったならば、それは炎上を未然に防止する大した手腕だと言えただろうか。
「それに、こう見えて、あたし、学校内では優等生なんだよ」
 その言い分は、豊教での日頃の行いがまずあって、あくまで「手を打ってある」は保険に過ぎないという趣旨だった。結果的に「手を打ってある」という言葉に強く反応した鷹尚を、前もって牽制した形でもある。
 直前まで莉央に対して「色々と問い詰めたいことがある」と色気だっていた鷹尚だったが、その勢いは全て牽制によって削がれてしまっていた。
 それでも、ぽろっと絞り出すように口を吐いて出た言葉は、紛れもない鷹尚の本音だったろう。
「……優等生だって? 嘘つけ」
 それは半ば無意識の内に口を吐いて出た言葉だったようで、鷹尚自身も吃驚した様子を隠さない。それまでの言動には「優等生」を自称したことに対し疑いの目を向ける余地がこれでもかって程にあったとはいえ、余りにも躊躇いなく全面的に莉央を突き放す否定の態度になってしまったからだ。
 こういうとあれだが、校内と校外とで莉央が器用に顔を使い分けているという可能性だって多分にあるわけだ。以室商会での言動を見る限り、要領よく立ち回れるだろう点に関して疑いの余地はないのだ。それこそ、ギャルライクな見た目は校外のみであって、校内ではもっと地味目な容姿になるよう徹底しているかも知れない。……とはいえ、ウィッグでも被っていない限りは髪色なんかは誤魔化せないのだから、ある程度は今こうして眼前に居る容姿のまま豊教でも学生をしている筈だ。
 鷹尚から全面的に突き放されたというのにも関わらず、莉央のノリは相変わらず軽い。莉央自身「そう言われても仕方がないな」と思っている節すらあった。
「いやー、鷹尚クンには普段のあたしの常識人振りをぜひとも見て貰いたいかな。「誰だ、お前!」ぐらいにはきっちりにゃんこ被っちゃってますから。豊教の校内でそれと知らずに擦れ違ったら、鷹尚クンが「え、誰?」ぐらいの反応を見せるぐらいにはきちんと優等生してる自信があるよ」
 その言い分に対して、鷹尚が一体どんな反応を見せるのか。意地の悪い印象を与える笑みを灯して見せる莉央は、それを楽しみにしていた節さえあった。
 ともあれ、莉央はそこでふいっと表情を切り替えてしまうと、話題を本筋へと移す。
「さて、世間話はこのぐらいにして、そろそろ駒居工業株式会社に向かいますか。余裕をもって西宿里川まで来た筈なのに、結局「高橋さんの退勤時刻に間に合いませんでした」じゃ何やってるのか分からないもんね」
 内心では、サボタージュ云々の部分を「上手いこと誤魔化せた♪」みたいな思いもあっただろうが、ここらでそろそろ本題に移らなければならないというのも紛れもない事実だった。
 だから、その認識自体に何ら反論の余地はなかったのだが、一連の莉央の言動を前にして鷹尚サイドにもどこか有耶無耶に濁された感が残ったことも事実だった。大本の話題は「高等部への進学にあたって学業を疎かにはするな」といった類の鷹尚サイドから小言を向ける形だった筈なのに、ふと気付けば完全に莉央サイドからやり込められるような構図になっていたのだからそう感じるなという方が無理があっただろう。
 そんな微妙な空気感を残しつつではあったものの、リタラ西宿里川を後にして昨日同様に西宿里川九丁目の十字路から大通りを南下し駒居工業株式会社へと至る経路を進み始めてしまえば、そんなものはあっという間に薄れてしまった。
 一度通行した道であるため、鷹尚・トラキチコンビは改めてその時代に取り残された感を漂わせる西宿里川の古い町並みに特段驚きの目を向けることはなかったが、一方の莉央はと言えばそうでもない風だったからだ。
 学園都市として区画整備が進んだ比較的新しい彩座水科や、同じように古い歴史を持つとは言え観光地としての側面を持っていたり学生の受け皿として常に変化を強いられて来た田本寺町辺りが行動範囲となる莉央に取って、その風景は何とも言えない光景だったのかも知れない。それこそ同じ彩座で「ここまで違うのか」と感じるぐらいには、インパクトがあったのは間違いないだろう。
 特に、生活感がこれでもかと漂う古い住宅街が続く光景の中にあって、鼻についた瞬間誰もが咄嗟に顔を顰めるだろう薬品の刺激臭なんかが隣接する工場群から漂ってくるという状況には、心底驚きを隠せない様子だった。彩座水科も宿里川も、元々は単独で存在していた「町」だったところが、財源やら公共福祉・サービスの提供の関係から彩座市に吸収合併された土地なのだが、その毛色の違いは余りにも鮮明だった。
 初火浦でもそうして見せたように、莉央は西宿里川の古い住宅街をキョロキョロと見渡しながら不意にこんなことを口にする。
「救いようがないぐらい色んな意味で酷い片田舎みたいに言ったけど、……面白いところだね、西宿里川。あちこち草臥れていて古くさい癖に、この土地を加護するものはほとんど何も残ってない」
 どう解釈しても良い意味には聞こえない言葉だったのだが、あれこれと古い住宅街の中に何かを見つけ出しては好奇心を隠そうともせず興味を示す莉央はとても楽しそうだった。少なくとも「面白い」といった言葉に嘘はないのだろう。
 そうして、それを踏まえて何か思うところがあるらしい。
 莉央は徐に腕組をして思案顔を取ると、ぶつぶつと誰に向けるでもなく言葉を発する。
「鬼郷の取調官がこちら側に失踪したなんて話を聞いた時にはどうせ物見遊山か何かだろうと思ったけど、失踪先がこんな西宿里川みたいなところばかりなら付入りようもあるだろうし何か企みがあってのことでもおかしくはないのかも……」
 それはあくまで自身の思考を整理するための独り言に過ぎなかったのだろうが、鷹尚やトラキチに取って不穏な内容だった。もちろん、そうやってぶつぶつと発せられた独り言の全てを鷹尚やトラキチが聞き取ったわけではなかったが、同時に如何にも今回の件に影響が及びそうな部分を都合よく聞き漏らすわけもなかった。
 ともあれ、楽しげで軽やかな足取りも、腕組をして思案顔を覗かせるスタンスも長くは続かなかった。古い住宅街を闊歩している内に、駒井工業株式会社が近づいてきたからである。
 すると、駒井工業株式会社到着まで後10分程度となった辺りで、莉央はハッと我に返ると徐に背負ったスクールバックをするりと肩から降ろした。そうしてスクールバックを漁って取り出したものは、丁寧にラベルを剥いだ500mLサイズのペットボトル2本である。
「忘れない内に、先に頼まれていたものを渡しておくね」
 憑依剥離剤として莉央が持参してきたものは、ペットボトルへなみなみと注ぎ込まれた無色透明の液体だった。
 鷹尚は差し出された500mLペットボトル二本をまじまじと眺める。パッと見では、無色透明であることもあってどこにでもある一般的な「飲料水」と何ら相違ないように映る。それこそ、何か微細な異物が混じるでもなく、比重が異なっていて妙に重量があるだとか、とろみ掛かっているだとかいったこともない。
 以室商会本店の店内に置いて今回用意して貰った「憑依剥離剤」について話をして貰っていたのだが、莉央はここで再度自身が差し出したペットボトルの中身について軽く説明を加える。
「これは強力な概念毒のフレグランスを持たせた液体なんだ。そうが言っても、あくまでフレグランスを持たせただけだから、万が一、普通の人が間違って浴びちゃっても飲んじゃっても体に悪影響はないわ」
 尤も、鷹尚に取っては、その取っ掛かりの部分から既に疑問符が頭上に付く格好だ。
「概念毒とは……?」
 莉央はそこで一旦思案顔を覗かせると、頭の中で概念毒の説明をまとめていたのだろう。
「実体を持たない霊体とか思念体とかいった類いのものを侵すことのできる毒……っていうような説明で分かって貰えるかな? 特に怨念とか強い感情を核として霊体を保っていたりするような実体のないものに対しては、即効性も遅効性もあって致命的なダメージを与えることができる毒だよ。拠り所にしている感情そのものに侵食していって、あっという間に削ぎ落していくんだ。実体を持たないから、核となる「思い」がなくなっちゃえばそれでおしまい。後には何も残らない」
 莉央が語った概念毒そのものについての説明を聞き、トラキチはその効能について疑問を抱いたようだ。
「それって、憑鬼にも効くものなのか?」
 トラキチが横合いから口を挟む形で向けた質問に、莉央は間髪入れずに答える。ある程度、そういう疑問が向くだろうことを予想していたのだろう。
 何せ、その説明では概念毒とやらが憑鬼に対して有効性を持つのかどうかが不明だったからだ。
「もしこれが本物の概念毒だったとしても、さすがに霊体や思念体程には有効じゃないよ。まぁ、同じように侵していってある程度効果的に影響を及ぼすことはできるだろうけど。でも、憑鬼自体に対してどれだけのダメージを与えられるかは問題じゃないよ。憑鬼が何よりも恐れるものは、概念毒の多くが持つ伝搬性なんだ。もし概念毒を鬼郷の世界に持ち込んでしまった場合、冥吏が最も忌避する事態が発生するから「強く曝露してはならないもの」だって鬼郷の憑鬼にはインプリティングされているの。あたしが知る限り冥吏とか憑鬼で概念毒を忌避しないものはいないよ」
 莉央の説明を聞いている内に、トラキチは概念毒フレグランス溶液に強い興味を惹かれたようだ。
「ちょっと嗅いで見てもいいか?」
 そういうが早いか、トラキチは500mLペットボトル2本の内、地面に置かれた方の1本を手に取るとそのまま躊躇うことなくキャップを撚った。
 莉央もその行為を「危険がある」とは認識していない様子で、静止を向けることはしなかったのだが……。
「あたし達には匂いを感じることはできないよ。猫又であるトラキチ君がどうなのかは分かんないけど、止めて置いた方が……」
 莉央がそう言い終えるよりも早く、鼻先をペットボトルの口先へと近付けたトラキチの頓狂な叫び声が響き渡る。
「アァー!! アァー!! やばい! やばいぜ! 何だコレ! ……あぁ、あれだ、砂糖を焦がす甘い匂いのすげぇ酷い奴だ。あれを気持ちが悪くなるぐらい濃縮したような匂いだ!」
 眉間に皺を寄せて顔を顰めるトラキチを、莉央は「いわんこっちゃない」といった呆れ顔で眺める。
 しかしながら、概念毒フレグランスに対するトラキチの反応は、その拒絶反応で収まらない。一気に青褪めゴホゴホと咳込んだ後、一つ間を置きすっと挙手をして具合の悪さを顕著に訴える。
「うッ! 気持ち悪い……。吐きそう……!」
 鷹尚が慌てる。
 さすがに、道のど真ん中で戻されるというのは体裁が悪い。しかもついさっき自分も小腹が空いたと宣ってビッグサイズのハンバーガーを一つ平らげたばかりでもある。このまま行くと、見るも無惨な感じのものがトラキチの口からは吐き出されること請け合いだ。
「おい、馬鹿、トラキチ、止めろ! ここでは吐くな! せめてそこらの茂みまで行って……」
「う、うおおおぇぇぇぇぇぇぇ……」


 ここから、しばらくお見苦しいシーンが続きます。
 少々お待ち下さい。


「……公園の水飲み場で、口濯いで来るわ」
 一通り、腹の中のものを吐き出したことで大分トラキチの具合も改善したようだった。
 ともあれ、トラキチが目の前で嘔吐したことに対して、莉央は心底反応に困った様子だった。概念毒フレグランス溶液を嗅ぎたいと言い出した時点で「もっと強く静止しておくべきだった」と思っていたかも知れないし、何よりもそもそもトラキチの体調面に影響を及ぼすことができた点に驚きを隠せないでいるようでもあった。
「トラキチクンにも効果抜群だったみたいだね」
「はー……」
 頭を抱える鷹尚の尻目に、公園の水飲み場に足を向けるトラキチの背を目で追いながら莉央が口を切る。
「さっきの説明で何となく察してくれたかも知れないけど、普通の人には何の効果も発揮しないよ。ただ、普通にペットボトルの液体を掛けられて「冷たい!」って思うぐらい」
 莉央から改めて概念毒フレグランス溶液が及ぼす影響力について説明されて、鷹尚は地面に置かれた500mLペットボトルに目を落とす。
「でもさ、憑鬼って高橋という一個の人間の体に憑依しているんだよな?」
「そこは憑鬼がどれくらいの深度で憑依しているかによって効果が変わってくるんだけど、……もしこのフレグランス溶液で剥がせないのだとしたら、それはもうかなり強引な手を使わないと駄目な段階まで行ってしまっているという認識で良いと思う。これで剥がせない程の深度で憑依されているとすると、高橋宗治って人は最悪憑鬼と融合しちゃう一歩手前ぐらいの段階まで憑依が進んじゃってることを意味するから、……その時は手を変える必要が出てくる」
 これで憑鬼を剥がせなければ、もっと根本的な対策が必要である……と莉央は言った。
 鳴橋にしろ白黒篝にしろ、憑鬼の失踪時期が何時であったのかを明言していない。さらに言えば、失踪直後にすぐ対象者へと憑依したかどうかも分かってはいない。
 そうだとするならば、この概念毒フレグランスで剥がせなかった場合のことも、いくらかは念頭に置いておかなければならないのではないか?
 それを踏まえて、鷹尚は莉央へと確認を向ける。
「ちなみに、あの量の材料からは2本しか作れなかったってこと?」
「そんなことはないよ。濃度にもよるけど昨日購入した量だけでも、500mLペットボトルで後10〜12本は概念毒フレグランス溶液は作れる。足りないのは、……ぶっちゃけ時間。抽出して、反応させて……と、いちいち時間が掛かるんだよね」
 今ここに概念毒フレグランス溶液が2本しかないのは「時間がネックだから」という回答は、鷹尚に取って非常に心強いものだった。仮に今回失敗したとしても、十分やり直しが効くというのは何よりも有難い。もし、今回も想定外の事態が発生したとして、前回同様「仕切り直す」という手を取れるのは心情的にかなり大きい。
 次回に対する懸念事項はいくらか生じる形になるが、いざとなったら退くことができるのだ。失敗を恐れず果敢にチャレンジできる下地があるっといって過言ではなかっただろう。
「で、この概念毒フレグランス溶液で憑鬼を剥がしたら、後はこの細環封柱に閉じ込める」
 次に莉央がスクールバックから取り出したものは、以室商会本店で事前に説明された通りの八面柱型の箱だった。
 本体にはこれといった装飾らしい装飾もなく、合わせ面なんかは木工用の接着剤か何かで張り合わせただけの手作り感満載のものだ。そこに(正確には分からないが)植物の蔦のようなものを捩じって編み込んで紐を作り、それをぐるっと縛るかのように取り回してある。
 その見た目から「箱」といったものの、パッと見た感じではどこかが開閉するような構造をしているようには見えず、正しい表現ではなかったかもしれない。尤も、この細環封柱とやらが備えた機能を発揮する際、そもそも開閉を必要とするのかどうかも鷹尚は把握していない。
 そういう経緯もあって、嘗め回すかのようにその細環封柱をジロジロと鷹尚は眺めていたのだが、八面柱を張り合わせた上部を莉央が力任せにパカッと開封して見せたことで「そういう構造なんだ」と目を丸くした。
 触ってみる?
 そう言わんばかりに差し出された細環封柱を莉央から受取り、鷹尚はその細部までをも確認するように眺めた。
 内側の面のそれぞれには何か記号のようなものが書き記されていることや、内部の底面に黒色で半透明の八角柱の石のようなものが貼り付けられていたりと、その原理・構造は解らないながら莉央がいったような効果を発揮してくれるのだろう。
 余りにも熱心にジロジロと隈無く長め長め見るから、莉央は自作の細環封柱を「何かと見比べられているのかも」とでも思ったのかも知れない。その出来について、こう付け加える。
「ちょっと見てくれは悪いかもだけど、予算とあたしの腕を天秤に掛けて最良だと思う出来に仕立てあげてあるよ。まぁ、材料や作り方によって中に収められる範囲や強度が変わってくる代物で「欲を言えば……」っていうところは正直あるはあるけどね。特に、要の封印維持の機構については入念に作り込んである」
 ともあれ、そこで心血を注いだと胸を張ったまでは良かったのだが、莉央はそこから一気にトーンダウンする。
「ただ、これが鷹尚クンの追う憑鬼に対して十分なものかどうかは、正直あたしには判断できないのも事実。憑鬼っていってもピンキリだから、あたしが想像しているものよりもずっと強力な相手なのかも知れないし……。それこそ、あたしが相手をしたことのある憑鬼なんて、こちらに交渉事をしにやってくる下級冥吏にも遠く及ばないようなのばかりだからね」
 いくら現時点で作ることのできる最良の品質に仕立てあげたとはいっても、相手のランクが正確に把握できないことにはそれで十分かどうか明言できないという莉央の姿勢は確かにその通りだろう。
 やはり、憑依の深度に絡む剥離剤の件も踏まえ「失敗するかも知れない」ことを前もって想定しておくべきなのだろう。なに、際まで追い詰められていてにっちもさっちも行かないわけではないのだ。駄目だと分かった時点で退けばいい。
 特に取り決めておかなければならないパターンは、概念毒フレグランス溶液が有効で、この細環封柱が相手のランクに合わなかったようなパターンだろうか。
 事前に話しておくべきことを、莉央に対して話しながら軽く頭でも整理しておこうと考えた矢先のこと。いつの間にか、鷹尚の背後まで戻ってきていたトラキチが口を切る。
「待たせたな! トラキチ選手、無事完全復活!」
 水で口を漱ぎ、何なら顔を洗ってきたのだろう。トラキチはところどころ濡れた前髪をすっと掻き揚げると、キリッとしたドヤ顔を作って親指を立てて見せる。尤も、ついさっき道路のど真ん中で我慢もままならず嘔吐するという醜態をさらした後では全く様になっていなかったのだが、当のトラキチがそんなことを気にした様子は微塵もなかった。
「お、これが例の細環封柱って奴かい?」
「そう。莉央が作った渾身の一作」
「へぇ」
 ジロジロとその渾身の一作を見遣るトラキチの表情からは「以外とちゃちな代物なんだな……」といったような感想を抱いていることが一目で見て取れた。
 ともあれ、トラキチとそんなやりとりをしている横で、莉央はスクールバックをしっかと背負い直す。
「それじゃあ、前以て打ち合わせた通り、あたしは細環封柱で封じるテリトリーの準備に取り掛かることにする。テリトリーを構築する場所は、西宿里川住吉(すみよし)にある三角公園。近くに似たような場所はないけど、……間違えないでね? それと、テリトリー構築後、あたしはそこで待機する。それでオーケーだよね、鷹尚クン?」
 莉央からそう確認を向けられ、鷹尚は一つの間を置いた後、ゆっくりと、しかし重々しく頷く。
「あぁ、うん。それで間違いないよ」
「テリトリー構築が無駄になることを、心から願ってるよ」
 莉央はそう告げると、鷹尚の手から細環封柱を受取り、くるりと踵を返した。
 ここからは別行動になる。……というよりも、莉央には細環封柱を正しく発動させるための下準備に取り掛かって貰うことになる。下準備が整ったら莉央からチャットアプリで連絡を貰うことになっているが、恐らくメッセージが送られて来るのを待つということはないだろう。
 その下準備とやらは、莉央曰く「ここから駒井工業株式会社へと移動する10分程度の時間で終わらせられる」手筈となっているからだ。
 色々と思うことがあって押し黙り、莉央の背をその目で追う鷹尚の肩にトラキチの手が伸びた。
 莉央へと細環封柱を差し出す手が僅かに震えていたことを、トラキチは見逃してくれない。
「まぁ、そう緊張するなよ。肩肘張らずに行こうぜ。リラックス、リラックス。こっちがガッチガチに緊張でもしていてみろ、あちらさんも警戒度マックスで身構えてくるだろうよ。それとも、問答無用で高橋宗治に概念毒フレグランス溶液をぶっかけますって手筈でいくかい?」
 大地に置かれたままの500mLペットボトルを拾い上げながらトラキチが首を傾け鷹尚へと問いかけた。
 もし、そこで「やっぱりそうしよう」なんて言い出しても、トラキチは鷹尚に非難の言葉は向けないかも知れない。
 それでも、トラキチの言葉に鷹尚はゆっくりと首を左右に振った。
「言葉が通じる相手なんだ。お互い分かり合えるならそれに越したことはない」
 そこで一旦一呼吸を置くと、鷹尚が小さく気を吐く。
「さて、じゃあ、行きますか!」




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