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Seen05 駒井工業株式会社の憑鬼と戸永古書店の魔女(上)


 鷹尚達が西宿里川地区の玄関口となる「西宿里川工業団地前」のバス停留所前までやってきのたは、18:05の到着予定時刻から15分程遅れた頃合いだった。都合良く「西宿里川工業団地前」へ18:00を僅かに過ぎる到着予定時刻の市営バスに飛び乗れたまでは良かったのだが、道路の混み合い具合の関係もあって現在進行形で遅延が発生している形だった。尤も、遅延が発生していたとは言っても、こと「西宿里川地区の玄関口までは」という点に絞れば大凡目論み通りの時間配分で移動できたと言っても過言では無かった。
 そして、西宿里川で遅延が発生するという点も、鷹尚は半ば覚悟していたといって良かった。
 西宿里川地区とは、彩座の中でも交通の便が悪いことで有名な地域であり、基本的に多かれ少なかれ公共交通機関にいつも遅延が発生しているような場所なのだ。
 この公共交通機関の遅延という部分に関して言うと、まずもって地形的なことが挙げられる。
 西宿里川とは三角州の上流に位置して、扇状地のどんどんと奥まっていく部分に相当する土地だ。下流側の四上宿から上流へと進んでいけば、平地が狭まっていくのを身を以て実感することができるだろう。加えて、ただでさえ平地が狭まる場所なのにも関わらず、古くから工業地帯として発展してきたことで建築密度・人口密度ともに高いのだ。
 この工業地帯は西宿里川からさらに扇状地の上流部・山間部に位置する東宿里川まで続いているのだが、この縦幅が狭く横に長いというところが、自動車の通行に置いてボトルネックを生む最大の要因となっている。
 工業地帯を横に突っ切る主要幹線道路自体は片側2車線で、交差点の右左折には別レーンを用意するほど立派なものが敷設されているのだが、如何せん行き交う交通量が多過ぎるのだ。町自体が古いこともあり、主要幹線道路以外は抜け道という抜け道もない。下手に裏手へ入ろうものなら、すぐに入組んだ路地が広がったり、大型車どころか中型クラスのSUVでさえ通行できないような場所もたくさんある。
 そして、そんな交通環境下にあるにも関わらず、東西の宿里川へアクセス可能な公共交通機関は市営バスのみと来ているのだ。それこそ、バス専用レーンや優先時間帯指定といったものすらないのに「定時運行せよ」という方が無理のある環境だと言って良いだろうか。
 さらに言えば、今回ばかりは鷹尚・トラキチが市営バスを利用した時間帯も悪かった。最も混み合う通勤・退勤時刻にほぼ丸被りする形だった。
 定時運行に対する環境が最悪に近い状況の中、鷹尚は100%に近い乗車率で混雑している市営バスの窓から進行方向の渋滞具合を確認した後、トラキチにこう耳打ちする。
「駄目だ、トラキチ。次で降りよう」
「まだ西宿里川の玄関口だってのに、もう降りるのか?」
 トラキチが疑問に思ったように、駒井工業株式会社の最寄りのバスストップはここではない。ここから三つ先の「西宿里川9丁目前」というバス停留所が最寄りになる。尤も、そこまで市営バスに乗車を続けて移動するよりも、降りて歩いた方が早いと判断したからこその鷹尚のその言葉だった。
「このままこのバスに乗っているより歩いた方がずっと早い」
「ああ、まぁ、それはそうかも知れねぇな」
 鷹尚に続いてバスの窓から渋滞具合を確認したトラキチは、その意見に素直に同意した。
 交差点の信号の切り替わりタイミングで、西宿里川工業団地の敷地内からはたくさんの本線合流待ちの自動車が次々とやって来て、市営バスは先程から全くといって良いほど進んでいないのだからだ。
 西宿里川の玄関口までの運行遅延よりも、下手をすればここから先の遅延の方が長くなるかも知れない。なぜならば、 既に信号が赤から青になるのを三回繰り返しているのに、進んだ距離は精々100mかそこらなのだ。
 鷹尚がそう思ったのも、ある意味当然だったろう。
 ともあれ、トラキチとそんなやりとりをしてから20分近くが経過してようやく、鷹尚達は西宿里川工業団地前の次のバス停留所で市営バスを降車することができた格好だった。
 市営バスを降車してまず真っ先に鷹尚が感じたことは「一気に薄暗くなった」という思いだった。駒井工業株式会社までの移動時間を少しでも短縮しようと路地に入っていこうものならすぐさま迷ってしまいそうな雰囲気すらある。
 ルート案内アプリを頼るとはいえ、基本は人通りの多い大きな道沿いを移動するルートが好ましいように鷹尚は感じたのだろう。立ち上げていたスマホのルート案内アプリの検索条件を「時間優先」から「幹線道路優先」に切替えると、鷹尚はすっと周囲の景色にめを向ける。
「えーと、ここから大通りを徒歩15分ぐらい直進したところに、リタラ西宿里川店っていうでかいショッピングモールがある。まずはそこまで行って、西宿里川8丁目の交差点を右折。そこからしばらく直進すると、右手にガソリンスタンドがあるのでその交差点を左折。後は道なりに行くと、左手に駒井工業株式会社の建物が見えてくる、……筈」
 目的地に到る大まかなルートを鷹尚が口にすると、二人はどちらからともなく歩き始めた。
 西宿里川を歩いていくと、ここが工業地帯と言いつつ様々な業種の工場だけがずらりと並べられたような場所で無いことが分かる。それこそ、企業の工場だけが立て続けに乱立しているのは「工業団地」として区画整備されたような場所だけで、大多数はその中にそこで働く住人の住宅地や学校といった生活基盤を内包している形だった。
 歩きながら周囲の景色を見渡す限り、主要幹線道路脇には戸建ての住宅は少なく、どれも5〜6階建てのアパートやマンションといった形態が多いように感じられた。もちろん、時折15階建てはあろうかという程の高層マンションなども目に付くが、総数は他所の都市部と比較するまでもなく少ないだろう。
 景色に目を向けながらルート案内アプリに沿って進んでいる内にリタラ西宿里川店という一際大きなショッピングモールが見えてきて、鷹尚達は案内されるままに西宿里川8丁目の交差点を右折する。そうすると、町並みの景色は一気に変貌した。片道二車線の主要幹線道路が通る大通りですら場所によっては年代物を感じる建造物や看板といったものが目に付いたが、一度脇道に入ってしまってからはその比ではなかったのだ。
 まず真っ先に感じるものが、車が行き交うのに注意を払う必要があるほど道の幅が狭いと言うことだ。しかも、歩道は縁石などによって物理的に区切られておらず、車道の端に白線によって示されているだけだ。自動車自体の交通量はそこまで多くないとはいえ、そんな場所を自転車や人もが行き交うのだから必然的に混雑する要因の一つになるのは目に見えている。
 景色に目を向けると、アパートやマンションと言った集合住宅の合間合間に、区画で仕切られたように戸建ての住宅が立ち並ぶようになる。目に見えて荒廃しているだとか廃墟前としたものが混ざるだとかはないものの、今の流行りの建築様式ではなく昔ながらの瓦葺きの家々が多くを占めているのが特徴だろうか。しかも、その家々の間の間隔が非常に狭く土地の無いところに最大効率の居住空間を設けようとしたのが見て取れる辺りが、この場所が昔から工業地帯として人を集め、そうして時代を積み重ねてきた古い町であることを強く意識させた。
 もちろん、細かな点を言えば、より年代感とかくたびれ取り残されつつある世界だということ意識させられるものは無数にある。
 金属製の雨樋の錆。
 蔦が這ったり、色褪せたポスターが貼られたままであったり、風雨に晒され変色したりしたレンガ塀。
 ところどころに小さなひび割れが目に付き細かな隆起の発生したアスファルト。
 小さな公園の敷地に立てられた看板は、端部の破損や汚損の修繕までは手が回らないようだ。
 そこには閉塞感とまでは言わないものの、四上宿が醸すものとはまた一線を画す圧迫感・窮屈感がある。
 そんな西宿里川の住宅地をルート案内アプリに従ってひたすらてくてくと歩いて行くと、次の目印になっていたガソリンスタンドへと辿り着く。尤も、そのガソリンスタンドは既に廃業している様子で、人が中に立ち入ることがないよう敷地をぐるりと鉄の鎖によって封鎖していた。天井の一部が崩落したりしているところを見ると、廃業してからかなりの年数が経っているようだったが、特に手入れされることもなくそのまま放置されているのだろう。
 ガソリンスタンドが接する交差点をルート案内アプリに従って左折し進んでいくと「社員寮」という看板を掲げ、ほぼ同形状のアパートが5棟6棟と並んでいる区画に出る。そして、そこまでやって来ると駒井工業株式会社と思しき会社の敷地はすぐに見付けることができた。
 そこは駒井工業株式会社と思しき敷地の向かい、そしてその隣と、他にも三つぐらいの企業が集まっている区画で、一際街灯の明かりが煌々と闇を裂く場所だった。 
 廃業したガソリンスタンド側から進入すると道路に沿ってまず左手に野晒し未舗装の社員向け駐車場があって、その横に正門がある。敷地は背丈のある灰色のモルタル塀でぐるっと囲われており、敷地内への出入りは原則正門からのみ可能なようだった。とは言え、特別セキュリティに気を配られているだとかいうことはないようだ。
 正門には守衛が居て社外者に対する立入制限が厳格になされてるというわけでもなく、それこそゲートのようなものがあって敷地内への出入りにセキュリティカードを必要とするわけでもないようなのだ。パッと見てそれとわからないように監視カメラぐらいは設置されているのだろうが、正門は開けっぴろげでありその気になれば容易に進入することも可能だろう。
 灰色のモルタル塀にしてもそうだ。「背丈がある」とはいったものの、助走を付けて飛びつくまでもなく上面に手が届くぐらいの高さであり、よじ登れば軽く越えることができるだろう。
 さて、駒井工業株式会社までやってきた。
 時刻は19:30になろうかという頃合い。
 では「どうしようか?」と相成る。
 本来ならば19:00までに余裕を持って到着し正門前で高橋を待伏せする腹積もりだったのだが、予定通りにことが運ばなかったのだから、まずは仕方がない。遅延に関して言えば、鷹尚達の努力でどうにかできる問題ではなかったのだ。
 電話で確認した限りでは、高橋は19:00の帰社予定といっていたので運が悪ければ既に帰宅している可能性もあった。そうして、日時的な面から状況を鑑みると、高橋が「会社に残っている」という方に賭けるのも些か分が悪かった。何せ、本日は週末の金曜日である。人によっては仕事を早めに切り上げ、同僚と繁華街へ外食に行ったりノミニケーションに精を出すこともあるだろう。
 駒井工業株式会社の正門は、時折中から出てくる人は居れど外から敷地内へと入っていく人は居ない。
 取りあえず、鷹尚とトラキチは駒井工業株式会社の正門前から移動した。ちょうど道路を挟んで反対側の歩道へと移った格好だ。ちなみに、反対側にある会社は相馬化成(そうまかせい)という名称で、既に建物の明かりは全て消灯していて門も閉め切られていた。
 相馬化成も自社の敷地を駒井工業株式会社同様灰色のモルタル塀でぐるりと囲っていたのだが、既に終業しているためか会社前の歩道を照らす明かりが控えめなのだ。それこそ、締め切られた門の横に掲げられた「相馬化成」の社名石を照らすライトアップが目映いぐらいで、歩道には等間隔で薄暗がりが存在している。
 駒井工業株式会社の正門から出てくる人の往来を、目立つことなく遠目に窺うにはそっちの通りの方が最適だと判断したわけだ。
 電柱横の薄暗がりに身を潜め相馬化成のモルタル塀に背を預けると、鷹尚は改めて駒井工業株式会社の正門の様子を遠目に窺う。正門の奥にある二階建ての建物も、そこに隣接する工場と思しき平屋の建物もまだ煌々と明かりを灯していた。週末の金曜日ながら、駒井工業株式会社が終業を告げ正門を完全に施錠するのはまだ先なのだろう。
 ここで、まだ駒井工業株式会社の社内に居るかどうかも分からない高橋を待つべきか?
 それとも、日を改めるべきか?
 そんな選択肢を突き付けられて鷹尚が腕組みをして「うーん」と唸り始めた矢先のこと。
 不意に、トラキチが鷹尚の耳元へと顔を寄せる。
「あいつだ、間違いない。高橋宗治だ。行き当たりばったりで、すんなりとご対面できるなんて憑いてるぜ!」
 そう確信を持つトラキチとは裏腹に、正門から出てきた男が高橋かどうかを鷹尚は判別できない。
 憑依先候補者「高橋宗治」の顔自体はリストの写真から割れていたとはいえ、さすがにしっかと見比べないことには確信を持てないというのが鷹尚の正直な感想だった。
 それは、遠目に眺めているというのももちろん影響したのだろうが、格好が写真のものと異なっているだとか、写真と同じように真正面から顔を確認できないとかいう辺りが主な要因だ。高橋と思しき男が作業着+作業帽という出で立ちのまま帰宅の途に就いていたことも、鷹尚の判別難易度を上げた要因だったかも知れない。
 夜目の利くトラキチが同行していなければ、まず間違いなく見落としていただろう。
 ここに来て幸運だったことは、高橋と思しき男が自家用車による出退勤ではなかったことだ。
 高橋と思しき男は敷地横の駐車場スペースとは真逆の方向へと進み出る格好だ。
 もし、高橋と思しき男が敷地横の駐車場で自家用車に乗りこもうとする場合、接触を試みようとするのならば自家用車へと乗り込むまでの短い時間で、且つ駒井工業株式会社近傍でのアクションが必要になる。それは、好ましくない。
 接触を試みた際に高橋と思しき男がどんな行動に出るかは分からないながら、下手をすると暴れ出す可能性も考えられるからだ。高橋と思しき男相手に一悶着となってやむなく強硬手段となった際、警察を呼ばれて事件に発展となれば非常に面倒くさい話になること請け合いである。
 高橋と思しき男が逃亡を試みる場合だってそうだ。基本的には、後を追って捕まえなければならない。そのゴタゴタが多くの人目に付く可能性がある。
 人目のある場所での接触は「できる限り避けたい」というのが鷹尚の本音だった。
 そんな風に状況を整理していると、トラキチが鷹尚の脇を突く。
「後を追おうぜ。ここまで来たら、当然接触するんだろ?」
「あぁ、もちろん」
 鷹尚がそう返事を口にするよりも早く、トラキチは高橋の後を追うべく行動を開始していた。
 どうやら、高橋と思しき男はこの近隣地域に居住しているらしかった。高橋が足を進める先は、小学校や公園を内包した団地やアパート群が一所にまとめられた、工業地帯の中でも取り分け住宅街のみが立地する区画だ。主要幹線道路のある大通りからは離れる方向になるため、このルートで最終的に西宿里川を離れるとは考え難い。
 ともあれ、鷹尚とトラキチは高橋と思しき男から10m程度距離が開いたところでその後を追って歩き出す。
 当然、鷹尚・トラキチに尾行のスキルなどない。従って、それが相手に気付かれない適正な距離感かどうかといった知識もない。それでも、高橋と思しき男が自身を尾行すべく動き出した二つの影に気付いた様子は微塵もなかった。
 鷹尚は、慎重に高橋と思しき男へ声を掛ける場所を選定していた。
 人目のある場所は、可能な限り避けたい。そうなると閑静な住宅街も、アパート群が立ち並ぶ区画も好ましくない。
 そんな思考を巡らせながら付かず離れずの距離を保ちつつ高橋の後を付いて歩いていると、向かって右手側が中規模サイズの児童公園、反対側が完全に明かりの消えた人気のない平屋建ての倉庫のような建物……といった絶好の場所に出る。
 ここしかない。
 鷹尚は距離を詰めるべく足早に歩き出すと、すうと息を呑んで腹を括る。
「高橋宗治さん、……で間違いありませんか?」
 声を向けられた高橋と思しき男は、その場でぴたりと足を止める。そうして、たっぷりと一つの間を置いた後、特に警戒するでもなくくるりと振り返った。いきなり呼び止められたことで、やや訝るように鷹尚とトラキチを交互に眺めはしたものの、そこに敵を見るような強い拒絶感はない。
「そうだけど、……どちら様?」
 高橋は、よくも悪くも白黒篝から受け取ったリストの写真そのままだった。
 やや浅黒い肌で日に焼けた感のある茶髪のにいちゃんで、まさに「体育会系でした」といわんばかりの体格をしていた。尤も、リストは履歴書に貼られる証明写真のようにスーツ姿で身嗜みを整えピリッとした表情だったから一見好青年そうな印象を受けたが、今目の当たりにする作業着姿に無精髭の高橋はどちらかいうと逆に取っ付き難さすら感じさせる出で立ちだと言っていい。
 鷹尚は気圧されないようにすぅっと息を呑み気合を入れ直すと、くっと高橋に向き尚る。
「初めまして、以室商会と言います」
「キャッチサービスとかの類なら、悪いけどお断りだぜ」
 商会という単語から、高橋は「キャッチサービスの類」を連想したようだ。やや突き放すような口調で間髪入れずにそう言い放つと、ふいっと踵を返してこの場から離れようとする。しかしながら、そんな高橋の進路を妨害するようにトラキチが割り込み立ち塞がる。そうすると、さしもの高橋もその足を止めざるを得なかった。
「ま、ちょっとだけ話を聞いていってやってくれよ。確認したいことがあるだけだ」
「……」
 半ば強引に高橋の進路を妨害したトラキチだったが、まだそこに明確な敵意の色といったものを灯すことはない。
 だからというわけでもないのだろうが、高橋も気色ばむといった段階まで踏み込むことはない。ややむっとした様子を見せつつも、黙ってトラキチに抗議の姿勢を見せるだけだ。
 今回、アポなしという形を取ることで鷹尚は高橋に駒井工業株式会社から逃走される恐れを潰したつもりだった。また、前もって準備されるのを防いだつもりだった。現に、憑鬼を憑依させていると思しき高橋は、何ら変わることなく日常生活を送っていたし、今日もこうして何ら変わることなく駒井工業株式会社に出社し仕事をして帰宅しようとしている。
 体育会系でいくら高橋の体格がいいとはいっても、鷹尚サイドには人間離れした力を使える猫又のトラキチがいる。
 ”武器を携帯しているでもなければいくら大の大人が相手だとは言っても、二人掛かりで取り押さえることはそう難しくはない筈”
 ここまでは、鷹尚の思惑通りにことは運んでいた。
 押し黙ったままの高橋に対して、鷹尚は言葉を選びながら一つ一つ質問をぶつけていく。
「今から三か月前、高橋さんは駒居工業株式会社の敷地内で発生した事故で一時意識不明の重体になりましたよね? その時のことを高橋さんは覚えていますか?」
「……」
 鷹尚から投げ掛けられた問いに対して、高橋は何ら反応を返さなかった。
 じっと鷹尚を注視しながら、その対話の意図を探っているのだろう。
 尤も、高橋が反応を返さないからといってそこで鷹尚が押し黙るというわけにもいかない。
 鷹尚は一方的に話を続ける。
「高橋さんの記憶に残っているかどうかはわかりませんが、一時意識不明となった時に高橋さんの魂は肉体を離れ「鬼郷」という世界に足を踏み入れました。鬼郷とは、簡単に言うと輪廻転生を待つ死者の魂が訪れる場所です。高橋さんは今こうして鬼郷から現世に戻ってきているわけですが、……鬼郷で出会った「誰か」と約束を交わしたりしませんでしたか?」
 鷹尚がつらつらと言葉を続ける最中にあって、高橋はただただ黙ってそれを聞いていた。相変わらず、そのスタンスは変わらない。興味を持っているのか、何か「荒唐無稽なことを宣っているな」とでも思っているのか。鷹尚をじっと注視する高橋の視線から、その奥にある感情を読み解くことはできなかった。
 鷹尚も一足飛びに「憑鬼」へと触れることはせず、様々な可能性を踏まえてゆっくりと話を進めていた。
 高橋が、憑鬼を憑依させていない可能性。そして、憑鬼を憑依させていながら高橋自身にその認識が全く無い可能性。さらには、順を追って鬼郷の話をしたように、そもそもそこに足を踏み入れたことさえ記憶に残っていない可能性といったところを考慮する必要があったのだ。
 しかしながら、鷹尚が件の「誰か」について高橋へと踏み込まんとした矢先のこと。
 不意にそんな高橋のスタンスが崩れる。
「合言葉は?」
 口を開いた高橋からは、鷹尚が全く想像だにしていない単語が飛び出してきた。
 当初、鷹尚はそれが自身に向けられたものかどうかすら咄嗟に判断できなかったのかも知れない。
「合言葉?」
 そこに至って、鷹尚は鸚鵡返しに聞き返すのが精一杯だった。
 何せ全く脈絡のない単語だ。
 戸惑う鷹尚を前にして、一転、真意を窺おうとする高橋の態度はこれでもかという程に険しい形相を取る。
「ああ、合言葉だ。そういう話をしたいなら、まず俺に対して投げ掛けるべき合言葉があるだろう?」
 鷹尚はすかさずトラキチと顔を見合わせる。
 即ち、それはトラキチに当てずっぽうでもいいから何か心当たりになりそうな言葉があるかを尋ねた形でもあったのだが、そのやり取りを間近で見ていた高橋は「もういい」と言わんばかりに深い溜め息を吐き出すのだった。
 周囲を漂う空気というものが、その「質」を一気に変えた瞬間でもある。閑静な住宅街に横たわっていた喧騒を厭う夜の雰囲気は、緊張感を伴った不気味で張り詰めたそれに取って変わられた。その空気の中心にあるものは高橋その人であり、その裏に憑鬼が潜むだろうことを如実に意識させる。
 敵意の籠もった目を鷹尚に向ける高橋は、嫌悪感を剥き出しにして吐き捨てる。
「人ってのは見掛けに寄らないもんだな。まさか、お前達みたいなのが、こっちに逃れた俺を抹消する為に雇われた連中だなんてな! もっと、厳つくて仰々しいのが出てくると思っていたぜ!」
「待った、俺達以室商会はあなたを抹消するためにここに来たわけじゃない」
「そんな言葉で俺を騙そうったって無駄だぜ! 返り討ちにしてやるから覚悟しな!」
 高橋は、いや、高橋に憑依する憑鬼は、鷹尚の言葉に全く聞く耳を持たなかった。自分達よりも前に現の世界へと渡った憑鬼が、どのような末路を辿ったのかを風の噂で耳にしていたのかも知れない。
 高橋が一際大きく気を吐いたところで、すぐにトラキチがそうとは悟られないよう間合いを詰める。
 鷹尚相手に牙を向いて威嚇する高橋は、今すぐにでも距離を詰めて襲いかかってきたとしても何ら不思議ではない体制だった。尤も、自身を奮い立たせるべく口にした気を吐く言葉によって、冷静さを欠く程の興奮状態に陥ったのは悪手だったといえただろう。
 じりじりと背後から距離を詰めていたトラキチが、高橋の隙を突いて飛びかかったのだ。
 トラキチはまず、高橋の利き手を取る。
 先手を取られるとは、万に一つも思っていなかったのだろう。慌てる高橋はすぐさまトラキチを振り払おうとするものの、その動きも完全に読まれていた。……というよりも、トラキチが相手を取り押さえる術に長けているという言い方の方が適当かも知れない。
 業務上必要となる対人用技術の一つだとして、継鷹よりみっちり教え込まれたらしい。
 トラキチは高橋の動きに合わせてするりするりと流れるように動き、あっという間に背後を取る。そうすると、高橋はあれよあれよという間に不利な体勢に追い込まれて行って、ふと気づけば完全に拘束されるようになっていた。利き手は後ろ手に取られてしまって、もう片方の手も思い通りには動かせない。
 後は足を払って転ばせ身動き取れないようにしてしまえば「それまで」という一歩手前のところまで追い込んだのだが、高橋はそこから力任せに暴れ回ってトラキチの拘束を振り払う。
「うおおおぉぉぉッッ!!」
 高橋の咆哮一線。
 トラキチは眉間に皺を寄せつつ、一歩二歩と間合いを取って後退していた。
「嘘だろ? 今の、人間が出せるレベルの力じゃないぜ?」
 振り払われた側のトラキチは、ダメージらしいダメージを負ったわけではないようだ。一時は抑え込もうとしたものの、意図せぬ高橋の馬鹿力に早々に諦めたことが功を奏したようだ。
 改めて警戒感を前面に押し出し距離を取るトラキチに対し、その一方で高橋の側も猪突猛進の勢いを失いつつあった。
 今のやり取りを経て、トラキチ相手に徒手空拳では分が悪いことを嫌というほど理解させられたからだろう。今回はどうにか拘束を振り払えたとは言え、次も同じように振り払えるとは限らない。しかも、高橋に取ってしてみれば、そのトラキチに加えてもう一人、どんな能力を秘めているかが不明な鷹尚が居るのだ。もちろん、実際には鷹尚に憑鬼を宿した高橋をどうこうする力なんてものはないのだが……。
 鷹尚サイドに立って見るならば、その事実が明らかになっていない状態こそが優位な状況といえただろうか。
 そこに膠着状態が生まれるかと思いきや、二対一という状況のまずさをまざまざと理解した高橋は、ここに来てさっと身を翻すと公園の方へと走り出す。そのまま逃亡を図るのかとも思わけたのだが、高橋は脇にある一時停止の標識付近で立ち止まると再び身を翻して鷹尚達へと向き直る。
 既に後を追う体制に入っていたトラキチが足を止め、場は睨み合いの様相を呈する。
 しかしながら、状況的にやや不利であるはずの高橋は、一先ず目的は達成できたと言わんばかりに不敵な笑みを灯してみせるのだった。
 次の瞬間、高橋が再び咆哮をあげる。
「うおぉぉぉッ!」
 気合一線。
 そうして力を籠めると、高橋は一時停止の標識を固定ブロックごと引き抜いて見せた。
 想像だにしていなかった事態を前にして、鷹尚とトラキチは思わず呆気にとられる。
「おいおい、まじかよ……。憑依した人間の体で、こんな力を引き出すことができるってのか? こいつを相手にするのは、ちょっと厄介そうだぜ」
 まさか、力任せに一時停止の標識を引っこ抜くだけの力を人間である高橋が備えていたということはあるまい。そうすると、今、高橋が発揮する常軌を逸した怪力の源は憑鬼によるものだと推察できる。
 鷹尚は作戦の練り直しを強いられた。
 とてもではないが、人の領域を大きく逸脱した力を振るうことのできる相手を、いくら数で優っているからと言って簡単に取り押さえられるわけがない。見立ては完全に狂った格好だ。
 あわよくば、トラキチと二人掛かりで高橋をふんじばり、その足で身柄を冥吏に引き渡す……なんてストーリーを思い描いていたわけだったのだが、出だしから完全に頓挫した形だ。
 どう作戦を練り直したものか?
 そもそも今こうして高橋と面と向かって対峙している状況で、それは可能なのか?
 鷹尚の表情が歪む。
 それを高橋は「相手が怯んだ」とでも受け取ったのだろうか。
「ああああああぁぁぁ!! 覚悟しな!」
 再び咆哮を上げると、手にした一時停止の標識を振り回して見せる。尤も、現時点では、それはあくまで牽制でしかなかった筈だ。
 なぜならば、その一撃は一時停止の標識の長さを鑑みるに、到底鷹尚・トラキチまで届く一撃ではなかったからだ。
 せめて同時に距離を詰めて繰り出そうと試みたのならば、そこに明確な攻撃の意図を読み取ることができただろうが、その一撃では鷹尚はともかくトラキチを怯ませることはできなかった。
 そして、その牽制の一撃が奇しくも、高橋に取ってこれ以上ない程の悪手となる。
 一時停止の標識を力任せに振り回した後、その遠心力をいなし切れずに大きく蹌踉けたのだ。どうにか「蹌踉ける」レベルで踏み留まりはしたものの、下手をするとそのままバランスを崩して転倒してしまっても何らおかしくはなかった。
 即ち、ぶちかまし後のそんな高橋の振る舞いは、トラキチに取って十二分に付け入るに足る「隙」に値した。
 そこに高橋無力化に繋がる足掛かりを見つけてしまえば、トラキチは喜々として吠える。
「はっはー! 怪力は確かに脅威だぜ。だが、肝心のその後が隙だらけじゃねぇか? 何なら、借り物の体でどこをどうやって守らなきゃならないかも分かってないんじゃねぇのかい? だったら、足の腱を掻っちゃいて身動き取れなくしてやるぜ!」
 上手く憑依先の体を扱えない可能性を目の当たりにして、トラキチはさらに高橋の憑鬼が抱える弱点をそう推察した。
 トラキチの推察が図星だったかどうかは分からない。足の腱を狙うといったことに対して、過剰に反応してしまっただけかも知れない。しかしながら、それでも高橋はトラキチに対してすぐさま攻撃を繰り出した。
 今度は、明確な攻撃の意図を伴い、トラキチへの距離を詰めてその一撃を繰り出した形だった。
 それは一時停止の標識を振り上げて、振り下ろすという単調な一撃。
 高橋に取って想定外だったことは、その一撃によってさらなる弱点が露呈したことだったろう。
 ひらりと高橋の攻撃を難なく回避して、トラキチは不敵に笑う。
「遅いぜ。クソ遅い! そんな反応速度じゃ、俺に攻撃を食らわせるのは簡単じゃないぜぇ?」
 体のコントロールが完全ではないという点よりも、立ち回る速度が鈍重という点は、トラキチを相手に回す上で致命的といってもいい弱点になり得た。
 不敵に笑うトラキチは、その程度をさらに甚だしくする。
「これなら行けそうだ! 徹底的に足を狙って身動き取れなくするぜ。その後、ふん縛ってしまえばミッションコンプリートだ、鷹尚!」
 高橋から敵意を向けられていたことで、トラキチも大分血が滾ってきているようだ。
 しかしながら、ここでトラキチの好きにやらせてしまうわけにはいかなかった。
 鷹尚は声を張り上げて、トラキチを静止する。
「駄目だ、トラキチ! 高橋宗治に怪我を負わせちゃ駄目だ!」
 冥吏の話が本当ならば、高橋は憑鬼に自身の体を貸し出しているに過ぎない。
 尤も、憑鬼はともかく、冥吏から高橋の処遇については何も言われていない。即ち、それは体を貸した高橋をどう扱うかについては以室商会に一任するということだろう。やもすると、結果的に高橋の命を奪うような事態になったとしても、憑鬼さえ捕縛するなり抹消するなり、冥吏の望み通りの対処ができてさえいれば苦言を呈されることすらないかも知れない。しかしながら、だからこそ、鷹尚は高橋をどうこうするというような手は取りたくなかった。
 鷹尚の指示を受けて、トラキチは困惑気味に問い返す。
「そんなこと言ったって、それじゃあ……」
「よし! 今回は仕切り直そう! 相手の弱点も把握できた。十分、収穫はあった!」
 鷹尚の決断は非常に早かった。いや、ここで粘ったところで「高橋に危害を加えない」という制約を守りつつ、事態を好転させられ得る妙手など逆立ちしたって出てはこない。高橋に憑依した憑鬼へ「以室商会に狙われている」といったマイナスの認識を植え付けただけで終わることは間違いなかったが背に腹は代えられない。
「あー、……そうしちゃう?」
 僅かな思考を合間に挟んだトラキチも、鷹尚の判断に異論を挟むことはなかった。
 トラキチから消極的肯定を引き出したことで、鷹尚の腹は完全に決まったようだった。完全に臨戦態勢となった高橋を横目に捉えると、すうと息を呑む。
「高橋宗治さん、すいませんね! こちらの手違いで事前に確認できていないことがあったみたいなんで、その「合言葉」を確認の上、出直しさせて貰います。今日のところは御迷惑をお掛けしました。失礼します!」
「おい! どうした? 逃げるのか!」
 声を張り上げる高橋を背に、鷹尚・トラキチの二人は一目散にその場を離れた。
 脱兎の如く駆け出せば、一度も後ろを振り返ることなく疾走し、鷹尚とトラキチはものの十数秒足らずで閑静な住宅街の薄暗がりに紛れてしまう。当然、高橋が後を追ってくることも考慮していたのだろう。入り組んだ住宅街を、意図的に、縫うように走って、高橋を振り切るべく走った形だ。
 対する高橋もすぐに追走しようと態勢を取ったのだが、実際には二人の後を追うことはなかった。いいや、後を追うべく疾走しようと足を踏み出したのだが、やはり体のコントロールが上手くいかなかったようだった。数歩進んだところで足を縺れさせてしまえば、さらに5〜6歩進んだところで蹈鞴を踏んでその場に立ち止まる。
 高橋は、内面から噴き上がる怒りのままに夜空に向かって叫んだ。
「ふざけんじゃねぇ! おい、戻ってこいよ! おいッ!!!」
 その後も何だかんだと喚き散らしていたのだが、全力疾走でその場を離れた鷹尚・トラキチの耳にその罵詈雑言が届くことは無かった。
 そして、高橋が結果的に後を追うことができなかったことなど知るよしも無い鷹尚・トラキチコンビは主要幹線道路が通る大通り目指して一目散に走り続けた。それこそ、どこかの会社の工場群が風景に混ざる工業地帯の区画まで戻って来ても、疾走するその速度を一切緩めなかった。そう、せめて「人気のある大通りに出るまでは……」という思いがあったのかも知れない。
 憑鬼に体を貸した後も、高橋は普通に社会生活を続けており、当然のように出社し仕事もしていた。
 それは即ち、憑鬼に体を貸し出しているだけで、完全に乗っ取られているわけではないということなだろう。そして、そうであるならば、その貸し出した体が取り得る行動に対して、高橋本人の介入があって然るべきだろう。衆人環視の下で自身の体を使って好き勝手することを良しとはしないんじゃないか。
 鷹尚はそう考えたわけだった。
 もちろん「人目がある場所に出たからと言って襲撃される可能性がゼロではない」という認識も頭の片隅に残しておくことは忘れない。
 ともあれ、そうして一体、何分走り続けただろうか。
 息切れし、速度を緩めながらではあったものの二十分近くは走り続けたんではなかろうか?
 途中、トラキチが状況を確認し「もう追ってくる気配は感じられない」と主張したのだが、結局鷹尚達は西宿里川の主要幹線道路へと辿り着くまで走り続けた格好だ。
 大通りを行き交う自動車の音や人の往来による喧騒が際立つようになってきて初めて、ようやく鷹尚は安堵の息を吐いて立ち止まる。
「はぁ、はぁ、はぁー……、あぁ、きっつい! 横腹が、横腹が痛い! 体育の授業でだって、こんなに全力疾走することなんてないぜ?」
 肩で息をしながらそう吐き捨てると、鷹尚は徐に近くにあった緑色の金網フェンスに寄り掛かる。
 一息ついてしまったことで、体が強く強く休憩を訴え始める。
 そこからアドレナリン全開で限界を超えて走り続けていた余波が体の不調とどっと現れるまでそう多くの時間は掛からなかった。


 西宿里川の主要幹線道路で休憩をたっぷりと挟んだものの、実際のところそこから鷹尚とトラキチが駒井工業株式会社を後にして以室商会まで逃げ帰ってくるのにそう多くの時間は掛からなかった。
 西宿里川の工業団地から繁華街を目指しジグザクジグザグとかなりの時間に渡って逃げ回ったつもりだったのだが、実際には然程回り道にもなっていなかったらしい。
 さらに言えば、恐らく体感的な時間を引き延ばしたものは「後を追ってくる高橋を振り払わなければならない」という極度の緊張状態だったと思われた。何せ、繁華街まで戻って来て市営バスに飛び乗った後も、西宿里川地区の玄関口辺りまでは内心高橋の襲撃を想定し気が抜けなかったぐらいだ。バクバクと速度を上げて脈打つ心臓の鼓動の音が時間感覚を狂わせたのだろう。
 加えて、戻りに多くの時間が掛からなかったのは、市営バスに全く遅延が発生しなかったからという見方もできた。
 四上宿方面へと向かう市営バスは乗客も疎らで、道路の混雑具合も西宿里川方面行きに乗車した時とは比べものにならないぐらい改善されていたからだ。
 乗車率や道路の混雑具合に関して言えば、二人の利用した便が21:00台のものであることが大きな要因だったかも知れない。明日が土曜日と言うこともあり、終業後に「一杯引っ掛けていこう」という人達のために最終便は23:00台後半だったりするので、まだまだ宵の口のその便に乗客が集中するようなこともなかったわけだ。
 ともあれ、鷹尚とトラキチの二人は、西宿里川の工業地区を走り回りながら「行き」に掛かったものとほぼ同等の時間で以室商会まで戻ってきた格好だった。
 以室商会本店がある彩座の港町の一つ、四上宿地区の西隣に位置する初火浦(はつかうら)のバス停留所に到着したのは22:00を少し回った頃だった。そこから三角州の河口付近の平坦な町並みを歩き、以室商会本店へと到着したのは軽く20分近くは経過した後だった。
 車通りの多いメイン通りから一本裏手に入り、昔ながら個人商店が軒を並べる通りの一角に以室商会本店は位置する。
 当然、時間も時間であるため以室商会の店先に明かりは灯っていない。……というよりも、基本の営業時間は10:00開店の19:00閉店であるため、こんな時間まで店先に明かりが灯っていることはまずないと言っていい。精々、大規模な棚卸しを実施する時ぐらいだろうか。
 周囲の個人商店にしても、どんなに遅くとも21:00には一日の営業を終えて店を閉めるため、この時間だと薄暗さを感じる通りに人気はほとんどない。人工的な明かりをしっかと灯すのは、街灯と24時間営業のコインランドリーやコインパーキング、ちょっと離れた区画に位置するコンビニとそこに隣接するビジネスホテルぐらいだ。
 以室商会本店は、囲い門の奥に建屋があるタイプの建造物で、横幅・奥行きともにこの辺りの一般的な個人商店の中では一際大きな方に分類される。一階層の7割が店舗部であり、残り3割に共同リビング・キッチン・風呂場に部屋が3つという構成(当然トイレなども含む)だ。
 二階層には、六畳間の客間が3つと、中庭を見下ろすことのできる大広間が一つ、そして水場とトイレと物置といった具合の構成だ。六畳間とは言っても一部屋一部屋に奥行きのある押入れや畳床なんかが設けられているため、一般的な「六畳間」という単語から想定される空間よりも大分広いと感じるのが特徴だろうか。
 ちなみに、鷹尚はその二階層にある六畳客間の一つで生活している格好だった。
 現在、二階層の客間を利用しているのは鷹尚とトラキチだけなので、外部から以室商会本店を眺めても明かりが灯っている様子は窺えない。門は閉ざされていて囲い門の屋根部に取り付けられた木製看板を照らすライトも消灯しているため、通い慣れていないと見落としてしまってもおかしくはないだろう。
 鷹尚は明かりの灯っていない表門を素通りすると、周囲をぐるっと囲う垣根に沿って裏口へと足を向ける。
 尤も、表記上「裏口」と表現したものの、実際には表門から見て建物の横手に位置する倉庫入口兼搬入搬出口がそれだ。さらに言うと、軽トラックが横付け可能であり、且つ同時にお客さんの自動車を四台ほど停車可能なスペースも併設されているため、言うほど「裏口」感はない。
 倉庫入口兼搬入搬出口はシャッターによって開閉するのだが、そのシャッター自体を開閉しなくても人が出入り可能な簡易の通用口が設けられているのだ。従って、以室商会関係者に取って、厳密に言えば「裏口」とはこの簡易通用口を指すことになる。
 ちなみに、以室商会閉店後に裏口を使う場合、帰宅に合わせて物音を聞きつけたシロコがひょいっと顔を出すのが常だった。店番の結果を大体閉店後にならないと戻ってこない継鷹へと報告するためだ。仮に来客もなく一日欠伸を噛み殺して暇にしていた一日だったとしても、その「何も無かった」ことを報告するのが店番としてのシロコの役目でもある。
 尤も、シロコは鷹尚・継鷹・トラキチの足音の違いを聞き分けられるらしく、わざわざ出向いて確認するまでもなく裏口の利用者が誰かを特定する能力を持っているらしい。なので、戻ってきたのが継鷹でないと分かっても、わざわざ顔を出してみせるのはシロコなりのコミュニケーションの意味合いもあるだろう。
 そういう経緯があるにも関わらず、簡易通用口を解錠し「キイィィィ」と軋む音を響かせて扉を開けても、今夜はシロコが裏口に現れることはなかった。
 鷹尚はそれの意味するところをすぐに理解する。
 今夜は、既に継鷹が帰宅しているようだ。倉庫入口兼搬入搬出口スペースには、継鷹の愛用する軽トラックが駐車されていなかったものの、近隣住民のみが利用可能な野晒し駐車スペースにでも置いてきたのだろう。
 簡易通用口を潜って再び「キイィィィ」と軋む音を響かせ扉を閉めると、オートセンサーが反応し広い倉庫の片隅にはぼんやりとした明かりが灯る。倉庫は店舗にも一階層の居住スペースにも面していてそのどちらからでもアクセスできる作りになっているのだが、店舗の方にも居住スペースの方にも人影はなく明かりは灯っていなかった。
 継鷹にしろシロコにしろ、既に自室に引っ込んでしまっているようだ。
 さらに、一階層の居住スペースに人気がないことを察したトラキチがこう口を切る。
「はー、さすがに今日はほとほと疲れ果てたぜ。俺ももう寝る」
 そういうが早いか、トラキチは片手を上げるジェスチャーを見せると、鷹尚から何かしらの反応が返るのも待たずにさっさと2階へ続く階段へと足を向け自室に引っ込んでしまった。
 できることならば、明日以降についての話ぐらいは済ませておきたかったという思いも鷹尚にはあったのだが、今更トラキチを呼び戻すのはさすがに気が引けたようだ。
 何よりも、やはり鷹尚自身も疲労から来る思考の鈍りといった辺りを実感していた点も大きかっただろう。
 ”今はあれこれ思考を巡らせるよりも、休息を取った方が考えもまとまる筈”
 そう自分自身を言い聞かせてしまえば、後の鷹尚の動きは速かった。
 一旦二階の自室(客間)へと足を向けると、制服から寝間着へと着替えて再び階下へと降りてくる。眠る前に、せめてシャワーで汗だけでも流してしまおうという腹積もりだ。
 西宿里川で高橋から逃れるために全力疾走した影響は、実際のところ多方面に及んでいた。疲労に原因を為す倦怠感や眠気といったところはその影響の中でも最も大きな割合を占めていたのだが、汗で体がベタつく何とも言えない不快感も馬鹿にはできない。まして、ここを改善せぬまま眠りにつこうものなら、明日の朝の爽やかな目覚めは期待できないと言っても過言ではなかっただろう。そんな背景もあって、鷹尚は気力を振り絞って睡眠欲を打ち払い汗を流すことを選択したのだった。
 消灯したリビングを横切り、鷹尚は真っ先に風呂場へ足を向ける。やたら煩い音を発する年代物の給湯器のスイッチを入れ手早くシャワーを済ませるも、鷹尚がリビングに戻った時刻は23:00を回ろうかという頃だった。
 これだけドタバタと音を立てても継鷹・シロコともに部屋から出てこないところを見るに、今夜はこのまま誰とも顔を合わせず終わるのだろう。鷹尚はその事実にホッと安堵の息を吐く。無論、継鷹・シロコと顔を合わせたくないだとかいうわけではない。ただ、顔を合わせてしまうと色々と億劫なことが生じる可能性があり、せめて今夜はその煩わしさに囚われたくないという思いが、その安堵の息に繋がった所以だ。
 そうして、二階の客間へ戻り今度こそ泥のように眠ろうとした矢先のことだった。
 鷹尚はリビングから階段へと続く薄暗い廊下で、ばったりと継鷹に鉢合わせした。
 継鷹は鷹尚よりも少しだけ身長が高いのだが、大体夜の遅い時間は疲労からか猫背気味であることが多いため、そうやって鉢合わせると視線の高さはほぼ同等になるのだ。まさにお互い顔を見合わせることになって、どちらも目を真ん丸く見開き驚きの表情を隠さなかった。
 まさか今になって鉢合わせるとは夢にも思っていなかった格好で、鷹尚は咄嗟に言葉が出てこない。
 そんな鷹尚を眼前に置いて、先に口を開いたのは継鷹だった。
「今、戻りか?」
 そういった継鷹の声は疲れの混じる嗄れたものだったが、まだまだ節々に力強さを灯しはきはきと通る声だった。
 見た目こそ、年相応のしわくちゃの顔で、適度に切り揃えた髪も真っ白で……と、完全に老人のそれではあるのだが、特別痩せ細っているだとか弱々しさを感じる面はない。肉付きが良い方では無いが、仕事柄重量物を運んだりする機会も多いため、よくよく見ると足腰や腕・肩周りが非常に筋肉質なことも分かる。
 数日振りに顔を合わせた継鷹は、良くも悪くも何ら変わることなく「いつも通り」だった。
 マジマジと継鷹の様子を眺め見た後、鷹尚は当たり障りの無いように答える。
「あぁ、うん、ちょっと前にトラキチと一緒に帰って来てさ、これから寝るところ」
 ただ「当たり障りが無いように」と言いつつも、鷹尚は継鷹から何か小言を向けられやしないかと内心では気が気ではなかった。特に、ここ最近は鳴橋との会食・憑鬼の件と続いて毎日毎日出突っ張りなのだ。
 継鷹がここ最近の鷹尚の動向をどこまで把握しているかまでは分からないが、シロコ辺りから「最近はトラキチと合わせて毎晩居ないよ。どっかへ行ってる」なんて話をされていてもおかしくない。
 継鷹は鷹尚の様子をマジマジと上から下まで眺め見た後、こういう機会に必ずと言って良いほど口にする定例文と化した小言を向ける。
「何度も言っているが、学業には支障を来さないようにしろよ」
「うん、分かってるよ」
 それが自分を思っているからこそ口を突いて出る苦言であると解りながらも、耳にタコができるほど聞かされている身の鷹尚としては苦笑いが漏れる思いだった。
 ともあれ、継鷹の口を突いて出る苦言という苦言はどうやら今のところそれだけのようだ。
 継鷹は急須と湯飲み、そして茶葉入れを載せたお盆を手に持っており、どうやら台所に向かう途中だったらしい。
 一仕事終えてお茶を飲み終えたから湯飲みを置きに行くのか。はたまた、ここからもう一仕事を片付けるべくお茶を煎れに行くところかは分からない。パッと見では到底その判断は付けられないながら、一つ確実に言えることは継鷹がこれから一息入れるところだということだ。
 不意に、鷹尚の脳裏には、今がことの経緯を含めて話す良いチャンスかも知れないという思考が付いて回る。そして、疲労から来る鈍い思考は勢いままに、鷹尚に口を開かせる。だから、そこに続く継鷹を呼び止める声は、ほぼ無意識的に口走ったものだったろう。
「ねぇ、じいちゃん」
 当然、改めて継鷹は鷹尚を真正面に捕らえる。
「おぅ、どうした、鷹尚?」
 そこでようやく鷹尚はハッとなった。
 喉元まで出掛かっていた憑鬼に絡む質問を、すんでの所で飲み干した格好でもある。そうして、代わりに口を突いて出るものは、どうにかこの場を曖昧に濁そうとする言動だった。
「あー……、いや、その、何でもないよ。というか、何を言おうとしたのかど忘れしちゃった」
 苦笑いの体でそう取り繕うものの、当然、継鷹からは怪訝な顔を向けられた。
 ようやく鈍りに鈍った思考が演算速度を上げてきて、ここで憑鬼に絡む相談を口にしたならば「一体どうなるだろうか?」のシミュレーションを始める。
 もしも、ここで継鷹に憑鬼を剥がす方法について聞いたとしたら、きっとその対処の仕方なんてものは「容易く答えが返ってくるんだろうな」と鷹尚は思った。
 そして同時に、まだその時ではないという思いが湧いて出る。本当に切羽詰まって自身の力だけではどうにもならなくなったのなら、その時は迷わず継鷹に助けを求めるべきではある。けれど、まだ継鷹を引っ張り出すべき頃合いでは無いと鷹尚は思ったのだ。
「はは、呼び止めて、ごめん、じいちゃん。今日はもう寝るよ、お休み」
 そう言って鷹尚がくるりと踵を返したところで、今度は継鷹がその背を目で追って鷹尚を呼び止める。
「あぁ、そういえば、お前、ここ最近ずっと二階の客間に泊まってるらしいじゃねぇか? お前の母ちゃんから伝言を言付けられていたのを今思い出した。本店からの通学の方が楽だからってそっちに入り浸ってばかりいないで、最低でも週一では帰って来なさいだとよ」
 そう指摘されてみると、鷹尚は軽くここ一週間は確かに実家へと戻っていないことを思い出した。
 尤も、これは何も実家に帰るのが億劫だとか嫌だとかいうのではなくて、まず別に帰らなくても困らないというところがまずある。高校は指定の制服であるし、以室商会の客間にはボストンバックを持ち込んでいて一通りの肌着や下着といった着替えもある。
 汚れ物を洗濯機に突っ込んでおくと、数日後にはきちんと奇麗に折り畳まれて客間の壁際スペースへと置かれているのだ。「自分の洗濯物ぐらい自分で畳みなさい! 自分で箪笥にしまいなさい!」とか言われたりしない分、何なら「実家よりも楽ちんで居心地が良い」まである。
 当然、食事も何もしなくても用意して貰える。
 継鷹との会話で触れられたように、通学に関しても以室商会本店からの方がずっと楽なのだ。
 そして、何よりも一番大きな要因は、実家に生活の基盤を移してしまうと冥吏の依頼の対応が途轍もなくやり難くなるという点だった。
 冥吏の依頼に対応していると、深夜といって差し支えのない時間に差し掛かることが度々ある。継鷹はそれを「仕方が無いこと」と許容してくれているが、一方で実家の両親は間違いなくそれを快くは思わないだろう。業務上必要だからと訴えたところで、だったらその業務自体が学生である鷹尚には相応しくないと言われ兼ねない。例え、危険が無いようにトラキチというお目付役がちゃんと付いて回っていようとも、だ。
 以上のことを踏まえていくと、是が非でも鷹尚は「実家に生活基盤を移せ」と言われる事態を避ける必要があった。まして、普段の冥吏からの依頼対応に加えて憑鬼の対処を請け負った今、行動制限を受ける事態を許容することはできない。
 だから、実家に帰らないわけを、鷹尚は自身に取って都合が良い「もう一つの理由」を盾に取ることにした。
「通学が楽だっていうのももちろんあるけど、……その、ほら、ここに居る方が毎日体調が良いからさ」
「あぁ、そいつはそうだろうな。まぁ、ここはそうなるように対策してあるからなぁ」
 それは、鷹尚が以室商会本店2階客間に生活基盤を置くことに対して、関係者の誰しもに首を縦に振らせることができる最強のカードだ。
 嘘は付いていない。
 以室商会に居る方が「鷹尚の体調が良い」というのは紛れもない事実だからだ。
 鷹尚が以室商会本店2階客間に生活の基盤を置いているというのには、祖父である継鷹の手伝いをするという側面があるのも事実だが、これはどちらかというと後付けされた理由に過ぎない。第一義の理由は、あくまで日常生活に置ける鷹尚の体調を良好な状態のまま維持するためなのだ。
 ことの始まりは、鷹尚が高校受験を意識し始めた中学二年の冬の時期まで遡る。
 自宅の自室で高熱を出して倒れ病院に救急搬送されるも原因不明。三日三晩に渡って熱は引かず解熱剤もほとんど効果が見られない中、朦朧とする意識の中で時折五感がクリアになってはっきりと幻覚を見たり幻聴を聞いたりするという症状まで出た。
 四日を過ぎても熱が引かず原因も特定なかったのだが、その症状に心当たりを持つものが身内にいた。
 鷹尚の父親である。
 いいや、心当たりどころか、その症状は鷹尚の父親が患ったものと瓜二つだったらしい。鷹尚の父親から連絡を受けた継鷹が件の症状を確認し薬を煎じて呑ませ、そこからようやく鷹尚は徐々に快方へと向かったのだとか。
 そこからどんな紆余曲折があったのかを鷹尚は知らないのだが、気付けば「しばらくは以室商会本店で生活する方が良い」となったのだ。
 両親のその決断を鷹尚は心底驚いた。
 なぜならば、以室商会とは、祖母の墓参りなどで時折顔を見せに行くことはあれど、それまではこれといって深い関係性を持っていたとは到底言い難い存在だったからだ。
 何よりも、祖父である継鷹と、その息子である筈の鷹尚の父親との仲が宜しくない。
 鷹尚がアルバイトとして以室商会の手伝いをするというのにも最初は酷く難色を示したぐらいだ。それこそ「学業に専念すべき」という言い分だったが、今思えば必要以上に「以室商会」に関わらせたくないというような思いが背景にあったようにさえ思う。
 ともあれ、それらを全て引っくるめて生活の基盤を以室商会本店2階の客間に置くことを認めさせたものが、この鷹尚の「体調不良」という問題なのだ。
 付け加えて言うのならば、鷹尚が祖父である「継鷹」の存在を大きく意識するようになったのもそこからだった。
 ともあれ、ここに至って最強のカードを切った筈の鷹尚だったのだが、継鷹がすんなりと引くことはなかった。もし、両親からの要求が「以室商会から実家の方に生活拠点を移せ」とかいう類いのものだったら、寧ろ継鷹は鷹尚の側に立ってくれたのだろうが、何せその要求は「週一ぐらいの頻度で実家に戻ってこい」である。
 子を思う親の気持ちを知る継鷹が、鷹尚に向けて苦言を呈するのも尤もだったろう。
「けれど、それでもだ。親ってぇのは子供の顔を見たいものなんだよ。必ずそうしろなんていうつもりはさらさらねぇが、週一ぐらいでは顔を見せに行ってやんな」
 ここは素直に頷いておくのが、上分別というものだろう。わざわざ継鷹の心証を悪くする理由はない。そうして、何度も述べているが、一時的に実家へと戻ることに対して、何ら気に病むことなんて無いのだからだ。
 これといって反発する理由もなかったことで、鷹尚はその苦言をすんなりと受け入れる。
「ああ、うん、分かったよ。そうだね、明日にでも顔を見せてくることにするよ」
「おう、そうしろ!」
 鷹尚が素直に苦言を受け入れれば、継鷹もそこに加えてああだこうだと言うつもりは無いようだった。
 実家云々の下りが一段落付き、話を切り上げる絶好のチャンスがやってくる。鷹尚はそれを見逃さない。
「じゃあ、もう寝るよ、お休み」
 ここ数日、良くも悪くも時間が合わずに顔を合わせていないのだ。長く顔を合わせていれば、それだけこの機会に言っておかなければならないことなんていくらも沸いて出てくることだろう。
 鷹尚サイドもこれがいつもの体調ならば、一緒にお茶でも啜りながらまだ小言を聞いておこうという気にもなったのだろうが、如何せん疲労で半分思考が鈍りつつある状態なのだ。良からぬことをうっかり口走ってしまうかも分からない状態なのだから、会話はさっさと切り上げてしまうに限る。
 しかしながら、半ば強引に話を切り上げたことが逆効果になった。
 2階の客間へとふいっと足を向けた鷹尚の様子に、継鷹は何か思うところがあったらしい。
 違和感を見付けて感覚を研ぎ澄ませてしまうと、継鷹は如何なる小差をも見逃さない。鷹尚の一挙手一投足をマジマジと注視した後でこう確認を向ける。
「……なぁ、おい? 念のために聞くが、もしかして体調でも悪いのか? 口を酸っぱくして言っているが、どんなに症状が軽くても俺が煎じた薬は毎日忘れず飲むんだぞ? 来週の分もシロコに渡しておくから忘れずにだ」
 継鷹が真っ先に念頭においたものは、ここに来て鷹尚が切った最強のカードについてだった。尤も、実家に戻っていなかったことに対して鷹尚からそれを引き合いに出したのだから、ある意味では継鷹がそれを念頭に置いたのも当然といえば当然だったろう。
 鷹尚は思わず微苦笑する。
 それなりに、ばれない程度にはいつもの自分を装ったつもりだったからだ。そう、夜間の帰宅になってそこそこ疲れた自分の形を、上手に、そしてかなり丁寧に偽装したつもりだったのだ。それをいとも容易く見抜かれ疑われてしまったのだから、辟易するなという方が無理がある。
 この疲労を原因とした体調不良は、厳密にいうといつかのそれとは全く異なる類いのものだ。けれど、大まかに括ってしまうのなら「体調不良」の一種であることに違いは無い。
 だから、鷹尚は変に誤魔化すことをせず、素直に自身が体調不良であることを認める。もちろん、それがいつかの時のような原因不明のものではないことを説明しながらだ。
「分かってるよ、じいちゃん。今日は、普段しないような運動をする羽目になって疲れただけ。明日一日ぐらいは筋肉痛に悩まされそうだけど、これは心配するような類いのものじゃないよ……」
 然るべきことをしたから当然そうなるべく「体調不良になった」と、変に誤魔化さず白状したのが功を奏したようだ。
 継鷹は納得顔で頷くと、すっと鷹尚を真摯に見据える目線を逸らした。
「そうか。健全な体調不調ならいい。それはお前の成長に必要なものだ」
 微苦笑する鷹尚の言葉と態度を前にして、確かに「裏はない」と判断したようだ。
 継鷹はくるりと踵を返すと、そのまま当初の目的である台所へと足を進める。
 鷹尚はその背を目で追いながら、自分自身、一体全体何について安堵の気持ちを覚えているのか分からなくなりながらも、一つ長い息を吐き出しのだった。
 継鷹が向かったキッチンからは「カチカチカチ……」とガス台に火を付ける音がする。もう一仕事するために、お茶をもう一杯という感じだろうか。
 継鷹には、まだまだ本日中に片付けておいた方が良いことがあるようだ。


 翌日、鷹尚が以室商会本店の客間で目を覚ましたのは、正午過ぎだった。
 時間にして12:30。
 設定した筈のスマホのアラームは既に止まっており、さらに言えばいつ止めたのかすら鷹尚は記憶していなかった。
 カーテンの隙間から差し込む太陽光は今日の天気が晴天であることを強く主張していて、体感的な客間の室温も「心地よい」を飛び越えやや暑さを感じるレベルに到達しつつあった。
 もし、これが平日だったら「いつまで寝てるの! 遅刻するよ!」とシロコ辺りに叩き起こされていた筈だ。
 寝過ごした主原因を探すのならば真っ先に候補として上がるものは「昨日の疲れが響いたから」といった類いのところに落ち着くのだろうが、この一週間の間で鳴橋と会食したりと何だかんだ普段使わない神経を使った辺りも多分に影響していたことだろう。
 ともあれ、この土曜日という休日に、鷹尚は以室商会のことを一度頭からすぱっと切り離して一度実家へと戻るつもりだった。色々と思うところはあるものの、それはやはり昨晩継鷹から「顔を出せ」と言われたことが大きい。
 継鷹の心証を悪くすると、以室商会アルバイトとして鷹尚が許可される行動に様々な制限が課せられることに繋がる。即ち、それに繋がる背景が打算だろうが素直さだろうがここは大人しく従っておくのが「吉」というわけだ。
 鷹尚は疲労感と気怠さがまだ随所に残る体に鞭打つと、布団から這い出してまずは勢いよく窓のカーテンを開く。
 天気は快晴。隙間から差し込んでいた日差しの強さそのままに……と言った具合だ。雲一つない日本晴れとまでは行かないものの、この調子であれば今日一日ぐらいは雨の心配をする必要なさそうだ。
 続いて、鷹尚は枕元に転がるスマホを手に取る。充電ケーブルをコンセントから引き抜くと、一先ず向かう先は同じ2階層に位置するトラキチの部屋だ。しかしながら、トラキチの部屋のドアをノックしても中から返事は無かった。中庭を見下ろすことのできる2階大広間を経由して、階下のリビングへと足を向けるもののトラキチは愚か継鷹・シロコの気配もなかった。
 キッチン・リビングと続けて見て回るのだが、1階層の居住スペースにも誰も居ないらしい。
 尤も、誰も居ないらしいとは言ったものの、シロコは以室商会の店舗の方で店番をしているから姿が見えないだけだろうし、継鷹はいつも通り外回りの仕事を片付けているからだろう。
 以室商会は月曜定休であるため、基本的には土日祝日が休日であるという認識はないのだ。
 こと継鷹について言うのならば、お客さんの都合に合わせて土日祝日に外回りの仕事を片付ける傾向が強いため、とかくこうして遅く起きた土日祝日の朝(?)に顔を合わせることがないのはいつものことだとさえ言えた。
 欠伸を噛み殺しながら一階層の共同リビングまで戻ってくると、鷹尚はテーブルの上にラップ掛けされた取り置きの朝食を発見する。そこにはおにぎり二つと卵焼き、そしてウインナーとピーマンを砂糖醤油で炒めたものが鷹尚の分として取り置かれていた。
 鷹尚はキッチンの冷蔵庫から牛乳パックを取り出すとその中身をコップに注ぎ、食器棚の引戸から箸を手に取る。パッと見た感じでは、朝食兼昼食というには「物足りない」と思える量だったが文句は言えない。何せ、元々は朝食として取り置きされていたものである筈だからだ。さらに言えば、不足であれば適当に冷蔵庫の中を見繕って自分で料理しても何も文句は言われないのだが、そうするつもりもさらさらないのである。
 ともあれ、ラップが掛けられた朝食兼昼食をささっとお腹に掻き込むと、鷹尚は一度実家へと帰るための支度を始める。尤も、実家の方に一泊二日か二泊三日程度であれば、持って返らなければならない何かがあるわけでもない。精々、財布とスマホ、それに口を酸っぱくして言われている継鷹特性の錠剤ぐらいだ。
 実家へと戻る前に以室商会の店舗へと顔を出すと、やはりシロコはいつも通り店番をしているようだった。
 店番をするシロコにああだこうだとトラキチがちょっかい掛けている様を思い描いて店舗の方へと顔を出した鷹尚だったのだが、その予想はあっさりと裏切られる形となる。店舗の方にもトラキチの姿は無かったのだ。
 尤も、店舗に足を向けた理由は、それだけのためというわけではない。一言シロコに留守にする旨を断っておきたかったというのも理由の一つである。土日に掛けて一旦実家へと戻るといって置かねば、シロコないし、継鷹が小間使いを兼ねて使役する他の面子が必要の無い鷹尚の食事を用意し兼ねないからだ。
 ここではその詳細な説明は省くものの、以室商会の居住スペースに置ける日常生活の維持活動は継鷹・シロコを含めた五人掛かりで回しているのだ。鷹尚も客間やリビングで掃除機を掛けたりするぐらいのことはするが、こと炊事・洗濯といった辺りのことは全く関わっていないのが実情で、当然この五人に含まれてはいない。
 ともあれ、鷹尚は店番をするシロコに声を掛けるすんでの所までいって、慌てて口を噤んだ。
 レジカウンター越しに、シロコがお客さんの相手をしていたからだ。
 尤も、シロコはすぐに気配を察した様子で、ちらりと一度鷹尚の方へと視線を向ける。もちろん、そこで優先されるのが接客であることは言うまでも無い。すぐにシロコはお客さんの方へと向き直ってしまう。
 落ち着き払った調子で、且つ透き通った声でゆっくりと話すシロコは、どうやら10×20の引戸を有する背の高い薬箪笥に保管されたとある薬草の使い方や効能について説明しているようだった。
 ちらりと店内の様子を窺った限りでは、店内に居るお客さんの数は一人。
 しかしながら、その一人は直接鷹尚が接客したことはないものの、こうして本店を訪れているのを何度か見たことがあるぐらいには常連といえる相手だった。
 できることなら「トラキチの行き先についてシロコに尋ねたい」と鷹尚は思っていたのだが、それも難しそうだ。
 シロコが肩で切り揃えたストレートの黒髪を煩わしそうに掻き上げカウンターから立ち上がり、薬箪笥の方へと足を向けたからだ。彼女の癖を知っていると、内心「面倒くさいな」とでも思っている様子が端々に窺い知れる形ではあるのだが、シロコは恐らくこれから調合についての事細かな提案を始めるつもりだろう。
 お客さんの話を聞いた上で、その要望に適合する効力となる調合のパターンをああだこうだと説明する流れだ。
 そうなると、必要となる金額の兼ね合い、必要とする効力の強弱の落とし処と言った類いの微細な擦り合わせが発生する。言うまでも無く、それらは大きく時間を取られる作業である。まして、相手は一見さんでないのだ。どんな要望をシロコに伝えたのかまでは分からないが「よく分からないから以室商会にお任せする」なんてパターンは恐らく無いだろう。わざわざ店舗まで足を運んでいるといった辺りも、その蓋然性が高いことを如実に示唆する。
 シロコの接客がまだまだこれから先が長くなりそうな気配を感じ取り、鷹尚は早々に以室商会の店舗部スペースを後にした。トラキチのことを除けば、例え直接話が出来なくても、後から頃合いを見計らって電話をするでも何ら問題はないのだ。
 シロコとの対話を諦めてしまえば、鷹尚の足は自然とそのまま以室商会の裏口へと向く。
 念のため、出発直前に搬入搬出口横へと掲げられたホワイトボードを確認するも、そにこは継鷹から鷹尚に宛てられたメッセージも特にない。昨晩、土日に掛けて一旦実家に戻ることは話しているので、配達関係で急ぎの仕事が発生したというようなこともないらしい。
 残すところの憑鬼の件についてを「どうしたものか」と考えながら以室商会本店裏手の道へと進み出たところで、鷹尚はちょうどこちらに向かって歩いてくるトラキチと鉢合わせる格好になった。
 トラキチもすぐに鷹尚の存在に気付いた様子で、すっと片手を上げ自身の存在を主張する。
「ようやく起きたのか、鷹尚」
「まだどことなく昨日の疲れが抜けきってない感じが全身に残ってるけどね」
 これみよがしに肩を回して見せて体の各所に残る倦怠感を訴える鷹尚に、トラキチからは手厳しい言葉が向く。
「寝過ぎて疲れただけじゃないのか?」
 ”痛いところを突いてくるな”
 そう思いながらも、鷹尚はトラキチの指摘を苦笑いの体で華麗にスルーする。
 その調子で雑談の掛け合いを続けていくと止め処なく脱線を続けていって、話が本題に戻るまでに相当な時間を有すると思ったからだ。……とはいえ、実家へ戻るに当たっては乗車する市営バスの便の目星を付けているだけで、それに必ず間に合わせなければならないなんてことはない。
 今のところ、この後の用事という用事は実家に戻るというだけだ。
 乗車予定の市営バスに間に合わなかったからと行って、次の便が数時間後なんてこともないのだ。予定の便を見送って次の便に変更したところで、影響度合いは実家への到着予想時刻が20分程度遅れるぐらいのレベルの話でしかない。
 そんな背景もあって、鷹尚は昨夜できなかった今後の話をここでトラキチと腰を据えて行うことにしたようだ。
 垣根でぐるっと囲われた以室商会の敷地から離れて反対側の道の端へと寄って行くと、鷹尚はブロック塀へと背中を預ける。
 もし本気で腰を据えるつもりならば「以室商会本店に一度戻って……」ということもできた筈だが、今後の予定について話をするだけならばそこまでする必要は無いと考えたのだろう。さらに言えば、シロコが接客を終えていりなんかした場合、後回しにした筈の「実家に戻る」説明がそこにドンッとタスクとして積み上がることは明白だ。いいや、それで済めば万々歳だろう。せっかく重い腰を上げたにも関わらず、時間的な余裕がある週末なのだから、またぞろ何だかんだと面倒くさい案件があれよあれよと発生することも十分考えられるのだ。
 同じようにトラキチがブロック塀へと背中を預けたところで、鷹尚は切り出す。
「土日に掛けて一旦実家に戻ることにしたから、今夜の夕食と明日の分の御飯は要らないってシロコに伝えて貰っていいか?」
「土日に掛けて実家に戻る? 高橋の件はどうするつもりだ?」
 その矢先。トラキチからはすぐさま拒否反応に近い声が返った。
 もちろん、その反応も頭では理解できる。ある種、当然の反応とさえ言えるかも知れない。
 昨晩、憑鬼を突くだけ突いてしまった後なのだ。
 ここで不用意に時間を与えるということは、相手に身構え準備する猶予を与えるに等しい行為だ。
 もちろん、鷹尚はそれを理解した上での判断であることをトラキチへと説明する。
「憑依先候補者として高橋さんが当たりだったんで、すぐに手を打っておくべきだって気持ちは分かるよ。けど、ちょっと対策を考える時間を挟まないか? 昨日の様子だと、何か道具を揃えたからといってすぐに力業で何とかできるとは思えない。実家には顔を見せに一旦戻るだけだから、土日に掛けて時間はたっぷり確保できる筈。その時間を使って憑鬼の件はどんな対処方法があるのかを調べてみるつもりだ。トラキチの方でもそれとなく仲間内で詳しい奴がいないかどうか調べてみてくれると助かる」
 尤も「調べてみる」という言葉は、言うは容易く行うは難しの典型例となるだろう。寧ろ、継鷹がその手のことにも関わる「以室商会」を経営しているとは言え、鷹尚の両親に到っては全く関係の無い仕事に就いている。即ち、実家に帰ったところで手掛かりとなり得る情報が手に入る見込みは全くないと良い。
 それでも鷹尚には、宛てがないというわけでもなかった。
 蛇の道は蛇だ。
 再び、旧・中坂邸に足を運んで白黒篝や計香に話を聞くというのが、まず一つの手としてある。無論、それだけではない。アルバイトとして以室商会に関わってきたことで、鷹尚には他にも困った時に頼れるつてがいくつかある。そうはいっても、そのつてのどれもが元を辿れば「以室商会」に行き着くのも事実だ。「憑鬼の剥がし方について相談したこと」が継鷹の耳に入らないようにするためには、鷹尚は細心の注意を払ってつてを選択しなければならない。
 なので、何よりもまずは「旧・中坂邸」辺りまででことが解決すれば、万々歳。
 そんなことを鷹尚が考えていた矢先のこと。
 半ば期待せずに口走った筈のトラキチルートについて、悪くない感触の言葉が返る。
「あー、まぁ、望み薄だが聞くだけ聞いてみるか。猫又の中にも、憑依術を会得しているようなのもいるみたいだしな」
 思いも寄らないところから、思いも寄らない言葉が出てきて、鷹尚は食い気味に食い付く。
「へぇ、それ、どうやったら憑依を剥がせるのかってところを聞いてみる価値はあるんじゃないか?」
「まぁ、問題は噂話で耳にはするけど、実際にそれを「使えるぜー」って奴に出会った試しがないってことだな!」
 期待させるだけさせておいて、カラカラと笑いながらそうすとんと落ちをつけたトラキチを前にして鷹尚はがくっと肩を落とした。
 きっとこの話は眉唾だ、間違いない。
 ともあれ、鷹尚とトラキチが以室商会本店から少し離れた人気の無い裏路地に屯しながらそんなやりとりをしていた時のこと。
「やっほー、ちょっといいかな?」
 不意に、二人が全く想像だにしない方向から声が向いた。
 それはこの場にそぐわない雰囲気をまとったものだとか、如実に敵意が込められていたとかいう類いの場違いさを持つものではなかったのだが、ちょっとした違和感を覚えるぐらいには異質さを伴った声だった。表面上は妙にノー天気さを印象付けるような明るい声色なのだが、それでいて酷く嫌に耳に残る。
 二人が声の発せられた方向へと顔を向けると、そこには鷹尚とそう年齢が変わらないだろう見た目の長身の女の子がいた。ちょっと離れたブロック塀の上にいて、その場にしゃがみ込む姿勢のまま、こちらに顔を向ける格好だ。目を細めて軽く右手を上げて見せる様子からは、敵意と行った類いのものは感じられなかった。
 迷彩模様のコットン地のサンバイザー。膝上10cm程度のショートパンツに薄いデニールのタイツを履き、上は黒地にワンポイントをあしらったドライウェア。その上に迷彩模様のパーカーを羽織る出で立ちで、パッと見はランニング中の女子学生にしか見えない。
 それでも、反射的にブロック塀から後退りそうになって、鷹尚はどうにか踏み止まった。
 何となく分かる。
 それを「なぜ?」と問われても鷹尚が明確に答えることはできないものの、……雰囲気で分かるのだ。やはり、日々接しているから何となく気づけてしまうのだろう。
 唐突に声を掛けてきたその声の主は、トラキチの「管轄」となる相手だ。
 そう、今目の前に現れた同年代の女の子は、トラキチやシロコと同じ猫又の類いである筈だ。
 傍目には尻尾も耳も確認できないところを見ると上手に化けることができる猫又のようであるし、やもするとその見た目とは裏腹にトラキチやシロコよりも年を経ているのかも知れない。そうでなければ、化けるにあたって強力な後ろ盾を持っている可能性もある。
 基本的に、化ける能力の巧拙はその猫又の年齢に比例すると聞く。もちろん、中にはその持って生まれた天賦の才で若くして完璧に化けるものもいるようのだが、それは例外中の例外だ。
 ちなみに、トラキチ・シロコがほぼ完璧に化けているのはもう一つの例外によるところが大きい。即ち「強力な後ろ盾」の有無による部分だ。猫又の類いの中ではそう年齢を経ているとも言えないトラキチ・シロコ両名の化ける技術は、継鷹の支援あってのものなのだ。
 鷹尚はすっとトラキチに視線を向ける。
 トラキチの反応を見る限り、そうして突然割って入ってきたサンバイザーの猫又が顔見知りということはないようだ。
 見知らぬ猫又から声を掛けられることに対して、鷹尚に思い当たる節はない。
 尤も、声を向けた対象があくまでトラキチだというのならば、縄張り争いだとかいった類いの話も視野に入る。
 サンバイザーの猫又はブロック塀の上からトンッと軽く飛び降りると、裏路地に仁王立ちになる格好でこちらを窺う。
 一方で、トラキチは目に見えて「身構える」ということをしなかったものの、自身がまとう雰囲気というものをすぅと切り替え警戒態勢へと移行していた。
 当然、トラキチがサンバイザーの猫又に向ける声色というものも、顕著に警戒感を含めたものとなる。
「ここらでは見掛けない顔だな? 何の用だ?」
 サンバイザーの猫又はびっくりした様に一度目を見開いてマジマジとトラキチを眺め見ると、再びその目を細めてカラカラと笑う。トラキチに対して、敵意や警戒感がないことを改めて示す格好だと言って良い。
「なはは、やだなー、そんなに警戒心マックスにならないでよ。縄張りがどうとか、喧嘩吹っ掛けようとか言うつもりはこれっぽっちもないよ」
 そこまで言い終えると、サンバイザーの猫又は徐ろに胸元へと手を差し込む。すると、そこから一通の封筒を取り出して見せた。
「魔女のおねーさんから君達に手紙を預かってるんだよねー」
 聞き慣れない「魔女」という単語に顔を顰める鷹尚とトラキチを尻目に、サンバイザーの猫又は二人の様子など一切気にした様子を見せない。続ける言葉でこう確認を向ける。
「以室商会の佐治鷹尚君と、佐治トラキチ君で間違いなかったよね?」
 どうやら、彼女のお目当ては鷹尚とトラキチの両方だったらしい。
「手紙? 誰から預かったって?」
「だから、魔女のおねーさんだって」
 改めて、日常生活に置いて聞き慣れない「魔女」という単語に顔を顰めながら、トラキチは鸚鵡返しに聞き返す。
「魔女?」
 どうやらサンバイザーの猫又は、そんなトラキチの疑問を「どの魔女か?」を問うたものと受け取ったらしい。斜め上の解釈にも程があるが、サンバイザーの猫又の認識に置いて「魔女」という単語は複数の対象を持つらしい。
「そう! えーと、……あれ、あれだ。戸永古書店の魔女」
 トラキチはふいっと鷹尚に視線を向けると、その目で「有名なのか?」を問いかける。対する鷹尚はといえば、逆にその目でトラキチに「知っているか?」と問い掛け直す形だったから、二人はそこでピタリと固まった。
 そうなると、二人の視線は戸永古書店の魔女から手紙を預かったと主張するサンバイザーの猫又へと向く。
「あれれ、ご存じない感じかな? そっかー、でも確かにこっちの方じゃあんまり大っぴらには活動してないみたいだものね?」
 さも彩座の何処かでは魔女とやらが大っぴらに活動している地域があるかのような口振りだったのが、鷹尚もトラキチもその言葉を鵜呑みにはしていないようだった。
 それはそうだろう。
 以室商会のアルバイトを始めからこっち、鷹尚が「魔女」なんて単語を聞くのはこれが初めてなのだからだ。何ならそれが特定の一人を指したものなのか、複数人からなる組織を指したものなのかすら分からない。
 そして、鷹尚が何らかの言葉を向けるよりも早く、サンバイザーの猫又は「そんなことは然したる問題ではない」というスタンスを取った。
「まぁ、それはそれ、これはこれ。あたしは預かった手紙を、二人に渡すだけだよ。手紙は佐治鷹尚君、トラキチ君のどちらかに渡して欲しいと言われているんだけど、どちらが受け取ってくれるのかな?」
 サンバイザーの猫又が差し出された封筒を引ったくるように受け取ったのはトラキチだった。
 そうして、そのトラキチから封筒を受け渡された鷹尚が、サンバイザーの猫又にこう確認を向ける。
「ここで開けても良いのか?」
「もちろん」
 この場での開封を快諾された鷹尚だったが、勢いままに封を破るようなことはしなかった。封筒の表裏を引っ繰り返したりして全体像をマジマジと把握した後、親指と中指に挟んで厚みを確認したりと入念なチェックをする。
 まず最初に、封筒は特にこれといって特徴の無いシンプルなものだった。
 サイズはA6。色は焦げ茶色で、表面には宛名すら記されていない。裏面はコーヒーカップを模したデザインのテープで封がなされていて差出人名として「戸永古書店の後天の魔女」の記載があるのみだ。厚みはほとんど無く、凸凹加減を指を確認する限り折り畳まれた手紙が一枚か二枚封入されているだけだろう。
 入念なチェックを終え、鷹尚の指は自然と裏面の封へと伸びる。
 しかしながら、封を切る直前まで行って鷹尚は徐ろにその手を止めた。
 以室商会サイドが封筒を受け取ったにもかかわらずサンバイザーの猫又が未だこの場に留まっているのが気になったからだ。しかも、サンバイザーの猫又はこの場を後にする素振りをこれっぽっちも見せない。
 穿った見方をするならば、手紙を渡すことだけが彼女の目的ではないように鷹尚の目には映った。
 例えば、彼女は封入された手紙の内容についても少なからず関わっていて、この手紙というアクションに対して以室商会が下す判断を魔女とやらに伝えるまでが目的である……だとか、だ。
「封筒は確かに受け取ったけど、まだ何か俺達に用でもあるのか?」
「んー? そんな邪険にしなくてもいいじゃない? ただの興味本位だよ。戸永古書店の魔女があの以室商会にどんな働きかけをするんだろうっていうのが気になっているだけ。だって、手紙の内容がもし「宣戦布告」とかだったら、これ、大事だよ。彩座界隈の勢力図が大きく変わっちゃうかも知れない」
 興味本位。
 鷹尚はその言葉に若干引っかかる部分を感じながらも、サンバイザーの猫又がその場に留まることを許容した。少なくとも、現時点で追い払う理由が見当たらなかったからだ。興味が削がれたところでふらりと何処かへ消えるのかも知れないが、何だったら「戸永古書店の魔女」とやらにこちらから言付けても良い。
 尤も、戸永古書店の魔女とやらが何者なのかも、鷹尚は知らないのだけれども。
「戸永古書店の魔女なんて、こっちは今の今まで名前すら聞いたことはないんだけどね」
「あれ、そうなんだ? 以前、以室商会が戸永古書店の魔女の一人を完膚なきまでに叩いて叩いて追い払ったことがある……みたいな話を小耳に挟んだことがあるけど、あれはただのデマだったのかなぁ」
 不意にサンバイザーの猫又が口走った内容は、鷹尚に取って完全に初耳だった。
 鷹尚は再びトラキチへと視線を向ける形で「そんな話を聞いたことがあるか?」を問う。尤も「戸永古書店の魔女」の時点でその存在をお互い把握していないのだから、そんないざこざがあったことを把握している可能性は確認するまでもなくほぼゼロに等しかっただろう。
 案の定、トラキチはふるふると首を左右に振る。
 トラキチが知らない以上、今この場で過去にそんないざこざが本当に存在したのかどうかを確かめる術はない。
 仮に、過去に以室商会といざこざを持った勢力が要るとして、こんな簡素な封筒一通に「宣戦布告」なんて極めて重要な意思を込めて送りつけるものだろうか?
 サンバイザーの猫又の言葉に起因して雑多な思考が頭を付いて回るようになる鷹尚だったが、そこであれこれと葛藤したり不安になったりすることが不毛であることは言うまでもなかった。
 鷹尚はすぅと息を一つ飲み込み腹を括ると、封筒を勢いよく開封する。そして、上下を引っ繰り返して中から出てきたものは、奇麗に折り畳まれたA4サイズの手紙が一枚だ。
 鷹尚は手紙に書かれた文面をゆっくりと目で追い、それを読み上げていく。
「拝啓、佐治鷹尚様、佐治トラキチ様。私共(わたくしども)は、貴方様のお困りごとについて相談に乗ることができます。例えば「憑鬼をどうやって捕まえたら良いものか?」といった貴方様が抱える直近の問題に対しても、です。招待状を添えさせていただきますので、対処に困っているのならば、ぜひ一度ご相談下さい」
「随分とまぁ、ド直球で来たな」
 開口一番、トラキチが口にした感想は、鷹尚に取っても同じ思いだ。
 あまりにも直球ストレートで簡素過ぎる内容に、鷹尚は思わず手紙を携えてきたサンバイザーの猫又へと真意を探る視線を向けたぐらいだ。それは「ただの興味本位でここに残った」と述べた彼女の言葉を疑う視線でもある。
 トラキチだけでなく鷹尚からも疑いの目が向いたことで、サンバイザーの猫又は慌ててこう弁明する。
「わわ、そんな鋭い目付きで睨まないで欲しいな。手紙の中身には、あたしは一切関与していないよ」
 サンバイザーの猫又はそう主張するものの、それが嘘か本当かを鷹尚・トラキチサイドに見分ける術はない。彼女の態度が途轍もなくぎこちないだとかいった類いの分かり易いフラグでもあれば話は別かも知れないが、それだってそう仕向けるためのブラフの可能性だって考えられるのだ。
「は! どうだか」
 当て付けるかの如くトラキチが吐き捨てるも、サンバイザーの猫又がそれに対して何かしらの反応を返すことはなかった。両手を挙げて「お手上げです」のポーズを見せると、そのことに関して疑いを晴らす術は持ち合わせていないというスタンスなのだろう。
 吠えるトラキチを尻目に、鷹尚は手紙の記載にあった招待状とやらをまずは探した。手紙には連絡先の一つすら記載が無いのだから、どんなアクションを返すにしてもまずは招待状とやらを確認してからの話になる。
 しかしながら、封筒を引っ繰り返して中身を全て取り出そうとしても招待状とやらは出てこない。
 よもや「入れ忘れか?」と中を覗き込もうとしたところで、鷹尚は手紙を取り出してなお封筒に厚みの斑があることに気付く。そうして、中を覗き込んだところで、件の招待状と思しき商品券サイズの紙を発見する。封筒を引っ繰り返すぐらいでは落下することが無いよう、その紙の両端を挟み込むポケットのような仕組みが封筒には設けられていた形だ。
 結局、封筒の中には招待状の他にも「cafe Bibliophilia(カフェ・ビブリオフィリア)」という店名とコーヒー1杯無料チケットと表面に記載のある千円札サイズの印刷物が二人分添付されていた形だった。
 尤も、そのコーヒー1杯無料チケットとやらはこの為に特別に用意されたものというわけでもないらしい。ぺらりと裏をめくると、無料チケットの使用に当たっての注意事項や有効期限などが漏れなく記載されており、その内容はといえば至って一般的なものに終始するのだ。
 やれ、汚損等で原形を止めなくなってしまった場合の対応として「交換には応じられません」だとか。
 やれ、本券は他のクーポン券や割引券との併用はできませんだとかいった具合だ。
 唯一、気になったところは「利用可能時間は9:00開店から19:00までのカフェとしての営業時間内に限ります」という記載ぐらいだろうか。米印の補足で「Barとしての営業時間(19:00〜25:00)は利用できません」となっていて、19:00を境にがらりと営業形態や提供する飲食物を変えるのかも知れない。
「招待状、ねぇ」
 目を引く書体でデカデカとコーヒー1杯無料と印字された凝った作りのチケットとは異なり、件の招待状は非常に簡素な作りだった。白地に黒字で「招待状」と印刷されているだけだし、何よりコーヒー1杯無料チケットのような目を引く書体ですらない。
 ただ、ペラリと裏をめくると、そこには誰かの手書きと思しき文字のような記号の羅列が綴られているのが目に付く。
 恐らく、何かしらの意味を持つ羅列であり、それが戸永古書店の魔女が正式に発行したものであることを紐付けるためのものか何かなのだろう。そんなことが実際起こりえるかどうかはともかくとして、招待状を偽造し以室商会を名乗る第三者が不正に戸永古書店の魔女へと相談に訪れることがないように対策を施した……とかいった具合だろう。
 招待状とコーヒー1杯無料チケットを横目に捉えながら、トラキチは「では件のカフェ・ビブリオフィリアがどこにあるか?」を鷹尚に尋ねる。
「行く行かないは一先ず置いておいて、……その親切な相談窓口はどの辺にあるんだ?」
 トラキチの疑問に答えるべく、鷹尚が改めて確認するのはコーヒー1杯無料チケットの方だ。注意事項や有効期限が記された裏面の右後端に、住所と電話番号の記載があるのだ。
 そこに記載された情報を元に、鷹尚が腰に巻いたポシェットからスマホを取り出し調べようとしたところで不意にサンバイザーの猫又が口を切る。
「戸永古書店はね、田本寺町(たもとてらまち)商店街の奥まったところにあるよ。カフェ・ビブリオフィリアはそのすぐ隣。というか、同じ建物に二つのお店が入居しているって説明した方が解りが良いかも。距離は……、ここからだとちょっと遠いかなぁ。あたしやトラキチ君がその気になって移動して、あたしで30分、トラキチ君で2時間ぐらい掛かる感じかな」
「あぁん!?」
 唐突に、しかも何の脈絡もなくディスられたことでトラキチは食って掛からんばかりの勢いをまとったのだが、慌てて鷹尚が制止したことでことなきを得る。
 ともあれ、わざわざ戸永古書店が田本寺町商店街にあると教えて貰った格好だが、それが彩座のどの辺りに位置する地名なのかを鷹尚は知らなかった。さらに言えば、猫又(トラキチ)の足で2時間ぐらいと述べた距離が具体的に何km相当に換算されるのかも検討付かない。
 そして、どうせトラキチにそれを問うても、具体例を伴わず感覚的な言葉しか返ってこないだろうことは火を見るよりも明らかだ。
 結局、鷹尚は腰に巻いたポシェットからスマホを取出し、ルート案内のアプリを立ち上げることになる。
「ええと、まず目的地が田本寺町のカフェ・ビブリオフィリアで……。えー、現在地からのルート案内はまず最寄りの私鉄の駅まで徒歩でアクセス。北櫨馬方面行きの私鉄に乗車して彩座を南下し、彩座水科(あやざみずしな)駅で下車。続いて、彩座水科駅のロータリーから高芝平(たかしばだいら)方面行きの市営バスに乗車し、田本寺町本通り前で降車。所要時間は約1時間40分」
「さくっと行ける距離だな」
 さらさらと鷹尚が読み上げたカフェ・ビブリオフィリアまでのルート案内を聞いたトラキチの第一声は「そう遠くないな」というものだった。
 所要時間にして片道約1時間40分をさくっと行ける距離と判断して良いかどうかは別として、仮に今から出発しても問題なく今日の夕方までには戻ってこられる「日帰り可能な距離」であるのは間違いなかった。
 これはカフェ・ビブリオフィリアのある「田本寺町」が彩座市南部に位置しながら、交通の便が大きく悪化する地域に属しているわけではないところが大きい。これが私鉄の沿線から大きく外れる南端部だったり、南東端部に位置する高芝高原近隣地域だったりした場合、所要時間が一気に酷いことになった筈だ。
 また、彩座水科近郊は彩座南部でも私立・国公立問わず教育機関が数多く立地した場所であり、学園都市の側面も持っている。学生の需要が旺盛なことで私鉄・市営バスも比較的夜遅くまで運行しており、万が一、田本寺町で多くの時間を取られることになっても日付が変わるレベルの話で無ければ帰りの交通手段を心配する必要が無い。
 即ち、感覚的にも「さくっと行ける」「そう遠くない」という認識は間違っていないのだ。
 そうして「そう遠くない」という事実を理解したことで、俄然トラキチの思考は訪問を前提としたものに切り替わったらしかった。続ける言葉で、サンバイザーの猫又へと「招待状」についての疑問をぶつける。
「招待状とやらには日時の指定がないが、事前の予約なしでもこっちの都合に合わせて相談に乗ってくれるのかい?」
「えーと、手紙の内容には一切関与してないあたしにそれを聞いちゃう? うーん、でもまぁ、基本定休日以外はいつでもウエルカム……じゃないのかなぁ」
 手紙の内容には一切関わっていないと言ったにもかかわらず、律儀にもサンバイザーの猫又は疑問に対する自身の見解を述べてくれた。それは恐らく、手紙の内容に日時の指定が無かったことからそう推察したものだろうが、相応の説得力を伴うものでもあった。コーヒー1杯無料チケットなんてものを同封しているのだから「相談に訪れる際は、営業時間に来て下さいね」と言っているようなものだろう。
 改めて、鷹尚はコーヒー1杯無料チケットへと視線を落とす。
 コーヒー1杯無料チケットに印字された文言の中から定休日についての記載を探すためだ。そして、定休日についての記載はすぐに見つかった。まず毎週水曜日が定休日に指定されており、それとは別に「臨時休業日を設けているため営業日についてはHPを参照下さい」の文言があった。
 鷹尚がコーヒー1杯無料チケット裏面の文言に視線を落とす一方で、トラキチはサンバイザーの猫又の見解を受けてこう切り返す。
「だったら、お前に手紙を預けた魔女のおねーさんとやらに言っとけ。せっかく招待いただいんで、佐治鷹尚・トラキチコンビが近日中に相談に窺ってやるってな」
「なはは、オーケー。忘れず伝えておくよ」
 サンバイザーの猫又は目元を細めて、満足げに微笑んだ。その反応は、ただ「興味がある」からここに残ったといった態度に反する対応のようにも思えたが、それをここで突くといったような無粋な真似はさしものトラキチもしなかった。
 加えて、サンバイザーの猫又もあくまで興味本位でこの場に残った体を崩さない。半ば「化けの皮」が剥がれ掛けたものの、ここで彼女が何であるかが露見してもそれはそれで困る。
「それじゃあ、あたしはそろそろお暇しようかな。手紙の中身も宣戦布告なんて物騒なものじゃなかったみたいだし」
 すると、サンバイザーの猫又はウインクをして見せて愛想を飛ばした後、さらりとお別れの挨拶を口にする。
「バイバイ。またどこかで会いましょう。佐治鷹尚君、佐治トラキチ君」
 そこまで言い終えてしまうと、サンバイザーの猫又はその場から掻き消えるように去って行った。それは後ろ姿を目で追うこともままならない程の速度だった。……というよりも、鷹尚は一瞬何が起こったのか分からず、目をぱちくりさせて呆気にとられたぐらいだ。
 体感的には、数歩分トンットンッと地を蹴る音だけを残してこの場から雲散霧消したような感覚だ。田本寺町までの移動に掛かる時間でトラキチをディスったように聞こえたが、あの煽り文句は強ち嘘でも誇張でも無かったのかも知れない。
 サンバイザーの猫又の気配が完全に霧消したことを確認すると、トラキチが鷹尚に尋ねる。
「さて、どうする? 憑鬼の件を相談するかどうかはこの際一先ず置いておくとしても、俺は顔を拝みに言っても良いと思うぜ。色々とこの魔女とやらに確認しておかなきゃならないことがあるだろ?」
 トラキチが言わんとするところは鷹尚も理解している。
 打てば響く反応を見せた「戸永古書店の魔女」という存在は、現段階で余りにも不気味だ。「相談に乗ることができる」なんて手紙を送ってきた意図も確認したいし、例えばそれを「遠慮する」という形で断った時に態度を一転させてこの件に介入してくるような下地が無いのかどうかというところも見極めておきたかった。
 ことと場合によっては「憑鬼の対処をするに当たって不穏な勢力がいる」というような相談を冥吏に持ち掛ける必要があるかも知れない。鷹尚達が憑鬼の対処に当たっていることを「どうして知っているのか?」といった辺りは、必ず追求しておきたい部分だと言えた。
 鷹尚はスマホを手早く操作すると、すぐさまカフェ・ビブリオフィリアのHPを画面に表示させる。臨時休業日を確認するためだ。定休日では無いからといって、乗り込んで行ってみたら臨時休業日だったでは笑い話にもならない。
 HPの営業日カレンダーを確認する限りでは、直近で臨時休業日は見当たらなかった。「店舗貸切日(注:予約外のお客様はご利用いただけません)」という日が月内で一日見受けられたぐらいだ。
 鷹尚はその画面をトラキチにしっかと見せ付けた後で、逆にこう尋ね返す。
「もし、戸永古書店の招待に乗っかかるとするならいつが良いと思う?」
「どうせ明日の日曜辺りが本命だろうと高を括ってるだろうから、裏をかくなら今日このまま乗り込むのが最適だろうな! 疾きこと風のごとし、侵掠すること火のごとしって奴だ!」
 サンバイザーの猫又の動きに触発されたのだろう。トラキチの見解には猛って物騒な物言いが続いた。尤も、鷹尚も苦笑いの表情を見せるだけで、トラキチのその姿勢を諫めたり注意したりすることは無い。
 相手の思惑が分からない以上、何があっても押し負けないよう「侵略する」ぐらいの心持ちが必要だという側面ではトラキチの姿勢も強ち間違っていないとさえ言える。
 鷹尚は腕組みをして思案顔を合間に挟むと、トラキチの見解を踏まえて自身の考えをまとめる。
 戸永古書店の訪問時期は、早ければ早い方がベストな選択であることは間違いない。その認識は揺るがなかった。トラキチが主張したように、戸永古書店が日曜日を本命と捉えているのも恐らくその通りだろう。そして、裏をかくなら……というところも、恐らくその通りだ。
 では、どうするべきだろうか?
 ……。
 裏をかく、べきなのだろう。
 過去にいざこざがあったかも知れない相手に対して、少しでもより良い立場を保つために。
 一旦実家に戻るつもりで以室商会本店を後にした筈なのだが、その予定がご破算になるかも知れないと鷹尚は思った。
 戸永古書店訪問を終えた後に実家へ帰宅するとなると、日が高い内に……というのが無理筋な話になる可能性も考えられるからだ。どれだけ戸永古書店での相談に時間を取られるかは未知数だが、往復の時間も考慮するとなると実家に戻ることが憚られるぐらいの夜遅い時間に差し掛かる可能性がある。
 すんなりと何事もなくことが進めば、それらは全て杞憂に過ぎないのだが……。
 もちろん、夜間の帰宅になったとしても、その理由に以室商会アルバイトとしての仕事を盾に取ることもできる。できるのだが、鷹尚の父親も母親も継鷹ほど寛容でもなければ理解もないのだ。寧ろ「深夜の時間に差し掛かるような仕事の手伝いなんて学生には有り得ないことだ!」といった具合の拒否反応を示されて、継鷹へ苦情が入る事態になってしまうと自分の首を絞め兼ねない。
 結局今夜も以室商会本店の客間を寝床にする未来がちらちらと垣間見れて、鷹尚は一つ大きな溜息を付いた。




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