鳴橋が整えた旧・中坂邸での会食から一日後の夕暮れ。鷹尚とトラキチは再び旧・中坂邸に居た。
経緯はどうであれ、四上宿に四日連続で足を運ぶ流れなんて鷹尚に取っても生まれて初めてのことだった。もちろん、四日目となる本日の旧・中坂邸訪問の目的は、昨日鳴橋が口にした「リスト」を受け取るためであり、昨日・一昨日とは大きく趣が異なるのは事実だ。
さらに言えば、鷹尚に掛かる精神的な負荷という点で、もしそれを数値化できるのならば最も高い値を現在進行形で更新中なのがこの三日目だった。
昨晩、鳴橋に向かって「やります」と胸を張ったはいいものの、やはりというか思いの外というか、後になってじわじわと「本当にあの決断で良かったのか?」なんて後ろ髪を引く葛藤が沸々と止め処なく湧き出してきたのだ。その癖、今になって「やっぱり止めます」なんてことは当然口にできないし、継鷹に対して然るべきタイミングで冥吏の依頼を受けた件を説明しなければならないというストレスフルな残課題もまだ積み上がったままだった。
ともあれ、三日連続となる四上宿訪問に対して、鷹尚は事前に示し合わせて学校帰りにトラキチと観光案内所で落ち合う形を取った。そういうのも、何を隠そう昨日の今日ながら、トラキチの案内なしでは旧・中坂邸へと辿り着く自信がなかったからだ。
何せトラキチは、昨日一度、旧・中坂邸へのルートを辿っただけで「大体の場所は分かる」という状態から「もう観光案内所からなら迷うことなく辿り着くことができるぜ!」という状態までパワーアップしていたのだ。
しかしながら、ルート案内に「自信あり」のトラキチを従えているからと言って、四上宿を物見遊山の感覚で脇見しながらただただ闊歩するというわけにもいかない。今後、旧・中坂邸へは何度も足を運ぶことになる可能性が高いのだ。トラキチの案内なしでは辿り着くこともままならないという状況は、必ず改善して置かなければならないだろう。いつもいつもトラキチが道案内できる状況下にあるとは限らないし、何か緊急事態が発生した場合、鷹尚一人で旧・中坂邸へと向かわねばならない自体が発生することも十分あり得る。
何より、少なくとも憑鬼の対処という今回の依頼だけに着眼しても、白黒篝が旧・中坂邸に配置されている以上はここが基点となるのは間違いない。だとするならば、旧・中坂邸へと鷹尚一人で足を運ばざるを得なくなるシチュエーションが訪れることは想像に固くない。
そんな背景もあって、旧・中坂邸に到るルートの目印みたいなものを、道中、先導するトラキチに鷹尚は何度か尋ねたのだが、結果として期待した情報は何も得られなかった。
「どうすれば観光案内所から旧・中坂邸へのルートを楽に覚えられるか?」
「何か目印みたいなものはないか?」
鷹尚はそういった視点をトラキチに求めたのだが、当のトラキチは思案顔を間に挟んで一度唸った後「フィーリングだな。体で覚えるしかねぇよ」と宣ったのだ。
スマホのルート案内アプリといった文明の利器に頼ろうにも、四上宿本町の自動車が通行できるような大きな通りはともかくとして、狭い路地に至っては全く網羅できていないのが現状だった。これは、ただ「狭い」というよりも内部に無数の私道や私有地を内包していることが理由だろう。
ともあれ、そんなやりとりを挟みながらも淡々と四上宿を歩いていくと、二人は特に迷うこともなくすんなりと旧・中坂邸まで辿り着く。「観光案内所からなら迷うことなく旧・中坂邸へ辿り着くことができるぜ!」というトラキチの言葉に、嘘偽りや誇張はなかったようだ。
旧・中坂邸付近までやってくると、その一帯が改めて異質な空気を漂わせる場所であることを理解する。周囲の建物を含めて生活音らしい生活音は全くなく静まり返っていて、人の気配や息遣いといったものを一切感じる余地がないのだ。その癖、打棄てられた廃墟のように損壊した建物があるわけでもなく、生活道路にしても一通り手入れが為されて小綺麗なのだから、これを何とも言えない空気と言わずして何と言えば良いだろうか。
その場所に改めて鷹尚が立ち入ってみて、ふと感じたことはここいら一帯には本当に誰も居住していないのかも知れないという思いだった。
大体、観光客が闊歩する「旅籠通り」などに軒を並べる家屋にしても、その大半は既に土産物屋や軽食屋、内部構造を見学可能な展示施設だったりする。もちろん、昔ながらの形を残しつつ観光客向けではない仕事をしながら普通に生活を営んでいる住居もあるにはあるだろうが、外見が小綺麗にされているからといって人が居住しているとは限らない家屋も無数に存在するのがここ四上宿なのだ。市や観光協会が適切に管理していることで、人の居住の有無に関係なく外観を含めた現状維持が為されているに過ぎない。
四上宿内の観光エリアとして花形である「旅籠通り」ですらそうなのだから、軽自動車すら進入不可能なこの隘路の奥まったところに存在する旧・中坂邸近隣地区の家屋に、一体どれだけの人が今もなお住み続けているかは甚だ疑問だ。
ともあれ、旧・中坂邸の玄関前まで辿り着くと、鷹尚は迷うことなく玄関前まで足を進めその取っ手へと手を伸ばす。
その時だ。
トラキチから待ったが掛かる。
「ちょっと待て、鷹尚。そのまま旧・中坂邸の玄関を潜っても、多分、昨日の場所には辿り着けないぜ。白黒篝が解錠に当たって色々やってただろ?」
そう声を掛けられていなかったら、鷹尚はうっかりそのまま旧・中坂邸の玄関の扉を開いてしまっていたかも知れない。鷹尚はトラキチからの言葉にハッとなった様子で、扉の取っ手に伸ばしたその手を慌てて引っ込める。
白黒篝から「玄関は勝手に開けて入って貰って構わない」と昨夜の帰り際に言われたこともあり、鷹尚は旧・中坂邸に細工が施されていることを完全に失念していた形だった。
旧・中坂邸の玄関の扉を開く際、白黒篝は複雑な解錠手続きを踏んでいた。そして、それなしでは本当の意味での、冥吏が管理をする旧・中坂邸内部へと新入できないことを説明もしていた。
鷹尚は、玄関の扉の前で当惑する。
「……と、こういう場合はどうしたら良いんだ?」
「解錠のやり方が分からない以上は、中から冥吏に開けて貰うしかないんだろうな」
「インターホンは、……見当たらないな。まさか到着したら携帯で呼び出せっていうわけでもないだろうし……」
旧・中坂邸の玄関で、どこにインターホンがあるかのを探してあたふたしていると、扉のちょうど鷹尚の視点の高さの位置にシンプルながら真鍮の立派なノッカーが存在していることにはたと気付く。
恐らく、白黒篝が「勝手に玄関を潜っていい」といった背景には、旧・中坂邸が年季の入った建造物でインターホンが設置されていないというのもあったと思われる。
ともあれ、鷹尚は旧・中坂邸の重厚な門の前に改めて進み出ると、控え気味にノッカーを叩いた。
叩く力が弱かったのだろう。響いた音はコン、コンっと非常に軽いものだった。
真鍮製のノッカーなんてものを利用するのは生まれて初めての経験だったこともあって、どれくらいの力で叩くべきなのかすら分からなかったのだ。
しかしながら、その控えめなノックの音に対して、すぐさま扉を挟んだ向こう側から女性の声が返る。
「佐治鷹尚様ですね?」
「え? あ、はい、佐治鷹尚、です」
てっきりそうやって扉越しに名前を尋ねられたり、そもそも何かしらの反応が返るまでには相応の時間が掛かると思っていたから、すぐに反応があるというのは想定外だった。鷹尚・トラキチ共に面食らった格好だ。
鷹尚があたふたとしている間に、白黒篝が解錠の手続きを踏んだ際にそうであったように旧・中坂邸はうっすらと青白く発光しその輝きを急速に失うサイクルを完了させる。すると、旧・中坂邸の重厚な玄関の扉がこれといった耳につく音もなく、開け放たれるまでにさしたる時間は掛からなかった。
「お待ちしておりました」
先程、鷹尚に確認を向けた事務的な声から一転。「訪問者を歓迎する」という意思が籠められ随所の角を丸めたやや柔らかい声とともに、旧・中坂邸の玄関の扉が開かれる。
鷹尚・トラキチの二人を旧・中坂邸へと招き入れたのは、白黒篝ではなく鳴橋に「計香」と紹介された女性だ。
昨日同様、紺のパンツスーツに身を包み、切れ長で吊り目気味の目元にはこれといった装飾もないシンプルなシルバーフレームの眼鏡を掛ける。こうして改めて眼前に計香を置くと、すらっとした細身型の体型と、姿勢の正しさ・美しさと言った部分が目に付く。
高校生である鷹尚からしてみればパッと見「若い」と形容できる容貌ではないものの、人間でいうと上を見ても精々が20代後半といったところだろうか。
「どうぞお入り下さい。白黒篝は、昨日お二人が鳴橋様と会食をされた応接室におります」
二人が旧・中坂邸の玄関へと進入すると、計香は扉を締めすぐに施錠の手続きを実施する。
手慣れた手付きで施錠の手続きを行う計香だったが、不意にその手が止まる。
「あの、……どうかなされましたか?」
計香は、いつまで経っても鷹尚とトラキチの二人が旧・中坂邸の玄関に留まっていることを訝る。階下の応接室に白黒篝が居ると伝えたのにも関わらず「どうして二人はそこに向かわないのだろう?」と思ったらしい。
対する鷹尚の言い分はこうである。
「ああ、いや、その、……勝手にずかずか入って行ってしまって良いものなのか判断に迷って……」
そうすると、トラキチはトラキチで「鷹尚が玄関に留まったままだから、特に理由もなく俺も留まった」とか言い出すわけだった。
ともあれ、ぎこちない様子の鷹尚の受け答えは計香の疑問を一瞬で融解させたようだ。加えて、鷹尚が何を懸念しているかについても、敏感に察して見せる。
「あぁ、なるほど。大丈夫ですよ、旧・中坂邸内部は自由に歩き回っていただいて構いません。本当にアクセスされると問題のある場所には、管理者の同席がないと立ち入れないよう処理が施されています。けれど、……そうですね。それでは、恐悦ながら私がお二人を案内させていただきます」
そういうが早いか、計香は昨日白黒篝が案内したものと同様の道順で二人を旧・中坂邸の階下へと案内する。
外からの解錠だろうが中からの解錠だろうが、それが正規の手段であるならば内部の構造が変化すると言うようなことはないようだ。
計香の後について歩きながら、旧・中坂邸の様子をまじまじと眺めていると、鷹尚とトラキチの二人はそう時間も掛からずに地下一階部に位置する広間の扉の前まで辿り着く。
階下の応接室前まで来ると計香は迷わずノッカーを叩いた。すると、中からは全く緊張感を感じさせない間延びした聞き覚えのある声が響く。
「どうぞー」
その声だけで、広間の中の状況について「ある程度は察してしまえる」というものだ。少なくとも、白黒篝の上司に当たる鳴橋が同席していないのは間違いないだろう。
白黒篝から「入って構わない」旨、反応があったのを確認すると、計香が応接室の扉を開く。
「佐治鷹尚様、佐治トラキチ様をお連れしました」
「おー、来たかー。リストは用意できてるぜー」
広間のほぼ中央に位置していた白黒篝は、鷹尚の顔を確認するなり、そうリストが仕上がっている旨を口にした。
しかしながら、鷹尚がまず気にしたのはリストどうこうではなく、応接室の内部の様子だった。昨日鳴橋と会食した時から、大きくがらりと変わっていたのだ。
昨日は、鷹尚達が使用した丸テーブル以外にも室内には複数個のテーブル・椅子が設置されていたのだが、今は白黒篝が座る席の前に置かれた事務用机とその前のスペースに配置された四人掛けソファー二個と長方形のガラステーブルがあるだけなのだ。
がらんと広い空間の中央に、ぽつんと白黒篝だけが居る様は、何だか酷く寂しさを覚えさせる。
尤も、そこで何とも言えない寂寞感が漂ったのも一瞬のこと。
白黒篝が使用する事務用机に視線が向いたところで、そんな感覚は綺麗さっぱり吹っ飛んでしまった。
白黒篝が使用する事務用机は、一日やそこらでここまで物を散乱させられるのかと目を見張るほどにとっ散らかっていたのだ。
いいや、一日やそこらと書いたものの、そもそも昨日の段階ではこのフロアに存在していなかった形の事務用机を使っているので、配置されてから一日経過しているかどうかすら疑わしい。
一方で、当の白黒篝はそんな状態にある事務用机を気にする様子の一つ見せることなく、バリバリと頭を掻きながら二人を迎え入れる。すっと椅子から立ち上がると、目前のソファーに腰掛けるよう二人にジェスチャーを用いて促す。
「昨日のようなもてなしは出来ないが、まぁ、まずは座って楽にしてくれよー。お茶とかコーヒーとかと、簡素なお茶請けくらいは出るぜー」
白黒篝がそういうが早いか、横に控えていた計香が飲み物の希望を確認する。
「佐治鷹尚様、トラキチ様、何か希望はありますか?」
「えーと、特にこれといってこれが飲みたいっていうものはないです。けど……、強いて言うなら冷たい飲み物よりは温かいお茶がいいかな……?」
ただ飲み物の要望を答えるだけなのだが、鷹尚は随所にこれでもかという程のぎこちなさを覗かせた。計香という冥吏に対してどんな振る舞いで受け答えするべきかを、鷹尚は未だ図り兼ねているのだろう。白黒篝のような取っ付き易さでもあればもう少しどうにかなったのかも知れないが、事務的対応を是とする計香に慣れるには時間が必要かも知れない。
高校生である鷹尚から見て、見た目が軽く一回りは年上の相手だと言うところも大きいかも知れない。
一方の計香は、そんな鷹尚のぎこちない対応を前にしても慣れたものだ。
「畏まりました」
そう淡々と眉一つ動かすことなく受け流す計香からは貫禄さえ感じさせた。
一方で、昨日の今日でほぼ初対面近い筈の計香を前にしながら、トラキチは鳴橋相手にそうして見せたようなぶっきらぼうな対応を見せない。
「まだ鳴橋について回ってんのか、あんたは。色々と大変そうだな」
「もう慣れましたし、言うほどでもありませんよ。ああ見えて鳴橋様もやるべきところはしっかり押えていらっしゃる方ですからね。やっているポーズと口先介入だけで何もしない上司に当たるよりかはずっとマシな境遇だと言えますよ。えぇ、そうですとも」
計香はまるで自分に言い聞かせるかのようにも聞こえる言葉で、トラキチの軽口にそう切り返した。
どうやら、鷹尚が知らないだけでトラキチは面識があるらしい。
ともあれ、トラキチはそんなやりとりを合間に挟んだ後、計香へと飲み物の要望を口にする。
「じゃあ、俺は熱々のをちょっといい感じに冷ました感じのほうじ茶を貰おうかな。舌が熱さでぴりっと来ないぐらいの奴がいいな。化けてるとはいえ、元が猫だけに熱過ぎるお茶とかは今も苦手なんだ」
具体的とはいえない何とも捕え所のない要望を口にされたからだろう。
さすがの計香もこれみよがしに溜息を吐く。
「……相変わらず、ふわっとした注文でやりにくいですね。まぁ、ご要望に添えるよう努力させていただきます」
「ひひひ、俺の飲み物の要望といったら前からこんな感じだろ? 今回こそはばっちり適温の奴を頼むぜ」
「一言先に言わせて貰いますけど、トラキチ様が適温を判断する匙加減が毎回一定ではないのも問題なんですよ。いつだったか「これこそ適温、ちょうどいい!」と太鼓判を売った温度が、次の機会では「もうちょっと熱めの方がいいかな」なんて宣ったことがある事実をトラキチ様自身は把握されていらっしゃいますか?」
「そこは季節や時間帯とかいった要素で繊細に変化するものだろ? 俺の記憶が正しければ「もうちょっと熱めの方がいいかな」の台詞の前には「今日は満開の夜桜が美しいから」みたいな重大な要素があった筈だぜ」
拘りで凝り固まった偏屈じじいみたいなことを宣うトラキチ相手に、再度計香は「呆れ果てた」と言わんばかりの大きな溜息を吐き出して見せた。内心「こんなのまともにやってられない」と思ったとか何とか。
ともあれ、ある程度気心の知れた白黒篝が居て、さらに軽口を叩けるぐらいの面識を持つ計香ともが相手とあってはトラキチが借りてきた猫(文字通り)になるようなことはなかった。そこに続けて白黒篝が「熱いお茶は苦手」と話した部分に反応していつもの調子で口を切れば、場は一気に雑談モードの雰囲気を帯びる。
「はは、これが本当の紛うことなき本物の猫舌ってやつだなー」
「ああ、結局、化けてみたところで苦手なものは苦手なままだ。ちっとは変化があるかも知れないと思って色々試して見たが何も変わってなかった。ついでに言うと、緑茶の渋みとかも苦手だ。なんか、こう、むずむずって背筋を拒否反応みたいなのが登ってやって来る」
「おおっと、それはまた個体差がありそうな話だなー。化けて苦手が克服できたって話を俺はいくつも知ってるぜー」
「それ、……猫又での話か?」
まるで真偽を問い詰めるかの如き勢いをまとうと、トラキチは一気にその話題へと食い付いた。かなり気になるホットな話題だったようだ。
前のめり気味の体勢を取ってグイグイと迫るトラキチを前にして、白黒篝は平然と答える。
「あぁ、猫又での話だぜー。刺し身に山葵を添えて食べるのが何よりも好きになっただとか、熱々につけた熱燗が好物になっただとか、魚や肉よりも有機栽培の野菜が持つ自然由来の甘さの虜になっただとか、変わり種だとこのご時世に行灯の油が無性に舐めてみたくなって堪らなくなっただとか、色々と嗜好が変化したっていう類いの話は聞くぜー」
「山葵が好き……だと!? なんだそいつ、病気か!?」
トラキチはコペルニクス的回転を「今まさに味わっている」と言わんばかりの様相だった。しばらく「信じられない!」という思いを余すことなくこれでもかと体現した茫然自失の表情で固まっていたのだが、何か思うところがあったらしい。トラキチは腕組みするとそのまま「うーん」と唸り声を上げ熟考モードへと突入する。
一方の白黒篝は熟考モードに入ったトラキチを「ああ、これは時間の掛かる類いの駄目な奴だ」と華麗にスルーすると、事務用机の下から紙袋を取り出して、ガラステーブルの上へと置く。
「お茶請けには、なんと! 屋戸原(やどはら)菓子店の酒蒸し饅頭を用意しているぜー」
紙袋の端には控えめに主張する褐色の印字で「屋戸原菓子店」の表記が見えた。どうだと言わんばかりにドヤ顔をする白黒篝の様子を見るに、それはそれなりに知名度をのあるお店なのだろう。
しかしながら、対する鷹尚は当惑を隠さない。屋戸原菓子店ものかどれだけ有名な店舗なのかを知らないからだ。
「屋戸原菓子店……?」
頭に疑問符が付いた顔でもう鸚鵡返しに「屋戸原菓子店」の単語を鷹尚に呟かれたところで、白黒篝も「これは想定外だ」といった当惑を見せる。
「あれ、期待していた反応と違うなー。もっと、こう「彩座四上に縁を持つ相手に、彩座四上の有名所のお菓子を出してどうするんだよ!」とかさ……、そういう反応が返るものだと思っていたんだぜー。というか、その反応、そもそもご存じない感じ?」
鷹尚がこれといった反応を返さない辺りで、白黒篝は色々察したのだろう。
「四上宿にある老舗の店で「四上宿名物といったら、エピソードを含めてこれは外せない!」ってぐらいには有名なんだと聞いたんだけどなー」
続ける言葉で酒蒸し饅頭を「名の知れた四上宿名物の一つ」であると説明するものの、鷹尚は相変わらずしっくりこないという顔だった。尤も、仮にどこかでその店名なんかを耳にしたことがあったとしても、興味を惹かれず右から左に聞き流した可能性は否定できない。だから、名前を認識していなかっただけで過去に件の饅頭自体を食していた可能性もあれば、化粧箱や包装を見た瞬間「ああ、あれか」となる可能性もあるにはあった。
四上宿名物とまで言われる品ならば、実家や以室商会本店での生活の中で何の気なしに食卓へと並べられていても何ら不思議はない。そうだ。そして、それを名物だという認識なしに手に取り食していたとしても何ら不思議はない。
そうはいっても、もし件の四上宿名物「酒蒸し饅頭」をそうとは知らず過去に鷹尚が食したことがある場合、評判だけが不当に持ち上げられた代物である可能性も出てくる。なぜならば、かれこれ十数年と生きてきた鷹尚の人生の中で「これこそ絶品だ!」などと感じた饅頭なんてものは存在しないからだ。
無論、それはあくまで鷹尚の好みに合わなかっただけ……という見方はできるものの、だからといって全く印象に残っていないというのならば察して余りあるレベルだと言えるのではないだろうか。
ともあれ、鷹尚が真っ先に食い付いたところは、件の酒蒸し饅頭とやらが持つ名物たりえるストーリーの部分だった。
「……エピソード?」
そう聞き返した鷹尚を前にして、白黒篝は「ゴホン」と一つ咳払いをすると酒蒸し饅頭が四上宿名物へと成り上がった経緯を芝居がかった口調で語り始める。
「えー、今でこそ酒蒸し饅頭で有名な屋戸原菓子店だが、江戸時代中期に開業した当初は、順風万般の滑り出しとは行かなかったんだ。何より、そもそものスタートは菓子店ですらなかったらしいぜー。今で言う軽食喫茶みたいな業態で、串団子や五平餅・蕎麦といった簡単な食事と裏の畑で取れた地産のお茶を提供する食事処だったとか何とか。提供するメニューの中には饅頭もあったみたいだが、人気メニューというほど売れる代物ではなかったそうだし、そもそも当時は「酒蒸し」ですらなかったそうだ」
そんな屋戸原菓子店の滑り出しに、鷹尚は俄に興味を惹かれる。
「へぇ、それがどうしてまた酒蒸し饅頭になって、店も「菓子店」なんてものに看板替えすることになったんだ?」
鷹尚が興味を持ったことで、白黒篝は気を良くしたのだろう。芝居掛かった語り口調に磨きを掛けると、屋戸原菓子店「酒蒸し饅頭」が辿った成功話を声高に、そして熱く語ってみせる。
「時は1783年、信州の浅間山が天高く黒煙を拭き上げ大噴火し天明の大飢饉にさらなる拍車が掛かった頃、日本全土をそれはそれは目を覆わんばかりの酷い冷害が襲ったそうだー。四上宿を有するここ彩座はといえば、その影響こそ然程大きくな被害を受けはしなかったものの、流通の拠点の一つであることが影響してか質の悪い流行病がやってきて爆発的な増加に繋がったらしい」
白黒篝が紐解く屋戸原菓子店のエピソードは、当然それまで四上宿に対して強い興味を持たない鷹尚に取っては初めて知る内容ばかりだった。言い伝えの類いだから多少の誇張はあるにせよ「彩座を流行病が襲った」だとか「冷害の影響を他所より大きくは受けなかった」だとか行った事柄は、それこそ全く知り得ない内容だった。
「開業当時、父・母、そして若い娘の親子三人で店を切り盛りしていた屋戸原菓子店にもその魔の手は伸びる。娘の両親が流行病に掛かる事態になってしまったんだー。若い娘一人では到底切り盛りすることはできず、両親の看病のため屋戸原菓子店は休業。娘は床に伏せる両親を手厚く看病し続けたが、流行病の病状は日を追う毎に悪化の一途を辿るばかり」
イントネーションを巧みに上下させ、白黒篝は芝居掛かった語り口調に緩急をつけていた。こうした聞き手を惹き付けるテクニックに富むのは、他者とのコミュニケーションを好む性格故に身につけたものだったろうか。
ともあれ、そんな白黒篝の話術を前にして、鷹尚は完全にそのエピソードに聞き入っていた。
「ほとほと困り果てた娘は、四上宿の外れにある水龍神を祀る荒れ果てた小さな神社へと毎日通うようになり、藁にも縋る思いで熱心に熱心に願掛けをしたそうだ。両親の病が良くなりますように、両親の病が良くなりますように……と。そんな願掛けを百日間にも渡って続けたある夜のこと、とうとう奇跡が起きる。娘の夢枕に、薬師如来が現れたんだー」
白黒篝の語るエピソードに耳を傾け聞き入っていた鷹尚だったものの、ふと気づけば思わず口を挟んでいた。
「何でだよ! そこは水龍神とかいう神様が夢枕に立つ流れだろ! 薬師如来、関係ないじゃん」
余りにも脈絡なく話が転調したことで、突っ込まずには居られなかった格好だ。少なくとも今までの話の流れ的に「薬師如来」が出現する余地などどこにもなかった。熱心に聞き入っていたからこそ、その矛盾は看過できなかっただろう。
帯する白黒篝も当然そこは「おかしいな話だ」と理解しているようで、それまでの語り口調はどこへやら何とも歯切れ悪く自身の解釈を口にする。
「あー……、そうだな。当時は仏教様がこれでもかって程に幅を利かせていた時代だからなー、薬師如来を騙る方が尤もらしい説得力を持つんじゃないかと踏んでのことじゃないかなー。荒れ果てた小さな神社とか言ってるし、そもそも余り信仰を得られていなかったんじゃないかなー、水龍神」
「……」
未だ訝る表情を崩さない鷹尚だったが、白黒篝はそこで二の矢を継がせない。一気に押し切る。
「ともかく、ともかくだ! 夢枕に立った薬師如来はこう言った。神社の敷地に古い枯井戸がある。主が供えることのできるありとあらゆるものを、その枯井戸に投げ入れよ。さすれば、その御贄(みにえ)を持って枯井戸に我が龍の力の源たる霊泉を授けん」
尤も、そうやって苦肉の策とでも言わんばかりに白黒篝が押し切り体制を取ったことは、鷹尚に取ってある種朗報でもあった。もしここでの白黒篝の対応が「え? どうして薬師如来が夢枕に立つことを疑問に思うんだい? 当然の流れじゃないか?」みたいなものだったりすると、それはそれで今以上に怪訝な顔付きを強いられることになった筈だ。
しかもそれは認識のずれというか、常識のずれというか、簡単にお互いがすりあわせることの出来ない部分である可能性が高い。
ともあれ、白黒篝が何とも解釈に苦しむ展開をゴリ押しするために押し切り体制という苦肉の策に打って出たことで、逆に鷹尚はそれをすんなり受け入れる。
「ああ、見事に薬師如来を騙ってるわけね、その水龍神。というか、多分、それ、龍の力とか言っちゃってるし騙しきれてないよね……」
白黒篝はただの語り手であってこのエピソードの誕生に関わっているわけではないのだ。理解に苦しむ展開が待っていたとしても、それを白黒篝に「なぜそうなる!?」と詰めたところで意味はないし、正答も得られない。
「娘はありったけの材料を使ってせっせと串団子や五平餅を作り、それを枯井戸へと投げ入れた。次の瞬間、枯井戸からは勢いよく霊泉が吹き出したそうだ。その勢いたるや、まるで間欠泉の如し。水柱は空に輝くお月様まで届かんばかりの物だったとか何とか! そして、枯井戸からなみなみと溢れる霊泉を口にした両親の病状は見る見る内に快方へと向かい、無事屋戸原菓子店を切り盛りできるようになりましたとさ。めでたしめでたし」
しかしながら、ことはそのまますんなりと進まない。薬師如来辺りの転調を受け入れた矢先、そこに続いて今度は「めでたしめでたし」で話が唐突にすとんと落ちてしまって、鷹尚は再び「うん?」と首を傾げることになる。しかも、さらりと聞き流そうとすれば「これにて一件落着!」と勢い任せで聞き流してしまえるから厄介だ。
白黒篝が語っていたのは、江戸中期の彩座の流行り病を題材にして、薬師如来を騙った水龍神がそれを鎮めた活躍譚ではない。あくまで、酒蒸し饅頭が四上宿名物へと到る成功秘話である。……にもかかわらず、病を治す霊泉が吹き出して「みんなハッピー。めでたしめでたし」で終わられてしまっては、俄に興味を持った鷹尚としてはげんなりするだけでは済まない。
当然「さも良い話だったろう?」と言わんばかりにやりきった顔を見せる白黒篝に向かって、鷹尚はすぐに口を切る。
「……饅頭はどうした?」
それまでの芝居掛かった口調はどこへやら、白黒篝は鷹尚の問いにうんうんと頷き返すと「至極当然の反応だね」と苦笑しながら同意する。
「ですよねー」
「……」
鷹尚から向く冷めた目線に晒されて、白黒篝は苦笑いの程度を甚だしくする。
「まぁ、待て。もちろん、この話にはちゃんとした続きがあるんだー。ここで終わっちまうと、飲めばたちまち病を払う霊験あらたかな霊泉が四上宿には湧き出してます……で終わりだもんなー」
きちんとした続きがあるのなら、どうしてそこで「めでたしめでたし」なんて言葉で締め括ろうとしたのか。ゴホンッと一つ咳払いをして、白黒篝がエピソードの続きに言及すると鷹尚はその理由を察することになる。
「両親の病も治り屋戸原菓子店も持ち直し始めたある晩のことだ。再び、夢枕に薬師如来が立ちこう告げた」
「まだ薬師如来を騙るのか、水龍神……」
呆れる鷹尚を狩れに無視すると、白黒篝は薬師如来に化けた水龍神のお告げの内容を再び芝居掛かった口調で続ける。
「御贄によって一時霊泉を溢れさせたが、今のままではそう遠くない内に井戸は再び枯れ果てるだろう。井戸を霊泉で満たし続けるためには強大な力が必要なのだ。室穂の伏流水を湛える地下水脈からここまで道を整える強大な力だ。よって、霊泉を引く力を我が行使続けんがため汝らに命ずる。四上の街道に室穂山を御神体とし我を祀る新たな社を建てよ。そうして、霊泉を用いて酒を醸し、毎年欠かさず新酒を献上するのだ。また、酒を使ってこの土地の実りを蒸し、祭りとともにそれを奉納せよ。さすれば、霊泉は枯れることなく千代に井戸を満たし続けるだろう」
そこまで語ったところで、白黒篝の視線は件の酒蒸し饅頭へと向いた。
即ち、そうして水龍神に奉納するために酒蒸し饅頭が生まれ、それが名物として広まったということのようだ。土地の実りとやらが「どうして一足飛びに饅頭になったのか?」とか「なぜ酒で蒸す形になったのか?」とか、色々疑問は残るものの、良くも悪くも転調するのが屋戸原菓子店のエピソードなのだろう。
そうして、あくまでも語り部に過ぎない白黒篝にそれを詰めたところで、きっとその答えは謎のままなのだ。
そこまで察してしまえば、鷹尚としても「そういうものなんだ」と納得するしかない。
「……色々思うところはあるけど、水龍神に奉納する土地の実りとやらが酒蒸し饅頭に繋がっていくのか」
「このエピソードに沿って生まれたと思われるのがー、四上宿にあった造り酒屋と、本町から下館へと続く道沿いに建造された室穂神社。そして、病魔調伏と五穀豊穣祈願で年二回、夏と春に行われる祈年祭だぜー。ちなみに、室穂神社は「神社」と銘打ってる癖して、中央には薬師如来が鎮座してるぜー。まぁ、夢枕に立ったものの正体がどうであれ、姿形は薬師如来だったんだから当然といえば当然かも知れないがなー。化けた時に隠し忘れた尻尾や角でも生えてはいないかとジロジロ眺めてもみたが、外見はどこにでもある大層ご立派な観音像だったぜー」
どうやら、夢枕に立って建造させた社には「水龍神」ではなく、化けた形の薬師如来の方が祀られているらしい。
それでいいのか、水龍神?
そんな思いがふと鷹尚の脳裏を過ぎったものの、今更それを水龍神が悔いたところでどうなるものでもない。
「霊泉を醸した酒で香りと味をつけて蒸した饅頭は市中でも絶品だと評判になり、屋戸原菓子店の酒蒸し饅頭は時の将軍様にも献上され、太鼓判を貰い、長きに渡って愛される四上宿名物になりましたとさー。今度こそ、食い残した伏線もなく「めでたしめでたし」ってわけさー」
屋戸原菓子店の酒蒸し饅頭が持つエピソードを最後まで聞いた鷹尚の率直な感想は、何よりも「霊泉が全部持っているじゃん」というものだった。だからといって霊泉絡みの前半部分を割愛なんてしようものなら「時の将軍様がお墨付きを付けた」といった類いの、どこにでもあるような、さもエピソードを盛るために後から取って付けたような平凡なものになる。一方で、霊泉絡みの前半部分に触れると、薬師如来を騙る水龍神がどうたらこうたら突拍子もない転調を含み、後半のインパクトを全て薄める話となるわけだった。
語り部として意気揚々と喋り出しておきながら、白黒篝が前半後半の落差の扱いに困るのもある意味当然だったかも知れない。
「まぁ、肝心の造り酒屋の方は、昭和の中頃に火事と老朽化で場所を移転してしまって、今はガワしか四上宿に残ってないみたいだけどなー。霊泉がなみなみと湧き出たという井戸も、造り酒屋が移転する時に手違いで埋められちゃったらしくてなー、残っていないんだ。それでも、屋戸原菓子店の酒蒸し饅頭は、今もその酒蔵の酒をわざわざ移転先から買って作っているらしいぜー」
「へぇ……って、ちょっと待って! 埋めちゃったのかよ、霊泉の井戸!」
蛇足として語られる内容に、心底驚くことが何の気なしに鏤められてくるから質が悪い。
再び酒蒸し饅頭に対する興味を失いつつあった鷹尚を、あっという間に引き戻したことで白黒篝はにやりと笑う。
「ははー、一応霊泉の湧く水源自体はきちんと地下に確保されてて、移転先まで仕込み水として引いているらしいぜー。何なら室穂神社の手水舎にも使われているらしいし、境内には小規模ながら取水場まであるぜー。帰りがてらにでも室穂神社へ立ち寄って飲んでみると良いぜー。ミネラル豊富で硬水寄りらしいが、かなり旨い類いの水らしい。煮沸が推奨されてはいるが、定期的に行われている水質検査の結果としては一応煮沸なしでも飲める水らしい」
井戸自体は埋め立てられてしまったものの、湧水地はそのまま維持されたと聞き、鷹尚は思わずほっと胸を撫で下ろした。
尤も、仮に霊泉を湛える湧水地自体がなくなってしまったからといって直接どうこう影響ある話ではないのだが、やはり地元に残る昔のエピソードに絡むものが尊重されることなく無くなってしまっていたというのは侘しい気持ちにもなる。
ともあれ、ぜひとも霊泉を味わってみることを白黒篝に勧められた鷹尚は、何とも言えない複雑な表情を返す。
「あー……、まぁ、気が向いたら味わってみることにするよ」
「おいおい、あれだけ熱心に聞き入って、何ならツッコミまで入れておきながらー、随分とまぁ、最後は薄い反応だな! 薄っぺらすぎるぜー……」
「それ、全部分かって言ってるだろ? 酒蒸し饅頭が四上宿名物にのし上がったエピソードを聞いていた筈なのに、結局、霊泉がオチまで含めて全部持っていくんだな……って思ってさ。後、これを言っちゃうと元も子もないけど、実は饅頭自体もあんまり好きじゃないんだ。その、……悪いな。でもまぁ、初めて食べる時の将軍様のお墨付きがついた四上宿名物は「どんなもんなんだろ?」ってところは、ちょっと興味があるよ」
白黒篝とそんなやりとりをしている間に、いつの間にか広間の奥にあるスペースへと移動していた計香がお盆に二つの急須と三つの湯飲みを載せて戻ってくる。すると、ガラステーブルへと三つの湯飲を置き、そこに手慣れた調子でほうじ茶を注いでいく。
「お待たせいたしました。ほうじ茶になります」
白黒篝との酒蒸し饅頭のやりとりがちょうど終わる間際にお茶を合わせられるのは、計香がそのタイミングを見計らっていたからだろう。
さらに、計香から湯飲みを二つ受け取ったところで鷹尚は気付く。湯飲みに注がれた片一方のほうじ茶は、わざわざトラキチの要望に合わせてぬるめに調節されていた。
「わざわざありがとうございます、計香さん。トラキチの要望なんて無視して貰っても良かったのにぬるめのお茶なんて用意して貰って……」
感謝の言葉を述べる鷹尚に、計香は小さく会釈を返すだけだった。
その一方で、計香にほうじ茶の温度について注文を付けた当のトラキチは何かしらの反応を返さない。同じ四人掛けソファーの隣に余裕を持って腰掛けるそんなトラキチの様子を鷹尚がちらっと横目で捉えてみると、未だコペルニクス的回転のショックから視界がぐわんぐわん揺れている状態にあるようだった。深刻そうな顔つきながら、どこにも焦点のあっていない視線がそれを如実に物かが経っている。
そうは言っても、鷹尚にトラキチが無反応のままこの下りを終わらせるつもりはさらさらなかった。
例え、当の計香が何ら気に留めないかも知れないとはいってもだ。
鷹尚はトラキチの脇腹を軽く肘で小突く。
「おい、トラキチ。ほら、計香さんが要望に合わせたお茶を煎れてくれたぞ」
そこでようやくトラキチはハッと我に返ったらしい。
「んん? おぉ、そっか」
もし脇腹を肘で小突かなかったら、トラキチはいつまでこのショックから立ち直れないままでいたのだろう?
ともあれ、トラキチは自身のガラステーブル手前に置かれた湯飲みに触れると、そのままほうじ茶を口へと運ぶ。ほうじ茶自体が口に触れるか触れないかの辺りで温度を確かめるように恐る恐るといった動きになるものの、トラキチはすぐに十分中身が冷まされていることをすぐに理解する。
ずずっとほうじ茶を口に含むとにやりと笑い、トラキチの口からは珍しく素直な喝采が飛び出した。
「おぉ、やるな。良い感じの湯加減だ。アルデンテって奴だな!」
「アルデンテはパスタの茹で加減の話だろ……」
トラキチはその単語を用いることによって「良い塩梅だ」という意味合いを表現したかったのだろうが、誰もこの場でパスタの歯応えの話なんかしてはいない。
ともあれ、お茶とお茶請けがガラステーブル上に揃ったことが、話題を本題へと切り替える合図のようなものだったのだろう。白黒篝はそこで雑談をすぱっと切り上げると、鷹尚へと件のリストを渡すための準備に取り掛かる。
「さてさて、リストリスト……と」
そう言いながら白黒篝が手を伸ばした先は、書類の散らかる机だ。だから、すぐに件のリストが取り出されると思ったのだが、ことはそうすんなりと運ばない。
「あれ、確かこの辺りに封筒ごと……。んー? ないな」
鷹尚は内心「おいおい」と心の中でツッコミを入れたのだが、当の白黒篝にまだ切羽詰まった様子はなかった。「机上の何処かにはある筈だ」という認識なのだろう。しかしながら、その余裕も徐々に雲行き風怪しくなり始める。
机の端から端までを漁ってみても目的のリストが見つからなかった辺りから、目に見えて白黒篝の表情には陰りが差した形だ。すぐに見付けられて然るべき重要な「リスト」を発見できないことに、少しずつ焦りの色を伴い始めた瞬間だっただろう。
そうすると、ついさっきも探したであろうエリアに再び手を伸ばしたところで、白黒篝の注意が全体に行き届かなくなる。
「おっとぉ!」
白黒篝が頓狂な声を上げた瞬間、バサバサと音を立てて机の端から書類の束が落下した。
堆く書類の束が積み重ねられていたというわけではないので床へと散乱したのはA4用紙十数枚程度だったのだが、その時点で計香は見るに見かねたようだ。「正午過ぎの時点では」と前置きした上で、白黒篝が件のリストを仕舞った場所について自身の記憶を語る。
「……正午過ぎに様子を窺った時には、ブックスタンドで建てて並べた書類保存ファイルの間に封筒ごと差し込んでいたと記憶していますけど」
「ああ、確かに! そうだそうだ。助かるぜー、計香さん!」
計香が出した助け舟を経て、白黒篝が手を伸ばした先は事務用机の隅に4つほど置かれた分厚い書類収納ファイルだった。こう言ってしまうと元も子もないのだが、それまで白黒篝がリストを探していた場所は完全に見当違いだったと言わざるを得なかった。
「探してた場所が全然違うじゃねぇーか」
呆れ果てたと言わんばかりのトラキチに、白黒篝はそこで不意に深い溜息を一つ吐く。すると、白黒篝は唐突に「やってられません」モードをまとい始める。
「そいつを言われてしまうと返す言葉もないなー。まぁ、色々と仕方ないわけよ。ただでさえやることが山積してる中、環境までこうも劇的に変わってしまっててんやわんやしてるんだぜー……。大体、鳴橋様もさー」
そのままグダグダと白黒篝の口から愚痴が吐き出され続けるようになるかと思われたのだが、事態はそこでどうにか踏み止まる。分厚い書類収納ファイル群の中から、件のリストを発見したからだ。
「見付けた、こいつだ! 全く、手間取らせやがってさー」
鷹尚の視線は、自然と分厚い書類収納ファイルの中から白黒篝が手に取るものへと向かう。
白黒篝が手に取ったものは、何の変哲もない白封筒だった。同種のものがそこに並べられていたら、パッと見どれがどれだか区別が付かないぐらいものだ。遠目に見る限りでは、付箋が貼られているわけでもなければ、表面などに何か区別をするための印が付与されている様子もない。
しかしながら、中身の確認をすることもなく白黒篝は鷹尚へと白封筒を差し出す。
「鳴橋様の指示の下、取り纏められた候補者リストだ。紛失とかしないように取り扱いは十分注してくれよー」
やもすると紛失の一歩手前辺りまで行っていたのだから、鷹尚としては「どの口でその台詞を吐くか」という思いだったかも知れない。たった今、眼前で見せられた顛末を見るに、白黒篝がこのリストの入った封筒を十分気をつけて取り扱っていたとも思い難い。
尤も、それを言っても詮無いことではある。白黒篝がそのリストを適当に扱っていたのだとしても、あくまで旧・中坂邸内部の、……何なら広間のどこかにはあるという話で決着が付く話だったからだ。
しかしながら、このリストを鷹尚が受け取り、失踪した憑鬼の追跡に用いるとなった瞬間、ことは旧・中坂邸内部に留まらなくなる可能性が高い。
恐る多るリストの入った封筒を受取ると、鷹尚はそいつの取扱方法について白黒篝へと確認を向ける。
「このリストは旧・中坂邸の外に持ち出すことはできないと考えた方が良いか?」
「その質問の答えは「ノー」だな。鷹尚がしっかりと責任を持って管理するという前提の下ならば、旧・中坂邸の外に持ち出しても一向に構わないぜー」
恐らく、白黒篝からは「そんな言葉が返って来るだろう」と、鷹尚は予想していた。
まずは、このリストを元にして失踪した憑鬼の追跡を行うのだ。それを持出し禁止にするとは考え難い。
鷹尚は「リスト」という単語を用いて持出しの可否を問うたが、恐らくこのリストの取扱いは原紙の紛失どうこうだけが咎められる対象ではないだろう。
中に記載された情報の流出の有無という視点で判断される筈だ。それこそ、コピー機での複製も、スマホカメラでのデジタル複製も、白黒篝の「鷹尚がしっかりと責任を持って管理する」前提のもとではきっと許可される。
「中身を確認しても良いか?」
白黒篝は両手を広げるジュスチャーを取って答える。その意味するところは「鷹尚がしっかりと責任を持って管理する限りにおいて、リストの取扱いに対して冥吏は口を挟まない」とでもなるだろうか。
思うままに取り扱ってくれて構わないというわけだ。
鷹尚が白封筒の封を切る。
尤も、封を切るなんて言い方をしたが、それは糊付けされたり、ホッチキスで留められて中身が取り出せないようにされていたわけでもない。ぴらりと山折された封を開いただけだ。
白封筒の中身は、厚みらしい厚みもない薄いA4用紙が10枚入っていただけだった。
一番前の用紙に、五十音順で名前・(恐らく)年齢・性別が記されていて、これが候補者を洗い出したという「リスト」のようだ。
リストに名前が載っていたのは全部で9人。残りのA4用紙1枚1枚には、候補者についての詳細な情報が載せられているようだった。
リストに記されていた名前は、それぞれ―
明石 寛人(あかし ひろと)(13)、性別:男
新木 幹彦(あらき みきひこ)(17)、性別:男
糸井 真知子(いとい まちこ)(81)、性別:女
倉森 羽矢那(くらもり はやな)(15)、性別:女
跨堂 あすま(こどう あすま)(16)、性別:男
高橋 宗治(たかはし そうじ)(26)、性別:男
田上 謙太(たがみ けんた)(27)、性別:男
戸辺 稔(とべ みのる)(20)、性別:男
岬 裕次郎(みさき ゆうじろう)(78)、性別:男
残りのA4用紙に視線を移すと、そこには証明写真として撮影されたかのような画像が印刷されていた。
写真としてのサイズこそ違えど、どの候補者のものも背景は白抜きで、胸元から上だけを撮影したものなのだ。顔付きにしても、履歴書にでも貼り付けるために撮影されたものであるかの如く真正面を向いていて、所謂「笑顔っぽい真顔」で例外なくピシッと整えられていた。
鷹尚がさらりとリストに目を落としたところで白黒篝が口を切る。
「一応前置きしておくが、必ずそのリスト候補者9人の中に失踪した3体の憑鬼が憑依していると断定できているわけじゃないぜー。失踪した憑鬼の鬼郷での行動を追跡した結果として、九割、いや九割五分は間違いないと思ってるはいるけどなー」
リストに記載のある候補者が9人だということを知っている当たり、白黒篝はリストの中身を事前に教えられているようだ。いや、鷹尚へと手渡す前に中身の確認を許されていても何ら不思議はない。何なら、以室商会との取引きを通じてこちら側と交流を持つ経験を踏まえて、不自然な点がないかをチェックする役割を担っていてもおかしくない。
白黒篝はリストが絶対ではないと前置きしたものの、続ける言葉で「九割五分」なんて数値を口にしたところを見るにこのリストが目的となる人物を網羅していると思って差し支えないのだろう。
鷹尚はリストに目を落としながら、万が一、外れがあった際の言い訳めいた前置きに対して、率直な感想を述べる。
「絶対じゃないといいつつ、余程ケチがついてない限り、このリストの面子をあたっていけば目的の憑鬼3体へ辿り着けるってわけだろう? なら問題ないさ」
憑鬼に憑依された人を何も情報のない中で探さなければならない状況と比較すれば、候補者リストがあるというのは実際にその対処に当たる身としてかなり恵まれていると言って良かっただろう。いいや、白黒篝の話から察するに「候補者リスト」なるものはあることの方が珍しいらしいので、ことの対処に当たる鷹尚の境遇は大盤振る舞いの好待遇だったかも知れない。
しかしながら、その大盤振る舞いの好待遇にあって、まだ残課題があることを白黒篝は告げる。
「候補者リストが3体の憑鬼を網羅できているかどうかはひとまず置いておいて、実はそのリストについてもう一つ注意事項がある。そこに記載された住所なんだが、そいつはリストの人物が鬼郷へと足を踏み入れた際に生身の肉体が存在していた場所を記したものなんだー」
「えーと、それはつまり……」
咄嗟に理解が追いつかず頭に疑問符を灯す鷹尚に、白黒篝は具体例を一つ挙げて言い直す。
「リストの人物が自宅でコロッと倒れて鬼郷に足を踏み入れているような場合ならば、リストの住所からその人物の現住所は把握できる筈さー。……なんだけど、例えば入院中とかに病状が悪化して鬼郷に足を踏み入れたとかいう場合には、リストの住所イコール対象者の現住所とはならないわけさー」
白黒篝の具体例を聞いた鷹尚は、すぐにズボンのポケットから徐にスマホを取り出した。そうして、リストに記載された住所の一つを適当に選び、地図アプリで検索してみる。
何てことはなかった。
リストに記載された住所の一つを検索した結果として出てきた情報は、夜間緊急外来も受け入れている青原(あおばら)総合病院という医療施設だったのだ。
試しに検索を掛けてみた住所に紐付けされていた名前は高橋宗治。
この高橋宗治という候補者に置いては、白黒篝が「もう一つの課題」と述べた通りのことが確認できたといっていいのだろう。もちろん、青原総合病院とやらの敷地内に従業員向けの寮が併設されている等、高橋宗治が住まいを構える現住所が正しいという可能性もないわけではない。しかしながら、常識的に考えるのであれば、その可能性は非常に低いと言って良いはずだ。
もちろん、それでも自宅で倒れてそのまま鬼郷に足を踏み入れるパターンも相当数ある筈だから、リストの住所を確認することに意味がないわけではない。直接リストの人物が住居を構える場所とイコールにはならなくとも、そこから手掛かりを探ることだってできる筈だ。
それでも、リストがあれば後はトントン拍子に進むだろうと考えていた鷹尚には思うところもあるようだった。
言ってしまえば「なぜそこが抜け落ちるのか?」という疑問だ。
リストは、対象者と思しき人物のフルネームや年齢、件の「鬼郷へと足を踏み入れた際に体が存在していた住所」だけでなく、証明写真宜しく肩から上を移した顔写真まで印刷されているのだ。フルネームや顔写真といったものよりも、冥吏に取っては現住所や電話番号といったものの方が入手しにくい情報だというのだろうか?
ふと気付けば、鷹尚はその疑問を何の気なしに口に出してしまっていた。
「ここまでの情報を揃えられるなら、冥吏の手で対象候補者リストに記載のある人物の現住所なんかもあっさり調べられたりするんじゃないのか?」
「もちろん、冥吏の情報網を持ってすればできると思うぜー。ただ、この候補者リストの面々は、鬼郷に足を踏み入れて現世に戻ってしまった連中だからなー。多分、個人情報の取扱に関する書類に同意のサインが貰えてないんだろうさー。そうすると本人の同意なしには情報の開示ができないって辺りのコンプライアンスに抵触してくるわけさー。最近、鬼郷でもコンプライアンスが厳しくなってきてるんだぜー? 面倒くさい話だよ」
すると、白黒篝の口からは、鷹尚の想像の斜め上を行く回答が帰ってきた。
鷹尚の表情を染め上げるものは、当惑一色だ。
「コンプライアンス……?」
鷹尚は当惑を微塵も隠さなかった。まさか、この場でそんな単語が飛び出してくるとは思いもしなかったのだろう。
確かに、あちら側は現世を模して似せて作られた世界ではある。しかしながら、いくら冥吏が約束や契約といったものを重視する存在であるとは言え、コンプライアンスなんてものまで模す必要性は微塵も感じられないことは言うまでもない。まして、あちら側の管理・執行者である冥吏がそんなものに縛られるというのはどう考えてもおかしな話だ。個人情報の取扱に関して何らかのラインを踏み越えてしまったら、その対象者から訴訟を起こされるわけでももない筈なのだから。
何よりも、フルネームや年齢、顔写真といったものを既にリストとして提示しているのだ。
今更「何を言っているのか?」という思いを鷹尚が感じるのも至極尤もな内容だったろう。
尤も、冥吏という組織に取ってそれが「どれだけ遵守されなければならないものなのか」が判断できないから、鷹尚は何とも言えない表情のまま黙りこくるしかない。
そんな当惑一色の鷹尚を前にして、当の白黒篝はにんまりと口元を歪める。
「はは、いい顔をいただき。まー、それは半分冗談なんだけど、この手の情報を安易に漏らせないっつーのは事実なんだぜー。はっきり言ってしまうと、このリストもかなりグレーな代物だぜ。いや、限りなくパーフェクトブラックに近いグレーじゃねぇかな? がっちがちのお堅い監察官が中身を見たら「ヒェー! お前らコンプライアンスをなんだと思ってるんだ!」って悲鳴を上げるレベルだなー。鳴橋様でなければこんな形で用意できなかっただろうし、きっと提供もできなかった筈だぜー」
限りなくパーフェクトブラックに近いグレーを、果たして所謂「灰色」なんて色彩として認識できるのかという問題はあるものの、鷹尚はそれが「取扱注意」で済むレベルの代物ではないことを意識さずにはいられなかった。そして同時に、機密度の高いリストを当の白黒篝が余りにもぞんざいに扱っていたことにも驚きを隠せなかった。
自身を見る鷹尚の目付きに呆れの色が混ざったことを気にする素振りを見せず、白黒篝は大袈裟な身振り手振りを交えそのリストが如何に危険なものかについて熱弁を振るう。
「だってさー、こんなものが容易に出回ってしまったらどうするよ? 一度、鬼郷に足を踏み入れて置きながら、そっちの世界に戻った奴らのリストだぜー? いや、実は稀に良くある現象なんだけれども、……ともかく、こいつらは再び鬼郷へ足を踏み入れる可能性が高い奴らだろうなって認識されてしまうとは思わないか? もしそれを容易に知り得ることができてしまったら、不正に鬼郷へ侵入する手段の一つとしてそいつらの魂魄に寄生しようなんて考えるような厄介な奴らが出現するかも知れない。そして、もしそれを実際に実行されてしまったら、その検知は至難の業だ」
白黒篝の言わんとすることを、鷹尚も理解する。
恐らく、それは冥吏が最も忌み嫌う事態を引き起こし兼ねない。
冥吏は、輪廻転生の一連の流れが正しく行われないことを何よりも忌避する。そして、そのリストは輪廻転生の一連の流れが正しく行われることに対して、イレギュラーな事態を招き兼ねない。だから、本来ならば、そのリストはもっと厳重な管理方法をとられていて然るべきであり、何なら冥吏の協力者たる鷹尚に対してもこんな風に開示されるべき代物ではない可能性さえある。
それなのにも関わらず、鷹尚の責任の下、リストが自由自在に持出し可能な状態に置かれたという事実は、冥吏失踪事件解決に向けた鳴橋の本気度を窺い知る良い指標の一つと言えただろう。
そして、鷹尚は同時に理解する。まだまだリストに載せて欲しい情報はあったけれど、まずはこのリストが無事自分の手に収まってくれただけでも儲けものだった、と。
それでも、期待値が高かっただけリストから漏れた必要情報を指折り数える言葉には落胆も混じる。
「現住所だったり、携帯番号だったりといった、直接リストの相手にコンタクトを取るための情報はこれを元にこっちで調べなきゃならないってことか……」
鳴橋のまとめた候補者リストさえ入手できれば、後は「誰が憑鬼に憑依されているのか」を足を使って見極めるだけだと、鷹尚がそう考えていたのは事実だった。
冥吏失踪事件解決に向けた動きは、出だしから鷹尚の目算が完全に外れた形での船出となった。
白黒篝から憑鬼の憑依先候補者リストを受け取ったその翌日のこと。
鷹尚は学校帰りの制服姿のまま、以室商会本店から距離にして南西に約20km程離れた場所に居た。小高い丘のようになっている場所で、頂上に当たる場所に歴史掛かった木造民家が一軒だけポツンと寂しく存在する場所だ。
尤も、四上宿から見て真反対に当たるその場所へと足を運んだ理由は、候補者リスト絡みによるものではなかった。以室商会アルバイトとして継鷹から配達の仕事を言い渡された格好だ。冥吏の依頼をこなさなければならないのと同時に、鷹尚は以室商会アルバイトとして任せられる仕事もこなさなければならないのだ。
そうはいっても、ただのアルバイトに過ぎない鷹尚へと継鷹が振る仕事なんてものは正直高が知れているのも事実だ。主な仕事は、白黒篝相手に行っているような物品の受渡しといったところが大半だ。今回も、背中に大型のリュックサックを背負う形で、配達の荷物をここまで運搬してきた形だ。
もちろん、物品の受渡しとは言っても重量物や対象が遠方(大体片道で20km以上離れているような場所)である場合などは、継鷹の運転する軽トラや商用バンを利用する形になるため鷹尚はただの荷物持ちとして駆り出されることも多い。自動車免許を取得できる年齢になって軽トラや商用バンを自分で運転できるようになれば鷹尚一人で対応可能な範囲も飛躍的に拡大するだろうが、まだまだしばらくはご近所さんで、且つ軽量の品物なんかに限られるだろう。
今回の配送先は上坂(かみさか)という、昔から以室商会と付き合いのあるお得意さんである。
三ヶ月に一度「とある品物」を常に以室商会からリピート買いする客で、しかもそのリピート度合いはかれこれ十数年も前から途切れることなく続いているといった筋金入りのお得意様だ。もちろん、三ヶ月に一度のリピート買いの他にも、ちょくちょく以室商会に注文をしたりもする。
以室商会は、購入頻度や購入金額によって客を区別するようなことはしていないが、もしそのような区分けがあるとするならば「上得意様」と言ってしまっても差し支えないレベルだろう。
そんな上得意の相手をポンッと継鷹に任された当初は、鷹尚も「失礼がないように」と肩に力が入ってカチンコチンになっていたのだが、こうして品物を上坂宅に届けるのも今回で通算二桁に届くぐらいになるということもあってさすがに手慣れたものだった。
木造民家の上坂宅のインターホンを押すと、鷹尚はいつもそうしているように返事を待たず要件を口にする。
「以室商会です。ご注文の品を届けにあがりました」
すると、すぐに木造民家の玄関の戸が開き、中からは中背痩躯の初老の男性が姿を見せた。頭も眉毛も完全に白髪一色に染まり、こういってしまっては元も子もないが、いつも青白い顔の色と合わさって余り健康体には見えないのが特徴だった。服装はいつもポロシャツにカーキ色のチノパンといったラフな格好だが、配色やデザインが所謂シニア層向けの落ち着いたトーンの組み合わせである点も、彼がまとう雰囲気と相まって余計にこじんまりとした印象を与えるのだった。
「あぁ、鷹尚君か、待っていたよ」
抑揚の少ない低くか細い上坂の声も、いつも通りといえばいつも通り。
だから、毎回毎回訪問する度に感じる「申し訳ないけど、ちょっと気味が悪いな」という思いを、鷹尚はこれまたいつも通りに態度に出ないようしっかと抑え込む。代わりに、表情に貼り付けるものはビジネススマイルだ。そうして、腰に巻いたポシェットから手帳を取り出し付箋の貼ったページを手早く開くと、まずこの場で忘れずやりとりしなければならない事柄の確認を口にする。
「えー……と、発注頂いたのはいつもの品で、追加の注文も無し。料金は既に入金頂いていますので、今回は品物の引渡しのみですね」
そういうが早いか、鷹尚は再び腰に巻いたポシェットへと手を伸ばし、中から一通の封筒を取り出す。
「こちらが納品書になります」
上坂はその封筒を受け取ると、中身の確認のために開封するということをしない。鷹尚が上坂への配達を請け負ってからこっち、一度も封筒の中身を確認したみことはなかった。
長年に渡って続けているやりとりだから、納品書に記載された内容は全て頭に入っているのかも知れない。且つ、鷹尚がいったように「いつもの品で、追加の注文も無し」とくれば、この場で封を切ってわざわざ中身を確認するまでもないのだろう。
鷹尚は背負ったリュックサックを衝撃が加わらないよう丁寧に軒先の地面に降ろすと、その中から風呂敷に包まれた注文の品を取り出しす。重量は、5kg程度だろうか。短時間なら片手で持つのも苦にはならないが、ずっとそれを片手で持ち続けるのはちと苦しいかと感じるぐらいだ。
「それと、……こちらが注文の品になります」
「うん、これで間違いなさそうだ」
そういう上坂は、納品書に続きこれまた風呂敷の中身を確認すると言うことをしない。そして、納品書同様、こちらも鷹尚が上坂への配達を請け負ってからこっち、同じく一度も風呂敷の結び目が解かれたことはない。恐らく手に持った時の重さといったところで注文した物品に過不足がないかを確認しているのだろう。
ともあれ、注文者が受取りに関して「問題なさそう」と判断する以上は、鷹尚にああだこうだという理由はない。
上坂宛ての荷物の受渡しに関して、いつも口にしている「定例文」を今回も続けるまでだ。
「品質には十分注意を払っていますが、万が一、いつもよりも反応が悪いとか出力が安定しない等、気になることがあれば以室商会本店まで連絡を下さい。可能性は低いですが、これはお渡しした品物の品質の問題ではない可能性もあります」
尤も、そうやって受け渡した品物に対する注意事項を口にしながら、何を配達しているかを鷹尚は知らなかった。さらに言えば、以室商会から購入した品物を用いて上坂が何を行っているのかについても当然把握などしていなかった。
だから、その注意事項は、継鷹から言付けるよう言われた文言をただ伝言ゲームのように繰り返しているに過ぎない。
継鷹からは「いずれその時が来たら詳細を教える」と言われていることもあって、鷹尚も経緯を探ったりしたことはなかった。しかしながら、三ヶ月に一度、上坂宛ての配達をする度にこのお決まりの定例文を口にしているわけで、詳細が気にならないかと言えば嘘になる。
しかも、ここだけの話、継鷹は「品物の不良」が発生する可能性について、それをゼロに近いと見ている節がある。
鷹尚がお得様「上坂」の対応を任されるに当たって、継鷹からは「もしも異変が生じたと連絡があった場合には、どんな手を使っても必ず連絡しろ」と言い付けられていることに加え、上坂の側には「異変の対処には佐治継鷹が立ち会わせる」と伝えるよう厳命されているからだ。
注文の品を玄関先に格納すると、上坂は鷹尚に労いの言葉を向ける。
「いつもありがとうね。これでまた歪みの矯正を継続できる」
その際、上坂がぼそりと呟いた「歪みの矯正」という単語が、鷹尚は酷く嫌に耳に付いた。
気にするべきではないと頭では分かっている筈の事柄を、気にしてしまうのもやはり人の性だ。
この上坂の件について「経緯を探ったりしたことはない」と述べたが、それはあくまでも継鷹相手にそうしたことがないというだけで、鷹尚は「詳細は知らない」と予防線を張るトラキチをおだてて突いたことがある。
曰く、本来ならば御神木として正しい手段で祀られなければならない類いの樹木を正しくない方法で対処せざるを得ない理由が生じて、それ以来この上坂が以室商会の手助けの元で管理をしているらしい。
そうして、当初は数年も管理すれば終わりが来ると思っていたらしいのだが、あれよあれよと十数年の時が流れて今に到るとか何とか……。
つまり、上坂はここで十数年に渡って「正しくない方法」での対処を続け、以室商会もそれをサポートし続けているのだ。当然その間に「正しい手段へと切り替えることはできなかったのか?」だとか「何らかの対処をしなくても問題が生じないよう根本的に何とかできないのか?」といった疑問が生まれるわけだが、今の鷹尚にはそこに踏み込む度胸も権限もなかった。
ともあれ、どこか険しい表情を注文の品に対して向ける上坂の横顔をいつまでも眺めているわけにも行かない。
「いえ、こちらこそ、いつもお引き立て頂き本当にありがとうございます。また、宜しくお願いいたします」
そう切り返すと、鷹尚は深くお辞儀をした後でくるりと踵を返し上坂宅を後にした。
石段を下る鷹尚がまざまざと実感することは、以室商会はこの上坂のように長期間に渡って顧客と関わり続けている案件がいくつもあるということだ。アルバイトを始めてまだたかだか一年程度しか経過していない鷹尚ですら、既にこの上坂以外にも同様に長年に渡り継続して以室商会が関わっている案件を二件把握しているのだ。
しかも、その二件に至っては、継鷹が直接出向いて対応するような案件だ。配送の人手として鷹尚やトラキチが駆り出されるようなこともないので、単純に物の受渡しどうこうの案件でもないのだろう。
以室商会は新規案件を取り込むことをせず、ゆっくりと衰退しているように見えると鷹尚は感じているが、もしその原因の一つがこの手の長期的に継続して関わる必要のある案件を複数個抱えているからだというのならば、……解決は容易ではないのかも知れない。
ふと、鷹尚はそんなことを考える。
上坂の案件一つ取ってもそうだ。もし根本的な解決が可能ならば、既に継鷹が手を打っていて、何なら解決してしまっていてもおかしくない。仮に継鷹の手が回らなかったにせよ、根本的な解決が可能ならば十数年に渡って「正しくない方法で対処する」ことを続ける道理などない筈だ。
鳴橋も言っていた。「それまで請け負っていた他の仕事を大きく減らさざるを得ない厄介事を抱え込んだ」と。
そう考えていくと、以室商会は鷹尚が考えているよりもずっと多くの厄介事を抱え込んでいるのかも知れない。
そんな思考に囚われ始めると、自然と石段を下る足取りが重くなっていって自身の表情が強張っていることに気付いて、鷹尚はハッとなる。慌てて頭を左右に振ると、鷹尚は自身にまとわるもやもやを慌てて振り払った。
今は、それを考えても詮無いことだ。
そして、今日はまだ、これで終わりではないのだ。
すぱっと気持ちを切り替えて石段を下り始めると、鷹尚は石段の終わりに佇むトラキチの姿を見付ける。
ここで待ち合わせていたのだ。
そうだ。ここから先は、冥吏の依頼をこなすための時間である。
トラキチは鷹尚の姿を目に留めると「待ちくたびれた」と言わんばかりに欠伸を一つ噛み殺す。
「今日の配達はこれで終わりか?」
「あぁ、今日の分はこれで全部終わりだ」
以室商会アルバイトとして本日のやるべきことが全て無事に終わったことを伝えると、トラキチからは簡素な労いの言葉が向く。
「お疲れさん」
尤も、トラキチの意識は既に冥吏の依頼についてへと移っている。続ける言葉で、憑依先候補者リストの調査結果について鷹尚へと尋ねる。
「それで、候補者リストに乗っていた人物を調べてみたんだろ、どんな塩梅だったんだ?」
対する鷹尚は、頬を緩めて口元に笑みを作ると「悪くない塩梅だ」という雰囲気を醸し出す。すると、腰に装着したポシェットからスマホを取り出して、画面に候補者リストの画像を表示させた。
結局、鷹尚は候補者リストを旧・中坂邸から持ち出さなかった。いや、その言い方は適当ではない。リストの「原紙を持ち出さなかった」という言い方が正しいだろうか。スマホのカメラで候補者リストを撮影し、情報だけを持ち出した格好だった。
紛失リスクを下げたという見方もできるし、このご時世に置いてそこから情報を検索するにしろ何にしろ「紙である必要などない」というのも確かだったろう。
ともあれ、鷹尚はスマホの画面に映したリストをピンチアウトで拡大し、その中の一人の名前を拡大する。
「授業の合間の休み時間や昼休みを使ってさらっとリストを眺めて見た限り、一番楽にコンタクトできそうなのが高橋宗治って人だった。リストの住所が四上宿の支店からバスで二つ隣にあたる西宿里川(にしやどりかわ)で、以室商会のお得意さんが近くに居るから荷物の配送で何度も近場に足も運んでて土地勘もある」
一番楽にコンタクトできそうという点に絞って説明していたというのに、スマホの画面を覗き込むトラキチが食い付いたのはそこに全く関係のない部分だった。ふいっと顔を上げて鷹尚をマジマジと注視すると、トラキチの口からはこんな疑問が口を突いて出る。
「西宿里川のお得意さんって誰だ?」
今、トラキチの疑問に対して答えを返すと、主題から脱線するだろうことは鷹尚的にも頭では分かっていただろう。しかしながら、ここで「誰でもいいだろ? 今、重要なのはそこじゃない」と突き放さない当たりも、鷹尚・トラキチのやり取りである。
「……道木(みちき)のおっちゃんだよ」
名前を出しただけで、トラキチはすぐに顔と名前を一致させたようだ。それだけ道木という名前は、以室商会の顧客の中でインパクトを持つ内の一人だと言えた。
「ああ、あの陶芸家の人か。いつも和装で店に来る無駄に声のでかい! シロコがいっつも「もっと声のトーンを落として喋ればいいのに!」って愚痴ってるぜ。大体、電話を取って即座にボリューム下げるボタンを連打している時は、道木のおっちゃんからの連絡の対応をしてる時だよな」
カラカラと笑うトラキチの余りにも具体的な言葉に、鷹尚は思わず「ボリューム下げるボタンを連打する不機嫌オーラ全開で不興顔のシロコ」を思い浮かべてしまった。想像に難くないその光景を鷹尚は苦笑しながらも振り払うと、お得意様「道木」につい最近知った情報を続ける。
「でも、道木のおっちゃんさ。この前、地元の情報誌にでっかく顔と名前が出ていたのを見たんだよ。「新進気鋭、異色の陶芸家」って見出しでさ。もちろん、道木のおっちゃんが以室商会に頼ってまで拘ってる例の方向性はほとんどクローズアップされていなくて完全に眉唾物扱いされてたけどさ」
「面白いおっちゃんだよな! 飾りにしかならない実用性のない只のでっかい陶器の壺とか皿とかに「ほんの少しでも良いから本物の価値を与えたい!」とか抜かすおっちゃんだからな。しかも、その言い分で求める価値の方向性が「本当に幸運を呼ぶ」とか「本当に病魔を払う」とかいう感じだもんなぁ」
改めてトラキチが以室商会のお得意様の一人である「道木」についてその人物像を語ったところで、鷹尚は冷静になる。客観的に分析すれば、道木の拘りは「世間一般に受け入れられる」方向性とは言えない。
尤も、道木自身、それを自覚はしているのだろう。
情報誌のインタビューに置いて「その異色と言われる方向性を実現するために以室商会に協力を仰いでいる」とか宣ったり、大々的に宣伝していないのだからだ。いや、やもすると直にインタビューをしてきた相手には熱弁を振るったりしている可能性は捨てきれず、そういう部分については編集によってばっさりと切り捨てられたという線も考えられる。
もし後者だとするのなら「情報誌の編集者、グッジョブ!」とサムズアップすべきかも知れない。
「でも、そっか。道木のおっちゃん、情報誌に取り上げられるぐらいには名の売れた陶芸家だったんだな。「新作として良いものができたんだ、効果を検証する意味合いも込めて以室商会で使って確認してみてくれ」とか言って、うちに置いていった小皿とかも凄く奇麗な色合いしてるもんな」
そうなのだ。道木が作る焼き物だとかの作品は、その道に全く詳しくない素人の鷹尚が見ても「渋みのある色合いが凄く奇麗で引き込まれるようだ」という感想に到るぐらいには素晴らしい出来映えの代物だ。実際そこらの十把一絡げの量産品とは一線を画していて「作・道木陶接(みちきとうせつ)」の札が付くものはかなりの高価格帯で取引されている。
そして、だからこそ道木の求める異色の方向性が許容されている嫌いもあったかも知れない。こういってしまうと元も子もないが、これで陶芸家としての腕も平凡以下で作品としての評価が低かったならばただただ「胡散臭さ」が際立つ色物扱いだったかも知れない。
尤も、道木の作品に美術品としての価値を認める人であっても、その異色の方向性については恐らく生暖かい視線を向けていると思われる。
ともあれ、陶芸家・道木陶接は以室商会へと頻繁に調合を頼み、またそれを「焼物に塗布する釉薬とする為にはどうしたらいいか?」などを尋ねに店へと足を運ぶお得意様の一人だった。さらに言うのならば「こんな発色の釉薬になるよう配合して欲しい」などといった無理難題を頻繁に持ち込む人物でもある。
「さて、話が大幅に逸れたんで、話を元に戻すぞ?」
鷹尚はトラキチからの返答を待たず、大幅に脇道へと逸れた話を本題へ戻そうとする。
しかしながら、鷹尚はそこからすぐに本題を切り出すことができない。話の流れの中で、快活に笑う道木や不興顔のシロコといった面々の風貌を思い起こしたことで、何を何処まで進めたのかが完全に忘却の彼方へ追いやられて格好だ。
「えーと、……どこまで喋ったんだっけ?」
「高橋宗治が一番楽にコンタクトできそうだと何とか」
「あぁ、そうだそうだ。で、この高橋宗治さんって人をネット検索で洗ってみたんだけど、地方紙が運営するネットニュースですぐに名前がヒットしたんだよ。駒居工業(こまいこうぎょう)株式会社の従業員で、三か月前に敷地内の貯蔵タンクから特殊合金の洗浄に使用する有機溶剤が漏れる事故で一時意識不明の重体になって同地区内の青原中央病院に担ぎ込まれたらしい」
そこで一旦言葉を句切ると、鷹尚はトラキチへと向き直り同意を求める。
「同姓同名の可能性もあるけど、これ、多分ビンゴだろ?」
「ああ、間違いないっぽいな」
寧ろ、ここまで要素が重なり合っていてそれでもなお同姓同名の別人であったなら、もう「こんなこともあるんだなぁ」と笑って片付けるしかないレベルだ。
リストに記載のある人物で間違いなさそうだという共通認識を得たことで、鷹尚はその「高橋宗治」について現時点で分かっている点について言葉を続ける。
「ただ、この高橋宗治さんがその後どうなったのかをネット検索で追って探してみたんだけど、残念ながら続報は見つけられなかった。だから、今はもう回復して退院しているのか。それとも、今もまだ入院中なのかは分からない。昨日の今日で分かったことはこれぐらいだ」
鷹尚は「昨日の今日」という部分を強調して得られた情報が少なかったことを述べたものの、厳密に言えば高校の昼休み等を活用して調べ上げたことはまだまだ無数にあった。結論から述べると、鷹尚はそれを意図的に省略した形だった。そこに言及すると、またぞろ話が発散する可能性が高いと考えたようだ。
そうして、鷹尚はその得られた情報が少ない中にあって「高橋が一番楽にコンタクトできそう」とした理由について続ける。
「それでも、これだけ情報が出揃っていれば高橋さんのその先の足取りは追えると思う。青原中央病院にしろ駒居工業株式会社にしろ西宿里川に位置しているから、最悪足を使って高橋さんの現状を探りに行くこともできる」
西宿里川と足を使うという単語を前に、トラキチはそこに思案顔を覗かせた。それがどれだけの難易度を持つことなのかを推し量っているのだろう。
最初に述べたが、西宿里川なんて以室商会が支店を持つ四上宿から市営バスで二駅しか離れていない。
それらを考慮していくと、どちらかというと頭を使うよりも行動によって足場を固めていくタイプのトラキチが導き出す答えなんてものはほぼほぼ決まっていた。すると、些か強引にことを進める意識が強く練り込まれた提案がトラキチの口を突いて出る。
「西宿里川か。何なら、今から帰る途中に「ちょっと寄り道していこうか」ぐらいの感覚で行けちゃう距離だな。青原中央病院に乗り込んで、高橋宗治が今も入院中かどうか確認してみるか?」
トラキチが提案した青原中央病院経由のルートを、鷹尚は首を軽く左右に振る形で否定する。何より、トラキチのニュアンスは青原中央病院にずかずかと進入していって、高橋が今も入院しているかどうか全ての病棟を総当たりで確認するぐらいの感覚だ。ここは明確に否定しておかないとならない。
何よりも鷹尚の狙いは「高橋宗治」といキーワードで浮かび上がったもう一つの要素「駒居工業株式会社」の方だったし、トラキチのニュアンスの「乗り込む」というのはあくまでも「最後の手段」という認識だ。
「いいや、まずは高橋宗治さんについて、駒井工業株式会社に確認してみようと思う」
「どうするつもりだ? そっちに乗り込んで見るのか?」
トラキチの思考は「乗り込む」といった言葉に強く意識が向いてしまっているようだ。
鷹尚はトラキチの疑問を苦笑しながら否定すると、もっと手軽で平和的な手段があることを提示する。
「まさか。手っ取り早く駒井工業株式会社に電話を掛けて聞いてみるんだよ」
「真正直に聞いて、答えてくれるかね?」
「そこはほら、……高橋宗治さんと面識がある顧客の体を取ればいいさ」
そういうが早いか、鷹尚はスマホを手に取るとインターネットで駒居工業株式会社の情報が載せられたホームページへアクセスする。「駒居工業」「彩座」というキーワードで探索をしてトップに表示された検索結果は、所謂「求人サイト」と呼ばれる求職情報が雑多にまとめられたものだった。
鷹尚は求人サイトに表示された駒居工業株式会社の概略を、何の気なしに読み上げる。
「駒居工業株式会社。設立は昭和40年2月。資本金2000万円で総従業員数83名。特殊合金用の金型設計から精密加工・溶接、仕上げのメッキ工程までを自社で一貫して行うことができることを強みとする少量生産向けの金属加工メーカー。圏内では駒居工業株式会社でしか対応できない装飾めっき等を手掛けており、中堅メーカーながら独自の存在感を持つ……だってさ」
求人サイトの概略には駒居工業株式会社が募集している職種や応募条件などが続き、最下部に公式ホームページへと飛ぶリンクなどが記載されていた。そこまで辿り着いてしまえば、鷹尚が代表電話番号といった情報にアクセスするまでそうさしたる時間は掛からない。
鷹尚はすうと一つ息を呑んで気合いを入れると、公式ホームページに記載のあった代表電話番号をスマホへと入力しコールを掛けた。
短いコールが三度鳴ったところで、駒居工業株式会社・代表電話番号は通話状態へと移行する。
「はい、駒居工業株式会社でございます」
対応に出たのは、ややトーンの高い女性の声だった。
鷹尚は声の具合をやや低めのトーンに整えて口を切ると、会社に対応するものとして適当な言葉遣いを意識する。
「いつも大変お世話になっております、佐治と申します。御社の高橋宗治さんに取次いで頂きたいのですが」
「こちらこそいつもお世話になっております。高橋宗治ですね? 今、電話を回しますので少々お待ち下さい」
「お願いします」
ややトーンの高い女性が、鷹尚に違和感を覚えた風はなかった。もちろん、そこに相手方が訝るようなやりとりは一切なかったのだから当然と言えば当然なのだが、やはり取引相手や顧客を装っているという意識が鷹尚にある以上「緊張するな」というのには無理がある。
心臓の鼓動がバクバクとやや高速で打ち始めるのを感じ始め鷹尚が一つ大きく息を吐いたところで、ややトーンの高い女性からの返答が来る。
「大変お待たせ致しました。弊社の高橋ですが現在外出しておりまして、戻りが19:00の予定となっております」
スマホを持つ鷹尚の手には、不意に力が入った。憑依先候補者である高橋の現在の状態について、確固たる情報を得ることができたのだからそれも仕方のない反応だったかも知れない。
ともあれ、高橋は既に青原中央病院から退院しており今も駒居工業株式会社に在籍していることが分かれば、今はそれで十分だった。後は、如何に怪しまれることなくこの通話を終わらせるかに注力すれば良い。
「そうですか。以前、高橋さんに見積もりの件で御社に一度伺わせて頂きますという話をさせて頂いたのですが、そうであればまた改めて連絡させて頂きます」
「こちらから折り返すよう、高橋へと伝えましょうか?」
「いえ、改めてこちらから連絡させて頂きます。ありがとうございました。失礼します」
通話を終えると、鷹尚はどうだと言わんばかりのやり遂げた顔でトラキチへと視線を向ける。
「だそうだ」
「怪しまれないもんなんだな」
「ボロが出るようなやりとりなんて何一つしてないだろ? ただ、ちゃんとした用事がある風を装って在籍確認をしただけだし」
仮に「どちらの佐治様でしょうか?」と聞かれた場合でも、鷹尚は「以室商会の……」という部分を隠さず口にしただろう。下手に嘘をついて相手に違和感を与えるぐらいならば、自身が以室商会に所属しているということを明らかにし相応に整合性の取れた話ができるよう立ち回った方がずっと具合が良い。
付け焼き刃ではあるが、駒居工業株式会社が何を提供してる会社なのかも情報を得ていたのだからだ。
「電話の対応だけをみたら一端の社会人みたいだったぜ、鷹尚」
トラキチから「一端の社会人みたいだった」という評価を得て、鷹尚は謙遜しながらも頬を緩める。
「はは、じいちゃんの配達絡みの仕事で中小企業を相手にやりとりしてきた経験が生きたかな?」
以室商会のアルバイトとして似たような対応をして来たことに鷹尚は言及したものの、実際にはこの手の電話対応について継鷹から何らかの指導を受けたというようなことはなかった。というよりも、以室商会は中小企業サイドから発注を受ける立場に立つことが大半を占め、今回鷹尚が駒井工業株式会社を相手に電話を掛けたのとは逆の構図になること基本だった。
だから、今回の鷹尚の一連の電話対応は、中小企業サイドからの連絡を電話番として捌いてきた経験を生かしたという言い方が正しかったただろう。
ともあれ、上手く情報を引き出すことができたと気を緩めたのも束の間のこと。
それを踏まえて、トラキチからは鷹尚に確認が向く。
「19:00戻りだそうだけど、どうする?」
その意味するところは、言うまでもなくリストに名前のある高橋の調査を今からでも開始するのかどうかを問うたものだ。
トラキチからマジマジと注視され、鷹尚はスマホへと視線をすっと落とす。
現在の時刻は、まだ17:00にもなっていない。
四上宿方面に向かう市営バスに飛び乗れば、18:00過ぎには西宿里川へと到着することができるだろう。そこから住所を頼りに駒居工業株式会社へと向かえば、……仮にすんなり行かない可能性を考慮しても19:00頃には到着できるのではないか。
もし仮に、今回目標時刻までに到着することができなかったとしても、駒居工業株式会社の場所や行き方、そして所要時間などを把握することができる。決して、無駄足にはならない筈だ。
そうなると、鷹尚が下す判断なんてものは自ずと決まっていた。
すぅと大きく息を吸い込むと、鷹尚は腹を括ってトラキチへと向き直る。
「今夜、直接会いに行ってみよう」