旧・中坂邸内部へと進入すると、白黒篝は俄に緊張感を帯びた顔付きとなった。さすがに、鷹尚をこれから自身の上司に相当する相手に面通しするとあって、いつもの調子のまま……というわけにはいかないらしい。
こういってしまっては元も子もないわけだが、一見そんなこと一切気にしないスタイルめいた格好に身を包んでいるのに「自身の評価」とか言った辺りをきちんと気にしている小心者なところもまた白黒篝の特徴だと言えただろう。
白黒篝は緊張からか、こくんと唾を呑むと旧・中坂邸の玄関から続く直線廊下へと足をゆっくり薦める。
玄関で靴を脱ぐスタイルではない旧・中坂邸は、土間がそのまま建物内部まで続く構造を取っていた。玄関からつづく直線の廊下は、長さにして軽く10m以上はあるだろうか。突き当たりには玄関のものに似た両開きの木製扉がある。
玄関のものに似たというところで、鷹尚は勝手に「そのまま突き当たりまで行って再び木製扉に手を掛けるんだろうな」と憶測を立てていた。「なぜ?」を問われると答えに困る形ではあるが、そうすることで二重三重の関所を設けているんじゃないかと思ったようだ。
しかしながら、その憶測はあっさりと裏切られる。
長い廊下の途中に存在していた十字路を白黒篝が右手に曲がり、そのすぐ先にある階下へと続く階段へと足を向けたのだ。
階下へと下る階段が曲がってすぐの場所に位置していたため、十字路の先に何があるのかをまじまじと確認することは適わなかったが、パッと見ただけでもその廊下も直線で非常に長いことが見て取れた。先述した通り、玄関から続く直線の廊下も長いのだが、十字路を曲がった先のそれは優にその倍以上は軽くあるのだ。
その構造は、まるで古い木造の校舎でもあるかのようだった。さらに言うのならば、交差した廊下には複数個の部屋の存在も確認できた。尤も、学校の校舎のように廊下へと面した扉に中を覗けるガラス窓は設けられていないないため、その部屋の中がどんな造りなのかを確認することはできない。
パッと見で分かることは、どの部屋からも物音一つしないと言うことだけだ。
無数にある部屋には、恐らく誰もいないのだろう。
そんな具合に漂うもの静けさがどこか不気味さを感じさせる中、白黒篝は迷うことなく階下へと足を進める。
壁に沿って90度に曲がる後から取って付けたような緩い傾斜の片持ち階段を下っていくと、その先には再び重厚な木製の開き扉が姿を現す形だった。
階下の階層は外部から採光する構造を取っていないためか、電灯が灯っているのに仄かな薄暗さを感じさせた。尤も、一階層同様、天井にしろ廊下の横幅にしろ、かなり広く余裕の持った造りとなっているため窮屈感や圧迫感といったものはない。
冥吏が管理する場所として、望まぬものを寄せ付けない羽城として、そこには絶妙な匙加減の雰囲気が漂っていたといっていいのだろう。
そのまま進むことを躊躇って思わず足を止め引き返させる程の不気味さや薄気味悪さはないものの、人間の備える直感的な部分が「何か嫌な雰囲気だな」と警告するだけの、べっとりと重い空気がそこには横たわっている。頑とした目的をもってこの場に挑むものは難なく足を進めるだろうが、迷い込んだような望まれぬものはきっと好き好んでこの先へと足を進めようとは思わない。
そんな折り、重厚な木製の開き扉の前に立って白黒篝がすぅっと長い息を吐いたことで、鷹尚・トラキチの二人はそこが目的地であることを察した。そうすると、白黒篝同様に自然体のまま……という訳にもいかず、二人の背筋も自然と伸びる。
白黒篝が重厚な木製扉のノッカーを四回叩く。
「失礼します」
そう告げると、白黒篝は返事を待たずに扉へと手を掛ける。
さすがに玄関の時にそうしたような手順は必要とはしないらしく、重厚な木製扉はあっさりと開いた。
内部は広い。
天井の高さ自体は廊下と変わらないながら、6人向けの長方形のテーブルが3卓、同じく6人程度がぐるりと囲える丸テーブルが3卓がゆったりとして幅を持たせて並べられていて、今で言う多目的ホールといった感じだ。それこそ小〜中規模の立食パーティぐらいならここで捌いてしまえるぐらいの広さは優にあるといっていいだろう。
調度品という調度品は特になく、強いて言うのならば天井から吊された豪勢なシャンデリアぐらいだろうか。中央に1つ、四隅に4つで計5つが煌々と輝き、その多目的ホールを照らし出していた。
鷹尚・トラキチの二人がぐるりと室内を見渡している間に、白黒篝がやや緊張した面持ちで言葉を続ける。
「鳴橋(めいきょう)様、御用命通り以室商会・佐治鷹尚様をお連れいたしました」
入ってすぐの位置に接された六人掛け長方形のテーブルにこれでもかと書類を広げ、鳴橋と呼ばれた男は椅子に深く腰掛けていた。そうして、呼び掛けに対してパッと書類から目を上げると、白黒篝に労いの言葉を向ける。
「あぁ、ご苦労」
この鳴橋と呼ばれた男が白黒篝の上司なのだろう。
鳴橋はパッと見ただけで、先程のタクシードライバー・佐藤同様、見るからに仕立ての良いスラックス・ワイシャツ・ジャケットに身を包み、同時に「清潔感」をまとう男だった。スラックス・ワイシャツ・ジャケットともに、汚れやよれはなく、ピシッとノリが利いている。
仮に鳴橋を普通の人間と捉えるならば、見た目の年齢は30中〜後半と言ったところだろうか。そして、実際にはそれ以上であっても「年齢よりも若く見える」タイプならば十分有り得る見た目だと言えた。尤も、その逆でもっと若い年齢だと言わしめるには10台〜20台のような肌のハリが無く、ニィッと人当たりの良い笑みを口元に作った時に口角に深い皺が寄る。
鳴橋は手にしていた書類をぽすっと机に放ると、その視線をすぐさま白黒篝から鷹尚へと向けた。
だから、てっきりそのまま鳴橋から自己紹介なり何なりが鷹尚に対して行われるのだと思ったのだが、そこに割って入る者が居た。鳴橋の左後方に控えていた紺のパンツスーツに身を包むすらっとした背の高い眼鏡の女性だ。切れ長の眉、切れ長で吊り目気味の目元、整った顔付きから来る第一印象は「美人」と言う表現がしっくりと来るだろう。
「鳴橋様、後五件ほどどうしても本日中に決済していただきたい案件がありますので、そちらはまた以室商会様との会食の後にでもお持ちすれば良かったでしょうか?」
眼鏡の美人は、鳴橋が口を切るよりも早く敢えてそこに割って入ったのだろう。
鳴橋が鷹尚相手に会話を始めてしまえば、あくまで冥吏サイドの都合でしかない「本日中に処理すべき案件」なんて話を差し込むのは不作法だ。
一方の鳴橋はこれ見よがしに不満げな表情で答える。
「おいおい、今日はもう勘弁してくれないか? せっかく現の本物を楽しめる場まで用意したんだ。さすがに今夜ぐらいは、後の予定のことなんて考えずに楽しみたいぞ」
「駄目です。と、言いたいところですが、明日以降多少苦しむ覚悟があるのでしたらそれでも構いませんが……」
眼鏡の美人が「お勧めできない」というニュアンスをもって続けた代替案に、鳴橋は二つ返事で飛びつく。
「構わない。今夜のお楽しみのためだ。そこは明日以降の自分に頑張って貰うことにしよう!」
誰が聞いても首を捻る「明日以降の自分に頑張って貰う」なんて不穏な言葉が鳴橋の口を突いて出たものの、眼鏡の美人がそこに何かしらの諫言なりを挟むことはなかった。恐らく、内心では一抹の不安を感じてはいたのだろうし、眉がぴくっと釣り上がったところも踏まえて言うのならば、その姿勢を口五月蠅く質したかったのかも知れない。
それでも、眼鏡の美人は一瞬鷹尚達を気にする素振りを合間に挟み、すっと一歩引いた。そうして、鳴橋のその決断をすんなりと受け入れるという体を取る。
「畏まりました」
尤も、そこで終わらせず、浮かれる鳴橋にあくまで要望という形で諫言を向ける辺り抜け目のなさが際立つ。
「ただ、明日は午後から視察の予定も入っています。それまでには、最低でも明日に回した五件を片付けていただくようお願いいたしますね? 今夜どれだけ現の本物を楽しむつもりかは解り兼ねますけれど、明日のスケジュールに影響が及ばないよう留意していただけますようお願いいたします」
口調こそ丁寧だったのが、そこには有無を言わせぬ迫力も伴った。
鳴橋は頭部をバリバリと右手で掻くと、ばつが悪そうに返事を濁す。
「はは、あぁ、うん、……解っているさ。今夜の影響が及ばないように、ね」
鳴橋がまとう雰囲気に滲むもの。それは不承不承といった具合の感情だ。
それでも、鳴橋が了承したことで眼鏡の美人はそれ以上ああだこうだというつもりはないらしい。鷹尚・トラキチの二人の姿を横目に捕らえると、その場ですっと向き直って見せて軽く会釈をする。そして、鳴橋に対して客人を待たせることがないよう配慮を見せる。
「書類はわたしが片付けておきますので、鳴橋様は奥のテーブルへと移っていただいて以室商会様と会食を始めて下さい。こちらの都合でお客人を待たせるのは忍びないですから」
鳴橋がそれまで執務をこなしていたのだろうテーブルには無数の書類が散らかっていて、確かにそれを片付けてから……というのでは、鷹尚達が一休みできるくらいの時間は掛かりそうだった。整理整頓を考慮せず、ただ一つ処にまとめてしまうだけならばそうでもないだろうが「本日中に決済していただきたい案件」だとか何とか眼鏡の美人が口にしていた内容から察するに、雑に扱うわけには行かない書類だろう。
「重ね重ね済まない、では後片付けは計香(けいこう)君に頼むことにしよう」
「畏まりました」
そう答えるが早いか、計香は早々に執務机の上に散乱した書類の後片付けに取り掛かる。迷いなく書類を集め分類していく手際を見るに、それは今回が初めてのことではないのだろう。どう見ても手慣れているという印象を受ける手際の良さだ。
ともあれ、計香に後の処理を任せた鳴橋は人当たりの良い雰囲気とにこやかな笑みをまとって、白黒篝、そして鷹尚・トラキチの立つ扉の方へと足を進めてくる。
「やぁ、君が以室商会の佐治鷹尚君だね? はは、見苦しいところを見せてしまったかな。初めまして、私はボウヨウチクンという。俗にいう閻魔庁の第14区画地方総監督の補佐官という役割を拝命させていただいている。が、まぁ、君達に対してそんな肩書を語ってみたところで何の意味もないかな。気軽に鳴橋とでも呼んでくれ」
鳴橋は簡単にそう自己紹介をすると、鷹尚の肩付近に手を添え応接室中央奥にある丸テーブルへとエスコートする。その際、すっと絶妙のタイミングで握手のために手を差し出してくる辺りも踏まえて、こちらはこちらで少なくともこういう交渉事に対しては場慣れしていることが感じ取れる。
鷹尚が案内されるままスムースに丸テーブルへと腰を掛けると、鳴橋は自身の席をちょうど真正面に来る位置取りとする。鷹尚の隣にはトラキチが、そして鳴橋の隣には白黒篝が同席する形がそこに整えられると「まず話を聞く」とした対話の場があっという間にできあがる。
すると、鳴橋は鷹尚の横に座るトラキチへとまず目を向け、にこやかに微笑んだ。
「久しぶりだね、トラキチ君。こちらの時間で言うと、ええと、一年振りぐらいになるのかな?」
「あぁ、そんなもんだろうな。それよりも、何となくそんな気はしてたけど、やっぱりあんたか」
トラキチはぶっきらぼうとも受け取られかねないやや素っ気ない態度で答えた。尤も、そんなつれない態度ではあるものの、偏にこれが鳴橋を警戒しているとか、嫌っているといかいう理由から来るものではないことを鷹尚は承知している。基本、慣れていない相手に対して最初の内はこんな感じであるのだ。
例え何度か面直で会っていて面識があるのだとしても、鳴橋の「一年振りぐらい」という話からすると調子を取り戻すまでには相応の時間を有する筈だ。付け加えて言うのならば、これこそが以室商会の店番にトラキチが向かない理由の一つでもある。
そして、もう一つ。
鳴橋は「初めまして」という言葉を使ったものの、実のところ鷹尚に取ってもこれが初対面ではなかった。いいや、その言い方は正しくないだろうか。
確かに鳴橋の立場で言うのならば初対面という認識で正しいのだが、一方の鷹尚はと言えば継鷹に連れられて足を運んだ鬼郷でその姿のみならず声や仕草といった立ち居振る舞いを目の当たりにしていたのだ。もちろん「鳴橋の立場で」と但し書きを付けたように、鷹尚が面直で対面したという話ではない。衝立を一つ挟んで、継鷹と鳴橋がやりとりするのを「見ていたことがある」とでもすれば適当だろうか。
ともあれ、その時鷹尚が継鷹とやりとりをする鳴橋の立ち居振る舞いに感じたところは、偏に「気品」すら感じさせるもので、粗暴さといったものとは無縁だという思いだった。そうして、改めて目前に座した鳴橋相手に鷹尚は同じ思いを胸中に抱く。
とはいえ、そんな鳴橋の雰囲気に飲み込まれるという訳にはいかない。
鷹尚はくっと息を呑んで身構え、鳴橋へと対する。
「それでは、鳴橋さん。本日は宜しくお願いします」
「うん、こちらこそ。でも、ここはそこまで肩に力を入れる必要のない場だよ。白黒篝からちょっとした相談を持ち掛けられたぐらいの感覚でいいんだ。何より、今からその調子ではすぐにへばってしまわないかな?」
パッと見て分かるほどに、鷹尚は全身強張ってしまっていたようだ。
鳴橋から返す言葉でそう言われ、鷹尚は素直に反省する。
程度問題ではあるものの、少なくとも「緊張によって強張った」と鳴橋に認識され指摘されてしまうようでは駄目だろう。やもすると、そのまま対話を進めていたら鳴橋の言うように精神面を磨り減らしてすぐにくたくたになってしまったかも知れない。
しかしながら、経験値の低い鷹尚に「適度な緊張感を維持しろ」なんて状態を求めるのは土台無理な話だ。それが極度の緊張を緩和することに繋がるかどうかも不確かではありながら、一つ間を置くくらいが精々だろう。そうして、まずは「雰囲気に飲み込まれまい」としてまとった勢いままに話し出してしまうしかない。
そういう意味では、ある程度の失敗や失態が許されるこの対話の場は、鷹尚に取って非常に良い場だと言えただろう。
ともあれ、大きく一つ深呼吸を合間に挟み、鷹尚は鳴橋へと口を切る。
「それにしても昨日の今日で、しかも、冥吏の中でもかなり上の位にある鳴橋さんがわざわざこっちに赴いてまで話をしてくれるとは思いませんでした」
かなり上の位にあるなんていう言い方をしたものの、鷹尚は「地方総監督補佐官」という括りが冥吏に取ってどれだけ上位にあるかを正確には把握できていない。ただ、鳴橋の立ち居振る舞いを見ていて思うこととして、白黒篝を直接指導する立場にあるような「直属の上司ではないんだろうな」というぼんやりとした直感があった。
恐らく、もっともっと上の立ち位置だろう。
そして、当の鳴橋もその認識を否定しない。代わりにその口を突いて出たものは、寧ろ何かしらの理由に託けて「こちら側」へと赴きたいという思いだった。
「はは、率直にぶっこんでくるね。でもね、機会さえあれば「足繁く訪れたい」と思うぐらいには、本当はこっちに来たいと思っている人でもあるんだよ、私はね。私事ではあるけれど室穂山系の山麓で行われている牛肉のブランド化計画を応援していてね。業務に忙殺さえされていなければ、週一くらいで足を運んで本物の美味しい料理に舌鼓を打ちたいものだねぇ」
しみじみと言った風に口を切る鳴橋の節々には、それまでのピシッとした雰囲気からは一転、山積した疲労の片鱗が滲み出もした。
尤も、口角を上げて「ははは」と笑いながらそんな言い分を口にする鳴橋に対して、鷹尚は程度の差こそあれ「ああ、白黒篝を使役するだけはあるな」と思ったとか思わなかったとか。
鷹尚の表情にやや困惑の色が混ざったからというわけではないだろうが、鳴橋は自身のスタンスについて補足する。
「ああ、でも、私が何の配慮もせずにこちら側の人気の店へと足を運ぶわけには行かないから、仮に私の時間に都合が付いたとしてもこうして境の場所で腕を振るってくれる料理人の都合を考えないとならないのが実情だ」
そこで一旦言葉を句切ると、鳴橋はパンッパンッと両手を軽く叩く。
それが合図だったのだろう。
向かって応接室右奥の扉が開き、コックコートを着用しコック帽を被ったがたいの良い中年の男が姿を見せる。年の方は若く見ても三十代中盤が精々で、パッと見た感じでは四十代と言われても何ら疑問は抱かないだろう。身長はそこまで高くないものの、太い眉と、日本人にしてはやや彫りの深い目元、全体的に筋肉質でゴツゴツとした風貌からただ厨房で料理をするだけのコックという印象は薄い。
そんな中年の男は軽くぺこりとお辞儀をして見せると、鷹尚・トラキチ、そして鳴橋・白黒篝が囲む丸テーブル横まで進み出てくる。
「本日、旧・中坂邸での会食の場で腕を振るってディナーを提供させていただく片倉だ。宜しく」
自己紹介も早々に、片倉は脇に抱えた二つ折りの簡素なメニューを各々のテーブル前に並べ注文の確認を始める。
「さて……と、では、さっそくコースを選んで貰おうかな。積もる話は注文してしまってからゆっくりとすれば良い」
メニュー表は、そこかしこにある一般的なレストランとは違い非常にシンプルな内容だ。いくつもの選択肢の中から一つ好きなものを……というのではなく、3通りしかない中から一つを選ばせるものだ。
しかもその3通りは、肉の部位が異なるだけであり、基本的にはステーキコース一択という言い方が正しいだろう。従って、自動的にステーキコースの注文となった上で、そこからステーキの種類を「リブロース」「サーロイン」「ヒレ」の中から選ぶ形だ。
もし自分がベジタリアンだったらどうするつもりだったのだろう?
ふとそんな考えが脳裏を過ぎるものの、さすがに白黒篝を通して「ベジタリアンか否か」「肉食を好むかどうか」ぐらいの情報は掴んだ上での対応なのだろう。尤も、鷹尚の記憶を遡ってみる限りに置いては、その手の会話を白黒篝とした記憶はなかったのだが……。
ともあれ、鷹尚・トラキチ共に「今夜の夕食は牛肉のステーキだ。しかもお高い感じの良い肉だ!」と言われれば、それは諸手を挙げて喜ぶ出来事だった。
鷹尚がまじまじとメニュー表に視線を落とすその横で、片倉は鳴橋へとオススメを告げる。
「鳴橋様はいつものサーロインのコースで良かったかな? あまりにも急な打診だったから最近好んで注文していただいているドライエイジングの熟成肉は用意できなかったが、代わりに上質なサーロイン肉を提供できる。ワインも年代物ではないがチリ産の赤ワインでオススメできる良い味のが入っている。軽くテイスティングしてみたが、値段の割りには面白い組み合わせとして楽しめそうだ」
「うん、良いね! ぜひそれでお願いするよ」
その二人のやりとりから察するに、鳴橋は片倉に取って常連の客なのだろう。「いつもの」なんて言い回しは、何度も鳴橋から注文を貰っていないと出てこない言葉である筈だ。そして、その「いつもの品」がない中で、鳴橋の嗜好を分析した上で満足していただけそうな新たな提案を口にできる程度には、片倉も鳴橋という客のことを理解しているわけだ。
続いて、片倉は鳴橋の横に座る白黒篝へと目を向ける。
「自分もサーロインのステーキコースでお願いします」
白黒篝は既に対応を決めていた様子で、片倉へ向け鳴橋と同じものを告げた。
鳴橋・白黒篝と注文が決まってしまえば、当然片倉の視線は未決定の残り二人へと回ってくる。しかも、長々と悩むだけの種類もないメニューなのだ。
一方で、鷹尚はまだメニュー表の全体像をしげしげと目で追う段階だった。メニュー表のどこを見ても、肝心の「値段」が書かれていなかったからだ。これは即ち「何を頼んでも同価格ということなのか?」すら、鷹尚に把握する術はない。
そうこうしている内に、片倉からは見当違いな方向での助け船が出される。どれを選べば自分好みの肉が出てくるか分からないから悩んでいるとでも、受け捉えられたようだ。
「佐治君、君はどうする? 後、トラキチ君だっけ、君もだ? 必要なら肉の種類の説明をしようか?」
「あの……」
おずおずと遠慮がちに切り出す鷹尚の様子から、鳴橋は大凡何を言いたいのかを察したようだ。そして「皆まで言う必要はない」と言わんばかりに先手を打ってくる。
「もちろん、ここの支払いは我々が持たせて貰うよ。この会談がいかなる結果になったとしても、こちらが招いた来賓の食事代を請求するなんてことはないからそこは安心して貰って結構だよ。好きに注文して貰って構わない。敢えてここで私的な思いを述べさせて貰うならば、やっぱりサーロインだね。そして、叶うことなら佐治鷹尚君にもぜひともブランド牛化計画の応援者の一人となって貰いたいと思っている。機会があれば、今夜間に合わなかった旨味の凝縮された熟成肉で、同じようにテーブルを囲う場を設けたいね」
ニコリと微笑む鳴橋を前にして、鷹尚はまず「頼まない」とか「水だけをお願いします」という選択がないことを悟った。そうなってくると遠慮する必要なんてものはないわけで、鳴橋の顔を立てる上でも注文なんてものは自ずと決まってしまうだろう。
「トラキチはどうする?」
「正直、肉が食えるっていうなら種類なんて問わないぜ。そもそも違いがよく分からん。俺は鷹尚のチョイスと同じものでいい」
一応確認を向けたトラキチも、肉の種類に拘りを見せない。そうすると、トラキチから注文の品を一任された鷹尚が注文するチョイスなど決まっていたに等しい。
白黒篝同様、鷹尚はトラキチの分と合わせて鳴橋と同じコースを2つ注文する。
「では、俺とトラキチも鳴橋さんと同じサーロインステーキのコースでお願いします」
「オーケー。では、サーロインのステーキコース四人前だな。確かに、注文を承った」
片倉は丸テーブルの各々の席に置いたメニュー表を手早く回収すると、代わりにメモ書きサイズの上質な紙片を添える。そこには「本日のお品書き」として、これからテーブルに並べられるコースメニューの内容が書き記されていた。
コースメニューを記した紙片をテーブルに配置し終えたところで、片倉は今思い出したと言わないばかりに鷹尚へと飲み物の注文を確認する。鳴橋が注文した赤ワインを一緒に楽しむというわけにはいかないことを、鷹尚の学生服姿から改めて認識したのかも知れない。
「後は、……鷹尚君達の飲み物の注文がまだだったね。室穂山系の湧水で作った天然水ソーダなんてどうかな? これもまだ余り出回ってないものなんだが、今地元のベンチャーが新たな名産物を作ろうと売り込みを掛けている品なんだ」
「いいですね、ぜひそれでお願いします」
「オーケー」
そういうが早いか、片倉はささっと向かって右奥の部屋に引っ込む。すると、未開封のワインボトル一本とグラス2個を手に戻ってくる。
片倉はグラスを鳴橋と白黒篝の前に置くと、ワインボトルを自身の胸元辺りの高さでしっかと両手で持ち、その銘柄を鳴橋に確認させるよう提示する。
鳴橋が視線を向けて合図を送ると、片倉はコックコートのポケットからソムリエナイフを取り出して慣れた手捌きでワインボトルの封を切った。片倉の手によってワインボトルはラベルの方向を鳴橋へと向けられた状態のまま、器用に、そして鮮やかに開封されていき、コルクがすぽんと音を立てて抜かれる。
「おぉ、職人技だな」
「こいつは凄いなー」
トラキチと白黒篝が感嘆の声を上げると、片倉は二カッと笑って白い歯を覗かせた。ある程度、そういう反応が返ってくるだろうという意識が片倉に会ったことは間違いない。「楽しんで頂けたかな?」とでも言わんばかりのその態度を見るに、その開封作業はある種エンターテイメント的なサービスでもあったのだろう。
「はは、これぐらいのことでここまで良い反応して貰えると張り切り甲斐があるな」
見るからにテンションを上げる片倉に、鳴橋が溜息交じりに愚痴る。
「これぐらいのこと……とは言うが、店によってはワインボトルとコルク抜きがテーブルにドンッと置かれて後は客の好きなように……というようなところも多いぞ。それなりの店構えに、それなりの値段を取る店であってもだ。時代は何でもかんでもかんでも簡素化なのか……と嘆きたくもなる」
「ソムリエが居る店なら、ワインボトルとコルク抜きをドンッと客に出す店であっても「ワインボトルを開封して欲しい。テイスティングもお願いしたい」とでも言えばやってくれると思いますけどね」
片倉はそういうとワインボトルの注ぎ口を鳴橋へと向ける。
鳴橋がワイングラスを手に取ってその口を傾けると、片倉はそこに少量のワインを注いだ。
片倉がワインボトルを引くと、鳴橋はワイングラスを鼻先へと近付け、それをゆっくりと回したゆらせてホストテイスティングを始める。
「うん、問題ない。けれど、香りは酸っぱい感じだね。馨しいというには程遠いかな」
「寝かせて置けば徐々に甘く芳醇な方へシフトして行くと思いますけどね。値段にしては旨く調和が取れているとは言え、味の方も酸味はともかく渋みが薄くライトボディ寄りだ。寝かせればかなりの伸び代を期待できますけど、まぁ、鳴橋様がわざわざ寝かせて楽しむような銘柄の代物じゃありませんよ。それでも、どうしても変化が見たいっておっしゃるのならうちの店が提携している倉庫で受けることもできますけどね」
片倉のワインの説明を聞き、鳴橋がワイングラスに注がれたそれを一気に口に含む。後に続いた思案顔は、渋みが薄くライトボディ寄りと言われた部分を入念に確認していたからだろう。
「ふむ、まずは肝心の肉料理と合わせて一通り味わってみてから……といったところかな」
鳴橋としては「今夜のサーロインステーキのコースで輝けば寝かせてみるのも吝かではない」といった思いのようだ。
わざわざ寝かせて楽しむような銘柄じゃないと説明したにも関わらず割と乗り気の鳴橋を前にして、当の片倉は「これ以上何を言っても聞きはしない」と思いのようだった。尤も「どうしても変化が見たいというのなら……」という含みを持たせている辺り、この手のやりとりも初めてのことではないのだろう。
ともあれ「呆れ」と「感服」が混ざった態度を合間に一つは挟んだ後、片倉はさらりと話題を切り替える。
「一応言っておきますけど、急な打診だったことで今夜は数に限りがあります。呑み過ぎないよう注意して下さいよ、鳴橋様」
「メインディッシュが来るまでは、さすがにチビチビやるさ。その後は、久しぶりの本物を味わう機会でもあるわけだし、ちょっと保証はできないかな」
からからと笑いながら鳴橋が片倉と話す一方で、同様に目前へとグラスを置かれた白黒篝の方はと言えば、どうやらワインを味わうつもりはさらさらないようだ。ワイングラスの口に右の掌を当てるジェスチャーを取って「自分のグラスにワインを注ぐ必要は無い」旨を明示する。
ジェスチャーを受けて片倉がワインボトルの口を引くと、代わりに鳴橋がその意図を確認すべく声を向ける。
「何だ、白黒篝はせっかくの赤ワインを楽しまないのか? 合わせの妙は絶品らしいぞ」
「鳴橋様と違って、まだまだこの後やらなきゃならないことがあるんですよー。まず何よりも、旧・中坂邸まで連れてきた鷹尚を、送っていかなきゃならないじゃないですかー。さすがに来賓を現地解散で「はい、後は自由に帰ってねー」ってわけには行きませんからねー」
「ふむ、それもそうか」
そんなやりとりをしている内に、片倉は再び向かって右奥の部屋へと引っ込むと、今度は氷が入ったグラスと天然水サイダーが入った縦長の200mL瓶を三本持ってくる。白黒篝がワインを飲まない意志を示したことで、天然水サイダーは三本になったようだ。
こちらも手早く栓抜きで開封すると、片倉はそれを鳴橋以外の面々の前へと置いた。
「足りなければ追加で注文してくれればいいし、炭酸を量飲むはきついというようであれば一押しの井戸水も用意できるから、いつでも言ってくれ。では、ディナーの準備に取り掛からせていただこうかな。失礼」
深々とお辞儀をして片倉が奥の部屋(恐らく、厨房があるのだろう)へと引っ込むと、鳴橋は待ってましたと言わないばかりに口を開く。
「では、まず最初に、鷹尚君が話を聞く気になってくれたことに対して「ありがとう」と言っておきたい。昔世話になった以室商会がここ最近になって再び雑事を引き受けてくれるようになったと聞いて、代替わりした以室商会をぜひともこの目で確認しておきたいと常々思っていたんだ。今回はその良い機会になった」
恐らく、予め用意していたのだろうその前置きめいた台詞を、鳴橋は鷹尚・トラキチに何かしらの反応を返す暇を与えず並べ立てていく。
「君の曽祖父ぐらいまでには物品のやりとりだけでなく、それこそ様々な面倒事を処理して貰ったものだよ。以室商会が今後も雑事を引き受け続けてくれるかどうかはまだ分からないが、我々としては再びあの時のような、今のものよりも一歩深化した関係性を築ければ……と願っている」
それは柔らかい口調ではあったもののその言葉の節々には、鳴橋から鷹尚へと向く期待というか要望というか、関係性の深化を相手側にも強制するかのような迫力の片鱗も微かに滲んだ。恐らく、鳴橋にはその手の圧力を意図的に滲ませるようなつもりは微塵もなかったのだろうが、そこは相手が鷹尚だったことで緩みが出たとも言えた。こう言ってはあれだが、鷹尚には立場もなければ威厳もないし、実力にしても「これからメキメキと伸びる素質はありそうだが……」といった段階なのだ。
鳴橋が対する相手として、余りにもランクが低かったのだ。
まず間違いなくこの場に居たのが継鷹だったのなら、鳴橋はその願望を表層に現れ出ないよう注意を払って押し殺した筈だ。
しかしながら、鳴橋の言葉の節々から感じ取るものがありつつも、鷹尚が真っ先に気に掛けた点はそこではなかった。鳴橋が軽く触れた「曾祖父」の時代についてだった。鷹尚に取って、それだけ「曾祖父」の時代の情報は貴重だった。
鷹尚はやや食い気味に、鳴橋へと「曾祖父の時代」について尋ねる。
「ひいじいちゃんの時代は今とは違ったんですか?」
「ああ、そうだね。以室商会が今のような対応になったのは、君の祖父である継鷹さんの時代からだ。尤も、現と黄泉路が交わう頻度も昔と違えば、黄泉路に通じる亀裂が生じる頻度も変わった。我々の要望に応えてくれる勢力というものも当時は非常に少なかった。あの時代は否が応でも以室商会に対応して貰わねばならなかった時代でもあった。当然、以室商会には無理を言って話を聞いて貰ったこともある筈だ」
明確に、今と当時とでは冥吏と以室商会との関係性に違いがあると鳴橋は言った。尤も、関係性が違うことに対して、単純に冥吏と以室商会とのバランスどうこうの話ではなく、時代背景といったものも影響しているとも鳴橋は続けた形だ。
それでも、鷹尚の興味はそれら時代背景を無視して「どうして今の関係性になったのか?」へと向く。
「鳴橋さんは、どうして継鷹がそれまで請け負っていた冥吏の依頼を請け負わないようになったのかを知っていたりしますか?」
鳴橋は首を軽く横に振る。
「いいや、知らない」
返す言葉でそうはっきりキッパリと言われてしまっては、今の鷹尚に取って「そこからさらに一歩踏み込んで」といった真似をするのは至難の業だ。俄に膨らんだ期待がパンッと弾けて萎んでしまえば、鷹尚がまとう雰囲気には気落ちしたマイナスの感情が色濃く滲み出るようになる。
そうやって鷹尚が見るからに肩を落としたから……というわけではないだろうが、鳴橋はあくまでただの風の噂だったり信憑性は薄いと前置きした後で「どうして今の関係性になったのか?」についての伝聞をいくつか話してくれる。
「風の噂に聞いた話でもよければ、それまで請け負っていた他の仕事を大きく減らさざるを得ない厄介事を抱え込んだからだとも一時期騒がれたこともある。もちろん、真偽は不明だけどね。たまたま同席した酒宴の場で継鷹さんを軽く突いた時には「正直割に合わない」みたいなことも言っていたような気がしないでもないが、当時は以室商会以外にも冥吏の依頼を受ける勢力が増えた時代でもあったから格別気にも止めなかった。何なら、すぐにでも、ある程度は元の関係にまで戻ると思っていたぐらいだ。ふと気付けば、あの時から既にそっちの時間で数十年が経とうとしているけどね」
「厄介事……?」
鷹尚に耳に留まったのは「厄介事を抱え込んだ」という部分だった。
けれど、鷹尚がそこに食い付く前に、鳴橋はその厄介事について深掘りできることはないという予防線を張る。
「申しわけないが、その厄介事とやらが何なのかは知らない。そもそも本当にそんなものを抱え込んだのかどうかも不確かだよ。わたしが知り得る当時の以室商会の事情はこれぐらいのものだが、……そもそもこの手の話は身内である君の方が詳しいのではないのかね?」
「……」
押し黙る鷹尚を前にして、鳴橋は機敏に好ましくない空気が張り出してきたのを感じ取ったのだろう。口元に人当たりの良い笑みを灯して見せると、敢えて空気を読まず半ば強引にさらりと話題を切り替えてしまう。
「はは、まぁ、この話はこれぐらいにしておいて、ここからは鷹尚君に関心を持って貰った本題こと「憑鬼の失踪事件」についての話に移ろう」
そういうが早いか、鳴橋は鷹尚の反応を待たず話し始める。しかも、鳴橋はその話の冒頭から鷹尚に取って驚愕に値する事実を口にした形だ。
「実をいうとね。取調官が連続で失踪するというのも、今回が初めてではないんだ」
それまで以室商会が冥吏の依頼から距離を置いた件について、少なからず意識を持って行かれていた鷹尚だったが、その一言であっと言う間に鳴橋の話題へと引き戻されてしまった。
トラキチに取っても、それは初耳だったのだろう。
鷹尚・トラキチの二人は鳴橋へと向き直ると、そこに続く次の言葉を待つ格好となる。
驚きに染まる鷹尚の表情をマジマジと眺めた後、鳴橋は続ける。
「既に何体もの取調官がそちらに失踪している。取調官の失踪は昔から良くある話の一つではあるのだが、ここ最近の頻発具合は目に余るものだ」
「よくある話……なんですか?」
怪訝な顔付きを見せる鷹尚は、心底「失踪事件」が頻発する理由を疑問に思ったようだ。失踪へと到る何らかの明確な理由があるのは当然で、しかも鳴橋の言い分はそれを把握していて、且つある程度の対策を講じながらも防止できていないというように聞こえる。まさか「冥吏」という組織の体質が、現代に見るブラック企業のような体質だからという理由では無いだろう。
鷹尚からその理由を問われた鳴橋は「ある程度それは仕方の無いことだ」という認識を示す。
「ここまで立て続けに発生することは希ではあるけれど、鬼郷で輪廻に帰す前の人の魂に触れる仕事に従事していると現の世界に対して並々ならない興味や憧れ・欲望を持つものも現れてしまう……ということだよ。まして、鬼郷は現の影だ。現の形を模した世界に身を置けば「本物」を求めてしまうようになるのも分からないではない」
ふいっと鷹尚から視線を外した鳴橋の表情には自嘲とも諦観とも取れる影が混ざる。その「理解できる」というスタンスは、自身も現の影である鬼郷の世界へと身を置くからこそ解るというわけなのだろう。
さらに言えば、鳴橋の様に責任ある立場にある者ならば、今こうして旧・中坂邸で会食しているように理由を付けて現の世界に足を踏み入れることもできるのだろうが、立場のないものだとこうは行かない。
それを強く示唆するように、鳴橋は自身の隣の席に座する白黒篝を横目に捕らえる。自身よりもいくらか立場のない白黒篝がどうしているかが良い例だというわけだ。
「ほら、なに、そこの下級冥吏が、現の世界の本物の「酒」を鷹尚君に対して個人的に要求するように、ね」
鳴橋の言葉尻には、白黒篝に非難を向ける態度はない。あくまで良い一例として手頃なところを「例え」として使ったに過ぎなかったのだろうが、そこには白黒篝の欲望を理解し目を瞑っている節がある。
しかしながら、それでも白黒篝は肝を冷やしたようだ。いつもの飄々とした態度にはぎくしゃくとしたぎこちなさが付いて回り、人当たりの良い笑みも口元がひくつく形となる。
「えー? あははー、嫌だなー、鳴橋様。それは……」
やもすると、白黒篝は鷹尚との個人的なやりとりが鳴橋にばれていないとでも思っていたのかも知れない。
鳴橋は慌てふためく白黒篝からふいっと視線を外すと、再び鷹尚を真正面に捉える。
「もちろん、それは好ましくないことではあるが締め付け過ぎても良くない。先程も述べたが、現の影の世界に身を置き紛い物に囲まれた生活を送っていると、どうしたって「本物」に興味が出る。大きな弊害を生まない限り、多少のことには目を瞑っているのが現状だ。そして、それが大きな害を及ぼすもので無い限りは、古い昔の時代からそうであったようにわたしもそれを許容する」
その鳴橋の言い方は、聞きようによっては「失踪にも目を瞑る」といっているかのようにも聞こえる。いや、目を瞑るのかも知れない。鳴橋の言葉を借りるのならば、それが「大きな弊害」を生まないのであれば、だ。
恐らく「失踪すること」それ自体は大きな弊害を生じさせないのだろう。
「冥吏の失踪事件が大きな弊害へと繋がってはならない。だからこそ、失踪した冥吏を見逃すわけにはいかない。連れ戻し、然るべき処置を科す必要があると考えている。既に白黒篝からある程度の話は聞いていると思うが、改めて佐治鷹尚君に依頼したいことは、この現の世界へと失踪した冥吏の対処だ」
現の世界への冥吏の失踪が「大きな弊害」に繋がる可能性があることを匂わせはしたものの、鳴橋がその具体例を示すことはなかった。
そこを深掘りすべく質問を向ければ鳴橋は何らかの具体例を提示してくれたかも知れないが、鷹尚がそれを求めることはなかった。きっと気持ちの良い話でないことは容易に想像できたし、やもすると鳴橋は敢えて「これからディナーを……」という状況を鑑みて、それを暈かした可能性さえある。
代わりに、鷹尚が具体的な輪郭を求めたものは「失踪した冥吏の対処」の中身である。
「つまり、彩座市に逃れた冥吏を捉え鬼郷へと引き渡すこと。それが鳴橋さんが俺に求める冥吏の対処ってことで良いんですよね?」
鳴橋は瞑目し、大きく二度頷く。
「それが、理想だね。叶うならば、彼らを説得し鬼郷へと連れ戻して欲しい」
しかしながら、あくまでそれが「希望」だと述べた鳴橋からは、連れ戻せない場合について厳しい言葉が続いた。
ギンッと見開いた鳴橋の目元は鋭く、険しく、冷たい。尤も、冷酷に徹さなければならないから、敢えて「冷酷さ」を身に纏った感は否めない。
「けれど、もしそれが叶わない場合には、彼らを抹消して貰いたい」
さらりと「抹消」という言葉を使って見せた鳴橋に、鷹尚はぞくりとした。同時に、脳裏を過ぎるものは、鳴橋が具体例を示さなかった「大きな弊害」という単語だった。くっと息を呑み、鷹尚は一旦そこで押し黙る。
尤も、要望を提示した鳴橋を前に黙ったままでいるというわけには行かない。鷹尚はテーブルの下の両手をぐぐっと強く握り締めると、こう切り返す。
「今の俺には冥吏をどうこうできる力なんてはありませんよ?」
今の自分に出来ることなんて限られている。いくら今の自分が半端者であると頭で理解しているとは言え、それを認めて曝け出すのはそれなりの覚悟が必要だったようだ。
しかしながら、苦々しい顔付きで「それは自分の対処できる範疇を超えている」といった鷹尚を前に、当の鳴橋はニコリと微笑んで見せるのだった。そうして、鷹尚のその認識が誤りであると指摘する。
「はは、取調官なんて大層な呼び名を用いているが、現の世界に置いて実のところ彼らは非常にか弱い。今回の対象となるものは、特にそうだ。それ単体では、本物の日光を浴び続けるだけで塵になってしまう程だ。それどころか、それ単体では現の世界の本物の炎に照らし出されただけで、多大なダメージを負うだろう。そう、鬼郷との行き来で現の世界に溜まる塵のように、だ。それは君が容易く対処しているだろう? 同じように対処できる」
鷹尚は一瞬、言葉を失い固まってしまった。耳を疑ったのだ。その言葉が本当ならば、確かに鷹尚は自身の認識を正さねばならなかっただろう。それと同時に、鷹尚の中には一つの強い疑問が生じもした。
「こっちの世界でそんなハンディを負うのに、彼らはこっちの世界へと失踪して来るんですか……?」
鳴橋はグラスを傾けワインを一口分飲み込んで喉を潤すと、いくつかの感情を綯い交ぜにした複雑な顔付きでその疑問に答える。
「昔は失踪だなんて言ったって、精々1〜2週間、長くたって1ヶ月程度現の世界に留まるぐらいで自らの意志できちんと鬼郷へ戻ってきたらしい。それこそ「連れ戻す」だとか「抹消する」だとかいう依頼は必要としていなかった。それもそうだろう。そっちの世界の本物に憧れがあって、それを「堪能してみたい!」ぐらいの衝動的な理由から行動を起こすのだからね」
きっと、鳴橋のその言葉には経験則が伴っていた。
やもすると、鳴橋自身、過去にそんな衝動的な理由によって現の世界へと足を踏み入れたことがあるのかも知れない。
そして、鳴橋の言葉には今の自身の立場やスタンスを踏まえた上での「失踪」に対する見解も混ざる。
「もし、一度の失踪では堪能しきれなかったり新たな憧れが生まれたとしても、また同じ手段を用いて現の世界へ渡れば良い。寧ろ「失踪」だとばれないぐらいの短期間で何度も行き来する方があらゆる点で安全な筈だ。定期的な失踪だとばれなければ万々歳だろうし、もし仮にばれていたとしてもその行動が大きな弊害を生まず、且つきちんと戻ってくるというのなら、上位管理官だってお目こぼしもする」
お目こぼし。
それを口にした当の鳴橋のスタンスは確かにその通りなのだとして、それ以外の「上位管理官」とやらも同じスタンスであるのだろうか。
不意に、そんな疑問が鷹尚の脳裏を過ぎる。
ともあれ、鳴橋の言葉は鷹尚の疑問に対して明確な答えを示さないまま、それまでに発生した過去の冥吏失踪事件が決して望ましくない結末を迎えていることへと及んだ。
「しかしながら、昨今、現の世界へと失踪している取調官は、悉く鬼郷への帰還を拒み抹消されているらしい」
「……どうして?」
「さぁ、どうしてなんだろうね。わたしもそれが知りたいと思っている」
溜息交じりに口にした鳴橋の言葉は、嘘偽りの無い本音だったろう。
尤も、率直に「分からない」と答えながらも鳴橋はそこに一つの可能性を提示して見せる。
「実のところ、冥吏の失踪事件自体は過去幾度となく発生してしていたわけだが、わたしがこの「冥吏の失踪」という件に関わるのは今回が初めてなんだ。今までは別の補佐官が決して大事にならないよう内々裏に対処していたらしい。だから、曖昧な報告書は残っていれど、正直なところ今までどのような対応が取られていたのかについての詳細までは把握できていない」
そう前置きをした後、鳴橋が提示した可能性は「望ましくない結末」へと到った経緯を疑うものである。
「報告書として上がってきている話を読む限り、追い詰められた取調官からは決まって激しい抵抗にあったと記載が為されていた。当然、今回も彼らを拘束しようとした場合に激しい抵抗に遭う可能性も考えられるのだが、わたしはそこに到る経緯がまずいんじゃないかと思っているんだ」
「……上手く説得できれば「大人しく鬼郷に戻る」という選択をする筈だと、思っているわけですか?」
鳴橋の言わんとするところは確かに分かる。
その言わんとするところを敢えて言葉に出し確認を向けた鷹尚に、鳴橋はいくつかの感情を綯い交ぜにした複雑な顔付きのままこう聞き返す。
「鷹尚君も、そうは思わないかい?」
その言葉は余りにも一足飛びに行き過ぎたと、鳴橋は思ったのかも知れない。
そこでふいっと顔に灯す表情を「白黒篝の上司として相応しい、真顔ながらどこか取っ付き易さもある」ものに整え直すと、鷹尚に聞き返す言葉をこう言い直す。
「もし、失踪したことに対する罪によって厳罰に処されないと分かっていれば、大人しく鬼郷へと戻る冥吏が大半だとは思わないかい? 勿論、さすがにお咎め無しとはいかないけれどね。けれど、私のスタンスは最初に述べた通りさ。大きな弊害を生じさせない限りは目を瞑る。厳罰はない、寛大な措置を約束する」
しっかりとそのスタンスを提示する限りに置いて、鳴橋は必ず失踪した冥吏を説得できると思っているようだ。あくまで、今までは失踪した冥吏に対してまずいアプローチを取っていたという推測を前提に置いてはいるが、現の世界で憑鬼が置かれる過酷な状態を鑑みると強ち間違いだとは言い切れないだけの説得力を持っているように感じさせる。
何より、それは鷹尚に「確かにそうかも知れない」と思わせた。
もし、それまでことの対処に当たっていた「別の補佐官」が鳴橋とは全く異なるスタンスに立って失踪した冥吏にアプローチしていたとしたら?
それこそ、こちらの世界へと失踪した冥吏に対して厳罰を以て事に当たるというスタンスだったなら?
当然、こちらの世界へと失踪した冥吏は、連れ帰されることに対して徹底的に抗うだろう。
だとするならば、ことに当たる上位管理官のスタンスが変われば、事態は大きく改善される可能性がある筈だ。
一頻り頭を捻って状況整理を試みた鷹尚は頷く。
「その可能性は、高いと思います」
自身のその「認識」に鷹尚が同調したことで、実際にそのスタンスに立って行動する役を是非とも担って貰いたいと鳴橋は思ったのだろう。ここに来て、鳴橋は単刀直入な言葉で鷹尚へと打診する。
「どうだろう、受けてはくれないかな?」
ぞくりと、鷹尚の背を一筋の冷たい汗が流れる。
決断を求められて、全身を強張らせる程の緊張感が首を擡げた瞬間だった。
「な……鳴橋さんは、こっちの世界へと失踪した憑鬼が抹消されることなく鬼郷へと連れ戻されることを望んでいるんですよね? 誰が対処していたかは解らないけれど今までのやり方にそのまま任せていたら憑鬼はこれからも抹消され続けてしまうだろうから、だから、俺達に話を持って来たってことなんですよね?」
「そうだね」
見るからに緊張感を高めてしまって、さらに思わずどもる程に揺れる鷹尚の確認を前に鳴橋はただただ簡潔に頷いた。
鷹尚の心は大きく揺らぐ。
そもそも最初の思いは、まずこの場で「話を聞いてみる」というところからスタートする手筈だったのだ。いきなり、結論を求められても答えられないというのが鷹尚の紛れもない本音だった。
しかしながら、それまでのやり方に一石を投じて変化を模索したいとする鳴橋に、同じように以室商会の現状に対して変化を模索しもやもやとしている鷹尚が共感を覚えないわけがなかった。やもすると、共感を得ようとそこまで計算した上での鳴橋の言動だったのかも知れないが、少なくともその根底にある思いに嘘偽りがあるようには見えない。
同時に、鳴橋が望むものに以室商会との関係性の深化がある。これも鷹尚の背を強く押していることは否めなかった。なぜならば、それは鷹尚が望む「緩やかに衰退しつつある以室商会の現状」を打破する特効薬の一つとなり得る可能性を秘めていたからだ。
冥吏からの依頼には旨味がないだとか何だとか、そんなことは経験の浅い、何ならただのアルバイトに過ぎない鷹尚にはまだまだ分からないことだ。しかし、だからこそまずは一歩踏み出して、それを判断できるよう勉強することが大事ではないのだろうか。
そして、そこに思いが到ると、冥吏の依頼を受けるに辺りある程度の裁量権を継鷹が鷹尚へと一任したところに行き当たるのだった。
恐らく、祖父である継鷹の目的は、鷹尚に勉強させ経験を積ませることだ。
もちろん、継鷹がこんなところまでを見越して裁量権を鷹尚に一任したとは鷹尚自身も思ってはいない。
それでも、だとするならば、これは好ましい流れではないだろうか。
一目見て「今まさに葛藤している」というのが分かる鷹尚を前にして、鳴橋はニコリと人当たりの良い笑みを覗かせた。尤も、それも一瞬のこと。鳴橋はグラスに残ったワインを口に含んで飲み干すと、すぐさま現の世界へと逃れた冥吏の説明へと移った。
そこを境に、鳴橋は如何にこの話が鷹尚でも十分対応可能かを訴求する方向に舵を切る。
まず鳴橋が触れたのは「取調官」という言葉でラベリングされた対象についての詳細だ。
「今回、現の世界に失踪した取調官は憑鬼(ひょうき)と呼ばれるもので、逃れた数は三体。鬼郷では人の魂に憑依し、人の深層の奥底へと己自身でも気付かぬ内に押し遣った悔恨や怨恨・罪悪感といった類いの感情を掘り起こし、自身の口から語らせる役割を担う。現の世界に置いては、日光の下に晒され焼かれるだけで大きなダメージを負うのが憑鬼だ。現の世界では、鬼郷でそうしているように人間に憑依することでその手のハンディを克服していると思われる」
「こっちの世界では人に無理矢理憑依して意識を乗っ取っているってことですか?」
鷹尚が口にした疑問を前に、鳴橋はすっと視線を白黒篝へと移す。
その言わんとするところを察した白黒篝は、ここに来ていつもの調子でその疑問に対する答えを口にする。
「上位憑鬼ならそれぐらいのことをやってのけても何もおかしくないんだがなー。今回、そっちに失踪した憑鬼はお世辞にも上位って範囲に括れるような連中じゃないんだなー、これが。そっちの言葉で言うと、どう取り繕ったって、地方の、片田舎で日々の業務に負われる底辺社畜ってのが精々なところだ」
てっきり鳴橋が同席する場では白黒篝もそれなりの振る舞いを見せるのかと思ったわけだが、そこまで堅苦しい組織ではないらしい。尤も、相手が鷹尚だったからこそ、ある程度気心の知れている白黒篝には敢えていつもの調子で対応させているという可能性も無いとは言えないのだが……。
ともあれ、鷹尚はその白黒篝の言い分を受けて、さらに当惑の表情を強める。
「だったら、現の世界では憑鬼の姿のままでいるってことか?」
無理矢理人に憑依するということができないのならば、憑鬼は現の世界でも鬼郷の時と同じ姿形で居る筈だと、当然鷹尚は考える。
しかしながら、白黒篝は「その認識も誤りである」とすぐさま否定を口にする。
「いや、それこそあり得ない話さー。憑鬼に取って現の世界とは、弱点が多過ぎる場所なのさー。日光以外にも数え上げれば切りが無いぐらいだ。とてもじゃないが、生身を晒せるような場所じゃあない」
無理矢理人に憑依することもままならない。かといって、鬼郷でそうあるべき姿を現の世界で晒すこともままならない。だとするならば、現の世界で鷹尚が探さなければならない憑鬼とは、一体全体どんな姿形を取っているというのか。
鷹尚はますます当惑の表情を強めた。
「だったら……、その、憑鬼っていうのは現の世界でどんな状態にあるって言うんだ?」
「さっき鳴橋様が言った通りさー。人間に憑依している状態であると思われる」
「……」
押し黙って思案顔を取る鷹尚を前に、白黒篝は冥吏、いや憑鬼に取っての「現の世界とは?」を語る。
「いくら、鬼郷っていう現を模した影の世界に身を置いているのだとしてもさ、やっぱり憑鬼に取ってそっちの世界は右も左も分からない世界なのさー。色々辻褄の合わない部分を暈かしていたり、やっぱり勝手が大きく違うところもあるわけだ。渡ってみたはいいけれど下手するとすぐに命を落とし兼ねないそっちの世界へと、何の当てもなく飛び込んでいくのはちょっと有り得ない話ってわけさー。そりゃあ憑鬼の中にもどうしようもない無鉄砲な阿呆の一つや二つも居るは居るだろうけど、少なくとも憑依先の目処ぐらいは付けてからそっちに乗り込む筈だぜ」
その語りの中で、白黒篝は現の世界での「憑依先の目処」について言及した。
しかしながら、鷹尚の頭の上をぐるぐるとついて回る疑問符は大きくなるばかりだった。白黒篝の説明が全く以て一つの線で結ばれないのだから、それもやむを得ないのだろう。
思案顔の鷹尚はとうとう腕を組んで小さく唸る。もちろん、唸ったからといって正答は愚か答えらしきものに自力で辿り着けるわけでもない。その説明を踏まえて生じた新たな疑問を、白黒篝へとぶつけることになる。
「憑鬼ってのは、鬼郷の世界の住人なんだから、当然現の世界と直接的な接点なんて持ってないんだろ? そんなのが現の世界に憑依先の目処を付けるなんて可能なのか? それとも、白黒篝みたいに何らかの用事があって、現の世界を訪れることがある……?」
白黒篝は、そうやって鷹尚が思考をフル回転させてああだこうだと状況整理をする様を見ているのが楽しいのかも知れない。ニィと口元に笑みを灯して見せつつ口を噤む様は「簡単に答えを言ってしまっては面白くない」と言わんばかりだ。
尤も、鷹尚から真剣な目付きでじっと見据えられてしまえば、口を噤んだままでは居られない。
すると、白黒篝は大きく両手を広げると、ヒントを出し渋ってのらりくらりとするクイズ番組の意地の悪い司会者みたいな顔する。
「じゃあ、一つ簡単ななぞなぞを出そう。現と鬼郷との間を行ったり来たりするものなーんだ?」
「はぁ?」
それは鷹尚に取って思いも寄らない展開だったようだ。思わず、眉間に皺を寄せて怪訝な顔付きでピタッと固まる。今の今までフル回転していた思考も、ピタリと停止したことだろう。
そして、そんな鷹尚に代わって、それまで黙って二人のやりとりを眺めていたトラキチが横から口を挟む。
「その答え、以室商会じゃないのか? あぁ、いや、……というか、商売人全般、だな」
トラキチが導き出した答えに、今度は白黒篝がピタリと顔を引き攣らせて固まる番だった。
白黒篝に取って、それはかなり想像の斜め上を行く回答だったらしい。
次の瞬間、白黒篝はがくっと肩を落とす仕草を合間に挟み、トラキチ相手に「それはあってはならないこと」だと言う。冥吏に取っては、以室商会がその気になればやってやれないことではない辺りが特に洒落になっていない部分だろうか。
「トラキチ君、そりゃあ途轍もなく特殊な例だぜー。そんでもって、もしそれが正解だとすると、冥吏の失踪事件に以室商会が一枚噛んでいた……なんて話になる。それこそ大事だぜー、やばいぜー、そんなんは止めてくれよー、マジで。以室商会以外の商売人が関与していたってなった場合も、……考えたくもねぇよ。大事件だよ、大事件!」
「はは、そっか。そう言われれば、それもそうだな。冥吏に取って一から現の世界との付き合い方を見直さなきゃならない話になるもんな!」
トラキチは、特に深く考えることなくその発言に到ったのだろう。
それが如何に大問題になるかを力説する白黒篝を前にして、あっけらかんと「それは大問題だ」と認識を改めた。
尤も、そんな具合にトラキチが的外れではありながらもそれが可能なパターンの一例を提示したことで、鷹尚の思考能力も急速に柔軟さを取り戻す。
「一度鬼郷に足を踏み入れて現に戻ってくる。つまり、一度死に掛けたけど、持ち直した人か」
「おぉ、正解。さすが鷹尚だ。まー、他にも事故や病気で眠り続けていて、肉体と魂とのリンクが希薄な状態に陥っている奴とかなー。極度のストレスなんかに晒されて、心の底から「死にたい」と願ったりしていて心身のバランスを崩しちゃったりしていても、ふらふらーっと鬼郷まで辿り着いちゃったりすることもあるぜ。後は、極稀に肉体と魂とのリンクが先天的に希薄な奴とかもいて、全くの健康体なのに鬼郷へ来ちゃったりする奴も居たりする」
白黒篝が挙げる例を聞く限り、当初鷹尚が想像したよりも鬼郷で憑鬼と接触した人間は多そうだ。そうなってくると、懸念は憑鬼に憑依された可能性のある人間が多岐に渡ることへと移る。
しかしながら、それを鷹尚が口にするよりも早く、鳴橋は既にその懸念の対処に当たっているという。
「まだ完全に洗えてはいないのだが、今まさに対象となる憑鬼と鬼郷で接触し現の世界へと戻った人間をリストアップしているところだ。そちらの時間で今日明日中には完了し報告できる形で私の手元に上がってくるだろう。流れとしては、そのリストが上がってきて始めて正式な依頼を掛けるという状態に進む手筈だったわけだ」
手筈だったという言葉に、改めてこれが鷹尚、延いては以室商会との関係性を深化させるべく鳴橋が特別に設けた一席であることを再認識せざるを得ない。
鳴橋にそれを強調する意図があったかどうかはともかく、少なくとも鷹尚はそれを強く意識していた。
そこに至って見るからに緊張でぎこちなさをまとう鷹尚を前に、鳴橋が小首を傾げて問う。
「さて、最終確認といこうか。私は佐治鷹尚君に、是非とも現の世界に逃れた憑鬼の対処をやって欲しいと思っている。どうだろう、受けてはくれないか?」
恐らく、この場で態度を保留し「正式な依頼が公示されてから」となってしまえば、鷹尚がそれを勝ち取る目は限りなく低くなってしまうのだろう。依頼に対して同業者といった類いの多くのものが手を挙げるような状況下になってしまえば、全く実績を持たない鷹尚が不利な立場に追いやられるのは火を見るよりも明らかだ。
やもすると、件の他の補佐官とやらがそれまで通りのやりかたを推して、それまで対応を依頼していた業者の名前を挙げてくるかも知れない。
いくら鳴橋が補佐官として冥吏の中で相応の権力を行使できるのだとしても、できればそんな状況になる前に「鷹尚を依頼の受託主にねじ込んでしまいたい」と考えるのは必然だろう。経緯はともかく「もう決定した」と既成事実化してしまえば、それを覆すのには相応の理由が必要となってくる。
そこを覆すに足る理由として考えられるのは「全く実績を持たない」ことだろうが、そういう意味では「塵を散らす」という作業に従事していて失踪事件と全く無関係でないというのは大きな強みだったろう。さらに言えば、白黒篝と良好な関係を築いているというのも大きな強みだったろう。
きっと鳴橋は、それらを上手いこと受託主として選んだ理由に仕立ててあげ、ねじ込む筈だ。「将来的に関係を育んでいきたいと考えている相手で、業務遂行能力を測る適当な案件を割り当てた」とか何とか、どうとでも理由なんてものは後付けできてしまう。
ともあれ、鳴橋から確認を向けられた鷹尚は、それでもなお一度逡巡するかのような仕草を合間に挟んだ。この場で、その決断を下すことにまだ抵抗感を感じていたのかも知れない。尤も、ここが分水嶺だというのも分からないわけではなかった。
鷹尚はくっと歯を噛合わせる。
変化を望むのならば、決断し行動しなければならない。
腹を、括る必要がある。
鷹尚は鳴橋の目をマジマジと見返すと、力強く頷いた。
「分かりました。やります」
力の籠もった鷹尚の決断を前に、鳴橋は優しく破顔する。
「うん、ありがとう。鷹尚君ならば、そういって貰えると思ったよ」
そうして、話が一段落まとまったところで、まるでそれを見計らっていたかのようにキャスター付きのステンレス製ワゴンを押した片倉が再び姿を見せる。ワゴンにはサラダがなみなみと盛られた平皿と、乳白色をした陶器製のドレッシングポットが四つ載っており、ここから先はディナーを交えた会話の時間へと切り替わることを予感させた。
片倉は、鷹尚・トラキチと鳴橋・白黒篝との間に流れる空気が良好なものであることをさっくりと感じ取ったようだ。尤も、当の鳴橋がにこやかな顔付きで、且つまとう雰囲気に微塵もピリピリとした緊張感といった類いのものを混ぜていないのだから、それは容易に察することのできるものであったとも言える。
「会談は好ましい形で決着したようだね? 後に控えるディナーを出す身として言わせて貰えるのならば、本当に良かった。やっぱり料理を楽しみ味わって貰って、笑顔で帰っていただきたいからね、料理人としては! どんなに「今日は絶好調で、これ以上はない匙加減の味付けができた」と思える調理を行えたとしても、食事をする側の人間のコンディションが酷い状態であれば、やっぱり味を楽しむもへったくれもないものだよ」
カラカラと笑いながら片倉は、手慣れた手付きで配膳を始める。ウエイターやウエイトレスといったサポート役はおらず、料理から配膳まで一貫して片倉一人で対応してくれるらしい。
鷹尚の前に置かれる平皿に盛られたサラダの内容は、非常にオーソドックスだった。ミニトマトにスライスされたオニオン、千切りの人参、一口サイズのキャベツ・レタスといったところが並び、変わり種と言えば一口サイズの小粒のじゃがいもが皮も剥かれていないそのままの形を残した状態で載せられていることぐらいだろうか。
平皿の端に置かれたじゃがいもをマジマジと注視する鷹尚を、片倉は目敏く見付ける。
「そのじゃがいもは霞咲の山岳地帯で品種改良されている地産のものなんだ。型崩れしないように蒸していくと中身のホクホク具合が絶妙で、しかもさつまいものようなしっかりとした甘さを持つ。皮ごと食べられるからドレッシングを掛けて貰っても良いし、そのままパクッと行っちゃって貰っても構わないよ」
そんに具合に片倉が料理に対する説明を加える傍ら、同時に鳴橋からは先程言及したリストの件についての補足なんてものかせ口を突いて出る。
「リストは私の元へと上がって来次第、鷹尚君の手に渡るように手配しておくよ」
片倉という存在がいる場で何らそれを気にする様子一つ見せないことに、鷹尚は正直ぎょっとしたのだが場に居合わせる白黒篝も慌てる様子一つ見せることはなかった。即ち、この片倉という料理人に冥吏失踪事件の事情をいくらか知られても「問題はない」という認識なのだろう。
そうであるならば、鷹尚が余計な気を揉んで口を噤む理由はない。
「その場合は、白黒篝から受け取る形になるわけですか?」
「言い忘れていたが、鷹尚君が失踪事件の対処に当たってくれている間はこの白黒篝を連絡・相談役としてここ旧・中坂邸に配置することにする。ここでは……」
リストの受渡しについて確認する鷹尚に対し、鳴橋はひとまずその明言を避けた。尤も、明言を避けたところにその代わりと言わんばかりに出てきた新情報は、鷹尚は元より当の白黒篝に取っても全くの初耳だったらしい。
鳴橋の言葉が言下の内に、白黒篝が素っ頓狂な声を上げる。
「え? そうなんすか!?」
動揺を隠さない白黒篝の不満混じりの声を、鳴橋は華麗にスルーし「リストの受渡し」へと言及する。
「重要な連絡・伝達事項などある場合、ここ旧・中坂邸で行うことになる。また、首尾良く鷹尚君が憑鬼を捕獲し、引渡しをする場合も同様だ。ここでなら、現の世界、鬼郷のどちらに対しても影響を最小限にできる。白黒篝で対処できない場合は、計香君がことに当たる場合もあるかも知れないが、……何にせよ、旧・中坂邸で全てを完結させるつもりだと思ってくれて良い」
リストの受渡しは元より冥吏失踪事件に関することは、白黒篝ないし先程の眼鏡の美人のどちらかがことに当たるということだった。
視線をずらし鳴橋が執務をこなしていたテーブルへと目を向けるも、そこには既に眼鏡の美人こと「計香」の姿はなかった。そして、少なくとも鷹尚が視線を走らせて確認できる範囲に、計香が控えているということもないようだった。
鳴橋の段取りの良さを踏まえると、ここで計香の自己紹介なり何なりが間に入っても何ら不思議ではない。にも関わらず、その流れにならなかったということは、鳴橋は鷹尚が依頼を断る可能性についても一応視野に入れていたと言うことなのだろう。
鷹尚が計香の姿を探して室内へと視線を彷徨わせていたところで、鳴橋が恐る恐るという風に鳴橋に発言を求める。
「あー……、ちょっといいっすか、鳴橋様? 俺がここに配置されてる間、その、俺がやるべきだった仕事は?」
白黒篝の質問を前にして、鳴橋は冷たく切り返す。
「何を言っているんだ? ここ旧・中坂邸で引き続き自分の仕事に当たるに決まっているだろう?」
「そっすかー。いやー、まぁ、そっすよねー……」
がっくりと肩を落として見せる白黒篝の様子から察するに、そこには様々な不都合や不便が生じるのだろう。
しかしながら、がくっと肩を落として筈の白黒篝がその傍らで不意に喜ぶような仕草を見せたことを鷹尚は見逃さない。いいや、それを見逃さなかったのは鷹尚だけではなかった。冷たく切り返した当の鳴橋も、だ。
その上で、鳴橋は瞬時に白黒篝が内心「それはそれで好都合かも」とガッツポーズした理由をあっさり見抜く。
「立場上一応釘を刺しておくが、いつでもアクセスできるようになるからと言って不用意に現の世界を彷徨くようなことはするなよ。もちろん、業務外の時間になっても四上宿本町内の酒屋に本物の酒を仕入れに行くのも駄目だ」
鳴橋からの注意は、まさに的を射たものだったのだろう。
分かり易く、白黒篝は再び死んだ魚のような濁った目に転じ、垂直降下に等しいテンションの下落を見せる。そうして、満足に体裁を整えられていない酷い空笑いに、張り付いた笑顔で、口先だけでの了解の意を示す。
「はは、それぐらいは解ってますってさー。そのぐらいの分別は持ってますよー、嫌だなー、鳴橋様」
そんな白黒篝からささっと視線を外すと、鳴橋は口元に笑みを作って鷹尚へと向き直る。
「さて、ここから先は、堅苦しい仕事の話は一旦脇に置いておこうじゃないか。せっかくの素晴らしいディナーの時間だ。素晴らしい料理に舌鼓を打ちながら楽しい歓談の時間と洒落込もう」
その鳴橋の言葉が合図だったとでも言わんばかりに、右奥の部屋の扉が開くと室内に馨しい香りが流れ込んでくる。
続いてジュウゥゥ……と肉の焼ける音を響かせながら、金属製のプレートに載せられたステーキが運ばれてきた。
量は一人前にして200〜250グラムぐらいはあるだろう。
それまでは空腹という空腹を感じていなかった鷹尚とトラキチだったのだが、そこを境に自然と口の中に唾が広がるのを自覚することとなった。