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Seen21 応急処置と恒久対策


 遙佳・神河・星の家の三者の協力の元、招現寺へと通じる穴に蓋をしたことで、当面の安全は確保されたかと思いきや、その「安全」は薄氷の上に築かれたものだった。
 第三種特別例外実行権限なんてものを利用して無理矢理走らせる形となった新生コードは、緑苑平の起脈石に取ってかなりのダメージになったらしい。あの後、啓名は緑苑平フォレストコンコースに展開したRFを、招現寺へと続く大穴を含めた起脈石周辺のみの範囲へと縮小させる作業に追われた。
 そういうのも、一段落から10分と経たない内に、起脈石が悲鳴を挙げ始めたからだ。
 側面に真っ赤に発行する記号群を表示させ、如何にもやばげな警告音を発し始めると、脱力した啓名は早々に気を入れ直す羽目になった形だ。
 RFを縮小するに当たって、黒蝗を殲滅できたかどうかが疑わしかったのだが背に腹は代えられなかった。起脈石が機能を停止し、招現寺へと続く大穴に設けた障壁まで瓦解してしまっては元も子もないからだ。
 正直な話をすれば、寧ろRFを一時的に拡大し、それこそ緑苑平フォレストコンコースの全域を範囲内に収め、白の火の影響をばらまくぐらいが望ましかったのだが、RFの維持ができるかどうかの瀬戸際にあるという状況下でそんなことを言い出せるものなどいなかったのだ。
 結論から言うと、白の火の影響を広範囲に、且つ高濃度でばら撒き続けるということが、今の起脈石ではできないらしい。白の火によって、起脈石そのものもダメージを負うという、萌の懸念が実際のものとなったわけだ。
 その対策案が、濃度を維持し蓋の役割に耐え得る障壁を展開し続けるために、RFの範囲を大幅に縮小するというものだった。
 結局、起脈石で蓋となる障壁を生成してから、約30分に渡り啓名はRFの縮小作業と、エラーを吐き続ける起脈のパッチ宛作業に追われた。
 それでもどうにか破綻することなく、起脈を維持しつつRFを縮小させたのは、偏に啓名の成せる技だったろう。
 RFを縮小させるに当たり、黒蝗や普賢の対応に変わってバックス・レーテ手動で行われたのは、穴の出現地を中心に立入禁止措置を広範囲に敷くことだった。RFの影響力が低下、ないし無力化されることで、一般人の往来を規制できなくなるためだ。万が一、その状態で、RFが完全に破綻し、招現寺へと続く穴が再び開放された日には目も当てられない事態となるからだ。
 黄色地に黒でKEEP OUTの印字が為されたテープを近隣地域に貼って、立入禁止区域を作っていく作業はRF縮小化の目処が付くギリギリまで行われる形となった。
 ともあれ、そうやって一通り啓名の作業の目処がついたところで、バックスが人数分の缶コーヒーを差し入れしてくれる。
「悪かったな。啓名の目論見が外れ、最後の最後がこんな形になっちまって」
 バックスとしてもここが崩れたら全てが台無しになるという場面で、啓名が目論見を外し掛けたことは心底申し訳なく思っているようだ。何せ、普賢と赤鬼、そして黒蝗の対応で死力を尽くした後になって、人海戦術で「KEEP OUT」の印字が入ったテープを広範囲に張り巡らせるという作業に至ったのだ。
 対する正威は、差し出された缶コーヒーを受け取るとさすがに疲れ果てたと言わんばかりの声で答える。
「その結果として、蓋として機能する障壁がきちんと維持されてくれるなら何も言うことはないよ」
「そのラインは、多分保たれた筈だ。もし、そこも駄目だとなっているなら、今頃啓名は離脱のための方策を全力で展開してるさ」
 バックスの認識は「踏み止まった」というものだったが、その実、起脈がどんな状態にあるかは啓名のもぞ知るという状態だ。且つ、仮に「踏み止まった」とはいっても、それが長期間に渡って蓋として機能するレベルを維持しているかどうかという問題もある。
 一段落付いたなら付いたで、やはりそこのところを啓名が説明する必要があったことは間違いない。
 程度の差こそあれ、正威・萌の両者からそれとなく疑惑の視線を向けられ、バックスは苦笑する。すると、缶コーヒーを萌に向けて放り、啓名の元へと足を進めた。
 一方の啓名は、まだ起脈石の側面へと定期的に次々と浮かび上がる記号群を真剣な顔付きで眺めていた。その様子は、些細な破綻の予兆も見逃さないと言わんばかりだ。
 そんな啓名に向けて、まずバックスが向けた話題はいつの間にか姿を消したレーテの行方についてだった。
「レーテの姿が見えないが、どこ行ったんだ?」
「レーテなら大台公園下の休憩場に向かったわ。「啓名にこれ以上無理をさせられない」とか何とか言っていたから、ここに青柳(あおやなぎ)君あたりを連れてくるつもりなんじゃないかしら」
 レーテの行き先を聞き、バックスはこれみよがしに顔を顰める。
「ああ、そうか。代わりに今後の起脈関連の作業をさせようって腹か。多少距離が離れていたからと言って、あっちもあっちで無傷ではねぇんだけどな」
 バックスの口振りは、例え普賢の呪詛の影響がなくなったからと言って、件の青柳が安易に啓名を手伝えるレベルまでは回復しないだろうことを如実に物語っていた。
 現に、遙佳達が緑苑平フォレストコースで始めてバックスと対面した時に、バックスに背負われ通路脇に寝かせられた星の家の構成員は一向に回復する気配を見せていない。
「……大丈夫なの? 命に別状はないのよね?」
 心配そうに尋ねる啓名に対し、基本何処か軽薄さを滲ませる嫌いのあるさしものバックスも真剣な表情で答える。
「恐らくな。ただ、呪詛のダメージが誰よりも早く表面化して、最初に意識が混濁したのが青柳だ。短時間であの状態から回復しているとは思えないが……」
 すぐさま起脈維持の件を確認すると思いきや、バックスと啓名の会話が「身内の安否について」へと逸れ始めたことで、間髪入れずに萌が声を上げてそこに状況確認を挟み込む。この流れで「実は……」とでもなったら、それこそ目も当てられない。
「起脈は大丈夫なの?」
 その口調には、さっきのような事態が「再び発生することはないんでしょうね?」と、強く非難を向ける色が滲んだ。言ってしまえば、萌の頭には「ぶっつけ本番を強行したからこうなった」という思いが少なからずあったのだろう。
 ともあれ、起脈の対処に追われ青い顔をしていた時から一転、啓名は自信満々に胸を張って答える。
「えぇ、取りあえず、当面白の火を混ぜた障壁を維持し続けることについては何も問題ないわ」
 しかしながら、啓名の口からは「当面」なんて単語が吐いて出るから、そこに対する萌の口調は穏やかでない。
「当面って、いずれは駄目になるってこと? ちょっと待って! それはどの程度の期間を指したものなの?」
「起脈によって展開した障壁は、そもそも恒久対策として使用できるようなものじゃないわ。何一つ正式な手段を踏んでいない暫定のものだし、維持できる期間としてはパッチ宛てパッチ宛てで引き延ばしても2週間ぐらいが限度でしょうね。だから、これはあくまで応急処置だと思って貰いたいわ。さらに言えば、白の火でダメージを受ける起脈石自体も、交換をしないと2週間程度でガタが来る状態にあるわ」
 その一方で、維持可能な期間を問われた啓名に心配や焦りの色は皆無だった。従って、具体的に述べた「2週間」という維持可能期間についても、かなり余裕を見た数値なのだろう。そして「当面」という単語に対して「2週間」は、啓名に取って何ら「不足ない」認識でもあるようだった。
 白の火の影響を混ぜた障壁が2週間程度で駄目になると説明されてしまれば、話は自然と今後についてのものへと切り替わる。
 ただでさえ穏やかでなかった雰囲気をより刺々しいものへと変え、萌は牽制するかのように啓名へとこの後の星の家の立ち居振る舞いについて問い掛ける。
「まさか、この後に及んで起脈で招現寺へと通じる穴の恒久的な封印を施したいなんて、宣うつもりはないんでしょうね?」
 迫力を伴う牽制を向けられ怯む様子の一つでも見せるかと思いきや、啓名はただただ力ない笑みを灯すだけだった。
 啓名のその反応は、萌の想定から大きく外れる内容だったのだろう。萌はやや当惑した様子を隠さい。
「星の家がどういうつもりなのかは分からないけど、悪いことは言わない。神河に後の対応を一任しなさい」
 それでもきっぱりと啓名へと要求を向ける萌の対応には、手慣れた感が漂いもした。
 敢えて、萌に対する啓名が醸す雰囲気を言葉にするのならば、それは「諦め」だったろうか。後の処理についても、当然、できることならば星の家が対応すると主張したい。しかしながら、到底それを口にできる状態ではないことを嫌と言うほど理解しているからこそ、そこに色濃く滲むもの……といったところだろうか。
「そう要求されると、思ったわ」
 啓名はそこで一旦言葉を区切ると、起脈石へと向き直る。そして、起脈の破綻寸前まで行ったボロボロの起脈石をまざまざと流し見ると、恒久対策を星の家が行うにはいくつも片付けなければならない課題があることに触れる。
「要(かなめ)となる主窪主様も、このまま済し崩し的に起脈システムへと取り込まれてくれはしないでしょう。それに、仮に主窪主様が首を立てに振ってくれるとしても、長期間に渡って白の火の影響に耐え得るよう起脈石を改良して作り上げなければならない上に、どんな改良を施せばそれが達成できるのかの道筋すら立てられてはいないわ」
 つらつらと並べ立てたその課題群は、起脈を擁する啓名の敗北宣言に等しい。
 今の星の家では恒久対策が叶わないことを述べて、啓名は神河に対し今後の対応についてこう提案を向ける。
「差し当たって、当面は星の家が招現寺へと続く穴を塞いだ障壁の維持について責任を持ちます。近日中に引き継ぎをしましょう。わたし達、星の家は霞咲から手を引きます。この案件については久和一門に任せる。……どう?」
 今の星の家には手に負えない旨を白状し、恒久対策を久和に委ねようとする啓名の判断にバックスが「待った」を掛けることも、不服と言った表情や態度を覗かせることもなかった。少なくとも、起脈関係のことについては、啓名に一任しているといった風を醸す。
 対する萌は、まず正威の様子を窺った。さすがに自身の一存では決定できない案件のようだ。
 そして、その判断を問う萌の目は、遙佳にも向く。
 よもや、星の家の起脈を支持はしないだろうが、神河への一任という選択肢以外のものを提示しないとも限らないからだ。手を取り合っているとは言え、一応、遙佳は第三勢力としてこの場にいるのだ。
 正威は正威で色々と思うところがあったようだが、それでも啓名が「霞咲から手を引く」と明言したことでそれを良しとした嫌いがあった。
 それでも、正威が頷き啓名の提案受入に「GO」を出せば、神河と啓名の視線は自然と遙佳に向いた。
 ここに来て自分に視線が集まることに、遙佳ははやや困惑した面持ちを見せる。
「えっと、……もうこの恒久対策とかいった辺りの話は、あたしがどうこう言えるような案件じゃないよ。こんな事態が二度と発生しないようにきちんと対応してくれるならば、あたしはそれがどんな方法でも良い。神河が責任持ってやってくれると言うなら、あたしが反対する理由なんかない」
 大凡、遙佳は第三勢力らしからぬ発言をして、その対応を神河に一任した。少なくとも、そこに自分達が勢力を拡大して、地盤を揺るぎないものにしたいだとか言った裏はないらしい。即ち、徹頭徹尾、遙佳は未来視の実現を阻むために行動していたということだろう。
 そんな遙佳のスタンスを、表立ってどうこう追求しないながら、正威は強く訝る。遙佳個人は慈善事業のつもりでそれを行っているのかも知れないが、やはりそうすることで遙佳の属する組織が、遙佳という個人の背後に隠れながら何らかの下地を整えているように感じられてしまうのかも知れない。
 ともあれ、遙佳が恒久対策を神河に一任するというスタンスを定めたことで、萌は啓名の提案を受ける旨答える。
「オーケー。恒久対策については、神河が受け持つでいいよ」
 すると、提案を受ける旨、萌から回答を得た後になって、バックスが啓名に耳打ちをする。
「良いのか? 手を引くなんて宣っちまって」
「白の火絡みのことも含めて神河の協力がなかったら、わたし達はここで全滅してもおかしくなかった。挙げ句、北霞咲に致命的な被害を及ぼし兼ねないところまで行ったわ。櫨馬でやったようには起脈の敷設をしていけないということよ。今の起脈石では扱いきれない範囲の力があることも分かった。色々と仕切り直しが必要だわ」
 尤も、その耳打ちはばっちり神河にも聞こえる声量だった。だから、それは内緒話をするという体を取りながら、霞咲から手を引くことに対する星の家のスタンスや内情をオープンにする意図があったのだろう。
 現に啓名は生真面目に「手を引かざるを得ない状況」をつらつらと説明したのだが、そこに対するバックスは「そうは言っても……」といった星の家の拙さを全面的に吐き出す。
「俺達はそれをこの身を以て理解した。……が、星の家の他の連中が警告やら忠告やらに、素直に従うとは思えないがな。啓名はまだ知らないだろうが、長束町(ながつかちょう)に通じる櫨馬の山中で、あれだけ警告されたのにまたやらかした馬鹿が居るぜ」
 長束町という単語がバックスの口を突いて出た辺りから、啓名の表情は引き攣り、そこには強い呆れが混じった。
 それは統制の取れない星の家の内情を示すまたとない具体例だったのだろう。
 そして、統制を取り切れない星の家内部の他勢力が、霞咲へと再び「食指を伸ばし兼ねない」といった現状を匂わせたことで、啓名の宣言の信憑性が揺らいだ瞬間でもあった。啓名はハッと我に返ると、相手に聞こえる声量でやりとりしていたその内緒話についての弁解を慌てて口にする。
 手を引くと言った手前、その舌の根も乾かぬ内に「実は同じ星の家の別勢力が霞咲に食指を伸ばすかも知れない」内情は、さすがに開き直るというわけにも行かなかったようだ。まして、手を引くといったのは星の家の中でも、狡が不得手な啓名である。
 啓名は神河相手に強く訴え掛けるように理解を求める。
「今回、星の家が引き起こした騒動を上層部へ報告し、あたし達からは霞咲への起脈敷設計画を見送るよう提言するわ。何よりも、今の起脈ではコントロールできない「白の火」というエネルギーがあって、霞咲ではそれを「コントロールしなければ、新たな騒動を引き起こし兼ねない」という事実は、星の家に取って起脈敷設を一時的に停止するに足る理由として十分過ぎるものになる。まして、今回それができなかったことで、星の家のメンバーが被害を受けているのだから、これは必ず改善しなければならないこととして周知される筈。でも、さっきバックスが言ったように……」
 そこではっきり「統制する」と言い切れず、言い訳めいたことをつらつらと続ける辺りが啓名の馬鹿正直な良い面でも悪い面でもあっただろう。そうして、さらに言うならば「統制するよう努力する」とさえ言い切れない辺りが「弱さ」でありネゴシエーターとして徹底的に駄目な面だった。
 萌はふるふると首を左右に振りながら、啓名の言葉が現下の内に口を切る。
「啓名ちゃん達が一枚岩じゃないのは解ってる。けど、そこはどうにか頑張って欲しいね。こっちは星の家の行動を、分かってやっているものなのか。それとも、統制が取り切れていない連中の暴走なのかを区別する方法がないもの」
 言い訳めいたことをつらつらと述べる体で弱音を吐く啓名を前に、萌の腹はいつかの時のように「統制する」と言い切らせることだったろう。
 それが実際にできるかどうかはともかく、啓名にそれを発言させて言質を取ることに意味がある。そう言わせてしまえば、後々「統制」を達成できないことを盾に啓名をネチネチと攻め立てることができるからだ。もし仮に、啓名が追い込まれて開き直るのだとしても、そこから再交渉するにしろ衝突するにしろ、それを盾に神河は有利な立場を確保できる。
 怯む啓名の様子を前にして、さらに攻勢を掛けるならここしかないという機会を得る。萌が一気呵成にいざ捲し立てようとした寸でのところで、バックスが割って入って来る。
「牽制はする。警告もする。……が、こればっかりはアルフ以上にネジのぶっ飛んだ連中も居れば、俺達の言い分なんてまるで聞かない連中も居る。利害が必ずしも一致しているわけじゃない連中も居る。制御できない面があるんだ。星の家を統制し、制御できるとは言えない。悪いが、ここは分かって欲しい」
 それは絶妙の助け舟。
 やはり、ことこの手の立ち回りに関して言えば、啓名とバックスは互いを補完し合うことのできる良いコンビだった。
 バックスは押し黙る啓名を尻目に不敵な態度を強めると、悪びれる様子一つ見せることなく気炎を上げる。
「まぁ、そんな連中が霞咲をどうこうしようなんて企てた時には、遠慮は要らねえよ。完膚なきまでに叩き潰してやってくれ。それこそ、叩き潰されたからと言って、俺達が苦情やら報復やら宣うようなことはねぇよ」
 牽制し警告し、それでもバックス達から発せられたシグナルを無視して霞咲へと食指を伸ばさんとするものは「仲間ではない」というわけだ。
 そして、霞咲に食指を伸ばす星の家の別勢力は「構わず叩き潰して良い」とお墨付きを貰えば、そこに返す萌の言動など決まりきっていた。当然のように「ならばそうする」と相成る。
「そう。だったら、その時は遠慮なくやらせて貰うわ」
「ああ、そうしてくれ。どうせ、その時には、口で言っても分かんねぇような連中が仕出かしてる筈だ。俺達が神河相手に文句を言える立場じゃねぇさ」
 統制を取り切れない部分をそう切って捨てるバックスだったが、対する萌はそこで「だったら、ここで釘を刺しておかねばならない」と言わないばかりに話を切り替え、抜け目なく一つの可能性について言及する。
「後もう一つ、言って置かなきゃならないことがあるかな。もしも再び霞咲へ星の家が起脈を構築するべく進入して来たとして、その中に啓名ちゃん達の顔を見付けた時には容赦なんて一切しないから覚悟しなさい」
 それは「統制が取れない」といった状況を隠れ蓑にして、啓名やその息の掛かった星の家の構成員が起脈敷設を目論み暗躍することについて言及したものだ。
 啓名には、白の火の影響に耐えるべく起脈石を改良する意志がある。そして、もしも、主窪主に頼ることなく白の火を入手できたとしたら、……どうだろうか?
 霞咲で星の家が改善しなければならないと強く痛感したことはそれだけではないだろうが、条件さえ整えば再び起脈敷設計画を再始動する野望を持っていると見て間違いない。仮に啓名にはそのつもりがないとしても、啓名が属する「星の家」という組織体が黙っているかといえば、……そんなことはないだろう。
 啓名の進言を聞き、起脈敷設計画から霞咲を諦めるなんてことが有り得るのだろうか?
 萌に睨み据えられて、啓名は顔を顰めて押し黙った。気圧されまいとしているのだろうが、萌にガンを飛ばされて強張った瞬間に勝敗は決していたと言って良いのだろう。
 一方で、啓名とは対象的に不敵な態度を強めるバックスはさすがの振る舞いだった。
「ああ、もちろんだとも。今回のような事態を引き起こさないよう起脈を整え対策を打った上で、且つ、今回の対話を踏まえて、それでもなお、俺達が霞咲へ起脈を構築するべく進入する時には、覚悟の上だ。遠慮なんてくれてやる必要はないさ」
 バックスは再び霞咲へと食指を伸ばす可能性を一切隠さず否定しない。いいや、それは星の家に取って必要なことだから、再びその時が必ず訪れるとでも確信しているかのようだ。
 やもすると、バックスは「なぜ起脈を敷設しているのか?」「しなければならないのか?」の問いに答えられるのかも知れない。答えを知っていたからと言って馬鹿正直に答えるとは限らないし、適当にのらりくらりとはぐらかすかも知れないのだが……。
 ともあれ、バックスは再度霞咲に食指を伸ばす時には、それをフェアーにやるとまで宣う。
「まぁ、何だ。その時にはきちんと「仕掛ける」って宣言してから行動するぜ。それだけは約束する。不意打ちなんてくだらねぇ真似はしねぇよ」
 それはバックス「らしい」言葉だった。そして「ああ、こいつならそうするんだろう」と思わせるだけの説得力を伴うから質が悪い。
 約束するとまでいったバックスを前にして、萌はやや当惑の色を混ぜながらもさらに念押しをするという対応を取る。
「バックスの影響下にある星の家の面々だけでも、約束を違える時には宣言してから行動してくれるって言うなら随分助かるよ。それは、バックスが保証してくれると思って良いんだよね?」
 それがどれだけの効力を持つかと言えば、実際にはただの口約束に過ぎないのだから強制力はないに等しい。
 だから、それはあくまでただの「信用」の話となる。しかしながら、これまでの立ち居振る舞いを見た上では、バックスが全く信用できない相手かというとそんなことはない。恐らく、自身の影響が及ぶ範囲に関しては、それを通達し統率して見せるのだろう。……いや、統率する努力をし、統率に向けた動きを取ると言い換えた方が適当だろうか。
「ああ、もちろんだ。俺や啓名の影響下にある星の家の面々が、もしも約束を違える際には必ずそう宣言してから行動する」
 当然ながら100%確実だと言い切れないことをそう言い切ってしまうところが、バックスの良い面であり、また悪い面だった。そして、ことこういった交渉ごとに関して、啓名とは役者が違う部分だ。
 突然、自身の名前が会話の俎上に上がったことに、啓名は動揺を隠さない。
 尤も、啓名が何らかの反応を返すよりも早く、萌は再度強い口調で念押しに掛かる。
「その言葉、忘れないからね? 宣言したからにはきちんと宣言したなりの責任を持ってよ?」
「さっきも言ったが、久和一門、惹いては神河相手に、不意打ちなんてそんな下らねぇ真似はしねぇよ。なぁ、啓名?」
 相変わらず動揺の色を混ぜる啓名は、そんなバックスのその立ち居振る舞いを前にして完全に呆気に取られた風だ。そこに、さらに「同意を求める」なんて真似をされるのだから、啓名も堪ったものではない。
 あたふたとするそんな啓名の様子を尻目に、萌はふいっと踵を返す。それ以上、念押しをしても詮無いことであるし、それ以上会話を重ねても無意味だと思ったのだろう。
 自身に背を向け、神河サイドで必要となる今後の対応についての話し合いを始めるのだろう正威と萌の二人を、バックスはカラカラと笑いながら見送る。楽しいやり取りを心底堪能したとでもいわんばかりの、その上機嫌さは、啓名に取っては心底信じられないものだったかも知れない。
 それでも、萌のプレッシャーから開放されたことで、啓名も一つ深い安堵の息を吐いた。尤も、一息吐いたのも束の間のことだ。すぐにその表情は、疲労混じりの浮かない顔付きへと変化していく。それは次第に小難しい顔付きへと変わっていき、憮然としたものになる。
 恐らくは、後始末に頭を悩ませているのだろう啓名は、最終的に眉間に皺を寄せて瞑目し、腕組みをしたまま微動だにしないという酷い有様となった。
 時折、唸り、また苦悩する様子を隠そうともしない啓名を前にして、バックスもどんな言葉を向けるべきか迷ったようだ。
 まして、当の啓名も声を掛け辛い雰囲気をこれでもかとまとっているのだ。
 結局、バックスはその様子を横目にチラチラと捉えながらも、実際に啓名が口を開くまでは「腫れ物には触らない」を押し通した形だ。
 すると、もうこれ以上、眉間に寄る皺がないというところまで行った辺りで、啓名が頭を掻き毟って爆発する。
「ああ、もう! この後やらなきゃならないことを考えていくだけで、頭が痛くなってくる!」
 誰に向けたでもない言葉の筈だが、この場にレーテが居ない今、その爆発を宥めてやれるのはバックスだけだ。
 そうして、啓名を宥めるに当たり、バックスは多成の名前を口に出す。
「上層部への報告やら、神河への引継やら、息の掛かった身内に霞咲から手を引くように通達するとか、まだまだ厄介事は続きそうだな? 病院で悠々自適の生活を送っている多成を引っ張り出してきたほうが良いんじゃないか?」
「もちろんよ。わたしは手を引くわ。あくまで、このクエストの責任者は多成さんなんだから、きっちりその辺、最後は締めて貰わないと!」
 そこまでは威勢良く気炎を上げた啓名だったのだが、そこから先は一気にトーンを落とした。
 そうは言っても……という部分が出てくるわけだ。多成を引き釣り出すとはいったところで、多成に全てを押し付けることもできない。
 啓名は心底「嫌だ」と雰囲気を全面に押し出して、しみじみと吐き出す。
「それでも、当面の起脈の維持を多成さんが対応できるわけはないし、紅槻の家の上層部へ報告するって辺りは確実に巻き込まれることになるわ。まぁ、そっちはそっちでわたしも発言しておかければならないことがあるから巻き込まれるのは仕方がないのだけれど……」
 発言を「しておかなければならないこと」という強いニュアンスから、そこには「神河を内包する久和一門」のことが含まれているのは明らかだ。
 紅槻の姓に名を連ねるものとして、ある一定の発言力を伴う啓名のその意図を確認するように、バックスは神河について肯定的な評価を下し、その出方を伺う。
「いいねぇ、神河。どうにかして身内にしたいね。是が非でも協力関係を築くべきだ。口先だけじゃなく能力もある」
 バックスの肯定的な評価を真横で聞いて啓名は、そこでくっと口を噤んだ。
 そうして、星の家の面々を相手に背を向けた状態の神河を鋭い目付きでまざまざと注視した後、啓名はようやく重い口を開く。
 スターリーイン新濃園寺で襲撃された初対面からを反芻し、色々と思うところはあるのだろう。
 それでも、啓名の口からはバックス同様肯定的な見解が漏れ出る。
「……そうね。例え協力関係を築けないにせよ、少なくとも敵対したくはない相手だわ。起脈でも手を取り合えるなら、それは願ったり叶ったりだけど」


 星の家に背を向けるとすぐさま正威へと向き直る萌だったのだが、いざ口を切ろうかという間際になって、視線だけをギロリと緑苑平フォレストコンコースの東端の最寄りの出口へと向ける形で声を向ける先の相手を変える。
「どこ行くつもり。遙佳ちゃん? まさかまさか、一言断りもなく黙ってここから居なくなろうってつもりなの? 普賢を相手に回して一緒に歯を食いしばりあったばかりだって言うのに、随分と冷たいじゃない?」
 萌からこれでもかという程に棘を鏤められた辛辣な言葉を向けられて、今まさにこの場から忍び足で離脱しようとしていた遙佳がその足を止める。
 既にスクールバックを背負い直し、その手には白布に包んだ逓占までをもしっかと握る形だ。言い訳のしようもないぐらい、ばっちりと現場を抑えられた格好だった。
 緑苑平フォレストコンコースから階上へと続く階段まで、後2メートルもないというところで目敏く見付かって、遙佳は内心「後少しだったのに!」と唇を噛む思いだった筈だ。
 尤も、くるりと向き直って見せた遙佳は、ついさっきのバックスの立ち居振る舞い宜しく、黙って立ち去ろうとしたことを微塵も否定しない。下手に言い訳しても自分の立場を悪くするだけだと思ったのかも知れない。
 そのままここで恒久対策絡みの星の家と神河のやり取りを眺めていれば、いずれ自分にも様々な質問が向くようになることは間違いない。遙佳はできることならば、その追求の手から逃れたいと考えたのかも知れない。
 どんな弁明をするかと萌が出方を窺っていると、遙佳はつらつらと招現寺絡みのことはもう「自身の手を離れた」という認識であることを述べる。
「……後は神河が上手く取り仕切ってくれそうだったから、このままここに居てもあたしにできることは何もないかなぁって。北霞咲を八百万の神様から任された神河なら半端なことはしないだろうしさ」
 そこまで言ったところで、遙佳はハッと何かに気付いたようだ。慌てて「バックれる」範囲をこう言い直す。
「ああ、でも、神河一門を雇うことに対して定めた対価をブッチするつもりはないよ! そんなことしたら、全盛期の闇金ばりに熾烈な取り立てを受けそうだしさ!」
 これでもかと取り繕った酷い作り笑いで遙佳は見当違いな弁解をしたが、当然、対する萌の辛辣さが影を潜めることはない。
「穴に沈む普賢に対して「あたし達が責任を持つ」なんて啖呵切っておいて、自分はここで「一抜けた」なんて余りにも都合が良すぎるとは思わないのかな?」
 遙佳はこれでもかと痛いところを突かれたようだ。一気に纏うその雰囲気を重苦しいものにする。
 一丁前に啖呵を切ったのは確かに遙佳であり、ここでバックれるのは「責任を持つ」といった言葉に反するのは言うまでもない。例え、恒久的な封印云々に対してできることがないのだとしても、それが決して褒められた姿勢でないのは明らかだ。
 遙佳はバツが悪いという雰囲気を隠そうともせず、萌へと問いかける。
「……何をすれば、いいの? というか、あたしに何をさせたいの?」
 遙佳の責任感を刺激して、まずはこの場に留まらせるという目的を達し、萌が正威に視線で合図をする。
 しかしながら、正威はただ首を左右に振って「そうしなくて良い」と萌にジェスチャーで答える。
 そんな正威に反応に、萌はやや驚いた様子を間に挟んだものの、そこからささっと態度を立て直すのも手慣れたものだった。
 あっという間に、遥佳に対するに足る態度を繕ってしまえば、そこに続けるアドリブの言葉にも微塵の破綻もない。合間に正威のやりとりが挟まった場合でも、最後はそう締め括ったのだろう台詞を萌はさらりと口にしてみせる。
「別に何も。今、遙佳ちゃんにできることがないっていうのは確かにその通りだと思うしね。ただ、神河が星の家からこの件の引継をして、最後に恒久的な蓋を施す場には必ず立会しなさい。気が乗らないとか、正威や啓名ちゃんと顔を合わせるのは気が重いっていうなら、別に遠目に様子を眺めるだけだもいいよ」
 どうして遙佳がこの場を立ち去ろうとしたのかの、正直なところは分からない。大凡「きっとこんな理由だろう」という推測は立てられるものの、本当にそれが真因かは疑わしい面もある。
 その気に慣れば、自身の背後にあるものに関して手厳しい追求を向けられたところで、遙佳はどのようにでも空惚けることだってできるのだ。尤も、その姿勢を貫き通し続けられるかは甚だ疑問ではあるものの……。
 ともあれ、遙佳がこの場を離れようとした理由を、萌が独断専行で追求するようなことはなかった。あくまで正威が「その必要はない」と首を横に振るジェスチャーを見せた点を踏まえて、その理由についても追求しないスタンスを見せる。従って萌が遙佳に投げ掛ける言葉も「このまま招現寺の穴の件でフェードアウトは許さない」という内容となる。
「そこが星の家の北霞咲への起脈敷設計画の転換点になるし、遙佳ちゃんが忌避した未来視の実現を阻んだ証明となる場所になる。神河を雇った遙佳ちゃんは、その場に居合わせて結末を見届けなければならない」
 実際問題、遙佳がどこまでバックれるつもりだったのかについても、正直なところは不明だった。それこそ、星の家と神河が恒久対策云々について話し合うこの場からは離れたかっただけなのか、恒久対策を実施するとなったその当日までも姿を表さないつもりだったかは本人のみぞ知るところだ。
 だから、萌のその要求が遙佳に取ってどこまで難易度の高いものかについても不明だった。
 寧ろ、そう要求することで、萌は遙佳が今後どういう立ち回りを見せるのかを探った節がある。
 一方で、そこに対する遙佳の言動は単純明快なものとなる。
「分かった。この件の片を付ける場には必ず立ち会う! ここで一抜けたなんて、この件を放り投げるようなことはしないよ。そんなつもりはなかったんだけど、それは確かに萌ちゃんの言う通り。普賢に啖呵も切ったし、あたしはこの件の最後をきちんと見届けなきゃね」
 余りにもすんなりと要求を受け入れられたことで、遙佳のスタンスというものが解らなくなった瞬間でもあった。
 片を付ける場に立ち会うということは、イコール、自身の背後にあるものについての追求を受ける場をみすみす提供することに繋がり兼ねない。それどころか、後の処理を神河と星の家に任せる現状について「居た堪れない」といったニュアンスのことも口にするのだ。
「ふふ、でも、何もせずにただ傍観して成り行きを見守っていろっていうのもなかなか酷な話だよね。……こう、何ていうか、手持ち無沙汰というか、お前何やってんのって目で見られているような気がするっていうか……」
「手持ち無沙汰が嫌だっていうなら、無理矢理やることを誂えてあげてもいいけど?」
 萌が無理矢理やることを作っても良いと述べたことで、遙佳はここで自分に何ができるのかを自問したようだった。
 普賢を押し返した今、星の家でも、久和一門でもない第三勢力の遙佳にできることなど、直接起脈や封印に絡まないことだけだろう。
 遙佳は苦笑いの表情を浮かべると、萌の提案に対して首を左右に振って見せる。
「あはは、瓦礫の撤去、とか? 今からそういうことに駆り出されるのはー、……遠慮しておこうかな。逓占の影響も、早い内に完全に断ち切っておきたいし」
 その遙佳の発言に「この場を離れる」理由の一端が見え隠れする。
 どうやら、ただただ追求されることを嫌ってこの場から離れたいというわけでもないらしい。ここに来て、遙佳の口からは切り札「逓占」の名前も出た。神河の禁呪同様、後のケアが必要なのかも知れない。
 ともあれ、ここを離れたい理由の一つに逓占絡みの要因があると分かったことで、神河サイドも遙佳を強く責め立てられなくなる。そうすると、萌がそこに続ける言葉も、自ずとその内容が決まる。
「招現寺に通じる穴に対して恒久的な対策を施す日付が固まったら、連絡する。それで良い?」
「うん。それでお願いしたいかな」
 遙佳からは何時何時までにそれを「決定して欲しい」だとかいった言及は一切なかった。即ち、暫定対策の効力が切れる「2週間」という期限内には、必ず神河がそれを行う手立てを整えてくれる筈だという認識なのだろう。
 しかしながら、一度はすんなりと「それで問題ない」と答えた遙佳だったが、すぐにいざ当日となって発生し兼ねない懸念について言及する。
「ああ、でも、念の為。一応これだけは言っておくけど、星の家との引継ぎ当日になって「決裂する」とかいう流れだけは本当にやめてね?」
 明確な言葉として口にはしなかったものの遙佳のジト目は萌をしっかと捉えており、スターリーイン新濃園寺で見せた傍若無人振りを危惧した節がヒシヒシと伝わって来る。
 常識的に考えれば、引き継ぎを受けるという場にあって萌が傍若無人な振る舞いを見せる理由はない。普賢・赤鬼、そして黒蝗を相手に共闘したという事実もあるし、引継ぎの場には引き続き啓名やバックスが姿を見せる筈だ。そこに至って、星の家のニューフェイスだけが顔を揃えてくるようならば交渉決裂という流れも十分視野に入ってくるが、そうでもない限りは粛々と引継ぎが進められるだけだろう。
 それでも萌は啓名の懸念に対して、神河サイドも配慮する旨を答える。
「それは星の家の出方次第であるけれど、神河も穏便にことが進むよう引継に立ち会う人材は入念に選ぶよう進言する」
 やもすると、その口振りは正威・萌の二人が、引き継ぎの場には顔を出さないかのようにも聞こえるものだったのだが、当の遙佳がそれを指摘することはなかった。遙佳も遙佳で「恒久対策」という場には、神河が属する「久和一門」という大きな組織体としての対応となる可能性があることを察したのだろう。
「うん。是非ともその配慮だけはお願いしたいかな、宜しくね。……じゃあ、悪いけど、今夜は一足先に失礼するよ」
 失礼するとはいったものの、実際には遙佳がすぐさまその場を離れることはなかった。遙佳はその場でじっと真摯に正威・萌の二人をまじまじと眺めると、不意に小さく頭を下げて真正面から謝意を述べる。
「正威君、萌ちゃん、今回は手を組んでくれてありがとう」
 すぐさま遙佳が踵を返して階段を駆け上がっていくと思っていたのだろう。唐突に向けられた謝意の言葉に、正威は驚きを隠さない。尤も、そうやって意表を突かれたのも本の一瞬のこと。正威はすぐさま慣れた調子で、顧客に対する営業マンのように謙遜を混ぜ相手を上げる形で謝意を投げ返す。
「こちらこそ、ありがとう。久瀬さんの力がなかったら、今回の件はこの短時間では鎮められなかった筈だ。助かったよ。今回の件に置いては、久瀬さんと手を組んだことで神河もメリットを享受させて貰ったわけだ。その上、きちんと対価も支払って貰うわけだから、それはこちらが言うべき言葉だよ」
「それでも、だよ。ありがとう」
 遙佳は改めてそう謝意を口にすると、今度こそ、ふいっと踵を返して階上へと続く階段を駆け上がっていった。
 遙佳の気配が完全に掻き消えたところで、萌が先程の正威の対応の是非を問う。
「良かったの? 遙佳ちゃんの背後にあるものを聞き出しておかなくて。あれこれ攻め立て、攻め方を変えて切り込めば、色々と簡単にボロを出したと思うよ?」
 萌のその言い分は、やもすると今からでも遙佳の背後にあるものを探るべきだと言っているようにも聞こえたが、対する正威は今そこに踏み込むべきではないと答える。
「久瀬さんに今回の報酬となる対価を踏み倒すつもりはないようだし、まだまだ繋がりは残るんだ。今、もしかしたら敵になるかも知れないなんてところをはっきりさせる必要はないさ。対価を完済して貰うまでは、それを暈したままでもいいだろう」
「まぁ、それはそうかもね。もしも遙佳ちゃんが協力関係を築いて行けない相手だと分かってしまったら、対価を支払って貰う時でも今回みたいには手を取り合えないだろうし、ね」
 もし、本当に遙佳が神河と手を取り合うことのできない相手で、敵となり得る可能性があるのならば、そこは早い段階ではっきりとさせて置くのが上分別だろう。
 今回の件で、大分お互い手の内を見せたとは言え、これからも手を取り合う場を重ねれば、自ずと弱点やさらなる手の内を見せることに繋がるからだ。
 それでも、正威は「今はまだ……」と暈した形だった。やもすると、敵になるかも知れない時に備えて、遙佳に取っての底の知れない切り札「逓占」を用いた「手の内」を神河サイドが見ておきたかったのかも知れない。
 ともあれ、遙佳が去ったことで、萌は話題を、件の恒久対策へと切り替える。
「さて、と。それはそれ、これはこれ。引継ぎを受けるなんて話になったけど、……どうするつもり?」
 引継ぎ後の対応について問われ、正威は既に自分達の手を離れたところで「恒久対策」に向けた動きが進行していることを説明する。
「主窪主様との会話を通して、苫居さんが既に家(うち)の上層には一報を入れてくれたらしい。けど、下手するとこれは久和本家にまで報告が上がる案件になるな。少なくとも、家の中で一通り必要となる人材なんかの算出に入っているっていう話だから、俺達から報告を入れる段階では色々と対応が固まった状態かも知れない」
「いいんじゃない? 悔しいけど、さすがに向こう百年は最低継続させなきゃならない本格的な封印を仕立て上げるなら、これは本家や本職の結界師に任せた方が良い案件だと思うし……」
 思いの外、勝手に恒久対策に向けた動きが進んでいることに対する萌の反応は悪くなかった。
 バックアップに回ってくれていると言えば聞こえは良いが、受け取りようによってはそれこそ自分達の知らないところで勝手に対応を決められているということになるのだ。しかも、前面に立って普賢や赤鬼の対応に回った正威・萌に一言断りもなく、だ。
 そうして、萌の反応が悪くなかったことで、正威は寧ろそこから先を口にし難くなった感がある。明らかに声のトーンを落としてみせれば、正威はふいっと萌から視線を逸らして口を切る。
「……そのことなんだけど、仮に久和本家に話を通すにしろ、この件の後片付けには家(うち)から誠治(せいじ)さんと、和希(かずき)さんが揃って出張ってくるって話になったらしい」
「は? なんで?」
 その二つの名前を聞いた瞬間、萌の表情が強張った。そこに滲むは、これでもかと言うほどの嫌悪の表情だった。
 理由を問う萌を前に、正威は「分からない」と、ただただ首を横に振るしかない様子だった。すると、ついさっきまでの悪くない反応から一転、萌は正威に食って掛からんばかりの勢いで詰め寄る。
「しかも、寄りにもよって両方なの? なんで? 他にいくらでも適任者なんかいるよね? どっちか片方ならまだ我慢もするけど、……二人揃ってなんて冗談じゃなくない? どれだけ神河の血を受け継ぐものとして「能力値を引き上げられたのか?」しか興味がない癖に、ふとしたことで親としての顔を取り繕おうって態度を見せてくるのが本当にむかつく」
 それは正威へと詰めかかっても詮無い内容だった。そうやって萌がきつい口調で抗議したところで、正威がどうこうできる内容ではないからだ。そして、そもそも抗議という体すら為してはいない。
 それらを真正面からぶつけられたところで、正威にできることと言えば同意を返すのが精々だろうか。
 そんなだから、正威は荒れる萌の言動をただただ黙って聞いていた。
 一頻り萌が荒い言葉を吐き出し終えたところで、正威は事務的な口調で萌に通達する。
「しかも、俺達の手を離れるということに慣れば、家(うち)の中でも引継ぎをしなければならない案件だから、必ず顔合わせをしないわけには行かない」
 それが萌の神経を逆撫でし機嫌を大きく悪化させると半ば分かっていても「事実として伝えなければならないこと」だからと、正威は淡々と口にしたのだろう。
 対する萌はこれ見よがしに舌打ちすると、吐き捨てるように言う。
「久和の本家連中を相手に引継ぎするのは嫌だなーなんて軽く考えてたけど、こうしていざ嫌さ具合を比較して見ると久和の本家連中を相手にする方が数百万倍マシだよね?」
「でも、人選的には良い線いってるよ。あの人達なら封印周りのことは本職を取りまとめて完璧にやってくれるだろうし、星の家との交渉・引継をするって点でも、安易に決裂なんて流れにはならないだろう?」
 感情的に吐き捨てた萌に対して、正威はそれが理に適った面を持つことにも触れる。少なくとも、正威・萌の二人が「どんな結果を残しているか」を、要所要所でただただ確認するために出張ってくるものではないという見立ても間違いないようだった。正威の認識を、萌は否定しない。
「お仕事のことだけは、優秀だもんね。あの人達は!」
 少なくとも、実力面では適わない相手だというところを萌も認めているのだ。
 それでも、萌はふるふると首を左右に振って眉間に皺を寄せる。いくら実力面で自身を上回り、引継ぎの場に出てくる神河サイドの面子として最適解となり得るからと言って、どうしても心情的には納得できないらしい。
 萌は絞り出すような声で、正威に確認を向ける。尤も、そのトーンは低く自身の要求が通るものとは思っていないだろうことは明らかである。
「引継ぎ、全部、任せても良い?」
「いくら萌の頼みだって言ったって、その件に関して俺が首を縦に振れると思うかい? そもそも、連れていかなかったら行かなかったで「またか」とか呆れがちに言われて、後々厄介になるだけだよ」
 正威のみをその場に赴かせた後で生じる事態は、萌に取っても容易に想像できたようだ。
「あー、それは嫌だねー……」
 萌は力なくそう発言すると、ガクッとその場で項垂れた。すると、これでもかという程の不興顔をして、萌は誰に向けるでもなくボソリと呟く。
「むかつく」
「まぁ、そう言うなよ。「あなた方に頼らずとも、ここまでできるようになったんだ」ってところを見せ付けてやろうぜ。例え、まだまだ期待値には届かないのだとしても、今はそれを積み上げていくしかないさ」
 そんな萌を宥める正威にしても、表情は硬く苦かった。
 正威・萌共に、苦手意識は相当のようだ。


 普賢を招現寺へと続く穴の底へと押し返した日から、四日後。
 神河サイドは異例の速さで恒久対策の準備を整えた。それこそ、久和本家の介在を軸にして、無理矢理、結界師周りの予定を押えたりしたようだ。
 当日、招現寺へと続く穴の空いた緑苑平フォレストコンコースの周囲には徹底した立入禁止措置が取られた。
 この措置は、地下はもちろんのこととして、地上を含めて行われており、名目上は「インフラ設備点検のため」と銘打って実施されたものだった。手配者は星の家サイドで、神河サイドとしては北霞咲でも星の家がある一定の影響力を行使可能な現状を、改めて目の当たりにする機会となった。
 至るところに普賢や赤鬼との衝突で生じたものの破損や、支柱の消失と言った傷跡が生々しく残るものの、瓦礫の撤去と言った類の後片付けは為されており、星の家は恒久対策を久和一門へと引継ぐに当たり、余計な手間暇を掛けることがないよう配慮したようだ。尤も、それを含めて、星の家が北霞咲でも「影響力を持つ」という事実を暗に主張したかったということだったかも知れない。
 それこそ、招現寺という失態を演じはしたが、恒久対策以外ならば久和の手を借りずとも十分対処可能なことを証明して置きたかったのだろう。そうだ、恒久対策さえどうにかできれば、自分達は霞咲で久和一門ら取って代わることができる状態にあると誇示して置きたかったのだろう。これから神河、引いては久和一門と、霞咲を境に置いて牽制し合う上でもその可否による差は大きいからだ。
 緑苑平フォレストコンコースで発生したものと同等の問題が霞咲界隈で再び生じた場合、久和一門は容赦なくそれを沈めるために人員を割くだろう。例えそれが櫨馬市の区域内にめり込む形であったとしても、星の家に対処する能力が無いと判断すれば有無を言わさずやるだろう。
 ともあれ、そうして引継ぎのために、招現寺へと続く穴が空いた場所に顔を揃えた両勢力の面々には大きな数の相違があった。
 その場にどっと居並ぶ面々の数を増やしたのは、以外や以外、星の家ではなく神河、惹いては久和一門サイドだ。神河、惹いては久和一門としても、星の家が霞咲へと食指を伸ばす時には相応の戦力を持って対応するという強い姿勢を示す意思があったのだろう。それでも、ずらりと神河サイドの関係者が増加した中、引継ぎを行うに当たり前面へと出て来るのは正威と萌だった。
 対して、そこに顔を揃えた星の家の面々は、ネゴシエーターとしていつかの神社で八百万の神様達に対峙した三者のみだった。いつかの時と同様に、多成を先頭にして、その両脇にバックスと啓名を従える配置だ。尤も、多成はスターリーイン新濃園寺で負った怪我のダメージが癒えてはいない様子で、松葉杖をついての登場となった。それでも、バックスや啓名の支えなく、一歩一歩、時間を掛けつつではありながら確実に歩みを進める様には、お決まりの「不敵さ」も混じる。
 そんな中、引継ぎを行う神河サイドの相手として正威・萌の二人が出てきたことに、見るからに安堵を見せたものも居た。啓名である。もちろん、それと分かるように表情を緩めたりしたわけではないが、まとう雰囲気と言ったものから容易に推察ができた。
 尤も、少なからずバックスにしてもその風潮はあった。
 ここでそれまで一度も顔を合わせたことのないような面々を神河サイドが立ててくるのであれば、やはり星の家としてはやり難さを感じただろうし、何より穏便にことを進めるつもりがあるかを疑うような事態ともなり兼ねなかった筈だ。
 唯一、多成だけが腹の底を探ることのできない、取り繕って仮面のように色のない顔付きだったのだが、そこはやむを得ないのだろう。スターリーイン新濃園寺の時点で離脱した多成は、緑苑平フォレストコンコースで神河や遙佳と共闘していないのだからだ。
 一方で、神河サイドにしても、そっくりそのまま顔見知りが出てきたことにはやはりやり易さを覚える。
 ただ、萌だけは憮然とした表情だった。背後に控える面々の中に顔を揃える神河誠治・神河和希の二人が「バックアップをする」という体で、この場に出張ってきていることがまだ尾を引いているのだ。
 言ってしまえば、四日という時間でこの引継ぎ会に漕ぎ着けたという突貫作業もあって、神河誠治・神河和希の二人から何かを言われたということはなかった。今に至る状況説明にしても、あくまで形式的なものに終わった形だった。……にも関わらず、萌が憮然としたままであるのは、実際の現場で値踏みをされるようにジロジロと遠目に長め見られるのが気に食わないし、調子が狂うからだ。
 憮然とした萌だったが、多成の両脇に控えるバックスと啓名の会釈を受ければ「不機嫌です」オーラを周囲にばらまき続けるというわけにもいかない。すうと深呼吸をすると、それなりに引継ぎの場に相応しいだろう態度を整える。
 尤も、その一連の行動を星の家の面前でやるものだから「取り繕えた」とは言い難い。
 当然、バックス辺りからは問答無用にツッコミを受けることにも繋がる。
「どうした、神河萌。随分と酷い顔だな?」
「分かる? ああ、でも気にしないで、これは星の家に起因した苛々じゃないから」
 苛々の原因が背後の控えた神河サイドの中にあることを、萌はバックスに対して視線を向けることで指し示して見せる。尤も、そんな棘を持った雰囲気も、神河サイドに居並ぶ背後の面々へと視線を向ける最中に掻き消えることとなった。
 緑苑平フォレストコンコースの側壁に背中を預けて、星の家と神河との引継ぎの行方を見守る遙佳の姿を見付けてしまったからだ。
 遙佳は小さく手を振って見せると、星の家・神河の両者に対して小さく会釈した。そうは言っても、遠目にやりとりが確認できる場所に陣取ったまま近づいてこようとしないところを見るに、この引継ぎ会に参加したり、一言物を言ったりするつもりはさらさらないらしい。
 だったら引き釣り出すまで……といった思考が萌の脳裏を過ぎる。しかしながら、萌が実際に何らかの行動を起こすよりも早く多成がアクションを見せたことで、その目論見は未遂に終わった。
 バックスと萌の会話によって意図せず火蓋を切った引継ぎの場は、多成が一つ咳払いをした後、一気に本題へと話を切り替えて進行した形だ。
「この度は星の家の不手際で迷惑を掛けた。緑苑平で脅威となった普賢の対応に協力し、尽力して頂いたこと。緑苑平に空いた招現寺へと通じる穴を塞ぐ恒久対策を星の家に変わり実施して頂くこと。感謝する」
 多成の立ち居振る舞いはさすがだった。プロマスという役職に相応しいとさえ言えただろう。
 過去のいざこざはあれど、必要ならば紳士的な対応に徹し、私情を挟まない。こう言ってはなんだが、アルフなんかとは役者が違うことをまざまざと感じさせる。
「少ないながら、これは迷惑料と恒久対策を引継ぎするにあたっての依頼料金だ。久和一門へと同様の業務を依頼した際に発生する金額を、こちらで事前に調査した金額を認めさせて貰った。もし、不足だというなら遠慮なく言って貰って構わない」
 多成が合図をすると、啓名が徐に手に持つジュラルミン製のアタッシュケースを開く。中には札束がぎっしりと詰め込まれていた。アタッシュケース自体のサイズはそこまで大きくないながら、束一つが100万だとするのならば、優に1000万以上がそこには敷き詰められていただろうか。
 札束の詰まったアタッシュケースを前にして、正威は思わず苦笑する。それを受け取るのにも面倒くさい話になるし、受け取らない場合でも面倒くさい話になることが分かり切っていたからだ。
 緑苑平フォレストコンコースでの神河の対応は、一律で「これぐらいになる」なんて見積ができるような案件ではなかった。完全に「例外」が当て嵌まるケースだと言って良い。それも、神河は遙佳に雇われるという形を取ってこの件に対処しており、何ならこの迷惑料を含んだ依頼料金とやらは依頼主たる遙佳とその配分について話し合わねばならないような類いの扱いとなり兼ねない。
 正威は受け取ることを露骨に躊躇しながら、壁際でそのやりとりを遠目に窺う遙佳の方を見る。
 いつかのやりとりで遙佳は神河を雇うことに対して「お金がない」といった趣旨の発言をしたこともあるぐらいだ。てっきり星の家が提示した金額を神河が受け取るとなれば、何らかのアクションを見せると思ったのだ。
 しかしながら、遙佳は口を挟むつもりがないらしい。自身が正威に注視されていることを知ると「自分のことは構わないで」といったジェスチャーを挟み、引継ぎを進行するよう促す。
 正威がなかなかアタッシュケースを受け取らないからか、多成は「迷惑料」が持つ意味合いについてこう言及する。
「受け取っておけ。……というか、こちらも受け取って貰わないと、それはそれで困る。貸しを作ることになるからな。星の家は、緑苑平のこの件の後処理について、名目上だけでも対等に行きたいのだ」
 受け取ることを勧める多成の言動を前にして、そこに「待った」を掛けるものは誰も居なかった。
 正威・萌の背後に控える面々もそう。
 遙佳にしてもそう。
 名目上だけでも対等に「手打ちにしよう」とする意見に、異論を唱えるものはいなかった。
 多成はともかくとして、アタッシュケースをその手に持つ啓名からも毅然とした態度で受け取るよう差し出されてしまえば、正威が受け取りを拒否することはなかった。
 これが前例となってが「招現寺へと続く穴が開く」レベルでの事象を解決する適正価格として認識され兼ねない懸念はあったものの、これを突っぱねることで物別れとなってもそれはそれで困るわけである。それこそ、遙佳が懸念した引継ぎ当日の「決裂」まで拗れる要因になるかも知れない。
 啓名からアタッシュケースを受け取ると、多成からも謝辞が続く。
「こちらの意を汲んで頂いて、感謝する」
 到底、中身が伴ったものとは言い難かったものの、それでも深々と頭を下げて見せて体裁を整える様はさすがだ。
 そうして、迷惑料の下りが無事片付くと、多成は早々に引継ぎの話を進めんとする。
「それでは、応急処置から恒久対策への移行についでだが……」
 尤も、引継ぎについて実務的な説明をするのは多成ではなかった。
 多成はそこで一端言葉を句切り、啓名へとバトンタッチする。予め打ち合わせていたのだろう。啓名はものの見事にそこで多成とスイッチして、移行についての説明を流暢に続ける。
「星の家としての移行準備は既に整っているわ。いつでも恒久対策を稼働して貰って構わない状態よ。そちらの恒久対策稼働後に起脈石を停止するば、それで移行は完了。移行後の対応としては、このまま緑苑平に停止した起脈石を残したまま……というのでもこちらは問題ないのだけれど、それは神河として許容できないでしょう?」
 啓名はその問いを正威・萌の二人に向けて置きながら、返事を待たずに言葉を続ける。さも、当然のこととして「許容できない」という言葉が返ってくるものとして啓名は振る舞う。
「だから、恒久対策完了と同時に起脈石を破壊して貰って構わないわ。そうすることで、白の火を混ぜた障壁が消失するようになっているから。RFも機能を停止し、霞咲はもれなく起脈の影響範囲から外れる」
 啓名から恒久対策への移行方法を聞き、萌は正直言って「驚いた」というのが本音だった。
 その口振りは、神河の影響下にある霞咲に、完全に無防備となる「起脈石」を一つ残しておくというのでも良いと言ったに等しいからだ。それは、それまでの、主窪峠や桂河に起脈石を配置するのとはそもそも意味合いが異なる。
 主窪峠や桂河で言えば、そもそも霞咲が久和一門の息が掛かった地域だと知らなかったから設置したものであるし、容易にアクセスされることがないよう星の家なりに入念に下準備を整えた上で設置したものだ。けれど、この緑苑平の起脈石は異なる。
 もし、緑苑平に停止した起脈石をそのまま残すことを許容したら、星の家は「はい、そうですか」とそのまま置いていくのだろうか?
 構造解析やらアクセスを妨害できるような手段を施すことができるのだとしても、起脈という星の家の本丸の要となる起脈石をそのまま緑苑平に置いていくというのは、俄には信じられない話だった。
 訝しがりながら、萌は啓名に緑苑平の起脈石の処遇を確認する。
「てっきり起脈石は回収していくんだろうなって思ってたんだけど、……そうしなくても良いのね?」
「ああ、遠慮は要らんぞ。派手に叩き潰してくれ」
 多成からは起脈石の破壊を促された。
 起脈石を破壊すると、構造解析やらアクセスは完全に不可能となるとでもいうのだろうか?
 起脈石という呪物の欠片から、全く構造解析が行えないなどとは到底思えない。
 だから、先程よりも訝る度合いを強くしながら、萌は起脈石の処遇についてより踏み込んで確認する。
「起脈石を破壊するとして、残骸の回収の必要は?」
「掃除をしていけというのならそうする。しかし、久和一門として問題が無いのであれば、そちらで処分して貰っても構わない」
 多成は萌のそんな困惑を楽しむかのように、堂々たる態度で答えた。大袈裟な身振り手振りを合間に挟み、緑苑平の起脈石を指し示していうことは「ぜひとも解析しろ」と言わないばかりのようにも聞こえた。
 トロイの木馬のように、罠でも仕掛けたのだろうか?
 それとも、久和一門には構造解析などできるわけがないという自信だろうか?
 その昔、久和一門と小競り合いをした時にあらかた情報を抜かれていて、それ以上の何かをサルベージできないだろうと高をくくっているからだろうか?
 はたまた、意図的に構造解析をさせることで、星の家から何かリークしたいことでもあるのだろうか?
 意図が何であるかにせよ星の家がそういうのならば、神河サイドにそれを拒否する理由はなかった。星の家の目論見通り、起脈石ないし、起脈石を破壊した後の欠片を解析するしないにせよ、だ。
 ともあれ、現時点で萌はその手にスレッジハンマーを携えてはおらず、そのまま破壊という流れには移行できない。
 もし起脈石を破壊するという手段で移行を完了させるのならば、萌にはスレッジハンマーを取って来て貰う必要があった。さすがにスレッジハンマーと言った類いの鈍器無しで、起脈石を破壊するのは困難だ。件の短勁を打ち込めば、スレッジハンマーなしでも破壊可能かも知れなかったが、わざわざそんな手段を取る理由もない。
 スレッジハンマーの必要性を萌が機敏に察して正威へと軽いジェスチャーを取る。意訳をすると「取ってこようか?」と尋ねる内容だったが、当の正威はその動きを制止した。
 何も星の家の眼前で、ことを急いて起脈石を破壊しなければならないわけではない。
 僅かであるとはいえ、恒久対策を稼働させ安定させるだけの時間も必要だ。
 正威は多成に向き直ると、応急処置から恒久対策への移行の流れを理解し了解した旨、答える。
「分かりました。それではこちらの準備が整い次第、起脈石を破壊させて頂きます」
「では、確認だが「起脈石は破壊する」で良かったかな? こちらで回収する必要が無いのであれば、久和一門の準備が整い次第、そうしてくれ」
 対する多成は移行方法と後処理を提示し終えたところで、くるりと踵を返した。
 ここで為さねばならない自分の役割は終わったというわけだ。
 しかしながら、為すべきことをやり終えた多成が見せる表情に、安堵の色や達成感と言ったものは微塵もない。
 正威・萌に背を向けた多成が灯した色は、これでもかと言うほどの不興顔だった。立場上、引継ぎの場では紳士的に振る舞ったが、何だかんだ言ったところで腹の底から納得できてはいないのだろう。啓名やバックスから「そうしなければ事態の収集を付けられない」と言われたところで「はい、そうですか」と引き下がるタイプでないことも明らかである。しかも、スターリーイン新濃園寺では、正威・萌の二人に良いようやられている。口には出さないものの、この事態を歓迎しているかと言えば、その答えは「NO」となるのだろう。やもすれば、ここに起脈石や、その欠片を残すということについても、多成は納得していなかったかも知れない。
 もしも、多成が「霞咲に食指を伸ばす星の家の別勢力」と成り果てた時、バックスはそれを本当に容易く切って捨てるのだろうか?
 いいや、バックスがそうするのだとしても、啓名がそのスタンスに徹することはできるのだろうか。
 その表情を実際に目の当たりにしたわけではないながら、正威・萌の二人は不穏な多成の気配を敏感に察する。そうすると、星の家の動きを注視し、必要ならばしばらく牽制しなければならないと思い直すまでに多くの時間は必要ではなかった。
 俄に多成がまとった不穏さを、バックスと啓名の二人が感じ取らないわけがない。
 それでもバックス・啓名の二人は何事もなかったかのように演じて会釈を見せる。
「ご迷惑をお掛けしましたことを、この場を借りて謝罪させて頂きます。申し訳ありませんでした」
「そんじゃあな、また会おうぜ。神河一門!」
 それぞれらしい台詞で引継ぎ会を燃える本締め括れば、多成に続いて神河へと背を向けた。
 本当に、星の家は起脈石をそっくりそのままこの場において、後の処理を久和一門に一任する形でこの場を後にするようだ。
 ふと気付けば、緑苑平フォレストコンコースの側壁に背中を預けて成り行きを眺めていた遙佳の姿も、もうそこにはなかった。
 神河サイドがその場に取り残される形となって、正威と萌は顔を見合わせる。
 数多くの疑問点を残したままの星の家の退却を前に、萌からは率直な感想が漏れ出る。
「……なんか、釈然としないね」
「ああ、霞咲は良くも悪くもまだまだ色々ありそうだ」
 一方の正威も、萌の見解を否定しないばかりか、まだまだ一悶着ありそうだという認識だった。
 ともあれ、松葉杖を突く多成の背中が、緑苑平フォレストコンコースの招現寺へと続く穴の空いた区画から完全に見えなくなると、そうしてその場に突っ立っているというわけにもいかなくなる。
 本当に、起脈石をスレッジハンマーで破壊するかどうかぐらいは決定しなくてはならない。尤も、物理的には破壊しないという選択をしても、2週間もすれば勝手に自壊する状態にあると啓名は言っていた。従って、広義では放っておいても「破壊」されると受け取ることができる起脈石だったが、正威は物理的に「破壊する」という決断を下す。
「取りあえず、破壊しよう。物理的に壊さないことで、星の家がこの起脈石を悪用できる可能性がないとは言えない」
「まぁ、釈然としないなら釈然としないなりに、一段落つけちゃいましょうか!」
 物理的に破壊することに対して萌からも異論は出なかった。
 すると、背後に控える門家の一人が萌の元に、組み立て前のスレッジハンマーを抱えて持ってくる。
 門家の一人はスレッジハンマーを萌へ受け渡す際に「OK」を示すジェスチャーを取り、恒久対策の稼働準備が整え終わったことを伝達してくれる。いつでも、起脈石を破壊しても良いというわけだ。
 萌はスレッジハンマーを組立てながら、ちらりと背後に控える面々を横目に捉える。
 それは結界師の面々の準備が終わっているのかを再度確認する意味合いもあったが、ありとあらゆる能力面で自身を上回る神河誠治・神河和希の二人の動向を確認する意味合いが強かった。現場でああだこうだと口を出すタイプではないながら、それでも決断が正しくない方向に進んでいるのなら口を挟んでくるはずだからだ。
 しかしながら、萌が背後に控える面子の中に二人の姿を見付けることはなかった。萌に限らず、神河誠治・神河和希の二人が居なくなっていたという事実には、正威も拍子抜けした形だった。
 ただ様子を見に来ただけで、霞咲については全て一任するとでもいうつもりなのだろうか?
 いいや、正威・萌の様子を見るという体を取って、星の家の動向を伺いに来たという側面もあったかも知れない。
 思考を巡らせれば巡らせただけ「疑わしき」が出てくるような状況に合って、正威は心底疲れた表情を覗かせた。
「萌、やってくれ」
「オーケー」
 正威の要求に、萌は打てば響く反応を返した。組み立て終わったばかりのスレッジハンマーを構えて、くるりと身を翻す。すると、遠心力を得た萌のスレッジハンマーが起脈石の側壁にめり込んだ。
 次の瞬間、起脈石は音を立てて砕け散り、招現寺へと続く穴は星の家の応急対策から久和一門による恒久対策へとスイッチした。





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