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Seen20 異式錯落共同戦線(下) -起脈と白の火-


 白の火という壁にぶち当たり、一同が押し黙る中に合って、不意に口を開いたのは啓名だ。
「主窪主様は「白の火」を扱うことができるんですか?」
「可能だ」
 主窪主の答えは簡素な一言だったが、それを持って啓名には何か思い当たることがある様子だった。
 啓名はその場の全員をぐるりと見渡した後、どこか思い詰めたような顔付きを合間に挟みつつ、すぅと息を吸って溜めを作る。横目に見上げる形で起脈石をまざまざと注視した後、啓名は意を決したように提案を口にする。
「起脈を、使いましょう」
 ここに来て起脈の利用について言及する啓名からは、負い目が見え隠れした。淡々とした口調で、あくまで「さも何でもないこと」を提案した体を取ってはいたものの、その実「起脈」の単語に遙佳はこれみよがしに顔を顰めた。
 言うまでもなく今に至る事態を引き起こしたのは起脈である。当然、星の家は起脈の敷設に関してこんな結果をもたらすだなんて全く予測できなかったわけで、その提案は同じ轍を踏む危険を孕んでいると言わざるを得ない。
 しかしながら、提案を口に出してしまえば、啓名ももう後には引けない。ずしっと重く伸し掛かるそんな負い目を恣意的に黙殺すると、勢いのまま起脈の利用を提案するに至った理由をつらつらと述べる。
「偽起脈石の設置計画を泥峰という場所に選んだのもちゃんとわけがあるの。泥峰は本物の起脈石が設置されれば、何の問題もなく櫨馬市サイドの起脈ネットワークに接続できる距離圏内ギリギリの場所なんだ。偽起脈石で誘き出そうって罠を張ったって、それが起脈ネットワークに掠りもしないような場所では「罠」だと見破られ兼ねないでしょう? だから、神河一門や久瀬遙佳がどこまで起脈の知識を持っているか把握できなかったから、その辺りは罠として成立するように緻密に計算したわ。ええ……と、つまり何が言いたいかっていうと、泥峰に居る主窪主様が扱う白の火を、起脈を通して緑苑平フォレストコンコースに発現させることができる」
 泥峰に居る主窪主が行う行為を、起脈を通して緑苑平フォレストコンコースで影響が及ぶようにする。起脈を使えば、それが可能だと啓名は言った格好だ。
 すぐさまそこに疑問を呈したのは、起脈に対して多少の知識を有する正威である。
「泥峰には偽物の起脈石しかないのにそれができるのか?」
「詳しくは説明しないけど、泥峰はあくまで「本物の起脈石」が設置される手順で準備を進めたから、記号の効果を高める為に起脈体っていう補助アイテムを周辺地域にばらまく作業も行っているわ。起脈石自体がないことで効果は著しく減衰するけれど、起脈体を通して泥峰から緑苑平フォレストコンコースの起脈石へアクセスはできる。そうすれば、ここに白の火を発現させることは十分可能だわ」
 効果が著しく減衰するという言い回しに対して正威は強い不安を覚える。
 それは遙佳も同様のようだった。
 遙佳はすぐさま啓名にその「減衰」度合いがどの程度のものになるかを聞き返す。
「確かに、起脈体で記号を発動させたのを見たことがあるけど、その減衰量はどの程度のものになるの? 発現させられたは良いけど、実用に耐えられないレベルにしかならなかったらどうしようもないでしょう?」
「実際、どれぐらいの「白の火」を発現できるかは、……その、やってみないとわからない」
 啓名の回答は、何とも歯切れの悪いものだった。
 いいや、その歯切れの悪さの背景にあるものは「やってみないとわからない」と言いながら、ほぼ確実に起脈を用いて白の火をここに出現させるだけでは「駄目だろう」と啓名自身が感じているからに他ならない。
 それでも、起脈を用いることで緑苑平フォレストコンコースに白の火を発現させられるということは、確かな前進だった。
 それがこの場にあるかないかに、有意な差があるのだからだ。
 遙佳が危惧するように、もし実用に耐え得るレベルで発現しないというのならば、発現した白の火をこちらで実用に耐えるレベルへ引き上げる手を模索するべきだろう。
 遙佳もそれを頭では理解しているから、啓名の提案を「論ずるまでもないもの」と棄却してしまうことはできない。
 そして、その議論は分が悪いことを理解しているからか、ここに来て啓名はこれでもかという具合に開き直る。
「けれど、まずはどのレベルで白の火を発現させられるかでしょう? 発現させられた白の火のレベルによって事後の対応を変えるべきだわ。他に状況を打開し得る妙案があるのならば、もちろん話は別だけれど?」
 改めて、啓名は起脈石前に居並ぶ面子をぐるりと見渡す。
 そこに異議を唱え、別の妙案をすぐさま持ち出すことのできる者は居ない。いいや、大なり小なり時間を挟んだところで啓名の起脈活用案に代わる「妙案」を提示できるものなど居ないだろう。
 緑苑平フォレストコンコースでの被害の拡大を許容し、場を仕切り直すことまでをも視野に入れられるのならば話は変わっても来るだろうが、到底遙佳がそれを呑むとは思えない。
 腕組みをして押し黙る遙佳からの反論がないのを良いことに、啓名は早々に主窪主へと起脈活用案を再打診する。
「主窪主様、拒否感を持っているのは重々承知しています。でも、この事態を打開する為、起脈に参加して頂けませんか? もちろん、一時的に……であっても構いません!」
 その啓名の言葉は祈るような思いで口に出されたものだったろう。それまでの経緯を踏まえれば、到底受け入れ難いものと思われるからだ。
 しかしながら、主窪主は余りにもあっさりと、そして拍子抜けする程に軽い調子でその提案を受け入れる。
「良いだろう。霞咲へ降り掛かる厄災を払わんが為だ。起脈とやらを通し、我が力を求められるがまま存分に振るって見せよう」
 提案が受け入れられたことでガッツポーズの一つでも見せるかと思いきや、啓名はキョトンとする茫然自失の体だった。ぽかんと口を開けたまま、心ここにあらずの表情でしばらく固まっていたぐらいだ。
 そして、その決断に対して誰かが何かしらの反応を返すよりも早く、主窪主は起脈に対する自身の「認識」についてこう補足する。
「くく、……なに、立場上、御沼主ではああ言ったが、興味がなかったと言えば嘘にもなる。それの効力を我らは櫨馬にある八百万の神々からそれとなく聞いてもいたからな」
 主窪主が起脈の参加を妥協すると宣言したところで、緑苑平フォレストコンコースを取り巻く空気には大きな変化が生じた。
 一度打ち払ったはずの、肌にまとわる嫌な感触が音もなく張り出してきたのだ。
 普賢だ。
 黒蝗サイドの気配が浮足立つのが同時に感じられることからも間違いない。頭を潰された状態から、この短時間で周囲へと影響力を行使できるレベルでの回復を遂げたらしい。
 正威はすぐさま、緑苑平フォレストコンコースのメイン通りへと足を向けた。
 そこにはまだ呪詛こそ吐き出してはいないものの、八つ重ねによって吹き飛ばされた頭部を再生中の普賢の姿が見て取れた。しかも、既に床へと突っ伏した状態ではない。完全に起き上がった状態なのだ。まだ、その場に不動で佇む格好ではあるものの、いつ再び頭部を再生しきって呪詛を吐き出し始めても何らおかしくはなかった。
 正威は苦笑いの表情で毒づく。
「頭を吹き飛ばしたっていうのに、もう再生を始めたのか。冗談きついぜ」
 そのまま再生途中の普賢に追撃を仕掛け兼ねない勢いを伴う正威に向け、主窪主がスマホ越しに諭す。
「招現寺の魔脈を堰き止めない限り、普賢が滅びることはない。普賢の相手はしない方がよい。無駄に消耗するだけだ」
 普賢が魔脈を通じて無限に再生すると言うのならば、主窪主の言葉は尤もだろう。しかしながら、それは再びここ緑苑平フォレストコンコースの広範囲へと、呪詛の影響が及ぶことをも意味する。
 例え、それが黒蝗や雨角楠翁の動きを抑制するために必要なのだと頭では分かっていても、実際にその影響が自分達にも及ぶことを許容できるかというと、それは完全に別問題である。
 正威は呪詛の影響が許容できないことを率直に主窪主へと訴える。
「そうは言っても呪詛を吐かれてしまえば、その影響は黒蝗や天角楠翁だけでなく、緑苑平フォレストコンコースに存在する全てのものに等しく及びます。現状、それは許容できません」
 一旦そこで言葉を区切ると、正威は思案顔を合間に挟みつつ、呪詛を止める平和的な手立てについて模索する。
「……黒蝗に対してはこれから手を打ちます。だから、主窪主様の呼び掛けで、普賢に呪詛を吐くのを止めさせることはできませんか?」
 正威の真摯な訴えに、しかし主窪主は重く険しい口調で明瞭に「それを叶えることはできない」と答える。
「恐らく、普賢にはもうまともな思考能力など残っていないのだ。天角楠翁を招現寺にて滅する。当初のそんな目的以外は全て削げ落ちてしまっていて、それだけが行動目的となっている。もう誰の声も今の普賢には届かないのだ、神河一門」
 普賢を言葉で制止することが不可能だと主窪主に返され、正威は腹を括った。そのまま萌へと向き直ると、普賢に再度七つ重ねを仕掛ける為の段取りを整えようとする。
「萌、普賢が完全に復活する前に七つ重ねでもう一度頭を潰そう。……行けるか?」
「その言葉、そっくりそのまま返す形になるわけだけど? 今の正威に、七つ重ねをあたしに付与できるだけの力は残ってるの? いいや、付与するだけじゃ駄目だかんね? 付与した後、ものの見事にぶっ倒れてくれました……では、あたしは七つ重ねを普賢にぶっ放せない」
 射抜くような萌の目に睨み据えられ、正威は怯んだ。
 痛いところを的確に付いてくる。正威はそんな思いだったろう。
 余力があって自分達が有利な時には、好戦的に、それこそいくらでも「前へ前へ」「より戦果を」というスタンスの癖に、無理が生じるような場面ではいつも萌はこうだった。驚くほど冷静に、冷徹に、場を乱すことも厭わず、さも当然のように撤退をも視野に入れてくる。引き際を心得ているといえば聞こえは良いが、少なからず正威がやきもきする場面も多々あった。
 正威は眉間に皺を寄せた後、意を決し萌に向かって反論しようと口を切る。
「……それでも」
「ストップ!」
 俄かに言い争いの様相を呈し始めたところに割って入ったのは、今回の件における神河の雇い主・遙佳だ。
 強引に二人の間に割って入ったことで、遙佳は正威・萌から鋭い目付きで見据えられる格好となる。
 しかしながら、遙佳は臆することなく大きな身振り手振りを交えながら一方的にこう宣言する。
「普賢の相手はあたしがするわ」
 それは正威・萌の二人に取って、想定外の宣言だった。
 尤も、それは言い争いの様相を呈し始めた場を収めるために、思い付きで口にした台詞というわけでもないらしい。遙佳はその宣言に至った理由を、神河・星の家の両勢力へと交互に視線を向けながらつらつらと説明する。
「神河一門には啓名ちゃんのサポートをお願いしたいんだ。白の火で黒蝗を焼き払えるよう、色々助言して貰わないとならない場面が出てきそうだしさ。そういった攻撃的な術の利用は神河の方が間違いなく得意でしょう? それに黒蝗をどうにかできた後のことについてもそう。上手いこと普賢を招現寺へと押し返すことができた後、開いたままの穴に蓋をするとかいった辺りのことについては、あたしは何の役にも立たないからね。それと、万が一、啓名ちゃんの意識が朦朧とし始めてきたりなんかした場合は、容赦なく鞭打って欲しいかな」
 一見、遙佳の言い分は理に適っていたが、根本的な部分で説得力に掛けていた。遙佳・正威コンビで普賢に挑んだ時、その攻撃がほとんどダメージに繋がらなかった点だ。
 萌は正威に向けていた鋭い視線を、遙佳に対して向け直す。
「大技の魔法は通じなかったけど、普賢を相手にどうにかできる算段があるの? もしも「短勁の目途が付いた」ぐらいのことが算段だっていうなら、悪いけどそれで普賢をどうにかできるとは思えないけど?」
 萌の指摘は御尤もな内容だ。現状、普賢に大ダメージを与えたものは萌の「重ね」しかない。
 どうやって、普賢を相手に立ち回るというのか。
 そんな萌の指摘に、遙佳は力なく笑う。
「本当はやりたくないんだけど、とうとう「切り札」を切る時が来たんだと思うんだ」
 普賢に対する遙佳の拠り所は、禁呪同様「好ましくないもの」と自身が称した「切り札」とやらだった。
 それがどれ程の威力を持つものなのか。どんな風に運用するものなのか。それらが一切不明だからだろう。遙佳の切り札について言及するものは居ない。
 そして、それが普賢を相手にし得るものだと遙佳が宣う以上、後はそれを信用するか否かという話になる。萌はその「切り札」の有用性について「半信半疑」というスタンスのようだったが、遙佳の「切り札を切る」という意志が強固なものならば拒否はしないだろう。雇い主はあくまで遙佳であり、この案件における最終的な決定権を委ねているからだ。
 その一方で、バックスからは手助けの打診が口を吐いて出る。
「普賢の相手……か。なら、手伝うぜ。俺の攻撃によるダメージは通らないと思うが、普賢を引き付けたり攪乱したりぐらいはできる筈だ」
 遙佳はその申し出に対して、すぐさま首を横に振る。
「一人で良い」
 ややきつい口調であり、それはやもすると拒絶のようにも受け取れられ兼ねない言葉だった。遙佳自身、すぐにそれが誤解を招き兼ねない口調だったと気付いたようだ。申し出を断るための言葉を、理由を添えてこう言い直す。
「いや、その言い方は正しくないかな。一人が良い……っていうか、一人じゃないと多分まずいんだよね」
 赤鬼を横目に捉え、遙佳は続ける。
「だから、バックス君とレーテちゃんは黒蝗に齧られてる赤鬼の警戒に当たって貰って良いかな? 神河一門と啓名ちゃんのタッグで黒蝗をどうにかできたら、赤鬼は普賢の救援に来るだろうから」
 そうは言うものの、実際問題として黒蝗がどうにかなった後で赤鬼が普賢の救援をできる状態にあるかどうかは不明瞭極まりない。どれだけ赤鬼がタフなのだとしても、払い除ける先から膨大な量の黒蝗に集られる現状で、それでもダメージらしいダメージがないなんてことがあるとは思えないからだ。
 例えば、黒蝗に肉を毟られ骨が露出するような傷を負い、満足に動き回ることができなくなって、それでも赤鬼は這ってでも普賢の元へ駆け付けようとするのだろうか。
 パッと見、膨大な量の黒蝗を相手に回して赤鬼は圧倒的に不利な状況にある。このままその状態が続けば、先程例に上げたような状況がいずれ訪れるだろう。
 ともあれ、そこで一旦言葉を区切ると、遙佳は一度大きく深呼吸をする。切り札を切るに当たり「できればそうしたくはない」といった心構えを、すぱっと切り替える為だろうか。胸を大きく上下させて呼吸を整え終えると、遙佳はスクールバックをその手に取り、中から白布に包まれた長物を取り出した。
 こういうと語弊がありそうだが、切り札なんて形容される立派なものを包む割に、その白布は何か特別なものというわけではないようだった。
 そうして、遙佳は取り立てて注意深さを見せるでもなく白布を無造作に剥ぎ取って行く。
 中から出てきたもの全長50〜60cm程度の洋剣だ。鞘や持ち手の部分に小奇麗な装飾がいくつも施されてはいるものの、それでも装飾自体は簡素な部類だろう。所謂祭儀用のものというよりかは実用的に用いられることを前提に作られたもの……という印象を強く与える装いだと言える。
 既に、切り札たるその洋剣を活用するに当たって、遙佳の表情からは消極的な雰囲気は掻き消えていた。それを使用すると腹を括った以上は、もう躊躇わない。そんな意志が見え隠れする
 遙佳はすぅと小さく息を吸うと、勢いよくその洋剣を鞘から引き抜く。
 洋剣の刀身は鞘同様に50〜60cm程度あり、直刃、且つ両刃で、根本がやや太く先端に向かって細味を帯びるダガーのような作りだった。ただ、パッと見では、それが何か特別なものという風はない。洋剣が纏う雰囲気といったものにも、現状では取り立てて見るべきものもない。
 だからだろう。バックスが拍子抜けしたと言う風に尋ねる。
「そいつが切り札なのか?」
「ええ。逓占(ていせん)って呼ばれる呪われた武器で、……酷く貪欲で悪食でね、何でも吸い取り吸い上げ根刮ぎ食べ散らかしちゃうの。結界を食べて穴を開けたり、切り付けた相手から生命力をごっそり吸い上げ奪ったりできる。普賢が魔脈から無尽蔵に力を吸い上げられるのだとしても、吸い上げた先から食い散らかしてプラマイゼロにするなんて逓占にはきっとお手のもの」
 遙佳の回答にはのっけからぶっ飛んだ単語が交じった。
 バックスもまさか「呪われた」なんて言い回しが返ってくるとは思ってもみなかったのだろう。そこには当惑した表情が見え隠れもする。
 ただ、遙佳に取っては、そんな反応が返ってくることも想定内だったようだ。全く動じることなく「逓占」の説明を続ける。
「反面、使用者の精神や理性に侵食して闘争本能を焚き付けたり、冷静な判断力を削ぎ落としたりもしてくれるんだけどね。侵食度は使用回数・使用頻度と月の満ち欠けに大きく影響されるから、最悪条件が重なると狂気に体を乗っ取られちゃったりもする」
 なぜそんなものを持っていて、また使おうとするのか。
 当然、神河にしろ、星の家にしろそんな疑問を抱いたのだろうが、その理由は容易に推測もできる。
 神河が用いて見せた禁呪同様、デメリットを補って余りある「メリット」を持つからだろう。
 ともあれ、最悪の場合、使用者に「見境を失わせる可能性がある」といったに等しい逓占の使用に際して、遙佳はこう結論付ける。
「今夜の月の満ち欠け具合なら、1時間ぐらい解放したところでいくらか理性は残る筈。でも、まぁ、それでも見境を失う危険は十分あるから、普賢の相手はやっぱりあたし一人でやった方が間違いないよ」
 バックスやレーテはその説明を聞いてもイマイチピンとこないようだ。「例え、そうだとしても……」といった具合に、未だ腑に落ちないといった態度を覗かせる。どうしても、逓占によって冷静な判断力が削ぎ落とされ「見境を失う」という部分が誇張したものに聞こえるのだろう。
 さらに言えば遙佳が二人に相手を頼んだ赤鬼が、黒蝗の大群を前にして既に身動き取れない状態へと陥っているという現状もあっただろう。赤鬼の警戒に当たるとは、字面上は大層な役割のように見えるものの、その実できることは何もない。だったら、遙佳と協力して普賢に当たる方が建設的で効率的だという思考は至極尤もな内容だとさえ思えた。
 しかしながら、当の遙佳はそんな二人が何かしらの反論を口にするよりも早く、対普賢の準備を始めた。
「さて、あたしは一足先に普賢と一戦交えることにするよ。呪詛をばらまかれるようになっちゃうと厄介だしね!」
 そう言うが早いか、遙佳は大きく息を呑み、衝撃に備えるかのようにぐっと下唇を噛む。すると、逓占の刃先へと自身の親指をぐぐっと強く強く押し付けた。当然、親指には深い切り傷が生じ、逓占には少量の血が付着する。
 次の瞬間、遙佳の周囲を漂う空気が、あっという間にどこかから現れ拡散した不穏さによって包み込まれていた。いや、それは「遙佳の周囲」なんて狭い範囲ではない。少なくとも、緑苑平フォレストコンコースのメイン通りで、赤鬼に集る黒蝗共がその不穏さに一時動きを静止したぐらいには広範囲へと及んでいた。
 そして、普賢のものとも天角楠翁のものとも異なるその不穏さは、しかし、より身に迫る恐怖を伴うものでもあった。
 どことも知れない死角からぎょろりと大きな目玉で、全身を上から下まで舐め回すかのように見られる錯覚が襲い掛かる形だ。それも、それはあからさまに「獲物を狙う」ような鋭さを顕著に混ぜもする。敵対心だとか敵愾心だとかいった知性的な「感情」に至っては微塵も含まれないと言って差し支えないだろう。あくまで、貪欲で程度の低い本能的な欲求に従うものなのだ。だからこそ尚更、恐怖心や嫌悪感に直結すると言っていい。
 バックスやレーテなんかはほぼ反射的に、その不穏さの中心部に位置する遙佳に対して身構えてみせたぐらいだ。
 一方で、親指から血をポタポタと垂れ流す当の遙佳は、何かに取り付かれたかの如く能面のような表情を見せていた。そして、ただただ、何もない虚空をじっと眺める。しばらく焦点の合わない瞳で口元を真一文字に結んでいた遙佳だったが、突然ふいっとその目を普賢の方へと向けると、抑揚のない声で途切れ途切れに呟き出す。
「敵は、……普賢。目的は、普賢を、招現寺に通じる穴の奥へと、押し返す、こと」
 誰に向けた風でもない遙佳の言葉だったものの、自分自身に言い聞かせたもの……というわけでもないらしかった。それを境として、遙佳を中心に据え、全方位へと向いた獲物を狙う鋭く冷たい視線のような感覚が掻き消えたからだ。
 同時に、そこが遙佳の調子が一気に変調を来す境でもあった。
 遙佳は口元だけに灯す笑みで表情を大きく歪めると、あっという間に覚束なくなった言葉でこう宣言する。
「ふ、普賢を、と、討滅するまでの間、あたしは、て、逓占によって生じる全ての、え、影響を、許容するわ」
 それは止め処なく湧き上がる狂気を抑え込むべく自身に言い聞かせているようにも聞こえたし、逓占相手に語り掛けているかのようにも聞こえた。
 そうして、そこが境だったものがもう一つある。
 普賢だ。
 頭部を再生しながら、その場に仁王立ちする状態から遙佳の方へと向き直り身構えたのだ。さも、そうしなければならないと、言わないばかりにだ。
 即ち、遙佳は「襲撃する」という意志を、普賢に対して一切隠すことなく曝け出したのだろう。
 普賢が自身を敵だと認識したことに対し、遙佳は満足げに口元へと灯す笑みの程度を甚だしくする。そうして、ゆっくりと、しかししっかりとした足取りで、緑苑平フォレストコンコースのメイン通りへと進入していった。既に、星の家や神河一門のことなど頭からすっぽりと抜け落ちてしまったかのようで、その目は普賢だけをしっかと見据える格好だった。
 バックス・レーテは、協力して普賢に当たるというのが「困難であること」をその一連の遙佳の言動からまざまざと悟っただろう。
 確かに、今の遙佳ならば、見境を無くしてしまっても何らおかしくはないと思える。
 そして、対普賢の共闘をさらりと諦めてしまえば、バックス・レーテコンビは遙佳に要望された通り、赤鬼の警戒に当たることにしたらしい。
「さて、と。俺達も持ち場に付くかね。神河一門、啓名を頼むぜ!」
「啓名。絶対に、無理はしないでね」
 バックスは神河へ、レーテは啓名へ向けてそう言葉を残すと、黒蝗が飛び交う緑苑平フォレストコンコースへと足を進めた。尤も、ただただ赤鬼が黒蝗に集られる様子を遠目に眺めるだけ……なんてつもりはさらさらないようだ。
「赤鬼の警戒にあたったところで、あの様子じゃどうにもならないだろう。本当に黒蝗を潰せる手段がないかどうか、色々試してみようぜ」
 バックスの提案に、レーテは打てば響く反応を返す。
「ラージャ!」
 バックス達がそうやって黒蝗相手に行動開始を宣言した先のこと。恐れていた事態が、再び訪れる。
 未だ潰れた頭を復元する段階に有りながら、普賢が緑苑平フォレストコンコースへと呪詛をばら撒き始めたのだ。
 瞬間、黒蝗の動きは目に見えて精彩さを欠き始め、正威の体にもずしっと重りを課せられたような重苦しさと息苦しさが生じる。しかしながら、呪詛による影響がそれまでのものよりも大きく減衰していることを、正威ははっきりと感じ取らざるを得なかった。
 普賢が頭を潰されるほどのダメージを負ったことに起因してそうなっているのか。別の要因で呪詛の威力が削ぎ落とされているのかは解らない。啓名の散らし鈴だって、未だちりんちりんとその音色を響かせているのだからだ。
 普賢が「焦っているのかも知れない」と正威は思った。
 狂気を纏い、抜け身の敵対心を向ける遙佳という存在が出現したからだ。
 現に、普賢の呪詛は黒蝗にも向けられていたが、同時に正威相手に吐き出したもののように遙佳に対しても指向性を持たせられたもののように聞こえた。
 普賢の呪詛が遙佳をも対象にしたものだと正威がはっきりと確信したのは、逓占がその影響をも食い散らかし始めたからだった。
 遙佳を中心として、うっすらと仄かに黒色を混ぜる暗い球体のフィルターのようなものが生じると、呪詛が持つ負のエネルギーというものが可視化されたのだ。それは漆黒に似た鼠色の帯を纏い、無数の線を引いて遙佳が握る逓占に吸い上げられるかのように落ちていった。
 可視化されたものはあくまで遙佳の周囲、半径にして10m程度のエリア内だけだったが、黒蝗へと向けられたものだろう呪詛も逓占は吸い上げていた。
 不意に、遙佳が地を蹴って普賢との距離を詰めに掛かる。口元に灯す笑みでこれでもかという具合に表情を歪め、目には獲物を見据えるギラリとした鋭い眼光が灯る。
 一言で言うのならば、そこに灯っていたものは狂気で、遙佳が全身にまとっていたものは狂奔だろう。
 逓占を手にした遙佳は圧倒的だった。それを「切り札」と評したのも尤もだと頷いてしまえる程だ。
 近付く遙佳の動きを察知し、普賢もすぐさま迎撃体勢を取る。しかしながら、遙佳はそれらを全てを容易に無効化して見せる。
 逓占を手にしてからの遙佳の動きはトリッキーに振り切れており、神河や星の家では捉えることのできない何かが見えているのかも知れないとさえ思えた。普賢が放つ衝撃波を、まるでどこを狙って打ち放つのかが分かっているかのように回避したのを始め、ありとあらゆる普賢の攻撃を事前に察知しているかの如く先手を打って無効化した。呪詛、衝撃波、支柱の破片を弾丸のように撃ち出す攻撃etcetc、その全てを軽やかな動作で難なくやり過ごして見せた。普賢の扱う力の流れとか言うものが見えているのかも知れないし、それこそ少し先の未来を感知しているのかも知れない。
 普賢を相手に回して、遙佳は容易にその懐へと飛び込むと、大振りな挙動で流れに任せて斬撃を浴びせ掛ける。
 一通り斬撃を浴びせ掛けられた後には、普賢は既に呪詛を周囲にばらまけなくなっていた。
 仄暗く黒い靄のようなものをまとった逓占が、容易に普賢の左腕を切断したからだ。いや、左腕を切断されたことそのものよりも、切断面から逓占に向かってどす黒い液体のようなものが吸い上げられるかの如く巻き上げられたことこそが、呪詛をばらまけなくなった直接の原因だろう。
 直感的に、普賢も逓占によって食われているのだと解った。黄泉路に通じる魔脈から絶え間なく吸い上げる負のエネルギーをも、逓占は容易に食い散らかせるらしい。
 普賢は左腕を欠損し、再生途中だった頭部は再び左頭部から眼窟に掛けてを叩き潰された形となる。するとダメージの蓄積によって、またも呪詛を吐き出せなくなったらしい。そんな普賢の口から代わりに漏れ出たものは、遙佳に向けて吐き出す憎悪の声である。
「オオオオオオォォォォォ……!!!!」


 遙佳が普賢を相手に飛び出して行った後、啓名は早々に白の火を緑苑平フォレストコンコースへと発現させるべく準備を進める。高さ2m50cm強、直径1m強の大きさを持つ緑苑平の起脈石の側面に右手を添えると、それに呼応するようかの如く起脈石はうっすらと仄青白く発行した。
「まずは、起脈システムに主窪主様を認識させるための、登録手続きを始めさせて頂きます。この作業は、主窪主様とを一意に紐付けする、起脈の中で主窪主様を表す記号(ハイパーシンボル)を決めるものです」
 これから行うことの説明をつらつらと述べる啓名だったが、実際にその作業を行う場所は泥峰側であるようだった。
 啓名は泥峰側の作業を担う人物に、ノクトールの名を挙げる。
「ノクトール君、そっちの状況を聞いた限り新しい記号の登録作業を行えるのは君しか居ないわ。マッピング作業のサポートをお願いできる?」
 啓名がスマホ越しに協力を要請すると、ノクトールは打てば響く反応を返す。
「解った。だが、サポートできる範囲は限られるぞ?」
 できる範囲は限られるといった予防線が張られるものの、啓名の認識は例え範囲を限られようとも必要十分をノクトールが満たすというものだ。
「それでも君はアルフやレーテとは違って、下級エンジニアや下級管理人並みのサポートができるんでしょう? アルフがわざわざ泥峰の偽起脈石作戦に管轄の異なる君達の協力を仰いだのだって、状況によってはそっちの役割を期待できるからだって話だった筈。わたしは君達の本来の役割だとか言った辺りのことについては詳しくないけど、君達は本来そっちの救援を想定されている部隊だって話じゃない? 建前上は「下級」の範囲のサポートしかできないってスタンスみたいだけど、その気になれば起脈に対して権限を逸脱したことだってやれる。……違う?」
 その啓名の言い分は、レーテが泥峰でノクトールに向けたものとは随分と認識の異なる内容だと言えた。レーテの言い分では、さぞかし杓子定規なことしかやらないし、できないような評価だった筈だ。
 啓名から鋭い言葉を向けられるものの、当のノクトールは空惚ける。
「さてね。何を指して権限を逸脱したと言っているかによって、その認識は異なってくるのではないのかな。「下級」という単語で範囲を勝手に想像しているみたいだが、それが指す範囲は全く違う意味合いを持っているかも知れない」
 ノクトールは「できる」「できない」というところを、はっきりとした言葉で明言したくないようだった。
 しかしながら、のらりくらりと明言を避けたノクトールの言動を受けて、啓名は続ける。
「だったら、下級エンジニア権限以上のことをこれから君に要求することになる。けれど「権限上これ以上はできない」とか言い出さないことを願いたいわね」
「だから、何を持って権限以上というかによるといっただろう? 今回、ここで行使できる権限を、下級エンジニア以内に収めろとは誰からも規定されていないんだ。あくまで、俺はここ泥峰ゴルフリゾート敷地内で生じる事態についての「サポート役」という立ち位置に過ぎない。そうであるならば、泥峰ゴルフリゾート敷地内で、サポート役として、下級エンジニア以上の権限を行使することに何の問題がある?」
 相変わらず遠回しな言い方で「できる」「できない」という形での返事を避けた形ではあったが、ノクトールのその発言は「できる」と言ったに等しい。
 啓名もその発言からノクトールのスタンスというものを察したようだ。そして同時に、この状況に置いて、要請さえすれば「ノクトールは応える」という確信を持つ。
「解ったわ。諸々、下級エンジニアや下級管理人以上のことができるものとして、ノクトール君には色々と動いて貰うわ。ノクトール君が下級の範囲に留まらず行動できると言うなら、緑苑平フォレストコンコースに実用に耐え得る白の火を発現させる道筋が立てられる」
「要望事項は大体分かっている。起脈体を用いた起脈石へのアクセスの安定化と、そっちに発現させる白の火をいくらかでも火勢の強いものにしたいんだろう?」
 やはりノクトールとしては、権限云々の余計なことをずらずらと並べ立てるよりも、一言「やれと言え」という思いだったようだ。
 そして、啓名に言われずとも「何をしなければならないか」をノクトールは既に把握しているようだった。啓名へと向けて、要望事項を達成するべく行う内容を宣言し、その承認を要求する。
「下級エンジニア権限では許可されていない例外コードを使って、場を可能な限り安定させる。ゴミが出るんで不正うんたら警告が上がる筈だが、構わずそっちの起脈石で承認してくれ」
「解ったわ」
 そのやりとりを境に、啓名が触れる起脈石の側面には様々なものが浮かび上がってくる。ライトグリーンに発光するそれは象形文字のようでも有り、複雑怪奇な文様のようにも見えた。そして、それは少なくとも日本語や英語と言った既存の「文字」の羅列ではなかった。
 即ち、星の家は起脈の制御に独自の言語らしきものを使用しているのだろう。
 啓名は起脈石側面に浮かび上がるそれらの記号群に目を走らせると、両手の指先でタッチパネルを叩くかの如く軽快な動作で触れていく。操作に関して一切の迷いを持たない啓名の動作を見ている限り、少なくとも「起脈石の操作」という面に関しては、何も心配する必要はないようだった。
 そうして、短い間隔でポップアップを続ける記号群を処理していくと、場の安定化とやらには一定の目処が付いたのだろう。啓名は起脈石から目を離すと、スマホ越しに主窪主へと記号に対する要望の確認を向ける。
「主窪主様を一意に示し紐付けする記号について、何か希望はありますか? もし、あれば、そこに居るノクトールにそれを提示ください」
 啓名の確認を受けて、泥峰サイドでどんなやり取りが為されているかを窺い知ることはできない。けれど、スマホが音を正確には拾えないレベルで、何かやりとりを交わす様子が聞こえても来る。
 星の家の構成員として、ノクトールが主窪主を相手に「こういうことができますよ」だとかいった説明をしているとでもいうのだろうか?
 ともあれ、僅かな間を起き、主窪主からは特段希望がない旨返答がある。
「これといった要望はない。そちらの好きに決めてくれれば良い。我を示す記号とやらも、そちらで適当なものを定めればそれで良い」
「分かりました。では、勝手ながらこちらで適当なものを提案させて頂きます」
 啓名がそう切り返すが早いか、ノクトールはすぐさま主窪主へと候補の記号を提示する。
「こんなんでどうでしょうか、主窪主様? 自画自賛になりますけど、我ながら、ちょっと素晴らしい紋様からなるハイパーシンボルを組み立てられたと思える出来です」
 当然、泥峰サイドで行われているやりとりであるため、ノクトールがどんな記号を主窪主へと提示しているかは解らない。
 それでも「主窪主」を示す記号を立案するというノクトールの仕事は、当の主窪主から好感触を得られるレベルできっちりと行われたようだ。
「それで、良い」
 主窪主の返答は一言だけの事務的なものだったが、そのイントネーションには好意的な驚嘆が僅かに混ざったのだ。
 ともあれ、ノクトールが提示した主窪主を指し示す「記号」が承認されると、今度は啓名の方が慌しさを帯びる。
 緑苑平フォレストコンコース側の起脈石が淡く発行し、その直上に複雑怪奇な紋様が出現した辺りから、啓名が起脈の操作に掛かりきりになり始めたのだ。
 それは奥行きを持った立体的・三次元的な構造を持っていて、一意にこうだと二次元的に書き記せないものだった。ある面から見れば「こうだ」と形が決まるは決まるが、向きを変えるとそれは大きく見え方を変える細工が仕込まれている感じだ。
 啓名はそれをまざまざと注視すると起脈石へと右手を添えて、登録のための作業を再開する。そうして、起脈石の直上に出現した紋様がふわっと小さな粒子の塊群となって霧消すると、一段落付いたと言わないばかりに一つ大きな息を吐く。
「終わったわ。これで、主窪主様の力を、起脈によって緑苑平に発現できる筈」
「点としてちらばった起脈体を群として扱って、起脈をある程度安定化させる作業の方も完了した。まぁ、あくまで気休め程度に過ぎないが、それでもあるのとないのでは体感できる差異が生じるくらいまではやれたと思う」
 啓名がノクトールに要求した作業の方もほぼ同時に完了した形で、後は実際に起脈を用いて白の火を緑苑平フォレストコンコースに発現させるのみとなる。
 啓名はこくんと喉を鳴らして唾を飲み込むと、手を振り翳してその場に登録されたばかりの主窪主の「記号」を出現させた。すると、啓名の利き手の指先には白の火と思しき、小さな火種がパッと生じた。火勢で言えば、それはマッチ棒を擦って火を起こした場合に維持可能な程度の火力だといえばいいだろうか。
 それは、余りにも想定以下の火力だったのだろう。眼前に発現した白の火をまざまざと注視した啓名の表情が、これでもかという程に強張る。
 一方で、驚きを隠そうともしない主窪主の声がスマホからは響く。
「なるほど、……星の家はこんな形で力を借りているわけか。起脈を通して対価を払い、我々の許可のもとで力を起脈の範囲内で発現させるわけか」
 尤も、感心の言葉はそこまでで、そこから先は起脈の有用性に対する疑問が口を吐いて出る形だ。
「もっと大きな対価を払って、もっと大きく奪って行けばいいではないか? こんな微量のやり取りで一体そちらでどんな種火を作り出すつもりだ?」
 主窪主が「種火」と評した通り、啓名が記号を展開し発現させた白の火は、指先に灯る微かな火種レベルのサイズに過ぎない。
 しかしながら、啓名はやや震える声でそれが今の限界だと言う。
「ベースが起脈体で、しかも現状不安定・不完全な起脈を介することで効率まで大きく落ちる中では、……これが精一杯です。渡す対価の度合を上げても、こちらへ発現させられる白の火の威力は大きく変わらないでしょう」
 啓名の言葉の節々から滲み出るものは落胆。もちろん、黒蝗殲滅に必要十分となる白の火を、この一連の作業ですぐさま発現できるなどとは夢にも思っていなかったことは間違いない。しかし、それでもなお、火勢が「種火」のレベルに留まるという結果に終わったことは、啓名に取って厳しい現実を突き付けられた形だった。
 顕著に落胆の色を混ぜる啓名を尻目に、萌が唐突に口を切る。
「ちょっと失礼」
 そういうが早いか萌はひょいと手を伸ばして、啓名の指先に灯る白の火を握り締めた。
 端から見ればそれは白の火を掻き消すかのような行為だったが、もちろん萌の意図は異なる。
 いくら種火といえども傍目には火傷を負いかねない行為でもあったが、萌の表情が痛みで歪むことはなかった。そうして、その代わりといわんばかりに浮かび上がったものは、多くの割合を好奇心に持っていかれた恍惚さを混ぜる顔付きだ。
「ああ、なるほどね。白の火っていうのは、こういうものなんだ。こういう構成から成り立つ力なら穢れを浄化する力になり得るんだね」
 続けざまに萌が呟くように口にした言葉は酷く抽象的で的を射ない内容だった。尤も、言葉にして言い表せないだけで、萌はその行為によって白の火を解析し、大凡それが何であるかを理解したようだった。
 眼前で行われた白の火に絡むそんな萌の行為を目の当たりにして、啓名は当惑の表情を隠さない。
 まさに「そんなことができるのか?」という思いだったかも知れない。スターリーイン新濃園寺の結界の絡みで目の当たりにした、レベルの差を改めて感じた瞬間だったかも知れない。
 ともあれ、そんな啓名を横に置いて、萌は白の火を実用に耐え得るレベルにできると明言する。
「ふふ、でも、こういうものなら、作り出せはしないけど増幅することはできる」
 そういうが早いか、萌は白の火を掴んだ握り拳を啓名の眼前でゆっくり開いて見せ、そこに大きく火勢を強めた火球サイズの白の火を発現させて見せる。
「こんな風に、ね」
 真っ先に驚きの声を上げたのは、正威だ。
「白の火にブーストを掛けたのか! 掛けられる代物なのか……? だったら、どこまでブーストできる? どこまで火勢を上げられる?」
 矢継ぎ早に飛ぶ質問に、萌は小首を傾げる仕草を合間に挟み、思案顔で答える。
「原理的には重ねとかと一緒にやれちゃう感じだね。特別難しいことはないよ。今は試しにあたしの生命力を種火にちょっと注ぎ込んで火勢を強くして見せただけだけど、正直どこまで火勢を拡大できるのかって辺りはまだちょっと何とも……って感じかな。だけど、多分、注ぎ込めば注ぎ込むだけ拡大できるんじゃないかな?」
 感触、萌は白の火を実用に耐え得るレベル以上にでも、火勢を挙げられそうだと言った。その一方で、白の火にブーストを掛ける際の注意点についても、実際に試した結果として気付いた点を述べる。
「ただ、原資に使えるのはあたしや正威から供給される生命力のみっぽいから、余り無理するとこれはお互いバタンと行き兼ねないよ。普賢の呪詛がない期間で大分マシにはなったけど、正威だってあれに晒されていた時間で結構ゲージを持っていかれてるでしょう? 無理はできないよ」
 さらに、萌はぐるりと周囲を見渡し、黒蝗が舞う辺りを飛び交う現状を指して言う。
「後さ、いくら増幅したところで、フォレストコンコースを飛び回る黒蝗を全て焼き払うっていうのは無理くさくない? 仮に時間を掛けて入念に潰して回るにしてもこの火球サイズのものを振り翳している限り絶対抜け漏れが出るよ?」
 空間面積当たりの数はまだ大したことないものの、黒蝗は既に緑苑平フォレストコンコースの至るところを縦横無尽・自由自在に飛び交っている。加えて言えば、RFが黒蝗の移動を制限できているのか自体も疑わしく、行動範囲が既にRF外にも及んでいる恐れもある。
 そして、次に萌がその目で捉えたものは赤鬼だった。
 一際激しく黒蝗が集る様を見るに、恐らく齧る等で連携して攻撃を加えているのだろう。
 赤鬼も全身に集る黒蝗を懸命に引き剥がしたり、武器を振り回したりして排除を試みていたが、如何せん数が多過ぎるし、体格の差もあり過ぎた。どのような状態になれば、赤鬼が完全に動かなくなるかは不明だが、この調子で黒蝗に襲われ続ければ遅かれ早かれその時が来るだろう。
 現状、黒蝗は最優先で赤鬼を狙っていると言って良い。従って、赤鬼が倒された時、黒蝗の行動にターニングポイントが訪れると考えて間違いないのだろう。その時、白の火という脅威を察して起脈石に目を向けるのか。遙佳が提示した未来視の中でそうだったように人間を襲うようになるのかは解らないながら、白の火をもって危害を加えようとするものをスルーするとは思えない。
 それを踏まえると、赤鬼が健在の内に、この白の火をもって黒蝗に対処する方法を模索する必要があるだろう。
 加えて言えば、白の火云々のやりとりをしている間に、黒蝗はどこからともなく現れてはその総数を増加させ続けていた。それこそ、主窪主の記号を起脈に追加するやりとりをしている合間にも、体感できるレベルで増加していった形だ。事態は刻一刻と悪化している。
 しかしながら、萌の懸念を前にして、起脈の使用を提言した啓名は落ち着き払った態度だった。そうして、ここにきて啓名からは「どうやって黒蝗に対処するのか?」についても言及が為される。起脈の使用を提言した段階で、ある程度構想として「対黒蝗」のことも考慮していたようだ。
「起脈石には、起脈の影響が及ぶ範囲内に展開されたRFに対して、特定の効果を付与する機能があるわ。例えば、RF内に居る人達が感じる痛みを軽減したり、自然治癒力を高めたりとか……ね。散らし鈴もそう。あれがRFによって威力を強化して運用していた良い典型例になるかな。その機能を転用すれば、RF内部に居る全てのものに白の火の影響が及ぶようにすることができる筈」
 啓名は「筈」という推測でそう述べたが、白の火に触れること事態が初めてであるのだから、それをやるとなると当然「ぶっつけ本番」ということになる。
 ぶっつけ本番に対する懸念はいくつもある。例えば、白の火を起脈石の他の機能と同様にRF内へ本当に展開できるのか、などだ。
 当然、萌からはその懸念が口を吐いて出る。
「起脈石や起脈自体が白の火の負荷に耐えられませんでした、なんてオチにはならないよね?」
「……」
 啓名がそれを答えられないことは明白で、萌も今この場でその可否を求めたわけではなかった。
 萌としては「事前にそのチェックを行う術はないのか」を問うた意図だったのだが、ただただ押し黙る啓名の腹は「まずは駄目元でもやって見るべき」というものだったろう。
 事前にチェックをして駄目だというならば、対策を打ってから実行するという方策が取れる。しかしながら、ぶっつけ本番で駄目だった場合、最悪起脈自体を損傷し、そもそもその目論見が潰える可能性はないのか?
 半ば萌はそこを追求しようとするが、言葉に詰まる啓名を前にその姿勢をさっくりと翻し改めた。
 何より、神河の中でこの目論見が潰えた場合、取り得る手はほぼ決まっていたからだ。正威も萌も口には出さなかったが、その場合「緑苑平フォレストコンコース内での対処を諦める」という形へと転ぶことになる。
 当然、遙佳辺りは真っ向から反対するだろう。
 しかし、切り札を切った遙佳にも自身が述べた「1時間ぐらいは……」という限界がある。起脈と白の火を用いて黒蝗を駆除するという目論見が潰えた場合、遙佳の活動限界時間である1時間以内に有効性のある代替案を実行しなければならない。神河や星の家の消耗度合いを考慮すれば、それが現実的ではないことぐらい誰の目にも明らかだ。
 ともあれ、俯き気味に視線を外し押し黙ったままの啓名へと向け、萌はここで質しておかねばならないさらなる懸念を口にする。
「もう一つ心配なのは白の火が黒蝗や雨角楠翁だけに影響力を及ぼすものだとは思えないって言う点かな。もしも、普賢の呪詛みたいに、本来の目標以外にも多大なダメージを与えたりする可能性があるのなら安易に起脈で緑苑平フォレストコンコースにばらまけないわけじゃない?」
 そんな萌の懸念は、未だ回線を繋いだままのスマホ越しに主窪主によって払拭される。
「緑苑平という空間を白の火で満たすということをすれば、大なり小なりその場に居る全てのものに影響は及ぶだろう。しかしそれでも、普賢の呪詛よりか影響はずっと小さいもので済む筈だ」
 萌はそれが具体的にどんなダメージになるかを危惧した節があったものの、そこについて一歩踏み込んだ確認を向けることはなかった。やもすると、普賢の呪詛のように全身へと重しが加えられるといったようなものではなく、直接「火傷」と行ったような被害が及ぶ恐れも考えられたのだが、主窪主の言った「普賢の呪詛よりか影響はずっと小さい」という言葉を半ば強引に肯定的に受け捉えたようだ。
 その上で、神河が視線を向けるのは、今まさに狂気を放ちながら普賢と対峙する遙佳だった。
 まざまざとその様子を確認するも、口元を笑みで歪め、ぎらついた目付きで普賢とやりあう今の遙佳にその是非を問うてまともな回答が返ってくるとは思えない。
 正威は早々に、遙佳の判断を仰ぐことを「無理だ」と判断した。その上で、神河・星の家の判断の元、啓名の提案を実行に移すことを宣言する。
「巻き込まれただけの一般人にもある程度の影響が及ぶってことを一番反対しそうな久瀬さんはあの調子……か。よし、やろう!」
 尤も、その宣言は直後の萌によって待ったが掛かる。
「待った。後、もう一つだけ。RF内部を白の火で満たして、上手いこと黒蝗を殲滅できたとする。普賢についても招現寺に通じる穴の底へと、上手いこと押し込めたとする。それで、その穴に蓋をするのはどうやる?」
 招現寺へと続く穴に蓋ができなければ、緑苑平フォレストコンコース内を飛び交う黒蝗を駆除できたとしても、普賢を押し返したとしても、片手落ちだ。
 萌がそれを啓名に「どう考えているのか?」を問うたのも当然だろう。
 それについても啓名はノープランというわけではなかった。具体例を挙げ、その方策について説明する。
「それも起脈の機能で一時的に代替できるわ。起脈の機能の中には、隔壁を作り出すものがある。ちょうどわたしがあなた達を相手にスターリーイン新濃園寺で仕掛けたような隔壁の、巨大なバージョンを構築できるとでも思って貰えればいいかな。今の起脈で展開できる隔壁では黒蝗の行動を制限できなかったけれど、それに白の火の力を混ぜて展開すれば、……どうかな? 黒蝗が穴の中からこっちに這い出てくるのも防げるとは思わない?」
 招現寺へと続く穴の蓋として、啓名が挙げたもの。それは、正威相手に展開した行動妨害目的の障壁だと言う。
 萌は正威をまじまじと注視する。
 実際にそれと対峙し、また障壁を破壊もした正威に、あの障壁が蓋として機能し得るかを確認するためだ。
「萌。白の火をその辺りに居る黒蝗に、近付けてみてくれないか?」
 正威の要求を聞き、萌はその掌に掲げる白の火を近場の黒蝗へと向ける。すると、黒蝗はすぐに怯んだように後退った。さらに白の火を近付けようと萌が近付く素振りを見せれば、黒蝗はすぐさま羽を広げてそこから逃げ去った。
 正威が何らかの見解を述べるまでもない。
 それは一目瞭然だった。黒蝗は白の火を忌避する。
 その事実が解ってしまえば、萌は正威をまざまざと見返した後、大きく頷く。
「オーケー。色々と起脈におんぶに抱っこってところは正直気に食わないけど、そこまで算段を立てられているならその案で行きましょう!」
 神河の了解を受けたことで、啓名はすぐさま起脈の操作に取り掛かろうとする。
「わたしの起脈のアクセス権限だと、セキュリティの解除とRFに実行させる新コードの生成・追加に多少時間が必要になるわ。申し訳ないけれど、少し時間を、……あれ?」
 啓名は起脈を操作しながら神河の方を見ることもなく「時間が必要となる」旨、口を切っていたのだが、その途中で突然言葉に詰まった。起脈を操作するその手を止めたことから、その動揺は起脈絡みのことであることが解る。
「……何これ? どうなっているの? わたしに、起脈の第三種特別例外実行権限が付与されている?」
 戸惑う啓名を尻目に、スマホ越しに口を切ったのはノクトールである。
「下級エンジニア・下級管理人以上の権限を行使する必要がある時には、こんな風に対処するんだ」
 ノクトールによって権限付与が恣意的に行われたことを仄めかされ、啓名は動揺の色合いをより程度の酷いものにした。そこに灯る感情は、……何だろうか。いくらかの感謝を混ぜつつも、依然「当惑」といったものが大部分を締めていただろうか。
「ノクトール君。君達は……」
 重々しく口を開く啓名がそこに続けただろう言葉は、恐らく、苦言。
 それが火を見るよりも明らかだったからか。ノクトールは啓名が言下の内に、半ば強引に口を切る。
「俺達だって、基本的にはそちらさん達が言うところの「下級」権限しか付与されていないんだ。ただ、必要がある場合には、こうやってそれ以上のことができるようにしてしまうのさ」
「つまり、その気になれば君達は誰にでも「第三種特別例外実行権限」を付与することができるってわけ?」
「まさか。それは、基本的には自分自身にしか付与できない。今回は、ちょっと狡をした。まぁ、……何だ。緊急事態だろう? そこは見逃して貰えると思ってやったことなんだけどな」
 緑苑平フォレストコンコースの状況を鑑みれば、それを「見逃さない」なんてことがあるわけはない。ノクトールの口調には、そんな確信が滲み出ていた。しかも、権限付与はあくまで「善意」でやったという建前だ。
 ノクトールの言うように今は緊急事態で、この不正は啓名に取って渡りに船の対応だったことも間違いない。
「不正コードを、使ったのね?」
「……」
 ややきつい詰問口調の啓名に対して、ノクトールは言葉を返さない。
「……まあ、いいわ。今回は見なかったことにしてあげる。緊急事態、だものね」
 啓名は再び眉間に皺を寄せると、苦渋の決断だとでも言わんばかりの声でその行為を渋々許容した。
 あくまでスマホ越しの、音声のみのやりとりだからノクトールがその啓名の決断に対してどんな表情を見せていたかは解らない。しかしながら、恐らくそれは冷や汗をかくと言った類いの苦々しいものではなくて、してやったりといった類いの満足そうなものだった筈だ。
 ともあれ、ノクトールから助け船を出されたことで啓名の説明も大きく変容する。
「例外権限があれば、コードの生成と追加はすぐに完了するわ。新生コードの実行も実証テストだと言い張り騙して起動させれば、起脈石が破損しない限りエラーを吐こうが、大きな負荷が掛かろうがコードを走らせ続けられる。ちょっと待ってて、すぐにコード回りの作業を終わらせるから」
 そう言うが早いか、啓名は起脈石の側面に次々と表示される文字と思しき羅列群に視線を走らせ、一端中断していた操作を再開させていく。
「RF内部に白の火の影響を展開するコードの生成を完了。白の火を得る代わりに、主窪主様へと支払う対価の供給者を、わたしとノクトール君に設定」
 ぼそぼそと啓名の口を突いて出たそれは、恐らく只の独り言だった。作業工程が現状どうなっているのかを神河相手に指し示すためのものではなく、作業に全集中力を傾けているからこそ不用意に呟き漏れ出たものだ。
 啓名は真剣な目付きで起脈石に灯る文字の羅列群に目を走らせると、唐突に作業の完了を宣言する。
「事前準備は完了」
 そうして、そこで一端言葉を句切ると、すぐさまコードの実行に取り掛かる。
「……用意は良い? 実行するわ」
 尤も、その確認の言葉は誰に向けたものかすらも不明瞭だった。そうして、こともあろうに誰からも返事がなかったのにも関わらず啓名は新生コードを問答無用で実行した形だ。
 直後、起脈石の側面にはライトグリーンとイエローとに分かれて発光する記号群が無数に浮かび上がった。それまでほとんど表示されなかったイエロー色の記号群が目に付く形ではあったが、新生コードを走らせる起脈石としてはそれが正常な状態らしい。新生コードの実行、及び起脈を用いて緑苑平フォレストコンコースに白の火を展開する機能に異変はみられない。
 新生コードの実行者である当の啓名も、取り立てて慌てた様子一つ見せない。
「新生コードは一部の例外を除いて正常動作を確認。RF内への「白の火」の展開を開始……」
 啓名は相変わらず起脈石の稼働状態についてぼそぼそと口を切っていたが、RF内部に何か変化が生じたことを実感できるかといえばそんなことはなかった。当然、神河や啓名自身にも何かしらの影響が生じて然るべきではあるのだが、呪詛や禁呪がもたらす類のフィードバックは現状何もなかった。
 正威は緑苑平フォレストコンコースの側壁に張り付いている黒蝗の様子を数匹確認するが、そちらにも特に変わった様子は見られなかった。
 新生コードとやらの正常動作が疑われ兼ねない状況になりつつあったのだが、啓名は眉間に皺を寄せる酷い顔でRF内へと何の変化も生じさせられない点についてこう言及する。
「予想できていたことだけど、……起脈を通して主窪主様から供給される量だけじゃ全然足りない! RF内に及ぶ白の火の濃度は、0.06%からビタ一文上がらないわ!」
 それがどれだけの濃度になれば、黒蝗に影響を及ぼすレベルに達するのかが不明ではあったが、恐らくそれもぶっつけ本番で具体的な数値なんてものは提示されないのだろう。唯一、現時点で自明として分かっていることは、目標値は分からないながらそれをある程度のラインまで引き上げないとこの作戦が失敗に終わるということだけだ。
 萌は大きく溜息を吐くと、ぽんっと正威の肩を叩く。その意味するところは、白の火の火勢を整えるため「ブーストを用いて手助けをする」という意思表示である。
 自身の言葉で「無理はできない」と言った矢先の萌の行動ではあったものの、正威はそれを静止できない。
 ブーストを用いた萌の協力で、もし数値が劇的に改善するならばまだ目はある。その一方で、萌がブーストを用いて加勢しても、数値がビクともしないのであればもう「詰み」だろう。
 額に汗を浮かべて起脈石に浮かび上がる記号群と睨めっこをする啓名に、萌が助け舟を出す。
「こっちも残量計がエンプティ付近まで来てるけど、あたしも直接火をくべるよ。ここらで神河も気張っておかないとね。起脈に白の火を送り込むにはどうすれば良い?」
 萌に向き直った啓名の表情は、疲労と焦燥が色濃く交じる酷いものだった。尤も、萌の申し出が助け舟だと分かった後は、ややその度合いを改善させるものの、同時に肉体的な限界が近いことをまざまざと感じさせもする。
「……ありがとう。今、受入口を展開するわ。ライトグリーンに発光する円が起脈石の側面に浮かび上がる筈だから、そこに手を付いて貰って送り込んでくれれば……」
「オーケー」
 そのやり取りの直後、起脈石の側面には啓名が述べた通り、ライトグリーンに発光するバレーボール大の円が生じた。
 萌はそこに手を添えると、白の火にブーストを掛け注ぎ込む。しかしながら、30秒〜1分と時間が経過していっても、何ら変化らしい変化は生じない。そのまま3分近くが経過しようとして「もう、ここまでか」と思われた矢先のこと。とある瞬間を堺にして、緑苑平フォレストコンコースを取り巻く空気ががらりと一変した。
 その境は、突然、空中にマッチを擦って火を起こしたレベルの小さな火種がぽんっと生じたことだ。
 そこを堺として、正威はぐぐっと緑苑平フォレストコンコース内の温度が上昇を始めたような錯覚を覚えた。
 その変化を皮切りにして、緑苑平フォレストコンコースのあちらこちらで状況が大きく変貌を遂げ始める。ちりちりと至るところで白の火の小さな種火が出現するようになったのだ。すると、それまで縦横無尽に緑苑平フォレストコンコースのあちらこちらを飛び回っていた黒蝗の動きがあっと言う間に鈍り始める。白の火による影響は、真っ先に黒蝗が持つその機動力へと制限を生じさせたらしい。
 続いて、これでもかと赤鬼に集っていた黒蝗の集団がぼろぼろと力なく剥がれ落ちていくようになる。そうすると、ようやく赤鬼の素肌が露出されるようになったのだが、そこには件の硬質化した黒い痣が無数に広がっていた。赤鬼のあらゆる行動に引っ掛かりを生じさせていた黒い痣は、黒蝗によってもたらせられたものだったらしい。
 赤鬼も黒蝗同様白の火の影響を受けているのだろう。それまで以上に動きを鈍重化させながらも、懸命に自身へと集る黒蝗の排除に躍起となる。
 加えて、緑苑平フォレストコンコースへと白の火の影響をばらまいた影響は、思わぬところにも及んだ。
 狂気をまとった遙佳を、正気に立ち返らせたのだ。
 普賢を攻め立てるその手を突然止めた遙佳は、ふいっと振り返って神河と啓名の居る起脈石の方を確認した。
 既に、普賢は遙佳によって萌の八つ重ねで頭を潰された時と同様、床に突っ伏し完全に身動きできない状態にまで追いやられていた。もしも狂気に囚われた状態から立ち返らなければ、遙佳は微動だにしなくなった普賢へとまだまだ逓占を突き立て続け、負のエネルギーを吸い上げ続けたのかも知れない。
 ともあれ、正気に立ち返った遙佳は、自身の置かれた状況を確認するべく周囲へと頻りに視線を走らせる。狂気に囚われていた間の記憶というものが、朧気なのかも知れない。
 遙佳の目に飛び込んできた光景は、動きを鈍重化させ見る見る内に弱っていく黒蝗の様子だった。ただ、その一方で、黒蝗が緑苑平フォレストコンコース脇にある排水口や、天井に設置された送風・排気ダクトの中へと逃げ込み、白の火の影響から逃れようとする様も見て取れる。
 そうすることでRF内を満たす白の火の影響を軽減したり、無効化したりすることができるかどうかは不明だったが、兆候としてそれは好ましくはなかっただろう。白の火による黒蝗駆除の確実性を上げるためには、逃げ場を潰しておくか、そもそも逃げられないようにするのが望ましいのは言うまでもない。
 しかしながら、黒蝗が取るその行動を前にして遙佳が何かしらの反応を返すよりも早く、場は俄に緊迫感を帯びる。
 赤鬼だ。
 膨大な量の黒蝗によって襲い掛かられ身動き取れなくなっていた状況から開放され、強靱な意志力を持って再び行動を始めたのだ。しかも、その眼窟に灯る炎が捉えるのは、普賢を行動不能へと追いやった遙佳その人である。
 自身に集った黒蝗を引き剥がした後はそれらに対して目もくれず、普賢に脅威を与える遙佳の排除を優先するつもりらしい。辿々しい足取りで、いつかの時よりもより行動全般に引っ掛かりを生じさせながら、それでも赤鬼は一歩一歩確実に遙佳へと向けて足を進めんとする。
 そんな赤鬼と遙佳の合間に、バックスが割って入る。
「そこまでボロボロになっても、普賢の救援に行こうってのか。……見上げた根性だな。でも、悪いが、行かせてやることはできねぇよ!」
 先陣を切って、赤鬼へと攻撃を仕掛けるのはレーテだったのだが、当の赤鬼は目もくれない。払い除けようとさえ、その攻撃を防御しようとさえしない。
 赤鬼が遙佳の元へと到達するまでにはまだまだ時間が必要なのは間違いない。しかしながら、足止め足り得る攻撃を行っていた黒蝗が白の火の影響によって不活発化してしまい、且つバックス・レーテの攻撃を赤鬼が意に介さないというのなら、遙佳の元に到達するのはそう遠くない未来だろう。
 正気に立ち返った遙佳はバックス・レーテコンビに加勢するかと思いきや、ぐるりと周囲に視線を走らせその目に正威を捉える。すると、未だ微動だにしない普賢を改めて横目で一瞥した後、正威に向け手招きをし「今の内だ」と自身の元へと来るよう要求する。
 当初、正威はその手招きに応じることを躊躇った様子だったが、そうしていても埒が明かないと思ったようだ。
 萌と啓名の様子を一瞥し、周囲の黒蝗が二人に危害を加えようとする素振りを見せないことを確認すると、遙佳の元へと駆け寄る。
 自身の元へと駆け寄って来る正威に、遙佳は満足そうに口を切る。
「黒蝗の駆除、いい感じだね」
 正威は僅かに思い悩んだ後、遙佳のその認識を首を横に振って否定する。
「RF内に白の火を供給する為の生命力が足りない。起脈を通して主窪主様から提供される分では全く足りないらしく、今は萌がブーストを掛けて補っているところなんだけど、……このままでは長くは維持できない」
 狂気に囚われていたこともあって、正しい状況判断ができていないかと思いきや、遙佳は正威のその説明に意外にも同意を返す。
「ふふふ、ああ、そうだと思った」
 同意を示す傍ら、口元を歪めて笑って見せた遙佳の様子からは、不意に狂気の片鱗が漏れ出た。
 狂気から立ち返ったと思われた遙佳だったが、完全に逓占による影響から解き放たれたというわけではないようだ。いうなれば「意思疎通が可能なレベルで、逓占の影響力から立ち返っている」とするのが正しかったかも知れない。ところどころ、言動がおかしい感は否めなかった。
 ともあれ、遙佳はそういうが早いか「RF内に白の火の影響を持続させ続けることが困難である」という事実に対し、対策案を提示して見せる。
「じゃあ、こうしようか。逓占を通して、今あたしの体内には多くのエネルギーや業(カルマ)が流れ込み蓄積してる」
 遙佳は自身の胸元をポンポンと叩いて見せると、自身が置かれる状態についてこう言及する。
「ふふ、多分、数値化したらヒットポイントも上限値以上に回復しているような状態だね。正威君を通して萌ちゃんに提供する生命力が足りないんでしょう? 好きなだけあたしから奪っていけばいいよ」
 遙佳は「どうぞ」と言わんばかりに両手を広げ、正威に対峙する。
 一方で、対する正威は「そうは言われても……」といった具合の困惑の表情だ。
「奪うって簡単にいうけど、一体どうすれば……?」
 遙佳はキョトンとした顔を覗かせた後、さもその正威の言葉は「意外だった」と言わないばかりの態度を見せる。
「どんなやり方だって良いよ。睡魔やサキュバスみたいな低・中位の魔族がやるような、エナジードレインを使えたりはしない? 後は、そうだな、房中術とかいうような奴?」
「残念ながら、そんな技や魔法は使えないな」
「あれ、そうなの? あたしの勘違い、……かな? やれちゃいそうな佇まいなのにな、正威君」
「それは、偏見だよ」
 苦笑する正威を、遙佳はまじまじと真顔で見返す。どうやらエナジードレイン云々の見解は、強ち冗談の類いというわけではないらしい。
「ううん、多分、正威君にはその才能があるよ。あたしがそう感じるってことは、多分間違いないよ。あたしにはそういうのを見抜く才能があるみたいなんだよね」
 そこで言葉を区切ると、遙佳は再び正威にじっと真摯な視線を向け、こう忠告する。
「才能あるかもって言ったけど、正威君はエナジードレインをかなり本気で習得するべきだね。萌ちゃんに力の原資を提供するタンクとしての役割も求められているのに、減った容量を自力で回復させる手段がないのはちょっと頂けないんじゃない? それも、できれば相手の性別に関係なく生命力を吸い上げられるようなのが最適だね!」
 尤も、正威に取ってそれは「言うは易く行うは難し」の典型例でもあった。エナジードレイン然り、それを補う手段があるならもう習得しようと手を打っているだろうし、何ならもう習得し終わっていてもおかしくはなかった。
 だから、遙佳の提言を前に正威は曖昧に苦笑を返すしかない。
 それでも遙佳は言うだけ言って満足したようで、それ以上、正威に対してエナジードレイン云々の話題を深堀りすることはなかった。その上で、正威にその手段がないのなら「代替案を用いるまで」だと遙佳は続ける。
「仕方ないな。だったら、もう一つ、ここらで大技を使っちゃおうかな。みんな、この場をどうにかする為にヒィヒィ言っているんだから、あたしもここでもう一踏ん張りしておかないと、ね。正威君があたしから奪い取れないと言うなら、あたしから正威君に分け与えるしかない」
 今度は正威がキョトンとした表情を返す番だった。そして、すぐさまそれが本当に可能なのかを問う。
「久瀬さんは、それができるのか?」
「あたしもエナジードレインなんて真似はできないけど、受け渡す手段としては「血返し(ちがえし)」って方法があるよ」
 血返しという単語を口にするや否や、遙佳は緑苑平フォレストコンコースに散らばる支柱の欠片やガラス片といった無数の残骸へと目を向ける。すると、遙佳はその中から一際鋭利な面を持つガラス片を、さも「いいものを見つけた」という顔で拾い上げた。
 遙佳はそれを左手に収めると、唐突にぐっと力任せに握り締める。当然、掌にはガラス片が食い込んで傷が生じる。しかもその傷は浅いものではないようで、ポタポタと血を滴らせるぐらいには深いものとなったらしい。
 ただ、遙佳は痛みに顔を顰めることすらしなかったので、そうなることを承知の上でやったのだろう。
 意図を理解できない正威は思わずギョッとする。
「一体、何を……」
「この程度の傷は、逓占の吸い上げる力があたしにも配分される影響ですぐに回復するから何も心配いらないよ」
 遙佳は徐ろに天を仰ぎ見ると、左手から滴る血を口に含んでいく。そうして、一定量、自身の血を口に含んだところで、正威の方へと向き直る。そうして、遙佳はさらに自分の方へと近付くよう正威へと手招きをする。
 正威はやや怪訝そうな表情を合間に挟んだ後、それでも要求されるがままに遙佳へと近付いていった。
 正威が遙佳の一足の間まで足を進めた矢先のことだ。遙佳は勢いよく正威び飛び掛かり、身動きできないよう抱き止めると、その勢いのまま口付けをした。
 次の瞬間、ぬるっとした金属味の熱を持った液体が正威の口の中に注ぎ込まれた。
 言うまでもない、それは遙佳の血だ。
 反射的に抵抗しそうになった正威だったが、遙佳の言った「血返し」という言葉が脳裏を過る。その行為は、受け入れなければならないものなのだろう。
 何より、注ぎ込まれる血液を飲み込むまで、頑として口を離しはしないという意思の籠もった遙佳の瞳もそこにはあった。
 これこそが血返しなのだろう。
 意を決して、正威は遙佳の血を飲み込む。尤も、頭では「飲み込むぞ」としっかり意識したにも関わらず、実際に遙佳の血が喉を通って腹に落ちる感覚を前にして、正威は目を白黒させる格好だった。
 時間にすると数秒。
 しかし、正威の喉を滑って落ちていった血の量は20〜30mL程度はあったのではないだろうか。
 口移しで受け渡した血を全て飲み干したことを、遙佳は正威の口に舌先を捩じ込んで確認する。そうして、正威の口の中に血が残っていないことを入念に確かめた後、ようやく口を離した。
 口移しという行為で必然的に絡まりあった唾液が糸を引き、それが現実に行われたものであることをくっきりと強調し浮き彫りにする。
 遙佳は「にひひ」と笑うと、気恥ずかしさを見せるでもなく、悪びれるでもなく、ただ舌なめずりをした。
 正威はそこに全く意識していなかった「妖艶さ」を感じて、ふいっと顔を背けていた。
 尤も、その気恥ずかしさに意識を持って行かれたのも一瞬のこと。次の瞬間、ぶわっと正威の体の中から自身を焦がし焚きつけるような熱が止めどなく吹き出してきたからだ。心臓が激しく脈打ち、足の先から頭の先まで沸騰せんばかりの勢いで遙佳の「血」を通し熱が体を這いずり回る。
 思わず正威の口から呻き声が漏れ出る。
「あぐッ、ああ!? 熱い! 体が、焼けるように熱い!」
「どう滾ってきた? 本当は、瀕死のダメージを負った仲間に、生命力を分け与えるために行うような技だけど、……たっぷり受け渡せたでしょう?」
 それが正常な反応だとでも言わんばかり、遙佳は涼しい顔で呻く正威を眺めていた。
 遙佳は満足そうな表情で「血返し」の効果の程を正威に尋ねる。
「どう、正威君の空のタンクを半分ぐらいは埋められた?」
 遙佳の問い掛けに対して、正威はまだまだ言葉を返せる状態にはないようだった。全身を這う熱に浮かされて、呻き声だけが口を突いて出る。
 一方で、そんな正威の状態を知ってか知らずか、遙佳は平然とした調子で言葉を続ける。
「逓占が吸い上げ食い散らかしたカルマも相当量受け渡すことになっちゃた筈だから、白の火にくべてガンガン燃やしちゃってよ」
 血返しによって遙佳から受け渡された望まぬものは、その「カルマ」とやらだけではなかった。
 遙佳からは幾らかの狂気も、間違いなく正威に感染していた。
 正威はややハイに触れたおかしなテンションで、ようやく遙佳に血返しの効果の程の如何を返答する。
「はは、俺のタンクの半分どころか、ほぼ満タンまで埋まったよ。正直、ちょっと信じ難いレベルだ。改めて、久瀬さんが只者ではないということをまざまざと実感させられたよ」
 遙佳を見る正威の目には、驚愕の色に混じって僅かに「疑惑」の色も混ざった。改めて「久瀬遙佳」という人物が、その言葉通り只者ではないことを思い知らされたからだろう。
 魔法を使う点にしてもそう。血返しなんて技を使う点にしてもそう。何より、逓占なんてものを所持している理由についてもそうだ。
 背後に存在するもの如何によっては、遙佳は、神河、惹いては久和一門に取って危険人物となり得ることを改めて理解した格好だった。
 そんな正威の、一転毛色の変わった視線を知ってか知らずか、遙佳はさらりと「血返し」の効力が上振れしたことについて嬉しそうにこう言及する。
「ふふ、さっきも触れたけど、今のあたしは逓占のお陰でゲージが振り切れてるからね。普段のあたしが正威君に血返しを行ったとしても、きっと半分程度も埋められないよ。こればかりは吸生剣・逓占様々だね!」
 遙佳が発揮する今のパフォーマンスを「逓占によるもの」だといった言葉を疑う余地はない。実際、血返しの効力についても、逓占の影響が及んだ結果であるのは間違いないだろう。
 しかしながら、それでも正威の目には「遙佳」という因子が際立って見えた形だった。
 遙佳は飛び抜けている。そうだ。玉石混交が入り乱れる中にあって飛び抜けた「玉」であり、しかもまだまだ荒削りな部分を多分に持ち、一際眩しくきらきらと輝く余地を持つ。
 きっとこれから、この「遙佳」の意志と行動が、櫨馬地方界隈で生じる全ての事象の肝になる。
 これから緑苑平フォレストコンコースの事件を鎮めんとする状況下で、遙佳の背後にあるものを問い詰めるつもりはさらさらなかったものの、正威はそれを強く強く意識していた。且つ、その存在を濁したまま手を組んだことを、今になって悔やんでもいた。
 きっと、それを明確化するチャンスは、緑苑平フォレストコンコースを鎮め終えるまでは訪れないだろう。
 正威の意識が緑苑平フォレストコンコースから離れたことを知ってか知らずか、不意に遙佳が声を張り上げる。
「さて、ちゃっちゃと、この状況を終わらせちゃおうか! 今は白の火の影響も良い面だけが浮かび上がって来てるけど、このまま濃度を上げていけば良くない面も必ず顔を出してくる筈!」
 遙佳は具体的にその「良くない面」について言及しなかったものの、それは確かにそうだろう。
 実際にどんな影響が及び始めるかについては生じてみないと解らないのが正直なところだが、きっとそれは人が持つ「汚れ」の側面へと波及するのではないだろうか。
 黒蝗を完全に駆除することを考慮すれば、まだまだ白の火の濃度を上げるべきだ。
 どんな影響が及ぶかが解らない以上、それまでに片せることは全て片しておいた方が無難だ。
 遙佳は徐に逓占を握り直すと、正威に向け今後の業務分担を半ば一方的に、一見不公平と思える内容で宣言する。
「普賢を穴の底へと追いやるところまではあたしが引き受けるから、黒蝗と起脈と白の火のことは任せた、正威君!」
「それ、配分おかしくないか?」
「それだけ、神河一門には期待してるってことだよ!」
 そう大きく声を上げるや否や、遙佳はふいっと正威に背を向けた。
 余りにも唐突に話をぶつ切りにした遙佳の様子を正威は不審にも思ったのだが、普賢の様子を確認してしまえばその理由を理解しないわけにもいかない。
 既に普賢は床に横たわった状態から脱し、ムクリと起き上がって自己回復を進める状態にあったのだ。放っておけば、すぐに再び呪詛を周囲にばらまくようになるだろう。
「さぁ、逓占! 今夜は大盤振る舞いしてあげる。もう一戦、付き合ってあげる。二度目なんて滅多にないことなんだから、思う存分暴れ回って見せなよ!」
 遙佳は再び逓占に親指を押し当て、切り傷を作って意図的に出血を生じさせる。
 再び、あの何とも言えない程度の低い欲望に駆られた視線のような何かが周囲にばらまかれるのかと思いきや、今回遙佳が狂気をまとったことに起因して辺りに波及するものは何もなかった。
 ただただ、遙佳だけが禍々しい狂気に侵食されていく。
 ただ、ぶわっと立ち込める禍々しさも鋭く普賢のみに向き、そこに敵を見誤る余地などないように見えた。けれど、遙佳は例によって例の如く覚束なくなった言葉で、これから行うべきことを何度も何度も支えながら宣言する。先程よりも浸食度合いはずっと上がったみたいだ。
「ふ、普賢を、あ、穴の底に、お、押し返して、あ、あたしは、み、未来視を覆す!」
 そうしないと自身を制御できないと言わんばかりのやり取りながら、少なくともそれができている間は「狂気」に呑まれてしまうことはないのだろう。
 とんっと勢いよく遙佳が地を蹴って、普賢へと飛び掛かっていった矢先のこと。「ドオンッ」と一つ大きな音が響き上がった。
 音のした方を確認すると、バックス・レーテコンビが赤鬼に片膝をつかせていた。あれだけ「ダメージが通らない」と言っていたわけだが、突破口を見付けたらしい。
「まだモドキのレベルでも、短勁は効くだろう、赤鬼さんよ!」
 張り上げたバックスの言葉を効く限り、遙佳に先んじて短勁のコツを習得したようだ。実際にその身で短勁を食らった効果は大きかったのだろうか?
 ともあれ、当人はモドキという表現を使っていたが、それでも赤鬼に片膝を付かせるレベルで運用できているのなら、それは遅かれ早かれちゃんとした「もの」になるのだろう。
 赤鬼・普賢を相手に回す目処がついた一方で、白の火を起脈にくべる萌も状態を大きく復調させていた。
 何よりもやはり、正威が大幅に生命力を回復させたことが大きい。
「萌! 生命力は確保した。ありったけ白の火にブーストを掛けていいぞ!」
「解ってる……し、もうやってる!」
 そう萌が威勢良く吐き出した矢先のことだ。
 緑苑平フォレストコンコースのあちらこちらでは、鬼火のように白の火が生じては掻き消えるような現象が発生するようになる。
 そこまでいくと、黒蝗は完全に身動きが取れなくなるレベルまで追い込まれたようで、あちらこちらに集団で固まっては白の火の影響をどうにかやり過ごそうとしている様子だった。しかしながら、既に耐え得る状況にはないのだろう。ふるふると小刻みに震えたかと思えば、まず一匹がパンと弾けて真っ黒い液体へと化した。すると、後は連鎖反応のようにあちらこちらで黒蝗がどろりとした液体へと変化していった。
 それこそ、最初の一匹のようにパンと弾けるように崩れるものもあれば、飴細工に熱を加えられたかのように形状を歪めていって溶け出すように黒色の液体と化すものまである。そして、そのどちらの崩れ方であっても、黒蝗の最後は白の火によってめらめらと燃え上がるというものだった。
 逃げ場を失い、仲間がそうして弾けるのを目の当たりにしたからだろう。一転、黒蝗は身を寄せ合って微動だにしない防御姿勢を、萌・啓名へと飛び掛かるという攻撃的な行動へと切り替える。
 やはり、そこそこいらに五万と溢れるただの昆虫群とは一線を画し、それなりの頭脳を持ち得ているらしい。
「萌!」
「心配いらない!」
 尤も、襲い掛からんとする黒蝗相手に萌も黙ってはいない。起脈石に左手をついたまま、広げ掲げ上げた右手にも白の火を発現させると、すぐさまブーストを掛けて巨大な火球を仕立て上げる。
 白の火の火球を目の当たりにした黒蝗は、一定の距離を保ったままそれ以上進み出ることができなくなった。安易にそれ以上近付き飛び掛からんとすれば、その形を維持できなくなって弾け飛ぶのが容易に想像できる。
 そんな黒蝗の変調を目の当たりにして、啓名は苦々しい顔付きを取る。
「話半分で聞いてたけど、この黒蝗は本当に人も襲うのね……」
「切羽詰まってって感じだったし、ある程度の知恵は持ち合わせているみたいだから、必要があれば……って感じではあるんだろうけど。でも、必要があれば「襲う」んだろうね」
 白の火の火球を発現させる萌から侮蔑と敵愾心の籠もる目付きで睨み据えられ、黒蝗はたじろぎ後退る。
 まさに、その「後退る」という行為自体が、黒蝗の知性を証明した形でもあっただろうか。
 萌と啓名が黒蝗の襲撃を未然に防止した矢先のこと。緑苑平フォレストコンコースに獣のような咆哮が響き渡る。
「うああぁぁぁぁぁおう!」
 その咆哮の主は遙佳だった。
 あくまでそれは普賢へと純粋な敵意を向けたものだったのだが、その影響が及ぶ範囲は緑苑平フォレストコンコースに居る全てのもの及んだ。黒蝗や赤鬼を含めた誰もが咄嗟に振り返り、一寸手を止める程の禍々しさを帯びていたからだ。
 直後、遙佳が両手で握る逓占が周囲の空気を巻き上げるかのように、地面から淡く発光する粒子を吸い上げていく。
 遙佳のぎらついた瞳は闘争心一色で染め上げられていて、注目を集めたにも関わらず既に周囲の様子など全くその目には留まっていない。
 そして、普賢を再生する負のエネルギーの脈流が不意にその目で捉えられるようになる。
 硝子を引っ掻くかのような、嫌な破砕音が生じ始めると、啓名が徐に顔を顰めた。
「緑苑平フォレストコンコースに生じた穴に対して、星の家が暫定的に蓋として設けた障壁が壊れるわ……」
 それまでのやりとりを整理すると、その障壁は黒蝗に対して何ら行動妨害の効力を発揮できないものだった。従って、それが壊れたからすぐにどうだというわけではないだろう。
 しかしながら、招現寺へと続く穴と緑苑平フォレストコンコースとの境として設置したものであり、黒蝗以外の影響を押し止める何らかの効力を発揮していた可能性も否定はできない。
 例えば、普賢が吸い上げる、自身を再生させる負のエネルギーの流量を制限するだとかいった効果だ。
 尤も、普賢を穴の底に押し返すからには、どうせ一旦それを解除する必要がある。そして、どうせ白の火の影響を混ぜた新たな障壁を、蓋として構築するのだ。
 だから、啓名からは今ある蓋を遙佳が破壊することを静止する言葉は続かなかった。
 より一層、破砕音が顕著に響き渡るようになると、その瞬間はすぐにやってきた。
 パンッという高音とともに、蓋の役割を果たしていた障壁が破壊されたのだ。すると、それまで何もそれらしいものがなかった緑苑平フォレストコンコースの空間に、濃紺と黒色を混ぜた渦のような、先を全く見通すことのできない穴が生じた。それは緑苑平フォレストコンコースの天井までの高さと幅を持ち、ほぼ通路を封じてしまう程のものだった。尤も、普賢をそこに押し返すという観点で見れば、大きければ大きい方が良かったかも知れない。
 ともあれ、普賢を押し込む穴が可視化されたことで、遙佳の攻勢はより一層激しさを増した。尤も、その攻撃は普賢を穴へと押し込む為のものというよりかは、討ち滅ぼさんばかりの勢いを纏ってすらいた。
 逓占による攻撃は、普賢を相手に回して目に見える形でダメージを与えていた。斬りつければそこに斬撃の跡を残すし、突けばそこに穴を穿つ。それは、普賢を再生させる負のエネルギーが穴の奥から流れ出てきていて途切れていないにも関わらずだ。即ち、その再生量を大きく上回るダメージを、既に遙佳が与えるようになっているのだろう。
 相変わらずトリッキーに振り切れた動きで的確にダメージを与えてくる遙佳を前に、普賢は苦し紛れに衝撃波を連発する。しかしながら、遙佳は既にそれを受け流すことを前提に体勢を整えていた。可能ならば回避するし、回避が困難な場合は逓占の刀身を盾に見立ててそれをやり過ごす形だ。後者は完全に威力を押し殺し切れてはいないものの、遙佳の体勢を大崩れさせるには到底至らない。
 さらに言えば、普賢がそれを安易に連発することで、遙佳は回避率を徐々に徐々に向上させもした。普賢が衝撃波を発する際の仕草というか、癖というか、周囲に及ぼす僅かな差異を敏感に感じ取っているのだろう。
 遙佳が口元を歪めて満面の笑みを見せる。
「き、効かない! そんなものでは、あ、あたしは、と、止められないよ! 普賢!」
 覚束ない言葉で、そう言い放つと遙佳は再び咆哮を上げる。
「うああぁぁぁぁぁおう!」
 次の瞬間、遙化は逓占を構え、普賢を相手に高速で突貫し、その胸元に刃を突き立ていた。
 普賢はその突貫の威力を押し殺せず、招現寺へと通じる穴へと遙佳を伴ったまま吹き飛ばされる。
 遙佳は逓占を引き抜くと、普賢から離れて距離を取り、再び身構える。同じことをやって、普賢を穴の底へと押し込もうという腹だろう。
 対する普賢は突き立てられた逓占に、負のエネルギーを大きく吸い上げられたらしい。既に、遙佳の方へと向き直ることもままならない。放っておけば、そのままその場に崩れ落ちたかも知れない。
 遙佳はそんな普賢を相手に再び容赦することなく突貫する。
 普賢はなすがまま、遙佳の一撃によって、招現寺へと続く穴の中へと、とうとうその半身が押し込まれた。
 しかしながら、逓占を引き抜き、一旦後退した遙佳はそこで止まることができない。招現寺へと続く穴の中へと赴き、普賢に追撃を掛けんとする。
 次の瞬間、萌が声を張り上げる。
「遙佳ちゃん!」
 名前を呼ばれ、遙佳はどうにかその場に踏み止まる。
 身体を穴の方向へと向けた体勢のまま、後ろを振り返るようにし、顔だけを起脈石の方へと向けた形だ。尤も、その横顔は件の狂気に染まりきっていて、遙佳が置かれた状況のまずさというものを如実に表していた。
「だ、大丈夫。解ってる。あ、あたしは、冷静さを失ってなんか、いない。や、やるべきことを、は、履き違えたり何か、しない」
 途切れ途切れの、支え支えの言葉でそう絞り出してみせた遙佳は、どうにかやっとのことで冷静な思考能力を繋ぎ止めているような状態に見えた。僅かな要因であっても遙佳の理性はすぐに吹き飛び兼ねない。そう誰もが危惧する状態に見えたからこそ、そこからの動きは素早かった。
 バッと身を翻すと、遙佳はあっさりと招現寺へと続く穴の前から離れる。
 一方で、そうやって後退に転じた遙佳を恨めしげに睨み据えながら、普賢が緑苑平フォレストコンコースへと再び進み出ようと行動することはなかった。
 逓占の力を余すことなく解放して暴れ回った遙佳を相手に立ち回り、かなりの痛手を負ったのだろうし、黒蝗が次々と弾けて掻き消えていく現状があったからだろう。
 後退を選択した辺りから、遙佳は狂気に囚われる状態から立ち返った様子で、すぐに調子を段階的に回復させていく。例によって例の如く、ところどころ言動の節々に違和感は残るものの、極端な話、唐突に普賢へと飛び掛かっていくような不安定さは掻き消えていた。
「あは、こ、こんなに容易く逓占の影響から立ち返れるなんて、は、白の火に感謝しなきゃね!」
 逓占さえ使用しなければ、尾を引く狂気の色も徐々に色褪せ掻き消えるのだろう。
 尤も、まだ逓占を使用せざるを得ない可能性は残っている。バックスが足止めを掛けてはいたが、それでも尋常ならざる執念を持って普賢の元へと赴かんとする赤鬼が残っているからだ。
 既に満身創痍でありながら、赤鬼はいくら妨害されても、何度も片膝を付いても進軍を止めようとはしなかった。
「まだ普賢の下へと赴こうってのかよ! 懲りねぇ野郎だぜ!」
 バックスが吠えるも、決定打足り得るものはない。
 余力を得たとはいえ、萌は起脈に付きっきりになっていて「重ね」をどうこうできる状態にはないし、追い込まれたという状態でもないバックスが潜在能力を覚醒させ短勁の威力を大きく底上げできるとも思えない。そうなると、赤鬼を打倒できるものは、消去法で、且つ現状最も手軽に使用可能な「逓占」と相成る。
 遙佳はその意図を汲み取ったかのように、バックスへ足止めを止めるよう指示を飛ばす。
「良いよ、バックス君! そ、そのまま赤鬼を好きにさせて! 今はその方が好都合!」
「すまねぇ、後は任せる」
 遙佳がそういうや否や、バックスは赤鬼の進行を妨げるのをさくっと停止した。
 すると赤鬼は足を引き摺り、硬質化した黒色の断片をボロボロと零しながら、それでも懸命に普賢の居る穴の方へと歩みを進める。
 既に、戦闘力と呼べるものはほとんどないだろう。相変わらず、大剣と大槌を携えてはいるものの、引っ掛かりを伴う行動を合わせて既にその巨躯がもたらしていた威圧感は微塵もない。寧ろ、引き千切れそうな左腕などが、悲壮感すら漂わせる格好だ。
 鈍重な赤鬼の動きを前に、遙佳の俊敏さが際立つ。あっという間に、その懐まで飛び込むと、一段二段とテンポの遅い薙ぎ払いを難なく回避し、遙佳はするりと赤鬼の脇を擦り抜けた。
「あは、ま、まさに、飛んで火に居る夏の虫って奴だね。て、逓占なんて呪われた武器で暴れたお陰でヒットポイント・マジックポイント、なんならPP・SP・LPまで満タンなんだからさ! い、今、普賢と一緒に穴の底へと押し込んであげるよ!」
 てっきり逓占を振るって赤鬼を討滅するものかと思われたのだが、遙佳の意図は異なるようだ。
 遙佳はちょうど普賢が半身を沈める穴と赤鬼が一直線上に並ぶ場所に陣取り仁王立ちする。ちょうど、遙佳と普賢の間に赤鬼を置く配置だ。言うまでもない、例の魔法で赤鬼を普賢共々、招現寺へと続く穴の中へと押し込もうというわけだ。
 遙佳が身構える。丁寧に丁寧に自身の力を練り上げているのだろう。
 緑苑平フォレストコンコースの床へと右掌を突き出せば、そこにはいつかの魔法のように大きなうねりが生じる。目に見えない重量のあるものを慎重に持ち上げるかのように、胸元まで右掌を持っていくと件のうねりはさらに巨大なものとなる。
 うねりを中心として、周囲の景色が大きく歪み、遙佳は「暴風」を放つ準備を整えたようだった。
 赤鬼はそんな遙佳の動向など見向きもせずに、ただただ普賢の元へと足を引き摺り歩みを進めた。
 遙佳に攻撃を加える意志があることぐらいは、難なく理解できていた筈だ。それにも関わらず、赤鬼は普賢の元へと赴き、恐らくはその身を普賢の盾とすることを選択したのだろう。
 不意に、遙佳の表情が曇る。
「ごめんなさい。あ、あなた方の尊い偉業の邪魔をしてしまった。穴の底の招現寺で、や、厄神を封じる作業に戻って下さい。悲願である厄神の呪殺を達成するその日その時まで、こ、こちら側への穴が再び開かないように、あたし達が、せ、責任を持って蓋をするから」
 遙佳は右手を赤鬼に向けて突き出すと、周囲の気温が体感で大きく低下した。次の瞬間、轟音とともに周囲の埃や瓦礫といったものが巻き上げられ、渦を巻く暴風が赤鬼目掛けて一直線に打ち出された。
 遙佳が放つ魔法によって、赤鬼はあっさりと普賢が半身を沈める招現寺へと続く穴の底へと押し込まれていった。そして、普賢共々、穴の奥へと消える。
 赤鬼と普賢が穴の奥へと全身を沈めた次の瞬間、遙佳は暴風を霧散させた。すると、ふいっとその目を起脈石へと向ける。
「紅槻啓名!」
「啓名! 今だ、招現寺へと続く穴に蓋を施せ!」
 遙佳・バックスが張り上げた声に、啓名は打てば響く反応を返す。
 遙佳の魔法によって、穴の中へと赤鬼が吹き飛ばされていった直後、当初の目論見通りそこにはうっすらと発光する障壁が生じた。
 そして、その障壁を擦り抜けて、黒蝗が緑苑平フォレストコンコースへと侵入してくる様子は見て取れない。
 一方で、障壁による行動妨害をものともしないであろう普賢と赤鬼についても、緑苑平フォレストコンコースへと再び進み出ようとする気配は感じ取れなかった。
 緑苑平フォレストコンコースに溢れた全ての黒蝗が余すことなく駆除されたかどうかは疑わしいながら、招現寺へと続く穴から新たに這い出るのを抑制したことで、ある一定の脅威は排除されたと認識してくれたようだ。
 その蓋を持って普賢・赤鬼・黒蝗の、緑苑平フォレストコンコースへの進入を防止できたことで、啓名はその場にどんと崩れ落ちる。緊張の糸が切れたのだろう。





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