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Seen19 異式錯落共同戦線(上) -第2ラウンド-


「萌」
「何、正威?」
 正威から名前を呼ばれても、萌は振り向くことなく声だけで返事を返した。攻撃対象を赤鬼から変更することになり、重ねを放つ前に少しでも普賢の情報を収集して置きたかったのだろう。
 しかしながら、正威が名を呼んだその要件を口にすると、さしもの萌も振り返らざるを得ない。
「符はいざという時の為に取って置け。次の一撃分は俺が直接術式を付与する」
 それは萌に取って、想像だにしていなかった言葉だった。何せ「可能な限り正威を消費させたくはない」と言った矢先のその言葉だ。
 萌は正威の顔色をまじまじと眺めた後、さらりと聞き返す。
「10枚分も術式を付与して大丈夫?」
 悪びれた様子一つ見せることもなく、萌はついさっき否定された「10枚重ね」を口にして見せる。さも、それを行うことが「当然」だとでも言わないばかりにだ。
 尤も、そうやって「10枚重ね」を敢えて口にしたのには、正威の真意を探る意図があったのだろう。
 正威が符の温存に言及した理由を予測するのは、何も難しいことではない。
 普賢に対する重ねのダメージが、赤鬼同様には通らない可能性を考慮して……だろう。そして、もしそうならば、七つ重ねの一撃では、普賢を沈黙させられない可能性も生じてもくる。
 一撃目で普賢を沈黙させられなかった場合、そこからさらに七つ重ねクラスの第二撃を加えるとするのならば、僅かながらではあるものの正威に再装填をさせるよりも温存策の方が時間を短縮できるのだ。加えて言えば、符を用いて重ねを放つという手段ならば、その作業は萌一人で完結する。しかしながら、再装填という手を取る場合は一定時間正威との接触が必須となるのもネックになるだろう。
 即ち、正威が口にした温存策とは第二撃が必要になった場合を想定した上での発言だということだ。第二撃が必要になった場合のバックアップ案として、符の温存策はより自由度が高く、且つ普賢を一気呵成に攻め立てるのに向く案なのだ。
 そこまで大凡を把握しながら萌が「10枚重ね」に言及したのは、そこまで重ねを増やせば一撃で普賢を黙らせられる、確度の上がる「攻め手」だからだ。
 消耗著しい正威にバックアップ案を走らせられる程の余力が残っていないのならば、ここでリスクを取って普賢を確実に、しかも一撃で沈黙させるという案も強ち間違いではない。七つで駄目だった時、第二撃が放てないのならば無理を押してでも一撃のもと沈黙させるというのは十分有り得る案だ。
 ともあれ、そうして「10枚重ね」に言及することで、正威の言葉の真意が自身の予測通りかどうかを萌は探ったわけだった。
 そうして、温存策が予想通りの懸念に基づいたものだったとして、正威にそれを実行するだけの余力がきちんと残っているのかを、返る反応から図る意味合いを兼ねたものでもあった。
 10枚重ねに対する正威の反応は、強い呆れと叱責を混ぜたものになる。
「10枚分だって? 馬鹿いうな! 本気でやるつもりだったのか? そんなの絶対に許可できないからな!」
 声を荒げる正威を前にして、しかし萌は不敵ににんまりと微笑んでみせるだけだった。その反応が「温存策でも問題なさそうだ」と判断したから出たものか、何か思うところがあって滲み出たものかは解らない。
 萌はそんな正威の強い反対を「当然だよね」と言わんばかりに受け流すと、そこで話題をがらりと切り替える。
「まあ、符の温存策を取るなら初手は七つで行くべきだよね。七つが普賢にどこまで通るのかを確認してから、必要ならそれ以上を模索するべきだ。うん、御尤も。それはそれとして、一つ確認しておきたいんだけど、普賢はどこまで踏み入ったらこちらを「敵」だと認識したか覚えてる?」
 萌が余りにも素直に叱責を聞き入れ、さらりと話題を切り替えてしまったことで、正威はやや困惑した様子を隠さなかった。そして、掌返しの如くくるりと、しかも驚くほど軽快に10枚重ねを引っ込めてしまうから、それ以上どうこう言えなくなる。
 後に残るのは、正威をまじまじと見返しながら、がらりと切り替えた話題の回答を待つ萌の視線だけだ。
 正威は何ともバツの悪い顔つきをしながら腕組みをすると、普賢と立ち回った時のことを思い返していたのだろう。たっぷりとそこに思案顔を挟んだ後、萌の問いにこう答える。
「俺達からの攻撃が加えられて初めて、普賢はこちらを「敵」だと認識したと思うな。但し、最初からある程度の距離を取って攻撃を仕掛けたから、接近戦を挑む場合は勝手が違うかも知れない」
「オーケー、やっぱりそんな感じだよね。そんな、感じなんだろうね。少なくとも、今、普賢はこちらへ全く警戒を向けていない」
 それは萌が「そう返されるだろう」と思っていたままの内容だったようだ。
 もちろん、視覚的なことから読み取ることのできる普賢の情報は非常に少ない。
 普賢はただそこに留まって一心不乱に呪詛をばらまき続けているだけだ。
 だから、萌は視覚によって普賢を注視しながら、普賢がまとう雰囲気だとかいった「曖昧なもの」の情報を集めていたのだろう。呪詛を吐き出す際の挙動だとか、術式の展開の仕方だとかいったものがそこには含まれていただろうか。
 もちろん、赤鬼と対峙をした萌だからこそ、それ以外にも読み取れることはあった。
 近付かなければ、攻撃して来ない。
 言ってしまえば、それは赤鬼も同様だ。だが、普賢はより遙佳達に注意を払っていない。少なくとも、赤鬼は気配や人影を察した上で、近付こうが近付かなかろうが、最低限、その存在を気に掛けている節がある。一方で、普賢にはその兆候が全くないのだ。
 一般的な物理攻撃では、ほとんどダメージを受けることはないと高を括っているからか。いや、例えそうであっても、正威が放った光球は、僅かながらではあったものの普賢にダメージを通した。その事実を踏まえて尚、遙佳達に警戒すら向けないと言うのは尋常ではない。
 何か様々なものが、普賢からは欠け落ちているのかも知れない。
 萌は普賢に対してそんな認識を抱いたようだった。
 普賢を攻めるに当たり、正威は萌に確認を向ける。
「重ねでどこを狙う?」
「この嫌に耳に付いて重苦しさをまとう呪詛のばらまきをやめさせたいんでしょう? だったら顔面辺りを狙って頭を吹っ飛ばすのが間違いないかなって思うけど?」
 あっけらかんに頭を狙うべきといった萌に、正威は苦笑いを見せる。
 もちろん、今現在得ている情報で、普賢の呪詛を止めるという観点に立てば正しい判断だろう。
 それでも正威はあっけらかんと答えた萌に、やや辟易した顔付きを見せる。
「えげつないな」
「他にもっと有効そうなポイントがあれば狙いはそっちでも構わないけど、……胸部や腹部を重ねで吹っ飛ばしたところであの普賢の呪詛が止まるとは思えなくない?」
 同意を求める萌の言葉に、正威は改めて普賢をまじまじと眺める。
 普通に考えれば、頭部が最も有効なポイントであるのは間違いないだろう。しかしながら、普賢が吐き出す呪詛は、やもすると人間の持つ器官を利用して発せられているものですらないかも知れないとさえ思える。既に呼吸をしている風はなく、胸部が呼吸で上下することもなければ、呪詛というものを吐き出すのにあたって口を動かすでもないからだ。
「……確かにな」
 そう同意を返す正威だったが、重ねで頭部を狙うことに対して微かな不安が残るのも事実だった。
 それは、頭部を重ねで吹き飛ばしても呪詛を止めることができない可能性だ。
 普賢の意思を宿すところが今も人間であった時と同様であるならば、それは「頭部」で間違いないだろう。しかしながら、ミイラの風貌と化し、既に異形の存在と化した今の普賢に、それが当て嵌まるとは限らない。
 呪詛を吐き出す方法も、呪詛を吐く意志を宿す場所も明確ではない。それでも、重ねの狙いを普賢の頭部に定めることに対して、正威は異論を挟まなかった。
 ある意味では、そういう保険を考えた上での、バックアップ案でもある。
 神河の会話が途切れるタイミングを狙っていたのだろう。バックスが口を切る。
「打合せは済んだのか?」
 バックスから向いた確認に、正威は無言で首を縦に振った。
 重ねで狙うポイントが決まってしまえば、後は萌がそれを遂行し易いようサポートするのが正威の領分となる。第二撃に関して思うところがないと言えば嘘だろう。しかしながら、まずは第一撃に集中して貰って、余計な情報は入れない方が良いと正威は判断したようだ。
 一方で、神河以外の面々の準備は既に整っていたようだ。正威が頷いたのを確認すると各々が対普賢&赤鬼の再開に向け、身構える。
 すると、バックスは第1ラウンドで共に赤鬼の対処に当たったレーテに対し、第2ラウンドでは別の役割を担うよう要求する。
「さっきも触れたが普賢を攻めたら赤鬼が即座に援軍に来る。赤鬼の足止めは俺が引き受けるから、レーテは起脈石へ向かう啓名のサポートに回ってくれ」
「啓名のサポートに回るのは構わないけど……。赤鬼を足止めするって、ダメージが通らないのにどうやって足止めするつもりなの?」
「神河萌が傷を作った。まずはそこを起点に攻める感じだな」
 バックスはレーテから返った疑問に対してそう答えたものの、萌が赤鬼に与えたダメージはあくまで右腕だ。そこを起点に攻めるとは言うものの、どれだけ足止め足り得る攻撃が可能かを疑うレーテの姿勢も尤もだと言えただろう。まして、赤鬼が自身への攻撃を意に介さず、普賢との合流を目指すなどした場合は尚更、バックス一人で足止め役足り得るかは疑わしい。
「……」
 レーテは不安げな表情を隠そうともせず、不服と言わんばかりの無言の抵抗を見せた。すると、そこには遙佳が割って入る形で助け舟を出した。
「大丈夫、心配ない。普賢は神河一門に任せた方が上手く行きそうな感じだし、あたしも赤鬼の足止め役に回るよ。萌ちゃんの「重ね?」みたいな効果的な一撃にはならないかもしれないけど、試してみたいこともあるしね。……駄目なら駄目で、最悪、切り札を切ったっていい」
 ここにきて、遙佳の口からは「切り札」という言葉が再び漏れ出た。
 それで事態を簡単に好転させられるのならばすぐにでも使ってしまえば良いとも思うわけだが、そこは「最悪」という単語が前置詞として用いられたように何かしらの制約があるのだろう。何より、遙佳は自身の言葉で、それを「禁呪のように好ましくないもの」とさえ評している。
 ともあれ、遙佳が対赤鬼サイドへ回ると宣言したことで、不承不承という具合ながらレーテも折れる。バックス一人で赤鬼に対処するよりかは、大分マシになったと考えたのだろう。何せ、例え「切り札」というところまで行かなくとも、遙佳には普賢を吹き飛ばして見せた件の大技「魔法」もある。
 対普賢、対赤鬼、起脈アクセスチームの組分けが終わると、話は自然と各チームの連動を「どうするか?」に移った。
 まず話を切り出すのは、普賢を攻める正威だ。ここが取っ掛かりとなって他のチームが動くのだから当然だといえば当然ではある。
「まず最初に、俺が光球で普賢の動きに制約を掛け、隙をついて萌が七つ重ねをぶっ放す。七つ重ねをぶっ放し終えたら与えられたダメージの大小に関わらず、例え呪詛のばらまきが止まらなくとも紅槻さん達は起脈石に向かって突っ走ってくれ」
 正威の指示にレーテは、小さく、しかしながら力強く頷く。
「解った」
 その一方で、啓名は正威に対し「もしも」の場合の対応如何を尋ねた。遙佳達と違い、普賢の呪詛に晒され続けたことで自分自身にあまり余力がないことを嫌という程に痛感しているからだろう。それこそ、もしもの場合へと事態が転んだ場合、啓名は下手をすると生命の危機へと直結し兼ねない。
「もし起脈石へのアクセスを試みたことで、普賢の攻撃対象が神河からこちらに移った場合はどうしたら良い?」
 啓名の疑問に、萌は「妙案」を今思い出したと言わないばかりに頓狂な声を上げる。
「それね! 良いものがあるよ! エネミーとして狙われ難くするレアアイテム、しかもきっかり二人分」
 それは根本的な対処方法について言及する内容ではないものの、啓名に取っては渡りに船のアイテムだったかも知れない。
 萌は対赤鬼戦時にフォレストコンコースの通路脇に放った肩下げ鞄を拾い上げると、その中から完全密閉タイプのチャック付ビニール袋を取り出す。
 特大サイズのチャック付ビニール袋の中身は、いつかの廃神社で人の気配を消す為に用いた例の異臭を放つ毛皮だ。
 萌はそれをレーテと啓名へ向かって無造作に放る。
 毛皮を受け取ったレーテと啓名は中身を訝る顔付きだったが、萌に中身を取り出して頭からすっぽりと被るようジェスチャーを見せられると、まずはその指示通りに行動した。尤も、その動作は完全密閉タイプのチャック付ビニール袋を開封したところで、一端ぴたりと止まる。
「臭ッ! なにこれ! え……、は? 滅茶苦茶くさいんだけど!」
「あぁー……。怠い体に鞭打つ刺激臭……。ちょっと意識が遠退き掛けたけど、……良くも悪くもいい気付け薬になったわ、ありがとう」
 啓名から皮肉の籠った言葉が向くも、萌に悪びれた様子は微塵もない。
「霞咲の土着神一押しの、人の気配を周囲に紛れさせてしまうアイテムなんだよね、これ。これがあれば「完璧!」なんて宣うつもりはないけど、普賢の目から啓名ちゃん達の存在を逸らすのに役立つ筈だよ。まあ、近付くものの全てが敵だと普賢がスタンスを変えるなら、ただの気休めにしかならないかもだけど」
 複雑そうな視線を異臭を放つ毛皮へと落とす啓名とレーテを尻目に、正威はそれでもなお普賢の動きが起脈石へと向いた場合の対処方法について言葉を続ける。
「理想は七つ重ねで行動不能まで持っていくことだけど、万が一、七つ重ねのダメージが著しく想定を下回り、且つ普賢の攻撃対象が紅槻さんに向くようなら、俺達が足止め役に回ることになる。そう多くの時間は稼げないかも知れないけど……。で、これ以上は足止めできないってところまで来たら散開指示を出すんで、各自起脈石周辺から離脱してくれ」
 そのプランに対して言いたいことはあったのだろうが、啓名は結局それを飲み込んだようだった。
 仮に、七つ重ねで普賢の呪詛を黙らせられる見込みが薄かったとしても、だからと言って他の手段を模索するなんて状況ではないのだ。泥縄式の対応にはなるものの、まずはやってみないと話にならない。
 啓名が押し黙ったことを横目に捉え、レーテが対普賢・対赤鬼第2ラウンドに臨む面々に視線を向ける。
「さてと、じゃあ、第2ラウンドと行きましょうか? みなさん、準備は完了、……で良い?」
 そのまま第2ラウンドの決行へと雪崩れ込むかと思いきや、待ったは思わぬところから掛かった。
 ここに来て、何やら時折小難しい顔を覗かせていた遙佳である。
「ちょっとだけ、待って貰って良いかな?」
 小さく挙手をしておずおずとそうレーテに申し出ると、遙佳は徐に萌へと向き直る。
「萌ちゃんに、お願いがある。重ねを一発あたしに放って見てくれないかな?」
 突拍子もない遙佳の言葉に、萌は固まり言葉を失った。何を言われたのか、咄嗟に判断できなかったのかも知れない。
 僅かな間を置き、萌はようやく喉奥から頓狂な声を引っ張り出してくる。
「……は?」
 困惑を混ぜる萌に対して、申し出た側の遙佳はこれでもかという程に真剣な顔付きだった。少なくとも、何かを言い間違ったわけでもないらしい。もちろん、冗談の類などでもないようだ。
 そうすると、当然ながらその真意を読めない萌の困惑は、より度合いを増したものとなる。
「五つ重ねを、食らってみたいの? ……何、マゾなの? ていうか、下手すると死ぬよ? 冗談じゃなく」
 五つ重ねの威力は赤鬼相手に放った通り、その丸太のようにぶっとい腕を中程から抉るようにダメージを与える代物だ。対策なしに遙佳が食らえば、それこそ生死に関わる威力なのは言うまでもない。
 自身の要求を萌が「五つ重ね」と捉えたことに対して、遙佳からはすぐさま訂正が入る。
「これから赤鬼相手に立ち回るっていうのに、あんなの食らったら再起不能になるって!」
 即ち遙佳の言う「重ね」とは、赤鬼相手にぶっ放したものと同等の手順を踏み、同等の効果を持つ、低威力の一撃という意味なのだろう。
 遙佳は続ける言葉で、その言わんとする内容とその理由について身振り手振りを交えて話し始める。
「軽いのを一発で良いんだ。あれは、内部に力を注入して、内部から攻撃する。こう……短勁みたいなことをしているんでしょう。コツを掴みたいんだよね。あたしにも重ねみたいなことができれば、萌ちゃん一人に負担を掛けずに済むわけじゃない? 赤鬼に対して放った五つ重ねなんて威力は引き出せなくとも、コツコツダメージを与えられれば攻め方も変わってくると思うんだ」
 それを食らってみることで、実際にコツを掴めるかどうかはさておき、遙佳の言い分はそれなりに納得できるものだった。
 対赤鬼の為と言われてしまえば、萌としてもそれを無碍に断る理由はない。しかしながら、萌の態度には「お勧めできない」という雰囲気がありありと漏れ出る。
「だったら威力を底上げする為の「重ね」なんて必要ないけど、……加減をしてもこの一発は重いと思うよ」
「構わない。あたしは馬鹿だから、体で覚えるのが一番早いんだ。両腕でがっちりガードをするから、そこを狙って一発お願い」
「……それは腕を痛める可能性があるから止めた方がいいかも」
 萌の忠告を前にして遙佳は思案顔を合間に挟んだ後、素直に頷く。
「それもそうか」
 尤も、そこに続いた遙佳の言葉は萌の想像の斜め上を行く。
「よし、ここまで来たら萌ちゃんを信じる。好きなところを狙ってきなよ!」
 遙佳は大きく両腕を広げて見せると、萌に対して「どこを狙ってもいい」と返した格好だった。
 そんな遙佳の言動に、またも萌は呆れ顔を隠さなかった。寧ろ、そこで狙いを一任されるというのはいい迷惑だったかも知れない。仮に、腹部を狙うにしろ、足を狙うにしろ、ダメージが後に残った場合、その状態で対赤鬼戦に赴かせることになるわけだ。いくら本人が「それで良い」と言ったとはいえ、後に残ったダメージが対赤鬼戦で尾を引くようなことがあれば、それこそ気にしないと言う訳にもいかない。
 萌は大きく溜息を吐き出すと、まずはゆっくりと遙佳に近付いてその左手首を握り取る。
「遙佳ちゃんは「魔法」なんて代物を使えるから、力の発現させ方とかはイメージが付くと思うけど、それを発現させずにあくまで触れた部分に設置・蓄積させるのが第一歩かな」
 遙佳が要求した通りに、短勁を放ってもコツを掴むことは不可能だと思ったのだろう。
 萌は段階を踏んで、遙佳に重ねのコツを伝授するやり方を選んだ。
「相手の体の振れた部分に力を送り込んで残留させるっていうのは、……こんな感じ」
「お……、おおー」
 何か感じ取ることのできる感覚があったのだろう。遙佳はやや小難しい表情を見せつつ、そこに感嘆70%と当惑30%の声を挙げた。
「……で、実際にはこうする」
 萌はしなやか且つ軽やかな動きで遙佳の腹部、……左胸と左脇腹の合間を掌底で軽くぽんっと叩くと言うことをした。
 傍目には何でもない一撃だったのだが、食らった遙佳はすぐさま目を白黒させた。そうして、あっという間に異変を来す。ゴホゴホと咳き込み始めれば、そこに直立していることさえもできなくなった様子で、どさりとその場に崩れ落ちた格好だ。咳の調子も見る間に悪化し、呼吸にも支障を来し始めたのか、その様子は見るに堪えないものとなっていった。カハ、コホと息も絶え絶えの状態まで陥ってようやく、遙佳は短勁のダメージから回復に向かい始めたようだ。
 尤も、まだまともに会話ができる状態ではない様子で、遙佳は親指をサムズアップするボディランゲージで、一連のやり取りが「全て要望通りに完了した」ことを萌に伝達した。
 しかしながら、萌の当惑はまだ続くこととなる。なぜならば、コツを掴みたいという遙佳の言動にバックスが続いたからだ。
「良し、次は俺にも頼むぜ、神河萌」
 遙佳が咳き込み両膝から崩れ落ちるのを見たにも関わらずの、バックスの発言である。
「……」
 呆れ返る萌を前にして、バックスはさも当然のことと言わないばかりにさらりと続ける。
「一発食らってコツを掴めるかもっていうんなら、食らって置くに越したことはねぇよ。どんだけぶん殴っても顔色一つ変えないあの赤鬼に、目に物見せる為だ。勉強代にしては安いもんだろ?」
 何を言っても無駄だと思ったのだろう。萌は同様の手順を踏んで、遙佳と同様の部位を狙ってバックスに重ね(実際には重ねていないが)を放つ。
 遙佳同様、その場に両膝から崩れるバックスをまじまじと眺めた後、萌は嫌疑に満ちた顔でレーテへと向き直った。
 その言わんとするところは「まさか、レーテもこれに続くの?」という確認だったが、レーテはやや引き気味に首を左右に振って見せるだけだった。
 一頻り咳き込み終わった後、バックスは我慢できないという具合に感嘆の声を上げる。
「はは、すげぇ、すげぇ威力だ! あんな軽く触れる程度の掌底で、こんな真似ができるんだな!」
 その様は愉快で堪らないと言う風であり、また必ず習得すべき目標を得た喜びに満ち溢れていた。
 ともあれ、不敵な笑みを灯すバックスと、短勁の感触を反芻しているのだろう思案顔の遙佳が揃って立ち上がり、場には第2ラウンドに挑む空気が立ち込め始める。
 その第2ラウンドに挑む空気を明確な言葉にしたのは、意気揚々と声を張り上げるバックスだった。
「おーし、行くか!」
 そこに待ったを掛ける声は掛からない。
 強いて言うならば、萌からの一撃を仲良く食らった者同士として、遙佳が短勁の感触を問うワンテンポが挟み込まれたくらいのものだ。
「あたしは何となく感じは掴んだけど、バックス君、そっちはどんな感じ?」
「どうだろうな。まぁ、……こう、雰囲気みたいな部分は感じ取れたが、そう簡単に再現できそうにはねぇな。それでも、赤鬼相手にぶっつけ本番、実戦で感覚を掴んでいくしかないだろうさ。何、幸か不幸か鈍重でタフなでかぶつだ、練習相手には持って来いだろ?」
 再び、赤鬼へと鋭い目つきを向けるバックスに「厄介な敵を相手にする」といったような雰囲気は微塵もない。短勁を習得するに当たって都合の良い鈍重なサンドバックが居てくれるといった具合の感覚だろうか。すぐにでも、赤鬼へと飛び掛からんばかりの不穏さを伴っていたバックスだったが、そこでアルフのように見境を失うようなことはなかった。
「鬨の声は神河に任せるぜ。まず神河が普賢を相手に一発ぶちかまさないと始まらないからな!」
 バックスから唐突にそう鬨の声を一任され、正威はやや面食らった様子を隠さなかった。尤も、神河による普賢への初手が何よりも大事であり、対赤鬼・起脈石へのアクセスをも踏まえた第2ラウンド開始の火蓋を切って落とすことを意味するのだから、それを断る理由はない。
 正威はまずすうと大きく息を飲み込んだ。
 萌がスレッジハンマーをしっかと握り仁王立ちすると、正威がその背後に立つ。
 そうして、正威は萌の背中側の首の付け根に両手を添えて、ゆっくりと瞑目する。正威の瞑目に合わせて萌も瞑目するのだが、そこに灯った顔付きは大きく異なっていた。正威は額に大粒の汗を浮かべる形となり、その作業によって大きく消耗していくのが傍目にも解る顔付きだった。その一方で萌の側はこれでもかという程の不敵な笑みを取る。これから存分に、付与されるその術式で力を振うことに合わせて、如何に攻めるべきかをシミュレーションでもしているのだろう。
 そうして、五分を過ぎた頃、ぼそぼそと呟き出す正威の言葉が途切れる。併せて、正威の掌が萌の首の付け根から離れた。
 次の瞬間、萌の握るスレッジハンマーが青白に発行する。それは例によって様々な色へとその発色を変移させたが、すぐに最初の色である青白へと収束した。
 萌が「ガチン」と歯を噛み合わせ、大きく目を見開き、その瞳に普賢を捕える。
「オーケー、七つ重ね、整えた!」
 萌の準備が完了したことを確認し、正威が声を張る。
 鬨の声だ。
「では、第2ラウンドを始よう!」
 刹那、萌が飛び出した。
 観測を経て、普賢が自身に一切の警戒を向けず初手を諸に食らうだろうことを確信していたのだろう。
 タンっと地を蹴って、一気に普賢の胸元まで切り込み萌がスレッジハンマーを振り上げる。その状態に至って尚、普賢は俯き気味の体勢で一心不乱に呪詛をばらまき続けるのみだった。
 萌の動きに対して、普賢は余りにも無警戒だった。
 光球相手でもそうだったように、直接的にダメージを受けないよう対策しているという点が大きいのかも知れないが、こと今回の萌の一撃はそれを撃ち破る為のものだ。言ってしまえば、普賢への初手を叩き込むのに、正威の牽制など必要ではなかった。
 余りにも容易く普賢は萌の接近を許し、そして余りにも容易く萌による七つ重ねの直撃を許す形となる。
 萌が放つ七つ重ねは、綺麗に普賢の頭部、……放つ側から見て中心部からやや右に逸れた箇所へと直撃した。次の瞬間には、ズバッとサンドバックを撃ちつけたかのような破砕音が響き渡る。
 それまで、つとつとと紡がれ続けた呪詛がぴたりと止んだ。
 それは即ち、呪詛を紡ぎ続けられない程のダメージを、普賢が七つ重ねによって負ったことを意味した。
 遙佳とバックスは赤鬼の様子を窺いながらそのダメージの程度を注視していたし、レーテと啓名は毛皮を羽織って身を屈めながらフォレストコンコースの壁際を走る中に合って、同じように横目で状況を確認していた。
 普賢は頭部の七割強がぐちゃぐちゃに潰れ吹き飛んだ状態だった。しかしながら、がくがくと震えながらもどうにか倒れ込むことなくその場に踏み止まり、すっくと体勢を立て直す。尤も、傷が瞬時に回復するようなこともなければ、改めて呪詛を吐き出すこともなかった。代わりに、普賢はここに来てようやく呪詛以外の声を挙げる。
「オオオオオオォォォォォ……」
 それは何かしらの意味を持つ単語ではなかったものの、暗く青白い炎を瞳があった眼窟に灯し萌の方へと向き直る様は、それの意味するところが「怒り」や「敵意」によってもたらされたものであることを意識させる。
 ともあれ、七つ重ねの一撃で普賢を沈められなかったことで、場は俄かに慌しさを帯びる。
 遙佳とバックスが赤鬼へと向き直り、対する赤鬼も普賢に攻撃が仕掛けられたことを察して石を積み上げていた手を止める。脇に置いた大剣と大槌を手に取り、今まさに普賢の元へと赴かんとするところだ。
 レーテと啓名は起脈石を目指すその足の速度を速める格好だった。
 普賢の視界がその脇を掠めて起脈石を目指すレーテと啓名を捕えた節はなかったが、正威はその状況下で既に先手を打つべく行動した。普賢の周囲に光球を飛ばし、その意識を自身へと引き付けようとした形だ。さらには普賢への距離を詰め、少しでも標的が自身へと向くよう位置取りも整える。
 相も変わらず、額にびっしりと汗を浮かべたままの正威が吼える。
「萌、もう一発だ!」
「温存策は正解だったね! 正威、普賢の動きを制限しておいて! その間に七つ重ねを整える」
「相変わらず、人使いが荒いな!」
「ここが踏ん張りどころでしょう? 無茶も承知の上だよ!」
 萌の要求に正威が打てば響く対応を見せる。すぐさま、行動妨害を目的とした光球を展開したのだ。
 光球が張り出してきたことを横目に捉えると萌はすぐさま普賢と距離を取るべく後退する。そうして、緑苑平フォレストコンコースに点在する支柱の一つに身を隠した。重ねを整えている間に衝撃波といった類の攻撃の標的になることを避けるためだ。
 普賢は完全に萌を自身に害を為す「脅威」と捉えたようだった。光球には目もくれず、後退し支柱の影に隠れる萌の一連の動きを、眼窟に灯した青白い炎が追いかけていた。
 萌がその動きを察した風はない。
 引いた萌を相手に普賢がどんな手を打ってくるかは解らなかったが、この状況は芳しくないと正威は感じ取った。
 しかしながら、正威が口を切るよりも早く、萌はその場で重ねの準備を始める。手持ちの11枚の符を取り出し、そこから7枚でどんな「重ね」にするべきかの選別作業に入った形だ。
 萌は1枚1枚符をチョイスしていく中で、不意にその手を止めた。
「何なら、八つで行っとく?」
「ああ、行け!」
 一瞬、萌は正威が何を言ったのか理解できなかったようだ。ぴたりと止まり、一寸真顔になった形だ。それこそ、当然のようにお小言が返ってくると思っていたのだろう。そうだ。「まだ重ねを増やすことに固執するのか!」とか「リスクを冒すな、確実にできる範囲で最大威力の七つ重ねじゃなければ駄目だ!」とか、そんな当たり前のお小言が返ってくると思っていたのだ。
 だからこそ、その正威の肯定的な「GO」は想定外だったのだろう。
 萌が笑う。八つに手を掛ける昂揚感からだろう。
「はは、そうこなくっちゃね! ここが踏ん張りどころだもんね! 後先考えてるような場面じゃないもんね!」
 不敵な笑みに、まさに表情を「歪め」た萌は、すぐさま符を8枚選び取っていた。スレッジハンマーを握り直して歯を噛み合わせると、重ねの準備へと取り掛かる。
 普賢はすぐさまその重ねを整えんとする気配を察したようだった。そして、同時にここでそれを阻むべく手を打たねばならないと察しもしたようだ。両手を大きく広げて溜めを作ると、一際巨大な衝撃波を放って見せた。いいや、それを衝撃波といってしまうと語弊があるのだろう。それは球だと解るほどにはっきりとした境目を持っていて、放たれた瞬間に周囲の景色を大きく歪ませる程のものだった。
 普賢を中心として大きく気圧が変動しているのだろう。正威は耳が塞がる感覚に襲われ、且つ、上手く周囲の音を拾えなくなる。刹那、正威は「まずい」と思った。
 まず間違いなく、普賢は身を隠す支柱ごと萌にダメージを与えるべく手を打ったのだと直感が訴えていた。
 重ねに取り掛かった萌にその一撃を回避するだけの余裕があるだろうか?
 否、だ。
 今から声を掛けて注意を促して……、そんな手順を踏んでいるだけの時間はない。やもすると、萌も正威同様、耳が塞がる感覚に襲われ周囲の音を上手く拾えない状態に陥っているかも知れない。
「やらせるかっての!」
 正威はそう気を吐くと、複数個の光球を瞬時に作り出し、普賢と萌が身を隠す支柱との間に立つ。すると、自身の眼前で光球を弾けさせ、衝撃波を拡散させる干渉場を設ける。普賢が放った衝撃波を壁の形で受け、それを相殺するつもりは端からなかったのだろう。それはあくまで、衝撃波を多方向に分散させ、拡散させるためのものだった。
 しかしながら、その対応は再び正威の全身に無数の引っ掻き傷を生じさせる。
 尤も、普賢が放った衝撃波を完全に打ち消すつもりではなかったのだから、ある程度のダメージは承知の上だった。誤算だったのは、普賢が放った球をひしゃげさせて衝撃波の本流を拡散させたはいいものの、その衝撃波が巻き上げた小さく鋭利な石の欠片や砂利、木片といった、後から正威に向かって飛んできたものの対処が完全に疎かになったことだ。いいや、そうして、普賢の衝撃波が砂利や木片を巻き上げること自体を考慮できていなかったかも知れない。
 ここで幸いだったのは、普賢がたまたまその高威力の衝撃波を立て続けに放つことができなかったことだ。そして、だからといって普賢は他の攻撃手段を模索しながら迂闊に距離を縮めるわけにもいかない。「重ね」は近距離攻撃であり、萌の俊敏さを加味すれば、距離を縮めることはむざむざそれを食らいに行くような自殺行為に繋がりかねない。
 萌が身を隠す支柱との間に正威が立ち塞がったことで、普賢は一度そこでぴたりと動きを止める。
 無論、それも一瞬のこと。
 普賢の次の一手は、ここに来て再び呪詛を発するというものだった。但し、それは今までのように広範囲へと向けられたものではなかった。加えて言えば、呪詛の種類にしても完全にそれまでのものとは異なっていた。
 それは正威と萌の居る方向へと指向性を定め、恐らく特定の対象を呪殺するべく放たれたものだ。
 普賢が指向性を定めた呪詛を放つや否や、異変はすぐに正威の体を襲う。
 正威は眉間に皺を寄せると、その場にガクッと片膝を付く。そこに灯った困惑の表情は、なぜ自分が片膝をついたのか咄嗟に理解できなかったからだろう。ワンテンポ遅れてぶわっと脂汗が生じ始めると、無意識の内に体が震え始め、苦痛は後からやってきた。全身を真綿で強く強く締め上げるかのように激痛が体の内から止め処なく滲み出て来て、正威は思わず呻き声を挙げる。激痛は同時に重い倦怠感を伴って、正威の気力を削ぎ落としに掛かってもくる。
 同じ影響が「重ね」を整えんとする萌にも波及して居たら、かなり拙い状況にあると正威は思った。いや、まだここまでの状態には置かれていないにせよ、いずれは同等の影響が波及するだろう。
 それだけはなんとしてでも阻止しなければならない。
 正威は状況打開のため、必至に思考を巡らせる。
 鈍重になりつつある思考に鞭打つも、名案は閃けない。火事場の馬鹿力ならぬ「馬鹿知恵」を期待したいところなのだが、そもそも現状正威の手札に置いて「呪殺」という攻撃手段に対し打てる手は少ないのが実情だった。まして、追い込まれた現状を根幹から覆す手という観点で言えば、それは「ない」というのが正直なところだった。
 それこそ、対抗して簡素な呪詛を吐き出すことぐらいならば正威にも可能だが、それで普賢の呪詛を相殺できる可能性は万に一つもない。上手く行って、普賢の呪詛の効果を多少低減できる程度だろうか。
 呪詛に晒される中にあって思考が大きく鈍る段階はすぐにやってきた。それもがくんと一気に堰を切る形で、だ。激痛が走っているのに、重く酷い倦怠感が意識を遠退きさせつつある状態に、正威は強い危機感を覚える。
「これは、かなり、まずい……な」
 ぼそりと吐き出す言葉に、思わず本音として「弱音」が混ざる程には、正威も追い込まれた格好だった。
 そんな中、緑苑平フォレストコンコースの支柱の側面へと張り付けられた「散らし鈴」が不意にリンと澄んだ音を響かせる。
 次の瞬間、正威の身体を襲う呪詛の影響は大きく減衰していた。
 どうやら、星の家の「散らし鈴」は緑苑平フォレストコンコースの広範囲へと向けて普賢がばらまいていた呪詛だけでなく、神河を対象とした指向性を定められた呪詛に対しても影響度合いを軽減させる効力を持つらしい。
 ぐらぐらと揺らぎ遠退きかけていた正威の意識レベルも、そこを堺として一気に持ち直す。
 期せずして、正威は呪詛への対抗策を見付けた格好だ。
 一時、散らし鈴が呪詛の影響を緩和したその瞬間を正威は逃さない。
 吼える。
「紅槻さん、俺の回りの支柱の奴だけでいい! 散らし鈴の出力を引き上げてくれ!」
 その声を聴き、啓名は打てば響く反応を返した。散らし鈴が何かに憑りつかれたかの如く「ちりんちりん」と緑苑平フォレストコンコース内に鳴り響き出したのだ。それも萌が身を隠す支柱のものだけ……という細かな制御はできないらしく、緑苑平フォレストコンコース内に設置された全ての散らし鈴が一斉に鳴り渡る形で、だ。
 起脈石があるだろう方向へと正威が視線を走らせると、そこにはサムズアップをした啓名の後ろ姿が確認できた。
 ともあれ、散らし鈴が所狭しと鳴り渡り、指向性を持たせた呪詛であっても萌の重ねを妨害できないと察したのだろう。普賢はすぐさま次の手を打つ。両手を広げて溜めを作り、再び緑苑平フォレストコンコースの支柱ごと萌を狙い打とうと言う腹だ。
 前回それを防いだ正威に片膝を突かせていることで、その二度目が「通る」と踏んだらしい。
 しかしながら、そこが正念場だと解っているからこそ、正威もそこで必死に踏み止まる。威力は落ちたものの未だ指向性を持たせた呪詛に晒される中に合って、未だ立ち上がれはしないにせよ、再び複数個の光球を生じさせたのだ。
 正威は自身を奮い立たせんがため、嗄れた酷い声で吼える。
「やらせないっつってんだろ!」
 先の一撃同様、衝撃波を拡散させるべく光球を誂えた正威だったが、先の一撃同様の結果には結びつかない。それが正威サイドの力が弱まったからか、はたまた普賢が衝撃波の威力をさらに底上げしたためかは解らない。
 ともあれ、正威は再び球をひしゃげさせ、どうにか支柱へと迫る普賢の衝撃波の威力を大きく削ぎ落とすことには成功した。しかしながら、それは不完全な形で有り、衝撃を全ていなすことはできなかった。結果、正威は支柱に思い切り叩き付けられる形となった。加えて、逃げ場のない正威を、先の一撃同様、巻き上げられた小さく鋭利な石の欠片や砂利・木片が追撃を掛ける形だ。
 それでも、普賢の放った高威力の衝撃波が支柱を破損させるには至らなかった。
 支柱に叩き付けられる格好となって自身もダメージを負うことにはなったものの、正威は「萌の重ねに対する普賢の妨害を阻止する」という目的をどうにか達成したのだ。そうして、奇しくも、そこで「萌が重ねを整えるだけの時間を稼ぐ」といった正威の役目についても「ミッションコンプリート」が告げられた。
 二度目の高威力衝撃波をどうにかやり過ごしたところで、支柱に隠れた萌が声を張り上げる。
「整えた!」
 大きく声を張り上げた萌の威勢の良さとは打って変わって、八つを整えた萌の様子は五つや七つの時とは大きく異なっていた。やはり勝手が違うようだ。赤鬼や普賢を相手に立ち回っていた時にでさえ、影を潜めることがなかった「状況を楽しむ余裕」が完全に霧散しているのだ。
 それでも萌は何てことはない風を装って、さも余裕があるかの如く立ち振る舞う。
「時間稼ぎご苦労!」
「外すなよ、……そいつで決めてくれ」
 対する正威は、あちらこちらに引っ掻き傷を負い、全く余裕のない表情で答えた。
 額の油汗を拭おうとすると、そこには赤い鮮血が滲み、正威は苦笑いを隠さない。
「はは、道理であっちこっちちりちりと痛いわけだ」
 そうまで無理を押して、整えた八つ重ねだ。「外しました」は、許されない。
 重ねの準備を整えたことで、スレッジハンマーを携えた萌が支柱の影から普賢の前へと姿を現す。すると、普賢の眼窟に灯る青い焔はすぐさま正威から萌へとその矛先を移した。
 対峙する萌に対して普賢は放つ指向性を定めた呪詛の威力を強めるも、それを打ち消さんと呼応するかのように散らし鈴が一際大きく鳴り響き始める。
 それでも、普賢の放つ呪詛の影響は少なからず波及していく。力なく支柱に背を預ける正威はその顔を顰めるに至ったのだが、一方の萌の方は微動だにせず意に介した風を見せなかった。当然、影響がないわけはない。だから、萌はそうすることで普賢を牽制することを強く意識したのだろう。
 立てて加えて、萌は普賢をがんと睨み据えれば、そこに挑発めいた口上をも切り出す。
「普賢、この世界で初めて神河萌の八つ重ねを味わえるんだからね、光栄に思いなさい!」
 それは普賢に向けた風ではあったものの、性質的には自身を奮い立たせるためのものだったろう。
 現に、普賢はその言葉に何ら反応を返さない。言ってしまえば、普賢は既にその言葉を意味のあるものとして認識できてはいなかったかも知れない。
 だから、それは「是が非でも、ここで八つ重ねをぶっ放す!」という強い意志を口にして、気合を入れ直したものに過ぎない。そうしなければ、過去の失敗が脳裏を過る程に全身の反応が芳しくなかったのか。はたまた「これで仕留めなければならない」という状況に際して、文字通り気合を入れ直して集中力を研ぎ澄ませたものかは解らない。
 対する普賢は、体勢を完全に萌迎撃モードへと切り替えるようだった。
 指向性を定めた呪詛をぴたりと途切れさせてしまえば、萌の一挙手一投足を窺うかの如く微動だにしなくなる。
 そんな普賢を前にして萌も迂闊には攻め込まなかった。何より、普賢は何かを狙っている節がある。
 ここに来て、その睨み合いに水を差すのが正威の役目だった。大した効果を見込めないことは解っていながら光球を展開すれば、それは目眩ましの役目も果たす。且つ、普賢が再び衝撃波を放つならば、その狙い通りの効果が発揮されないよう妨害もできるのだ。
 正威が光球を展開したのに合わせ、萌が地を蹴った。
 対する普賢は大きく両腕を広げる。一見すると、高威力の衝撃波を引き付けるだけ引き付けて萌に直撃させようかという腹に見える。さすがに「重ね」をもう一発放たれることが「何を意味するか」ぐらいは理解しているのだろう。普賢の動きはつい先程までのものとは打って変わり、萌の接近を厭い妨害することに重点を置いたものへと切り替わっている。
 だから、萌も何らかの妨害があることを危惧していた。向こう見ずに直進していって、最短ルートで普賢へと接近することをしなかった。「フェイントを挟む」という形を取り、普賢の隠し球をどうにか引き出し、事前にやり過ごそうという腹積というわけだ。
 その一方で、普賢は普賢で萌の動きに注意を向けつつも、必ずしも萌に衝撃波を直撃させようとしている風でもない。大雑把には萌の方へと向き直るのだが、必ずしも常に萌を正面に捉えるわけではないのだ。普賢も普賢で、まるで萌を自身の間合いに飛び込ませようとしているかのようだった。
 正威は、そんな普賢の動きを見逃さない。
 そして、普賢の狙いが直線上へと放つ衝撃波で萌を捉えることではないと、断定した。
 俊敏性を活かした動きで撹乱し、場を縦横無尽に掻き乱す萌に対して、高威力の衝撃波をもって直接ピンポイントで狙い撃つというのは余りにも防御態勢として分が悪い。
 では、機動力や反応速度で劣る普賢が萌の対処をする上での最善策は何だろうか?
 どの方向から攻めこまれようとも、対処できるようにすることが望ましい筈だ。
 正威が普賢の手を読み切れない中で、戦況が大きく動く。
 撹乱しフェイントを挟みつつ、萌がじりじりと距離を詰めていく中で普賢が先手を打ったのだ。
 萌がある一定距離まで接近したところで、普賢は全くのノーモーションで全方位に拡散する衝撃波を撃ち放って見せた格好だった。
 しかしながら、普賢は選択を誤ったといって良かった。これ以上の重ねのダメージを本気で忌避するのならば、萌に対して「迎撃」という手段を取るべきではなかった。萌の立ち回る速度は普賢のそれを数段は軽く上回るからだ。例え、この全方位衝撃波が目論み通り一時萌の攻勢を退け得たとしても、普賢が「迎撃」という手段を用いる限り「重ね」に対する根本対応は取れなかった筈だ。
 それでも、ここで致命的だったのはやはり、接近を防ぐべく普賢が放った全方位の衝撃波を、それとはなしに神河の二人が予測したことだろう。それが全方位に撃ち放つものとまでは予測し切れていなかったようだが「衝撃波」に類する何かで迎撃してくるとまで読んでいれば、対処はそう難しくなかったのだ。
 既に高威力の衝撃波を二度正威はやり過ごしているし、萌の攻めをサポートするべく光球も既に展開済みだ。
 全方位に展開された普賢の衝撃波に対し、正威は的確に対処した。
 萌に付きまとわせていた光球を進行方向寄りに集めて拡散させ、そこに衝撃波をやり過ごすための穴を穿った。
 当然、正威自身は完全な無防備となり、全方位に展開された衝撃波の影響を諸に食らって吹き飛ばされる格好となる。幸いだったのは、全方位に放った普賢の衝撃波には大した威力がなかったことだ。正威が二度やり過ごした高威力のものと比べるべくもない。萌を接近させんが為、且つ俊敏な立ち回りに対処すべく「全方位」へと放ったことで、威力を度外視したものとなったのだろう。そうだ、それはあくまで接近を妨害するための物に過ぎなかったのだろう。
 そうして、萌が全方位の衝撃波に対して一筋設けた穴を潜るようにそれをやり過ごしてしまえば、普賢に「重ね」を妨害する手段はもう残されていなかった。
 七割強が欠損したその頭部の側面へと、再びスレッジハンマーがめりこむ。
 次の瞬間、八つ重ねは普賢の頭部を首の根元に当たる部分から根こそぎ吹き飛ばしてしまっていた。
 普賢はがたがたと二度三度と痙攣した後、その場にゆっくりと仰向けに崩れ落ちる。
 ワンテンポ遅れ、全方位衝撃波に吹き飛ばされた正威が緑苑平フォレストコンコースの床をごろごろと転がる音が響き渡る。
「うがぁッ!」
 光球の制御に全神経を集中していたからか、ここにきて溜りに溜まった疲労が影響したからか。正威は受け身を取ることも適わず、緑苑平フォレストコンコースの床に突っ伏し無様な姿を晒した。
 一方の萌も、普賢が崩れ落ちるのを横目に捉えつつ、その場に倒れ込む格好となる。途中でスレッジハンマーがその手を離れ、緑苑平フォレストコンコースの床に音を立てて転がったものの、萌が意識を失っただとかいったことはないようだ。手に力が入らなくなったといったところだろうか。ともあれ、少なくとも倒れ込む間際に体勢を整え受け身を取り、その場に仰向けになるぐらいの余裕は見せる。
 一方の正威は、しばらくごろごろとフォレストコンコースの床を転がり呻き声を挙げ続けた。
「あー、あー、痛ぇ! 痛ぇよ! くそ、あー、なんだこれ、……全身がくっそ痛いんだけどさぁ!」
 一頻りそうして落下の痛みをやり過ごした後、正威は顰めっ面をしたまま徐にむくりと起き上がる。多少緩和されたとは言え、まだ痛みはかなり尾を引いているようだ。尤も、既にそこには緊迫感の「き」の字も伴ってはいなかった。
 普賢が広範囲にばらまいていた呪詛によるものと思しき何とも言えない重苦しい空気がすうっと薄れてしまっていたからだろう。一時的にではあるものの、緑苑平フォレストコンコースは普賢の影響から完全に解き放たれたのだろう。
 普賢の呪詛の影響を退けたことを確認すると、正威はまず遙佳とバックスの状況を確認する。
 結論からいうと、こちらはまだ戦闘を継続する状態にあった。即ち、普賢が完全に沈黙しても、赤鬼が行動を停止しなかったのだ。
 それでも、ただでさえ鈍重な赤鬼の動きはさらに精彩を欠く形となる。見た目に「動揺」といった類のものを窺うことはできないものの、普賢が沈黙したことで何かしらの影響が生じたことは間違いない。
 遙佳・バックスコンビに取って、それまで以上に赤鬼があしらいやすくなったことは言うまでも無い。二人が明らかに精彩を欠く赤鬼の対処をどうするつもりかは定かではないながら、呪詛の影響から解放された今、短勁習得のための踏み台と化すのかも知れない。
 次に目を向けるものは、レーテと啓名の起脈石アクセス組の動向だ。
 しかしながら、緑苑平フォレストコンコースのメイン通りには、既に二人の姿は確認できなかった。正確な起脈石の設置場所を知らないため断定はできないものの、予定通りに進んでいると見て良いだろう。何か問題が生じていれば、何らかのコーションを発する筈だ。
 そうして、正威は最後に相方である萌の様子を探る。
 念の為、動かなくなった普賢に注意を向けながら、正威は倒れ込んだままの萌へと向かってゆっくりと近づいていく。
 その途中、正威からは何の気なしに、7枚以上に踏み込んだ感想を問う言葉が口をついて出た。
「8枚を重ねてみた感想はどうだ?」
 萌は仰向けに横たわったまま両手を天に突き出し、拳を握っては開き握っては開きしながら自身の体の感覚を確かめていた。そうして、その問合せに視線だけを向ける形を取ると、率直に「想定外」だったという趣旨の言葉を返す。
「8枚如きでここまでごっそり力を持っていかれるとは思わなかった……」
 そこには初めて7枚以上を成功させたという喜びの色は微塵もない。すると、そこに続く萌の言動は、一気に投げやりなものとなる。
「あーあ、10枚はまだまだ無理なのかぁ」
「良かったな、10枚何て大見得切った挙句、いざやりますってところで「失敗」なんてことにならなくて。実際、10枚どころか9枚も無理だろ?」
 正威のいうように、萌は現在の自分の能力では「8枚」が限度であることを、身を持って理解したのだろう。
 投げやりな態度を前に苦笑する正威に対し、萌は一転して真剣な表情へと切り替わる。
「あの時よりもずっとずっと成長してきたわけじゃん? なんで駄目かな? 何で増やせないかな?」
「術式を内部で処理するキャパシティを増やす方向の成長ができていないってことじゃないのかな。その代わりといってはあれだけど、重ねの威力は飛躍的に伸びてるんだ。それでも、どうしても枚数を増やしたいっていうなら、今後はそっちの能力増強を視野に入れた訓練を取り入れる必要があるんだろ」
 正威の見解を聞いた萌は、その表情で「そうは言っても……」といった不服顔だ。あくまで、その見解は方向性を指し示しただけだからだろう。
 萌が求めるところは「実際にこの訓練をすれば良い」とする方法そのもののようだ。
「具体的にはなんかある?」
「いや、全く。見当も付かないな。そもそも萌が持つ「ブリーダー」って能力自体が特殊な部類で、久和の中にも蓄積された知識がないからなぁ。なかなかそこをピンポイントで強化するっていうのは難しいのかも知れない」
 具体案をこれだと返すことのできない正威を前に、萌はこれでもかと言う程に大きな溜息を吐く。
 萌に灯った色は「失望」だろうか。尤も、安易に正威が答えを導き出してくれるなんて甘い期待を抱いていたわけでもないようで、その色は薄く淡い。
 それでも、少なからずの期待は込められていたわけで、萌の対応には棘も混ざる。
「正威らしくないじゃん? もうちょっとこう、……具体的な方法はわからないけどこっちでも調べてみるぐらいの言葉が出てきても良いんじゃない?」
 普段の正威のコンディションならば苦もなく、且つそんなつもりが毛頭なくともさらりとそんな台詞が口を吐いて出たのかも知れない。
 それができなかったということは、やはり泥峰の禁呪から対普賢までの流れによってかなりの疲労が蓄積していたからだろう。
 ともあれ、そんなやりとりを交わしつつほっと息を付くことができたのも束の間のことだった。不意に、どこからともなくそれまで以上に禍々しい空気が張り出して来たからだ。
 正威は困惑の表情を隠すことなく、慌てて普賢へと向き直った。
 その場に座り込んで項垂れていた萌も、ばっと顔を上げると「何が張り出してきたのか」を確認しようとする。
 普賢が何かをしたから「そうなった」のだと思ったのだ。それこそ「八つ重ね」のダメージから早々に回復し、神河相手に何かそれまで以上の攻撃を仕掛けるべく下準備を始めたのかも知れない。そう、考えたのだ。
 しかしながら、頭部を失った普賢は緑苑平フォレストコンコースの床に横たわったまま微動だにせず、また呪詛を放っていた時のような気配を伴ってもいない。
 では、どこからその禍々しさは噴き出してきたのだろう?
 いいや、それは最初からそこに存在していたかの如く、緑苑平フォレストコンコースのありとあらゆる場所から染み出てきていた。それは、肌で感じる分には滑るように生暖かく高い湿度をまとった空気とでもいえば良いだろうか。色も匂いもないが、俄かに息苦しさを伴いもして、それが普賢の「呪詛」とは異なるレベルでまずいものだと本能が訴えてくる。
 萌が眉間に皺を寄せる。
「何これ? ただごとじゃないよ」
 次の瞬間、ドバっと黒いものがどこかから溢れた。いや、それは周囲に張り出してきた禍々しさ同様、まるで最初からその場に存在していたかのように、何もない空間から染み出てきた。
 黒蝗だ。
 それはあれよあれよという間に、一気に膨大な数となる。
 そして、それは萌や正威に見向きもせず、遙佳とバックスが対処する赤鬼目掛けて飛び掛かって行った。
 必然的に、遙佳とバックスは赤鬼との戦闘を中止する形を取ることになる。何より、赤鬼は全身を埋め尽くさんが如く黒蝗に集られ、行動するのもままならなくなる始末だ。
 赤鬼と距離を取る最中、遙佳は膨大な数に膨れ上がった黒蝗が活発に動き回る様子を前にして当惑を隠さない。
「何これ、どこからこんなに湧いて出て来たっていうの……?」
 啓名の「散らし鈴」が稼働を止めたわけでもない。また散らし鈴は未だ継続的に鳴り渡っており、啓名が力尽きて意識を喪失したというようなこともないだろう。
 普賢の呪詛を止めたにも関わらず状況は芳しくないが、例え当初の目論見通りにことが運んでいないにせよ、ここで計画を中断するわけにはいかない。それまで以上の禍々しさが張り出すという予想外の展開になっているとはいえ、少なくとも「継続ダメージを受ける」という状況だけは改善されたのだからだ。
 遙佳とバックスは黒蝗に集られ身動きの取れなくなった赤鬼から早々に離れると、まずは神河と合流する。
 その後はバックスを先導役として、膨大な数となった黒蝗を避けつつ緑苑平フォレストコンコースの起脈石設置場所を目指して進む。
 起脈石は緑苑平フォレストコンコースにある搬入搬出口、メインの通りから派生する脇道のさらに奥まったどん詰まりに設置されていた。
 ただ、どん詰まりとはいえ、そこには緑苑平フォレストコンコースと地上とを繋ぐ業務用エレベーターがあり、一時的に物品を仮置きできる広いスペースも存在している形だ。高さも緑苑平フォレストコンコースのメイン通りより高く、幅も5m近くはあるだろうか。業務用エレベーターからメイン通りに通じる脇道まで10m近く有り、ここががらんとしていればかなりの人数を収容できる広さだと言える。
 尤も、一般人がそこを意図的に訪問する可能性は限りなく低いだろう。
 業務用エレベーターは関係者以外の利用を禁じていて、そもそも利用にパスコードを必要とする設備である。地上とを繋ぐ階段もなく、業務用エレベーターの利用もできなければ、そのスペースでパスコードを持たない一般人ができることは何もない。
 啓名とレーテは折り畳み台車と搬出待ち段ボールなどが所狭しと積み上げられたそのスペースの一角で起脈石を操作していた。主窪峠や泥峰といった他の場所で見たものと大差ない「起脈石」の前で真剣な表情を見せる啓名は、心なしか顔色が改善しているようにも見える。
 幸いなことにレーテと啓名が活発化した黒蝗に襲われるようなことはなかったようだ。それが毛皮による効果かどうかはさておき、黒蝗が二人をまるでそこに存在していないかのように扱うのだから、何かしらの効能は発揮されているのかも知れない。
 尤も、どん詰まりの場所に張り出してきた黒蝗は、遙佳達へと襲い掛かる節もなかった。毛皮を被るレーテや啓名に対してそうだというのならばまだ解るが、遙佳達にも見向きもしないところを見ると「毛皮」以外の要因かも知れない。
 ともあれ、真剣な顔付きで黙々と作業を続ける啓名にバックスが率直に尋ねる。
「啓名、どうだ?」
「認証はすんなり通ったし、障害はなにもないわ。RFの制御変更についても、もうすぐ全行程が完了する」
 啓名からは順調である旨の回答が返る。すると、そこから1分と経たない内に、啓名の口からは安堵の息が漏れ出る。
「良し、これで終わりだわ」
 啓名はそこで一気に脱力すると、その場にへなへなと力なく座り込んだ。
 RFの操作が完了し、RF内へと携帯の電波が届くように設定を変えた矢先のこと。
 正威のスマホには不在着信が立て続けに入る。ポケットからスマホを取り出して、不在着信の相手を確認していくとそこには笘居の名前が数件ずらりと続いた。
 大体10分置きぐらいの感覚で、定期的に連絡を取ろうと試みたようだ。
 禁呪の後処理を任せてきたこともあり、正威は起脈石から少し離れた場所へと移動すると、笘居に対して折り返しの連絡を行う。
 笘居は「待ってました」と言わないばかり、呼び出し音が3回とならない内に着信を取った。
「ああ、やっと繋がったか、正威君。折り返してくれたということは、今から多少話をしても大丈夫な状態にあると思って良いね?」
「ええ、事態はまだ解決していませんけど、今は小康状態にあります。多少の時間は取れます」
 正威から会話が可能な状態にあると返された笘居は、堰を切ったかのようにつらつらと話し始める。
「禁呪の後処理をしているところに主窪主様が現れた。何でも、招現寺のことで話しておかなければならないことがあるそうだ。ちなみに、禁呪の拡大防止処置は、正威君に連絡が付くまでの間、手隙だからと主窪主様がやってくれた。2〜3日は完全に拡大を防止できるように対処もしてくれた。ただ、禁呪の除去作業自体は神河が実施しろとのお達しだ」
「主窪主様……が? それは有難い」
 正威の受け答えには、言葉通りの感情が伴った形ではなかった。言葉通りの有難さが半分で、恐らくもう半分には戸惑いと申し訳なさが混じっていた筈だ。
「で、本題だ。主窪主様が急ぎ話をしたいそうだ。何でも、元々は神河サイドから確認したいことがあると話を振っていたんだろ?」
 笘居はそこで一端言葉を区切ると、主窪主に向けて正威と会話できる状態になったことを伝える。
「主窪主様。そのまま話して頂ければ、神河へと声が伝わるようにしてありますので、どうぞ」
「いつかの嫌な長雨の気配がするな。これは久方ぶりの感覚だ。だが、決して忘れることのない忌々しい気配でもある。……だから、もう既に手遅れなのだろう。従って、多くは聞かない、招現寺へ続く穴が開いたのだな?」
 笘居に続いて話し始めた主窪主は、率直に緑苑平フォレストコンコースの現状を正威に問う形だった。
 緑苑平フォレストコンコースに招現時へと続く穴が開くのを防ぐよう主窪主から依頼されたわけではないものの、その原因を作った星の家の対処を神河は依頼されている。
 星の家の対処方法をもう少し上手に運べていれば、緑苑平フォレストコンコースのこの好ましくない現状には至らなかった可能性も十分考えられるわけで、正威の口調は自然と重苦しさを帯びる羽目になった。
「申し訳ありません。招現寺へと続く穴が緑苑平に開きました」
 主窪主の問いに答えを返した時点で、正威はスマホをスピーカーモードに切り替える。これから主窪主と行うやりとりを、起脈石に顔を揃える他の面子とも共有しておいた方が良いと判断したからだ。
 レーテなんかは今まさに立木へと連絡を行おうとしていた状態だったのだが、突然聞きなれない主窪主の声が聞こえてきたことでその手を止めた形だった。
 主窪主とのやり取りを確認するようレーテや遙佳に目配せすると、正威はスマホ越しの会話を継続する。
「主窪主様には招現寺に関わる事柄について確認したいことがありました。それも出来れば緑苑平フォレストコンコースへと、俺達が赴く前に済ませておきたかったというのが本音です。……が、それは適わず今に至ります。現在、緑苑平フォレストコンコースの状況は、俺達が「こう対処すれば、こうなるだろう」と予想していた状態から大きく逸脱しています」
 正威が横目に捉えるものは黒蝗。そして、相変わらず、横たわったまま微動だにしない普賢だ。
「具体的には、緑苑平フォレストコンコースに開いた穴から出現した僧衣のミイラ、……これは普賢さんだと思いますが、その僧衣のミイラが放つ呪詛によって星の家や一般人が甚大な被害を受ける状況であった為、まず俺達は僧衣のミイラを撃破しました」
 状況説明を続ける正威に対し、主窪主は衝撃的な言葉を返す。
「それは悪手を打ったな」
 状況を説明する言葉はまだまだ途中だったものの、正威は主窪主の発言によって思わず言葉を失う格好だった。
 率直に言って、正威はその主窪主の言葉に当惑を隠せなかった形だ。
 たっぷりと沈黙の間を置いた後、正威はその発言に繋がった理由を鸚鵡返しに尋ねる。
「……悪手?」
「普賢が放っていたであろう呪詛は、本来星の家や神河一門・霞咲の住人へと向いたものではない。楠翁蝗共の活動を妨害し壊死させるためのものであり、引いては招現寺に封じた厄神・天角楠翁を呪殺する為のものだ」
 普賢撃破を悪手と述べた理由が主窪主から為され、起脈石前に顔を揃える面々は各々複雑な心境を隠さなかった。
 その説明に対して、真っ先に問い返したのは遙佳である。
「黒蝗が活発化したのは、普賢の呪詛を止めたからってこと……?」
「そうか、既に楠翁蝗が這い回る状態にまで、事態は進行しているのか。それまでと比較して蝗共が活力を得たというのならば、それは呪詛を止めたことに起因すると見て間違いない」
 その疑問を主窪主から明確に肯定されたことで、遙佳は思わず下唇を噛んだ。自身が最も近付けたくないとする未来視の風景に近い状況を自らの判断で引き起こしつつあるという思いがあるのだろう。
 押し黙る遙佳の代わりに、今度はバックスが口を開く。
 それは普賢がこの場で何をしていたかを理解した上で、次に起こり得る最悪の事態の蓋然性について問うものだ。
「……呪詛が止んだ今、招現寺に封じられたその天角楠翁とやらが這い出てくる可能性もあるってことかい、神様?」
「その答えは「否」だ。もちろん、呪詛がそのまま長きに渡って止み続ければ、天角楠翁も力を取り戻すだろう。だが、一月やら一年やら呪詛が止まったところで、あれが復活できるような状態にはない。既に百年単位でそこに縛り付けられているのだ。呪詛が完全に止んだとしても復活までには長い年月が必要になる」
「なら、一先ず最悪の事態は回避できているってわけか」
 主窪主の言葉をバックスは「どうにか最悪の事態には陥らない」と解釈したが、萌は首を左右に振ってそこに疑問を投げ掛ける。
「それは解らないよ。もし普賢がこのまま復活しなければ、再び厄神を封じる為の呪詛がばらまかれることはないんだよ。それは即ち、今すぐにではないにせよ、天角楠翁という厄神の復活に繋がるんじゃないの?」
 萌が懸念を口にしたことを受け、主窪主はすぐにその危険性を一先ず考慮する必要がない旨を説明する。
 尤も、その内容は「そう時間を必要とせずに、普賢が再び天角楠翁に対して呪詛を放つようになる」という趣旨の内容でもあった。
「どのような手段で普賢に攻撃を加え呪詛を止めたのかは知らない。だが、並大抵の手段で普賢を滅ぼすことは適わぬよ。あれは招現寺の底に枯れぬ魔脈を敷き、そこから無尽蔵に力を汲み上げることができるのだ。また、枯れぬ魔脈を天角楠翁討滅まで利用し続けんが為に、あの姿へと化したのだ。魔脈を塞いで力の供給を止めぬ限り、普賢が滅びることはない」
 並大抵の手段では普賢を打ち倒せない。それに絡んで出た「枯れぬ魔脈」という単語、そしてミイラの姿と来て、正威は普賢が招現寺で何をしたかについて大凡理解したようだ。
「招現寺の底は、……黄泉路へと繋がっているんですね?」
「そうだ、神河一門。北霞崎という土地で生物が活動し、生き死にが繰り返し続く限り決して途絶えることのない脈を引いたのだ」
 正威の疑問についても、主窪主は明確にそうだと答えた。
 率直に言って、事態は神河が当初想定していたよりもずっと複雑であり、対処が容易ではない状況にあると言って良かった。
 どうすれば「この状況を鎮められるか?」を思慮する正威の表情は優れない。
 そうして、正威は自分自身でその答えを導き出せないと結論付けたのだろう。
 打開策を主窪主に尋ねる。
「……今の緑苑平の状況を聞いた上で、主窪主様に教えを乞いたいことがあります。どのようにすれば、この場を穴が開く以前の状態へと戻すことができると考えますか?」
「まずは普賢がその緑苑平という場に留まらざるを得ない状況を改善する必要がある。その為には楠翁蝗を処理しなければならない。普賢が招現寺から出てきたことも、呪詛を執拗に放ち続けることも、楠翁蝗を野放しにするわけにはいかないからだ。なぜならば、楠翁蝗の活動を通じて、招現寺に封じられた天角楠翁は力を得る」
 バックスは緑苑平フォレストコンコースのメイン通りを我が物顔で飛び回る黒蝗を横目に捉える。そうして普賢という一つの個体を相手にするよりも、膨大な数の黒蝗を相手にする方が厄介かも知れないと認識を改める。
「つまりは、何よりも黒蝗を潰して回ればいいってことか? とはいえ、潰して回るにしても、あっという間に膨大な数になっちまったけどな」
「楠翁蝗は厄介だ。普通の手段では滅ぼしきれぬ。あれは蝗の形を装っただけの穢れのようなものなのだ」
 バックスの認識を訂正する形で、主窪主はその数の膨大さが黒蝗の厄介さの主因ではないと述べた。
 普通の手段で黒蝗は滅ぼし切れない。ならば、どうすれば良いのか?
 起脈石の前に顔を揃えた面々は、主窪主の次の言葉を待った。
 主窪主はその方策について指し示す。
「楠翁蝗を完全に滅する為には、場を清める「炎」が必要だ。それも、物質に火をくべて得る熱量としての炎ではなく、生命力そのものを具現化させた炎だ。起こし方・呼び名は様々だが、ここいら辺りでは「白(はく)の火」、もしくは「魂火(こんか)」と呼ぶ。それは白く透き通り、穢れをも焼き払うことができる。尤も、物質に火をくべて得た熱量で焼き払ってもある程度の効果は得られる。だが、完全には清められないし、楠翁蝗を滅するには足りぬ。また、普賢の呪詛も楠翁蝗に対して有効足り得るものではある。……だが、効果は低い。楠翁蝗を滅する為には必然的に威力を底上げしたものを、長時間に渡って放ち続ける必要がある」
 誰しもが、普賢が「なぜ呪詛を吐き出し続けることに執着していたか」をまざまざと理解した瞬間だった。
「楠翁蝗が緑苑平で顕在化する事態さえ改善できれば、普賢がこちら側で呪詛を放つ理由はない。また、こちら側に留まる理由もない。そうなれば、普賢が招現寺へと帰るのを待って、後は開いた穴に蓋をするだけだろう」
 黒蝗さえどうにかできれば、普賢は招現寺へと戻る。主窪主はそう推察した。
 ならば、ここで必要となるものはもう決まっている。
 正威が主窪主にそれを求める。
「白の火の、起こし方を教授願えますか?」
 しかしながら、そこから主窪主の口調は一気に重くなった。
 そんな主窪主からは「白の火」を扱うということが、如何に容易ではないかの説明が続く。
「白の火……か。残念ながら、それは誰も彼もができることではない。才があれば苦も無く出来るだろうが、才がなければ修練しても起こせはしないだろう。現に、普賢は類稀なる法力を持ちながら、それを起こすことは適わなかった」
 なぜ普賢が効果の薄い「呪詛」という手を用いて黒蝗の相手をしていたのかを正威は知ることとなる。
 では、できるできないの差はなんなのだろうか?
 そして、緑苑平フォレストコンコースに顔を揃える面子の中に「白の火」を扱い得る才能を持ったものがいるのだろうか?
 もし居ないのだとすれば、どうやって黒蝗の対処をすれば良いのか?
 様々な疑問が正威の脳裏を過る形だったが、主窪主はそれ以前の問題があると続ける。
「そして、才があればとはいったが、例え才があっても、それまで白の火を扱ったことのないものが見様見真似でできることではない。偶発的に、生まれながらにして、または後天的に白の火の扱い方を得るものもいるが、そうでもなければ一朝一夕でできることではない。もし仮に、扱い方の下地を得るものがその緑苑平の場にいたとて、このような音でのやりとりだけでは感覚的な力の使い方を伝えようもない」





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