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Seen18 緑苑平フォレストコンコース異式錯落(下) -vs普賢・赤鬼-


 呪詛によるダメージの大きい啓名を除いた面々で緑苑平フォレストコンコースを穴の空いたと思しき方角へと進んで行き、バックスが姿を表した十字路へと差し掛かると、まず赤鬼の姿が右手遠目に確認できるようになる。
 ちょうど一段広く10m強にも及ぶ横幅が取られた緑苑平フォレストコンコース内の休憩スペースに赤鬼は陣取っていて、岩石の破片やら木片やらを一所に集め何やら構造物を作っているようだった。
 赤鬼の特徴としては、まず3mに達しようかという筋骨隆々の巨躯が目に付く。ボロボロの麻布みたいな布切れを下半身に巻いただけの出で立ちで、逆立った白髪に口元を完全に覆う白髭が、茹で凧みたいに真っ赤な皮膚と相まって「鬼」という風貌を際立たせているといって良い。
 尤も、その巨躯もここ緑苑平フォレストコンコースでは、相手に威圧感を与えるような役割を果たしているとは言えなかった。なぜならば緑苑平フォレストコンコース内部は高いところでも高さがほぼ4mといったところであり、赤鬼は場所によっては前進にしろ後退にしろ屈んで行わなければならず、それが狭い檻に閉じ込められているかのような印象を強く与えるからだ。
 障害物も多く、赤鬼が感じる窮屈さは相当なものである筈だし、実際身動きに対して大きな制約を受けているのは間違いない。何より、赤鬼がこの場で戦闘行為に及ぶ場合、思いのままに武器を振り回すことができないという制約は大きな障害だろう。大仰に武器を振り上げなどすれば、その切っ先は容易く天井へと接し、薙ぐように振り回すのだとしても支柱やらが邪魔になる。
 また、その武器種にしても取り回しがコンパクトなものとは言えなかった。右手には人が扱うことを想定した大きさではない大槌、左手には同じく刃渡りが2m近くにもなる大剣といった具合だ。とてもではないが、それらをここ緑苑平フォレストコンコースで余すことなく振り回せるとは到底考えられない。
 緑苑平フォレストコンコースという場所は、赤鬼の脅威を大きく減衰させる効果を持った場所と言えただろう。
 もう一方の普賢だが、まず遙佳達から見て赤鬼よりもさらに奥まった遠い場所に位置し、不動だった。
 未来視でそうだったように、僧衣へと身を包む、大きさにして150cm程度しかないミイラなのだが、実際にその姿を目の当たりにすると、安易に近付くことを躊躇わせるオーラを放っていることが解る。特に、普賢が延々と紡ぎ続ける呪詛がそのオーラを醸成しているようで、視覚では捉えることのできない何とも形容し難い禍々しさを伴っていた。
 加えて、普賢を相手に回すとなった際、どんな手段を用いて、どの程度の速度で移動できるのかといったようなことが全く不明である点も近づき難さに拍車を掛けていただろう。
 一定距離まで間合いを詰めたら、前動作なく唐突に、それこそ瞬間移動のように接近してくるかも知れない。
 やはり一般的な生物を相手にするのと比較して、距離感が掴めないという要素は大きい。
 緑苑平フォレストコンコースに顕現した2体を遠目に眺めつつ様子を窺っていると、唐突に遙佳が普賢の対処に当たるメンバーについてこう発言する。
「あたしと正威君が普賢に当たる。レーテちゃんと萌ちゃん、バックス君は赤鬼の相手をお願いできるかな?」
 遙佳のその人選は萌に取ってかなり意外だったようだ。すぐさま、遙佳に対して疑問を呈する。
「正威はともかく、遙佳ちゃんが普賢に当たるの?」
 萌のその口調はさも「赤鬼を相手する方が真価を発揮できるんじゃないの?」とでも言いたげな風だったが、遙佳は胸を張って普賢相手でも十分自身が戦力足り得る旨を主張する。
「ふふん、土倉君やアルフ君を驚愕させた件の「魔法」を見せてあげる」
 それは即ち、物理で殴ると言った攻撃手段に打って出るのではなく、魔法と称した「神通力」でまずは対処に当たると遙佳は言った形だ。尤も、それがどれだけ有効かについては全くの未知数であるため、まずは試しという意味合いが強いだろう。
 そして、名前を挙げられた当の正威が遙佳のその主張を否定しない。遙佳について「やるといったら、簡単に引き下がるタイプじゃない」と認識していたとかいった辺りのことも確かにあっただろう。しかしながら、バックスの忠告を踏まえて普賢相手に「有効打となり得る手立てを今の段階で探っておきたい」という思いがあったことも間違いない。
 そんな思いが交錯しつつも、正威がそこに「反対」の意思を示さないことで、萌はあっさりと引き下がった。
 加えて、レーテ・バックスからも反対の声が上がらなければ、自然と場にはその組分けを前提とした上で、各々が相手を見定める張り詰めた空気が漂い始めた。
 無論、まだかなりの距離を置いているということで、赤鬼・普賢に遙佳達を気にする素振りは微塵もない。
 こちらから先手を打って仕掛ける形になるだろうことは間違いない。
 萌とレーテ・バックスコンビが赤鬼へと距離を詰め始めたことを確認すると、正威はまずズボンのポケットから手袋を取り出した。
 いや、それを手袋と呼ぶのには語弊があっただろうか。手の甲側に紫色の透き通った小粒に石をそれぞれ5つずつあしらい、手の形に添ってピタッと張り付く薄地の保護具みたいな作りだ。中指の付け根にあたる部分には指輪も埋め込まれていて、何らかの効力を発する道具であるだろうことも見て取れる。
 正威は遙佳に目配せすると、手袋を嵌め感触を確かめながら、ゆっくりと普賢へ接近を始める。
 それは普賢への接近に伴って、赤鬼が正威・遙佳コンビを標的にすることがないかを慎重に確認しつつの歩みであったのだが、結論から言えば拍子抜けするほどに警戒を向けられることはなかった。
 正威は普賢を射程範囲に収める距離まで何の障害もなく達した形だった。
 赤鬼は緑苑平フォレストコンコースの脇を通り過ぎていかんとする正威・遙佳を一瞥することすらなかった。一方の普賢も、未だ微動だにせず延々と呪詛を吐き続ける形であり、正威・遙佳の存在など眼中にないのか、そもそもその存在に気付いていないようにさえ見える形だ。
 普賢を射程距離に置き、正威は握り拳を作っては手を大きく広げるグーパーの動作を軽く数回合間に挟んだ後、強い口調でこう気を吐く。
「それでは、まず小手調べといこうか!」
 正威が自身の胸元で、十数cm程度の隙を持たせて両手を向い合わせる。すると、その隙間の中にはすぐさま複数個の光球が生じた。大きさは直径6〜7cmといったところだろうか。最初は2〜3個程度が形を取っていたのだが、それらが正威の手を離れる頃には総数6個まで増えていた。
 やや白色掛かったその光球を正威は意のままに操って、普賢へと急接近させる。
 緩やかなカーブを描いて接近するその光球を、普賢は全く気に掛けない。回避行動を取ることもなく、全くの無防備のまま光球の接近を許した形だ。
 すると、光球は普賢と接触した直後、音もなく破裂し膨大な熱量と衝撃を生じさせた。
 所謂骨と皮だけのミイラの面であり、且つ目という器官を持たず、大きく抉れた眼窟に青い炎を灯すだけの、表情を持たない普賢がその攻撃によって怯んだかどうかをパッと見で判別することはできない。しかしながら、それは確かに普賢へとダメージを与えたのだろう。なぜならば、普賢の口を付いて出る呪詛の言葉を、一旦、確かに途切れさせたのだからだ。
 光球による攻撃が有効そうだと解るや否や、正威はすぐさまさらなる光球を生じさせる。
 同じように緩やかなカーブを描いて空中を滑るように移動する光球は、またも容易に普賢へと接近し炸裂した。今度は接触後に、青白いスパークが普賢の形に添って走り「バチッ」と耳を劈く嫌な音も響き渡った。
 普賢も光球が自身にダメージを与え得るものだと認識した様子で、今回は緩慢ながらの回避行動を取ったは取ったのだが、正威の操作によって自在に動きを変えるそれを回避することなどままならなかったのだ。
 バックスに「物理攻撃が利いている節がない」とまで言わしめた普賢を相手に、正威の攻撃はすんなりとその威力ままに通っているように見えた。少なくとも、呪詛を吐き続ける普賢の口を一旦黙らせ後退を余儀なくさせるくらいには、行動を妨害できているのだ。
「どうやらこの手の攻撃なら、問題なくダメージが通るみたいだ。……なら、このまま押し返すまで!」
 正威は続けざまにそう気を吐いて普賢を押し返さんとするものの、それが決定打足り得ないことは明らかでもあった。普賢の呪詛を一時的には黙らせられはするものの、光球による影響がなくなると普賢はすぐに呪詛を再び吐き出すのだからだ。
 正威の光球が決定打に成りえないことを知ってか知らずか、遙佳はその横で着々と件の魔法をぶっ放すための下準備を整えていた。そうはいっても、何か特別な詠唱を必要とするだとかそういったことはない。かつてそうしたように、自身が内包する神通力を練って練って高めていって、それをまるで強力な魔法であるかのように発現させるだけだ。
 遙佳は瞑目した状態から一転、カッと目を見開くと口元へ不敵な笑みを灯す。腰を落として右手を眼前へと突き出せば、あっという間に遙佳を取り巻く周囲の環境が変化を始めた。恐らく、星の家を相手にぶちかました時のそれよりも大きく威力を底上げしたのだろう。
 まず、遙佳を中心に置いて、周囲の気温がググッと下がる。体感でいえばそれは軽く、十数度は下がっただろうか。はっきりと、そこに隔絶された「層」が生じたことを肌で感じられる程度にそれは顕著である。そうして、ゆっくりと空気のうねりが生じ、そこに風が発生し始めると、それは瞬く間の内に巨大な渦を生じさせていた。
 周囲から吸い上げる塵や埃といった類のもので、その大きなうねりが視覚でも捉えられるようになる。そうして、果ては打ち捨てられたチラシやそこそこいらの黒蝗までをも巻き込むようになった頃、遙佳がそれを撃ち出す。
 緑苑平フォレストコンコース内のごみや黒蝗を巻き上げ渦を巻く巨大な風のうねりは、凄まじい速度で前進していき容易くその直線上に居た普賢を吹き飛ばして見せた。
 直撃後、僅かにさえもその場に留まること適わず、普賢は緑苑平フォレストコンコース内部に点在する支柱の一つに叩き付けられる。優に20〜30m近くは軽く吹き飛ばした格好だ。普賢が衝突した支柱に至っては中程から圧し折れ、程無くして完全に瓦解したことからもその衝突の威力が凄まじいものだったことが解る。
 尤も、それを受けてなお、普賢は容易くむくりと起き上がって見せるのだった。
 遙佳は思わず、目を真ん丸くして頬をポリポリと掻く。
「あらら、……駄目かぁ。多少は利いてるんだろうけど、実際に通ったダメージは軽微な感じなのかな? うねりの中にカマイタチとかも内在して、あちこち切り刻んだりもするかなりの大技だったんだけどね!」
 尤も、普賢の口をついて延々と吐き出し続けられていた呪詛を、一旦途切れさせる程度には遙佳の魔法も効果を発した形ではある。ただ、それが期待通りのダメージだったかというと「そうではない」と相成るだけだ。
 大技が期待通りの効果を発揮できなかったことで遙佳の表情には影が差す。例え、大きく体力を擦り減らすことになっても、一撃必殺級の大技で普賢を早々に撃破してしまうことが何よりも望ましかったからだ。正威が操る光球のように「微細なダメージが通る」というものを積み上げていくのでは駄目なのだ。何せ、それを積み上げるだけの時間的な余裕もなければ、呪詛で力を削ぎ落とされていく最中に合って、体力的な面でも長期戦は好ましくない。
 遙佳や正威がそれに耐えられたとしても、では啓名はどうか?
 この緑苑平フォレストコンコースに取り残された一般人はどうだ?
 自身の大技が不発に終わったことを受けて遙佳が正威に問う。
「光球がダメージを与えられることを踏まえて、普賢を一撃で行動不能にするような大技をちょうどよくぶっ放せたりはしない? 溜めや準備が必要なら、あたしがいくらでも時間を稼いで見せるからさ。何ならあたしが持つ力を正威君に受け渡したっていい!」
「残念ながら、そんな都合の良い大技はないな。溜めれば光球の威力を多少は底上げできるけど、それで普賢を短時間で行動不能に持っていけるとは思えない。何か触媒を用意できるならまた話は変わってくるけど、そっちは仮に時間を貰ってもそう簡単に手配できる代物じゃない」
 正威は、遙佳の要求に答えられる大技を現時点では持ち合わせていないと答えた。しかしながら、続ける言葉で普賢を撃ち破り得る大技について一つの提言をする。
「けど、萌のスレッジハンマーを用いてブーストを掛けた一撃なら、かなりのダメージを期待できると思う。萌のスレッジハンマーには俺の術式を付加することができるんだ。見ての通り、光球によるダメージはすんなり通っているから、スレッジハンマーに術式を付与して叩き込んでも同じようにダメージが通ると見て間違いない。萌はスレッジハンマーに付与した術式の威力をブーストすることができるんで、より効果的に普賢を攻められる筈だ」
「へぇ、なるほどね。だったら普賢攻めには萌ちゃんを当てた方が良さそうだね」
 対普賢のチーム再組分けへと話が及ぶ中、攻撃を受けた普賢が攻め手へと回る。
 普賢は自身の周りに散らばった大小様々の支柱の破片を、遙佳がそうしたような神通力で宙に浮かべて見せると、それを勢いよく打ち出して見せた。
 それが何を意味するかを察した瞬間、正威が叫ぶ。
「まずい!」
 かなりの加速度を伴って撃ち出されたそれは、投石機によって放たれた土塊のようなものだ。いや、殺傷力という点では微小で鋭利なものを混ぜる以上ずっと危険かも知れない。やもすれば、大小様々の支柱の破片は、その大きさや命中する部位に寄っては容易に致命傷になり得る上に、より広範囲に、回避が困難なよう撃ち放たれているのだ。
 正威は出現させる光球の数を大きく増やし、前面に広く一定間隔に配置されるよう展開させる。
 そうして、大小様々の支柱の破片と衝突する間際に衝撃波の壁を作る。衝撃波の壁によって自身へと向かって飛んでくる全ての破片の進行方向を逸らせるわけではなかったが、致命的なダメージを及ぼしかねないサイズのものについてはどうにか全てをやり過ごした形だった。
 その一方で、遙佳は大物だけをメイスによって薙ぎ払って凌ぐ形になった。こちらも、メイスによって薙ぎ払うという行為でその全てを回避できたわけではない。寧ろ、正威よりも負ったダメージは大きかっただろう。
 遙佳が対処できた破片はそれこそ本当に大物だけだ。中程度の破片が高速で体のあちらこちらに衝突したことで、遙佳は目に見える形で全身に多数の引っ掻き傷や打撲を負った形だった。
「やってくれるじゃない! 呪詛を吐く以外だけが能じゃないってわけ?」
 遙佳が普賢を睨み据えるも、普賢がそれで怯むわけもない。
 そこそこいらに散らばった支柱の破片を弾丸として打ち出すことが有用だと理解した普賢はすぐさま第二段を放つべく、自身の周囲に散らばる支柱の破片を再び宙に浮かべる。厄介なのは、第一弾で大サイズの破片はほぼ撃ち出し切っていて、第二段のその大半が中サイズから小サイズのもので構成されているということだ。
 第一弾と同じ手段でそれらを防ぐとなると、正威はまだしも遙佳は圧倒的にまずい。
 正威は先程同様に無数の光球を発生させる傍ら、遙佳に自分の傍へ来るよう声を張り上げる。
「久瀬さん、こっちへ!」
 遙佳は近場の支柱の影に隠れることも視野に入れていたようだが、正威の呼び掛けにすぐさま反応した。何せ近場の支柱に隠れるとはいっても、そこまではかなりの距離がある。退避が間に合うかは未知数だ。
 しかしながら、結果的にそれが仇となった。
 普賢は同じように支柱の破片を散弾銃の弾丸のように撃ち放ったのだが、それだけではなかった。同じように攻撃しただけでは、同じように防がれて、然したるダメージを与えるには至らないと判断したらしい。支柱の破片が着弾し防がれた直後に追撃が続くよう広範囲を薙ぐ衝撃波を、頭部から、何の前動作もなく、撃ち放って見せる。
 正威サイドにその追撃を阻む手はなかった。
 事前に回避するには散弾銃のように射出された支柱の欠片がネックとなり、それらをやり過ごしてから追撃に対処するにはその為の準備時間が無さ過ぎた。普賢のそれは、狙い澄ましたかのような絶妙のタイミングだった。
 だからといって、支柱の破片を凌がないなんて選択肢はない。第一撃同様、支柱の破片を衝撃波の壁を用いてどうにかいなした後、正威と遙佳の二人は追撃として放たれた普賢の一撃によってものの見事に吹き飛ばされる。
 綺麗な放物線を描いて中を舞った後、正威・遙佳の二人は数メートル後方の床の上へと放り出された。


 萌、そしてレーテ・バックスコンビが赤鬼へと近付きつつあっても、普賢同様に赤鬼が何かしらの警戒を向けることはなかった。
 一心不乱に石を積み上げ構造物を作る赤鬼に萌達の存在を認識している風はなかったが、その勢いのまま足を進めようとした萌をバックスが制止する。
「そろそろ、こっちの存在に気付いて警戒を向けてくる。何か準備をするなら今のうちだぜ?」
 ここいらが赤鬼のエネミー認識の境界線だと言われ、萌は足を止めて赤鬼をまざまざと注視した。
 ある程度赤鬼の細部が確認できるようになって解ったことはそう多くなかったものの、少なからず立ち回る上で有用な情報が収穫できたことも事実だった。
 例えば、大剣は鋼といった極々一般的に普及しているもので構成されているようで、何ら特別な加工の施されていない直刃の武器のようだ……とか。一方の大槌は、全体が木材で作られ、随所に金属製のパーツで補強が施されただけの何ら特別なものではなさそうだ……とか。
 そして、何よりも大剣に関していえば、既にそれが「剣」と称するのもどうかと思える状態にあると解った点が大きかっただろう。長年、……もしかすると普賢が招現寺へと厄神を封じてからこっち、それはずっと手入れをされていないのかも知れない。刃の部分は完全に潰れてしまっているし、随所に赤錆が発生しているような状態なのだ。刃は片刃なのだが、特に柄部に近い刃部は、もはや相手に刀傷を付けることは不可能だろうといレベルで刃が潰れてしまっていた。寧ろ、刃を振う対象の強度によっては、脆く砕けるレベルに達していたかもしれない。
 パッと見、大槌の方は目立った損傷などは見受けられないものの、大剣の状態を見るにどれだけのダメージが蓄積されていてもおかしくはないと言えた。そもそも、その細部を目で追っていくと、随所にあるべきパーツがないというような部位も見て取れる。
 そして、それは何も赤鬼が装備する武器に関してだけの話ではなかった。
 赤鬼の体の至る箇所には黒い斑模様が見て取れるのだが、それらもただの「模様」ではないようなのだ。体を動かす度にボロボロとそこから細かな欠片を零すのだ。
 黒色の斑部分はどうやら硬質化しているらしく、赤鬼は動く度に微かな「引っ掛かり」を感じさせもする。足を上げようとすると、ある一定高さまで足を挙げたところでその速度を落とし、ボロボロと硬質化した欠片を落とすというパターンを挟んだ後、元の動きに戻る感じだ。
 緑苑平フォレストコンコースの高さ・広さといった制約抜きにしても、赤鬼は文字通り「思いのままに体を動かせない」状態にあるようだった。
 だから、赤鬼への距離を詰め、赤鬼の状態についてその細部を把握できるようになって、まず萌が感じたことは相手が「満身創痍」だということだった。
 大凡、人とは似付かない異形で強面の形相ながら、目玉はない。それが赤鬼にとっての正常な状態なのかどうかも判断はつかないが、眼孔部に仄かに青く灯る光が唯一まだ確固たる意志を持って動いていることを推察させる。
 ここからさらに赤鬼への距離を詰めるという段階になって、萌が唐突に口を開く。
「どう攻めたらいい?」
 それは特定の誰に向けたというような言葉ではなかったが、一度赤鬼と対峙したことのあるバックスへと問い掛けたものと受け止められる。
 バックスは赤鬼相手の立ち回り方について、さらりと答える。
「赤鬼の攻撃を受け止めようとはせずに、回避することに重点を置いて攻めるのが良いな。さっきも軽く触れたが、動きはかなり単調だ。動きに引っ掛かりがあるんで最初はちょっとテンポが狂いがちになるが、慣れれば回避重視に起点を置けば奴の一撃を諸に食らうなんてことはまずない」
 言うは容易く、行うは難し。バックスの攻め方指南はまさにその代表例みたいな内容だといって良かった。
 初見の相手を敵に回して、どんな攻撃を繰り出して来るかも解らないのに「回避重視」と言われたところで、余りにもざっくりし過ぎだ。
 当然、萌の表情は優れない。
 ぶっつけ本番で、どうしても泥縄式に対処しなければならないというのであれば、それでもやるのだろうが今求めるところはそこではない。赤鬼の攻撃手段が手に持つ「大剣と大槌によるものだけなのか?」とか、それこそ大剣を用いて繰り出される「技」で注意しなければならないものがあるかどうかといった、より相手に回す上での詳細な情報が欲しいのだ。
 尤も、当のバックスも萌の表情から何を聞きたいのかを察したらしい。
「あれだな、俺が先行するから、まずは赤鬼の挙動をざっくり見て貰った方が早いな」
 そういうが早いか、バックスは徐に地を蹴って加速するとあっという間に赤鬼との距離を詰めて見せる。そうすることで赤鬼の反応速度といった部分も露わにしようとしたのだろう。
 結論から言うと、赤鬼の反応速度は非常に鈍重だった。それは萌やレーテの想定をずっと下回るレベルだったと言っても過言ではない。
 当然、バックスの速度が人のレベルを凌駕しているというのは多分にある。しかしながら、赤鬼はほぼバックスが懐に飛び込んで来てからしか、その対処の為の動きを繰り出せない。しかも、対処の為の動きにしても、件の「引っ掛かり」もあって、速度で大きく上回るバックスを全く捕捉できていないのだ。
 まして、赤鬼の体格を優にジャンプで飛び越せる程の身体能力を持つバックスに取って、その大振りの攻撃を回避するのも大した問題ではなかった。そうすると、バックスはほぼ一方的に赤鬼に対して攻撃を繰り出すような形となる。赤鬼の攻撃が大剣や大槌によるものに限られるのであれば、バックスがその攻撃を受ける頻度というものは、本当に「まぐれあたり」レベルの頻度でしかないだろう。
 では、バックスが著しく優位に立って居るかというと、そうでもないが厄介だった。バックスが装着するナックルダスターによる攻撃が、赤鬼に有意なダメージを与えている節がないからだ。
 赤鬼はバックスの攻撃を全く意に介していなかった。防御態勢を取ることもぜず、ただただ大剣と大槌を振り上げて、攻撃を繰り出し続けるのだ。赤鬼の対応は、当たろうが当たらなかろうが、あくまでバックスへの反撃のみに徹する形だと言っていい。
 赤鬼のワンテンポ遅く鈍い連撃をひょいひょいっと軽い身のこなしでやり過ごした後、バックスはすすっと萌とレーテの居る場所まで後退してくる。一方、赤鬼はバックスの方をゆったりとした動作で追うものの、実際に距離を取ってしまえば後を追って進み出てくることはなかった。
 追っても無駄だと思っているのか。はたまた、攻撃を受けてなお、赤鬼が重視する他の何かがあるからか。
 ともあれ、確かに、ある程度距離を取ってしまえば、赤鬼が追撃してくることはないらしかった。
 大きく息を吐き出すと、バックスはどうだと言わんばかりに大仰なジェスチャーを取って二人に告げる。
「……大体こんなやりとりを延々繰り返した格好だ。全く顔色一つ変えやしねぇ」
「急所を狙っても、この調子なの?」
 萌の問いに、バックスは首をしゃくって赤鬼を指す。
「実際にやって見れば解るさ。怯む様子の一つも見せやしねぇよ」
 その言葉には、ナックルダスターによる攻撃でまともにダメージを与えられていない点を踏まえて、萌やレーテの繰り出す攻撃に「期待」を向けた節がある。同時に「神河萌」がどこまでやれるのかを、実際その目で確認する意味合いも込められていただろう。
 萌がスレッジハンマーを構え、レーテがバックス同様ナックルダスターを装着し、赤鬼との距離を一気に詰める。
 萌の動きはバックスやレーテよりかは若干速度面で劣ったものの、それは然したる問題ではなかった。少なくとも、赤鬼を翻弄するのには何ら問題ないレベルにあったといって良い。
 それこそ、ただの一般人でも距離を取って戦えるならば、致命的な一撃を受けることなく赤鬼にちまちまダメージを与えるぐらいは余裕なのかも知れない。
 問題は、赤鬼が繰り出す鈍重ながら破壊力抜群の一撃を受け止めざるを得なくなったり、その場に足止めをしなければならないような状態になった時だろう。
 萌が振るうスレッジハンマーが大槌を握る赤鬼の右腕関節部にめりこむものの、それでも赤鬼は顔色一つ変えなかった。レーテやバックスがナックルダスターを用いて関節や、人で言うところの急所を狙って攻撃を加えたのだがそれも劇的に利いている節は全くない。
 確かに動きは鈍く、且つ動きそのものに引っ掛かりを持つ為、赤鬼の渾身の一撃を貰う可能性は極めて低い。しかしながら、双方が決め手を欠く状態では相当の持久戦を余儀なくされることは間違いなかった。そうなると、普賢の呪詛に晒される中にあっていつまでもパフォーマンスを維持できるとは限らず、万が一そこで赤鬼の一撃を貰うようなことになれば一発で致命傷となることも十二分にあり得るのだ。そういった意味合いでは、普賢と赤鬼は良いコンビだと言えた。
 赤鬼の右腕に渾身の一撃を放った後、すぐに間合いを開いて萌は毒づく。
「なるほどね。高耐久でこっちの攻撃をいなして時間を稼ぎ、呪詛の継続ダメージで稼いだ時間分の体力を奪うって戦法なわけ? 随分とえげつないじゃんね」
 生半可な攻撃ではこの状況を打破できない。
 萌はそう判断したようだ。
「だったら、耐久できない威力の一撃で埒を開いて見せようじゃない!」
 まして、長引かせれば長引かせただけ、普賢の呪詛によって力を奪われていく状況下にあるのだ。正威&遙佳コンビが普賢の呪詛をすぐさま黙らせてくれるというのならばまだしも、その見通しも立っては居ない。ならば、ここは多少の無理を推してもある程度赤鬼にダメージを与えて置く必要のある場面である。
 徐に気炎を上げて見せた萌に対し、バックスが尋ねる。
「そいつは頼もしいね。何か手伝えることはあるか?」
 萌の気炎、引いては状況打開の為の一撃は、バックスが待ち望んだものだ。レーテが加わっても、赤鬼を「倒すことはできない」という星の家の現状を踏まえて、課せられた役割を果たすためにそれは絶対必要となる。即ち、遙佳と正威が普賢と衝突する場に、赤鬼を介入させないという役割を果たすためには、埒を開く一撃が必要なのだ。
 バックスの問いに、萌は思慮の時間を間に挟んだ後、こう答える。
「さっきみたいに赤鬼の攻撃を適当にやり過ごして時間を稼いで欲しい。5分もあしらって貰えれば万々歳かな。後は赤鬼の隙を付いて会心の一撃を叩き込むって流れ」
 それはバックスに取って何も難しい要求ではなかった。
 ただ、先程やってみせたことを、再び同じようにやって欲しいといったに過ぎない。
 バックスはしたり顔で胸を張る。
「オーケー。今のままじゃ打つ手がねぇからな。その一撃、期待してるぜ、久和一門」
 しかしながら、そこまでバックスが発破の言葉を口にしたところで、萌がぴたりと足を止めたことは言うまでもない。
 星の家の中でどういう伝達がされていたかは定かではないながら、自身を指して「久和一門」と評されるのを萌は良しとしない。大まかな分類という意味合いでそれは誤りではないが、萌はあくまで久和の中の有象無象の一つではなく、神河という「個」であるのだという認識を要求する。
「神河だ、久和じゃない。久和には属しているけれど、その括りは正しくないよ。後、ついでに、あたしは萌、神河萌だ、覚えておきなさい」
「くく、オーケー、神河萌。改めて、期待してるぜ、その一撃!」
 あっさりと言い直して見せるバックスに対して、萌はどこか釈然としないような表情を見せる。
「……」
 尤も、僅かな沈黙を挟んだ後、口を切った萌から向いた言葉はその認識の差異をああだこうだと蒸し返すものではなかった。
「えーと、そっちはバックスって名前なんだっけ?」
「ああ、正確にはバークストンっ名前なんだが、ながったらしいんで大概の奴はバックスと呼ぶ」
「じゃあ、バックス。悪いけど、時間稼ぎを宜しく頼むわ」
「任せておけ。赤鬼相手なら5分と言わず、1時間でも2時間でも楽に稼いで見せるさ」
 バックスはそう胸を張った後、レーテへと向き直る。
「レーテ、行けるな?」
「時間を稼げばいいんでしょう? 呪詛っていうののせいか、たまにちょっと感覚がずれる感じはあるけど、まだまだ問題ないよ」
 そんな簡素なやり取りを交わした後、バックスとレーテはどちらからとも言わず一気に赤鬼との距離を詰め先行する。特段、ああするだとかこうするだとかのやり取りがなかったところを見ると「臨機応変」という名前の都合の良い泥縄式の対応であっても、赤鬼を捌けるぐらいには息の合った動きを展開できるようだ。
 実際、赤鬼を撹乱するレーテとバックスの対応は見事としか言えないものだった。
 赤鬼が繰り出す大剣も大槌も、狙ってその場所に繰り出させているかと見紛うほどに二人は攻撃を回避し捌ききって見せる。ワンテンポ遅れて繰り出されることまで考慮に入れているのだろう。振り落としの一撃も、薙ぎ払いの一撃も、赤鬼の攻撃は全て見切られていたといって良かった。「まぐれ当たり」の一撃がなければ、負けることなどない。そう思わせられる展開がそこにはある。
 そうだ、普賢の「呪詛」による影響さえ考慮しなければ、自身が口にして見せたようにバックスは1時間だって2時間だって楽にやり過ごして見せるのだろう。
 期せずして長期戦となる場合、どこから普賢の「呪詛」の影響が顕著になり始めるのか。それが問題だったろう。
 萌は胸元から符を数枚取り出すと、内五つをスレッジハンマーの柄部にまとわせその上からしっかと握り締める。うっすらと符が青白く発光を始めると、それと連動するかのようにスレッジハンマー自体も発光を始める。いや、連動して……という言い方は語弊を招くだろう。やがて符が発光を止めたのにも関わらずスレッジハンマーの発光が収まらなかったところを見ると、符が持つエネルギーを移したというのが適当だろう。一枚一枚と符が輝きを失うたびに、スレッジハンマーに灯る光は格段に強くなる。
 柄部にまとわせた符の全てが輝きを失ったところで、萌はぐっと歯を噛み合わせる。瞬間、青白一色だったスレッジハンマーの発光が揺らぎ、変色を始める。それはこれと言った色に留まらず、短時間の内に何度も何度も色を変えた。そうして、再び「ガチン」と萌が歯を噛み合わせたところで、スレッジハンマーの発光が青白に収束する。
 萌が大きく目を見開き、気炎を上げる。
「整えた!」
 レーテとバックスが赤鬼の注意を引き付ける中、萌が地を蹴って赤鬼の胸元に切り込みスレッジハンマーによる一撃を繰り出す。狙いは再び、赤鬼の右腕だ。
 直撃と同時にスレッジハンマーのまとった青白い発光が赤鬼へと移り、直後数本のスパークが走ったかと思えば「バチンッ」と耳を劈く程の轟音が響き渡った。刹那、赤鬼の右腕で、スレッジハンマーが直撃した付近の肉が弾けて鮮血が飛び散る。スパークが走った影響だろう、肉の裂け目は赤黒く変色し、大きさは最大のもので50cm程度にまで達していた。傷口からは止め処なく鮮血が溢れて滴り落ち、その萌の一撃がそれまでのものとは一線を画すダメージを与えたことは明らかだった。
 しかし、それでも赤鬼は苦痛に表情を歪めることもなく、また右手に握る大槌を離すこともなかった。言い方を変えれば確かなダメージにはなったものの、大槌をしっかと握る右手の筋に達するものではなかった。
 即ち、まだまだ威力が足りないのだ。
「おお、やるねぇ!」
 それでも、バックスからは確かなダメージを通したことに感嘆が漏れた。それまでの攻撃では、そこにすら達することができていなかったからだ。だから、それは光明足り得た。不完全ながら、埒を開いたのだ。
 尤も、対する萌の表情は渋く、そこに満足感はない。
「今手元にある中で、五枚重ねで最大威力になるよう配合してぶちかましたっていうのにさ! もう少しうんとかすんとか言いながら苦しむ様を見せるぐらいの可愛げがあってもいいんじゃないの?」
「だが、利いていないわけじゃない。上出来だ。同じ攻撃を数発叩き込んでいけば、どうにか赤鬼を行動不能にはできそうだ」
「だね」
 バックスの「赤鬼の対処は可能」という認識を、萌が否定することはなかった。
 しかしながら、そこに萌が続けた内容は、それが理論的には可能というだけで現実的には課題があるという内容だ。
「問題は、今のと同じ攻撃を繰り出すためにはちょっとした下準備が必要なこと、かな。……しかも、その下準備はあたし一人じゃ完結しなくて、今まさに普賢を相手にしている正威の協力が必要になる」
 萌が正威の方へと視線を向けるも、あちらはあちらで赤鬼のことを気にしていられる状況でもないようだ。
 遙佳と正威は、今まさに普賢が支柱の破片を弾丸として射出せんとするその一発目をどうにかしてやりすごそうという状況下だ。
 赤鬼にダメージの通る一撃を立て続けに打ち放てない状況について、萌は誰に向けるでもなく弁解を口にする。
「元々、最初は泥峰の起脈石に対処するって手筈で準備をしていて、当日中の対普賢なんて想定していなかったからね。しかも、こんなのが居るなんて聞いてなかったし……、どう考えてもストック不足だよ」
 当然、ダメージの通る攻撃を続けられない点について、バックスやレーテに「なぜ?」を問われたわけではない。どちらかと言えば、その萌の台詞は自身の迷いを吐露したものに近いだろう。
 確実にダメージの通る攻撃があることを確認できた点を持って、まずは良しとして一旦退くか。はたまた、確実にダメージの通る攻撃を連発できないことを承知の上で、このまま赤鬼と戦闘を続けるか。萌はそれを迷った形だ。
 下準備を整え、赤鬼対策をするとなれば、普賢を攻める正威と遙佳にも一旦退いて貰う必要がある。加えて言えば、大きくダメージを負った箇所を集中して攻めれば、赤鬼も今まで通りには立ち回れないのではないかという期待もそこにはあった。
 決断を躊躇う萌に、バックスが即座に提案する。
「下準備のため、一旦、退こう」
 赤鬼に相当のダメージを与えるに至った萌の攻撃が連発できない状態である点を踏まえた、バックスの判断は「退却する」というものだった。下準備にどれほどの時間が掛かるかだとかいった点を確認するまでもなくそれを口にしたのは、萌による一撃がなければ赤鬼の動きを抑止することなど適わないと、嫌という程解っているからだろう。
 確かに、萌の一撃で大きくダメージを与えた右腕一本ならば、このまま戦闘を続けて引き千切るぐらいのことはできるかも知れない。しかし、そこからは再び決定打を欠く状態が待っているわけだ。腕一本引き千切ったくらいで赤鬼が怯んでくれるのならばともかく、顔色一つ変えずに立ち回るさまが容易に想像できる。
 そして、バックスが一旦退くと決断したその矢先のこと。そこがあらゆる意味で分岐点ともなる。
 普賢の居る方向から、正威と遙佳のものと思しき呻き声が響き渡ったのだ。赤鬼サイドの状況とは打って変わり、そこには普賢が撃ち放つ支柱の破片群第二段と衝撃波の波状攻撃を前にして、遙佳と正威が緑苑平フォレストコンコースの床に突っ伏すという光景が展開されていた。
 萌が慌てて正威へと駆け寄る。
「ちょっと! 正威、大丈夫なの?」
「大丈夫じゃない! あちこち引っ掻き傷だらけだし、受け身を取った際に右脇腹から右腕に掛けても痛めた。くそ痛い!」
 顔色を変えた萌を前にして、正威が反応を返せないということはなかった。
 やや大袈裟とも取れるジェスチャーを交えて正威は痛みを訴えたのだが、対する萌はみるみる内にその表情へ安堵の色を灯した形だ。
 正威にしろ遙佳にしろ、そうやって床に打ち付けられて呻き声を上げはしたものの、意識が混濁しているだとかいった状態にはなかった。
 正威で言えば、全身の至る所に無数の引っ掻き傷を負い、床に叩き付けられたことで軽い打撲を負ってはいたものの、言い換えればそれだけだ。
 大仰にも「大丈夫じゃない」と宣う正威を、萌も軽くあしらう。
「そんな口が聞けるなら、まだまだ大丈夫そうだね。良かった」
「良くないよ!」
 そんな萌の反応を前にして、正威は痛みから来る苛つきを言葉に乗せ、一際大きな声を出す。
 尤も、そうして声を出したことで、俄に冷静さを取り戻したのだろう。正威はそこで舌打ちして押し黙ると、緑苑平フォレストコンコースの床の上に胡坐をかいて座る。
 見据えるは、普賢。
 一方、普賢の方は長々とそんな正威と遙佳の様子を窺うかのように、衝撃波を放った体制のままその場に静止していた。そうして、しばらく様子を見た後、遙佳達が再び接近して来ないことを良しとしたのだろう。再び呪詛をばらまく作業へと移る。
 最初にバックスが説明したように、ある程度距離を開けば、それ以上の追撃はしてこないらしい。
 普賢が再び呪詛を吐き出し始めたところで、遙佳もむくりと起き上がる。
 その表情は憮然としたものだ。
「あー、上手いことやられたね。ミイラなんて風貌だからてっきり複雑なこと考えられないんじゃないか、単調な攻撃しかしてこないんじゃないかなっていう甘えがあったね」
 正威と一緒に吹き飛ばされた遙佳の方も、然したるダメージを受けた風はない。その場で体の随所の反応を確かめるように首、両腕、腰、両膝……といった具合に軽く動かしていき、視線を定める相手は正威同様に普賢だ。
 波状攻撃を受け吹き飛ばされたことを踏まえ「どう攻めようか?」と思慮を巡らせ始めたのかもしれない。
 よもすると、そのまま風のように切り込んで行き兼ねない様子の遙佳を、バックスが呼び止める。
「一旦、小休止といこうぜ、久瀬遙佳。共有しておきたいこともある」
 小休止を提案された遙佳は普賢から目を離すことなく、再び呪詛をばらまく様子をまじまじと眺める。
「こちらから手を出したにも関わらず、戦闘を継続する意思を見せない限り、普賢にあたし達を追撃するつもりはないんだね。普賢に取って呪詛をばらまくということは、そこまでウエイトを置くべきこと……なんだ? 多分、衝撃波だって本気の一撃じゃない。あたし達を呪詛を放つ自分から遠ざけるためのものだ。なぜ?」
 ここに来て、あくまで呪詛に拘る普賢のスタンスの裏にあるものを、遙佳は強く訝る。
 呪詛をばらまき続けることを重視するにせよ、直接それを止めようと邪魔をするものが居るのに、その排除を優先しないのは腑に落ちないのだろう。
 ともあれ、バックスは思慮を巡らし始めた遙佳の肩をポンポンと軽く叩いて、小休止、引いては情報共有の場を持つことを促す。
「呪詛で呪い殺すということが普賢に取って何かプラスの意味を持つのかも知れねぇが、延々眺めたところでその理由を知る由はねぇだろうよ。それよりも、今はここからどうするかの指針を決めようぜ。……啓名も居た方がいいな。ちょっと待ってろ、連れてくる」
 バックスが啓名の存在に言及したことで、遙佳は小休止の情報共有とやらがかなり本格的なものになるだろうことを察した。
 もちろん、放置プレイをすることで啓名の状態が大きく悪化するのを避ける意味合いもあっただろうが、その場に「啓名も居たほうが良い」といった言葉からはやはり攻め方を抜本的に見直すといった趣旨が見て取れる。
 そして、数分としない内に、バックスに肩を借りる形でその場に姿を表した啓名は先程よりさらに青く生気のない顔付きだった。
 今の星の家・神河&遙佳連合が置かれた状況を一言で表すならば、それは前回一致で「決め手に欠く」となるだろう。
 まずバックスが萌・レーテと共に自身が対処に当たった赤鬼について、状況の見通しを説明する。
「赤鬼の方は、どうにかできそうだ。神河萌の一撃を突破口にできる」
 バックスの見通しを聞き、そこに「神河萌の一撃があれば」というニュアンスが混ざったことで、何とも言えない表情を見せるものが居た。正威だ。口では「赤鬼をどうにかできそう」という状況説明に対して「良い傾向」だという趣旨の発言を返すのだが、その実、浮かない表情であったことは否めない。それは遙佳に対し、普賢を相手にする上で「萌が必要になる」といったことと関係していた。
「そいつは良かった。なら、こちらも赤鬼のことを一切気に掛けずに普賢を攻められる。……なんて言いたいところなんだけど、普賢の方は一筋縄じゃいかなさそうだ。それでも、赤鬼をどうにかできる見込みがあるなら、……そっちを片してから普賢に全員で当たるという手も取れる。それができるなら、普賢を攻める手立てがないわけじゃない」
 正威の見立てはこうだろう。
 まず、先程と同じように、赤鬼と普賢にそれぞれ面子を分けて当たり、赤鬼と普賢とがお互い協力し合えないよう分断する。バックス・レーテ・萌チームが赤鬼を打ち倒すまで、遙佳・正威チームは普賢をちまちま攻め立てて時間を稼ぐ。そうして、赤鬼退治後、合流し、萌を適宜運用して普賢を全員で打ち倒す。
 正威がそうして頭で展開を組立ていたところに、萌が浮かない表情で声を上げる。
「でも、赤鬼退治には一つ問題がある」
「問題?」
 萌の視線がまっすぐ自身に向いていたことで、正威はやや当惑気味に聞き返した。
 尤も、バックスがその問題点に言及せず萌からという形が取られたことで、正威は大凡それが何なのかを察した節があった。特に、バックスは「神河萌の一撃を突破口に」という言い回しもしていたからだ。
 萌はくいっと顎をしゃくって見せて、赤鬼へと視線を向けるよう要求する。
「五つ重ね、プラス、最大出力が出るよう丁寧にブーストを掛けた一撃で、どうにかあの段階までダメージを与えた形」
 その萌の言い分は、五つ重ねが期待していた通りのダメージを与えられなかったことを如実に物語っていた、そして同時に、それでもどうにか、バックスのいう「突破口」には事足りるものであることを一目で理解させた形でもある。
「五つ重ね、しかもブースト有で、あれ……か」
 正威のイントネーションも、萌の認識と概ね同調していた。即ち、五つ重ね+ブースト有の一撃として、期待通りのダメージが通っていないというものだ。
 五つ重ね+ブースト有の一撃で赤鬼に与えることのできたダメージを踏まえて、萌が赤鬼退治に対する見解を述べる。
「最低でも三つ四つを重ねた一撃じゃないとダメージらしいダメージは与えられないし、五つ重ねクラスを連発しないと、多分赤鬼に決定的なダメージを与えることはできないと思う」
「感触、五つ重ねが後何発必要になると思う?」
「これからどう攻めるかで変わってくる部分はあるけど、このまま赤鬼の右腕を潰すにも後2〜3発は必要な感触かな。右腕を無視して攻めるとしても、両足を潰して行動不能に追いやっておきたいから五つ重ねを最低8発程度は連発したい」
 足一本に4発換算は、右腕と同じようにダメージを与えられることが前提になっている計算なので、安全を見ればもっと連発できるように手筈を整えたいというのが萌の本音だったろう。
 赤鬼退治に向けた萌の見解を聞いた正威の表情は優れない。
 それは、それだけ五つ重ね+ブーストが必要ならば「ぶっ放せばいい」が困難であることを如実に物語っていた。
 立てて加えて、赤鬼退治に対する萌の見解には、バックスが追加で注文も付ける形だ。
「足を狙って行動不能にする前に、二つの武器から自在に攻撃を繰り出される状況を何とかしておきたいってのも本音だ。一発一発の威力が高そうだから、事故を起こす確率はなるたけ下げておきたい。赤鬼を行動不能にする前にこっちが行動不能になったら元も子もないからな」
 バックスから推奨されたのは、赤鬼をさらに安全、且つ迅速に行動不能へと追いやる為に両の腕へとさらなるダメージを加える案だ。そうなると、まだまだ五つ重ねを連発する必要性が生じる。
 そして、それはより現実的ではないのだろう。
 そこに至って、萌は五つという縛りを排した場合の話を続ける。
「消耗度合が格段に跳ね上がるけど、あたしの方は何なら六つでも、七つでも重ねたっていい。別に緻密なコントロールが必要な場面じゃなし、的もでかいし、短時間で片を付けるっていうなら……ね」
 尤も、その萌の言葉は、自身がどうというよりも「正威が可能ならば」という行間を強く含んだ内容だった。
 萌がまじまじと向ける視線には、正威が返す言葉の裏にあるものを読みとかんとする鋭さも混じる。
 そんな視線に晒されながら、まず正威がしたことは符の残数を確認するというものだった。
「符の残りは、何枚あるんだ?」
「11枚」
 萌が符の残数について答えたところで、問題の本質が一気に浮き彫りとなる。
 今手元にある符の残数では、五つ重ねならば2発、七つ重ねならば1発しか、赤鬼に有効となる一撃を放てない。尤も、当の正威も赤鬼退治に必要となる枚数をカバーできるだけの残数があるだなんて、端から考えても居なかった筈だ。
 しかしながら、その萌の手持ち枚数は、正威の想像を大きく下回るものだった。
 正威が続ける言葉には、落胆の色が顕著に滲む。
「話にならないな」
「だね。今のままでは赤鬼の行動を封じることすらできやしない。でも、だからといって符を一から仕立て上げる時間もないわけじゃない?」
「確かに、……そうだ。手間で言うなら、符を5枚用意するのも、6枚用意すのも大きく変わらないが、大量の符を用意して居られる場面じゃないのは間違いない。五つ重ねを10発放つためには、符が50枚必要だ。どんなに短く見積もったって軽く3〜4時間程度は必要になる。この呪詛に晒される中でそんなことはやってられないし、現実的じゃない」
 現状認識をつらつらと語る正威は目に見えて落胆の色合いを強くしたが、その目に灯る現状打開のための意欲はまだ消えていない。
 五つ重ねの連発が困難ならば、他の手を模索するまで……といわないばかりに、その思慮の矛先は五つ以上へと及ぶ。
「七つ重ねに頼るんだとしても、二発ぶっ放すのにも後3枚は必要になる……か。3枚程度なら、多くの時間を必要とはしないけど……」
 正威は七つ重ねに頼る方が、符を用意するという観点に置いては蓋然性が高いと判断したようだ。
 そうして、萌をまじまじと見返すと、七つ重ねに頼るという手が実現可能なのかを模索する。
「萌はどうなんだ? 七つ重ねを使うとして、何発までなら連発できる?」
「その台詞、そっくりそのまま返す形になるけど、何発までなら連発できるように符を整えられる?」
 そこで正威は思わぬ指摘を萌から受けることになった。七つ重ねに頼るという手が実現可能なのかを、逆に問い質された形だ。
「もしくは、符に頼らず、あたしに直接付与する形でもいいよ。何発までなら七つ重ねを連発できるようあたしに術式を付与できる? 用意に掛かる時間も確かに問題だけど、泥峰で禁呪なんて大技を使って正威自身もかなり消耗している筈だよね? 今の正威に20や30も符を整える余力が残っているとは思えないんだけど? ただでさえ、一日に整えられる符の数なんて、疲労困憊になるまでやってどうにか50〜60が限度でしょう?」
 正威は咄嗟に言葉に詰まる。
「……できないかも知れない、なんて、そんなことを言っていられる状況ではないだろ? 必要なら、やるしかない」
 すぐさま言葉を立て直しはしたが、そこにかなりの無理が生じるのだということを萌には敏感に感じ取られる。
 萌はそんな正威の「無理を押してでも」というスタンスをばっさり切り捨てる。
「精神論なんかいいよ。それは理論的じゃない。それに、ここがそんな些末な理論で気張らなきゃならないデッドラインだとも思わない」
 ここまで、黙って神河内のやりとりを聞いていた遙佳がここに来て徐に声を上げる。遙佳はこここそがデッドラインだと思っているからだ。
「一度、完全に退却して、体勢を立て直そうって腹積もり……? そんなの駄目だ! ここで退いたら……」
「冷静になりなよ!」
 遙佳は一気にヒートアップの様相を呈し始めるものの、その勢いは萌の一喝によって挫かれた。そこには鋭く遙佳を睨み据える迫力を伴った視線も伴っていた形だ。
 言葉が言下の内に、そして、その勢いが吹け上がり切る前に萌がその熱を削いだことで、遙佳は完全に言葉の吐き出し先を失った格好となる。
 それでも遙佳が黙らず喚くようなら、どうだっただろうか?
 萌は迷わず遙佳のその手を出していたかも知れない。
「少し冷静になろう、遙佳ちゃん。ここで、あたし達が失敗してこの区画から脱出さえもできない事態に陥ったら、それこそ取り返しがつかないよ。断言するよ、そうなったら遙佳ちゃんが提示したあの未来視よりも悲惨な結果になる。最終的には、久和の管轄下にある霞咲での出来事だから、久和一門が威信を掛けて総出になっても何とかするだろうけど、後手に回ることで発生するだろう被害は凄まじいものになる筈だよ。それこそ絶対に避けるべき事態でしょう?」
 出鼻を完全に挫かれた挙句、萌にそう諭されたから遙佳は喉元まで出た主張を引っ込めたままでいたものの、大きく曇った表情はより一層その度合いを増していた。
 例え、赤鬼や普賢を鎮められずに失敗し、外部への連絡すらできない状態に陥ったとしても、笘居やノクトールが異変に気付くだろうから霞咲に取ってそこまでカタルシス級の事態になることは考え難い。しかしながら、初動は間違いなく遅れるはずで、その被害が甚大なものになる可能性は十分考えられた。
 萌は遙佳に熟慮させるだけの時間を与えない。続ける言葉で一度この場を後にし、体勢を立て直すメリットについて言及する。
「新濃園寺駅の地下にある貸しロッカーには、符のストックが保管してある。スターリーイン新濃園寺での衝突が拡大した時用のバックアップなんだけどで、あれらを回収すれば正威にこれ以上の負担を強いることなく五つ重ねも七つ重ねも残数を気にせず連発できる。まあ、符としては100枚束が一つストックしてあるだけだから、そういいながらも五つ重ねで20連発、七つ重ねで14連発程度が精々だけど……、それだけぶっ放せれば必要十分でしょう?」
 五つ重ねで20連発と聞くと、赤鬼退治後に普賢と継続戦闘をすることまでを視野に入れるならやや不安が残る枚数となるが、萌が100枚束を不足と捉えている節はない。言ってしまえば、まだ赤鬼退治後の「vs普賢」にも、萌の重ねが必要になるという認識がないのだ。
 そうすると、気になるのは「七つ重ね」とやらの威力になってくる。
 遙佳はまだどこか納得いかない節を残しつつも、まずは赤鬼退治後の「vs普賢」への布石について目を向けることにしたらしい。
「七つ重ねの威力っていうのは、赤鬼の腕や足を確実に吹き飛ばせるものなの?」
「五つであそこまでダメージを負ってくれるなら、七つ重ねにブーストも掛ければ間違いないよ。赤鬼の腕一本、足一本を一撃で持って行ける」
 遙佳の疑問に、萌は自信満々に胸を張る。
 しかしながら、それは遙佳に取って期待に沿う「威力」ではない。
 遙佳が求めるものは、赤鬼を、そして、その後の普賢も見据えて最小枚数で済ます手立てだ。
 11枚+アルファで赤鬼+普賢を倒し得る最小枚数。
 遙佳の問いは必然的に七つ重ねの上がないのかの確認へと続く。
「もっと数を重ねて威力を底上げし、一撃で赤鬼を倒すっていう手はないの? 例えば、……重ねる数を10枚にする、とか」
 そう来るだろうと踏んでいたのだろう。
 その疑問の答えは、正威の口から発せられる。
「それが必要とされた当時の萌の力量では、七枚が限度だったんだ。昔、八枚を……ってところで、失敗して手痛い目に遭っている。そうは言っても、その当時の八枚が成功しても、今の萌の六つ重ね程度の威力だった筈だけどね」
 いいや、それは回答として可否を示したものではなく、リスクを示すものだった。
 七つ以上も可能だが、それは現実的ではないかもしれない。今の萌ならば七枚以上を重ねられるだろうというニュアンスを匂わせた形でありつつ、行間にはしっかりそのリスクが高い旨を忍ばせた言い回しだった。
 一方で、萌は七つ以上という遙佳の期待を前にして、そんな正威の認識を否定し「やれる」と胸を張る。
「まあ、そんなの昔の話だし、今のあたしなら遙佳ちゃんのご要望に応えられると思うけどね。10枚重ね、一撃必殺、みたいな」
 根拠のない自身に満ち溢れた萌の言葉に、遙佳はすぐさま首を横に振った。所謂「どれくらい昔の話」であるかの度合の確認すらしなかったことで、遙佳が早々にその案を諦めたことが解る。まして、一枚増やして八つ重ねというならまだしも一足飛びに十ときたもんだ。もちろん、七つ重ねでも威力がやや不足というような事態に陥れば、プラス1枚程度のリスクは飲むのだろうが……。
 萌に放たせる一撃を、まずは7枚に据えるという認識が醸成されたところで、正威が対普賢についての言及を始める。そこに触れて置かなかったことで、萌が対普賢への余力を残さず赤鬼に当たるようなことが合っては目も当てられない。
「もう一つ、問題というか、……言っておかなければならないことがある。普賢を倒すのにも、恐らく、萌の「重ね」が必要になる。俺の攻撃も通るは通るが、ダメージが小さい。久瀬さんの大技も、大きなダメージを負った風がない。表面的にダメージを負わせるような技や術では多分駄目で、内部に直接強力なエネルギーを叩きこんで炸裂させるようなやり方じゃないと駄目だ」
「赤鬼退治分、プラスアルファで対普賢分も必要かも……ってわけね。だったら尚更、新濃園寺のバックアップを確保するってやり方がベストだと思うけど?」
 新濃園寺のバックアップを確保すべきという結論に至って、神河の二人が視線を向けるのは雇い主にして意思決定者たる遙佳である。
 そこには、自分達だけでは赤鬼・普賢に対して決定打を放てないバックス・レーテの視線も続いた。
 それまで黙って成り行きを見守っていただけの啓名も、遙佳の決断がどう転ぶかをまじまじと注視する。
 星の家、そして神河の両勢力から判断を求められて、遙佳は苦虫を噛み潰した顔付きで唸る。まだ、本音で言えばRF内から離脱するなんて案は承諾し難いのだろう。
「ここから退却する為には一度RFをぶち破る必要があるんでしょう? RFっていうのはすぐに再展開できるものなの? RFがなくなったら、黒蝗の活動を抑制している啓名ちゃんの鈴の効果が大きく落ちるって認識であってるよね? 呪詛の影響とか黒蝗を抑制しているRFを取り除く影響は甚大なものなったりしないよね?」
 未だバックアップ確保案に傾斜できない理由を、遙佳はつらつらと語った。偏にそれを括るなら「不安」となるのだろうか。
 既に啓名を含めかなりのダメージを呪詛によって受けている面々が居る。そんな中で、度合の程度は解らないながら呪詛の威力が上がったらどうなるか。それを強く懸念するのは解らないでもない。さらに言えば、遙佳が持つ未来視の情報では黒蝗が活発に活動している様子が見て取れるのだ。即ち、このRF解除がその光景に繋がるのではないかという疑念を抱いているのだろう。
 そして、遙佳の懸念には、啓名が相変わらずの青白い顔で同意を示す。
「久瀬遙佳のいう通り、RFを解除すると散らし鈴は大きく効力を落とすわ。その影響は甚大かも知れない。少なくとも、呪詛の影響を延々と受け続けている身から言わせて貰えば、少しでも呪詛の影響が高まるのは避けて貰いたい。RFはできる限り解除しない方が良いと、わたしは思うわ」
 自身が抱え込んだ懸念を啓名が同意したことで、遙佳はRFに代わる黒蝗抑制策・呪詛抑制策について模索する。
「泥峰で使った禁呪を、もう一度ここで用いることはできないかな?」
 遙佳の案に、正威はすぐさま首を横に振った。検討するまでもないといわんばかりだ。
「それは現実的じゃない。まず、禁呪をコントロールする為に必要となるものを、一式全部泥峰に置いてきている。それこそ、錠剤とか成長抑制剤とか、ね。そして、ここで禁呪を使うことを考慮するなら拡大防止の為の下準備が絶対に必要だ。ここは泥峰じゃないんだ。下準備なしに禁呪なんて発動した日には、それこそ無関係の一般市民がバタバタ倒れることになるよ。禁呪が黒蝗に有効だったとして、黒蝗だけに影響を絞れるような生易しいものじゃない。そして、仮にそれらの問題を解決できたとしても、黒蝗や赤鬼、普賢に対して同じように禁呪が利くかは未知数だよ」
 使えないと正威が言わなかったところを見ると、発動させること自体はできるのだろう。尤も、そこに「その後のことを考えなければ」という但し書きが付くのは間違いないが……。
 正威は改めて、普賢を横目に捉える。
 僧衣のミイラという普賢の外観を見るに「嗅覚」に大きく影響度合いを依存する件の禁呪が、生身の人間同様に効力を発揮しないだろうことは想像だに難くない。赤鬼や黒蝗にはまだしも……だ。
 それでも「ここで禁呪を……」という遙佳の着眼点は正威に取って斬新だったようだ。例えそれが苦し紛れに絞り出してきたものだとしてもだ。
 もしも禁呪が有効ならば、泥峰の星の家のように、広範囲に呪詛を吐く普賢も、異常なタフさを見せる赤鬼も、そこそこいらに偏在する黒蝗も、一網打尽に無力化できる可能性があるのだ。
 見落としているだけで、何か「良い手」はないか。正威がそんな思考に囚われ始めたところで「それは許容できない」と言わんばかりに萌が声を上げる。
「自分達の弱点なんて本当は口にしたくないけど、言わなきゃ納得して貰えなさそうだから苦渋の選択をした上で解って貰うためにも言うよ。正威は無理を押すのが好きなようだからあれだけど、本来、できる限り、神河は「正威」を消耗させたくないんだ。正威がダウンすると、あたしは大きくあたしの能力を落とすことに繋がる。それこそ「重ね」なんてものも使えなくなるし、アルフや遙佳ちゃんを相手に回して一切引けを取らなかった肉体的な能力も大きく落ちる。ここで詳しくは説明しないけど、正威とあたしは力の原資を共有していて、その管理を正威が一手に引き受けているようなイメージ。だから、その管理者である正威が倒れると、そもそも赤鬼を倒すための決定打も打てなくなる。そんなことになったら台無しだ、全部、台無しだよ」
 そんな萌の主張は、これ以上正威に、禁呪ないし禁呪相当の消費を伴う術式をこの場で使用させうべきではないと言い切ったものだ。
 その主張の中で、特に致命的なのはやはり決定打となる「重ね」を萌が放てなくなることだろう。
 バックアップ確保案以外の道筋が閉ざされて、遙佳が眉間に皺を寄せて押し黙り、場は重い沈黙に包まれる。
 そんな中、腕組みをして成り行きを見守っていたレーテが唐突に頓狂な声を上げる。
「いいこと思い付いた!」
 そう言うが早いか、レーテはポケットからスマホを取り出し、まざまざと液晶画面を眺めて何かを確認した後、ぐるりとその場の面子を見渡し一つの提案を口にする。
「新濃園寺駅の貸しロッカーにはさ、立木さんに行って貰うっていうのはどうだろう? 正直いうと、わたしもRFを崩すっていう意見には慎重な立場……かな。だから、立木さんに取ってきて貰って、ここまで持って来て貰うっていうのはどうだろう? ここに展開されているRFは、RF内部に携帯の電波が届かないよう設定されているけど、起脈石にアクセスできればその辺の設定は弄れるし、起脈石周辺なら星の家の登録携帯なら使用できるようになっている筈」
 各々が自身のスマホを確認するも、確かに現状では立木に連絡可能な電波状況にはなかった。レーテの言うように、RFによって遮断されているのだろう。それでも、RFをコントロールすることによって外部への連絡が可能だと言うのならば、バックアップ運搬に最も適した人物は確かに立木だったかもしれない。
 最初にバックスが説明した通りならば、普賢も赤鬼も、起脈石を特に気にした様子はなく、破壊しようだとかいった動きを見せることはないとのことだった筈だ。
 レーテは立木に運搬を依頼する為の、そこに至るまでに必要となる手筈についても言及する。
「RF内に留まる上で、今脅威なのは「呪詛」だけなんでしょう? だったら、七つ重ねをミイラに使って「呪詛」をばらまけないようにすればいい。もちろん、どれだけの時間、あのミイラを黙らせられるかは未知数だけど、七つ重ねの影響度合いによってその後の対応は変えればいいじゃない? 立木さんが新濃園寺のロッカーからバックアップをここまで運搬する時間が稼げれば万々歳、駄目ならRFを壊して離脱して合流。体勢を立て直して再び普賢に当たる。どう?」
 主な論点は二つ。
 RFは可能な限り、解除・破壊はしたくない。
 RFを維持したまま、立木にバックアップの運搬を依頼する場合、何をしなければならないか。
 その二点を踏まえて、レーテの提案は絶妙の着地点であるかのように見えた。快刀乱麻の打開策とまでは言わないものの「妙案」であることは間違いない。
 事実、バックスはすぐさまレーテの案に同意する。
「そいつは妙案だな。悪くない。立木がそれをできる状態にあるのかって辺りはちょいと心配だが、……どうだ、久瀬遙佳? 今取り得る手としては最善策じゃないか?」
 バックスの同意に啓名も続く。
「良い案、思いつくじゃない。レーテらしからぬって感じだけど。起脈石の設定変更はわたしが掛けるわ。黙って呪詛に晒されてると、意識が混濁しそうになる。会話でも何でも良いけど、何かしている方が、いくらかマシだわ」
 普賢が萌の一撃によってどれだけダメージを受けるかに左右される部分は確かにある。それでも、ここで長々と議論を続ける時間がないのは言うまでもない。ましてレーテのその案は、遙佳の希望を叶え得る可能性を持っているのだ。
 バックス・レーテに続き、正威もレーテの案に賛同の意思を示す。
「例え一時的にでも呪詛を止められれば、RF内に取り残された人達への継続ダメージも中断する。普賢に的を絞る案には賛成だね」
 レーテの提案に、バックス・啓名・正威が同意し、続けざまに萌が遙佳へ決断を迫る。
「で、どうする、遙佳ちゃん? 後は決断するだけだよ。あたしはどっちに向けて、十枚重ね、一撃必殺をぶっ放せば良い?」
 萌はどさくさに紛れて「十枚重ね」なんて不穏な単語を口にしたのだが、遙佳は一度瞑目した後ゆっくりと頷いて見せるだけだった。
「普賢に呪詛をばらまかせない。その案で行こう」
 腹を括った遙佳からレーテ案の承認が得られれば、各々がやるべきことも自ずと決まる。






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