「異式錯落区画の未知標 -北霞咲新濃園寺コンフリクト-」のトップページに戻る。
「レーテ? 連絡がついて良かった。悪いんだけど、すぐに起脈の管理人を集めて欲しいの!」
遙佳がスマホをスピーカーモードにして床へと置いた瞬間、場には切羽詰った啓名の声が響き渡った。
レーテは啓名が自身の名前を呼んだことに「返事をして良いか?」を目顔で確認するが、遙佳は首を縦に振らない。そうこうしている内に、スピーカーからは再度レーテへと呼び掛ける緊縛した啓名の声が響き渡る。
「レーテ!? 聞こえてる? 聞こえているなら……」
「残念だけど、あたしは件のレーテちゃんじゃないわ。初めまして、紅槻啓名さん。ずっと話をしたいと思っていた」
そんな啓名の動揺交じりの声が言下の内に、遙佳はやや事務的な印象の強い冷めた声で切り出した。それはお世辞にも、友好的なスタンスを前面に押し出したものとは言い難く、ある種啓名に警戒を抱かせるに足る態度だと言えた。
その一方で、対する啓名の側も遙佳の声をそれだと聞き分けて見せる。
「この声、久瀬遙佳……か。わたしの読みが正しいのなら、今頃別働隊のアルフが仕掛けた罠に掛かって一網打尽にされているところだと思っていたんだけど、まさかレーテもアルフも、アルフが率いたメンバーも全員退けたってわけ?」
面と向かって顔を合わせたこともない筈であるし、またこうしてお互い対話をしたこともない筈だ。にも関わらず、そうして遙佳を声だけで認識できたのは、多成ないしアルフ当たりから、何らかの形で「久瀬遙佳とはこういう声の相手だ」といったパーソナルデータを不完全ながら共有していたのだろう。
ともあれ、その遙佳の口調に動揺の色はなかった。それは平野守美術館という場所がそういう事態に陥っていても何らおかしくはないと、啓名自身が考えていたことを示唆していただろう。
「アルフ君達はこちらの忠告を一切聞かず、蛮勇を駆って徹底抗戦の構えだったから悪いけれど鎮圧させて貰った」
さらにいえば、遙佳がアルフをどう対処したかを明示されても啓名の言動に変化はない。最初の動揺交じりのそれとは一転、努めて落ち着き払っているのを感じさせるやや事務的な言動で遙佳へと対する。
「そう、鎮圧されちゃったか。じゃあ、地べたに這い蹲っているだろうアルフに取次いで貰っても構わない?」
「命に別状はない筈……だけど、アルフ君達はちょっと会話をできるような状態にはないかな。呼び掛けてみたところで、良くて呻き声を上げるのが精々だと思うよ。まあ、その命に別状のないって件にしても、こちらの胸元三寸ではあるわけだけどね」
アルフ達が降参をする形で遙佳の監視下に置かれているわけでなく相応の衝突を経て鎮圧された状況を察し、すぐに啓名の側の「やや事務的な」仮面が剥がれる。苦笑を声に出して空笑いの体を取ると、啓名の口からはそんな状況に陥ったアルフに向けた苦言が漏れ出る。
「はは、最悪。少しでも戦力が必要だっていうこのタイミングで、頼みの綱のアルフ達は身動き取れず……か。駄目なら適度なところで退きなさいってわたしはいったんだけどね。どうしてそんなになるまで徹底抗戦するなんて馬鹿げた選択をしたんだろうね。あなた達に後れを取ったことが余程腹に据えかねたのかな?」
仮面が剥落した啓名とは対照的に、もう一方の遙佳の側はまだ「やや事務的な」仮面を被ったまま冷徹に答える。
「そうだね、度し難いよ。こちらにその気があれば、彼はここで命を落としたでしょうね。むざむざ、こんなところで犬死だよ」
「……」
冷たく非難を混ぜて言い放った遙佳の棘を前にして、啓名もさすがに一旦黙った。
しかしながら、遙佳が如何なる態度で対話に臨もうとも、啓名にはそれを甘んじて受け流すだけの時間はもう「ない」ようだ。「ずっと話をしたいと思っていた」と発言した遙佳が次の言葉を切り出すよりも早く、啓名はやや食い気味に口を切る。
「星の家の面子でその場にあたしと会話ができそうなのは誰が居るのか、教えて貰っても良い?」
「その前に答えて欲しい。紅槻啓名、あなたは今どこで何をやっているの?」
「ちょっと悠長にあなたと話をしていられる状態じゃないんだ。悪いんだけど、先に話ができる星の家のメンバーに代わって貰っても構わないかな? このままだと、取り返しのつかないことになる」
啓名が口にした「取り返しのつかないこと」という内容に、遙佳はこれ見よがしに眉を顰めた。
そうして、通話途中の啓名に向けてその背後から放たれただろう「張り詰めた声」をスマホが拾えば、その懸念は現実のものと相成る。
「紅槻さん、まずいよ! 奴ら、RFを突破する手段を持ってる! 第一隔壁なんかもう跡形もない。第二隔壁も長くは持ちそうにない。何より、黒い蝗なんかはRFを擦り抜けるみたいにこっちへ侵食してくる。RFが隔壁として作用していない!」
遙佳は眉間に皺を寄せた酷い顔で、啓名へと有無を言わさぬ迫力で迫る。
「緑苑平フォレストコンコースに、起脈石を設置しようとしたんだね?」
「何だ、わたしの居場所なんて尋ねるまでもなく把握しているんじゃない。それとも、わたしの口から正解を聞き出さないとならない理由でもあったの? そうだよ、わたしは緑苑平フォレストコンコースに居て、起脈石を設置・稼働させようとした。それで、どうするの? ここに設置を試みた起脈石を今から破壊しにでも来るつもり?」
啓名の口調には苛立ちが色濃く滲んだ。遙佳が未だ起脈石の設置有無について拘っているとでも思っているのだろう。それこそ、これから緑苑平フォレストコンコースへ起脈石を設置したことについて「ああだこうだ」と非難されるのだとでも思ったのかも知れない。
だから、その事実を受けて遙佳が酷く冷たい声で告げる言葉は、啓名に取って想像だにしないものだった筈だ。
「そこにはあなた達の手に負えないものが眠っている。紅槻啓名、あなた達の墓標はそこになるかもね」
何を言われたのか。
恐らく、啓名は一瞬理解できなかった格好だ。
「あ、紅槻の技は、自分自身や仲間を守り逃がすことに秀でている。あなたに心配されるまでもなく、こんなところでくたばったりなんかしないし、誰も失ったりなんかはしないわ。万が一の場合には、わたしはわたしの全身全霊を以て、誰一人欠けることなくこの場から離脱して見せる!」
僅かに言葉に詰まりつつ啓名からは強気の口調で反論が続いたものの、それは自身が置かれる状況のまずさを見通されたことに対する裏返しだったかもしれない。
そして、そんな啓名の反論が遙佳の逆鱗に触れることとなる。
神河の二人は当然のこととして、平野守美術館側で対話の行方を見守るレーテにしても遙佳がまとう雰囲気が一変したのを理解しないわけにはいかなかったぐらいだから、その変化は凄まじいものだった。
遙佳は一気にヒートアップする。
「はは、随分とふざけた台詞を吐くんだね。招現寺に通じる穴を開けた当事者であるあなた達が何一つまともな対処もせずにその場を離れれば、何の関係もない数多くの霞咲市民が巻き込まれることになるでしょうね。もしもそんな事態になったなら、緑苑平フォレストコンコースで命を落とす人達の数は一体どれくらいになると思う?」
啓名が何らかの反応を返すよりも早く、遙佳は捲し立てるかの如く非難を続ける。根底にあるものはやはり、星の家の霞咲での傍若無人な振舞いに対する怒りだろう。警告に耳を貸さず、起脈石設置を強行し、現状を引き起こしたのは他でもない星の家の判断だ。例え、神河という完全な敵対勢力の介在があって、遙佳の言葉を真摯に受け止められる状況ではなかったのだとしても、その様は余りにもお粗末だと言わざるを得ない。
「星の家が何の為に起脈とかいうネットワークを構築しようとしているかは知らない。でも、随分と無責任な話じゃない? 霞咲の誰かに求められるでもなく自分たちの都合で起脈とやらを拡大しておいて、いざ厄介事にぶち当たって対処ができなくなったら尻尾巻いて逃げるんだ? しかも、あたしが「起脈の敷設には危険が伴うよ」って警告まで発したのに、それも無視して強行した挙句、対処ができない場合はさっさと逃げますだって? 随分と、ふざけた台詞を吐いてくれるじゃない!」
「……」
啓名は返す言葉もないようだった。遙佳の言葉は辛辣だったが、指摘された啓名自身もそう思わざるを得なかったのだろう。いくらか腑に落ちない部分はあるだろうが、遙佳の主張の大筋に間違いはないのだ。
「今から行くから死ぬ気で気張りなさい。あたし達が緑苑平フォレストコンコースへ到着した時、もしそこに星の家が居なかったら、事あるごとに櫨馬まで足を伸ばして目につく先から起脈石を叩き潰して回るぐらいの嫌がらせはしてあげるからね。覚悟しておきなさい」
そこまで言い終えると、遙佳はスピーカーモードのスマホをひょいっと持ち上げ、それをレーテへと向けて放った。啓名との対話をささっと切り上げた遙佳は、徐に神河の二人へと向き直ると深々と頭を下げる。
「……ごめん。一番引き起こしたくなかった事態になっちゃった。今から緑苑平フォレストコンコースで、あの惨劇を引き起こすだろう普賢を相手にしなきゃならない」
そこで一度言葉を区切って見せて、遙佳はあからさまに緊張を伴う。
利き手に握り拳を作ってギュッと力を込めると、遙佳は覚悟を決めたのだろう。
「もう後がない。だから、遠慮なんてしてられない。だから、はっきりと言わせて貰うよ。普賢を堰き止めるため力を貸して欲しい。正直な話、もう起脈の敷設防止とは直接関係ない事態になってしまっているのも解ってる。でも、……それでも神河の力が必要なの、お願い、力を貸して!」
緑苑平フォレストコンコースの下見の際に言っていたことが本当なのだとするならば、普賢は遙佳一人では止められないのだろう。だからこそ、遙佳は一つでも不確定要素を取り込み、普賢によって引き起こされるだろう惨劇の実現を阻まんとする。
しかしながら、懇願にも似た遙佳の言葉を前にした正威の表情は冴えない。
「こちらとしても行かなくてはならないと思っているし、すぐに駆け付けたいというのが本音ではあるんだけど、……今すぐにってわけにはいかない。必要最低限、禁呪の後処理だけは絶対にやって置かなければならない。これだけは後回しにできない」
協力したいという趣旨の言葉に、当初遙佳はほっと胸を撫で下ろした様子だったが、それも一瞬。直後に「今すぐ緑苑平フォレストコンコースへと向かうことはできない」と告げられたことで、一気にその表情を曇らせた。
「どれくらいの時間が必要?」
遙佳の問い掛けに、今度は正威が表情を曇らせる番だった。とても遙佳の期待に添える回答ができないと解っていたからだろう。
「到底承諾できないだろうことは解っているけど、それでも敢えて満額回答をいわせて貰えるのならば、半日」
「……」
遙佳の沈黙は正威の認識通りそれが当然承諾できない長さであることを如実に物語っていた。だから、続ける言葉で正威が必要最低限を告げるのだが、それすらも厳しい要求だと内心正威は解っていた。けれども、言い淀んだり、譲歩したりすることは適わない。それは必要最低限、絶対確保せねばならぬ時間だからだ。
「拡大防止の応急処置だけをするとしても、最低でも二時間程度は絶対に必要になる」
「そんなには、待てない……よ」
力なく項垂れる遙佳の口から漏れた言葉は、弱々しくか細い。
最も引き起こしてはならない状況の発生を回避できず、遙佳一人でその対処に当たるという事態の回避もままなりそうにない。それは即ち、遙佳の持つ未来視が、現実のものとなる事態を強く予感させるのだから、落胆する遙佳の様も当然だと言えただろうか。
まして、ここで緑苑平フォレストコンコースへと急いだとして、啓名を含めた星の家が耐えきれずに退避していたとしたらどうだ?
半ば、脅迫染みた言葉で発破を掛けたが、さすがに命の危機に際した場合は苦虫を噛み潰す覚悟で退くだろう。
神河が帯同しないという状況は、遙佳の中でその蓋然性の高さをこれでもかと強く訴えかけていた。
項垂れ瞑目する遙佳を前にして、そうして居ても詮無いことだと言わないばかりに萌が口を切る。
「そもそもここからどうやって緑苑平フォレストコンコースまで出ていくつもりなの?」
萌の口を付いて出たものは、遙佳に向けた質問だった。
遙佳一人でも緑苑平フォレストコンコースに急行するのか、それとも禁呪の応急処置を待って万全を期して乗り込むのか。はたまた、埒を開く第三案を誰かが提示じ、それを実行するのか。取り敢えず、そうした第一義の問題を棚上げし「緑苑平フォレストコンコースで普賢を相手にする」までに対、処が必要な他の課題を先に片してしまおうという腹だ。
しかしながら、緑苑平フォレストコンコースへの移動手段についても、遙佳は明確な答えを出せない。気持ちだけが先行していて、そこまですらも考え及んでいなかったのだろう。
遙佳はそこで一度押し黙った後、以外な人物の名前を上げる。それは神河の協力なしには動かせない人物でもある。
「笘居さんには頼めないかな? 多分、車でアクセスするのが一番早い」
遙佳の提案に、萌は渋い表情を返す。
それは笘居という久和傘下の駒を動かすことに難色を示したわけではない。組織がどうのこうのといった複雑な問題があったのではなく、それはもっと単純な問題だ。
萌が笘居の運転について評する。
「笘居の運転で、緑苑平までそれでっていうのは正直厳しいかも。当人が居ないところでこういうのもあれだけど、余り運転が得意なタイプじゃないよ? 慎重だから事故こそ起こしてないみたいだけど、少なくとも速さは全く期待できないと思う。一応、業務用車だしね。本人にそれが可能であっても交通法規を大幅に逸脱するような運転をするわけにもいかないし……さ。泥峰駅前からは電車で移動したり、タクシーなんかを押さえた方が間違いないかも」
笘居本人のドライビングテクニックについてというよりも、萌はそれが業務用車である点を強く懸念したようだ。
確かに「西深開再開発事業団」の文字が側面にでかでかと記載された車で無茶はできない。まして、無理に急いだ結果として事故でも起こそうものなら、目も当てられない。
萌の提案に沿って、遙佳はまずは電車での移動を視野に入れたようだった、
しかしながら、電車を利用するという案は早々に暗礁へと乗り上げる。
「今から泥峰駅に急いで貰っても、もう電車は上りも下りも19:00台には間に合わない。そうなると次の便は一時間後……。しかも北霞咲山嶺山間鉄道では乗り換え二つを挟んで私鉄に乗り換えないと緑苑平へは出られない。大幅なタイムロスになる。試しに、乗換検索に掛けてみたけど、到着予想時刻は最速でも21:48分になる」
遙佳の眉間には皺が寄り、まさに苦渋の表情だった。
当然、それは誰が見ても緑苑平フォレストコンコース到着までに有して良い時間ではなかった。尤も、では具体的にそれがどれだけの時間内で収まっているのが適当であるかを結論付けるのも難しい。ただ一つ言える確かなことは、それが短ければ短いほど良いということだけだ。
正威からも、星の家の能力に疑問を呈する声が上がる。
「紅槻啓名と実際に対峙した経験を踏まえて言わせて貰うと、彼女には異形や怪異を退け得る力が備わっているかに疑問が残る。どちらかというと、紅槻啓名の能力は対人向けだよ。それを補う為の「起脈」なのかも知れないけど、その起脈も霞咲においては満足に効力を発揮して居ないみたいだ。各地に残る普賢の伝説を話半分のものとして考慮しても、星の家が普賢と直接対決するとなった場合、下手をするとものの数十分程度で瓦解し兼ねないと思う」
正威もこうだと明言はしなかったものの、その内容からは移動時間が「一時間」であっても厳しい旨が示された格好に等しい。
遙佳は少しでも移動時間を短縮すべく、忙しなくタブレットを操作しては他の移動手段を模索する。しかしながら、その成果はないに等しいようだった。操作の度に遙佳の表情はどんどんと険しさを増していく。
「タクシーも時間優先を希望条件にセットしてアプリで検索掛けてはみるけど、……どうだろう。せめて今が閑散期じゃなかったら、まだ望みはあったのかも知れないけど……。しかも、あれだよね。ドライバーによっては、下手すると笘居さんの運転と優位な時間差が生じない可能性だってあるよね?」
なかなか希望通りの条件が表示されない中で、遙佳は笘居案についても再言及する。
ああだこうだと調べる時間等を加味すると、泥峰ゴルフリゾート駐車場に待機する笘居の運転で緑苑平フォレストコンコースに向かった方が結果的に時間短縮になるかも知れない。緑苑平フォレストコンコースまで……とは言わずとも、北霞咲山嶺山間鉄道の範囲をやり過ごし運航便の多い私鉄の範囲から電車に乗り換えるという手でも良い。
焦燥をまとう遙佳の様子をまざまざと見せつけられて、萌も泥峰という土地の便の悪さを察したようだ。
「駐車場で待機している笘居を呼んでこようか? 案外「任せろ」ぐらいの意気込みを見せるかもしれないしさ」
そういうや否や、萌は遙佳の返事を待たず、その足を平野守美術館の正面玄関へと向けた。
その萌の動きを目で追ってやや慌てた調子を見せたのが、ああだこうだと未だに啓名と電話越しに通話を続けていたレーテだ。
「そもそもクエストの展開先を絞っているから、啓名の希望に合った人材は確保できないかもしれないわ。緊急で呼びかけて集まる面子で、しかも土倉君クラスの起脈管理人が最低限の条件でしょう? やるだけはやってみ……、待って!」
啓名との通話の途中でありながら、レーテは唐突に制止の言葉を萌へと向けた形だ。
萌が足を止めレーテへと向き直れば、当のレーテもやや強引に啓名との通話を切り上げる。
「啓名、ごめん。そっちも切羽詰まっているのは解るけど、一旦話を中断するよ」
そういうが早いか、レーテはスマホを口元から話すと、萌、そして遙佳へと神妙な面持ちで向き直る。
「神河一門と久瀬さんは、これから緑苑平フォレストコンコースへ向かうで間違いないんだね?」
「もちろん、そのつもり。悪いけど、星の家にはこれから緑苑平フォレストコンコースで発生する事態を鎮める力なんてないと、あたしは思っている。あたし達が行かなければ、あの場は未曾有の大参事となる……ともね」
未だ焦燥を随所に残す顔ではあったものの、遙佳はレーテの問いにきっぱりと答えた。
下手をすると、未来視の惨劇の中で床に横たわる人達の中には、星の家の構成員も含まれているかも知れない。遙佳の言葉にはその思いが強く滲んだ形でもあった。
遙佳の返答を聞き、レーテは満足そうに大きく頷くとそれが意味するところを一歩踏み込んだ形で確認する。
「あなた達に取ってはあくまで只のついでになるのかも知れないけれど、……それは「啓名を助ける」と、同義であるという認識で良いんだよね?」
「あたし達の到着まで彼女が生き延びていたのなら、当人がどう考えようともあっさり死なせたりするつもりはないわ。彼女が仕出かしたことは、彼女自身の手で後片付けをして貰う。招現寺に通じる穴を開けた責任を取り終えるまでは、例え黄泉路に片足突っ込んだ状態に陥ったとしても何度だってこちらの世界に引き戻す!」
遙佳の回答は、レーテに取ってさぞかし満足いくものだったろう。例え当人が何らかの理由で死を望もうとも、それを「許容しない」といったに等しい言葉だ。展開如何によっては、生命を脅かされ兼ねない状況下に置かれた啓名の救援に向かう相手の言葉として、これほど頼もしく聞こえるものはない筈だ。
改めて、満足そうに大きく頷くレーテは、遙佳に向けて一つの提案を持ち掛ける。
「ふふ、是非ともそうして貰いたいわ。解った。なら、星の家で運送のスペシャリストを手配してあげられるけど? 緑苑平までの移動手段で困っているんでしょう?」
「運送の、……スペシャリスト?」
運送のスペシャリストというレーテの単語に対して、遙佳が真っ先に思い浮かべるものは星の家の息が掛かった「総栄エクスプレス」だったろう。
正威にしてもそうだ。そして、もしその単語の意味するところが「総栄エクスプレス」なのだとしたら、それがレーテの思惑通りに進まないだろうことも正威達は把握している。
「ここで総栄エクスプレスを活用しようっていうつもりなら、それは無理だと思うよ。外に停車していたトラックは俺達がパンクさせてしまった。だから……」
申し訳なさそうに総栄エクスプレス所有のトラックの今の現状を説明する正威に対し、レーテはその推測に基づいた「ばつの悪さ」が見当違いであるといって微笑む。
「ふふ、総栄エクスプレスさんも運送のスペシャリストではあるけれど、そもそも今必要となる「速さ」を要求できる相手ではないかな。でも、ちょっと時間を貰えれば、時間短縮の面でかなりの強みを持ったスペシャリストを手配できるわ」
遙佳は萌や正威と顔を見合わせた後、その提案を願ったり叶ったりだと判断したようだ。返す言葉で、レーテに要求する。
「だったら、ぜひともそのスペシャリストを手配して貰いたいわ」
「OK、任せておきなさい。……啓名を助ける為だというのなら、協力は惜しまない。これ以上ない適任者を紹介してあげる」
余程適任者に自信があるのだろう。レーテはそう遙佳達に胸を張る。そうして、通話状態のまま一旦話を中断していた啓名に対して、平野守美術館サイドでまとまった決定事項を告げる。
「話は聞こえていたでいいよね? 今から神河一門の二人と久瀬さん、平野守美術館で無傷の星の家の面子を緑苑平フォレストコンコースに送り込む。合わせて起脈管理人の手配も掛けるけど、こっちは期待しない方が良いかも」
「……解った」
救援の目途が付いたからか。啓名の短い言葉の中には、はっきりと安堵の色が見え隠れした。
尤も、そこでさらに起脈の管理人手配について言及しなかったのは、既に起脈では緑苑平フォレストコンコースで遭遇した怪物相手に何ら抑止力足り得ていない状況を嫌という程目の当たりにした所為だったかもしれない。
しかしながら、安堵を滲ませた啓名の雰囲気というものも、その後一瞬で霧散することとなる。
スマホ越しに切羽詰った上手く聞き取ることのできない声が頻りにやりとりされる合間を挟んで、啓名の声色には再び強い緊張感が滲んだからだ。
「レーテ。ごめん。できるだけ早く、お願い。久瀬遙佳にあんな口を叩かれた以上はギリギリまで粘るけど、……正直、かなりまずい」
「OK、すぐに手配する。でも、これだけは約束して。久瀬遙佳のくだりは確かにあるのかも知れないけど、それでも命に関わると感じたら無理せず退いて」
啓名に向けたレーテの言葉に、発破を掛けた当の遙佳は不興顔を覗かせたもののそこに口を挟むことはしなかった。いざ普賢と対峙するという場になって、緑苑平フォレストコンコースに展開する星の家の面々が全滅していたというのも状況として好ましくないのはいうまでもない。
そして、そんな遙佳を横に置き、神河サイドは先延ばしにした「禁呪の後処理をどうするか?」という話題に立ち返っていた。移動手段の目途付けを星の家がしてくれる以上、残存課題として必然的にそれが浮かび上がった形だ。
「後は、禁呪の後片付けについてだけど……」
「それこそ笘居に対処して貰ったらどう? 呼んでくる?」
萌の口から出る「笘居」の名前は当然と言えば当然だっただろう。
禁呪の対処は先延ばしにはできず、且つ禁呪の対処は久和一門しか執り行えない。久和一門が主導せねばならない。
しかしながら、神河の二人が緑苑平フォレストコンコースでの「vs普賢」の場に遅れていくことは、遙佳が首を縦には振らない。
この時点で、既に禁呪の対処には笘居の名前が挙がりそうだったわけだが、今度は「緑苑平までの移動をどうするのか?」という問題が浮かび上がった。そして、遙佳がそれに笘居の名前を上げたことで、神河が泥峰に残って対処をするしかないという解に現実味が出てきたのだ。
そこに、星の家が移動手段の当てを付けた。
ならば、久和一門に属し、一応は呪術の知識を持つ笘居がことに当たるというのが至極自然な流れである。
一頻り唸った後、正威の口からは苫居案許容の声が漏れ出る。
「やっぱり笘居さんしかいないか……。かなり初歩の応急処置しか施せそうにはないな。拡大防止どころか進行を遅らせるのが精々だろうけど、……他に手もないならそうするしかない、か」
ああだこうだと、悩んでいる時間などない。
正威と萌が禁呪の後処理について議論するその傍らで、レーテがスペシャリストの手配を始める。
手慣れた動作でスマホを操作して、レーテが通話相手として選んだのは件のスペシャリスト「立木」である。
「どうも、レーテです。立木さん、今どちらに居らっしゃいますか?」
「泥峰駅前の大衆食堂で泥峰名物の川魚料理を味わっているところだ。あれだな、名物ってだけあってそう旨いものでもないな。名物に旨いものなしって奴だ。……で、予定の時刻よりもかなり早い連絡だが、どうかしたのか?」
レーテからの連絡を立木は緊急性のあるものとして捉えてはいないようだった。元々、そうやって何らかの連絡を受ける予定だったのかも知れない。尤も、その予定よりも早い段階で連絡を受けた点については気になるところがある様子だが、それを重く受け止めている節はない。それは即ち、そうやってレーテから予定よりも早く連絡を受ける可能性をある程度想定していたということだろう。聞いていたよりも早く後発部隊が泥峰駅前に到着したから泥峰ゴルフリゾートまで連れてきてほしいとか、偽の起脈石設置が予定よりも早く片付いたとか、その理由は諸々あったかも知れない。
ともあれ、そんな立木に対して、レーテは切羽詰まった感を随所に匂わす真剣な口調で続ける。
「急な話で申し訳ないんですが、仕事の依頼をお願いしたいです」
そのレーテがまとう雰囲気を察して、立木がお仕事モードに切り替わると会話はトントン拍子に進み始める。
「荷物はなんだ?」
「人間を五人程」
「一応断っておくが、今手元にあってすぐに使える車は五人乗りのSUVだぞ? 二回に渡って君らを泥峰ゴルフリゾートへ送り届けたあの車だ。当たり前だが、五人乗りだからといって運びたい人間を五人乗せられるわけじゃない。運転手が必要だ。つまり、運転手の俺を入れると乗員オーバーになる」
「解っています」
途中、立木からレーテの依頼をこなすに当たって根本的な問題がある旨指摘が向くも、当のレーテがそれも「承知の上だ」とすぱっと言い切ってしまえば、対話は何ら速度を落とすことなくテンポよく進む。
「ああ、そうかい。知ってて言ってるわけか。どうしようもねえな。で、送り先は?」
「緑苑平フォレストコンコースへ。要求は可能な限り短時間でのお願いになります」
「それはつまり、緊急の案件で今すぐ出発したいってことだな?」
「ええ」
レーテから「何ら相違ない」旨の返事を聞くと、立木はそこで一つ思慮の時間を挟む。目的までどのようなルートを通り、その過程でどんなリスクがあるかを試算しているのだろう。
尤も、試算をした結果として、立木がレーテに向ける言葉なんてものはほぼほぼ決まっていた。交通法規を守った上での移動などではなく、重大事故を回避した上で可能な限り目的地到着までの時間を短縮することが依頼内容だ。ドライバーテクニックだけではどうにもならない部分なんてものは、ある程度限られてくる。即ち「目的地へと到着するまでに警察などから邪魔をされるわけにはいかない」といったようなことだ。
「……何かあっても多少のことは揉み潰せるな?」
「手配します」
立木の要望に、すぐさま二つ返事で「対処する」といったレーテの言葉は頼もしい。同時に、その迷いないやりとりからは、過去幾度となく同様のやりとりを行ってきただろう「手慣れた感」を強く印象付けもした。
ともあれ、そこで交渉はまとまったといって良かったのだろう。
そこから先の「運賃」に言及した会話は、既に交渉の雰囲気の体を為してはおらず、ただの蛇足であったことは否めない。
「最後になるが、料金は誰が支払ってくれるんだ? 運賃、今回は高いぜ? 何せ可能な限り短時間で……なんて非常識で最高な要求付きだ」
「運賃は、原因を作った多成さんにツケて置いて下さい。後承認の形にはなりますが、問題なく支払われるよう然るべきところに手を回しておきます」
「はは、相変わらずだな。後でああだこうだと文句言われるのは、その条件で仕事を受けた俺になるんだがね。まあ、いいさ、引き受けた」
そんな蛇足のやり取りで、レーテはある種気が緩んだようだった。まずは「スペシャリストを手配する」という必須達成項目に算段を付けたからだろう。
するとレーテは交渉に臨む真剣な雰囲気を一転させ、それまでとは態度をがらりと変える。後に続いたものは、立木へと所要時間を尋ねる縋る様な口振りである。
「緑苑平フォレストコンコースまで、泥峰からはどれだけの時間が必要になりそうですか?」
「渋滞に捕まることも加味した上でざっくり見積もって1時間20分と言いたいところだが、……そうだな、50分に負けてやる。緊急なんだろう?」
「立木さんの卓越したドライビングテクニックで後20分ぐらい縮まったりしませんか?」
立木から提示された所要時間見積がどれだけ破格であるか判断できないからだろう。レーテは立木に対して、さらなる時間の短縮が可能かを問う。その背景には、啓名が通話の最後に見せた弱気な言葉が響いていたことは間違いない。
しかしながら、立木から返る言葉は如何にその所要時間が破格であるかを説明するものである。
「馬鹿言え、泥峰から公道を走って緑苑平フォレストコンコースへアクセスするなら50分だって破格だ。霞咲には都市中心部を通す高速道路がないからな。外環部を大回りする霞咲環状高速を使ったところで時間の短縮は望めない。これ以上に時間を縮めたいなら直線距離で移動できるヘリでもチャーターした方が良い。パラシュートを背負って緑苑平フォレストコンコースへ降下でもするんだな。それか、ドクターヘリを持つ救急病院なんかのヘリポートを無理矢理使わせて貰うってのも手だ。あちこち陥没して凸凹だとはいえ、泥峰ゴルフリゾートのだだっぴろい駐車場にならヘリ一機ぐらい離着陸できるだろ?」
代替案としてヘリなんてものを引っ張り出してきた辺り、立木は所要時間を50分以下に短縮することが如何に難しいかを訴えたかったようだ。しかも、時刻はこれから夕闇の時間へと差し掛かる。この場に、北霞咲の都市部へと流れ込む交通量が時間によってどう変化するのかを把握するものは立木しか居なかったわけだが、その言い分だと少なくとも昼間に対して増加するすることはあれど減少することはなさそうだ。
「ヘリなんかチャーターできませんよ」
すかさずレーテが声を上げるが、立木はヘリのチャーター先についても目途を提示する。
「多成の入院先、兼真会病院がドクターヘリを持ってる。緊急手術に臨む患者を寝かせたまま運べる代物で、ヘリの中に簡易ベットも備える中型機だ。人間五人ぐらいは軽く運べるだろう。緑苑平でへまを打てば、あいつの尻にも火が付くんだろう? だったら突いてドクターヘリを手配させるなんてことも、君の手腕なら軽くやってしまえるんじゃないのか?」
「櫨馬から、ドクターヘリを飛ばすわけですか……」
レーテは立木案の成立性を頭の中で検証しているようだった。それがさらなる大幅な時間短縮に繋がり、且つ自身の手によって手配が可能であれば、レーテは多少無理を推してでも立木案を強行したかもしれない。
しかしながら、思案の結果は立木案の棄却だった。レーテは大きく首を左右に振ると、その理由を告げる。
「いいえ、ドクターヘリは障害が大きいです。少なくとも、今すぐには手を回せませんし、手を回したとしても使用許可が下りる確約は取れません。……なので、立木さんに50分での運送をお願いします」
所要時間短縮の打診から一転、目安である50分をレーテが受け入れたことで、立木は打てば響く反応を返す。
「OK、今から向かう。平野守美術館でいいんだな?」
「ええ、お願いします」
スペシャリストの手配がまとまりレーテが通話をOFFにした矢先、すかさずその内容に聞き耳を立てていた遙佳が質問を向ける。
「メンバー五人って?」
遙佳の問いにレーテは対象を一人づつ指さしていった。遙佳に、神河の二人、そしてレーテ自身と四人まではすんなり行ったが、五人目を指すのはすんなりと行かなかった。レーテが五人目として選んだのは、禁呪の影響を受けなかったノクトールだったのだが、そこには首を縦に振るよう訴え掛けるレーテの強い視線が伴った。
即ち、ノクトールの承諾は得られていない上での「五人」という言葉だったようだ。
そして、レーテと立木のやりとりを腕組みしながら我関せずと傍観していたノクトールからは、その訴えを突き放す言葉が返る。
「もしかして、俺の協力を期待していたのか? 悪いが、俺やイブはお前たちとは命令系統が違う。ここに居るのも、ただの救援だ。緑苑平フォレストコンコースでのサポートをするよう指示は受けていない。俺達を動かしたいというのならば、然るべき手続きを踏んでくれ」
原理原則を口にして訴えを突っ撥ねたノクトールに対し、レーテは苛立ちを隠さなかった。まして、緑苑平に展開する啓名を含めた星の家のメンバーが危険に晒されているのだ。命令系統が違うとはいえ、同じ「星の家」という枠組みにある仲間を助ける為に「然るべき手続」を要求するノクトールに対して、レーテが怒るのは至極御尤もだと言えただろう。
「あなた達は相変わらず、融通の利かない連中だね。然るべき手続きを通すのに、一体どれだけの時間を無駄にすることになるか解った上での発言なんだよね? そんなこと言ってる場合じゃないっていうのにさ!」
レーテからは強い非難が口をついて出た。ただ、その非難はノクトールその人に向けられたものというよりかは「あなた達」というカテゴライズを用いて、星の家内部のノクトールが属する勢力に対して出たもののようも聞こえた。
その一方で、ノクトールその人からは非難に対する折衷案も出る。
「緑苑平フォレストコンコースへ赴いてお前たちのサポートを継続することは難しいが、泥峰ゴルフリゾートの敷地内で何かをする必要があるというのならば話は別だ。……禁呪とやらの後始末をするんだろう? 手伝えることがあるなら手伝うのも吝かじゃない」
レーテに「融通が利かない」と罵られたが、もしかしたら言われるまでもなくノクトール自身どこかにその思いはあったのかも知れない。ノクトールの言葉の節々には、自発的に手伝いをしようとする積極性も滲んだ。少なくともそこには、話を聞く前段階からああだこうだと理由を付けて要請を断ろうとするスタンスは見受けられない。
即ち、折衷案はただのポーズではないというわけだ。
そうして、ノクトールからはそうでなくとも誰か一人は星の家の構成員がこの場に残るべきという主張も続く。
「それに、平野守美術館に展開した星の家の構成員が誰も口を聞けない、……こんな有様の中で、星の家以外の勢力に属する人間がここで作業をするというのは危険だ。どこまで手筈が整っているのかは、今となってはアルフのみぞ知るといった状況だが後発部隊がやってこないとも限らない。状況を説明できる星の家の面子がここに一人は残るべきだろう。もしもアルフが奇跡的に回復し、完全な状態ではないながらそれでもまだ危害を加えようと行動するようだったらどうする?」
ノクトールの懸念は「それがあり得ないことだとは断言できない」内容だ。
一通りノクトールの主張を聞き、レーテが尋ねる。
「そうだね。誰か一人星の家の面子がこの場に残るべきだという認識に異論はないわ。それで、その役目を、ノクトール、あなたがこなしてくれる、その認識でいいわけね?」
「まずい状況だということはそれなりに把握しているんだ。その上で、俺は俺のやれる範囲のことをしよう。当初の指示内容からは大分状況が懸け離れてきているが、泥峰ゴルフリゾート近隣地域でのサポートならばどうとでもできる。平野守美術館の後処理とやらは、十分そのサポート範囲と言い張れるだろう」
レーテは思わず目を丸くした。まさかそんな言葉が返って来るとは思っても居なかったようだ。
「へぇ、融通が利かないなら利かないなりに何とかしようってわけ? あなた達もちょっとは現実に即した動きが取れるようになってきたじゃない。だったら「緑苑平フォレストコンコースも泥峰ゴルフリゾート近隣地域です」ぐらい平気な顔して言い張れるようになったらいいのにね」
レーテの提案に、今度はノクトールが目を丸くする番だった。素直に、そのレーテの思考……というか、詭弁の弄し方に驚いたのだろう。
「なるほど、それは随分と面白い解釈だ。さすがはバックスグループに属するだけはある。チーム・グレイタイラントの異名を持つメンバーの一人なだけはある。プロマス連中を持ってして、ここぞという場面で「制御不能でクレイジー」と言わしめるわけだ」
ノクトールの言を聞くに、その思考や言動はレーテに限った話ではないようだ。少なくとも、バックスに近しい星の家のメンバーは同じような思考をしていてチーム・グレイタイラントなる異名で呼ばれることもあるようだ。
レーテは悪びれることなく答える。
「ここぞという場面で、どうしようもなくて馬鹿みたいな従い難い判断ばかり下すからでしょう。自己保身に走ったり、やるべきことをやらなかったり、蜥蜴のしっぽ切りしようとしたり……とか。プロマスを名乗るのなら自分をプロマス足らしめるだけの責任ある行動をして貰わないと」
図らずして、星の家の中でもノクトールの属する勢力とレーテが属する勢力との確固たる差異が垣間見れた瞬間だった。そして、さらにその中でもアルフとレーテではスタンス自体にかなりの差を持つし、啓名のようなスタンスのメンバーもいる。端から星の家が一枚岩だなんて宣うつもりはなかったものの、想像していた以上に星の家とやらの内情は複雑なようだった。
ノクトールが平野守美術館に残り、禁呪の後処理の手伝いをしてくれることが決まってから約10分後のこと。
平野守美術館内には困惑交じりの拒否の声が響き渡る。
「無茶言うなよ。禁呪の後始末なんてできるわけがないだろ!」
それは萌に呼ばれて平野守美術館に足を踏み入れた笘居が、事情説明を受けるや否や開口一番に難色を示す形で発したものだ。
尤も、その反応は想定内のもので、そこから如何に笘居を言い包めるかが正威の役目だと言えた。
そして、そうはいっても、状況説明を聞かされた段階で、笘居も緑苑平が如何にまずい状態に置かれているかを理解しないわけにはいかなかったのだから、首を縦に振るのは既に時間の問題だとも言えただろう。ここで「無理だ」と言い続けて、その頼みを突っ撥ねられる程、神河に対する笘居の立場は宜しくない。
それこそ正規のルートどうこう要求したところで、結局は笘居のところにこの後処理作業が落ちてくる可能性は高いのだ。いいや、現状において誰が対処できるかを突き詰めて行けば、必然的に笘居が選ばれるのは明白だとさえ言える。だったら、ああだこうだと申し開きを行って訴え掛けてみたところで、それはただの時間の無駄ではないだろうか。
時間経過とともに状況は刻一刻と悪くなっていくし、初動に掛かる労力も増える。それは禁呪の影響範囲が拡大するからなのだが、そうすると笘居は笘居自身の行動によってただただ自身の手間を増やすことに繋がりかねないわけだ。
訴えが通る目算があるのならばまだしも、……である。
「無理は承知で言っています、笘居さん。完璧に後処理をこなして欲しいと言っているわけじゃないです。進行を遅らせるよう対処して貰えれば、それでいい。別件で声を掛けている門家が居ますので、彼らには笘居さんの応急処置を手伝うよう連絡します。門家が合流するまででも良い。お願いします」
唸る笘居が自身の一挙手一投足をじっと眺めるレーテと遙佳の視線に耐えきれずふいっと顔を背けてしまえば、あっという間に陥落する流れになった。何せ、その抵抗はほぼ無意味だ。抵抗を続けることで代わりに何かを引き出せるでもない。寧ろ、早々に受け入れてお互いやるべきことを始める方が利にかなっているし、労力も少なくて済むのだ。
「ちなみに聞くけど、声を掛けている門家っていうのは一体何処なんだい? 朽津部(くつべ)かい? 鍵浦(かぎうら)かい? それとも……」
「まぁ、……その辺ですよ」
具体的にどこの門家に声を掛けているのかを問う笘居に、正威は半ば言葉を強引に遮る形を取って名答を避ける曖昧な受け答えを返した。
笘居が危惧したのは正威が口にした「別件」という単語だったろう。
そんな都合良く、禁呪に対処可能な門家に声を掛けていたなんてことが有り得るかというのを笘居は疑ったわけだ。
さらりと「門家が合流するまででも良い」と良いながら、別件で手配している門家によっては笘居同様の対処療法しかできないなんてことも十分考えられる。そうなると、必然的に笘居も引き続き人手として駆り出される形になるのは間違いない。
ともあれ、笘居はそんな正威の対応から色々と察したのだろう。渋々という態度を取りながらではあったものの、正威の要求に頷く。
「……貸し一つだぞ、正威君」
笘居としてはそれを落とし処として良しとしたわけだったのだが、安易に「貸し」と口走ったことで状況は良くない方向に転調する。その言い分が、ここに来て萌の気に障ったのだ。
「西深海再開発事業団絡みの件でこっちは二つ三つ貸してる気がするけど、まあいいよ。貸されておいてあげようじゃない」
「仕事を斡旋してやっているつもりだったけど、……あれらを貸しだというなら次からは神河と競合する他の門家に声を掛けてもいいんだぞ?」
売り言葉に買い言葉……ではないが、そんなことを笘居が口走ってしまえば、萌からの風当たりは当然の如く急速に強くなる。
「へえ、言ってくれるじゃん。そういうのって、笘居さんに嫌がらせを仕掛けるに足る私怨になるっていわなかったかな?」
「ほ……他の門家とは言わないまでも「萌さんでは今後の業務遂行に向けて若干不安なところがある」とか理由を付けて、神河の上位層に相談したっていいんだ!」
怯んだ笘居が口走った内容に、萌は二パッと笑い口調を転調させると笘居にこう提案する。
「もう、嫌だなー、笘居さん。業務遂行に当たって不安を感じる面があるなら直接言ってくれればいいいのに。笘居さんが感じる不安を払拭する為なら、相応の時間を掛けることだって厭わないですよー。色々と直接ご指導願いたいし、今度合同訓練ができるよう取り計らっておきますねー。一週間ぐらいでみっちり予定を組んだ方が良いですよね? 笘居さんが現場で直接やきもき感じていこともたくさんあるだろうから、笘居さんの模擬戦参加も必須で調整しておきますねー」
「おい、馬鹿! 冗談だろ! 止めろ!」
笘居と萌が身内での言い争いの様相を呈し始めたものの、正威はそれを華麗にスルーする。
下手に仲裁に入って巻き込まれたくないという思いもあっただろうし、何より笘居に後を任せるにあたって今できることはやっておきたいという思いがあったからだろう
「後処理については目途がついたとはいえ、禁呪の影響範囲に取り残されている星の家のメンバーは今すぐにでも救出した方が良いね。星の家が手配した運送のスペシャリストが到着するまでにできることはさくっとやっておこうか?」
正威はポケットから小瓶を取り出すと、レーテ、そしてノクトールに、茶緑色の錠剤を二粒ずつ手渡した。
萌が遙佳に飲ませた、禁呪に対して抵抗力を得ることができる例の錠剤だ。
まじまじと錠剤を眺めたり、臭いを嗅いで顔を顰めたりする二人に、正威は間違った認識を持たれないようその効力について説明をする。
「一応説明しておくと、これは一時的に禁呪への抵抗力を高めるだけで、禁呪の影響を無力化しているわけじゃない。利き具合にはかなりの個人差もある。それと、効果を発揮する時間は約一時間程度。但し、こちらも個人差がある。禁呪の影響範囲内で平衡感覚を大きく失うようなことがあったら、すぐにそこから離れて欲しい。もし自力で離れるのが無理なようなら、すぐに声をあげて助けを求めること」
「了解」
「解った」
レーテ、ノクトールは錠剤を口に含んでその何とも言えない苦みに再度顔を顰めた後、すぐさまアルフや安達といった仲間を救出すべく行動を開始する。
そんな折り、その傍らで今なお、言い争いの様相を呈する久和一門傘下の二人を横目に捉え、正威は溜息を吐き出すのだった。
「業務遂行に向けて不安なところがあるっていうのは、そういう相談の仕方もできるんだぞっていうただの一例だ! 実際それをやるとなったら、例として挙げた手口そのままでやるわけがないだろ」
「関係ないね、どんな言い分で相談持っていこうが、絶対に合同訓練を実施する流れにしてみせるからね」
既に笘居はかなり分の悪い状況に立たされていて、如何にして落としどころを見付けるかに躍起になっているような状態だった。そのまま放っておいても、恐らくはすぐに笘居が押し負けそうな雰囲気だったのだが、正威に黙ってその状況を諦観しているつもりはないようだ。
まして、そうやって醜く身内の恥を晒すような状況を放置するのも気が引けただろう。
「萌! 禁呪の影響範囲に取り残されままの星の家のメンバーを引き上げるから手伝ってくれ。笘居さんは平野守美術館の出入口に、人が進入しないよう対策して来て貰って良いですか?」
笘居が「KEEP OUT」と印字された黄色いテープを平野守美術館の正面出入口に張り付けていると、星の家が手配した運送のスペシャリストこと立木がやって来る。最初は訝しげな顔付きをして立ち止まり笘居の様子を眺めた格好だったのだが、そうしていても事態は何も進展しないと思ったのだろう。
立木はゆっくりと笘居へと近づいていく。
「ちょっといいかい?」
「何か用ですか?」
基本的には泥峰ゴルフリゾートという「関係者以外立入子禁止」を敷くエリア内だというのに、笘居の対応に立木を訝る様子はなかった。
それを持って、立木は笘居が今回の仕事に関係を持つ人物だと認識したようだ。笘居に投げ掛ける確認の言葉も、ジャブの一つすらなく核心へと触れるものとなる。
「この建物の中に俺が運ぶ予定の乗客が居たはずなんだが、……キープアウトってところを見ると、中にはもう誰もいないのかい?」
「ああ、あなたが立木さんですか? テープを潜って中へどうぞ。ただ吹き抜けフロアの中程より先へは進まないよう注意してください。後、もし吹き抜けフロアに到達するまでに気分が悪くなるようなことがあったら先へ進もうとせず引き返してください。中の面子に外へ出るよう言付けますから」
笘居からそんな注意事項を言い渡されて、立木は黄色いテープを潜って中に進むことを一瞬躊躇したようだった。何なら、ここへ来るよう要請したレーテに連絡を取りこのまま平野守美術館の正面出入口から中に進んでいいかどうかを確認する方が間違いのないやり方だったかもしれない。
それでも、結局は黄色いテープを潜って平野守美術館内部へと足を進めたのは、笘居の立ち居振る舞いに不審な点を感じなかったからなのだろう。
正面玄関を潜って、がらんとして薄暗い平野守美術館内部へと進んでいくと、すぐに偽起脈石の置かれたフロアが確認できるようになる。そして、偽起脈石へと向かって進んでいけば、平野守美術館内部の状況がどんなものなのかもすぐに把握できるようになる。
「死屍累々って感じだな」
異変の発生源から救出され、壁際に寝かされていたアルフや安達といった面々を見た立木の開口一番の感想はそんな内容だった。
平野守美術館の吹き抜けフロアに佇むレーテは、立木をちらりと一瞥するとアルフ達の状態について簡単な説明を口にする。
「神河曰く、命に別状はないけど良くて丸一日は戦闘不能な状態だって。長ければ二〜三日は影響が残るみたい」
「派手にやられたみたいだが、呻き声を上げているところを見ると、まだくたばっちゃいないんだろうなってことだけは解る」
それは立木を安心させる為のものというよりかは、運搬対象がそうして壁際に寝かされた面子ではないことを伝える為のものだったろう。命の危険はない状態、だからそれよりも優先しなければならないことを行う。
それが緑苑平に展開する星の家の部隊と啓名の救援である。
星の家の面々が乗客でないことを察すると、立木は誰を緑苑平に送り届けるのかをレーテに尋ねる。
「で、俺が運ぶ乗客はどいつだ? 急ぎなんだろう?」
「あたしと、神河一門の二人、そして久瀬遙佳。この四人が今回の運送対象。五人といったけど四人になったわ」
名前を挙げた順に対象人物を目で追って、レーテは一人一人乗客の紹介をしていった。
尤も、その時点では立木に取って相手の名前等は然程重要ではなかった。寧ろ、体格や体重と言った点を気にしていた節がある。
それは、レーテが乗客数について車の定員上限以上を伝達していたからだろう。
運送対象者が減ったことを聞き、立木は手放しで喜ぶ。
「そりゃあいい。道交法違反じゃなくなった」
乗員オーバーという状況で車を走らせているだけで、警察組織から目を付けられる可能性があるのだから、ドライバーとしてその反応は至極真っ当なものだろう。「可能な限り短時間で」という要望がある以上、立木としても余計なリスクを負いたくないのは間違いない。
立木はゴホンと咳ばらいをして見せると、姿勢を正し自身の立ち居振る舞いを新規顧客に対する親切丁寧なそれに切り替える。
「今回、君達に緑苑平までの快適な移動を提供させて頂く、タクシードライバーの立木だ。よろしく」
今後、レーテという身内を抜きにして「遙佳や神河の依頼を立木が受けるだろうか?」という疑問はあるものの、この場でわざわざ悪い印象を与える理由もないというのが正直なところだろうか。星の家の息が掛かっているという点を抜きにして、遙佳や神河がドライビングテクニックだけを買って立木に運搬を依頼する機会がないとも言い切れない。立木の対応には「新規顧客発掘の機会を得た」といわんばかりの態度が見て取れた。
そんな立木の態度を前にして、それを知ってか知らずか遙佳が差し出した手をしっかと握り返す。
「宜しく、お願いします」
その一方で、神河の二人は立木に対して軽く会釈を返しただけだった。
もちろん、そこに立木を「星の家の息が掛かった相手」として警戒を向ける姿勢はない。
正威は立木を総栄エクスプレスみたいな立ち位置の存在だと考えたようだった。即ち、もしも、今後星の家と再び衝突する機会があったとしても、立木が星の家の構成員として神河と戦う機会はないだろうと、認識していた形だ。だから、神河の立木に対するスタンスを言うのならば、こうだろう。
積極的に関わることはないが、必要があれば利用する。
立木としてはそれでも握手の一つでも交わして置きたかったのだろうが、神河にその気がないことを察するとさらりと話題を変える。
「運送対象の中に車酔いしそうな面子はいなかったかな? 時間短縮最優先と言われている以上、やむを得ず急ハンドル・急ブレーキを使用する可能性がある。……いや、そんな生易しい言い方は止めようか。取り繕っても仕方ない。間違いなく、急ハンドル・急ブレーキを使用する事態になる筈だ。事前に酔い止めを支給することぐらいしかできないが、必要なら遠慮なく言ってくれ」
酔い止め支給の可否確認という形を取りながら、それは急ハンドル・急ブレーキを「止むを得ず」使用する可能性がることに対して理解を求めた内容で、そっちが主眼だったはずだ。もちろん、要望が要望である以上は、そこは割り切る必要のある部分だろう。最悪、事故を起こして立ち往生するという事態さえ回避できれば良い。
一つ間を置き、酔い止めの要望者がいないことを確認し終えると、場は自然と出発の機運を帯び始める。
「さて、酔い止めを必要とする面子もいないようだし、ここでやり残したことがないようなら、いつでも出発可能だ。……どうする?」
立木から出発を促す確認の声が向き、それに呼応しレーテが視線を向けるのは、遙佳、そして神河の二人だ。
ここでやり残しの可否を判断するのは、禁呪の後処理云々を一手にまとめる正威である。
尤も、多少問題があったからと言ったところで、正威が出発時刻を遅らせてまで対応するなんてことは状況的に有り得ない。
言葉にはしなかったものの、レーテの視線には啓名救援のため一分一秒でも早くここを立ちたいと急かす様な鋭さが伴って居たのも事実だ。
「笘居さん、すいませんが後処理をお願い致します」
「任せておけ……なんて台詞は言えないが、ぎりぎりまで進行を留めるべく手は打つよ。ただ、解っていると思うけど……」
正威から後を任す旨の発言を受けた笘居の歯切れは悪い。
正威もその言わんとするところは当然理解している様で、自身の代わりに禁呪を収束させられ得る人物の手配を継続すると約束する。
「禁呪の最後の封印作業を行える人間が近隣地域に誰も居ない場合に備えて、久和本家にも連絡は入れておきます」
正威の口から「久和本家」の単語が出て、笘居はほっと胸を撫で下ろしたように見えた。何が何でも神河に近い門家や、その関係者だけでこの事態をどうにか鎮めようとしているわけではないとわかったことが大きかったようだ。
「正威君が、どこぞのプライドだけは高い間抜けとは違うようで安心したよ」
その笘居の言い分は、久和一門の一派の一つが過去、禁呪の後処理に酷似した事態を、自身に近い門家や、その関係者だけでどうにか鎮めようとして痛い失態をやらかしたことを示唆していた。
まるで、笘居自身ではその辺りの手配について何もできないかのように振る舞う様子に、萌がこう茶々を入れる。
「そんなこと言って置いて、笘居は神河の上位層にダイレクトに連絡できるんだから、どうせいざとなったら独自の判断で行動するんでしょう?」
そんな指摘に、笘居はやや複雑そうな表情を見せて答える。
「本当にどうしようもない事態へ陥るようだったらそうするだろうね。でも、例えそうなる場合でも、正威君や萌ちゃんから連絡を入れるべきだよ。僕がそれをするのと、君らがそれをするのとでは意味合いが大きく異なる。僕はあくまで出向者の身で、ただの橋渡し役だ。業務を遂行する上で、神河上位層にもダイレクトに連絡を取れるようになってはいるけれど、それは本来の役目とは異なる」
それは可能なことだが、望ましくない。
そういった笘居の言わんとするところは、正威も重々承知している。
「うん、解っていますよ。笘居さんがそうすることがないよう、然るべきところで然るべき判断を下します」
懸念が現実にならぬよう行動すると正威が明言したことで、それ以上言葉を続けることはただの蛇足だと笘居は判断したのだろう。口を真一文字に結び、自身が禁呪の後始末をするという「落とし処」を甘んじることを良しとする。
笘居が口を閉ざし、それ以上何かを言及する雰囲気が神河の二人からなくなったことを確認すると、レーテがおずおず出発を宣言する。
「もう、良い感じ、だよね? だったら、緑苑平フォレストコンコースへと乗り込みましょうか!」