「異式錯落区画の未知標 -北霞咲新濃園寺コンフリクト-」のトップページに戻る。
裏手に位置した通用口から平野守美術館内部へと進んでいくと、そこには前情報通りがらんとした空間が広がっていた。やや埃っぽくはあったものの殊更に息苦しいとか湿っぽいとか言った感覚は無く、そこは所謂「廃墟」という雰囲気を伴っていなかった。剥き出しになったコンクリートなどが目には付いたものの荒れ果てた様子はなく、未使用の真新しいままでそのまま廃墟に移行しただけあって内装は小綺麗なままという印象だ。
展示物の日焼けなどを防止するためだろう。採光窓は極端に少なく内部はかなり薄暗かったが、現時点では目が慣れてさえしまえば歩行に支障を来すレベルではない。尤も、日が落ちる時間帯に差し掛かれば、内部は完全な暗闇によって視界を遮られることになるだろう。
安達の案内で遙佳達が通過した出入口は、平野守美術館の四隅にあるといわれた通用口の一つだったようだ。平野守美術館の正門から見て、ちょうど手前側二つと奥側三つの二段に分かれる一階層展示ブースの奥側、且つ奥側三つの西側の部屋に出た形だ。
至る所に洋館を意識したちょっとした細工が鏤められており、平野守美術館という建造物がぱっと見の外観だけを取り繕ってらしさを演出しているだけではないことが解る。内部もかなり広大で一階層展示ブースの一つである西側の部屋だけを取って見てもバスケットコートがまるっと一つ収まるぐらいのサイズがある。もちろん、そこまで天井が高くはないものの、このサイズの展示ブースが一階層に五つあると考えれば地方の美術館としてかなり期待が込められていたのが解るだろう。それこそゴルフリゾート内の一施設としての「おまけ」みたいな立ち位置ではなく、この美術館だけでも人を呼べるぐらいの目算を持って建造されたことは間違いないだろう。
ともあれ、その広大ながらんとした西側の部屋を通り抜けて、今まさに中央の部屋へと差し掛からんというところで安達が唐突に足を止めた。
中央の部屋からは仄かな光が漏れ出ており何らかの光源を用意しているようだったが、それが視界を確保するのに十分な明かりだったかというと、そうとは言えないだろう。奥側中央の部屋の壁際、それぞれ西側の部屋からも東側の部屋からも同程度の距離の位置に起脈石と思しき巨石が置かれいて、それを見上げるように二人の人物が佇んでいたのだが距離にして１２〜３メートルの距離にもかかわらず顔の識別がし難いのだからだ。
一人は遙佳、そして神河の二人も見覚えのある人物で、アルフその人だ。そして、もう一人は神河とは面識のない土倉である。いつかの時と大差の無い格好で、二人は何をするでもない。土倉は手持ち無沙汰の様子でスマホを弄っていたし、アルフはアルフでただ起脈石を見上げ眺めている状態だった。
そこに差し掛かって、安達は背後の遙佳に「どうするつりなのか？」を首を傾げるジェスチャーで問う。
遙佳は軽く小突くという形で、アルフに対して安達がアクションを取ることを求めた。すると、安達はすぐさますぅと軽く息を飲み、アルフの名を呼ぶ。
「アルフ、客だぜ」
「……客？」
壁際に設置された起脈石を見上げていたアルフは、自身を呼ぶ声にゆっくりと振り返った。その無造作な反応は、アルフを呼ぶ声に何ら緊迫感が伴っていなかったことも大きく影響していただろう。まるで「星の家の知り合いが労いの為にその場に訪れました」とでも言わんばかりの、何の緊張感も伴わない安達のイントネーションだったからだ。
アルフは何ら警戒を向けることなく振り向いて、そこでピタリと固まった。
安達が「客」と評した人物をその目に捉え、アルフはその目を大きく見開き瞬く間に絶句した格好だった。しかしながら、そこに焦燥といった類のものが続くことはなかった。その代わりと言わないばかりにアルフが見せたものは、酷く落ち着き払った「諦観」とも取れる態度だ。言ってしまえば、随所随所で好戦的な態度を垣間見せてきたアルフらしくない態度だった。
尤も、見方を変えるとスターリーイン新濃園寺３０６号室で正威にしてやられた時の様な「すとんと落ちる」割り切りの良さがそんな反応に繋がったという言い方もできただろうか。とにかく、それは非常に内面を推察し難い立ち振る舞いだった。
それはアルフの第一声にも、如実に表れる。
「良く、この場所を嗅ぎつけたものだね」
敵意を前面に押し出すでもなく、強い警戒を見せるでもない。だからと言って、諦観とも一線を画しているようにも感じさせる。確かに言えることは一つ。そこには感心と、少々の侮蔑が混ぜ込まれていた。
遥佳、そして萌、正威と順番に流し見ていった後で、ひらひらと手を振って見せる安達の様子を前にして、アルフはまざまざと見せつけるように一つ深い溜息を付く。恰も、減を呈すためのものと言わないばかりの態度である。
「捕まってしまったことは仕方がないけど、もう少し緊張感を持って貰えないかな、安達さん？」
対する安達のノリは相変わらず非常に軽い。
「悪いとは思ってるよ。でも、笑えるぐらいにどうしようもなかったんだぜ？ 正直もう成るようにしかならねぇなって思ったんだよ。総栄エクスプレスさんを押さえられた時点で、……あれだろ？」
アルフは総栄エクスプレスを抑える神河をギロリと睨み見る動作を一つ挟んだ後、視線を安達から遥佳へ移しやや震える声で口を切る。
「まず最初に一つ、久瀬さんには確認しておきたいことがある。僕の記憶が正しければ、君は「神河とは繋がっていない」と言っていた筈だ。それは真っ赤な嘘だったってことでいいかな？」
落ち着き払った態度を装ってはいるものの、やはり内心では腸煮えくり返る思いも持っているのだろう。遥佳の返答如何によってはアルフの態度は一変したかもしれない。
例え、総栄エクスプレスの作業員を、遥佳サイドが人質として抑えているとしてもだ。
遥佳はうっすらと見え隠れを始めたアルフの怒気を前に、その問いに真っ向から答える。
「スターリーイン新濃園寺での時点では、協力関係どころか顔すら合わせたことがなかったよ。でも、その後、対起脈で手を取り合って、星の家が新たな起脈石を泥峰へと設置する動きを見せたことで、こうしてここに共同戦線を構えることになった」
下手に策を弄するようなことをしても、アルフを激昂させる可能性が高いと考えたのだろう。嘘を付いたり、答えをはぐらかす理由がないというのも確かにあっただろうが、下手に何事かを匂わせることでアルフの暴走を引き出してしまう可能性を危惧した節がある。即ち、安達や総栄エクスプレスの作業員といった柵の全て一切合切を無視した上で、遥佳や神河に襲い掛かるといったような暴走を、だ。
そんな中、不意に土倉が声を上げる。
「アルフ、起脈石を起動するぜ！ 前の借りを返す絶好のチャンスだ！ やっちまおうぜ」
アルフに気を取られている間に、土倉は起脈石へと接近し今まさにその手で触れようかという位置に居た。
遙佳としてはいつかの時をなぞるような展開となった形だったが、いつかの時のようにことは進まなかった。対話の途中で正面衝突へと舵を切ろうとした土倉のその動きを制止するものが居たからだ。
驚くべきことに土倉を制止すべく声を上げたのは、不穏当な気配をその身にまとうアルフその人だった。簡潔ながら、低く通る威力のある声でアルフは告げる。
「駄目だ」
土倉は当然アルフから「ＧＯ」が出るものだと思い込んでいたらしい。起脈石に手を付いた状態のまま、不心得顔でアルフへと向き直り声を荒げる。
「……はぁ？ 何言ってんの、お前？」
「総栄エクスプレスさんに被害が及ぶ可能性がある。許可できない」
アルフが不許可の理由を言い淀むことなく口にするも、土倉が何一つ納得した様子はない。
「じゃあ、どうするってんだよ！？」
土倉が食って掛かる態度で非難交じりの声をあげるものの、アルフが取り合うことはなかった。
アルフは土倉を一瞥することもなく、現状でまず取るべき遥佳達に対する星の家の方針を明示する。
「イブもノクトールも牽制を解いてくれ。僕らならばスピード面で優位に立てるなんて考えは甘い。久瀬遥佳も、神河の片割れも、僕らと同等か下手をするとそれ以上のスピードで行動できる。残念ながら、隙を見て襲い掛かるなんて真似が通用するような甘い相手じゃない」
アルフがイブ、そしてノクトールの名前を挙げた瞬間のこと。室内に二つの気配が生まれる。それは遙佳達が中央の部屋へと侵入した西側の部屋の真反対に位置する壁際だった。
二つの気配の主は、アルフや他の星の家り構成員とは明らかに雰囲気が異なっていた。二人だけ灰色のスラックスに、濃緑色に簡素な装飾をあしらったブレザーという基調の整った準正装みたいな出で立ちでなのだ。
イブはやや茶色の混じった髪色だが、バサッとボブで切り揃えており、鋭い目付きと相まって取っ付きにくい印象を相手に与える。もう一方のノクトールにしても、ビシッとショートで整えられた優等生風の髪型で、イブ同様取っ付きにくい印象は否めないむ。加えて言えば、まとう雰囲気そのものがどこかお堅く畏まった風で、まさにアルフやバックスと言った面々とは一線を画す雰囲気だと言えた。
ともあれ、今の今までそこに二人が存在していたことを、遙佳にしろ神河にしろ完全に認識できていなかった形だったことは間違いない。ギョッとした遙佳の表情、そしてやや険しさを増した後でポーカーフェイスを装った正威の表情がそれを如実に物語っていた。
尤も、二人が敵意を持って遙佳達に近づこうと行動していれば、また結果は違ったかも知れない。
そんな神河サイドの動揺を悟られまいとしてか。萌は一歩前へと進み出ると、余りにもらしくないアルフの立ち居振る舞いに対して茶々を入れる。
「随分と殊勝な心掛けじゃない？ らしくないんじゃないの？ 悪いものでも食べたのかな？」
「三対一でならば襲撃されてもどうにかなるだろうと踏んでいたところが、蓋を開けてみれば三対三だったわけだ。僕らがどう足掻いたところで起脈石の防衛はままならないだろう。しかも、総栄エクスプレスの作業員が人質に捕られている。優先事項も大きく変わるさ。起脈石は明け渡す。代わりに総栄エクスプレスの二人を開放してくれ」
萌から「暴走」を促すジャブを向けられてもなお、アルフの言動は全くぶれなかった。
やもすると、スターリーイン新濃園寺での一戦はアルフに取って強く後に尾を引くほど不本意極まりない幕引きだったのかも知れない。そうだ、二の舞を演じるのは「ごめんだ」と、自身の行動を律するためのブレーキになる程度には堪えた経験となったのかも知れなかった。
一瞬でも表情に剥き出しの敵意が覗くようなこともなく、アルフは落ち着き払った立ち居振る舞いで「人質解放が最優先」だとする星の家のスタンスを明示し明言した。すると、イブ、ノクトールと呼ばれた二人も見掛け上は牽制態勢を解除する。
それでも、空気を読まずにアルフに食って掛かるものも居る。
そう、起脈石に手を付く位置取りを取る土倉だ。
「むざむざ起脈石を諦めるだって？ 馬鹿じゃねーの！ 起脈石さえ起動しちまえば、こっちは全部有利にことを進められるんだぜ！？」
改めて、前面衝突を主張する土倉と、アルフの温度差は大きい。いや、起脈に対する信頼度そのものが異なるという言い方の方が正しかったかも知れない。少なくとも、アルフは起脈の有用性について、それが不利な情勢を安易に覆し得るものだという認識を持っていない。
「仮にここで起脈石を起動させたとしても、起脈の効率なんて２０〜３０％が精々なんじゃないのか？ いいや、下手をすると、久瀬さんにやられたいつかの時よりも低い効率に留まる可能性だってある筈だ。前の場所よりも、ここは条件が悪いんだろう？ 中継地点としての足場固めもできていないのに、本当に起脈でどうにかできる算段が立てられるのか？ 悪いが、今の状況下で起脈石を起動したからといって総栄エクスプレスの二人を無事に救い出せるとは到底思えないな」
「……」
アルフからの冷徹な指摘を受けて、土倉は黙らざるを得ないようだった。
土倉は遥佳を横目に睨み見ると、苦虫を噛み潰した顔を隠さない。起脈を起動してなお押し負けた相手がその場にいることで「今回は上手くいく」というような楽観を安易に口にするのも憚られた形だろう。
黙る土倉を尻目に、アルフは誰に向けるでもなくボソリと呟く。
「仮に総栄エクスプレスさんが人質でなかったとして、仮に今起脈を最大効率に仕立て上げられるのだとして、……それでも神河と久瀬さんを相手に回してこの面子でどうにかできるか？ いいや、それでも勝てるという確信は持てない」
アルフの口をついて出た言葉は、遥佳や神河一門に対する強い警戒だ。起脈を知り、且つ、実際に両者とやりあったことのあるアルフの見解には重みが伴っていた。
ともあれ、不承不承と言った具合ではあるものの起脈に手を置く土倉が主張を引っ込めてしまえば、アルフに対して反論するものはいなくなる。
しかしながら、星の家が起脈石と引き換えに人質解放を迫るという空気が醸成される中、不意に口を切るものも居た。人質解放の対象から名前の漏れた安達である。
「なぁ、ちょっといいか？ 総栄エクスプレスさん達は当然だとしても、俺は……？」
どうして対象者に自分の名前が挙がらないのか理解できないといわないばかり、安達はアルフに自身の存在をアピールした形だ。
尤も、そこに返る反応は、すぱっとその訴えを跳ね除けるものだった。
「相手方の要求である起脈石の破壊が完了するまでに、人質全員を解放して貰えると思うか？ 人質役は安達さんに任せることになる」
「……そっすかー」
アルフに対する不平不満を前面に押し出しつつではったものの、安達も不満たらたらという形でその状況を受け入れた。いや「受け入れられない」とだだを捏ねたところで、アルフが聞き耳を持つ可能性は皆無に等しい。流されるしかなかったのだ。
不興顔ながら土倉と安達で状況に口を閉げば、アルフは改めて取引を提示すべく遥佳へと向き直る。
「どうだろう？ 新たな起脈石設置の阻止が目的なんだろう？ 悪い取引じゃないと思うが？」
起脈石を明け渡す代わりに付き付けられた総栄エクスプレスの社員開放要求は、遥佳を大いに悩ませる。
総栄エクスプレス社員という人質は、星の家相手にはかなり有用であるらしいことが解ってきたからだ。使いようによってはもっと効果的に星の家を揺さ振ることができるかもしれない。余り気持ちのいい手段ではないものの、それこそ星の家上層部を強引に交渉のテーブルへと座らせることができ得る強力なカードかも知れない。
しかしながら、遙佳の結論はアルフの提示した取引内容を受け入れるというものだった。
「……解った。その取引、飲みましょう」
合間に小難しい顔を挟みはしたものの、遥佳はほぼその提案を断るという方向に傾かなかったようだった。多くを望むには、既に残された時間が少な過ぎる。全てはその一言に尽きた。
現時点での最優先事項は「泥峰の起脈石」に他ならない。
取引に応じると答えた遙佳は、すぐさま星の家の要求に応じる。もちろん、星の家に対して先に起脈石を明け渡すよう要求するというてもあったが、そこはアルフを信用した形だ。
「正威君、萌ちゃん、二人を開放して」
遥佳から指示が飛び、神河の二人は作業服の二人の背中をそっと押した。
元々、腕を掴むでもなく行動を制限していたわけでもない。寧ろ、総栄エクスプレスの二人は拘束されていたとは言い難い状態だったと言っても良いぐらいだ。
総栄エクスプレスの二人は、背を押されるままにゆっくりとアルフの方へと進み出る。
対するアルフは総栄エクスプレスの二人の動きを目で追うと、ちょうど総栄エクスプレスの二人がその中程まで来た辺りでこのまま平野守美術館を離れるよう声を掛ける。
「そのまま正面玄関を出て泥峰市街へと向かってください。追って連絡はしますが、もしこちらから何の連絡もない場合は、三時間を目途に泥峰からも撤収して貰って結構です」
「解った。この状況でこんなことを言うのもあれだが、アルフ君達も気をつけて」
総栄エクスプレスの二人が正面玄関方面へと足を向けたところで、アルフはまず遥佳へと目で合図を送る。続いて顎をしゃくって見せるジェスチャーで、そこから時計回りに移動するよう要求した。すると、まずアルフサイドが約束通りに起脈石の前から時計回りで離れるように移動を始めた。アルフ達が動き始めてしまえば、安達を従えた遥佳と神河の二人も自然と時計回りの軌道を描いて起脈石へとアクセスする形を取ることに繋がった。
尤も、アルフから牽制を取りやめるよう指示が飛んでいるとはいえ、イブにしろノクトールにしろ遥佳達を横目に睨み見る視線の鋭さを一向に緩んではいない。唯一、アルフだけは遙佳達から視線を外し、自身が発した言葉通り「牽制する」ということをしていなかったものの、そこに漂うものはやはり未だ肌を刺すような緊迫感だった。
アルフはああ言ったが、この場に展開する星の家が統率の取れた集団だとは言い難い。特に土倉なんかはきっかけさえあれば、いつ前面衝突側に暴走してもおかしくはない。
さらに言えば、泥峰への新たな起脈石設置を目論むこの集団の統率者が、アルフであるかどうかも定かではない。
イブやノクトールがアルフ同等の能力を誇るのならば、こちらも指示を無視して暴発すれば瞬時に衝突と相成るのだ。隙を見せれば、色気を出さないとは言えない。
漂う空気が物々しさを後押ししている気さえした。
お互いがお互いの一挙手一投足を注視して無言で時計回りに移動をする中、その静寂を遥佳がアルフの名を呼ぶ形で打破する。
「アルフ君」
「……何だ？」
ぶっきらぼうな受け答えだったものの、アルフは遙佳が自身の名前を呼んだ意図を問い返した。何なら問いかけを無視したっておかしくはない場面でもある。その反応は対話をする余地があるとも受け取れる対応だからだ。
そして、遙佳はすかさず言葉を続ける。
「多成さんに星の家上層との話し合いを要望させて貰ったんだけど、実現は不可能なの？」
「それは、この後の展開次第といったところかな」
「この、……後？」
アルフの口振りに、遥佳は何か嫌な予感を感じ取ったようだった。
どこか「心ここに非ず」というか、何か別のことに意識を集中させているというか。
ともかく、遙佳はアルフのその態度に強い違和感を覚えたようだった。
そして、その予感は見事に的中する。
時計回りに移動をするその最中、アルフが唐突にパチンと指を鳴らす。すると、両隣へと続く通路の影からは、星の家の構成員がそれぞれ二人づつ姿を現した。
今まさに、遙佳達が中央の部屋へと足を踏み入れたその西側の部屋へと続く通路からも星の家の構成員が姿を現した形で、瞬時に遙佳の表情は曇った。加えて言えば、新たにこの場に姿を現した面々は、一目でアルフやバックス同様「人の範疇を踏み越えた能力を持つ相手」だろうと推測できる。
尤も、では最初から罠にはめるべく、この場に居た星の家の面々全員が「演技をしていたのか？」というとそうでもないらしい。
真っ先に「状況が飲み込めない」と土倉が声を上げる。
「何だよ、これ？ おい、アルフ！ どうなってんだ？」
さらに続けざま、今の今まで遥佳達へと鋭い視線を向けていたイブからも動揺交じりの声が出る。
「レーテに、……エリアン？ あたし達も何も聞かされていないのだけど、状況説明を要求しても構わないのかしら？」
この場で視線を集める当のアルフは何食わぬ顔で悠然と立ち回った。ちょうど起脈石を眼前に捉える位置まで歩き切ると、姿勢を正して小首を傾げて見せて、誰に向けるでもなくこう同意を求める。
「敵を欺くには、まず味方からっていうだろう？」
一方で、遥佳と神河は壁際に設置された起脈石のお膝元へと移動し、袋小路へと追いやられた形だ。正面玄関へと続く道をアルフ達が塞ぐ、左右の部屋へと抜ける通路をそれぞれ身を隠していた星の家の構成員が抑える。
すぐさま遙佳達へと攻撃を仕掛ける雰囲気こそ伴っていないものの、イコールそれは星の家側が圧倒的優位な立場にあるからこそとも言えただろう。
安達の手首を握る遙佳の手は緊張からか汗ばみ、強い力が籠る。
「まんまと騙してくれたわけだ。……起脈石を諦めるつもりはないってこと？」
「ここへ運搬してきたものも、実を言うと起脈石じゃないんだ。総栄エクスプレスさんには起脈石に仕立て上げる前のものを起脈石だと偽って運搬して貰った」
切っ先鋭く真意を問う遥佳の言葉に、アルフから返った言葉は驚くべき内容だった。
「はぁ？ 起脈石に仕立て上げる前のもの、だって！？ そんなんここに持って来ちまったら、ここでこいつを起脈石に仕立て上げるなんて真似はできないんじゃないのか？ むざむざ起脈石を一つ駄目にするのを承知で罠を仕掛けたとでも言うのかよッ？」
土倉に取って、アルフが語った内容はさぞかし衝撃の事実だったのだろう。アルフへと向き直り、それが何を意味するのものかを口にしながらも、土倉は言葉の途中でそこに秘められた意図を察したようだ。
「……泥峰の、このクエスト自体が囮ってことか？」
土倉の疑問に直接答える形ではないながら、アルフはそれをあっさりと肯定する。しかも、身内をも騙す「囮」だっと白状する形で、だ。
「見てくれも側も完全に起脈石のそれだから、実際にこれを設置し終えて稼働前の整備をするという段階にまで至らなければ誰もそうとは気付かないだろうさ。それこそ、起脈エンジニアや起脈管理人でも、ね」
種明かしをするアルフの立ち居振る舞いは、お世辞にも遙佳達を罠にはめたことに浮かれる様子がなかった。それが尚更、そこに不気味さを際立たせていた。それこそ「どうだ、驚いただろう？」とでも言わんばかりに意気揚々と口を切りそうなものだったが、アルフの口調はあくまで抑揚の薄い淡々とした調子に終始していた。
それは即ち、遥佳を罠へと嵌めた喜びよりも「罠が成功する」という状況下へと、星の家が陥ってしまっていることをアルフが強く意識していたことの証左だったろう。
それもそうだ。
これは身内を疑い、身内をも騙す「囮」だったのだ。
相変わらず、アルフは誰に向けるでもなく淡々と「囮」についての独白を続ける。
「今回の話は星の家の中でも極々一部のメンバーにしか知らされていない。スターリーイン新濃園寺の件然り、起脈石を運搬途中に襲撃された件然り、情報がどこかから漏れているとしか思えなかった。だから、こういう手を使ったんだ。今回、はっきりと解ったことは、泥峰への起脈石設置が囮クエストだとは知らされていない範囲の構成員から、久瀬さん達が星の家内部の情報を得ていたということだ」
アルフはそこで一度言葉を区切ると、不興顔を隠そうともせずに付き付けられた現実を嘆く。
「でも、この囮クエストだって誰彼構わずばらまいていたわけじゃない。それなりに実績もあって、それなりに信頼できるレベルにあるところに限定してばらまいていた筈なんだ。……にも関わらず、まさか本当にその中から内通者を出すとはな！」
到底一枚岩ではないにしろ、それでも内通者を出したという現実はアルフに取って重く辛い内容であるようだ。それまでの淡々とした調子から一転感情を前面に押し出して見せたことで、アルフの怒号はより際立つ。
ともあれ、いつまでもそうやって自身の属する組織体の問題点に気落ちしていられる状況ではない。
アルフは左右に二度首を振ってそれらを振り払うと、まずは今やるべきことへと意識を向ける。
「ともかく、これで七対三だ。どうする？」
七対三という言葉は、安達や土倉を端から戦力だと捉えていないことを明示したに等しい。尤も、起脈石だと思っていたものがただの巨石の置物である以上、起脈をベースに力を引き出す安達や土倉が遥佳達を相手に回して戦力足り得ないことは火を見るよりも明らかだ。スターリーイン新濃園寺での多成のように、ハンドガンでも持ち合わせていればまだ話は別だったろうが、現状では寧ろこの場に居合わせているというだけで足を引っ張る存在だったかもしれない。
それが嫌という程に解っているからだろう。
土倉はがりっと親指の爪を噛んだだけでそこに異論を挟むことをしなかった。
対照的に、それまでのらしくない態度を一転させたのがアルフその人である。一気に好戦的な雰囲気を前面に押し出して、遥佳へと向き直った形だ。それこそ、遥佳ないし神河の二人が色気を見せれば、いつでも戦いの火蓋を切って落とさんと言わんばかりの雰囲気をまとった形だ。
きな臭さがどっと一気に噴出し周囲を覆い尽くして、誰よりも当惑したのは人質役を任された安達である。
「なあ、アルフ。……俺はどうなる？」
やもすると、スターリーイン新濃園寺の時の啓名が強いられた状態のようにも見えただろう。即ち、闘争本能に冷静さを持っていかれて、安達の対処のことなど「すっぽり抜け落ちてしまった」疑惑だ。
しかしながら、アルフの対応は安達の不安のさらに斜め上を行く。
「すまない」
人質役として遥佳の手にある安達から「人質」の処遇について問われたアルフは、なんとそんな簡素な言葉で切って捨てたのだった。
中身の伴わない謝罪の言葉が意味するところを察し、安達は眉をひくつかせて絶句する。そうして、眉間に皺を寄せ、絞り出すように発した言葉には恨み節と怒気がこれでもかと色濃く混ざる。
「ああ、そうかい。端からその腹積もりだったってわけだ。……相変わらずいけ好かねぇ野郎だよ、てめぇは。覚えておけよ」
安達の恨み節を前にしても、アルフはどこ吹く風だった。さも、そんなことは「些細な問題」とでも言わんばかりに、最悪の事態に陥る可能性についても軽く言及してみせるのだ。
「まあ、あれだ。安心してくれ。万が一のことがあっても、しっかり仇は取るよ。尊い犠牲は決して忘れないさ」
既に、頭の中は如何にして萌や遥佳を相手に勝利をもぎ取るかに占有されてでもいるのだろう。
さしもの土倉も困惑を隠さず顔を顰める最中にあって、アルフは自身を奮い立たせるかの如く叫ぶ。
「さあ、リベンジをさせて貰おうか！ リターンマッチと行こう！」
「ストップ！ あんたは熱くなり過ぎだって！ いきなり安達を見捨てますとか、馬鹿じゃないの？」
一気に正面衝突まで突き進み兼ねないアルフの熱に、横合いから慌てて冷や水を浴びせかけたのはイブにレーテと呼ばれて軽く会釈を返した女だった。イブやノクトールのような準正装みたいな格好でないところを見ると、アルフ寄りのメンバーなのだろう。紺のショートパンツに黒のストッキング、上着にジャケットを羽織るという辺りの格好も、らしさを際立たせていたと言っていいだろうか。
アルフに対する物言い然り、アルフと同年代だろう見た目通り、レーテはアルフに対して全く畏まった様子を見せなかった。そうして、叱責にも似たきつい言葉でアルフを制止すると、安達の処遇に対しても含みを持たせる形だ。
その一方で、アルフは不服然とした態度を崩さなかったが、レーテに対して取り敢えずは反発を返さなかった。
しかしながら、冷や水を浴びせかけたレーテがその勢いのまま遥佳に対して正面衝突回避の為の話を持ち掛けようとすると、アルフも黙ってはいなかった。一際大きな声を出す。
「正面切って衝突するのはいつでもできる。でも、その前に敵対者である久瀬遥佳さんと神河一門の二人に、建設的な提案がある」
「レーテ！」
アルフがことを急いで衝突へと突き進まんとすることに、改めてレーテは叱責にも似た強い言葉を口にする。
「だから熱くなり過ぎだなんだって！ 少し頭を冷やしなよ、アルフ！ 星の家も話し合いに応じる余地がある。その姿勢を示さないまま正面切って衝突しようとか、正気の沙汰じゃないよ」
アルフは不服従としてレーテをまじまじと睨み見るが、当のレーテも退く気は微塵もないようだ。この二人の力関係がどういうものかは解らないながら、少なくともレーテはアルフと同格ではあるのだろう。
結局、アルフはこれ見よがしに舌打ちすると、ふいっと顔を背けた。不承不承という形ではありながら、まずはアルフが我を引っ込める形で場は繕われる。
レーテがこれみよがしに咳払いをすると、他の星の家の面々も表面上はそれに倣うようだった。
そうすると、改めて正面衝突回避の為の話をレーテが遙佳へと持ち掛ける流れとなる。
「さっきも言ったけど、久瀬遥佳さんと神河一門の二人に建設的な提案がある」
対する遥佳は、それとは表情に出さなかったものの、レーテの言動に内心では心底安堵していたことだろう。
遥佳に安達を盾に取って傷つけるポーズはできても、それを実際に行えるかには正直疑問符が付く。
まして、アルフが安達という人質を完全に無視してことを推し進めるとなったら間違いなく遥佳は動揺したはずだ。安達の処遇一つ取っても、どうするべきかすぐに決断を下せなかったかも知れない。まして、安達の腕を捻りあげて呻き声一つ上げさせたところで、そんなポーズでアルフが今の態度を引っ込めるとは到底思えない。
よくも悪くも、遙佳達に敵意を剥き出しにして見せた際のアルフの言動はまともな「それ」じゃない。少なくとも、安達を犠牲にすることなど厭わないだろうし、そもそもそこを切って捨てて衝突できるのならば「人質」なんてものは眼中になかっただろう。
言ってしまえば、アルフは遙佳の動揺なんてものを見越して行動していなかったが、レーテの提案は救いだった。
レーテは一つ長い息を吐くと、スターリーイン新濃園寺での遙佳の要求に触れて見せて「建設的な提案」とやらを切り出す。
「星の家上層部との対話の件、このクエストのプロマスである多成さんは実現させるつもりなんてさらさらないみたいだけど、……取り持ってあげてもいい。今から述べる条件を飲んで貰えるなら、ここから先の身の安全も保障するわ」
レーテから提示された二度目の取引も、悪くはない内容のように聞こえた。
もちろん「提示される条件如何によっては……」という但し書きが付くものの、遥佳や神河の求める星の家上層との折衝を取り持ってくれるならば、それは願ったり叶ったりでもある。
しかしながら、遙佳の表情は硬い。
「ぱっと聞いた限りでは悪くない提案だけど、条件は何？ 勿体ぶってないでさくっと提示して貰える？」
恐らく、レーテは遙佳からもっと柔和な態度を引き出せると践んでいたようだった。
レーテの筋書きの中では、スターリーイン新濃園寺での要求があって、ここ泥峰での星の家の形勢逆転を踏まえれば、もっと有利に交渉を進められる雰囲気が醸成されると思っていた節がある。
ともあれ、要求の内容を問う遙佳に対し、レーテは求められるがままに淡々とそれを列挙していく。
「率直に言わせて貰うわ。一つ、安達君を開放すること。二つ、北霞崎への起脈石の設置を邪魔しないと約束すること。三つ、あなた達に星の家の情報を流した内通者について、知っていることを包み隠さず全て洗い浚い話すこと」
「残念だけど、二と三の条件は飲めない」
遥佳は迷いなく、淡々と答えた。
そうやって取りつく島もなく拒否されることは、やはり想定外だったようだ。レーテは驚いたという表情を、今度は隠しそうともしない。
そうして、レーテは遥佳の真意を測るべくまじまじとその一挙手一投足を注視しながら、提案を飲み込ませるべく丁寧に言葉を切り出す。
「久瀬遥佳さんが霞咲への起脈敷設に対して懸念を持っているのは知っているわ。だから、何を懸念しているか、それを聞く場は取り持ちます。そして、その懸念を聞いた上で「起脈をどうするのか？」という議論をすることになると思う。あたしも起脈が完全なものだなんて思ってはいないし、櫨馬でちょくちょく不具合を出していることぐらいは知ってるからね。そこは十分に思いを汲み取ってあげられる筈だと思う。でも、星の家が起脈石を北霞咲へ設置すること自体を邪魔するのは止めて貰わなければいけない」
レーテは遥佳が持つ起脈の懸念に対して思うところがあると仄めかした格好だ。そして「プロマス・多成の代わりに聞く耳を持つ」とまで譲歩を提示したのだが、遥佳は折れなかった。
遥佳は首を横に振って簡潔に答える。
「飲めない」
「そう、……残念」
遥佳の拒絶は、レーテにこれでもかという程の落胆の色をまとわせた。
遥佳の望みが星の家上層との対話であり、起脈に対する警告であるのならば、それらの譲歩で色好い返事が貰えるだろうと考えていたのだろう。
いいや、もしこの提案がスターリーイン新濃園寺での威力偵察ぐらいの時期だったならば、きっと遥佳はここで首を縦に振った筈だ。
遥佳は申し訳なさそうに一度俯いた後、くっと歯を噛み合わせてレーテへと向き直る。泥峰の起脈石が罠であった以上、ここで悠長に気落ちしている時間などないのだ。泥峰が「囮」だというのならば、星の家は本物をどうしようとしているのか。
浅い嫌な予感が遙佳の頭を刺す。
そして、それは恐らく、的中しているのだろう。
レーテを前に一度瞑目すると、遙佳はすぅっと目を見開き自身がまとう「固さ」を和らげる。
今になって柔和さを装って、遙佳がレーテに向けるものは一縷の望みに縋るような言葉だった。
「こちらからも建設的な提案がある」
それは、星の家サイドから程度された要求を撥ね付けておきながら「どの口で……」と言われても仕方の無い言葉だ。
当然、レーテは腕組みをして見せて、俄かに警戒の雰囲気をまとう。
それでも、レーテは「聞く耳を持つ」と言った姿勢を履行して見せる。
「……一応、話だけは聞いておきたいかな」
この状況に至ってまだ、一応は聞く耳を持つという姿勢を見せてくれるだけでも、レーテはアルフとは大違いだと言えただろうか。
ともあれ、遥佳は促されるまま、レーテに訴え掛けるように言葉を続ける。その姿勢は、それが好ましく思われないものだと解っていたからこそだろう。
「その前に、ここに居ない紅槻啓名がどこで何をしているのかについて教えてくれないかな？ 彼女の動向如何によって、提案するべき建設的な話の内容が変わって来るんだ」
「答える義理はないね」
間髪入れずにそう口を切ったのはアルフだった。
それは遥佳とレーテとの対話に横合いから口を挟んだ格好だったのだが、その対応に星の家の中から異を唱える者は出なかった。当のレーテも成り行きを見守るだけだ。
それでも、そう突き放されてなお、遥佳は構わず啓名の所在についてより具体例を挙げて問いかける。
「緑苑平フォレストコンコースに起脈石を設置しようとしている、とかではないよね？」
「答える義理はない、そう言ったのが聞こえなかったか？」
またも、アルフが間髪入れずに突き放す形を取るものの、遙佳は口調を強めてさらに踏み込む形を取る。
「それが紅槻啓名の命を脅かし兼ねないとしても？」
「答える義理はない」
遥佳としては誠心誠意、相手に信用して貰えるように振る舞ったつもりだったのだろうが、それがアルフに届くことはなかった。当のアルフは、恐らくそれをハッタリか何かだとでも捉えていたのだろう。啓名の身の危険を仄めかせば、居場所に対する情報を得られる筈だ。そんな考えの元、遥佳が振る舞っただけとでも受け止めたのだろう。
残念なことはアルフのその言葉に、星の家から「待った」を掛けるものが現れなかったことだ。レーテも、ノクトールも、イブも、他の構成員の誰もがただ成り行きを見守っていた。
遥佳は既にレーテの建設的な提案を断っていて、遥佳の側から持ち掛けようとした提案もアルフによって聞く耳を持っては貰えなかった。
交渉の空気は雲散霧消し、場には一瞬にして重く冷たい緊張感が生じ始める。
遥佳がぼそりと呟く。
「交渉決裂、だね」
そう口にしてしまえば、場は本当に交渉決裂後の雰囲気にじりじりと置き換えられてしまう。
俄に生じ始めた重く冷たい緊張感は、あっという間に場に張り詰めてきてきな臭さすら漂わせるようにもなる。
これはもう覆せないと思ったのだろう。
レーテが下唇を噛む。
「残念。本当に残念。痛恨の極みだよ。力で相手を捻じ伏せて……ってやり方は好きじゃないんだけど、こうなった以上はやらざるを得ない。悪く思わないでね」
レーテの発言を受け、アルフも満足そうにほくそ笑むとさも当然であるかのように戦闘態勢を整え始める。すると、アルフの動きに呼応し、イブやノクトールと言った面々も起脈石を取り囲むように位置取りを始める。それは、ここから遥佳や神河を逃さない為のシフトだ。
遥佳は安達を引き連れて一歩後ずさると、視線を星の家から逸らすことなく神河の二人へ告げる。
「ごめん。想定していた中でも最悪の事態へ突き進んでる。でも、……何とかするから。正威君と萌ちゃんは自分の身を守ることに専念して欲しい。ちょっと正気じゃなくなるかもだけど、あたしが悪手を打ってでも活路を開くから二人はその隙にここから……」
「こんな事態になるんじゃないかなって何となく予想してたよ」
萌が溜息交じりに口を切ったのは、重く沈んだ声で話す遥佳の言葉が言下の内のことだった。
それまで口を噤んで一言も喋らなかった萌から出た内容は、星の家が仕掛けた罠へと見事に嵌った現状さえも「想定内だ」という趣旨の言葉だった。
萌が口走った内容をすぐに呑み込めなかったのだろう。遥佳は一度きょとんとした顔を覗かせ、そしてその後も当惑を隠せない。
「え、と、それはつまり……、どういうこと？」
「寧ろ、罠だったパターンで想定していた最悪の事態に比べればまだまだ可愛いものだ。ねぇ、正威？」
ここに来て萌の軽い調子と不敵な態度は、さぞかし頼もしかったかも知れない。
尤も、もう一方の正威も萌同様の不敵な態度だったかというとそんなことはない。
萌に名前を呼ばれた当の正威の態度は、お世辞にも泰然自若としたそれではなかった。
「切り札をここで使わなければならなくなったという点では、想定していた「最悪」も今の現状もさして変わらないけどな！」
そう萌に切り返した正威の表情は非常に強張っていたのだ。周囲へと警戒を向ける様子というものも「罠に嵌った」状況の打破を楽観視していないことを物語る。尤も、現状打破の為の一手が全て正威の肩に掛かっている場面なのだから、そのやや度を逸した強張り具合も頷ける。
しかしながら、埒を開く為のその手段は躊躇いなく実行されたようだった。
正威が懐に手を差し入れた瞬間、場には既に異変が生じ始める。続けざまに正威が口を開いて何かを叫ぶものの、その声は音として周囲へと拡散することなく雲散霧消するようなっていた。
「…………！」
雲散霧消した言葉とは、懐に忍ばせたものを手に取った状態で、口にしてはならない音の羅列だ。
正威が懐から取り出したもの。
それは掌サイズ、一辺が５ｃｍ程度の立方体の木箱のようなものだった。装飾も何もない無垢の木材から作られているように見えたが、それには継目も蓋すらも見当たらない。だからそれを「木箱」だとした表現は正しくなかったかも知れない。木材から切り出した一辺が５ｃｍ程度の立方体の「木片」という表現が正しい説明だったかもしれない。
正威の右掌に載せられたその木片は、見る見る内に随所が黒く変色を始める。すると、その変色した箇所から黒く濁った液体とも気体とも認識できる何かが徐々に染み出して来て、瞬く間に床へと滴り落ちる程の量へと変わる。
何かを仕掛けてくると理解した次の瞬間、アルフは正威目掛けて飛び掛かっていた。
尤も、その動きは目敏く事前に攻撃を察知した萌によって、あっさりと食い止められる。正威への接近を妨害するようその直線上に立ったのだ。直後、萌はアルフと四つに組んで、その進行を完全に押し留める形となる。
「やっぱり向こう見ずで直情的な方が似合ってるじゃん！ このまま３０６号室での続きと洒落込もうじゃない！」
「神河正威を止めろ！ 一撃で形勢を逆転させるぐらいの何かを繰り出し兼ねない！ 奴は危険だ！」
アルフは萌の挑発にも目をくれず、この場に顔を揃えた星の家の面々に正威を狙うよう声を張り上げた。尤も、それに打てば響く反応で呼応したのはレーテを除く三人の構成員とイブだった。レーテとノクトールは明らかにツーテンポ程度反応が遅れる格好となったのだが、その差がくっきりと明暗を分ける形ともなる。
レーテとノクトールに取って、すぐさま反応できなかったことは幸運だっただろう。
額にびっしりと脂汗を浮かべ「自分を制圧することはもう何の意味をなさない」と正威が警告する。
「もう遅い！ ここまで解放してしまったら、もう俺にも途中では止められないからな。放っておいても拡散し続け、この場は蝕まれ続ける！」
正威が生じさせた異変が一気に拡大をし始めた瞬間だった。正威の右手は、あっという間に掲げ上げた木片から染み出るどす黒い物質によって肘から先が覆われる程になっていて、その染み出る量にしてもものの十数秒足らずで床に水溜りを作れるレベルにまで拡大している。
遥佳が安達の背を推して一テンポ遅れて反応を始めたイブの方へと押しやる。そうすることでイブの動きに制限を掛けられたら儲けものと踏んだのだろう。まさかまさか、アルフと違って安達を無碍には扱いはしまい。そういう魂胆だったろうか。
そうして、遥佳は続けざまに、残りの構成員三人の足止めの為に体勢を整える。そんな遥佳にさえも異変が及んだのは、その矢先のことだ。
どぎつく甘い香りが鼻を付くようになってきて、そこを境として一気に異変はその場に顔を揃えた面子に直接的な影響を及ぼすようになったのだ。真っ先に影響を受けたのは、直進を阻まれたアルフとイブ以外の三人だ。正威へと向かって直進する最中、大きく進路を傾斜させるようになってしまえば、その速度も大きく減衰。仕舞には足を止めてその場に立ち止まるようになり、眉間に皺を寄せてふらつくようになるところまで陥ってしまえば、もう立て直しは利かなくなっていた。そのままその場に片膝を付いたり、膝から崩れてその場に座り込む格好だ。
そして、その影響は徐々に影響範囲を拡大させていって、アルフやイブ、安達と土倉、そして遥佳へも及ぶ。
アルフは萌に対した状態で見る見る内に顔色を悪化させていくと、顔を顰める状態に陥ってそのまますとんと膝から崩れた。萌の腕を握る手にも急速に力が伴わなくなっていき、蹲るようにその場へと倒れ込むまでに多くの時間は掛からなかった。
イブも安達もアルフに続いてその場に直立していられなくなれば、正威という異変の中心から半径10m以内の範囲でその場に直立しているのは萌のみとなる。
萌は星の家の面々が軒並み無力化されたことを確認し、最後に倒れ込んで呻き声を上げるアルフを一瞥すると、同様に咳き込む遥佳へと足を進める。途中ポケットからするりと小瓶を取り出すと、その小瓶の中に入った茶緑色の錠剤を二粒その手に取る。そうして膝をついたまま自力では起き上がれない様子の遙佳に手を差し出す傍ら、錠剤を口にするよう要求する。
「はい、遥佳ちゃん。口を開けて。クソまずいけど、我慢して一分以上良く噛んでから飲み込んでね」
萌に言われるまま遥佳が口を開けて錠剤を噛み潰さんとするその横で、正威は額にびっしりと大粒の汗を浮かべていた。異変のコントロール、いや、維持に細心の注意を払っているのだろう。
木片だったものは完全に黒一色に染まっていた。
それを正威が掌から落下させると、床へ衝突するという間際になって粘土細工か何かのように拉げて原形を留めなくなる。正威の腕にはまるで絡み付くかのように木片だったものの黒い残滓がこびり付いていたが、だらんと腕を垂らすとそれも時間を掛けてゆっくりと床へと滴り落ちて行く。そこが一区切りだったのだろう。
正威は深く重い息を吐き出し、額にびっしりと浮かび上がった汗を拭う。
「大丈夫？ 前の時みたく倒れないでよ？」
遥佳を支えながら萌が口にした言葉には、前に正威がこの「切り札」を使用した後「どんな状態に陥ったのか」の顛末が続いた。そして、それは正威を気遣ったものというよりも発破をかけたに近い。
ここが踏ん張りどころというわけだ。
現に、切り札によってこの場に顔を揃える星の家のメンバーほぼ全ての動きを封じるところまで来たのだ。ここで倒れてしまっては本末転倒と言わざるを得ない。
正威はややふらつきながら、それでもしっかりとした言葉で萌に切り返す。
「かなり制御に力を持っていかれたけど、……大丈夫。まだ倒れるレベルじゃない」
そんな神河のやり取りを横に置いて、遥佳はゴホゴホと咳き込みながらどうにかこうにか萌に支えられて立ち上がることのできるレベルまで回復したようだ。すると、眼前に広がる惨状を目の当たりにし、その端正な顔付きを嫌悪で歪める。
「まだ身体を覆うような重さが抜けないし、酷い吐き気もする。一体全体、何をしたっていうの？」
「禁呪を使った。いや、呪いとはいったけど、そんなご大層な仕組みのものじゃないな。簡単に言うと、この場を好ましくないやり方で汚したんだ。この場を起点にして、まずは半径１００ｍ程度の範囲で土地が歪み、その場に居るすべてのものは中枢神経をやられるようになる。平衡感覚の喪失から始まって、全身の痙攣・麻痺へと至り、完全に身動きが取れなくなる。そして、この汚れた場所で人や動物なんかが命を落とすようなことになると、その死骸から養分を吸って花が咲き汚れは無尽蔵に拡大を始める。櫨馬地方に伝わる非常に危険で強力な呪いの一つだよ」
「神河は、こんなものまで使えるし、実際に使っちゃうんだね。そっか、だから、手を取り合いたいといった時に「何を持って神河なら大丈夫と判断したか」を問うたんだね。これは確かに一歩間違えると厄災を引き起こし兼ねない。あたし達は、禁呪を危険視し禁呪の使用を良しとしない勢力かも知れないもんね。恐れ入ったよ」
禁呪の威力を前にして、一人心得顔で頷く遥佳を尻目に、正威は取り敢えず口を挟まないでいた。
正直な話、あの時点では「そんなことまで考えて交渉していなかった」というのが本音だったからだ。
「抜かりのない神河なら大丈夫だと思うけど、一応聞いておくよ。この禁呪が泥峰に災禍をもたらすようなことはないんだよね？」
遙佳に安全性を問われ、正威はやや口籠もった後「万全ではないが……」という趣旨の回答をする。
「ああ、うん。……本当ならば、下準備を整えた上で使うべき代物だけど、そうも言っていられなかったある程度の危険を承知で禁呪を使わせて貰った形だよ。後片付けにちょっと手間暇が掛かるけど、そこは笘居さんに泥峰リゾートへの立入禁止を徹底して貰って、後日入念に清浄作業を時間を掛けてやるしかない」
万全ではないながら遙佳が復調したことで、場には既に勝敗が決したかのような雰囲気が醸造されつつあった。
禁呪の影響を免れたレーテとノクトールが残ってはいるものの、星の家がここから状況を好転させる手段はないように見える。まして、星の家には禁呪の影響下に置かれた仲間を救い出す有効な手段もないのだ。
そんな中、一人気を吐いて立ち上がろうとするものもいる。
禁呪の影響下にあって、今まさに蝕まれ万全の状態にない筈のないアルフである。
「畜生が！ でも、まだだ。まだ終わらせない！」
アルフは強い言葉で自身を奮い立たせると、その場で体勢を整えようと藻掻き始める。しかしながら、膝をついた状態から立ち上がろうとする度にふらふらと蹌踉めき、再び膝を付く状態に追い込まれるのが精々だった。
眉間に皺を寄せる鬼の形相で、一向に戦意を喪失する気配を見せないアルフに向け、正威はその心を折るべく追い打ちを掛ける。
「まだこの呪いは段階を踏んでずっとずっと強力なものになる。放っておいても長くその場に停滞し、緩やかに自己増殖もする。はっきり言うが、現状はまだ初期の初期だ。言いたいことは解るな？ 一言「降伏する」といってくれ」
アルフが置かれた状況を、まだまだ程度を甚だしいものへとすることができる。それは十二分に、アルフの心を折る追い打ち足り得る内容で間違いない。
問題は、命の危険に及ぶ困難に差し掛かると解っていてなお、アルフが脅しによって折れるようなタイプではないことだった。実際に、ダメージないし禁呪の影響が自身の命の危険にまで及ぶようにでもならなければ、アルフは諦めない性格なのだ。
そんなアルフが正威へと返す言葉なんてものは決まっていた。
「星の家を、舐めるなよ！ まだ、お前の術の影響下に居ない連中が、いるだろ？ 勝負はまだ決していないんだ。ここからでも、星の家はお前達「神河一門」に目に物見せてやることぐらいできるぜ！」
出遅れたことが幸いしてどうにか禁呪の影響下に置かれなかった件の二人へと、正威がその目を向ける。アルフが言うように、その二人に戦意があるのかどうかを確認するためだ。
件の二人、レーテとノクトールは苦虫を噛み潰したような表情をしていたが、強い敵愾心を遥佳や神河一門へと向けているわけでもなかった。少なくとも、既に大勢が決したことは理解していただろう。そして、ここから形勢逆転を狙うことが無理難題であること自体も「理解」しているように見える。
しかしながら、件の二人のスタンスなど「知ったことか」と言わないばかり、アルフの態度に噛み付くものも居る。
言うまでもない。そして、この場でそれをするのも他には居ないだろう。
神河が誇る不遜の代名詞「神河萌」その人である。
「良いね、良いよ、見上げた根性だ。らしいね、実にらしいよ。そうこなくっちゃね。まだ勝敗は決していないもんね！ まだまだこっちの足元を掬う手をいくつも隠し持っているんでしょう？ だったら、こっちも遠慮なく徹底的にやれる！ 徹底的にやらなきゃならない！ ねえ、正威？」
惜し気もなく好戦的な表情でアルフへと向き直る萌を前に、正威は浮かない顔付きを隠さなかった。そして、その目で「どう対応するか？」を問うのは、雇い主たる遥佳である。
対応を求められた遙佳が下した結論は、再度星の家にスタンスを問うというものだった。改めて、アルフが回答することを拒否した質問を「紅槻啓名」の名前を持ち出してまだ禁呪の影響下にはない二人へ問う。
「これ以上やるのは本意ではない。でも、ここに居ない紅槻啓名が今何をしているかを語ってくれないのなら、……やるしかないよ。答えて、紅槻啓名はどこで何をしているの？」
ノクトールが首を左右に振り、レーテはただ黙って遥佳を見返していた。
アルフとイブを含む星の家の構成員が神河の術中にある状況下で、知らぬ存ぜぬを押し通すつもりだろうか？
真意は窺い知れない。
必然的に、その目はアルフへと注がれる形となった。ノクトールも、レーテも然りだ。
では、この程度のことでアルフが音を上げるだろうか？
いいや、やもするとアルフは命の危険を痛感してさえも口を割らないかもしれない。過去の言動を垣間見るに、アルフとはそういう性格の人物だと見て取れる。
注目を集める中にあって、アルフは不敵に笑う。
「馬鹿が！ 言うわけがないだろう？ 俺達も、星の家も随分と甘く見られたものだな？ この程度で俺達が本当に口を割るとでも思うのか？ この程度の不利は容易く覆して見せる！ 言っただろう？ 目に物見せてやるってさ！」
結果は想定し得る中で、最悪のパターンとなった。「紅槻啓名の居場所を知っている」ことを匂わせながら、アルフが遥佳に対して毒づいたのだ。アルフはよろよろとふらつきながら立ち上がると、遥佳に対して戦闘態勢を取る。それが虚仮脅しであることは明らかだったが、そんなスタンスに打って出られた以上、遥佳も退くに引けない。
「なんで君はそんなに度し難いかな。勝ち目のない勝負に身を投じることなんて、何も褒められたことじゃないのにさ」
遥佳は悲しそうな表情でアルフをまじまじと睨み見た。
アルフからは敵愾心たっぷりの強く鋭い視線が返り、遥佳はそこで融和策を完全に諦めたようだ。正威に対して事務的な口調で禁呪の影響力拡大続行を指示する。
「正威君。気を失ったり、口が聞けなくなったりしない範囲で彼を徹底的に叩きのめしてあげて。アルフ君の望みがそうだというなら、もうやらない理由はない」
「解った」
正威の返事を受けて、まず動いたのが萌だ。鞄から赤い液体の入った小瓶を取り出し、それを正威へと向けって放ったのだ。
緩いカーブを描いて胸元目掛けて投げ込まれた小瓶を、正威はかなり鈍い反応ながらどうにか握り取る。禁呪のコントロールだけで目一杯なのだろう。正威は一目で解る程に苦しい顔付きだった。それでも小瓶を受け取った後は若干持ち直し、器用に片手で小瓶の封を破く。
そうして、中に入った赤い液体を拉げた木片の上へと注いでいくと、そこには赤黒い蔦がするすると木片だった物体から生じ始める。瞬く間に蔦が伸びて正威の膝下ぐらいの大きさになると、その場には真っ白い一輪の花が咲いた。
花が咲くまではまさに一瞬のできごとだったが、そこを境に場は一気に雰囲気を一変させていた。
まず鼻を付く香りが色濃くなった。それは錆びた鉄の匂いを混ぜた非常に生臭い香りだ。限りなく「血液」が発する臭いに似た香りとも言い換えられただろうか。それこそ、思わず顔を顰めてしまうような、心地の良くないものだ。誰も彼もがそれを最初に嗅いだ瞬間ではそう認識しただろう。
しかしながら、それに混ざって次に鼻を付く匂いがその第一印象を一気に覆す。
それに混ざる香りは眩暈を伴う程に、脳の深い部分から感覚を痺れさせる甘い匂いである。恐らくは大輪の白い花から生じているのだろうが、本能的に思わず顔を背けてしまう類の「危険信号」を伴うものなのだ。熟した果実のような豊潤さがまず印象的だが、嗅いだ先から鼻を通ってどきつい甘美さが痛みを伴うかのようだ。そして、感覚を容易に麻痺させもする。
禁呪対策の錠剤を服用した遥佳でさえ、思わず蹌踉めいたのだ。
錠剤を服用していないアルフが、その場に直立していられるわけがなかった。再び膝から崩れて落ちると、その場にストンと座り込んで呻き声を上げる。
「くそ、視界が歪んで……！ 体が言うことを利かない！」
「ああああ！ 痛い！ 痛い！ 頭が割れる！」
「……！！！」
イブが悲鳴に似た声を上げ、星の家の構成員もどうしようもない苦痛の緩和を求めて足掻くかの如く床を転がり回っていた。「叫ばない」という意志に対して、身体の制御が利かないのだろう。呻き声は次第に意味をなさないただの音の羅列と化す。
そんな地獄絵図が生じてなお、萌からはそれがまだまだ「初期段階」である趣旨の言葉が続く。
「まだまだ、こんなものじゃないよ。この呪いは花を散らしてからが本番なんだ。一つ潰すと触媒を介して大輪の花が二つ三つと咲き乱れるようになる！ 今は一つでこれだけど、二つ三つと増えていったらどうなると思う？ すぐに呂律も回らなくなって言語中枢も侵される。そうなったら助けを呼ぶことも、負けを認めることもできなくなる。何を喋るにしても、今の内にしておいた方が良いと思うけど？」
萌の言葉に対して真っ先に音を上げたのは安達だ。アルフへと強い口調で非難を向ければ、続ける言葉で降参するよう要求もする。
「やめろ！ おい、アルフ！ てめぇ、ふざけてんじゃねぞ！ もう勝ち目なんか万に一つもねえだろうが！ それか、埒を開く一手があるならさっさとやりやがれ！」
安達の非難がアルフに取っては発破になったようだ。禁呪の影響下にありながら、ふらふらとふらつきつつではあるものの、どうにかこうにか立ち上がって見せる。啖呵を切った手前、自分がどうにかして状況を打破せねばならないとでも思ったのかも知れない。
そんなアルフを眼前に置いて、萌は素直に感心したようだ。感嘆の言葉を口にする。
「おお、やるね。嗅覚とか平衡感覚とかとっくに侵されている筈なのに、その状態でまだやる気を見せるなんて見上げた根性だ。素晴らしいよ。格好いいよ。そうこなくっちゃね！」
アルフは萌の言葉に対して反射的に向き直るものの、行動して反応できたのはそこまでだった。無造作に接近する萌に対して、何ら反応を返すことができない。それこそ、身構えることも、距離を取ることも、奇声を上げて威嚇することさえも叶わない。
無抵抗のまま萌に襟首を掴まれ持ち上げらてしまえば、アルフは堪らず呻き声を上げるしかなかった形だ。
「ああ！ あぐッ！」
抵抗らしい抵抗もままならず、アルフは萌のなすがままとなる。アルフが置かれる状態は、既に直立していられないなんてレベルに留まっていないのだろう。
まして、この呪いは感覚が優れていれば優れているほど、強い毒のように体を蝕む。個人差こそあれ、安達や土倉が激しい頭痛を訴える状態ならば、アルフやイブはそこに輪を掛けた酷い状態異常に蝕まれている筈だ。やもすると、アルフは既に口を聞ける状態ではなかったかも知れない。
そんなアルフの扱いを前にして、レーテとノクトールは露骨に顔を顰めた。それこそ禁呪という要因がなければ、萌に対して今すぐにでも飛び掛かっていたかも知れない。
露骨に剥き出しとなった敵意を前に、萌はさらに挑発を続ける。アルフの襟首を掴んだまま掲げ挙げて、小首を傾げて暗い笑みを見せたのだ。
あからさまな形でレーテとノクトールに「お仲間を助けにこないの？」とメッセージを向けた格好だが、二人が挑発に乗って飛び込んでくる確率は皆無に等しかっただろう。禁呪の影響下に飛び込めば「どんな状態に置かれるのか？」を、アルフを始めたとした面々が眼前で今まさに体現してくれているのだからだ。
尤も、この期に及んで星の家の誰もがまだ衝突を続けると言うのであれば、萌はアルフという駒を使ってレーテとノクトールにさらなる挑発を向けるだろう。いや、向けざるを得ない。膠着状態を動かすには、そうせざるを得ない。
それを知ってか知らずか、レーテは遙佳に向けて状況の打開を試みる。即ち、アルフが一方的に進めた衝突状態を一歩後退させて融和に向けて改善させるための交渉だ。
「もう決着は付いたと思うけど？ アルフはもう誰の目にも戦える状態じゃないでしょう？」
しかしながら、遙佳から返る言葉は厳しい。
「申し訳ないけど、……駄目だ、あたし達の要求にまだ誰も答えていない。紅槻啓名はどこで何をしているの？」
「……解った。あたしも啓名がどこで何をしているかは知らないけれど、連絡を取ってあげるわ」
当初は融和策を模索していた筈の遙佳からも冷たく突き放されたことで、レーテも腹を括ったようだった。
レーテは神妙な顔付きをして上着のポケットからスマホを取り出すと、小首を傾げて見せて遙佳の指示を仰ぐ。それは即ち、迂闊なことをしてこれ以上状況を悪化させるつもりはないという強い意思表示だろう。
少なくともレーテにそう思わせるぐらいには、禁呪によるダメージは星の家に大きな傷跡を残したらしい。
そうして、今まさに遙佳がレーテに啓名と連絡を取るよう要求しようという間際になった時のことだ。レーテのスマホに着信が入る。
スマホの着信を受けて、レーテが見せた表情は困惑だった。すると、レーテはすかさずスマホの液晶画面を、まず遥佳達へと見せ付けるように掲げ上げる。
そこに表示された名前は「紅槻啓名」だった。
レーテは改めて小首を傾げてみせて、萌と遥佳を交互に見遣る。「着信に出ても良いか？」を態度で問うたものだが、すぐさま遥佳はスマホを自身に受け渡すよう要求した。
利き手を差し出すジェスチャーを取る遥佳に対し、レーテに躊躇いはない。小さな放物線を描かせて、携帯電話を放り投げる。
次の瞬間、萌がアルフをまるで生ごみでも捨てるかのように、無造作に、且つ乱暴に解放した。
当のアルフは既に呻き声を上げるだけの余力も残してはいないようだ。ドサッと音を立ててコンクリートの床に倒れ込み、体勢を立て直すこともない。ただただ必死に、荒い呼吸で胸部を上下させるだけだった。