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Seen14 策動する星の家(前) -泥峰の起脈石-


 時刻はちょうど16:30を回ろうかという頃合い。
 北霞咲の外れにあって、三方を山々に囲まれる私鉄・北霞咲山嶺山間鉄道の駅「泥峰」は既にバスの本数が一気に少なくなり始める時間帯でもある。客待ちのタクシーさえ停車していない小さなロータリーを、16:25分泥峰駅前着の市バスが出発してしまえば、次のバスの到着は18:00台と相成る具合だ。ちなみにその次は一気に20:00台まで進み、21:45分着が終バスとなる。
 遙佳はそんな泥峰駅前ロータリーのベンチに何をするでもなく腰を掛けていた。雑誌を手にしてはいたものの、その視線は誌面に向いてるでもなく、去りゆくバスを追うわけでもないのだ。すると、遙佳は手にした雑誌をパタンと閉じて、横に置いたスクールバックの上へと放り、全く唐突に誰に向けるでもなくにんまりと口元に笑みを灯してみせたのだった。
 神河が昨日の約束通りにここ泥峰駅前へと到着するためには、たった今出発した市バスでなければならなかったからだ。これでなければ、約束の時刻である16:30に泥峰駅前へと姿を見せる手段は、前もって泥峰入りしてここ泥峰駅前まで徒歩でやってくるしかない。私鉄・北霞咲山嶺山間鉄道の電車が次に到着するのは40分後であり、市バスの方は先程上述した通りである。
 遙佳はロータリーへと設置されたベンチからすっくと立ち上がると、徐ろに周囲をぐるっと見渡してみる。
 辺りに人影はほとんどない。
 観光客が訪れるというには時季外れであるし、地元の人達が退勤してくる時間帯でもないことが大きく影響しているのだろうが、まず何よりも泥峰地区自体が過疎化の進む地域であるというのが最大の理由だったろう。
 霞咲市の最北西端に位置し、ここから山間部をさらに北西へと突き進んでいけば櫨馬市と長塚町との境となるが、ここに住居を構えて櫨馬市や長束町(ながつかちょう)へと働きに出るというのは現実的ではない。等高線に沿ってうねうねと登っては下りを繰り返すような山道は舗装すらされていない区画が偏在しているし、ヘアピンカーブが連続するような区画もある上に、しょっちゅう土砂崩れが発生する土地柄だ。治水が悪くちょっとの長雨で川が氾濫し、道が寸断されることも日常茶飯事で櫨馬や長束町へと抜ける生活道路として利用するには余りにも難がある。
 ちょうど泥峰駅のある辺りまで下ってきた土地からが、山間部が開けて人の住める土地のパーセンテージが大きく増加する形になるのだが、そんな辺鄙な土地が拓けて大きく発展するわけもないわけだ。小さなロータリーのある泥峰駅前が泥峰で最も活気のある区画なのだが、古びた百貨店にレストラン、コンビニ・書店・病院・スーパーマーケットなんかが一区画に集められているだけで、地方都市の繁華街の体すら為していないのが実情だ。
「どうやら今回は、神河が遅刻する番みたいだね」
 遙佳がぼそりと呟くと、ロータリー脇に設置された大時計の針がちょうど16:30を刺し「ポーン」と甲高い音を一つ響かせる。
 しかしながら、約束の時間になったところで神河は遙佳の想像を超える手段で泥峰駅前へと姿を現す形となる。
 泥峰駅前に佇む遙佳の前に、一台の白色セダンが停車したのだ。それは所謂、社有車と呼ばれるタイプの車だった。そこそこの車格にそこそこのグレードで、派手さを感じさせないグレーといった下地の色合い、そこに「西深海(にしみかい)再開発事業団」の文字と組織体のロゴマークをペイントした如何にもといった類の業務用車である。
 車の助手席側が遙佳の眼前へと来るように、わざわざぐるっと方向転換をしてから自身の前へと横付けされたセダンを遙佳は訝るような目で眺めていた。しかしながら、後部座席のパワーウインドウが下がっていって、そこに神河の二人の顔を確認できるようになるとその表情は驚きと呆れが混ざったものへと切り替わった格好だった。
 面食らった遙佳の様子を気にした風もなく、萌はさもそれが当然のことであるかの如く口を開く。
「お待たせ。乗って」
「申し訳ないけど、タクシーみたいな自動開閉ドアじゃないんで、自分でドアを開けて乗り込んで貰うように言って貰っても構わないかな?」
 ドア開閉の件を萌に要請したその声は、遙佳に取って全く聞き覚えのない声だった。
 神河がこの為に用意した運転手なのだろう。しかも、社有車なんてものを用いていることから推測するに、その運転手は西深海再開発事業団の構成員だと推測される。
 遙佳が後部座席を覗き込むと萌の横には正威が座っている。
 即ち、遙佳には助手席が割り当てられているようだ。
 遙佳が助手席のドアを開けようと手を伸ばした辺りで、萌からは運転手の要請に対する反論が返る。
「そこは運転手が降りて行って客人の為にドアを開けるってことをするものなんじゃないの? 依頼主であるお客様の手を煩わせるなんて社会人としてどうなの?」
「君ら神河に対する依頼主だろう? 本来それをするのは君らの役目じゃないのかい? そもそも、俺は職業運転手じゃない。あくまで西深海再開発事業団で働く一社会人に過ぎないんだぞ!」
 相手も負けじと萌を攻め立てるが、落としどころは見えてこない。そのまま不毛な言い争いを黙って聞いていても仕方がないと思ったのだろう。遙佳はセダンの助手席側のドアに手を掛ける。
「いいよいいよ、あたしが自分でこのドアを開けて車に乗り込めばそれで解決するんでしょう? そんなことで揉めないで貰えるかな? ……と、その前に、出来れば荷物のスクールバックをトランクに乗せたいんですけど」
 遙佳が手に持つスクールバックを持ち上げてその存在を主張すると、運転手の男はすぐにトランクの開閉スイッチを操作した。
 遙佳はセダンの後方に回ってスクールバックをトランクに仕舞ってから、助手席側のドアを開けてセダンへと乗り込んだ。その気になれば後部座席にもう一人なんて真似もできたのだが、わざわざ助手席を空けて用意されている以上、そこを「避ける」という理由もなかったようだ。
 バフッと重厚な音を立てて助手席側のドアが閉まったところで、運転手の男は遙佳に対して軽く会釈をした。
 男はやや痩せ形の体型で、上下共に紺のスーツを着こなす如何にもサラリーマンでござると言った風貌をしていた。そうして、白地のワイシャツにやや緩めにネクタイを締める辺りの印象もそうなのだが、……こう言ってはあれなのだが、全体的に草臥れた感をまとっていて、所謂「できる男」といった第一印象とは程遠いタイプだと感じられた。特徴の薄い平凡な顔付きに、短く刈り揃えて判子を押したような髪型もそうだ。清潔感といったところは確保しているものの、強く相手の印象に残るインパクトには欠けるというのが遙佳の第一印象だっただろう。
 遙佳も運転手に対して軽く会釈を返すが、何よりも言葉を向けたい相手は後部座席の二人だったようだ。
「正直な感想を言っても良いかな? まず何よりも、呆れた。久和一門は西海深再開発事業団を足に使えるんだね?」
「まさか。西深海再開発事業団の中に、久和の息が掛かった人間が複数人紛れ込んでいるってだけだよ。再開発に掛けられる代物には結構曰く付きのものもあってね。だったら最初から久和やその手の組織体とパイプを持っておきたいという考えのお偉いさんが企業に居たりするんだ。そういう人達の伝手で、まあ、言葉は悪いけど、口利きで西海深再開発事業団にも久和の息の掛かった人間が採用されていたりするっていうわけだよ」
 遙佳から向いた呆れと嫌みが混ぜ込まれた質問に、正威はからからと笑いながら答えた。
 正威の言い分では遙佳の認識に対して「そんなことはない」という話し方になっていたが、少し考えればその伝手こそが西深海再開発事業団に対して融通を利かせることのできる根幹要因となっていることは明白である。
 どちらが積極的に働き掛けて成り立っているものなのか。その力関係までは推し量れないながら、双方ともに少なからずその「融通を利かせられる」という点を期待していることは間違いない。
「それがイコール西海深再開発事業団を足に使えるってことじゃないの?」
「一応、形としては向こうの要望で人を派遣している体を取っているんだからwin−winの関係じゃない? それと今回、西海深再開発事業団を動かせたのは、あの平野守美術館(仮称)跡という物件がまさに西海深再開発事業団の管轄だったからだし、それこそ普段から足にできるというわけじゃないからね?」
 萌の言い分を聞き、遙佳は雑誌にあった平野守美術館(仮称)跡の説明文を思い出したようだ。
 確かに平野守美術館(仮称)跡のごだごだに西海深再開発事業団は関わっている。
「何にせよ、西海深再開発事業団の構成員が同行するというのは、あらゆる点でアドバンテージになるでしょう?」
 萌が得意顔で述べたように、それは大きなプラス要因で間違いなかった。内部へと侵入する上でも鍵を破壊したり、塀を乗り越えたり、場合によっては窓ガラスを破壊して……なんて真似をしなくて済むわけだ。何より、不法侵入という否定しようのない犯罪行為を犯さず、正攻法でアクセスできるのだ。これは非常に大きい。
 星の家が同じように西海深再開発事業団の許諾の元でことを進めているとは考え難いという点でも、やりようによっては正体を明かすことなく彼らを場から排除するなんて手も取り得るかも知れない。平野守美術館の正規管理者が介入してきた場合、さすがに星の家も作業を中断せざるを得ないだろう。もちろん、星の家が「西海深再開発事業団を排除してでも……」という強硬策を取り得る可能性も多分にあるわけだが。
 ともあれ、久和と西海深再開発事業団との関係性について触れた萌の言葉に、運転手が苦言を呈する。
「win−win、ねぇ。まぁ、久和から送り込んでいる人員が、他に引き取り手がないような人材じゃなければ胸張ってそうも言えるんだろうけど。ぶっちゃけた話、久和一門の中では活躍の場を見出せないような人員を、体良く捌いているのが大半だろう? パイプ役と言ったって、特段何ができるわけでもないんだ。稀に、受け皿先が受け持つ本来の業務で才能を発揮しちゃう人もいるには居るけど……」
 運転手がいったその言葉を苦言というには語弊があっただろうか。どちらかというとそれは言っても詮無いただの愚痴に近い。
「そういう笘居(とまい)さんはどうなんですか?」
 話のついでと言わないばかり、そのどちらに属するのかを正威が問う。
 すると笘居と呼ばれた運転手の男は、酷く疲労の残る顔で遠くを見ながら答える。
「俺? 俺はねぇ、……頑張っている方だと思うよ。西海深再開発事業団の業務をひぃひぃ良いながら、それでも足手まといにならない程度には回している。入社直後は色々やらかしもしたけど、今は一人で複数の案件を任せられるぐらいにはなったしね」
 久和一門の中では活躍の場を見出せないといったところに触れず否定しないあたり、笘居は自身のオカルト的な能力に自信を持ってはいないようだ。そういう意味では、西海深再開発事業団にパイプ役として配置されたことを笘居は「良かった」と思っているのかも知れない。そして、遠慮がちではありながら自身は少なくとも「後者である」と胸を張った形だ。
 正威と笘居のやり取りが一段落ついたのを確認すると、助手席の遙佳はぺこりと会釈し自己紹介をする。
「久瀬遙佳です、今日は宜しくお願いします」
「初めまして、西深海再開発事業団、内装敷設管理部所属の苫居です。宜しくね、久瀬さん。さてと、じゃあ、無駄話はこれぐらいにして、早速目的地に向けて出発するとしようか」
「お願いします」


 ゆっくりと走り出したセダンは私鉄・北霞咲山嶺山間鉄道泥峰駅前を出発すると短い市街地を抜けすぐに山間部の未舗装路へと差し掛かる。交通量自体は疎らであり行き交う車両はほとんどないものの、場面場面で見ると車二台が行き交うのにぎりぎりの道幅しかないポイントが多いだけでなく、そもそも二台が行き交えない場面もあったりする酷道だ。
 泥峰駅前から渓谷へと向かう道路は新道なんかが整備されたらしいのだが、その一方で泥峰ゴルフリゾート方面へと向かう道なんかはこれから大規模整備を行おうかという矢先に企画が頓挫した為、手付かずのまま後回しにされたらしい。さらにいうなら、後回しにされてしまえば、より優先度の高い工事も次から次へと入ってくる。例えば、土砂崩れで崩落した生活道路の復旧作業だったり、増水で泥塗れになった道路の清掃だったり……だ。
 笘居が車を走らせるにつれ、カーナビゲーションには通行止め表示がいくつも表示されるようになる。カーナビゲーションが「実際の交通規制に従って走行してください」と注意喚起するように、道の補修工事による規制によって車は最短ルートを大きく外れる迂回路を走らせられることになる。土砂崩れ・車道崩落のため通行止めという看板が視界に入るたびに、ここが地盤の強固な場所ではないことを否応なくも理解させられる。
 そうして、紆余曲折しつつ予定よりも時間を浪費しながら泥峰ゴルフリゾートを目指す最中、セダンはトンネル前に設置された信号によって停車する。車二台が行き違えないトンネルである為、片側交互通行を実施しているようだ。
 赤信号の真下には電光掲示板が設置されており、そこにはカウントダウンする数字が表示されている。数字はまだ180を割ったばかりで、そのまま三分近くはその場に停車させられるのだろう。笘居はぐぐっとシートに凭れ掛かると、後部座席の二人に向かって徐に苦言を呈し始める。
「昨日の今日で「泥峰までの運転手をやれ」と通達が来て、正直どうしようかと思ったよ。おいおい、こっちの仕事の都合も考えてくれよ……ってね。そうしたら、西海深再開発事業団サイドの僕の上司からは神河の意向に沿うよう指示が飛ぶときたもんだ。でもね、今、西海深再開発事業団に属するものの一人として僕が抱えている仕事の納期は変わらないだよ? この件が一段落ついたら、僕は本日片す予定だった通常業務を無理を推してこなさなきゃならない。それもこれも全部、突発という形で仕事を発生させるからだ。もう少し、根回しってものを神河は学ぶべきだね」
「ちょっと何を言っているのか解らないかな。これが笘居さん達が本来担うべき仕事でしょう? どっぷり西海深再開発事業団の組織に染まって、こちら側を疎かにしてどうするわけ?」
 萌に「それを求まられている人材でしょう?」と返す刀でばっさりと切り捨てられて、笘居はガクッと項垂れた。
「くッ、これだから神河とか辻飼(つじかい)とか祭妙(さいみょう)とか、地力があって声の大きい門家連中は嫌なんだ。一応言っておくけど、これは主の業務じゃない。あくまで主となるところは西海深再開発事業団が行う業務の中で久和一門が関わるべき案件が出てきた時に、その橋渡しをすることだ。今回みたいな「西海深再開発事業団が管理する物件で確認したいことがあるから動いてくれ」なんてのは、もっと早い段階から話を通して貰わないと困るんだよ。正式な手順を無視して捻じ込んでくるあたりは、……捻じ込んでしまえるあたりは本家筋の連中よりも君らはずっと質が悪い」
 神河以外の名前を挙げて「君ら」と括ったところを見ると、そうして無理を通してくる門家は一つ二つではないようだ。その都度、きっと笘居は苦労しているのだろうけれど、その言い分に対する萌の対応は非常に冷たい。先程、述べた通りそれこそが「笘居に求められているもの」だという認識なのだろう。
 そうすると、萌の笘居に対する受け答えなんてものも自然とその認識に沿ったものとなる。
「それは苦情? それともたどの不平不満や悪口を言っているだけ、かな? 何にせよ、ばっちり聞こえているけど?」
 冷たくあしらうかのような萌の言葉を前に、笘居は不平不満をこれでもかって程に詰め込みましたといわんばかりに吐き捨てる。
「聞こえるように言ってんだよ」
 尤も、それで萌がどうこう思い悩むようなタイプではないこともしっかり理解できているようだ。吐き捨てた筈の言葉の節々には強い諦観が混ざっており、それが駄目元での主張であることを物語っていた。
「そんなに正式な手順が好きなら、苦情はその正式な手順を踏んでやってみればいいんじゃない?」
 相変わらずの萌の突き放す対応に、笘居は苦笑を返すのがやっとだった。
「それ、全部解っていて言ってるんだろ? どうせ、苦情を挙げてみたところで、必要性がどうたらこうたら言われて押し負けるのが関の山さ。……まあ、だからといって、いざこうして面と向かってああだこうだいってみたところで、君らが堪えるたまじゃないことも身を以て解っているけどな」
 まだ何かを言い残した風の笘居だったが、赤信号下のカウントダウンが20を切ったところで姿勢を正さざるを得なくなる。いくら後続車がいないとは言え、青信号になっても発車せずに信号前に留まり続けるというわけにも行かない。
「さて、このトンネルを越えてすぐの上り坂の道を進んでいくと、目的地である泥峰ゴルフリゾートへ続く道に合流する。後10分も掛からないぐらいで到着するだろうが、ここからが一番の山場だ」
 信号が青に切り替わると同時に、笘居はセダンをゆっくりと発車させ、あまり速度を出さない。トンネル内部が非常に薄暗いためだろう。内部の照明は非常に長い間隔を開けてしか点灯しておらず、且つ歩行帯を示す白線もないのだ。道幅にしても車一台+α程度しかなく、際は剥き出しのゴツゴツとした岩盤であり、万が一歩行者なんかがいた場合、行き違いには最新の注意を払う必要があるような道だった。
 また、笘居はトンネルを抜けてすぐ上り坂があるかのような言い方をしたが、実際にはトンネルの途中から既に上り坂に突入した。そうして、トンネルを抜けか抜けないかのさころで笘居はウインカーを出し、本当にトンネルを抜けた直後の脇道へと進路を取る。
 笘居の言った「トンネルを抜けてすぐの上り坂」とは、泥峰ゴルフリゾートへアクセスするための正規のルートではないようだった。迂回路から強引に泥峰ゴルフリゾートへと続く正規ルートへ合流するためのもののようで、未舗装路どころかゴツゴツとした岩がところどころ剥き出しになっている凹凸のある道だった。車幅は精々車一台が通過できる程度しかなく、距離こそ短いながらそれこそ生い茂った森の中を突っ切る形だ。とはいえ、道が道だけにスピードを出すことはできず、実際にその短い上り坂をゴトゴトと上下に大きく揺れながら進んだ時間は相当長く感じられた。
 そうして、ようやく道幅のある舗装路まで出たかと思えば、そこからがさらに酷い。そこには折れた大木の枝や枯れ木といったものが散乱していた。生い茂る森林の中を突っ切るという周囲の状況は多少改善されたとは言え、まだまだ山間部の森の中を走行するという状況も変わらずである。
 誰も手入れする人が居ないからこうなっているのだろう。そして、それは泥峰ゴルフリゾートを訪れる自動車がないから故の状況だろう。
 セダンが乗り越えられなさそうな障害物を笘居が慎重にハンドルを切って進む形となる。
「話には聞いていたけど、思っていた寄りかは随分マシな感じだな。今の担当者が老朽化具合の確認のために訪れた時には、倒木で通行できなかったって話を聞いていたからね。業者の手配から始まって倒木の撤去で丸一日潰れたそうだ。それが今から半年前の話だね」
 そんな手入れのされていない道をゆっくり進んでいくと、すぐに「泥峰ゴルフリゾート」を示す錆びた看板が目に付くようになる。そうかと思えば、赤と茶色からなるレンガ造りの塀が森林の中から顔を覗かせて道路に沿って出現する。
 笘居が口にするまでもなく、それが泥峰ゴルフリゾートの敷地との境であることは一目瞭然だった。
 蔦が縦横無尽に這っていたり、最上段が欠けていて一定の高さを維持できていなかったりするものの、まだレンガ造りの塀は境として役割を立派に果たしているようだった。少なくとも、誰も彼もが内部へと容易く侵入できるような規模の破損や陥没は見受けられない。
 そうして、その塀に沿って車を走らせていくと、やがて森の中を走行するという周囲の景色も変化する。開けて完全に青空を見通せるようになれば、進行方向に鉄格子で封鎖された門が見えてくるまでさしたる時間は掛からなかった。眼前に出現した鉄格子で封鎖された門は、道路を完全に横切っていて門を解放できなければここで踵を返して来た道を戻るしかなくなる形だ。
 鉄格子は車輪が付いていて横にスライドする簡素なタイプのものだが、中の様子を窺うことができないタイプのものだった。一方で、車の進入を禁止することを第一として設けられたもののようで、背丈はなくその気になればよじ登って突破することも可能だろう。
 笘居は車を減速させて門から一メートル程度の位置で停車すると、ギアをニュートラルにしてパーキングブレーキのスイッチを押しエンジンを掛けた状態のまま下車する。
「正門を開放してくるから、ちょっと待っていてくれ」
 笘居はセダンのトランクを開けると、中からボストンバックを取り出す。ボストンバックのサイドポケットには無数の鍵が束になって接続されたキーホルダーが入っていて、その中に正門の鍵が混ざっているようだ。
 鍵の一つ一つに張られたシールを確認していくと、すぐに目当てのものは見つかった様子で、笘居は鉄格子に嵌められた南京錠を一つ一つ外していった。いくつか解錠に手間取った南京錠もあったものの、それは「鍵が見付けられなかった」とかではなく、可動部が錆付き正常に稼働しなくなったからだったのだろう。
 ともあれ、笘居は外した南京錠を門の脇の茂みへと放り封鎖された門を開放する。あちこち錆付いた門の方も一筋縄ではいかず、何度も途中でスライド部が正常に稼働しなくなりながらも、悲鳴にも似た甲高い金属擦れ音を上げつつ門を開放した形だ。
 すると、それまでの道中に負けず劣らずのあちこち凸凹が生じた手入れの為されていない道路が姿を現した。
 門を開放し終えて運転席へと戻ってきた苫居は、開口一番にこう告げる。
「誰かがこの正門から敷地内へと侵入した形跡はないね。少なくとも、この正門が過去数週間単位で解放された形跡はないね」
 それは神河の二人や遙佳も同様の思いを抱いたところだった。この門から人力で起脈石を内部へと運搬したという可能性についても、限りなく低いといえるだろう。いくらよじ登って突破できそうな背丈だとはいえ、それがそこそこ巨大な岩石を携えてとなればそう簡単にはいかない。何より、これまでの道中に自動車や人の行き来があった痕跡がないのだ。
 萌が笘居に尋ねる。
「美術館に車両でアクセス可能な経路は、ここ以外にも存在するの?」
「ここ以外には、五か所かな。業者が資材や備品などを運搬する為の専用の門が三カ所。後はホテル建設予定地だったところに設けられた東門、第三〜第四駐車場から敷地内に至る北門がある」
 笘居の説明を聞かされても萌の表情は要領を得ていない風だ。その位置関係が全く把握できていないからだろう。ホテル建設予定地と言われたところで、この門が泥峰ゴルフリゾートの敷地でいう東西南北のどの場所に当たるかすら把握できていないわけだ。
 萌は笘居に向ける質問の内容を変える。
「その中で、一番敷地内への侵入が容易な経路はどこ?」
 しかしながら、具体的な侵入経路の推測を求めた萌の要求に笘居は答えられない。
「悪いけど泥峰ゴルフリゾートの直接の担当ではないんでね。そんな詳細についてまでは把握していないな。そもそも、侵入が「容易」という部分の基準についても、僕には皆目見当もつかないよ。何を持って侵入を容易というんだ? 基本的にはどこの門も施錠がされていて、車両によって自由にアクセスができるようにはなっていない。泥峰ゴルフリゾートの敷地内へ車で侵入する為には鍵や門を物理的に破壊する必要がある」
 萌はそこで一度押し黙った後、再度質問の内容を変える。
 どこの門から侵入するのも差して難易度が変わらないというのならば、星の家はどうするだろうか?
 きっと彼らは平野守美術館(仮称)跡から最も近い位置にある門を利用するだろう。
 周囲を含めてここまで人気の無い場所であるのならば、多少の無茶をしたところで侵入がばれることもないはずだ。
「泥峰ゴルフリゾートの敷地内に侵入しているだろう星の家って連中は、平野守美術館に用があるの。星の家はそこへ最低でも高さ2m強・幅1mぐらいの岩石を運び込もうとしている、もしくはもう運搬済みかも知れない。そう考えた時に、最も車でのアクセスや平野守美術館への岩石の運搬が楽な門はどこ?」
「……」
 提示された条件を前に笘居は黙り込んだ。そうして、運転席側の小物入れから丁寧に折り畳まれた一枚の紙を取り出すと、狭いインパネ内で広げて見せる。紙はA1サイズはあろうかという大きなもので、泥峰ゴルフリゾート全体の見取図を印刷したものだった。広げ切ると前方の視界を全て遮る大きさとなる為、笘居は必要な範囲だけを表示できるよう見取図を丁寧に折り畳んでいく。
「今の話を聞く限り、星の家は、……この見取図には記載がないんだけれど、平野守美術館に直接アクセス可能な資材運搬用の門である通称「○資第二(まるしだいに)」か「○資第三(まるしだいさん)」と呼ばれる門から内部に侵入していると思う。というか、俺が指揮する立場ならそうする。後は、もし資材運搬用の門のことを知らなければ東門からという可能性もあるかな」
 笘居が見取図上で指していった門はどれもセダンの現在位置から西側のやや離れた場所に位置していた。そうは言っても、アクセスするのにそんな時間が掛かる距離ではないように見える。そこに至る道路状況がこれまでとそう変わらないと予想すると、小一時間もあればそれらの門全てにアクセス可能だろう。
「どうする、遙佳ちゃん? 今挙げた門を回ってみる?」
 萌の質問に、遙佳はすぐさま首を横に振った。
「星の家の目的は解っているし、起脈の設置場所として狙っているのも平野守美術館で間違いない。無駄に動き回って偶発的な接触を起こすぐらいなら、まずは平野守美術館を押さえてしまおう」
 遙佳からそう行動指針が示されると、笘居は見取図をA4サイズへと畳んでダッシュボードへと放る。
「なら、このまま、正門を進んで第一駐車場へと向かってしまって構わないね?」
「お願いします」
 遙佳が力強く頷くと、笘居はセダンをゆっくりと発進させる。


 正門から泥峰ゴルフリゾート第一駐車場へと続く道は緩やかな登り道だった。正門前までの道よりも破損具合が酷く各所に回避不能な凸凹があり、セダンは時折大きく揺れながら進んだのだが運良くスタックすることなく第一駐車場まで移動することが出来た形だった。もし再訪問があるのならば、車はセダンタイプのものではない方が良いかもしれない。SUV、それも車高があって悪路走行性能が確保されたタイプが無難なのだろう。
 ようやく辿り着いた泥峰ゴルフリゾート第一駐車場には、駐車された自動車はなかった。いや、その表現は適切ではない。正確に言うと、年単位でその場所に放置され、既に始動できないレベルに破損した自動車が二台ひっそりと存在はしていた形だからだ。
 がらんとした広大な駐車場には、アスファルトのあちらこちらに大小様々な罅割れが生じており、しかもその罅割れからは生命逞しく雑草が生い茂る。場所によっては青々と茂っていて、自動車の走行に支障を来すレベルだ。ざっと見渡すだけでも、泥峰ゴルフリゾートの敷地内に置いても全く手入れが為されていない様子が浮き彫りとなった格好だった。
 何よりも問題なのは、正門から第一駐車場へと続く登り道にも点在した陥没が、この駐車場内にも広く分布していることだ。雑草によって視界が遮られ、陥没の発見が遅れた場合など、自動車の種類によっては段差によって簡単にスタックし兼ねない。パッと見はまだまだ小奇麗な雰囲気を残しつつ、ここ泥峰ゴルフリゾートは確実に崩壊していく最中にある。
 笘居はそんな第一駐車場の、さらに広葉樹が等間隔に立ち並ぶ日陰のエリアへとセダンを停車させた。ちょうど助手席側から、目的の建造物を遠目に伺える位置らしく、笘居は窓の外を指さす。
「あそこにチョコンと見える褐色の建物が件の平野守美術館だ。ここから直線距離にして700mぐらいはあるかな。プロジェクトが凍結されてから数年経っているからもっと外壁の色が剥げたりしているかとも思ったけど、こうして遠目に見るとまだまだ綺麗な外観を保っているように見えるね」
 各々が車内から平野守美術館の外観や周囲の状況をざっくり把握したのを確認すると、正威が徐にブリーフィングを始める。
「それでは、笘居さん、あの平野守美術館について頼んでおいた資料の展開と説明をお願いできますか?」
 正威からの要望を受けて、笘居は平野守美術館について西深海再開発事業団が持つ情報の共有を始める。すんなりと用意を始める当たり、それは事前に打合わされた通りなのだろう。即ち、基本的にそれらの情報共有は遙佳の為に行われるものだというわけだ。
「OK、では平野守美術館が置かれている現状について簡単に説明しようか」
 そういうが早いか、笘居は小物入れからクリアファイルを取り出すと、その中からクリップ止めされたA4サイズの資料を取り出す。
「まずはこれを渡しておくよ。正威君に頼まれていた内部見取図のコピーだ」
 笘居が差し出す資料は二部。
 それを受け取った正威は、資料の内の一部を遙佳へ渡し、その中身に目を落とした。
 正威が手に持つ資料を萌が横から覗き込むのを確認すると、笘居は平野守美術館の概要について説明を始める。
「ざっと見て貰って解る通り、平野守美術館は二階建ての構造で一階部には非常口も含め外部と出入可能な入り口が六つある。内四つは四隅にあって、二階部の非常口と階段で繋がっている。入り口の後二つは、正面口と裏口で、これで計六つ。一階部には一般展示用に開放されることが前提となる部屋が六つ、二階部には五つある。備品倉庫やスタッフの待機部屋やスタッフオンリーの移動用通路なんかもある。中は無駄に広いけど放置された展示物なんかもなく基本的にはがらんとしている筈だ」
 平野守美術館内部の状況を笘居はがらんとしている筈といったが、実際はどうだろう?
 星の家が目を付けたここ数日間の内に様々なものが持ち込まれている可能性もあるが、正威はその線を「薄いだろう」と考えていた。星の家がこの平野守美術館に前々から目を付けていたとは思えなかったからだ。恐らく、神河や遙佳の件があって始めて、星の家は起脈石を当初の予定の場所からここ平野守美術館へと変更したと考えられる。
 そうやって、平野守美術館の内部の状況についての思索をし始め兼ねたところで、正威はその意識を笘居の説明へと向け直した。あくまでこのブリーフィングは遙佳の為のものであったのだが、正威がその内容の全てを把握しているというわけでもないらしい。
 笘居の説明は、平野守美術館に設置された設備へと移っていた。
「施設内部への監視カメラ設置は終わっているけど、現状全て稼働はしていない。そもそも今は電気が来ていない。これは電線を引いていないという意味ではなくて、電力会社と契約ができていないという意味だ。施設内部の配線自体は終わっているけど、誤って電気料金が発生したりしないよう管制室で全施設の電源を一括でオフにしている筈だ。つまり、日が落ちるとここは完全な暗闇に包まれるわけだ。気を付けてくれ」
 照明を含めた近代的な設備は全て動作しないことを笘居は伝えたかったのだろうだったが、萌はそれを別の形で受け取ったようだった。笘居に対して、こう質問を向ける。
「今の話、平野守美術館内部の照明を付けようと思えば、付けられるってこと?」
「やろうと思えば、できるかな。正式な契約がなくても、送電線も繋がっていて内部の配線自体も一応は終わっているからね。LEDが生きているかとか、そもそも電球が設置されているかとかの問題はあるけど、そこがクリアできれば照明を動作させること自体に支障はない筈だ。もちろん、後から電力会社にああだこうだとは言われる形になるから、それをやると必ず星の家の侵入はばれるけどね」
 萌は笘居の回答に納得していない風だった。
 それこそ、西海深再開発事業団を騙って事前に電気を利用する旨連絡することだってできるだろうし、料金の支払い方を予めイレギュラーなやり方に調整することだってできるはずだ。「修理・点検作業の為、業務を任された委託業者です」とか何とか宣ったって良い。
 そういう前提で置かれた現状を鑑みると、留意するべき項目が浮き彫りになってくる。
「管制室を掌握し電源をどうにか確保すれば、監視カメラによる侵入者のチェックは可能?」
 萌の問いに笘居はやや考えを巡らせる仕草を見せた後で、その首を横に振る。
「難しいと思う。まず管制室は、最終的にはその手のシステムを一括でコントロールできるようにする予定だったんだけれど、設備の導入以前にプロジェクトが凍結されたため機材の設置がされていない。「電源を一括で管理している」とは言ったけど、その実は配電盤が集約されているだけだ。もしそれらの問題を解決できても、監視カメラの映像を出力するためには西海深再開発事業団の倉庫に眠る機材そのものか、互換性を持つ機材が必要だ。映像出力を可能にするパスコードなんか、僕らでさえも当時の資料を入念に読み解いてサルベージしないと解らないような状態だ」
 笘居の話を聞く限りでは、プロジェクト凍結前までに導入された既存の設備を悪用される心配はなさそうだという認識で良いのだろう。もちろん、星の家が後からその手の機械を持ち込む可能性も考えられたが、その懸念は遙佳がばっさり否定する。
「なら、機械的な監視網や罠の設置はないと判断していいと思う。それに、星の家に取って起脈石は「破壊されたくないもの」ではあるけれど、決して「破壊されてはならないもの」じゃないの。無数にある起脈石を一つ増やす為に、そこまで手の込んだことはしないと思う。例え、ここが櫨馬ではなく霞咲だという特殊性を考慮しても、ね。まして設置後、ここに腰を据えて起脈石を防衛するわけでもない筈だしね」
 遙佳の見解を聞き、萌が念を押す。
「注意を払うべきものは、気配を探れる連中の存在だけと考えて置けば言いわけね?」
「十中八九は」
 100%ないとは当然言えないながら「それでいい」と断言しないあたりは遙佳らしいと言えた。
 しかしながら、萌が求めたものはその確答であり、それを考慮するかしないかの二択なのだ。萌の性格からしてそんな宙ぶらりんのまま、先送りを許容するわけもない。
 とどのつまり「Yes」or「No」の確答を、より具体的な質問で萌が迫る。
「だったら、監視カメラの設置ポイントについては割愛するよ?」
 萌のさらなる念押しに、遙佳はやや未練を残しつつも力強く頷いた。
「それで、……いいと思う」
「OK、そこを省くなら後はぶっつけ本番だ」
 遙佳の決断を持って、後は突入するだけと相成る。「平野守美術館内部に設置されただろう起脈石を叩き破壊する」というミッションをコンプリートするべく、行動を開始するだけだ。
 もちろん、いくら雇い主という立場にあるからといって遙佳の意向で全てを決定するほど、正威も萌も甘くはない。遙佳の決定に異論・反論があれば黙ってはいなかった筈で、その判断はほぼ総意といっていいだろう。
 後は動き出すだけとなったところで苫居は正威へと複数個の鍵が付いたキーホルダーを手渡すと、自身が後何をすべきかをの確認を向ける。
「年に数回は建物に倒壊の恐れがないか等をチェックはしているらしいけど、正直本腰入れてやっているとは思い難い。外観チェックで亀裂の有無を確認しているぐらいが精々じゃないかな。なんで、十分に気を付けて欲しい。さてと、これでこの件に置いて俺が為すべきことは、まずは全て終わったと思うけど、この後、俺はどうすればいい?」
 西海深再開発事業団に属する橋渡し役しての領分は、まずはそこまでだと笘居は区切った形だった。もちろん、久和一門の息が掛かるものとしてさらなる行動をお願いすれば、笘居はそれに答えるだろう。
 そんな笘居の問い掛けに対する正威の回答は、橋渡し役としての領分を踏み越えさせないものだった。
「近場で待機して貰っていていいですか? 笘居さんは正規の西海深再開発事業団の職員であるわけだから、もし星の家が何か勘付いても危険が及ぶことはないと思いますが、可能な限り接触しないようにして下さい。身の危険を感じたら退避して貰って結構です。但し、後連絡でもいいので、必ず一声かけてください」
「解った。まあ、事務所に帰ってから片さなきゃならないものが堆く積み上がっているからね。少しでもそれらを削減する為、車内で仕事でもして気長に待ってるさ」


 笘居を第一駐車場のセダンに残し、遙佳と神河の二人は平野守美術館へと移動を始める。
 先行をするのは遙佳だった。曰く「人の気配を探るのは得意」ということで、萌や正威が先行するよりも敵の存在に気付ける筈という話だった。
 手にメイスを握り、スクールバッグを背負うという格好で、遙佳は軽快に第一駐車場の区画内を進んでいく。
 トランクにスクールバッグを残してこなかったところを見るに、中には平野守美術館襲撃に役立つ何かがてんこ盛りなのだろう。いいや、既にスターリーイン新濃園寺などで遙佳が武器として振るったメイスは、スクールバッグの中から取り出していて携帯するという状況にあるのだ。にも関わらず、そうして遙佳がスクールバッグを背負って来たのだから「そうではない」という方が不自然だろう。
 遙佳は後に続く神河を気に掛けながらすいすいと進んでいたのだが、敷地の外れに建てられたところどころ錆びて色褪せた看板の前で一度足を止めた。ちょうど第一駐車場と平野守美術館との間に広がる荒れ果て縦横無尽に草木の生い茂る森林区画との境にあって、今にも襲い来る樹木に飲み込まれてしまわんばかりの看板だ。
 色褪せて読めない部分も存在していたが、よくよく内容を読み解いていくとそれが泥峰ゴルフリゾートの案内版であったことが解る。
「なるほど、どうして真っ直ぐ平野守美術館へアクセスができないのかと思ったら、……本当はこの荒れ果てた森林の中にに道があったわけか」
 パッと見、そこに平野守美術館へと続く道が存在しているようには見えないのだが、看板に従って雑草を掻き分けてみると腰の高さにまでぼうぼうと生い茂った草木の中には確かにレンガ調の歩道が存在していることを確認できた。尤も、青々と生い茂った緑の中に埋没した歩道だったものを前にして、神河と遙佳の反応は大きく異なる。
「……これはちょっと通り抜けられないんじゃない?」
「これなら、星の家の目から上手い具合にあたし達の接近を隠してくれるね」
 遙佳の反応はポジティブと言えば聞こえはいいかも知れないが、その認識にはやや無理があるように見受けられた。ただただ生い茂る草木が歩道を覆い尽くしているだけならばまだしも、そこは行く手を阻むかの如く縦横無尽に蔦や枝が伸びていたし、地を這う幹は歩道を隆起させるレベルで侵食している箇所すら見受けられるぐらいだ。
「視覚的にはそうかもしれないけど、無理に突っ切った場合は音でばれるんじゃないか? これ、場所によっては蔦を薙ぎ払いでもしない限り進めないだろ」
 正威の指摘を受け、遙佳は行く手を阻む草木の蔦に手を掛け軽く揺すってみる。すると、かなりの広範囲からガサガサと音が鳴るのが確認できる形だった。
 遙佳は草木の茂り具合を目の当たりにし苦笑いしながら、正威の指摘を受け入れる。
「そうだね。音で相手に気付かれるかもっていうんじゃ元も子もないか」
 遙佳は早々に歩道を突っ切る選択肢を諦めたようだ。すると、平野守美術館までのルートは自然と二つに絞られる。
 即ち、眼前に広がる歩道があった森林に沿って迂回するルートで、右回りに迂回するか左回りに迂回するか、だ。距離的には断然左回りの方が短い。問題は右回りであっても左回りであっても、開けて見通しの良い場所を通過する必要があることだろうか。
 遙佳がチョイスしたのは、左回りルートで森林を迂回するルートだった。どうせ開けた場所を進むのならば、最短距離が望ましい。そんな考えだろう。
 もちろん、星の家が厳重な警戒態勢を敷いていれば、正門から第一駐車場にセダンがやってきた時点で何者かが侵入してきたことを把握していて然るべきだ。しかしながら、星の家がここ泥峰を「襲撃されるかも知れない」と考えているかどうかはかなり怪しい部分がある。
 それでも、遙佳は最悪の事態を見越して星の家との偶発的な接触を懸念している節があった。事実、偶発に鉢合わせした場合、いつでも星の家を襲えるよう用心していたのは間違いない。その為の、携行し、しっかと握ったメイスだろう。
 しかしながら、平野守美術館までの道中で、遙佳が周囲に人の気配を感じることはなかった。もちろん、星の家の構成員と遭遇するということもなかった。
 距離が短い左回りで森林区画に沿って進み平野守美術館の裏手に出たところで、遙佳はそこに目的の物を見付ける。目的のものとはいいつつ、それは「起脈石」ではなく小型サイズのトラックだ。しかもサイドにはご丁寧に「総栄エクスプレス」のペイントが為されている。
 間違いない。星の家のものである。
 小型トラックとはいっても、それは狭いながらにも後部座席を持ち乗車スペースに四人分の座席を持つタイプのトラックだった。その分、荷台のスペースが多少狭くはあるのだが軽トラックよりかは多くの荷物を一度に運搬可能だ。まして、起脈石一つ運ぶには十分に事足りる代物だと言える。
 荷台は既に空であり、そこには何かを運搬してきたのだろう径の太いワイヤーだけが無造作に散乱していた。
 遙佳はエンジンの掛かっていない小型トラックへと気配を殺して接近すると、徐ろに車内を覗き込む。
 そこには鞄やら、どこかのコンビニで購入したのだろう菓子パンなどが無造作に置かれていた。
「星の家、どうやら平野守美術館の中に居る可能性が高いね」
 そういうが早いか、遙佳は小型トラックの全容と、その周囲とを含めてぐるりと注意深く眺める。
 そうすることで平野守美術館内部へと侵入した星の家の総数というものを推測した格好だ。この小型トラック以外でも、平野守美術館へと乗り付けた可能性も考えられたが、この場にあるタイヤ痕が小型トラックのものしかない以上はその可能性は限りなく低いだろう。わざわざ移動用の他の車を用意しておいて、平野守美術館前まで進入してこない理由はない筈だ。
「この小型トラックで乗り付けた人数が起脈石設置部隊の全てだとするのなら、多くても八人が精々かな」
「それ、荷台に四人の計算?」
「さすがに、それ以上は荷台に乗せられないでしょう?」
 神河としては「荷台に人を乗せて運搬することが前提なのか?」と突っ込みたかったことだろう。しかし、神河の二人が言葉を向けるよりも早く、遙佳が次の行動を起こしたことで、その認識を正す言葉が向くことはなかった。
 いや、遙佳の次の行動が神河の想像の斜め上を行くものでなければ、何気ないやりとりが続くという形で神河から何らかの言葉は向いたかもしれない。即ち、次の遙佳が起こした行動は神河をぎょっとさせるものだった。
 遙佳は背負ったスクールバックから、突然小型の万能ツールを取り出したのだ。アウトドアなどでの利用を目的とした、折り畳みナイフや缶切りなどとして使用可能な組立て方で用途を可変できるタイプのツールだ。すると遙佳はその万能ツールの中から、先端が鋭く錐のように尖ったタイプのものに組み立てる。
 神河が口を挟む間もなく、遙佳はそれを前輪タイヤの横っ腹に突き立て力を込めていた。
 急速に空気が抜けるようなことはなかったが、錐のように尖った万能ツールの先端は確かにトラックのタイヤ内部まで突き刺さっており、時間経過とともに内部の空気は全て抜けてしまうだろう。何より泥峰駅前から泥峰ゴルフリゾートに至る道は急カーブの連続する区画を持つ曲がりくねった山道だ。空気の抜けたタイヤで走行できるような道ではない。
 遙佳は周囲に人の気配がないかを探った後、トラックをぐるりと回りながら続けざまに他のタイヤにも同様に工作を仕掛けていった。
「悪いけど、今回は星の家の構成員を捕獲させて貰う。人質なんて真似、本当はしたくないけど、それしか星の家上層と直接話を付ける術がないのなら躊躇うつもりなんかない」
 仮に星の家の構成員を足止めする目的であったなら、それは有効な手段だったろうか?
 恐らく、その答えは「Yes」でもあり「No」でもある。
 まず、遙佳は平野守美術館内部に展開する星の家全員を捕まえるつもりなのかどうかが肝だ。全員を捕まえられなくても良いのでれば、それは非常に有効だろう。しかし、もし全員を……となった時には、話が異なってもくる。
 トラックによる脱出が不可能だと気付かれるタイミング如何によっては、この広大な敷地面積を持つ泥峰ゴルフリゾートで明らかに不利な条件で鬼ごっこをする羽目になるかも知れない。いいや、それどころか、そうなった場合、ほぼ間違いなく徒による泥ね御ゴルフリゾート敷地内からの脱出を神河・久瀬連合は止められないだろう。そして、それは特定の誰かを捕まえたいとする場合に置いても同じ話だ。
 さらに言えば、今回「人質を取ってでも」という遙佳の思いを汲むのならば、捕まえるべき特定の誰かとは存在し得るという話にもなる。星の家がどこまで構成員を守る組織体かは不明であるものの、如何様にでも代替の利くメンバーを人質としたところで交渉を有利に進められはしないだろう。それこそ、スターリーイン新濃園寺で顔を合わせた「アルフ」ないし「紅槻啓名」「多成」程度を押さえる必要があると考えるべきだ。
 そういう背景を考慮したからだろう。
 今まさに先走って平野守美術館内部進入ようとする遙佳に正威が待ったを掛ける。
「ちょっと待った。美術館内部へ進入する前に下準備を整えておきたい」
「スターリーイン新濃園寺で構築したような奴を、ここでも展開させるつもり?」
「そこを抜かりなくやっておけば、星の家が何を持ち出してきたとしても有利にことを進められる。まして星の家の構成員をここから逃さず捕まえようっていうんなら、やっておいた方が良い」
 仕掛けを展開すべきという正威の助言に対し、遙佳は腕組みをしてそこに思案顔を覗かせた。尤も、その反応は拒否感があるというよりかは、仕掛けを用いることによる背反を懸念したものだろう。せっかく相手の隙を付ける状況にあるのに、仕掛けの構築を進めたが為に、星の家との偶発的な接触というパターンを嫌ったのだろう。
 それでも、正威としては是が非でも仕掛けを展開すべきという思いだった。
 当初の目的は起脈石の破壊ないし設置防止だったのだが、そこに一つ遙佳によって達成すべき目的が追加されたからだ。あくまで起脈石の破壊ないし設置防止だけを達成するというのならば、仕掛けを講ずることを必須だとは認識しなかった筈だ。即ち「星の家上層と話を付ける為に人質を取る」というのであれば、より入念な準備をするに超したことはないし、そうすべきだと正威は判断したわけだ。
 しかしながら、遙佳がその是非を口にするよりも早く、平野守美術館内部から人の話し声が聞こえてくる。しかも、その声が裏手口に止められたこの小型トラックへと近づいてくるとあっては、さすがにその場でのんびりと遙佳の決断を待っているというわけにも行かなかった。
 小型トラックの脇にはちょうどゴミ収集業者やリサイクル業者に回収して貰うゴミを一時的に保管しておく高さ一メートルオーバーサイズの大きなダクトボックスがあり、正威達はその裏手に身を隠す。
 近付いてくる話し声は次第にその輪郭を明瞭なものに変え、人数が最低三人は居ることが解ってくる。
「今回は運搬先がちゃんとした建物の中で良かった。いつかの時みたくどことも知れない森の中とかだと、また皆で「いっせーのーで」となってたからね」
「はは、確かにそーすっね。あれは勘弁願いたいっすねー。とはいえ、基本的にはあっちが運搬方法のスタンダードになりそうって話も聞こえてくるのもやっぱ確かっすよ。「発見され難く壊され難い」っていうのを達成するにはどうしたらいいのかってところを考えると、アクセスし難いっていうのはやっぱ大きな要素の一つっすからね」
「今回の起脈石は、設置後に入念な偽装を施して探知されないように細工すると聞いていたけど、肝心の起脈管理人は帯同していないんだな? 土倉君や安達君といった起脈エンジニアだけでは、確か途中までしか作業できないんだろう? 今日の作業は途中までで一旦引き上げるという認識でよかったのかい?」
「まずは俺と土倉で設置前の下準備だけやっておくパターンっすよ。どーせ、俺らが配置と下準備を整えた後にゆっくりやってきて、ちょちょいと作業して帰って行くパターンじゃないっすかね。小耳に挟んだ話では、既に敷設し終えた起脈石のアップデート作業の優先度がかなり高いらしくて、多くの人手をそっちに持っていかれているとか何とか言ってましたし、霞咲だけに時間を割いてる余裕がないらしいっすよ。まあ、実際問題、後処理連中は明日になるかも知んないっすね」
 接近してくる声は三人分で、それは足音の数とも一致していた。
 そして、目的はこの小型トラックで間違いなさそうだった。尤も、その会話の内容からだけでは、ただ単に様子を見に来たのか。それとも、小型トラックを移動させようとしているのか等を判断できる材料は拾い上げられない。
 何か決定打でもあれば……と、遙佳は耳を澄ませるけれど、彼らの会話の内容は一気に雑談色を強める。
「そういえば、泥峰駅前に赤い上りが立てられていた定食屋があったじゃないっすか? ロータリーを出てすぐのコンビニ横の小洒落た外観の店っす。何でも、あそこ、泥峰の名物料理をコンプリートしてるらしいっすよ。選り取り見取り」
「お、それは良いことを聞いた。せっかく泥峰くんだりまで来ているんだ。起脈石の設置を終えたら、ぜひとも帰る前に寄っていきたいね」
「ここで声を上げなきゃ、どうせコンビニで適当に弁当でも買うか、いつものレストラン「グッドウェルネス」ですもん。悪くはないけど、もういい加減食い飽きましたわ。ぜひとも結託して寄って行くよう仕向けましょうよ」
「はは、OK、安達君。その話、乗ったよ」
 談笑しながら接近してくる三人が、遙佳達の気配を察した風はなかった。さらに言うなら、襲撃される可能性を考慮し、周囲に警戒を向けるという態度も皆無だと言って良い。
 機先を制して隙を付くというのは何ら難しくないだろう。
 後数十秒以内には小型トラックの停車している裏手口に差し掛かるだろうという状況になって、萌が小声で遙佳に対応を問う。
「人数は三人で間違いないね。パンクさせたタイヤに気付かれるとまずいかもよ。どうする? 縛り上げる?」
 萌の問い掛けに、遙佳は心底決断を迷っているようだった。
「遙佳ちゃん?」
 名前を呼ばれてようやく、遙佳は眉間に皺を寄せた表情のまま状況打開に向けた確認を始める。
「客観的に見て、三人を一度に、それも相手に声を上げさせずに縛り上げることは可能?」
 しかしながら、それが藁にも縋る類の、万に一つの可能性を求めたものであることは遙佳自身が痛いほど理解していたようだ。可否を問うその言葉が、らしくなくも弱々しいものだったからだ。
「仮に遙佳ちゃんが一人を完全に抑え込んでくれるんだとしても、……ちょっと無理くさい。まず、何も仕掛けを展開できていない状態下で、正威にその条件で一人受け持って貰うのは成功率が極めて低い。そして、実をいうとあたしもそういうのはちょっと得意じゃないかな」
 一方の萌の言葉はいつもと何ら変わらない調子ではあったのだが、にも関わらず遙佳の期待に「No」を付き付ける内容なのだから余計に質が悪いともいえた。
 遙佳は頭を抱える。半ば予想していた答えだと解りながら、状況のまずさをまざまざと理解したからだろう。
「……まずった」
 遙佳の口から漏れ出た言葉は、勢いのままトラックのタイヤをパンクさせてしまったことに対する後悔だったろうか。
「だね。あたし達が口を挟む間もなく、有無を言わさずにタイヤをパンクさせちゃったからね。一言前もってこうするかもって言ってくれていれば、羽交い絞めにしてでも止めたけど、もう言っても詮無いことだよ。どうする? 気付かれないことを期待して状況を見守る?」
 遙佳は萌から視点を逸らすと、正威へと縋るかのような目を向ける。
「こう、都合よく三人まとめて気絶させるような術とか、麻痺させて喋ったり動けなくしたりする術はないの?」
 正威は申し訳なさそうに首を横に振る。寧ろ、そんな手があるのならば、萌が既に提言していて然るべきだろう。
「残念ながら、そんな都合良く相手の動きを止められるものはないな。事前の下準備があればまだしも、……しかも過大なダメージを相手に及ぼさずっていうところが条件にあるんだろう? 生死を問わず、声を上げる間も与えず沈黙させろというのなら、なんとかならないこともないような気がするけど、そこまでやると星の家も黙っちゃいないだろう。何より、俺達もまだ全容の掴めていない星の家相手にそこまでやるつもりはない」
「ぐだぐだと駄弁っている暇なんてないよ。どう動くのか決めないと!」
 萌にせっつかれて、遙佳と正威は即断を迫られる。
 しかしながら、相変わらず遙佳は決め手を欠く状況下での判断に苦慮しているようで、決断を下せないでいた。
 そのままでは埒が明かないと、正威は判断したようだ。遙佳に対しほぼ決断を迫る形での行動指針の提言をする。
「久瀬さん、攻めよう。ここで退くと、最悪美術館の守りをガチガチに固められてしまう可能性がある。こちらが想定していたよりもずっと、相手の守りも薄いように感じる。……とはいえ、久瀬さんや萌を相手に回して正面切って対応できる星の家のメンバーが中にどれだけ控えているか未知数の部分はある。でも、そこは上手く立ち回って押し切ろう。ここは攻めるべきだ」
 遙佳は一度瞑目すると、ぐっと歯を噛み合わせた後大きく頷いた。
「解った。攻めよう!」
 そう決断してしまえば、後の動きは早かった。遙佳は萌・正威と目配せをした後、すぐさま行動を開始する。その仕草でやりとりされた意思疎通に置いては、誰が誰を狙うだとかいったところは完全に曖昧ながら各々が各々のやるべきことを自ずと理解した。もう詳細を詰めている時間などないのだ。
 即ち、泥縄式に一人が一人を相手に受け持つ。そして、先行する遙佳が真っ先に先手を打つ。
 裏口から出てきた人数は、事前に確認していた通り三人だった。内二人は作業帽に作業着姿であり、上着の胸元には総栄エクスプレスの刺繍が施されていた。一見すると中背・痩せ形の体格に見えたが、腐っても運送屋である。痩せ形とは言え筋肉質で相応の体力があると推測できる。
 後の一人、安達と呼ばれた星の家の構成員は、長身ながらやや横に広いふっくらとした肉好きの良い体格ながら見るからに筋肉質というタイプではなかった。茶髪を整髪料で整えており、左耳にはピアス。所謂派手目なタイプのカジュアル系の服装に身を包んでいて、上は無数のロゴが入ったジャケットに、ワイドパンツにスニーカーという出で立ちだ。とてもではないが、軽快な身動きができる格好とは言えず、まず機先を制して抑えるとなれば狙う相手は言うまでも無かった。
 狙うべき相手が自ずと決まり、遙佳はすぐさま行動に打って出た。気配を消して背後から近づいていくと、たんっと地を蹴り安達へと飛び掛かる。そうして手早く安達の口を押えてしまえば、遙佳は手慣れた挙動で利き手を捻りあげてあっさりと動きを封じてしまった。
 作業着の二人が異変に気付くまでにはそう多くの時間は掛からない。なぜならば、ついさっきまでぺらぺらと口を切っていた男が不自然極まりなく唐突に押し黙ったからだ。
 遙佳は安達の動きを封じると、異変を察して振り向く作業着の二人に警告する。
「動かないで! 抵抗しなければ危害は加えません。ただ、大きな声を出そうとしたり、不穏な動きをされたりすると、ただでは済ませられないかも知れないので、細心の注意を払って貰えるとこちらとしても助かります」
 遙佳に注意を惹きつけられた作業着の二人に、正威と萌が音も立てずに隣接するとチェックメイトだった。
 作業着の二人は早々に両手を上げて降参のジェスチャーを取り抵抗する意志がないことを明示する。
「抵抗するつもりはない。戦闘行為が発生した場合、我々は速やかにその場から退避するよう指示を受けている。良くも悪くも、運送屋としての領分を踏み越える真似はしない」
 作業着の二人の立ち居振る舞いを注視し、そこに不穏な動きを取る気配がないことを確認すると、遙佳は安達の耳元に顔を寄せる。
「質問に答えて。但し、大きな声を出そうとしたり、不穏な動きを見せたりした場合は五体満足でここから帰れなくなるかも知れないことは念頭に置いておいて欲しいかな」
 口元を押さえられたままの安達がコクコクと頷き、遙佳がゆっくりと手を離す。もちろん、いつでも再び口元を抑え込める状態を維持したままであることは言うまでもない。
 すると、安達の口からは緊迫感の薄い言葉が漏れ出る。
「おお、怖ぇ怖ぇ。あんたが噂の久瀬遙佳だな? 聞いた話だと星の家上層と話がしたいってプロマス多成に持ち掛けたらしいじゃないか? おかしいな、それなのにこんな好戦的な手段に打って出るのか?」
「あなた達星の家が新たに起脈石を設置するなんて動きを見せなければ、こんなことにはなってなかったんだけど?」
「ああ、そんなことまでご存知なんだ。まあ、ここに居るって時点で、それを知らないなんてそれこそおかしな話だもんな。なるほどなるほど」
 驚く程、安達のノリは軽い。もっと危機感を滲ませるだとか、体を強張らせて慎重な物言いになるかと思ったのだが、そんなことはなかった格好だ。多成に近い雰囲気とも受け取れたがあそこまでの不敵さは伴っていないし、何よりしっかりと計算された感じがない。
 そんな安達のノリに若干のやり難さを覚えながら、遙佳はぶつけるべき質問を口にする。
「美術館内部に居る星の家の構成員は何人?」
「さてね、俺も詳しいことはわからねぇな」
 安達がのらりくらりとやり過ごそうとした態度を見せた瞬間のことだ。
 遙佳は無言で安達の腕を捻りあげる。
「あぐッ! 痛ぇ! 痛ぇっての! お前、ふざけんじゃ……! ……!!」
「このまま腕を圧し折ってあげても良いけど?」
 反発する安達を意にも介さず、遙佳はその口を塞ぐと耳元で警告を口にした。また、それはくだらない駆引きをするつもりはないという強い意思表示にもなった筈だ。
「ああ、畜生! 糞が!」
 遙佳の手が口から離れた瞬間、そう吐き捨てた安達だったがその状況下で駆引きを嗾けても無駄だと悟ったようだ。
 遙佳の要求した質問の答えを「嫌々ながら」という雰囲気たっぷりに口にする。
「中に居るのは四人だよ」
「紅槻啓名や多成は居るの?」
「居ねぇな。今、中に居るのは起脈石設置の為の調整部隊と、お前らの襲撃に備えて帯同しているプラスアルファの人員だけだぜ。下準備を終えた起脈石を隠す為に後から何人か来るんだろうが、誰が来るのか、いつ来るのかさえも聞かされちゃいねぇよ」
 淡々と話す安達の様子に、嘘を付いている風はない。装いに似合わず演技派である可能性を考慮して、再び腕を捻りあげても良かったかも知れないが、遙佳は安達の言葉をまずは真実だと判断したらしい。
 すると、次の質問の内容は自ずと決まってくる。多成や紅槻啓名が居ないといった平野守美術館内部に展開する星の家の構成員について、だ。
「中に居る四人の詳細について教えて」
「詳細、ねぇ」
 安達のその態度は積極的に喋りたくないというよりかは、それを問われて「どうしたものか?」と悩んだ故のものに見えた。そうして、一頻り「うーん」と唸った後、安達からは遙佳に向けたこんなクイズが口をついて出る。
「ああ、そういえば。中に控える一人から「久瀬遙佳とは絶対にやりあうな」と忠告されたぜ。誰だと思う?」
「……アルフ君?」
「はは、正解だ。中には土倉も居るぜ。あんたについて「人じゃない、本物の魔法を使う人の形をした化け物だ!」って触れ歩いてたぜ」
「そう、正しい評価を下して貰っているようで何より」
「ぜひとも、俺もその本物の魔法を拝見させて貰いたいものだね。起脈のそれなんか比べものにならないんだろう?」
 腕を捻りあげられた直後の不機嫌さから一転、安達は再び遙佳に軽いノリで話し始めていた。本人にもその自覚はあるだろうが、意識せずとも話を本筋から逸脱させてしまうタイプなのだろう。少なくとも、安達の態度に意図して話を脱線させようという計算めいたものはない。
 考え付いたまま口を切って話すからそうなっているのだろうが、遙佳は早々にそんな安達の転調にストップを掛ける。
「悪いけど、雑談がしたいなら後にして貰える?」
「あー、後の二人は何ていったかな。あんたらも恐らく初対面だろうよ。何せ俺らでさえも初対面だったからな。何かこう、交響曲第なんちゃら番目とかいう感じの……。あー、そうだ! 思い出したぜ。ノクトール・フォートマンとイブ・カーマインだ」
 安達の口から出た名前は、確かに全く聞き覚えのない名前だった。
 そして、安達自身も初対面だというのが本当ならば、名前以上の情報は拾い上げられそうにないだろう。仮に、第一印象だとかいった感覚的なことを安達に問えば、再び本筋から脱線して横道へと逸れていくだろうことは想像に難くない。
「で、どうするんだ? 俺を人質にでもしてアルフに会いに行くのか?」
「察しがいいじゃない?」
「へいへい、じゃあ早速案内させて貰いますかね。こっちだ」
 遙佳は余りにも聞き分けの良い態度を若干訝っている節があったものの、その後の安達の言葉で星の家が現時点で何を最重要視しているかを大凡理解することになる。
「そっちの要求は聞くんで、総栄エクスプレスさんの二人には手を出すんじゃねぞ」
 戦闘行為が発生した場合、速やかにその場から離脱するよう指示を受けている。作業着姿の総栄エクスプレスの二人はそうも言った。
 息が掛かっているとはいえ、星の家は総栄エクスプレスという組織体に属するメンバーを巻き込むべきではない非戦闘員だと位置付けていて、被害が及ばないよう細心の注意を払っているのだろう。
 ならば、こうして総栄エクスプレスの二人を押さえられたのは、僥倖だったのかも知れない。
 交渉を有利に進められる可能性がある。
 ともあれ、安達を従順にさせる意味でも、その要求を聞き入れない理由はなかった。
 遙佳は二つ返事で、その要求を呑む。
「解ったわ」





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